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タグ:源実朝

弘法山の富士山と紅葉の景勝
神奈川の景勝50選の1つ
実は桜の名所だよ!
【景観】
 紅葉の景勝地として
 ★★★
 富士山の景勝地として
 ★★★★★
【電車】
 秦野駅~バス乗車11分~
 弘法山入口降車~徒歩24分
        ・・・所要時間35分
※ハイキングコース
 秦野駅  ~徒歩45分
 鶴巻温泉駅~徒歩60分
 東海大学駅~徒歩60分
【  車  】
★★
 駐車場20台前後。
【休憩】
 トイレのみ。
 麓に天然温泉スーパー銭湯有り。
 車なら近郊に鶴巻温泉有り。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 神奈川の景勝50選の富士山の景色◎ 
 紅葉は多くないけど夜景もスゴイ◎
 大山と丹沢山方面の景色もスゴイ◎
 ハイキングコースとして有名◎
 弘法山展望所のベンチの夕景◎
 車なら近くに温泉施設有るよ◎
注意するpoint(•ω•)       
 車じゃないと少し不便だよ。
 歩き易い服装必須。
——以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵——
【交通】
車じゃないと少々不便。林道なので道幅も狭く落ち葉の吹溜りも有るのでスピードを出すと確実に人身事故を起こす場所、慎重な走行を心がけて欲しい。
駐車場は弘法山第一駐車場と浅間山駐車場の2ヵ所有り合計で30台程が駐車出来る。
オススメは弘法山第一駐車場で、弘法山公園の展望台までゆっくり15分位の散歩が楽しめる。
ハイキングコースとしても林道が整備されており、鶴巻温泉駅や東海大学前駅や秦野駅からハイキングを楽しみ帰りに温泉施設で日帰り湯に入って帰るのが昔からのハイカーの定番コースで以下の2パターンが有る。
①昼間の富士山景勝コース
秦野駅側から登り権現山の弘法山公園弘法山釈迦堂善波峠吾妻山鶴巻温泉郷に抜けて弘法の里湯で日帰り温泉に入浴して鶴巻温泉駅から帰る。
②富士山の夕景コース
鶴巻温泉駅から登り吾妻山善波峠弘法山釈迦堂弘法山公園/弘法山展望所ベンチで富士山の夕焼けと秦野の夜景を見て~名水はだの富士見の湯で入浴~秦野駅から帰る。
【見所】
弘法山は❝神奈川の景勝50選❞の1つに選ばれた場所なだけでなく、❝関東の富士百景❞、❝かながわの花の名所100選❞、❝かながわの探鳥地50選❞にも選ばれている。
春は桜、秋は広葉樹林と富士山が共演する絶景の場所。
温泉も有名。
又、秦野駅側と鶴巻温泉駅側にはそれぞれ温泉施設が有り、温泉郷としても有名。
【名物】
温泉
特に早くから有名だった鶴巻温泉側には老舗旅館の❝元湯陣屋❞と市営の日帰り天然温泉❝弘法の里湯❞が有る。
秦野駅側には最近出来たばかりの民営の天然温泉スーパー銭湯❝名水はだの富士見の湯❞が有る。
食品では秦野市は丹沢山系の名水が湧く土地として有名で豆腐が有名、特に小生が鎌倉時代の波多野氏と源実朝公の菩提寺金剛寺の歴史散策の際に偶然知った❝丹沢大山五右衛門❞の豆腐と豆腐ドーナツがとても美味しくて車での散策なら個人的に御土産としてオススメ。
他にも秦野市は昔からピーナッツと煙草の葉の生産地としても有名で、弘法の里湯で御土産としてピーナッツの加工食品も販売している。
【歴史と偉人】
弘法山の山名から御察しの通り、平安時代に仏教真言宗の開祖である弘法大師空海和尚が修行したと伝わる事から弘法山の地名が残った。弘法山公園(実際は権現山)~弘法山の林道には所縁の釈迦堂が存在する。
付近一帯は古代の主要街道が多く通る場所だったので弘法山は南北朝時代に要害として利用されたと伝承するが曲輪や空堀等の遺構は個人的には確認出来なかったので城ではなく陣地だったのだろう。
善波峠は古代の交通の要所で、ここを経由地として矢倉沢往還の古道が通り、丹沢の矢櫃(やびつ)峠を経由して甲斐国(山梨県)に至る古道、縄文時代~近世の遺跡を内包する聖地の大山山頂や大山阿夫利神社と大山寺や日向薬師に至る尾根道の古道に接続する古代の重要な山の街道だった歴史も有る。
実際に山麓の鶴巻温泉は古代大和朝廷の駅伝制度の箕輪駅(店屋=兵站=基地)の跡だった事も考古学的に証明されていたりする。
その様に古代の重要な交通網を見渡せる弘法山なので、弘法大師が実際に修行に来たかは解らないものの弘法大師の組織が古道に休憩所も兼ねた御堂を建立し往来する人々に休息の場を与えつつ布教を活動を配下の僧侶に行わせた事は他地域の古道に在る寺院の存在からも想像に易い。そんな古街道を抑える場所なので南北朝時代に軍隊が陣地に取り立てたと言う伝承も本当なのだろう。
平安時代末期から戦国時代の名族で源義朝公の忠臣だった波多野氏が弘法山の近く田原地域の城館を構えていた場所には源実朝公の供養墓(首塚)が有る他、東田原地区の金剛寺は波多野氏が開いた寺院で源実朝公の供養墓を管理する菩提寺でもある。
——弘法山公園——
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——弘法山公園の夕景——
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——弘法山展望所ベンチの夕景——
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震生湖畔の紅葉
震生湖と福寿弁財天
【景観】★★
 多くはないが湖畔の紅葉が綺麗♪
【電車】
 バス/徒歩ともに秦野駅~30分。
【  車  】★★★
 2ヵ所駐車場有り。
【休憩】
 自販機とトイレのみ。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
希少な関東大震災で生まれた堰止湖◎
湖畔の鳥居や紅葉の景色が綺麗◎
釣り堀としても利用出来るよ◎
福寿弁財天は天河弁財天の御分社◎
車で近くに出雲大社相模分祀有り◎
車で近くに拉麺の名店なんつッ亭◎
車で近くに鶴巻温泉の弘法の湯◎
☞注意するpoint(•ω•)       
歩きやすい服装必須!
綺麗だけど紅葉だらけではないよ。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
【交通】

釣り客以外に余り観光客もいないので、車なら震生湖公園駐車場が満車に成る事は無い。
秦野駅~バスに乗+徒歩でも、秦野駅~徒歩でも30分かかるので出来たら車で訪問したい。
【見所】
快晴で気温が低い日、運がよければ紅葉が湖に写り込んだ写真を撮影出来る。
湖畔に鎮座する福寿弁財天は関東では珍しい奈良県の天河弁財天の御分霊を頂いて開かれた。
弁天様が見守る震生湖は関東大震災の時に山の湧水の沢が堰き止められて出来た‟堰き止め湖”にカテゴリーされる珍しい自然湖で、震生湖は流れ出る川が存在せず丹沢山系の地下水脈と繋がっているパワースポット。
車なら近くに縁結びで有名な出雲大社の分社である出雲大社相模分祀が有る。
市内の弘法山の紅葉や鶴巻温泉の日帰り入浴、南足柄市の大雄山最乗寺の紅葉と合わせても1日で廻れて良い観光が出来る。
紅葉シーズンでなくても散策に来ると気持ちの良い場所。
【名物】
秦野市は鶴巻温泉が有名。
煙草(たばこ)の生産地で有名だが、落花生(ピーナッツ)の生産も有名で鶴巻温泉等で販売している。
新しい名物としてニューウェーブ系の拉麺屋として一世風靡した‟なんつッ亭”が車で10分の距離に在る。
名物の黒マー油豚骨ラーメンは豚骨スープの旨味はそのまま、ローストされ臭みを消した香ばしさだけ残した黒ニンニクのペーストによって香りの良い豚骨拉麺に仕上がっていて女性にも大人気だったりする。
丹沢山系は名水で有名で秦野市や大山の有る伊勢原市は豆腐の名産地としても有名。
小生は偶然、鎌倉武士団の波多野氏と源実朝公の歴史散策から弘法山に富士山撮影に行く途中に見つけた秦野市の中では御土産用に少し良い豆腐を製造直売している‟丹沢大山五右衛門”の豆腐を強く推薦したい!刺身用の湯葉めちゃ美味い!
【歴史と偉人】
波多野義通公、源実朝公等。
波多野義通公は秦野市一帯を平安時代末期に収めた坂東武者で丹波国の大名波多野氏の祖先で源頼朝公の父君源義朝に仕えた名将。波多野義通公の姫が源義朝公の二男源朝長公を生んでいる。
秦野市の金剛寺は源義朝公の嫡孫である源実朝公が鶴岡八幡宮で暗殺された際に首を密かに供養したとされる金剛寺の管理する実朝公の御廟所等も有る。その金剛寺や実朝公御廟所一帯が鎌倉時代の波多野氏の居館跡。
——震生湖畔——
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——福寿弁財天周辺——
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鎌倉市浄明寺地区の紅葉②
報国寺~華頂宮邸~釈迦堂切通

功臣山報国寺
足利家時公、宅間上杉家、鎌倉公方の菩提寺
 ※ミシェランガイド☆☆☆の竹林の寺
旧皇族 華頂宮邸
【景観】
 報国寺   ★★
 ミシェランに掲載されてる竹林寺。
 華頂宮邸  ★★
 
紅葉少も立派な洋館と英国式庭園。
 釈迦堂切通し
 紅葉無いが壮大な史跡。
【電車】

 浄妙寺・報国寺・華頂宮邸★★
 鎌倉駅~徒歩27分
 鎌倉駅~バス乗車8分~浄明寺降車
 ~徒歩2分       ・・・所要時間10分
 金沢八景駅~バス乗車22分~
 ~浄明寺降車~徒歩2分
               ・・・所要時間24分
 浄妙寺⇔報国寺         ・・・徒歩05分
 報国寺⇔華頂宮邸  ・・・徒歩03分
 華頂宮邸⇔釈迦堂切通・・・徒歩35分
 釈迦堂切通し      
 ※2020年現在の釈迦堂切通し
 釈迦堂切通の北側落石で歩行不能。
 南側は近くに行ける。
【  車  】
 報国寺   ★★
 駐車場10台以下で秋は駐車困難。
 直ぐ近所に浄妙寺駐車場有り。
 徒歩10分圏内に有料駐車場複数。
 華頂宮邸  
 無し。
 釈迦堂切通し
 無し。
【休憩】
 報国寺   ★★★
 竹林庭園の茶庵で抹茶飲める。
 周辺に喫茶店数軒有り。
 華頂宮邸  
 公衆トイレ無し
 釈迦堂切通し

 公衆トイレ無し
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 報国寺
 ミシェランガイド★★★認定だよ◎
 竹林が素晴らしいく抹茶も飲める◎
 足利尊氏公の御爺ちゃん足利家時公
 が開いた由緒正しい御寺だよ~◎
 早朝座禅会やってるよ~◎
 華頂宮邸
 旧皇族が住んでた洋館と御庭◎
 モンテクリスト伯華麗な復讐ロケ地
 釈迦堂切通し
 もの凄い迫力の鎌倉時代の史跡◎
―――――――――――――――――
 上記3ヵ所の近所に浄妙寺が有る。

 浄妙寺と合わせて一緒に全部廻るの
 オススメ♪
注意するpoint(•ω•)       
 秋は報国寺竹林茶庵での喫茶は、
 待ち時間が長いが待つ価値有り。

 報国寺は食品持ち込み禁止。
 報国寺駐車場は秋は駐車混むので
 近所の浄妙寺駐車場が御勧め。

――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
【見所】
報国寺
報国寺はミシェランガイドで最高の★★★を獲得している。竹林の庭園はいつの季節も美しく、抹茶と落雁を食べながらユックリと秋の竹林の凛とした空気と緑の素敵な空間を楽しめる。竹林の奥の庭園も可愛らしい石仏と苔や、池と鎌倉時代~室町時代の矢倉の史跡を見る事が出来る。
御寺の山門~御本堂正面の参道の紅葉と庭の景色も美しい。
紅葉の名所としての評価は
★★★だが寺院の景観を総合評価するなら★★★★

華頂宮邸
旧皇族華頂宮(かちょうのみや)邸は戦前まで華頂宮家が住んでいた近代西洋建築の御屋敷で最近では❝モンテクリスト伯 華麗なる復讐❞で主人公の居館としてロケハンされていたりする。正門から入ると左手に立派な紅葉の樹が有り、その奥のイングリッシュガーデンでは庭のベンチに座って食事する事が許されているので、マナーを守れる人なら手作り御弁当持参してデートに来たらユックリ時間を過ごせる。

釈迦堂切通し
凄まじく壮大な鎌倉文化を代表する隧道型の切通しで、切通しの上には貴重な日月矢倉や北条時政邸跡に通じる衣張山(きぬはりやま)ハイキングコースが有る。多くの映画のロケ地に成っていて、二宮和也と松浦亜弥が主演した❝青の炎❞等も同地がロケハンされている。
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸は交通の便が良く合わせて見学するのがオススメ。
電車で来ている場合は帰路、鶴岡八幡宮までユックリ歩いても20分位なので良い散歩に成る。
ガッツが有るなら明王院口~天園ハイキングコースを登り~天園休憩所~建長寺半蔵坊~北鎌倉駅まで2時間位歩いても山の中を気持ち良い散策が出来る。
【交通】
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸
上記の三ヵ所はいずれも近在する。浄明寺バス停から全て近い。
鎌倉駅からバスで行っても良いし、鎌倉の街並みを散歩しながらユックリ歩いて来てもとても良いレクリエーションに成る距離感。
車なら浄妙寺の駐車場が駐車可能台数も多く通りに面していて便利。

釈迦堂切通
鎌倉市が落石や倒木の処理を怠り2012年くらいには名目上は通行止めのまま住民の生活道路なので地元民は自転車や原付で普通に往来していた。市役所担当部署が「整備がなかなか出来ない」と言い訳し続けて年月が経ってしまい、2019年の台風で更に浄明寺地区側の北側散策路が崩落して状況が悪化。
地元の方や見学したいハイカーは衣張山ハイキングコースから迂回したり大町地区に回り自己責任で南側フェンスの横から見物しに行くしかない。
釈迦堂切通しを見る経路(2020年時点) 久良岐のよし
華頂宮邸側から行く場合の順路⤴
 
華頂宮邸~真っ直ぐ南に歩いて巡礼古道を経由して釈迦堂切通南側に行く途中、天気が良ければ❝関東の富士見百景❞の良い景色を見る事も出来るし、そこから公園の階段を下り大町地区の住宅街を通り黄金矢倉を通過し釈迦堂切通の南側のフェンスの前に出るのが2020年時点での近づけるルート。
衣張山ハイキングコースからの眺望も鎌倉市街と相模湾を見渡せて気持ちが良い。
 
衣張山から獣道を通って降りる裏道も有るが、山一帯が北条時政によって城郭化されたり、後世の石切で崖地に成っており獣道を見失うと滑落して大怪我の元なので非推奨。
釈迦堂切通しの散策路の再整備要望される方は鎌倉市役所迄陳情をお願いします。
【偉人】
報国寺
足利家時公(足利尊氏公祖父)、歴代室町幕府鎌倉公方、宅間上杉重兼公(足利尊氏公母方叔母の夫)、宅間上杉家歴代当主、犬懸上杉禅秀公。
華頂宮邸
旧皇族華頂宮家、伏見宮博恭王
釈迦堂切通し
鎌倉幕府三代将軍源実朝公、北条時政、北条義時公、名越北条朝時公
【歴史】
報国寺や華頂宮邸の有る谷は宅間谷(たくまがやつ)と呼ばれた場所で、室町時代の足利家重臣、宅間上杉家の居館跡だった。その居館の敷地に開かれたのが報国寺で、足利尊氏公の祖父である足方家時公と叔母の夫の宅間上杉重兼公によって開かれた由緒正しい寺院。
宅間谷背後の山は衣張山と呼ばれ、釈迦堂切通しを抜けると北条時政邸だった名越邸や北条義時公が父の北条時政の菩提寺として開いた釈迦堂跡の遺跡群が群在する。名越邸のある衣張山は山裾が切り落された裾切りされ全山が城郭化されているが、明確に後世に石切場と判断できる場所も多く鎌倉石の石切場の史跡としての価値も有る。
華頂宮家から分家した伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王は対馬海戦時に戦艦三笠に乗って活躍した海軍将校としても有名だったりする。
【名物】
報国寺の日曜坐禅会(食事は御粥と沢庵2枚で完全な修行体験)
報国寺の除夜の鐘
——報国寺の紅葉と竹林——
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——華頂宮邸の紅葉と英国式庭園——
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——釈迦堂切通し——
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前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
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普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
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上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
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上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
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写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
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鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
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澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
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すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
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そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
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ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
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そして波多野家の詰め城も近い。
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仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
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今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
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立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
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正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
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まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
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金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

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御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
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鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

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現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
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可愛らしい小僧様。

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本堂も立派。

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本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
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生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
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又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
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金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

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御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

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余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
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半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
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山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
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ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
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調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
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→次回その④へ続く。
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今日は朝、少しだけ寝て家を出た。
最初に訪れたのは称名寺…
と、昔は同じ金沢北条家の敷地内に建てられた武家初の図書館だった金沢文庫。
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今では金沢文庫博物館と名を替え県営と成っている。
現在、金沢文庫は泥亀新田開発者の永島家の特別展示を行っている。この永島家の邸宅は伊藤博文公が大日本帝国憲法草案を起草した場所の一つ、野島の伊藤邸近くに在った。
昭和後期、小生が子供の頃まで永島家の敷地と立派な門が文化財として保護されていたが横浜市教育委員会が保護を怠り破壊され宅地化されてしまった。
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金沢文庫が県営に成ったのには色々な経緯(いきさつ)が有るが、明治時代に領主や幕府達に寄進されていた寺領が没収されてしまい、米穀の収入があった寺領や社領を接収されたので、神社仏閣の僧侶や神職達は収入源が無くなったせいで墓地の経営や冠婚葬祭なんて商売を行わなければいけなくなった。
つまり明治政府の宗教政策の失敗によって神社仏閣の多くは哲学や学問や文化を学ぶ場所としての機能を停止せざるを得ない状況に陥らされた。
更に封建社会での御寺は公共施設だったのに対して明治時代は住職の個人資産、世襲制に成ってしまった事で称名寺も当時の❝住職の資産❞に成ってしまった。
これが金沢文庫の不幸の始まりで、当時の住職は仏僧にもあるまじき堕落をし水商売の女に狂って日本国民にとって❝東の正倉院❞の異名で呼ばれた称名寺の寺宝を私有財産の様に売り払い、水女に使い込んでしまった。
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それを保護すべく称名寺の檀家や宗派真言宗の認知の下で、寺宝管理を神奈川県営の金沢文庫博物館に寄託する形で、日本国民にとって有益な研究対象文化財として世間に多くの寺宝が日の目を見て日本のみならず
東アジアの文化史解明に役に立ったと有名に成った程の場所…
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…なのだけれど、歴史に興味が無い人達には認識されておらず知名度が低い。江戸時代までは真言宗内では称名寺は凄まじい知名度の庭園と壇林としての機能を有して居た。
称名寺=金沢北条氏邸宅の谷戸と文庫の谷戸を繋いでいた鎌倉時代から使われていた隧道も現存する。
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まぁ、現在の黒岩知事と県の教育委員会が金沢文庫の文化財保護の為の老朽化した空調交換に予算を回さなかったせいで、称名寺の重要文化財は昨年カビに腐食されてしまってニュースに取り上げられ事件に成った事も有った。
文化財保護と言うのは知事や市町の文化度が低いと、この様に直ぐに被害をうける。
これが城址や神社仏閣の古址と成ると、あくどい市長は発掘調査もせず重要性を隠匿したまま土建屋に宅地開発容認してしまう。
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今、宅地開発されてる横浜市港南区笹下4丁目は、笹下城址の主要部分の一角だった。
現在、本丸直下の切岸と空堀後は❝傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャル❞に破壊されて家が建設される最中だ。

さて、閉館16時半金沢文庫を後にして何だか休日に1ヵ所しか廻らないのは不完全燃焼…
「歴史成分」「自然が足りない」
…てな訳で、ここから車でそう遠く無い神奈川の景勝50選に選ばれている鷹取山に廿数年ぶりに登ってみようと思い立ち移動した。鷹取山の写真は全く無かったから。
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なんだか久しぶりの鷹取山は本来の登山道とは別のアスファルトの広い歩道が整備されてしまい自然環境が破壊されていた。
まぁ、その分、ちゃんと紫陽花が植えられて遊歩道として綺麗ではあった…
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小生は現在の遊歩道を嫌って、紫陽花の切れ目から子供の頃に歩いた古道を見つけてソッチから登山する事にした。
因(ちな)みに、普通のアスファルトの遊歩道を歩けば鷹取山公園の入口から展望台の有る岩場まで10分足らず、遊歩道をそれて古道に入ると危険極まりない(笑)風化した鎌倉石と自然を満喫する道なので展望台まで30分以上かかる。
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嘆かわしい事に、来なかった二十数年の間、新しい物とは言え岸壁に掘られた石仏群を何の心算か勝手に彩色する輩がいたような。
そんな悲しい発見も有ったが…
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こんな場所が緑の中、随所にあり不思議な空間に成っている。
マイナスイオンも感じる様な気がする…
途中、この古い登山道は本当に険しく、落ちたら死ぬ所ばかり(笑)。DSC_3023
それでも、この本来の道を通る価値は有る。

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頂上の広場は、まるでカッパドキアの様な異世界の風景。
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でも、この岩場の壁面に沢山穴が開いてるでしょう?
これ、先日も文化財破壊で問題に成った団塊~バブル世代の無文化ロッククライマー達が私欲の為に鉄杭を打ち込んで破壊した傷後です。
現在は根本的にロッククライミング禁止なのに、無許可で登ってるクソがいました。
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装備を置いて岩の上にいるようだ。
そんな憤りもあるが、この日は久しぶりに拝みたかった大石仏の弥勒菩薩様に会いに来たので…
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昭和初期に高名な芸術家が彫刻した仏様なので美しい!
久しぶりに御会いできて嬉しかった。
石切場含め将来何十年かしたら文化財に成るんでしょうね。
この鷹取山や神武寺付近は小生が尊敬する戦国時代、関東最高の軍師の太田道灌公も鷹狩に訪れた伝承があり、鎌倉時代には源実朝公も来訪されたそうだ。
ここの存在を思い出したのは先月、葉山に宿泊した際に訪れた逗子市郷土資料館の学芸員さんの話で、鷹取山の話が出て来たから。

ふむ、古道を歩いた御蔭で汗もかき、何とか休日らしい充実感を味わえて良かった。








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