歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:海老名市

有鹿神社本宮(延喜式内社・奈良時代の天皇勅願所)
有鹿森(弥生時代からの聖地)
有鹿神社中宮(聖地有鹿池の古址) 
海老名山 総寺院 満蔵寺(旧有鹿神社別当寺)
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  御祭神・御本尊等:
  有鹿比古命(あるかひこのみこと)・有鹿比売命(あるかひめのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)・虚空蔵菩薩
  御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・夫婦円満
  関係者:
  開基:有鹿比古・有鹿比売
  中興:天智天皇
     孝謙天皇
     清和天皇
     相模国司 歴代
     海老名郷司藤原 廣政 公
     権守     海老名 季定 公 
     海老名家   歴代当主
     相模守    北条 氏政 公
  旧郡名:高座郡 海老名郷(古代相模国府に近在)
  所在地:有鹿神社本宮・・・海老名市上郷の鳩川と相模川の合流地点、有鹿森
  所在地:有鹿神社中宮・・・海老名市上郷1丁目の住宅街の中
  所在地:総寺院・・・有鹿神社の旧参道住宅街の道路左手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
古代の相模国国府から徒歩30分程、奥宮の在る聖地有鹿谷から流れ出でる鳩川と相模川の合流地点の古代の有鹿森に有鹿神社本宮が所在し国府鎮護の祭祀が行われた記録が有る。現代では住宅街に成ってしまった場所に中宮が在り、有鹿神社本宮の旧参道沿いには有鹿神社の別当寺だった真言宗の総寺院が存在する。
有鹿神社の御祭神は夫婦神で夫神の有鹿比古は太陽神、女神の有鹿比売は水神。古代大和朝廷の時代に開かれた海老名市の条里制区画が残る海老名耕地を潤す農業用水でもある事から豊穣の神としての意味も強い。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された正一位の位階と幣帛を賜わり国家鎮護の祭祀が行われた歴史記録も残る。古代からの‟水引神事”が行われていたが新田義貞による倒幕の際に多くの神社仏閣が彼に襲撃略奪放火されたが、有鹿神社と総持院も同様に兵火に遭い水引神事は中世に一時途絶えたた。しかし戦国時代に関東覇者で小田原城主の北条氏政公によって神事が再興された。有鹿神社本宮の在る旧海老名郷は北条家臣で鶴岡八幡宮再建に携わり一族が江島神社別寺の修験道岩本院別当職を務めた間宮家の惣領である笹下城主間宮康俊公の所領だったので、間宮康俊公と江ノ島岩本楼の岩本(間宮)家の一族の関与が有り北条氏政公に由(よ)る水引神事復興が行われた事が推測出来る。
別当寺の総寺院は明治時代の神仏分離令で規模縮小させられる以前、江戸時代迄は塔頭寺院12坊を境内に持ち、更に末寺19ヵ寺を抱える大規模な神宮寺として機能していた。

結論から言うと正月1日は横浜市栄区と港南区近辺をウロチョロしていた。
小生が横浜で1番の知恵の神様と崇拝する永谷天満宮に参拝客の少ない早朝に参拝してから、夜明けの時間に合わせて円海山に富士山を拝みに行った。
永谷天満宮では神職の方々が早朝の5時頃なのにも関わらず詰めておられた。
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永谷天満宮
大変だな…御正月とは。
御神籤を引きに社務所に行ったら禰宜サンがもの凄く眠そうだった(笑)。
「ご苦労様です、当直ですか?」と御声掛けした所・・・
「2日間泊まり込みなんです~」との事。
・・・こうやって神社の場合は神職の方々の御苦労と氏子サン達、御寺の場合は和尚サンや檀家サン達の努力がそれぞれ有るから一般参詣者は御祭りや神事や様々な行事に参加し日本文化を感じられるし、神仏に祈願する事で何だか安心する事も出来る訳だな。
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社務所の前では焚火の火も絶やす事なく燃えていて冷えた参拝者が手を温める事が出来た。
永谷天満宮の神職氏子の皆さん年末年始御疲れ様でした。小生が横浜に置ける知恵の神として崇敬する菅原道真公と菅原景行公と菅原淳茂公の御陰様で昨年1年間過し無事に新年を迎える事が出来ました。
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社殿に移動し天神様に参拝し、1年間の御礼と自分の祈願と諸外国の親日家の人々の平安祈願をした。
因(ちな)みに・・・
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御神籤は大吉だった(笑)!素直に喜んでおこうかな♪
栄区方面に戻り円海山で初日の出を見るのと土地神様の思金神社に御参りに行く為に車に乗り移動・・・
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円海山

う~ん、今年は少しガスってたけれど綺麗に雪化粧した富士山を拝む事が出来た。
富士山は只単に美しいと言うだけでなく明治時代までは自然信仰で神道修験道仏教の全てで此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身として崇拝の対象に成っていたんだな。そしてココは奈良時代の人達も製鉄を営みながら灌漑水田を開発し、鎌倉武士が使った間道が幾本も現存し、現代では横浜市最後の蛍の大生息地体でもある、貴重な自然と文明の史跡であり自然公園なんだな。
有る意味、横浜における聖地とも言える。そして此花咲耶姫命を拝む事の出来る場所なんだな。
だから涼しく気持ちの良い晴天の御正月に御化粧した綺麗な富士山を拝めて、とても晴々した気持ちで新年を迎える事が出来た。
・・・ちなみに日の出はポジション取り間違って見えなかった。円海山から日の出を見たかったら金沢区側の展望台じゃなきゃダメだな。

日は変わって正月2日目。
この日の早朝出発~深夜帰宅する約20時間で怒涛の19箇所の神社仏閣聖地と史跡を廻って来た。
この日は地元横浜の神社の思金神様や天満大自在天神菅原道真公や・・・
金沢北条実時公、蒔田御所吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、上杉規富公、間宮康俊公、間宮於久様、間宮於継様、間宮綱信公、間宮常信公、間宮信繁公等の侍大将や姫様達。
渋沢栄一サン、原三渓サン、浅野総一郎サン等の横浜の発展と復興に力を尽くされた商人達。
・・・崇敬する横浜市に御縁深い歴史偉人のこれらのと同じく尊敬し毎日、心の中で拝んでいる神様仏様と県内他地域所縁(ゆかり)の歴史偉人に出来るだけ多く御参りしたいと思い訪拝先の予定を組んだら、当初の予定でも既に20個所ととんでも無い件数に成ってしまった(笑)。
多分、過去最多の1日での訪問件数、内容的にはコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
・・・我ながら良く廻ったもんだと思う(笑)、ちゃんと御参りして時間かけて廻ったし。
寝なければ時間は作れる(*´ω`*)!
実際には最終目的地の寒川神社までの順路は移動時間だけで4時間近く、家を出発したのは朝の3時少し過ぎた位、帰宅したのは23時位だったろうか?移動時間以外も略(ほぼ)現地を歩き回ってるので当然ながらつまり休憩した2時間を除いて18時間は運転するか、歩くか、買い食いしてるか、宮司サンか和尚サンと御話ししてた訳だな。
ジム行ってる御蔭で何とか成ったし(笑)。
経路をGoogle mapで可視化するとコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
神奈川県の中部と東部を略グルっと回ったらしい。
上の一覧表は実際に回った場所だが、予定は少し違って伊勢原市の糟屋館と上粕屋神社は廻らずに厚木市七沢の徳恩寺、拉麺の名店ZUNDO BAR、七沢城址を廻るつもりだった。
・・・これは後で書く事に成るが、神様に「そっちでは無いヨ」仏様に「こっちに来なさい」と言われる様に道を間違った(笑)ので流れと直感に任せて洞昌院優先~糟屋館周辺散策ルートに変更した訳だ。

さて、2018年01月02日03時ちょっとに自宅を出発すると、有鹿神社には4時ちょっと過ぎに着いた。
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参道が雪洞(ぼんぼり)代りの提灯に照らされてとても美しい・・・
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有鹿神社本宮
有鹿神社様への初参拝は3年前、愛川町に三増峠合戦の現場歩き取材に行った帰りに、聖地として名高い有鹿谷と勝板遺跡を訪問し奥宮を御参りし、その勢いのまま海老名の本宮を御参りに来て、御朱印頂に宮司様の別事務所を訪問したのが最初だった。
それ以来、小生は有鹿比賣(あるかひめ)様と有鹿比古(あるかひこ)様の御夫婦の神様も崇拝する様に成り、頂いた御朱印を大切にしている。
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本殿で有鹿の夫婦神様に御参りし、昨年1年間の御礼と今年の小生個人の心願と友人家族恩人恩師の平安祈願と親日諸外国民の平安祈願をした。
本殿も幻想的に提灯の明かりで浮かび上がって美しかった。
所で初めて正月に御参りに来たのだが…
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何か狛犬サンの御胸の辺りがウルトラ怪獣のゼットンみたい光ってて(笑)
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・・・コチラの禰宜さんの遊び心。
天智天皇が国家鎮護の勅願所にする前から庶民に寄り添い農耕を守護し家内安全と良縁結びの神様として存続して来た人懐っこい神様の神社らしい遊び心。
古社なのに偉ぶらず、尚且つ水引き神事の様に古代からの神事を大切にする、こんな柔軟な場所も有って良いと思う。石清水八幡宮の宮司様も神社本庁トップだけど歴代天皇の御意思を尊重され古来の神仏習合時代の文化も大切にされたり新しい催しにも協力されたり色んなアイディアを出されているので現代の柔軟な神社本庁トップの方針にも合っているんじゃないかと思う。
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有鹿神社の境内には有鹿天神社が在り、此方でも前日元旦に永谷天満宮で正月の御参りをした菅原道真公に改めて参拝し、新年の御挨拶と2日当日の旅の無事を祈願した。
車に乗り八菅山に移動。
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八菅山は明治時代に日本の宗教が森有礼(ありのり)等、キリスト教信者政府高官等によってプロテスタント国の英米の猿真似で自然崇拝の神様と平和の哲学の仏様が引き裂かれ宗教自体が作り替えられるまで日本神話の聖地で神職のみならず修験者や仏僧からも聖地として崇拝され多くの寄進が集り物質的にも興隆し、神仏ともに尊重する修験道が仕切る日本屈指の大道場だった。そして行基大僧正が来訪し天皇の勅願を祈願した神仏ともに大切にされた天皇家の勅願所としても機能した霊場でもあった。
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始まりは日本武尊の来訪に由る・・・
「山体の形状が蛇に似ている」
・・・と言う主旨の発言を日本武尊がして聖地として大切にされる様に成ったそうだ。しかし今では山での採石やゴルフ場の乱立で美しさが無いし宅地化で細かい地形は良く解らないが、確かに河岸段丘で細長い形はしている。八菅神社周辺地形 久良岐のよし
宅地化した部分も昔は山でもっと長い山体だったのかも知れない。
まぁ~小生は相模川の大きな支流が八本有って八岐大蛇(やまたのうきろち)の様に見えたんじゃないかな~とか伝承と違う山の名の由来を考えたりした。菅(すげ)は菅(すが)とも読むし菅は須賀神社の須賀に通じるからね~。
須賀神社の御祭神は素戔嗚命だし元は相模川を八岐大蛇に見立て河の氾濫を抑える祈願所で、だから日本武尊が東征の折りに立ち寄ったんじゃないの?多分、古代は渡河地点が付近に有ったんじゃなかろうか?
・・・とか考えてしまう。日本武尊は走水にも須賀社を開いて軍神海上交通の神様として素戔嗚命を祀ってるからね~。
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何にせよ修験道や神職や僧侶の聖地として栄えたので明治の破壊までは神廟や御堂合わせて50余りの大小神社仏閣が混在し大変多くの参拝者と修行者で賑わっていたそうで、この愛川町の八菅山と伊勢原市の大山、そして京都の男山に在る石清水八幡宮等と合わせて日本で5本の指に入る大聖地だったそうだ。
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そして、参道を奥に進み、そんな歴史を説明している看板の写真を撮ろうとした際に気が付いた・・・
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「夜明け前で何も見えねぇ~」
「階段超急だし!」
「クロックスで夜に来る所じゃねぇ~(笑)」
・・・う~ん、甘かった。
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本殿に着いたがハッキリ言って真っ暗で何も見えない(笑)!
でもちゃんと参拝して御賽銭を払って日本武尊と弟橘姫様と神様達に諸々の祈願をして、一度山を下りて車まで戻って1時間程待機してから日の出を待って再度、参拝して写真撮影する事にした。
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そして夜明け到来。
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八菅神社(八菅山七所権現:天皇家勅願所)
当たり前だが朝を迎えると自然豊かな参道が良く見える。
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夜は何がなんだか解らなかった鐘楼の文化財として解説も読める様に成り・・・
石段もちゃんと見える様に成った。
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本殿は木々に囲まれまだ薄暗かったが、造りが観察出来る様に成った。
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改めて社殿を見ると、どうも神社と言う感じでは無い。元々は修験道の御堂の一つだったんだろうか?
しかしながら規模は大きい方だ。
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御賽銭箱には八菅山七社権現=八菅神社の社紋・・・九曜紋だな。
これ、後日03日にPCに写真を取り込んでいて気が付いたのだが、八菅山の神様が参拝を歓迎してくれた様な写真が撮影出来ていたのと関係してる紋様なんだな。
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額の字の色は薄く成っていた。
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さて、ここは凄い人物が関わっている事が説明書きにも有る。
小生は以前、愛川町の観光課の職員さんと教育委員会の職員さんに愛川町ガイドブックを頂いたり解説をして頂いていたので少し知っている。
小生が尊敬する戦国時代の北条家とも関係が有る。
先ず、ここの凄い所は関わった人物達だ・・・
日本武尊に始まり、
行基大僧正(日本最初の大僧正)
源頼朝公(征夷大将軍)
足利尊氏公(征夷大将軍)
足利持氏公(鎌倉公方)
遠山綱景公(北条家重臣、江戸城代)
徳川家康公(征夷大将軍)
・・・等々、名だたる歴史偉人が崇敬し支援していた歴史が有るんだな。そりゃそうだ、日本有数の聖地だったのだから。
まぁ、そんな訳で八菅山の修験道と神話の聖地は明治以降、英国の猿真似をやった役人によって寂れてしまったけど神様達は今もここで愛川町の人々や参拝客を守って下さっている様だ。
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まぁ、そんな場所だが明るい朝陽に照らされている八菅山の神社の在る場所を改めて見ると、三角形をしていて丸で奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の様な佇(たたず)まいなのが理解出来た。
帰ろうとして駐車場に向かう前に鳥居の前で朝陽の方を振り返ると日の出が見えたので写真を撮影して置いた。
どうやらこれが八菅山七社権現の神様達から小生への御褒美だったんだな。
八菅神社の御神紋は九曜紋・・・
九曜紋
そして3日に成って気が付いたが、八菅神社の前で撮影した日の出の光が九曜紋に成っていた。
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神様、御褒美ありがとうございます~♪
まぁ偶然レンズに写り込んだ光だけど、御参りした八菅神社の御神紋と同じ九曜の朝陽の写真、縁起良いよね。
こんな幸運にその時は気が付かないまま駐車場に戻り車に乗ると、次の目的地の厚木市飯山温泉の華厳山金剛寺に向けて出発した。

【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)に続く。

まだ未参詣なのですが、海老名市今泉に浅間大神と言う神社様が在りまして、Twitterで御話してたら面白い事が解ったんで転載して見ます。
久良岐のよし 自作指輪アイコン
小生。自作の指輪をアイコンにする一般人素人歴史オタク。だから失礼な質問もしてしまいます。
間違いを色んな宮司様や和尚様に指摘して頂きながら民俗伝承史書実情を繋げるのが好きな人。

有鹿神社宮司様
有鹿神社宮司様、海老名の郷土史に御詳しく歴史学者よりも周辺民俗学に御詳しい方々と勉強会を開かれる熱心な方。

小生と有鹿神社宮司様とは直接関係有りませんが、有鹿神社奥宮の神秘的な様子が好きで参拝以来、Twitterでフォローしています。

さて、有鹿神社宮司様が海老名市今泉の浅間大神が農業にとってとても大切な神様だとTwitterで解説してくださっていました。しかし素人の小生には浅間権現=此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命=富士山とステレオタイプで余り海老名の事はまだまだ知らないので普通にこんな疑問が湧きました。
「絶対に富士山が見える場所のはず」
所が御当地の“浅間大神様では富士山が見えない立地!”と衝撃の事実を御教授頂いた小生、そこから少し調べものしたら色々繋がりました…

以下はTwitterのやり取りの転載。

有鹿神社宮司様
浅間大神は、木花咲耶姫を祭神とし、また、海老名耕地の用水を守る位置に鎮座する、という問題について用意した回答です。
「山の森林に雨が降ると、雨は浸み込み腐葉土などで濾過され、酒清水の湧き出す泉となり、川となり、大地を潤し、また、海に流入し、漁場を形成する。 そうすると、山と水は関係するので、浅間大神は、山の神であって、水の神ということになります。」
   ↓
有鹿神社宮司様
海老名耕地は、今も、碁盤の目のように、古田条里制の名残りを示しています。古くは、有鹿の泉を水源の一つとする鳩川を用水としていました。いや、鳩川沿いに農耕地が広がり、海老名耕地にまで到達しました。 そのため、この用水の節や分岐点に鎮座する数多くの神社があり、浅間大神も一つです。
   ↓
有鹿神社宮司様
かって、世の男性が細君を「山の神」といっていたことがあります。 山の神の娘は、美人の「木花咲耶姫」ですね。自慢しているのでしょうか。 実は、もう一人娘がいます。それは、醜女といわれる「磐長姫」(磐長姫)です。 どうも、夫が謙遜して、こちらの方を行っているように思われます。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで無学な小生がしゃしゃり出る。
木花咲耶姫命の存在そのものが神仏集合時代の富士山信仰の対象でして浅間権現と呼ばれていますので、寧ろ世の男性は御妻君を建てたのが山の神かなと。 そして・・・
山の神なので抗う事の出来ない存在=独裁者=恐妻=かかぁ天下 ・
・・と比喩で自分の存在を矮小化して失笑を誘う洒落かとも。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン
宮司様には釈迦に説法、神に道を説くような無礼を失礼致します。 余談ですが磐や巖は山の象徴とされますから、磐長姫も含まれているかも知れませんね~。
結局、美人でも非美人でも奥さんには抗えない男性が今も昔も多いのかも。
小生は美人だろうが権力だろうが理不尽に従いませんが。
   ↑
(※小生の思考なぞどうでも良い余計な事を書く。馬鹿丸出し。)
   ↓
有鹿神社宮司様※ここで寛大な宮司様が無礼を看過下さりレスポンス下さる。
その通りです。有難うございます。
   ↓
有鹿神社宮司様
浅間大神は、古くは、海老名耕地の用水を守る神として祀られていたと考えられます。 その後、水神としての性格を維持しつつ、時の領主が信仰する浅間神社の神霊を勧請し、特に、浅間大神という名称で地域性を出しています。 神社の名称は、地名と同様に、時の権力者により変更されて来ました。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで疑問を質問する。文字数都合で話し言葉の失礼な文。
富士山が見える場所に鎮座してらっしゃるんじゃないですか? 江戸時代の旧甲州街道沿い相模川上流の桂川沿いなんかも富士講の富士山遥拝地の御祓をした河原近くとか遥拝地跡には必ず浅間権現の石碑が在りますよ! もしかしたら、その浅間権現の在所は旧甲州街道に通じた道では?海老名だし。
   ↑
※本当は敬語で書きたかったんです(泣)!
   

有鹿神社宮司様※又も寛大に小生の無礼口調を見逃して下さる宮司様。
ところが、富士山が見えないのです。だから、富士塚をつくりたいと願っております。
   ↓
ここから少し調べ物を始める小生…
   ↓
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面白い事が解りました。 海老名市今泉の浅間大神からは間違いなく富士山が見える様です。 正確に言うと、昔の人は富士山の位置を正確に把握していらっしゃった様です。 未だ参詣していなので余計に先入観無く調べる事が出来ました。 さて、御当社からは添付の風景が見える筈です。 大山。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所① 久良岐のよし
   ↓
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御存知の通り、石山権現大山阿夫利神社上社の御祭神、大山祇大神様と大雷神様が祀られてらっしゃいますが、浅間権現此花咲耶姫命様の御父神様に当たられます。 実は海老名市今泉の浅間大神から大山阿夫利神社上社を遥拝すると、その背後には富士山が存在しており、昔の人はこれを知る術がありました。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所② 久良岐のよし
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現代人の我々にとって富士山は休火山です。死火山ではありません。 古来の名の通り富士山は不死山な訳ですが… 浅間大神の御社が成立した時期をずばり質問致します。
   ↓
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富士山の延暦十九年~二十一年(800年 - 802年)の噴火の頃か…
貞観大地震が起きて噴火した貞観噴火の年、貞観六年~八年(西暦864年~866年)中もしくはその直後、或いは…
江戸時代の宝永四年(1707年)の富士山の宝永噴火の直後、そのいずれかの頃の成立ではありませんか?
   ↓
有鹿神社宮司様
延暦元年(782)と言われています。
※この成立年代で延喜式神名帳に掲載は無いが式外社だと間接的に教えて頂いている事に成る。
   

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お!じゃあそれより前の噴火が有るかも知れませんね!

今検索した所、天応元年(781年)に大噴火が起きていますね! これに対応して神社が開かれたと推測出来ますね!
   ↓
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この歴史事件や地理に基づき考えると自ずと昔の人がどうやって大山山頂と富士山がピッタリ重なって見える位置に浅間大神様の御社を開いたかも解りますね。 つまり噴煙の位置が大山山頂から見える位置まで徒歩で移動して勧進した御分霊を祀ったと考えられます。
   ↓
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そして富士山と相模川と鳩川を挟んで反対側なのは、二段構えの火砕流防壁の願いも込められていたのではないかと思われます。 源頼義公が鎌倉材木座、昔は由比と言った場所に八幡社を勧進し源頼朝公が横浜市金沢区富岡に兵庫県西宮市の西宮神社から蛭子神様を勧進した防潮の願いと同じ防災祈願かと。
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恐らくこうなる訳です。
①正確に富士山の位置が判る時代、噴煙の上がっていた時代に浅間大神の御社は造営された。
②富士山の噴火を恐れた防災の為の神社で、富士山と大山の遥拝所であり祭祀場所としてスタート。
③立地は火砕流予防の願いを込めて大河川のこちら側。
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④天応元年(781年)に大噴火があり、社伝に延暦元年(782年)の造営と伝わるそうで、天応大噴火の鎮化を願った神様の可能性が高い。
⑤娘(富士山)さんが怒っているので御父(大山)さんに守ってもらおうとした。
⑥恐らくは江戸時代に宝永噴火等あり富士講に大切にされた。
※この段階で浅間大神の神様の農業用水守護としての役割が頭からすっ飛んでる小生。
   ↓
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こんな感じだと思いますが、夜分失礼しました。 宮司様、地理関係と噴火年代と神社の造営年代の一致、小生は偶然では無いと思いました。
ちょっと面白かったので、ブログにそのまま転載して掲載してみます。
   ↓
有鹿神社宮司様※寛大な宮司様、小生に農業用水守護の役割を思い出させて下さる。
いろいろと推測していただきましたが、有鹿神社から国分寺に続く一大縄を底辺とする三角形の頂点にあります。また、海老名耕地の用水の分岐点にあります。そこで、海老名耕地の稲作のための用水事情を背景として、水の神と考えています。
   ↑
※この宮司様のご指摘はとても大切で、農業用水に限らず小田原用水や玉川上水等の上水道も全ては最初の用水の幹線からの分岐点が最重要、そこに鎮座している事が凄く大切。
   

※これを受けて小生は思った。海老名の用水路はわざわざ富士山と大山が重なって見える場所に噴火の跡の農地復興の為に、噴火の鎮化と農業守護の目的で“有鹿神社~国分寺に続く一大繩を底辺とした大三角形”そこを頂点として浅間大神の神社が開かれ、そして神社の勧進と供に現在の用水路網の原型の建設が始まり、用水路と供に現在に至るのではないかと。
   ↓
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確かに農業用水の神様としての機能は主要な御神威だったでしょうね! 何せ富士山と大山が重なる。 富士山噴火開始の翌年の創建。当然、火山灰が大変な事に成って農地も存続の危機だから水の神様の大山阿夫利神社の大山祇大神と高お神様に富士山が隠れる位置が大切。 そして農業の聖地鳩川。その水で復興する海老名の農地。用水路も水田も再建され、復興の願いの込められた浅間大神様な訳ですね。
※鳩川は有鹿神社奥宮、縄文時代の遺跡のど真ん中に在る聖地の断崖から水の湧く有鹿窟を水源とした聖なる川で、流域の農業用水として活用されていた。
※大河川の相模川の河川敷からそう遠く無く、川近くの平原に弥生時代に人の定住は無かったと少し前まで歴史学者は発掘調査もせずに一笑に付していたが昨今、海老名市を始め相模川等の大河川近くの平原部からどんどん弥生時代の遺跡が発掘され神奈川県の古い神社の伝承が正しい事が多い。県内の河川近くの平地に従来の考古学の一般論が通用しない場所が多い事が近年、証明されている。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
この条件が全部丸っとスッポリ治まるのが今泉の浅間大神様に成りますね。 恐らく宮司様達の伝承が主要な目的で、その為の鳩川を守る場所に富士山鎮火と大山阿夫利神社の降雨の御神威を勧進したのかなと。 それで富士山山頂、大山山頂の真っすぐ延長線上で、海老名の三角形頂点に置かれたのかなと。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
凄く神秘的な立地でとても楽しかったです。 では本当に夜分失礼しました。また、重ね重ね御教示賜りありがとうございます。

以上、Twitterでのやりとり。
やはり地元の古い神社や御寺の当人や博物館の学芸員さんや御詳しい人と話すと、嘘も多い文字から想像するよりも発見が多い。無論、文書を読み込むのもすごく大切で、両方しないとダメ。
小生はいつもなら直接突撃訪問して色々と御教授頂くのだが、今年は何だか体力も無く仕事も忙しく自分の副業もやらないといけず、ジムにも行く暇が余り無い。
去年はそれでも仕事終わってから風呂だけ入って徹夜で遠出し、車中泊で1時間くらい仮眠したら朝から夜まで活動で来たのに…
今年は無理だ。体調悪いのかな?
う~ん楽しみたい。


さて、今回、有鹿神社の宮司様に色々とヒントを頂いたり、無知のままに偶然地図を見て位置関係を把握したり、こう言う楽しみが有るのが郷土史なんだな。
だから皆さんにも御近所の神社や御寺や御城の跡を散歩して、古代の人の痕跡と接して見たり、思いがけない場所でトンでもない歴史偉人の足跡を見つけたりしたら良い気分転換に成りますよ~って御薦めしたい!

そう言えば、2016年と2017年、神奈川県と横浜市によって破壊された史跡や破損させられた古文書も盗難に遭った文化財も沢山有りましたが、国や民間に寄って文化財指定や特別な場所として認定された場所が少し有るので紹介します!
●高部屋神社の社殿…国登録有形文化財 伊勢原市下糟屋
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●高麗寄日本書… 国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●大乗起信論別記…国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●華厳経問答…  国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
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●小机城…続日本100名城125番 横浜市港北区小机
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※小机城は全国的に横浜市内に在って奇跡的な保存状態である事や、歴史的にも北条家の軍団の小机衆の拠点として重要性が知られているのだが、未だに横浜市教育委員会が史跡登録や歴史文化財指定申請を行わない不可解な状態が続くので、市による建設利権の為の破壊が懸念される。

是非みなさん、お散歩に行って見て下さい~♪
無論、海老名の浅間大神の御社で神様にも御参りして大山を遥拝してみて下さいね~!

では、又、次のブログ記事で!
次は多分、7月中旬の休日雑記。



2017年04月22日、朝から有鹿神社の宮司様の講義を聞きに海老名市を訪れて、講義受講後は宮司様から有鹿神社の施設や鳩川と相模川の合流地点の旧境内地、そして鎌倉御家人の海老名氏の城館址の敷石だった現境内本殿前の敷石の一枚の解説や本殿内部の彫刻や天井画を案内して頂き充実した時間を過ごす事が出来た。
宮司様に御礼を申し上げて神社を後にし隣の江戸時代までの有鹿神社別当寺だった総持院に初参拝しから少し移動して有鹿神社中宮を御参りした。
そして海老名市が誇る遺産、相模国の国分寺跡に移動した。

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国分寺も旧境内地は歴史遺跡として保護されているのだが、歴史に興味が無い人からすると基壇が有るのも「何もないですよ~」と言ってしまうような❝野原❞と認識されているらしい。
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まぁ、城跡もそうなのだけれど、文化や史跡に思いを馳せる事の無い現世の物欲と性欲にしか興味なく生きている人達にとっては、❝目に見える金❞と❝ビル(建築物)❞等の❝動産❞と❝不動産❞としての価値しか興味が無いんだろう。そして多分、異性も美人かブスかにしか興味が無いんだろうな。
たまたま数年前に話した海老名の人から「何もない」と言われていたが、来てみたらとても立派な基壇や礎石が発掘保存されていた。
所で、国分寺跡の前には海老名市温故館と言う小規模ながらとても熱心に解説を行う学芸員さんや職員さんのいる郷土歴史博物館が在る。
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こちらで昔の相模国国分寺の様子を再現した立派な模型等も見る事が出来るので、温故館と国分寺跡は両方合わせて見学するのが個人的には御薦めだ。

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海老名市が成立する前の昔の海老名村役場の建物を利用した施設で、国分寺跡の旧境内地に建っていたのだが国分寺跡が史跡認定されたので現在地に移築された。
この日、当初の予定では温故館を見てから国分寺跡を散策しようと思ったのだが、相模原市からの団体客が来訪中だったので先に国分寺跡を見学する事にした。
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国分寺跡にはちゃんと昔の伽藍が有った時代の名残りが発掘されていて、御覧の通り回廊の礎石なんかも発掘保護されている。この礎石の上に柱が組まれ、昔は立派な回廊が堂宇を取り囲んでいたのだろう。
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少し順番はあべこべに成るが、温故館に展示されている国分寺の模型を見ると、やはり回廊に囲まれているのが良く解る。
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この看板を探しても、そこに大まかな事が理解出来る解説と史跡の全容が記されている。
この国分寺跡に限らず歴史史跡を回る時は、この様な看板が有れば必ず精読される事をお勧めする。
読めば自分の居る場所に古代何が有ったか、そしてどんな出来事が有り、どんな偉人達と関わりが有ったか必ず書かれているので地元の人なら郷里の誇りにも成る事だろう。
この手の看板を読むのに1分も時間はかからない、その1分で郷土に誇りを持てたり来訪者なら意義を知れるのは実に素晴らしい事なんじゃないだろうか?
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とは言え、確かに地元に人に只の草原と言われても「う~ん長閑で気持ちの良い風景だ」と同意してしまいたくなるのも事実(笑)。
色んな意味で良い場所だとは思う。
説明書きはそこかしこに設置して有り、非常に親切な写真と文字の両方解説で助かる。

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これだと小生の様な馬鹿でも理解しやすい。
所で、この絵図の仏塔は現代の個人の御墓で墓所に建てる卒塔婆の元に成った施設だ。
本来の仏教寺院は奈良~平安時代では国営や豪族貴族の直営だった場所が殆どで公立だった。
だから規模も大きく、仏塔が建てられる場合が多かった。
そして、この塔の本来の目的は「仏舎利(ぶっしゃり=御釈迦様の亡骸、ないし御寺の被葬者の亡骸)」を保存する場所だったのだが、現代ではその機能を成さなくなり建築様式としてだけ残っている。
昔は御寺その物が個人(豪族貴族)の御廟所=墓所としての機能も果たしていた訳だ。
つまり一人一寺みたいな勢い。
だから中世でも社会的地位の高い仏教徒の戒名にはその名残を見る事が出来て、〇〇院や〇〇寺と戒名に御寺其の物の名前が入る人が多くいた。
織田信長公なら「総見院殿大相国一品泰巌大居士」だったり横浜を開港した井伊直弼公だったら「宗觀院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覺翁大居士」の様に、生前の身分が高位の人物には~院と御寺の院号が付き敬称の「殿」が続く。
無論、現代では一般人には付かない戒名な訳だが、昔は御寺そのものが故人一人々々の供養の為に建てられた文字通り「菩提寺(ぼだいじ)」だった事が良く解る。
しかし、国分寺は国家鎮護の為の寺院なので当然、誰かの為に作られた場所ではなく祈祷所の様な場所だったのだろう。そして国営なので壮麗な装飾も施されていた様だ。

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上の解説によれば塔の頂点部に飾られる塔相輪部は美しい金属製だった様だ。
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基壇が修復されて今も保存されている。
基壇の規模からも当時の立派な塔の規模を窺い知る事が出来る訳だ。
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こういった仏教建築技術が、後の神社仏閣の建築技術発展に繋がり、そして壮麗な城郭建築へと発展して行った訳だ。そう言う意味で仏教の伝来は日本文化の発展の礎の一端を担った事は間違いない。
ここでは常時20名程度の仏僧が当時は常駐していたので、彼らの宿舎だった僧坊も発掘されている。

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この通り、発掘された遺構を元に彼らの生活した建築物の復元予想図も書かれていたりする。
とても丁寧な展示方法で海老名市教育委員会の仕事は素晴らしいと思う。
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このコンクリに発掘された柱の穴の跡がマーキングされていて、当時の様子を知る事が出来る。
まぁ、公務員なのに長屋住まいでプライベートも何も無かった訳だが、当時の和尚さん達は滅私で国民の安寧を祈願して下さっていた訳だ。今の和尚様達の中に、果たしてどれだけの人が国民の安寧を当時の国分寺の和尚様達の様に考えている人がいるかと思うと、色々と考えるものが有る。
まぁ、当時の和尚様達は俗世を捨てているので現世の政治や商業活動には関わらなず、どちらかと言うと神仏共に大切にされていたので個人の修行だけでなく世間の平和を願う事も仕事だった訳で、その代表的な存在が海老名市の国分寺を含めた日本全国1国に一つづつ建てられた国分寺だった。
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だから、他府県にも国分の地名や国分寺跡が残っている訳だ。
一頻り国分寺跡を見学してから、そろそろ頃合いかなと思い海老名市温故館に移動。
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何ともレトロな建物だが、実際に古い村役場の建物であり建築文化財なので、横浜の山手地区の洋館の様な佇(たたず)まいなんだろう。
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とても可愛い建物だ。
ここは学芸員さんや職員さんがとても熱心で、解説を御願いすると来訪者に親切に展示物の説明をしてくれる。
そして何より嬉しい事に市営で入館料が無料なのだ!
歴史オタクにとってはとても居心地の良い場所(笑)。
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展示物も出土品の現物や複製品、それに加えて海老名市周辺の古墳群の位置関係と地形を再現した模型、奈良時代の国分寺や条里制で造営された相模国府推定範囲の写真説明等々、「意味が解って見れる人には有意義な場所」な訳だ。
神奈川県下の各自治体の教師は、中学生の歴史教科書を精読してからここに来て、もう一度勉強しなおしてから有鹿神社本宮と相模原市の有鹿神社奥宮と勝坂遺跡を訪問するべきだと思う。
ついでに寒川神社で八方除けの祈願したり、前鳥神社にも行って仁徳天皇の弟皇子で
日本最初の学問を導入した菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子にも御参りしてきたらいいんじゃないかな。
もっとも地方公務員の学校教師の中には共産主義者が多く唯物論者なので日本の伝統や文化や神仏に対する信仰を破壊対象として認識している極左も多いので、到底、神話と考古学が交わる整合性を認めたくない輩も多い事だろうが。

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小生もこの写真と似たデザインの土器の破片を子供の頃に近所の宅地開発の時に表面採取して保管している。
思えば近所に歴史遺跡が有ったり、鎌倉も近くて中学生の頃に電車や自転車で気軽に遊びに行けたのも歴史好きに成る要因だったかも知れない。
小~中学生の頃は仲間達とチャリンコで由比ヶ浜に行き、イチャイチャしているカップルの横でわざと大声で地味に棒倒しを異様な盛り上がりでやってデートを邪魔したりする意味不明な遊びをしていた。全くもって迷惑なクソガキだった(笑)。
展示物の話に戻ると、昔の女の人もオシャレに余念が無かった事が解ったりする。
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耳輪。
こう言うの見てるとやはり日本人の先住民(縄文文化の人々)は朝鮮半島渡来では無くて、南方系のベトナム~中国大陸の呉や越~台湾や琉球民族と同じ海洋民族文化なんだなと解る。
実際、琉球語には古事記に登場する古語が昔のままの意味で使われていたりするし。
琉球語で「ひら」は「上り坂」の意味、「坂」は「下り坂」の意味で、本来の「黄泉平坂」は「黄泉平坂(よもつひらさか)」ではなくて「黄(き)泉(いみず)平坂(ひらさか)」となり…
黄(き)=紀国(きのくに)=紀伊国
泉(いずみ)=泉国(いずみこく)=和泉国
平坂=峠
…と成る訳だ。
この峠も推定出来る場所が有る。
要するに、天皇家の古墳は河内国と奈良近辺に大量に現存するが、奈良や河内を境にして、南部の和泉国や紀伊国や伊勢国や志摩国は初期の王族にとって反乱勢力の根拠地だった訳だ。
元々、伊勢神宮以前の神宮も丹波国に在ったのは有名な話し。
古代の大和朝廷の国境は❝鈴鹿関❞❝逢坂関❞そして真田幸村が歩いた❝紀見(きみ) 峠❞の事だろう。
紀見峠も元々は「黄泉峠」と書いて発音も❝黄泉(きみ)峠❞だったのかも知れない。
紀見峠を越えると熊野信仰、つまり山岳や自然湧水池を信仰対象にした縄文文化系の先住民族の縄文文化圏だったんだろう。そして、その首府が今の熊野大社や那智大社の辺りだったはずだ。
「熊野」は「熊襲」と無関係ではないだろう。

伊邪那岐(いざなぎ)の神様は、伊邪那美(いざなみ)の神様と夫婦に成って国を作る、これは渡来文化と縄文文化の融合の象徴を起源にした弥生時代つまり稲作や豪族集団の始まりを伝える神話だろう。

そして最初に日本に渡来文化を齎したのは呉太伯、つまり呉王の子孫だろう。呉の滅亡は西暦紀元前500年頃の話しで、日本神話とも近い上に宮崎と並んで高千穂の地名の残る鹿児島県には呉太伯神社も存在している。呉王の家系は更に周王まで遡(さかのぼ)る事も出来る。

伊邪那美の神様が黄泉平坂を超えて行った先は、縄文文化の熊野地方だったんじゃないだろうか。そして、そこは本来の姫神様の一族の治めた土地で、実家に帰って縄文文化に戻って生活していたと言う話しなんじゃないかと思う。本居宣長に死後の世界と訳されたであろう縄文文化に帰った伊邪那美は古来の文化に従って刺青(いれずみ)を施して歯を抜歯した筈だから、渡来文化を導入して刺青の習慣など無かった伊邪那岐の神様からすれば、元奥さんの伊邪那美の神様が縄文人よろしく刺青して歯が何本も無くなってたら化け物に見えても仕方なかったんじゃないかと思う。

やがて熊襲は邪馬台国の元に成った豪族集団に段々と吸収されて行き初期の邪馬台国勢力に融和した筈だ。これを成し遂げたのは天照大神と素戔嗚尊に神格化された古代の斎王と王だったんだろう。

日本は縄文文化と渡来文化を取り入れた弥生文化が合わさって出来た国、そして更に勢力圏の拡大にともなって稲作が普及して行った訳だ。
更に漢帝国との国交によって青銅器やガラス製品の鋳造技術の技術移転を受けて、武具や装飾品が金属製品に成っていき古墳時代が始まり、その頃に再び
倭国大乱と成って邪馬台国に抵抗したのが伊勢都彦=建御名方神だろう。
そして、今の伊勢地方を根拠地にした伊勢都彦の勢力を諏訪に追いやった勢力が巫女の卑弥呼と統治者の弟だったのだろう。その卑弥呼は恐らく倭姫で弟は景行天皇だったりすののかも知れない。

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小生の住む神奈川県の旧郡制における橘樹(たちばな)郡~久良岐(くらき=久良=倉巣
)郡~御浦(みうら=三浦)郡~鎌倉郡~高座(たかくら)郡~愛甲(あいこう)郡~大住(おおすみ)郡~餘綾(ゆるぎ=淘綾)郡~足柄(足上/足下)郡の古社には日本武尊と雄略天皇に関する起源を持つ神社が実に多い。因みに小生は倭建は古代の邪馬台国大将軍の官職名だと思っている。
そして景行天皇御本人が初代の倭建、二代目が皇子の倭建=日本武尊だったら歴史と神話に整合性が出るんじゃないかと思っている。
日本武尊伝承は西暦100年代初頭と走水神社の神話では伝わっているが、古代の文字の無かった時代の話なので誤差が有ると考えれば三国志の時代とほぼ重なる。つまり卑弥呼の時代だな。九州で熊襲建(くまそたける)を討ったのは景行天皇だろう。
関東に東征したのは倭建(ヤマトタケル=景行天皇の皇子)だろう。
更に雄略天皇も最後の倭建で武蔵国造乱に関与したんじゃないかと推測している。
この推測は南関東の延喜式内社と式外社を回り御祭神の種類を見て廻り伝承を繋ぎ合わせた結果の個人的な推測なので、勿論、神学でも歴史学でも「全く価値の無い個人的な意見(笑)」でしかない。
だから日本神話をそのまま大切にする宮司様達は気にしなくて良いし、物質的な証拠しか採用出来ない歴史学者も小生の❝感触❞は小馬鹿にして置けば良い。
ただ小生は多くの神社や聖地が起源の仏閣を巡り伝承を繋ぎ合わせ、現実の歴史史跡を見た上で状況的に「そうなんじゃないかなぁ~」と感じてるだけ。
感じてるだけだから学術的価値なんか有りゃしない訳だ(笑)
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まぁ、そんな事をこの高座郡(たかくらぐん=こうざぐん)と呼ばれた聖地の多い地方の出土品を温故館で見ながら考える機会にも成ったりする。
小さい郷土資料館ながら展示内容は意義深く、石鏃(せきぞく)から青銅製の鏃(やじり)までの武器の変遷も見る事が出来る。
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そして装飾品も石や土器から次第に金属器やガラス製品が増えていった過程も見る事が出来る。
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そして古墳時代の豪族(王)クラスの武装が立派な金属製の太刀へと変化し、その様相も中国の三国時代の物とは既に違う独自の形に発展している事も解る。
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だいたい、神奈川県内で古墳~奈良時代の郡衙が置かれたと思われる場所の近くに有る延喜式内社の由緒ある神社の広大な旧境内地や傍には古墳が有って、副葬品から豪族の長しか装備出来なかった鉄剣や青銅製の鎧等が出土している。
三之宮比々多神社なんかも有鹿神社本宮や奥宮の周辺並に縄文時代~古墳時代の祭祀場や古墳と副葬品が大量に発掘されていたりする。
まぁ、そんな展示が温故館の1Fには多くあり、そして大化の改新の後の天智天皇以降の相模国国分寺や国府に関する展示も有る訳だ。
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温故館の2Fは中世~近世~近代の展示物が置かれている。
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江戸時代~近代の農機具。
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庶民の服装。
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明治の廃仏毀釈と神仏分離令の悪影響で衰退し廃社や廃寺に成った神社仏閣から移し保護されている仏様や神社の扁額等が保管されていた。
本当に海老名市の教育委員会は意識が高いと思う。
横浜市は左翼系の政治家と建築利権に結びついた政治家、そしてそれらの何れかと思想を同じくする教職員が力が強いせいで、宗教を文化と認識せずに「物」として扱ったり不保護のまま消滅させたりしてしまう。神奈川県庁と言う組織も駄目な所だし横浜市もダメ。
それ以外の自治体はとても宗教関連の遺物も文化として大切にし、そしてソレを物として扱わずに人から信仰された大切な物と言う認識を持っている場所が多い。
まぁ、神奈川県や横浜の教育委員会以外に他にも最近は歴史史跡や宗教関連史跡の保護で
ダメな自治体の教育委員会も幾つか有るんだけどな。
取り合えず、綾瀬市、海老名市、小田原市は比較的素晴らしい活動をしている教育委員会関連の職員が多い。文化財保護法の設置を最後まで拒んだ横浜市は一番駄目。

さて、温故館で学芸員さんに丁寧に色々と解説して頂いて古代の海老名郷の国府の条里制の跡と思われる場所の航空写真等も見学し新しく学習した事も有り、有意義な時間を過ごして温故館を後にした。
次に向かったのが今まで中々行きたくて行く機会の無かった日本を代表する拉麵店の一つである「中村屋」だった。

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この店の店主は「天空落とし」と言う拉麺の湯切りのスタイルでも有名なイケメン社長で、ニューウェーブ世代の拉麺店では一番の有名な社長なのだ。
そして拉麺を「料理」に昇華させた偉人の一人でもある。
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和食料理屋の様な店構え。
元々は高座渋谷に本店が在り、ここは高級志向のコンセプトで開いた支店だった。
しかし高座渋谷駅周辺の再開発で海老名店に本店機能を移転した訳だ。
現在は東京で大山阿夫利神社の名を冠した「阿夫利」と言う有名店も経営してらっしゃる。
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とにかく拉麺フリークだけなく「料理家も唸らせる拉麺」として有名だったので、ずっと来たいと思っていたが拉麺を食べるだけに来るには遠すぎた。有鹿神社様と御縁が出来たからこそ、海老名市街の一般道を走り回る機会が出来て、やっと来る理由にも成った。
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海外でも紹介されたらしい。
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店のTwitterアカウントが「天空落とし」に成っていた(笑)。
店員さんの許可を頂いて店内の様子も撮影させて頂けた。
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何となくアメリカの無機質に洒落たスタイルの内装だった。
丸でcafeの様な印象。
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以前の店舗の店先に掛かっていた額が店内に装飾品として展示されていた。
これも良い雰囲気を演出している。
天井のレトロな扇風機も良い。横浜の山下公園や大桟橋界隈のアメリカンスタイルのcafeと同じ様な内装でデートで来てもおかしくない拉麺店に成っていた。
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待ちに待った拉麺登場!
この日は「特中村屋」と言う拉麺の塩味に味玉と海苔増しのトッピングを注文した。
食べてビックリしたのはスープは透き通っていてアッサリしながらコクも有り、旨味を凄く感じられ今まで食べたどの拉麺よりも美味しい!
神奈川県には日本を代表するラーメン屋が実に4軒も有る。
拉麺の神様の佐野実さんの醤油ラーメンの名店、支那そばや
家系ラーメンの総本山の吉村家
九州ラーメンの名店なんつっ亭
そして神奈川端麗系の創始者である中村社長の中村屋だ。
この中村屋、美味いのはスープと麺だけではない。叉焼が凄い!
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肉厚なのだが物凄く肉質が良く柔らかい上に、その味は鎌倉ハムやなんかの贈答用の高級ハムを更に美味しくして拉麺の香りとマッチングする様にした感じの他店では絶対に食べる事の出来ない凄い叉焼だった!
本当、この拉麺を食べれて良かった。
海老名市訪問の後にも、この日の予定は幾つか有ったのだが…
有鹿神社で宮司様に親切にして頂いたり著書を拝領したり、人生で一番美味い拉麺に中村屋で出会えて、今年上半期で三本指に入る素晴らしい日に既に成った。

有鹿神社には又、小生の休日と祭事の曜日さえ合えば絶対に訪問するだろう。
そして、その時は又、絶対に中村屋の拉麺を食べに来ようと思った。
そんな素晴らしい午前中~昼の時間を過ごして海老名市を後した…

次回、綾瀬市~藤沢市編に続く…





2017年04月22日、有鹿(あるか)神社で海老名の歴史解説の講義受講をTwitterで宮司様から御声掛け頂いて参加しに行って来た。
今年の水引き神事に(寝坊して)参加出来なかったので、文献には載らない祭祀内容や相模国延喜式内13社に伝わる海老名地名の由来の解説等を聞きに行く為だ。
海老名に行くなら未訪問で訪れて見たかった場所も数ヵ所有り、事前に計画を立てて訪問予定地をGoogle mapに登録しておいた。
結果的に行き当たりバッタリ思い付きで突然訪問した場所を含めて書き出すと、この日の行動を纏めるとこんな感じだ。
有鹿神社本宮
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旧有鹿神社別当寺 総持院
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有鹿神社中宮跡
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相模国国分寺跡
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海老名市温故館(郷土資料館)
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中村屋
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有馬のハルニレ(神奈川の名木100選の一つ)
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高座豚手作りハム(ブランド豚の高座豚の養豚、ハム製造の直売所)
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国指定史跡 神崎遺跡(綾瀬市の郷土博物館と国定の弥生時代環濠集落遺跡)
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飯田牧場(酪農家直営のアイスクリーム製造販売店)
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花應院(照手姫伝説の舞台の一つ) 
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コンビニの駐車場で車中で爆睡
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地元のスポーツジム

この日は前日と言うか当日の1時位に仕事から帰宅して、風呂に入ったり食事をし夜にジムに行く準備をして寝ずに朝の6時前に出発した。
早朝の移動なら道路も混まないし、コンビニで仮眠すれば良いかなと思って、いつもの休日鉄板の行動パターンを選択した。
事故渋滞も無く順調に海老名市に7時頃に到着し、有鹿神社近くのセブンイレブンで朝食を購入して駐車場で1時間位ダラダラ休憩してから有鹿神社本宮へ移動した。
有鹿神社の境内駐車場に車を停めさせて頂き社務所へ移動。
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複数人の神職の方が慌ただしく準備をしておられる中、スーツの紳士が声を掛けて下さった。
「久良岐さん?」
「はい」と返答すると、「車から降りて来られて直ぐに解りましたよ」と柔らかく話すスーツの人物が宮司様だった。
実は宮司様との面会は2度目、1度目は昨年07月20日の愛川町の三増峠合戦古戦場と愛川町郷土資料館を見学し相模原勝坂の有鹿神社奥宮と海老名市の本宮を初参拝した日の事だ。
当日は日没直前の17時少し前の訪問で本宮社務所は無人、社務所に書いてあった電話番号へ連絡を入れた所、宮司様の別の仕事の事務所で御朱印を頂ける事に成り、其方(そちら)へ訪問して御朱印を拝領した時が宮司様との初対面だった。
「奥宮とここまで来るのは余程、神社が好きなのですね~」と御優しく対応して下さったのが印象深い。
 宮司様に社務所に上がる様に促(うなが)されて玄関へ回ると可愛らしい鹿の人形が出迎えてくれた。
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 有❝鹿❞神社だけに鹿を寵愛されているのだろうか?
その割には宮司様のTwitterアイコンは「パンダ」なんだよなぁ~(笑)。
 https://twitter.com/mikagenomori
有鹿神社の宮司様は実は宮司職を務める他に社会的な地位が高い人物なのに全く偉ぶる感じの無い、寧ろ柔らかく気さくに親切に話しかけて下さる万葉集にでも登場してきそうな雰囲気の方なのだけれども、Twitterを見ている限りでは内面に遊び心を持つ側面もチョクチョク垣間見える。
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この日の歴史解説と神事の講義は非常に楽しく、相模国13座の延喜式内社と神奈川県教育委員会の認識では海老名の地名の由来が違う事なんかも教えて頂けた。
実は江戸時代に相模国一之宮寒川大社(寒川神社)の当時の宮司が書いた掛け軸あ有り、その記載なんかからも海老名の由来は相模国五之宮有鹿神社の五之宮を文字って当字されたのが由来だと推測出来るそうだ。
海老名の有鹿神社は律令制度確立以前は実は古代の一之宮だった。
しかし 古墳時代に成り海だった県央部が隆起して湿地に成っていた辺りへの人の入植が進むと、寒川神社が一之宮に成った。
どうやら神社の伝承や延喜式内社と式外社の分布と土地の隆起した年代を見ていると現在の中原街道に当たる道が奈良時代位には主要街道に成っていた様だ。だから有鹿神社から寒川神社に一之宮が移されたんだろう。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
しかし、相模国国分寺と国府は古代に有鹿郷と呼ばれた海老名地方に置かれた事からも、依然として重要な土地と認識されていた事が良く解る。
もっとも小生の推測は教育委員会とも宮司様達とも少しだけ違い、神奈川県内には「3つの国の国府」が存在していたのだろうと推測している。
3ヵ所の国府では無く、3ヵ国の国府だ。
小生は有鹿郷(海老名)は古代の佐賀牟国の国府跡、六所神社と川勾神社近くが磯長国の国府跡、そして前鳥神社の周辺が相模国が成立して置かれた一時期の国府だったんじゃないかと思っている。
まぁ詳しい事は解らないが江戸時代の中原街道の元に成っている古道自体の成立は大山街道(矢倉沢往環)よりも新しい道なのは地形的にも付近の延喜式内社の縁起からも間違いない。 

さて、海老名の地名の起源だが、記録に残るものは有鹿神社別当寺だった総寺院の住職が書いた「大きなエビが取れた場所だから」と荒唐無稽な説が文書として残っている為に海老名市教育委員会では延喜式内社一之宮寒川神社と五之宮有鹿神社に伝わる本来の伝承を伝える事が出来ず、歴史学のセオリー通り残った文献から僧侶が書いた物を紹介しているそうだ。
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上の写真は江戸時代の相模国一之宮寒川神社(大社格)の宮司が書いた掛け軸。
一之宮寒川神社~二之宮川勾神社~三之宮比々多神社~四之宮前取神社までは漢数字の宮の順位が書かれているが有鹿神社だけは現代では使われない書体で「護尾」と書いてある。
この「護」が「五」の当字で、本来は衛尾(えび)と書いていたんだろう。そして五之宮と書いては旧一之宮の社格に面目ないので配慮も有り衛尾の衛を洒落て同じ意味の「護」に置き換えて「五」と掛けたんだろうと言うのが有鹿神社の説だそうだ。
これに小生の意見を加えると、衛尾は更に「衛備(えび)」と書いて「衛(まもり)備(そなえる)」と言う意味が有り名付けられた地名なんじゃないだろうかと思う。
古代は有鹿郷と呼ばれていた場所を、大和朝廷が介入してきてから衛備となり→衛尾→海老と変遷したと考えるのが「でっかいエビが獲れました」より遥かに自然な解釈だと思う(笑)。
天智天皇の時代には相模国府が置かれた場所なので、東日本の防衛拠点的な意味で衛備ならシックリくる。当時の武蔵国は開発途上の草原と軍馬生産地だったので、大規模水田の耕作地を抱えて条里制で区画整理された街並みは関東では海老名が一番大きい都市だったんだろう。
まぁ~この海老名の地名は色々と歴史ミステリーを含んで非常に面白い事で有るのは間違いない。
所でこれと似たような良く解らない地名の由来というのは幾らでも全国各地に有って、例えば愛知県名古屋市の地名由来も神奈川県鎌倉市が起源と伝わっていたりする。
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※写真は愛知県名古屋市の熱田神宮の大鳥居。
実は愛知県名古屋市周辺の旧愛知郡や、海部(あま)郡蟹江町一帯の旧海部郡は鎌倉時代は名越北条氏の領地だった。名越北条氏と言うのは鎌倉幕府二代執権北条義時の本来の嫡男(跡継ぎ)の家系なのだが、執権には成れなかった家系だ。しかし祖父の北条時政の名越邸と呼ばれた邸宅を相続して今の釈迦堂切通し辺りに住んでいた。
因(ちな)みに名越北条家初代は名を名越北条朝長公と言う。
名越北条朝長公は承久の乱でも軍の指揮官として大活躍し極めて優秀だったのだが、本来は“正妻の子”だったが母の家系が比企氏だった為、執権北条家と比企氏が源頼朝公の跡継ぎを巡って権力抗争をして行く過程で不和に成り母が離縁された事で嫡男の座を失った。一方で諸長子(しょちょうし:側室の子だが長男)の北条泰時公は母が源実朝の乳母(うば)で三代将軍と成った実朝公と乳兄弟(ちきょうだい)だった事も有り立嫡されて北条家嫡流と成った。
以後、北条得宗家(とくそうけ:嫡流)と名越流北条家は子孫に渡って対立し、極め付けに宮騒動を起こして執権で得宗家の北条時頼公と名越北条の対立は軍事衝突に発展、構図は執権政治を行う得宗家と源頼朝公に恩義を感じている名越北条家と三浦家等の御家人の連合軍の対立だった。
得宗家派の勝利によって名越流北条家は権力の中枢から遠ざかるが最後まで頼朝公の立てた鎌倉幕府を支えようとした一族でもある。
もっとも、対立した北条泰時公も極めて優秀な政治家で日本で最初に法治主義を浸透させた名宰相であり、やはり名指揮官でもあったのだが…
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上の写真の釈迦堂の切通しの近くの山の中に名越邸が存在したのだが…
今の左派推薦の鎌倉市長が落盤を理由に交通封鎖、崩落を食い止める策も講じず、この数年で寧ろ風化が進み消滅を促している様な状況に追い込まれている。真に文化歴史軽視の市長である。
この名越北条氏が住んだ平野が名越野と呼ばれたとの説が有り、それが転化して那古野(なごの)と成り更に那古野(なごや)と呼ぶ様に成り、江戸時代に名古屋城の築城と共に名古屋に地名も変わったそうだ。
こんな風に、漢字を音で時代時代に当字するのは歴史の常識なので、海老名の地名も衛尾と考えるのが最も自然だと確かに思う訳だ。
デッカイ海老が獲れたって何だソレ(笑)。確かに縄文時代なら寒川神社の眼前まで海は迫っていたが…
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
…文章に書いてあるからって信憑性も調査せずに資料として採用するなら、そりゃ神奈川県教育委員会さん、あんた等は書籍に成ってれば何でも資料として使用して良いって素人のwikipedia編集者と同次元ですぜ(笑)?
有鹿神社の宮司様の講義に話を戻すと、有鹿神社の水引き神事や他の神社との位置関係の解説等を一頻(しき)り楽しく受講して瞬く間に1時間が経ってしまい講座が終了してしまった。
しかし宮司様(本職は大学名誉教授と法律関連)の著書を頂いたり、色々と親切にして頂いてとても有意義な1時間と成った。
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境内の銘木や何かを写真撮影していると…
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…宮司様が社務所から出てらっしゃって、わざわざ本殿背後の御神木まで案内して下さったり、旧境内地で昭和の高度経済成長期のむやみな砂利採石による川の浸食で縮小した「有鹿の森」を案内して解説して下さったりした。
有鹿の森は昔は相模川と鳩川の合流地点に広がっていた広大な森だったのだが、砂利の採石と治水工事で川の水面が低い位置に下がってしまった為に森との高低差が大きくなり、木々が水を吸い上げる事が出来なくなり森林が消えて川辺の草原に変化してしまったそうだ。
わずか70~50年位前の話しだ。
そして面白い物も見せて頂けた。写真を撮影し忘れたので禰宜様のwitterの画像の転載許可を頂いた写真を掲載する。
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この本殿前の特に立派な1枚の敷石、実は源頼朝公に仕えた海老名の在郷武士の名門、海老名家の邸宅の敷石13枚の内の現存する一枚だそうだ。
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他の12枚はそれぞれ散逸して行方不明に成ったり別の場所に現存したりするそうだ。
まぁ、そんな感じで本当に御多忙なのに付きっ切りで懇切丁寧に解説をして下さった上に、本殿の覆い殿の中まで通して頂き拝殿の天井の龍や本殿の彫刻の解説もして頂く事が出来た。
この際に写真撮影まで許可して下さったのだが小生のデジカメは性能が悪く帰宅して見てみたら真っ暗で何も見えなかった…小梅太夫じゃないけれど「悔しいです!」としか言葉が出ない。
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宮司様とお別れし、有鹿神社の境内社の天神社で小生の崇敬する歴史偉人の一人で神様に成られた天満大自在天神こと菅原道真公にいつも御守護頂いている御挨拶をして有鹿神社を後にした。
車に乗り直ぐ隣り、昔の有鹿神社別当寺の総寺院へ初参拝した。
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昔は塔頭寺院が幾つも建ち並ぶ大寺院で、有鹿神社を守っていた場所だ。
まぁ、弊害も有って昔の和尚様は世襲じゃないから情報が密に伝わらないし、歴史に興味の無い人も当然いるので「デッカイ海老がとれたから海老名」とか書く人も出て来る訳だ。
神道の儀式に仏教様式が混ぜ込まれてしまう事も有ったり、新編武蔵風土記稿なんかに御祭神が本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想で御神体の本地仏の大日如来に近い大日霊(おおひるめ)の名前しか記録せずに「有鹿姫」様や「有鹿彦」様の神様の本来の在郷の神様の名前が出て来なかったりしてしまう訳だ。
とは言え、神社を守ってくれた事には間違いないし、総寺院は真言宗の寺院なので明治の廃仏毀釈神仏分離令まで日本の神様も大切にして下さった訳だ。
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現代の境内は普通の規模だけれど、とても緑と建築の調和した素敵な御寺だった。
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簡単な歴史の説明も有る。
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そして真言宗寺院らしくお地蔵様がお出迎えして下さった。
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花もとても綺麗。
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本堂は比較的新しい再建の様だった。
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見た感じでは古くても昭和初期だろうか。
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扁額。
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唐破風の軒下には獅子が彫刻されていて、この彫刻が立派だった。
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既に散ってしまっていたが枝垂れ桜も。
又、有鹿神社の紹介記事を追記して、別途、総寺院様も独立した解説記事を書きたいと思う。
この日、まだ御住職様と御話する機会を得なかったので、それは取材してからにしよう。
総寺院を後にして、次の目的地の有鹿神社中宮に移動した。
車で10分もかからず到着。
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中宮と言っても元の場所から移動し、更に新田義貞の乱暴狼藉、永享の乱の戦災、そして武田信玄の乱暴狼藉等の戦火が有鹿神社を何度も襲ったので中宮は現代では縮小してしまった。
ここには奥宮とは別の聖なる池が存在したのだが現在は干上がってしまった。
恐らくこれも相模川の砂利の採石で水面が下がったせいだろう。
ともあれ、ここが有る時期から中宮として機能した場所には違いなく、現代人にとっても日本文化の一端を担った場所として大切な事には違いない。
こちらにも御参り出来て良かった。
参拝を終えて、次の目的地の相模国国分寺跡へ移動した…

国分寺から先の話は次の休日雑記の続き[第2部]へ続きます!
では又、次の休日雑記の続きで!
 

有鹿神社(あるかじんじゃ)本宮・中宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比古命(あるかひこのみこと)。 ※相模原市の有鹿神社奥宮は有鹿比女命(あるかひめのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:奥宮は縄文時代にには存在。本宮は弥生時代の遺跡を内包し、奈良時代には国府鎮護として鎮座した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:海老名市上郷。相模国国府跡や国分寺跡が徒歩30分程の場所に在る。DSC_0138
平安時代に関東総鎮守と朝廷に認定された神社の一つ有鹿神社(あるかじんじゃ)が海老名市に鎮座している事を皆さん御存知でしょうか?
前回の記事で紹介しましたが、この有賀神社は元々相模原市緑区に縄文時代の遺跡と共に存在する聖地❝有鹿谷❞に鎮座する奥宮から海老名郷の鎮守として遷座させられ、更には貞観年間に関東総鎮護、正五位の格式に成り、更に鎌倉時代に成ると正一位の各式に定められました。
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上の写真は相模原市南区勝坂に存在する聖地❝有賀谷❞の有賀神社奥宮。縄文時代の遺跡を旧境内地に内包し、その場所には縄文時代からの湧水地の聖地がある原始神道の文化を良く留める。

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さて、何で現在の場所に本宮が有るかと言うと、本来の有鹿神社の草創期の史跡は縄文時代の勝坂遺跡と共に相模原市緑区に現存するのですが、この本宮の場所も❝有鹿の社(もり=森)❞と言われた聖地であり弥生時代の遺跡が周辺から発掘されていたりします。
…神奈川県教育委員会は土建屋と結託しているので、ここでも旧境内史跡を保護せず神社は衰退していくのですが、昔の人がどれだけ、この神社を大切にしていたかと言うと凄まじい歴史が有りまして…
ここが本宮と成った所以(ゆえん)は奈良時代に海老名郷(昔は有鹿郷と言った)が相模国の国府と成った事が一番大きいと小生は推測しています。
有鹿神社は近所に現存する真言宗総持院は明治時代に成るまで有賀神社と一帯に成り神宮寺として機能していましたが、その規模は塔頭僧房合計12坊や幾つもの摂社を巨大な境内地に抱える大規模なものでした。
更に、中宮、奥宮を抱え、天智天皇の時代の西暦664年に国家鎮護の祭礼が行われた記録も有ります。
現在の本宮周辺の位置関係を見るとこんな感じ…
有賀神社と相模国府の位置 久良岐のよし
丁度、聖地❝有鹿谷❞から流れ出す鳩川(有鹿川)と相模川の合流する流域であり、相模川が蛇行しながら河岸段丘にぶつかり、他の支流とも合流する増水すると氾濫(はんらん)する辺りに本宮が鎮座し、更にその本宮の東側には旧相模国国府や国分寺の跡が在ります。
つまり、国府の政庁を守る治水の神様の役割も期待されていた事が位置的に推測出来ます。
まぁ、そもそも、本宮の御祭神は有賀比古(あるかひこ)様ですが、奥宮の神様は水神様でもある奥さんの有賀比女(ありかひめ)様ですから、これは当然とも言える配置ですね。
因みに有賀比古の神様は太陽神です。ですから、治水と太陽に関連深く農業とも関連の有る神社とも言えます。
余談ですが、この地域が奈良時代の相模国の中心だった事を示す国分寺の史跡は発掘され公開されています。
相模国国分寺跡 久良岐のよし
この国分寺は歴史に疎(うと)い人は知りませんが、古代、全ての国府に置かれた寺院でした。
ですから、ここが相模国の中心として機能していた時代が有った証明に成る訳です。
この辺りまで古代は海だったので、現在ではだいぶ内陸の海老名市が現在の感覚で言う神奈川県の県庁所在地に成っていたんでしょうね。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人にはもう御馴染(おなじみ)の画像ですが、Googleearthの画像に古代から存続する延喜式内社と式外社を表示させ、そこに縄文時代の海岸線の画像を貼ると、大凡(おおよそ)延喜式内社と式外社の位置は縄文時代の海岸線と符号します。
そんな訳で、古代から存続し霊験鮮(あらた)かな有賀神社ですが、現在は近所に遷座した中宮も古代は聖地有賀谷から流れる鳩川沿い座間市入谷の左岸の諏訪明神辺りに在ったそうで、西暦500年代に伊勢鈴鹿から移って来た右岸の鈴鹿神社の神様と争って敗戦し、現在の本宮へ本拠を移したと伝承が有るそうです。
鈴鹿の神様は船で遭難し入江の東岸に流れ着いたとされており、それが現在の場所だとされています。
上の画像で説明すると、当時の海岸線は白く表示した部分と推定されていて恐らく西暦500年代位はまだ、この地域は浅い入江だったと思われます。歴史とも神話は整合性が一部有ります。
有賀神社中宮推定値の諏訪明神と鈴鹿明神の位置関係 久良岐のよし
この画像は有鹿神社中宮の在った場所と推測されている諏訪明神辺りと、鳩川を挟んで右岸が有鹿神社の神様と争った鈴鹿明神です。
縄文時代より弥生時代の方が温暖だった可能性が有り、上の上の画像で示した西暦紀元前6000年頃より弥生~古墳時代の入江は更に内陸に広がっていた可能性が有ります。
その証拠に伊勢原市比々多神社周辺や足柄上郡寒田神社周辺には、縄文時代の海岸線より更に内陸ですが❝島❞と名の付く地名が多数現存しています。
因みに、初代の佐賀牟国司は建御名方(たけみなかた)神の御神孫と伝わっています。
建御名方神は、長野県諏訪大社の御祭神で軍神あり治水神です。
この座間市の鈴鹿明神の伝承では、鈴鹿明神の神様の財産を有賀神社の相模原市勝坂の有賀神社の神様が横領しようとして争った際に諏訪明神や弁天様が鈴鹿の神に与力し有賀神社の神様は敗戦し、現在の本宮に来たとされています。
もう一度位置関係を見てみましょう。
有賀神社の奥宮中宮本宮の位置関係 久良岐のよし
実は西暦500年代に大地震が有って神奈川県内陸まで広がっていた海の入江の海底が隆起し土地が出来たはずなので、中央から開拓目的の人間が鈴鹿の移民し入植して来てもおかしくない訳です。
この土地隆起による耕作地の出現が佐賀牟国の武蔵国・相模国分裂の切っ掛けに成り、更に旧相模国の国府祭(こうのまち)と言う神事の元に成った神様同士の争いや、武蔵国造の乱の切っ掛けに成ったと小生は推測しています。
しかも建御名方神の別名は❝伊勢都彦❞だった事が解っていて、現在の伊勢の鈴鹿辺りもこの諏訪神の一族がいた筈(はず)なので、諏訪神=建御名方神=建御名方神の御神孫=佐賀牟国司が鈴鹿からの入植者をかばい在来の有鹿神社の豪族と争った可能性は非常に高いと思います。
もっとも、有鹿神社や先住民からすれば、国司の一族と推測出来る鈴鹿明神の入植者達は侵入者な訳ですがね…。
更に言えば建御名方神は本来、建南方神と書いたそうなので、卑弥呼に敵対した南方の狗奴国と言うのは弥生時代末期~古墳時代の諏訪神族を指し当時の諏訪神族は伊勢辺りまで勢力を誇っていた、もしくは伊勢辺りが根拠地で後に諏訪にまで押し込まれたと神話と歴史を融合させると推測出来ます。
この辺りが、後に天智天皇等、皇統系に有賀神社が国府鎮護や関東鎮護とされ朝廷の後援を受けた理由でもありそうです。建御名方神は朝廷方の祖先神達と争った神様ですからね。
昔の神社は政庁であり豪族の宮殿でしたからね、神(かみ)=上(かみ)=守(かみ)=支配者を示す訳です。
そんな感じで、恐らく有鹿神社の聖なる川の鳩川沿いに隆起した土地に入植してきた建御名方神の御神孫の国司一族と、在地豪族だった有鹿神社の神様の御神孫の争いが、この有鹿神社中宮と鈴鹿明神の争いだったと推測出来ます。

さて、有鹿神社本宮の解説に戻ります。
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有鹿神社は、奈良時代~室町時代中期が最盛期でした。
当時は先述の通り凄まじい広さの境内地を抱えていましたが、平安時代から当地の在郷領主だった海老名家が室町時代中期に滅亡すると、後援者を失い社領を乱入者に横領され衰退して行きました。
しかし天正3年(1575年)、北条氏の治世下で神事❝水引祭り❞の復興が成され相模国五の宮、海老名郷総鎮守にまで復権し、天正19年(西暦1591年)には徳川家康公によって10石の社領を保証する朱印が発行され、江戸時代初期の元和8年(西暦1622年)には領主高木家の奥方によって社殿が寄進されました。
古代程の規模は継続していないものの、この神社の各式の高さと歴史の深さと古代日本文化を守って来た神社である意義は大切で、神社を守って来た氏子サン達の業績は偉大です。
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有鹿神社は境内に立派な御神木が有ります。
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樹齢は書いてないので解りませんでした。
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社務所は宮司様御不在の日がほとんどなので、事前に電話番号を調べて連絡の上、御出勤される日を確かめれば御朱印を頂けると思います。
小生は連絡の上、ここと別の事務所へ訪問し朱印帳に判を頂きました。
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とても凛々しい狛犬さん。石材の状態を見るに江戸時代の作でしょうか?
石の腐食具合がそれくらいに見えるかな。
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社殿外観は覆殿(おおいでん)で、文化財指定されている本殿はこの中に保護され鎮座しています。
本殿は春日造り、屋根は檜皮葺だそうで、格式の高い有鹿神社に相応しい造りです。
残念ながら、訪問した日は時間も遅く既に覆殿の扉が閉じられていて本殿を拝観する事は出来ませんでした。
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扁額は地震かなんかの落下で欠損部分が有りますが、とても立派ですね。
往時の社殿は、この扁額や広大な社領に見合った立派な建築物が何棟も有ったんでしょうね~。
境内の摂社には有鹿天神社と言う菅原道真公を御祀りする神社が在ります。
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元々、海老名源八季貞(すえさだ)公の館跡に鎮座していたのが、この有賀天神社の御神霊で、近年、その御神霊を境内に遷宮する際に御社の形をした祠を新築し直したそうです。
歴史的には海老名氏の崇敬を集めた天神社の今宮に成るので、こちらも霊験鮮かな神様と言えますね。
さて、有鹿神社の前編と合わせて有鹿神社を含めた延喜式内社の大切さが少し御理解頂けたでしょうか?
そして、縄文時代~古墳時代の海岸線沿いや湧水地に延喜式内社が集中して存在している事も御理解頂けたと思います。

ところで、この日の帰りは高速道路の海老名SA上りで豚の串焼きを食べたのですが…
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神奈川県の名物の一つである高座豚(こうざぶた)ですが、この高座豚の高座は古代律令制度の行政区分の高座郡に由来しています。
この高座郡、現代人は高座(こうざ)と読みますが、古代は高座(たかくら)と読んだそうです。
つまり、海底が隆起して現れた平地が有鹿川(鳩川)・相模川・中津川の氾濫や降雨を繰り返して平地の塩分が抜けて工作に適した場所に成り、水田開発が進み、多くの米を保管する❝高床式の倉❞が立ち並ぶ村々が増えって行って古代の開拓先進地域に成って行った事が地名からも伺えますよね。

では!
又、次のブログ記事で御会いしましょう!

有鹿神社(あるかじんじゃ)奥宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比女命(あるかひめのみこと)。※海老名市の有鹿神社本宮は有鹿比古命(あるかひこのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:縄文時代には既に湧水の聖地として存在した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:相模原市南区磯部勝坂、勝坂遺跡の有賀谷。
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平安時代の人々から見ても古いと思っていた歴史有る神社を醍醐天皇の時代に後世に伝え保護させる為に記録させた❝延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)❞と言う古文書に掲載されている神社を、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)と呼ぶのを皆さんは御存知でしょうか?
平安時代、西暦900年代は既に古来の律令制度での国家運営が難しくなっており、それを改善する為に発布された延喜式政令の一端として行われた宗教政策みたいなものです。
つまり、この延喜式神名帳に掲載されている神社は現在の規模が如何に小さかろうが、現代の建物ばかりデッカイ神社よりよっぽど神様の歴史の重みと重要さが別格に高い訳です。
別に建物だけデカイ神社なんて、金儲けのセンスの問題ですからね…
さて、そんな延喜式内社が神奈川県旧相模国域に13座、武蔵国域に1座有ります。
その内の一つが縄文時代からの聖地❝有鹿谷❞に存続する有鹿神社の奥宮(元々の神社の発祥地)です。
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現在、有鹿神社奥宮は石の鳥居と祠(ほこら)が有るのみですが、その前を流れる小川を数mたどると現在も縄文時代から湧き続ける聖なる水源が有ります。
本来は、有鹿神社はこの辺りに立派な社殿が存在したはずなのですが、相模国の国府が海老名郡に置かれ、平安時代末期に坂東平氏良文流の名族の海老名氏が海老名郡を支配する様(よう)に成ると、海老名郡の総鎮守として、有賀神社も奥宮から現在の海老名市上郷に在る現在の本宮に重要度が移管させられました。
なので、近くの中宮には、本宮の聖地であったであろう池が在りました。恐らく縄文時代~弥生時代には安全な飲水として古代人に重宝されたであろう聖なる湧水地の池も土砂の堆積(たいせき)で消えました。しかし現在も本宮はや中宮の祠の近くには、聖地奥宮の有鹿谷から流れる鳩川が流れています。

延喜年間に聖地とされた場所は延喜式内社の他にも有ります。
そこは平安時代当時に御寺とくっつい修験者(山伏:やまぶし)の道場や天皇家の勅願所、又は国府や郡府として機能していた関連で延喜式神名帳には神社として掲載されていなかった場所で、小生の知る限りでも神話の舞台の日本武尊と弟橘姫の走水神社(はしりみずじんじゃ)・橘樹神社(たちばなじんじゃ)・師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)・八幡橋八幡神社(やはたばしはちまんじんじゃ)等が有ります。
これらは延喜式に掲載されていない事から、❝延喜式外社❞としてカテゴライズされています。
●走水神社の記事

●橘樹神社の記事

●師岡熊野神社の記事

延喜式外社は朝廷を乗っ取り天皇家を傀儡(かいらい)としていた❝藤原家にとって歴史的に都合の悪い場所もあり❞素戔嗚尊を祀(まつ)る祇園社、八坂神社、八剣神社、剣神社、出雲社、津島社も多くが延喜式内社から除外されてしまっています。

さて、延喜式内社と延喜式外社の説明はここまでにして、有鹿神社奥宮の説明に戻ります…
冒頭少し説明しましたが、有鹿神社の奥宮は平安時代末期に海老名市に本宮機能を移転した有鹿神社本宮の元宮です。
そして縄文時代からの文化を受け継ぐ聖地の湧水地に鎮座する神社な訳です。
ですので、この神社を語るには、縄文時代の住居が多く出土した旧境内地の勝坂遺跡の存在と、何故(なにゆえ)御祭神が伊勢神道系の皇祖神ではなく日本神話と関係無い土地神様なのかを解説する必要が有ります。
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※上の写真は有鹿神社奥宮の旧社地に在る勝坂遺跡。
そもそも現代の神社は社殿に祀られた御神体の銅鏡(かがみ)を拝む文化で、神社の建物自体が聖地とされてしまっていますが、縄文時代や弥生時代の神話時代の信仰を受け継ぐ古社の文化は全く現代の神道の鑑を拝む文化とは異なり、聖なる池や聖なる山、又は神様と成った神話時代の歴史偉人の御使用された祭器や武器その物等の遺品が信仰対象に成っていました。
ですから日本最古と呼ばれる奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪山が御神体ですし、熱田神宮は本来は日本武尊を祀った神社だったのでその遺品で三種の神器の一つ草彅剣(くさなぎのつるぎ)=天業雲剣(あまのむらくものつるぎ)が御神体とされています。
もっとも、日本の神剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と二つの名で呼ばれ同一視されていますが、実は熱田神宮にも東京の皇居にもそれぞれ一振りずつ神剣が存在している事から、小生は初めから2振りの剣が日本国には古代から存在していて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は別の神剣だと推測しています。
更に言えば伊勢神道に神剣が2振り有る事や銅鏡を御神体にする文化は弥生時代の卑弥呼が魏の皇帝曹叡から贈られた宝剣2振りと銅鏡200枚に由来していると個人的に推測しています。
神剣が天叢雲剣と草薙剣の2振り有るのに神剣が1振りしか無いように世間に誤解されているのは、恐らく藤原家が自家に都合良く古事記の文書化や日本書紀の編纂で歴史を改竄した結果、発生した矛盾によってこの様な事態が発生してしまったのだと推測しています。
皇居には壇之浦の合戦で安徳天皇が平家と無理心中した時に海中に紛失した天叢雲剣のレプリカが有りますが、熱田神宮にも日本武尊が東征に携行した草薙剣が保管されており熱田神宮の公式見解で神器として祀られてより新羅人に盗まれた時以外に境内から外に持ち出された歴史は無いとしている事からも、元来、日本に神剣が2振り有った事が明白です。
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勝坂遺跡入口
江戸時代にキチガイ領主だった徳川光圀(水戸黄門)によって創始された歴史の浅い水戸学を元にして、明治時代に文化や宗教の欧米化を指導した森有糺等の介入により成立した国家神道により、神社の社殿を聖地とする伊勢神道の価値観が基準とされ、更に皇祖神とは異なる神様は軽視されてしまいました。
結果的に縄文~弥生~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸時代の価値観はつい最近の150年前に否定され、以来、土地神様や伊勢神道の神様と異なる主祭神を祀る延喜式内社の多くは明治~大正~昭和に急速に廃(すた)れてしましました。
これは、他の延喜式内社の解説記事でも書いているので、カテゴリー「延喜式内社と歴史千年以上の古社」から選んで読んでみて下さい。
少々脱線しますが因(ちな)みに、小生が水戸黄門をキチガイ扱いするのは彼が領民に重税を課し農民達を苦しめた悪人であり、更に犬の皮を剥(は)いで生皮を将軍の住む江戸城に投げ込む変態行為を行った文字通りの精神異常者だったからです。
彼に関しては、ヤンキーで少年時代に不良グループと群れていた事実以外は全くTVの水戸黄門と異なる作られたイメージなんですね。
彼の評価が高く成ったのは犬を虐待して当時の将軍の徳川綱吉の生類憐みの令に反抗してみせたパフォーマンスと、その反幕府的な姿勢が幕末に後の明治政府の重鎮達に手本にされたからでした。
そんな訳で、彼は江戸時代にも多くの八幡宮等、伊勢系統の神様と無関係な神社仏閣を多く破壊した悪事を行っています。
そんな彼の創始した水戸学の誤った知識により、縄文時代~江戸時代末期まで自然崇拝や土地の神様を大切にした古来の神社文化は衰退させられてしまいました。
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しかし、この有鹿神社や日本全国の延喜式内社には、日本書紀の神話にも登場しない土地神様や日本武尊や弟橘姫が主祭神として存続し、更には縄文~弥生~古墳時代の遺跡を旧境内地に埋蔵した聖地に建っていた場所が多く有ります。
以前に紹介した❝大山阿夫利神社❞や❝比々多神社❞は正に、そんな場所ですね。
●大山阿夫利神社の記事

●比々多神社の記事

この有鹿神社奥宮の有る有鹿谷の上の丘の勝坂遺跡は、有鹿神社の湧水地を聖地としていたであろう縄文の人々の住居跡が発掘調査され、復元され無料見学出来る史跡として整備されており、御参りする時に子供を連れてくるだけでも良い課外学習に成るでしょう。
小生が良く使用する画像ですが、延喜式内社は縄文文化を受け継いでいる証明にも成るのが、縄文時代の海岸線と所在地をGoogle earthで重ね合わせた画像です。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
約6000年前の海岸線は今より遥かに内陸に在り、前鳥神社(さきとりじんじゃ)と平塚八幡宮の奈良時代の地殻変動で隆起した地形以外に所在する式内社・式外社は全て、縄文時代の海岸線と一致する位置や湧水地に現在も存在しています。
そんな訳で勝坂遺跡も有鹿神社の聖地である有賀谷の横に在る訳で、縄文時代の村落の史跡の横の有鹿谷が有賀神社の奥宮な訳です。
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勝坂遺跡に復元された住居には、展示時間内なら自由に入る事も出来ます。
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当時の人々の暮らしも想像できますね。
ただ、この住居内部の復元は、横浜市南区の三殿台遺跡程緻密には行われていませんし展示館も無いので、もし日本の神代に当たる縄文時代の人の暮らしに興味が有る人は、横浜市都筑区の❝横浜市歴史博物館❞と横の❝大塚最歳土(おおつかさいかちど)遺跡❞、復元住宅と生活を見たいなら横浜市南区の三殿台遺跡を見学すると良いと思います。
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勝坂遺跡も、住居跡の凹みにちゃんと解説文が説明板に書いて有るので、基礎知識を学ぶには良い場所だと思います。
ここは、日本文化を守って下さる神社の宮司様や御寺の和尚様達にも訪れて、日本文化と伝統の起源を改めて見つめ直して欲しい場所でもあります。
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この勝坂遺跡の入口と、勝坂遺跡の途中に有賀谷に降りる遊歩道の入口が在ります。
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その遊歩道を歩くと相模原市教育委員会の原生林を復興した照葉樹林があります。
明治~昭和期に日本の多くの山は建築材料の調達目的で原生林が伐採され杉の木が植林され生態系が破壊されてしまった場所が多く有ります。
それを踏まえると、この相模原市の取り組みは素晴らしいですね。
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この森をずんずん進みます。
すると…
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有鹿谷の底、小川と湿地の畔に出ます。
ここで生息する希少な生物の説明も有りました。
その傍らに在るのが、有鹿神社奥宮です。
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しかし、この奥宮は聖地の入口に境界の様に建てられています。
平安時代末期までは、上の勝坂遺跡とこの辺りに立派な社殿も存在したのでしょうね。
そして、この祠の前の小川を少し遡(さかのぼ)ると、この地が古来の神道文化を保持している所以(ゆえん)たる聖地が現在も日本文化を大切にする方達に守られていて…
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有鹿谷の壁面から、コンコンと湧き出る有賀神社奥宮の聖水とも言える湧水地ですね。
実は縄文時代~古墳時代の人々の生活で重要な事は飲み水の確保でした。
昔の人は大きな川の水を飲んでいた訳では有りません、そんな事をすれば、いくら昔の綺麗な川でも感染症を起こして死にますからね。
かと言って井戸を掘削する技術も実は平安時代位まで普及しておらず、江戸時代に成ってもまだまだ現代の様に地盤によっては垂直に井戸を掘れる技術は有りませんでした。
だからこそ、この有鹿谷の有鹿神社奥宮を含め、延喜年間には存在した神社…
伊勢原市の大山阿夫利神社や横浜市港北区の師岡熊野神社、東京都あきる野市の二宮神社(二宮小川大明神)、関東最古の大社で日本武尊が造営した埼玉県久喜市の鷲宮神社の様に縄文時代~古墳の史跡や自然湧水地を抱える場所が多い訳です。
●鷲宮神社の記事

どうでしょう?
有鹿谷と有鹿神社の大切さ、縄文人代の先輩達から~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~室町~安土桃山~江戸と、現代人の我々へ受け継がれている事を辿(たどる)る事で御理解頂けたでしょうか?
この縄文の人を潤し、弥生~昭和まで農耕の灌漑用水としても利用されたであろう母なる水を湧かす聖地有鹿谷の神様が、有鹿比女(あるかひめ)と言う女神様である事も忘れないで下さい。
現在の神道も、縄文~弥生~古墳の習慣が残っていますが、更に神話にも登場しない古い時代の神様を平安時代の醍醐天皇達の次代には現代よりも大切にして、現代人の私達に対して❝延喜式神名帳❞を通じて「ちゃんと保護し大切にしなさい!」と伝えてくれた事も忘れないで下さい。

…余談ですが、現在は御寺に成っている横浜市中区にある❝国家君が代と吹奏楽の発祥地❞である妙香寺は日蓮宗の御寺ですが、昔は真言宗の弘法大師空海和尚が開山の御寺だった歴史が有りますが同地の丘には打越の霊水やワシン坂の霊水と言った自然湧水地を多く抱える場所であるのですが、実は空海和尚は自然湧水地と日本神話の日本武尊信仰を大切にされていたので日本武尊神話の伝承地に日本武尊が崇拝していた牛頭天皇=素戔嗚尊を祀る牛頭社や須賀社を開いたり、聖徳太子を祀る太子堂を開いたりしています。
恐らく、横浜市の妙香寺や弘明寺は御寺に成る以前には神社としての機能が有った聖地なのだと思います。
その推測を強化するのが、弘明寺の旧境内地からは❝国府瓦❞が出土しているからです。
国府瓦と言うのは郡衙(ぐんが=群の政庁=現代の市庁舎のような存在)を建設する際に、国府の陶磁器や須恵器を焼く釜で製造され、郡の政庁の建設の際に使用された特別な瓦の事です。
武蔵国橘樹郡の郡役所だったと推定されており、背後の宅地の丘が巨大な弟橘姫の円墳である橘樹神社や、東京都府中市に在り武蔵国の国府として機能していたと推測されている大国魂神社が有る事からも、妙香寺や弘明寺は神社の旧跡に日本神話を大切にする空海和尚が御寺を建てたと考え復興したと自然に推測出来たりします。
これ等の場所が古代の海岸線の港や湧水地である事も、有賀神社や延喜式内社の歴史を辿る事で輪郭が見えてくる明治時代以前の人達の信仰の形だったりする訳ですね。
妙香寺はカテゴリ「御寺」に解説が在りますので興味が有れば読んで見て下さい。
●妙香寺の記事

●湧水地の記事


この有鹿神社の御利益と関わった人物ですが、天智天皇の治世、天平勝宝年間=孝謙天皇の治世、貞観年間=清和天皇の治世にそれぞれ中央との関わりの有る祭事や神社の格上げが確認出来ており、師岡熊野神社や比々多神社同様に朝廷からの支援が有りました。
御利益は、有鹿比女(あるかひめ)様が水の女神さまであり縄文~弥生の開拓地である事から灌漑水田農業振興の神様として農耕の豊穣の御利益、そして本宮の有鹿比古(あるかひこ)様と夫婦神様なので日本武尊と弟橘姫様みたいな縁結びと家内安全が期待できますね!

さて、有鹿神社奥宮の聖地と遺跡の解説はここまで!
次回は、鎌倉時代に移転した海老名市側の本宮の解説をします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!

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