歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:源頼光

先に考察の結論を述べます・・・
[鬼殺隊の設立時期]
鬼殺隊の成立は恐らく1017年以後。
鬼舞辻無惨の鬼化は西暦900年頃。
鬼殺隊には前身に成った実在した歴史偉人達の初代討伐隊がいる。
[変な髪色の四人]
我妻善逸 ・・・脱色
甘露寺蜜璃・・・カツラ、地毛は実在する親戚見るに多分黒。
煉獄杏寿朗・・・非縄文系/弥生系大和民族、渡来系太秦氏(ユダヤ人)の直系で近親婚してた一族。
不死川実弥・・・兄弟共に精神的ショックによるメラニン色素死滅による白髪化。

【注意事項】
今回、宇髄天元の記事を書くつもりが文献探したり、長崎の教育委員会に御教授頂いたり、薬品会社の社史を調べたり、色んな企業の広報さんに社史を教えて貰ったり色々としている内に、ブログプラットホームの1記事当りの書き込み可能文字数の制限を超えてしまったのでブログを2部に分けます。
【今回】
鬼滅隊の成立の考証、善逸、甘露寺蜜璃、煉獄家、不死川家の髪色や家柄の考察。
【次回】
宇髄家の忍者と言う階級は武士と言う考証と、宇髓天元さんの身体的特徴と妻女が3人もいる理由の考察。
前回の歴史考証は主に「場所」や「時代」の特定が中心だったので、比較的歴史や古地図から推定出来る事も有ったのですが今回の内容は少し異なります。


前回の歴史考察で思い知らされたのですが鬼滅の刃には漫画・アニメの世界の話なので現実に存在した時代や貴族の家名が登場しますが、あくまで日本とは違うパラレルワールドと認識して見て置く必要が有ります。
その上で、鬼滅の刃の世界を現実の歴史に当て嵌めるなら、作中の各キャラクターの身体的特徴や家柄や性格等の個性や、鬼滅隊の経済基盤はどうなっているのか等を「現実的に解釈するならどう言う事なのか?」と言うのを皆さんと考えたいと思います。

鬼滅の刃の遊郭編も最終回を終えましたが本当に凄い作画と音楽ですね~。
Screenshot_20211208-053910~2
前回の記事を書いて見て思ったのですが歴史考証と言うより、鬼滅の刃の漫画の中の事を史実に置き換えて話に現実的に解釈して説明して見ると言う作業が中心に成りました。
ですから今回の記事は皆さんに・・・
「この時代にそんな事が有ったのか~!」
「あ~そう言う風に見れるのか・・・」
・・・と、言う風に皆さんがもう忘れたかもしれない学生時代に習った知識や童話の元に成った伝承と繋がるんだね~!と言う視点で読んで貰えたら幸いです。
今後どこか旅行に言った歴史散策でふと思い出して頂けたら嬉しいかなと。

今回は・・・
宇髄サンの髪色や体躯の解説する前に、変な髪色の隊士の髪の毛の色を歴史考察。
宇髄家の考察に必要な、鬼殺隊の成立時期の考察と日輪刀の元祖の紹介。
・・・この2つを書きたいと思います。

——では始めましょう——
皆さんと鬼滅の刃の時代にどんな出来事が有ったかを一緒に見てみましょう~♪
鬼滅の刃の遊郭編の最終回放送も終わり、次回の予告も有りましたね。

鬼滅の刃には謎が多いですね、本当。そもそも論で鬼殺隊って・・・
「う~ん?この組織の運営どうなっとるんだ?」
「死体処理や鉄道災害を独自に復旧出来る医療チームと工作部隊とか・・・国?」
「産屋敷家97代目って・・・古代の豪族子孫の出雲大社の大宮司家ですら81代目よ?」
・・・とか色々と。
今回は当初は「“忍者”と言う職業は存在せず大名から給料貰ってる“武士”です」よ?と言う話を宇髄サンの歴史考察で記事を書こうとしたら、宇髄サンの身体的特徴の事も彼の思想に関係が有りそうな歴史をまとめていたら・・・
宇髄サンの髪色以前に染髪薬品の存在しなかった大正時代にアホみたいなピンク色の髪の乳見せ痴女とか現実離れした髪色のキャラクターが多くいます。
コイツ等⤵
我妻 公式様より拝借煉獄 公式様より拝借甘露寺 公式様より拝借不死川 公式様より拝借
「コイツ等の髪色どう現実的に解釈したら良いんの?」
・・・的な問題が宇髄サン以前に有ったんです。
原作者さんは特に歴史的な考証はしておらず自由に髪色を決めていると思うので、話を整理し髪色含めて日本の歴史や伝承に合った現代に繋がる話に成る様(よう)に解釈したいと思います。

どう繋がりますかね~?
民俗伝承や近代史や企業社史から辿り「歴史」で解釈してしまいましょう。

我妻善逸の金髪
我妻 公式様より拝借
善逸の金髪は落雷に直撃して変色したと設定されているので、既に現実を超越しており何も髪色について突っ込むところは有りませんが、敢えて現実的に解釈すると彼は何らかの方法で髪色を脱色しているハズです。しかも“本人が知らない内に”第二人格によって・・・
これが現実的な解釈だと思います。
実は善逸は脱色を出来た可能性が有ります。
ただこの解釈をするには皆さんに以下の仮説を前提として納得して頂く必要が有ります。
(そもそも落雷で髪色は変わらないので納得して頂かないと成立しません。)
【金髪化の仮説の大前提】
——失神時の二重人格が髪を脱色——
漫画の描写では樹木の上で被雷、直後に落下する時には金髪ですがコレは本人の状況説明を絵にしただけで実際は少し違ったとします。
実際は被雷時に失神→爺ちゃんに介抱される事、1晩以上経過後に目を覚ましたら金髪だったとして下さい(御願いします)。
そうすると全てに辻褄が合います。

彼は寝ずに隠れて修行までして強く成れない事を嘆いており、彼は努力家です。
この努力家な性格と身に付かない奥義に関する焦燥感と赤ん坊時代に親に捨てられて自己肯定感を持てずに生きて来たストレスが爆発し精神錯乱状態に成り木の上に登る奇行に及ぶ。
突発的に自殺してしまう人と同じ精神状態ですね。

木に登った直後に被雷、本人の記憶は実際はここで一度途絶えており実は失神していた。

失神中に爺ちゃんに介抱され気が付くまで1昼夜以上の時間が経過していたとします。
その間に多重人格障害の特長である本人を生かす為にストレスを解消する為の第二人格が発現し二重人格に成ったか、元々幼少期に親に捨てられたショックで二重人格は発現していたと仮定します。
多重人格は幼児虐待や社会的な不遇で発症する事が有るので、善逸の状況に当てはまるかと思います。
特に彼は優しい性格なので、親に捨てられて自己肯定出来ず生きているのに自分を師としても親代わりとしても育ててくれる爺ちゃんが本当に大好きなのでしょう。

大好きなのに期待に応える事が出来ないストレスが大きかったでしょうから失神中の人格が善逸の本来の人格に負担を軽減する為に、善逸の本来の人格の脳の思考回路をちゃんと睡眠させ、第二人格の善逸が強く成る夜間の修行を担(にな)って強く成る事を被雷し失神中の時間帯に決意した。

善逸が失神中の第二人格が被雷後~善逸が目を覚ますまでの間に善逸の代わりに強く成ると覚悟を決めて雷の呼吸の象徴として髪を勝手に脱色して金髪にしてしまった。
善逸の中では被雷して目が覚めたら金髪だったので被雷した=結果金髪と記憶違いが起きている回想が漫画のシーンと解釈すると自然です。

善逸が覚醒時にあれだけの身体能力を発揮出来るのに、炭治郎や伊之助との修行ではパフォーマンスが低く泣き言を言っているのは、実は本人が寝ている間に第二人格が体を使って修行をしているから脳的には疲れはとれても肉体的にはオーバーワーク状態が四六時中続いているので体力がヘロヘロの状態だったとすれば、これも説明が着きます。

この仮説の中の「第二人格が脱色した仮説」を成立させる為には、大正時代に脱色する薬品が存在する等の脱色手段が必要ですね。
では脱色出来る様な薬品が大正時代の彼の身の回りに既に存在したのかを検証してみましょう。
——大正時代の脱色手段考察——
冒頭にリンクを貼った前回の歴史考察記事では遅くとも大正六年(1917年)に炭治郎や善逸達の立志編の旅が始まっていると特定しました。
鬼滅の刃立志編 公式から拝借
善逸の第二人格がが髪を脱色していたとしても、平成~令和年間(1989~2022年現在)の様(よう)に髪を染色したり脱色を目的にする薬品は当時は存在しないので自前で作る必要が有ります。
脱色に関しては一つ可能な方法が有り脱色薬は自作出来た可能性が高いです。
第二人格も相当な努力家ですから、武芸に取り組む以前は深夜に覚醒すると本来の人格が負傷した際の為に薬学や医療の知識収集に励んでいた可能性が有りますね。
そこで以下の「脱色薬」の生成方法を知っていた可能性が有ります。
傷口の殺菌消毒液のオキシドール+小麦粉
=混ぜてペーストにして髪に塗布すると脱色出来る

さて、ここで次の問題は大正時代にオキシドールが存在したかが問題に成ってきます。
オキシドール、ピンポイントで炭治郎達が遅くとも大正六年(1917)頃に鬼狩りの旅を始めているのですが、大正三年(1914年)には既に存在してるんですね~。
この歴史偉人⤵の御蔭で。
渋沢栄一
※渋沢栄一資料館所蔵写真
渋沢栄一公ですね。
渋沢栄一公は明治三十二年(1899年)に現在の横浜市役所新市庁舎の立つ横浜市弁天通一丁目一番地に御自身の会社で有る絹織物売込商横浜刺繍株式会社の一室に間借りする形で三共商店を開業し、タカヂアスターゼの輸入試売を開始しました。これが三共製薬の創始だそうです。
ちなみに弁天町1-1の地名は明治時代以前は半島だった砂州の先端に豊富に水が湧く神秘的な土地だったので源頼朝公が弁財天を御祀りして開いた弁天社が存在した事に由来します。
その弁天社一帯が現在の“関内”の地名の通りの関所の有る外国人居留地に成り更に明治の軍用地に成る際に接収され伊勢佐木長者町の厳島神社と元町中華街駅近く元町商店街の厳島神社に分祀され消滅し、弁天町の地名だけが残りました。
その事は以前ブログ⤵で触れた事が有るので御興味有る方は御覧下さい。

この弁天社の跡地の一角に渋沢栄一公が三共製薬の前進を設立する訳です。
この三共製薬が大正三年(1914年)に日本国内でオキシドール=過酸化水素水と同じ、過酸化水素水=オキシフルの製造発売を開始しました。
これは赤チンと共に創傷つまり刀傷の治療薬なんですね。普通に皆さんも子供の頃に擦り傷の消毒に使った方もいるのではないでしょうか?
大正時代では鬼殺隊は当然刀剣を扱って鬼と戦う私兵団ですから、組織として消毒薬品の導入も行っており潤沢に備品も配給されていたでしょう。
—―オキシフルは大量確保可能か?―—
オキシフルに関しては鬼殺隊が潤沢の資金が有る組織なら問題有りません。
鬼殺隊は明治政府以後は非公認ですが明治以前は時の最高権力者達から公認されていたと考えられ、大正時代でも鬼の存在は全ての階層の人間にとって恐怖の対象でしかない訳ですし、例え下級の鬼でも日本軍の一般兵士や警察官の手には負えないでしょう。ですから明治政府樹立後も有力者達が産屋敷家=鬼殺隊を経済的でも物資面でも支援する事は黙認されていたからこそ、廃刀令後も鬼殺隊だけは佩刀が政府要人の一部の権限で容認されていたと考えるのが自然でしょう。
その証拠に士分解体後も元貴族で明治以後の家族で伯爵号を有する甘露寺家の令嬢の甘露寺蜜璃を隊士に加える程の組織ですから、多くの元大名家や華族、或いは神社本庁や各仏教宗派の総本山からの支援金や渋沢栄一公や原三溪公や浅野総一郎公等の財閥からの寄付金も集まっており、先進的な医療の支援も受けられたはずで、この前提が有れば本来忍者で大名家か徳川幕府に仕官していた宇髄家が大正時代に産屋敷家に仕官している理由にも成るかと思います。
この様な理由から、雷の呼吸の師匠(爺ちゃん)の家にも研修中の善逸達に配給されたオキシフルは大量に有ったでしょうし、饂飩やスイトンの材料として小麦粉も備蓄が有ったと思われます。
——以上から髪色は脱色と解釈出来る——
これ等の状況から善逸の失神中や就寝中に冷静な第二人格が善逸の修行とストレスを半分負担し霹靂一閃の習得を誓って髪の毛脱色したと「ムリヤリ解釈すれば」当時の出来事として現実的にする事は可能かと思います。
・・・霹靂一閃とか空中駆け回るし人間じゃ出来ないんですが。
それはさて置き、被雷で善逸得たヒントで睡眠中の人格が習得したので、その内に禰豆子ちゃんと大人に成って恋愛して自己肯定感と他人と幸せを共感出来る経験を積み重ねて行って人格の統合されて行けば、表と裏の性格の記憶と長所を共有した紳士に成り起きていても霹靂一閃を使える様に成っていたかも知れませんね。
・・・中年期に第二次世界大戦に徴兵された際に戦死したり中年で徴兵されずとも東京大空襲で被災し死んでいなければの話しですが。
髪色の解釈で善逸を調べたので少し話を髪以外にも触れたいと思います。
——余談、善逸の出自——
彼は捨て子であり家庭運的には青年期まで恵まれていませんでしたが体格的には実は恵まれています。
当時の男性としては平均身長が160cm弱の時代に発育途中の16歳で164.5cmなので平均より少し大きい位です。現在の人間で言うと男性の平均身長が170cm前後なので、当時の164.5cmは現代人の感覚に当て嵌(は)めるとジャニーズの生田斗馬君(175cm)、藤ヶ谷太輔君(175cm)位に相当するでしょうか。

そう言えば藤ヶ谷君は善逸に髪型だけ似てるな・・・藤ヶ谷君より善逸は手足短そうだけど。
善逸は最終的に体重も旅の開始直後より5kg増えたそうですが、それは体脂肪が減少して骨格筋肉量が増えて筋骨隆々に成ったと考えたら良いでしょう。
善逸は意外に丁度良い位の大きさなんですよ。
因(ちな)みに当時の女性の平均身長は150cm無い位でした。禰豆子ちゃんは鬼化し大人に成ったプロポーションからすると身長165cm位にはなりそうだから大人に成った善逸と釣り合いとれそうですね。
彼は捨て子で両親が誰か知らないと言う不遇な設定でありながら出身地は牛込と判明しています。
余談ですが当時の牛込の様子を見て見ましょう。
この画像⤵をクリックして拡大して見て下さい。
牛込江戸城吉原位置関係 久良岐のよし
上がGoogle社のGoogleEarthの現代の衛星写真、下が明治時代に帝国陸軍が測量した迅速測図で農研機構サンによって公開されている物です。

牛込と言う土地は江戸時代は徳川幕府の旗本が多く住んでいた武士の町でしたので、何かの理由で捨てられてしまったものの祖父の代位までは武士だったのだとすれば剣豪に成る素質は元々有ったのかも知れませんね。
牛込柳町~市ヶ谷柳町の辺りでは北辰一刀流や無外流の名手達が集まった道場が有りました。
北辰一刀流は坂本龍馬サン、新撰組の山南敬助サン、藤堂平助サン等が修(おさ)めた剣術流派ですね。
無外流は新撰組の斉藤一サンが修めた流派ですが、この内の山南さん、斉藤さん、藤堂さんが関係する試衛館と言う道場が柳町界隈に有りました。
試衛館と言えば近藤勇サンの道場で、正に後の新撰組の幹部が集まって切磋琢磨していた実践剣術道場ですね。
実は新撰組の近藤勇さん、土方歳三さん、沖田総司さん、井上源三郎さん等が学んだ天然理心流は今も東京都日野市に勇武館と言う道場が有ります。
2016年に井上源三郎サンの跡を継いだ親族の御子孫の井上先生と、近藤勇サンの御兄サンの宮川サンの御子孫の宮川先生が弟子に稽古をつけている所に参加させて頂きました。
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上の写真で白い剣道着を着用されているのが井上先生です。
御興味有る方もいらっしゃると思うので以下にリンクを貼っておきます。
天然理心流 勇武館⤵東京都日野市

無外流居合 鵬玉会⤵ 神楽坂稽古場所 

ちょっと話はそれましたが、もののついでに善逸の出身地の牛込と言う場所は江戸城の直ぐ近くで今の新宿区辺りなんですよ~と言うのと、善逸の祖父位の時代には剣豪を多く輩出した地域だったんだよ~と言う御話でした。

甘露寺蜜璃の非常識な桃色の髪
貴族令嬢なのに露出多い服装
甘露寺 公式様より拝借
公式の設定では元々黒髪だったのに好物の桜餅を8ヶ月間毎日170個食べ続けたら十歳頃には頭頂から肩口まではピンク色そこから先に行くに連れて黄緑色に変色する体質に成ったとか変な設定が有りますが、そんな体質の人間はいません。しかし桜餅を食べ続けたのは本当なのでしょう。
先ずは何故その様な偏食をしたのか、する必要が有ったのかを真面目に考える必要が有ると思います(現実的に解釈する為に)。
先ずは彼女の事を知る必要が有るので偏食させてしまうような家庭の事情を考えてみましょう。
彼女の苗字は甘露寺です。珍しい苗字ですよね?
実はこの氏姓は大正時代当時にも実在した貴族の苗字で、明治維新~第二次世界大戦終戦までは「伯爵」の身分を与えられた名家で更に大正天皇と昭和天皇の侍従長(執事)を務めた近代でも格式を保った家柄です。
この甘露寺家の血筋は藤原氏一族の勧修寺流の同族で、室町時代には勧修寺流藤原家の一族の中には足利尊氏公と血縁に成り関東管領(かんとうかんれい)と言う室町幕府内で関東地方を治める役職に就いた家系も存在します。
その事を家紋が表しています。
家紋と言うのは血縁関係や家柄を表す物で昔は勝手に使ってはいけない紋章でした。
この甘露寺家の家紋は“丸竹に九枚笹雀紋”と言うものです。
竹丸に九枚笹竹雀紋
甘露寺家 丸竹に九枚笹雀紋
竹に雀紋
山内上杉家 竹に雀紋
宅間竹雀
宅間上杉家 宅間竹に九枚笹雀紋
例えば菊の御紋は天皇家の家紋なので勝手に使う奴は逆賊朝敵な訳です。
他の家紋も殿様が大きな功績を立てた家臣に褒美として使用権を与えたりする事が有るので祖先がいつ頃誰に仕えていたかの証しに成る物なんですね。
上の家紋を見ると歴史に興味が無くても「何か知ってるな~?」と思う人は少なくない筈です。
上の家紋の山内上杉家と宅間上杉家は足利尊氏公の実母の姉妹の血を引く家系なんですね。
この上杉家が関東を実質的に統治す関東管領と言う役職を世襲しました。
上杉謙信
戦国大名の上杉謙信公は元の名前を長尾景虎と言い、彼の実家の長尾家は先に紹介した源頼光公と一緒に酒呑童子を討伐した平忠光公の子孫である鎌倉時代の武将の長尾定景公の室町時代の子孫に当ります。この謙信公は戦争が神憑り的に強かった事から上司の山内上杉家の養子に成り跡を継ぎ上杉謙信を名乗る様に成りました。
ですからNHKの大河ドラマやTVゲームが好きな人は、甘露寺家の家紋に良く似た上杉家の家紋を見た事が有る人も多いと思います。この勧修寺流藤原家の中で甘露寺家や勧修寺家は官位が五位以上を世襲し天皇の宮殿に昇殿する事を許された上級貴族の家系でした。
この甘露寺家の祖先の吉田経房(つねふさ)卿は貴族ですが武家との繋がりが深く源頼朝公が守護地頭を設置して幕府を開くと、関東申次(もうしつぎ)と言う朝廷と幕府の橋渡し役に任命されます。
源頼朝公
産屋敷家が運営する鬼殺隊の活動で全国を自由に行き交う許可や経済的な支援を鎌倉幕府から受けずには活動出来ない訳ですから当然ながら鬼殺隊が実在した組織だとすれば・・・
各時代の幕府の将軍や将軍不在の時代も織田信長公や豊臣秀吉公との申次役として、吉田経房卿の代から甘露寺蜜璃の先代まで政治の表の記録には残らない橋渡しを続けて鬼殺隊を支え続ける立場だったと話が繋げられると思います。
以上の状況から甘露寺蜜璃は伯爵令嬢で由緒正しい血筋であり鬼殺隊との縁も初期段階から有った家系と言えるかと思います。
因みに大正時代の当主である甘露寺受長伯爵が明治時代に大正天皇の御学友だった事から東宮侍従(とうぐうじじゅう:側近文官)に成り、更には現在今上(きんじょう:現在の)上皇様の御成婚前に美智子上皇后様に対して宮中儀礼の講義をする立場を担い、晩年には東京の明治神宮の宮司を務められております。
歴史人物に甘露寺蜜璃を結びつけるのであれば彼女はこの甘露寺受長元明治神宮宮司の御息女の世代に当たる人物です。
関連付けるには余りに近い時代で未だ御身内も御存命かと思いますので小生は「甘露寺蜜璃サンは甘露寺受長伯爵の御息女です」とは断言できませんが、令和四年の甘露寺家の皆さんが鬼滅の刃ファンだったとすれば・・・
「あらやだ!ウチの御婆ちゃんの姉妹が甘露寺蜜璃なんて光栄だわ~」
・・・と喜んで下さりそうですね。
さて、そんな訳で甘露寺蜜璃サンはとんでもない由緒正しい家柄で貴族でありながら武家とも繋がりが深かった家の令嬢で有る事が皆さんにも御理解頂けたかと思います。
さて・・・
ここから蜜璃さん個人の個性について分解して見て行きましょう~♪
彼女が生きた大正時代は親の決めた相手と結婚すると言う古い習慣に反発して西洋風のオシャレな服装や自由恋愛の価値観が女性の間にも広まった時代でもあります。
前回の記事でも小生の祖母の話を交えて紹介しましたが、大正時代の女性はかなりオシャレでした。

この動画⤴も前回紹介しましたが、正に甘露寺蜜璃サンと同世代の大正~昭和初期に青春時代~恋愛~結婚をした同世代に人達の当時の様子です。
甘露寺蜜璃さんの実家が大正天皇、昭和天皇の側近の家系で更に源頼朝公の時代から武家と折衝役を務めた貴族だとすれば家の中は古い伝統的礼儀作法のみならず、下手をすれば生まれて直ぐに婚約者すら決められてしまっていたかも知れませんね。
所が彼女は「恋柱」に適性を持ち柱に成る程の人間ですから幼い時から恋愛を大切にする「本能」が強く家に対する反感や自由恋愛に対する憧れや伝統的な服装より洋服を着て歩きショッピングをして自分で好きな人と結婚したいと言う「意思」が強く有ったのではないでしょうか?
そんな人物なら幼少期から好きな男の子の一人も居たでしょうし、男性に嫁ぐためだけに礼儀正しく大人しく御稽古ごとだけさせられる生活は耐えられないでしょう。
当然ながら過度なストレスを持った人間は摂食障害に成る可能性も高い訳で、彼女は好きな桜餅を大量に食べると言う偏食を始めてしまったのかも知れません。

しかし、本当に彼女が実在してコノ様な行動をしたのであれば、この行動には彼女のしたたかな計画も有ったと思います。
仮に彼女が伝統に薄さい女性は親の決めた相手との結婚を強いられる上流社会から逃げ出したいとしたらやるべき事は2つしか有りません。
1婚約者に嫌われ婚約破棄される様に仕向けつつ、自分の女性としての魅力は損ねない様にする。
2親に勘当(かんどう:絶縁)される様に仕向けるか、呆(あき)れられ放任される様に仕向ける。
3家を離れ女性一人でも生活できる収入を得られる仕事に就き一人暮らしをし、自由恋愛をする。
ちなみに皇族や伯爵家の御屋敷を歴史に興味の無い方は見た事が無いかもしれないので鎌倉に在る旧皇族の華頂宮邸を紹介したいと思います。
CIMG5821
旧華頂宮邸
多くの映画ドラマのロケ地の旧皇族邸宅。この華頂宮家は皇族でありながら多くの海軍軍人を輩出した家柄でもあるので、状況的には甘露寺家と似ているかとは思います。
下の写真は左が伏見宮博恭王、右は東郷平八郎元帥です。
伏見宮博恭王東郷平八郎元帥
この二人は戦艦三笠に乗船してロシア帝国が日本国を植民地にする為に派遣したバルチック艦隊を対馬開戦で撃破した際の部下と上官です。
伏見宮博恭王は戦艦三笠の主砲の砲撃を管理する立場で乗艦し、皇族の中では希な戦場に出て実戦経験の豊富な指揮官でした。
この伏見宮家から分家したのが伏見宮博恭王の子の華頂宮博忠王です。
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三笠公園 世界三大記念艦 戦艦三笠
現在も東郷元帥や伏見宮博恭王や秋山真之サンが活躍し日本を植民地化から守った戦艦三笠は世界三大記念艦の一つに認定され、第二次世界大戦後は一度は荒れ果てていましたが米国のニミッツ提督の保護活動の呼びかけも有り現在は三笠公園に固定され誰でも乗船し艦内を見学出来る様に成っています。
この様に、皇族や侯爵家も軍人に成ると言う選択肢が有りました。
しかしながら蜜璃サンは女性です。現代の自衛隊と違い当時の女性は軍人には成れませんでしたので彼女が働くとなると民間企業か“鬼殺隊”しか無かった訳ですね。
当時は女性の人権が尊重される時代でもなかったので民間企業で働くと言う選択肢をするよりも、自分の家が古くから関わっているだけでなく“実力主義”の鬼殺隊を彼女は選んだのではないでしょうか?
目的は鬼を殺す事では無く「恋愛を自由にしてオシャレも楽しむ」ため。
そうなると、彼女が禰豆子と炭治郎に対して寛容な姿勢を見せたのも、他の隊士ほど鬼に対する偏見も無ければ思い入れも無く客観的に二人を見る事が出来たからとも解釈出来るかと思います。
彼女は、この鬼殺隊に入り本当に好きにオシャレをして自由恋愛を伯爵令嬢がしたいのならば極端な話、これらの行動をする必要が有ったかも知れません。
1婚約者に嫌われ婚約破棄される様に仕向けつつ、自分の女性としての魅力は損ねない様にする。
この為に際どい服装を故意にしたり、桜餅を食べ続けるという奇行に及んだのではないでしょうか?
そもそも彼女が桜餅偏食から髪色が変に成って行くと言うのは、偽装工作だったのではないでしょうか?

桜餅は1個当たりのカロリーが96kcalです。
これを1日当たり174個食べると1日の摂取カロリーは・・・
96kcal×174個=16704kcalです。
・・・成人女性の1日当たりの必要摂取カロリーが1600kcalですから、10倍以上を摂取する事に成ります。普通に短期間で糖尿病に成って死にます。しかしこの174個全て桜餅1択と言うのはミソだと思います。
彼女が1日に174個も桜餅を食べるなら、当時は自宅のメイドさん達が購入するか御屋敷内で作ったはずですね。先程レシピ動画を紹介した通り意外に家庭でも作れるものです。
これ・・・
実は最初だけパフォーマンスで大量に食べて見せて、以後は親の目を盗んで独自に華道の家や料亭、旅館、神社仏閣を相手に御茶菓子として桜餅の販路を作り、親の目を盗んで子供の頃から販売してオシャレに使う小遣い稼ぎをしていたのではないでしょうか?
・・・本当に1日174個食べ続けたと言う言葉を信じるのは愚の骨頂ですし、隊士に成った後も依然として奇行を演出し続けないと彼女は結婚させられてしまうかも知れませんからね。
その桜餅を例えばバフォーマンスで親の前で20個くらいは食べて見せたとしても、残りの150個を8ヵ月間販売し続けると、その資金で剣術を習ったり刀を購入するのに丁度良い程度の資金に成ったのではないでしょうか?
しかも多種多様な菓子を作るより一品に絞り込むと生産効率も高くコストダウンにも成り材料の在庫管理も容易に成りますからね。
桜餅の相場は現代の価値で1個150円位でしょうか?
1個150×1日150個×30日×8ヵ月=5,400,000円
彼女が全部は食べずに8ヵ月間桜餅を販売続けていたら、親の家計でメイドに作らせた桜餅で540万円を荒稼ぎし、メイドにアルバイトの給金を支払った上で訓練用の日本刀を購入し、親が許さなくても自分で洋服を購入し親に隠れて街中で洋装でショッピングを楽しむ事も出来ますし、「カツラ」を少しづつ少しづつ買い足して行き最終的に髪色がピンクの髪に変色した様に偽装したり婚約者と婚約者の両親の前で、服装は清楚でも家柄だけで中身が無いタイプの優生思想バカはピンク色の髪を見ただけで偏見で奇形扱いし破談を選択するでしょうし良いファルターにも成りますね。
キワドイ服を着て見せれば親にもダメな子として諦められる事も出来たかも知れません。
下の画像は豊臣秀吉公の軍師で子孫は明治時代に華族に列せられた黒田如水公です。
黒田如水公
彼は天才でしたが偉ぶらず、妻女は縁談を持ちかけられた際に自分の顔には水疱瘡の跡が有り申し訳無いからと一度は黒田如水公に縁談の辞退を申し入れたのですが、如水公は「疱瘡も引っくるめて愛嬌だからきにすんな」と言う主旨の事を妻側に伝え結ばれたのは有名で、しかも大名に成ってからも側室を持たず愛妻一筋の人生でした。
蜜璃サンは、如水公みたいな本物の男と結ばれたかったのかも知れませんね。
桜餅を食べ続けたと自称している期間は9歳~10歳時点での極短い期間ですし、普通に賢い子供なら無能な大人よりも会社経営も出来るでしょうしね。将来の恋愛に備えて540万稼ぎ、そこから経費を差し引いた額を貯金したりオシャレに使ったりしたんでしょう。
下は糖尿病情報センターが示すエネルギー摂取基準
1日の適切なエネルギー量

いずれにせよ桜餅についても現実的な解釈をするべきだと思いますし、それが「小遣い稼ぎ」と言う裏話等を作らないと彼女は糖尿病で10歳時点で死んでないとおかしいでしょうね。
天然でピンクの髪色の人間なんぞ存在しないので論外な訳です。
当時は迷信を未だ信じる人もいた時代なので少しづつカツラの色を濃する演出を行い一番当時の上流階級の毛嫌いしそうな奇形を毛髪で装った解釈するべきですし、入隊後もオッパイ強調した服の着こなしをしているのは淑女の素を出してしまうと甘露寺サンは実家に戻されて結婚させられてしまうから奇行を装っていると考えたら良いのではないでしょうか?
大正時代は既にかなり女性はオシャレに敏感で西洋風の服装を取り入れたので、横浜の外国人居留地に行けば西洋の社交界で使われる派手なウィッグの輸入品も有ったでしょうし、無ければ当時の日本の特産品だったシルク糸で特注品を作らせたのかも知れませんね。
甘露寺蜜璃サンが青春時代に流行したのは下の様な服装でした。
DSC_1869
この様な各時代の洋服の流行を見られる博物館が横浜中華街の近く、山手地区の洋館街の中に有りますので御興味が有る方は行かれてみては如何でしょうか?DSC_1860
岩崎博物館(ゲーテ座記念)DSC_1861
そこでは横浜が幕末の外国人居留地だった時代~中世迄幅広い時代のドレスを着用して記念写真を撮影する事も出来ますよ。
彼女自身、ハイカラな洋食を好んだと言う公式設定も有るので間違いなく“モガ”だったんでしゃないでしょうか?
余談ですが蜜璃サンは恐らく元は大正天皇と昭和天皇の侍従で明治神宮の宮司の甘露寺受長サンの御令嬢の世代に当たる人物で、同世代の親族はSB食品の役員に成ったり、ブリジストンの創業家に嫁いだり、池田勇人元首相の御息女と結婚したり、戦後にも繁栄しています。

煉獄杏寿朗の金髪と赤のゼブラ頭髪。
煉獄 公式様より拝借
煉獄家みたいな、こんなの黄色と赤とかフザケタ髪色もカツラ以外に無いでしょう。
伝統的にカツラを被るフザケた習慣が有る家か、赤は濃い金色の表現と解釈して金髪だとしたら外国人の血が色濃く入っている家系と解釈するしかない!
混血なら安直に金髪や赤髪と解釈すると説明が着きますが、どうやら彼の家は代々この変な髪色の様ですから近い世代で西欧的な混血が繰り返されている要素は無さそうです。
少し古代の歴史を持ち出して何とか解釈をしてみたいと思います。

この赤毛のアンの女の子の様な髪色、凄く煉獄家の人の髪色に似ていませんか?
一般的に光の加減で赤毛に見える金髪の遺伝子はユダヤ系民族に多いそうで、ユダヤ人男性の10%程度に綺麗な赤毛が発生するそうです。アジアでも新疆ウィグル族、アフガニスタン等のアジア内陸部の人種にも多く見られるそうで、実はこの地域は2000年前にその地域から中国にかけて中国で太秦と呼ばれた人種がおりこれがユダヤ人だった事が日本でも知られています。
この部族が日本に来たのは漢帝国が樹立される前後なので紀元前300~500年頃の話かと思います。つまり日本神話の始まりの時代に当たる縄文時代→弥生時代の転換期なので、この頃に稲作が日本に伝えられている様です。
この太秦氏の子孫は賀茂氏に成ったと言う話は京都が好きな方はピンと来たかも知れないですね。
そのまま京都に定着した古代の豪族に成り天皇家に仕えており、賀茂氏は江戸時代にも鴨長明等の歴史人物を輩出しています。
またシルクロードの終着点である飛鳥時代の日本にもウィグル族が日本の朝廷に仕えていた事が記録されていたりもします。
漫画での金髪と赤のゼブラを赤毛を漫画的に強調した表現と解釈すると煉獄家は太秦氏の子孫であり代々の当主が煉獄杏寿朗の父の世代の煉獄槇寿郎が黒髪の妻を娶る以前は、太秦氏か賀茂氏の中で赤髪の人間と同族間婚姻を続けて血を濃く保っていたので赤毛だったのかも知れないですね。
賀茂氏には武家として成功した人物もおります。
徳川家康公は清和源氏の新田家子孫と称していますが、実際は賀茂氏の子孫とする説も有ります。
髪色の問題は煉獄家がユダヤ系太秦氏の子孫で、ユダヤ系の血筋を色濃く維持し続けた家系と考えるのが一番自然かと思います。
以下は余談に成りますが偶然ですが煉獄さんと家康公は共通の趣味が有ります。
相撲ですね。
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鎌倉公方代理吉良家の世田谷八幡宮
(江戸三大大相撲の一つ)
上の写真は世田谷八幡宮です。江戸時代には江戸三大大相撲の興行が行われた内の1ヵ所で現在の大相撲の発祥地でも有り、今も奉納相撲用の土俵が保存されています。
江戸時代に成ると徳川家康公によって世田谷八幡宮は土地を与えられて保護されましたが、家康公や御子息の徳川秀忠公が相撲が大好きだったのは有名な話で、秀忠公は自ら関取を多く雇用して相撲大会を開いた程でした。
煉獄家の家はこの世田谷八幡宮の直ぐ近く世田谷の桜新町でした。

桜新町と言えばサザエさんの町ですね。
煉獄さんはもし実在したなら幼い時から世田谷八幡宮の相撲興行を見に行ったり、御自分もワンパク相撲に参加されていたりしたかも知れませんね~。
そして煉獄さんの弟の千寿郎君の御子さんの同級生には実は磯野さん家のカツオ君が居たかも知れませんね~。
この江戸三大大相撲の一箇所で現在の大相撲の発祥地の一つとも言える世田谷八幡宮は源頼朝公の御先祖様で武士達から“軍神八幡太郎”の異名で呼ばれた源義家公が開いた八幡社でした。
奥羽征伐の際に開いた八幡宮と伝わりますが、実際に近くには平安時代の鎌倉下道~奥州街道が通っていました。
この場所は交通の要所だったので室町時代と安土桃山時代には足利氏一門で奥州探題も務めた蒔田吉良家が近所の豪徳寺の境内地に世田谷城と言う御城を築いて本拠地にしていた時代も有り吉良家の守護神でもありました。
北条氏綱公
上の画像は北条氏綱公。
蒔田吉良家は戦国時代に成ると関東を支配した大大名の小田原北条家の北条氏綱公の傘下に入り、安土桃山文時代に現在も無形文化財として残るフリーマーケット「ボロ市」を楽市楽座として開いた事でも有名です。
しかし北条家5代目氏直公の時に豊臣秀吉公によって小田原城が20万の大軍で攻められ北条家が敗北し改易されると、吉良家は大名から2000石弱の旗本に格下げされ徳川家臣になり下総国へ転封され世田谷城は城内の御堂を残して廃城に成っていました。
江戸時代に成ると徳川四天皇の一家、井伊家の井伊直孝公が鷹狩か何かで付近を通りがかった際に大雨に見舞われる寸前に、この世田谷城跡の前で猫に手招きされて訪れた御寺が豪徳寺で、この時に御住職の法話に感動した事で以後、豪徳寺は江戸における井伊家の菩提寺に定められ繁栄しました。
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この時の猫の逸話から豪徳寺は招き猫発祥地に成り、井伊家の居城の彦根市の彦根城のユルキャラが“ひこにゃん”に成ったんですね。
現在では煉獄さんが相撲を観戦した世田谷八幡宮は勝負の神様として繁栄し、豪徳寺は招き猫発祥地で井伊家の菩提寺であり吉良家の居城跡でもあり東京を代表する紅葉の名所としても有名です。
御興味有る方は世田谷八幡宮に関してはコノ記事⤴を御覧下さい。
記事には豪徳寺の綺麗な紅葉の写真を多数掲載し簡易ガイド解説が纏(まと)めてあります。
髪色の話は太秦氏の中でもユダヤ人の遺伝の濃い一族が煉獄家と言う事で解釈してみましたが、そんな煉獄家がサザエさんの町で世田谷八幡宮で奉納相撲の興行を見ていたと考えると、より親しみが湧くのではないでしょうか?

不死川実弥兄弟の白髪
不死川 公式様より拝借
不死川の頭髪は銀髪と言うより白髪に見えますね。
彼は昔、止(や)むを得ず肉親を殺害しているので精神的ショックから毛根のメラニン色素が生成されなくなり白髪に成ったと考えれば無理くり有り得るかも知れません(良く知らんけど)。
ただストレスで黒髪からメラニン色素が1晩にして抜けると言う様な事は無いので、実際に心理学関連の情報を見ると心理的なショックで黒髪が生成されなくなり数ヵ月かけて白髪に成ったと考えれば自然かも知れません。
彼に関しては京橋区の出身で趣味がカブトムシの飼育とかなのでこの人は虫柱の方が有ってる様な気もしますが、京橋は江戸時代から都会なので都会っ子のカブトムシ飼育とか、自分で捕まえたものじゃなくて繁殖させてる方の飼育なのかも知れませんね。
御金の無かった子供時代には趣味と昆虫養殖販売を兼ねていたりしたかも知れないですね。
この地域は江戸時代には宮大工の橘恆俊(たちばなつねとし)と言う名工が住んでいた事で有名です。
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三王山 安楽院 不断寺
鎌倉幕府第四代執権北条経時公菩提寺
上の写真は現代には三浦半島の横須賀市長井に移転している不断寺と言う御寺なのですが、元は鎌倉市街に有ったのが移転してきており、鎌倉時代には第四代執権の北条経時公の菩提寺でもありました。
どうやら移転時に経時公の供養塔を横須賀で新造し、鎌倉の墓所は浄土宗大本山の光明寺に移転された様です。
不死川実弥さんが住んだ京橋に幕末に住んでいた宮大工の名工、橘恆俊(たちばなつねとし)サンが住んでいた事がしられているのですが、この不断寺の関東大震災で倒壊してしまった旧本堂が橘恆俊サンが手掛けた物だった様です。
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上の写真は小生が参拝した際に欄間の裏で発見した裏書です。
御堂が倒壊した際に欄間だけは無事で、現在の御堂を再建する際に橘恆俊の欄間だけは再活用された様です。

この人物の手がけた彫刻は例えば横須賀市浦賀港の縁結びで有名な西叶神社にもあり横須賀市民文化財に指定されている他、出身地の千葉県でも多くの手がけた寺社が文化財指定を受けています。
この様に子供時代は荒(すさ)んでいたとされる不死川サンですが、実は住んでいた地域は江戸時代から文化人や商人が集まる活気に溢れた教養の高い地域でした。本来は礼儀正しい人物と設定されているのは京橋と言う江戸の経済の中心地で客商売の商人の息子として母親の手伝いを良くしていたからかも知れません。

——鬼殺隊の設立時期——
大正時代に産屋敷家の私設軍団である鬼殺隊が専任で鬼狩りを始めたのはいつの時代でしょうか?
「鬼」が何かを漢字から理解し、その後で鬼殺隊がいつ頃に編成されたかを考えて見ましょう。
奈良時代の日本の官僚は漢字をコピーし導入する際に「鬼」以外にも色々と意味を誤植しています。
例えば・・・
漢字 日本語 本来の意味
鬼  怪物  幽霊
娘  息女  母親
舅  夫の父 オジちゃん
小姑 義姉妹 オバちゃん
勉強 学習  無理をする
拉麺 中華麺 手延べで打つ麺
ちなみに本来の拉麺は元は麺の打ち方を示す言葉で拉と言う漢字には「引く/引っ張る」と言う意味が有り、拉麺自体は中国西域の新疆や蘭州や西安辺りのウィグル族の麺料理でした。

最近日本でも本当の拉麺の麺を出す店が漸(ようや)く増えて来ていますが、この様な漢字の誤植は良く有った話なので例を上げればキリが無いのですが現代日本人の現在の鬼の解釈は間違っている訳です。
日本ではそもそも鬼は最初から角の生えた赤鬼や青鬼でしょう?
それは怪物や妖怪です。
鬼と言うのは元は「人間だったモノ」を指します。
ナマハゲの様な「怪物」「妖怪」や地獄の青鬼赤鬼等「地獄の番人」は日本人的な価値観で漢字を導入する際に「幽霊=鬼」と混同されちゃってるんですね。恐らく、古代の日本人には「鬼」の概念が無く「荒神」の観念しか無かったので良く解らなかったのだと思います。
本来の漢字の意味を越えて日本で言う所の鬼には良い意味も有り「鬼神」「鬼島津」「鬼強い」等は悪い意味どころか褒め言葉です。これが「荒神」の観念と被ってますよね。
これ等の日本文化に後から漢字を当て嵌めた結果、翻訳に無理が生じたのだと言うのが解るかと思います。
ただ鬼滅の刃に関しては吸血鬼が相手なので「鬼」で間違いなさそうです。
そう言えば西洋の吸血鬼に鬼殺隊が戦う鬼は同じですね。
ヴァン・ヘルシングでもそうですよね。

吸血鬼討伐を専門に行うヴァン・ヘルシング達は言うなれば鬼狩りです。
鬼殺隊は吸血鬼討伐を行っていますが、鬼の字の意味からすると本来は幽霊退治も出来るはずです。しかし刀で幽霊は切れません。そこは吸血鬼や鬼、悪魔や悪霊や怨霊や妖怪の全てに対応できるのが式神や法術の両方を使いこなす陰陽師の役割なのでしょう。
陰陽師は学者なので密教や道教や神道の法力は使えますが物理攻撃を行う必要が有る際には式神を使う必要が有り、身体能力の高い鬼に遭遇したら式神を召喚する前に殴られて簡単に死んでしまいそうです。
そこで鬼狩りの役割は武士の役割に成って行ったのかも知れませんね。
日本で最初の「鬼狩り」を行ったのは桃太郎な訳ですが、桃太郎は神社の御祭神にも成ってる古代の豪族がモデルと言うのは有名な話です。

桃太郎は豪族の吉備氏の御先祖の吉備津彦命で皇族と言うのは有名な話ですし、犬のモデルは犬養縣主/犬養健命で昭和七年(1932年)に起きた五一五事件で陸軍将校に暗殺された犬養毅首相の御先祖ってのも有名な話だったりします。
他の雉、猿も同様に・・・
猿女君、鳥飼臣と伝わります。
この「君(きみ)」は豪族の「王」と言う意味で「国造」の異称です。
臣(オミ:使主)・連(ムラジ)については皆さんも教科書で読んだ事が有ると思います。
全て飛鳥時代以前の大王(オオキミ:天皇)に服属した豪族の地位名です。
丁度、日本史の記録が全て処分されてしまった様で現存しない古墳時代~弥生時代の話しである事が判ります。
実はこの吉備氏の子孫、倭建(ヤマトタケル)の配下にいました。
倭建が関東へ東征する際に元伊勢神宮(丹波国)で邪馬台国の女王卑弥呼に比定される倭姫(ヤマトヒメ)より草薙剱(クサナギノツルギ)を貸与された上で与力として「吉備氏」と「大伴氏」の軍勢を与えられ出陣した事が記録されています。つまり吉備津彦は倭建登場以前の歴史人物と言う事が判りますね。
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神話では倭建(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の後に神格を与えられる皇族の夫婦が三浦半島の走水神社に来て神社の前の御所ヵ崎に滞在し、そこから房総半島に渡ったと伝わっています。
この時期が以前の考古学が未発達だった時代には皇紀逆算で西暦109年の話とされていますが、考古学を元に再計算すると西暦280年頃に走水神社に来た様です。
西暦109~280年は中国の三国志の時代で正に卑弥呼が魏皇帝曹叡から「親魏和王」の金印を授けられた時代で、この頃が古墳時代の始まりに当ります。
この頃には天皇の称号は未だ無く「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。
つまり日本で最初に「鬼狩り」をした桃太郎こと吉備津彦は倭建登場以前なので弥生時代の大王の王子で今の岡山県辺りの吉備国での軍事行動を行いそのまま土着し臣籍降下(しんせきこうか:皇籍を捨て貴族の身分=臣下に成る事)して吉備の苗字を名乗る様に成った皇族王と言う事が判ります。

桃太郎が弥生時代の皇族ならば鬼舞辻無惨以外にも日本では弥生時代~平安時代の神話の古代から断続的に鬼が出現していた様ですね。
この桃太郎のモデルの吉備津彦は征夷大将軍や鎮守府将軍と言う「幕府を開ける大将軍」の役職が出来る前の古代の四道将軍と言う「大将軍」の一人でした。
つまり鬼狩りを行う産屋敷家は「四道将軍に匹敵する役割」を担っていると解釈出来る訳ですね。
鬼舞辻無惨と人間は大正時代の1900年代初頭で1000年間戦って来た歴史が有ると言う事を産屋敷の御館様が話していますから、それを前提に逆算すると鬼舞辻無惨が登場したのは大江山の酒呑童子が暴れていた900年代~1000年代に相当します。
大江山鬼退治の登場人物は歴史上実在しました・・・
有名な酒呑童子討伐のリーダーは源頼光公です。
坂田金時(さかたのきんとき=金太郎)公
→本名:下毛野公時(しもつけのきんとき)
渡辺綱(わたなべのつな)公
平忠光(たいらのただみつ)公
卜部季武(うらべのすえたけ)公
・・・等が配下にいました。
源頼光公は天暦二年(948年)~治安元年(1021年)を生きた人物ですから、鬼退治は西暦900年代末位の話でしょうか?
現実的に鬼滅を解釈するならば鬼殺隊が動員されていないので産屋敷家配下に鬼殺隊は未設立の時期と解釈出来ます。

ちなみに金平牛蒡(きんぴらごぼう)は金太郎(別名坂田金時)サンの息子さんの坂田金平サン由来だとかどうだとか。
以上の事から鬼舞辻無惨の登場した西暦900年代初頭~源頼光公が鬼狩り部隊を編制し酒呑童子を倒した100年間は常設部隊は存在せず、鬼舞辻無惨は積極的に人間を襲っていなかった様です。
その様な解釈をすれば産屋敷家を棟梁として鬼殺隊編成は酒呑童子討伐のメンバーの寿命から西暦1017年以後の話と解釈出来ます。
源頼朝公達が登場する凡(およ)そ170年前の事ですね。
金平牛蒡・・・じゃなくて平安時代に鬼退治で活躍した坂田金時公達が生きた西暦900年代末は・・・
安倍春明⤵が活躍した半世紀くらい後の時代です。

映画陰陽師にも安倍晴明の相棒として登場する源博雅は朱雀門の鬼から譲られた笛を愛用していたと伝わります。
朱雀門の鬼は死んだ人間の遺骸を集めて美しい女性の形に複製し100日で生きた人としての魂を吹き込む事も出来たと「長谷雄草子」で書かれています。
朱雀門の鬼は笛を吹いたり当時の流行りの遊びに興味を持ったり、とても人間に対して友好的且(か)つ文化教養の素養を高く持っている事が判ります。
この朱雀門の鬼は長谷雄草子にも登場します、話の内容はザックリと以下の様な感じです。
朱雀門の鬼が長谷雄と言う双六の名手に会い、こう言ったそうです・・・
「双六をやってみたい、貴方とやりたい」
「私と双六をして買ったら私の大切な物を渡そう」
「朱雀門の楼門で勝負しよう」
・・・それを承諾した長谷雄はアッサリ双六の勝負に勝つ訳です。
双六の目は訓練すると自分で好きな目を有る程度調整出来るし、そんなしょっちゅう勝つ奴はバレない不正をやる奴でしょう。
この長谷雄と言うのは実在した人物で紀長谷雄(きのはせお)と言う公卿です。
紀長谷雄
承和十二年(845年)~喜十二年(912年)を生きた人物です。
そもそも持統天皇が西暦693年に双六を禁止したのに、それを踏まえて西暦900年代初頭に貴族の癖に博徒化して双六やってる時点でアレな人種なのは解るかと思います。
つまり長谷雄草子の物語は西暦800年代後半~912年の間の出来事だと解ります。
結果的に鬼は勝てる訳もなく負ける訳ですが、ちゃんと約束を守って長谷雄に美女を渡します。
「100日間女の関係を持っちゃいけない」

「100日経ったら良いですよ」
・・・と、この女性は動かない未だ魂(意識)が籠る前の生き返る途中の状態の亡くなった美女の体だったんですね。
この鬼の親切な警告にも関わらず、この長谷と言う男は約束を守らず性欲を押え切れず、まだ生き返ってもいない美女が目を覚ます前の80日目に動かない未だ死体の彼女を犯してしまいました。
そして女性の体は溶けて液状化して魂が戻る前に消えてしまいました。
その後の有る日、紀長谷雄が退朝して帰路に着(つ)く所で、出て来るのを待っていた朱雀門の鬼は長谷雄の乗る牛舎に近づきながら怒った風にコンナ事を言いました・・・
「あなたは信頼に足る人物では無かったのですね、ちゃんとした人だと思ったのに」
・・・その雰囲気が只ならぬモノので、ビビった長谷雄は当時の平安京の内裏の傍に在る北野天満宮の御祭神である天満大自在天神(菅原道真公)の御神霊に救いを求めます。
下の画像をクリックして拡大すると位置関係が良く解るかと思います。
朱雀門付近
当時の天皇の居所と政庁のあった代理は船岡山の南側に在りました。
この時に天から「哀れな奴だ・・・」と朱雀門の鬼に対する同情とも警告ともとれる菅原道真公の声が聞こえたそうです。
これを聞いて我に返った朱雀門の鬼は退散し、紀長谷雄は生きながらえる事が出来たそうです。
この騒動の果てに事件を回顧して紀長谷雄が吐いた言葉は・・・
「あ~美人だったのに勿体無い事しちゃったなぁ~」
・・・でした。信頼を裏切った事に対する反省も無ければ、生き返るはずだった女性を事実上殺した事よりも、性搾取する対象としての美女の体が消えてしまった事を「勿体ない」と言ってる完全にサイコパスなので、双六無双してたのも不正だったんでしょう。
この様な異常な性行為を死姦と言うそうで、現代日本でも死姦事件を起こす人間が希にいます。
平成十一年(1999年)にその様な事件が山口県で起きた事は、大学院生以上の年齢の方なら「アレかぁ~」と思い出すと思います。
長谷雄草子を見る限り平安時代にも異常性癖者や不正をするサイコパスは普通にいたようですね。
鬼舞辻無惨が鬼を量産する能力が有るなら、死んだ人間を生き返らせれる朱雀門の鬼の反魂術は鬼化だと解釈出来ます、朱雀門の鬼=鬼舞辻無惨と設定出来ます。
この朱雀門の鬼が鬼舞辻無惨だとすれば長谷雄の死姦事件は人間に対して希望を持っていた無惨に衝撃を与えたろうし、許せない事でもあったのではないでしょうか?
しかし、この後も源博雅公に笛をあげたり文化人との交流を繋げているのは菅原道真公の御神霊の鬼舞辻無惨に対する同情ともとれる優しい警告の言葉が有ったから人の心を保てたのではないでしょうか?
鬼舞辻無惨は確かに両親を襲っていますが、その後も人を食い続けたのでしょうか?
この頃、親の事が有り生家を離れて暮らして自省していたのではないでしょうか?
当時の平安京の事を知りたい人は以下のリンクを参考にすると良いと思います。


何が発端で人間と敵対する様に成ったかは解りませんが、高文化な教養人の源博正は鬼狩り側の人間なのに朱雀門の鬼は彼に笛を与えて好意を示したり、文化的な素養を感じさせる行動をとっており人に敵対していた訳では無さそうです。
下手をしたら吸血鬼化した後に、業を捨て改心し徳を積む事を是とする仏教の教えに従い出家し寺院で経典を読経して両親の菩提を弔いながら人間に戻る薬の研究を行っていたかも知れません。
朱雀門の鬼から笛を与えられた源博雅は実在した人物で延喜十八年(918年)~天元三年(980年)を生きた人物で、安倍晴明は延喜二十一年(921年)~寛弘二年(1005年)を生きた人物です。
彼等が生きていた時代には未だ鬼舞辻無惨は見境なしに人を襲う鬼を作ったりしておらず、安倍晴明も朱雀門の鬼を討伐対象と考えてはいなかった様です。
或いは鬼舞辻無惨は本人が望まない形で医師によって鬼にされてしまい両親を殺してしまった事は不本意な事でしたから、鬼から人間に戻る術を模索していた時期だとも考えられます。
鬼舞辻無惨 公式様より拝借
彼は大正時代の西暦1910~1920年の間から見て1000年前から鬼殺隊と戦いを繰り広げている事が御館=頭領である産屋敷輝哉の言葉からも解っていますが、この長谷雄草話が自分が人に戻る方法を模索していた時期の話だとすれば、その後に源博雅公や安倍晴明からも危険視されず、優しい鬼として認識されており交友までしていた事に成ります。
この交友関係を考えると早くても源博雅が西暦980年に亡くなり、安倍晴明が1005年に亡くなる迄は理性を保ち人間に戻る方法を模索していたのだと考えた方が自然でしょう。
最初の約年は彼は大人しく朱雀門の辺りを拠点に人間と友好的な関係を築いて生活しており、京都の地獄の入口と繋がっていたとされる清水寺界隈の東山方面には関与していなかった事も解ります。
無惨が人を殺し始めたのは何時(いつ)からでしょうか?
ー「一条戻り橋の鬼」が転換点ー
鬼舞辻無惨=朱雀門の鬼だとすれば少なくとも源博雅公が存命した西暦980年頃までは人間に害を為す存在では無かった事に成る訳ですから、源博雅公や安倍晴明が生きている人間では人間とも信頼関係が有りなく死体を食べたか或いは禰豆子の様に禁欲し睡眠で体力を回復し生きながらえて、例えば自分が治療していた患者に許可を得て亡くなってから御遺骸を研究に使わせて貰ったり食べたのかも知れません。
亡くなった御遺体の病巣や損傷の有る部位だけ外科的に切除して、他の御遺体の健康な部分と縫合したり自分の血で復元したりして青い彼岸花の薬を用いて人間として甦らせるとか研究をしていたかも知れません。

しかし安倍晴明が西暦1005年に亡くなると、鬼舞辻無惨の最大の脅威に成りそうな安倍晴明が生前に式神として使役した仏教の十二神将が封印されている京都の一条戻橋に美女の鬼が出現します。この時代に鬼舞辻無惨が実在したならば、この鬼美女は舞辻無惨の擬態の一つの女性の姿だったと解釈したら話の辻褄が合います。
この一条戻橋の鬼の物語が長谷雄草子の物語の直後で尚且つ安倍晴明の没後の物語と考えれば全てに辻褄が合うでしょう。
産屋敷輝哉は「一族の汚点」と彼を表現してますから産屋敷家は当然彼の動向を監視し知っていた筈です。
彼が鬼として生きる悲しい決意を決めてしまったのであれば、親族の産屋敷家や陰陽師が自分を討伐するのに効果的な晴明の式神である仏教十二神将を真っ先に破壊する筈です。

既に十二神将の式神を破壊した後か前かは解りませんが、この時に鬼美女は一条戻橋で後に鬼狩りのエキスパートに成る渡辺綱に遭遇し、渡辺綱公を騙そうとしますがバレで腕を切られ愛宕山の方に逃げましたが、その方角の先には大江山が有ります。
大江山の酒呑童子や今の大阪の茨木市に出没した茨木童子は鬼舞辻無惨が本格的に鬼を増やし始めた初期の出来事だったと「解釈」すれば、全てに辻褄が合うと思います。
十二神将は薬師如来の配下でインド神話由来の神様です。十二神将の主君である薬師如来は民衆の病苦を治す仏様で名の通り医学の守護仏でも有る訳ですから、皮肉な話ですが鬼舞辻無惨が一条戻橋の美女鬼の正体だとすれば自らが鬼化を治す薬の開発を諦めた時点で、その道の仏様の眷属でもある安倍晴明の式神を破壊し薬師如来の御利益も失い永遠に医師に処方された青い彼岸花で鬼に成った運命から薬で抜け出す道も閉ざしてしまった瞬間だったかも知れませんね。
そして文字通り殺人鬼の鬼舞辻無惨としての生涯の新たな開幕時点で既に渡辺綱に刀で腕を切り落とされる体験もしたのだとしたら、鬼狩りが陰陽師と使役する式神の役割から武士と日輪刀に変って行き鬼殺隊を生み出す原因を作った出来事だったかも知れません。
この時代は未だ破魔の武具と言えば主力兵器は弓矢で吸血鬼相手には役に立たないから陰陽師の式神が有効な武器だった訳です。しかし鬼は刀で首を切り落とせば殺せると言う発見が大江山でされて、式神や密教や道教や神道の専門知識や法力のセンスは鬼狩りに関しては不要に成ったのかも知れませんね。
因(ちな)みに最初に美女の鬼を切った渡辺綱ですが、その際に使用した日本刀が現存しており“刀剣乱舞”ファンの女性陣の方が小生よりよっぽど詳しいであろう「鬼切丸」又は「鬼切安綱」と呼ばれた刀でした。

この後、源頼光公と彼の四天王の渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、坂田金時(さかたのきんとき=金太郎=下毛野公時)、碓井貞光(うすいのさだみつ=平忠光)等によって、大江山の酒呑童子は討伐されますが、話を関連付けるならば女の鬼は討伐されていないので逃げられた様ですね。
酒呑童子は鬼舞辻無惨に鬼化された何者かだったかも知れません。
この酒呑童子の配下には茨木童子等もおり、鬼舞辻無惨の仕業だとすれば既に短期間で上弦下弦の鬼の編成の元に成る様な組織を作りかけていたのかも知れませんね。
この時の大江山の鬼討伐隊は朝廷の命令で臨時編成された武士団でしたが、その際に酒呑童子の首を切り落としたのが、これまた女性の刀剣ファンに人気の“童子切安綱”で国の重要文化財指定を受けており現存しています。

この二振りの刀を生産したのは伯耆国(鳥取県の一部)出身の大原安綱と言う平安時代中期の刀工です。
まぁ、歴史オタクの小生個人の現実的な解釈としては酒呑童子や茨木童子は朝廷から離反した豪族が野党化し軍閥化したので源氏の棟梁の源頼光公に京都に在番していた関東の豪族が与力に付けられて討伐“軍”が編成され、和議(停戦交渉)の酒宴を開くと見せかて源氏側が酒呑童子を暗殺したと言う軍記が民間で誇張されて鬼討伐の話に成ったのだと小生は考えています。
この事件以後、鬼舞辻無惨の同族と思われる産屋敷家を中心にした専属の鬼狩り組織の鬼殺隊が編成されて行く訳ですが、史実で先に「鬼狩り」を行った吉備津彦と源頼光公は元々は皇族から臣籍降下した吉備氏と源氏であり朝廷の正規軍として討伐軍を率いた訳です。
以上の事を踏まえると当然ながら産屋敷家も平安時代以前の元皇族であり将軍格の役職であり、産屋敷家が率いる事と成った鬼殺隊も朝廷の組織として成立して律令制度化では制度外で運用される独立性の高い軍団として朝廷から資金が与えられて活動を行い、その後は鎌倉幕府の将軍家と執権北条家~足利家~織田家~豊臣家~徳川家から幕臣ではない治世に必要不可欠な非政治的団体として惜しみない支援を受けられたのではないでしょうか。
産屋敷 公式様より拝借
炭治郎達が上限陸の討伐に成功した報告を聞いた際に鬼舞辻無惨を「我が一族唯一の汚点」と罵倒した産屋敷耀哉と言う人物は産屋敷家の97代目当主だそうです。
令和現在、日本最古の天皇家で今上天皇陛下で126代目。
邪馬台国時代から古代大和朝廷に従属していたであろう豪族達は・・・
出雲豪族末裔の出雲大社大宮司家で出雲国造の千家家で現代が84代目
九州豪族末裔の阿蘇神社大宮司家で阿蘇国造の阿蘇家が現代で91代目
元皇族の豪族で四道将軍の吉備津彦下道国造の吉備家・・・存続して居れば80~100代目は必須です。
藤の花が作中良く登場しますが、安直に途中参加の藤原氏の子孫というのは世代数が全く合わず論外な推測な訳です。完全に独自の元皇族から臣籍降下して久しい家系と考えるのが自然でしょう。
千家家より阿蘇家が世代数が多いのは阿蘇家は平安~安土桃山時代まで大名化し身内同士で権力争いもすれば対外戦争で討死もしたから世代数が多いのですが、同じ様に天皇家に関しても一番古い家系で有る以上に藤原家内の権力闘争で頻繁に天皇位を若い世代や兄弟に譲位させられた経緯が有るので歴代天皇が望まなくても世代数が多くなっています。
因みに・・・
皇族はおろか素戔嗚尊の直系の御神孫が千家家。
阿蘇家は初代神武天皇の皇孫。
吉備家は第七代孝霊天皇の皇孫。
・・・産屋敷家は大正時代の話で97代目なので令和四年現在では丁度、100代目位に当たるので古代の豪族王を意味する国造(くにつくりのみやつこ)の家系よりも更に古い時代には既に成立していた家系と言う驚愕の事実が発覚します。
恐らくこの様な家柄ですから、朝廷内で悪霊退散を祈祷する様な神事か天皇家を守る奈良の十津川村の人々の様に安倍晴明同様に陰陽師等の何か重要な役職を担っていた家系ではありそうです。
身体的能力で鬼に対して非力な陰陽師としての法力では量産された鬼を効率的に狩る事が出来ない状況下で、源頼道公や渡辺綱、坂田金時、平忠光公の鬼退治を参考に当時は最先端の武器だった日本刀を装備した鬼狩部隊を編成したのではないでしょうか?
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
余談ですが坂田金時の名で有名な下毛野公時公は群馬の古代豪族である下毛野氏の子孫で、当時富士山が噴火して古代の御殿場経由~矢倉沢往還で途中まで内陸を通る古東海道が降灰等で通行不能に成り廃道に成った時期に新たな東海道、現在の街道を開発する役目を担った一族の様です。
古代の道の通っていた場所には延喜式内社と呼ばれる神社と古代の集落跡の遺跡が有るのですが、寒田神社もその街道沿いの式内社の一つです。
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なので古代の矢倉沢往還沿いには延喜式内社が点在していたりします。
式内社の多くは縄文時代~古墳時代の遺跡を内包している場所ばかりで、古代からのランドマークに成る奇岩や河川の合流地点や山岳信仰の聖地化した祭祀遺跡や古代人の生活拠点だった事の解る集落遺跡が旧境内域から発掘されます。
坂田金時サンは金太郎の幼名で有名ですが、箱根の現在の東海道の元に成った湯坂道を開拓したと一族と考えられており箱根と静岡に跨る箱根の仙石原温泉郷近くには生誕地とされる公時神社が存在し背後に金時山を背負って現存しています。
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鬼殺隊の前の鬼退治を行った武将達の子孫は平安時代末期にも豪族として存続します。
中でも平忠光公の御子孫は今のNHKの鎌倉殿の13人で多く登場しています。
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿和田義盛
鎌倉殿梶原景時鎌倉殿大庭景親
平安時代末期に平清盛公によって朝廷が乗っ取られ朝廷が衰退し鎌倉幕府が成立すると、鎌倉幕府の支援を受けて鬼狩りを続け、また足利家が室町幕府、織田政権、豊臣政権、徳川幕府と武士政権の支援を受け、各時代に高い経済力と最先端の医薬の研究支援も受ける事が出来たとすれば、皮肉にも鬼舞辻無惨がやりたかった事は全て、鬼舞辻無惨を討伐する側に回った親族の産屋敷家の方に環境が整ったのかも知れませんね。
特に酒呑童子の討伐を行った源頼光公と平忠光公の御子孫は鎌倉幕府内に沢山いたので産屋敷家は容易に鬼殺隊の運営費を援助して貰えたでしょう。
その後は幕末に討幕側の明治新政府の敵側に当たる徳川家の支援を受け続けていた事で新政権成立後、大正時代に成っても政府の公認を受ける事は出来なかったのかも知れません。
それが政府非公認の理由だと考えるのが一番しぜんでもありそうです。
しかし政府側にとっても近代化富国強兵から海外進出を行う段階に成って「鬼」と言う炭治郎でさえ当初は「迷信」だと思っていた物を討伐する事を「公認」する後進国に逆戻りする様な価値観を認める事も出来なかったと解釈すると全てに繋がりが出そうです。
その結果、元から支援者だった華族に成った旧大名家や貴族が非公認のまま支援を私的に続けていたとすれば、女性の身分なのに伯爵家の甘露寺家の令嬢や旧幕臣と思われる宇髄家等が配下として参加している事も状況の説明が着きますね。
・・・と言う事は全く原作者は意図していなかったとは思いますが。
よって産屋敷家は貴族や元大名家の華族や関連の実業家から経済的にも医療面でも支援を受けられたと考えれば、無限列車編で大規模な鉄道事故を起こしても「隠」が災害復旧と被災者保護を迅速に行えて事故自体を金銭的に口封じしたりマスコミも煽動し政府にとっても都合の悪い吸血鬼がらみの事件を隠匿出来る事も納得が出来るかと思います。

この様に、鬼殺隊の成立は安倍晴明が没して後、源頼光公四天皇による大江山鬼退治での酒呑童子討伐以後の話だと推測出来る訳ですね。
時代的には西暦1005年以後~源頼光公と四天王全員の存命中の時代から鬼殺隊編成時期も解って来ます。
平忠光公  ・・・没年不明
下毛野公時公・・・寛仁元年(1017年)
源頼光公  ・・・治安元年(1021年)
卜部季武公 ・・・治安二年(1022年)
渡辺綱公  ・・・万寿二年(1025年)
上記の死没年から大江山の鬼退治は西暦1005年~1017年の出来事、そして1017年以後に鬼舞辻無惨の誕生から実に100年後に産屋敷家の御先祖が鬼殺隊を編成して朝廷の支援を受け、武家政権の成立後は歴代将軍の支援を受けたのかも知れませんね~。



さて今回の解説はここまで!
次回は本来やりたかった宇髄家の実家の忍者稼業や3人も妻帯している理由や彼が日本人離れした髪色や体格である事を考察したいと思います。

この記事を書いたのは2022年02月11日~20日の期間で、いつもは1日で記事を書くので少し時間がかかってしまいました。
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そうこうする間に菜の花も見頃を過ぎ、梅が咲き始め春を迎えました。
間もなく曽我梅林も見頃を迎えます。
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しかし未だ未だ天候は寒いので、皆さん風邪を引いて弱って新型コロナにやられたりしないように気をつけましょう、御互いに。
もしかしたら、現代にも鬼殺隊の様に人知れず日本人や世界の平和の為に活動している人達もいるかも知れませんが、先ずは私達一人一人も経済を殺させずコロナにも負けない為に手洗いウガイとアルコール消毒とマスク着用と入店前の体温計測をシッカリ行っていきましょう~。

では、又次の記事で御会いしましょう~♪

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一昨日の事件のニュース記事リンク。
楽しい旅行中の乗客は凍りついたろうな。

本当、酒の上なら許されるとか思い込んでる法治主義のカケラも理解出来て無い奴は、んなもん・・・
法の世界じゃ非常識な反社会的思考者なだけだわ!日本の恥。酒飲んで暴れる韓国人留学生集団と変わらん。
三國志じゃ張飛が酒で度々失敗し、最後も酔ってパワハラ指示部下に出して寝首掻かれて死んどる。
日本神話でも八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)は八塩折之酒で酔わせてから素戔嗚命が首を切り落とし殺し、熊襲長が倭建命に酔った所を暗殺され、酒天童子も源頼光公が八幡大菩薩応神天皇の御神霊から授かった神変奇特酒で酔わされてから寝首を掻かれ討伐されている。
酒は“万人之敵=万夫不当”つまり一騎当千を超えた一騎当万の名将軍張飛の判断力も奪い、日本神話の豪傑や荒神や鬼神すらも酩酊意識混濁させ、そしてそれらの全ての命を奪い去る道具に成った。
だ~か~ら~!
仏教では明治以前までは酒を禁じていたし、禅寺の入口には「酒の匂いさせて境内に入るなクソが」って意味の「不許葷酒入山門」がどこも有るんだよな。
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関東屈指の堅城、八王子の滝山城址に在る少林寺は北条氏照公が先立った奥方様の菩提寺として開いた御寺だが、やはりこの石柱が境内地入口に在る。
「不許葷酒入山門」
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
小生は基本的に大社格の某神社の宮司家一族の末裔だが、仏教の倫理観は大いに賛成だ。
まぁ小生も清めの御神酒は神事の時に神社で有り難く頂くよ、後は遠方から親友が来た時かJazz聞きに行ったら少しは飲むが基本的に車移動だから飲まないし酒は祖先も失敗してるから飲まないし父が酒飲むと他人の悪口を言うので飲みたく無いし、酒の席にも居たくない。
多くの神話の化物や歴史偉人が命を落とした酒、それでも「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う輩がいる。何の自信だコラ?
いくら飲んでも全く酔わない小生でも飲まない酒を、酩酊したくて飲む奴はクズだ、最初から倫理観が欠如している。
「おい、オマエは張飛以上の豪傑かヤマタノオロチより酒強いんか?」
・・・「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う思考の人間は弁護士や警官の知り合いに言わせると民事なり刑事なり少なからず法律に抵触する事をやりながら生活してるパターンの奴が多いそうだ。
最近、法律的な事に詳しい友人から色々話を聞く機会が有って非常に面白かったので酒乱の行動パターンを列挙してみる。
確かに当てはまるんだなコレが(笑)!
①業務中の不正・・・社内規定や法で定められた事項を違反する、労働時間申告の粉飾、休憩時間をとった時間を申告しない、業務をエスケープしてサボる、部下への管理責任違反やアルハラ等。
②不倫・・・まぁ民事だから相手か自分か自分の家族が不幸せに成る。必ず人生が狂う人間が出る。
③脱税・・・関係無い領収書を利用したり架空の経費計上するカス、年金保険料の滞納又は虚偽申告による軽減や免除詐欺。健康保険の不正還付詐欺。
④程度の酷い道交法違反・・・故意の車線変更禁止区域での車線変更や信号無視や一時停止や進入禁止の違反、警察に届けず当て逃げ、免停中運転や異常なスピード超過、飲酒運転、轢き逃げ。
⑤シンナー吸引、脱法ドラッグや違法な睡眠薬や向精神薬の入手と使用、麻薬や覚醒剤の使用。
⑥犯罪性の高い詐欺。
⑦傷害事件、殺人事件。
・・・確かに当てはまる奴がいる(笑)!
酒の席ならOKと考える思考の人間は、例え今やってなくても法治意識や倫理観が欠如しているので必ず上記の何れかに当てはまる行為をしながら生きている、若(も)しくは過去にやっていたが一時的にそれ等から離れているだけ。
「酒飲んだら何しても良いって」思考の奴は大なり小なり必ず民法か刑法に抵触する事をしながら生きてるって事だわな~確かに(笑)。
具体的に刑事事件だと言えばコンナ事するそうだ。
①酒飲んだから暴言が許される←侮辱罪だわな。
②酒飲んだから凶器を所持したり振り回して良い←普通に逮捕されるわ(笑)!
※今回の新幹線での記事は☝️コレな。
※少し前のコレ👇は①②に傷害罪が加わる。
③酒飲んだから後輩を説教の為にカラオケのリモコンで殴って良い←日馬富士山か!普通に傷害致傷だわ!
⑥酒飲んだから泥酔した女犯してよい←慶応大学生が葉山で事件起こしたけどな、普通に強姦罪だ馬鹿か!
⑦酒の席で喧嘩に成ったから相手を殴ったら死んじゃいました←たまに有るけどな、殺人だわ。

泥酔して判断力も記憶力も法治意識も理性も無くなる奴は一生酒飲むんじゃねーよ、最近そんな奴がいたな・・・そう言えば。

酒飲んでようが飲んでいまいが罪は罪なんだよな~。
本当に酒嫌いだし飲みたく無いし、その場にいたくないし酒乱死ねよと思う。
酒で暴言吐いて自分の最大支援者を失う事に成る奴もいるだろうし、日馬富士みたいに酒飲んで判断力無くなり他人に暴言吐いて勝手に逆上して凶器を手に取り暴行傷害事件や殺人事件を起こす人間の屑もいる。
酒なんて飲むな。特に鬱病経験者や依存症持ちはな。悪酔いして失敗するだけ。そんな奴をこの間も見たばかり。


酒は万人之敵と称された豪傑の張飛も殺す万人之敵の敵、普通の人間がコントロール出来る訳が無い。まして細身の渡来人骨格と一重瞼の遺伝子の人間は遺伝的にアルコール分解能力低い。小生の様な骨格がゴツく二重瞼の縄文系遺伝子の強い生粋の日本人やサモアン等太平洋の海洋民族と比較して酔い易く酒に弱い。
だから韓国人と同じ朝鮮半島渡来系の骨格や一重瞼の奴は酒飲んで暴言吐く奴も多い。
酒弱い奴は飲むな。
酒を飲んで酩酊する事を良しとする思考は不倫と軽犯罪の始まり。そして重大な犯罪への入口。
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