歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:源頼朝

※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。
真名瀬海岸と裕次郎灯台
菜島と森戸大明神森戸海岸
 (神奈川の景勝50選)
仙元山と葉山マリーナ
【真名瀬】
【森戸海岸】
【仙元山】
【水質】  
【景色】
 真名瀬海岸★★
 森戸神社  
 森戸海岸 
 仙元山  
 葉山港  
【電車】  
※各所森戸神社から徒歩圏内。
 逗子駅~バス13分。
【  車  】  
 真名瀬海岸
 森戸神社 
 森戸海岸 
 仙元山  
 葉山港  
※仙元山周辺のみ駐車場無し。
【休憩】
 真名瀬海岸
 公衆トイレ有り。海の家無し。
 森戸海岸 
 公衆トイレ有り。海の家有り。
 仙元山  
 公衆トイレ有り。
 葉山港  
 公衆トイレ有り。海の家無し。 
※各所周辺一帯飲食店多数。
 宿泊施設も多数。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 全箇所徒歩でまわれるよ~。
 神奈川の景勝50選の一つだよ~◎

 源頼朝公も別荘置いた景勝地◎
 有名な葉山マリーナの近くだよ◎
 レストラン沢山有るよ◎
 森戸海岸は海の家有るよ◎
注意するpoint(•ω•)       
 仙元山は日没前に降りてね~。
 駐車場満車気を付けてね~。
 真名瀬と葉山小浜は海の家無し。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
“神奈川の景勝50選の一つ森戸の夕照”
森戸神社裏手や真名瀬から見える鳥居の島が源頼朝公の別荘が在った“名島(菜島)”で、手前の灯台が昭和の大スター石原裕次郎さん所縁(ゆかり)の“裕次郎灯台”。森戸神社や真名瀬海岸からは、その全てに加えて江ノ島と富士山も一望出来て夕焼けの海がとても美しい。
名島は鎌倉時代には森戸海岸と地続きだったが、砂岩の地層が波に削られ現代では硬い岩盤のみ残り島に成っており、現代では鳥居が立てられ観光客に神秘的な景色を見せてくれる。
真名瀬海岸は海の家も出店せず知名度が低いのに絶景なので、海水浴は隣の森戸海岸や一色海水浴場で楽しんでも是非にも風景を見に立ち寄りたい所。
 
森戸神社や真名瀬から歩いて行ける仙元山からは更に湘南の海岸線も良く見渡せるが、ビーチで遊ぶ格好では無理なガッツリ登山に成るので、海水浴シーズン以外に海での風景散歩と合わせて登山するのがオススメ。
 森戸神社は源頼朝公が伊豆国一之宮の延喜式内社である三嶋大社から御分霊を勧進して開かれた由緒正しい神社で、良く結婚式で神前式も行われる神社。
真名瀬~森戸海岸~葉山海岸にかけて飲食店と宿泊施設が沢山ありランチデートも楽しめる。
むろん、ディナータイムも良い店が沢山有るが中でも有名なラ・マーレは御店もロケーション良くオシャレで料理も美味しくオススメ♪
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※真名瀬海岸から裕次郎灯台と菜島(神奈川の景勝50選)
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※森戸大明神(三島大明神)
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※森戸海岸
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※仙元山からの眺望
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※葉山マリーナ
穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

燈明堂海岸と浦賀燈明堂
千代ヶ崎砲台
 (江戸幕府海防陣所跡)

【水質】
【景色】
【電車】
 浦賀駅~バス6分+徒歩9分。
 徒歩で36分
【  車  】
 駐車可能台数極少。
【休憩】
 史跡の為に公共トイレのみ。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 海が抜群に奇麗だよ~◎

 縁結びの西叶神社東叶神社が近い◎
注意するpoint(•ω•)       
 海の家は無いよ~。
 三浦東岸で夕陽は見えないよ~。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
海はピカ一奇麗!子連れの親子が浜辺で遊ぶのに最適だが、過去に公設海水浴場としての実績は無い。
東京湾の入口に存在している為に海水が市街地化の影響を受けておらず透明、更に砂岩と粉砕された貝殻で出来た砂浜は真っ白で美しい。ボぉ~っとしてるだけで幸せになる場所。
海岸の名前の由来は江戸幕府によって灯台として建設された浦賀燈明堂に由来する。燈明堂はその後も明治時代初期まで稼働していた。
西側岩場にワカメやヒジキが自生している。
付近は戦国時代からの要所で浦賀港の対岸には戦国時代の浦賀城址が有り、燈明堂海岸には江戸幕府によって要塞化された千代ヶ崎台場が建設され、明治に成ると千代ヶ崎砲台に近代化改修された。立地と縄張り的に戦国時代にも名前の残らない城塞だったのかも知れない。
浦賀港には縁結びで有名な源頼朝公と文覚上人が開いた東叶神社と西叶神社が有り、両方の神社を浦賀港を渡し船で海を渡って御参りすると“縁結び”の御利益が有ると若者に人気。
東叶神社西叶神社と渡船のリンク⤵️
東叶神社の山が浦賀城址で、西側の燈明堂側には江戸幕府の浦賀奉行所が存在した。
燈明堂沖の海獺島(あしかじま)は徳川埋蔵金伝説が有り、沈没船に幕府の蓄財が満載されていたらしい。
海獺島の名前の由来は、海水の奇麗な一帯には明治時代まで海驢(あしか)が生息していた事に由来し一帯の海が自然豊かな漁場だった歴史も垣間見える。
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※燈明堂海岸
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※浦賀燈明堂跡
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千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
※千代ヵ崎砲台跡
穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
mixiチェック

「自粛やぁ~めた!」
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・・・で、車で30分の近くの海に潮風に当たりに行って来た。
三ヶ月前から中国から情報共有されてたし、中国反省してからの対応は参考に成った。中国から3月初旬には大量の検査キットや医療用具の提供も有った。
そもそも武漢肺炎爆発感染開始直後に上海の医療先進チームが100人編成で武漢入りした際の装備の不備で全員感染し壊滅した事実も、外務省から厚生労働省に情報共有されなかったのかダイヤモンドプリンセスの検疫に活かされてもおらず、厚生労働省と政府の相談役の有識者は自分達の方法に拘り全て後手後手に回り、現場の職員は感染リスクにさらされた。
台湾のサーズの経験活かした中国からの感染者流入阻止と感染者隔離と防疫も、1月初頭から良い御手本に成っていたにも関わらず、それも模倣出来なかった。

全て無視して対応が3ヶ月遅れたのは政府の責任。三蜜回避要請も1ヵ月の約束だったはず。
自営業の連中はどんどん倒産してる。

「阿呆(アホ)らしい」

スーパーに親子連れで買物来てて、あれだけ過密してて皆で商品べたべた触って三蜜回避も外出自粛も無ぇ~よな?
伊勢佐木長者町や曙町の性風俗店は普通に営業黙認してるよな?
黒岩神奈川県知事、林文子市長?
なんで真面目な洋食屋さんや居酒屋がダメで、濃厚接触どころか直接粘膜擦れ合う淫靡な接触でヤクザの資金源で最凶最悪の性風俗店が営業してるのを実名公表しないんですかね?

あ~御二人とも性風俗の常連客なんでしょうか?

性風俗に事実上の自粛無用の営業公認する黒岩知事と林市長。
約束守らないし、国民の生活守らないし、日本企業守らない政府。
特によくいる実力不足だけど自己顕示欲が強い“苛めっ子優等生”タイプの西村大臣の大阪府知事に対するマウント。
くだらねぇ~なぁっ、エライさん方!
末端の公務員と県民の事考えてなさそうだ。

「だから自粛やぁ~めた(笑)!」
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うひゃ~♪
人のほとんどいない海って気持ち良ぃ~(笑)!

どこの会社にもいそうな有能な後輩を潰しにかかる無能上司みたいな西村ってオッサンにクサクサしても意味ないし、安倍総理も約束と違う“緊急事態宣言延長”とか言い出したから、もう自分なりにしていた三蜜回避の為の自粛の御願い聞くも止めて飲食店にも行く事にした♪
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うぉ~!焼き鳥美味ぇ~(笑)♪
※店は後で紹介する。もろ三蜜♡で食べる立ち食いの御店!

感染源特定出来ない状況にまで事態が悪化してるのに、外出自由の現状で外出自粛要請は意味が無い。
一番ダメなのは電車バス通勤を禁止しない事。
もう手と手、頭髪と頭髪で間接接触も直接接触もしまくり!

でも庶民の小生がそんな事を考えても政治家じゃないから仕方ないもんね(笑)。
身の回りにいる“男性のバブル世代や団塊世代”に言っても・・・
「政府より偉いと思ってるの?」
「自分が政治家に成れば?」
・・・とか、民主主義の「み」の字も自覚してない自分達が国家運営を委託する人間を決める国家運営に関わってる一員と言う自覚が丸出ない、無責任な発言しか聞かなかった。

てなわけで、なんかクサクサした気分を「パっと!」晴れやかにしたい気分に気持ちの良い青空、三密回避に山歩き行くには雨翌日の泥濘(ぬかるみ)で無理なので海に行ってきた・・・
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浦賀燈明堂(とうみょうどう)
これどこよ?と歴史に興味ない人は思うだろうけど、歴史的に重要な場所で有りメチャメチャ奇麗な場所。
写真の右上を見ると和風の建物が見えるだろうか?それが復元された江戸時代の“灯台”なんだな。
浦賀城周辺 久良岐のよし
実はそこ、江戸時代初期はおろか平安時代から重要視された浦賀港の入り口で、岩礁が有るので慶安元年(1648年)に江戸幕府の命令で築かれた日本最初期の灯台で、近代の明治五年(1872年)まで稼働していた施設なんだな。
そして戦国時代には三浦水軍の重要拠点として浦賀港の入口東側の東叶神社の丘陵が城塞化され、神奈川県では有名な浦賀城が築かれ東京湾防衛を担った。
北条家臣間宮一族で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた間宮宗甫公、そして平安以来の三浦郡領主の三浦氏の分家である横須賀氏が在番した水軍拠点の城だった。
城主の横須賀氏は元は鎌倉武士として源頼朝公の最大の協力者だった三浦義澄(よしずみ)公の支配した三浦一族の子孫で、三浦本家が滅亡して分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を次いで室町時代に大名に返り咲くと横須賀氏も重要視され、三浦氏の戦国大名として最後の武将と成った新井城主三浦義意(よしおき)公の母君が横須賀秀連公の御息女だったりする。
つまり、この横須賀秀連公が北条氏綱公が相模を統一した頃の横須賀の浦賀城主で、間宮宗甫公は横須賀氏の目付(副将兼監視役)的な意味で配置されたのだろう。
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間宮宗甫公の宗甫は名前では無く入道号であり仏門に出家した法名だ。
1560年迄の領地も“北条所領役帳”に記載が有る。
八貫五百文 神奈川斎藤分
六貫文   鎌倉紺屋分
弐捨貫文  御蔵出し
この鎌倉紺屋分と言うのは鎌倉を支配した本光院殿(北条為昌)の死後に、その遺領が再分配された当時の軍団編成が“本光院殿衆=鎌倉領”だったから所領役帳を写本した人物が誤認して“鎌倉”の注釈を入れたのだろう。
小机領、神奈川領と似た様な編成由来だと思われる。
そもそも現存しない原本には各所領の郡名は書き記してなかった筈で、証拠に別の写本とは郡名の違う場所が有る。
間宮本家の間宮康俊公の所領に富屋とあるが、これの郡名が各写本で異なる。今の坂戸市戸宮としている学者さんもいるが恐らく違う。間宮家所縁の神奈川区に実は富屋は今も存在する。実はJR東神奈川駅一帯がそもそも富屋町で、今はだいぶ狭い範囲になり安土桃山時代か江戸時代には既に神奈川の名の方が有名に成り江戸時代に写本した連中が神奈川区富屋=そもそもの神奈川宿周辺に戦国時代今より大きく広がっていた富屋町を辿る事が出来なかったので、同時期に検地された埼玉県方面の中に戸宮の名を見つけて当て込んでしまったんじゃないだろうか?
学者さんが根拠にしているのは、その検地された時期だけで、同時期に離れた富屋の検地がされていてもおかしくない。寧ろ京急神奈川駅一帯の権現山城の合戦に間宮家が籠城側として参戦してる事も富屋は神奈川区の富屋と考えた方が極々自然だったりする。
権現山合戦を書いた記事⤴️
紺屋の地名で他に間宮家に所縁の有る場所は鎌倉市には無いが旧本光院殿衆の与力所領は三浦には沢山ある。宗甫公は氏康公の直属に成る以前は或いは本光院殿衆だったのかも知れない。
三浦半島の東岸は西浦賀の他にも不入斗一帯が間宮本家の所領で、杉田の間宮家は走水で里見水軍を一網打尽にし里見の軍船を多数滷獲(ろかく:乗っ取る)に成功した際に不運にも間宮常信公が討死にしている。浦賀の紺屋を除いて走水防衛を担う出撃拠点が見当たらない。
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斎藤分町と言うのは六角橋商店街で有名な近所の一帯だな。小生は学生時代に交通違反点数累積の1ヵ月免停で違反者講習を受けに行ったのも六角橋の斎藤分町側だった(笑)。
ところで間宮宗甫の宗甫と言う法名だが・・・
戦国時代の北条家臣団は多くは主家北条家の宗旨が曹洞宗だった事から、一般的に当時は臨済宗と一緒に“禅宗”で一括りにされていた禅宗曹洞派の寺院で学問や禅の精神を学び、入道号に臨済宗大徳寺系の“宗〇”と大徳寺で修業した主家の創始者である北条早雲(実名:伊勢盛時 入道号:宗瑞)に倣(なら)って師僧から“宗”の字を貰って法名を名乗る事が多かった。
当然ながら地元の由緒ある臨済宗の御寺が菩提寺だったり自分の領地内に在ったりすると“道〇”と臨済宗系の法名を貰っている人も多くいた。
それ以外にも千葉家臣団系や武蔵国南部を拠点にした武士は日蓮宗系の“日〇”と名乗る武将も多かった。
面白い事に、北条家臣団は禅宗で学びながらそれぞれの菩提寺の宗旨でも法名を貰っていた様で、戒名には禅宗系と日蓮宗系のMIX戒名(笑)も多く見られる。
例えば間宮宗甫公の一世代後の間宮家の同族でも北条氏康公直臣として横浜市磯子区杉田一帯を治め小田原水尾城代を務めた間宮信繁公の戒名が「法種院殿“道因”“日縁”大居士」と臨済系の道〇と日蓮宗系の日〇の両方が入っている。
これは簡単に説明がつく。
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霊桐山 東漸寺(臨済宗関東十刹の1つ)

寺領の陣屋に臨済宗の関東の十大道場の一つである東漸寺が存在したので、そこで平素は禅の修行をしたから師僧から“道因”の入道号を与えられたのだろう。
そして“日縁”の法名は・・・
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牛頭山 妙法寺
・・・同じ杉田に存在する実家の菩提寺である妙法寺が日蓮宗だったので、亡くなった際に日蓮宗の法名も加えて戒名の法種院殿道因日縁大居士に成っている事が判る。
日蓮宗の多い千葉家臣団の遺臣の末裔である房総半島の武将達も間宮信繁公と同じ様に鎌倉時代以来の日蓮宗系の日〇+臨済宗系の道〇の法名を持つ武将が多いのも同じ理由。

室町時代を通じて北条家は浄土真宗と敵対する足利幕府の方針に従っていたので、足利義明の将軍就任以前は浄土真宗とは敵対していたので、先ず、安土桃山時代になるまで浄土真宗に帰依している武将はいなかった。
間宮家でも豊臣秀吉による北条家改易後に徳川家臣となった間宮綱信公が氷取沢の寶勝寺を禅宗から浄土真宗に復興開基したりしているのは、正にその理由で徳川家康公の重臣である本多正信公が近くの玉縄城主に成り影響を強く受けたからだろう。本多家が没落すると今度は自分の領地の荒寺を徳川家の宗旨の浄土宗に改宗して復興開基した所が多い。

東漸寺と妙法寺の紹介記事は以前書いているので、御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵


鎌倉時代に話を戻す。
源頼朝公と文覚上人は真言宗の密教と山岳信仰の修験道としての修行に造詣が深く、伊勢原市の大山や富士山を登って富士山の火口を一周する修行をしたりしている。
現代の様な登山靴も衣類も何にも装備がない時代に・・・
鉄人すぎる。
それ以外に二人は法華経を大切にしていた様で、頼朝公の御廟所も法華堂だったりする。
その後。源頼朝公の死を境に衰退しする。その頃に成ると源頼朝公の忠臣だった熊谷直実公や土肥実平公は法華経と阿弥陀如来を大切にする法然上人に帰依して、二人はそれぞれ浄土宗の僧侶に成ったり浄土宗の寺院に仏像を寄贈したりと支援を行っているが、二人を含めた源家の忠臣は鎌倉幕府を牛耳った北条家に政治的に干される。
恐らく、鎌倉で法然上人と弟子の親鸞上人が北条家から迫害されたのは武士同士の信仰的な結束とか政治的な結び付きが直結したのだと思う。
鎌倉幕府の執権と成っていた北条家が京都の藤原氏と組むと、藤原家が影響を及ぼしていた天台宗系の禅宗臨済宗を北条家が導入し、旧頼朝公の古参遺臣派と親北条派の政治的衝突に巻き込まれ熊谷家や土肥家と関係の深い法然上人の浄土宗の寺院が鎌倉で焼討された時期が有ったのだろう。
その後、執権の北条家が導入した臨済宗に宗旨替えをする武士が多く成り、その武士達が支援した寺院も臨済宗が多く成った。
だから神奈川県域の街道沿いや海沿いの早くから開けた場所だった寺院は臨済宗や元臨済宗が多く、杉田間宮家が支配した屛風ヶ浦辺りにも篁修寺や林光寺と言った臨済宗寺院が残っている。
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鳳林山 篁修寺KIMG6145
晴峯山 林香寺この二ヶ寺は北条家分家の名越北条家の丸に三ッ鱗紋の家紋を今も寺紋として使用しており、東漸寺の末寺として開かれた歴史が有る。
丸に三ツ鱗紋
一帯を鎌倉時代まで支配していた名越北条家の北条宗長公が、天台宗だった東漸寺を建長寺の末寺として再興したので、東漸寺から北条家の三ッ鱗紋を引き継いだ事も解かる。
因みに東漸寺の方はと言うと・・・
CIMG6785徳川葵紋
徳川家から葵の紋の使用を許されているので、現代では名越北条家より権威の有る葵の紋を使用している(笑)。
現代では鎌倉五山の第五位に列せられている東日本で5番目の格式を持つ臨済宗の浄妙寺・・・
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実はここも元は真言宗の大寺院だった。
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浄妙寺は足利家の鎌倉幕府征夷大将軍の家臣時代の居宅地であり鎌倉の菩提寺で、室町幕府初代将軍足利尊氏公の御舎弟(弟)である足利直義公の菩提寺だったりする。

三浦半島の浦賀湊に話に戻す・・・

源頼朝公御存命の平安末期以来の在地武士は真言系宗派を信仰する一族が多かった。だから三浦一族の拠点には真言宗寺院や元真言宗の御寺が多い。一部、天台宗の寺院も現存したり元は天台宗だった場所も多い。
鎌倉時代の三浦本家の学問所だった大善寺。
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金峯山 不動院 大善寺
ここは奈良時代に行基大僧正によって不動明王と蔵王権現が祀られて寺院の前身が出来て、後に真言宗の寺となり衣笠山が平安末期に三浦一族の居城となり衣笠城内に組み込まれると三浦家の学問所として一時は大いに繁栄したそうだ。戦国時代に三浦半島が小田原城主北条氏綱公の勢力下に入ってからは曹洞宗寺院に改宗したが、曹洞宗に成ってからも護摩壇が御堂に残されており真言宗時代の御不動様の護摩焚きを現在も行っていたりする。
神奈川県域にも弘法大師つまり空海和尚が布教活動に来られていたので比較的天台宗より真言宗が平安時代末期までの関東では勢力が強かったようだ。又、頼朝公の源氏が熱心な密教的要素の強い修験道の信者だった事もあり、真言宗と天台宗が残る原因に成ったのかも知れない。
更に古い時代には関東一円には法相宗の寺院も有った様だ。
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梅花山 成就院(現在の寺号)
(開基当時:曲田山 帶行寺→改宗後:梅花山 南無佛院 成就坊)
又、三浦半島から横浜に話を戻すが、港南区笹下の間宮家の居城笹下城跡に在る成就院は、現在は浄土真宗高田派だが平安時代の早い時代には法相宗だった事が書かれていたりする。そして文覚上人が源頼朝公の戦勝祈願の護摩焚を行ったと新編武蔵風土記稿に書かれている事からも鎌倉時代の頼朝公の時代には文覚上人の真言宗に一時期属していた事が判る。
そして例によって頼朝公が暗殺されて後に荒廃し、後に親鸞上人が笹下に布教に来た時期に浄土真宗に改宗し蓮如上人によって曲田山帶行寺から浄土真宗の御坊(ごぼう)として“成就坊”に改められたと伝わる。

成就院も以前記事を書いているのでコレ⤴御興味有れば御覧ください。

因みに、さんざん登場した文覚上人・・・
源頼朝公と親友だった真言宗系の密教修験道の有名な“御坊様”だった文覚上人が開いたのが浦賀湊(みなと)の入口を守る東と西の叶神社だ。
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叶神社(西)
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叶神社(東)
この2社は実にロマンが有り、2社を隔てる浦賀港の渡船に乗って両方御参りすると縁結び祈願が成就すると言う。因(ちな)みに小生は未だ、船で御参りした事が無い。

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ここが渡船の乗り場で、海に治策見えているのが赤色の船が渡船。
機会が有ったら好きな女性を連れて来て一緒に御参りしようかしら(笑)?
この神社は西が先だ東が先だと下らない事を推論する“御朱印バカ”がいるが、そもそも開いた文覚上人が僧侶で今でこそ神社だがそもそも神社じゃない。
神仏混交の八幡宮として京都石清水八幡宮から勧進された八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命の御神霊を御祀りしている真言密教系修験の聖地だった訳だ。

国土交通省水管理保全局が判りやすいブログを書いてくれているので、それを見ると一目瞭然だと思う。
そもそも石清水八幡宮は湧水の聖地であり、眼下には江戸時代まで巨大な巨椋池と言う湖が広り淀川や宇治川と言う水害を起こす大河川が流れていたので治水の神様として、それらを見下ろす男山に神様が遷宮された訳だ。しかも修験道の聖地として、仏教の僧侶が得た神託によって筥崎宮から遷宮された。
そして古代から存在する神社である延喜式内社の沿岸部における立地はは湾の最深部、湾の入口を守る左右の丘や岬の先端に存在する。
 
それはコレ⤴今年の初春の頃に書いた上総国一之宮の玉前神社の記事を読んで頂ければ納得して貰えると思う。
叶神社の主祭神は石清水神社から勧進された応神天皇=八幡大菩薩で破魔の神様であり水上交通つまり航行と治水の神様であり仏様だ。それらの歴史事実を踏まえて再度、叶神社の位置関係を見ると・・・
浦賀城周辺 久良岐のよし
延喜式内社や本来の神様の役割を熟知されていた御二人らしい叶神社の配置である事が理解できる。
・・・だから叶神社は当初から軍港を鎮護する御神威を期待されて浦賀湊の入口、左右の高台に勧進された事が推測できる。
だから西が先だ東が先だ言ってる輩は、そもそもの‟石清水八幡宮の歴史や地形からして理解していない”訳だ。
どっちが先かと言われたら、恐らく同時に開かれたはずだ。そして東叶神社の方が歴史が浅いと誤認される理由は恐らく、佐原三浦家が室町時代に大名化して鎌倉公方足利持氏公の与力となり房総半島の犬懸上杉家と戦った事や、その後は足利持氏公と大庭城主の扇谷上杉氏定公を裏切って山内上杉家に付いたりと、房総半島方面の勢力に備える為に東叶神社の本殿なり本堂成りが元々在ったであろう裏山の頂上に浦賀城を築いた際に、参道の中腹まで神社が移し降ろされたんじゃなかろうかと小生は個人的に推測している。
それが証拠に城が築城されて北条家の統治下でも城の鎮守として奥院は山頂に祀られたままで現在に成っても頂上に奥院が残っている。
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石段の規模を見るに、もう少し大きい御社が当初は存在したんじゃないかと思う。
ここは東京湾と浦賀港を守る城だっただけあり眺望も良い。
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実はこの写真から見えている対岸の岬の先端の場所が、冒頭の潮風を浴びに行った燈明堂海岸だったりする。この写真を見れば、燈明堂海岸が正に灯台を築く必要性の高い地形だった事が判る。
・・・で、ここで・・・やぁ~っと!普通の休日雑記に戻る(笑)。
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はぁ~♪白い砂浜最高Da~Yo~ねぇ~(笑)!
三蜜?馬鹿じゃないの(笑)?
何で人のいる場所に態々(わざわざ)行くの?
外出自粛?何でスーパーに友達や家族で超濃厚接触しながら行くの?
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電車通勤しちゃダメじゃん!車通勤しなよ!
車通勤させない会社は在宅労働させろよな?従業員が感染したら経営者の責任だからな?
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めちゃくちゃ気持ちいィ~人の略いない海ィ~♡
もう、あとは自分の奥さんと二人だったら最高なのに(未婚)!
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泳いでる人が一人だけいた(笑)。
 
・・・とか思った瞬間に爽やかだけど少し御腹空いてきて移動しおうと思った。

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一応、これが復元された燈明堂。
周りに木が生い茂ってしまったので今は灯台の役割は果たせない。
この海岸の裏山は近代に浦賀造船所と横須賀鎮守府を守る砲台要塞が築かれた場所だったりする。
千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
千代ヶ崎砲台跡保存状態は極めて良いものの、残念ながら現在は非公開で鉄錠門で封鎖され入れない。でも新型肺炎が終息したら横須賀市役所の公園管理してる部署に問い合わせれば、走水の御所ヶ崎砲台と同じで猿島ボランティアガイドの人が引率するツアーを組んで貰えるはず。
横須賀市長に成った上地雄輔クンの御父上、聞いた話だと浦賀奉行所も史跡として復興して神奈川県域の中高生の歴史教材に活用する計画とか。実に素晴らしい!
頑張ってくだされや~。
ところで小生、この千代ヶ崎砲台の地形を見て・・・
「あ~、これ城跡だわ」
・・・と速攻思いました。浦賀城と左右で港を守る名も無い要塞として戦国時代に整備されたんじゃないかな?と思ったんですが、御城ファンの皆さん、この構造体見てどう思います?
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さて、美しい燈明堂海岸で西村大臣の屑っぷりと加藤厚労大臣の対応遅れまくり無能ぶりにクサクサイライラしてた気持ちも横須賀だけに「スカっ!」と潮風で吹っ飛び(笑)・・・
自民党にはまだ河野防衛大臣や小野寺前防衛大臣やら、最近、総理に痺れを切らしたか覚醒されつつある岸田さん等の逸材がいる事を思い出し、何となく良い気分転換には成った。
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浜辺の草花も奇麗だったしね~♪
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本当、来て良かったよ。
東京も浜離宮恩賜庭園とか国立科学博物館付属自然教育園とか新宿御苑とか、今だからこそ開放して事前申請、2m以上離れて歩く事、ベンチに座らない事、とか規制かけて東京都民にガス抜きさせりゃ~良いんだ。
まぁ~我々庶民の声は自民党のド偉い、大阪府知事にマウントポジションとりたがる様な大臣先生様や10万円欲しい奴はくれてやるから手を挙げろよ的な感覚の富豪先生様には伝わらないだろう。
本当、今回は公明党の山口代表が良くぞガンっと言って下さったと思うよ。
さて、奇麗な海も見たし・・・
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次は浦賀港の対岸、東叶神社に正月以来の御参りに移動。
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東叶神社に到着、先に散々解説はしたからもう書かない(笑)。
本殿前で御参りしてから社務所奥の裏っ側に移動・・・
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実はこの弁天様が凄い厄除けの御利益が有って有名。
小生は毎年、年始の御参りで各神社で厄除けの御願いもするのだけど、今年は去年の受験した資格の合格の御願いばっかりして、余り厄除け熱心にお願いしなかったり、例年みたいに三賀日に沢山の神社仏閣を御参りして廻らなかった・・・
そしてら、1月に交通事故起こしたり、2月に右足首酷い捻挫して靭帯損傷して内出血するわ~、何回も風邪引いたり・・・
ん?あれ、もしかして東京に電車通勤してたから新型肺炎だったんだろうか?
でも一応、医者の言う通り4日間自宅待機して熱計測したら熱下がったし咳も出なかったしとか。
極め付きは今回の新型肺炎のせいで“失業するかも知れない(笑)”ピンチ(笑)!でもダメな時は何をやっても駄目なのよね~ん。
出来る事をやりながら、楽しまないとね♪
そんな訳で厄除けに東叶神社に今年2回目の御参りに来た。社務所で弁天様の厄除けの御守りを購入して、そんなこんな、今年の出来事を奥さんに話したら・・・
「あ~それじゃ是非!弁天様の矢倉の中に入って良いですから中で御参りして行って下さい」
「中に入って写真も撮影して良いですよ!」
「御利益ありますし、白い光も一緒に映るらしいですよ~」
・・・と、とっても親切に優しく明るく対応して下さった(笑)。
既に奥さんの対応が人の不幸にそっと寄り添いピンチを乗り越える為に元気に一歩踏み出す元気を下さる八幡様と弁天様みたいだ(笑)。
そんな訳で中に入らせて頂いて改めて参拝。
弁天信仰の歴史も少し知ってる小生、この頭が女神様胴体が蛇の神様を見てピンと来た・・・
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「あ~正しい弁天信仰の歴史がある」
「頼朝さんの頃から湧水の聖地だったんだな」
「だから、ここに八幡大菩薩が勧進されて今の叶神社が存在するんだな」
・・・実は現在は稲荷神社と呼ばれるところに祀られる神様の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が、元はこの女性の顔に蛇の胴体の神様だったんだな。関東での弁天信仰の流行は、欽明天皇の勅願所聖地だった江ノ島の洞窟の中に祀られている宇迦之御魂神に弁天様を同一視して習合し、それまで建物の無かった江ノ島に神社の建物を奉納して八臂弁財天様を御祀りした事で東日本武士文化の弁天信仰が湧水の聖地を守っていたり洞窟の中に祀られたこの蛇の女神様=弁天様=インドのサラスバティ神と同一視されて行った訳だ。
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江ノ島も海の中の島の洞窟に奇跡的に淡水の湧水の池が有る。
この池の御蔭で鎌倉公方足利成氏公が家臣の山内上杉家と扇谷上杉家に謀反され攻められた際に江ノ島を城塞化して相模国と北関東の武将の援軍を得て籠城し、豊富な水と堅固な地形を利用して両上杉家を撃退した歴史が有る。
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正に戦勝祈願の聖地な訳だ。
頼朝公は、この江ノ島の岩屋(洞窟)に籠って戦勝祈願をし、伊勢平氏の平清盛の一族に打ち勝って鎌倉幕府を開いた。
だから今も頼朝公が鎌倉武士団に広めた弁天信仰の聖地の江ノ島の洞窟にも蛇の女神様の石の御神像が有るし、鎌倉扇ヶ谷の海蔵寺の横井戸の中にも蛇の頭の神様が祀られているし・・・
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宇賀福神社

銭洗い辯財天も湧水のある洞窟に祀られ、そもそも神社の名前が宇賀神に由来していたりする。
そんな訳で、浦賀の港を守る東叶神社には海の直ぐ目の前なのに奇跡的に飲用できる井戸水が有ったり、勝海舟さんがその井戸水で断食して体を清めてから咸臨丸に乗ってアメリカに行ったりしてる。
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叶神社の奥さんの御蔭でありがたい弁天様=宇迦之御魂神様に御参りする事が出来た。
残念ながら小生には白いオーブは見えなかったけど。
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でも暗い洞窟から見える入口の光と緑がとても奇麗で気持ちよかった!
弁天様ありがとうございます~♪
東叶神社を後にして、海沿いを走水方面に車を走らせて観音崎の多々良浜にも海を見に行った。
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もう陽が西側に回り三浦半島東岸の海辺には光が届かない時間だったので少し散歩して走水神社にお参りに移動した。
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こちらも御正月から既に今年3回目の参拝だろうか?
一応、怪我したりしても無事に再度御参り来れた事を感謝し、今の世界中で蔓延してる新型肺炎が集束する様に御神威を発揮して頂き日本人と世界の日本の友邦の人々と善良な人々を助けて下さるように御願いして来た。
御腹すいたし、そう言えば暫く横須賀の若松町の激安の焼き鳥屋、相模屋に行ってないなぁ~・・・
と思い、昼食兼夕食を相模屋で焼鳥食いまくりする事にした。

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やきとり相模屋
ここはメチャクチャ安くて何本でも安心して食べられる(笑)!
そしてシステムが面白い。
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店内でも食べられるのだけど地元民は御酒飲まない時は外で食べる。
この写真の焼鳥の調理場が外のテイクアウト窓口として店側面に空いているのだが、その陳列された焼きたてアツウマの焼鳥を立ち食い出来るのだ。
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1本80円均一。食べた櫛を前のカップに入れる。会計の時には櫛を持っていくと本数で勘定してくれるシステム。政府の30万円給付みたいに意味の分からん官僚オナニーなシステムと違い明瞭会計だ!
民を支配する又は国を運営し法律を定め尚且つ民の支持を得る為には法律やスローガンは解り易く実効性の高い物にしないといけないのは、既に紀元前300年頃に漢帝国を打ち立てた劉邦が秦の帝都の咸陽を陥落させた際に証明している事。
そして民草を優先順位で重視しないとイザと言う時に協力してもらえないし、普段から大切にして約束を守っていれば相手が強大な大軍勢でも庶民が殿様を助ける為に武装蜂起して駆け付けてくれるのは、既に500年前に神奈川県小田原城主の北条家が証明した事。

三蜜回避や経済の回し方どうするかは、もう感度も悪いし対応も3ヵ月遅れでしかやらないノロマな政治家に任せないで、我々庶民が自主判断自己責任でやれば良いんじゃないのかな?
ただ、大阪府知事と北海道知事サンの言う事は聞いていて酷い事にはならなそうね。
自民党の中のマトモな議員と吉村知事と鈴木知事等で、頓珍漢な事を安倍首相にさせ続ける奸賊佞臣をブッ潰して欲しいなと思う週半ばの休日でした。





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G麺7と言う拉麺ファンには良く知られる名店が、戦国の名将間宮康俊公の居館跡の笹下城出丸松本城の御膝元、上大岡駅近くに在ります。
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G麺7

支那そばや、吉村家、すみれ(野毛店)等の老舗で拉麺の神様の本店や直営店に加え・・・

その御弟子さんやニューウェーブ世代が開いた名店の杉田家、王道、くじら軒。

・・・そして、くり山、るい斗と第三世代に名を連ねる横浜の新世代ラーメン名店がこの“G麺7”。
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新世代と言っても拉麺ファンには結構昔から有名で、かれこれ10年くらい前から出店している名店。
小生は間宮家子孫で笹下陣屋を代々守っていた(2019年に歴史をろくすっぽ知らない子孫が陣屋址を分譲売却してしまった)武内廣吉先生が書いた❝久良岐郡地名考❞と言う本を片手に笹下城址散策で馬飼谷(うまかいがやつ)と言う地名を探して付近をプラプラしていた時に、この御店が丁度出店したばかりの時に一度来ていた。
でもあれからもう10年来ていなかったが、久しぶりに間宮家と関係が深い修験門跡寺院鎌倉郡亀谷福禅寺名代権現堂持ちの鹿島神社と森浅間神社が近在するこの土地をフラっと訪れて見た。

始めて食べた時は塩ラーメンで、神奈川端麗系に近い味だった。
神奈川端麗系ってのは横浜発祥の名店“くじら軒”のサッパリしながら旨味も深い拉麺から広がって行ったジャンル。
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それをニューウェーブ世代で超有名な海老名の“中村屋”の社長で拉麺革命児の超イケメン中村栄利クンが更に発展させたジャンル。
その系統の印象だったG麺7は以前のままでも美味しかったが久しぶりに訪れたら更なる改良を加え発展していた。
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御店は相変わらず広くは無い。
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でも奇麗だし調理工程が見えるオープンキッチンで御洒落。
今回注文したのは・・・

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醤油拉麺
所謂、東京醤油拉麺とは全く異なるスープ。
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醤油の甘めのスープがすき焼の様な感じでもあり、くどくなく、淡麗系に近いより上品な味わい。
麺は中細くらいの麺・・・
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これが美味い!とにかくコシがありモチモチ感も有る。
とても美味しい拉麺。
・・・何か以前と全然違うスーパー進化をしている気がする。
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肉も美味しい。肉に関しては“凄い!”と言う程では無いけど、スープと麺が抜群に美味しい!
う~ん・・・
開店当初に食べた時とは差が凄まじくLV‐UPしてる気がする。
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煮卵も安定の美味しさでした。
横浜市民が誇る名店の一つと言っても過言ではないと思う。

余談ですが・・・
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森浅間神社
源頼朝公によって開かれた森浅間神社、旧鎌倉郡修験系門跡寺院の福禅寺名代だった権現堂が治める神社ですが、管理人さんを募集しているみたいです。
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神奈川県神社庁の掲載は少し間違っていて、社伝や間宮家関連の話では正確には源頼朝公の命で当時鎌倉市扇ヵ谷の亀谷(かめがやつ)に存在した福禅寺の住職によって富士山の神様である浅間権現(木花之佐久夜毘売)の御分霊を勧進して開かれた聖地霊場です。
境内に“不動の滝”が有りまして、福禅寺の歴代住職は就任する際は先ずここの不動滝に来て神事を執り行い、それから鎌倉の福禅寺に入ったそうです。そして門跡寺院と言うのは、天皇家の皇族が住職を務める寺院を指します。現代、本願寺系が門跡の名を広く使いますが、本願寺は戦国時代に高い御金を朝廷に支払って門跡寺院の格を獲得したんですね。
門跡寺院ってのはそれだけ凄いと言う事なんです。
まぁ~、詳しい事は以前、森浅間神社単体の記事を書いて有るので御覧下さい。
コレをクリックすると記事読めます⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
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鎌倉に在った福禅寺の最後の御住職は長円親王、そして長円親王の兄君が鎌倉幕府最後の征夷大将軍だった守邦親王で、鎌倉幕府滅亡直前に守邦親王は鎌倉幕府森陣屋の在った森浅間神社に逃げて来て難を逃れているので凄まじい“災難除け”の御利益も有る神社でも有る訳です。
何故ここが幕府が陣屋を置いたり、聖地としても重要だったかと言うと、鎌倉時代の福禅寺の御本尊が不動明王だったから自然の湧水の滝のあるこの地が聖地として重要だったからです。
戦うにも堅固な海に面した断崖の丘で飲み水が有るので籠城できますし、飲み水が有るから古代人の集落も形成されて聖地化した訳です。
因みに明治時代の仏教弾圧の際に権現堂家は国の命令で僧籍を返還し神職に専念する事と成り、修験道の道場の内、寺院機能の建物は全て破却させられるか仏教寺院と神社として分離独立させらました。
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その際に権現堂の御本尊だった不動明王像は港南区港南の福聚院に寄託され今に至っています。
小生の独自調査ですが、東京都青梅市二俣尾の海禅寺が状況証拠的には鎌倉の福禅寺の移転先後継寺院のようです。
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この海禅寺は扇谷上杉家の命によってか与力大名で奥多摩の勝沼城主三田家によって開かれてますが、時期が福禅寺の鎌倉での受難の時期と重なっています。
又、間宮家と関わりが有った1570年代に突如として海禅寺が天皇家勅願寺として勅願を賜わっている事、その寺院から住職を招いて間宮家は鶴見区に菩提寺の宝泉寺を復興している事、江戸時代に徳川幕府の官僚が寺号を誤って“海禅寺”と誤記する以前の寺名が“福禅寺”だった事、間宮家の寄親(上官)である北条綱成公の実家の福島姓の帰農した一族が江戸時代を通じて二俣尾村の庄屋を務めています。
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間宮と福島の二家は江戸時代を通じて江の島でも別当を勤めています。
これらの事から十分過ぎる関連性が伺えます。

さて、こんな由緒だたしい森浅間神社ですが前任の管理人御夫婦が御高齢の為か離職され、現在新たに夫婦で住み込み出来る管理人サンを募集中の様です。
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横浜市営地下鉄新羽駅から徒歩5分・・・
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そんな駅近な立地の住宅街の真ん中に、元は源頼朝公が鎌倉に開いた由緒正しい御寺が在ります。
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補陀洛山 安養院 西方寺
西方寺が彼岸花の季節なので本日2019年09月29日に参拝してきました。
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すんごく彼岸花綺麗です。
見頃は本日2019年09月29日~あと1~2日と言う所だろうか?
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西方寺は元は源頼朝公が建久年間(1190年頃)に鎌倉市極楽寺坂に開いた由緒正しい御寺。
鎌倉幕府の鎌倉城陥落時に新田義貞の軍勢に略奪狼藉を受け衰退してしまいました。
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その西方寺が元在った鎌倉の場所は極楽寺坂を坂ノ下地区から登った先の、成就院さんの向かい側。
そこに如何にも御寺が在りました~!って解る地形が残っていて、いまではオレンジと言う御店が在る辺りですね。
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後に約500年前に現在の神奈川県域を戦国大名の北条家が統治下に入れ鎮撫すると、荒廃した鎌倉から現在の横浜市港北区新羽に移転再興され再び武士達に大切にされる様に成った。
その時は御寺の家財道具を船に積んで鶴見川を遡上(さかのぼ)って新羽迄移転して来たそうです。
西方寺と小机城の位置関係
確かに衛星写真を見て見ると戦国時代当時は水運に利用されていた大河川の鶴見川が直ぐ近くを流れています。
小机城は笠原氏が城代でしたが、初代の城主は恐らく北条幻庵公で、文書で確認出来る初代城主とされる推定次代城主が幻庵公の御子息の北条時長公でした。
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北条早雲公は皆さんご存知ですよね?
本名は伊勢盛時入道宗瑞公。北条幻庵公は北条早雲公の三男です。
北条幻庵公や小机城については以前、小机城の解説記事を書いているので御興味の有る方はそちらを御覧下さい。
これ記事へのリンク⤵
❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
北条幻庵
北条幻庵公はゲームではこんな感じにされちゃってますけど、戦国時代の関東で恐らく一番の教養を誇った武将で、高位の武家と貴族の礼儀作法に秀でて外交官として活躍した上に、北条家を裏から支えた名軍師としても戦国時代のファンには知られている名将です。
そして余り知られていないのは、箱根権現(現在の箱根神社)の別当職(宮司や住職みたいな)を務めた宗教家としても大変に大きな権威を備えた大人物でした。
そして箱根権現と言うのが修験道の聖地だったので、真言宗の西方寺は密教の寺院でもある事から、鎌倉で荒廃して消滅の危機に陥っていた所を小机城の北側の鬼門鎮護の御寺として移転復興したのが北条幻庵公だったのかも知れませんね。
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まぁ~北条家は豊臣秀吉に無理難癖つけられて小田原城に20万の大兵力で攻め寄せられて滅亡してしまいましたので、歴史文書は勝者側の物しか余り残らないので、現在では西方寺がどういった経緯で移転して来たか、北条家の来た時期との関係性の状況証拠しか残っていません。
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なので御寺の説明もザックリしていますし、新編武蔵風土記稿と言う江戸時代に書かれた歴史ガイドブックみたいな資料にも余り詳しい事は書かれていませんが、現代では鎌倉市の学芸員や神奈川県の教育委員会からは大変に重視されている御寺が、この西方寺です。
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解かる事と言えば、周辺の折本町や東方と言う地域は北条家臣の鈴木家が治めていました。
この文書に出て来る岩本豊後と言う武将は、横浜市磯子区と港南区の大半と横須賀市汐入~不入斗や海老名市一帯を治めた間宮林蔵の先祖の笹下城主間宮康俊公の同族で、やはり北条幻庵公と同じく修験道の大人物だった今の江ノ島の江島神社、当時の江島別当職だった間宮一族岩本家の人物でしょう。
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まぁ、今では余り鎌倉時代や室町時代の歴史を辿れる文書は残っていないんです。
でも西方寺は見事に残り、今でも厳かさに風流を加えた武士の仏教文化を伝えてくれています。
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手水(ちょうず)にもさり気なく彼岸花が飾り浮いていてとても綺麗でした。
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御本堂の屋根は吹き替えに数千万円かかる高価な茅葺(かやぶき)でした。
現代だから高価と言う訳では無く、昔から茅葺屋根は藁葺(わらぶき)とは違い庄屋サンや由緒ある御寺等、御金の有る所の建築物にしか用いられない様な高価な物だったんですよ。
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御本堂の左手に廻ると御朱印を受領出来る寺務所です。
その前にも素敵な赤と白の彼岸花が参拝客を迎えてくれる花壇が在ります。
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とても綺麗ですね。
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御本堂から向かって右手に廻ると・・・

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大悲閣と言う、十一面観音菩薩様が祀られている御堂が在ります。
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御堂内は撮影禁止だそうです。由緒ある観音様を拝みたい方は、是非!参拝して見て下さい。
この大悲閣の右隣には鐘楼が在りました。
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こちらも茅葺でとても風流な佇(たたず)まい。
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その前には横浜市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在りました。
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大悲閣に向かって左側には元々は大師堂か太子堂が在った場所に石倉が設けられています。
その隣には、古い御寺らしく神仏習合の文化が今も守られていて、御稲荷様が鎮座していました。
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いつも行く先々で御参りさせて頂く事の多い御稲荷様、宇迦之御魂神様に西方寺で又、御参りの機会を頂き、今日まで無事に過せた事の御礼をさせて頂きました。
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御参りし終り御預けしていた御朱印帳を受け取りに行く為に階段を降りると右側の紫色の素敵な御花の中にクマン蜂が蜜を吸っているのが見えました。
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今から寒くなるから、シッカリ栄養補給しないとね~♪
この子達はイタズラしない限り人間に攻撃を加えて来ない優しい子達。
蜂さんの写真を撮影し、寺務所にて御朱印を押印して頂いた御朱印帳を受け取り帰りに又、参道の彼岸花と御朱印を一緒に記念撮影~。
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西方寺サンでは、今の季節だけ彼岸花のデザインされた限定の御朱印が頂けます。
可愛いでしょ?
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正午を過ぎて続々と参拝客が増える参道。しかし本当に綺麗だ。
彼岸花って御彼岸の季節のイメージで何だか明るいイメージが余り無かったけれど、西方寺に初めて彼岸花の季節に来てみて大分とイメージが変わりました。明るくて可愛い!
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ついでに幸せ家族のほのぼの風景。幸せそうで羨ましい~!

まぁ~西方寺と彼岸花の解説はこんな所ですが、今年2019年見に行くなら、10月1日位までがタイムリミットだと思います。もう御花が部分的に萎(しお)れ始めていました。
なので見に行きたい方、限定御朱印を受領されたい方は、是非、平日には成りますが休みをとれる方は急いで行かれる事をお勧めします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪


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昨日は01月13日でした。
陰暦:建久十年一月十三日
陽暦:1199年02月09日
源頼朝公
820年前の昨日、源頼朝公が“落馬”して亡くなったと歴史に興味無い人は学校が教える事実確認してない適当な情報を擦り込まれる。

実は記録上は体調不良から死んでおり即死ではない。
頼朝公妻である北条政子様の妹、稲毛重成の妻が亡くなり供養も兼ねて相模川に橋がかけられ、その橋の開通式で落馬した。
昔の人は善行を行い死者を弔う事が有った。
つまり、開通式直前に稲毛重成の妻の、つまり義理の妹の供養の宴会に参加していた事が判る。そして体調不良に成る。
稲毛重成は後に源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公に無実の罪を着せる讒言(ざんげん=他人を嵌めるデマ)を義理の父の北条時政等に言い、それにより畠山重忠公は殺害される。
更に稲毛重成自身がデマで畠山重忠を殺させたとして稲毛一族は北条家と当時はグルだった三浦家や伊豆の宇佐美に殺害される。
この時に稲毛一族を殺害して回った全員が工藤祐経公と伊東祐親公の遺産相続から発生した派閥抗争からみの人物だった。
曽我兄弟の敵討ち事件が北条時政による頼朝公暗殺未遂だと思われる一因でもある。
まぁ、この曽我兄弟事件の時は頼朝公の警護をした横浜市磯子区、歌手“ゆず”の岡村町一帯の殿様だった平子有長公の活躍で暗殺は阻止された。
そこ等辺は以前、平子有長公が開いた岡村天満宮の紹介記事でも触れている。
記事リンク⤵️
頼朝公の死亡の様子は小生は医療の専門化でも無く専門知識も無いが“落馬”する程の宴会からの急な体調不良は毒殺未遂だろう。
そこから急死してるので落馬に見せかけた脳挫傷や何かなら体調不良後→撲殺だろう。
“落馬”とされた相模川の橋の上の事件当時の随兵(親衛隊)が頼朝公を守れなかったと北条時政等幹部から言いがかりで、その場で全員粛清されてる。
これは随兵は戦闘に巻き込まれ殺害されていると考えた方が自然だろう。
状況的に法要の席で食事に混ぜたヒ素での暗殺が失敗し翌日式典で前後から視界を隠せる橋の上で随兵もろとも撲殺暗殺されたんだろう。 
実は頼朝公の没後に跡を継いだ御子息の源頼家公も同じ様に不可解な体調で危篤(きとく=意識不明)に成った事が有る。
そして頼家公は奇跡的に回復してから己が母方の北条家に暗殺されかけたと断定し「北条家討伐の密命」を和田義盛公等に出しているが、和田義盛公は三浦一族、そもそも、この時点で北条家のグルとまではいかなくても身内の三浦や縁の有る北条家を討つのに躊躇(ちゅうちょ)したのだろう。
和田義盛公の築城した城の造りは平安末期~鎌倉時代初期とは思えぬ、戦国時代の縄張りに酷似しており、所領は少なくとも街道に通行税を取り立てる関所を設けたり室町時代の武将の様に貨幣経済の概念を持っていたり理知的な人だった。だから和田義盛公は頼家公の密命の真相を“公平に確認しようとし”て北条家に密書を見せてしまう。
結果的に頼家公は北条家に薬殺ではなく、今度は入浴中に首を絞められ中々死なないので局部を切り落とされた挙げ句に惨殺される。
この直前、源頼朝公や頼家公が頼りにしていた比企能員公や梶原景時公も畠山重忠公同様に謀殺されている。
完全に計画的な将軍家潰しだろう。
欲にまみれた老害の北条時政とその子等が工藤兄弟や伊東祐親公の遺恨を利用した頼朝公暗殺による幕府横領を三浦一族と共謀したと考えた方が自然だろう。
そして、その陰謀の一つ畠山重忠公謀殺の実行犯が稲毛重成で稲毛重成の亡妻の父が北条時政に当たる。普通に考えて頼朝公は稲毛重成や北条時政に毒を盛られ暗殺未遂が起き、相模川の橋の上で護衛の武士もろとも殺害されたと考えた方が自然な訳だ。
そして全てを知る稲毛重成も謀殺された訳だ。

まぁしかし、北条家が天下を掌握しなければ北条時宗公は生まれなかったので、元寇から日本を守ったのは北条家とも言えるし、その政権の形を作り武士文化を生み出した源頼朝公はやはり偉大な人物だし、源頼朝公を初期に助けた最大の功労者の三浦義明公や三浦義澄公がいたから鎌倉幕府は成立した。
誤解される人も多いが実は源頼朝公は非常に恩情深い。敵対しても必ず事情を聞くし、相手側にやむを得ない事情が有り自分に矢を向けた武将も許し信頼し重用しているし、助命する事も多々有った。
畠山重忠公、伊東祐親公、大庭家なんかはその典型だ。
しかも頼朝公は口説いた女性は皆必ず大切にした。
決して冷淡な人ではなく理知的で人情にも厚い人だった。
逆に善玉と誤解する人の多い源義経は部下の手柄を自分手柄の様に報告するパワハラ、当時の武士は正義と礼儀が重要なのに戦いで打ち負かした敵の平家側の非戦闘員の女性をレイプした事がレイプされた女性の記録に残ってたり、口説いた愛人は何十人もいたり、その何十人の愛人を京都から逃げる時に同行させたのに脱落者を助けず見捨てたり。
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写真は金沢区の太寧寺。
別の弟の源範頼公は秦の翦将軍並みに優秀な大将だった上に、北関東の武士団に強く支持されていたので北条家や三浦家の南関東派閥から警戒され蟄居させられた上に、横浜市金沢区の太寧寺で自害に追い込まれた。
大寧寺の記事でその事は紹介しているので、興味の有る人は記事の下の“タグ「太寧寺」「源範頼」”をクリックすると太寧寺の記事を読めます。

色々、思惑が有り人の評価はねじ曲げられる。

一人一人の不幸なボタンの掛け違いが頼朝公暗殺や頼家公暗殺に繋がってしまったんだ。
ボタンの掛け違いは必ず最初からかけ直さないと大事故大事件に繋がる典型が源頼朝公の回りで起きた事件。

820年前の昨日はそんな日でした。
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神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 
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江島神社=江ノ島弁才天
(式外社・日本三大弁財天・天皇勅願所の洞窟と鎌倉武士の聖地)
児玉神社
(初代台湾総督児玉大将を祀る台湾の人々が開いた神社)
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  御祭神・御本尊等:八臂弁財天(はっぴべんざいてん)・多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)・児玉源太郎大将
  御利益:戦勝・敵人懲服・立身出世・財運向上・芸能向上・縁結び 
  関係者:
  開基:欽明天皇
  中興:修験者      役 小角
     弘法大師      空海  和尚
     修験者 神融禅師   泰澄
     慈覚大師    円仁    和尚
     比叡山五代院  安然 阿闍梨
     征夷大将軍   源    頼朝 公
     征夷大将軍   源 實朝 公
     皇家護持僧  道智  大僧正
     証誠大師   一遍      上人
     立正大師     日蓮      和尚
     鎌倉府公方    足利 成氏 公
     相模守      北条 氏康 公
     北条家臣 岩本間宮 定次 公 以下江島別当岩本坊間宮家歴代(現:岩本楼)
  旧郡名:鎌倉郡(戦国時代:中郡)
  所在地:江島神社・・・藤沢市江の島全部が本来の江島神社聖域
  所在地:稚児ヵ淵・・・歌舞伎白浪五人男の弁天小僧の舞台、洞窟は天皇家の祈願所聖地
  所在地:児玉神社・・・児玉源太郎大将を慕う台湾の人々が建てた神社
  所在地:岩本楼・・・元は江の島の聖地の洞窟と江島神社を管理した真言宗修験道岩本坊が前身
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。 参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)で元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。その別当職を務めたのが 社長の家の御先祖、宇多源氏佐々木家諸流の間宮一族、岩本家だった。
頼朝公が戦勝祈願に岩屋に参篭された後に社殿と銅製鳥居が寄進され神社として整備された。江の島の岩屋で御神体とされたのは八臂弁財天で江島神社と岩本楼にそれぞれ御祀りされていた仏像が現存する。戦国時代には日本有数の大合戦で戦勝の御利益を発揮されてる。鎌倉公方足利成氏公と北関東の鎌倉公方軍が江ノ島に籠城し、反逆した関東管領山内上杉家と扇谷上杉家の連合軍の大軍勢と戦い、見事に足利成氏公に不利な戦を勝利させている。その後も❝日本三大奇襲戦❞の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万余りの上杉家連合軍の大軍相手に勝利を治めている。
江戸時代には徳川幕府から保護を受けただけでなく富士山詣で、大山詣り、杉田梅林等と並び江戸市民の人気の観光地として栄え歌舞伎の演目の白浪五人男の❝辨天娘女男白浪❞のモデルにも成った。
明治時代には、この江の島に児玉源太郎陸軍大将が逗留され軍事作戦を練られて、ロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
現在は女性の縁結びの神様としても有名で江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 他所の弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されているが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれ落城した歴史が有るから? 
弁天様について解説すれば本来、弁天様はインド神話のヒンドゥー教由来の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天/大黒天に習合された神様)の後妻であり多くの男神様から求婚されたモテモテの神様だったので女性にとっては心強い縁結びが期待出来るのは当然だろう。
明治時代には江ノ島に福沢諭吉先生、伊藤博文公、児玉源太郎大将や早川雪舟(日本人初のハリウッド俳優)も宿泊しており江ノ島の御利益を代弁する様な偉業を成し遂げている。
他にも俳画会を形成した文化人、間宮霞軒先生等を江ノ島から輩出している。
※北条氏康公と間宮家が活躍した河越夜戦解説の記事リンク
→杉田玄白と間宮林蔵の祖先、笹下城主間宮家の事績。

江の島に行ったら現代の名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?昔からの名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)と江ノ島丼も美味。 
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石楯尾神社(延喜式内社・日本武尊の鉄壁無双の楯)
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  御祭神・御本尊等:
  石楯尾大神(いわたておおかみ)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・坂上石楯公・守良親王・他・・・
  御利益:厄避け・敵人懲服・戦勝祈願・学問上達・立身出世
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:崇神天皇
     応神天皇
     文徳天皇
     中衛将監  坂上 石楯 公
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 氏政 公
     神祇管領  卜部家(京都市吉田神社宮司家)
  旧郡名:高座郡
  所在地:相模原市緑区名倉の相模川沿いの丘の上
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)=石楯尾大神を御祀りしたのが石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)の始まり。天磐楯が地下に埋蔵され神社が成立したとされ中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。そこに応神天皇が東国へ行幸された際に行在所(あんざいしょ=仮御所)が建てられた場所が現在の神社の所在地と伝わる。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。早くに朝廷から官位を賜り国家鎮護の神社として大切にされて歴代天皇に古代~近代に及び崇敬された。源頼朝公からも大鳥居を七基寄進された古社だが、武田信玄が三増峠合戦前の小田原城攻撃で進軍して来た際に武田軍に因(よ)る略奪で戦火に遭い古代からの社宝は消失した。この合戦については武田信玄の重臣高坂昌信が主君の行為を「何も得る物も無く身内もボロボロに成った」と酷評する程に武田軍は苦戦したが、その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡した。
日本武尊の災難を度々守った天磐楯を御神体として始まった神社だけ有り、八方除けの一之宮寒川神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。又、社殿を破壊した武田家を滅亡させ一族絶滅させた御神威、武田家による社殿破壊以前に石楯尾神社を保護した北条家が豊臣秀吉に改易されても北条家の一族と家臣団を生存させ多くの北条家家臣団を徳川幕府奉行職や学者として大成させた御利益は群を抜いている。
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冠大明神 比々多神社(延喜式内社・相模国三之宮・古代遺跡に囲まれた聖地)
比々多神社元宮(戦国時代の戦火で焼失した元の神殿が在った場所)
埒免古墳(建設業者に破壊された古代豪族古墳で旧境内の聖地)

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  御祭神・御本尊等:豊斟渟尊(とよくむぬしのみこと:豊国主命)・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)・稚日女尊(わけひるめのみこと)・日本武尊・大酒解神(おおさけとけのかみ:大山祇大神)と小酒解神(こさけとけのかみ:木花之佐久夜毘売)の父子神。  
  御利益:子宝・縁結び・子孫繁栄・地鎮・戦勝・酒造業繁栄・服飾業繁栄・交通安全(陸)・
  関係者:
  開基:神武天皇
  中興:崇神天皇
          垂仁天皇
          持統天皇
          孝徳天皇
          聖武天皇
          淳和天皇
          相模国司  布施 色布知 公
          初代宮司  紀     益麿 公          
          相模国司  橘     峯嗣 公                      
          征夷大将軍 源  頼朝 公
          相模守護  三浦 道寸 公
          征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:伊勢原市三ノ宮1472番地周辺の高速道路~丘一体全て旧境内地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
比々多神社の縁起にある歴代天皇から信奉された逸話を証明するかの様に、神社の周辺のみならず旧本殿の在った場所や境内からも縄文〜奈良時代の遺跡や古墳が大量に発掘されている周辺地域を含めて文化的歴史的にも重要な神社。
古代より天皇家や将軍家から信奉され、背後に控える大山と大山阿夫利神社を信仰対象とした古代人の聖地を引き継いでいる神社。
また管轄する神社に関東で子宝安産の神様として有名な子易神社の本家本元を抱えている。
源頼朝公と北条政子様が御夫妻で子宝安産祈願をして成就した御利益が有る。そして関東の古豪名門武士団の三浦家からも崇敬された。由緒有り歴史的価値に富む神社。
裏山のミカン畑の中の古代社殿跡の元宮でだが、そこに至るまでの広大な範囲が旧境内地。
元宮に至るまでの広大な土地は前政府の宗教政策と太平洋戦争の敗戦時の宗教政策で土地が接収された。
元宮に祀られる祠も自由に御参り出来る。元宮に行く途中の恵泉女子短大園芸生活科伊勢原校舎は古代の比々多神社境内地で埒免(らちめん:埒=防護壁、免=面=削平地・・・壁で囲まれた聖域)の名で呼ばれた聖域だったが、神奈川県教育委員会がその重要性を無視したまま発掘調査を怠ったばかりか恵泉女子短大伊勢原校舎建設時にも事前調査を行わず、結果的に発掘中に古墳が破壊され土木作業者によって多くの出土物が略奪された。しかし一部は義挙した比々多神社宮司家と氏子衆によって作業者から買い戻され、比々多神社内に併設された郷土資料館に保管展示される事となった。
併設されている郷土資料館では、古墳群から出土した宝剣等を見学出来ます。
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