歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:源頼朝

皆さん、お久しぶりです。
梅雨で体調崩してませんか?
小生は食当たりに成って仕事を休んだり、睡眠不足で頻繁に立ち眩みがする今日この頃です(笑)。
さて、久しぶりに2時間だけ前回の記事の続きブログを書きます。

前回の休日雑記⤵

これ⤴の続き・・・

京都の友達が来て2年ぶりに一緒に歴史散策をした記事の続きを書きますが、3日間の内の2日目は1日で12ヵ所と訪問件数が多かったので横浜市金沢区編だけにして、その他の場所は又次回に続きを書くさいに紹介したいと思います。

では・・・
歴史仲間の車懸(くるまがかり)は京都の会社に勤務しているのだが彼の神奈川転勤中に知り合い、歴史仲間として2015年か2016年頃にmixiで知り合って一緒に散策をする様に成った。
彼が神奈川に居た頃は休みが合うと、毎回1日の訪問件数を大量に計画して一緒に歴史散策をしまくってた。
しかし2021年、京都に転勤に成ってしまいコロナでなかなかコチラにも来れなくなり、小生も2023年から資格の学習で歴史散策をする暇が無くなりブログ更新すら滞っている事は読者の皆さんの知る所。

5月の連休初日、車懸がコチラに来れる事に成ったのと、ちょうど小生の資格の学校のテスト勉強をスライドさせれる連休だったので、久々に京都から遊びに来ていた車懸との神奈川県内歴史散策2日目。
この日訪問した歴史史跡の順番だけ先に列挙してみる・・・

01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
07走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
12仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)

・・・結構な訪問件数(笑)。
今回は上の内、写真のUPロードや画像切り貼りするのに01~02迄しか書く時間が無さそうだ。
申し訳ない、でも少しづつ書き足していこうと思う。

この日は本来、戦国時代の北条家臣筆頭格の松田家の重要拠点だった神奈川県足柄上郡山北町の河村城~静岡県御殿場市の深沢城~三島市の山中城~箱根神社~東海道箱根関所~大涌谷を観光する予定だったが一緒に遊ぶ3泊4日の2日目は生憎天気が❝曇天/雨天❞だったので臨機応変に予定を変更し雨でも影響の無い神社仏閣と要塞巡りに切り替えた次第(しだい)。

当日の朝、最初に杉田家に朝拉麵を食べに行こうと7時頃行ったら店休日だった!
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仕方ないので、後で横須賀で昼食を少し早くとる事にして先(ま)ずは周辺で車懸が行った事のない場所を小生が幾つか列挙して、彼が興味を持った場所を案内する事にした。
最初に訪問したのが杉田から車だと10分程度で到着する金沢区の富岡八幡宮。
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富岡八幡宮
源頼朝公開基の波除八幡

ここは小生が過去に紹介した事が有る八幡宮で、源頼朝公が神戸市の三宮神社から御祭神の恵比寿様を勧進し開かれた神社で、後に法形(ほうぎょう:仏僧の服装)をした八幡大菩薩(応神天皇が習合された仏神)の神託が有った事から八幡大菩薩も合祀されて恵比寿様と八幡大菩薩が両立し社名が八幡宮に変わった場所。
そこら辺の解説は以前書いた記事⤵を御覧下さい。

八幡大菩薩は本来は治水の神様、そこに応神天皇の破邪の逸話が合わさった。
更に源頼朝公の御先祖様が住んでいた大阪の羽曳野市時代の河内源氏の邸宅の土地神様が壷井八幡宮だった事から源氏と坂東平氏の武士達から崇敬を集めた事で日本では戦神としての性格を持ち合わせる崇拝対象と変質していった。
なので八幡神を拝んで戦神としての御利益を頂くよりも、地鎮や治水、正しい事を行いたい時に破邪の祈願をすれば強い御利益を得られるかも知れない場所。
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以前の記事を読んで貰えば解る通り、ここは海岸に突き出した岬の様な地形だった場所で当時の海岸線の平地から社殿の有る場所には少しだけ参道の階段を上って行く事になる。
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この社殿は❝覆(おお)い殿❞で拝殿を兼ねており中に本殿が有る。
頼朝公はここの地形が治水や海上交通のランドマークに成ると考えて神社を開いたようで、その地形は明治時代の迅速測図とGoogleEarthで地形を見て貰うと分かりやすいと思う。
下の画像がが現代の地形と明治の地図の比較、S字状の道路は明治時代までの海岸線。
富岡八幡宮周辺
下の明治初期に陸軍が製図した迅速測図を重ねると昔の海が水色で表現されていて失われた地形が良くわかる。
まぁ、そんな訳で修験道と密教系の仏教と日本神話を信仰していた源頼朝公は、神道や修験道で聖地に成りやすい象徴的な岬に港湾のランドマークタワーとしての神社を開き、海上交通と治水の安全を願った事が良くわかるんだな。
車懸が御朱印を拝受し終わり、社務所で神職の方々に周辺を散策する暫くの間、駐車場に車を停めさせて頂く許可を得て歴史散策開始。
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先ずは富岡八幡宮でトイレ(笑)を済ませてから昔の海岸線の道に出る。
上の写真を見て貰うと右側が傾斜しており微高地に成っているのが分かると思うが、これが海岸の砂浜との境界線だった。
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そして正面に見えているのが・・・
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松方正義公別邸跡

現在はケアセンターに成っており跡形もなく石碑のみだが、往時は第6代総理大臣松方正義公の別邸がここに存在していた。
この松方正義公の別邸の前まで海だったのだが、実はその目の前に更にもう一人、近代の歴史偉人と安土桃山時代~江戸初期の武将、豊島家の関わった御寺が有る。
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孫文先生の日本への密航地点に成った場所がここで、目の前の慶珊寺に石碑が有る。
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申し訳無いのですが、今日の記事更新は資格の学習の為にここまでにします。
また次の週末に続きを1時間か2時間くらい書けたら良いな~。

では皆さん、梅雨で体調管理や食べ物の腐りやすい季節で色々大変かと思いますが、体調に気を付けて6月末を乗り切って梅雨明けまで過ごして下さい。

小生も学習と仕事の両立し毎月のテスト頑張りますので、皆さん元気に過ごして下さいね♪

あ~!
横浜市の瀬上沢は蛍の季節です。
東急建設の新社長が開発を断念して下さり、横浜市の山中市長のSDG'sで政治手腕発揮の舞台も整い、日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の上郷深田遺跡~水源地瀬上沢の蛍生息地も守られて行きそうです。
せっかくですから皆さんも横浜市最高峰の山稜の円海山麓、瀬上沢にホタルを見に瀬上沢に行って見ませんか?
関連記事⤵



では又、次の記事でお会いしましょう~。
続く・・・
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今回の記事は横浜ベイサイドマリーナや横浜市南部市場での買物を休日に楽しまれる人向けの記事です。
小生の記事はGoogleMapにリンクさせてあります。
住所
下の様な各所の紹介で、住所をクリックするとGoogleMapが起動して乗換案内やカーナビとしてそのまま利用する事が出来ますし、徒歩経路も調べる事が出来ます。

さて、横浜市民に限らず市内外の人は週末に横浜八景島シーパラダイスでのレジャー―やベイサイドマリーナで服飾品や横浜市南部市場での新鮮な鮮魚や青果の買い物を楽しむ方々も多いかと思います。
でも、何回も行ってると施設内の御店の御飯も食べつくして飽きちゃったな~と言う人も少なくないのでは?
そこで・・・
「もうフードコートの料理食べつくしたしな~」
 とか
「せっかく横浜に来たら美味しい本場の家系拉麺食べたいなぁ~」
 とか
「家系以外で美味しい拉麺も食べたいなぁ~」
・・・と言う人には今回の紹介する拉麺屋さんが参考に成ると思います。
また、歴史オタク視点での家系総本山吉村家と杉田家が繁盛した理由を解説もしたいと思います。

まず今回紹介する御店はベイサイドマリーナや南部市場近くの2店舗です、車かシーサイドラインで訪問される方には参考に成るかと思います。
1つは家系総本山吉村家直系の暖簾分け1号店、杉田家。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

シーサイドライン、京急、JR京浜東北線根岸線の利用客に便利な新杉田駅の直ぐ近くに存在しています。

2つ目はベイサイドマリーナの直ぐ近く、少し目立たない場所に有るけど美味しい拉麵を提供している❝らぁめん こもん❞です。
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らぁめん こもん
こちらは本当に目立たない場所でラーメン屋と認識できるのは木陰に隠れたラーメンの赤いのぼり旗だけ、決して大繁盛店ではなく知る人ぞ知る名店ですが金沢区や磯子区の地元民とベイサイドマリーナ勤務者には知られている御店です。

先(ま)ず2つの御店の位置関係を見てから御店の紹介、そして次に家系創業地や繁盛店共通店を歴史オタク視点で解説します。
では2つの拉麵店と周辺3つの観光拠点+α名所を地図で位置関係を見てみましょう。
※下の図をクリックして拡大して見て下さい。
位置関係
Googleの衛星画像の左手に❝杉田家❞、上部の右寄りに❝こもん❞が有りますね。
周辺に歴史史跡や商業施設も表示してあります。
さて、御覧の通りベイサイドマリーナや南部市場に非常にアクセスの良い立地に二つのラーメン店が有る位置関係は御理解いただけたかと思います。
次に各店舗を紹介します。
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ラーメン 杉田家
家系総本山吉村家直系1号店

【交通】
—電車&徒歩—
JR新杉田駅~徒歩03分。
京急杉田駅 ~徒歩11分。
— 車 —
専用駐車場無し。
周辺のコインパーキングを利用。
自己責任で路駐。
——店構え——
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——拉麺——
拉麺(並)+味玉
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——サイドメニュー——
御飯(まぶし)
御飯注文して「まぶし」と伝えると煮豚の端切れで牛丼風にしてくれます。
 +
チャンジャ(干鱈のキムチ)
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元々工場地帯の従業員に好まれて繁盛した吉村家創業地の地盤で客を引き受けている直系店らしく鶏油と醤油タレは調整出来る上に、豊富な鶏ガラと豚骨のスープはガツンと本当に美味い。
時間帯によってもガラの投入タイミングにより味が若干変わるので、好みを伝えて調整する域に成ると本当の通らしいですよ。
小生は深夜しか行かないので味は普通(少し濃い目かな?)で一貫してます。
歴史の解説に関しては後程行います。
こちらはシーサイドライン利用客なら八景島、ベイサイドマリーナ、南部市場全ての利用客に便利な立地ですし、車も車道に皆自己責任で路駐してますwww。

では次に、ベイサイドマリーナ近くにありベイサイドマリーナ職員や周辺工場のOLに人気だけどランチタイムしか営業しないから余り地元以外には知られていない❝こもん❞を紹介します。
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らぁめん こもん
※営業時間ランチタイムだけ。
【交通】
—電車&徒歩—
シーサイドライン鳥浜駅~徒歩03分。
— 車 —
駐車可能スペース若干有り。
直ぐ近くに横浜ベイサイドマリーナ
ベイサイドマリーナ~徒歩03分。
——店構え——
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——拉麺——
濱塩白湯 700円
 +
味玉 100円
 +
肉1枚 100円
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——サイドメニュー——
ランチごはん(ミニ肉めし) 100円
ランチごはんの食券を購入して「ミニネギめし」か「ミニ肉めし」かを伝えるとトッピングしてくれます。
ラーメンは麺は細縮(ちぢ)れ麵、スープはコクもあるけどクドくなく香りも良いので全部飲み干しても美味しい(笑)。
子供にも安心させて食べさせられる食べる人を選ばない美味しさのラーメン。
ベイサイドマリーナから徒歩圏内なのでフードコート飽きた人にはお勧め!
御店は一昔前の田舎のオシャレ崩れ食堂(笑)みたいな雰囲気だけど、御店主のオッチャンと店員のオバちゃん真面目な人で良き店。デート向きの雰囲気では無いけど店はいわゆる拉麺店よりくつろげる。

——こっから歴史や拉麺店繁盛理由の解説——

さて、御店の紹介はここまでにして、少しラーメン屋の立地を歴史オタク視点で解説します。
拉麺フリークは拉麺にしか興味が無い人が多いのですが、歴史オタクには地政学的に拉麺店の立地に興味が有ったり、歴史旅行の先でラーメンを食べる事を楽しみにしている人が多くいて、今回は杉田家=吉村家が繁盛した理由も少し解説したいと思います。
家系ラーメン発祥地と言えば横浜市磯子区新杉田駅前に嘗(かつ)て存在した家系総本山❝吉村家❞の最初の店舗なのを知る人は多いかと思います。

2023年03月、杉田からの移転先、横浜駅西口の鶴屋町交差点から2度目の移転をする事に成り話題に成ってましたねぇ~。
吉村社長は最早、横浜在来種の横浜拉麺を発展させた家系を作り上げ、拉麺業界の歴史人物と言っても過言では無いかと思います。

さて、その吉村家の最初の店舗の地盤は吉村社長の最も有名な直弟子の津村さんに引き継がれています。
正確に言うと、津村さんが開いた杉田家の前の道路を挟んで斜向かいの位置に元々は吉村家が存在していたのですが、横浜駅西口へ移転の際に現在の杉田家を吉村家直系最初の暖簾分けとして開く事を許されたのが杉田家でした。
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繁盛する店は勿論❝美味しくて当たり前❞、実は立地には戦国武将の城作りと同じ❝交通の要所❞や❝産業拠点❞である必要が有ります。
では杉田家に地盤を受け継がせた吉村家は何故繁盛したのでしょうか?
小生の理論が正しいか、少し一緒に見てみましょう。
もう一度、周辺地理画像を見て下さい。
位置関係
周辺に色んな史跡が表示してありますよね~?
では別角度で画像を見てみましょう。
杉田家周辺
実は杉田は徳川幕府で最初の鷹匠頭(奉行)を務めた2000石の大身旗本、杉田間宮家の陣屋(城館)が有りました。
その事は古参の読者さんは御存じですが以前紹介したことが有りますね~。
間宮家関連の記事は以下のカテゴリー「間宮家」の一覧から読みたい物を探して見て下さい。
もしかしたら皆さんの御近所にも紹介済みの場所が有るかも知れません。

※スマホで見た方が読みたい記事を一覧で表示出来るので探しやすいかも知れません。
笹下城や間宮家本家に関しては下の記事を読んで下さい。

杉田間宮家の菩提寺の妙法寺も以前紹介してますが、一帯は倭建神話の舞台でもあり、小生の見立てでは妙法寺の裏山の舌状丘陵は戦国時代には間宮家の詰城として要害化されていたと推測しています。
近代にも軍事的に重要視されて戦時中は高射砲の砲台が設置されていました。
実は陸軍や海軍は明治時代から戦国時代の城塞跡を調べさせて近代戦争に転用出来る地形を必死に探していました。
敗戦直前にも日本帝国軍に横須賀飛行場や横浜飛行場の防空/海防の防衛拠点の一つとして整備されて居た訳ですね~。
何故ここが重要視されていたかと言うと、それは優れた港湾だったからです。
戦国時代に武蔵国~相模国三浦半島一帯は房総半島の里見水軍により海賊行為で度々略奪放火されており、今の磯子区洋光台1丁目~港南区笹下~港南区港南の広大な範囲に及ぶ通称:笹下(ささげ)城の城塞群が築かれると里見海賊の東京湾久良岐郡側への略奪放火は治まりました、それが凡(おおよ)そ西暦1530年代の話ですね~。
里見家により鎌倉市街地が略奪放火され鶴岡八幡宮までも戦火で灰燼に帰した際も、横浜市南区の蒔田城主で北条家従属大名だった吉良家の吉良頼康公が鎌倉公方代理の権威で材木を集めさせ水軍で海運で運搬しました。
蒔田吉良家の事は下の記事を参考にして見てください。

それ等の材木は間宮家の属した黄備え隊の寄親(方面軍団長)で鎌倉復興の材木奉行を務めた北条綱成(つなしげ)公の代理として、間宮家が材木を集積させ鎌倉に輸送する貯木場に使われたのが、間宮家が支配した杉田湊(みなと)でした。

戦国時代の人物関係ついでに城と江戸時代の館跡が杉田家の近くには存在していた事を紹介してみた訳ですが、更にここは間宮家だけが重視していた訳ではなく、鎌倉時代にも杉田の中原地区の熊野神社は源義朝公が元々鎌倉時代に鎌倉の山崎に存在した泉蔵院と言う修験道の大寺院の支院の熊野社として開き、後に戦乱によって鎌倉の山崎に在った泉蔵院が本院としての機能を磯子区杉田駅近くの熊野神社に移転して来た場所でした。

水田が少なく耕作に向かない本来は農業生産力の低い杉田が重要拠点だったのは杉田が良港であり鶴岡八幡宮の直轄地=社領だった時代も有るし、北条家相模十四騎筆頭と呼ばれた間宮家の支配地として水軍の軍港だった歴史に裏付けでされた海陸交通上の立地の良さが現代にも受け継がれているからと言う戦略上の重要度が解って頂けたでしょうか?
ですから周辺には優れた水源地の有る港湾機能を利用して昭和の戦前戦中には軍事拠点、戦後には多くの大規模造船工場や家電製品や自動車工場が作られていたんですね。

さて、この段階でラーメン繁盛店が有る場所は略(ほぼ)、中世の御城の近所と言う話しに到ります。
つまり御城の有る場所は現代でも交通の要所だったり産業の拠点に成る訳です、すると多くの工場従業員やトラックドライバーやタクシードライバーをリピーターとして獲得出来るチャンスが大きく有る訳です。

吉村家も産業道路沿いの為、ネットの無かった時代に多くのトラックドライバーに口コミで全国へと噂を広げて貰え、尚且つIHIや日本飛行機や東芝の従業員がJR新杉田駅や京急杉田駅への通勤前、帰路寄って貰えて繁盛する足場を確保出来た訳ですね。
無論、肝心のラーメンが不味いと繁盛はしませんから家系創始者吉村社長のラーメンは今や直弟子数百人を数える程の従業員を育てて来れただけ美味しかった訳ですね。
因(ちな)みに港の話に少し戻ると、杉田家の近くの金沢区長浜地区は明治時代には未だ海で、東京湾に入港する貿易船の検疫を行う港が有りました。

そこに勤務していたのが野口英世さんで、世界で初めてペストを検疫で中国人船員から検出して日本へのペスト流入を防いだんですね。
まぁ、林文子前市長と厚生労働省はダイヤモンドプリンセスでの対応失敗して2020年にワクチン接種前の日本人をコロナ拡散の危機に晒した訳ですけど。

まぁ、そんな訳で実はラーメン店は交通の要所や産業の生産拠点の近くに有る方が繁盛しやすいんですよ。
さてさて、そんな訳で産業拠点の杉田駅や商業拠点の南部市場やベイサイドマリーナの近くにある拉麺店は、それ等の施設の利用客に便利な立地なので今回紹介してみました。

花粉症酷い季節、皆さん季節の変わり目ですから体調に気をつけて下されやぁ~。

では又、次のブログ記事でお会いしましょう~♪
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長興山妙本寺の紅葉
源氏の忠臣比企氏邸宅跡の大寺院の秋景色

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横浜市民は地方生まれで就職の為だけに横浜市に住んでいる移住者が多くて横浜に何年住んでも地元意識や愛着を持たず郷土史や日本文化への関心も無くて❝横浜市は新しい町❞と言う偏見を死ぬ迄持っている人がいます。
とんでもない事です。
横浜市は半分は旧鎌倉郡、残りの半分の三分の一は久良岐郡、残りは橘樹郡と都筑郡から構成されています。
特に横浜市の中でも南区、港南区、栄区、戸塚区、泉区、瀬谷区、金沢区は全域や部分的に旧鎌倉郡だった時代が有る文化醸成地や鎌倉武士団の根拠地だった地域なので皆さんも良く知る歴史偉人が多く関与していた寺社仏閣が現存するのですが、明治政府の仏教弾圧や神社廃社統合により廃社廃寺に追い込まれたり、戦後の過度な自由主義で開発利権化され消えた場所が既に多く有ります。
横浜市に歴史偉人が関与した場所が多く有るのは意外かも知れませんが市内の旧鎌倉郡域や郡境には例えば鎌倉殿の13人の登場人物と近親者ですと・・・
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源義朝鎌倉殿源行家
鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源義経2
鎌倉殿比企丹後局鎌倉殿北条政子3
鎌倉殿大姫2鎌倉殿源実朝
鎌倉殿北条時政2鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条金剛泰時
鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿和田義盛鎌倉殿文覚2
頼朝公の実父の源義朝公、頼朝公の叔父の源為朝公と源行家公、源頼朝公、源実朝公、源範頼公、源義経公、頼朝公の御息女の大姫、頼朝公の幼馴染で相思相愛だった比企氏の丹後の局様、正妻で結婚後も頼朝公とラブラブだった実は性格は只のパリピで恋愛一筋だった北条政子様、頼朝公の親友で真言密教の高僧だった文覚上人、三浦一族で頼朝公の参謀だった岡崎義実公や初代の幕府侍所別当職だった和田義盛公、曽我兄弟の敵討ちの際に頼朝公を守り曽我兄弟を仁田忠常公と共に逮捕した平子有長、和田義盛公と共に源氏に忠誠を尽くした泉親平公、源氏の殿様を暗殺しまくり幕府の権力を簒奪(さんだつ:乗っ取り)に成功した北条家の北条時政公や北条義時公や北条泰時公や名越北条宗時公や金澤北条実時公等の鎌倉幕府を乗っ取った後に執権や参謀として日本を守った悪い殿様も善い殿様達にも関する史跡が幾つも❝有りました❞
・・・が!
東京のゼネコンが横浜や鎌倉の文化を軽視して開発したいと言えば以前の市長の数人が忖度したりして当該の地域だけでも蒔田城、笹下城、野庭関城、泉城等の重要な城跡が数多く消滅したり、刀剣の故郷である鎌倉郡だけあり神奈川県現存唯一であり日本最大の蹈鞴(タタラ)製鉄遺跡である上郷深田遺跡と言う史跡が令和四年(2022年10月現在)では現存しますが、2019年段階で地盤ごと削り取る開発案を林文子前市長の時代に市役所が前市長と容認する発言をしてしまった事も有ります。
これに関しては横浜市栄区民12万人に対してJR本郷台駅やJR港南台駅で行われた開発反対署名に11万人もの反対署名が集まりましたが、史跡の場所が栄区だからと言う理由で港南区で集めた評が無効票扱いされて6万票しかカウントされなくしたり地元住民に対する説明義務を遺跡から50mの範囲に留める等の日本史と日本文化と先人に対するリスペクトのかけらもない条例を作った国会議員と横浜市議がいます。


上は過去に紹介した場所の極一部ですし、未だ取材したけれど紹介記事を書いていない神社仏閣も史跡も大量に有ります。
鎌倉殿北条時政2鎌倉殿北条時政
そんな中で今回紹介するのは鎌倉殿の13人が始まってから小生がディスり捲っていた北条時政公。彼にも功績が有り、それを評価や取上げないのは不平等と言う事で横浜市内の時政公所縁の御寺を紹介したいと思います。
犯罪者でも良い事をする瞬間は有るし、友人には優しかったりする人もいるんですよね。
問題は反省し更生するチャンスを与えるに相応しいか、取り返しが付かない事をして多くの人を不幸にしてしまったかどうかと言う事ですね。
そう言う意味では、この歴史人物は取り返しの付かない事をした部類にも入るし鎌倉幕府設立に繋がる初期の頼朝公に兵を率いて与力した大功も有る複雑な人なのです。
この北条時政公がいなければ源頼朝公は死んでいただろうし、鎌倉幕府が設立されず、北条家の第五代執権と成った北条時頼公が生まれなければ上総之介誅殺に始まり幕府設立後も続いた御家人同士から北条家の身内同士にまで引き続いた内紛を治め、八代執権北条時宗公が元朝フビライハンと朝鮮王の従属勧告を拒絶して倭寇の戦いで日本が存続する事も無かった訳です。
しかも時政公も仏教を大切にして仏様に感謝する習慣が有ったし、神様も御祀りした事が今日紹介する場所には伝わっていたりします。
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日野山 真如院 徳恩寺
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春日神社
この徳恩寺と春日神社に北条時政は御参りしていて、恐らく先勝祈願をして成就したのだとおもいますが現在の寺宝を奉納しています。
今回は春日神社は徳恩寺の紹介として少し触れ、後日、春日神社について別記事を書きたいと思います。
先ず、この徳恩寺は春日神社の別当寺として歴史が始まりました。
・・・と言うか神社と御寺は同時に開かれました。
最初、康和元年(1099年)に京都の御室・仁和寺の僧侶、尋清僧都が延命地蔵菩薩の尊像を背負って関東を行脚(行脚した際に)鎌倉古道の間道である現在の鎌倉街道の中で横浜横須賀道路日野IC近くの当時は兎ヶ谷呼ばれた谷筋の沢道との合流地点の小高い丘が沢に囲まれた地域に聖地に相応しい事を霊感的に感じて御寺と御寺の御寺の神社を開いたのが始まりでした。
春日神社は当時は穂井神社と呼ばれていたそうです。
穂井と言いますと霧島神社の忍穂井が有名ですが、もしかしたら農業用水に関連した神社だったのかも知れませんね。
この徳恩寺と春日神社を開いた尋清僧都は京都の現在は真言宗御室派の総本山に当たる仁和寺の僧侶ですから、彼は仏教や密教と神事に対する教養が高かった訳で、そこに相模国司の武蔵守藤原成実公が彼に帰依して自分が守護神象として拝んでいて霊験あらたかだったので藤原成実公が自分の守護神象を尋清僧都に奉献し、以後は神社は藤原氏の氏神である春日神社の名で神社は呼ばれ、彼の奉納した御神像が主祭神として祀られる様に成ったそうです。
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一帯は後にこの神社の存在から近代までの❝字(あざ)❞と❝小名(こな)❞の旧地番で小名を❝宮之前❞と❝宮脇❞と言う地名に変わりました。
春日神社は小さな神社ですが彫刻が文化財指定されているなど、単独記事にする価値が有るので改めて沢山の写真と一緒に紹介します。
さて、御寺と神社の始まりが解った事で先ずは現代の徳恩寺の施設紹介をして、後に何故ここに北条時政公が関与したか簡単に解る当時の地勢を解説します。
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徳恩寺、実は最近まで数年かけて御本堂の再建をしていました。
最近見事に外観は完成し、あとは内装を整える段階になっていて今月、令和四年10月22日に落慶法要が行われます。
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2019年の写真では未だ御本堂が有りませんね~。
徳恩寺は新しい御堂も魅力ですが、長屋門が見応えあります。
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現代では長屋門を知る人も少ないかもしれませんが、中に部屋が有る建物の真ん中に通路が有り門として機能する建造物です。昔の庄屋さんの家等に良く見られ文化財指定されている場所も多く有ります。
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取り敢えず今は車でも入れる御本堂前の通路が有りますから、ソチラから入るのが手っ取り早いでしょう。
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そこから入ると右側に真如殿と言う建物が有ります。御本堂が新築される迄はコチラが仮本堂に成っていました。
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この真如殿は即(すなわ)ち尋清僧都が最初に春日神社の別当寺として開いた当時の御寺の名前の真如坊で、坊の名前からも真言宗系の密教であり修験道の道場でも有った事が解ります。
実際、この徳恩寺とは明治時代の神仏分離令で法人的に分離した春日神社は松本家が宮司家ですが、この松本家は磯子区屏風ヶ浦の森浅間神社の宮司家です。

この森浅間神社は源頼朝公が帰依していた扇谷(おおぎがやつ)に当時はあった修験道の大本山の様な大道場だった権現堂の修験道僧侶に命じて不動明王を滝に祀らせて木花咲弥姫を祀り開かれた浅間神社で、歴代の権現堂の住職の就任前に必ず森浅間神社で神事を行ってから鎌倉で住職に就任していました。しかし鎌倉で戦乱が続いたので権現堂の本社機能を仮に森浅間神社に移し、戦国時代には間宮林蔵の祖先で当時の港南区~磯子区南部を支配した間宮康俊公の庇護下で別当職の代理を松本家世襲して明治まで修験道の御寺として権現堂は現在の市営地下鉄港南中央駅近くに存在しました。
戦前までは修験道系の武蔵国久良岐郡域と相模国鎌倉郡域の神社を合わせて60余社も統治したのが権現堂松本家でした。
しかし明治政府の命令で寺院機能を廃寺にして権現堂松本家も僧籍を放棄し頼朝公の命で明治時代まで祀っていた不動明王像も港南区港南の福聚院に移して祀って貰う事に成り、以後は松本家は現代に致まで神職として存続していますが、そこら辺りは泉蔵院や中村八幡宮の話でも過去に触れたと思います。


よって、真言宗系修験道に精通した間宮家の領地の権現堂家も真言密教系の修験道だったので、徳恩寺は仁和寺の僧侶が開いた御寺で神社部分は松本家に受け継がれた訳ですね。
この徳恩寺では御朱印も拝受出来ますよ~。
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さて、徳恩寺の事は大体解ったと思いますが、この御寺には北条時政公との御縁が今も❝残っていまる❞んですよ!
御寺の説明にはこう書いて有ります。
五大尊軸
五大尊を描いた紙幅。長さ100cm、幅42cmで極彩色。中央に釈迦如来、左右に地蔵菩薩と薬師如来、下部には虚空蔵と観音の二菩薩。昔、春日明神の本地であって、北条時政公所寄四ツ巴鎮守春日大明神御本地云々と墨書してあり、天保七年(1836年)八月に德恩寺法印・勧善が修覆し奉る
つまり明治時代の仏教弾圧と小さな神社の廃社が横行した時代までは春日神社に祀られていた様です。
恐らくは彼が某かの祈願を願ってか成就してか、それが源範頼公の謀殺や畠山重忠公の討伐かも知れませんし、又は普通に何か幸せな事が有ったのかも知れませんが、徳恩寺に在る春日神社の旧御神体の1つだった五大尊軸を奉納した様です。
小生は別の理由の可能性も考えています。
この五大尊軸を祀った理由が恐らく、直ぐ目と鼻の先にあった野庭関城の存在です。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿北条時政鎌倉殿北条義時小

この3名はそれぞれが悲しい事に合戦をする運命が待っていました。鎌倉殿の13人だとこれから起きる和田合戦と泉親平の乱と言う戦争ですね。
この和田義盛公、鎌倉殿の13人ではアホ扱いされて事実と異なる演出をされていますが、彼は築城の名手であり物流網を抑えた政治に長けており、彼が築城した城は全て街道や港を抑え立地も戦国武将に迄採用され使い続けられた名城ばかりでした。
この徳恩寺と春日神社の近くにも和田義盛公が侍所別当として鎌倉古道の尾根道と間道の谷道を抑える位置に築いた野庭関城が有り、この城は戦国の築城の名手の北条早雲こと伊勢宗瑞公や北条氏綱公、北条氏康公の代に成っても拠点として採用されて北条家の内政の名手、名奉行としてしらた安藤良整公や石巻康保公が城将を務めた程でした。
ソレに関しては先程、過去の記事で書いたのでリンクを貼りましたが、もう一度貼って置きますね!


この御城は和田勢の拠点な訳ですが、彼の失脚は恐らく北条家が時政公の時代から画策していたでしょうし、なので野庭関城への攻撃を想定して用意周到に付近の陣地に利用出来そうな神社仏閣を彼は常日頃から狩りをする等の名目や弘明寺へ御参りする等の名目で偵察していたでしょう。
春日神社
※クリック→拡大して位置関係を見てみて下さい。
また対立とは無関係に幾筋も天候や事情によって交通に摘した道と休憩所に成る拠点を確保するのは当時の常でしょうしね。
結果的に泉親平の乱、和田合戦の頃には北条時政公は非嫡子で息子の北条義時公による政治的なクーデターで失脚していましたが、そんな理由が有って御参りしたと考えると極々自然でしょう。
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泉中央公園
泉城(泉親平城館)跡

泉親平公の城跡と伝わる場所が泉区の泉中央公園で、住宅地化と❝公園化❞で地形事大半が破壊されましたがホンの一部の土塁と空堀の跡が現存しています。
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まぁ、城や歴史に興味が無い人が見ても上の写真が土塁と空堀跡なの解らないですよね(笑)?
小生の様な歴オタ 兼 城オタの様な人間と御近所の人しか行かないマイナーな場所ですし、まぁ、正しい事をした歴史人物の館跡と知っていてくれれば良いのです。
鎌倉殿北条泰時
和田義盛公や泉親平公は負けてしまいましたが、こう言う事の繰り返しが有って、北条家は北条泰時公の世代で善政を志す様に成ったのだと思いますから。
泉親平公は反乱を起こした側ですが立場的には源氏に忠誠を誓って北条を排除しようとした忠義の臣です。彼や和田義盛公や土肥実平公の御子息の小早川遠平公が反乱に失敗すると、その残存兵力と郎党は野庭関城に籠城して玉砕したと伝わっています。
その名残で昭和中期までは和田一族の子孫が野庭地区に旧家として残っていました。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿北条政子2
「愛してるよ💛」⇨「私も好きっ💛
他にも、この野庭関城の近くには馬洗い川と言う川が有って、北条政子様が弘明寺か別宅のだった井土ヶ谷の乗蓮寺に行く途中に馬を洗った滝が有った川が地名だけ残っていたりします。
また、弘明寺は頼朝公と彼女が御参りされた御寺でもあります。
戦国時代には、この日野郷一帯は北条幻庵公の所領だった事も北条所領役帳に記載されています。

この記事を書いている今は2022年10月16日ですが北条幻庵公と彼の御子息が関与した小机城は2022年の11月05日第一週土曜日に竹灯籠祭も開催されます。
小机城址竹灯籠祭に興味が有る人は下の過去記事に沢山写真が張り付けてあるので参考にどうぞ!

詳しい情報は下の公式アカウントを御覧下さい。

さて、鎌倉幕府の御家人とは性質が間反対で、口先では愛国心とか国防や日本文化を大切にしていますと騙りながら「マザームーン!」「真のお母さま!」とか言って日本人から搾取した金を外国に送金する新興宗教を賛美してしまう様な政治家が現代では当該地域にいたりして、野庭関城が消えたり徳恩寺や春日神社の森周辺も宅地化されてしまった様に数々の史跡がピンチで、新興住宅地に引っ越してきた人は全く横浜の歴史なんか知らない訳ですが実は横浜市域には鎌倉幕府の重鎮中の重鎮が往来し関わった場所が沢山有る訳です。
ん?

そう言えばマザームーン発言者を支援しているゼネコンは統〇教会と癒着してるのかな?
統〇教会の手下の反日企業なのかな?
まぁ、鎌倉時代の御家人は主導権争いで殺し合いはしたものの領国の発展と民百姓の暮らし向きの事は良く考え善政はしいましたからは、現代の当該地域の政治家は鎌倉御家人とは見ているベクトルが違いますね。
マザームーン野郎を批判してる野党も身内に統〇教会と癒着してる政治家がいるのに反省させていないので現代の政治家は全員、私利私欲のみで、日本が強国化する事や国民の生活向上の事なんか考えず禄寿応穏の概念が欠落した性根から腐ってる連中なんでしょう。
本当に国の経済発展と富の再分配と防衛強化と産業育成と外交的に敵味方に冷遇と友好を使い分けを的確に出来て総合的に国民と国の発展を実現してくれる良い政治家や軍人(自衛官)が増えて国賊や姦族佞臣が与野党問わず落選しまくると良いですね~。

日本武尊、仁徳天皇、菟道稚郎子、阿智使主、菅原道真公、源頼朝公、北条泰時公、北条時宗公、織田信長公、徳川家康公、河合継之助サン、斎藤一さん、西郷隆盛公、柴五郎中佐、東郷平八郎元帥の様に、日本を発展させる方々が実力主義と誠実さで適材適所年齢関係無く登用される社会に成ります様に~。

さて、きっと皆さんの家の御近所にも実は凄い歴史偉人と関係が有る神社仏閣や城址の公園が有ったりすると思います。
気晴らしに少し散歩しながら御寺や神社や城址の説明看板を読んでみませんか?思いがけず皆さんと歴史偉人を時を超えて繋いでくれるタイムマシーンの様な役割を果たしてくれるかも知れませんよ?
ですから、ちょっと御近所を散歩してみませんか~?
では皆さん、また次の記事で御会いしましょう。
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披露山公園
神奈川の景勝50選の1つ
逗子一の富士山の景勝地とハイキングコース

―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
訪問は若干不便なものの、晴天で海上の空気が澄んでいる季節に成ると、由比ヶ浜~稲村ケ崎~江ノ島の相模湾~箱根山系~富士山を一望できる絶景や夕陽を見る事が出来る。
もしデートで彼氏彼女や夫婦で行くなら電車で訪問し徒歩で逗子駅から近くの逗子海岸を歩き小説不如帰の舞台にも成った浪子不動こと高養寺からハイキングコースを登り披露山公園の展望台まで行くと感動するでしょう。
実際に多くの若い女性同士や御夫婦のハイカーが展望台から富士山と夕陽を眺めて感嘆の声を上げる様子を目にする機会が有りますよ♪
もしトレッキングが目的なら昼過ぎ位に逗子駅を出発し逗子海岸~浪子不動遊歩道~披露山公園で休憩~更に披露山庭園住宅を抜けて~大崎公園や逗子マリーナや材木座から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いと思います。
もし歴史に興味が有るのでしたら、逗子駅から程近い六代山不動院も御参りしてから逗子海岸に出ても良いかも知れませんね。
以下が過去に紹介した六代山不動院、大崎公園、逗子マリーナ、材木座の富士山の景勝です。




下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
この披露山公園は実は古墳時代に倭建(ヤマトタケル)命が通った古東海道と考えられています。
下の地図は国土交通省関東地方整備局サンが子供達の為に作っているホームページに公開されているもので略図ですが凡その経路が解り易く表示されています。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
見やすいでしょう?
下にリンクを貼って置きますね!

国土交通省の推測は実は歴史を知っている人からすれば非常に整合性が有ります。
古墳時代以前からの聖地が神社化したとされる平安時代の醍醐天皇が政令で保護対象にした神社が網羅されている延喜式神名帳に掲載されている❝式内社❞と、古代の史跡をGoogleEarth上に表示し更に国土交通省の製作した古東海道図をGoogleEarth上に重ねると見事に整合性が有ります。
昔の海岸線と古道 久良岐のよし
上の地図で住吉城と表示されているのが披露山公園の向かい側の山で、吾妻鏡に登場する畠山重忠公と和田義盛公が開戦した坂道の入口、すなわち名越の坂や古東海道の切通道を眼下に抑えた住吉城址です。この城名由来の神社が住吉神社です。
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住吉神社
住吉城址に在る鎌倉郡総鎮守と伝わる古社
正覚寺の下にある現代廃道にされた切通道が古東海道と伝わります。
ここ等辺りは以前、小坪の歴史を調べ始めた時に少し記事にしましたので御興味有る方は下の記事を御覧下さい。

ところで住吉神社は小坪の郷土史を調べると、逗子市が鎌倉時代以前に旧鎌倉郡で三浦郡では無かった事が解り、更に住吉神社が鎌倉郡の鎮守の神社と元々は社格が高かった事も解ります。
つまり本当に古東海道がここを通過していたので、社格の高い神社や重要な御寺も逗子市には沢山存在したし現存もしているのでしょうね。
正覚寺の下の鎌倉時代の和田義盛公と畠山重忠公の古戦場でもあり、戦国時代の伊勢原市と平塚市に跨る大城郭の岡崎城主で岡崎城三浦道寸公と住吉城主三浦道香公の御兄弟と北条早雲こと伊勢宗瑞公と北条氏綱公親子の名将達が住吉城攻防で三浦家の撤退戦の大激戦地となったのが、この古東海道でした。
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今では放置されて長い時間、草木が生い茂ってしまいましたが路盤は今も残っています。
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逗子マリーナから見上げて段地になってる上のフェンスの中が古東海道、神話の道で名将達の住吉城争奪戦で主戦場と成った当時は写真を撮影してる位置が海で、海の上にそそり立った崖に穿たれた蜀の桟道の様な天下の険でした。
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反対側は海前寺様に繋がっており、御寺が古道の出入口を守る形で存在している事からも正覚寺は江戸時代の記録に戦火に遭ったと記載が有るので戦国時代まで古道の入口の砦として利用されて戦火で廃寺に成り、約1世紀後に浄土宗寺院として再興されているようです。
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海前寺様の墓地にも昔の道が残されています。
この墓地には戦国時代の住吉城址の攻防の将兵を弔う首塚が余り知られていませんが存在します。
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この首塚の場所は元々は矢倉だったみたいですね。
さて、鎌倉時代にここで戦ったのは皆さんも鎌倉殿の13人で既に良く知っているかと思いますが初代鎌倉幕府別当の和田義盛公と畠山重忠公です。
鎌倉殿三浦義村小鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿和田義盛
子 ⇔ 親:三浦義明公の子:叔父 ⇔ 甥
VS
実は三浦義明公の孫
鎌倉殿畠山重忠
この戦いでは畠山重忠公は由比ヵ浜に陣地を置いたとされるので極楽寺坂の下の長谷観音辺りに陣地を置いていたかも知れませんね。
三浦氏は家長の三浦義明公(89歳)の守る三浦半島の中央部の三浦家本拠地衣笠城を防衛する為に畠山重忠公の由比ヶ浜の対岸の披露山公園のある古東海道を守る住吉要害に陣取った和田義盛公と現在の葉山町と逗子市境界にある鐙摺城を三浦義澄公が守りました。
当初三浦義澄公は畠山重忠公は甥っ子に当たる為に開戦する心算は無かったと伝わりますが、源義朝公への忠誠心の高い和田義盛公が畠山重忠公へ宣戦布告をして開戦しました。
但し戦ったのは源頼朝公が鎌倉幕府を開く前の話です。

ちょうど最初の頃にこのシーンが和田義盛公の勘違いで開戦したように描写されていましたね。
さて、そんな訳で披露山は凄い歴史偉人たちが通過した場所なだけでなく、源より朝公が部下達に褒美を与えた宴会を開いた場所としてもしられ、それが披露山の披露の地名の由来と伝わります。
是非、頼朝公も見た景色を皆さんも見て見ませんか?
鎌倉殿源頼朝
「風景良いから皆も遊びにおいで!」
倭建命の聖地巡礼で訪れて古道として散策しても良いかもしれませんね。
三浦半島には披露山を通過して房総半島んいと訪れる前に倭建命と弟橘姫夫妻が滞在した走水の御所ヵ崎と走水神社も有ります。


では、披露山公園の富士山の絶景や周辺に纏わる解説はここまで。
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鎌倉の13人、皆さん見てらっしゃいますか?
逗子市には鎌倉殿の13人の前半で非常に重要な登場人物の御子孫と関係の有る、昭和初期まで一大観光地で多くの地元の人からも愛された六代午前と呼ばれた人物の墳墓と、その菩提を守る御不動様の御堂が有ります。
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六代山不動院と六代御前の墓
神道や仏教の古来の価値観でよくある高貴な歴史人物や偉大な功績を残した歴史人物が祀られた場所が聖地化するパターンの場所ですね。
六代御前様は疱瘡治癒つまり天然痘や水疱瘡等の病気回復の御利益が有ると昔から信じられていたので、今世界で流行り始めている❝猿痘❞と言う疫病にかからない心掛けをすると言う意味でもお参りしておくのは良い事かも知れません。
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六代御前をの菩提を守る御不動様の御堂は正式名称を六代山不動院と呼び、神奈川県民で御朱印収集や歴史が趣味の人間なら誰でも知っている三浦半島が誇る名古刹の神武寺が現在では管理を兼務する別当寺を務めておられ、そこで祀りされている不動明王像は神武寺から寄贈された仏像だったりします。
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醫王山 来迎院 神武寺
神奈川の景勝50選の一つ
この御不動様によって菩提を守られている六代午前、鎌倉殿の13人にも登場する重要人物と非常に関係の深い人物なのですが鎌倉時代の歴史舞台の中心である神奈川県や京都府でも余り知られていません。
この神武寺は未だ小生のブログでは単独の記事で紹介した事は有りませんが源氏と非常に関係深く神秘的な御寺なので、過去の関連して紹介した場所の記事が有るので御興味有る方は下のリンクから記事を御覧下さい。
 
話を六代御前に戻すと、この六代御前と言うのは地名や施設名ではなく人物の渾名(あだな)です。
彼の本名は俗名を平高清(たいらのたかきよ)、法名を妙覚法印と呼び承安三年(1173年)〜建仁二年(1202年)を生きて29歳で人生を終えた人物です。
法印と言うのは真言宗や天台宗や修験道の密教仏教系の僧侶や山伏が与えられる法号です。
つまり御坊さんですね。
後で解説するのですが、六代御前こと妙覚法印様は源頼朝公の親友であり密教の高僧の文覚上人の直弟子でも有ったので修験系の修業をされた人物で法印を名乗ったのだと思います。
文覚上人の御弟子サンなので、以下、法印ではなく偉い人と言う意味も有る上人を用いて妙覚上人と書かせて頂きたいと思います。

先ずは六代御前がどの様な人物だったか鎌倉殿の13人の登場人物紹介とギャラリー画像を拝借して皆さんと相関関係を見てみましょう。
歴史が好きな人や鎌倉殿の13人を見ている方なら六代御前の俗名が平高清で有る事から氏姓が平と判りますよね?予備知識が無くても・・・
鎌倉殿平清盛
「あれ?平て氏姓は平清盛公の親族?」
・・・と察しが付くかと思いますが、実はその通りで六代午前は平清盛公の嫡流つまり本来ならば跡継ぎに成る資格が有った人物です。
鎌倉殿平維盛
六代御前の実父は平維盛(これもり)公です。
平維盛公は幾つかの歴史書では平家滅亡前に相模国に入り鎌倉幕府に亡命している事を匂わせる事が書かれています。
そして維盛公の子の六代御前は維盛公が亡くなると、源頼朝公の親友だった文覚上人に引き取られ僧籍に入る事で絶対に俗世に戻って兵乱を起こさないという担保の下で29歳まで僧侶として生きたそうです。
六代御前の師僧に当たる文覚上人は頼朝公の親友で元は天皇家直属の北面の武士で武家としての高い文化教養も備えていた人物で高僧に成る素養と仏教知識を備えていたにも関わらず、鎌倉殿の
13人の三谷演出では登場当初から悪意有る演出で乞食の様な風体と詐欺師の様な物言い、そればかりか親友の頼朝公に対する謀反に加担する様な事実と正反対の脚色をされています。
・・・歴史事実を伏せたまま
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文覚上人屋敷跡
これは文覚上人の属した真言宗や文覚上人の開いた神社仏閣の宮司様や御住職や檀家氏子サン達、密教系の教養を大切にする天台密教や修験道の方々から見ても明らかに宗教侮辱行為に当たり話を面白くする範疇を逸脱しています。
実際に逗子市桜山の六代御前の墓所を守り菩提を弔う六代山不動院を兼務する神武寺は天台宗の名古刹な訳ですが真言密教の高僧の文覚上人を天台宗の僧侶同様に敬意を表しており、兼務する不動院で文覚上人の菩提を丁重は六代午前様と一緒に弔われています。
小生は文覚上人に対する演出に関しては批判的に捉えています。
鎌倉殿の13人の登場人物紹介で不埒な演出画像では真言宗からも天台宗からも源頼朝公からも実際には尊敬され現在も大切にされている文覚上人に対して失敬です。
鎌倉殿文覚鎌倉殿文覚2
  Before  ⇨   After   
なので小生の解説ではNHK公式から拝借する画像をNHKサンの名を傷付けない為、少し小生の方で相応しい紹介画像に改造した上で、この後の解説に借用させて頂きたいと思います。
そもそも何で市川猿之助は髪の毛剃ってないんでしょうね?ヅラくらい被れよ。
破戒僧みたいな風体にしやがって・・・。
さて六代御前の出自と恩人の事が解った所で先ずは逗子市に有る六代御前の墓所と伝わる史跡と、その菩提を弔う六代山不動院を皆さんに紹介したいと思います。
施設の紹介が終わったら、何で六代御前のパパの維盛公が鎌倉幕府に亡命する事に成ったのかを皆さんと一緒に考えてみましょう〜♪
先ず六代御前の御墓から紹介します。
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六代御前の御墓は昔の尾根筋の古墳時代からの古街道の入口に在ります。
この六代御前の石段の上に立派な大樹が有ります。
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そこに江戸時代に建てられた供養墓を更に作り直した物が有ります。
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多くの歴史偉人の墓所を参拝して来た経験的に彼は保護を約束した源頼朝公の死亡後に殺害されているので罪人扱いで当初墓石も無く土饅頭だったと思います。
その土饅頭に植えられた樹がもしかしたら背後の優しく枝を広げた大樹かも知れません。
ここの場所から後ろを振り返ると今は建物が往時よりも高くなってしまって田越川が注ぐ逗子海岸を見渡す事は出来ませんが平地を見渡せて昔は海が見えさぞ眺望が良かったであろう事を感じる事が出来ます。
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この六代御前墓の入口の参道階段に向かって右手に神武寺様が兼務されている六代山不動院が在ります。
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独立した御堂では有りませんが、ちゃんと礼拝所として機能しています。
中には神武寺から寄贈された不動明王様が祀られ、管理人サンが常駐し御堂を守ってらっしゃいます。
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この小さな御堂にはちゃんと真言密教の高僧で修験道にも精通した文覚上人と弟子の六代御前こと妙覚上人の御堂らしく護摩壇が有り、天台宗に改宗してからも天台密教として護摩行が現代も行われていいるそうです。
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だから護摩壇の上の屋根が格子に成ってるんでしょうか?そこに関しては質問するのを忘れたので天井の構造や素材については不明です。
さて、この御堂に祀られた中心の御不動様の左右に金色の御厨子が見えますよね?
実はこの2つの御厨子に文覚上人と六代午前平高清入道妙覚上人の御位牌が収められています。
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右手、文覚上人の御位牌。
個人的に歴史偉人の御位牌を多く拝ませて頂く幸運に恵まれて来た小生の経験的な感想として、見た感じ、早ければ安土桃山時代、遅くとも江戸時代の前半か中期に作り直されたか塗りなおされている様に感じます。
左手、妙覚上人の御位牌。
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こちらが六代御前様の御位牌。
では根拠として同時代の御位牌を見てみましょう。
下は愛知県江南市が文化財指定しなかった為に廃寺に成った曹洞宗久昌寺に納められていた織田信長公と織田信雄父子の御位牌と信雄公の生母である生駒吉乃様の御家族の御位牌です。
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大きさとか黒漆のくすみ具合が大体同時代位の物に見えるでしょう?
余談ですが、久昌寺に関しては過去に紹介記事を書いているので織田信長公や吉乃様に関心が有る方は以下のリンクから過去記事を御覧下さい。

さて、六代御前の出自の解説に戻る前に少し六代山不動院に関して面白い事も有るので解説して置きたいと思います。
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この民家の様な建物は実は神武寺様の兼務する寺院でありながら、地域の神明社の氏子サン達の集まる社務所としても機能しているんですね〜♪
この事が珍しい事は、伝統的な仏教と神道の宗教関係者なら喜ばしい飛鳥時代〜江戸時代末迄の約1300年間続いた古来の祭祀の様式が残っているレアケースとして直ぐに理解出来る訳です。

明治時代、以前は法相宗、華厳宗等の古仏教のみならず真言宗、天台宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗等の現代にも残る多くの宗派の御寺の境内や背後の山には❝守護神❞の神社が祀られていました。
逆に神社にも明治政府に偶像崇拝や岩や滝を御神体とした自然崇拝し祭祀を執り行う形から社殿の中で御神鏡を拝む宗教に改革され神道が造り替えられるまで、多くの神社で歴史人物の彫像や神仏習合の神様を偶像化した仏像も御神体として祀られ守られていました。
有名な話ですが神武寺の属す天台宗の総本山の比叡山では、国家神道を利権化の手段として日枝神社の関係者が延暦寺に乱入し、比叡山全山に有った神廟に祀られる仏像を破壊したり捨ててしまった事は有名な話です。
同じ様な事は東京でも起きていて有名な深川の富岡八幡宮は元々八幡宮自体が神仏習合で仏教系施設でしたが、やはり神社かさせられて寺院機能を停止させれれています。
藤沢のこれは江ノ島でも同様の事が起きています。
しかし逗子市は有力者が集まる別荘地だった事で少し事情が違い、宗教改革で小さな神社を廃社にしたりしても手を出せず神仏習合の御寺を勝手に神社に変えて神職を公務員利権化出来なかった様です。

逗子市は徳川家や華族や財閥豪商はじめ多くの名士が別邸を構えた影響からか明治時代の廃仏毀釈神仏分離令が施行されて多くの私有地に祀られる小規模な神社や歴史有る寺院が廃絶させられる原因と成った宗教改革で神道が造り替えられて国家神道が成立しても、名士の方達から景観を破壊した事で怒りを買うのを恐れてか、行政によって小規模な神社が名目上は廃社にされて地域の比較的大きな神社に統合されても元の御社が破壊されず残っている場所が多くあります。
逗子が魅力的な理由は、別荘地でありながら古い文化と自然も共存させて大切にして来たからなのかも知れませんね!

六代御前の実父は平維盛(これもり)公な訳ですが・・・
「これ本当なのぉ〜?」
・・・と思いますよね?なので有名な歴史書だけではなくて伝承も交えて検証してみましょう。
実は維盛公は幾つかの歴史書では平家滅亡前に相模国に入り鎌倉幕府に亡命している事を匂わせる事が書かれている訳ですが、この平維盛公が本来は平清盛公の跡継ぎである父親で名将の平重盛公が早くに亡くなってしまった為に一族内でこの六代午前=平高清公=妙覚法印の実父、維盛公の父親つまり六代午前の祖父の平重盛公は実母が高階氏出身でした。
後継者争いが起きていた様で叔父の平宗盛が政権を掌握してしまいます。
鎌倉殿平宗盛
対して平宗盛は実母が重盛公と異なり清盛公の継室の平時子で、この平時子は清盛公との間に平知盛、平重衡、平徳子等を産んだ上に平時子の妹の平滋子は後白河天皇の后に成って高倉天皇を産み、更に平宗盛と同母妹で平重盛公とは異母妹に当たる平徳子が高倉天皇に嫁いで安徳天皇を産んでいた事から完全に平家内で宗盛ー時子の勢力が主導権争いで優位に立ってしまいました。
まぁ現代にも政策能力が無いけれどパフォーマンスや派閥構築の陰謀が得意な政治家っていますよね?
そして、その様なタイプは身内ですら権力争いの為なら足を引っ張る訳です。
現代の常識は当時の非常識、貴族や武士の時代は例え血縁が有っても異母兄弟は外戚が家督相続に関わるので血みどろの殺し合いが当たり前の時代です。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿安徳天皇
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平知盛
前妻の子である重盛公の家系を❝ハブる❞政治的駆け引きが行われ平家は重盛公亡き後は天皇家との繋がりから無能な平宗盛が結果的に血縁だけで跡継ぎ格に成り、後白河法皇もそれを望んでいた様です。
どうやら鎌倉殿の13人と異なり実際の平宗盛は小泉孝太郎君の様な良い人ではなく只の縁故を利用して同族をイジメ倒した悪人だった様ですね。
後白河法皇は高倉天皇に位を譲り更に高倉天皇の後継に安徳天皇が即位した事で法王となり後白河天皇から後白河法皇と呼ばれるよ様に成った人物です。
この様な政治的な駆け引きも有って重盛公の遺児である維盛公と資盛公の兄弟は苦しい立場に置かれていました。
鎌倉殿源義仲3鎌倉殿巴午前3鎌倉殿今井兼平
信濃国〜北陸で源義仲公が挙兵すると、平家は源氏軍討伐の軍勢を起こしますが本来は平重盛公の嫡子で京都にいるべき平維盛公が総大将として出陣する事になりました。
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平維盛
「行ってこいよ」⇒「は・・・叔父上は」 
「私は法皇を守る」⇒「解りました」 
六代午前様の御父上、維盛公は富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いで大敗北を喫した事で更に立場が悪くなりますが、実は困難な戦を宗盛に押し付けられていたんです。
ドラマの中では源義経の腰越状は宗盛公が書いた様な設定でしたが、後白河法皇と源頼朝公と共通の知人で交流が有る人物と言う事を考慮すると、もし代筆者が存在したのならば平維盛公だったかも知れませんね。
平重盛公の子息である平維盛公や平資盛公は平重盛公に弾圧され、尚且つ後白河法皇の平宗盛追悼令の枠の外に外れた平維盛公は平家滅亡以前の早い段階で頼朝公この人達は全員が深い関係に有った事に成る訳ですから。
六代午前の父君である維盛公が合戦を行った際、当然ながら将兵は維盛公の弱い立場を侮(あなど)る事に成るので忠誠心なんか有りませんし宗盛の配下部将が与力として参戦していても指揮命令系統も主導権争いが起こってグチャグチャに成るでしょう。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿安徳天皇
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平清宗鎌倉殿平知盛
安徳天皇の外戚集団化した宗盛一党
疎外
鎌倉殿平維盛
維盛公の同父兄弟の平資盛公、平清経公等
構図的には上の様な状態だった訳です。
これを現代の会社に例えると、主人公である平維盛公の実父の重盛公が創業者一族として大企業の社長を務めていたのが早く亡くなってしまい、祖父の平清盛公が大物政治家の親族を後妻に貰って子を作っていたのが後継者争いで政治的な争いを怒らされ、親族経営企業なのに全く各部門から協力を得られず難しい仕事を押し付けられた状態と言うのが実情かも知れません。
まぁ〜何か・・・
平成期に日本でも同じ様な話は何件か有りましたよね。
政権と企業の規模は違えど武家のTOPの平宗盛公は家具販売店のTOP大塚家具の大塚久美子サンと同じ様に未だ敵勢力が拡大中にも関わらず権力闘争を仕掛けて身内の潰し合いを経て異父兄の子を追い詰めて実力を発揮させる事が出来ないまま同じ様に家を滅ぼす事に結果的に成りました。
鎌倉殿平清盛鎌倉殿平維盛
「しっかりね」⇨「御爺様お任せあれ」
そもそも、最初は平清盛公も維盛公の父の重盛公と孫の維盛公を信頼していた訳で、まぁ〜欲深い人間がいると組織が機能不全を起こし国が腐る典型例でしょうか?
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿平宗盛
「跡継ぎたい?」⇨「はい・・・・・・」
「右大将なる?」⇨「・・・・はい!」
「重盛に並ぶね」⇨「・・・・・・・・。」
この当時、維盛公の父君の重盛公は左大将を務めているので、実は平宗盛公を右大将にする事は重盛と同格に扱い、一見すると平家にとっては右大将と左大将を独占し良い事の様に見えますが後白河法皇の長期的な視野の欠如した思い付きの策略だったと小生は個人的に推測しています。
つまり平家内で本来嫡流の重盛公を抑える事が目的でしか無かったでしょう。
この推測は後の後白河法皇の行いを見ても明白ではないでしょうか?
①平清盛追討令⇨源義仲              
鎌倉殿平清盛鎌倉殿源義仲3
②源頼朝追討令⇨藤原秀衝      
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿藤原秀衡
③源義仲追討令⇨源頼朝        
鎌倉殿源義仲2鎌倉殿源頼朝3
④源頼朝追討令⇨源義経         
鎌倉殿源頼朝2鎌倉殿源義経2
⑤源義経追討令⇨源頼朝        
鎌倉殿源義経3鎌倉殿源頼朝4
⑥源家暗殺密勅?⇨北条時政       
鎌倉殿源頼朝5鎌倉殿北条時政2
長期的視野の欠如した行き当たりばったりの勅令乱発。
これでは纏まる天下も纏まる訳が無いし、部下である貴族も武士も後白河法皇の為に働きたいとは思わないでしょう。現代の会社社長に置き換えると常に部下同士に業務妨害を行い相手の仕事の質を落としたり相手のミスを捏造する為に商品の品質検査で良品に故意に不具合品を混入させたり、誹謗中傷の流言飛語を法皇自ら流して「アイツが言ってたよ」と部下同士の憎しみを生み出すようなカオスな経営者不適格な人物だった事が良く解るのではないでしょうか?
そう言った意味では後に元寇で朝鮮軍が元軍を巻き込んで日本に対して無差別虐殺を手段とした征服戦争を仕掛けて来た際に、これを撃退する国の基礎を清和天皇の皇孫である河内源氏の源頼朝公と桓武天皇の子孫である伊勢平氏の北条義時公が作り上げて下さった事には日本人として感謝しか有りませんね。
もし後白河法皇の様な朝廷貴族中心の足の引っ張り合いを政治と勘違いしている混乱した国家運営を続けて公益を顧みず富国強兵を行わない下らない権力闘争だけの政治を元寇の起きる文永十一年(1274年)迄続けていたらと思うとゾッとします。
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿北条義時2
「おい〜北条!」⇄「将軍は飾り
源頼朝公の代に貴族政治と全く別の政権を打ち立て国を纏める下準備を終え、桓武天皇の子孫である伊勢平氏の北条義時公が更に鎌倉武士団の文化度や教養を向上させる素地と当時の世相に即した法治主義の統治機構を構築して下さった御蔭で現在の私達は文化的な生活を享受出来ている訳ですね。
この2人はもしかしたら暗殺された側と暗殺した側である可能性も有る訳ですが、実は政治思想では戦の無い世の中の実現、南宋の様に文化を成熟させる事、地方も開墾し豊かにする事など見ている方向は同じだったのかも知れませんね。
鎌倉殿平維盛
さて、そんな二人の立ち上げた鎌倉幕府に平維盛公が亡命して来たらしき事が源平盛衰記に書かれている訳ですが・・・


吾妻鏡はあくまで北条家側が記録した物なので政治家の意図が介在するか有無は置いておいても現在の政治でも官僚の方達の中には稀に不都合な情報を隠蔽したり削除する人がいるように、吾妻鏡も怪しい部分が沢山有って、偶然にしては出来過ぎた様に神奈川東京埼玉千葉の関東地方南部の夫々(それぞれ)の郷土史では各伝承が整合性が有るのに公式記録みたいな吾妻鏡だけは全く違う事を書いていたりする部分が何箇所存在しますが、それが今回の記事の六代午前の史跡と平維盛公生存説に繋がります。
吾妻鏡では旧暦の治承四年廿日己亥(西暦11月16日)〜廿一日(17日)に平維盛公が富士川の合戦で大敗しています。
鎌倉殿平維盛鎌倉殿源頼朝3
富士川の戦いで平維盛公の率いる軍勢は忠誠心も無く統制がとれずに源頼朝公率いる坂東武者連合軍に大敗を喫します。
この時に平宗盛が何をしていたかと言うと、散々平重盛公の遺児達の足を引っ張る雰囲気造りをしていた割に結果的に平維盛公が大敗すると臆病にも平清盛公に京都を放棄して逃げて福原に遷都をする様に訴えて清盛公と口論しています。
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平清盛
この口論の後、後白河法皇と平宗盛にとっては好都合、平清盛公にとっては不幸で不審な事件が多発します。
治承五年(1181年)正月に突如、後白河法皇の後継者の高倉天皇が崩御します。安徳天皇は幼く政治を執(と)り仕切る事は不可能なので後白河法皇の政権が復活します。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿安徳天皇
更に同月、真偽不明の高倉天皇の遺言で平宗盛が平家の後継者に成る様に勅令が有ったとされ平氏の惣領に宗盛が就任します。高倉天皇の死から5日後の事でした。2月には維盛公を出し抜いた平宗盛は兵を率いて自ら関東に頼朝公討伐に行かなければならない立場に納まったのですが行かなくて良い理由が突然出来ます。
旧暦二月四日(1181年02月22日)高倉天皇と同じ様に突然、平清盛公が病にかかりますが、これが非常にタイミングも記載の症状も不審でした。
平清盛公は死亡直前の様子を表した文章の病状を見ていると何だかカエンタケの中毒症状に酷似していると思うんですよね〜。

鎌倉殿平清盛
——清盛公死の直前の病状——
病付き給ひける日より,水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し
悶絶躃地して七日と申ししに終にあつち死にに死にけり。

——カエンタケの中毒症状——
肌に触れると接触部位の炎症を起こす
食後30分から、発熱、悪寒、嘔吐、下痢、腹痛、手足のしびれなどの症状を起こす。
2日後消化器不全、小脳萎縮による運動障害など脳神経障害により死に至る事もある。

鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿平宗盛
「アンタ等⤴やったなぁ〜!?完全に!」
・・・と思うのは小生だけでしょうか?この清盛公の発病によって前回も平維盛公に総大将の役割を押し付けた平宗盛は嫌な戦に行かずに済みました。更に後白河法皇は完全に政権を平清盛公から奪い返す事が出来た訳です。維盛公は中立な平清盛公の後ろ盾も無くなり完全に立場が無くなってしまいますが、その後に駿河国の戦いでは源氏軍に快勝しています。
鎌倉殿平維盛
 VS
鎌倉殿源行家鎌倉殿源義円
この戦いで源行家を壊走させ頼朝公の実弟の義円を討ち取って信頼を得た訳ですが、その後の北陸方面の戦いでは連戦連敗しますが、そもそも、この北陸戦線は完全に平家にとって不利な戦でした。
飢饉による兵糧つまり戦時食料である米が確保出来ないまま宗盛の命令で源氏討伐に出陣させられてしまったんですね、又もや平宗盛が自らが対象として出兵する役割から逃げてに不利な戦を維盛公に押し付けられている事が解ります。
維盛公の軍勢は仕方なく朝廷から❝食料の現地調達=徴発=強奪❞の許可を得て行軍しながら村々で農民から食料を略奪しながら戦いに向かわされたんですね。
こんな状況で士気が上がる訳がありません。どっかで聞いた様な話しだな?と思った方はロシアが対ウクライナの開戦した直後の状況を思い出して貰えれば良いかと思います。
あんな風に十分な武器と人数がいたとしても、食糧も無く兵士気が上がらず忠誠心も低い軍勢では幾ら大軍でも勝てる可能性はダダ下がりな訳ですね。
北陸戦線での倶利伽羅峠の戦いは非常に有名です。
鎌倉殿平維盛
VS
鎌倉殿源義仲3鎌倉殿巴午前3鎌倉殿今井兼平
まぁ、そんな訳で維盛公は連戦連敗して平家は都落ちする事に成ったのですが、別に後白河法皇からしたら武家は殺して交換すれば朝廷の良い歯車の保守部品程度の認識だったのでしょうか?京都から逃げもせずに源義仲公に将軍職まで授けています。
この北陸の一連の戦いで平家軍は完全に壊滅して源義仲公は都を制圧に成功すると、後白河法皇は❝朝日将軍❞の渾名(あだな)される征東大将軍称号を源義仲公に与えて平家も完全も福原京(神戸市)に天皇を伴って遷都する事と成り追いやられます。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿平宗盛
この様に内情を見ると平維盛公は一連の合戦に大敗したり大勝したりしていますが、どうやら原因は維盛公御本人の資質と言うよりは平家内の跡継ぎ争いが起きていたり朝廷内の後白河法皇と平宗盛が非常事態にも関わらず下らない権力闘争にかまけてシッカリと源氏追討軍の指揮官である平維盛公をサポートしなかった事が大きな要因として有った様です。
何だか左右問わず現代の政治家みたいですね、日本は民主主義国に成っても余り平安時代から本当に国民と国益と自然文化の保護と活用の事を考える政治家はおらず余り程度が変わって無いのかも知れませんね〜。

・・・普通に会社の中だって維盛営業部長が新規契約取りに行っても、宗盛総務部長が出張費出してくれないとか維盛部長の部下達のボーナスをショッパイ額しか与えないとか出世させないとか訳の分からない事をしていたら会社が内部崩壊して行くのは当たり前の事ですよね?そして、その原因を作っていたのが後白河法皇と言うのが全体の構図から見えてきます。
こんな事が有って、平維盛公の家族は平氏が壇ノ浦で滅びる前に平家政権を離脱していた様です。
ここから六代午前の伝承に史実が繋がって行く展開に成って行きます・・・
源平盛衰記と言う当時の話しを纏めた文書に紹介されています。
 

それによれば平維盛公は源頼朝公の支配地である関東へ行く事を希望し後白河法皇に命乞いをして、源頼家公に対して後白河法皇から維盛公の相模国入りの斡旋(あっせん)が行われたようです。
真面目⤵経験不足   バカ⤵社長     
鎌倉殿平維盛鎌倉殿後白河法皇
「満足ですか?」⇨「ん何の話し?」
「消えたげます」⇨「大変だねぇ?」
「せめて・・・」   ⇨「・・・言ってみ?」
「手引は宜しく」⇨「頼朝の所行く?」
        ⇩
「 (指図して来る奴全員消えたわ♪)」
「(やっと!好き勝手出来るわ〜♪)」
どうやら後白河法皇の頭の中はこの程度の認識だった事が状況整理すると見えて来る訳です。
そして平維盛公と重盛公の御子息兄弟は福原の遷都にも後ろ向きで平宗盛に謀反を疑われていたので、平維盛公は平宗盛等と決別して後白河法皇にとっても自分がいなくなる事が都合が良いのを理解していたのか鎌倉幕府の源頼朝公の下への亡命仲介を後白河法皇に依頼した様です。
維盛公は相模国に無事に入る事が出来たそうですが、その後の話しは諸説有りぶっちゃけると良く解っていない様です。
一説には湯下宿と言う場所で病死したとありますが、鎌倉で処刑されたという話も有ったりとマチマチで、京都の人や鎌倉幕府の中の人から見ても消息不明と言うのは本当は源頼朝公が匿(かくま)っていたのを、頼朝公が亡くなったタイミングで幕府が処刑させているので北条家主導で彼等が生きた存在自体を隠蔽したのではないでしょうか?
鎌倉殿源万寿頼家
同じ様に殺した甥の源頼家公の責任かの様に死人に口無しとばかりに粉飾して。
維盛公が死亡したとされる湯下宿が今ではどこか解りませんが、地名からすると湯下と書いて湯下(ゆもと)と読むのかも知れませんね。
当時の西日本から鎌倉に向かう鎌倉往還が今の箱根湯本の湯坂峠なので、もしかしたら箱根湯本の湯坂道の下の比較的古い時代から存在する温泉街で亡くなったとされてのかな?

この道については以前、鎌倉殿の13人の最初の頃の北条宗時公の死亡した時の話を紹介した記事の中で解説しているので御興味有る方は下のリンクから御覧下さい。
さて、そんな訳で平維盛公は実は相模国に来ていて頼朝公の御存命中は庇護されていた状況に有った様でが、本当に相模国にいてもおかしくない状況証拠が有ります。
それが六代午前の存在な訳ですね。
鎌倉殿平維盛鎌倉殿源頼朝
「御頼み申す〜」 ⇨「ん〜良いよ♪」 
そして平維盛公の遺児の平高清公、文覚上人の弟子に成り入道して妙覚と名乗る六代午前に話は繋がっていきます。
関西方面に平維盛公の死亡説が複数個所有りますが、これ自体が平維盛公が平宗盛公の追っ手がかからないように欺いた偽報の計略の名残りかも知れませんし、関西地方で伝わる熊野地方は実は古くから源家との結びつきが濃い土地でした。
例えば源義経の部下の武蔵坊弁慶は熊野三山を治めた熊野別当職の熊野湛増(たんぞう)の子と伝承しており、この伝承は熊野地方だけではなく彼が幼い頃に修業したと伝わる姫路市の書写山圓教寺にも同様の伝承が伝わります。
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※ガラケー時代の写真で不鮮明ですが御容赦下さい!
書写山 圓教寺
天台宗 別格本山
実は関東人の小生ですが学生時代の昔の彼女が姫路の人だったので書写山も何回か参拝した事が有り、この話を知っていましたwww。
この書写山は天台宗の別格本山であり、尚且つ熊野別当の湛増の子である武蔵坊弁慶が幼少期に僧侶として修業に励んだ寺院と伝わっています。
圓行寺食殿080302_132003
綺麗な場所で度々映画のロケ地にも成る場所でしてラストサムライでは圓教寺の食堂(じきどう)が渡辺謙サンが演じた反新政府軍の首領で明治天皇の側近だった勝元盛次の屋敷と言う設定に成っていました。


トム・クルーズさんは公開中の映画のトップガンマーヴェリックでも主役を張っていますね〜。
日本にも公開に際して又来て下さった様です。
さて、兵庫県姫路市の書写山は熊野信仰の聖地紀伊半島と何故密接な関係が有ったかと言うと聖地である熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は明治以前まで神仏習合で滝や川や山を御神体とする聖地信仰の対象でした。
明治時代に聖地信仰は弾圧されるのですが、それ以前の熊野三山は神道、真言宗系仏教と天台宗系仏教の密教の僧侶達も山を巡るや山伏の格好をして山道を歩いて巡礼して回る修験道の霊場修業場として栄えていたので、熊野三山の別当職も天台密教とも真言密教とも縁が深かった訳です。
鎌倉殿弁慶鎌倉殿源義経
そんな当時の宗教的な繋がりで弁慶サンは天台宗の別格本山で大きな勢力を誇った書写山に入山して僧侶として修業をする事に成ったのですが、後に弁慶サンは勤務地が比叡山に移った様で、この話が牛若丸(義経)と弁慶の五条大橋の伝説に繋がる訳です。
まぁ、この話は弁慶が刀を千本強奪するのを目標に武士を五条大橋で襲っていた云々有りますが、この千本は後世の人の伝聞間違いで元々は小生は千本通(旧朱雀大路)と旧五条の松原通りの十字路を流れる堀川の橋の事を指して、現代の五条大橋の話しではないんじゃないかな?と個人的に思っています。
堀川に架かる橋なら道幅も狭くて襲い易いですからね(笑)。
弁慶は天台宗の僧侶で、この天台宗は平家と非常に仲が悪かったのですが、更に源義経の奥州下向に際しては天台宗の総本山の比叡山の僧侶俊章達が源義経を奥州まで送り届けた事が伝承しています。
更に弁慶の家系その物が源家と密接な関係が有りました。
熊野別当職十八代湛快の妻は源為義(ためよし)公の姫で、熊野別当職と言うのは熊野本宮大社の運営を取り仕切っていた仏僧の最高職です。
この湛快と為義公の姫の子が弁慶の父の湛増な訳ですが、弁慶の曾祖父に当たる源為義公は、源義平公、源朝長公、源頼朝公、源範頼公、源義経、源義仲公の全員の祖父に当たる人物です。
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経2鎌倉殿源義仲3
つまり、この人達全員が弁慶とは当時の価値観でそんなに遠くない親戚関係だった上に熊野信仰と密接な関係が有った訳ですね。
範頼公に関しては以前、菩提寺の太寧寺を紹介した事が有るので御興味有る方は以下のリンクから御覧下さい。
この様な宗教的なコネクションと源氏との血縁関係を頼って平維盛公は自分を敵視する身内の宗盛公一派と袂(たもと)を分かって鎌倉に亡命する事は可也(かなり)の高確率で成功率も高く有った訳ですね。
尚且つ後白河法皇が熊野別当湛増や弁慶の兄の湛顕や文覚上人と源頼朝公の二人に繋ぎをつけていたとならば平家側から平維盛公と六代午前を庇護し平家から切り離して相模国に連れてくるなど造作も無い事でしょう。
当時の熊野三山の別当職について京都先端科学大学で吉村亨サンのゼミの教え子だった下田奈津美サンと言う2012年当時の学生サンが書いた卒論が全く熊野別当に関して知らない人にも解り易く説明してくれているので、下にリンクを貼っておきます。
ページ数も13ページ程なので小生の無駄に長いブログ記事より「ギュっ!」と読み易く纏めてくさってるので、基本的に歴史を知らない人でも読み易いかと思います。
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2012/h2012_05.pdf
この中に弁慶の父チャンの湛増サンの話しとか熊野水軍の話しとか出てきますがrichlinkが貼れないのでURLリンクを貼って置きます、そこのWEB上からこの卒論はダウンロード出来ます。
さて、熊野信仰と修験道と仏教と神道に話を戻しますと・・・
小生のブログではちょくちょく紹介するのですが源頼朝公は修験道の仏教や神道の修業を兼ねたトレッキングが趣味だった方で、まだ登山装備の無かった時代に延喜式内社大山阿夫利神社と大山寺の御神体である石山権現こと伊勢原市大山山頂に登ったり、現代でもよく滑落事故の発生する富士山山頂まで当時の装備で踏破していますが、大山阿夫利神社は当時は大山寺と言う当時の修験道の聖地の寺院が管理していましたが、この大山寺は江戸時代に成るまでは天台宗系修験道だった事も知られています。

この大山寺や大山阿夫利神社は現在こそ鄙(ひな)びた山奥の素敵な参道の温泉宿坊街が立ち並びますが、安土桃山時代に徳川家により真言宗に改宗させられるまで比叡山の様に多くの僧兵を抱えた武装集団でもあり、戦国時代の北条家臣で現在の横浜市磯子区〜港南区の大半と戸塚区小雀と海老名市内の一部と川崎市川崎区他を治めた殿様の間宮康俊公が箱根峠の入口の三島市にある山中城に城主松田康長公と籠城し豊臣秀吉軍8万を僅か手勢200余りで迎撃した際に、松田勢と合わせて籠城兵300で豊臣軍の司令官の豊臣秀次公率いる軍団を3000人も討死させているのですが、その籠城側の人数に記録されず間宮家の援軍としてだけ来た事が伝わるのが大山阿夫利神社=大山寺の僧兵達でした。
この間宮家の分家の岩本間宮家が現在の江ノ島神社を江戸時代まで管理していた岩本坊(後に岩本院に改称)の別当職だった真言宗系修験道の岩本家でした。岩本院は明治政府の仏教弾圧と神仏分離で江ノ島神社の運営権を返上しましたが宿坊機能を活用して現在は寺院から岩本楼と言うホテルとして❝業態❞は変わりましたが存続しています。

岩本楼の社長の御先祖様の遠縁の親戚に当たるのが大山寺の僧兵達と修験道繋がりで関係の深かった間宮家な訳ですが、間宮家に関して御興味有る方は上のリンクから記事を御覧下さい。
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿文覚2
さて江ノ島神社の前身となった岩本院が管理した欽明天皇が天皇家勅願所として定めた岩屋(洞窟)が今も江ノ島の稚児ヵ淵側に存在しますが、そこに源頼朝公も文覚上人と参籠し戦勝祈願をしていたのは有名な話です。
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神社の社殿も大切ですが、当時はそれよりも自然地形や湧水池が信仰対象に成ったので頼朝公が海岸なのに豊富な淡水の湧く洞窟を欽明天皇同様に崇拝し、インド神話の水神様である弁財天と水神様で農業神の宇賀神を同一視して江ノ島神社に弁天様を祀った訳ですね。
この頼朝公は弁天信仰だけではなくて熊野信仰を大切にしていたので、鎌倉市〜逗子市〜横浜市南西部に跨る旧鎌倉郡には多くの熊野神社が小規模ながら残っています。
このネットワークを維持していたのが旧鎌倉郡の扇谷(おおぎがやつ)地区の源氏の義朝公の時代の本拠地だった亀谷(かめがやつ)に室町時代まで存在した泉蔵院と言う旧修験道の大寺院の機能移転先である横浜市磯子区杉田駅近くの熊野神社と室町時代〜江戸時代の間宮家歴史を調べると理解出来ます。

この元は寺格の高い修験道寺院の泉蔵院だった杉田の熊野神社は鎌倉時代に未だ鎌倉に有った頃の泉蔵院は山崎泉蔵院と呼ばれていましたが、その聖地霊場の一つとして源頼朝公によって開かれたのが熊野神社でした。後の時代に鎌倉市街の戦火によって、修験寺院機能を現在の熊野神社に移転し、更に明治政府の弾圧で仏教寺院機能を停止させられ現在に至ります。現在の宮司様によって頼朝公と泉蔵院の関わり合いの歴史が忘れられない様に境内に泉蔵社の名前で社殿が復興されている他、昔のまま摩利支天等のインド神話の神様も撤去されず祀られています。
この杉田の泉蔵院の古文書を読んでも明治時代以降の現代宗教の世襲制と異なり昔は例えば熊野社だったら総本山の熊野大社との関係が有ったり、各寺院も末寺の上に本寺と言う支部長みたいな和尚サンが務める御寺が有り更に上に中本寺や大本山や別格本山と言う役員や本店の社長みたいな役割の組織がシッカリ平安時代のまま維持されていたんですね。
つまり、平維盛公は熊野神社の宗教ネットワークと源家と熊野三山別当湛増の血縁と後白河法皇の口利きと言う強固な3点セットの亡命ツールを使って相模国に入って来ている事が推察出来る訳です。
さて、ここ迄読んで頂ければ六代午前が平維盛公の子で、源頼朝公や文覚上人に保護される理由が有り、人間関係や宗教的な理由からも鎌倉に来れた事に納得頂けたのではないでしょうか?

後残すのは源頼朝公が平維盛公を受け入れる性格か?と言う検証が必要かと思います。
それは次回の記事で行いたいと思います・・・
鎌倉殿の13人の脚色と真反対で実は源頼朝公は情け深く多くの人を助け更に女性に誠実で、逆に主人公の北条義時公は情け容赦なく冷淡な性格で女性をとっかえひっかえする人だったと言う比較を歴史事実を用いて相対評価してみましょう〜♪

では皆さん、梅雨入りし蛍や紫陽花を鑑賞に適した素敵な季節ですが足を滑らして怪我などしないように御過ごし下されやぁ〜♪

毎年07月26日には六代山不動院で六代御前の菩提を弔う盆踊りの様な御祭りが開かれるそうです。
現代では規模が縮小して町内会の方々が出店をだしたり、町の賑わい子供が喜ぶ程度には維持されているそうです。
戦後のGHQによる宗教改革以前は昔々から毎年非常に大規模な御祭りが開かれて賑わったそうです。

逗子海岸の太陽の季節の記念碑からも距離にして650m徒歩8分と近いので、海水浴に訪れる方は夕方に六代午前の御祭りを見物に行って見ては如何でしょうか?

では又、次の記事で御会いしましょう〜!

続き⤵️
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大崎公園と小坪の神社からの眺望
逗子マリーナと小坪漁港越しの富士山の佳景。
【大崎公園】【秋葉神社】CIMG7811
——葉山港と鐙摺城~森戸神社の遠景——
CIMG8906
CIMG8905
CIMG8902
―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
不便なのは本当に大正~昭和の漁村の家並みが丘一帯に広がっているからで、細い細い坂道の路地が寧ろ良い味を出しています。
黄昏時~宵の頃のマジックアワーに成ると、富士山のシルエットに目の前のリビエラ逗子マリーナと小坪漁港の街灯(まちあか)りが非常に生えて美しい。
付近一帯は丘に上がればオシャレな富士山の景色を見る事が出来る日本家屋のカフェも有るし、リビエラ逗子マリーナ一帯には海鮮料理を提供する飲食店も複数有ります。

もしデートで彼氏彼女と逗子マリーナに休日の昼下がり食事に来たなら大崎公園や地図に名も乗らない郷土史の学芸員にすら名の知れなくなってしまった漁村の丘の中腹の小さな神社から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いかも知れないですね。

以前紹介したリビエラ逗子マリーナ⤴や小坪漁港からの富士山の景色も美しいけれどバリバリの観光地で人がいなく成る事は無いので若い御二人でムフフな甘い時間を過ごすにはあんまり向かないかも知れませんが思いで作りとしては間違いないので、大崎公園から直ぐ近くですし両方合わせて訪問しても良いかもしれません。
大崎公園は披露山公園やリビエラ逗子マリーナからの景色と比べても中々だと思いますしチュー( ˘ ³˘)(´꒳` *)してても人とすれ違う確率は低く(笑)良い面も有りますが、如何(いかん)せん人が少なくどちらの雰囲気が良いかはエスコートするアナタ次第・・・だぁ~🫵(笑)!
下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。

【歴史】
——小さな神社について——
この神社はブログに記事を書くに際して自分でも調べてみた結果、逗子市小坪の漁協や御寺や逗子市教育委員会の助力で文献に記載の無いこの神社は❝秋葉神社❞である事が判明しました。
この解説は書くと長く成ってしまい景色や郷土の簡単な紹介の範疇を超えてしまいますので別の記事に書いて以下にリンクを貼ります。

これ⤴御興味の有る方は御覧ください。
ちょっと調べたら平安末期の名将、鎌倉景正公の御子孫で源頼朝公に仕えた長江義景公の名前や小坪の領主だった小坂光頼公の名前も登場しました。
さて、今では参拝社も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗です。
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是非、現役学生カップルや結婚前の様に結婚してからデートする仲良し御夫婦の方にも秋葉神社から富士山と夕陽を見て貰って良い思い出の一端に秋葉権現様の記憶も残して貰えたら神様も喜んで下さると思います。
さて、今回の小坪の郷土史紹介は小坪に関わったメジャーな方々を紹介したいと思います。
今では昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。
実はこれから鎌倉殿の13人にも登場する事に成る鎌倉幕府第二代将軍の源頼家公や三代将軍の源実朝公は非常に武士としての素養が高く、この小坪漁港の元々砂浜だった海岸で流鏑馬大会を開いたり武門の頭領らしい事も沢山してらっしゃったんですね~。

今では鶴岡八幡宮や三浦半島油壷の荒井浜や小田原市の曽我梅林で行われる流鏑馬ですが、当時の鶴岡八幡宮は境内に回廊が巡らされていたので、やったとしても現代程の大規模な流鏑馬は出来なかったでしょう。ですから、ちょこっと鎌倉市街から離れた当時の避暑地地感覚だったかも知れない小坪海岸で流鏑馬大会を挙行されたのかも知れませんね。
源頼家公は母方の親戚の北条家を警戒していた様で祖父や叔父のたむろする鎌倉よりも、父上の頼朝公も生前に良く来ていた小坪が好きで信頼のおける仲間達と小坪領主の小坂光頼公の屋敷を訪ね、天王浜の海に遊びに来ていた様です。
一方で北条家に育てられた二男で三代将軍の実朝公は小倉百人一首や勅撰和歌集にも名を連ねる貴族的な教養も高い人物としての印象が先行してしまった様で、余り歴史に関心の無い人には何故か石川啄木の様な文弱(ぶんじゃく=ナヨナヨして男らしくない文学オタク)な印象が有るみたいです。
石川啄木⤵
石川啄木
「ちょっ!き君ぃ~、風評被害だよ!」
・・・と啄木さんが言いたい以上に実は源実朝公が風評被害と言いたかったと思います。
実は母の実家の北条家が横暴を極めた時も北条家が無実の罪で処罰しようとした渋川サンを助けたり、畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が事実かどうかも解らない謀反の容疑がどっからか湧いてきて、有力御家人の小山朝政公の実弟の長沼宗政と言う武将によって殺害されたた事についても可也ハッキリとこんな事言ってるんですね。
「テメー等過去に無実の畠山重忠ブッ殺して冤罪生んでんじゃねーか😠🖕!」
「俺が畠山重慶は生かして裁判にかけろっつったら俺の言う事聞けっ😬👎!」
鎌倉殿畠山重忠
この人⤴実朝公の言ってる冤罪で殺されちゃった人。更に有罪か無罪かの聴取もしないで御子息の重慶公も長沼宗政に殺害されてしまった。
でも実朝公は畠山重忠公の時と同じパターンだった事から有力御家人だろうと容赦せず毅然とした態度で長沼を懲戒処分にして謹慎処分にしてるんですね。
実朝公の言う⤵過去の冤罪で畠山サンぶっ殺した共犯達。
鎌倉殿北条時政小鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条政子2鎌倉殿安達盛長鎌倉殿三浦義村小鎌倉殿和田義盛
源実朝公が激怒した、畠山重忠公の御子息の重慶公を殺害した長沼は明らかに北条家の命令で動いていて、本来は北条家の対立勢力の小山家の更に傍流(分家)でしかないのに北条側にずっと味方し続けて見返りに大変破格な厚遇を受け続けた事実が現在に伝わっています。
鎌倉殿北条時政小鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条政子2
まぁ要するに、実朝公は兄の源頼家公や父の頼朝公は母方の親類や北条親派の御家人に殺されたと思っていただろうし、それでも上手くやってたし実母や叔父や祖父に対してガンとして意見する人物だったし、高い教養と活発な行動力を兼ね備えていた様です。
もうアホな家臣達が動物園の猿山の様に成ってワチャワチャ自分の事しか考えず権力闘争してるのに愛想尽かして遠洋航海船作り始めて「権力いらねぇ~し」「俺、中国に勉強に行く」とか言い出す人でしたしね。
この実朝公、実は旧鎌倉郡の中でも特に現在の逗子市域が好きだったみたいです。
逗子市には岩殿寺と神武寺と言う2つの由緒正しい名古刹が存在するのですが、これ等の御寺は昔は山道を歩く巡礼道で繋がっており、そこを源実朝公は鎌倉から山道を歩いて御参りに来ました。
もう数年前に御参りしているのに未だブログに書いていないので、その内紹介するとして場所だけ今回は掲載して置きます。
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海雲山 護國院 岩殿寺岩殿寺は文字通り当時は山の山腹~山頂にかけて建てられた御寺で鎌倉からずっと尾根の古道伝いに歩く修験道の巡礼道でもありました。
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昔は修験者が歩いたこの道を伝って今でもハイキングする人を見かける事が出来ますが、江戸幕府による修験道の天台宗か真言宗への服属強制と明治政府の廃仏毀釈神仏分離令の2回の弾圧によって修験道が衰退したのでトレッキング中に白装束を来た山伏とすれ違う事は有りません。

以前も紹介した鷹鳥山や横須賀の田浦方面にも抜けれたし山伝いに三浦半島を縦断出来た古道が昔は繋がっていたんですね。
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当時はこんな敷石の無かった赤土と砂岩と腐葉土の山道を歩いて実朝公は鎌倉の大蔵幕府~岩殿寺~神武寺を参詣されたんですね。
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醫王山 来迎院 神武寺この神武寺の参道を南側に下りきった谷が武道谷(ぶどうがやつ)と呼ばれた場所で源義朝公の沼濱亭が有った様で、神武寺~降りて来る武道谷と反対の法勝寺を含めた山稜一帯が沼濱城と呼ばれ所々削平される等して詰城として機能していた様です。
これについたては又、別の記事で紹介しています。

源実朝公の御父上の源頼朝公は意外に山岳信仰の修験道を大切にしてアルピニストだったので、それに似て実朝公もハイキングが好きだったんですね。
鎌倉の大蔵幕府から岩殿寺と神武寺と御参りしたのは御爺ちゃんの義朝公の沼濱亭の跡地を訪ねてみたかったのかも知れませんね。
いずれにせよ結構ハイキングコースを歩いて参詣したり、元来は活発な方だった様です。
鎌倉殿源義朝
実朝公グランパ⤴の義朝公。
こっちはパパ⤵頼朝公。
源頼朝公
因(ちな)みにパパの頼朝公は凄くて当時の山岳登山装備が何にも無かった時代に神奈川県伊勢原市の大山頂上の石山権現まで登って行って御参りしたり、後の富士山信仰でも行われた富士山の頂上まで登って火口を1周する荒行も達成されていたりします。
鎌倉殿源頼朝
大泉洋⤴のせいで色ボケ軟弱なサイコ経営者的な描写に鎌倉殿の13人では成っていますが、実際は教養が有っただけじゃなく、頼朝公~実朝公親子は健康的で活発だった様ですね。
源実朝公が軟弱だったり病弱だったりするイメージを惹起(じゃっき:印象を植え付ける連想させる)事が吾妻鏡に書いてあるのは北条家の専横と政権簒奪(さんだつ:乗っ取り)を正当化する為のプロパガンダである事が、複数の郷土史で異なる伝承が伝わる事から状況証拠として解ったりする訳です。
こんな風に逗子市は源義朝公が住んでいた事も有ったり、源頼朝公が披露山で宴会を開いたり、源頼家公が大崎公園の下の小坪漁港で流鏑馬をしたりと、源実朝公が岩殿寺や神武寺をトレッキングで御参りされたりと源家の歴代棟梁はこの土地の景観を非常に愛していた様です。





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前回の記事⤵

コレ⤴の続き・・・

前回の瀬戸神社の歴史解説と、前々回の瀬戸神社の御分祀された手子神社と小泉弁才天の歴史解説の記事で瀬戸神社や金沢の地が、源頼朝公と北条政子御夫妻はじめ鎌倉幕府執権北条家、鎌倉幕府を打倒して樹立された室町幕府の鎌倉公方足利持氏公、戦国時代の太田道灌公や北条早雲公や北条氏綱公、安土桃山時代から江戸時代の転換期に徳川家康公が関わり各時代の歴史偉人達から大切にされて来た事は御理解頂けたかと思います・・・
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・・・今回は歴史解説は少なめにして、いよいよ横浜市による金沢六浦の海の埋立や鎮守の杜の山の掘削された景観破壊後の現代の瀬戸神社と琵琶島弁才天の風景を御紹介したいと思います。
さて、現代では周囲の海が埋め立てられてしまった瀬戸神社の周りはとても美しい2つの湾の入口に在る半島と半島を橋で結んだランドマークであり歴史偉人も遊覧した観光地でした。
昔の海を再現した模型と地図でしか現代人の我々は当時の様子を知る事が出来ませんが・・・
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
金沢地形図 久良岐のよし
・・・実は、この島と半島が入り組み東京湾~六浦湾~瀬戸の3つの湾の金沢の海の大半が埋め立てられたのは極々最近の話しで、他都市からの移住者が役人として就職していて横浜=赤レンガと中華街程度の認識しかない無文化で日本の歴史文化に興味が無い横浜市役所役人達によって開発許可が出され昭和期に消し去られてしまいました。
正直、現代では過疎化の進む横浜市栄区や緑区等で貴重な自然とは無縁の真っ平らな開発し易い田園地域を宅地開発させれば良かったのに、現代でも横浜市は栄区の中でも横浜市最大最後の蛍の生息地の瀬上沢でさえ林文子市長が東急不ループの自然破壊宅地化容認の発言が飛び出していたりします。
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以前、瀬上沢を紹介した記事リンク⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
だから景観破壊される前に日本屈指の観光地だった金沢の八景が瀬戸神社の周辺一帯だったので、近代にも千代本楼や金沢園と言う料亭が直ぐ御近所に存在し、現在も名前を変えたり規模を縮小しながらも存続し昔の景勝地だった頃の名残を残しています。
下の写真が琵琶島弁才天から見た料亭、千代本楼。江戸時代の観光案内図にも載っている老舗。
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千代本楼
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カフェ金澤園この金沢園については一度閉店後にリニューアルして喜多屋と言う名前でオープンした際に取材をさせて頂きました。

コロナで喜多屋閉店後に金沢園として再復活していますが、日本建築の館内の紹介に成るかと思います。
金沢園の名に戻りカフェとして営業してるので料亭時代よりリーズナブルで御茶しに行きやすくなりましたし、海の公園や八景島界隈は埋立地で大人が落ち着ける店が余り有りませんが金沢園に来れば良い時間を過ごせるかと思います。
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さて、元は湾の入口の半島の山に囲まれた瀬戸神社は眼前の弁才天様を祀る琵琶島まで境内地にしていたのですが、日本古来の神社文化や自然信仰を軽視する役人によって瀬戸神社本殿参道と真直ぐ繋がっていた琵琶島弁才天の間には国道16号線開通の為に境内が接収され分断されてしまいました。
・・・本当に罰当たりですね。
昔の地形と現代の国道16号を見比べると良く解りますが・・・
瀬戸神社周辺の元の地形 久良岐のよし
瀬戸神社周辺の現代の地形 久良岐のよし
瀬戸神社の鎮守の山と洲崎の半島の近接する景勝地、その山を掘削しなくても国道16号線は別名❝横須賀街道❞ですので、どうせ横須賀方面に抜ける道ならば平潟~乙舳(おっとも)方面を経由させ室ノ木へ抜ける道を国道16号線を引けば良かったのは一目瞭然です。
もしかすると神仏習合の弁天様を日本の神様である大山祇大神(おおやまづみおおかみ)=三島大明神を祀る瀬戸神社と分断する意図が最初から有ったのかも知れないと、近代の宗教改革の歴史を考慮すると勘繰ってしまいますね。
そんな訳で、国道16号の開通も横浜市の海の埋め立てと同じ程に日本の宗教文化を愚弄し自然景観を破壊する失政だった訳です。もし国道16号が小生の案と同じ様に引かれていたら、瀬戸神社は源頼朝公北条政子様御夫妻や江戸時代までの日本の神社界の最高指導者だった卜部朝臣(うらべのあそん)吉田家の吉田兼敬公が愛した当時のままの美しい風景を平成に成っても見られた筈なんですね。

では、先ずは分断されてしまった琵琶島神社こと琵琶島弁才天の方から風景を見て見ましょう。
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琵琶島弁才天様の参道は現代では埋め立てられていますが、昔、ここが二つの島で荒尾城主の荒井家によって二重橋が掛けられていた歴史は前回の記事で解説しました。
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説明の看板にも当時の様子を知る事が出来る絵図が有りますが、図の真ん中左端に瀬戸神社と琵琶島弁才天が描かれていますね。江戸時代の絵図では既に二重橋では無くて一つの太鼓橋に参道を改造した様です。
良く見ると千代本楼も描かれていますね。
琵琶島弁才天様の入口手前、右側には福石が存在します。
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本来はこの福石は❝服石❞と書きました。
源頼朝公が弁天様に御参りする際に、福石に❝服を脱いでひっかけ❞当時は海だった福石の右側で禊(みそぎ=身体を洗い清める事)をしてから参詣した事に由来しています。
そして、この服石と元は書いた❝金沢十石❞の一つにも数えられた頼朝公由来の奇岩の傍で拾い物をすると必ず幸福な事が起こった御利益から❝服石→福石❞と書き方が変化したそうです。
そんな頼朝公が服を掛けた福石の右に存在した海は御覧の写真の通りに歴史も神道文化も軽視した役人によって埋立許可が出されてしまい無残に禊を行う聖なる海が消え去りビルに成ってしまいました。
弁天様の居らっしゃる琵琶島に向かい参道へ歩みを進めてみましょう・・・
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・・・松の木のみが景勝地だったらしい名残を感じさせます。
もう少し先に簡素化されてしまった橋が在ります。
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少しだけ昔の雰囲気を感じられるかな~?
先に在る弁天様この橋に対してソッポを向いた様に社殿が設置されていますよね?歴史や観光や御朱印集めが好きで神社仏閣を多く参拝する人は予備知識が無くても誰でも何となく知っているん事ですが、神社の御社や御寺の仏閣は大体が南向きか東向きの御日様の方向を向いて建てられているもんなんです。
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だから京都の有名な八坂神社=祇園社も祇園四条通りから延びる参道の先、西楼門=随神門(ずいしんもん)は西を向いて建てられていますが境内に入ると本殿は南を向いて建っているので、この琵琶島弁才天と同じく参道に対してソッポ向いた配置に成っています。
八坂神社周辺 久良岐のよし
ね?衛星写真を見ると解り易い。ちなみに明治の神仏分離令で素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社に名前を改めされましたが、元は素戔嗚尊と同一視されたヒンドゥー教由来の牛頭天王を祀る神仏混交の仏教施設だったので江戸時代の終わりの昔迄は祇園社と呼ばれていました。
そんな訳で琵琶島弁才天を御参りすると日本の宗教施設が南や東を向いている事にも気が付ける訳です。
・・・あれ?結局歴史解説結構やってしまってる(笑)。
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社殿はとても小規模ですが、まぁ、頼朝公の時代もそんなに大きな社殿では無かったと思います。
頼朝公が復興した鎌倉の立身出世の御利益で有名な佐助稲荷神社や・・・
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佐助稲荷神社
現在の横浜市役所新庁舎にも頼朝公が建てた弁天様が有りましたが、やはり水神社同様に接収され現在は横浜市中区関内の羽衣町厳島神社と元町厳島神社に分祀され消滅しました。

神社の宮司様達の中には余り文化歴史に造詣が深く無い人もいて自分の神社が昔っから立派な社殿が在ったと誤認している人もいますが、そもそも日本古来の宗教は自然信仰で、そこに中国文化の影響を受けて御神像や御神鏡を祀る偶像崇拝が合わさり石祠(いしほこら)や社殿も建てられる様に成った訳ですから、金澤(かねさわ)の琵琶島弁才天様や横浜の元町厳島神社や羽衣町厳島神社の様に滋賀県琵琶湖の竹生島弁才天様の御分霊を頼朝公の時代に勧進した場所は概(おおむ)ね小規模な場所だったでしょうね。
昔の人は社殿の立派さよりも、自然信仰時代の影響も色濃く残し、特に修験道を大切にして神道仏教にアプローチした源頼朝公は神社の建物よりも神様その物を大切にされた訳です。
小生のブログを読んで下さってる方は記事で話題にしているので既知だとは思いますが、頼朝公は自然信仰で神仏共に大切にした希有な修験者でもあったので伊勢原市の大山阿夫利神社石山権現(大山山頂の神の依り代たる奇岩)を参拝に登山したり、富士山すらろくな登山装備の無い当時に踏破し富士山火口を一周回る荒行を成功させたアルピニストだったりするんですね。
瀬戸神社の神様は三島大社の大山祇大神です。
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三島大社
大山祇大神は神奈川県の延喜式内社で関東総鎮護とされた伊勢原市大山の神様でもあり、海を守る神様としても有名なので築地市場関係者も団体で昔から参拝に来る事で知られています。自然信仰で海の神様である大山祇大神と弁才天様、修験道にも仏教にも神事にも造詣が深く自然信仰を大切にされた源頼朝公。
・・・そんな頼朝公だったから海難事故防止や海の神様として有名な大山祇大神=三島大明神と竹生島の弁天様を六浦湾と金沢湾の2つの入江の接続点に勧進され、漁師や海運を生業とする人達の生活を守護して頂こうと考えた事が良く解りますね。
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今では狭くなり釜利谷側の泥亀新田や昭和の六浦埋め立てで大部分が消滅した金沢湾ですが、琵琶島弁才天に御参りすれば頼朝公と政子様が愛した湾の景色の一部が眼前に残っているので少しだけ往時に思いを馳せる事が出来ます。
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さて、琵琶島弁才天様から国道16号で分断された反対側の瀬戸神社に移動しましょう。
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社殿は遠目にも綺麗ですね!まぁ、裏山の鎮守の杜も一部だけ残っているので昔の風景を想像する事も出来ます。
鳥居の両脇にはとても立派な石灯籠が存在します。CIMG5077
大きいだけじゃなくて彫刻も良く出来ています。
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そこを通り過ぎると正面に社殿。右側に手水社(ちょうずしゃ)が在ります。
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更にその右側には市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在ります。
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立派ですね~。他にも沢山、立派な大樹が有りました。
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犬槇(イヌマキ)と言う木だそうです。これも立派。
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社殿の拝殿へは入る事は出来ません。普通に社殿の前までは参拝出来ます。
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現在では瀬戸神社と書かれた扁額が掲(かか)げられています。揮毫(きごう=代筆)したのは内閣総理大臣在職中の小泉純一郎元総理ですね。小泉家の発祥は正に金沢で後に横須賀に移る訳ですが、小泉純一郎元総理は祖父の小泉又次郎氏が六浦大道の出身でした。そして小泉元首相のお母さんが祖父又次郎さんの娘で、そこに父親の純也氏が婿養子入りしたんですね。その頃には横須賀市に既に移住していました。
・・・多分、現在の瀬戸神社の扁額を揮毫したのは小泉家と金沢家にそんな地縁が有ったからかも知れません。まぁ、書くなら古来の風習に則(のっと)って❝三島大明神❞と書いて欲しかったなぁ~。
本殿の裏には沢山の社殿が在ります。
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これは祖霊社、氏子サン達の御先祖様を神様として祀っています。
そして背後の山を御覧頂けると解るのですが・・・
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・・・山の斜面を人工的に❝法切(のりき)り❞された垂直の❝切岸(きりぎし)❞に成っているのが判るでしょうか?
この様に山を削った直角な谷間に鎌倉文化では神社仏閣を建設します。これを❝谷戸構(やとがま)え❞と呼び、城壁の様に垂直に加工した山で施設を取り巻く事で防犯と火災類焼防止の効果が発揮される訳ですね。
そしてもう一つの鎌倉文化に良く見られる特徴が瀬戸神社にも有ります。
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矢倉(やぐら=人工横穴)です。
元は横穴式石室に仏教文化がが合わさった鎌倉武士独特の墓所でしたが、仏様を埋葬するのと同じく矢倉に神様の祠を治めて崇拝する習慣が鎌倉文化には有ったりします。
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ここは御狐様がいらっしゃるので御稲荷様ですね。御稲荷様は良く全国各地の城址にも祀られ、歴史好きを見守ってくれる神様だったりもします。
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これは瀬戸神社の主祭神の大山祇大神の御息女=姫神様の石長姫(いわながひめ)様と此花咲耶姫(このはなさくやひめ)様の姉妹神様を祀る御社(おやしろ)でした。
石長姫は不老長寿、ある意味美の女神なのにブスな可哀相な役割の女神様。きっとクソ美人以外の普通に可愛い位の女性には美容と長寿の女神として御利益の御加護を下さるかも知れませんね。
妹の此花咲耶姫命様は天皇家の御先祖様の邇邇芸命(ニニギノミコト)の奥さんに成って天皇家を発展させた祖先神ですので縁結びと家内安全の御利益を与えて下さるかも知れません。
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更に塞がれた矢倉も有りました。きっと何か神様が祀られていたのに戦後の法律で封鎖させられたんでしょう。こんな物防空壕では無いと否定して撤去してしまえば良い。
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服装の様子からして菅原道真公=天満大自在天神=天神様かな?
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あと小さな祠が3ヶ所並んでいました。
その背後・・・
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どうも此処(ここ)は背後の鎮守の山への登り口だったみたいですが、山を国道建設で掘削されてからは登る人もいなくなってしまった様で草ぼうぼうでした。
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階段地形が今も残っています。もしかしたら征夷大将軍源頼朝公や室町幕府鎌倉公方足利持氏公はここを登って金沢八景の景勝を遊覧したかも知れませんね。

さて、これで金澤瀬戸の三嶌大明神=瀬戸神社と琵琶島弁才天=琵琶島神社の施設の解説の記事は尾張です。
皆さん、如何でしたか?実はつい最近まで鎌倉時代のままの風景が残っていた事、今もその足跡が辿れて歴史偉人の歩いた場所を皆さんも歩ける事が伝わったでしょうか?
瀬戸神社は金沢八景駅の目の前に在ります。野島公園の伊藤博文公金沢別邸に抹茶を飲みに行ったり、神奈川県立金沢文庫(博物館)に見学に行ったり八景島シーパラダイスに遊びに行くのと合わせて参拝に行かれて見ては如何(いかが)でしょうか?
江戸時代までの日本の神道のボスや、各時代の将軍様達と同じ空間で御参りすれば、昔の人達が大切にした意味を身体で感じられるかも知れません、瀬戸神社がタイムマシーンの様な役割に成って。

きっと皆さんの御近所の城址の山や神社仏閣も、凄い歴史偉人と関係が有る場所が今もあるはずです。
・・・家を飛び出して少し気分転換に御散歩してみませんか?

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪・・・次は何を書こうかな~?
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鎌倉殿の13人に名前と館跡の話だけ登場した源義朝公と彼の館の場所について記事を2回に分けて皆さんと観光地としての案内をしながら内容を検証して行きたいと思います~、どうぞ最後まで御付き合い下され~♪

先ず結論から話します。
①鎌倉殿の13人のドラマ本編後のNHKアナウンサーによる所縁(ゆかり)の土地の解説では頼朝公の御父上の源義朝公の館跡が鎌倉の寿福寺とだけ紹介されていましたが、これは情報不足で視聴者に誤解を与える紹介の仕方で、実際は逗子市沼間にも館があり旧鎌倉郡だけでも少なくとも2軒の邸宅を持っていました。
当然ですが京都にも御屋敷は有り、その場所は京都市下京区左女牛井と伝わっています。

②吾妻鏡に登場する沼濱亭を、自分で現地に足を運ばず取材もせず発掘調査結果も読まず文献コピペする学者が多くいて誤りを流布しています。沼間の法勝寺が屋敷跡と比定されていますが、これは誤りです。
鎌倉時代から今も続く旧家が現地沼間には住んでおり、その一帯の平場が田越川を外堀として利用した武士団の館を構築しており、法勝寺と武道谷の山一帯が詰城として機能していました。
つまり沼濱亭と沼濱城は別個の存在であるにも関わらず沼濱城跡を沼濱の館と書いている学者が多くいて、根本的に平安時代~鎌倉時代の武士の生活様式と城のセオリーすら理解して無い訳です。
平安時代の坂東武者は河川を掘りとして利用した谷戸の平場に邸宅を築いて住み、その近くに詰城を築いていました。

③平安時代の城郭として未発達の詰城を安土桃山時代の中部~西日本の石垣城しか❝城として認識できない程度の城郭知識❞の文献考古学者が「ただの砦」と軽視したせいで神奈川県が過去に有していた大城郭は多く消えています。
中世初期の関東の城は立派な土塁(どるい)と呼ばれる土を盛って作った城壁すら設けていない場所も多く有りますが、そもそも当時の詰城には城館は無く室町時代末期や安土桃山時代の城の様に常時城内で暮らしを営む生活空間は特に備えていませんでした。
この平安時代の街道は現代人の感覚では街道とは呼べない細い道で、城は山の尾根に毛細血管の様に幾筋も通っていたので道が合流する要所要所の山の峰を裾切(すそきり)して細くし切通道や堀切を作って敵の侵攻を阻害し峰に削平地を設ける範囲を広く点在させ、当時の街道の山道を防衛側が少数兵力でも守り易い構造にする事が優先されていました。
つまり後の時代と比較して城の立地や役割の遷移過程で建築物を城内に持ってる持ってないの差が有る訳ですから、「ただの砦」と言う文献考古の人がいるならば、その人が城郭の様式の変化や関東ローム層地盤の特性を活かした土城の殺傷力を知らないだけと言う事です。
源義朝公や源頼朝公の生きていた当時は山麓の屋敷と裏山の詰城がセットに成っていた訳です。

今回の記事はでは、この①の事を観光地案内を兼ねて皆さんと一緒に見て行きたいと思います~。
次回の記事で②と③を解説します。

さて、皆さんは鎌倉殿の13人第8話で源頼朝公達が鎌倉に入府した頃の話を覚えてるでしょうか?

その回ではドラマに登場しない人の話が、登場人物たちのセリフとして名前だけ出てきました。
義朝パッパ⤵頼朝公のパパです。       
鎌倉殿源義朝
※以下略称パッパとします。
頼朝公と鎌倉武士団が鎌倉に入府した際に、この頼朝公のパッパの御屋敷に関する会話が有りました。
源義朝パッパは平治の乱で平清盛公に負けて関東に逃げる時、尾張国の武将で自分の部下の長田忠致(ただまさ)に裏切られてお風呂場で殺された方です。
これ以降、源氏の殿様は風呂場で無防備なフル〇ンの時に殺されるのが伝統芸に成ってしまいました。
ところで鎌倉殿の13人には登場しない後日談として、長田忠致は相応の報いを受けています。
伝承では長田は頼朝公の父上や忠臣の鎌田政清公を殺害した際に平清盛公に対して「美濃(みの)国、尾張(おわり)国をくれ」と身の程知らずな要求を行い却下され不満を漏らしました。
更に頼朝公が大勢力に成り上がると厚かましくも頼朝公に面会に訪れ頼朝公の家来に成る事を願い出ます。
その際に長田はこう言われました・・・
鎌倉殿源頼朝小
「頑張って働いてくれたらパッパ殺しても欲しがってたって言う「みの・おわり」をあげるよ・・・」
当然ながら長田は血の気の引いた様な思いで必死に戦いますよね。
頼朝公は長田と戦に成らない為に許す姿勢を見せて置いて長田家臣団と直接コネクション作りながら長田を使いつつ時を待っていたんですね。
余り知られていませんが頼朝公の幼名は❝鬼武者❞です。

頼朝公は全然ゲームの鬼武者⤴の金城武サン演じる明智秀満公みたいに強くない武将で、武人ではなく経営者タイプの武士です。思考的に組織全体を守る為に運営上、血縁でも勲功の序列を重視する現実主義の一面も有り良い意味で鬼に成れる人ではありました。
鎌倉殿源義経鎌倉殿畠山重忠
実弟の源義経に血縁が有っても彼が家臣である事を解らせる為に、畠山重忠公と一緒に馬を曳(ひ)かせたエピソードは有名です。
この頼朝公が長田にちゃんと義朝パッパの敵討ちをしない訳が有りませんね。論功行賞(給与支払い)の時に成って頼朝公は長田にこう言い渡しました。
「長田サン、約束通り❝身の・終わり❞をあげます」
うぅ~ん・・・
「ひぃいぃ~!」
・・・っとなるエピソードですよねコレ、落後並みに落ちは綺麗についてるのですが(笑)。
でも頼朝公は実際は自分の子供に限らず子供好きで面倒見が良かったエピソードが幾つか伝わっています。

マグロの水揚げ漁港として有名な三浦市三崎町のユネスコ無形文化遺産に登録されているチャッキラコの話1つをとっても、この世界遺産に成った神事は子供に優しかった上に庶民にも気さくに声をかけていた頼朝公の実際の性格に端を発している事が解りますし、甥っ子の北条泰時公も溺愛していた話が伝わっています。
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿伊東八重
北条泰時公と言うのはドラマの義時公と八重サンの長男です。
この泰時公は元の名前が北条頼時と、源頼朝公から名前を一字頂いた事も伝わっています。
ドラマのネタバレに成るかは不明ですが八重サンは史実では義時公にポイって離婚されてしまいます。
義時公は美人と再婚してしまうので(ガッキー超える美女いる?)、八重ガッキーの息子の泰時公は嫡男(ちゃくなん:後継者)ではなく庶長子(しょちょうし:非後継者の長男)と言う分家を立てる立場の人間と伝わります。
ただ実際は八重さん離婚されたからって廃嫡されたのかどうかは良く解らないので、頼朝公と関係が深かった事から当初は後継者だったけど義時公が亡く成る頃は継母と異母兄弟の存在が政治的に強かったのかも知れませんね。
頼朝公が亡くなった後の政治体制は暫く北条家と三浦家の共同運営的な様相を呈する事に成ります。
鎌倉殿三浦義村←スケベ設定の善政家
八重ガッキーと小栗義時の子供が生まれた時に三浦義村公がポイってガッキーに預けた子がいましたよね?
あの子が今後、北条家のバディに成り和田義盛公を殺す三浦泰村公です。
北条家と三浦家の同学年コンビ北条泰時公と三浦泰村公が初期の鎌倉幕府を引っ張って行く事になるのですが、頼朝公が亡くなってから北条泰時公は元の名前の源頼朝公由来の北条頼時の“頼”の字を捨ててしまい、泰時と改名し義兄弟分の泰村公の世代で過去どの武将も使って無かった“泰”の字を名に使用し始めます。この事は何かを示唆してそうですね。
源頼朝公、源頼家公、源範頼公等、源氏との決別でしょうか?
三浦泰村公は更に北条家とも対立して宝治合戦で滅亡しますが泰村公よりも半世紀前、この三浦家は源義朝公に大そう信頼されていたようです。
特にこの二人の信頼関係。
鎌倉殿源義朝「義澄っ👍!」
鎌倉殿三浦義澄「あざっす!」
この信頼関係で三浦家は頼朝公を支えているのでドラマの様に三浦義澄公が頼朝公に恐れ戦(おのの)く演出とは実際は違って頼朝公と一々謀議して命令を遂行していたのが三浦家と北条家と梶原家だったと思います。
でも義朝パッパが一番信頼していたのは頼朝公と違って実はこの人でした・・・
鎌倉殿上総広常「ぶぇぃぶぇぃ💨」
・・・頼朝さんや幕府の中核にいる梶原景時公に殺されちゃいましたけどね。
この人から没収した領地は和田家と千葉家と北条家が分与されているので実際は梶原サン単独犯な訳はなく、頼朝さんの独断でもなく北条家を筆頭に御家人の総意と言うか御家人の要求だった可能性すら有ります。
ですから北条家は上総広常公の暗殺事件の1年間の記録を破棄して残しておらず全てを死んだ梶原さんに責任転嫁していたのでしょうね。北条さんは首謀者の一人でしょう。
そんな訳でドラマの演出では上総サン誅殺を頼朝公主導で演出され何ともやりきれない内容でしたが凄まじい迫力が有りましたね。
鎌倉殿北条宗時鎌倉殿北条義時
開始早々の鎌倉殿の13人は無邪気な愛之助宗時お兄ちゃんが癒しに成り、小四郎君は非モテキャラでイジラレ倒し三谷演出で史実を端折った部分も有りましたがユーモラスな演出も多々有りホームドラマ的要素が見られて、余り史跡巡りとかしない方でも楽しめたんじゃないでしょうか?
とくに「ぶえい!」の下りとかですね。
吾妻鏡では武衛(ぶえい)将軍て頻繁に書かれてるせいで鎌倉殿の13人でネタにされた訳です。
鎌倉殿上総広常鎌倉殿源頼朝
「今日から皆ぶえいだよなぁ、ぶえい!」
・・・この回くらいまでギャグドラマ化してたのが段々とキナ臭くブラッシュUPされて来てドラマの迫力が増してきました。
それが前回のブログでも検証した上総広常公暗殺の話です。

個人的な感想としては史実や地域の伝承に沿ってる部分とそうでもない部分は有ったとしても上総サン辺りから三谷脚本が過去作に無い凄みを増して、比較するのは良くないかもしれませんが既に時代劇として藤沢周作・池波正太郎越え始めてると感じています。
この殺されちゃった上総サンをパッパが凄く頼りにしていたので、パッパは坂東武者達から“上総御曹司(かずさおんぞうし)”と呼ばれていました。実はパッパは実弟で木曽義仲公パッパの源義賢公より格下扱いをされていた風な状況だったのですが上総サンの御蔭でメキメキと頭角を現して行く事に成ったんですね。
その後、鎌倉郡に移住した様です。

——話をパッパの屋敷跡に戻します——

今回の冒頭①で話した通り、NHKの解説では源義朝公の屋敷を大庭家一族のいた高座郡寄りの亀谷(かめがやつ)邸跡の寿福寺だけを紹介していました。
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亀谷山 寿福金剛禅寺
鎌倉五山第三位 通称:寿福寺

この寿福寺は東日本の臨済宗寺院を束ねる鎌倉五山で第三位の寺格が有ります。
鎌倉五山の各自の概略はコンナ感じ・・・

第一位 巨福山 建長護国禅寺
けんちん汁発祥地、太田道灌公もここで学問学んだよ!紅葉メッチャ綺麗。文化財だらけ!
座禅会で本物のけんちん汁食べさせて貰えるよ!
好天なら半蔵坊権現から富士山見える絶景。
半蔵坊権現は天園ハイキングコース入口で横浜市まで山の尾根道の古道歩いて行けるよ~。

建長寺の紅葉⇨https://www.instagram.com/

第二位 瑞鹿山 円覚興聖禅寺
モンゴル軍と戦う事を決めて日本人守った北条時宗公の菩提寺だよ。紅葉メッチャ綺麗。



第三位 亀谷山 寿福金剛禅寺
今回紹介してる元は義朝パッパの御屋敷跡だよ!義朝パッパの正式な菩提寺だった勝長寿院に在った源実朝公の御墓が勝長寿院の荒廃→横須賀市芦名に移転後に寿福寺に移されて来てるよ!
政子サンのお墓も有るよ!
隣の英勝寺は太田道灌公の屋敷跡で東照宮も有るよ!。


第四位 金峰山 浄智寺

室町幕府時代に歴代の関東将軍である鎌倉公方が就任前に必ず滞在した寺院だよ。
緑の景色がとても綺麗な御寺だよ!この御寺の先から鎌倉城砦網遺構の残る登山道に入れるよ!



第五位 稲荷山 浄妙広利禅寺
元は足利家の鎌倉時代の邸宅跡だよ!真言宗の仏教草庵を北条政子サンが臨済宗に改宗して仏様祀ったよ。足利尊氏公の実弟の足利忠義公の墓所も有るよ!茶室で庭園見ながら和菓子食べれるよ!


さて、これ等の鎌倉五山には建長寺や円覚寺と言う臨済宗の大本山も含むのですが、それと京都の南禅寺が別格本山として設置されて臨済宗の寺院組織を管理していました。又この鎌倉五山の住職の任命権は征夷大将軍のみ執行出来た事からも寺格の高さが解るかと思います。
この任命権を鎌倉公方の足利持氏公がクジ引きで将軍に成った凶人将軍足利義教をスッ飛ばして鎌倉府で独自に任命したら鎌倉府と京都の幕府とで足利家の同族間戦争に成っちゃった程でした。
それはに関しては以前、禅林寺の紹介ブログで少し解説してます。
これ⤵

そんな征夷大将軍や鎌倉公坊が関わっていた由緒正しい寿福寺が建立される前に同地には義朝公の亀谷の館が存在しました。
義朝公は鎌倉郡の中でも三浦家の本拠地三浦郡に近い現在の逗子市沼間にも沼濱亭を持っていたので、恐らくどちらが本宅と言うよりは時期によって滞在する頻度が異なり晩年は亀谷に滞在する頻度が多かったと言うのが実情かと思います。
・・・この理由は義朝公の初期に領地の鎌倉郡と大庭家の領地の高座郡大庭御厨(おおばのみくりや)の今の藤沢市と鎌倉市の区界争いの諍(いさか)いが発生していたので、頼朝公は三浦義明公や岡崎義実公の本拠に近い三浦郡寄りの沼濱亭を当初は多用していたものの、大庭家が屈服しドラマに登場しない大庭景親公の実兄で自身の忠臣と成る大庭景義公が大庭家の当主に成ると鎌倉郡の中で高座郡に近い亀谷に住む頻度が高く成ったのかも知れません。
笹竜胆
笹竜胆紋:源氏
三つ引き両紋
三引両紋:三浦氏
三大文字紋
三大文字紋:大庭氏
位置関係を見て見ましょう。
義朝公邸址と城の配置
※クリックして画像拡大して下さい。
沼濱亭は一目瞭然で三浦氏の勢力圏内に所在する事が解りますね。
対して源頼朝公の時代には高座郡と鎌倉郡北部を治めていた大庭氏は、鎌倉ではなく高座郡の大庭城を本拠地に平清盛公政権下では長尾家や梶原家や俣野家等の周辺の一族を傘下に収めていました。
鎌倉郡の現在の鎌倉市街に三浦一族が食い込んできたのは正に、源義朝公の時代の義朝公と三浦氏による大庭家領地紛争によって割譲されているのかも知れませんね。
いずれにせよ大庭家の当主が大庭景義公に成り長尾家や俣野家が従えば亀谷の館に普通に住んでも危険が無く成るので、滞在の頻度が逗子の沼濱亭より鎌倉の亀谷邸の方にシフトして行ったと言う事も有ったかも知れませんね。
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上の写真は米軍池子基地内の池子遺跡群資料館の展示物ですが、逗子市は今でこそ池子が米軍基地が有ったり海水浴の別荘地や観光地的な場所と誤解している人もいますが、実は古墳時代から桜山古墳群と呼ばれる巨大古墳が有ったり、鉄器も生産されており比較的武士の根拠地として適した場所だった歴史も有ります。
織田信長公が政治的な要因で岐阜城と京都を行ったり来たりしてた為に時期によって滞在頻度が異なったのと当然同じ状況が有ったはずです。
・・・因(ちな)みに後述しますが、源頼朝公と義朝公の更に御先祖の源頼義公の館が大蔵幕府の位置に有りました。
下の地図は江戸時代の地形が未だ残る明治初期に帝国陸軍によって測量された“迅速測図”と言うもので農研機構さんがリリースしてるGoogleEarthに表示する事が出来るサービスです。
御家人の配置 久良岐のよし
※画像をクリックして拡大して見て下さい。
上の図は源義朝公の頃の御家人の配置図ですが、大蔵幕府の位置が昔の源頼義公の屋敷跡です。
千葉家は何箇所も屋敷が有りますが、これが時代の変遷を表しています。
現在では浄土宗の光明寺塔頭の蓮乗院は元は蓮乗寺と言う真言宗で千葉常胤公の菩提寺だった事が伝わり常胤公の持仏を祀っています。
蓮乗院が光明寺より先に当地に存在し後に浄土宗大本山が出来る過程で宗旨替えをして以後は光明寺塔頭寺院として機能していました。
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天照山 蓮乗院 

この蓮乗院や光明寺の直ぐ横の弁谷と呼ばれる谷戸に初期の千葉家の邸宅が有りました。
戦国時代には千葉家分家子孫の下総国印旛郡臼井城主の臼居家が外祖父に城の経営権を乗っ取られると鎌倉に逃げて来て、蓮乗院の前の道から伸びる小町大路の大町に移住し子孫は小田原北条家臣と成り、更に主家の北条家が豊臣秀吉に改易されてしまった際は士分を捨て名主に成り旧鎌倉郡野庭郷の野庭城一帯を北鎌倉の女性守護の縁切り寺として有名な東慶寺に寄進する形で開発権を得て今も野庭一帯と大町に其々の御子孫が健在でらっしゃいます。

もう一つ、扇谷にも千葉家の屋敷地が有ります。
扇谷の薬王寺は近くに千葉家の屋敷が有ったと伝承し、元は夜光寺と言う寺院で、その向かい側の谷戸には沢山の矢倉が存在しますが、この範囲が広大な旧境内と考えられ現在は私有地に成っている崖沿いに立派な矢倉が群在します。
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大乗山 薬王寺 
薬王寺も千葉家の宗旨と同じ様に元々の夜光寺の時代は真言宗でしたが、千葉家が日蓮宗に改宗した様にこちらも鎌倉時代中頃から日蓮宗に改宗しています。
江戸時代には駿河大納言徳川忠長公(織田信長公の妹の孫)の相模国における菩提寺として忠長公の奥方の織田昌子(織田信長公の孫)様によって大寺院として再興されました。更に伊予松山城主の蒲生忠知公の奥方の松壽院殿と御息女の梅嶺院殿の供養塔も存在し、徳川家と蒲生家の菩提寺の一つとして現在も存続しています。
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相馬次郎師常矢倉
この薬王寺の更に直ぐ東隣の谷戸もが千葉家の鎌倉幕府時代の屋敷跡と伝わり千葉常胤公の御子息の相馬師常公の矢倉が有ります。
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その背後の私有地山上には材木座の蓮乗院から移されたと思われる千葉常胤公の宝輪塔を祀る矢倉も現存しています。
材木座だけでなく扇谷に千葉家が屋敷を持ったのは正に源義朝公が扇谷に亀谷邸を設けたタイミングか、頼朝公が大蔵幕府を開いたタイミングと地域性から推測出来ますね。
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相馬天王(現:八坂神社) 
相馬家は千葉家の分家なので鎌倉時代には独自の屋敷を構えたらしく、それが小町大路の源義朝公亀谷邸址の寿福寺の隣に在る相馬邸址の相馬天王社と呼ばれた現在の八坂神社です。
材木座に話しを戻すと来迎寺は今は時宗ですが、元々山の上に観音堂が有り三浦義明公と多々良重春公と言う三浦家の頭領と一門武将の供養の為に源頼朝公が真言宗の能蔵寺として開きました。
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随我山 能蔵院 来迎寺 
三浦氏の本拠地の衣笠城近く大矢部の三浦義明邸址にも源頼朝公が義明公の菩提寺として満昌寺を開いている事からも状況的に三浦義明公の世代の鎌倉での三浦邸は他の御家人同様に先に発展していた小町大路(大町~材木座)側に存在し、その場所が来迎寺=能蔵寺の所在地だと比定出来るでしょう。
境内には三浦家臣団の宝輪塔が無数に現存し供養されています。
佐竹邸についても元々佐竹家の祖先の源義光公御本人の館だった事が伝わり材木座から少し北に行った大町の中でも昔は名越と呼ばた地域に所在しました。
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随我山 能蔵院 来迎寺 
鎌倉時代にもここは源義光公の直系子孫の佐竹氏が屋敷地として受け継ぎますが、佐竹義盛公に養子に入った関東管領上杉家の佐竹義憲公と佐竹家直系分家の入山佐竹家との間で争いが起きて佐竹家の殿様達が鎌倉に常時詰めなく成ると隠居した佐竹義盛公によって佐竹邸址には多福寺と言う寺院が開かれ、一度廃絶後に日蓮宗の多福山一乗院大宝寺として再興され今に至ります。
この様に千葉家一つとっても各武家の屋敷地も時代によって場所が変遷したり、三浦家や佐竹家の様に居館跡は寺院に変わったりしている訳ですが、これは源義朝公邸址の寿福寺や法勝寺の話しともそのまんま同じ当時の文化ですね。
もう一度鎌倉市街の迅速測図に戻りましょう。
御家人の配置 久良岐のよし
地図に現在の“鶴岡八幡宮の一ノ鳥居”、“元鶴岡八幡宮”、“荒居閻魔堂跡”が表示されていますよね?
義朝パッパと源頼朝公の御先祖の源頼義公の時代、実はこの一ノ鳥居~元鶴岡八幡宮~荒居閻魔堂の間には入江が存在しました。それ故(ゆえ)に元鶴岡八幡宮の別称が由比若宮で由比ヶ浜から海が繋がっていた名残が社名に残っている訳ですね。
後にこの地域は入江(頼義公時代)⇒湿地と砂丘(義朝公時代)⇒陸(鎌倉時代)と変化して材木座と呼ばれる様に成りました。恐らく完全に陸地化するには源頼朝公等が幕府を開いてから干拓や埋立で湿地と砂丘の地盤改良を行ったのかも知れませんね。
明治時代と鎌倉時代は全く地形が異なりますが、鎌倉時代と平安時代も大分と地形が違ったんですね。
迅速測図を見てみたいけれどGoogleEarthが良く解らない方は下のリンクからWeb版を御覧下さい。


まぁ、そんな義朝パッパの御屋敷に関しては2ヵ所存在したのですがドラマの中では大体の内容を端折(はしょ)って文字に起こすとコンナ感じの会話が有りました・・・
鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿北条義時
「頼朝公の御父君の義朝公の亀谷(かめがやつ)の館に御堂建てて義朝公の菩提を弔ってます」
「義朝公の住んでた亀谷に幕府を設置する様に取り次いで下さい」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿三浦岡崎義実
「承(うけたまわ)りました~、伝えときます~♨」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿源頼朝
「岡崎さんが御父上に倣(なら)って亀谷に幕府開きませんって言ってんですけど」
「どうしますアニキ(義兄)♂?」
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿北条義時
「家人(けにん)の言う事なんか聞いて一々決めてらんねぇ~よ(# ゚Д゚)ノシ!」
 (・・・配下に政治のイニシアティブ取らせる訳無ぇ~だろ!・・・)

——このやりとり史実では反対の展開です——

訂正すると史実でははコンナ感じ・・・
鎌倉殿源頼朝
「あのさぁ~皆聞いて!」
「僕はパッパを尊敬してるんだ・・・」
「パッパのお家が有った亀谷に僕も家(自宅兼幕府の役所)を作るよ!」
鎌倉殿上総広常鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿和田義盛
「はぁ?ぶえい坊ちゃん何言ってんのかな?」
「アンナ狭い場所に皆の屋敷確保出来ないよねぇ~却下!」
「ぶえいのパッパの御先祖の一番エライ人の屋敷在った場所の方が広いでちゅよ~?」
「京都育ちの、ぶえい坊ちゃん何も知らないんでちゅね~。」
鎌倉殿北条義時鎌倉殿源頼朝小
「義兄さん、諦めも肝心じゃん?」
  (主導権もへったくれも鼻から無いねぇ~なオイ)  
  (俺等は家臣じゃ無ぇ~よ出資者で賛同者なの!)
  (アンタは只の神輿だよ黙って担がれてろっての・・・)
鎌倉殿源頼朝小
「・・・皆、流石に知恵が利くね、頼もしい!」
「解ったよ、義実がパッパの為に亀谷に作ってくれた御寺を修理して大切にしよう!」
「幕府は御先祖の住んでた大蔵が広いからそこに作ろう!」
  (コイツ等、組織理解して無いから絶対に解らせが必要だな)
  (ちょっとガクブルさせて上下関係ちゃんとしとかないと幕府簡単にブッ壊れんぞコレ。)
まぁ~こんな感じの流れが史実で、源義朝公の邸宅跡の亀谷寺(今の金剛寿福禅寺、通称寿福寺の前身)の在る亀谷に政府を置きたいと言い出したのは頼朝さんで岡崎義実公が父親の供養をしてくれていた事には感謝していたんですね。
この出来事が吾妻鏡の治承四年十月七日の出来事としてザックリ書いて有ります。
コンナ感じ⤵

【吾妻鏡(吉川本)】
七日、丙戌、先奉遥拝鶴岡八幡宮給、次覧臨故左典厩之亀谷御𦾔跡給、即點當所、可被建御亭之由、雖有其沙汰、地形非廣、又岡崎平四郎義實、爲奉訪彼歿後、建一梵宇、仍被停其儀云々・・・

——口語訳で意訳するとこんな感じ——
鎌倉殿源頼朝小
陰暦1180年9月07日に頼朝公は❝元❞鶴岡八幡宮を遠くから拝んだよ~
そん次に今は亡き義朝パッパの亀谷にある旧御屋敷を見に行かれたんだけどさ~
その建ってた所に御自分の邸宅を作るって・・・そうするって事だったんだけど~
そこ土地が広くねぇ~のよ!
鎌倉殿三浦岡崎義実鎌倉殿源義朝
「成仏して下され」「沼濱に魂いるよ」
そんでもって三浦氏の岡崎の爺ちゃんがソコに御寺作って義朝パッパの供養をしてくれてたりした。
鎌倉殿源頼朝小
んだからソレ見て頼朝公が「そんなら御寺壊すなしぃ~オマエ等ぁ~」って言いだして・・・etc

——単語を解説すると更に面白い事も解ります——

丙戌
[ひのえいぬ=長月(ながつき)=陰暦9月=太陽暦9月下旬~11月初旬]
(たてまつる=される/なさる)
遥拝(ようはい=遠くから拝む)
鶴岡八幡宮
この話は長月07日。鶴岡八幡宮の前身の由比若宮つまり元鶴岡八幡宮から現在の境内地の小林郷北山に御心霊を遷座したのは12日の事。
当時は未だ現在地の小林郷の鶴岡八幡宮は存在して無いので名称も異なる。
建久ニ年(1191年)に火災による社殿焼失を機に改めて大規模な社殿が造営されている。
由比若宮/元鶴岡八幡宮は大庭景義公の所領の懐島、現在の茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮の御分霊を頼朝公の御先祖の源頼義公が勧進して開かれている。この鶴嶺八幡宮の御神霊は源頼義公が京都の石清水八幡宮護国寺から御分霊を勧進し開いていて、元鶴岡八幡宮の元宮なので本元宮と呼ばれていた。
この事実を知らない鶴岡八幡宮職員も今では多い。
頼朝公が元鶴岡八幡宮から北山に遷宮した社殿と御神体が焼失した為に改めて京都の石清水八幡宮護国寺から御分霊を勧進しており、頼朝公が長月7日に遥拝したのは材木座の元鶴岡八幡宮を指し小林郷北山の今の位置の八幡宮では無いから鶴岡八幡宮ではない。
よって吾妻鏡の筆者は本来、由比若宮/元鶴岡八幡宮とすべきだったので完全に誤記。
ついでに言うと石清水八幡宮護国寺と同じく鶴岡八幡宮は明治時代まで大規模な寺院施設が併設されており正式名称は鶴岡八幡宮寺であり、扁額も明治時代の廃仏毀釈まで鶴岡八幡宮寺と書いて有った。
(たまわる)
(らんじる=見る)
(いどむ)
臨覧(りんらん=視察)
※吉川本活版印刷では“覧臨”と掲載しているがこれは恐らく誤字、臨覧で単語として成立する。
左典厩[(さてんきゅう=左馬頭)=(左馬頭=源義朝公)]
亀谷(かめがやつ=鎌倉駅の西北一帯、扇谷の一部)
御𦾔跡(ごきゅうせき=御旧跡)=(御𦾔跡=旧邸宅)
(すなわち)
(たてる)
當所(とうしょ=当所)
(べき/べく/べし/よし)
(~らるる/られる)
可+被(~らるる+べく/べき/べし)
御亭(ごてい=御邸=邸宅=御館)
※御亭が転化して館主が御主人/御亭主と成り男尊女卑年功序列思想の儒教導入後の価値観で既婚男性の人称代名詞の御亭主/御主人が生まれた。和製漢字単語。
之由(~のよし)
(その/それ)
沙汰(さた=命令)
非廣(非広=ひろくあらず/ひろからず)
(~のため/~なす/なる/する/つくる)
歿(ぼつ/しぬ)
梵宇(ぼんう=仏堂)
(なお/しきり/よる/よって)
被停(とめらるる/とめられる) 
其儀(そのぎ=そのことを)
云々(うんぬん=etc)

・・・どうでしょうか?
書いてある鶴岡八幡宮と言う名前の記載が、全く当時のリアルタイムでは無く大分と後世の北条家の人物が書いているせいで整合性がなく、源頼朝公が元鶴岡八幡宮の話である事を理解していない事も解りますね~。
権威の有る人の著書だろうがなんだろうが、時代問わず出版物鵜呑みにしたら痛い目見るのは自分なのが解りますね。
吾妻鏡にしても、この通り原本や写本じゃない明治~昭和に出版された吾妻鏡活版印刷版ですら間違いが有る訳です。
前例主義と思い込みと先入観を捨てて危険個所と改善点を探すって大切ですよね。
小生のブログの読者は小生が口酸っぱく「コピペいかんよ~」と言ってる意味が、この吾妻鏡のほんの僅かな一文切り抜きだけでも落とし穴だらけで、出版社か吾妻鏡筆者の誤記だらけなのがお解かり頂けたでしょうか?
小生は校閲せずに先にブログ記事リリースして、後で自分で読みながら誤字脱字を修正して行くタイプなのですが、書籍の場合は修正できず垂れ流しですから責任重大ですよね。
まぁ~、そんな他人のミスは放っておいて肝心の文章の意味を読むと内容的には、どうやら亀谷の邸址に岡崎さんが亡くなった源頼朝公のお父さんの義朝さん供養の為に既に御寺を建てた御寺が有って、その場所がそもそも義朝さんの御屋敷だったと言うのが解りましたね~。
そこが今では寿福寺に成っている事は先に解説しましたよね?
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寿福寺の参道は長く、雰囲気が有ります。
残念な事に観光寺としては機能が年末年始に限定されているので、御本堂を直に拝む事は出来ず門の前から参拝するだけです。
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御寺と神社を参拝して廻って御朱印300件近く拝受してる中級御朱印マニアでもある歴史ヲタの小生の個人的意見としては、建物や施設を劣化させない一番の手段は人が活用し続ける事だと経験則で思っており参拝させないのは逆に境内の景観の保存手段としては逆効果だと思います。
しかし寿福寺には理由が有って数年前までご高齢の御住職が体調が優れず御朱印すら拝受するのは困難でした。
御朱印に関しては現在は御嬢さんが書置きの御朱印で対応して下さり拝受できます。
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余談ですが小生は鎌倉五山の寺院を1位~5位まで順番に拝受してみたり工夫してみました。
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御朱印の話から亀谷邸の話に戻すと、岡崎義実公が源頼朝公の父君のパッパの御屋敷の後に義朝パッパ供養の為に建てた亀谷寺と言ったらしい御寺の有った場所に、正治二年(1200年)北条政子様が寺院の宗旨を臨済宗に改宗させ大規模な寺院建築を造営しました。
岡崎義実公の若かった時代には未だ臨済宗は鎌倉では流行おらず、修験道や真言宗の密教を崇拝してた源氏の影響で真言宗全盛でしたから元は亀谷寺も真言宗だったかも知れませんね。

NHKは鎌倉の寿福寺だけを源義朝邸として解説していましたが、あくまでソレは大蔵幕府設立の回の話だったので、幕府の候補地として解説され同地が源義朝公邸址であると紹介したのでしょう。
実際には旧鎌倉郡域の逗子市沼間にもう1ヵ所、吾妻鏡に登場する沼濱亭が存在したので、そちらも合せて解説してあげていたらより親切だったかも知れませんね~?

さて、今回は吾妻鏡の記載の話をして、源義朝パッパの邸址は2ヵ所あるよ~とNHKの解説を捕捉して見ましたが、もし未だ吾妻鏡を読んだことが無い方は、誤字も多そうですが活版印刷で楷書の文字で起こされた吾妻鏡が国立国会図書館のデジタルコレクションで読む事が出来ます。
PCなら無料でPDF版ダウンロード出来ますし、ダウンロードしなくてもそのまま国立国会図書館のプラットホームでWeb版を読めるので興味有る人は下のリンクから読んで見て下さい。





源平盛衰記も有るのですが、こちらはWeb版からプリントアウトは出来るのですがPDFデータをダウンロードする事は出来ません。



このダウンロード出来るモノと出来ない物の匙加減がちょっと意味わからないですけどね(笑)。

皆さん、機会が有れば余り有名では無いけれど歴史偉人が関わったパワースポット巡りをしてみては如何でしょうか?
次回は冒頭の指摘②③で挙げた逗子市側の沼濱亭の地形と伝承を皆さんと観察してみたいと思います。
では皆さん、又、次の記事で御会いしましょう~♪
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鎌倉殿の13人、04月17日の上総公暗殺の回、御家人の反応はどこかのO塚家具とかO戸屋とかイニシャルがOの現代の会社でも創業家追い出しでたまにニュースに成ってたのと同じロジックでしたね。
今回先ずは史実の話はしないとして、当初は上総広常公が頼朝公陣営からの埋伏の毒として御家人に送り込まれている筈でした。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源阿野全成鎌倉殿源範頼鎌倉殿源義高

鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条実衣2鎌倉殿北条義時2鎌倉殿比企能員

鎌倉殿安達盛長鎌倉殿大江広元鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
        VS
鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿三浦岡崎義実

鎌倉殿和田義盛鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿土肥実平
最近だとO戸屋創業家vsCロワイドとかO塚家具の創業家vsKみこサン所みたいな感じですね~。
いつの時代も人間て進歩して無いんですね~。


この❝ひろゆき❞サンが言ってる人材処遇の話は歴史オタクなら結構知っていて私もちょくちょく人の種別で話すのですが、O塚家具の話のKみこサンの話でまさか出て来ると思いませんでした。
皆で仲良くする事なんか出来ないのかね?
人間のドロドロめんどくさっ!って思ってるので宝くじ当たったら三浦の休耕地買って家建てて毎日釣りと畑仕事して隠棲生活するか、学生に戻って奈良大学に入学して千田先生の弟子に成りたい久良岐のよし・・・
鎌倉殿源頼朝小鎌倉殿北条時政小
   ⇧将来邪魔に成る関係性 ⇧
鎌倉殿北条義時小鎌倉殿三浦義村小
創業者が最初は利用していたはずの幹部社員にいつのまにか依存し過ぎて業務を丸投げしてる内に、部下達が担ぐ神輿別にコレじゃなくても良いよね?と気が付いてしまう。
しかも上の状態から更にドラマでは上総広常公と梶原景時公が御家人側に埋伏の毒として送り込まれてグチャグチャしたダメな中小企業の主導権争いみたいなゲスい状態に成ってました。
鎌倉殿源頼朝
「んじゃ、任せたよ!」
     ⇩
「解りましたぁ~♪」
鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
関東平野と言う限られた土地のピザ🍕の再分配が必要だったんですかねぇ~。
結果の良し悪しは別にして、ドラマではこの時に上総広常公は既に殺される運命だった事に成っています。

余談ですが、この上総広常公の居城は千葉県の一之宮町、高藤山城と伝わります。
城の周りには神話の舞台の鵜羽神社と玉前神社が存在し、そちらは以前解説記事を書いた事が有りますので御興味が有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。

いつの時代、どこの国でも同じ人間の成長しない限界。
能力が衰えると人は防衛本能が強く成り猜疑心が強く成ってしまったり攻撃的になってしまうそうです。
それは、この二人も御互いにそうだったかも知れません。
織田信長明智光秀公
前線に出なくなった大将は部下とのパワーゲームに成ってしまい部下粛清か頭領が隠居して代替わりしてリフレッシュするか部下の下剋上や外部の乗っ取りが待っている。
上司や部下の感情や悩みが共感出来なく成っちゃったり、傍にいないと信頼関係も薄れてきちゃうのよね、人間様は。
まぁ~織田家の本能寺の変に関しては個人的には明智光秀個人の野心とか感情も有った上で当時の近衛前久も足利義昭も細川幽斎も本願寺も堺町衆も全てが関わってたと思いますが。
個人の器にもよるのだけど目標(ビジョン)が低く小さい人程、仲間を仲間と意識できなくなるのが早く自己保身や他人を陥れる事を始めるみたいですね。
ピザ🍕の分配にすると自分の食べる分を多くするには大きく分けて2つの方法が有ります。
①美味しいピザの生産性を皆で協力して向上させて少しでも増やすか1つのピザを大きくして皆で分ける量自体を増やす。
②今あるピザ🍕を少しでも多く食べたいから他人の取り分を横取りするか、自分以外の人間を消す。
決められた利益のピザ🍕を少しでも多く獲りたいと思う②の目標が小さく利己的な人がいると、ピザ🍕全体の出来栄えを考えて作る前に作った後で独占する為に人を陥れたり排除しようとするんですね。
この人⤵みたいにね。
鎌倉殿源義経
「義円、戦ガンバ!」 
(邪魔だから死ね・・・) 
    ⇕
「兄上の為に頑張る!」
(義経あんがとっ!)
鎌倉殿源義円
義経に⤴騙されて死んだ人。
世間では協調性と言う簡単な言葉で片付けるけれど、完成するピザを100点にしたいと思ってるリーダーや優秀な部下がいて、60点の能力しかない人間が多いと60点のピザで終わらせない人間に対して自分達が出来ない事をやるのは「協調性が無いよオマエ」と負の作用をする事もあるので難しいですね。
小生現実社会でこんな事が有りました。
自分が営業職なのに生産管理支援をやっていた時に生産効率を改善して1時間の生産数を例えば100個作れるようにしたんですね、すると生産管理の管理職からこう言われたんです・・・
「報告する生産数、1時間当たり80個で書いておいてね」
「皆でそういう事にしてるから」
これね~、会社の経営者が実力主義で査定したいと思ってても、皆が同じ様にお給料を貰えれば良いと言う負の協調性が働いてる会社なんですよね~、昔の会社の話だから言いますけど「クソ」ですよね。
こう言う事も有って人間は分かり合えないんだと思います。
鎌倉殿源頼朝
「上総56してね~」
    ⇩
「えぇっ・・・ラジャっ!」    
鎌倉殿梶原景時
「双六やりませんか?」
(皆(自分)の為に4ね)
    ⇩
「おっ強いね梶原君」
鎌倉殿上総広常
双六好きで⤴殺されちゃう。
ドラマを見ても見なくても、結果は皆さん御存知の通り。
今回の上総サンの暗殺動機に関してはリーダーが2人いるみたいな状態に成っちゃったからとか諸説有るので話すだけ無駄として、三谷幸喜本人がTV業界で政治ゲームを生きてるだけあり説得力ある話に成っていて良かったと思います。
ただ個人的には鎌倉の伝承を聞いて回ったり自分で古道を歩いて回ってる小生としては地理的に納得いかないのは殺害場所です。

鎌倉殿の13人の脚本では京都人が伝聞で書いた愚管抄の大蔵幕府が暗殺場所として記載が採用されていました。
大蔵幕府は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の辺りに~横浜国大付属中の手前くらいの辺りに存在しました。
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大蔵幕府𦾔跡
しかも現代の道で3kmも先の上総邸で刀洗って帰って来るとか余り現実的では無く意味不明ですよねぇ~?
当時の京都人が伝言ゲームで書いた愚管抄を無視すると鎌倉の伝承では十二所、明王院裏の谷戸の梶原景時邸に招いて双六をして暗殺した説と上総広常邸で双六をした殺害した説の二つが有ります。
これ恐らく2つの伝承が1つでセットに成っていて正解だと思います。
上総広常公の暗殺場所・・・梶原邸
上総家臣団の粛清場所・・・上総邸
相手の家に行って暗殺をすると言うのは余り現実的では有りませんねぇ~?
梶原景時公が単身で上総邸に乗り込んだら殺す事は出来ても先ず生きて帰れないでしょうし、これから逃げるのに上総邸の前の川で悠長(ゆうちょう)に太刀を洗ってる余裕は無いでしょう。
位置関係を見て見ましょう。
※クリック⤵して拡大して見て下さい。
大蔵幕府~上総邸
現実的な事を考えると大蔵幕府で殺害してわざわざ相手の家まで3km歩いて行って太刀を洗う事は無いので愚管抄は伝聞の間違いでしょう。
相手の家に乗り込んでも御覧の通り上総邸は山深く谷の1本道、梶原景時公が単身上総邸に乗り込んで暗殺を行ったとしても、上総家の家人が血眼(ちまなこ)に成って刀や弓を手にして追いかけて来るので自分の生存率自体が下がってしまいますね。
なので小生は現実的に梶原邸に呼び出して接待して飲みながら双六を行って殺害⇨その後に十二所の上総邸(後に朝比奈峠切通の入口に成る地域)へ武装した兵士を引き連れて襲撃し上総家の人間に対する掃討戦が行われたと考えるのが自然だと考えています。
そうすれば当然ながら上総邸の横の滑川の三郎の滝で梶原景時公と彼が率いた兵卒は血濡れた太刀や衣類と体の汚れを行水して落としたでしょう。十二所と呼ばれる地域の明王院と言う格の高い真言宗寺院に正対して左手に梶原景時公の邸宅が有ったと伝わり、梶原井戸と言う井戸が現存しています。

仮に梶原単独犯で大蔵幕府で暗殺を行ったとなると問題は雪ノ下地区~上総邸の在る十二所まで上総家の郎党を掃討しに行く訳ですから、数十人の武装兵を連れて行くので行軍する途上には畠山邸~足利邸~梶原邸~大江邸~上総邸と御家人の邸宅が並び守衛が立っている訳です。
物々しい数十人の武装兵の集団が大蔵幕府から3kmも上総邸まで歩けば直ぐに騒ぎに成る訳です。
2万の兵を束ねる上総邸の奉公人の人数に対して、武装しても梶原家の単独犯で兵士を引きて襲撃したとしても簡単では無いでしょう。しかし御家人やその家臣達が行軍を目撃した記録が残っていない。と、言うか北条家が編纂した吾妻鏡では上総広常公暗殺の年の記録が丸っと抜け落ちています。
でも上総家では生存者は逮捕されている事は解っているんですよ?逮捕者がいるなら普通に掃討戦が行われている訳です。
この行軍ルートにかんしては当時は真っ直ぐ3km便利に直進とは行きませんでした。
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歌之橋
当時は未だ渋川家によって源実朝公の時代に架橋された歌之橋は存在していませんし、朝比奈切通も開削されていませんでした。
太刀洗の方に行く道は十二所~朝比奈に抜ける熊野神社の古道抜けて鎌倉の外港として機能した六浦(昭和の埋め立てで消滅した湾)を目指すルートでした。上総家は房総半島が本拠地なので海に行き易い一番熊野神社に行き易く尚且つ比較的平坦な道で大蔵幕府に出仕出来る当時のセレブ住宅街の一番奥に居館を構えていた事が解ります。
大蔵幕府~上総邸2
下手すると当初は鎌倉の港は由比ヶ浜だけで良いと考えられていた所を上総家が六浦~熊野神社~大刀洗~浄妙寺地区のルートを開拓して六浦港の使用権を上総家が独占していたのだとしたら、その六浦の利用権共有を求める鎌倉御家人達や幕府との軋轢を生んだ一端何て説も有りかも知れませんねぇ~。
なんせ源実朝公が造成した築地(埋め立て地)港の和賀江島の使用を巡っても出入り口一つで裁判が起こされていた程なので港の利用権と言うのは大きな権益な訳です。

和賀江島は今では港の機能は失われ景勝地として地元民や観光客に広く愛される場所ですが、何の因果か鎌倉幕府にとって重要だった六浦も昭和に埋め立てられ消滅し港としての歴史を閉じました。
六浦港を上総家が支配していたとすれば後に千葉家が六浦に勢力を持っていた事にも説明が着きます。
港に通じる朝比奈切通と切通開削以前の熊野神社の古道を押える位置に上総家の邸宅が陣取っていますが、この道は室町時代にも重要だったので鎌倉市街地側で朝比奈切通の本来の道筋だった場所に存在する時宗の岩蔵山光触寺は、この古街道を往来する製塩業の商人達に信仰され御地蔵様に塩を備える風習が残っている他、室町時代の関東を支配する将軍だった鎌倉公方足利持氏公によって御本尊の御厨子が寄進されていたりします。
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岩蔵山 光触寺(こうそくじ)
時宗の開祖の一遍上人と御弟子サン達は交通の要所の出入口にある御堂や荒廃した寺院を復興して布教拠点化していた事が各寺院の場所と地理から解るので、この光触寺は往来する人々に休憩場所として提供されつつ布教の拠点にも成っていたのでしょう。
六浦の港は戦国時代の北条所領役帳に北条家に亡命し家臣化した上総国の大名真里谷武田家の所領として登場します。

武田殿
百廿七貫文 六浦木曽分
 自前々役無之 但御人数者可有其改

自前々役無之但御人数者可有其改の部分は現代口語訳にするとこんな感じです・・・
「前々から兵役は免除してたんだけど~人揃えて貰う事にルール変えっからヨロ~♪(亡命して来た盟友扱い止めるから君は家臣てことぉ~!)」
・・・みたいな感じです。この地名が木曽分と言うのは恐らく上総家が六浦を占有していたならが取り上げられた後、千葉家や木曽義高公へ再分配された名残りが地名の「木曽分」として残っているのでしょう。
鎌倉殿源義高鎌倉殿千葉常胤
木曽源氏の御曹司だった源義高公は誅殺されてしまい領地を引継ぐ人はいなかった訳ですが、一方で千葉家は六浦の権益を鎌倉時代にも維持しており、これが日蓮聖人の船中問答の舞台の一つである六浦山上行寺を千葉家臣富木胤継入道常忍公が日蓮さんと船に同乗して房総半島から任地の六浦に戻る際に教化されて真言宗から日蓮サンの法華経信仰に改宗し、入道号を日常と改めて市川市に在る日蓮宗大本山の中山法華経寺の前身と成った奥院の法華寺を自宅に開いた事が知られています。
木曽分の他にも鎌倉時代の御家人の所領の名残と思われる場所は鎌倉幕府設立から約400年も経過している1560年頃に検地をした北条所領役帳他に散見出来ます。

宗甫
八貫五百文 神奈川斉藤分

この宗甫は間宮宗甫と言う人物で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた人物です。他に横須賀市の西浦賀にも所領を持っていて子孫は江戸時代に三ツ沢壇林と呼ばれ学問所化していた法華宗の豊顕寺の檀家に多く残っています。
豊顕寺について興味の有る方は以下のリンクの記事を御覧下さい。

戦国時代の間宮宗甫の所領の一つとして登場する神奈川区斎藤分町ですが、斉藤と言えば元は木曽の源義仲公の父の源義賢公の忠臣だった家系ですが他にも箱根駅伝で有名な戸塚区不動坂には鎌倉幕府滅亡前後に斉藤家の所領に成っていた様でして大塔宮護良親王が殺害された際に妻女ひなつる姫と侍女が斉藤家に助けを求めて逃げて来た伝承が有ります。

保土ヶ谷区に今井兼平の領地だったとされる今井城址も寺院化と宅地化されて曲輪一つしか現存しませんが今井の地名も残っています。
巴御前も降伏して和田義盛公に継室として嫁ぎ三浦半島の三浦市初声和田に存在した和田城で余生を過ごしたと神奈川県では伝承します。

実は通説と異なり木曽源氏の家臣団は木曽義仲公の滅亡後に巴御前を含めて悉(ことごと)く降伏し幕府に帰順して源頼朝公の家臣に成っていた様です。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿巴御前
和田義盛公も和田合戦で滅亡したとされていますが実際は鎌倉時代には北条家の所領だった駿河国に室町時代に今川家重臣には三浦、由比、朝比奈と和田家や三浦一族所縁の苗字が多く登場します。
更に横浜市港北区の大倉山~太尾見晴の丘の大曾根城の麓にある長光寺は木曽源氏所縁の御寺として知れています。
鎌倉殿木曽義仲
この様に木曽源氏旧臣達は実際には義仲公の討死後には源頼朝公に取り立てられ港や陸路の要衝を押える場所に所領を得ていた状況証拠が地名や社寺の伝承に残っていたりします。
これらの場所は若(も)しかしたら、一部は源義高公の祖父に当たる木曽源氏の家祖の源義賢公や上総家の治めたと思われる六浦の様な場所を、源頼朝公によって木曽源氏滅亡後に木曽源氏旧臣や千葉家に再分配されているのかも知れませんね。
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話しを鎌倉時代の上総家に戻すと、上総広常公の御屋敷は六浦と鎌倉の往来に便利だった十二所の中の太刀洗いと呼ばれる地域に所在し、鎌倉市街地側から行くと三郎の滝の手前辺りと伝わります。
大蔵幕府~太刀洗に至るには、当時は二階堂川を避けて二階堂地区永福寺方面を経由して山を越えて梶原邸の方に出るか、滑川の南岸を通過し大江邸を通過し少し奥の光触寺の前を通って川沿いに十二所太刀洗の上総邸に行くルートしかありません。
山越えで梶原邸に戻るルートなら暗殺し汚れた太刀や服は自宅で洗濯するでしょう(笑)?
滑川南岸を行くなら梶原邸に戻るまでに遠回りになり源氏の菩提寺だった勝長寿院の僧侶達や北条家や大江家の家人や御家人本人に目撃されるか騒ぎに成るでしょう?でも何にも記録が無いんです。
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大江広元邸址
オカシイですよねぇ~?
わざわざ自宅をスルーして単独で上総邸に乗り込む筈も無ければ殺した相手の家の前で刀洗って帰って来る事も無い訳です。
なので梶原単独犯は成立しません。
普通に考えて彼の単独犯だとして畠山、足利、北条、大江が梶原家の軍勢を黙って通過させるでしょうか?
いずれにしても大江さんと言う幕臣の重鎮の家が最終的に有るのですが梶原公による単独犯なら上総公暗殺の事後の上総家の家人による山狩り状態で大騒ぎに成っている描写も無い。
逆に最初から軍勢で攻めても双六やる伝承は残らないし、そもそも騒ぎを大江家の人間だけなく途中の武将の家人も見聞きしていないのはオカシイ。
大江邸での記録が無く素通り出来たならそれはもう幕府公認の活動でしょう。
もう一つクッソ遠回りのルートで大町方面小町大路から名越に向かい北条家の名越邸の下の釈迦堂切通や逗子ハイライドに有った巡礼道(三浦道)を通過する経路が有ります。
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釈迦堂切通
公認ならば梶原単独にやらせる訳が無い、と言うか大軍勢を領国に抱える上総家家臣団を絶対に討ち漏らす事は許されないので、源頼朝公や北条家が加担してない訳が無いでしょう。
そこ等辺りが吾妻鏡の抜け落ちた1年の記録で、あくまで梶原家に罪を着せた後世の偽書の要素が吾妻鏡には幾つか有ると言う事でしょうし、愚管抄は詳しく知らない御家人の糟屋有季公の更に子供からの伝聞を書いたに過ぎない伝言ゲームの結果と言う事なのかも知れませんね。
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飯盛山 明王院 寛喜寺梶原景時公が通説通り暗殺を明王院の付近に有った梶原邸で行い、独自に私兵を率いて上総邸襲撃も出来た可能性が高いので梶原家の単独犯なら普通に伝承が一番整合性が高いでしょう。
相手の多さに相当苦労すると思いますが奇襲で相手は普段着、自分達は甲冑着込んでる訳ですから勝機は十分ですよね。
より確実なのは暗殺と掃討を分業して北条家と大江家が手っ取り早く幕府の兵を率いて上総邸を襲撃する方法です。
鎌倉殿梶原景時
 暗殺の実行犯⤴
 掃討戦実行犯⤵
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿大江広元
この構図が一番現実的だと思います。
暗殺と掃討を確実にするには有力御家人に共犯がいるなら役割を分業したら良いのです。
梶原サンが暗殺している内に、幕府の中枢の人間であり尚且つ上総邸を襲撃しても他の御家人に目撃されない場所に住んでる二人が手勢を率いて上総邸に駐在している上総家親族と家臣団を襲撃して抵抗する者は虐殺し、降伏した者の中で重要では無い者は追放するのが一番効率的で失敗も少ないでしょう。
吾妻鏡では上総サン暗殺の年の記録を削除しているので、大河ドラマとは正反対で北条家が共犯か主導していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
何時の時代も官僚や政治家にありそうな証拠隠蔽ですよね。
鎌倉時代に限らず江戸時代に成っても幕府が寺社に発給した領地保証の朱印状ですら寺名の誤記も有るし寛政重修諸家譜でも人名の誤記も有ります。
いずれにせよ、梶原単独犯の凶行で大蔵幕府で殺害し自邸に戻らず、上総邸の目の前の滑川上流まで太刀を洗いに行く訳がないですし、梶原家が単独で攻め込むと言うのは多くの御家人が黙殺する必要が有るので地理的に非現実的ですね。
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蝉も鳴かない空気の澄んだ2月、切り合いと怒号と阿鼻叫喚の悲鳴は鎌倉の谷間では遠くまで良く響きますよぉ~(笑)。
横浜~鎌倉の細長ぁ~い谷で繋がる谷戸地形はね、夜になり往時の様に静かな時間帯に成ると5km先の電車の走る音も谷間に反響して良く聞こえてくるんですよ~www。
最後に上総広常公の跡地に跡に開削された朝比奈切通と、切通開削以前の古道だった熊野神社の参道の写真を見て今日のブログを終えたいと思います~。
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最近は春に成ったのに関東では天気の悪い日が続きますが天気が良く成ったら天園ハイキングコースの古道や朝比奈峠~鎌倉駅までの散策を楽しんでみては如何でしょうか~?
コロナに感染しない様に対策をシッカリしつつ歴史散策や鎌倉観光楽しんで下さいねぇ~♪

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~。
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