歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:港南区

小生の仕事は一般的な会社勤務の方と異なって、祭日は関係ない。
だから、ここ数年、自分の休日が偶然重ならないと年末年始も仕事をしている事が多かった。

良い事も有って、週休二日なのだが平日1日と土曜日が休みなので、病院に行ったり役所に行ったり用事が有る場合に重宝するし、平日だと出掛けても余り人込みに捲き込まれる事も無い。これは花見や紅葉の観光シーズンには非常に利点となる。
しかし欠点も有って、どこかに宿泊に行く場合は自分で仕事を休む必要が有ったりする。
昨年は母が子宮癌の手術をした事も有り、正月に縁者を呼んで快気祝いを催す心算で予め2日と3日を休みにしておいた。しかし生憎ながら両親の縁者は皆それぞれ身内と旅行の予定が入ってしまっていたそうな。
しかも身内も妹達はディズニーのミラコスタに年末からぶっ通しで宿泊、ディズニーランド&ディズニシー漬け。
弟の所も義妹が流通関係の仕事の責任者だったり、義妹の母上と先約が3日に入っていたりで小生の計画は相談前に無残に打ち砕かれた(笑)!

そんな訳で、結果的に溜まっている仕事とブログの更新と年末の御礼参りと、小生の尊敬する天神様菅原道真公の神社と日本武尊の神社に元日の初詣。
そしてブログの「 」の更新の為に、未訪問だった平塚八幡宮や、デジタル写真未撮影の場所を2日に行く事にした。

そんな訳で年末に向けて21日から動き出した。
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いつも御守護頂いている弟橘姫様の古墳を背後に抱える神社、つまり本来は弟橘姫御陵の遥拝所だったはずの橘樹神社へ御礼参り。
神社の真っすぐ後ろに古墳跡の宅地の丘の頂点が位置している。
神奈川県教育委員会は自分達が発掘調査も保護もしなかった事に触れない為に、明らかに人口地形で円形に削られている宅地には説明看板でも一切触れていない。
ただ「今よりも大規模だったと推測される」と誤魔化している。古墳は頭頂部のキャップみたいな部分の一部だけ現存するが、墳丘の形状は地形に残っている。
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日本武尊と弟橘姫様に御夫婦で御守護頂いている事を御礼申し上げて、改めて走水神社へも御礼参りに伺う事をお伝えして帰宅した。

24日の家の用事は年末の買出しの一環、新海苔を買う事。私事は走水神社への御礼参り。
実は走水海岸は海苔の名産で、正真正銘の江戸前海苔、しかも太平洋の綺麗な海水が流れ込んで来る場所で育っているので美味い!
これを正月のチラシ寿司用にと買いに来た訳だが、もちろん、主たる目的は別に有り走水神社の日本武尊と弟橘姫様への一年間の御礼参りだった。
先ずは海苔の直売所は後回しにして、❝かねよ食堂❞でランチした。
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かねよ食堂では、この日はランチの時間を少し過ぎてしまったのでカフェタイムの和食から金目鯛の煮つけ定食を頼んだ。
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金目鯛の卵の煮つけも付いていた。美味しかったです、いつもごちそうさまです!
余談だが、かねよ食堂の店員の御姉さん達は皆美人、オーナーシェフさんもサーフィンが好きすぎて三浦半島に住んだ人物だけありオシャレな雰囲気の日曜大工好きな変わった人(笑)。
食事を終えると、ながつか水産へ移動。車で1分、徒歩なら3分の距離。
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小生は❝かねよ食堂❞で食事する時や走水神社に御参りに来ると必ずこの❝ながつか水産❞で海苔を購入している。購入後、走水神社に御礼参り。
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1年間、御加護を頂いた事を日本武尊と弟橘姫様に御礼申し上げ、初詣に又来る旨を御伝えした。
走水神社はすっかり大晦日の二年参りの準備が出来ていた。
氏子の皆さん、ご苦労様です。
その後、せっかくの休日、真っすぐ帰宅するのが嫌で少し周辺を散歩しに行った。
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近くには現代では半島の先端の岬、海面の高かった古代には島だった御所ヶ崎と言う場所が有る。
ここは古事記にも登場する、日本武尊と弟橘姫様が一時、仮御所を建てて過ごしていた場所なのだが、それを知る人は現代では少ない。
日本武尊を小生は弥生時代を終わらせて青銅器全盛の古墳時代に変革させた人物だと推測している。
無論、一人の人物ではなくて、最初の日本武尊が走水で過ごした西暦100年代~200年代頃の人物で、その後にも応神天皇や雄略天皇等の事績も習合されていると推測している。
・・・と、言うか、恐らく日本武尊と言うのは古代の「征夷大将軍」の様な古代の称号と言うか非常設の官職名だったんだろう。
ちなみに走水に居た日本武尊は景行天皇の皇子で成務天皇の御実弟なのだが・・・。
景行天皇は卑弥呼の弟君だろう。三国志に書かれている、卑弥呼に唯一話せる男性と言うのが景行天皇だと思う。無論、只の当て感。
そして叔母の倭媛(やまとひめ)命は卑弥呼だろう。更に神功皇后は臺与だと思っている。
更に、日本武尊を接待した大伴氏は、走水神社では大伴黒主、横浜市神奈川区六角橋や同区浦島町では大伴久応と伝わるが恐らく同一人物で、この時代の日本武尊の伝承が関東における浦島太郎伝説の原型に成っていると小生は推測している。
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御所ヶ崎は、浦島太郎伝説の竜宮城と同じく海の❝中❞に在る。もっとも中の意味が少し違うが。
しかも弟橘姫様も海の中で生活する乙姫と同じく海中に飛び込み海の底に沈む。
恐らく小生の推測は当たっているだろうが、民話伝承なので古文書が有る訳でも無い。
この御所ヶ崎からは明治に成るまでは海岸線の先に富士山が綺麗に見えたのだが、御所址の神社は海軍に撤去されて軍事要塞化されて、現代では一般非公開に成っている。
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しかし今の季節なら門の前から旧社殿の在った石段の上の削平地が見る事が出来る。
立入禁止には成っているが現代も近くの丘からは走水の海岸線の真っすぐ先に富士山が見えて夕陽が沈む様を見る事が出来る。
この御所ヶ崎砲台を見学したければ横須賀市の公園管理課に予約を入れると見学出来る。
この日は、富士山は帰路の車の中から見るに留めた。
帰宅して文献読んだり資料整理したり。
朝までブログを更新して少し寝てから翌日仕事開始。

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その記事はコレ。年が明けた01月03日現在も随時更新中。

28日。
この日は母の要望で横浜南部市場に歳末の買出しに行って来た。
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この日の様子は既に別の記事↓コレで紹介しているので省略する。

昼から夕刻は義祖母の墓参りやジーパンを買いに行ってから夕闇にシルエットを浮かべる富士山を見た。
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帰宅してから部屋の掃除したり神社仏閣の纏め記事の更新を書いていたら翌日早朝になり、少し寝て又、仕事に向かった。


31日休日。昨年の大晦日は久しぶりに休みだったので、朝から南部市場を再訪した。
目的の一つは朝食。
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しかし、最終日は飲食店は殆どが営業終了していて、場外市場の寿司屋で、から揚げカキフライと豚汁の定食を頂いた。
カキフライがとても美味しかった。
この日の訪問の目的はズバリ❝毛ガニ❞だった。
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ビンゴ!
初日に1杯4200円した比較的質の良い毛ガニが、最終日は多くの店舗がほとんど営業しておらず客足も少ない事も有って売り尽くしで2杯5000円に価格が大暴落していた(笑)。
小生は昨年の経験からコレを予測しており、蟹は最終日に買う事に決めていたのだ。
良い買い物が出来て満足。
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夕刻16時、小生が横浜市内の智慧の神様として一番崇敬する永谷天満宮を参詣し、歳末の大払の神事に参加させて頂いた。例年仕事で来れなかったので嬉しい。
この永谷天満宮は菅原道真公の5男で父上同様に賢者として名高い菅原淳茂公の御住まいに成っていた邸址に立っており、そして御神体も道真公が自らの姿を手彫りした彫像だったりする。極めて菅原道真公の御利益が強いと言える場所。
アホで喧嘩っ早い小生が生きてられるのは永谷天満宮や関東に関わった菅原道真公・菅原景行公・菅原淳茂公の御蔭だと思っている(笑)。
改めて参列時の写真を見ると小生より前列の参列者は皆さん頭がハゲ上がっ・・・
何でもない。小生も気を付けて髪の毛を労わろうと今、写真を見て思った。
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神事で形代に厄を移して、宮司様に焼いて頂く。
形代には息を吹きかけて厄を移すのだが、小生の後ろにいた不倫バカップルみたいなジジ・・・中年の方が小生の首にまで息がかかる程強く息を吹き腐って、生理的にも気色悪いし、とても縁起が悪いので、その後、手水舎の水でメッチャ首を洗って清めた(笑)。
帰宅すると1月1日は小生は仕事が在ったので、資料を見ながら神社仏閣紹介のブログを更新してから寝た。

1月1日
早朝の5時頃に目が覚めたので、走水神社に初詣に行く事にした。
日本武尊と弟橘姫様と大伴久応黒主様に新年の御挨拶の御参りに行った。小生の氏神様は東京都羽村市と熊本県にいらっしゃるのだが、横浜市における土地神様や智慧の神様として崇拝している永谷天満宮は翌日の休みにユックリ参拝する計画だったので、先ずは走水神社に御参りに行く事にした訳だ。
前日永谷天満宮で不倫バカップルっぽい中年男に息を吹き込まれたせいか、元日早々変わった事が有った。
御酒の匂いを漂わせた陽気な御兄さんにガソリンスタンドで話しかけられ、何やら深酒で酔っぱらっている御兄さんは判断力が低下していたのが強い口調で語りかけて来たのだが、その後、何故か握手を一方的にされると言う珍事を経験した。
ふむ・・・
寒川神社の寒川比古様と寒川比女様の八方守り買っておいて良かったな。
いつもの小生なら話に応じず、イライラしたかも知れない。何言ってるか解らん奴の相手なんぞ平素なら絶対にしないと言うか、握手されるとは知らずに手を掴まれそうになったら問答無用で頭突きするかもな。
まぁ、御守りと言うのは正直「心の持ち様」と言う所は有ると思う。
しかし、御守りをどう言う心算(つもり)で買って持っているかと自覚する事が大切なんだとも思う。
困った時の神仏頼みと言うのは、最後の最期で自分だけではどうにもならない面を精神的に後押しして貰う事自体が大切なんだろう。
取りあえず、不倫バカップル爺の呪い(笑)は寒川神社の神様がブロックして下さったんだと思う(笑)。
てか、酒に飲まれるようなバカは一生酒飲むなボケ!弱い癖に飲むんじゃね~よ!
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先日は無かった横断幕が掲げられていた。
拝殿で参拝してから、裏山の奥宮にも参拝して、早朝の走水湾の風景を見た。
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清々しい。
この元日は朝から良い事も有った。
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御所ヶ崎近くの丘から、走水の海岸線のずっと先に綺麗に富士山を見る事が出来た。
気持ち良く1年の始まりを迎え、仕事始めも終える事が出来た。

さて、皆さんは今年一年、どんな目標を持っているだろうか?
小生は神社仏閣の保護や歴史偉人と神様に成った先人達の顕彰活動を公に頑張りたい。
間宮家の顕彰活動は今年、形に成る。
織田信長公の実質本妻の生駒お類様の菩提寺の久昌寺の支援活動を経済面でも文章でも形にしたい。
それを通じて先ずは経験と実績を積んでフォーマットを築き、横浜市内と県下の偉人と所縁深いけど荒廃している神社仏閣歴史史跡の保護と再興事業を将来担いたい。
個人的にはささやかな願いだがダイエットを成功させる。
あとは昔の様に武術を何か時間を作って習いたい。武道じゃなくて武術ね。
結果的に、公私ともに充実した1年にしたい。昨年より更に。
しかし昨年は睡眠時間が少なすぎて髪の毛に負担をかけたので、今年は本来の小生の剛毛に復活させる為に睡眠は十分に気を付けよう。
・・・と、いいつつ昨日2日は神社仏閣紹介記事用の写真撮影で徹夜のまま早朝に川崎の橘樹神社に行った後に下道で中原街道沿いに、都筑~大和市の左馬神社~綾瀬~寒川経由~二宮町の川勾神社~~二宮町国府本郷へ移動~六所神社~箱根駅伝見物~馬場公園~神揃山~大磯町へ移動~大磯城山公園の古墳群を見学~高来神社~平塚市へ移動~平塚八幡宮と回り、更に伊勢原市に移動して例年の三之宮比々多神社の初詣をし可愛い巫女さん達(笑)に鈴で御祓いをしてもらってから元宮を御参りして帰って来た結果、徹夜のまま13時間活動してしまった。
これでは、いくら禿げない小生の遺伝子でも又、髪の毛が細くなってしまう。
本当に気を付けよう。

さて、次回は神社仏閣紹介記事を更新しつつ、まだまだ未紹介の城址、神社、仏閣、歴史史跡が有るので何か解説記事を書きたいと思います。

では!皆さん、祝新年快楽!皆さんにとって良い1年に成ります様に~。
そして熊本の復興と常総市の復興と東日本大震災の復興が早く成し遂げられます様に。

下の写真は港南区笹下に所在する梅花山成就院です。
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この御寺の存在を横浜市でも知らない方が多いとは思いますが、杉田玄白や間宮林蔵の一族、間宮家の安土桃山時代~江戸時代初期の本家と歴代住職が深い関係が有ります。そして戦国時代の笹下城の一角に建っている御寺です。

この成就院の山門は江戸時代に本牧奉行を務めていた間宮家の本家、笹下間宮家が本牧奉行を辞任し、幕府により下総国に転封される際に笹下陣屋から移築されたものです。つまり江戸時代初期から存在する間宮家の屋敷の邸門です。
笹下間宮家と言うのは江戸時代に旗本として成立した家で、そもそもは室町時代に鎌倉将軍府の初代公方、足利基氏公に従って近江国より伊豆国に移住して来た佐々木一族の舟木信行が、現在の伊豆の国市、旧函南郡馬宮(まみや)に移住して来た際に、所領となた馬宮の地名をとって馬宮に改姓、後に間宮を漢字を改めた事に始まる一族です。
祖先は宇多天皇、近江国篠箇(ささげ)庄の出身の近江源氏佐々木家の一族です。
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六角家、京極家、黒田家、乃木家、間宮家は全て佐々木一門で、佐々木家の祖先で宇多天皇の御子息の敦実親王を御祭神とする滋賀県近江八幡市安土町に所在する延喜式内社(西暦800年代以前造営と朝廷公認の神社)の沙沙貴神社にも、間宮家の家譜が佐々木一族として記録されています。
その間宮一族は関東において武将として陸戦のみならず水軍も率いており、更に築城家、鷹匠、外交官、内政官としても活躍した記録の残る稀有な一族です。
戦国時代には北条家臣と成ると、“相模国人衆の14家の筆頭”に数えられました。
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上は神奈川権現山合戦で活躍する間宮彦四朗=間宮信冬公です。
戦国時代に最初に活躍したのが、鶴見区末吉、川崎市川崎区一帯を領有した間宮信冬公です。
間宮信冬公は扇谷上杉家と山内上杉家の連合軍を、北条家の先鋒として現在の京急神奈川駅一帯に在った権現山城に上田政盛公と共に籠城し迎撃すると、敗戦濃厚と成った際に敵陣への突撃を敢行し武名を関東中に轟かせました。
時代は下り、信冬公の系譜上の跡継の間宮彦二郎信盛(別名:信親)公が信冬公の権現山合戦の頃に川崎を一時失陥したと思われ、本拠地が川崎や末吉から磯子区杉田に移ります。
更にその後、信冬公の孫の間宮信元(別名:盛頼)公と曾孫の間宮康俊(別名:信俊)公と間宮綱信公時代には現在の港南区笹下地区~磯子区洋光台地区の広大な範囲に築城された笹下城に移されました
間宮康俊公は安土桃山時代の間宮家当主で、関東最強だった猛将の北条綱成公の付家老(つけがろう:家臣ではなくて役職上の補佐官)として大活躍します。北条綱成公は武田信玄や上杉謙信の侵略から幾度も防衛に成功した名将で“地黄八幡”の異名で周辺大名から恐怖の対象と成った人物です。
その綱成公の強さは、武田信玄は配下の真田家に対して「地黄八幡の武功に肖(あやか)れ」と、戦場に落ちていた北条綱成公と間宮家の率いた”黄備え隊”の軍旗を真田家に与え薫陶を授けた程でした。この”朽葉色の八幡旗”は以後真田家の家宝と成り、現在も松代市の博物館に保管されています。
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※写真は日本百名城の一つ、箱根の山中城。出丸と、それを取り囲む障子掘り状の三日月掘り。
間宮康俊公は北条綱成公の没後、豊臣秀吉の小田原攻めの際に箱根山中の山中城に城将松田康長と共に手勢200弱で籠城、秀吉軍本隊8万の先鋒豊臣秀次率いる中村一氏と渡辺了、一柳直末、堀尾吉晴、山内一豊、長谷川秀一等有名武将の大軍勢26,000を迎撃、圧倒的不利で玉砕するも奮闘し豊臣勢に寡兵で大打撃を与え、秀吉配下の小大名一柳直末を討取る大功を建てました。
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※上の写真は横浜市鶴見区下末吉に在る長谷山寶泉寺です。
鶴見区に在る長谷山寶泉寺は江戸時代に成っても毎年、間宮康俊公を慕う旧家臣団が集まり追善供養を行った場所で、康俊公の御位牌も最近まで安置されていた場所です。
現代では普元院殿武月宗閑が一般に康俊公の戒名と誤って認識されてしまっています。
これは康俊公の御息女で徳川家康公の側室に成った“間宮於久(おひさ)の方”様と御子孫の戒名取り違えによって康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名である普元院殿武月宗閑が誤認されてしまった様です。
この普“”院殿武月宗閑には間宮信元公の俗名の"元”の漢字が入っている事からも、戒名に俗名を一字取り入れる事の多い風習を考えれば、やはり信元公の戒名が現代、康俊公の戒名として取り違えられてしまっている様です。
この康俊公の入道号( にゅうどうごう=出家した僧名)は江戸時代に家臣団が度々追善供養を行った寶泉寺では正しくは「一宿宗覚庵主」として伝わり、戒名は「普光院殿壱宿宗覚庵主」とされています。。この戒名は康俊公が参禅した際に伝燈録の永嘉(ようか)大師の法話を紹介した間和の記録にも残っていたそうですが、近年の寶泉寺の本堂の火災で文書や康俊公の御位牌は焼失してしまいました。
しかし新編武蔵風土記稿に御位牌が祀られていた菩提寺である事が記録に残ります。寶
泉寺寺伝の戒名が正しいと断定出来る記録が更に別の御寺にも残ります。
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※上の写真は横浜市南区の瑞往山蓮華院弘明寺(ずいおうさんれんげいんぐみょうじ)です。
この弘明寺は元は求明寺と書いて「ぐみょうじ」と読みました。鎌倉時代に寺名を一字改名していますが、横浜市では最古級の御寺です。この御寺には間宮家の家臣団と武将が多く関与しています。
一つは、間宮信俊公と言う人物の記録が有ります。天正十八年(1590)年、間宮康俊公が山中城で討死する前年に官途が監物の間宮信俊公が弘明寺の寺宝の花瓶を私財で修理し奉納した記録が残ります。
信俊公と康俊公の名前が酷似していますね。これは同一人物で、信俊は康俊公の初名、もしくは北条家の武将としてでは無く個人として真言宗寺院に関与する際には祖先の佐々木家以来の“通し名”の一字である"信”の字の入った名前、初名の信俊を名乗ったのではないかと推測出来ます。
更に、有力な証拠が記録に存在しています。
江戸時代、間宮信元公の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌編纂で功績を上げて頭取を務めた間宮士信(ことのぶ)公が編集した記録にスケッチされた絵図と一緒に紹介されている、弘明寺の扁額に関する記載です。
この記載によれば、現代では紛失した“弘明寺”と書かれた扁額は入道号が宗閑と言う人物の同伴衆(家臣団)によって大永元年(1521年)に奉納したと扁額に裏書されているそうです。
その中には川崎大島村の伊左衛門と言う、寶泉寺で追善供養に参加していた人物の祖先と思われる人物の名も有り往島(おうしま)と記載されています。扁額の裏書には“板旦那神奈川住人”と書かれ製作出資者の一同が間宮家の所領、神奈川と呼ばれた川崎~末吉~権現山一帯の人間である事が解ります。続いて“端山内匠助国重”と書かれています。“端山(はやま)内匠助(たくみのすけ)国重”は製作者名でしょう。続いて書かれた“本願宗閑 同伴衆”奉納者達が宗閑の家臣団と解ります。つまり、この扁額の奉納時に、既に彼等を配下にしていた宗閑は生前から禅宗に帰依して入道(僧籍に入り)“宗閑”の入道号を名乗っていた証拠に成ります。
宗閑の戒名は一般的に間宮康俊公の戒名と言われていますが、間宮康俊公は永正十五年(1518年)生まれです。
この弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で間宮康俊公は僅(わず)か3歳ですので、当然、僧籍に入り入道号を得る程の年齢でも無ければ、家臣団を従えて神社仏閣に祈願の奉納もする訳も無いし、まだまだ間宮信元公が存命中なのに3歳の康俊公が家財を投入出来る訳も無い訳です。
こと、ここに至れば当然、戒名と名前の“元”の漢字の一致、年齢からやはり康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名が普元院殿武月宗閑であると判断出来ます。
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※上の写真は伊豆山中城址に建つ宗閑寺。間宮康俊公の菩提寺。
間宮康俊公は天正十八年(1590年)旧暦三月二十九日(5月3日)に当時としては高齢の72歳で戦死しています。
恐らく、康俊公の御息女の於久様は旦那様の徳川家康公に御願いをして、山中城址に康俊公の菩提寺を建てる際に御寺の名前を決める為に康俊公の一番最近関与した御寺を訪ねて法名を決めて貰ったはずです。
つまり、信俊と康俊が同一人物であるなら、間宮家の関与していた弘明寺です。
そこに間宮康俊公が生きた時代に記録である入道号が“宗閑”と扁額に有ったので、そのまま御爺様の間宮信元公の事績を年齢的に知る筈(はず)も無い、於久様や徳川家によって派遣された人物が当時の弘明寺の調査をして、この“宗閑”を康俊公の入道号と誤認したのでしょう。そして、間宮康俊公の戒名にしてしまった。ところが、家臣団達は康俊公の没後直ぐに康俊公が信冬公が開基した寶泉寺を中興した事を当然知っていて、寶泉寺の住職にちゃんと戒名を付けてもらったので法謚(ほうし=入道号)は一宿宗覚庵主で普光院殿壱宿宗覚庵主と戒名が伝わったのでしょう。そして曹洞宗の僧侶達はそれを知っていたので、江戸時代の法話でも伝えたのだと推測が成り立ちます。
この一宿宗覚庵主が鶴見区の家臣団や川崎の家臣団の伝承通り康俊公の入道号ならば、更に信俊と康俊の事も差異が埋まります。
 では、間宮信俊と間宮康俊の謎に移りましょう。
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※御廟所の写真撮影は失礼に当たるので掲載しません。
この御本堂の左手に、間宮家や豊臣方の一柳家や長谷川家の戦死者の御廟所が在ります。
間宮康俊公の五代子孫、間宮正次公が箱根の山中城址で追善供養を行った際に、この信俊公と康俊公を別人で兄弟として間宮家の墓碑を建立しています。
この墓碑には間宮信俊公の異名が"一本将監(いっぽんしょうげん)”として、間宮康俊公の法名が“普元院殿武月宗閑”と彫られています。しかし、康俊公の生年から普元院殿武月宗閑が戒名で有る事は無い訳です。

間宮信俊公の異名が"一本将監”で有る事、寶泉寺と川崎の家臣の伝承の間宮康俊公の戒名が“一宿宗覚庵主”である事、弘明寺の寺宝の壺を直した間宮信俊公の官途が“監物(けんもつ)”で有る事、これらの名前は少しづつ似ていて、他には例のない相似です。
時系列でまとめてみましょう。
間宮康俊公の名前の“康”の漢字は主君の北条氏康公からの一字拝領。
両者の年齢、康俊公の生年の永正十五年(1518年)と北条氏康公の元服の享禄二年(1529年)から1529年以降しか北条氏康と名乗った事実は無いので、弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で主君の北条氏康公から“康”の一字を拝領する事は不可能よって年齢から初名が間宮信俊と推測
②公私と宗派による名の使い分け。
北条家は曹洞宗で家臣もこれに従う習慣が有ったので、祖先の佐々木家以来の宗旨が真言宗で有る事から、公の北条家臣と私では名前を使い分けていたのでしょう。
北条家臣として御寺に関わる時は康俊。
佐々木家以来の伝統で真言宗の御寺に関わる時は祖先以来の信の字が入る初名の信俊。
③徳川家の使者の調査ミスによる間宮信元公の戒名を誤報告。
①や②の事情をを知らない於久か徳川家康公に派遣された徳川家の調査員が誤って間宮信元公の戒名を報告した。ところが笹下と杉田と氷取沢の間宮一門衆や旧間宮家臣団は間宮康俊公の入道号が“宗覚”と当然知っていて、康俊公と一番関係の深かった寶泉寺の当時の御住職に戒名を一宿宗覚庵主と決めて貰い既に寶泉寺で供養をしてしまっていた
④徳川幕府のミスを間宮家臣団が指摘できる筈も無く…間宮信俊の俗名と康俊普元院殿武月宗閑戒名の併用
戒名における徳川家のミスを間宮家や家臣団が指摘しよう物なら徳川家康公のメンツも潰す事に成る、於久様の立場も悪くする、更に家康公に外戚として重職を与えられ可愛がられた康俊公嫡孫の間宮直元公の地位も危うくなる。
そんな指摘を出来る訳が無い!そこで…
間宮一門衆はやむなく
公の立場で間宮康俊公の供養をする際は間宮康俊普元院殿武月宗閑と俗名の間宮信俊を兄弟として両方一緒に供養する事以外に手段が無かった。
⑤…ところが子孫には④のそんな事情も知らない物も100年も経てば当然出て来た。
間宮本家の五代目、間宮正次公は四代目の養子。しかも四代目の間宮正信公は実兄だった。つまり、間宮正次公は嫡子としての教育を受けないまま兄の養子に成って跡を継いでいる。一般的に兄弟間で養子に入る際は大体が兄の急死による末期養子か、無嗣子のまま体調が悪くなり途中から養子に入るパターンが多い
そして間宮正次公は兄の病死を祖先の戦死した山中城で供養をしなかった祟(たた)りとでも思ってか、山中城で追善供養を行う事にしたのだが…
間宮正次公は山中城で祖先達の追善供養を行う際に、家系図を調べたが、幕府提出用に編纂された家系図には④の事情から同一人物の間宮信俊と間宮康俊の名が有り、更に公式な戒名として記録されてしまっている普元院殿武月宗閑が間宮信元公の戒名と何ぞ知る訳も無く、墓碑に間宮信俊公と康俊公を別人格として彫らせてしまった。
そして、これが間宮家内で間宮信元公の戒名が忘れ去られる原因に成ってしまった。
以後、現代に至るまで多くの学者がこの事実を知らず、寛政重修諸家譜の誤りをそのまま引用するしか無く成り、間宮家の最古参の家臣団の集まる川崎や下末吉地域に伝わる正しい間宮康俊公の戒名の一宿宗覚庵主が現代では余り知られなくなってしまった…

そんな訳で、有名な文書しか読まない学者先生には申し訳有りませんが、時系列による寶泉寺や古参家臣団の伝承と弘明寺の記録上、寶泉寺の寺伝が正しい事に無いります(笑)。

又、間宮家では康俊公の御舎弟、間宮綱信公も大変に活躍されました。
滝山城主で北条家当主北条氏政公の御舎弟北条氏照公の付家老として活躍した人物です。間宮綱信公は築城家、内政官、外交官として活躍し、北条家の外交官として徳川家康公と謁見し、更には安土城に赴き織田信長公にも謁見した人物です。
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※写真は日本百名城の一つ、八王子城の御主殿(本丸)の石垣。八王子城は間宮綱信公の縄張りと伝わる。
また、間宮信冬公の孫の代に分家した杉田間宮家も初代の間宮信次(本名:常信)公が記録に残ります。
間宮家が三浦半島の走水で房総半島の里見家の水軍を撃破し敵軍船14艘を鹵獲する等の大活躍をした際に、杉田間宮信次公は手勢50人余りと玉砕した記録が現代に伝わります。この手勢50人は歴史に興味の無い人からすれば小勢ですが、実際は一万石の大名の動員可能兵士数が300人なので、石高換算すると江戸時代の1500石相当の大身旗本クラスに相当します。小大名の家来なら家老に成れる程でしょう。
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※上の写真は戦国時代からの杉田間宮家の菩提寺、牛頭山妙法寺。
杉田間宮家は水軍を持つだけでなく、笹下間宮家の間宮康俊公の子の間宮元重公、康俊公の娘の継姫(つぐひめ)様の子の間宮(旧姓:豊前)元盛公と並び“鷹匠”としての高い教養を備えた家柄でした。
当時の鷹匠は武士で、鷹狩は高貴な血筋の武士の嗜みでした。
江戸時代に成ると杉田間宮信次公の嫡孫、間宮信繁公が大規模な梅林を造営し杉田梅林として有名に成りました。
この杉田梅林で植林されたのが幻の高級梅干し“杉田梅”の原種で、この梅林は江戸時代を通じて江戸市民の観光旅行先として有名で、明治~大正にも皇族の方々が度々訪れる程でしたが、横浜市教育委員会が保護を怠った為に杉田梅林は宅地開発され消滅してしまいました。
現在の御住職様が妙法寺の裏山、“妙法寺山”と昔呼ばれた境内地の丘の上に梅林復興を目指し目下奮闘中です。
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※写真は小田原市の曽我梅林。神奈川県下最大の梅林で現在は曽我十郎梅の産地。
実は曽我梅林の起源は、昭和初期に杉田梅林が消える直前、杉田から移植された杉田梅の梅林を発端としています。そして、この梅林の杉田梅を更に品種改良したのが曽我十郎梅と言う訳です。つまり、間宮信繁公の植えた梅の遺伝子を継ぐハイブリッド品種が曽我十郎梅で、東の梅の横綱と言う訳です。
そんなこんなで間宮家は色んな殿様が色々あって家系図も混乱していますが、素晴らしい功績を残している訳です。
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※上の写真は駿府城。
間宮綱信公が徳川家康公と直接面識が有った事、間宮家が間宮信冬公~間宮信盛(信親)公~間宮信元(盛頼)公~間宮康俊(信俊は同一人物の可能性有り)と歴代水軍、陸軍の戦闘で北条綱成公の武名を支えた事、そして最後の山中城の戦いの活躍が徳川家康公の目に止まり、於久様が側室と成り御姫様を産み、駿府城で生涯を終えました。
※下の写真は家康公の祖母の源応尼様の菩提寺で、華陽院と名付けられた。
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華陽院の寺名は、家康公の祖母の源応尼の戒名をとって名付けられました。家康公に大切にされた於久様は、この華陽院に御廟所が設けられ、家康公の御婆ちゃんの近くで眠ってらっしゃいます。
さて、ここからやっと笹下城址に建つ梅花山成就院に話が戻ります。
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この成就院の山門は間宮家の笹下陣屋の邸門です。
つまり、徳川家康公の側室、間宮於久(おひさ)の方の甥っ子の間宮直元公が初代として数えられる笹下外戚で、間宮直元公~御子孫の正次公が本牧奉行を辞職して下総国へ転封されるまでの四代の間の邸宅の門だった訳です。

そして成就院の背後の丘一帯が冒頭で紹介した笹下城本丸跡です。

この成就院一帯には昭和のIHI団地開発で破壊されるまで境内と周辺一帯が江戸時代に植林された梅林に囲まれていました。先に紹介した磯子区杉田の牛頭山妙法寺周辺の杉田梅林と合わせて観梅の名所でした。

現在では杉田と笹下は近代の横浜市成立後の区域分割で分けられていますが、間宮家が川崎市堀之内に在った城館から久良岐郡に移った頃には、杉田と笹下は一つの久良岐郡“上/下杉田郷”と言う区分でした。1510年に権現山合戦が発生し間宮家が杉田郷に移住し、1526年に鶴岡八幡宮合戦が起きて鎌倉防衛と沿岸部の防衛を兼ねた城が必要に成り、間宮家が信元公の代に至って鎌倉街道と金沢(六浦)道を押さえるのに適した笹下村の丘陵に笹下城を築城し本拠地とすると、笹下の地名が記録に登場する様に成ります。これは笹下城の名が間宮家の故地、近江国篠箇(ささげ)から名付けたとする説にも整合性が有り、杉田を治めた間宮信次(常信)公と兄弟での統治区分から笹下城の笹下郷と杉田郷と区分された様です。しかし以降も江戸時代まで杉田郷を笹下郷の地名が両方混在して記録される事も有った様です。

そんな杉田梅の杉田梅林と笹下城址の梅林を江戸時代初期に非常に身分の高い方々が京都から見学にいらっしゃった事が成就院に関する記録に残ります。前関白の九条幸家公と京都の本願寺の第十三世良如上人が金沢八景を遊覧しに参られた時に、笹下城址の梅林も見学にいらっしゃいました。九条幸家公の御姫様は良如上人の御妻女でした。この間宮家の梅林見学の際、御二人は成就院に滞在され梅林の美しさを絶賛された事で成就院の山号は梅花山に改められた歴史が有ります。

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※上の写真は築地本願寺です。

現在の本堂は関東大震災後、昭和九年(1934)年に完成したインド様式近代建築で国の重要文化財に指定されています。
浄土真宗関東根本道場として徳川家康公、本田正信公、間宮直元公の没後直ぐの元和三年(1617年)に最初の堂宇伽藍が完成しました。築地本願寺の造営には、徳川家康公の要請で大坂から移住して来た佃島の漁師達の協力が有り当時は海だった境内地と周辺の築地の埋立工事が成功しました。

築地本願寺の建設中は丁度、大坂冬の陣の直前に当たり、徳川家康公が駿府城に御隠居し、徳川秀忠公は征夷大将軍として江戸城に在城していました。間宮家が付家老として与力した玉縄城主の北条氏勝公は下総国岩富城に転封され、家康公参謀の本多正信公が玉縄城主に成っていました。

梅花山成就院に良如上人がいらっしゃったのは、完成して数十年後の築地本願寺へ御越しに成る際に鎌倉~金沢~笹下と金沢道(笹下釜利谷道路)沿いに旅をし遊覧されて回った事が推測出来ます。そして笹下杉田の梅林の事を御存知だったのは、築地本願寺建設中に准如上人の時代に、本多正信公が熱心な一向宗(※当時、江戸幕府統治下での浄土真宗の名称)門徒だったので、居城の玉縄城から近い間宮家の笹下と杉田の梅林を観光地として准如上人へ紹介されていたのでしょう。

加えて、氷取沢間宮家の間宮綱信公の菩提寺である宝勝寺や、笹下間宮家臣団の関与の有った成就院が一向宗の寺院だった事から、間宮家の笹下城本丸跡の下に建つ成就院が良如上人御一行の滞在場所に成ったのかも知れません。

杉田梅林や岡村梅林に匹敵する規模を有した笹下の梅林も、横浜市教育委員会と観光協会による保護が無かった為に残念ながらIHI団地の建設で消失しました。
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※写真は鎌倉の若宮大路から見た鶴岡八幡宮。

この成就院には幕末に僧籍から還俗し、元治元年(1864年)11月21日に鎌倉の若宮大路で鎌倉事件を起こした間宮一の廟所も存在します。

鎌倉事件は攘夷派の間宮一と清水清次が起こした事件ですが、二人の姓は伊豆以来の旧北条家重臣の姓です。鎌倉事件は間宮林蔵公にも見られる旧北条家臣団の結びつきを伺わせる事件でもあります。

この鎌倉事件の発端に成った事件が2年前に横浜市の笹下間宮家の旧領、末吉から近い生麦で起きています。

生麦事件は英国政府による日本での租界地獲得の政治的意図が見え隠れする事件で、間宮一はこれに義憤を感じ事件を起こした様です。

間宮一が同じ旧北条家臣と思わしき清水清次と鎌倉事件を起こした元治元年の2年前、戦国時代に間宮康俊公の所領だった鶴見区末吉の直ぐ隣の鶴見区生麦で、文久二年(1862)年8月に日本人なら誰もが義務教育で“生麦事件”が起きました。
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上の写真は鶴見区生麦の旧東海道、生麦事件発生現場と、下の写真はそこに民間によって設置された碑文。
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文久二年(1862年)8月、公家と武家が過激派の攘夷分子と、現実路線で分裂し日本に内戦の気配が漂い始めた頃、内戦を阻止し日本の速やかな近代化を図(はか)る薩摩藩の前半主島津久光公は公武合体を将軍に具申すべく薩摩兵700を率いて江戸へ登り、その帰り道に現在の横浜市鶴見区生麦で事件は発生しました。
横浜の英国人商人マーシャル、マーシャルの従妹で香港在住のマーガレット、横浜の米国人商人のクラーク、上海在住の英国人商人リチャードソンが事も有ろうに薩摩藩の軍列に対し正面から騎乗したまま突っ込んで来ました。この様な行為は英国でもテロ行為と見做(みな)されて即時射殺か斬殺されて当然の行為なので、彼等の中に何某かの意図が有ったのは明白でしょう。

しかし薩摩藩士達は外国人で有る事から日本の作法を知らないものと解釈し、当初は前衛の藩士達が騎乗のまま突っ込んでくる欧米人に対して身体を使って道を明ける様にジェスチャーをしたそうです。しかし英国人達は騎乗のまま隊列に突っ込んで来ました。これは明らかな政治的な意図の介在する挑発行為、もしくは本当に愚かな白人上位思想からくる黄色人種蔑視から来る嫌がらせでしょう。英国でも当然、庶民が貴族の馬列に正面から突っ込み体当たりをすれば反社会的行為と見做されます。挙句の果てに、彼らは久光公の籠の傍まで来て薩摩兵の隊列を

き乱す動きをし縦横に動き回ったそうです。その暴挙に至り、薩摩藩士はやむなく前藩主久光公護衛の為に不良外国人4人に斬りかかりました。
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※上の写真はリチャードソン落命の場所に日本人によって建てられた供養碑です。

4人はアメリカ領事館であった本覚寺に逃げ込もうとしますが、結果的にリチャードソンに致命傷、現在の国道1号線(東海道)と旧東海道の合流地点近くまで来て落馬した所で止めを刺されました。マーシャルとクラークは重傷、マーガレットは騎馬で薩摩藩の隊士蹴散らし離脱しました。

リチャードソン落命の場に日本人が建てた供養碑が有ります。一連の事件は明らかに英国人集団に非が有ります。しかし英国は事件の発生直後に幕府に対して莫大な賠償金を請求します。日本への賠償金請求に発展した挙句、幕府が道理に乗っ取り拒否すると理不尽にも英国外務大臣のラッセルが対日宣戦布告の準備を横浜で始めさせます。極めて計画的です。

これは巧妙に仕組まれた英国による租界、或るいは植民地獲得の為の政治的意図が見え隠れします。

この英国の強硬な態度に対して、国際法を熟知していない老中並の小笠原長行は英国と日本国の間で調停裁判を起こす事も無く、臆して独断で賠償金支払いを決めてしまいました。幕府の賠償金支払い後も当然ながら英国は脅迫を止めず英国艦隊を鹿児島湾に強硬入港させ、薩摩に対しても賠償金を請求し挑発をします。英艦隊は薩摩藩軍艦を拿捕し更なる挑発をすると薩摩藩は生麦事件の時と同様に喧嘩を買ってしまい英国艦隊を砲撃し薩英戦争が勃発します。

しかし、ここからが面白い事に恐らく英国人にとっては予想外だった展開に発展して行きます。

薩摩藩は意外にも劣った武装と防衛施設で善戦し、英国艦隊に大打撃を与えてしまうのです。これは日本人にとって幸運な事で、英国人の日本人に対する明治期の好意的な評価につながって行ったと思われ、薩摩藩も英国の植民地化されずに済み、更には日本近代化の窓口を大きく開いた瞬間でもありました。後に英国は近代において最大の親日国、支援者に成りました。

※下の写真は横浜市中区の本牧山妙香寺です。
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妙香寺は弘仁五年(814年)に弘法大師空海和尚の開いた寺院で、本牧山東海寺と言う寺名でしたが、鎌倉時代に領主で御寺の大旦那だった佐藤家が、日蓮上人が同寺に滞在された際に感銘を受け宗旨を改宗したそうです。

山号の本牧山の通り、久良岐の丘、本牧半島の先端に在る寺院です。

古代の日本武尊の頃~奈良時代に本牧半島は軍馬の生産地でした。これによって本牧の地名が当地に残ります。妙香寺は江戸時代、多くの学僧を抱えた壇林として栄えた御寺で、間宮直元公が本牧奉行として治めた地域に在る御寺でもあります。幕末に成ると、江戸幕府に寺域が英国軍の駐留地として指定された事で日本の吹奏楽発祥地・国家君が代発祥地・テニス発祥地に成りました。
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※写真は山手町公園内に在るテニス発祥記念館。

薩英戦争の際の薩摩藩の善戦によって英国はアプロ―チを変えて行きました。薩摩と英国は蜜月な中に成って行き、現在の横浜市中区の本牧山妙香寺に英国軍駐屯地が置かれると、薩摩藩士が妙香寺に入りびたり英国軍のジョン・ウィリアム・フェントン軍楽団長に師事して吹奏楽を学ぶ様に成ります。

このフェントン軍楽団長が「世界に通用する国として国歌を持つべき」との提言が有り、日本国歌が作曲される事に成りました。“君が代”はフェントン軍楽団長作曲、歌詩は後の大山巌(おおやまいわお)元帥により行われ、古今和歌集第七巻賀歌の部から選定されました。
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※写真は江戸時代に榊原照清公の邸宅が在った当時は海に浮かぶ島だった越中島跡に架かる錬兵衛橋。
杉田間宮家の間宮信繁公の御息女は、久能山東照宮初代宮司の榊原照久公に嫁いで、榊原照清公を産みました。その居所が在ったのが東京都江東区に在る越中島と言う当時は島だった場所です。現在は埋立られて地域名に成っています。
明治三年(1872年)9月8日に国歌君が代は初めて日本で演奏されました。その場所が越中島でした。
この越中島は紹介した通り間宮家と所縁の深い土地でありますが、大山巌元帥も間宮家と同じ近江源氏佐々木家支族で家紋も間宮家の家紋と酷似した“丸に隅立て四ツ目紋”です。         
丸に隅立て四ツ目紋丸に隅立て四ツ目紋、大山家の家紋。
隅立て四ツ目結び紋隅立て四ツ目結び紋、近江源氏佐々木家と間宮家の家紋。

この様に、間宮家が嘗て治めた土地で、同じ佐々木家の御子孫の大山巌元帥とフェントン軍楽団長によって最初の君が代が作られた事も、有る意味御縁なのかも知れません。今の君が代はドイツ人音楽教師エッケルト先生の編曲です。
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※上の写真は横浜市中区に有る横浜開港資料館です。

昭和六年(1931年)年に英国領事館として建築されました。
ペリー神奈川上陸
※ペリーが上陸した際の絵図。横浜開港資料館の屋外展示でも見れます。
この庭に在る玉楠(たまくすのき)はペリー提督が上陸した際の絵にも描かれていて、英国領事館は横浜の地名の由来に成った半島の上に建っている事が解ります。
開港資料館には生麦事件で起きた薩英戦争の白人犠牲者だけを追悼するプレートが壁に有ります。
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玉楠の樹の横には絵図の通り昔、弁財天様の御社が在りました。この弁天様は源頼朝公が勧進し造営した弁天様でしたが、関内地区が外国人居留地に成った頃、元町と羽衣町にそれぞれ分祀遷座されました。
明治の神仏分離令で渡来神で神仏習合の弁天様は、そのまま神社に御奉り出来なくない名前を厳島神社に改められて主祭神の名も日本神話の市杵島姫様に変えられてしまった事で、現在では源頼朝公が勧進した神社と言う縁起を知る人は宮司様と禰宜様達を除いては横浜市民にも御存知の方もほとんど居ません。
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元町の弁天様の御神紋は鎌倉の銭洗い弁財天こと宇賀福神社と同じ北条三鱗に浪切紋なので、恐らくは源頼朝公が開いた宇賀福神社から勧進され、後に鎌倉幕府執権の北条時頼公の支援が有ったと推測出来ます。
昔の横浜の地名の由来の半島の内側が、戦国時代の蒔田湾で、戦国時代の鶴岡八幡宮再建で、蒔田吉良家の殿様の吉良頼康公と、間宮家の間宮康俊公が再建の際に笹下川~大岡川~蒔田城下の蒔田湾へ材木を集積し、間宮家の杉田湊に水運で運び、更に鎌倉まで輸送しました。そんな港、蒔田湾が在ったのが横浜開港資料館を挟んで現在の山下公園や大桟橋と反対側の横浜球場~吉野町一帯でした。
蒔田湾は江戸時代に埋め立てられて吉田新田と成り消えましたが、安土桃山時代~江戸初期まで間宮直元公~間宮正次公の五代の間、本牧奉行として間宮家が管理した港でもあった訳です。

この様に間宮家の歴史は横浜と深い関わりが有り、所縁の神社仏閣史跡を廻るだけでも横浜や東京を散歩して回る口実も出来ます。
そして、その神社仏閣は思いがけず皆さんと昔の偉人達を繋ぐタイムカプセルに成ってくれる訳です。

皆さん、近所の神社仏閣や史跡を御散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

神奈川県横浜市港南区野庭町1853
【営業】定休日:月曜日・火曜日・水曜日 AM11:30~PM15:00
【業態】Cafe (ランチタイム専門)
【アクセス】バス停深田橋から徒歩5分。※駐車場5台程度。
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実はここ、千葉県に在った臼井城から室町時代頃に野庭に移住して来た殿様の御子孫の御店です。
同地は旧鎌倉郡域の横浜市港南区野庭の緑地保存地域です。
その自然に囲まれた場所にに"カフェこやぎ"と言う店が在りますこの辺りは閑静な場所で鎌倉時代の雰囲気を留める谷間に成っていますそれだけに、この店では鎌倉の浄明寺地区や佐助地区に来たような錯覚の中でゆっくりした時間を過す事が出来ます。田舎でしょ?
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この様に横浜市内ながら緑豊かな谷戸(やと)に在るカフェなので、清清しい空気の中でランチや蕨餅(わらびもち)を頂く事が出来ます蕨餅と焙茶(ほうじちゃ)setは500円、ランチsetも1000円程度と御手頃ランチや昼下がりにまったり時間を過ごすのにはうってつけ。
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お子様ランチも有るので小さいお子様がいる御夫婦は安心してこられますね~しかもここは子供が喜びそうな生物もいます。もう店名でネタバレですね(笑) ?山羊(やぎ)です。
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でも「開店当時は子ヤギだったのに大きくなっちゃった」って御店主が言ってました(笑)。
食事をしだすと、こっち向いてメェ~メェ~もの欲しそうに鳴いてくれたり、可愛さアピールしてくれましたよ店の入口は元々農家で池田梨園と言う果樹園だった時代のままなので少し判り難(にく)いかも知れません。
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このアングルだと解るかな?
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車は5台ほどお庭に停められるそうです。
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元々梨の果樹園だったそうですが、現在は梨の樹は伐採されて、代わりに市民に畑地として貸し出されていて長閑(のどか)な田舎の風景。
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本当に横浜?
・・・と自然の無い横浜市の住宅街や商業地で育った若者は思うかな。
この空気感が、旧鎌倉郡らしい風景。
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本当に鎌倉市の浄妙寺地区とか十二所(じゅうにそ)とか佐助地区に来た様な感じ冒頭で少し書きましたが、この御店主一家は平安末期~室町時代中期までの臼井城主の御子孫に当たります。武家の名門、千葉家の分家が臼居家で、このcafeこやぎ周辺には臼居さんだらけです。
臼居さん一族の根本的な祖先は桓武天皇です。
醍醐天皇の時代に、醍醐天皇の忠臣で旧鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍を務めた平良文(たいらのよしふみ)公と言う人物がいて、その方が千葉家の御先祖様。
※下の写真は藤沢市の村岡城址公園。地形以外には何も遺構は残らない。
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ですから平良文公の御子孫は全員が臼居さんの家の親戚だったりします。
列挙すると・・・
●房総半島の千葉一族。
●三浦半島の三浦家と芦名家・朝比奈家等の一族。
●鎌倉藤沢の御霊神社の宮司を務めていた村岡家と俣野家・長尾家・大庭家一族。
●高座郡や綾瀬の渋谷家一族。
●湯河原の土肥家一族。
●南足柄の土屋家一族。
ついでに上杉謙信や東郷平八郎元帥も遠い親戚ですね。
・・・その歴史の入口に成る場所が、cafeこやぎの直ぐ近くに在ります。
野庭神社です。
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野庭神社…戦国時代の野庭関城域に存続する神社。←以前書いた野庭神社紹介記事。
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この説明は色々と登場人物や神様の名前が間違っているので、ブログ記事の中で訂正を表記してあります。
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野庭の臼居家の初代は臼居杢右衛門(もくうえもん)胤知(たねとも)公と言う人物です。
臼居家は最初、姓を臼井と書きました。
臼井家初代の祖先は千葉家の分家で、鎌倉幕府重鎮として有名な千葉常胤(つねたね)公の祖父の千葉常兼(つねかね)公に辿(たど)り着きます。
その千葉常兼公の子が臼井姓を名乗り、更に戦国時代に野庭に移住したのが❝臼居 杢右衛門 胤知❞ 公です。
千葉の方は臼井なので、野庭に移住以降に❝臼井❞から字を改め❝臼居姓❞を名乗り出した様ですね。
戦国時代初期の臼居家が臼井から退去した当時、臼井城周辺は北条家・千葉家・里見家・古河公方家が領土争いを行う係争地でした。
九曜紋
千葉家(臼井家の本家で主君、下総国の大名)
蔦の葉紋
臼井家(臼居さんの御先祖)
三つ鱗紋
北条家(伊豆国・相模国・武蔵国を支配し、千葉家を従属支配する大大名)
二つ両引き
里見家(安房国・上総国を支配し、千葉家・北条家と敵対する大名)
臼井城と周辺それぞれの家の主要な御城の位置。
臼井城周辺 久良岐のよし 
里見家(安房国・上総国の大名)画像の中心の上に在るのが臼井城。
臼居家の祖先は元は今の千葉県北部に当たる下総国印旛郡の臼井城主でした。
臼居家の家紋は蔦の葉紋(つたのはもん)と言いますが、恐らく千葉県時代は千葉家と同じ九陽紋だった可能性が有ります。臼居杢右衛門公は戦国時代に千葉家臣団の内紛により千葉胤富(たねとみ)公の重臣の原胤貞(たねさだ)公に攻められて臼井家の家政は原胤貞公に乗っ取られてしまいました。
臼井城の実権が原氏に乗っ取られた後、cafeこやぎの御店主や周辺の臼居さん達の御祖先の臼井杢右衛門さんは臼井の地を離れた様です。
因みに、この原胤貞公は臼居杢右衛門さんの母方の祖父に当たります。
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※写真は臼井家と争った原家の支城の弥富城から見た風景。
土着の年代は弘治3年(1557年)08月15日に野庭に入郷したと鎌倉の浄土宗大本山光明寺に残る臼居家の家系図に書かれている事から、2016年現在から461年前の夏、まだ十代前半だった杢右衛門公は横浜市に移って来たと解ります。
中学生か小学校高学年位の年齢で家臣に付き添われて、野庭まで逃げて来たんですね。

この年、実は原胤貞公が臼井家の家政を代行していたのですが上総(かずさ)国の大名、里見家の家臣で最強の正木時茂公に臼井城を攻め落とされて原一族も臼居一族も臼井城から退去しました。
臼居杢右衛門公は、この年、里見家と対立する小田原の北条家に臣従して家臣に成り、野庭に土着しました。
杢右衛門公の実兄に当たり、本家の臼井久胤公は結城城主の結城晴朝公の所に逃亡しました。この時に臼井久胤公は14才だったと伝わっています。
つまり、久胤公の年齢から弟の杢右衛門さんがまだ子供だった事も解る訳です。

杢右衛門さんの奥方は鶴野姫と伝わっています。鶴野姫の父上は、今の東横線の日吉辺りの殿様だった中田加賀守と言う方でした。つまり北条家臣と成った御縁で結婚相手との御縁も出来た様ですね。
不幸の後の普通の幸せかな?
まぁ、中田加賀守は白備え隊小机衆に属しており、そこそこの有力者だったので政略結婚的な意味も有ったかも知れませんね。
しかし杢右衛門さんや中田加賀守が仕えた北条家は豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいます。
杢右衛門さんは武士では無くなりましたが、ちゃんと領地運営を考えていた様です。
江戸時代は日本屈指の尼寺として有名だった北鎌倉の松岡御所こと松岡山東慶寺の寺領として開拓する契約を結んだようです。
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そうして武士で無くなりましたが野庭の地の開発権を得て庄屋と成りました。でも他の大名家の支配地だったら郷士とか言われた身分に相当するかも知れないですね。
東慶寺の事は昨年公開の映画❝駆込み女と駆出し男❞の舞台に成った時に紹介した記事を書いたので、興味が有る人は読んで見て下さい。
駆け込み女と駆け出し男
※女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆込み女と駆出し男」←この記事。
そんな歴史が有る事から、この周辺一帯には臼居杢右衛門公の一族が現在も多く居住し、それぞれの分家に住した土地由来の屋号が有ります。
まぁ、そんな訳で杢右衛門さんが東慶寺と関わりを持った理由は、そもそも野庭一帯の土地が鎌倉幕府や東慶寺と所縁(ゆかり)の土地だからでもあります。
実は、この背後の丘一帯は鎌倉時代~戦国時代に野庭関城と言う御城でした。
その事を最近、とあるブログ記事で紹介しました。
※仰げば尊しと野庭関城を紹介したブログ記事←ここクリック!
仰げば尊し
以前、❝仰げば尊し❞と言う今年2016年の夏の間に放送していたドラマのモデルに成った実話の舞台、野庭高校を紹介した記事でも書いたのですが…
cafeこやぎや野庭神社の在る旧野庭高校(横浜市港南区野庭町1660)の前の谷が野庭関城の外堀だったんですね。
野庭神社の位置 久良岐のよし
横浜市は教育委員会がちゃんと歴史伝承を市民に伝えたり残したりする努力をしないので、野庭関城と言う御城が在った事自体を御存知(ごぞんじ)無い人の方が多いかも知れません。
野庭関城の本丸は今の野庭中央公園辺りだと伝わっています。
野庭関城を築城した和田義盛公は征夷大将軍の源頼朝公の存命中に初代の侍所別当(防衛大臣に相当)を務めた偉い人物です。
ここは鎌倉幕府執権北条家による源頼朝公一族の暗殺事件が連続して起きた際に、和田義盛公は二代将軍頼家公の遺児の千寿丸様を旗頭にして逆賊北条時政と北条義時を誅滅しようとしました。しかし、その際に和田義盛公は一族の内で最も有力な三浦義村が裏切り同調しなかった為に中村党と呼ばれた西湘地域の御家人と供に鎌倉の材木座海岸で敗戦し滅亡しました。
その後、中村党の残党で今の小田原辺りに勢力を誇っていた土肥実平(どいさねひら)公と泉親平(いずみちかひら)公の残党が野庭関城に籠城し、北条家と戦い忠義を尽くした歴史が伝わっています。
戦国時代にも城塞として活用され、小田原城主北条家の重臣の石巻康保(いしのまきやすもり)公や名奉行として記録の残る安藤良整(あんどうりょうせい)公が城代を務めていました。
昭和期に教育委員会が保護も調査も怠ったまま団地が建設されたので野庭関城址は現存せず縄張り図も作られていません。残念ですね。
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まぁ、そんな歴史がcafeこやぎ周辺地域に在ります。
ヤギさんが生活出来る緑地保存地域なので、今でも鎌倉郡だった頃の雰囲気を味わう事が出来るし歴史も田舎の風景に何となく詰まってる訳です。
後半の歴史解説は少し余計だったかも知れませんが、cafeこやぎ、ゆっくり時間を過せる良い場所です。
お近くの方は子連れで行って見るのと安心して御茶も飲めますし、大人だけで行って美味しい御茶と葛餅を頂きながらボぉ~っと過したり読書するのも良いと思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう

野庭神社(のばじんじゃ)/旧名:野庭蔵王権現御嶽社
主祭神:蔵王権現(神仏習合の山岳信仰の神。明治期に日本武尊と習合)
御利益:勝負運?地鎮?交通安全?
開基:1570年、地主の臼居杢右衛門が金峰山寺より蔵王権現の御分霊を勧進。
場所:横浜市港南区野庭町1838
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最近(2016年現在)、旧神奈川県立野庭高校吹奏楽部の実話をモデルにしたドラマの❝仰げば尊し❞でロケ地にも成った野庭高校ですが、その旧野庭高校や近くの野庭団地一帯が戦国時代の野庭関城だと言う話を以前、ロケ地解説記事で書いた事が有ります。
⇐その記事リンク。
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その野庭関城の外郭、馬洗い川を利用した外堀の谷間、切岸の役割をした河岸段丘上に建つ野庭神社と言う神社が在ります。
田舎の鎮守の御社と言った雰囲気を醸し出す素敵な神社ですが、この丘の背後には宅地開発され消滅した野庭城が控えていました。つまり、こんな懐かしい雰囲気を漂わせていますが、背後は団地なんです。
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団地の中心の公園が本丸跡です。
神社前の谷間が沼掘りの役割を果たしていた。
この一帯は緑地として保護されているので横浜市の旧鎌倉郡域の風景を現代に留めています。
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出来ればこれ以上、開発されませんように。延喜式内社が沢山有る伊勢原や厚木の田舎に来た様な鎌倉の原風景が小生は好きです。
神社の鳥居の横には、熱心な町内会の方々が昭和後期に建てた解説看板が有ります。
昭和55年の事だそうで野庭地域が開発され城址が消滅したり宅地に成ったりして行った時期ですね。
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この説明には知識不足から来る誤りが多数あるので後で補足と訂正を小生の方でして置きます。

さて、そんなこんなで、ここは戦国時代から存続する神社な訳ですが江戸時代の寛政年間に現在地に移転された様ですが、何んで移転されたんでしょうね?
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石段を見ると、江戸時代の石材加工技術で作られています。風化具合から見て江戸時代~明治時代の物に見えます。
となると、戦国時代の御社は遷宮時には転用されず、新たに石材から集められて建てられたのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿で記載を探してみますが掲載されているか解らないので、最悪、氏子さんか地元の古老に取材してみます。
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社殿は小さいながら立派ですね。瓦葺なのでもしかしたら建物も江戸時代の物が現存しているのかも知れない。
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扁額は立派です。でも社殿が江戸時代だとすると江戸時代には既に野庭神社と呼ばれていたのだろうか?
解らない。
この地域は都会化から保護された緑地帯で氏子サンも少なく成っているかも知れませんが、この立派な扁額を奉納された氏子サン達に敬意を抱きます。
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社殿が雑木林に囲まれています。
左側の雑木林は造営当初は無かったはずなので、伐採して神社の日当たりを良くするだけでも、通りがかる人々の目を引くと思います。
ともあれ、すっごく雰囲気の良い神社な上に戦国時代に繋がる場所、何かドラマのロケ地とかに成ってもおかしくない場所だなぁ~とか感じました。
銅葺(あかがねぶ)き屋根の緑の屋根の神社も素敵ですけど、江戸時代の大らかな庶民文化の御社も良いですね~。
周囲の風景も農道が残っていて良いし、とても横浜とは思えない元鎌倉郡の神社でした。

きっと、この神社を野庭関城の城将だった戦国時代の名奉行として有名な北条家臣の安藤良整公や、北条氏康公の馬回り衆(直属部隊)の侍大将だった石巻康保(いしのまきやすもり)公や、外交官として有名な板部岡江雪斎公も御参りした事でしょう。

町の中の小さな神社も歴史背景を辿ると、思いがけず歴史偉人との繋がりが有るかも知れない典型的な神社さんですね。
この田舎っぽい雰囲気の良い神社、地域の人には子々孫々まで大切に伝えて欲しいです。

以下は上野庭町内会文化部さんの作った野庭神社の歴史解説の誤り指摘と小生による訂正です。
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●開基された時期の説明訂正
1570年の室町幕府の将軍は足利義秋(改名:義昭)です。足利義明は小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた房総半島の生実城(おゆみじょう)を本拠地にした鎌倉公方の一族で、同音ですが室町幕府将軍とは別人物です。
野庭神社を造営した臼居家は当時、小田原北条家の統治下に在ります。小弓公方は北条家と対立関係に有り尚且(なおか)つ足利義明は北条氏康公によって討ち取られているので、小弓公方を基準にして歴史を語る事は無いでしょうし1570年の話ならば足利義秋を基準にした話でしょう。
※よって、この説明は造営年代は1570年で足利義昭の時代と訂正するべき。足利義明ではない。
●御神体勧進の経緯についての訂正
この神社の神様は、吉野山の❝蔵王権現(ざおうごんげん)社から勧進した❞ものではありません。そもそも、吉野山で蔵王権現と呼ばれるのは、金峰山寺と言う名前の歴代天皇家が崇拝した神仏習合の現在では修験道の御寺に分類される大寺院です。和尚サンでもあり神主様でもある山伏(やまぶし)サン達の宗派ですね。
そこの御本尊が蔵王権現と言う日本独自の神仏習合の神様で、金峰山寺には蔵王堂が現在も在ります。この金峰山寺を特に崇敬したのが後醍醐天皇で、武士では源八幡太郎義家公を筆頭にした河内源氏の殿様方です。この事実を踏まえると、野庭の土地には平安時代~鎌倉時代には野庭関城を源氏の与力の和田義盛公が築城した歴史が有る事、この土地が執権北条家の所領だった事から蔵王権現社自体は源頼朝公の時代には前身の祠か何か存在した可能性も有りますね。
※よって、この説明は吉野山の金峰神社から勧進と言うのは誤りで、後醍醐天皇の守護神だった修験道の本山、吉野の金峰山寺から蔵王権現を勧進したと改めるべき。
●御祭神についての訂正
説明では御祭神は日本武尊とありますが誤りです。蔵王権現は蔵王権現と言う神様です。神仏習合の時代の神格でも蔵王権現は安閑天皇と同格とされ山岳信仰の神様です。つまり日本武尊は少しも関係が有りません。
実は蔵王権現は神仏習合の神様なので明治時代に弾圧対象にされました、歴代の天皇家が崇拝して来たのに明治時代に水戸学なんてカルトに基づいて宗教改革をした弊害ですね。その際に神仏分離令と廃仏毀釈の弾圧から逃れる工夫として全国の蔵王権現社は蔵王権現を日本武尊を祀(まつ)ったり社名を同じ山岳信仰の御嶽社(みたけしゃ/おんたけしゃ)と改める事で弾圧を免(まぬが)れました。
つまり、この野庭神社が野庭の蔵王権現社から野庭神社に名前を改めたのも御祭神を日本武尊に改めたのも、その歴史が端折られ、そのまま誤って記載されています。
※御祭神について金峰山寺から勧進された蔵王権現と改めるべき。
●社名について
古来、蔵王権現社として勧進されたのだから野庭神社から野庭蔵王権現社として説明するべき。

余談ですが臼居家の事も掘り下げてみたいと思います。
この神社を建てた臼居家の家紋は❝蔦(つた)の葉紋❞です。
蔦の葉紋
以前、港南区の間宮家関連の神社を訪れた際に区役所で郷土史研究家の方が発刊された❝先駆者と遺宝❞と言う港南区の歴史人物をまとめた本を購入しており改めて読みましたが、その本では千葉家の子孫で遠祖は平良久と書いてますが誤りです。
千葉家の祖先は平良文(たいらのよしふみ)公です。この野庭辺りの旧武蔵国久良岐郡~旧相模鎌倉郡を含めた神奈川県沿岸部域を開拓したのも平良文公の御子孫達です。
内陸に関しては早くから小野氏や出雲神族の御神孫が開拓しました。
そして神奈川県域の発展に寄与された平良文公の御子孫の内、❝蔦の葉紋❞は千葉家の家紋ではありません。また千葉家の家臣の臼井家は臼❝井❞であって臼居ではありません。
そして千葉家の家紋は❝九曜に半月紋❞です。
九曜に半月紋
これが千葉家の家紋。
千葉家臣臼井家の家紋は九曜紋。
九曜紋
なので、家紋からは野庭の臼居家は千葉家子孫とは考え難いですね。しかし鎌倉の浄土宗大本山光明寺に千葉家からの家系を辿れる資料が有るらしいので、可能性としては房総半島の臼居城を退去し野庭に移住し北条家に臣従した時代に上司や目上の外戚から蔦の葉紋を譲り受けた事が推測出来ます。
蔦の葉紋
では蔦の葉紋は千葉一族の祖先で鎌倉御霊神社の御祭神でもある平良文(たいらのよしふみ)流の坂東平氏の家紋ではないかと言えば、そうでもなく良文公の子孫の中で有名な蔦の葉紋を使う武士はいます。
しかも、その家系も千葉家と同格に由緒正しい血筋で、現在の高座渋谷や綾瀬市辺りを領地にした渋谷重国公の家系です。
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※写真は綾瀬市の早川城址公園。空堀土塁等が現存。
野庭の臼居は苗字が同族の千葉家の臼井に似てる事に肖(あやか)って臼居家が家系を誤って伝えたんでしょうか?何で千葉氏流臼井家が野庭の臼居家の祖先なら、九曜紋じゃないのか説明が出来ません。
小生が思うに、北条家臣時代に成ってから姓を臼井城に残った一族と区別する為(ため)に"臼居"と字を改め、更に家紋も先述の様に野庭関城の有力者で蔦の葉紋を使う武将と懇意に成り家紋を譲り受けたか、外戚の武将から譲り受けた事が推測出来ます。まぁ、あくまで小生の想像です。
戦国時代、臼居家は鎌倉の玉縄城主、北条綱成に従って武田信玄と戦ったと系譜上に記載しています。
これが正しければ深沢城の籠城戦か三増峠合戦でしょう。
北条綱成公に従っていたのなら玉縄衆だったはずで、手勢の武士30騎動員兵力300と書いて有りましたが少し疑問ですね。計算上おかしい。武士30人を配下に抱えていたなら、動員兵力は武士1人につき3人前後の足軽がつくので、実際の手勢300の半数の兵150以下が手勢と言う所でしょうか。それでも立派な侍大将です。北条綱成公の家老の間宮家でさえ笹下間宮家で動員兵力200弱ですからね。
玉縄北条家の石高が1万石~2万石、単体での動員兵力は300~600、そこに与力の間宮家や堀内家やらが加わり玉縄衆全体で兵3000前後、規模10万石な訳です。
だから野庭の臼居家のみで兵300と言うのは少し考えにくい話ですね。恐らくは手勢150に配下の与力武将の兵力を合わせた総数が300だったんじゃないでしょうか?

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※写真は玉縄北条家が徳川家臣と成り1万石で転封された千葉県佐倉市弥富の岩富城址から見た風景。
信憑性が有る部分は中田加賀守の次女を妻にしていたのが野庭神社を開いた臼居杢右衛門と言う事でしょう。
中田加賀守は戸塚区の殿様なので地域的にも縁戚に成るのも自然な話です。そして東慶寺に300石を治めて地頭に成ったと有りますが、これには少し疑問が残ります。
この野庭辺りの旧住所で小名:政所(まんどころ)と言う場所は本当に東慶寺由来の土地なので地域的には整合性は有るのですが、そもそも野庭郷自体の石高が106貫307文と判明しており石高に換算すると1貫=2石なので約212.6石と言う計算に成ります・・・
野庭全体を東慶寺に寄進しても300石には成らない。この東慶寺に300石と言うのは、地頭=名主として治めた領地300石の内、東慶寺へ小名:政所領分の年貢を納めていた地頭と解釈した方が正しいと思います。
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※写真は東慶寺。開いた人物が鎌倉幕府の北条時宗公の御妻女で最初の尼住職。以後、後醍醐天皇の皇女の用堂尼や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼が歴代住職を務めた女性や子供を保護する縁切り寺として機能した。
⇐東慶寺解説したブログ記事。

まぁ、こんな事を考えられるのも、野庭神社を氏子サン達が守って源氏以来の武士達の蔵王権現信仰を伝えて下さったからですね。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

好きな人がいる事
好きな人がいること
フジテレビ系放送局で放送開始されました。
小生が休日によく散歩に行く風景が沢山出ます。
1人のパティシエの女の子が、レストランを経営するイケメン3兄弟と同居し、恋をしながら成長していく話です。
好きな人がいる事2
是非、見てみて下さい。

一番上のドラマタイトルをクリックすると、公式ホームぺージにリンクします。

もう一作品、神奈川県が舞台のドラマが始まります…

廃校と成った旧神奈川県立三崎高校と野庭高校の卒業生に捧げる・・・
仰げば尊し
仰げば尊し
小生が住む横浜市に10年くらい前まで実在した神奈川県立野庭(のば)高校と、全国優勝常連だった吹奏楽部の物語です。
野庭高校は劇中で、とんでもない不良高校に描かれていますが、実際横浜市内で下から1、2番目の学力の普通科高校でした。
その高校を、これまた実在した❝中澤忠雄❞先生をモデルにした、寺尾聡さん演じる樋熊迎一が吹奏楽部を率いて学校を変えていく物語です。
仰げば尊し1
その学力底辺の野庭高校は、中澤忠雄先生の率いる吹奏楽部があれよあれよと言う間に全国で連戦連勝の優勝常連校に育って行き、全国から吹奏楽を志す中学生が受験する音楽の名門高校に生まれ変わった話です。
2016年7月17日放送開始です。詳しくは画像上のドラマタイトルをクリックして公式ホームページを御覧下さい。
仰げば尊し⇐クリック!
きっと面白いので、是非、皆さんに見て欲しいと思います。

この野庭高校は劇中では❝美崎(みさき)高校❞に名前が変わっています。多分、ロケ地が神奈川県三浦市三崎町だからでしょうか?
猿島が見える海辺も出るので横須賀市の馬堀海岸もロケ地の様ですね。他にも日本武尊と弟橘媛神話の舞台の走水海岸、三崎町三崎漁港の風景も登場していました。
学校の校門前や屋上の風景は野庭関城址である野庭団地が見えるので、本当に旧野庭高校で撮影している様です。

さて…
小生のブログは腐っても歴史解説と郷土史とグルメ探訪のブログなので野庭高校に関連する歴史を…

余談ですが、このドラマの舞台となる美崎高校のモデル野庭高校の一帯は鎌倉時代に築城され安土桃山時代まで城塞として活用された❝野庭関城❞の城址なんです
旧野庭高校の西を流れる川と畑地は、鎌倉時代~戦国時代水掘りと水田、沼掘りでした。丁度ドラマの校門のシーンで見える一段下の茂み辺り一帯ですね。屋上のシーンで見える野庭団地の中心地の野庭中央公園が本丸と伝わっています。
位置関係はこんな感じ…
旧神奈川県立野庭高校と野庭関城の位置関係 久良岐のよし
残念ながらアホの神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が保護を怠った為に城址は団地建設で破壊されましたが、一時、中澤忠雄先生と吹奏楽を志す生徒達によって日本に誇る❝音楽の拠点❞として有名に成ったのはせめてもの先人への手向けに成ったでしょうか?
この城を築城したのは、義務教育で誰もが習う鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公です。
戦国時代には名奉行として有名な安藤良整公や北条氏康公の近臣だった石巻康保公等が城将を務めた城でした。
この城は、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公と御子息で二代将軍の頼家公が暗殺された(小生は頼朝公の死因は稲毛氏と北条氏によるヒ素中毒毒殺未遂後の直接暗殺と推測している)後に義挙した泉親衛(いずみちかひら)公と和田義盛公に同調した土肥実平(どいさねひら)公の一族郎党が野庭関城に籠城し、壮絶に討死にした忠義の城としての歴史も有ります。
そんな誠実な名将達の城跡の高校に赴任した中澤忠雄先生が底辺高校の生徒達の才能を引き出して全国優勝するまでに導いたのは、浪人だった源頼朝公に忠義を尽くしてとうとう鎌倉幕府を開闢せしめた和田義盛公や土肥實平公の偉業を再現したかの様な物語ですね。

和田義盛公は鎌倉市の材木座で討ち死にしてしまいました。
しかし、野庭城の周辺には3軒ほど和田姓の御子孫が昭和期まで在住されていました。
和田義盛公と配下の武士達は鎌倉市の和田塚(正式名:無常堂塚)に葬られました。
和田塚(無常堂塚)の場所 久良岐のよし
和田塚には地表に露出した当時の武士達の人骨片がムキ出しに成っています。
近隣の学校の❝校庭でキラキラ光る砂のようで砂とは違う物も、人骨が破砕されて光に反射している❞のだと、小生や鎌倉市の古老と似たような知識を司馬遼太郎先生も❝街道を行く❞シリーズの三浦編で紹介していたと思います。
因(ちな)みに鎌倉市は、何処(どこ)を掘り返しても人骨が出ます。そりゃそうですよね…
和田合戦・宝治合戦・新田義貞による鎌倉攻め・中先代の乱・足利尊氏公の鎌倉奪還戦等々、歴史の節目毎に多くの武士が戦って亡く成ってますから。
でもね、❝心霊現象がどうとか言う偽霊能者❞は根本的に解ってないんですよ。
武士は戦死する事も勝つことも「武運」と言い信念の末の戦死は名誉な事であった訳ですから、仮に彼(あ)の世が有っても人を祟ったりはしません。
寧(むし)ろ神道の考え方では荒神様は強力な守り神に成って下さる訳ですし、現在の日本の繁栄や、鎌倉で仲良くデートするカップルを見たら、和田義盛公も平和な時代の恋人を微笑ましく見守って下さる事でしょう…
それは野庭高校の生徒達に吹奏楽で天下を取らせて下さったようにね。

ささ!
歴史は現代に繋がりますが、歴史を映像化するのもドラマにしか出来ない事です。
現代の江ノ島の美しい風景や、吹奏楽で落ちこぼれ高校から日本一の高校に成った野庭高校の歴史、是非!ドラマで楽しんでみて下さいな♪

では!次は先週末の休日雑記の続きか、大庭城の紹介記事で御会いしましょう!

今日は当初の予定は以下の桜の名所を巡り、桜の写真を撮影する予定だった。
●三ッ池公園…横浜市鶴見区
●根岸森林公園…横浜市中区
●久良岐公園…横浜市港南区
●衣笠城址公園…三浦半島横須賀市
…で、先ずは小生のペンネームの由来の地、久良岐公園に早朝、桜の開花状況を見に行った。
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まだ1分咲き。
満開に成ると、園内数百本の桜が咲き、とても綺麗な場所。
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小生は子供の頃から、皆でここに自転車で遊びに来ていたので、大人になってもこうして御縁が有るのは嬉しい。
しかし、まぁ、2016/03/30現在はまだまだ、週末に漸(ようや)く7分咲き位になるかな?
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又、来週の土曜日か水曜日に見に来よう。
因(ちな)みにコンナ↓DQNを発見した。
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本人不在で場所取りしてんじゃね~よ!
燃やしてやろうかと思ったが、器物破損な上に公園が火気厳禁なので、法律を守る事にした。
で、とりあえずブログで晒したった(笑)!

久良岐公園の状況を見て、三ッ池公園や根岸森林公園もまだ桜は見頃では無いと踏んで、予定を中止した…

昼は家でゆっくり過ごし、夜、友人と根岸駅で待ち合わせして三渓園に夜桜鑑賞に向かった。
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綺麗だねぇ~。こちらは概(おおむ)ね5分咲き前後。週末には綺麗に満開に成るかな?
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週末に再訪する予定なので楽しみだ!
その後、横浜名物の美奈登庵と言う日本蕎麦の居酒屋に移動し、友達2人は飲酒。
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酒を飲まない小生は、❝横浜牛せいろ❞を名物の❝富士山盛り❞で頼んだ…
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もう、本当に富士山みたいな形で大量。
でも、完食しました♪

まぁ~、写真撮影で回る予定だった場所は大幅に減ったけれど、普段は一人忙しく古文書漁りと写真撮影に図書館と神社仏閣や城址公園や建築文化財と某神社某文庫を1日に何件も廻っているので…
たまには友人達と、ゆっくり過ごすのも良いだろう。

笹下城址の宅地化による破壊がいよいよ始まりました。
※本丸跡周辺の地形破壊2015/10月
※堀の役割を果たした旧沢跡の道路に面した堀切地形の地形破壊開始。2015/10月

笹下城とはなんぞや?と言うご存じ無い方は笹下城と城主間宮家を説明した記事ココ」←クリック!して以前の記事をご覧ください。
笹下城址は城域主要部を前土地所有者のIHIにより、既にその大半が破壊されていますが、その破壊を免れた大空堀が最近まで現存していました。
この空堀や切岸の内、完全な状態のままの遺構だった成就院横の大空堀は既に2013年迄に消滅し、残るは本丸跡周辺地形と堀の役割を果たした沢跡の堀切状の道路地形と、出城松本城の地形と笹下中学校周辺の町内会名に残る旧地名のみとなっていました。
その本丸跡周辺地形と沢跡の道路周辺地形も写真の通り破壊が始まりましたので神奈川県民の皆様に御報告差し上げます。
間宮林蔵や杉田玄白に関係が有り、横浜市南部で最重要城跡であった笹下城址が何の調査も保護もされずに消えゆく、その責任者と開発業者の記録をネット上に公に記録し公開し市民が問い合わせ出来るようにしたいと思います。
しかし、これ等の宅地開発は市の許可を得た正当な開発であり、ディベロッパーには罪は無い事を皆さん御理解下さい。

史跡/城址としての調査や保護の責任を有するのは破壊開始された時期に任期を務めている以下関係各所の代表者及び上級管理職者です。
彼等にも法律的に罪は有りませんが、市民に対し、この様な案件の責任所在開示の為に役職及び氏名は公開されているので、そのまま転載します。
※彼等は職務上の責任は問われますが、犯罪を犯した訳ではないので暴言や嫌がらせ等を問い合わせ先に行わないようにして下さい。
笹下城址を未調査破壊した責任者達としての意味でも書いて置きます。

神奈川県教育委員会
  代表連絡先:045-210-1111

  委員長…具志堅幸司
  ※ロス五輪体操金メダリスト
  ※日本体育大学体育学部長
    上記連絡先:広報課03-5706-0948

  第一委員長職務代理者…高橋  勝
  ※横浜国立大学名誉教授
    上記連絡先:045-339-3014
  ※帝京大学大学院教授
  ※帝京大学大学院教職研究科長
    上記連絡先:0120-508-739

  第二委員長職務代理者…倉橋 泰(ひろし)
  ※株式会社ぱど代表取締役会長
    上記連絡先:0120-090-810

  委員…河野真理子(こうのまりこ)
  ※株式会社キャリアン代表取締役
    上記連絡先mail:  info@carian.jp
  ※公益財団法人日本生産性本部 
    ダイバーシティ推進センター 顧問
    上記連絡先:03-3409-1122

  委員…吉田勝明
  ※横浜相原病院病院長
    上記連絡先:045-362-7111

  委員/教育長…桐谷次郎
  ※前産業労働局長
  上記連絡先:045-210-1111

横浜市教育委員会
  上記連絡先:庶務課045-671-3240
  委員長…今田忠彦
  教育長…岡田優子

ディベロッパー側も問い合わせ先情報を開示しているので、写真と共に情報掲載しておきます。
開発者:野村不動産
仲介者:武本測量株式会社
工事者:株式会社竹中土木
開発者:三井不動産レジデンシャル株式会社
工事者:みらい建設工業株式会社
重ねて強調しますが、彼等ディベロッパーは犯罪者ではありません。
史跡を破壊するのは調査も保護も行わない教育委員会の責任です。
また、教育委員会も当然、犯罪を行っている訳では無く、不見識なだけです。
不見識な人間をそのような役割に置いた黒岩県知事と林横浜市長の責任です。
特に林横浜市長は貴重な蛍の生息地で歴代市長が守って来た瀬上市民の森もディベロッパーに宅地開発容認したり、非常に文化史跡と緑地保護の観点からは今の所、問題が有る判断ばかりする市長さんです。
近年の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が破壊黙認したり保護を怠っている、又は破壊している最中の史跡と文化財を以下に記します。

上行寺東遺跡(伝:浄願寺旧跡)
マンション:ライオンズヒル金沢八景の建設により破壊された金沢区六浦の大寺院遺跡。
源頼朝と文覚上人が開基した大寺院の史跡で豊富な石窟群や石塔群を有した。
新田義貞の鎌倉攻めの際に略奪放火され廃寺になり、後に金沢区町屋に龍華寺として再興されたが、鎌倉時代末に焼け落ちたままの良好な保存状態を保っていた。
学者、郷土史家、地域住民からの度重なる非常に多くの指摘と保護要請を横浜市教育委員会と横浜市が無視しライオンズヒル金沢八景建設で貴重な史跡は破壊された。
後に重要性に気がついた教育委員会と市により、隣りに無意味なハリボテで破壊した史跡に似せた偽物が作られた。

金沢文庫博物館…蔵書の古文書(経典)
新たな箱物を作りながら、蔵書保管環境関連空調予算を適切に付けず、古文書をカビさせ破損させた。
古書保存は湿度管理が重要であり、20年近く使用し老朽化した空調交換を要していたが学芸員からの適切な度重なる予算請求がされたにもかかわらず教育委員会が空調予算を付けずカビさせた。
…しかし県は数千万単位の箱物は作り続けている。
同地は武家初の私設図書館「金沢文庫」の史跡の上に建っており、周辺全域が鎌倉時代よりの史跡群を地下に埋蔵している。
史跡金沢文庫旧跡及び史跡称名寺周辺の谷戸構え要塞と塔頭群の山々を野村不動産が宅地開発しようとした事もあるが、上行事東遺跡破壊を経験した有識者達の指摘により阻止され守らた。

百姓曲輪:戦国時代小田原城大規模遺構
小田原市にある戦国時代の小田原城の大規模城郭遺構。良好な状態の「曲輪群」「大土塁」「虎口」「切岸」「武者走り」が残る現在破壊の真っ最中で教育委員会は保護するつもりが無い貴重な城跡で歴史史跡。

釈迦堂切り通し
鎌倉市浄明寺地区にある鎌倉時代の貴重な美しい隧道形状の切り通し。
落石を名目に通行止にしたまま、県民の目に触れさせない状況に置き、教育委員会が保全を怠っている。

笹下城址
横浜市最大の城域を誇った城郭史跡だが、教育委員会が調査も保護も行わないので三井不動産レジデンシャル、野村不動産、竹中土木等のディベロッパーにより最後のトドメを刺す残存部も地形破壊の真っ最中。
また、城主間宮家は鶴ヶ丘八幡宮再建や佐渡奉行但馬奉行として金山銀山開発も務め、その他県にある佐渡金山などは歴史史跡に成っている。
間宮家子孫には間宮士信、間宮林蔵、一族に杉田玄白などがおり横浜市民はおろか日本国民にとっても重要な文化貢献をした一族でもある。笹下城址は非常に深い歴史意義を持つ城址であった。

以上、笹下城址完全破壊開始の速報でした。

次回は国家「君が代」発祥の御寺を紹介します!
では、又、次の記事で!

ブログネタ
「食欲の秋」のはじめに食べたい物は? に参加中!
食欲の秋…拉麺美味しいよね。

横浜市港南区下永谷に神勝軒と言う「つけ麺」の店が在ります。
「つけ麺」と言うジャンルを拉麺界に創生した偉大な拉麺職人の故:山岸翁の御弟子サンの店です。
ちゃんと大勝軒で修行された事と山岸翁へのリスペクトを店内の看板にも掲示している大勝軒系の血脈の店。
この様に創始者をリスペクトする姿勢は素晴らしい。
御当地横浜の家系には、家系創始者の吉村社長の弟子でも無いのに自称家系名乗る不遜な輩が溢れかえり偽家系だらけ…
この神勝軒の山岸さんへのリスペクトは評価に値する。

正統の大勝軒の暖簾分け1号店も横浜駅西口に在り、其方の店長サンは今は山岸翁の跡を継ぎ横浜だけでなく大勝軒本店の大将に…
なかなか横浜駅西口や大勝軒本店に行けない時に、神勝軒で腹を満たし、つけ麺文化を残して下さった山岸翁に感謝を示すのも風流でよし。
店内は建築古材を活用した内装で、落ち着いて雰囲気が良いです。
カウンターは木製の一枚板で高そうな材木です。…写真撮り忘れました(笑)。
厨房はこんな感じ。
この日は…
特製つけ麺に
中盛り 味玉 焼豚 海苔増し
…を頂きました。
美味しそうでしょ?
麺を完食したら…
「スープ割りお願いします!」
…と、言うと、スープにネギ等を足して飲むスープにしてくれます。
コレはつけ麺店ならではの風習みたいなもんで、大概のつけ麺自慢の店はやってくれますよね。

こちらの店で山岸翁の血脈の味を身近に感じて、大勝軒本店や大勝軒横浜駅西口店近く行く時は其方にも寄りたい。

余談ですが神勝軒のお向かいに在った家系総本山の吉村家の直弟子が店長だった環2家が8月30日で閉店しました。
閉店日から2日後だったのですが、灯りがついていました。
吉村社長、店を売却するとブログに書いていたので、もう売れたんでしょうか?
吉村社長の直弟子の本物の家系だっただけに残念です。
環2家は店員同士が仲悪く接客の際に怒号が飛び最悪な雰囲気だったが美味しい日は美味しかっただけに、吉村社長の下で接客マナー再建し続けて貰いたかった。
吉村社長のブログに書いて有った「光くん」と言う店員が辞めたのが、環2家をたたむきっかけらしいが…

この地域、実は拉麺文化発展させる地域とも言えます。
実は御城の在った地域には、美味しい拉麺店が近くに在るんです!
そして、それは地勢上の必然なんです。
其れは神勝軒の附近の周辺 文化と地理の 情報を先ず見れば一目瞭然なんですが…
先ずは見ましょう。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
永谷の周辺街道
⚫︎古鎌倉街道
江戸時代の鎌倉街道成立より更に以前、平安時代から使われた鎌倉街道の古道がこの地域を貫いている。
⚫︎鎌倉街道
鎌倉時代迄の古鎌倉街道とは違う筋だが、現代、整備された鎌倉街道が永谷地区近くに通る。
⚫︎古東海道/東海道
江戸時代以前の古東海道を江戸幕府が再整備した東海道が、永谷地区の直ぐ近くに通っている。
⚫︎環状2号線
神勝軒は環状2号線に在る。現代整備された横浜の中心部から放射状に続く国道16号線、横浜上麻生道路、川崎街道、中原街道、八王子街道、鎌倉街道の一般道に加え第三京浜高速道路、横浜横須賀高速道路、東名高速道路、首都高速道路湾岸線&横羽線等のアクセス向上を目指して造られた新しい街道。
永谷周辺の有名ラーメン店と城址
※超有名店だけとりあえず記載しますが、地図上の印つけた店は全て雑誌TVに良く掲載される有名店です。
⚫︎新横浜拉麺博物館
日本最初の拉麺博物館。
永谷地区からは車で環状2号線を15〜20分程の距離の新横浜駅附近には拉麺博物館が在る。
新横浜駅は東海道新幹線「のぞみ」の停車する重要駅でもある。
⚫︎支那そばや本店
※港南区永谷地区は隣区の戸塚区との境界に位置する。
永谷地区から東海道を車で15〜20分程の戸塚駅近く。山岸翁と同じく拉麺の大家として名の知れた「拉麺の鬼、佐野実」こと故:佐野氏の「支那そばや」本店。この店の支那そば(醤油ラーメン)は一般的な醤油ラーメンのイメージから想像も付かない発展をさせた拉麺で、拉麺ブームの火付け役に成った名店。
残念ながら、つけ麺の大家:山岸翁が没すると、後を追うように佐野氏も世を去ってしまったが、その味は御弟子さんがシッカリと受け継いでいる。 
⚫︎杉田家(元:吉村家本店)
永谷地区から環状2号線と国道16号線を車で15分の距離。
豚骨醤油:家系拉麺の創始者の吉村社長が最初に店を構えた店舗。今は直弟子が支店として引継ぎ店長を務める。 家系拉麺の発祥地。
吉村社長のいる吉村家は、横浜駅西口近くで営業中でいつも大行列。
⚫︎環2家
永谷の神勝軒の目の前。環状2号線を挟んで対面に在ったが、先月2015年8月30日を以て閉店した。
家系拉麺創始者の吉村社長直弟子が店長を務める吉村家直営店で毎日大行列だったが、従業員の離脱により吉村社長が店を閉めてしまった。吉村社長のブログによれば店舗売却予定らしい。
⚫︎
本牧家
元々、本牧家の屋号は吉村家の吉村社長の店だった事に由(よ)る。
元弟子の神藤隆が本牧家店長を任されていた時代に造反し、従業員引き連れて辞めて神奈川区六角橋に六角家を作ってしまった為、吉村社長が怒り狂って閉店、現在のオーナーに売却してしまった店。
正統な家系吉村家の系統とは別系統で「家系亜種」と呼ばれる家系の派生店。
六角家の方は新横浜ラーメン博物館の開店当初は、御当地横浜のラーメン店として同地には入店していたが現在は出店していない。六角家本店は名前の由来の神奈川区六角橋に営業中。
⚫︎壱六家
正統派吉村家系とは異なる家系亜種に分類される拉麺店。
昔からの人気店で、一時期は支店も多数出店した。現在は元々の国道十六号沿い磯子駅近くの本店は特に大人気営業中。
⚫︎貞昌院と永谷天満宮
永谷天満宮は全国の天神様の御祭神である菅原道真公の御子息5男、菅原淳茂公の居館跡の天神様。
そこに室町幕府足利尊氏公の従兄弟の御子孫で鎌倉府で関東管領も務めた家系の宅間上杉家の殿様が開いた天満宮。
御神体は道真公が鏡を見て遺品として自ら手彫りした道真公御自身の木製像。
この木像は日本に三体だけあり、福岡の太宰府天満宮、大阪の道明寺天満宮、横浜の永谷天満宮に其々安置され、以上三社の天満宮は日本三体天満宮と呼ばれる。
貞昌院は曹洞宗の寺院で永谷天満宮の別当寺。開基の宅間上杉家が曹洞宗に帰依した小田原北条家臣だった事による。
⚫︎永野城址
神勝軒の向い側の緑地は室町幕府創始者の足利尊氏公の従兄弟の血筋に当たる宅間上杉家の殿様の居城の永野城址。
⚫︎野庭関城址
永谷地区から車で5分の場所に曾て在った城。
鎌倉幕府の初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が築城した城で、鎌倉古道と鎌倉街道を押さえる位置に在る。
戦国時代まで活用され、安藤良整公等の名将が城代を務めた。
⚫︎笹下城址
永谷地区から車で5〜10分の笹下地区に曾て在った城で、北条家の水軍を纏めた間宮家の居城。杉田港や六浦道(笹下釜利谷道路)、鎌倉街道を押さえ鎌倉の防衛と東京湾防衛を担った城。
⚫︎今井城址
永谷地区から直ぐ車で10〜15分の環状2号線今井インター近く、保土ヶ谷区の平安時代末期の信州出身の武将の旭将軍こと源朝臣木曽義仲の重臣だった今井兼平の城址と伝わる。戦国時代末期まで城として機能し江戸時代に成り廃城すると陣屋が置かれた。
つまり当時も交通の要所だった。
義仲の妻の巴御前は幕府に投降し和田義盛公に再嫁しているので、今井兼平も投降した可能性は高い。又はその一族が城主か?
⚫︎鳥山城址と三会寺と鳥山八幡宮
全て 港北区鳥山地区、永谷地区から環状2号線を車で 15〜 20分程 離に在る歴史史跡
平安時代末期、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の与力、近江国宇田源氏の名将:佐々木高綱公が築城した居館が鳥山八幡宮の敷地で、その背後の丘は詰めの城。
三会寺(さんねじ)は源頼朝公が佐々木高綱公に命じて鎌倉の鬼門に当たる鳥山地区の旧街道沿いに築いた鎌倉鬼門鎮護の寺院。
⚫︎小机城址
永谷地区から車で20〜25分程の所。
新横浜日産スタジアム近く、室町時代〜戦国時代の城址で北条家白備え隊の居城。白備えは小田原北条家の主力部隊の1つ、北条家には五色の軍装で色分けされた5軍団が有り、その1つ。
城主は北条家の宿老であった北条幻庵公、城代は北条家の家老の笠原信為公。

※上記の城址は既に記事に書いてあるので
画面上、PCでは右側、携帯では下の方に表示される【カテゴリ】から「城址」「北条家五色備え」「神社」のいずれかから検索してみて下さい。
ここまで拉麺と関係ない事を、良く読んで下さいました(笑)。
では何で、この地域が拉麺文化発展の土壌に成ったかですが…
既に勘の良い方は地理と史跡を見て気が付いてますよね?
この地域は交通の要所だから、拉麺文化を客として下支えして来たトラックやタクシーの運転手の往来が多いんです!

この東海道(国道1号線)と環状2号線のクロスする附近は、拉麺文化醸成の地であり、奇しくも永野城、野庭関城、笹下城、小机城、鳥山城、今井城など交通の要所を押さえる位置に築かれた城が神勝軒の在る永谷地区や環状2号線周辺に在るのは当然!
現代の物流の観点と、武士達の街道を押さえる防衛観念はリンクしているからなんですね。
武士は敵軍の自領への侵攻を防ぐ為に、街道や水運の要所に城を築城(ちくじょう:城を造る事)します
そしてラーメン店はトラックの往来が多い街道沿いに運転手の来店が多く見込めるので、沢山の拉麺店が出店する事に成り、結果的に拉麺文化発展の土壌には城跡が近くに在る場合が多く成る訳ですね。

ね?
歴史と郷土の食文化って凄く関連が在るでしょう?
それが小生のブログタイトルの由来でもある訳です。

次は映画とドラマの「HERO」公開中につき、ロケ地の横浜の旧中心街の日本大通り地区の近代西洋建築遺産を紹介します。

では!又次の記事で!

ブログネタ
七夕の思い出を教えてください! に参加中!
7月は七夕祭りの季節ですね~♪
神奈川県では日本三大七夕祭り一つ、平塚市の七夕祭りが有名で毎年数万人の観光客で賑わいました。
…もっとも近年は昔ほどお客さんが集まらないみたいです。
人が定住しなくなり、神社や御寺が生活に身近なものでは無く成って来たからですかね~?
昔は町々の神社や御寺も沢山氏子さんや檀家さんがいて、年中行事の御祭りや神事仏事を皆で行い、伝統文化を伝えると同時に子供達は御小遣いを貰って縁日で買い物をしたり楽しい事が沢山有ったんですがね~。
…お祭りが減って行くのって何だか寂しいですね。

横浜市磯子区の屏風ヶ浦と汐見台地区の境界に森浅間神社と言う古い神社が在ります。
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住宅街と団地の間、昔海岸だった段丘の中腹(ちゅうふく)に下社、丘の上の汐見台地区に本殿を持つ、神社が在ります。
歴史は非常に古く鎌倉時代、源氏の本拠地だった鎌倉市の亀ヶ谷(かめがやつ)と言う地区に在った亀ヶ山福禅寺と言う御寺に源氏の守り神(仏:当時は神道と仏教は融合していた)の不動明王を祀る権現堂が有りました。
※源氏の本拠地の亀ヶ谷については以前の寿福寺の記事ココ 」←クリック!

その権現堂の和尚様の幸蔵坊長慶比丘が建久8年(西暦1197年)に源頼朝公の請願により富士山浅間大社から此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと=素戔嗚命の奥さん)の分霊を勧進し浅間神社を創建したのが、この森浅間神社の由来です。
鎌倉時代末期には、新田義貞が鎌倉幕府に鎌倉市西側の稲村ケ崎から攻め込んできた際に、最後の鎌倉幕府将軍の守邦親王(もりくにしんのう)が、この森浅間神社の在る旧久良岐郡森村に逃げて来られたそうです。
その際に薬師如来像も戦火に遭わないように守邦親王により森浅間神社に移され、此花咲耶姫命の御霊と共に以後御神体として御祀りする事に成ったそうです。
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昔海だった屏風ヶ浦地区から丘を登ってくると中腹に上の写真の森浅間神社下社が在ります。
久良岐の丘づたいに汐見台地区側からも丘の上から来られます。
しかし、どちらから来ても、本殿と下社両方御参りするには長い参道の階段を上り下りしないといけません。
では、なんでこんな急な丘の場所に頼朝公が神社を創建させたかですが…
それは源氏が山岳信仰の御一族であった事と関係が有ると思います。 2015-06-10-11-22-13
面白い事に、下社には明治まで近隣に存在した神社の神様が合祀されていて、そこに浅間神社の神様の此花咲耶姫命の御夫神様の素戔嗚尊が祀られています。
…奥さんは本殿にいるので、なんだか尻に敷かれる現代の日本人男性の様な構図ですね。

所で森浅間神社を開いた幸蔵坊長慶比丘の御寺、鎌倉の権現堂は不動明王をお祀りしていました。
不動明王を御祀りする宗派は仏教の真言宗や修験道(しゅうげんどう)に多く、何(いず)れも山岳信仰の側面もある宗派です。
鎌倉の権現堂は福禅寺と言う名前で「禅」の字が含まれているので、禅宗の臨済宗なのでしょうか?
或(あ)いは、広島県の鞆の浦にも福禅寺と言う御寺が在り真言宗なので、やはり真言宗なのかも知れません。
鎌倉の権現堂は明応年間(1490年代前後)に廃寺に成り、この森浅間神社に本山格としての機能移転されて解りませんが、近い内に図書館で新編武蔵風土紀稿の森浅間神社の別当寺だった泉藏院の項目を調べて後日追記します。

そんな訳で、創建者が山岳信仰と関係が有る権現堂の僧侶幸蔵坊長慶比丘なので、源頼朝公は彼に依頼し富士山の権化として信仰された此花咲耶姫命の御霊を富士浅間大社から分霊したのだと思います。
何で富士山の神様を勧進したかと言うと、頼朝公は信仰から来る登山マニアで、当時登山グッズなんか無かった時代に富士山の山頂まで御自身で登頂された挙句、富士山の火口を一周されたりしています。
そして富士山の神様、此花咲耶姫命の御父神様の大山祇神の権化とされる神奈川県大山にも登り、大山阿夫利神社を参拝されています。
大山阿夫利神社の記事は「ココ 」←クリック!
山岳信仰の対象で修行場でも在っただけあり、参道の階段は本当にキツイです… 2015-06-10-09-05-43
この写真だと伝わりませんかね?
では地形を見て見ましょう…
森浅間神社地形
すんごい崖でしょ(笑)?
この崖上の丘一帯を久良岐(くらき)の丘と呼び、神話の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が訪れた地域なんです。
そして、この崖直下の屏風ヶ浦の海は神社の神事に欠かせない海産物の海鼠(なまこ)や鮑(あわび)が豊富に獲れる恵まれた海だった事もあり佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国に分割される前の地域名)国の内乱、佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ)の乱の後に天皇家の直轄地の屯倉(みやけ)となり、倉巣屯倉として古事記にも登場する場所でもあります。
古くからの景勝地で、豊かな漁村だった訳です。
…今では海は埋め立てられ面影は有りませんが。

実際、頼朝公と頼朝公の御先祖様の源義家公を含めた河内源氏の一族は山の神に対して非常に強い信仰心を御持ちだった方々で、義家公は方々で蔵王権現と言う神仏習合の神様の御社を創建されたり再建されています。
※義家公の蔵王権現信仰については「滝山街道古道の記事リンク 」←クリック!
※義家公の八幡神信仰については「杉田八幡宮記事リンク 」と「世田谷八幡宮記事リンク 」←クリック!

源氏には山岳信仰の伝統が有ったからこそ、この昔は久良岐郡と呼ばれた地域の中の更に屏風ヶ浦と言う景勝地だった断崖の切れ間のなだらかな部分に富士山の神様を祀ったのだと思います。
そして、この森浅間神社は…
ずっと海岸が長い断崖絶壁に囲まれた久良岐の丘の、数少ない船着き場を設けれる地点で有ったので、鎌倉幕府の陣所も設置された訳です。その場所が現在の京浜急行屏風ヶ浦駅辺り「汐汲(しおく)み坂」と呼ばれる辺りで、この一帯は海面の高かった縄文時代も海に下りれる貴重な通行の要所だった様です。
その証に、汐汲み坂の上の汐見台地区には縄文~弥生時代の史跡や港南区最大の古墳等の史跡が大量に在りました。
もっとも例によって神奈川県と横浜市の教育委員会の必殺技「開発幇助の為の史跡不保護」がここでも炸裂し、港南区最大の古墳すら宅地化され破壊されて残っていませんが

少し、屏風ヶ浦の位置関係を見て見ましょう…
森浅間神社位置関係
…京急屏風ヶ浦駅から丘に延びる緩やかな長い裾野が汐汲み坂です。
そして丘陵地帯以外の平地は全て昭和初期まで海でした。
この屏風ヶ浦湾でとれる海鼠は、明治時代まで清帝国向けの輸出用に干しナマコとして出荷され、品質の高さで有名だったそうです。

さて、森浅間神社そのものに話を戻します。
先程の長い参道の階段の他に、久良岐の丘の方から回ってくる汐見台団地の中からの迂回路の参道も有ります。
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ただ、この神社は上にも下にも駐車場が無いので、屏風ヶ浦駅から徒歩5分と近い事も有り電車での参拝を御勧めします。

参道を抜けると、ひっそりとした場所に在る神社にしては期待以上に素晴らしい本殿です。
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そりゃそうですよね、頼朝公直々の命令で創建された神社ですから。
鳥居の右手には手水舎と、神社の由来の説明看板が有ります。
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手水舎も立派でしょう?
それ以上に石灯籠も立派でした!
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そして、狛犬君達も立派です。
江戸時代位の狛犬ですかね~?詳しい事は判りません。
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因みに、この浅間神社の宮司松本家は歴代笹下城跡の出城松本城址に建っている天照大神宮の宮司でもあります。
家紋も笹下城主間宮家と同じ。
恐らく、戦国時代には間宮家の被官として活躍されたのでしょう。
間宮家の系図にも松本姓の分家が登場しますので、この松本家は恐らく笹下城主間宮家から江戸時代に養子を迎えるか御姫様を御嫁に迎えているはずです。
※笹下城主間宮家については「ココ 」←クリック!

屏風ヶ浦付近に他所から引っ越してこられた方々には、恐らく近所にこんな立派な神社が在る事を御存知の方も少ないんじゃないでしょうか?
是非!お近くの方は御散歩されてみて下さい!

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

ブログネタ
今年後半に向けての抱負は? に参加中!
横浜市南区堀之内、地下鉄吉野町駅から徒歩15分くらいの所…
江戸時代には近くに蒔田湾(古大岡湾)と呼ばれた入江が眼前まで広がっていた丘、今では埋め立てられ平地に突き出した丘の裾に青龍山寳生寺と言う古義真言宗の名古刹(こさつ=古い御寺)が在(あ)るのを御存知でしょうか?

雰囲気有る石段でしょ?
今は宅地に成ってしまった旧参道から山門に続く石段の立派さが、この寺院の往時の権威を今に伝えています。
季節柄、紫陽花も綺麗ですね〜♪
1171年(承安元年)の開基ですから…
鎌倉幕府を開いた源頼朝公の御父君、左馬頭(さまのかみ)源義朝公の頃の時代の話ですね。
山門も良い感じに風情ありますよね?
鎌倉時代には執権の北条貞時公や、横浜市金沢区金沢文庫の地名の由来に成った日本初の私設図書館金沢文庫を創設し称名寺の基に成った金沢北条家の邸宅を建設した文化人で鎌倉幕府の重鎮、北条実時公からも保護されました。
※称名寺の記事は「ココ」←クリック!

近くには戦国時代の武蔵蒔田吉良家の殿様の城、蒔田城も在りました。
戦国時代には蒔田吉良家は横浜市南区や川崎市高津区中原区、東京都世田谷区一帯を支配していました。
吉良家と友好関係にあり江戸城主だった戦国時代初期の名将太田道灌公からも崇拝されていました。
※吉良家の記事は「ココ」←クリック!

余談ですが南区には京浜急行の南太田駅が在りますが、この南太田の地名の由来は戦国時代に今の南区太田に太田道灌公の御城が有った事に由来します。
吉良家の殿様は吉良頼康公の頃から小田原北条家に協力していた関係からか、この寳生寺も戦国時代の名将北条氏康公からも保護されていました。
その鎌倉幕府金沢北条家〜戦国時代の北条氏康公に保護されて来た証拠が山門の上と手水舎に刻印された寺紋です…
北条家の家紋、三鱗紋の使用を許され今も御寺の寺紋として使われています。

さて、この寳生寺、昔は沢山の大建築を擁する大寺院で本山格の権威を誇っていたのですが…
最大時には本殿と鐘楼以外に惣門、長屋門、弁天堂で七福神の弁財天様も御祀(まつ)りしており、それ以外に客殿や熊野社、経蔵が有ったそうですが、明治政府の数少ない愚政の一つ「廃仏棄釈」により衰退してしまいました。
その影響で本殿と山門と鐘楼を除いて失われてしまいました…。
残念ですね。
歴史の古い本殿は、今も健在です。
 
本殿は立派な彫刻を施されています。
あと鐘楼も有ります。
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鐘楼の向こうに本堂を見ると、背後に山林が広がっているのが見えますよね。
 
寶生寺の山林は県の市の保護林にも指定されていて貴重な場所でもあり、保護林である時点でその広大さも窺(うかが)い知れると思いますが、衛星写真で見てみると解り易いですね。
寶生寺
寶生寺を中心に取り囲む山林が寺域です。
むやみに伐採出来ないので、御寺の参道も管理が大変そうですね。
少し雑草が生い茂っていたり落ち葉が多かったので次回訪問する際に、御住職に参道の掃除をさせて下さいと申し出て見ようかなと思いました…
広い御寺を老齢になられてから維持管理するのは大変ですからね…
動ける人間が横浜市の歴史を守って来た御寺や神社に恩返し出来る事をするのは当然だと思いますので。

さて、この寶生寺、戦国時代の終焉の頃には徳川家康公により、保護する旨の朱印状を与えられています。
恐らく、その橋渡しをしたのが寶生寺に深く関わっていた横浜の殿様、「間宮直元公」だと推測出来ます。
間宮直元公は、横浜市磯子区と港南区にまたがる広大な城、笹下城の最後の城主で北条家の滅亡後は徳川家康公に仕えて、笹下城址の麓(ふもと)に笹下陣屋を築いて、そこを拠点に「本牧奉行(ほんもくぶぎょう)」と言う役職を担(にな)っていました。

※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
その本牧奉行の行政担当範囲を衛星写真でみると、大凡こんな感じです。
寶生寺周辺図
写真の中央に寶生寺の所在する横浜市南区、その上部、東京湾に突き出た半島を本牧半島と言います。
そして、本牧奉行の支配域は大凡、写真で見えている範囲で嘗(かつ)て日本神話の時代に神武天皇が城を造りたいと仰ったと伝承する「久良岐(くらき)の丘」と呼ばれる丘陵地帯です。
その丘陵地帯が正に、略(ほぼ)この写真の範囲で、この地域は神話の時代から明治時代に横浜市が成立するまで「久良岐郡」と呼ばれていました。
余談ですが久良岐郡の久良岐が小生のハンドルネームでもあります。
日本武尊と乙橘姫の二柱の神様が、旅されたのが久良岐郡と、隣の橘樹郡、三浦郡の地域で一帯には日本武尊神話がそこかしこに残り、それとリンクする様に浦島太郎伝説も残っている神話と伝承の地域でもあります。
そして平安時代~現代に至るまで坂東武者や戦国武将達の重要な水軍基地だった地域でもあり、現代の日本国の海上自衛隊と米国海軍にとって重要な基地やドッグの点在する地域でもあります。
それと同時に海外貿易を担う「国際港」横浜港の中枢でもあります。

さて、何で大大名でもない間宮直元公が直接、寶生寺と徳川家康公の橋渡しを出来る立場にいたかですが…
直元公の祖父は間宮康俊公と言い、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に箱根の山中城の出城、袋崎出丸に籠城し大活躍の後に玉砕した功績から、その子弟の多くが徳川家康公の直臣として取り立てられていました。
そして直元公からして叔母に当たる「間宮お久」さんは家康公の側室に入っており、後に「於久(おひさ)の方」と呼ばれた人物で縁故も有った訳です。
そして直元公御自身も「本牧奉行」以外にも更に重要な役職に就(つ)いていました…
その役職と言うのが江戸幕府の「但馬奉行」と「佐渡奉行」と呼ばれる役職です。
但馬奉行は但馬銀山の鉱山開発、佐渡奉行は佐渡金山の鉱山開発を担う重要な役職で、直元公の前任者は学校の日本史でも習う「大久保長安」と言う江戸幕府の超有名な内政官僚でした。
その大久保長安が政治失脚した後に、最後の笹下城主だった間宮直元公が、その役職を継いだ訳です。

間宮家は室町時代~明治維新まで、横浜の多くの神社仏閣や文化財を守る気風を受け継いだ殿様が多く、この寶生寺にも現代に重要文化財が残りました。
寶生寺の説明看板の写真を、その文化財の説明として掲載します。
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看板の他にも江戸期の石塔が保護されていました。
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さて、何で寶生寺に関わっていた間宮家の直元公が、但馬奉行や佐渡奉行を担っていたかですが、それは今も横浜市港南区笹下に住む、間宮家臣の竹内家や市村家、内田家の其々(それぞれ)の御本家と分家の御子孫の御話しや、文献から容易に推測が出来ます…
間宮家は戦国時代、小田原北条家の家臣でした。
所属した部隊は、関東地方で最強の武将だった玉縄城主北条綱成公率いる「黄備え隊」でした。
黄備え隊は、北条家の国境前線で起きる重要な合戦に常に参戦する部隊でした。
その戦闘範囲は広く…
西は間宮家は家臣古角内田家が受領した感状に記載された年号から、北条早雲公が今川家臣だった時代には遠く三河国(愛知県安城市)に今川軍として遠征し松平家と交戦しています。
北は北条綱成公率いる黄備え隊が信濃国上田城(長野県上田市)の武田軍の救援に赴いています。
東は下総国逆井城(茨城県坂東市)にて頻繁に佐竹家や小田家と交戦していました。

そして間宮家臣の御子孫の皆さんの御話しでは、間宮家は合戦だけでなく築城技術集団だったそうです。
つまり、鉱山の開発を任されたのは土木建築技術集団としての評価も高かったからでしょうか?
因みに間宮家は合戦と土木建築技術の他にも織田家や神社仏閣との外交等でも活躍していました。
その家臣筋の皆さんの証言を証明するのが、1526年に戦災で焼失した鶴岡八幡宮の再建事業に1536年から間宮家の当時の惣領だった間宮康俊公が奉行として参加している事です。
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この鶴岡八幡宮再建には寶生寺近くの蒔田城主吉良頼康公も材木の調達で寄与されています。
間宮家は祖先を有名な鎌倉御家人「佐々木高綱」公と自認していた(実際は佐々木高綱公の叔父の家系)事から、敦実親王の王孫に当たり家格も高く、その上、間宮家の系統の祖先が近江沙沙貴神社の宮司家だった為、神事にも精通し、加えて土木技術集団であったので「鶴岡八幡宮再建事業」にはうってつけの集団だった訳です。
羽柴秀吉における蜂須賀小六に有職故実の知識を足した様な人物に当たるのが、北条綱成公における間宮康俊公だと言えば解り易いでしょうか?
※北条綱成公と玉縄城の記事は「ココ 」←クリック!

この推測を更に強化するのが、徳川家康公の大坂城攻め「大坂冬の陣」の史話です。
間宮直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力武将として参戦していました。
その際、徳川家康公に直々に呼び出され密命を命じられます。その内容が…
「坑道を掘り、大坂城の櫓を崩せ」
…と言うものでした。
残念ながら、この作戦の成功を見ずに直元公は在陣中、病没してしまわれました。
しかし、この逸話からも、直元公が家康公と直接話せる立場に在ったと言う事が立証出来る訳です。
なので、寶生寺と関わりの深い間宮直元公が徳川家康公に口添えし、御朱印発給を要請した事が推測出来る訳です。

この寶生寺は間宮直元公や北条家、徳川家康公とこの様に関わりを持って来た訳ですが…
南区に御住いの皆さん、寶生寺がそんな凄い御寺だって御存知でしたか?
小生は寶生寺を訪れて、ますます先人の残して下さった文化と神社の宮司さん氏子さん、御寺の和尚さんと檀家さんが守り伝えてきた歴史を大切にしなきゃいけないなと改めて思う休日に成りました。
どうやったら郷土史の伝承に貢献できるか、寄与できる方法や規模を充実させて行きたいなと思いました。

もし、これを読んで御興味を持たれたら是非!寶生寺や御近所の吉良家の蒔田城址に在る吉良政忠公の菩提寺である龍祥山勝國寺を御散歩して郷土の歴史を感じてみませんか?

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!

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