歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:港南区

今年の蛍の見頃は6月以降かも知れません。

或(ある)いは今年は少ないままの可能性もあり得ます。
現地を今年も昨日25日の20時頃に訪問して来ましたが東急建設が開発の後で“蛍を人口育成して移設する計画”の為に捕獲してるとの事で、天然の蛍は捕獲されて減っているのではとの事です。

昨日05月25日の夜20時位には6匹しか確認出来ませんでした。
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対して一昨年の様子⤵️
YouTubeの平野タカアキさんの動画ですが、例年ですとこの様に蛍がまとまって飛んでいる様子を観察出来る所が数ヵ所あります。
栄高校から降りて来て右手側の瀬上沢沿いの林とか、瀬上池側に向かう民家周辺の用水路化してる部分、それと鉄塔付近、更にもう少し奥に行った辺りに良く蛍がいます。
今年は5月25日時点では1箇所で2匹見れたら良いと言うくらいに減っています。
先日大雨も有ったのですが今年の気候の問題かは謎です。

異常に“今年だけ”“今の時期に”個体数が現時点では少ないです。大雨の後でも雨上がりに蛍は良く飛ぶんですよね。
毎年もう20年くらい見に来ていると言う御高齢の御夫人のグループも「今年は少ない」とおっしゃってましたので、地元の方々のおっしゃる通り蛍の養殖の為の捕獲しか理由が見当たらないのが現状です。

まだ市から建設計画未承認なのですが開発ありきで天然の蛍の捕獲と成育を開始してるんでしょうか、説明会でも写真で捕獲した蛍を飼育してる様子を解説してました。
天候要因であれば例年どおり増えていくし、東急建設の捕獲人口育成計画が原因なら今年は少ないままでしょう。
後から東急建設サンが放流しましたと発表する様な事が有るなら、それはやはり瀬上沢破壊後に作る人口川に放流する人口蛍育成の為の捕獲が原因と言う事かも知れません。

それと自然環境保全しているとの事でしたが・・・
Screenshot_20190526-183147~2
・・・上郷深田遺跡側の森の遊歩道は荒れ放題でした。
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途中で立ち入り禁止のロープや金網でもバリケードも貼られていました。
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しかし、こちらに関しては東日本最大のタタラ遺跡の上郷深田遺跡ごと掘削したり深田遺跡の森の広がる谷ごと埋め立て跡形も残らない計画な為(ため)に、まだ未認可なから「保全しても意味がない」と切り捨てられているのかも知れません。
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計画ではこの写真の深田の谷の森が全て盛土で埋立られ丘は掘削されます。
左の方に今回の部分的な再調査で東日本最大と成った蹈鞴(タタラ)遺跡の上郷深田遺跡の尾根が有りますが、そこは蹈鞴製鉄の炉の遺跡ごと10m掘削され消滅するのが現段階での計画に成っています。
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この先が行き止まりにされてしまっており雑草が生い茂ってるので今ではハイキング客も少なくなってしまい、手入れはされていません。
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これより先は立ち入り禁止ですので皆さんも入らない様に気を付けて下さい。
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赤いタグが付いてる辺りが深田遺跡側の道の立ち入り禁止のロープで行き止まりの場所です。
不法投棄された車も放置されたままで人目につく瀬上沢手前側とは保全状況に随分差が有る様です。
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まだ未認可なので深田遺跡側も歩ける様に保全して頂いたり、不法投棄も主が解るなら通報しても良いかも知れませんが、まぁ東急建設さんに土地を売却した地権者が長年放置して来たので不法投棄車両の撤去等を迫るのは酷かも知れませんね。
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湧き清水が道路を跨いで流れていますが、深田遺跡側の谷底は元々湿地です。
こちら側では瀬上沢基金の方によると平家蛍が見られるそうです。瀬上沢の方は両方見れました。
東急建設の姿勢を評価出来る点も有りました。
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今回、横浜国大が保護していた江戸時代の農業用水トンネル史跡側の蛍生息地まで、東急建設の蛍の生息域の調査が拡大された様です。
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この白幡サンと言う方が御担当として実行されている様です。
強引に押し切らず慎重に評価されるのでしょうか?
しかし今年の蛍の確認出来る個体数の激減は地元の人達が話していた通りに説明会の❝蛍の採取❞の為だとしたら天然ホタルを減少させて人工繁殖させた蛍を増やしても意味が無いと思います。
大切なのは自然に蛍が生育する環境を残す事で、ここで開発事業を行うのは東急さんにとっても円海山の上郷一帯の森林を最大時の21%まで減少させる上に、東日本最大の蹈鞴遺跡の上郷深田遺跡と深田遺跡側の谷底の森林、そして瀬上沢一帯の森と水源の自然の川を部分的に調整池として掘削して無くし横に人口の川を作る計画は東急サンにも社会的な評価として旨くない話ですし、横浜市民のみならず日本人にとって損失だと思います。
深田遺跡1期2期発掘調査遺跡分布
御覧の通り30年前の遺跡発見地域から今回の部分的再調査だけで既に東日本最大の蹈鞴遺跡である事が発覚していますが、これも上郷深田遺跡を守る会の方が開発計画説明会の際にも指摘されていた所です。
深田遺跡再調査部分報告1
深田遺跡再調査部分報告2
舞岡上郷線の建設前の調査で上郷深田遺跡が発見されてから30年が経ち、周辺の住宅状況は空家だらけに成った上に自民党の政策でも史跡文化財保護強化と盛土による開発の抑制が推進されていますので、東急建設と横浜市民は政府から助成金を得て国の推進するIR事業の布石として東急グループがミナト未来21地区で実績のある寂(さび)れた港湾の商業地としての再開発経験を活かして新山下埠頭~本牧ふ頭の稼働率の低い突堤を代替地として、今回の開発計画地と等価値交換して頂くのが良いのではないでしょうか?
自然と史跡の保護の為なら支持は強いんじゃないでしょうか。

さて、諸先輩方に聞かされた過去の瀬上沢と深田遺跡の保護活動の話しから・・・
「瀬上沢の保護活動で❝外の人❞達のの力も借りないとダメかな~」
・・・と思い、色んな“外の人”達にも会いにいったり6月中旬まで休日も予定を埋めてあります。
私でも自分が取得しようとしてる資格の学習も秋まであるので並行して行っていたり、余りブログを更新できないと思います。
Twitterも休憩中に今迄の様に鬼のように返信しながらと言う訳にもいかなくなります。

6月中旬過ぎに一段落が片付くので、その頃には余裕が出てブログ更新します。
次は普通に歴史解説の記事を書きます。
暫くお待ちあれ~

次回の記事は質問を受けたので❝市内で北条政子サンに関係する場所❞の解説を書きたいなと思ってます。
それと、東急建設の現在の建設計画では上郷深田遺跡と瀬上沢西側の蛍生息地が削り取られたり埋められ消滅してしまう事や深田遺跡側の谷の森が埋め立てられる事が視覚的に解る地形図や配布された資料を用いた解説も書きたいと思います。

東急建設も損をしないように色々と市民から提案せる準備する事も大切だと思います。

6月にブログを少し更新したら又、07月10日前も少し忙しくなると思います。

また、これからも皆さんと歴史旅の情報を共有出来たら良いなと思います。

では!
東急建設さん、開発反対地権者も開発賛成地権者も、開発計画に関わられている政治家の方も、仲裁しようと過去に動かれた政治家の方も、開発反対の政治家の方も、開発反対の横浜市民と応援して下さる日本中の自然と蛍と刀剣文化のファンも、皆が幸せに成る為に国の力を借りて代替地案が成功して横浜市に日本中に自慢できる蹈鞴遺跡が史跡指定され、都会に残された蛍の広域生息地が自然保護公園化し、開発賛成派の方々も土地を東急様に売却して結果的に史跡と自然を守った奇特な方々として史跡博物館の運営者に加わる等何某かの利益が善玉として付与され、市役所も国も自然と史跡の保護と港湾再開発を両立させた功績が後々の余まで語り継がれて、上郷開発事務所の方々も真に世に誇れる業績を残され子々孫々まで語り継がれたら良いなと心から願います。
環状四号線の渋滞解決の為に高架化車線の建設なども推進して頂ければ、栄区の過疎化と高齢化の進む桂台や人口が伸び悩む本郷台方面の復活も目指せるので、鉄道高架化で実績のある東急サンには高架道路の建設で環状四号線渋滞問題と空家解消も上郷の自然保護の代替地案として最適の港湾再開発とセットで発注されれば間違い無いと思うのですが・・・

徐々に暑く成ってきましたが皆さん体調を崩されません様に。
皆で幸せになれます様に。

小生の住まう場所は横浜市最大最後の蛍の大生息地である円海山の長い坂を下った辺りでして、そこから良くピカソと言う港南区港南台のドン・キホーテ系列の店に買物に行くのですが、その隣に韓国料理屋が在(あ)ります。
経済産業省から何とかって賞(笑)を頂いてる店で焼肉を押している店ですが、韓国の家庭料理がとても美味しいんです。
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羅生門
小生は今でこそ韓国人の中の反日思想を敵対的に観察していますが、本来は韓国料理や韓国文化はソレはソレ、コレはコレと分けて考えていて好きです。昔は韓国人の友達も沢山いました。
今では疎遠ですが。
韓国料理は今でも好きなんですよ~。
それで、ピカソに買物に行くとたまに羅生門で‟焼肉じゃなく(笑)”て韓国料理を食べます。
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羅生門は新しい店ではありませんが店内もとても綺麗で、でも家庭的な雰囲気も有ってとても好きなんです。
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まぁ~一般的な日本人の韓国料理に対するイメージって焼肉なので、ここも焼肉のコンロがあり焼肉屋としても横浜市南部では名店として名が通っています。
最近食べた物ですが・・・
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テグタンのクッパ
テグタンってのは大邱(テグ)と言う都市の郷土料理で、牛骨と牛肉を煮込んで出汁をとった見た目と違って優しい味のスープでして、クッパなので、それに御飯が投入されています。
これで830円。女性なら1杯食べれば御腹いっぱいに有ると思います。小生は晩御飯がわりに食べました。
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冷麺
サッパリしてて茹で卵やキムチや煮豚も入ってますから夏バテ対策にも良くランチに持って来いですね。羅生門の面は白いので蕎麦粉が入ってないタイプらしい。
これも850円なので拉麺と同じ位の値段でランチでも夕食でも良いですね。夏に拉麺食べる元気無ければ冷麺食べるか気温でチョイスすれば食欲無くても食べられる。
そして小生が略(ほぼ)毎回注文するのがモツ煮込み。
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赤々として辛そうですが旨味が先行し優しい味です。
日本人が想像する普通の日本風焼肉屋のモツ煮込みとは味が違って韓国料理のモツ煮は臭みが無くてとっても美味しいんですよ。
あと、御酒飲まない人には飲んで欲しいソフトドリンクがあります。
写真撮影忘れましたがwirukinnsonnのジンジャエール、市販の瓶の飲料ですが良く見るジンジャーエールよりも生姜が強くてとても美味しいです。余り置いてる店が無いので羅生門に行く機会が有れば是非試して下さい。

さて小生の個人的な韓国料理の思い出を少し・・・
テグタン、小生の特に好きな料理です。小生の留学仲間に大邱大学の連中が何人かいてとても仲良くしてくれたので知った懐かしい料理です。中国にも在中韓国人が多くて中国の日本料理屋みたいに中国人がやってる訳じゃなくて韓国人の開いた韓国料理屋が沢山有って良く食べました。
小生は仕事で中国に行ったり生活経験も有るのですが、中国って夏は気温40℃位の日が多くて油っこい中華料理を毎日食べる気力が無くなるんですよね~。
そうすると日本人が夏バテで食欲減退して最初に食べるのがパンなんですが、最近まで中国って美味しいパンの店がすくなかったんですよ。
それで中国で夏バテ中に次に日本人は昼はインスタント味噌汁とか飲み始めたり、和食料理店に行くのですが味噌汁だけじゃ栄養無いし、和食料理も安くない訳です。
そして最後に頼るのが韓国料理で、サッパリした冷麺とチャプチェとかの家庭料理は夏バテしてても食べられて体力を補給するのに重宝しました。
留学当時は韓国政府と韓国人政治家が竹島問題を起こす前で政治的にも日韓関係も悪くはなく、韓国キリスト教系のカルトが日本の神社仏閣で油を撒(ま)いたり石仏破壊するテロを始める前だったので小生も韓国人に対して政治的な問題を認識しておらず良い印象が先行していて在中国韓国人の友人が沢山いたりしましたしね。
日本でも、良く当時の彼女(日本人だよ)さんと一緒に妹夫妻が結婚する前にWデートしに新大久保に韓国料理を食べに行ったりしてましたから。

まぁ~政治的な理由で疎遠に成るのは仕方ないと思うんです、双方曲げられない事が有りますからね。向こうには立場、こちらには事実が有りますからね。
そんでも相手が友人でも政治的な議論や歴史的な議論に成ったらバチバチやり合えばイイと思うんです。個人的な利益や居心地の良さの為に日本人として間違った歴史認識や日本国民の利益を損なう事を相手に譲歩したり御機嫌取りで行ってしまっては、益々韓国人に対して間違った事を既成事実化させてしまい、更に日本人や韓国人全体で見た時に不仲に成る種を撒き散らす事に成りますからね。

韓国の人ってね仲良く成ると親切ですし、大半は紳士なんですよ凄くね。でも儒教国でママにチヤホヤされて育った我儘男の比率が諸外国より多いからか乱暴な奴や韓国の価値観を外国に居るのに他国留学生に押し付ける強烈な困ったチャンな奴が多くて、紳士と横暴2タイプの人種の落差が極端でしたね。
紳士で本当に物腰柔らかいリアルなヨン様か、反対に自分勝手でガキな俺様しかいなかった。
それと韓国人留学生は酒飲むと暴れる奴とか常に団体で行動して悪事も庇い合うのは問題でした。反面、仲が良いと集団で親切にしてくれる。
良く韓国人の留学生が日本人留学生とモメると韓国人留学生の先輩や卒業生が、某留学先大学で日本人留学生協会を立ち上げた小生に謝りに来て交渉したり(交渉てのはウヤムヤにしてくれって事)、それは韓国人と文化の違いですかね~裏で面子立ててくれって話しつけたがる。
まぁ色々有ったけど政治や歴史を除外すれば親切で気持ちの良い奴等ばかりでした。
でも社会人に成って直ぐ頃から日韓の外交対立と偽商標登録等の政治的な問題が大きく成って、彼等とSkypeやMSN messengerで討論に成り彼等は開き直って自己主張ばかりしたので小生は日本人として彼等の知らない歴史を話し抗弁し、韓国の問題も指摘したら疎遠に成りました。
まぁ~その辺の小生の知る韓国人に対して感じた文化の違いや、韓国政府が韓国人に教えない歴史や日本人も知らない伊藤博文公が韓国王室を守り日本国内の韓国王室廃止派から韓国の皇子を守っていた歴史なんかも以前紹介しているので御興味有る人は以下のリンクから過去記事を御覧下さい。
タイトルをクリックすると各記事にリンクします⤵
伊藤博文公の金沢別宅で夏の終わりの夕涼み。…横浜市金沢区野島。
最近の在日外国人差別について物申す。差別じゃなくて「区別せよ」と。
  保守なら天皇家の歴史観を否定するなよ。

円海山で蛍が観察出来る季節です。
  横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。

そして思うんです・・・
韓国料理‟も”超ウマいよ~!
・・・てね、ソレはソレ、コレはコレ。御互いの違いを理解した上での付き合い方ってのも有る訳です。

2018年06月01日金曜日、小生は休み。
午前中は某外国語学校、そして日本のアウトレット先駈けとして一時代を築いた❝横浜ベイサイドマリーナアウトレット❞が本年09月をもって一時営業終了し、09月02日~2年間かけて3F建ての新施設建造リニューアル工事するとの事。小生行きつけの店から閉店セールの通知が来ていたので行って見る事にした。
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❝恋雨❞のロケ地でもある杉田から横浜シーサイドラインに乗車してベイサイドマリーナにて買物した後に、恋雨の聖地巡りをする計画で行動。
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久しく乗車していなかったが、このシーサイドライン沿線もドラマやアニメのロケ地に良く成っている。
釣りバカ日誌や、最近じゃ不倫ドラマ❝昼顔❞なんかも度々このシーサイドライン沿線でロケしている。
ベイサイドマリーナのアウトレットは❝鳥浜駅❞で下車。
ダイエットも結果を出してアスリート体型に成れたので一段落、祝杯代わりにソフトクリームとアイスコーヒーを堪能した(笑)。
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ところで、ベイサイドマリーナのアウトレットの閉店セール、本当に安かった!
凄い物は50%OFF!更にそこから4点買えば20%値引きの更に三井アウトレットパークのクレジットカードで支払いして5%割引で、何と小生は服をチノパン1着とシャツ3着の合計4着購入、定価で2万円強の価格の品が1万円チョイで購入する事が出来た。

さて、買い物が終わると❝恋雨聖地巡り❞の一箇所でもあり交通の要所として聖地巡り基点として適した杉田に戻った。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
この日は❝恋は雨上がりのように❞のロケ地で歴史ブログ書くために散々横浜市内の住宅街も走り回って自分の見知っている場所を写真に撮影したかった事も有り、ロケ地の一つである屛風ヶ浦~杉田商店街の間の住宅街等は車を停めれないので公共交通機関と徒歩を駆使して移動する事にしていたからね。
まぁ、主人公の❝あきら❞サンも電車とバスで風見沢高校まで通学してる設定だしね~。

杉田からはロケ地の港南台円海山へ行くのにJR新杉田駅から港南台駅にも出られるし、杉田駅近くのロケ地を見た後でバスで舞台の氷取沢高校方面やロケ地の能見台~氷取沢地区にも行ける。
無論、今回は廻らなかったがロケ地である京急能見台駅やJR桜木町駅前のジョナサンにもアクセスしやすい。

今回小生が訪問したロケ地は以下の通りで、その最寄り駅は下のGoogleearth画像に表示した場所だ。
恋は雨上がりのように ロケ地最寄り駅 久良岐のよし
だいたいの場所を知っていて訪問し詳細特定したロケ地は以下の通り。
●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点
・・・最寄り駅=1,JR新杉田駅or京急杉田駅、2,能見台駅
1,杉田駅or新杉田駅~横浜市営バス杉田小学校前(バス停)~下ヶ谷(バス停)~徒歩8分
2,能見台駅~京急バス能見台駅(バス停)~能見台1丁目(バス停)~徒歩2分

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁
・・・最寄り駅=同上

●京急線のアンダーパス
・・・最寄り駅=JR新杉田駅~徒歩8分、京急杉田駅~徒歩4分

●町を見下ろす風景の長い下り坂
・・・最寄り駅=JR港南台駅
1,JR港南台駅~市営バス港南台駅(バス停)~港南環境センター前(バス停)~徒歩8分
2,JR港南台駅~徒歩20分


では映画の予告動画の画像と、実際に小生が現地で撮影して来た写真で比較しつつ周辺情報も交えて紹介したいと思う。

●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点・・氷取沢高校近くの能見台グラウンド前
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
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住所クリック⤵でGoogleMapにリンクします!
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台1丁目
ここ等辺りは円海山の麓(ふもと)に住む小生にとっては庭みたいな場所なので団地の映像を見て直ぐに解った。近くには日本100名城の一つ八王子城を縄張(なわばり=設計)した間宮綱信公の居館である氷取沢陣屋と横浜市が保護せずマンション建設で破壊された陣屋址に在った氷取沢間宮家の土地神様の氷取沢神社や間宮綱信公の菩提寺の宝勝寺も存在する。参拝すれば知恵者であり北条家外交官として織田信長公に厚遇された間宮綱信公の外交的なセンスと知力の御利益に預かれるかもしれない(笑)。
それと、横浜家系ラーメンの創始者である総本山吉村家の吉村社長の愛弟子の中で杉田家の津村サンと1、2を争う実力者として有名な鶴巻サンの店の王道之印も近くに存在する。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
→王道之印(横浜家系ラーメン創始者吉村社長の有名な弟子、鶴巻氏の店)
→氷取沢神社(八王子城縄張り、北条家外交官として織田信長公との外交で活躍した間宮綱信公の土地神様)
→宝勝寺(間宮綱信公の菩提寺で、室町幕府鎌倉府の最後の鎌倉公方である足利成氏公所縁の寺)

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁・・・能見台グラウンド横のメガロン能見台擁壁
恋は雨上がりのように 予告 タイトル
DSC_0852
GoogleMapにリンク⤵
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台2丁目
最初、氷取沢高校の横のバス停前かと思ったが、現地に行って見て改めて地形を観察するとバス停付近の擁壁道路には実際は歩道が有り又、ブロック擁壁の下には画像と違って路肩が無かったので直ぐにバス停の傍がロケ地ではない事が判った。
・・・これも城跡を多く見て地形観察する眼力が向上した賜物か(笑)。
それで「あ~団地の周りだコレ」と解った・・・
更に映像をスマホで見て観察すると、コンクリート擁壁の排水管から❝コンクリートの石灰質が溶解して出来た白い染み❞の存在に気が付いた。それでピンと来たのだが、先に紹介した❝ドリフトT字路(笑)❞の能見台グラウンド隣のメガロン能見台と言う集合住宅の台地の擁壁コンクリートに雨水で出来た石灰質の染みが有るのでドンピシャで当該地形を特定出来た。

●京急線のアンダーパス(熊野神社泉蔵院参道)・・・京急杉田駅北側、杉田小学校西側のアンダーパス
恋は雨上がりのように 杉田ロケ地 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒235-0036 神奈川県横浜市磯子区中原4丁目2
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ここは地元、磯子区杉田のゆるキャラのウメニ―に特定して貰った(笑)。
地形的に屛風ヶ浦~杉田の間だとは推察していたのだがハッキリ解らなかったのでウメニーに憑依している人(笑)に聞いた所、ウメニ―は小生のスクショ見て瞬殺で特定してくれた。
源頼朝公が鎌倉市山崎に昔は存在した修験道の聖地、山崎泉蔵院の高僧に命じて開かせた泉蔵院熊野神社の参道の石碑が目印。
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杉田駅側から屛風ヶ浦駅側に向かって歩くと熊野神社参道の石碑が在る徒歩3分位の位置。
杉田は徳川家康公の参謀で江戸幕府初代鷹匠頭を務めた間宮信繁公の旧領で、関ヶ原の戦いで徳川軍を勝利させた名軍師。特殊部隊である鷹匠鉄砲部隊50人で毛利家の本陣南宮山を偵察し徳川本隊3万を前進させ小早川勢寝返りを誘引させる事に成功させた人物。そして戦国時代~昭和初期まで高級梅として有名だった幻の杉田梅の杉田梅林を植林させた人物でもある。杉田梅林は明治に成っても皇族が度々訪れる観光名所として有名だったが皇族の聖跡の杉田梅林も横浜市役所が戦後保護を怠り開発許可を出し消滅させた。杉田梅は現在では小田原市曽我梅林に植林された物が現存する。杉田商店街に在る❝菓子一❞と言う和菓子屋で、杉田梅林文化を受け継いだ梅の和菓子を現在も販売していたりするので御土産に御薦め!泉蔵院は源頼朝公や北条家最強の黄備え隊大将北条綱成公の副将だった間宮家の信仰を集めた神社なので必勝祈願の御利益も期待できる。近くには日本武尊伝説の聖地が弘法大師によって仏教化され戦国時代に間宮信繁公等杉田間宮家の菩提寺に成った牛頭山妙法寺も在る。又、臨済宗関東十刹の一つで大きな釈迦堂が現存する東漸寺も存在する。何(いず)れを御参りしても知恵と勝利の御利益が期待出来る。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
泉蔵院熊野神社(源頼朝公が開き間宮家が支援した勝負と治水の神様のパワースポット)
菓子一(昭和初期までの横浜名物杉田梅の文化を継いだ和菓子店)
東漸寺(鎌倉幕府名越北条家が再興し、戦国時代に間宮家が支援した臨済宗の名古刹)
妙法寺(日本武尊神話の舞台の一つで、徳川家康公の参謀の間宮信繁公の菩提寺)
杉田家(新杉田駅近くの横浜家系ラーメン発祥地で吉村家旧店舗前に在る吉村社長の秘蔵っ子、津村サンの店)
ついでにウメニ―は杉田小学校の生徒が生み出したキャラクターなので、出来れば皆で子供を育て可愛がる様に❝恋あめファン❞にもTwitterフォローして頂けると旧久良岐郡民の小生としても嬉しい。
ウメニ―のTwitter→https://twitter.com/umeny_sugita

●町を見下ろす風景の長い下り坂・・・円海山山頂下の坂道
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒234‐0054 神奈川県横浜市港南区港南台8丁目
実は横浜市で標高最高地の円海山でロケされている。ここに至る目標としてはGoogleMapで❝円海山❞とさえキーワード入力すれば誰でも来られる場所。バスに乗らなくても歩いて来る事も出来る。
横浜市では貴重な鎌倉市まで繋がる大森林が現存し自然公園として歴代横浜市長に守られて来たので、円海山山麓の瀬上沢は現在でも蛍の大生息地として有名。又、一年を通じて晴天の日には夕焼けに染まる富士山やダイヤモンド富士、そして横浜市最高所からの夜景の名所として横浜市民に愛されている。
しかし近年、東急グループが土地を買収し自然破壊と蛍生息地が壊滅する宅地開発を計画し林文子市長も歴代市長の自然と円海山の保護政策を否定する東急グループ擁護発言を行い、林文子市長と東急グループにより現在の映画ロケ地や横浜市最後の蛍群生地と自然は破壊の危機に神している。
円海山山頂へ続く長い坂のロケ地位置GoogleMapリンク
円海山の蛍の大生息地瀬上沢と富士山と夜景の絶景スポット写真紹介記事リンク

因(ちな)みにTwitterで小生が暴露した❝恋あめ❞の舞台❝風見沢❞の架空地名由来、反響が大きかったので少し紹介したいと思う・・・
風見沢は実は小生のハンドルネームの❝久良岐のよし❞の元ネタである横浜市南部の旧行政区分:久良岐郡に存在した地名に由来している。
風見沢、この仮の地名は実名しないが、由来に成った場所は舞台と整合しハッキリしている・・・
風・・・屛❝風❞浦(びょうぶがうら)
見・・・能❝見❞台(のうけんだい)
沢・・・氷取❝沢❞(ひとりざわ)
・・・この上記の町名や江戸時代までの旧地名から駅名やバス停の地名として残る場所をくっつけてつくられている。そして、これらの舞台は横浜らしい坂の多い旧久良岐郡地域の丘の上に面した場所なのでロケ地にも坂道が多く登場する訳だ。
現在、❝屛風ヶ浦❞と言う明治まで別荘地として繁栄した風光明媚な断崖絶壁の海岸が横浜市中区~横須賀市域まで10km近く長く続く地形に由来した住所は、他地域からの移住者役人だらけのアホの横浜市役所と旧郵政省によって消滅させられ存在しない。埋立地にして景勝地を消滅させてしまった事を隠蔽する為か屛風ヶ浦の地名ごと消し去られたが、それに歯向かう様に郷土横浜の景勝地だった文化を引き継ぐハマっ子達と京浜急行電鉄は駅名や店舗の支店名として今でも屛風浦駅近辺に旧景勝地の誇りを引き継いでいたりする。
恋は雨上がりのように ロケ地周辺地形 久良岐のよし
御覧の通り、舞台の中心である能見台~杉田~本牧半島にかけて現在でも旧海岸線は断崖絶壁の海蝕岸壁丘陵が続く。もっとも、海蝕岸壁とは言われるが当該地は応長の大津波の伝承や三浦半島の西側が隆起し東側が沈下するプレートの境界線である事からも、この崖は巨大な断層と考えた方が自然だろう。
能見台は江戸時代迄は東青野台と富岡と呼ばれた地域を宅地開発した際に新設された地所名で、丘の上に閑静な住宅地が広がる。元々は兼好法師こと徒然草の筆者で真言宗の僧侶だった吉田兼好が愛して住した金沢八景の景勝の由来に成った地域を一望できる能見堂と言う禅宗曹洞派の仏教草庵の寺院名が由来と成っている。
氷取沢は地名由来に諸説有る。一説には鎌倉幕府の将軍や執権北条家、その後の室町幕府鎌倉府の鎌倉公方に献上する氷室(ひむろ=氷の貯蔵庫)や氷その物を採取する沢が有ったからとも言われているが、小生の様な歴史オタクや郷土史家の多くの意見としては氷取沢地名の由来は、そもそも❝氷❞取沢は❝火❞取沢と書き製鉄の盛んだった場所で戦国時代にも鍛冶師が住した地域なので蹈鞴(たたら)製鉄の溶鉱炉の灯りが夜も明々(あかあか)としている火の燃える様子に由来すると言う説も可能性として指摘する所でもある。
そんな地域で奈良時代には先進的な地域で鎌倉時代には武家最高の教養を備えた金澤北条家と名越北条家の根拠地だったのだが、鎌倉幕府を攻撃した新田義貞の乱暴狼藉で周辺地域は多くの神社仏閣や村々は略奪の被害に遭い焼き討ちされ室町時代に一時期荒廃した歴史も有る。
戦国時代には江戸時代の杉田玄白や間宮林蔵や間宮士信等凄まじい学者達の祖先であり、北条家五色備え黄備え隊の軍師副将として活躍した間宮康俊公や徳川家康公の参謀として活躍した間宮信繁公や間宮直元公、東京都の浅草寺の僧正を輩出した伊丹家の根拠地だった場所でもある。
主人公の❝あきら❞サンが通い、恐らく原作者の❝眉月じゅん❞先生が愛した屛風ヶ浦~杉田~富岡~能見台~円海山は、戦後の横浜市役所が景勝地の自然を破壊するまでの昭和初期までは鎌倉以来の武士団の文化教養として源頼朝公や金沢北条実時公や北条早雲公や太田道灌公や徳川家康公にも大切にされ観光地として有名だった場所なんだな。
そこで作者の眉月先生も人生の一時期を主人公あきらサンみたいに過したんですね~。

さて、余り歴史に興味が無いかも知れない❝恋あめ❞ファンもいるかも知れませんが、舞台の町、そして架空の人物だけど主人公あきらサンや店長が働く能見台の町、ロケ地となった横浜市金沢区~磯子区~港南区~中区一帯の事、少しは興味持って貰えたでしょうか?
少しだけ紹介しましたが、このロケ地周辺には歴史偉人が大切にした御利益の有るパワースポットの神社仏閣御や蛍が大量に見れる横浜市最後の自然の聖地や、戦国時代以来の横浜の梅文化に根付いた美味しい和菓子屋さんや横浜家系の発祥地杉田駅周辺には家系総本山吉村家の吉村社長直弟子のラーメン屋サンも有ります。
皆さんが恋アメ聖地巡りの際の食事や観光や土産の参考に成れば幸いと思い、記事にしました。

では、皆さんにとって、この映画とロケ地巡りが良い人生の糧に成ります様に願います♪

・・・次に書く記事ではガッチガチの歴史解説か鎌倉の秘密のパワースポットの紹介をすると思います。


恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
公式ホームページURL→http://koiame-movie.com/#/boards/koiame
主題歌「フロントメモリー」MPV→YouTube公開動画


2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
杉田~富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくす・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ沢山の蛍の見れる季節に成る貴重な横浜最後の自然が残る金沢区~栄区~磯子区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
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富士山の赤富士とダイヤモンド富士の景勝を見られるポイントとしても夕日の撮影が趣味の人達には広く知られています。
恐らく知らないのは❝築地育ち❞の林文子市長くらい。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
Google map→リンク
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守って来た❞貴重な自然を子供達の為、日本文化と自然保護の為に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 
〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299

本当は今日はコッチ
       ↓
【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)
 ↑ 
コレの続きの記事を書かなきゃいけなかったんだけど、1月2日と同じSuper moonでの皆既月食が見れたので、そっちの事を少し書こうかなと。

2018年01月31日、この日はSuper Moonの皆既月食・・・
横浜市の最高峰の円海山へと登り月食の様子を撮影に夜9時半頃からずっと観察してた。
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スーパームーンの皆既月食を観察する為に夜ジムに行かずに、横浜市最高峰の円海山の中腹の在る所に・・・そこは円海山の木々が少し開けた場所で星空が良く見える。
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そこで寝そべりデジカメを両手でシッカリホールドして皆既月食を撮影してた・・・
「クッソ寒い(笑)」
・・・でも夜の冷気と古代人が大切にした円海山の清々しい空気で最近クサクサした心が少し晴れた。
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2万円の安いデジカメを持参、望遠レンズも無し三脚も無し、別に天体観察オタクでも無いので歴史オタクの小生はこのクオリティーで満足。
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思った以上に綺麗に撮影で来たかな?
でも手振れが激しく(笑)月が分身した写真が何枚も撮れてしまった(笑)!
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まぁ、これはこれで面白い(笑)!
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誰もいない夜の山の広場に寝転んで星空を見上げて見る満月はとても神秘的だった。
きっと古代人は月読(つくよみ)の神様の命(みこと)を拝んで皆既月食を観察して閏年の調整を行ったのだろう。
天体観測を通じて何だか古代人と繋がった様な気分に成れ嬉しかった。
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この❝円海山の瀬上沢”は❝横浜市最大最後の蛍の群生地❞として有名ですが、アホの東急不動産と横浜の林文子市長が開発しようとして横浜市民の保護活動と交戦状態の最前線に成っている場所で、古代人の聖地と鑪(たたら)製鉄遺跡と灌漑水田史跡、更には鎌倉武士達が有事に使っていた高速道路鎌倉早駆けの道の間道も幾本も林道として残るのですが、林文子市長に成ってから林道保持が怠られた状態に成っていたりもします。
現地には日本神話最古の知恵の神様の思金神を祀る思金神社や、浄土宗総本山の知恩院住職となった任蓮社然譽了鑑大和尚を輩出した❝峯の阿弥陀寺❞も現存しています。
以前書いた記事が有るので、御興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして読んで見て下さいね!
●円海山と瀬上池の沢…蛍が見れる横浜南部の最後の大森林。
●円海山の蛍が観察出来る季節です。・・・過去記事の転載も。
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道①…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道②…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●思金神社…古代人の遺跡の有る横浜市内1番の自然のパワースポットの円海山に在る神社。
●神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町


あ、それと梅の季節ももう直ぐなのでそれのリンクも貼ります・・・
●神奈川県内の梅花鑑賞に適した梅林一覧。
※イベント日付が以前のままなので、詳細は御自分で記事に掲載されている電話番号までお問い合わせくださいね♪

次の❝【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥❞はSuper moonの夜の日に訪問した、仁徳天皇=大鷦鷯尊大王の弟皇子で莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が埋葬されていたのに神奈川県教育委員会が保護せず破壊された真土大塚古墳と莵道稚郎子命が御祭神の延喜式内社である前鳥神社、そして古墳時代初期の神事を行う神奈川県の寒川大社の追儺神事つまり神社文化成立以前の古代から続く神事の事を書きます。この神事は上賀茂神社や寒川大社などの一部だけで中国渡来の陰陽道や仏教の文化の影響を受けず、そして明治基督教徒の政治家による宗教改革でプロテスタント化した国家神道の影響を受けずに続く貴重な❝日本古来の進行の原型を残す神事❞だったりします。

・・・では!次の記事で又皆さんに報告したいと思います~♪

梅花山南無佛院成就坊と言う横浜市港南区に存在する御寺を御存知でしょうか?
きっと地図を見ても、ネット検索してもヒットする事はないはずです。
この御寺、現在は院号と寺号が簡略化され梅花山成就院とされているからです。
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実はここ、戦国時代には北条家臣として武勇と築城と鷹の飼育で名を馳せた間宮家の居城だった笹下城の本丸だった地形の真下に存在する御寺なんです。
そして現在では成就院とされていますが、本来の梅花山南無佛院成就“坊”の方が浄土真宗の宗主であり戦国時代には軍閥化していた一向宗門徒の総帥に当たる本願寺家当主から直々に名乗りを与えられた由緒正しい名前なんです。
さて、御寺なのに“成就坊”って何?・・・って思う人が歴史に興味の無い人には多いですよね?
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写真は笹下城の本丸跡。成就院の直ぐ裏手の地形ですが、本丸の右側切岸と大空堀地形は三井不動産レジデンシャルによって宅地造成され2017年に完全消滅しています。
さて、本来は江戸時代までは成就院は成就坊と呼ばれた浄土真宗高田派の御坊だった御寺です。
御坊とは浄土真宗の寺院や道場を指した総称の事です。
現代でも僧侶を“お坊様”と呼ぶのは、この御坊や、昔は浄土真宗以外でも大寺院の回りには支院の塔頭寺院が“○○院”や“○○坊”と呼ばれた場所が多く在ったので、今でも僧侶の俗称として“御坊さん”を用いますよね?
そんな浄土真宗の御坊の一つだった成就院は間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院なんです。
では何で、成就院は御城の一部に取り込まれる険阻な防御力の高い地形に存在していたのでしょうか?
実は浄土真宗は戦国時代には軍閥化して守護職の大名や地方領主を攻撃し国を乗っ取り完全に坊官(ぼうかん)と呼ばれる僧籍の軍人が治める形であちこちで飛び地を持つ大名化していました。
その為に室町幕府は浄土真宗を禁教にしていた時代も有り、特に越前国・加賀国・越後国の北国街道方面と三河国・伊勢国の東海道方面での一向宗の軍事クーデターは苛烈を極めて長享二年(1488年)には守護大名の富樫政親公を敗死させ国を乗っ取る程の勢力と成りました。
・・・まぁ、こんな事やってれば当然、室町幕府に弾圧されるわな。
同じ様に三河では徳川家康公が一揆勢に苦戦し、重臣の中にも多くの一向宗門徒がいたので家臣の離反も相次ぎ参謀の本多正信公まで一揆に加担して敵対する様な事態を招いてしまいました。
この本多正信公、恐らく後に港南区笹下城址の成就院に関わりが有った筈なのですが、その話はまた後で。
さて、そんな風に軍閥化した仏教勢力の一つが浄土真宗な訳ですが、実は浄土真宗に属し江戸時代以前に成立している寺院には特に城砦化の傾向が多く見られます。
そもそも城址や要塞址に建てられているんです。
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写真は三河安城市の安祥山了雲院大乗寺と言う浄土真宗の御寺です。
・・・もう見た目からして御城ですよね(笑)?実はこの御寺、徳川家最初の本拠地だった安祥城の城址を乗っ取る形で寺院化しているんです。
まぁ大乗寺は平和に成った江戸時代の寛政四年(1792年)に開かれた御寺ですので、一向一揆とは全く関係していない御寺なのですが、浄土真宗が好んで城砦址に御寺を建てたがる具体的な例として写真を保有しているので挙げて置きます。
三河国の浄土真宗の寺院は一向一揆を盛んに煽動して軍閥化していたので、小領主達が坊官に城を差し出し要塞化した寺院として布教と交戦の場として特殊な発達の仕方をしていく事に成りました。
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・・・もうね、大乗寺に関しては完全に本丸乗っ取ってるんですね。
因(ちな)みにここは間宮家とも関係が有ります。
安祥城は同時期の関東の城郭と比較すると規模は矮小ながら周囲を水田と沼地に囲まれた堅城でした。
眼前が耕作地であり街道にも面しているので当然ながら豪族達の勢力争いの舞台と成る訳で、織田家vs松平家&今川家&北条家が壮絶な戦闘を繰り返し行った城としても有名です。
ここは小田原城主の北条家がまだ今川家臣で苗字も“伊勢”を名乗っていた頃に、北条家の伊勢盛時(北条早雲)公が今川家の総大将として永正三年(1506年)~永正五年(1508年)にかけて伊豆と小田原の伊勢家与力衆の軍勢を率いて攻めています。
実は笹下城址に建つ成就院の大旦那(おおだんな=スポンサー)だったと伝わる間宮家も北条家がまだ姓を伊勢と名乗っていて今川家臣だった時代に伊勢家の与力として参戦している事を伺わせる感状(かんじょう=表彰状)が新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の項に以下の記載が有ります・・・

舊(旧)家者百姓利兵衛
氏を内田と云(言う)、居住の地を土人(どじん=地元民)古門(ふるかど)と呼べり
~以下中略~
先祖内田對馬守(つしまのかみ)某(なにがし=名称不明)は永正五年(1508年)三月二日卒(そつ=死)す、法名淨元居士
~以下中略(※下の添付画像が感状の文面)~
内田対馬守家感状 久良岐のよし

・・・まぁ内容を砕いて現代口語に翻訳するとコンナ感じです。
  ↓
「今回はスゲぇ~活躍してくれたみたいだね。
 御大殿(今川氏親)様がメッチャ褒めてくれて俺のメンツも内外に対して立ったよ。
 (なので内田さん)親子に(御褒美として)官職をあげちゃうZぇえ~♪
 まっ、そんな感じだよ~ん。
 寅(丙寅年=永正三年=1506年)三月二十八日 ♡(←間宮信親公の花押の代り)
                             内田對馬守殿へ
         同源左衛門殿へ」
この内田対馬守家は現在も笹下城城砦群の城域の一角に住んでらっしゃいますが江戸時代までの居所とは場所が若干違うそうです。本来の古門内田対馬守家は入口が切通し状に成っていたそうで、別の間宮家旧臣の市村家の御子孫から聞いた話では笹下城と北見掃部屋敷と出城松本城と旧鎌倉街道の間道を守る位置に在り、市村家と内田家で洋光台方面からの敵の進撃を阻止し内田家と市村家の配置は虎口状に成っており侵入した敵を挟撃する位置に屋敷地が置かれているそうです。
源左衛門家も“ゲンザムさん”の屋号で近年まで存続していたそうですが、借金で逃散し競売にかけられ断絶したそうです。
実はこの古門内田家に対して発給された感状に登場する“御大途(おおおとの)”と言う表現が当時の北条家では使われていないので、この文章は偽書だと推定する学者さんがいますが、その方々は肝腎な事を忘れてらっしゃって、この時期に伊豆と相模国に勢力を持っていた元は古河公方の家臣だった間宮家は当時は今川家臣です。
そして北条家もまだ伊勢を名乗り、1506年当時は今川家臣でした。
・・・ですからこの感状の示す御大途は、当時の間宮家の寄親だった伊勢盛時(北条早雲)公を指す言葉では無く更に上の今川氏親公を指す言葉と考えた方が自然でしょう。
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そして永正七年(1510年)に現在の京急神奈川駅に在った権現山城で起きた“権現山の戦い”迄の間宮家の棟梁は間宮彦四郎信冬公か間宮彦次郎信盛公と世代的にも文書からの生存確認でも推測出来ます。
では内田對馬家に対して永正三年(1506年)に“間宮信親”の名、この現代の間宮家系図では名前が掲載されておらず誰の旧名か伝わらない名乗りを使った殿様は信冬公と信盛公のどちらか?と謎が湧いてきますが・・・
これは小生の推測では恐らく、間宮信冬公の旧名でしょう。
実は笹下城の築城された笹下村は室町時代まで“杦(杉)田郷”の一部でした。そして間宮家が川崎駅前の堀之内の城砦から今の京急杉田駅前で昔は寺家町と呼ばれた地域に本拠を移したのは永正七年(1510年)の権現山合戦で扇谷上杉家に敗北して杦田郷に逃げて来て以降の話です。
そして杦田郷を本拠にした初代は間宮信盛公で、権現山合戦以後に間宮信冬公の名前は歴史に登場しなくなるので大活躍の記録が残るものの討死した様です。
つまり、間宮信冬公が信盛公以前の間宮家の当主だった可能性が高い訳です。
そして間宮信盛公の別名も伝わっていて、間宮信頼=間宮信盛公とされています。
更に間宮信盛公と直接的に血縁上の親子では無いものの系図上で父とされるのが間宮信冬公なのですが、間宮信冬公と北条家以前の小田原城主だった大森藤頼公は義兄弟だった事も判っています。
つまり、間宮信冬公は元々は古河公方足利家の家臣で格上の同僚の大森藤頼公と仲が良かったので義理の息子か後に末期養子(まつごようし=死後に跡を継いだ人物)と成る程に目をかけていた近親の信盛公が元服する際に大森藤頼公から一字を貰い初名を間宮信“頼”と名乗らせていたと考えると自然でしょう。
そうなれば伊勢盛時(北条早雲)公の存命中の間宮家当主の間宮信親公は当然、今川氏親公の存命中の人物でも有りますし、今川家と協力関係に有った扇谷上杉家とその与力の小大名の大森家とも関係が深いのも自然な話に成る訳ですね。
つまり、間宮信親公は当時の間宮家棟梁だった間宮信冬公の初名でしょう。
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大乗寺の場所に在った安祥城を北条早雲公が今川家臣として攻めた初年度(永正三年:1506年)に、今川家臣として伊勢家に与力して従軍した間宮信親公の部下だった古門内田家の内田對馬守サンは息子の源左衛門さんと大活躍して褒められて朝廷の官職を貰った訳ですね。
まぁ、この安祥城争奪戦は永正五年(1508年)まで続き、結果的に今川家が諦めて敗北している合戦で領地も増えていなので、今川家の殿様も官位しかあげられるモノが無かったんでしょう。
さて、こうやって見て見ると、“御大途(おおおとの)”様が北条早雲公ではなく今川氏親公で間宮信親が間宮信冬公と推定出来ると小生が個人的に思っている事も何となぁ~く皆さんに伝わったでしょうか?
こんな感じで三河安城市安祥城址の大乗寺はじめ、横浜市笹下城址の成就院だけでなく多くの浄土真宗の御寺は城砦の跡に存在しています。
こんな文献に登場する事を辿れる場所が現在も笹下城の跡を訪れに港南区笹下に行くと残っています。
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内田対馬守家の御廟所と、その入口に建つ庚申塔馬頭観音様です。
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御墓は私有地なので勝手に入る事は出来ませんが、馬頭観音様の足元には江戸時代の内田家の御子孫達の御名前が彫られていますね。
そんな内田さんの家は間宮家臣で成就院は一向宗と言われた浄土真宗の御寺な訳ですが、軍閥化した仏教宗派は浄土真宗だけでは無いんですよ。
それに浄土真宗の中にも当然ながら高田派や西本願寺派の様に学僧として又は僧侶として修行と学問と布教に励むタイプの御坊さん達も多かった訳で、軍閥化したのは特定派閥の問題でした。
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※写真は西本願寺内に在る重要文化財の飛雲閣。飛雲閣は一般非公開で不定期に公開される。
だから豊臣秀吉も西本願寺を支援して自分の居城だった聚楽第の飛雲閣を寄贈したりしてる訳です。
浄土真宗の中でも例えば今回の解説で取り上げる成就院の属す高田派や、後の本願寺十一世宗主の本願寺准如上人に始まる西本願寺派等は穏健派として知られ細川政権~織田政権時の室町幕府や後の豊臣政権とも友好関係を維持し布教活動で宗教としての信頼と勢力を拡大する事に成功しています。
そして当然ながら東本願寺も(主に本多正信公の影響で)徳川家の支援を受けて江戸時代には平和でとても立派な修行を重んじる宗派に成って行った訳です。
まぁ、各時代の人の価値観を現代人の価値観で見ても何にも共感できない部分が有って当たり前なんですよ。
日馬富士の暴行を「格上だからやってよい」と肯定するモンゴル国民が多いのを、法治主義国家の日本国民が理解不能なのと同じです。

まぁ、浄土真宗だけが軍隊を持って暴れまわってた訳では有りません。
天台宗の総本山だった比叡山延暦寺も平安時代末期には軍閥化した上に度々、僧兵が京都市街で横暴を働いて困っていた様子が平安時代末期の白川天皇のこんな言葉として伝わっています・・・
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
・・・この山法師と言うのが比叡山延暦寺の僧兵で、彼らは延暦寺の守護神だった日枝権現の御神体を神輿に載せて担ぎだしては不敬にも天皇家に対して無理難題を強訴(ごうそ=武力で脅迫し採決させる事)していました。
比叡山は鎌倉時代には近江国守護の佐々木家と合戦をしたり・・・
鎌倉時代末期には天台座主として延暦寺に君臨した大塔宮(だいとうのみや)護良(もりなが)親王は軍事修練を好んだ人物で、自ら軍勢を率いて鎌倉幕府倒幕の戦争を起こしたり南朝の将軍として鎌倉に赴任すると北朝の光厳天皇派の足利尊氏公とも合戦をしています。
室町時代には天台座主だった足利義教がクジ引きで将軍に成ると、彼は無用な殺戮を繰り返し残虐さを露呈したり・・・
戦国時代にも延暦寺は佐々木家の子孫の大名の六角家と合戦を行ったり・・・
六角家が織田家によって近江から駆逐されると今度は織田家の対立勢力である朝倉家の軍勢を比叡山に招き入れ織田家に対して戦争を嗾(けしか)けたりしています。
・・・まぁ、結論から言うと天皇家の忠臣だった織田信長公によって御存知の通り誅され全山焼き討ちされ、その後に明智光秀公の女婿の明智秀滿が正体と言う説も有る天海大僧正と徳川家によって大復興されるまで、天台宗は完全に軍閥化していました。
因みに現代でも延暦寺はヤクザの山口組と関係が深かったりします。

他にも領土的な野心は無くても真言宗も紀州(和歌山県)の根来寺を本拠地にした根来衆と呼ばれた僧兵と傭兵集団は鉄砲で武装した強力な軍隊として存在していました。
この根来衆も後に徳川家臣の成瀬正成公の配下に組み込まれ活躍した“軍人”でした。成瀬家は後に犬山城主と成り尾張藩主徳川家の付家老を務めた徳川家の譜代大名ですね。

そんな訳で、戦国時代当時の仏教の宗派の中には武装して軍隊を持っている宗派もおり、中でも浄土真宗は城や要塞に寺院機能を置いて政庁や防衛拠点としていた訳です。
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さて、笹下城址の成就院に話を戻すと、隣には笹下城の大空堀の跡が近年まで有りました。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
ここは港南歴史協議会が編纂した“こうなん道ばたの風土記”に挿絵があり、昔は畑地で良く空堀の形状が残っていたので、IHIが土地を買い駐車場にしても地形を見る事が出来ました。
この写真の風景も近年宅地化で盛土され消滅しました。
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写真の空堀跡の横のアスファルトの歩道は昔はもっと狭かったそうで、これが武者走りだったそうです。そしてこの空堀が畑地だった頃にはまだ梅の木も有ったのですが、実はこの梅の木が成就院の山号の由来と関係が有ります。
山号の由来は“杉田梅”です。
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写真は小田原市の曽我梅林に移植され今も残る“杉田梅”です。
室町時代~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だったとされる間宮家は主家が北条家の時代に北条家臣団に広まっていた梅の植林を実施していたので、成就院のみならず旧杦田郷の間宮領は全て広大な梅林が有り「杉田梅林」として有名でした。
間宮家と同時代の殿様で北条家臣化した蒔田吉良家の拠点にもやはり梅林が造営され今も梅林に関する地名や梅林そのモノが残っています。
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写真は世田谷の豪徳寺です。今の季節は紅葉の名所としても有名で、江戸時代は大名の井伊家の菩提寺だったので現在放映中の歴史大河ドラマ“おんな城主直虎”の影響で歴史に興味の有る観光客で賑わっています。
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招き猫発祥の御寺としても多くの参拝客で賑わいます。
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まぁ、本来の豪徳寺が発祥の招き猫は”厄除け”と“立身出世”の御利益で財運ではないんですがね(笑)。
豪徳寺は世田谷城だった訳ですが、そこを治めた蒔田吉良家は横浜市南区に存在した蒔田城を戦国時代まで本拠に後に、世田谷区の世田谷城(豪徳寺境内を含む一帯)を本拠にした小大名で足利家一族として高い家格を有した家でした。
そんな蒔田吉良家の居城跡の豪徳寺の周辺一帯の住所が今も“梅丘”で、蒔田城の近くの岡村天満宮には岡村梅林も残っています。
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成就院の梅林が杉田梅林と呼ばれたのは、先述の通り戦国時代には笹下村は杉田郷の一部だったからです。笹下村が笹下郷として分離するのは江戸時代に成って分家の杉田間宮家、氷取沢間宮家が成立してからの話で、それまでの北条家臣時代の古文書には杦田郷と笹下の地名の両方が登場します。
笹下と同じく間宮家旧領に当たる現在の港南台地域南西部にも近年まで梅林がいくつも存在していました。調べると港南台地区では小原サンと言う旧家が治めた一帯に特に梅林が多かったそうです。
これが小生の栄区に成ると、途端に梅林は無くなりますので間宮家が梅の生産に力を入れていた影響は近現代まで残っていた様ですね。
江戸時代には“杉田梅林”は日本規模で有名に成り笹下城址の梅花山成就坊や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、第十三世本願寺家当主であり宗主の“本願寺良如上人は当時は日本屈指の景勝地だった金沢八景を遊覧した後に、杉田梅林に観梅に来られ成就坊に滞在された”歴史が有ります。
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特に杉田間宮家の菩提寺である杉田駅近くの牛頭山妙法寺はズバリ、杉田梅の名所として特に人気の有った観光地でした。しかしコチラも横浜市教育委員会が梅林を保護しなかったせいで戦後の宗教政策で御寺の土地を接収されて後に梅林は伐採され杉田の杉田梅林も消えてしましました。
現在の妙法寺の御住職様が境内地の山上に杉田梅林を僅かでも復興しようと努力されています。
この妙法寺は日蓮宗の御寺です。
杦田郷笹下村の梅林を見に来て成就院に滞在された良如上人は成就院の梅林の見事さに感動したそうで、以後、寺の山号を「梅花山」とし寺号を梅花山南無佛院成就坊と名乗らせました。
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※写真は曽我梅林、昔は笹下や杉田や港南台にもこんな広大な杉田梅林がそこかしこに広がっていて、明治には皇族も度々観梅に来た程でした。
しかし、その梅林を含む成就院の境内地は戦後の宗教政策で接収され、横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった訳です。

そんな間宮家が保護した成就院ですが、良如上人の逸話と浄土真宗が城跡を好んで御寺を建てる事を紹介したので成就院の宗旨の歴史についても調べてみましょう。
昔の宗旨と寺域についてですが、現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に境内の広さは普通の規模の寺院です。
しかし御寺の歴史は中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有あります。
法相宗だった当時の寺号は曲田山帶行寺と判明しています。
この曲田山の山号は地名由来です。新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の解説に以下の記載が有ります・・・
雑色村
高札場二ヶ所
 一は村の中程、
 一は北にあり、
小名(こな=住所の丁番地に相当) 曲田 村の東を云
・・・つまりですね、笹下郷の中の雑色村の中の東側だったそうです。そして、その更に東の先に立野(たての=館野)と呼ばれる地名が有ったのですが、これが現在のファミレスのバーミヤン等が在る辺りの様です。この曲田と立野の境目が笹下川だった様ですね。

成就院が“梅花山南無佛院成就坊”と呼ばれたのより更に昔の曲田山帶行寺と呼ばれた時代の宗旨だった法相宗は歴史の古い宗派です。奈良時代~平安時代初期が全盛期だった宗派で、その後は中国留学から帰って来た伝教大師最澄様が伝えた天台宗や、弘法大師空海様が伝えた真言宗が流行しました。
空海 公式ホームぺージより拝借 久良岐のよし
空海和尚と言えば来年公開される日中合作の映画の主人公に成っていたりします。
公式ホームページ→http://ku-kai-movie.jp/
まぁ、浄土真宗は空海和尚=弘法大師様の系統ではなく最澄和尚=伝教大師様の系統から分派した宗派です。成就院は鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に法相宗から浄土真宗に改宗しています。
江戸時代の風土記稿の記録を見ると、最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった様です。
具体的に・・・
本堂 ・・・間口七間=12.7m、奥行き六間半=11.8、護摩壇が存在した。
     ※源頼朝公が一百座の護摩修行を行った日に壇上に守護仏の観音像を一体奉納。
鐘楼 ・・・享保五年鋳造の梵鐘
薬師堂・・・行基作の薬師如来を祀る。元は香林寺と称して境内の外の東側に在った塔頭。
     ※地震で倒壊し江戸時代も未再建。
     ※数度の賊難に遭っている
    (鎌倉時代に新田義貞が鎌倉幕府打倒で鎌倉に来襲した際に周辺に略奪放火を行ている)
    (戦国時代に房総半島の里見家の海賊が杦田郷で略奪放火繰り返す)
     ※承應年間に境内地に写し薬師堂と成った。
山門 ・・・四つ足の門、旧間宮家の笹下陣屋の邸門を、間宮家の下総転封時に移築した。
林貞寺・・・塔頭寺院。元和元年開基。
      境内の巽(たつみ=南東)の方向に在ったが江戸末期には建物は消滅。
乘船寺・・・塔頭寺院。艮(うしとら=北東)の方に在った。江戸末期には消滅。
      開基の乘船と言う人物は天文二年(1533年)八月二日に亡くなった人。
     ※実は乘船が実は墓所の解らない間宮信元公と同一人物の可能性有り。 

この様に全盛期には比較的大きな規模を有していた事が解る御寺なのですが、先代の檀家総代様に取材をした際に「無住職だった時代が有る」と教えて頂く事が出来ました。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有ったんですね。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていましたから。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然でしょう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いてんでしょうね・・・
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていませんから。
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その西本願寺派の初代と数えられる准如上人が、大阪佃村から移住した江戸の佃島の漁師達の協力で海を埋め立てて開いたのが現在の築地本願寺だったりします。まぁ、今の建物は近代建築ですが。
築地の名前の由来だったりもしますね。
・・・なので穏健派の高田派だったので、北条家に憚り大々的な間宮家の支援が無かった時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのでしょう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせられずに存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた訳です。
それが解るのが塔頭寺院として戦国時代に存在していた乘船寺の記載で、乘船寺を開いた乘船(間宮信元公か?)が天文二年(1533年)八月二日に亡くなったと書かれている事から北条家臣間宮家の時代に塔頭寺院を開く様な支援が有り成就坊が機能していた事が解る訳です。
信元公の御子息の間宮康俊公が天文五年(1536年)から間宮家を代表して鶴岡八幡宮の再建に参加しています。ですから間宮家が支援した成就院で塔頭乘船寺を開き1533年に亡くなったのは間宮信元公かも知れないと個人的に推測しています。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然でしょうね。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来ます。
以後は江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然。

ここからは成就院に関係した人物と関係者一族で歴史記録に残る人を見て見ましょう・・・
主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っています。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公。
玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公。
滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した氷取沢間宮綱信公。
徳川家康公の参謀で江戸幕府初代の鷹匠頭と成った杉田間宮信繁公。
間宮家の一族は伊豆や神奈川県の二宮~大磯、海老名市国分寺、江ノ島界隈、横浜市磯子区~港南区~神奈川区~鶴見区、川崎市川崎区等に間宮一族の領土が有りました。
そして重要な江ノ島神社の別当も間宮一族が勤めていた。
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江島神社と聖地の岩屋の別当寺だった岩本坊は代々間宮家が宮司を勤め祭祀を勤める際は本姓佐々木を使い、明治に成ると間宮と岩本姓に分かれた。
岩本坊は廃仏棄釈で寺院機能を棄て宿望機能を活かし現代も名旅館岩本楼として存続している。
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室町時代に養子を送り込み縁戚と成っている相模国の二之宮の格を持つ川勾神社宮司家一族二宮家もいる。
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江戸時代には久能山東照宮宮司の榊原照久公の奥方に成ったのは杉田間宮信繁公の姫様だった。
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その東照宮宮司家初代の榊原照久公の菩提寺は浄土宗の宝台院別院。
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同じ浄土宗で駿府城近くの華陽院は徳川家康公の祖母の於満様の菩提寺であり、徳川家康公の愛妾となり姫を生んだ間宮康俊公の姫の於久様の菩提寺でもある。
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関東最古の大社の埼玉県久喜市の鷲宮神社宮司の大内泰秀公には間宮康俊公の御子息の間宮康次公の姫が嫁いでいます。
大内泰秀公は徳川家光公が利根川で溺れた際に救助して宮司ながら大名格を与えられた人物です。
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家臣の内田対馬守家の御子孫も旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出せる程の家格が有りました。

北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てられ一門からは家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元公、江戸幕府初代鷹匠頭の杉田間宮信繁公等の名将を多数輩出しています。
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江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築し、それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有ります。
しかるに第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とされますが、仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語です・・・
・・・戦災で焼けたのは本堂で、それは近年再建されています。
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しかし山門は戦後も存在していたのが“こうなん道ばたの風土記”に掲載されている事なんですけどね。
礎石を見ると修繕は間違いなくされています。
個人的な意見ですが、現代の山門は復興された門ではないかと感じる木材の腐食具合いと礎石の新しさなので、“こうなん道ばたの風土記”の記載は情報がアップデートされていないのだと思います。

さて、そんな浄土真宗高田派の成就院を支援した間宮家の宗旨についてですが・・・
実は浄土真宗以外の神道・仏教・修験道にも深く関わています。
・浄土真宗
先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
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同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。内田家も御廟所は私有地だが東福寺檀家と新編武蔵風土記稿に書かれている。
・神道と修験道と真言宗
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間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。

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祖先は近江源氏の氏神である敦実親王。その敦実親王の邸宅址で敦実親王を御祭神とする延喜式内社の沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。沙沙貴神社は近江源氏一族の氏神であり佐々木家、六角家、京極家、間宮家、黒田家、乃木家等の氏神でもある。
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更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二之宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
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真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である瑞應山蓮華院弘明寺は間宮家が深く関わっていた寺で“宗閑”の名の初出展となる寺院だ。
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安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺。
御本尊は間宮直元公が極彩色の檀那に成っている。
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江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
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本来の名前を大靈山泉蔵院桐谷寺と言った磯子区中原の熊野神社。
ここは元々は鎌倉の山崎地区に在った修験道の大道場で源頼朝公の命令で当地に熊野権現が勧進され以来、泉蔵院の大道場として栄えた。鎌倉の本社である山崎泉蔵院が戦火で焼けると本社機能がここに移され、以後、大靈山泉蔵院桐谷寺と名乗った。ここも間宮家がずっと支援していた修験道の大道場で神谷信久公の古文書の記録も残っている。
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磯子区屛風ヶ浦の森浅間神社ここも又、戦国時代に間宮家が支援した修験道場の跡だが、鎌倉亀ヶ谷権現堂福禅寺の道場として源頼朝公によって開かれ霊場の滝に不動明王が祀られ、後に頼朝公の命令で富士山の化身である此花咲耶姫命の御分霊を勧進し浅間権現が開かれた。福禅寺はどうも鎌倉幕府最期の将軍守邦親王が森浅間神社に逃げて来ている事や弟君の長円親王が福禅寺の住職を務めている事や権僧都と比較的高い身分である事から“門跡寺院”だった事が推測出来る場所。
・曹洞宗
間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
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間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。そして旧家臣団によって毎年間宮康俊公の追善供養が行われた間宮康俊公の菩提寺でもある。
この宝泉寺を開く際に開山として招かれたのが青梅市の“福禅寺”の住職。
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福禅寺は今では瑞龍山海禅寺と称するが、これは江戸時代のアホで仕事の出来ない役人が朱印発給の際に寺号を誤記したせいで以後、この寺名を名乗らなければいけなかったから。
以前の寺号や戦国時代に突如天皇家の勅願所に成っている事から、室町時代にこの地で復興される以前の前身が鎌倉の権現堂福禅寺だった事が推測出来て、永享の乱の際に扇谷上杉家によって三田家を通じて当地に福禅寺の字名を復興した事が推測出来る。
つまり横浜の森浅間神社とは別れこそすれ同根から生じた由緒ある寺院と言う事だ。それを裏付けるのが宝泉寺開基の際に福禅寺の住職がわざわざ招かれていると言う事だと推測出来る。
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又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。ここは鶴見区下末吉の宝泉寺の末寺として最初は開かれ、宝泉寺が火災に遭った後は氷取沢間宮家がこの宗三寺で間宮信盛公の追善供養を行っている。尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来し信盛公の菩提寺でもある。
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子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に高津山観音寺を菩提寺として支援している。
高津間宮家は氷取沢間宮家の子孫に当たり、江戸幕府の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信を輩出した家だ。
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そして真田幸村隊と戦い討死した間宮正秀公は間宮士信公の祖先に当たり観音寺境内社の高秀霊神社に御祭神として祀られ墓所も兼ねている。
・日蓮宗
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安土桃山時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家が杉田の牛頭山妙法寺を菩提寺にしている。
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江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
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本立院の飛地境内には間宮林蔵公の被葬地の御廟所が有り東京府時代に史跡文化財していを受けている。
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間宮一族から帰農し江戸時代には豪農と成って東京の大森界隈を開拓し農民を旧北条家臣団の仲間五人と協力して守ろうとした間宮是信サンは悪人領主木原家に殺された後、一族にひっそりと大森の法光山善慶寺に埋葬された。
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明治に成り封建政治の終了とともにタブーが解禁されるや、義話伝承の通りに直訴状や遺骨が発掘され東京都指定文化財に成っている。
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この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。

なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が御理解頂けたかと思います。
この成就院から還俗したのが間宮一さんで、鎌倉事件の犯人とされますが小生の予想では当時の神奈川奉行が依田盛克さんで、この依田家は武田家旧臣ながら氷取沢間宮家から江戸時代初期に養子が入っている家なので、江戸幕府と日本を守る為に間宮本家と所縁が深い成就院の身内が犯人として名乗り出て、英国政府との外交の為に人柱に成ったのかも知れないと小生は考えています。
まぁ、こんな風に成就院には間宮家に関する歴史資料が散逸してしまっている部分を埋めるかも知れないヒントが多く有る訳です。

面白い御寺ですよね?
きっと皆さんの御宅の周辺にも実は凄い歴史偉人と繋がりのある神社仏閣や城址が在ると思います。
是非、お散歩して見て下さい。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

江ノ島観光の休日雑記の途中だけれど少し近況報告を三浦の海岸沿いの某宿泊先から・・・

小生は梅雨に入って気温も上がり初夏に突入すると繁忙期、だいたい毎日の睡眠時間は常人の1/2とか1/3程度しか寝れない日が多くなってしまう。
先月はジムに2回しか通えなかった。今月もまだ行けてない。
だからブログの更新も疎かに成るし気のせいか昨年より体力が落ちた。
まぁ、今年は休日は出来るだけ寝て体力回復を計る事にしていたのだが、そんな中でも休日の午後位は動いていた。

今年はTVで鎌倉が沢山特集されたせいで観光客が多く、とうとう鎌倉~江ノ島巡りで4回目の鎌倉市長谷の長谷寺紫陽花見物チャレンジも失敗、なので小生の住まう円海山の裾野から車で程近い永谷天満宮の鎮守の森、菅秀塚の紫陽花を見に行って来たりしていた。
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永谷天満宮の社殿の左手が菅秀塚の入口なのだが、結構地元の人もここへ来ない様だ。
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神奈川の名木100選の一つ、“上永谷の天神社のカシ”なんて大樹も有ったりするんだが・・・
その名木の前を通り過ぎると直ぐに紫陽花のトンネルが出迎えてくれるんだな。
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陽当りが余り良ろしくない場所だが、山の斜面の一面に紫陽花が咲き誇る。
・・・う~ん、咲き誇ると言うよりは毎年健気に数少ない見物者を優しく謙遜しながら出迎えてくれると言う感じだろうか?
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一輪一輪が大振りで立派、確かに北鎌倉の明月院や長谷の長谷寺程の規模は無いけれども季節を感じて散歩するには十分!
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今年も綺麗だ。
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永谷天満宮の紫陽花君達、今年も綺麗な花を見せてくれてありがとうね~!
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頂上には浅間神社が在る。
永谷天満宮の社殿の方向とは明後日の方向を向いて祠が建っている。
何でこの向きに浅間神社の祠が向いてるのか、ちゃんと神様に対して信仰心を持って神社を観察する人なら直ぐに気が付くのだが、当然、この祠の真後ろに浅間権現此花咲耶姫命様の化身である富士山が在るんだな。
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既に横浜は夏日なのに珍しく相模湾上の水蒸気が薄く、そして雪化粧している此花咲耶姫命の富士山が姿を見せてくれた。富士山の頂上に浮かぶ雲が此花咲耶姫命様が市女笠を被って日差しを除けてらっしゃるようで可愛らしく思えた。
因みに市女笠と言うのは↓こう言う奴。
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以前撮影した小机城址祭りの様子。
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小生には、こんな可愛らしい御姫様の格好に脳内変換されんだな。
まぁ、江戸時代の和装は余り好きじゃなくて、女性は室町時代の格好の方が可愛らしと思うからなんだが。
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永谷天満宮の地は伝承によれば御祭神の天満大自在天こと菅原道真公の五男で菅秀才と呼ばれ醍醐天皇に重用されたが藤原氏の出世妨害で官位は高位には成らなかった菅原淳茂公が移住してきて一時期住んでいた居館跡と伝わっているんだな。まぁ実際に関東に亡命して平将門公や平良文公達の坂東の桓武平氏を頼って来たのは三男の菅原景行公が茨城県の大生郷天満宮の社伝にも伝わっているし、永谷天満宮は旧鎌倉郡で、平良文公の御子孫の村岡家の一族達が治めた土地であり村岡一族の鎌倉景正公、梶原景時公、俣野景久公、大庭景義公、長尾景春公等々、鎌倉郡を統治した人々は“景”の一文字が入っている事から三男の菅原景行公との関連と考えた方が自然なのかも知れないが、そこはそれ、どっちか解らないならば“どちらかがいらっしゃった”として“両二方とも大切に史実と伝承を両方伝えれば良い”訳だ。
そうすれば御子息が二人も永谷天満宮で大切にされて、御祭神の菅原道真公も喜んで下さるかも知れない。
塚に手を合わせながら、そんな事を考えていたりした、この日。
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月が変わって7月初旬、野島公園のキャンプ場を予約して妹夫婦と甥姪とBBQをした。
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この日、燃料を予約していたのだが炭だけ渡されて火を付けるまで上手く行かなかった。
家から先日の木目金鍛造の為に買った1500°の火炎が出るガスバーナーも持参したのだが、ガスバーナーで炙っても窯が大きすぎて熱が上手く籠もらずに肉を焼ける様に成るまで30分近くかかってしまった。その間に姪っ子も甥っ子も飽きてしまって母が持参したオニギリを食べて御腹一杯に成り、もうまともに食事してくれなかった。
折角、南部市場でサザエやホタテも沢山買ったのだが、食べきれなかった分は保冷材も無いので廃棄した。

先週の事・・・
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ライチが美味しい季節に成ったので夕刻近くに漸(ようや)く起き出して昼食ついでに横浜中華街の八百屋に生ライチを買いに行って来た。
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妹の家もいると言うので綺麗な物を1ケース分選別して購入。
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その後は中国超市で肉まんと月餅を買い食いして昼食とした。
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コンビニのとは違って皮が甘くフワフワで美味しい。
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まぁ、日本で肉饅と呼んでいる物は中国では三丁包(さんでぃんばお)と呼ばれる餡なのだがね。本来の肉饅の餡は本当に肉しか入っていないんだ。これは少し違うが美味しい。
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先一昨日、京都から歴史仲間が出張で横浜に出て来たので中華街に行き、一緒に食事をした。
途中、久しぶりに横浜スタジアム方面から歩いて見たら変な専門店が出来ていた。
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香菜(シャンツァイ)=パクチー料理の専門店・・・
小生は香菜が大嫌いなので絶対に行かないだろう(笑)。でも女性には好きな人も多いので、まぁ、狭い範囲のファンが定着しそうだなとは思う。
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夜20時過ぎだったが土曜日と言う事も有って中々の人数だった。
残念な事に行きつけの店が閉店したので、山東と言う、もう一つの行きつけの水餃子の美味しい店に歴史仲間を連れて行った。
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写真は豆腐干絲(ドウフガンスー)=干し豆腐の千切りの冷菜、それと牛肚(ニィウトゥ)=牛の胃袋の冷菜。さっぱりして夏でも食欲が湧く小生の夏季御薦め料理。
他にも空心菜の炒め物とかトンポーローとか山東名物の水餃子を注文して二人で7000円分位食べた。
親友のO型君が転職して東海地方に行ってしまう際に転職祝いで食べに来て以来、2ヵ月ぶりくらいだったかな?たまに食べたくなる。
食事後は車を停めた大桟橋(国際客船ターミナル)まで徒歩戻る際に、夜間でも見れる史跡を少し回りながら移動した。

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日本最初の下水管とか。
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何故か横浜市は中区の近代史跡だけ大切にし、鎌倉の隣で武士文化の遺産が多く有るのに其方は破壊しまくるんだな。意味不明。所詮、田舎者ばっかりの市職員はヨコハマのイメージしか無いんだろう。
横浜市はヨコハマで有る前に鎌倉郡の一部であり久良岐郡であり橘樹郡であり都築郡なんだが、そんな事も知らんのだろうな。
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様は移民が文化財保護担当してる様なもんだから理解が足りないんだろうか?
まぁ、政治家の建築利権の方が大きいんだろう、現代の役人はアウシュビッツの職員よろしく善悪の判断をせずに政治家の要望通りに破壊してんだろう。でなければ、自然公園として歴代市長が守って来た円海山の史跡も自然環境を東急グループの建設利権の為に開発しようとしたり、日本的に見ても重要な意味の有った笹下城も蒔田城も青ヶ台城等の城址も発掘せずに破壊したりしないだろう。
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まぁ、ハッキリ言って観光向けに街づくりしてる筈なのに、外国人観光客に不人気なのは文化を大切にしてないから魅力が無いって気が付かない田舎者が仕切ってる横浜市の役人と建築利権臭プンプン臭う執政者って事に成る訳だ。
まぁ、この明治の元勲、伊藤博文公が作った新港埠頭=みなと未来21地区の夜景は綺麗だ。
これは高秀前市長が建築族だっただけでなく高文化で、港から見た時の景観と文化財の保護を考えて街づくりをして下さった御蔭なんだな。
今の市長は語るに・・・不足の極み。待機児童問題も停滞中、一瞬良い時だけ発表して印象操作。
折角期待されてるのだから史跡保護や最後の蛍の広域生息地の自然環境保護も頑張って立派な市長に成って欲しい。
待機児童問題も上手く行ってないなら、それはそれで正直に言えば皆も本気で考えるだろう。
一々自分の印象を良くしようとする様な発表の仕方をしたってダイエー再建失敗した時の様に、結果は数字でしか出ないんだから。これは補佐役が悪いのかもな。

まぁ、そんな訳で最近も休日は夕方から少しは動いていたが、もう学生時代の様に半徹夜の仕事連勤+自分の活動を平行してやる体力が無くなって来たようだ。
筋力増強も上手く行ってない。
体力付ける為に、夏が終わって繁忙期が過ぎたら本気でトレーニング頑張ろう。

では、皆さん、休日雑記江ノ島編の続き③でお会いしましょう~♪


横浜桜は2017年4月1日現在、三分~六分咲きです。

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血縁は無いけど実祖母よりお世話に成った横浜の義祖母の御墓参りに行ってきました。
小生の血縁の無い義祖母は入院していた病院の近くの久良岐公園の桜が満開の4月1日に亡くなった。
義祖母の実家は横浜のシルク貿易商で、義祖母が幼い頃は比較的裕福で屋敷に住んでいたそうだ。
しかし家業の生糸貿易が化学繊維にとって代わられると義祖母の家は貧乏に成った。
義祖母は結婚もしたが相手が問題の有る人で、両親に実家に連れ戻されてからずっと独り身だった。
だから小生を可愛がってくれた。
その義祖母が入院して1ヵ月後位に病院の近くの久良岐公園の桜が美しく満開に咲き誇った。
久良岐公園の桜林と磯子区森の桜並木の美しさを知ったのもこの義祖母の入院の時だ・・・2015-04-01-12-01-34
※久良岐公園の桜林(2015年撮影)

・・・あれから月日は流れ、命日に御参りするのは血縁の無い我家を代表して墓参した小生だけ。
あの時に義祖母の通夜直前に病院に群がった義祖母の遠縁の親戚連中は、本日義祖母の命日17:00少し過ぎに小生が墓参した時点で誰も来た形跡は無かった。
土曜日なのにも関わらず。何故判るかって?
だって花も枯れたままだったからな。
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バァちゃん、小さい時に可愛がってくれてありがとうね!
いつも心の中で信奉する神社仏閣の神様仏様と尊敬する歴史偉人と祖先神と親族と恩人への御祈りの時にバァちゃんの事も思い出してるけれど、桜の季節に成ると、亡くなった日の事や可愛がってくれた事、川崎大師に行く時にいつも持って来てくれたコアラのマーチとヨーグル、緑区に梨狩りに毎年の様に一緒に行った事を思い出すよ!
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義祖母の墓地には美空ひばりサンや南極探検の白瀬中尉の御墓もある。
この墓地と桜の大木の並木の“有った”丘は奇しくも小生の尊敬する間宮康俊公や間宮康信公、康俊公の嫡孫で江戸時代初期の名奉行の間宮直元公の居城笹下城の出城松本城跡の指揮所跡で石碑も有り、昭和8年(1933年)に植林された大量の桜の並木が綺麗な場所"だった"。
しかし、桜の大木に成長し観光名所に成っていた並木道も、無文化な極左派(当時)の支持で当選した林文子市長の施政下で伐採された。
3年前に伐採されていなければ僅か、あと14年で日本屈指の樹齢100年の桜並木に成っていたのに。
更に松本城址"陣ヵ台"の石碑も撤去され姿を消した。新編武蔵風土記稿にも掲載されている事項にも関わらずだ。
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 今日、義祖母の命日は今年の横浜市港南区桜道の桜祭りだった。
しかし、以前の賑わいが有る訳もない。
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同じ場所とは思えない寂しさ・・・
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屋台の店主、商店主の人達とも話をした。
批判しか湧いて来ない。
バァちゃんの命日の墓参りに来る時や桜祭りの時に楽しみだった、お好み焼き屋“名勝”も桜の伐採で書き入れ時の客足が遠のき閉店してしまった・・・
祭りの賑わいと、横浜市民の誇りだった歴史と、風景を返して欲しい。
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林文子市長!貴女の政治で伐採され消えた桜の風景を返して下さい!
寂れても来てくれる屋台の皆、ありがとうね。
ごめんね、駄目な市長選んじゃって。
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林文子市長!昔の桜祭りの賑わいと桜の大木の並木が満開に成るのを楽しみにしていた横浜市南部地域の市民に返して下さい!
本当に市長として郷土愛が有るならば、あと少しで樹齢100年の桜並木に成るはずだった桜道の並木を伐採した事と陣ヵ台の石碑を撤去した事と笹下城の最後の残存部の本丸周辺の地形破戒開発をさせた責任とって下さい!責任とれないでしょ?責任とれないならば・・・
神社仏閣保護と徳川幕府の成立に多大な貢献をした横浜の間宮家の偉業、そして室町幕府の成立と関東の神社仏閣の保護に間宮家同様に活躍した蒔田吉良家の偉業、宅間上杉家の偉業、そして横浜に深く関り武士文化の基礎を築いた源頼朝公、北条政子様、源範頼公の事も、自分の印象操作をマスコミや支援者使って熱心にしている様に顕彰して下さい。
そして直ちに開発利権で横浜市南部の市民の誇る最後のホタルの大生息地域の瀬上沢と瀬上池周辺を東急不動産に開発させるのを止めて下さい!
・・・貴女の統治する横浜市が今在るのは先人達の業績と我々市民と明治大正の原財閥や浅野財閥や商人達が関東大震災復興に財産を投じて下さった御陰です。その方々は横浜市域のみならず日本としての日本文化と風景も守って下さった方々です。
貴女は今、米軍から譲り受けた子供達のスポーツ広場を奪い、待機児童0化に失敗し、南本牧埋め立て工事で海洋自然環境を破壊している上に工事が遅れ海運業者と通関業者に迷惑をかけ、自然公園宅地造成や街路樹の伐採で陸の緑も消し、史跡を未調査のまま破壊まで行っています。
そして日本でも良好な保存状態に入る小机城址を史跡としての市の文化財認定もしない。
貴女が市長を務めた一人の代で、どれだけの物と文化と風景を横浜市から消し去る心算ですか?
せめて、まだ在る物を守りながら開発利権とは無縁の自然と史跡と文化保護に御金を使う政治家に成って見ては如何でしょうか?
文化保護史跡保護も、綾瀬市や小田原市の様に上手く業者を活用すれば新たなジャンルで健全な権益に成ります。
地形を掘削せずに城址縄張りを利用した児童公園化なら史跡と児童公園の両立も、掘削をしない擁壁を用いた盛土の宅地化なら埋蔵保護も可能でしょう。
そして、市民の思い出と先人の残した風景と歴史と文化を奪わないで下さい。

もし、今までの自然と文化と史跡破壊が林市長では無く市職員の所業ならば、ソイツを吊し上げて正義を示して下さい。仮にそれが実現するなら、その土木開発担当役人の糾弾と市長支持に我々も回ります。


横浜市にはデニーズの第1号店が存在します。
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港南区上大岡のイトーヨーカ堂内に存在する店舗がデニーズの日本1号店なのですが、この事を知っている人は横浜市民でも余りいないと思います。
実は小生は横浜の戦国武将の間宮康俊公と、その御一門の顕彰活動でこの上大岡近辺の鹿島神社や源為朝公の石碑の写真撮影等に来ていたのでこのイトーヨーカ堂上大岡店に車を停めさせて頂いて買物をして帰ったり食事をしたりする事も有りました。
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流通業界もコンビニの台頭でシェアを奪われて、老舗のスーパーも大変な様です。
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多分、上大岡駅周辺の発達とともに開店したであろう店舗なので、40年位の歴史の有る御店なんじゃないかと思います。
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結構広く、品揃えも良いだけに、この店舗が無くなると周辺の人は困るんじゃないかなぁ~と思います。
何よりも、デニーズの1号店が無くなってしまうのは横浜市民として悲しい。
丁度、最近ジムに通い始めた事も有って、室内用の運動靴を改めて購入しようと思い、デニーズで記念の食事も兼ねて、2017年01月28日は上大岡のイトーヨーカ堂を訪れて、閉店し消える店舗の写真も撮影して来ました。
流石に歴史史跡でも宗教施設でも無いので、存続希望活動をする訳にも行かないし、民間企業には健全に成って貰わないと日本の為にも成りませんしね。
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さて、上大岡のデニーズは1号店な訳ですが、間宮家の顕彰活動で知り合った地元の人の話では昔から内装は余り変わらず、写真の様に明るい店舗だったそうです。
昨日、小生はビーフシチューとオニオングラタンスープを頂きました。
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特にオニオングラタンスープが美味しかったです。
店長さん、綺麗な給仕担当のウェイトレスさん、可愛らしい会計担当のウェイトレスさん、本来は花形なのに裏方として店を支え続けた調理担当のスタッフさん、横浜市の誇りであった1号店の運営、今まで頑張って下さってありがとう御座いました。
出来れば、イトーヨーカ堂店舗の跡地に建つ次の建築物に、デニーズ一号店、建て替えと言う名目で再建して営業継続して欲しいなぁ~。
・・・と、思うのは小生だけでしょうか?

正月元日は仕事始めだった。
しかし、今年は2~3日に連休にしてあったので、本来の小生の定休4日水曜日と合わせると3連休と久々の正月連休となった。
昨年年末は前回の休日雑記で書いたが大凡、以下の様な動きをしていた。
21日、川崎市高津区の橘樹神社に弟橘姫様に1年間の御礼参りに行って来た。無事に1年間、間宮家や歴史偉人の顕彰活動で旅行が出来たのも御加護頂いた御蔭。
31日は横浜で一番の智慧の神様と崇拝し土地神様と拝む永谷天満宮で歳末の大祓いに参加して菅原道真公、菅原景行公、菅原淳茂公と宅間上杉重兼公、宅間上杉富朝公、宅間上杉規富公に1年間の御礼参りをして終える事を出来たので昨年は良い〆括りの大晦日と成った。
永谷天満宮の宮司様、禰宜様、職員様、氏子様、皆さんの御蔭です。ありがとうございます。

2017年元日は早朝日出前に起きて走水神社に初詣に御参りに上がった。車を走らせている最中に夜明けを迎えたが、位置的に房総半島の向こうに日が昇るので初日の出は当然見られなかったが、正月早々に走水神社で日本武尊と弟橘姫御夫妻の御神霊と、御二柱の神様の存命中に御仕えした大伴黒主久応公の御神霊に本殿で御参りし、と奥宮の須賀神社、神明神社、諏訪神社にも御参りをした。
帰路、嘗て日本武尊と弟橘姫御夫妻の御住まいだった御所ヶ崎と呼ばれた岬の近くから、走水の海岸線の先に綺麗な富士山も見る事が出来た。
陽気な酔っ払い兄さんと握手すると言う意味の解らない珍事も起きたが上々の1年のスタートと成った。
そして仕事始め。

そして正月02日早朝5時頃…
この日は最初に小生の智慧の神様、横浜に於ける土地神様の御居す永谷天満宮に今年の初詣をする事から始まった。
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考え事が有ると、しょっちゅう車でドライブがてら近くの拉麺の名店の神勝軒での食事も兼ねて御参りする永谷天満宮。
正月の雪洞(ぼんぼり)に浮かび上がる永谷天満宮の参道は非現実感が漂い幻想的だった。
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例年、正月この時間帯に参拝する事は無かったので、良い経験が出来た。
早朝にも関わらず、他にも参拝客が数名いた。
世の中、まだまだ神社や御寺を大切にする日本文化が好きな人が多いんだな。
車に乗ると、永谷天満宮の前の環状二号線を走り、港北区から第三京浜道路に入り川崎市高津区を目指した。
昨年末、御礼参りに上がった橘樹神社で弟橘姫様に「正月が来たら新年の御挨拶に伺います」と誓いを立てていたからだ。
第三京浜にのってさえしまえば横浜と川崎は車で30分と近い。
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到着したのは6時位だったろうか?
既に空が明るく白んでいた。
現在は住宅が立ち並ぶ子母口富士見台古墳こと弟橘姫の御陵を背後に抱えるこの遥拝所である橘樹神社も、朝の清々しい空気が気持ち良かった。
弟橘姫様に今年もここ数年来の御願いをした。
早く神社仏閣歴史史跡と自然公園の保護を担い歴史顕彰活動で社会の役に立てますようにと、公人としての御願い。
私事の些細な願い。
人としての世界中の日本の環境や歴史と文化と伝統を好きな‟親日家”の民が国籍人種問わず平等に平穏に無事に過ごせるように、仮に災害に直面しても、自分を含めてその様な人間達が率先して復旧を担い周囲の人に安心を与える事が出来る様にと御願い。
・・・日本人と日本文化が嫌いな人は独力で何とか勝手にすれば良い(笑)。
昨年中1年間の御礼を改めて御伝えした上で今年も昨年と同じ心願を御伝えした。
神社からの御参りだけではなく、ちゃんと今年も古墳にも御挨拶に行った。
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・・・と言っても、古墳は橘樹神社裏の円形の丘の住宅地全部で、現存するのは頂点部分のみ。
一応、その頂点で御参りして、そこから風景を見てから立ち去るのが去年から始まった正月の習慣に成った。
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今年は空が白み、雲も多くて朝日は見えなかった。
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でも、改めて登ってみると、シン・ゴジラが進撃して来た武蔵小杉の風景が見える事に気が付いた。
まぁ、ゴジラが進撃した道は旧鎌倉街道を通り途中から綱島街道に入り、更にこの橘樹神社の横を通る中原街道を歩いているはずだからね。奇しくも、古墳時代の古代人が切り開いたルートを通っているんだな。
それ以前は、その一帯は海の底なので歩いて通れる道では無かった訳だ。
だからこそ、橘樹神社の裏の宅地に成ってしまった、この弟橘姫の古墳の丘は、昔は海に面していて弟橘姫の髪飾りが流れ着いた伝承が有る訳だ。
そんな事を思い出したり、次の目的地の相模国五之宮平塚八幡宮や二之宮川勾神社へ高速道路を使って行くと到着時間が早く成り過ぎてしまう事も有り、古墳時代の人を真似て下道の中原街道を車でゆっくりと走る事にした。
ゆっくりとは言っても、車だと川勾神社の在る大磯町の先の二宮町まで早朝なら休まなければスピードを出さなくても1時間半で到着できる。
橘樹神社~中原街道経由~川勾神社 久良岐のよし
小生が今回走った中原街道は古代の街道を徳川秀忠公が整備した街道を現代の国土交通省が再整備した言うなれば新道。とは言っても、当時と大きくルートを外れてはいないはず。
道も行き当たりばったりで思い付きで走る事にしたので事前調査なんぞしていない。
道路の【中原街道】と言う標識を目標にしながら、サブでカーナビに川勾神社を目的地登録して走って見たら意外な事に気が付いた。
江戸時代の中原街道は、家康公の鷹狩場だった平塚の中原御殿に行く為に再整備されているのだが、これが又、行く先々に悉く平安時代に築城された古城と、平安時代の人からしても古いと認識の有った延喜式内社の傍を通り抜ける道なんだな。
昔は湘南地区は海で全ての古道は湘北地区とも言うべき現在の高座郡を通り過ぎていたのだが、中原街道沿いに延喜式内社が集中していると言う事は、東海道よりも昔は中原街道の方が重要な道だったのかも知れない。
もっとも、古代の東海道と言うのは読んで字の如く、船で渡る場所が多い海の道だったのを知る現代人は少ない。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所のホームページに掲載されている古代の街道。
これに縄文時代の海岸線を重ね合わせて、延喜式内社と城を表示すると面白い事が解る。
昔の海岸線と古道 久良岐のよし
緑の部分が古代の陸地、白いのは弥生時代の頃まで海だった部分。
縄文時代の氷河期が終わると急速に温暖化が進み、1万年前~6000年前の4000年で海岸線は現在よりも内陸に後退して海老名市近くまで海だったので、現在の中原街道は弥生時代以降、古墳時代位に整備されている古道が元に成っているのが良く解る。
対して、更に北の寒田神社~比々多神社~小野神社~深見神社~一ノ関城~杉山神社の目の前を通り過ぎて橘樹神社に至る矢倉沢往還は古代から陸地だった事が解る。つまり、矢倉沢往還沿いに存在する神社の方が古くから人が住んで居た集落に近在する訳だ。
そして面白いのが、この現実の通り、その延長線上には方形周溝墓が大量に存在する大塚歳勝土も所在する。方形周溝墓は中国江蘇省や福建省を含む南方海洋民族由来、円墳や前方後円墳は半島経由の文化由来、方形周溝墓は古墳時代や横穴式墳墓より古い時代の古墳だ。つまり朝鮮系渡来人の影響を受ける前の縄文人や弥生人の御墓。
現在の日本語は朝鮮語の漢字の発音に多く毒されていたりするが、古事記にも通じる古語は南方の沖縄県に多く残っていたりする。例えば以前も書いた事が有るが、黄泉平坂と言う言葉が有る。
古代語も調べずに江戸時代の価値観で本居宣長と言う人物が翻訳してしまった物では「黄泉平坂=あの世へ通じる洞窟」とか訳の分からないオカルトな神話に成ってしまっている。
所が琉球語だと無理なく翻訳できる。
平坂と言うのは現代日本人の価値観では「平=平地」「坂=坂道」を指す。
上り下りも坂道は坂道。
所が琉球語には現代日本で藤原氏による朝鮮語の影響と漢字の誤植で消えた意味が復活する。
琉球語では「坂(さか)=下り坂」「平(ひら)=上り坂」を指す。
つまり黄泉平坂は「黄泉(よみ)と言う国に繋がる上り下りの峠道」と言う、何とも自然な翻訳が可能に成る。
そんな事は、この日は当初は全く、そんな事は考えてはおらず・・・
「あれ?茅ヶ崎城の近くだ」
とか
「あれ?杉山神社この近所だよな」
とか
「あれ?寒川だ、寒川神社の近くだ。」
とか考えている内に、点と線が繋がり、寒川に着くころには確信に変わってた。
中原街道こそ古墳時代の主要街道だった筈と。
昔の海岸線と古道 久良岐のよし
しかも面白い事に矢倉沢往還も中原街道も両方、橘樹神社の前を通過する。やはり、橘樹神社一帯が古代豪族の集落から郡衙に発展したと考えられている通説は正しい様だ。
ところで、綾瀬市の手前、大和市に入った頃、偶然前日、大和市の上和田地区に住む知人から存在を聞いていた‟左馬神社”と言う場所の近くを通り、その看板を見かけた。知人は歴史は少しかじっているが、山好きで山登りのついでに神社仏閣を巡る程度なので、深くは知らず「源氏の誰かが上和田に関係有るらしく云々・・・」と言っていた。
興味も有り、左馬と名の付く神社で有るからには左馬頭(さまのかみ)源義朝公所縁の神社だろうと小生は推測していたので、寄り道し参拝、確かめてみる事にした。
左馬神社は住宅街の広がる上和田地区に在って、中々に境内が広く村の鎮守の杜(もり)と言った感じの雰囲気の良い神社だった。
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解説を見てみると歴史は江戸時代に始まるそうで、そんなに歴史は古くなく江戸時代の名主の渡辺兵左衛門さんが、近郷の別の左馬神社から源義朝公の御分霊を勧進して開いたそうだ。
渡辺さん、江戸時代には名主だが恐らく祖先は玉縄城主北条綱成公の部下だった筈だ。名主=在地武士の子孫である事、名乗りに左衛門の官途が含まれる事、場所が大和市南東部である事、これは玉縄北条家家臣団だった可能性が高い。
余談だが、この上和田地区には上和田城と言う御城が平安時代末期~鎌倉時代初期に築城されていて、築城者は和田義盛公と伝承する。源氏の与力だった武将の中でも大幹部だ。和田さんの支配地だったから上和田なんだろう。恐らく下和田地区も有るのかもしれない。
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立派な御神木もあり、近所の子供が遊びに来るには良い神社。昔ながらの庶民に近い江戸時代の神社の雰囲気。明治以降は神社は仰々しい所に変化してしまって親近感を持てなくなった人も多いはずだから。
上和田を出発してすぐ、米軍の厚木基地の横を通過した。
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沖縄もこんな感じなんだろうか?
幸い、神奈川県の米兵さん達は素行が良い。と言うか、沖縄県の犯罪発生率は県民自体の犯罪発生率が他府県より高い事実を知る人は余りいないのかも知れない。産業が少なく所得も低いので必然的に犯罪発生率が高く成ってしまうのだろうか?
米軍が撤退すれば沖縄県は更に産業が無くなるし、米軍基地返還派はどうする心算なのだろう?
あの反対活動をして、機動隊に暴行を加えている活動家達が関西弁をしゃべる連中ばかりと言う事実を知る人も本土では少ない。
TVや新聞の偏向報道なんぞアテにせず、もっと年配者は自分で旅行も兼ねて渦中の場所に行って自分の目で情報を拾う努力をするべきだと思う。さもないとマスコミの扇動に右往左往するだけ。
そんな事を考えて走っていると、目の前、宮原と言う辺りだったか。富士山が綺麗に見えた。
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この辺りは宮原と言う地名からも、そして近くに神崎と言う場所が有る事からも、もしかしらた古代に寒川神社の飛び地か前身の神社か、別に由緒有る神社が存在したのかも知れない。
寒川神社の参道近くを通り過ぎ、当初の目的地だった平塚八幡宮の近所も時間が早すぎるので通り過ぎ大磯町に入る頃に成ると、東海道に合流した。
正面に高麗山が見える。
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現在では高来神社と名を変えているが、元々、高麗山山上に社殿が有り明治時代までは高麗神社と呼ばれ、神功皇后に伴って日本に渡来した人々が住んだ地域と考えられている。
帰りに時間が有れば立ち寄ろうと思いながら車を走らせた。
東海道は走ると直ぐに雰囲気で解る。
東海道として、この季節の風物詩の決定的な風景も出て来た・・・
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箱根駅伝の各大学応援団の幟(のぼり)だ(笑)。
これ見て直ぐに思った・・・
「しまった!絶対に途中で駅伝の交通規制に引っかかる!」
・・・と。まぁ、直ぐにそれも楽しめば良いや♪と思い、交通規制がかかる時間帯をどっかの神社行く度にリサーチして、通過時間は沿道で応援しようと決めた。
道幅、両側の店にたまに古い店舗が残っている、所々に残る松の並木・・・
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この辺りまで来ると本当に東海道らしい感じが残っている。
富士山も東海道中の雰囲気を醸し出してくれている。
そこから更に20分位走っただろうか?
長閑な田園が広がる丘に川勾神社は鎮座している。
正月に来た事無かったが、繁忙期は交通整理の誘導員が居るらしい。
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参道の雰囲気は田舎の空気感が凄く良い。
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川勾神社の石柱道標。
揮毫したのは中将上村~と有るので明治時代に活躍された上村彦之丞海軍中将だろう。
あの弟橘姫様の御所ヶ崎にあった御神霊を遷座し走水神社に保護した明治の元勲達の中の1人だ。
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大正七年に参詣にいらっしゃった様だ。
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この写真だと良く見えないが、石段の上には恐らく昔は仁王門として使われていたであろう茅葺の門がある。
石段手前左手に伊藤博文公と伊達時と言う人物が川勾神社を支援したらしい解説が有る。
伊達時と言う人物は苗字からして奥州伊達家の血縁者と思われるが、不勉強で存じ上げない。CIMG2098
湘南地区の延喜式内社らしい、近郷の人々が訪れる人とのつながりの温かみを感じる神社。
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まだデジタル写真を撮影していなかったので、ブログの神社仏閣まとめの記事掲載の為に撮影に来た。
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この日は正月2日目だったので屋台も出ていて、ここで朝食にタコ焼きを食べる事にした。
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まぁ、屋台の大きなたこ焼き。御腹すいていたので美味しかった。
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参拝客もそれなりに居て楽しかった。
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アルバイト(笑)の巫女さん達も頑張ってらっしゃいました。
私語が多いが、そこは長閑さの一つとして愛嬌の内(笑)。
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焚火にいぶされる匂いも心地良い。
さてさて、今回の記事も訪問先が多く長くなりそうなので、前後半に分けて今回はここまでを【前半】とさせて頂きます。
では、次回はこの続き、【二宮町】川勾神社~【大磯町】六所神社~箱根駅伝見物~神揃山で迷子~大磯城山公園古墳群~高久神社~【平塚市】平塚八幡宮~【伊勢原市】比々多神社~横浜帰宅までを書きたいと思います。




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