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タグ:源頼朝

前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
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冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
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華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
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現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
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・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
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御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
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大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
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今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
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右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
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・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
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この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたり、神社化したので御堂に安置出来なく成った寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
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例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
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境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
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・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
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・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
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弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
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足利家の家紋だな。
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まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
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英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
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蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
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太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
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御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
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暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
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つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
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写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の鎌倉山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
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弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
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太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
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御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





結論から言うと正月1日は横浜市栄区と港南区近辺をウロチョロしていた。
小生が横浜で1番の知恵の神様と崇拝する永谷天満宮に参拝客の少ない早朝に参拝してから、夜明けの時間に合わせて円海山に富士山を拝みに行った。
永谷天満宮では神職の方々が早朝の5時頃なのにも関わらず詰めておられた。
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永谷天満宮
大変だな…御正月とは。
御神籤を引きに社務所に行ったら禰宜サンがもの凄く眠そうだった(笑)。
「ご苦労様です、当直ですか?」と御声掛けした所・・・
「2日間泊まり込みなんです~」との事。
・・・こうやって神社の場合は神職の方々の御苦労と氏子サン達、御寺の場合は和尚サンや檀家サン達の努力がそれぞれ有るから一般参詣者は御祭りや神事や様々な行事に参加し日本文化を感じられるし、神仏に祈願する事で何だか安心する事も出来る訳だな。
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社務所の前では焚火の火も絶やす事なく燃えていて冷えた参拝者が手を温める事が出来た。
永谷天満宮の神職氏子の皆さん年末年始御疲れ様でした。小生が横浜に置ける知恵の神として崇敬する菅原道真公と菅原景行公と菅原淳茂公の御陰様で昨年1年間過し無事に新年を迎える事が出来ました。
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社殿に移動し天神様に参拝し、1年間の御礼と自分の祈願と諸外国の親日家の人々の平安祈願をした。
因(ちな)みに・・・
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御神籤は大吉だった(笑)!素直に喜んでおこうかな♪
栄区方面に戻り円海山で初日の出を見るのと土地神様の思金神社に御参りに行く為に車に乗り移動・・・
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円海山

う~ん、今年は少しガスってたけれど綺麗に雪化粧した富士山を拝む事が出来た。
富士山は只単に美しいと言うだけでなく明治時代までは自然信仰で神道修験道仏教の全てで此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身として崇拝の対象に成っていたんだな。そしてココは奈良時代の人達も製鉄を営みながら灌漑水田を開発し、鎌倉武士が使った間道が幾本も現存し、現代では横浜市最後の蛍の大生息地体でもある、貴重な自然と文明の史跡であり自然公園なんだな。
有る意味、横浜における聖地とも言える。そして此花咲耶姫命を拝む事の出来る場所なんだな。
だから涼しく気持ちの良い晴天の御正月に御化粧した綺麗な富士山を拝めて、とても晴々した気持ちで新年を迎える事が出来た。
・・・ちなみに日の出はポジション取り間違って見えなかった。円海山から日の出を見たかったら金沢区側の展望台じゃなきゃダメだな。

日は変わって正月2日目。
この日の早朝出発~深夜帰宅する約20時間で怒涛の19箇所の神社仏閣聖地と史跡を廻って来た。
この日は地元横浜の神社の思金神様や天満大自在天神菅原道真公や・・・
金沢北条実時公、蒔田御所吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、上杉規富公、間宮康俊公、間宮於久様、間宮於継様、間宮綱信公、間宮常信公、間宮信繁公等の侍大将や姫様達。
渋沢栄一サン、原三渓サン、浅野総一郎サン等の横浜の発展と復興に力を尽くされた商人達。
・・・崇敬する横浜市に御縁深い歴史偉人のこれらのと同じく尊敬し毎日、心の中で拝んでいる神様仏様と県内他地域所縁(ゆかり)の歴史偉人に出来るだけ多く御参りしたいと思い訪拝先の予定を組んだら、当初の予定でも既に20個所ととんでも無い件数に成ってしまった(笑)。
多分、過去最多の1日での訪問件数、内容的にはコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
・・・我ながら良く廻ったもんだと思う(笑)、ちゃんと御参りして時間かけて廻ったし。
寝なければ時間は作れる(*´ω`*)!
実際には最終目的地の寒川神社までの順路は移動時間だけで4時間近く、家を出発したのは朝の3時少し過ぎた位、帰宅したのは23時位だったろうか?移動時間以外も略(ほぼ)現地を歩き回ってるので当然ながらつまり休憩した2時間を除いて18時間は運転するか、歩くか、買い食いしてるか、宮司サンか和尚サンと御話ししてた訳だな。
ジム行ってる御蔭で何とか成ったし(笑)。
経路をGoogle mapで可視化するとコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
神奈川県の中部と東部を略グルっと回ったらしい。
上の一覧表は実際に回った場所だが、予定は少し違って伊勢原市の糟屋館と上粕屋神社は廻らずに厚木市七沢の徳恩寺、拉麺の名店ZUNDO BAR、七沢城址を廻るつもりだった。
・・・これは後で書く事に成るが、神様に「そっちでは無いヨ」仏様に「こっちに来なさい」と言われる様に道を間違った(笑)ので流れと直感に任せて洞昌院優先~糟屋館周辺散策ルートに変更した訳だ。

さて、2018年01月02日03時ちょっとに自宅を出発すると、有鹿神社には4時ちょっと過ぎに着いた。
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参道が雪洞(ぼんぼり)代りの提灯に照らされてとても美しい・・・
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有鹿神社本宮
有鹿神社様への初参拝は3年前、愛川町に三増峠合戦の現場歩き取材に行った帰りに、聖地として名高い有鹿谷と勝板遺跡を訪問し奥宮を御参りし、その勢いのまま海老名の本宮を御参りに来て、御朱印頂に宮司様の別事務所を訪問したのが最初だった。
それ以来、小生は有鹿比賣(あるかひめ)様と有鹿比古(あるかひこ)様の御夫婦の神様も崇拝する様に成り、頂いた御朱印を大切にしている。
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本殿で有鹿の夫婦神様に御参りし、昨年1年間の御礼と今年の小生個人の心願と友人家族恩人恩師の平安祈願と親日諸外国民の平安祈願をした。
本殿も幻想的に提灯の明かりで浮かび上がって美しかった。
所で初めて正月に御参りに来たのだが…
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何か狛犬サンの御胸の辺りがウルトラ怪獣のゼットンみたい光ってて(笑)
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・・・コチラの禰宜さんの遊び心。
天智天皇が国家鎮護の勅願所にする前から庶民に寄り添い農耕を守護し家内安全と良縁結びの神様として存続して来た人懐っこい神様の神社らしい遊び心。
古社なのに偉ぶらず、尚且つ水引き神事の様に古代からの神事を大切にする、こんな柔軟な場所も有って良いと思う。石清水八幡宮の宮司様も神社本庁トップだけど歴代天皇の御意思を尊重され古来の神仏習合時代の文化も大切にされたり新しい催しにも協力されたり色んなアイディアを出されているので現代の柔軟な神社本庁トップの方針にも合っているんじゃないかと思う。
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有鹿神社の境内には有鹿天神社が在り、此方でも前日元旦に永谷天満宮で正月の御参りをした菅原道真公に改めて参拝し、新年の御挨拶と2日当日の旅の無事を祈願した。
車に乗り八菅山に移動。
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八菅山は明治時代に日本の宗教が森有礼(ありのり)等、キリスト教信者政府高官等によってプロテスタント国の英米の猿真似で自然崇拝の神様と平和の哲学の仏様が引き裂かれ宗教自体が作り替えられるまで日本神話の聖地で神職のみならず修験者や仏僧からも聖地として崇拝され多くの寄進が集り物質的にも興隆し、神仏ともに尊重する修験道が仕切る日本屈指の大道場だった。そして行基大僧正が来訪し天皇の勅願を祈願した神仏ともに大切にされた天皇家の勅願所としても機能した霊場でもあった。
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始まりは日本武尊の来訪に由る・・・
「山体の形状が蛇に似ている」
・・・と言う主旨の発言を日本武尊がして聖地として大切にされる様に成ったそうだ。しかし今では山での採石やゴルフ場の乱立で美しさが無いし宅地化で細かい地形は良く解らないが、確かに河岸段丘で細長い形はしている。八菅神社周辺地形 久良岐のよし
宅地化した部分も昔は山でもっと長い山体だったのかも知れない。
まぁ~小生は相模川の大きな支流が八本有って八岐大蛇(やまたのうきろち)の様に見えたんじゃないかな~とか伝承と違う山の名の由来を考えたりした。菅(すげ)は菅(すが)とも読むし菅は須賀神社の須賀に通じるからね~。
須賀神社の御祭神は素戔嗚命だし元は相模川を八岐大蛇に見立て河の氾濫を抑える祈願所で、だから日本武尊が東征の折りに立ち寄ったんじゃないの?多分、古代は渡河地点が付近に有ったんじゃなかろうか?
・・・とか考えてしまう。日本武尊は走水にも須賀社を開いて軍神海上交通の神様として素戔嗚命を祀ってるからね~。
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何にせよ修験道や神職や僧侶の聖地として栄えたので明治の破壊までは神廟や御堂合わせて50余りの大小神社仏閣が混在し大変多くの参拝者と修行者で賑わっていたそうで、この愛川町の八菅山と伊勢原市の大山、そして京都の男山に在る石清水八幡宮等と合わせて日本で5本の指に入る大聖地だったそうだ。
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そして、参道を奥に進み、そんな歴史を説明している看板の写真を撮ろうとした際に気が付いた・・・
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「夜明け前で何も見えねぇ~」
「階段超急だし!」
「クロックスで夜に来る所じゃねぇ~(笑)」
・・・う~ん、甘かった。
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本殿に着いたがハッキリ言って真っ暗で何も見えない(笑)!
でもちゃんと参拝して御賽銭を払って日本武尊と弟橘姫様と神様達に諸々の祈願をして、一度山を下りて車まで戻って1時間程待機してから日の出を待って再度、参拝して写真撮影する事にした。
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そして夜明け到来。
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八菅神社(八菅山七所権現:天皇家勅願所)
当たり前だが朝を迎えると自然豊かな参道が良く見える。
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夜は何がなんだか解らなかった鐘楼の文化財として解説も読める様に成り・・・
石段もちゃんと見える様に成った。
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本殿は木々に囲まれまだ薄暗かったが、造りが観察出来る様に成った。
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改めて社殿を見ると、どうも神社と言う感じでは無い。元々は修験道の御堂の一つだったんだろうか?
しかしながら規模は大きい方だ。
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御賽銭箱には八菅山七社権現=八菅神社の社紋・・・九曜紋だな。
これ、後日03日にPCに写真を取り込んでいて気が付いたのだが、八菅山の神様が参拝を歓迎してくれた様な写真が撮影出来ていたのと関係してる紋様なんだな。
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額の字の色は薄く成っていた。
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さて、ここは凄い人物が関わっている事が説明書きにも有る。
小生は以前、愛川町の観光課の職員さんと教育委員会の職員さんに愛川町ガイドブックを頂いたり解説をして頂いていたので少し知っている。
小生が尊敬する戦国時代の北条家とも関係が有る。
先ず、ここの凄い所は関わった人物達だ・・・
日本武尊に始まり、
行基大僧正(日本最初の大僧正)
源頼朝公(征夷大将軍)
足利尊氏公(征夷大将軍)
足利持氏公(鎌倉公方)
遠山綱景公(北条家重臣、江戸城代)
徳川家康公(征夷大将軍)
・・・等々、名だたる歴史偉人が崇敬し支援していた歴史が有るんだな。そりゃそうだ、日本有数の聖地だったのだから。
まぁ、そんな訳で八菅山の修験道と神話の聖地は明治以降、英国の猿真似をやった役人によって寂れてしまったけど神様達は今もここで愛川町の人々や参拝客を守って下さっている様だ。
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まぁ、そんな場所だが明るい朝陽に照らされている八菅山の神社の在る場所を改めて見ると、三角形をしていて丸で奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の様な佇(たたず)まいなのが理解出来た。
帰ろうとして駐車場に向かう前に鳥居の前で朝陽の方を振り返ると日の出が見えたので写真を撮影して置いた。
どうやらこれが八菅山七社権現の神様達から小生への御褒美だったんだな。
八菅神社の御神紋は九曜紋・・・
九曜紋
そして3日に成って気が付いたが、八菅神社の前で撮影した日の出の光が九曜紋に成っていた。
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神様、御褒美ありがとうございます~♪
まぁ偶然レンズに写り込んだ光だけど、御参りした八菅神社の御神紋と同じ九曜の朝陽の写真、縁起良いよね。
こんな幸運にその時は気が付かないまま駐車場に戻り車に乗ると、次の目的地の厚木市飯山温泉の華厳山金剛寺に向けて出発した。

【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)に続く。

前回【休日雑記】2017年11月22日の訪問先その②震生湖~福寿弁才天社~八坂神社~出雲大社相模分祀編・・・秦野市北西部の震災の生んだ紅葉名所と神社編。←コレの続き。
22日訪問その③
出雲大社本社の分社であり関東における出雲大社の拠点である出雲大社相模分祠での参拝を終えると車に乗り込んで最初に向かったのが源実朝(みなもとのさねとも)公の首塚だ。
実は源実朝公が鶴岡八幡宮の階段の大銀杏横で暗殺され首を切断された際に、その御首は紛失して行方不明に成ったとする学者がいたりするが、ちゃんと鎌倉と一見関連の無さそうな地域でも歴史を紐解くと実朝公の首塚が記載されていたりするもんなんだな。
現在では、その首塚は秦野市の田原ふるさと公園と成った広場の片隅に御廟所と石塔が有り地域の人に鎌倉時代からずっと守られている。
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普段なら初見の人は解りづらい農道と住宅街の道なのだが・・・
小生の訪問した11月22日は初見でも訪問し易い状況だった。
市指定史跡源実朝公首塚(田原ふるさと公園)CIMG5612
翌日の23日が鎌倉幕府第三代征夷大将軍の源実朝公の命日なので地域の人が総出で八百回忌の供養と毎年行われる実朝公顕彰の御祭りである“実朝まつり”の準備をしている最中で天幕やら実朝まつりと書かれた看板が用意されていたのだ。
この日は土曜日、小生は翌日の日曜日は仕事だったので1日早い実朝公の追善供養の参拝と成った。
実は偶然の命日直前の訪問。こう言った尊敬する先人の命日には何故か御縁が有る小生・・・
オカルト的なものじゃなくて、普段の尊敬から来る行動と興味でエンカウントする確率が自然に高くなるんだろうと思う。
小生は毎日、祖先神と母方の祖先が崇拝していた神様、そして両系統の御先祖様、自分が崇拝する土地神様、それぞれの時代の神様と仏様、妙法蓮華経、般若心経、無量寿経の題目、それに加え尊敬する歴史偉人、幼少期に御世話に成った義祖母と、学生時代の恩師の名を念じ、或いは心の中で唱え毎日の御挨拶と前日1日無事に過せて新たに1日を迎えられた御礼をする。
・・・その歴史偉人の中に横浜に深く関わった河内源氏の殿様達も含まれていて、特に源頼義公・源義家公・源義朝公・源頼朝公・源頼家公・源実朝公にも名を唱え感謝を伝える様にしている。
無論、時間が無い時は「源頼義公、義家公、頼朝公始め河内源氏の殿様方」と簡略化させて頂く場合も多いが。
だいたいスポーツジムでウォームアップに30分走る間に丁度、全部言い終わる位だ。勿論、ジムでブツブツと独り言を言っていたら危ない人なので(笑)そんな事はしない。周囲に人がいるなら心の中で唱える。
そんな訳で、源実朝公の命日の前日に御参りで来たのが偶然でも良かった、普段から守って頂いていると勝手に思っている感謝を伝えられたから。
因(ちな)みに「念」と言う言葉について一つ解説をしておきたい・・・
余談だが頭の中で言葉を読む事を“念じる”事だと勘違いして“念”の動詞を使う日本人が多いが、これは誤用で漢字の意味を間違っている。念(ねん)は中国語の念(Nian=ニエン)を古代日本人が朝鮮訛りで読んだ結果、先ず発音が念(ニエン)○ではなく念(ねん)×で伝わってしまった。そして次に意味も間違って用いられる事が現代では多い。
中国語で学習を促す時に「念書(Nian Shu)」と現代でも言う事が有るが、これは丸暗記する為に音読して精読する事を指す。
本来の“念”と言うのは声に出して唱える事を意味する動詞なのだ。
だから「念じろ!」と言われたら言葉に出して唱えないといけないのだ。決して「頭の中で念じる」と言う事は成立しない。あくまで“声に出して言う”事を“念”と言う。
もし教養が無く嘘ばかり言ってる偽霊能者が「頭の中で念じる」とか言ったら「コイツ馬鹿な詐欺師だな」と思って置けば良い。
そんな“念”の一文字が動詞として浸透したのが、丁度、鎌倉時代、源実朝公が生きた頃の話で浄土宗の開祖の法然上人と直弟子の親鸞上人、そして日蓮上人と踊念仏の一遍上人達が布教した念を精神修養に取り入れた“法華宗”にカテゴライズされた仏教の影響だな。
現代では完全版が伝わらない法華経の教えを元にした宗派で、源頼朝公や源実朝公そして北条義時公も大切にしていた経典だったりする。源頼朝公や河内源氏の歴代殿様は、法華宗の他に真言宗と修験道と神道も非常に大切に信仰していたりする。
源実朝公は法華経を“転読”しているので、つまり“題目を念じた”らしい事も現代に伝わっていたりする。
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上の写真は鎌倉市浄明寺地区衣張山の釈迦堂切通し。
北条義時公の子で鎌倉幕府第三代執権と成った北条泰時公が、北条義時公の没後に供養の為に付近に釈迦堂を建立した事に名前が由来する。
話を源実朝公に戻す。
甥っ子で出家していた公暁(くぎょう)に暗殺された際に首は持ち去られたとされている。ここまでしか調べない或いはメジャーな文献しか読まない連中は「首は行方不明」で終わっている。
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上の写真は鎌倉市の寿福寺の参道、今の季節は多くは無いが紅葉も美しい。
現在の源実朝公の菩提寺は鎌倉の亀谷山金剛寿福禅寺とされているが実は全く関係無い。まぁ、鎌倉市の扇谷地区に存在する“臨済宗南禅寺別格 鎌倉五山の第三位”の格式を歴代将軍から与えられていた御寺で由緒正しい事と母親の北条政子様の菩提寺なので合祀されているのだろう。寿福寺の所在地は元は源氏の邸宅跡でもある。
しかし本来の御廟所は鎌倉市浄明寺地区大御堂谷(おおみどうがやつ)に存在した廃寺:阿弥陀山勝長壽院(しょうちょうじゅいん)に亡骸が葬られたと記録されている。しかし御首は見つから無いまま亡骸が葬られたので勝長壽院には“胴塚”が存在したのだろう・・・
まぁ、源実朝公暗殺には伯父の北条義時公が不可解に鶴岡八幡宮参拝の式を途中で早退したとか中門で待機していたとか各文献の記載が矛盾していたり、肝心の実朝公の“首が見つかっていない”とされていた事からミステリー満載で実は首謀者とされる義時公が暗殺を察知し実朝公を逃がした生存ルートも小生は推測していたり・・・
北条義時公と三浦義村公が結託して源氏の血を根絶やしにした従来の有力説も有り得るとも思っている。
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写真は横須賀市衣笠城址の衣笠山大善寺。
大善寺は三浦一族郎党の学問所として機能した元は真言宗で現代は曹洞宗の寺院。
小生が実朝公の生存シナリオも有り得ると思うのは、実は暗殺の前に源実朝公は朝廷から高い官位をバンバン与えられているが・・・
実はこれは日本の歴史を見ると解るのだが、天皇子孫の平氏源氏等の元皇族や古代豪族有力者を藤原家が暗殺する際の悪い兆候なのだ。官位を上げておいて朝廷に参内させたり、官位受領する相手へ使者を送っておき使者によって相手の側近を内応させる。そして毒殺させたり謀反を起こさせたり陰謀に嵌(は)めるのが汚い藤原家の常套手段な訳だ。小生と多くの歴史家が指摘するが藤原家は蘇我嶋大臣馬子=蘇我馬子を暗殺し蘇我の財産と地位を乗っ取った“百済王族”と言うのが現代では説の1つに成っているが、彼等藤原家は古代から天皇家と血縁の有る豪族を陰謀で暗殺したり、天皇家から臣籍降下して源氏や平氏として豪族に成った関東の武士を平安時代から度々陰謀に陥れている一族だったいたりする。
源頼朝公
実朝公の父上の源頼朝公も落命前日と当日の症状はヒ素中毒が推測出来て、暗殺の容疑者は北条時政の婿の稲毛重成だろう。首謀者は北条時政。そして北条時政は色ボケと勘違い権力欲から源実朝公も暗殺しようとした悪人で子の北条義時公や孫の北条泰時公からも嫌われてロクに供養もされていない。
この老害の北条時政は京都に滞在していた期間が有り、藤原貴族に欲を突かれて煽動される動機が有るし性格的にも自己中心的で利己的な面が強いのでやりかねない。
暗殺事件発生の数年前、源実朝公が急速に官位が上がると側近の大江広元公と北条義時公は“不吉=暗殺”を憂慮していたので諫めている。この憂慮が後に実際の事件に成ってしまう・・・
建保七年(1219年)に鶴岡八幡宮に参拝した際に暗殺される。この参内に先んじて源実朝公に対して側近の大江広元公は「腹巻(歩兵用の体にフィットした胴鎧)を衣服の下に来て下さい」と用心する様に進言していたりする。更に北条義時公も中門に待機しているが中には入れない。
・・・結果的に甥の公暁に暗殺された(事に成っている)。
つまり実は大江広元公も北条義時公もアンテナを張っていたので何か察知していたのだろう。源実朝公は血縁的に北条家と縁が深く、兄で先代将軍の源頼家公は北条時政に暗殺されたのだが頼家公の方は比企家との縁が深かった。つまり鎌倉御家人達の間では“兄弟のどちらを傀儡(かいらい=飾り)将軍にするか”で自分達の出世が関わり権力闘争に図らずも巻き込まれていたのだ。
①従来の説通り北条と三浦に煽動された公暁に殺された。
②藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が守ろうとしていたが失敗。
③藤原家(朝廷)に煽動され謀叛した暗殺者達から北条義時公と大江広元公が実朝公の影武者を用いて南宋に逃がした。
④暗殺を察知していた源実朝公は波多野家と共謀し影武者を立て自力で南宋に逃げた。もしくは別人と成って生き延びた。
上記のどれかだろう。
暗殺の数年前から実朝公は南宋に渡航つまり亡命しようと試みた節が有るのも暗殺の兆候が有ったからだろう。
一般的に源実朝公は文化傾倒し武人らしからぬ暗愚の“迷”君と認識されがちだが鎌倉の町を歩くとそうでは無い事が非常に良く解る。
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鎌倉市の二階堂川に有名な逸話を残す石碑が有る。
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澁河兼守(しぶかわかねもり)と言う武将が幕府重臣の合議で謀反人の嫌疑をかけられた。
この事件の発端は先代将軍の源頼家公に忠義を感じる御家人や、源実朝公ー北条義時公ラインによる権力占有を懸念した“反北条派閥”による謀反が発覚した際に、渋川兼守公は無実の罪を着せられた訳だ。しかし貴族カブレの振りをしながら藤原家による幕府御家人内部分裂誘発の陰謀を察知していたのか、源実朝公は御家人達の団結を促したり権力で冤罪を晴らしてやったりして度々、父の代からの御家人の命を救おうとしている。
この澁川兼守公も真実が伝わる様に和歌好きな実朝公の目に入る様に和歌を10首程詠んで暗号を入れたかして当時は鎌倉から東に向かう時に参道の前を通る荏柄天神社に和歌を描いた紙を掲げておいた。
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すると実朝公の耳目に触れ真実が伝わった様で、澁川兼守公は“実朝公の独断と権威による命令で命を助けられ”御礼に当時は通行不可能だった二階堂川に“歌の橋”を掛けて新たにショートカットの街道を開いて謝礼を表したりしている。
他にも畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が謀反の容疑をかけられると、捕縛に向かう長沼宗政に「活かして捕縛する様」わざわざ指示を出したのに長沼は“将軍実朝公の命令を無視して畠山重慶公を殺害”してしまった。この際も実朝公は「何で殺したか!無実かも知れないだろう!」とかなり怒っているので、鼻から無実だと確証が有ったのだろう。
因みに長沼家は“藤原一族”であり反実朝公の人物だったんだな。
源実朝公は武士達の貴族の陰謀に乗っかった権力闘争に飽き飽きして南宋に亡命しようと画策した痕跡も有ったりする。
まぁ、そんな歴史が有って複雑なのだが、小生は実は実朝公暗殺は朝廷を私物化した藤原一族による御家人を巻き込んだ陰謀で、防げないと思っていた北条義時公により替え玉が準備されて“実は南宋に逃げた”ので“人物特定される首が行方不明”に成ったんじゃないか何て可能性も少しは有ると思っている。
仮に北条義時公が源実朝公暗殺の首謀者ならば、首を紛失させる意味が解らない。寧ろ、助ける側なら身代わりの人間の首を隠すのは意味が解る。
そして・・・
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そうだとしたら、替え玉と成って殺されたのは11月22日に訪問した、この実朝公首塚に眠っている人物のはず。
・・・実は首塚の有る“田原ふるさと公園”は鎌倉御家人で北条義時公に味方した波多野家の邸宅跡なのだ。
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ここの事を知らないメジャー文献しか読まない歴史学者も多いだろう。
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そして波多野家の詰め城も近い。
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仮に首塚に御首(みしるし)を葬られた人物が実朝公の替え玉なら、主君を藤原家の陰謀から救う為に北条義時公と隠密裏に実朝公を逃がす為に一族から犠牲を出した証拠に成り忠臣と成るだろう。
そして本当に源実朝公が暗殺された張本人ならば、御首を取り返し北条家に粗末に扱われない様に隠密裏に自家の邸内に埋葬した忠臣と成るだろう。
どちらの仮説を用いたとしても、実は当時の波多野家には源氏に対してそれだけ忠義を尽くす動機が十分に有る事を歴史オタクでもないと知らない。
波多野家は波多野義通公の姫が源頼朝公の御父上の源義朝公の側室と成って、頼朝公の兄の源朝長公を生んでいる。残念ながら源朝長公は保元の乱に参戦した際に傷を負い、それが元で発病し自害しています。そんな訳で源氏と縁が深い上に実朝公暗殺事件発生当時の当主の波多野義重公は妻が北条義時公の姪っ子だった。つまり北条義時公とも血縁が有った北条派=実朝派の先鋭だった訳だ。
・・・だから十分に一族から実朝公の替え玉を出すなり、首供養する成りの動機が有る。
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今では御廟所は綺麗にされて石碑も有る。
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立派な御神木も目印に成っている。実朝公は白幡神社の御祭神の内の一柱の神様なのでここは霊廟であり日本古来の価値観では白幡神社の代りの場所でも有る訳だ。
そんな首塚の近くには金剛寺と言う御寺が在る。
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正式名称は大聖山金剛寺・・・波多野家が建てた御寺であり、源氏所縁の笹竜胆を寺紋にする御寺だ。
大聖山金剛寺本来、笹竜胆紋は勝手に使って良い物ではない。だからコレも小生が「実朝公生き延びた説」と言う可能性の一つを示す証拠だと思う。つまり、実朝公御自身が自らの身代わりに成った波多野家の武者の供養の為に御寺の建立を事件直後に指示して源氏の笹竜胆紋の使用を許した可能性が有るなんて事も有るんじゃないかと少し思っていたりする。
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まぁ、今と成っては解らないから歴史は面白い。
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金剛寺は臨済宗の御寺なのだが、山門をくぐると右手に・・・

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御地蔵様がいらっしゃる。この様に御地蔵様が沢山入口にいらっしゃる場所は、元々は真言宗寺院か天台宗寺院だった場所が多い。河内源氏の殿様は真言宗と御縁が深く、古くから源氏の御家人だった武士の家は鎌倉時代初期までは真言宗を宗旨にしている武将達も多かったので秦野市東田原に在るこの金剛寺もスタートは真言宗だったのかも知れない。
なんと鎌倉の臨済宗の高僧の退耕行勇和尚様が中興開山と成って大きな寺院に成っているそうだ。
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鎌倉市大船に在る北条泰時公の菩提寺の粟船山常楽寺とも御縁の深い高僧だな。
つまり、この一、御家人の波多野家が開いた秦野の金剛寺には常楽寺と同等にする“それだけの格と意味が有る”と言う事だ。
実朝公を救ったか・・・実朝公を葬ったか・・・どっちにしても忠義に溢れた波多野家らしい御寺だな。

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現代の境内は整備されておりとても綺麗だった。
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可愛らしい小僧様。

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本堂も立派。

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本堂に向かって左手に寺務所。ここで御朱印を頂ける。
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生憎、当日は実朝公没800年の追善供養の前日で準備に慌ただしく、予め用意された紙の御朱印しか頂けなかった。
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又、桜の季節に弘法山を訪れて今度は御朱印帳に頂きたいと思う。
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金剛寺の御庭にもユーモラスな石仏?が有る・・・何だか千と千尋の神隠しに出て来る“坊”みたいだ(笑)。

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御庭はとても綺麗だった。
本堂の右手に庫裡(くり=厨=厨房=現代では居住部分の意)が在るのだが、その庫裡の裏にとても重要な神社の御社が在った。

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余り目立たないし、鐘も突けない様に成っているが実は臨済宗にとってとても大切な神社なのだ。
もしかしたら現在の御住職の御家族は知らないのかも知れない。
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半蔵坊権現と言い、臨済宗鎌倉五山第一位の格を有する鎌倉の建長寺こと巨福山建長興国禅寺の守護神が奥院の半蔵坊権現なのだ。
下の写真は鎌倉建長寺の奥院、半蔵坊権現の参道の写真。
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山岳信仰の神様で、天狗信仰とも結びついている。だからもっと檀家さんにも御参りして貰いたいと個人的に感じた。
日本神話も大切にして来た臨済宗の寺院らしく、境内には稲荷社も在った。
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ちゃんと御参りして毎回行く先々で旅の安全を御守護下さる御礼を、この日も宇迦之御魂神に御伝えした。
その稲荷社の在る場所はどうやら“田原学校跡”と言う場所でもあるらしい。
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調べても判らなかったが、恐らく江戸時代末期か明治時代位に設立された学校の跡なんだろう。
寺子屋が昔は児童学問所の役割を果たしていたので、明治時代に小学校が設立される様に成ると多くの神社や寺院の境内が小学校建設に提供された歴史も有る。
まぁ、詳しい事は今もって何も解らない、今度、秦野市の教育委員会にでも聞いてみようと思う。
この金剛寺は当初の訪問予定には無かった場所だが車の中で地図を見ていて気が付き実朝公の首塚近くの御寺なので「もしや」と思い予定を変えて参拝したが、忠臣波多野家と実朝公の御縁を辿れてとても有意義な時間を過ごせた。
そう言えば波多野家の後日談だが・・・
波多野家は鎌倉幕府の中央ではなく、後に京都に赴任して六波羅探題(ろくはらたんだい=西日本監視の組織)に評定衆(ひょうじょうしゅう=役員)として活躍する事に成る。
室町幕府でも評定衆に成り、後に丹波国で大名化する。この大名化した波多野家と戦ったのが織田家臣だった明智光秀公な訳だ。明智光秀公は母親を波多野家に人質に出して、波多野家と停戦して織田家臣に成る様に独断で講和するが信長公は波多野家を許さずに決裂したことで明智光秀の母親も殺されてしまう。これが一説には本能寺の変の遠因に成っているとする場合も有るが、まぁ可能性の一つでもあるだろう。小生としては波多野家は足利家に忠節を示して足利義昭の煽動で反織田の姿勢を貫いたのだと言う可能性も有ると思うが、まぁ詳しい事は解らない(笑)。

こんな風に色々と歴史に思いを巡らす事が出来たり、実朝公に御挨拶出来て満足し、次の目的地の弘法山から見る紅葉と富士山の撮影、そして鶴巻温泉に日帰り入浴しに行く為に再び車に乗り込んだ・・・
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→次回その④へ続く。

皆さんは鎌倉市の二階堂地区に源頼朝公が建立した壮麗な“永福寺”と言う御寺が曾(かつ)て存在していたのを御存知でしょうか?
その御寺は有名な京都府宇治市の平等院鳳凰堂や奥州藤原氏の拠点平泉の毛越寺と比肩して壮麗と当時は言われた寺院でした。
近年その永福寺跡の発掘調査が進み、この度、鎌倉市によって史跡として整備された記念に鎌倉歴史文化交流館で企画展“甦る永福寺”が12月09日(土)まで開催される運びと成りました。
鎌倉歴史文化交流館 企画展甦る永福寺 
小生は直接知り合いがおり今回の招待券を頂いていたので企画展の見学に行って参りました。
知り合いの職員の方と情報交換も有ったり調べ物を御願いしてあったので丁度良かったんですね。

先ず、鎌倉歴史文化交流館自体が今年開館したばかりの博物館で余り知名度も高くないので全国的には御存知の無い人も多いと思いますが、小生の個人的な感想として・・・
中規模の博物館ながら「恐らく南関東で一番、展示と解説の見せ方が美しく解り易い」美術館の様な素敵な博物館なのです。
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それもそのはず、この場所は旧三菱財閥岩崎家が住んでいた邸宅跡にして鎌倉時代の大寺院、無量寿院の跡地でもあります。建物も岩崎家の後にココに住んだ某出版社社長の巨大な自宅を改装しているので現代建築としても見応えが有りますよ。
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どんな場所かは以前に“今年6月の休日雑記”の中で解説しているので、博物館自体の様子を知りたい人は御参考までに以下の記事タイトルをクリックして記事を御覧下さい。

さて、では今回の解説の本題に戻ります。

この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は“館内の展示物の全てが写真撮影OK!”な上に、“触れる為の展示物も存在している”所です。常設展の素晴らしさは休日雑記の中でも紹介して有るので、其方(そちら)を御覧頂ければ良く感じ取って頂けるかと思います。
学芸員さんは歴史の楽しさを伝える為に、来館者と鎌倉時代の人の“歴史の時間を共有して貰いたい”との思いから、今回は発掘された永福寺の瓦2種類を実際に触ったり持ってみたりする事が出来ます。
体験を大切にする素晴らしい学芸員さんの素晴らしいアイディアですね。
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ジムで筋トレしまくってる小生でも「ん?」と感じる程度の重みは有ります。
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これは女性や子供からしたらソコソコ重いんじゃないかと思いました。実際に持つ事で御寺の規模を感じられれば子供にも良い経験に成りますね~♪。学芸員さんGood job👍
他の博物館はショボいレプリカの写真撮影すら拒む場所が殆(ほとん)どですからね~。
企画展で最初にパネルの解説で興味を惹かれたのが源頼朝公の彫像の写真でした。
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色が落ちちゃってますが、造形は良く姿を留めていますね~。
甲斐善光寺に保存されているらしいので、本来は信州の大寺院の善行寺から武田信玄が略奪した彫像の様ですね。武田信玄は信州や関東に来ては略奪と強姦と腐女子の奴隷売買を行った悪逆非道な輩として有名です。まぁ、この頼朝公像も鎌倉時代のまま信州の善光寺に在ったら、武田氏の滅亡で後ろ盾を一時無くした甲斐善光寺に保存されるよりも色彩も状態良く残ったのかも知れませんね。
次に目を引いたのが宇治の平等院鳳凰堂と平泉の毛越寺跡の写真です。
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実はこの両方が鎌倉の永福寺に酷似しているのです。
鎌倉歴史文化交流館 永福寺CG 
それもそのはず、そもそも頼朝公は都の文化が御好きな風流人だったのですが、奥州征伐で藤原氏の拠点の栄え様をまざまざと見せつけられ、そして自分と同じ様に風流を愛した奥州藤原氏の文化をリスペクトし、“平等院と毛越寺の両方の良い所を取り入れて永福寺を造営した”と言うのが通説に成っています。確かに発掘調査後の予想復元CGは両方にソックリですからね。
そんな頼朝公に建てられた永福寺も各時代に火災で再建されたり規模も様子も少しづつ変化した様で、その調査結果も見取り図で解説されていました。
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こんな感じで説明が有るので、素人でも良く理解できます。
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他にも経塚から出土した経筒や龜も展示されています。
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とても美しい水晶と純金製の数珠や・・・
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・・・盒子(ごうす)等も展示されています。
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800年前の人も素敵な装飾品を身につけてらっしゃったんですね~。
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他にも出土した柱や永福寺の瓦を組み上げた展示物が有ります。
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屋根や柱の装飾品も。
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・・・う~ん、全部の写真を掲載してしまうと企画展の面白みが薄れてしまいますので、展示物の写真の掲載はここまでにして置きましょう(笑)。
実は学芸員サンのアイディアと大学生有志ボランティアで今回、この他にも見所が有ります!
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これらの復元CGをバーチャルリアリティーで体験出来るんです!
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台数は3台有り、上映時間は一人につき5分程度、恐らくこの企画展に人が殺到すると混みあうので、まだ博物館の知名度の低い(笑)今の内が、この体験をしに行く絶好のチャンスだと思いますよ~♪
なんせ博物館の中は風雨も寒さも関係無いので、これから秋冬に向けても良いレクリエーションに成ると思います。
今週末、又、天気荒れるらしいですがソレも関係無く楽しめますしね(笑)。

皆さん、どうでしょう?
企画展“甦る永福寺”を見学して見たく成りませんか?小生の様に招待される客で無くても、ここは広く歴史と鎌倉文化を広め様と言う志の高い経営方針の博物館なので一般来場者の入館料も500円と激安です!

そして鶴岡八幡宮の近くの鎌倉国宝館では今年の10月21日時点~12月03日(日)の間、「鎌倉公方足利基氏」企画展も開催されています。永福寺展と合わせて見に行くなら今がチャンス!
・・・まぁ、紅葉の季節に成ってから扇ヵ谷地区の海蔵寺や佐助稲荷神社界隈の紅葉散策や、反対側の浄明寺地区の浄妙寺や報国寺の紅葉散歩と合わせて見学に来るのもアリですね♪
一応、以下に鎌倉歴史文化交流館のアドレスと企画展のホームページ掲載して置きます。
【鎌倉歴史文化交流館】
【CGによって復元された永福寺ホームページ】
http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/cg.html

皆さん、そろそろ肌寒さを感じる季節に成りました。風邪等引かれません様に~。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪



















これの続き。
  ↓
休日雑記2017年07月15日の【前書き】。
  ↓
さて、前回の【前書き】の冒頭で書いた通り、この日は三浦義意公と御父上の三浦道寸公と叔父上の三浦道香公と関与した歴史偉人達の供養の納経の為に海蔵寺を訪問し、その後に天然記念物の諸磯隆起海岸の地層の写真を撮影に移動した。

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何でここに来たかと言うと、歴史偉人の顕彰活動にこの8万年前には海底だった丘の説明が必要だから。ここでは詳しい事は書かないが…
まぁ、一部のステレオタイプ考古学者が後生大事にしている通説は神奈川県に関しては通用しませんよ!と言う話を書くのに隆起速度だけでなく気温変化による海岸の後退速度や河川の土砂の堆積も、御城にも関係しているし多くの延喜式内社の位置関係にも関係してますよ!
…と言う説明の資料の写真撮影の為。
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昭和初期の文部省や地方自治体ってのは本当に地域単位での文化財や史跡の保護に熱心で、多くの天然記念物や重要文化財を史跡指定して我々に残して下さったのだが、戦後の左派染みた役所の連中は無文化で歴史も知らんし先人が残して下さった神奈川県下の歴史遺跡を僅か50年足らずで破壊し尽くした。三浦の場合、ちゃんと発掘したり郷土史を大切に伝えていたりするので、こうやって昔の天然記念物指定された場所も看板が作り直されたりしている。
う~ん、横浜市の水準は三浦に比べて雲泥の差(笑)。
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この地層が露出した部分が断層であり隆起した昔の海岸でもある。三浦にはこんな地形が多く有るが、ここは特に説明の看板の通り太古の時代のマテ貝の一種が掘った巣穴が小さい岩盤の穴なんだな。
この穴の露出で、どれだけ昔の地層がどれ位の期間を経て現在の地層に成ったか判る。
地質調査総合センター様にも色々と御教示頂いたのだが、2万年前の氷河期は現代の海水面より100m程下がっていた。逆に温暖だった縄文時代は現在よりも内陸にまで海が入り込んでいた。
つまり、地球が温暖化すると海面が上がると言うのは縄文時代に近づくと言う事なんだな。
さて、海の位置は現代では縄文時代よりも大分遠い場所にまで後退している訳だが、これは気温要因だけでは無い。
実際には大河川の土砂の堆積でどんどん海は埋め立てられる。海岸の岸壁の崩落でも岩が崩れ砂に成り砂が流され砂州が出来る。例を挙げるならこれが横浜の地名の由来に成った中区日本大通りに有った砂州の半島だな。あとは現在の川崎駅周辺。
そして気温変化の水位の変化と、河川の土砂の堆積以外に、もう一つ要因が有ってそれが地盤の隆起だ。
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この諸磯隆起海岸は8万年前に海だった所が既に標高30mにまで隆起していると、地質調査総合センターの担当者様から御教授頂いた。
この1万年でも5mも隆起したそうだ。つまり縄文時代ころから比べて地盤だけでも4~5mも上がっている。これに現代に近づく程に気温の寒冷化によって海水位が下がり海岸線も後退し、更に土砂の堆積で砂州が形成され陸地と成って行った訳だ。
ちょっと昔の考古学者は地質学者と違ってステレオタイプに「河川敷の近くの平地には弥生時代も人は住んでいなかった」と持論を展開する連中が多く、河川敷近く集落が在ったとする多くの古い神社の伝承をコケにしていた。所が最近になって出るわ出るわ川の近くの平地から弥生時代の集落の遺跡。
…以前、延喜式内社や式外社の伝承をコケにした考古学者達は「最近は川の近くでも人の生活の痕跡が発掘されています」と白々しい解説をしているが「おい、どの面下げて行ってるんだオマエ」とツッコミたくなる(笑)。
まぁ、そんな事を説明する参考の写真として、この諸磯隆起海岸は大切な素材に成るんだな。
観察してから写真をとり、満足して次の目的地へ移動。
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三崎漁港。この日は海南神社の夏の例大祭。
だから普段は都心部に出て働いてる三崎の出身者も皆帰って来て大賑わい!
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御神楽を演奏するチームが町内会毎に分かれて編成され、観光客を出迎えてくれる。
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当然ながら屋台も沢山出店する。
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そして本当に沢山の神輿が町に繰り出し熱気に溢れたパフォーマンスを展開する。
横浜市では絶滅してしまった古来の相模国の習俗だな。見ていて興奮する。
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子供達は屋台の方が気に成る様だね(笑)。
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左の屋台、アナと雪の女王って…許可取ってるのかな(笑)?
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三崎の商店街は昭和がそのまま残っていて小生はとても好きだ。だからたまにドライブに来てはブラブラしたりしてる。
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丁度、お昼も過ぎて小腹が空いてきた所に珍しい屋台を見つけた。
あげもんじゃ
興味が有ったので食事前に食べて見る事にした。
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もんじゃ焼きを春巻きかなんかの皮に挟んで揚げてあるんだな。
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皮も美味しいが、とにかくアツアツで食べるのに火傷しない様、注意が必要で大変だった(笑)。
でも御薦め!
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途中、新しい店が出来ていたので気に成った。ミサキ ドーナッツと言う店。
喫茶店?名前からするとドーナツ屋さん?今回は入らなかったが次回の訪問時は入って見よう。
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海南神社に着くと、既に全ての神輿は町内に出払って巡行中。割かし静かに参拝出来た。
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参道に民家を利用した喫茶ってんがオープンしていた。最近の開店の様だな。
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ここ海南神社は明治までは筌籠弁才天と言って三浦一族の信仰を集めた弁天様の神社だった。
鎌倉幕府で初代侍所別当に成った和田義盛公が船で房総へ渡る際に遭難したのだが、それを助けた御利益が有る神社で、更に前身の御稲荷様は三浦家が源頼朝公に付いて反平氏の軍勢を決起する切っ掛けを作った神託を与えた勝負の神様としても御利益が有る。
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そこに本宮神社の藤原資盈(すけみつ)公と、その御妻女である盈渡姫様を祀った御神霊を合祀して現在の形に成った。藤原資盈公御夫妻は京都で悪どい貴族の謀略で政争に敗れ、太宰府に逃げようとしたが船が遭難して東日本に来てしまったと伝承するが、そんな訳ゃ~ない(笑)!
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絶対に狙って坂東平氏を頼って亡命して来ている筈だ。だからこそ、三崎の領主に成れた訳だ。
御二人は三浦で庶民に文化教育を施した、謂(い)わば教育者の先駆け的な人物だった。その事を今でも感謝されており三崎の人々から神様として崇拝されている訳だ。
ところで海南神社には立派な御神木が有る。
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源頼朝公御手植えの銀杏だ。
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鶴岡八幡宮の大銀杏は台風で折れてしまったがコチラは健在だ。
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銀杏はなんか得体の知れないデッカイこぶがぶら下がっている。
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神社では前時代の事は良く解らなく成っている様だが、三浦家が崇敬した稲荷社なので水辺が昔は大切にされていた痕跡が有る。
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湧水地に石碑が建っていた。
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何だか陰に隠れているが昔の人が大切にした霊場としての池。
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まぁ、海辺の漁師町の神社なんでこんな絵も飾って有る。
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神楽殿で神職さんが御着替え中だった(笑)。
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本殿はどっからどう見ても弁天社や八幡社に近い様式なんだな、朱塗りの社殿で。
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境内には他にも金毘羅様が祀られている。これも海の神様、流石漁師町。
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境内には可愛い子猫達が沢山いた。何だか癒される(笑)。
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再び町に戻る。昔ながらの写真館…映画のロケ地に成りそうな雰囲気。
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何か知らないけれど東北の宮城県から来た人達が奉納舞かなんかを披露してらっしゃった。
観光客も足を止めて見入っていた。
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本格的に遅い昼食を食べる為に行きつけの寿司屋の紀ノ代に移動する途中、又、神輿が有った。
どうやら宮城県から祭りに参加に来ているのだろうか?
まさか?
宮城と言う地区が有るのだろうか?今度聞いてみよう。
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三浦映画社の前を通る。三浦半島での映画のロケに一役買っているNPOで、以前は多くの撮影した作品の関連展示が有ったが今回行ったら大半が撤去されていた。残念。
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とにかく過疎の三崎も賑やかなんだな、この1日は。
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目的地に到着。
紀の代(きのだい)サンと隣の黒羽亭は自分一人でも今回みたいにフラフラ散歩がてら三崎に来ては食べに来るだけでなく関西なんかの遠方からの来客や海外から友達が来たり外国人の友人が帰国する時等、機会が有る毎に来ている半ば行きつけの店。
以前も紹介した記事が有るので参考にして貰うと良いかと思う。→ココをクリック!
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この日も、いつも通りに前菜代わりに絶対に頼む“皮ポン”、鮪の皮のサラダみたいな料理を注文。
これがコラーゲンの塊なのだが程よい弾力が有って美味しい!
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それに小鉢丼セット。2つ頼んで確か1000円。この日は鯵の丼と鮪丼。味噌汁はセットでついてくる。
もしデートで行く人や子連れの人は、これを注文して別に料理を頼むと色々と楽しめて御薦め。
住所と連絡先は以下の通り。

御腹も満たして満足し、店を出て12日水曜日のリベンジで美味しい西瓜を買いに西瓜の直売所のザ・作兵衛へ移動…
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国道134号線沿い引橋の交差点から三浦海岸へ向かう道沿いに在る。派手な店なので直ぐに解る。
google mapで「直売ザ・作兵衛」と検索するとナビしてくれる。車じゃないと少々不便な場所。
ここは2年前まで看板娘の御婆ちゃんが店番をしていたのだが、骨折してから今の女将さんと若女将に看板娘の役目が引き継がれた。
まぁ、御婆ちゃんも今でも家で元気にしているそうなので何より。
夏は西瓜とメロンを直売、あと夏野菜も有る。
秋季には近くの蜜柑林を運営していてミカン狩りもやっているので子連れの家族には良いレクリエーションにも成る農園なのだ。そちらは石井みかん園で検索すれば出てくるだろう。
ここの店の西瓜は絶対に!外れが無い。どれを買って良いか解らない際は「甘そうなの選んでね~」と御願いすると美人若女将が選んでくれるので誰でも安心して買える。
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この日は15日土曜日、前回の11~12日に三浦半島に宿泊した帰りに立ち寄ったが店が休みで買えず、仕方なく別の店で西瓜を買ったが甘くなかった。やっぱりザ作兵衛がイチ押しの直売所な訳だ。
それでリベンジに来た。
その時の記事
   ↓

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ザ作兵衛では西瓜とメロンを購入。あと石井みかん園の蜜柑ジュース。
家族で食べたが、やはりとても甘く良い1日の〆に成った。

ふむ…三浦市の人々が無形文化財や天然記念物、そして農業と漁業をとても大切にして下さる御蔭で良い週末を凄し癒されました。ありがとう。

この三崎漁港や油壷周辺の他にも三浦市には城ヶ島や荒崎海岸、和田長浜海水浴場、江奈湾や毘沙門堂、剣崎灯台等沢山の封子明媚な観光地が有り夏の海辺を楽しむには持って来いです。
是非!お盆休みもその後も、皆さん三浦市を訪れてみては如何(いかが)でしょうか?
タグ三浦半島の記事→http://yoshi-kanagawa.blog.jp/tag/三浦半島

この記事を午前中に少し書いていたらいてもたっても居られなくなり、夕方に和田長浜(わだなはま)海水浴場と荒崎公園を散歩しに行って来ました。
とても綺麗でしたよ!

和田長浜海水浴場
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荒崎公園(神奈川の景勝50選、荒崎海岸)
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では、又次のブログ記事で御会いしましょう!





前回の記事
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休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼
  ↑
コレの続き。
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前回、江ノ島の鳥居をくぐった直ぐ近くに有る旅館、岩本楼が明治時代まで江ノ島神社を含めた欽明天皇以来の天皇家の聖地としての江ノ島とその洞穴の管理を任されていた別当寺の‟岩本院”と言う寺院が前進だった事、明治以降に廃仏毀釈で旅館に転業し岩本楼と言う立派なホテルに成った事、そして岩本楼様の御厚意で宿泊客ではないのに資料館を見学させて頂き、又、昔の話もいくつか伺った事を書いて記事を一区切り着けた。
・・・現実社会での仕事が忙しく、そこから記事更新に10日間近く開いてしまったが、今日はそこからの続き。
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岩本楼さんの門を出て江ノ島神社の参道に復帰する。
すると目の前の階段の先に真っ赤な江ノ島神社下社の明神鳥居と唐様式の瑞心門が見えて来る。
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ふむ、美しい。ここに来ると一層「江ノ島に来たぞ~!」と言う感じに成る。
江ノ島神社の御祭神は恐らく最初は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=宇賀神だったはずだ。
そこに源頼朝公によって、宇賀神と同一視された弁才天様が祀られ、江ノ島弁才天として有名に成った。
弁才天様は名前が御神威を中国語訳した名前で、本来は一部分が仏教の元に成った古代ヒンドゥー教の神様サラスヴァティー神だ。
大変に美人な神様で男の神様からモテモテだったので江ノ島神社は女性にとって縁結び、もとい女性的な魅力の向上の御利益が有る訳だが、それよりも本来は水神様、軍神、音楽神そして財神としての性格が強い神様だった。
・・・まぁ、こんな女性が奥さんだったら良妻賢母間違い無いだろうが釣り合いの取れる旦那様はヒンドゥー教でサラスヴァティ神の旦那様とされたシヴァ神こと大黒天様みたいに最強最高の喧嘩の強さと社会的な強さを兼ね備えた完全無欠の男性じゃないとダメなんだろう。
・・・はい、小生は弁天様みたいな女性の旦那様に成る資格落第ぃ~(笑)。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
まぁ、そんな弁天様なので水神様と同時に軍神として特に源頼朝公も信仰した訳だ。
ついでに宇迦之御魂神=宇賀神様は御稲荷様の神様として存続している。
そもそも古代人にとっての財産は飲んでも病気に成らず夏にも枯れない水源だった。だから宇賀神様が湧水地に祀られた。
弥生時代~古墳時代に成ると農耕が全国に普及し豊かさの象徴が米に変わった。だから宇迦之御魂神に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の字が当て嵌められた。
そして更に平安時代末期に成り貨幣経済が導入されて豊かさの象徴が「金銭(きんせん)=貨幣」に成ると、財神で水神としての弁天様が倉稲魂神様に習合された。この段階が源頼朝公達の頃の話し。
ところが明治時代に成ると、森有礼等のキリスト教に改宗したりイギリスやら欧米列強の影響を受けた明治の政治家達がプロテスタントを模した国造りを進める中で、日本の宗教改革もとい弾圧を始めた。
神仏分離令と廃仏毀釈だ。
宗教改革と言いながら、アジア由来の仏教を弾圧し日本古来の神様と無理矢理切り離してしまった訳だ。
そして明治に正しい神仏分離に失敗し、弁天様は壱岐嶋媛(いちきしまひめ)の女神様が水神だったので、日本の神様の名前に変える為に歴史を知らない宗教改革者によって宇賀神では無くて壱岐嶋媛命とされた。

日本が有史で仏教を導入したのは西暦600年前後、しかし実際は応神天皇こと大鞆別命(おおともわけのみこと)は神託で自らの別名を“八幡大菩薩”と名乗っており更には、その皇子の菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が日本で最初にアジアの学問を導入した事が知られている事から、西暦300年代には既に日本の神様の中には大陸から移住して来た人と供にインドや中国から大陸の神様も日本に移ってきて日本の神様と仲良く祀られ、そして日本の神社様式で正しく祀られていたり、奈良時代にも成ると御寺でも日本の神様も大切に祀られていた訳だ。
ところがプロテスタントは一神教であり救主キリストを生んだ女性マリア様を崇拝する宗教だ。だからか知らんが明治の浅はかな宗教改革者は本来は地位の序列等無い日本の神様、それぞれの個性を尊重し得手も不得手も有る神様達、助け合ったり喧嘩したりする日本の活きた神様を女性の太陽神である天照大神を頂点として再編成してしまった。
これは天皇家の祖先神なのでやむを得ない事なのだが、本来は大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)でも、古事記でもそうである様に国を生んだ神様は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)だった訳だ。
その宗教改革のどさくさに紛れて明治政府は神社や御寺の収入源だった田畑や町の土地を没収し、結果的に神社も御寺も荒廃してしまった所が非常に多かった。特に神社は遷座(ぜんざ=神様の引っ越し)・合祀(ごうし=他の神様の神社に同居させる)の名の元に社殿を破壊され永久にこの世から失われた場所も多かった。
もっと酷いのは宗教改革をする立場の人間が神様の習合(しゅうごう=他の神様と同一視される事)の経緯を知らず、全く見当違いな神様を仏教と神道の分離時に海外の神様を日本の神様の名前に戻すのでは無く変更してしまった訳だ。
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現在の江ノ島神社は宗像三女神が御祭神とされるが、これは日本の天皇家の歴史の2600年の日本の歴史の中で明治以降のたかだか200年足らずの明治政府が唯一失敗した宗教改革の浅い間違った歴史でしかない。
本来の弁才天様の前身の神様はインドのサラスヴァティ神だが、日本では宇迦之御魂神に習合されている。だから日本全国の洞窟の湧水地に祀られていた宇迦之御魂神の神社に、弁財天様も祀られる様に成った訳だ。だから神仏分離を行うのであれば実際は弁天様は宇賀神に名前を改めなければいけなかったのだが、そんな事すら明治に宗教改革の名の下に多くの神社仏閣の規模を縮小させ、本来は自然崇拝の聖地と一体の神社をキリスト教の教会の様に神社の建物と十字架の代わりの鏡(かがみ)を拝む宗教に改革してしまった訳だ。
そもそも御神鏡が日本に最初に来たのは卑弥呼の時代、三国時代の中国の魏帝国からの下賜品が送られて以降でしかない。まぁ、古代豪族と直結した格式高い神社に鏡が祀られているのは、その神社の有る場所に宮殿を置いていた古代豪族が邪馬台国に直結した古い場所だとの証明に成る訳だが、そこから既に海外の影響を排除しきれていないし文化から海外の影響も受けながら発展して来た日本の歴史を切り離せていない。
ハッキリ言って中途半端で詰めが甘い。だから森有礼は不敬な人間で中途半端で、日本神道を利用して別物に作り替えようとしてプロテスタントの意識が抜けきれずボロが出て、伊勢神宮の社伝に靴を履いたままで土足参詣して保守派に切り殺された訳だ。
プロテスタントも素晴らしい面が有るが、彼の場合、プロテスタントを政治利用して己の思うが儘に文化を変えたのが天罰を受けた原因だろう。
因(ちな)みに森有礼等と異なり伊藤博文公は横浜市金沢区野島の金沢別邸で大日本帝国憲法の起草をした際に、二宮町の延喜式内社の二宮川匂神社や、金沢区の寶勝寺等を参拝しており古来の日本の宗教文化を大切にされていた。

日本の神様と仏教の仏様とインドの神様が仲良くしてからの歴史は約1700年、天皇家の2600年の歴史の中でも大半を占める。これを無理に引き剥がす理由は「西欧化」を目指した事以外に無い訳だ。
実際、明治以前は日本の神道も偶像崇拝の場所も多かった。仏像の様に御神像を御神体として祀っていた場所だな。鏡ではなくて。
所が明治以降、その御神像は日本社会から一斉に消えた。偶像崇拝を禁止するプロテスタントの影響をモロに受けた森有礼等大悪人達の所業だろう。
消えた御神像はどこに行った?転売されて利権に成ったよな?
もしくは心有る宮司様は御金を払って知り合いの御寺に管理を御願いして神様と「さようなら」する羽目に遭った訳だ。
だから言う、日本の宗教は江戸時代の価値観に戻すべきだ。
但し条件付きで、「本地垂迹」等とアホらしいどっちが上位かと議論する輩は僧籍も神職も取り上げてしまえば宜(よろ)しい。どっちも裏でどっちも表。もしくは別々だけれど一緒に祀るそれで良い。
大切な事は神様は日本文化に従って日本の神社様式で祀る事、御寺では仏様と同じ様に昔の和尚様達の様に仏壇に御祭りして御経をあげて庶民と世の中の平安を祈願して頂ければ宜しい。
そう、個人的に思う。
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さて、そんな事も有ったが江ノ島神社は日本古来の伝統を守り宇賀神様と弁天様を別々にしたがちゃんと両方とも大切に残された。残した上で明治政府の宗教改革者の不見識も飲んで、ちゃんと日本の古い神様として水神様としての宗像三女神様達を御祭した訳だ。
だからね、江ノ島神社の弁天様は仏教の法具を持ってらっしゃるんです。昔のままね。
こんな江ノ島神社、歴史を知らないネトウヨと新宗教にまみれ保守派に似て非なる右翼の石原慎太郎達の所属するカルト団体は江ノ島に来たら発狂するんじゃないかと思う(笑)。
しかし、ここはそんな偽保守派を頭から叩き潰す事の出来る歴史偉人が愛した場所で、日本を守った明治の元勲達が森有礼達とは異なり古来の価値観を大切にして来た事を知る事も出来るんだな。
児玉源太郎
ここは初代台湾総督を務めた児玉源太郎先生が愛した場所で、対ロシア戦略を練った島だった。
江ノ島の文化と風景と食べ物が大変に御好きだったそうだ。
台湾の初代総督も務めた方なのだが・・・
没後も台湾の人々から尊敬され、台湾の人により児玉神社が開かれ江ノ島から日本人を見守って下さっている。
今の石原慎太郎をはじめとした一派の自称保守の偽保守はハッキリ言って浅い。
奴等は西南戦争を起こした西郷さんや京都の文化財や天皇家を守った新選組の近藤さん達、幕末英雄の面々が既に明治天皇に赦免されている事すら知らずに「現代で罪を許し靖国に祀る云々・・・」あのな、明治天皇に許されていて、日本の為に命を落とした人も、敵国人で勇敢に戦った人も、あらゆる犠牲者も靖国に平等に祀られているんだからとっくに明治天皇に功績を認め許された時点で靖国に合祀されているんだよな、近藤さんも西郷さんも。もしされていないのなら、靖国の存在意義に疑問が出る訳だ。
そもそも児玉源太郎先生は日本文化も西洋文化も優れた物は隔(へだ)て無く愛された訳だ。
さて、そんなこんなで江ノ島は児玉源太郎先生が愛した場所なのだが、現代ではシラスが江ノ島や湘南の名物として有名だが当時~昭和初期まではサザエが名物だった。
そして明治時代に登場したのが親子丼、親子丼とサザエを合わせた名物が江ノ島の名物だったのだが、これはもう少し後で実物の写真を御店したいと思う。
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江ノ島は5ヵ所の聖地霊場から構成されている。
辺津宮・・・恋人達で賑わう一番神社らしい場所、ここで御朱印も頂ける。弁天様を祀る御堂も在る。
中津宮・・・慈覚大師が造営した御堂が前身。とても彫刻の綺麗な場所。
奥津宮・・・本宮。八方睨みの亀の天井絵や、源頼朝公奉納の石鳥居が現存する。
龍宮(わたつみのみや)・・・龍神を祀るとされるが綿津見大神の事、神話では素戔嗚命(すさのおうのみこと)が海の統治を任されている事や素戔嗚命の御神孫の安曇一族の祖先神が綿津見大神とされ、その前身が五十猛(いそたける)神なので、五十猛神の別名と考えた方が自然だろう。
岩屋・・・そもそもの江ノ島神社の始まりの聖地。ここを天皇家の勅願所に欽明天皇が定めた当時は神社は存在せず、洞穴そのものが聖地だった。海辺の洞窟にも関わらず飲用に耐える清涼な清水が湧き出る聖地。
・・・史実を元に話すと、大体そんな感じだな。
瑞心門を抜け、石像の弁天様の前の階段を過ぎると辺津宮の手水社が在る。

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石灯籠がとっても立派!欽明天皇、そして源頼朝公、北条時頼公、北条時宗公、そして戦国時代の北条氏康公が参詣して不利な合戦で奇跡の大勝利をした御利益に預かる人が鎌倉時代から絶えないので経済的にも豊かな神社として存続出来た訳だな。
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今回の辺津宮訪問は初夏の6月末、既にとても多くの人で賑わっている。
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辺津宮を正面に向いて右手に社務所が有り、そこで御朱印を頂ける。
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2種類有って、聖地としての江島神社の御朱印、そして昔は岩本楼が祀っていた弁天様の御朱印。
小生は両方拝領する事にした。
江島神社の御朱印を延喜式内社・式外社専用の御朱印帳に、弁天様を御稲荷様やなんかの御朱印帳に頂いた。
待つ間参拝・・・
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流石、弁天様を本来祀る神社だけあり、欄間には素晴らしい弁天様や天女達の彫刻。
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良く見ると彩色の名残が有るので、昔は朱・青・金等に彩られた極彩色の神々しい彫刻だったんだろうか?社殿は比較的新しく見受けられる。恐らく昭和の再建か改修が入ってるだろう。
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参拝を終えると御朱印も書き終わっていたので受領し、頼朝公が岩屋に祀った八臂弁財天様を拝みに弁天堂へ移動。
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写真撮影は出来ないので外観だけ。この中には文化財の八臂弁財天様と女体の弁天様像が鎮座している。
江島神社に来てココと洞穴を御参りしないのは全く意味が無いのと同じ。
ちゃんと御参りし、弁天様と、弁天様を信仰した頼朝公にも毎日御守護頂いている御礼を告げた。
弁天堂を出て山頂を目指す道に行くと直ぐに八坂神社が有る。
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余り大きくは無いが、町の中に在ったら普通に立派な規模に入る社殿だ。
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素戔嗚命が御祭神の神社、やはり海の神様なので江ノ島の漁民から崇敬を集めたようで、廃仏毀釈の影響もなんのその、牛頭天皇としての素戔嗚命を祀る天王祭りが今でも行われているそうだ。
これは尾張の津島大社と同じだな。
織田信長公
余談だが織田信長公の祖先は福井県劔神社の宮司家で代々、牛頭天王こと素戔嗚命を御祀りしていた事は小生のブログ読者の方々は既に知っていると思う。
だから尾張の津島大社の祭礼に、若い頃の信長公は飛び入り参加して庶民と一緒に踊ったり家臣達と笛を吹いたりして農民や町人と友達の様な関係を築いていたそうだ。
何とも、庶民を愛した信長公らしい逸話だ。
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八坂神社を後にして先に進む・・・
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・・・すると今度は秋葉社と稲荷社が合祀された御社が在る。
う~ん・・・弁天様と同一視されていた御稲荷様が更に別の御社にいらっしゃって各時代の変遷関係無いけど、これはこれで個性が有って良いかな。秋葉社は秋葉権現と呼ばれた火事除けの神様だな。軍神としても信仰された神様だ。
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これは南宋の文化人が寄贈した石碑らしいのだが、数百年の経過により字が磨滅して読めなかった。
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説明は有るので参考にすると良いかと思う。
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現代の石碑。
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猿田彦大神。山の神様。
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これを石碑に揮毫した阿部石年さんは儒学者で書道の名人でもあったらしい。良く知らん。
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江島神社のザックリした道案内が弁天様の琵琶に成っていて可愛かったりする。
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参道には紫陽花が咲いていて6月24日当日は見頃だった。まぁ、本来の目的は江ノ島の岩本楼と江島神社散策の後に鎌倉の長谷寺で紫陽花見物だったので、時期的には綺麗で当然だな。
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あと小さい花壇も有った。
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そうこうしていると中津宮への階段を上がり、大きな石灯籠が見えて来て、中村座の字が掘られている。ふむ、これが中村勘九郎さんの御先祖様が奉納した物なんだな。江戸時代の立派な灯篭。
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小生は辺津宮よりも中津宮の方が落ち着いているし神社らしい神社で好きだ。
ここでは結婚式も挙げられるそうだ。江ノ島は旅館も有るし観光地として有名なので、地方から友達や親戚を招いて江島神社で結婚式やって旅館に皆で泊まったら良い思い出に成りそうだな。
きっと、そうやって幸せな夫婦に成り添い遂げた男女も多いだろう。
そんな幸せを御裾分けして頂ける場所な訳だ。
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美しい恋したい・・・目下、独身の小生を代弁する言葉だが小生は美しくないので慎ましく幸せに恋したい(笑)。
中津宮を過ぎて山を登ると山頂のサムエルコッキング園と展望台。
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恋人達の聖地だ。小生には関係ない(笑)のでスルー(笑)。
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暫く行くと下り坂に成るが、この一角には多くの民宿や旅館、食事処が有って面白い。
妹が愛媛県松山市でまだ大学生だった頃、妹が友達を連れて帰省した際に二人をここに連れて来てあげたのを思い出し、当時食事した店を探す事にした。
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階段降りて直ぐ見つかった(笑)。
海花亭さん。ここで昔からの名物の江ノ島丼や現代の名物のシラス丼、他にもお刺身や色んな和食を食べる事が出来る。
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確か旅館もやってらっしゃったと思う。最初に来た時は浴衣の宿泊客がいたから。
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ここは展望席が有り涼しい浜風に当たりながら食事が出来て気持ちが良い。
小生は当然、江ノ島丼を注文。
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まぁ、最初の方で書いたけれども、江ノ島丼と言うのはサザエの卵とじ丼の事。
江戸時代~明治時代~昭和初期、まだまだ鶏卵は庶民は普段口にする事の少ない滋養強壮の食べ物だった。それに明治生まれの親子丼と江ノ島名物のサザエをアレンジして出来たのが江ノ島丼な訳だ。
きっと味は皆さんの想像通り・・・
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・・・親子丼(笑)。でもサザエ。
因みにサザエやカタツムリなんかは滋養強壮勢力増強の効果が有るので、卵と合わせて江戸庶民や明治の人々にとっては体力の付く食べ物だったんだろう。
現代人の小生には身近な味付けの食べ物だが。
きっと児玉源太郎先生も旅順攻略の作戦を立てながら、この江ノ島丼を食べたりしたんだろう。
同じ物を食べられたかも知れないと思うと何だか嬉しい(笑)。
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展望台を見上げながら清々しく食事をさせて頂きました。海花亭の皆さん、ありがとうございました!
海花亭を出ると横に御寺が在る。
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江ノ島大師、最福寺別院、真言宗。まぁ、近年の造営なので歴史は浅い。岩本楼が修験道寺院を止めて久しいので、修験道と関係の深い真言宗の寺院が開かれたのだろう。
そこの前を通り過ぎて注意しながら道の脇を見ていると、宗教史跡が有る。
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時宗を開いた一遍上人の所縁の場所。
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この付近は頂上で海辺の岩屋の水を汲みに行くのも不便だったのだが、一遍上人が井戸の水脈の掘りあて島民の生活を助けたそうだ。
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ふみ、庶民を助ける事を実践された素晴らしい逸話だな。
今回、改めてこうやって全ての石碑等を見て回ると時間が経つのが早く、実は島を離れるまで4時間位江ノ島の中を歩き回っていた様だ。
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更に先に進むと山二つと呼ばれる景勝地に出る。
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実はこの下にも古代からの霊場が有るのだが、降りる術が見つからない(笑)。
仕方が無いので先に進む。
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江戸時代からの鎌倉名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)の店が今でも沢山有る。
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そして又、宗教的な史跡。
今度は木食上人の所縁の場所。木食上人は真言宗の僧侶で法名を行勝とおっしゃった。
台風や長雨を止める祈祷等を得意としたそうだが、要は農民の味方、精神的な支柱だった人物な訳だ。
当然、祈祷をする以上、日本の神様への知識も深かっただろうし、だからこそ水に纏わる江ノ島の霊場に修行に来ていたのだろう。
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帰りに行こうと思って行くの忘れた(笑)。
この近くに凄い種類が豊富なソフトクリームの店が在った。
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これ、カップルならシェアして食べたら良い思い出に成りそうだ。
・・・ワサビ味とかシラス味は御免こうむるが(笑)。
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そして、もう一つ文化財。
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サルが沢山彫刻された珍しい庚申塔。
普通は見ざる聞かざる言わざるの三猿と、何か仏様や神様が彫られているんだけれど、ここは猿が沢山で可愛らしかった。
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謂(いわ)れは良く解らないらしい。
奥津宮に辿り着くと紫陽花が綺麗だった。
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もしかしたら長谷寺に間に合わないかも知れないので、ここで紫陽花をジックリ見学して置いた。
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健気に咲いてカップルを楽しませていた。偉いな君達。小生は中々人の役に立つ事を出来ず自分に不甲斐無さを感じる事が多いんだよ。君達は存在するだけで偉い。
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ふむ、心を癒してくれた紫陽花君達、ありがとう。
この場所が奥津宮の参道、神社の最深部の入口となる。CIMG4351
そして、この石の鳥居が源頼朝公の建てた物だそうだ。良くも応長の大地震、明暦の富士山噴火、関東大震災を乗り越えて現存していてくれた物だ・・・。
その手前右側に石碑が有る。
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字が摩耗して読めね~。
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ので看板を見てね(笑)。
その近くに亀石と言う名石がある。これも宝物の一つだ。CIMG4356
今は木に埋もれているが、これが鎌倉十石の一つに挙げられた名石らしい。
確かに亀に見えるんだな。これが天然の造形だから価値が有る訳だ。
その左手前に力石が有る。
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古い神社には良く有るのだが、昔の力持ちがこれを持ち上げて力比べをしたんだな。
多分、現代人の中で可成り力の有る小生でも持ち上がるかどうか。
実は江戸時代の人の男性平均身長は150~160cm程度。しかし飛脚の人達や肉体労働の町人の幕末の写真を見るとビックリするのだが、誰も彼もがプロレスラーの様なガタイをしている。
有名な話だが、武士は絶対に火消しやなんかに喧嘩を売らなかったそうだ。絶対に負けるから。
江戸時代当時の武士は既に官僚化が進んでモヤシが多かったそうだ。刀を抜けば殺人未遂だし、当時は士分は庶民を守るべき立場だったので庶民を傷つける事は実は当たり前なのだが許されなかった事を知る人は少ない。切り捨て御免なんてのを信じている奴はド阿呆で、武士側に落ち度が有れば普通に犯罪が成立する訳だ。
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そして山田検校の碑。
これ、①の記事で紹介した江戸時代の針治療のお医者様だね。江戸時代の名医らしい。
そしていよいよ奥津宮。
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明治以降の説明に価値を感じない小生。その前の1000年間の江ノ島の歴史の方が大切。
とは言え、宗像三女神様達も海上交通の安全を守って下さる大切な神様なので、ちゃんと御参りして来た。
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ここは拝殿の屋根に文化財が有るので絶対に御参りして天井を見上げて欲しい。
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八方睨みの亀。
ガメラみたいだ・・・
奥津宮の少し先に龍宮が在る。
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どうやらこの祠の真下が、江ノ島の古来からの聖地の洞窟らしい。
ここ自体は新しい礼拝所で、小生は特に・・・
御参りは外から拝んで岩屋を目指して先に進む事にした。
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にゃ~ん♡
江ノ島は島民に愛される猫ちゃん達が多くて癒される場所でもあるんだにゃ。
今回も歩く先々で猫ちゃんにモフらせて頂いた♡
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人懐っこい♪
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どの子も肥えとる(笑)。
それだけ可愛がられてるんだろう。
さて!
神社としての江ノ島はここまで、ここから先は原始宗教に繋がる岩屋部分、続きの③の記事で又、紹介します~♪
→その③

今日は休暇とってるので夜はユックリ某所旅館で過ごしながらブログ書きます。





小生の活動に賛同して下さる御寺と又、一つ五御縁を結べた。
鎌倉時代から続く横浜市金沢区六浦の名古刹、上行寺さんだ。
10日土曜日、午前中から動く筈だったが深夜に帰宅後、朝まで色々とやる事が有り結局寝たのは午前5時、起きたら10時位だった。
当初の計画では午前中から鎌倉に紫陽花を見に行き、2年ぶりに江ノ島に散歩に行こうと思っていた。
しかし不思議な事に車に乗り込むとなんだか「そわそわ」して思考が鎌倉に向かない・・・
まぁ、事前に鎌倉の長谷寺サンに問い合わせて現在の紫陽花の開花状況が5分咲きに届くかどうかと言う事を聞かされていたと言う事も少しは有るが、メインは鎌倉に車を停めて江ノ電で観光して回る事だったので、紫陽花は二の次だった。それに家から鎌倉はとても近いので又来週も見れるしね。
・・・で、途中から金沢区の建築文化財の料亭❝金沢園❞を旅館業に業種替えリニューアルした❝喜多屋❞と言う旅館に先日取材の下調べと挨拶に行った事も有り「今日、ランチ食べに行って見ようかな?」と思いついて栄区から鎌倉に続く朝比奈峠には行かず真っすぐ通り過ぎ金沢区八景方面に行く事にした。
これが昨日10日の運命の分岐点だった。
朝比奈峠の辺りから金沢八景に行こうとすると金沢区の六浦を通る。
この六浦と言う場所は江戸時代までは海が入り込んだ入江で商業港として機能していた場所だ。
鎌倉が武士の本拠地として機能した平安時代末期~鎌倉時代~室町時代初期まで大いに栄えた。
そして金沢八景の名で知られる景勝地として有名で、源頼朝公に始まり鎌倉公方足利家歴代、北条早雲こと伊勢盛時公、果ては徳川家康公まで金沢に滞在した歴史が有る。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
その風景の美しさから金沢の八か所の景勝地を歌川広重等が浮世絵にしている。
現在、昭和のアホの横浜市教育委員会が風致保護せず更に市と土建屋が埋め立ててしまい金沢八景の景勝は全て失われた。
そんな事を思い出しながら車を走らせ、京都出町柳に住んでいた頃にたまに拉麺を食べに行ってた北白川魁力家の六浦店の前である事が強烈に頭をよぎった。
「そうだ、上行寺が近くに在るな。」
「デジカメ買ってからまだ写真撮影に行ってないし、御住職に荒井さんの事を確認したいな…」
「よし!上行寺に行こう」
・・・と、これは何と言うか完全に思い付きだね。と言うか、こう言う事は天啓の様な物で、思い付きに従った方が良いと小生は経験で思っている。
で、上行寺を御参りした。
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ここは茅葺屋根の山門が今も現存する貴重な御寺で、明治政府のせいで縮小してしまった旧境内地のスシロー辺りまで鎌倉~室町時代の矢倉(やぐら=坂東武者文化の横穴式の墳墓)群が大量に周辺一帯に現存している。
因みに、由緒正しい平安末期~鎌倉期前後から存在する御寺は鎌倉文化圏の旧鎌倉群~久良岐郡~三浦郡では茅葺屋根の山門が多い。まぁ、瓦葺に吹き替えても屋根の形状で時代は解る。
更に高級なのが真言宗の別格本山だった金沢区の稱名寺で、檜皮葺の塔頭の山門が在ったりした筈だ。
因みに以前、栄区鍛冶ヶ谷の旧小岩井家住宅を紹介した記事でも書いたが、❝藁葺(わらぶき)屋根❞では無くて茅葺(かやぶき)屋根の場合、一棟の御屋敷の母屋(おもや)の屋根を葺き替えるだけで4千万円程度するそうだ。

  ↑
これがその記事。
だから江戸時代に瓦葺に吹き替えた場所は、手が掛かっていないんだな、寧ろ。
因みに今月の三十日(みそか)は全国の神社で❝夏越しの大祓❞の神事で茅の輪くぐりが行われる。
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今では茅は貴重な植物に成ってしまったので、昔でも高価だったのだが更に貴重な植物に成ってしまった訳だ。この植物は素戔嗚(すさのおう)尊が厄除けの道具として古代人に教えた事に始まる魔除けの植物でもある訳だ。
さて、突然訪問した上行寺、実は数回御参りに上がっているし間宮家と無関係では無いのに御住職様とユックリ御話する機会が今まで無かった。
なので、これも良い機会だと思い訪問を決めた瞬間から身が軽かった。
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山門をくぐると最初のこの供養塔が在る。❝船繋ぎの松❞が有った場所だが、真言宗時代の富木胤継公と後に御寺を復興した荒井平次郎光吉公の供養塔が在り、横に何世代目かの船繋ぎの松が在る。
何で❝船繋ぎ❞か、ちゃんと記事を熟読して下さっている人は解ったと思うが、昔は六浦は港だったと先に触れたが、この御寺は目の前が鎌倉時代の港で千葉家の武将達が鎌倉と房総半島の海を往来する際に船を停泊させた港でもあった訳だ。
金沢区の昔の海岸線 久良岐のよし
上の画像で白い部分が昔の海岸線。半島と沢山の島が入り組む湾は多くの文化人や大名から愛され、もし現存すれば京都の天橋立よりも美しい観光地として多くの外国人旅行客で栄えた事だろう。
そんな訳で上行寺は直ぐ目の前まで海だった。
折角なので、少し御寺のその時代の歴史に触れてみよう・・・
御寺は元は金勝寺と称した真言律宗の古刹で開基の当時は源平合戦の真っ最中の頃、その頃からの大旦那は房総半島千葉家臣だった富木(とき)家だったそうだ。
この富木、取材しない学者は富木(とみき)と読みかねない。
富木と書いて恐らくは土岐家の一族だろう。更に祖先は土気城の辺りを根拠地にしていたのだろうか?
千葉家の被官に成る以前はもしかしたら上総家の被官だったのかも知れない。
後に上総国で里見家の重臣と成った土岐家の祖先に当たる人物かも知れないが、この時点での姓は富木と書いて富木(とき)だった。その家の播磨守(はりまのかみ)富木胤継(たねつぐ)公が房総半島から船で鎌倉に向かう際に日蓮聖人様と同船されたそうだ。
そして仏法について御二方は熱く語り合い、船着き場兼御寺だった金勝寺へ到着後も話は盛り上がって夜に成り、富木公は自分が支援した金勝寺の当時の御住職の普識法印様に相談して御寺ごと日蓮宗に改宗し、寺名も現在の上行寺に改名、法華経布教の道場と成って真言宗風の御寺の立地条件の日蓮宗寺院としての歴史が始まり現在に至る。
明治以前の本山格は日蓮宗大本山の中山法華寺で、この中山法華寺の境内地が富木家の邸址だそうだ。
これは知らなかった。
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間宮家所縁の妙蓮寺や・・・
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・・・杉田の妙法寺も中山法華寺が本山に成っている。
明治時代に成るまで、日蓮宗も浄土宗も時宗も同じ法華宗と呼ばれ御寺の門閥として系統が解れていると認識されていた。禅宗も同様で臨済派・曹洞派・黄檗派等と呼ばれ記録に残っている。
因みに織田信長公と徳川家康公が特に信心していたのが、この法華宗で中でも浄土宗と日蓮宗の御寺を御二人とも良く支援してらっしゃった。
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上の写真は織田信長公の遺骸が葬られた朝廷公認の織田信長公と信忠公と家臣団の御本廟、京都市の蓮臺山阿弥陀寺。浄土宗。
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上は下鴨神社、下はその別当寺だった浄土宗大本山の知恩寺。阿弥陀寺と同じく京都市。
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知恩寺は後醍醐天皇の勅願所で、徳川家康公家臣で忠臣名高い鳥居元忠公の菩提寺でもある。
織田信長公と徳川家康公の御二人は法華宗だけでなく、天台宗や禅宗や真言宗の寺院も多く復興されている。
因みに知恩寺が菩提寺に成っている鳥居元忠公は間宮家で屈指の武勇を誇った間宮康信公を黒駒合戦で討取った名将でもある。
間宮、真田、鳥居の戦勝実績はジャンケンみたいな関係で特徴が有る。 真田家>間宮>鳥居>真田こんな勝敗の関係に成っている。
その間宮康信公は北条綱成公の家老ながら間宮家が単独で伊豆・駿河方面で武田勢を散々にボコボコに追撃したり三増峠で山県昌景公や馬場信房公の武田奇襲部隊を押し返して北条氏照公の窮地を救った当時の間宮家の若様だな。 この頃から真田丸と大坂城攻防の間宮と真田による北条武田の因縁の代理戦争は繋がっているんだな。
間宮家も織田信長公や徳川家康公と同じく多くの神社仏閣を守っていた。
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上は杉田間宮の間宮信繁公の姫が嫁いだ初代久能山東照宮大宮司の榊原照久公の菩提寺、照久寺。 こちらも浄土宗。
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そして横浜市磯子区の上中里神社は間宮家が廃寺に成っていた御寺を法華宗日蓮派寺院として復興した間宮寺の跡。
無論、鶴岡八幡宮を始め若宮神社を勧進したり神道は言うに及ばず、真言宗の本山格だった横浜市南区の寶生寺やその末寺だった笹下城下の東樹院等の真言宗や、横浜市磯子区の修験道の大本山格だった泉蔵院や福禅寺権現堂の森浅間社。更に北条家臣だった歴史から曹洞宗寺院は多くなり他にも例を挙げればキリがない。 そんな間宮家は水軍を管理した家系でもあったのだが、恐らくその水軍で主力を成したのが妙法寺や上行寺を開いて六浦港や杉田港に勢力を誇っていた荒井家だ。
詳しい事は伝わっていないが大まかには荒尾城主だった事、源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進し瀬戸神社を開き大姫の誕生の際に琵琶湖の竹生島から勧進した弁天様を祀る琵琶嶋神社を開いた際に、枇杷嶋へ架かる橋を荒井家が単独で寄進した程、鎌倉時代には財力も有り家格もそれなりに有った訳だ。
豪商と江戸時代の記録に伝わるそうだが実際はれっきしとした❝武家❞だった筈だ。それも水軍を率いた。なので荒尾城と現代では場所の解らない城の城主だったのだが、この城跡と思しき場所も同日、小生は見つける事が出来たのだが・・・
御住職と色々と荒井さんの事の情報を共有し、話し込む内に小生の話を楽しいと評して下さった。
とても嬉しかった。
そして間宮家の顕彰文に間宮重臣荒井家の事を書かせて頂く御許可を頂き、そして活動を褒めて頂けてとても光栄と言うか恐縮と言うか・・・
素直に嬉しかった。
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帰りに境内の霊木の榧の大樹の実から精製した油や新茶や御寺の縁起の冊子等、沢山のお土産を頂いた。
霊木の榧は開山日荷上人の御手植えで、榧の油は檀家さんだけで共有している物だそうだ。
何だか色々と御世話に成ったのに却って多くのプレゼントを頂いて大変恐縮した。
でも、檀家さんだけで共有している霊木由来の油を頂き、檀家同様に扱って頂く様な大変有難い気持ちの込められたプレゼントで嬉しい。何だか勿体なくて使えない(笑)! 小生は本当に自分は短気だし馬鹿だし小者なのに、多くの神社の宮司様や色んな宗派の和尚様達に可愛がって頂ける運にだけは恵まれている。これは本当に何と言うか知識と文化と先人の大切さを教えて頂ける多くの師を学校を卒業しても尚、得ているのと同じ事。
「生まれて来て良かったと」
・・・そう思える事の一つでも有る。でもこれは自分自身でどうこうと言う運命では無くて、殿様達に会に神社や御寺に行くと自然に道が開けて来た、例えるなら「御導き」みたいな感じなのかも知れない。
小生本人は行き当たりバッタリ的な行動。今回の上行寺の再訪問もそうだ。
運転中モヤモヤして鎌倉へ向かう分岐点の朝比奈峠の入口で目的地の鎌倉と違う方向の六浦にハンドル切ったら「そうだ!上行寺に行こう!」と成った訳だから。
思えば歴史偉人の顕彰活動を始めたのも今生きているのも、北条綱成公のおかげ。綱成公の御廟所へ御墓参りをしたのが歴史が本当に好きに成り神社仏閣巡りを始める切っ掛けだった。そして横浜に北条綱成公の家老で大活躍し壮絶な最期を遂げた間宮康俊公が居た事を知り、その康俊公と間宮家の関連した神社仏閣を巡り宮司様や和尚様達に話を聞いて回る内にアレよアレよと今では師と思う宮司様や和尚様達に宗派をとわず沢山巡り会う事が出来、次第に可愛がって頂ける様に成った。宗派を問わず。
気が付いたら某大学で教鞭をとる名誉教授の宮司様や現役教授の法華宗系の某宗派の和尚様や新任神職研修の指導教官だった大きな神社の宮司様や某禅宗の人事部長さんや青年部長さんやら、某高野山でお勤めに成っていた偉い和尚様とか。
今回の上行寺の和尚様も本当に始終笑顔で色々と教えて下さり、そして笑顔や時に目を見開きながら小生の話を真面目に聞いて下さって、それだけでも感謝が今、文章をタイピングしながらも湧き上がってくる。
御住職様、ありがとうございます。きっと荒井の殿様の歴史、世に再び知って貰える様に書きます!
玉縄北条家や間宮家の顕彰文にも、そして、いつか三浦家の顕彰文も書く際にも。
荒井家の御子孫とも面識有るしやらないといかん。
さて、小生の主観的な事はここまで、上行寺の写真を紹介したい。
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古い御寺、それも真言宗の大寺院だったので戦後に縮小された現代の境内地でさえ、鎌倉の大寺院がそうである様に沢山の矢倉が残っている。
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鎌倉武士達の墓所の跡だな。
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御寺を日蓮宗に改宗させた富木胤継公の富木(とき)家は千葉家臣だった時代の歴史しか現代に伝わらないが、先述の通り多分、後に里見家の家臣と成った土岐家の祖先なのだと思う。
この矢倉群の主が誰か、今度、改めて御住職に教えを請いに行こうと思う。
資料が散佚して解らなければ、許可を頂いて墓石の文字を撮影させて貰い読んでみようと思う。
そして先に紹介した船繋の松の旧跡。
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この直ぐ前まで海だった訳だな。
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太平洋戦争で戦死した将校の供養碑。立派だ。
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山門からずっと綺麗な石畳が続いており、御本堂へ向かう手前の分岐点に鐘楼が在る。
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鐘楼の屋根の上には千葉家の家紋。富木家が千葉家の家臣だった事が良く解る。
上行寺と言う御寺は鎌倉にも在って、実際、鎌倉の大町の辺りには千葉家と関連の在る場所も少なくないし、戦国時代に成っても昔は下総国臼井城主だった千葉一族の臼居家の御本家が住んでいて今も光明寺の塔頭となった元は弘法大師所縁の真言宗寺院だった蓮乗院が在ったりするが、そこは臼居家の菩提寺で千葉常胤公の所縁の御寺だったと伝承する。
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御本堂の右手に庫裡、庫裡の屋根の作りからして少し前までは茅葺屋根だったんだろう。
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対して御本堂は破風が付いており、江戸期~現代の造りに成っているので比較的新しい様だ。
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本化殿・・・浅学の小生には意味が解らない仏教用語だったのだが、調べたら法華経の事を意味するらしい。言い換えると法華堂と言う所だろうか?
そういえば源頼朝公は熱心な真言宗と修験道の信徒だったが、法華堂を大倉御所の近くに建てていたりもしたので法華の教えも好きだった様だ。
政子様は真言宗が御好きだった様だが、阿弥陀仏を信奉していた形跡が浄妙寺の歴史からも紐解けるが思想的には不明。御息子の三代将軍実朝公は臨済宗で釈迦如来を本尊とした様だ。この実朝公と北条一族によって鎌倉の至る所の御寺は臨済宗に改宗されて行った。そして禅宗を取り入れた武家文化が確立され、元寇を撃退する知識の泉と精神力の根源と成り反抗戦の原動力と成り奇跡の勝利を生み出した訳だ。だから神仏を崇拝する全ての宗派が日本の歴史を構成していて、そして全てが有ったから今が有る。だから、宗派の優劣も無いし、その代わりに確かに得意不得意な分野は有るかも知れないが、その個性が個々の得意分野を更に昇華させて日本文化を成熟させて行ったんだな。
だから不要な物なんて何も無い。
上行寺は現代は日蓮宗だ。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経と言ってさえいれば良い」と言った様な事を書くアホ学者や小説家も多いが、当時の法然上人や親鸞聖人もそうだが実際は密教や現代では宗派でカテゴライズされてしまい学ばなくなった多宗派の様々な知識も身に付けていて、だから親鸞聖人は鎌倉の仏僧の試験官として招聘されたり、日蓮上人が書いた密教的なものが根来に保管されていたりする。
更に法然上人が「念仏だけ唱えれば極楽に行ける」と言った様な事が言われているが、法然上人に帰依した熊谷直実公や土肥實平公等の名将の動向を見るに「やった事を反省し本当に悔いた上で更生し念仏を唱える事が大事」と言う意味だろうと小生は解釈している。
まぁ、法華関連の偉人を悪く言うこれらの言葉尻を捉えた様な話は、対立した宗派のプロパガンダだったんだろう。
では、鎌倉の禅宗はどうだっただろう?禅を「禅だけ練って質素な暮らしして精神修養だけしてりゃ~良い」とトンでも無い事を思う奴がいたら阿呆だ。
蘭渓道隆和尚も兀庵普寧和尚も退耕行勇和尚も座禅だけ組んでいた訳でなく、博識で武士達に現実社会で役に立つ思想学問や兵法や文化を叩き込んだ。そして元軍を打ち破るノウハウを鎌倉武士団は獲得した訳だ。禅宗は普段の生活も修行とし真面目に生きる事を教える宗派だ。それは臨済宗だけでなく曹洞宗も同じで、だからこそ曹洞宗を支援した戦国大名の北条家の政治も善政として有名だった。
天台宗も多くの学僧を抱え知識の泉として機能したし、真言宗は仏教の原型を出来るだけ保全して伝える言うなれば仏教界の考古学みたいな素晴らしさと日本の神様や文化も特に守って来た歴史を大切にする側面を備えている。
昔の仏教も神道も多宗派に非常に寛容だった事を、現代の宮司様や和尚様には知らない方もいるのかも知れないが、歴代天皇家は正に神様も仏様も色んな仏教門閥も其々の良さを見て大切にしていらっしゃった事は様々な歴史博物館や宗教施設の遺物を見て回ると理解出来る。
そんな訳で、昔の和尚さんや宮司さん達は大らかだった訳だが、上行寺も法華宗日蓮派に改宗した後も金沢山稱名寺とずっと交流が絶えなかった様だ。
だから、御寺を富木家の後に復興支援した荒井家出身の日荷上人が稱名寺とも交流が有ったのだろう。
しかも稱名寺には戦国時代に間宮信高公に姫が嫁いだ真里谷武田家の殿様が逃げて来て北条家次いで武田家に亡命した歴史が有る。何だか間宮家の歴史は荒井家ととても因縁めいている様だ。
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上行寺の前の道、六浦道と呼び、現代の笹下釜利谷道路の延長線上の終着点。
しかしここは昔は海だった訳だ。ここに千葉家の殿様達が船で往来していた当時と同じ様子の風景を見て見たかったが今では想像もつかない。
因みに富木家の子孫と小生が推測する土岐家、仕えた里見家と争った真里谷武田家の一門衆(しんぞく)には勝家がいる。恐らく幕末の安房守勝海舟先生の祖先だろう。もしそうなら間宮康俊公の御子息で間宮造酒之丞家の始祖と成った間宮信高公の奥方の真里谷家の姫君と勝海舟さんは遠い遠い親戚と言う事に成る。つまり間宮家と勝海舟先生も親戚って事だな。
所で土岐家は美濃の土岐家の戦国時代の分流と伝わるが、ハッキリした歴史は学者にも諸説有り解っていない。
だから小生は言う、富木は恐らく鎌倉時代に関東に残った土岐家の支流で美濃の土岐とはかなり早くに、それも鎌倉時代には分かれていた家だろう。
そして土岐では無くて富木の字を用いていたので歴史学者は気が付かないんじゃないかと。
まだ学者も知らない事が多い。北条綱成公の祖先の福島家が存在しないと実地見聞しない学者共はのたまうが、実際に福島家の子孫は多摩に存在する。子孫は庄屋に成って江戸時代も存続した。
❝文字に残っている事が全てでは無い!❞しかし学者は自己保身をしながら自説を論文に書かなければいけない不自由な職業の様なので、左翼弁護士の如く状況証拠で白黒判定する事を他の学者が許さない訳だ。つまり、歴史学なのにエジプト考古学や城郭考古学とは考え方が全く異なり嘘でも文書に成っていたら証拠として論文に書けるし文字に成ってる証拠しか拾えないと「変な空気に支配されている」チキンが多い訳だ。だから死んでも文字オタク歴史学者になんか小生は成りたくない。だから考古学者の先生達や無名でも博物館の学芸員を小生は尊敬する。
まぁ、小さい時から土器や石器拾って遊んでたしね。
と、言うか日本の歴史学者が左翼染みて居るのは、東大や京大を始め国立大学の教職員が左翼に学生闘争に参加し染まっていた連中が多く幅を利かせてそういう雰囲気を作ったんだと思う。
歴史は状況証拠の方が大切だと思うんだけどね、文字は後世の人間も騙そうとして意図的に制作されたり改竄複製されたりプロパガンダも沢山有る訳だから、客観的な状況証拠から実際に史跡を発掘する方が大切だろうと個人的には思っている。実際、凄まじい数の文献を見ている学者でも小生の様な学者で無い人間が知ってる武士達の名前の発音を知らずに読み仮名を想像で誤植して人名辞典に掲載している事も有るしね。実際に御子孫に会いに行くのが一番早いのにね。
少々、ここまで宗教的な解釈の話が多すぎたかも知れない。
上行寺を後にしてからの話に移ろう。
寺の背後の山中に伝承の荒尾城の遺構と思われる帯曲輪らしき多くの削平地や竪堀らしき地形も発見した。
それは又も偶然で横浜市教育委員会が破壊容認した上行寺東遺跡に行く時に道を間違えての事だった。
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ここが上行寺東遺跡の登り口。
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分岐する階段の上が遺跡のコピー、実際の遺跡はライオンズヒルのマンション建設で主要部分が破壊され消滅した。遺跡の前に小生が荒御城跡かな?と思った地形に至る道を紹介する。
右手の階段の上に遺跡のコピーが在るが小生は、ここで道を間違えて直進した。
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眺望が良く、上行寺の裏から昔海だった平地が見渡せる。
なんとなぁ~く海だった時代の風景が想像出来る。
少し行くと又もや階段が有る。
そこを登ると何かの神様が祀られている小さな御社が在った。
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思うに浄願寺や上行寺の関連なら御寺の守護神だった神様だろう。でも御社の名前も不明なので何の神様がいらっしゃるのか判断がつなかった。でもちゃんと御参りして来た。
頼朝公や千葉家の関係なので弁財天様だろうか?
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御参りが終わって階段を下り、誤った道(笑)を更に進むと完全に上行寺の裏手に回る。
ここら辺から道の様子が怪しく成ってくる。
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余り人の往来が有る形跡が無くなり始める。雑草が生え始める。
更に進むと・・・
ドンドン獣道に成って行く。

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てか、都会育ちの人はコレ見て❝道❞とは認識しないだろう(笑)。小生が円海山の近くで育って山の中を駆けずり回って遊んでたから道に見えるだけ。実際は多分、遊歩道だったんだと思うが現在の林市長に成ってから円海山も遊歩道の整備が滞って通行止めの場所が増えたりしているので、ここも放置されてしまったんだろうか?
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昔の市長が整備した跡だろう。樹脂製のフェイクの木柵が有る。多分円海山と同じで中田市長かその前の高秀市長の頃の物だろう。
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暫く行くと昔の岩盤が露出したり、昔のままの道に行き着く。
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その辺りから、山腹のここかしこに小さな平場が散在する様に成るし、尾根道の両端が人工的に裾切りされた切岸に成っている事に気が付き始める。
これ等の平場は、どこからどう見ても❝帯曲輪❞だろう。こんなん、遊歩道でも無いし、こんな崖地に畑を作る訳も無い。
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稱名寺を囲む金沢城に似ているんだな。
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ここは上行寺の西側裏手辺り、写真では判り難いが明らかに竪堀だ。
尾根も細くクビレて敵の侵入を限定しやすい。
山頂に行くまでも竪堀らしき場所が数ヵ所有った。
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そして途中で気が付いたのだが、開削された遊歩道に成っている平場の片側、岩盤を削り残した側は全て当時の六浦湊(みなと)側で、港側への防衛を意識した土塁と言うか岩盤の防壁の様に見てとれた。
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写真では判り難いが土塁の名残りの様な地形も続いていた。
これ、文献には出て来ず上行寺の伝承に残る荒尾城何じゃないかと思う。
実は直ぐ近くの上行寺東遺跡は源頼朝公と文覚上人が開いた浄願寺の遺跡だった。
頼朝公は森浅間神社の様に陣屋を置いた要塞の傍に神様や御寺を勧進する❝習慣❞が有った様だ。
それは港北区の三会寺もそうだし、南区の若宮神社も傍に後の蒔田城が有る。
多分、ここは六浦湊を守る場所としてスタートした要塞が起源の城で、六浦湊に鎌倉時代まで勢力を持って栄えていた荒井氏の拠点だったんじゃないだろうか?ここに烽火台を置けば東京湾沿岸部とも連絡が取りやすいし。
荒尾城址か? 久良岐のよし発見の城砦と思しき地形。
改めてGoogle earthで見てみると、有るわ有るわ森に埋もれた城址に良く見られる空堀跡が森を横切り直線の凹みに成っている地形。今度、駒澤大学の某教授や御世話に成っている城郭縄張り図制作者の方に報告して置こうと思う。
さて、流石に城跡らしき地形は嬉しかったが「これ、絶対に浄願寺の遺跡には続いてない(笑)」と途中で気が付いていた。
なので丁字の分岐点まで登り、そこから引き返して改めて遺跡の入口に戻って来た。
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浄願寺廃寺は遺構も良好に最近まで現存した。
源頼朝公と文覚上人により造営された格式高い御寺で、誰でも国語の授業で習う❝徒然草❞の著者の兼好法師こと吉田兼好がここを気に入って滞在していた。吉田兼好は仁和寺の僧侶で浄願寺と同じ真言宗の和尚さんでもあった訳だ。何で吉田兼好が横浜市に滞在していたの?と思う人が少なくないと思うが、鎌倉時代当時金沢八景と呼ばれた、この地域一帯を治めていたのが金沢北条顕時(あきとき)公で、その邸宅が現在の稱名寺の場所だった。
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稱名寺は最初は金沢北条家の私邸で持仏を安置し拝む御堂としてスタートした訳だ。
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それが金沢北条家が熱心な学者でもあり、隣の谷に文庫を創設して日本のみならず世界中の文献を収集しまくったので、武家初の私設図書館と成り、現代では東の正倉院と呼ばれる程、鎌倉~室町~戦国~安土桃山~江戸の各時代を通じて仏僧と武士の一大学問所と成った。
その金沢北条家の北条顕時公の執事を務めたのが兼好法師の実兄の吉田兼雄公だったそうだ。
まぁ、そんな訳で六浦と金沢八景と金沢文庫と野島は平安~近代まで文化醸成地で景勝地だったのだが、その景勝は横浜市によって埋め立てられ先述の通り消滅した。
一方、浄願寺自体も新田義貞の兵乱で戦火に巻き込まれ略奪され多くの御寺と神社が消えたのと同じく、一度廃寺に成った。しかし戦国時代、菅原道真公の御子孫で太田道灌公に与力していた菅野家と太田道灌公によって金沢区洲崎に龍華寺として復興され寺脈は受け継がれた。
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その龍華寺には太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公も滞在宿泊し支援した歴史が有る。
そんな歴史の浄願寺跡の上行寺東遺跡だが、ライオンズヒル建設準備中に横浜市が開発許可を出した事が明るみに成り、大きな問題と成った。
鎌倉市や横浜市の郷土史家や学者や文化人と市民が激怒し、大問題に発展させ新聞にも取り上げられたが開発利権が当時の市長に有ったのか無かったかは不明だが、破壊を強行され消滅した。
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遺跡と看板に書いてあるが事実は違う。
チキン横浜市教育委員会が己の悪行に自覚が有ったのか意味の無い張りぼてで消えた遺跡の一部を複製し神仏の天罰と市民の批判から己等の罪を粉飾するかの様に造ったのが上行寺東遺跡な訳だ。
だから上行寺東遺跡の主要部は意味の無い張りぼて。
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造形保存とか言ってるが、開発許可を踏みとどめられなかった教育委員会の体面保つ方便。
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この遺跡の入口には神社も有る。
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鳥居は神明造り。
でも何の御祭神化は解らない。海を守る場所、そして皇祖神系の神様を祀る神社に用いられる事の多い神明鳥居なので八幡社だろうか?恐らく御祭神は八幡大菩薩こと応神天皇、本来の御名前を大伴別命(おおともわけのみこと)と言い、別名の誉田別尊(ほんだわけのみこと)も有名な神様だろう。
源頼朝公の幕府設立に協力した千葉家や荒井家の祖先と思しき三浦家は皆、鶴岡八幡宮の八幡大菩薩を勧進して神社を造営したので恐らく、港を守るこの丘にも八幡様が迎えられたんじゃないだろうか?
看板が何も無いので神様も由来も解らない。
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残念。この御神紋も何の神様に用いる物なのか良く知らない。
八幡社なら波切紋の筈なんだけれどな・・・。
その左隣には小生をいつも守って下さる御稲荷様がいらっしゃった。
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ちゃんといつも守って頂いてる御礼と、次の訪問先で又無事に御会いする事が出来る様に御願いを申し上げた。
その御稲荷様の反対に上行寺東遺跡が在る。
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これ全部張りぼて。
こんな大規模なコピーする位なら市有地を土建屋に代替して開発諦めさせれば良かった物を・・・
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本当に勿体ない、完璧な鎌倉時代の御寺の文化だ。残っていればどれだけ貴重な史跡に成ったか。
鎌倉市の無量壽院址に匹敵する規模と保存状態だった筈だ、横浜市が容認するまでは。
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この矢倉は本物。
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映さなかったけど隣の矢倉は色々置かれてごみごみしてた。
一頻(ひとしき)り写真撮影をしてから、上行寺を再訪して荒尾城址と思しき地形の事を御住職に報告した。
六浦訪問の目的を全て終え、少し汗ばみ夕涼みしたく成ったので野島に移動した。
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野島の伊藤博文公の金沢邸の縁側で海を見ながらの夕涼みと、来月、甥っ子と姪っ子を連れてキャンプに来るので、ついでに案内所に手続きの事等を確認する目的も有った。

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ここは無料で見学出来るし縁側に座って夕涼みしてユックリ時間を過ごせる。
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まぁ、解説も充実してるし。
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建物の由来や、各時期の出来事とリンクした内容の解説は読んでいて面白い。
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ここで松越しの海と八景島を見ながら600円で抹茶と和菓子を頂いてボ~っとしに小生はたまに来る。
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金沢八景の解説や、伊藤博文公の生活やここで大日本帝国憲法の草案を起草した解説が有る。
ここに来ると伊藤博文公が朝鮮の王族と非常に友好な関係を築いていて、朝鮮王族が度々、伊藤博文公の金沢別邸に遊びに来て宿泊していた事実も知る事が出来たりする。
韓国人が知っても絶対に認めたくないだろう歴史事実だな。
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伊藤公の御蔭でゆっくり出来た。
建物を出て、キャンプ場の下見に移動。
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夏島が見える。あそこにも昔は旅館が在って、そこでも憲法の草案を考えていたそうだ。
風景綺麗だったんだろうね、本当に。
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その夏島の前に有るのが日産自動車追浜工場、昔の本社工場。そして戦前戦中を通じて横須賀鎮守府の海軍飛行場だった場所。
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だから戦時中に作られた零戦の格納庫が野島に現存していたりする。
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まぁ、今では存在を余り知る人はいない。
ここまでの徒歩5分程度の間に沢山の紫陽花を見る事が出来た。
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来週位には鎌倉の紫陽花も満開に成るだろう。
零戦の格納庫の前一帯がキャンプ場に成っており、予約すると誰でも利用する事が出来る。
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その奥には野島青少年研修センターと言う場所が有り、20人以上の団体から宿泊する事も出来る。
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大学生のサークルやボーイスカウトが良く利用するそうだ。
素泊まりなので食事は付かず、自炊。
施設内に炊事場も有るが、キャンプ場を予約しておけばBBQ施設を使う事も出来る。
詳しい事は職員に聞くかネットを見ると良いと思う。
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キャンプ場について職員さんに色々と質問をして無事確認終了。
後は当日の天気が良い事を祈るのみ。
てな訳で野島の野島稲荷神社に移動した。
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以前も個別の紹介記事で書いたが、ここは紀州徳川家の崇敬を集めた御稲荷様だった。
何故なら現在のキャンプ場の辺りには紀州徳川家の別荘が在ったのだが、それを知る人は今の横浜市民には少ない。
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大きくも小さくも無い神社だが、森に囲まれ雰囲気は良い。
御狐様が出て来そう(笑)。
小生が子供の頃はこの社殿の裏側の崖に掘られた階段を上って頂上まで行く事が出来たのだが、今は危険個所扱いされ進入禁止にされてしまっている。
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神様に御祈りを終えて野島を後にした。
帰りしな家系亜種の六角家の直弟子が営む金八家で家系拉麺を食べた。
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ここの店主が修行した六角家は、元々は家系拉麺の創始者の吉村家の吉村実社長の直弟子で信頼され本牧家を任せられていたのだが、有る時に従業員全員を引き抜き退職、吉村社長の恩を仇で返す様に六角家を開いた神藤と言う人間の店だが昔は吉村社長の弟子達の家系の中でも有名な店だった。
まぁ因果応報と言うか、現代では吉村社長の直営店や別の吉村社長の直弟子の店等に取り囲まれ閑古鳥が鳴いている。
しかし六角家は新横浜ラーメン博物館のオープン当初に入店したり、昔は人気だった。だが吉村家等が更に味に研鑽を積み発展した中で六角家は勢力を縮小して現在に至る。
吉村社長と全く関係ない工場でスープを作る❝偽家系❞のチェーン店が最近は多くなっているが、金八家の店主は言い換えれば❝本物の吉村社長の孫弟子❞で本当の家系❝亜種❞の拉麺を食べられる店な訳だ。
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内装はとてもオシャレ。
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これなら女性にも入り易いだろう。
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店のキャラクターも可愛いな。
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味玉増しで注文、本流の吉村家や杉田家と比べるとアッサリ目、醤油タレの強さは控えめで確かに女性向けなのかも知れない。
家系総本山吉村家とは少し違うが、これはこれでちゃんと血統を受け継いでいる分家の流派の味として家系のセオリーを守っていて美味しい。
店員の皆さんも明るく、雰囲気も良かった!
まぁ、師匠は不義を働いたかも知れんが、更に厚顔無恥な工場生産スープの偽家系に対抗する勢力として家系を守って欲しい!
改めて言う、とても美味しかったですよ!

この後スポーツジムに行き
運動して風呂入ってサッパリしてから帰宅した。
良い休日を過ごせたし、又、素晴らしい和尚様と御縁が結べた事が嬉しかった。
次の休日はどんな人に出会えるんだろう?

初めて卒倒した人がAEDで救助されてるのを見ました。
AED フクダ電子様画像拝借 久良岐のよし
昨日、出勤前に商業施設で後期高齢者の男性が倒れてAEDで救助されているのを見ました。
小生が見た時には自立呼吸をしていたのですが、意識が戻らない様でした。
この時に初めて知ったのですが、AEDは電気ショックだけでなく❝心電図❞の計測機能や❝救急救命処置の音声ガイダンス❞が流れ、素人の救助者が救護活動を適切に行える様にサポートする機能が備わっているんです。
これには不謹慎ですが非常に感心しました。
その施設のスタッフ数名がAEDを使い、必死に名前を呼んで❝命を繋ぐ呼びかけ❞をしていました。
AEDからは大凡(おおよそ)以下の様な内容で音声指示が流れていました…
「電気ショックの必要は有りません」
「心電図を計測します、身体から離れて触れないで下さい」
「人工呼吸をして下さい」
…命を繋ぐ機材でも、それが有効活用されなかったら意味が無いので、非常に有用な機能だと思い感心しました。

後は、患者さんが無事に意識を取り戻して下さり御家族に元気な姿を見せれる事を小生は願うしか出来なかったので、小生が信仰する日本の神々と仏様達、歴史偉人様達に患者さんが意識を無事に取り戻す様に願いました。

このAEDの機能は日本の歴史と同じできっと、多くの人の命が失われた上で追加され発展した機能なんだと思います。
過去に素晴らしい蘇生機材の機能が緊急時に一般人に使い方が解らず活用されず、きっと多くの心停止した助かる筈(はず)だった命の犠牲の上で追加された機能なんでしょう。
それはAEDを開発してきた技術者達の命を無駄にしたくないと言う義侠心と開発に対する情熱の結果なのだと思います。

我々、日本人の現在の生活もAEDの発展と同じです。
先人達の多くの失敗と災難と悲しみ、そして一握りの幸せの上で経験と技術と文化を積み重ねて成立している物なんです。
ですから歴史は技術の蓄積と同じく人間の失敗の歴史を知り、起こりうる天災に備え失敗を回避する手段を知る手掛かりでも有る訳です。
そして、その記録媒体に成っているのが日本全国の神社や御寺や歴史史跡で、それ等の宗教施設の伝承や古文書の中に過去の災害の情報が蓄積されている訳です。
東日本大震災で津波の被害が拡大したのは、昭和に成り無教養な政治家と教育委員会と土建屋が建設利権を優先させて先人達が残して下さった「これより下には津波が来るから住んではいけない」と言う❝多くの石碑の警告❞を無視して縄文時代に海だった低海抜平野を宅地開発した結果の❝人災❞でした。
大阪市内にも江戸時代の津波の被害を伝える多くの石碑が街角に建っていますが、その存在を知る人も戦前の繁体字の漢字の文章を読める教養が有る人も少なくなってしまいました。

無教養、歴史に対する無関心は罪です。
過去の人々が神社仏閣や史跡や街頭の石碑に残してくれた災害のメッセージを活用出来ませんから。
それと同じように素晴らしいAEDと言う装置が有っても使い方が解らなければ意味が無い訳で、その問題を解消した開発者サンは本当に尊敬に値すると思います。
政府は開発した業者では無くて、こう言った発想を実現した名も無き技術者を探し出し表彰するべきだと思います。
そして政治家と教育委員会は建設利権を抑制し、過去の史跡を大切に活用し先人の災害の経験から備えを構築するべきだと思います。

横浜市教育委員会、とりあえずオマエ等、金沢区並木町~八景島界隈の埋め立て地を住宅地にして人を住ませるのを止めさせるか埋め立て当初の計画通り堤防を再構築する様に無文化市長に過去の津波踏まえて提言しろや! 並木一帯の地盤は大地震が来る度に沈下するんだよ!その三浦半島東西で沈下と隆起する歴史を報告しろや!
城ヶ島砲台の放棄の歴史、そして三浦半島の相模湾側に何で磯が多く東京湾側に崖地と浜が多かったか、埋め立て前の地形を区分して報告しろ!
何の為に歴史を管理してんだオマエ等! 
応長の大津波の事、富岡八幡宮の本社である金沢区の富岡八幡宮つまり源頼朝公が西宮から勧進した蛭子神様の御社の歴史を調べて活用しろやボケ!
オマエ等大人数いる癖に、たった数名のAEDの開発した技術者や汎用性を追加した技術者より日本人の役に立って無いよな?
反省しろ!
そしてAEDと神社を見て良く自分達の行政に対する惰性で業務を行う姿勢と思考停止を省みろ!

さて…
津波発生の可能性が有る金沢区富岡~並木~長浜千軒の地域に津波発生の100年前に海を鎮める蛭子神様を勧進された源頼朝公、そして蛭子神様、そして医療の神でもある素戔嗚尊様と五十猛様、どうぞ昨日の患者さんが意識障害無く救われます様に御加護下さいませ。

この日の行動の結果を先に行ってしまうと朝の7時半から夕方5時まで、略(ほぼ)ずっと登山と下山を繰り返していた。
…スポーツジムよりキツイ。しかも一睡もしていなかった。

前日仕事を終え1時頃に帰宅してから食事と入浴、その後、自分の事を色々やっていたら早朝5時に成っていた…
「仮眠したら又昼まで寝て休日1日無駄にする」
…と思ったので“必殺徹夜強行軍”作戦を決行。
早朝6時半に出発したので一般道でも混まず、横浜から伊勢原市まで50kmは離れているのを、ものの1時間で到着できた。
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最初に通り道に在る洞昌院公所寺を参詣した。
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ここは小生が尊敬し毎日遥拝している歴史偉人の一人である太田道灌公の菩提寺であり、太田道灌公とライバルだった北条早雲(伊勢盛時)公と太田道灌公の親友の禅僧出身の俳人、万里集九とで太田道灌公の首を切り盗られた後の胴体を葬り供養された御廟所が有る。
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今でも御廟所の前には北条早雲公と万里集九が手植えした松の枯れ朽ちた大きな幹が保護されている。
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公所寺には道灌公の御位牌と共に歴住の御位牌を祀る御堂も在る。
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そして公所寺は見事な枝垂れ桜が有り今時分、花を満開にした姿を見せてくれるのを知っているので道灌公への日々、御守護頂いている御礼を伝えに御参りし、そして、ついでに枝垂れ桜も撮影して来た。
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その後、再び車に乗り込み大山へと桜を見に向かった。
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大山国定公園の山麓には所々綺麗な桜の樹が満開に成っていた。
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そこかしこに立派な桜が咲いている。
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大山は山の頂上に霊石が有り江戸時代は石山権現と呼ばれた。大山の存在自体が縄文時代からの聖地だった。
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だから今でも多くの御社や石仏が有り、神職、僧侶、修験者達そして庶民が聖地として身を清めた滝が現在も沢山存在する。
古代に頂上に存在した祭祀場を起源に持つ延喜式内社の相模国十三座の内の一社である大山阿夫利神社と、天平勝宝七年(西暦755)年に大山阿夫利神社の別当寺として日本初代の大僧正と成った行基大僧正と東大寺の大仏建立に尽力した良弁僧正が開いた大山寺の参道が現在の登山道の下半分だ。
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そこには古代~人が通い、江戸時代には大いに栄え宿坊が立ち並び、お伊勢参りや出雲大社詣でと並んで多くの人で賑わっていた。そんな場所だった。
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現在でも参道には沢山の御土産物屋さん、宿坊が営業している。
大山は古代からの水の聖地、そして海上交通のランドマークとして武士や海産物関連の商人や漁師、廻船問屋つまり現在で言う所の商社マン達から崇敬を集めた。
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だから多くの人間が山頂の奥院目指して参拝に来るので山を案内する修験者や僧侶や神職が先導師(関西で言う御師)と言う今で言う聖地巡りのツアコンを兼ねた宿屋を営業していた。
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だから今でも其(そ)の文化は続いていて多くの宿坊が営業し温泉街として情緒豊かな風景を留めている。
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昔から清涼な水を利用した豆腐料理を出す茶屋、清酒の蔵元も営業している。
昭和初期まで大山特産の土産だった“コマ”を製造販売している店も減ったが今も有る。小生が子供の頃は目の前で職人さんが木を削りだし塗装をする所を見学出来た。
そして山伏でもある修験者達は優秀な猟師でもあるので猪鍋や鹿鍋を出す茶屋と宿坊も多く、美味しい聖地でもあるのだ。

さて、今回の目的は主に4つ有る。
①大山の“普通の桜”と“樹齢1000年を超すという大山桜”を見る事。
②子供の頃から何回も参詣に来ている大山阿夫利神社なのだが何時(いつ)もケーブルカーでしか登っておらず下社までしか行った事が無いので山頂の奥院へ初登頂し奥院の御朱印を頂きたい事。
③駐車場より先、昔からの参道の登山道の風景を写真に収める事。
④猪鍋を食べる事。
参道へは到着したものの、問題はここからだった。
実は大山桜の場所はネットで検索してもGoogle Mapにも出て来ない。何故なら山林の中に自然に根付いた大樹で遊歩道などそもそも整備されていなかったから。だから大山桜を見るには地元の観光案内所で生き方を教えて貰うしか無いのだが、早朝の7時半にやっている観光案内所なんぞ田舎に在る訳が無い。
なので先に神社を参拝して、その後に標高約1300mの山頂の奥院(本宮:江戸時代まで石山権現と呼ばれた山頂の聖地)を御参りしてから下山して観光案内所に行く事にした。
※Google Mapには見学後、小生が位置を登録し公開して置きました。
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さて無論、早朝なので大山阿夫利神社下社までの登山ケーブルカーも運航していない。
…下社まで選択の余地無く強制徒歩登山決定(笑)。まぁ、歩く心算だったが甘えは許されない訳だな。早くケーブルカーにも乗って写真を撮りたいと言う気持ちも有ったので、甘い自分が出ない時間帯で良かったと思う。
なんでケーブルカーに乗りたかったかと言うと下社までも可也(かなり)キツく疲れるのも当たり前だが、何より昨年秋に新しく導入された車両と言うのが鉄道の2016年度グッドデザイン賞か何かを受賞しているのを知っていたので、以前の車両とどう違うか早く見たかったからなのだ。
しかしまぁ、諦めて帰りの楽しみにする異にした。
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大山ケーブルの駅の横には小さな神社が在る。
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悪縁邪念を断ち切る神社なのだが…早々に甘える邪念を払う御利益が有った訳だ(笑)。
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往路は初めて山腹の駐車場から徒歩で頂上の奥院まで登る訳だが、大山ケーブルの横に昔からの登山道が有る。
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左に行くと女坂、比較的登りやすい道として有名。
右を行くと男坂、結構キツくて登山者に有名。
小生は勿論、男らしく男坂…では無くて体力温存を考えて女坂を選んだ(笑)。
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階段上がって直ぐの所に廃屋が有った。
昔は御土産屋さんとして営業していたのだろう。開いたままの雨戸から中が見れた。
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う~ん…妙に生活感が有る。本当に廃屋のはずなんだが、最近までj人が居た様な気配さえ有る。
洗濯物とか有るし。商店に良く有る飲料用冷蔵庫が有るので、やはり昔は土産物屋さんか何かだったのだろう。
ケーブルカーの開通で客足が遠退いたのか、御店主が山を下りて御子さんと同居する事に成ったのかは分からない。
中腹の大山寺と大山阿夫利神社“まで”の参道の風景は体力的にも余裕が有り楽しめた。
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まず最初に登山客が出迎えてくれるのが“追分社(おいわけしゃ)”の八意思兼神だ。
この神様は天照大神の参謀総長の様な役割の神様で小生が崇拝する地元の神様の内の一柱(神様を数える単位は柱)だ。
思金神とも書く。
“追分”と言うのは道の分岐点の事。
この男坂と女坂の分岐点に思兼神が祀られていると言う事は昔の人は、この思金神を通じ登山者に対して…
「自分の体力と良く相談せいよ」
…と言う意味合いも有り追分社として御祀りしていたのだろうか?昔の宮司様達は今の神社と少し違って神様の役割を万能とは捉えておらず、それぞれの役割が有ると認識していたので、この神様に礼拝する事によって登山者自身に考えさせる機会を作る事で神様に御利益を発揮して貰い巡礼者達を守って貰おうとしたのかも知れない。
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この辺りは江戸時代に整備された石段も状態が比較的良く歩き易かった。
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渓流の景色も良い。
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そして道端の草花がとても綺麗だった。
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源頼朝公も登った多くの可愛らしい石仏や深い渓谷の風景が登山を単調なモノにはさせず小生を楽しませてくれた。
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昔は多くの人がここを通り、お参りしたんだろう。
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大山の空気も聖地だからと言うよりは神奈川県の内陸部の海側に面した山の中で一番高い場所なのと国定公園で自然林と水源が守られているので“ヒンヤリ”と“凛として”いて“清々しい”空気が漂い、汗が噴き出す体を冷やしてくれるので心だけは清涼な感覚を得る事が出来た。
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 少しづつ参道の階段の角度も急に成ってくる。
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でも登山客は道端の石仏や樹木の伝承を書いた看板を読む為に立ち止まると良い休憩に成り、体力も回復しながら昔話も楽しむ事が出来る。
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そうこうする内に最初の目標地点、大山寺に辿(たど)り着いたのだが、こんな余裕は大山寺や下社までだと言う事を未だ、小生は知る由も無かった。。

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 大山寺の手前には上の写真の前不動様と…
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 …現在は廃墟に成っている昔の大山寺の庫裡、来迎院(らいごういん)が在る。
来迎院は庫裡だったのだが、登山客の為に宿坊として機能していたそうだ。現代では山の下に新しい来迎院が建設され、登山客の減少も有り閉鎖され廃墟に成った。CIMG3207
庫裡の横の崩壊した部分には、過去帳と思われる文書が放置されていた。良いのかなコレ?
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前不動明王の横には元々二重の滝の横に現在は二重神社に明治時代にとって代わられた龍神堂が移築保護されている。
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廃仏毀釈の悪影響だ。名前が堂と言うだけで仏教施設として排除されたのだが、実は徳川家光公が二重の滝の横に御堂を寄進するまでは二重の滝自体が聖地として存在しても、宗教施設は存在しなかった。
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良弁僧正が神様より霊感を授かって開かれた聖地が二重の滝の霊場だったのだから、そのまま他所の地域と同じように「龍神社」に名前を変えるだけで良かった筈なのだが、特に八大竜王関連の宗教施設は牛頭天王社や祇園社と同じく弾圧の対象に成っている場所が多い。
先に述べたが大山は縄文時代から山麓の多くの滝が信仰対象に成っていた山頂の霊石が御神体崇拝対象だった聖地で延喜式神名帳の阿夫利神社が形成された。
古代から山頂では祭祀が行われており縄文~古墳時代の祭祀遺跡が出土している。
山頂からは海洋生物の化石も出土しする古代の海底だった地盤なのだが、ここはフィリピン海プレートと北米プレートがぶつかり合いせり上がる巨大な断層帯な訳だ。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
気象庁が公開している「地震の発生のしくみ」を見ると解り易い。正に大山と富士山は同じプレートの境目の上に存在している。神話で大山祇大神(おおやまづみおおかみ)の権化とされる大山と、此花昨夜媛(このはなさくやひめ)の権化とされる富士山が父と娘の関係なのも、あながち間違いでは無い訳だ。
そんな地理上のパワースポットで有るからこそ、水が豊富で特殊な三角形のランドマークに成る山に成った訳だ。
だから自然崇拝の対象にも成り、古代人の聖地に成り奈良時代~鎌倉時代~室町時代~安土桃山時代~江戸時代を通じて文化と歴史の蓄積で醸成された精緻なな訳だ。
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そして、平安時代には良弁大僧正が日本神話を大切にされた方だった事と古来の聖地をちゃんと認識しておられたので天平勝宝七年(755年)に神宮寺として大山阿夫利神社と同じ御神体を石山権現として神仏習合の形式で奉戴する大山寺が造営され、第三代住職を弘法大師空海和尚が勤めた歴史が有る。
当初は現在の大山阿夫利神社と同じ場所に仲良く一対(いっつい)に成って存在していた。
弘法大師様も尾張国一之宮真清田神社で庶民の為に雨乞い神事を行ったり、神奈川県では日本武尊の聖地を回っていたり、そこかしこに牛頭天王社や太子堂を造営した神話と仏教を両方共に大事にされた人物だった。
大山の聖地も古代に突然完成し明治に至った訳では断じて無い。
仏教も日本文んか形成に大いに貢献している事を、現在の神社本庁のトップである石清水八幡宮の田中恆清宮司も重視しており神仏習合の価値観を大切にしておられる訳だ。小生の祖先は大宮司だが、歴史を理解しているから歴代の天皇や尊敬する武将達と同じく御寺も大切に思う。
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大山寺は明治時代に神仏分離令と廃仏毀釈によって現代の場所に移転した。
寺に着いて直ぐに目にした、廃仏毀釈のせいで荒廃してしまった大山寺の管理を行う来迎院(らいごういん)の朽ち果て半壊しているの様子が痛々しかった。
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この日、幸運な事に大山寺は国宝の御本尊の不動明王様が御開帳の日だった。色々と管理人の女性職員の方と雑談をして予備知識を御教授頂いて情報収集をして、御朱印を御願いしてから書き上がるのを待つ間に御本尊を拝観させて頂いた。
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堂内撮影禁止なので写真に収める事は成らなかったが、とても威厳の有る不動明王様だった。
この御寺が今の阿夫利神社と一体だった時代に源頼朝公や太田道灌公や徳川家康公が同じ御本尊様を御参りしたと思うと何とも光栄な体験をさせて頂けた。image
参拝と堂内観覧を終え、御朱印を頂いてから再び登山を始め阿夫利神社下社を目指した。
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途中、登山列車の大山ケーブルの新型車両を参道の荒れ道から見る事が出来た。CIMG3219
外観は余り奇抜では無かったので「乗って見ないと判んねぇ~なこりゃ」と言う感想しか湧かなかった。
つがいのカエルも見る事が出来た。
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けど余り可愛くないな(笑)。両生類と爬虫類は可愛いと思わない(笑)。
でも、雨の使者でもあるので雨乞いの神様でもある大山に相応(ふさわ)しい生き物のつがいを見る事が出来て幸運だったのだろう。
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(小生にとって)少し苦労して下社の直ぐ下の茶屋の場所まで辿り着いた。
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ここまでユックリ来たので1時間半位はかかっただろうか?
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茶屋の名前は「さくらや」と言う。
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大山に来る度に名物の“豆腐ソフトクリーム”を食べる店で、店員の女性は名物姉さんに成っている人物だ。
さくらやに意味の解らない暖簾(のれん)が掛かってた…
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「ルーメソ」
…と書いて有る。珍しくてTVでも紹介されたそうだ。
店の姉さんに知ってるか?と聞かれて気に留めた事も無かったので改めて「何だろ?」と聞いた所、首を横に倒して見てみろと言われた。言われた通りにすると…
「ラーメン」
…と縦に書かれた「幟(のぼり)」を横にして暖簾に使ってしまったらルーメソと読めて人気が出たのでそのままにしているそうだ(笑)。
とりあえず姉さんに何時(いつ)も通り呼び込まれ、豆腐ソフトクリームを注文した。CIMG3225
姉さんが汗をかいた分の塩分補給に漬物をサービスで出してくれた。
疲れたし、まだ朝食も食べていなかったので朝食もとる事にした。
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ユカリご飯と味噌オデン(蒟蒻の田楽)を注文、何ともヘルシーな朝食と成った。
食事を終えて出発しようとすると、山頂に行くならコレ持って行きなと姉さんが気を回して登山用のストックを持って来てくれたのだが…
「アンタにはコッチの方が似合う」
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…と、修験道の山伏さん達行者が使う「金剛杖」を渡された(笑)。
まぁ、小生は見た目が厳(いか)ついから確かに似合うだろう。CIMG3229
小生も異存無いので有難く“さくらや”の姉さんの好意に甘え、装備を一つ増やして登山に備えれた。これが帰路下山する時に大活躍してくれた。
姉さんありがとう!
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登山する前に、当然、大山阿夫利神社下社を参拝した。
参道の階段に台湾の会社が奉納した石柱が有るのに気が付いた。
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今まで気が付かなかった。先日、台湾人の友人夫妻が横浜に遊びに来てくれたので、台湾の二文字が直ぐ目に留まった。まぁ、「台湾省」と書いて有るのが小生的には微妙なんだが。そこは中華民国台湾で良いんじゃないのか?
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この神社は夏と秋の期間限定で麓の参道の宿坊街からここまで、燈篭で照らす御祭りを開催している。
※詳しくは以下の過去記事を御覧下さい。

大山阿夫利神社下社の社殿の下には霊水の泉が有り、そこで霊水を汲み取る事が出来るし飲む事も出来る。美味しい。
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 御参りし、この神泉の水を飲んでから神社の職員サンと話し、前日の雨を踏まえて本来の頂上の奥院を目指す参道と、見張る台経由のなだらかだが遠回りの道とどちらが良いかリサーチ。
正式な参道で頂上を目指すことにした。
奥院への登山道の入り口には浅間神社が在り、大山祇大神の娘の姫神様である此花昨夜媛様と磐長媛様が祀られている。
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浅間神社は一般的に此花昨夜媛様を祀っている場所が多いので、珍しいと思う。
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此花昨夜媛様は美人だったらしい。磐長姫様はブ〇だったのだが永遠の寿命を持つ媛神様だった。
二人とも天皇家の祖先神である瓊瓊杵尊様の御妃様に成る予定で父神の大山祇大神様は 準備していたのだが、瓊瓊杵尊様が磐長媛との婚姻は拒んだので、以後、天皇家の寿命は一般人と同じに成ったと神話に書いて有ったりする。
う~ん、小生は性格が二人とも同じ程良いのなら、健康さの強い磐長媛の様な人と結婚したいとも思う。まぁ、一番大切なのは気が合うかと価値観や趣味をお互いに理解出来るかとかだよね。

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まぁ、無難に正式な参道の方を選んだのだが、しかし、これが失敗だった。
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登り始めは良いのだ。
石段を登って直ぐの所には旧白山神社の在った場所が有る。今は石碑だけ。

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この先から直ぐに、下社までの参道とは難易度が違う事を理解する事に成る。
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江戸時代には伊勢神宮や出雲大社に比肩する程に人気の聖地巡礼の場所として庶民や徳川幕府によって整備された石畳も、明治時代の廃仏毀釈後に神社と御寺が無理矢理分裂させられ大山信仰が衰退してしまうと、石畳の修復もままならず、現代では降雨による土砂の流出で石段の石材が全体的に崩落し歩き辛い障害物でしか無くなっていた。

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仏教と一緒の信仰対象だった事も有るし、自然崇拝では無い神社の社殿を重視した明治政府政府の宗教政策では大山の頂上の聖地への参道整備を支援しなかったのだろう。
これはプロテスタント派キリスト教を模して日本の宗教改革を目論んだ森有礼が悪い。
とは言え、途中で面白い場所も有った。
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夫婦杉。
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縁起の良い御神木の在る場所を通れて嬉しい。
しかし短気で根性無しの小生である。
大山阿夫利神社奥院の在る頂上までは都合28町目(富士山で言う所の1合目とかの単位)まで有る。
10合目で疲れた。
出てくる言葉は「怠(ダル)い」「歩きにくい」これしかない。CIMG3258
実際、すげ~歩きにくいし。最早、下社までの参道の頃の様に整備された状態を辛うじて留めている石段は何処にも無い。小生の様な山城以外に山を登らないトレッキング素人にとっては只単に質(タチ)の悪い岩山化している。
最悪だった。しかも前日の雨で泥濘(ぬかるみ)まくり。
歩き易くする為(ため)にジーンズを膝下までたくし上げている脹脛(ふくらはぎ)は泥だらけ。
景色を楽しむ余裕なんぞ1mmも無い。

しかも周りの登山者は皆、登山玄人っぽかったが年齢的には見た目60歳前後。
あとたまに、30歳位の美しい女性友人ペアとか。
女老人に体力で負けたくない。
チャリチャリ熊鈴鳴らし歩くオッサ…紳士を抜き去ってから、ほぼ同世代の男性と女性の混合チームと会い雑談をした。やはり小生と同じく素人で「風景を楽しむ余裕なんかない」との事(笑)。暫し話してから先に行かせて頂いた。
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江ノ島が見える。
まぁ、悪路の先にはちゃんと休憩出来るベンチが有る場所も有ったりして、人間と言うのは椅子に2~3分座ったり写真を撮ってる間にも体力がちゃんと回復するのだなと実感出来た。
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牡丹石なんてのも有った。
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思うに富士山の噴火の際に積もった火山灰に、火山弾が飛んできてメリ込んで、そのまま固まった石なんじゃないだろうか?これに付いては知識が無いので只(ただ)の推測でしかない。
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天狗の鼻突き岩なんて奇岩も有った。
大山は天狗信仰の場所でもある。大山の御祭神にOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)と言う龍神様がおり、まぁ龍神なので水神様な訳だ。これが先に説明した二重の滝の神様や龍神堂の八大竜王の本来の神様の名だろう。
そして、同じく山岳信仰の場である東京都多摩地方の高尾山も同じく“たかお”の地名と“天狗信仰”の場でもあるのは無関係では無いだろう。そんな事を考えながら良い休憩が出来た。
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何と、この石柱は強力(ごうりき=運送屋)が人力で担ぎあげたそうだ。まぁ、それ以外に運搬手段が無いのでそうだろうが、凄いな。
江戸時代の飛脚の写真なんかを見ると、とんでもない体系だったりする。筋骨隆々で皆、ヘビー級の総合格闘家の様な体系をしている。だから江戸時代の官僚化した武士は絶対に火消しや飛脚なんかに喧嘩を売らなかったそうだ。
まぁ、相手によっぽどな落ち度が無ければ刀抜いて町人にケガさせた時点で武士も重罪に処されるから、素手で投げたり殴り合ったりしたら町人の方が凄まじく強かったりしたんだろうな。
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途中、富士見台は生憎の曇天で富士山見えず。
思わず「チクショーメ‼」と、解る人には解る言い回しで言いそうに成る残念感。
実際は「富士山見えねぇ~し!」とボヤくと…
小生より少し若い見目麗しい女性ペアが「ですよね~」「下は良いけど上は全滅ですよ~」と素敵な情報を提供して下さった。
…しかし綺麗な女性と話した事で士気は下がらず、熊鈴のオッサン(言っちゃった)に追いつかれる事も無く山頂奥院まで登り切れた。熊鈴のオジサン、ありがとう。御蔭でダレる事無く登り切れました。
勝手に目標作れた楽しかったし(笑)。
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山頂の手前27町目で鳥居が見えて、ちょっと安堵感が湧く。
参道の石畳も何となく原型を留めた姿が復活する。
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頂上に登ると前宮
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拝殿?
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奥院が在った。
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先に御参りを済ませて、風景を見たがやはり富士山は見えない…
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でも看板には「振り向けば富士山」と書いて有る。CIMG3274
…悪天候は想定していないのね(笑)?
スポーツジムで2時間以上トレーニングしたよりも汗だくだくに成っていたので、脱水症状予防に売店でスポーツドリンクを買った所、不愛想なオッサンがウンともスンとも言わず金だけ受け取り黙ってドリンクを置いて奥に引っ込んでしまった。
頂上で商売敵もいなので殿様商売が罷(まか)り通るんだろうな~。でもまぁ~こんなもんだろう。CIMG3277
富士山は見えなかったけれど、伊勢原市や厚木市、綾瀬市の市街地は望む事が出来た。
残念ながら小生が大山阿夫利神社と同じく毎日御祈りする有鹿媛様と有鹿彦の夫婦神様がいる有鹿神社の本宮と奥宮の在る海老名市や相模原市は見渡せなかった。

帰路は石ゴロゴロの悪路を歩きたくないので見晴台経由で二重の滝を通るルートで阿夫利神社下社まで戻る事にした。
この選択が又失敗だった。
実は、そちらの道は坂は緩やかで岩も無いのだが、岩が無い分地面が土で、更に手すりも林道両脇に掴める木も無く横は断崖だった。
つまり前日雨だったので泥濘(ぬかる)んでいて「危険極まりない」チョイスを小生はしたのだ。これ、往路を見晴台経由にして帰路を正式な参道で帰ったらベストだったんだな。
そんな訳で帰りの道は“見晴し台”に辿り着くまで写真撮影する余裕すら無かった。
帰路、途中で御爺ちゃん達が前方を歩いているのに出くわした。歩調を合わせていたら「若い人お先にどうぞ~」と言って皆さんが道を譲って下さった。
「何かすいません」と思いながら「ありがとうございます~」と挨拶して、御老人集団を追い越した。
途中、更にデンジャラスゾーンに遭遇。
もう、道が危険すぎて手で掴む為の鎖が設置して有るエリアが3か所位。
しかし、小生がビビったのはこんな場所ではなくて…CIMG3280
一番安全なはずの見晴台の休憩所だった。
「熊出没注意」の看板
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…ソンナん出たら俺でもどうにも何ねぇ~し(;´・ω・)!
季節はもう春。熊も起きだして来る頃なのだろうか?マジ怖い熊。
昨年の山梨県の標高1600mの御坂峠に在る御坂城址に登った時も怖かったのは熊だった。
最近の熊は熊鈴にも慣れて、「熊鈴の音=エサ(人)が来た」と認識していると学者がTVで言っていたのは、丁度御坂城址に登城した2週間前に熊に人が食い殺される事件が頻発していた頃だった。もう熊マジ怖い。

でも付き合ってから独裁者に変貌する女性も同じ位怖い(笑)。
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そんなコンナで歩いていると道も再びなだらかな場所が増えて来て、早歩き位でも安全な路盤、鉄の手すりまで登場してペースを早める事がが出来た。
う~ん、無駄に「成し遂げた」感が有ったな。
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下社の近くまで来ると、二重の滝が在った。
ここが大山阿夫利神社の御祭神の内の一柱である高龗(タカオ)神様の聖地らしい。
江戸時代まで、大山阿夫利神社に参詣し頂上を目指す庶民や修験者達は、この二重の滝で滝行を行って禊(みそぎ)をしていたそうだ。
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江戸時代位までは水量が豊富だったのだろう。
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この二重社の場所に、本来は徳川家光公が建立した大山寺の前不動明王横の龍神堂が建っていた訳だ。
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今では瀑布(ばくふ)とは呼べない白糸の滝と言った形容が似合う様な上品な滝に成っていた。
滝の写真を撮影して再び下社を目指す。
もう道も歩き易い。
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直ぐに“さくらや”の下の登山道の終点近くに何の神様かは解らない小さな御社が在った。
さくらやの姉さんに金剛杖が帰路に大活躍した御礼を述べて、今度は下社の社務所へ向かった。
社務所の職員さんに奥院行って来た事を伝え、下社と奥院の異なる大山阿夫利神社の御朱印を漸く頂く事が出来た。
うれしい。
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さくらやの前を再び通過する際に御礼代わりでは無いが三ツ矢サイダーを買って「又、秋に来ます。宜しく」と挨拶を交わして大山ケーブルの駅へ移動した。

帰りは疲れ切っているし、ケーブルカーの内装を確認したいので大山ケーブルに乗車した。
以前の物と比べ確かに近くで見ると鋭い外観に成っていた。
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内装も良い!
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前面の窓が天井まで広がっていて、乗客が正面に見える相模湾の遠景を楽しめる設計に成っていた。そしてカッコ良い。
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ふむ、確かにこれならデザイン賞受賞したのは納得出来る。

ケーブルカーを降りると、真っ先に駅横の宿坊”元滝”に入った。
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この店は大山名物の豆腐料理や鹿や猪(イノシシ)の鍋を提供している上に、日帰り湯をやっているからだ。
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とりあえず、汗ダクダク泥だらけに成った体を洗いサッパリしたかった。
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元滝は宿坊(御寺兼宿)だったので、昔は先導師(案内人、関西では御師と言う)を務めた家だった。御風呂入る為にアメニティの準備をして頂く間に色々と御店主から話を伺う事が出来た。
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身体を洗ってサッパリ出来て生き返り、さっそく湯船に浸かった。
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御風呂は石造り、沸かし湯だが温泉の様でとてもリラックス出来た。湯船の中で筋肉をほぐし疲れを取り体力も回復出来た。
因みに、この大山と周辺の日向薬師や七沢には天然温泉の旅館や宿坊も当然沢山有る。
風呂から上がるとさっそく“猪鍋の豆腐セット”を注文した。
この時点で14時半。良くもまぁ~徹夜のまま6時間も山の中を登ったり下りたりしたもんだ。
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鍋が来る。以前も食べた事が有る。
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関東風のスキ焼の味付けに成っていて疲れた体にはもってこいの甘さと塩分。
そして猪肉の美味い事。
この鍋は白飯がついて2000円、300円のオプションでうどんスキにする為の饂飩(うどん)、そして大山名物の豆腐が付く。
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とても食べ応えが有り多めの一人分と言った良い量だ。
腹も満たして満足した所で山を下りる途中の参道で留学中に御世話に成った小生の姉貴分の様な存在の先輩夫婦と自宅用に御土産を購入。
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毎回大山に来ると姉貴分に珍味的な物を送り付ける(笑)。
今回は豆腐の味噌漬け、それと塩ようかん。
大山は水が綺麗なので古くから豆腐と蒟蒻と清酒の産地として有名だった。豆腐の塩漬けは最近、酒のアテとして注目されつつ有り、チーズの様な味わいでとても体に良い健康食品だ。ワイン好きな姉貴分には良いと思って買って見た。

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御土産も買い終わり参道の御稲荷様にいつも御守り頂いている御礼をして駐車場近くに戻ると、先ずは観光案内所に行った。
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これが期待外れで観光協会の人も詳しい大山桜の位置を解っておられなかった。しかし大山阿夫利神社の下社では無く山裾に在る社務所の裏山の林道と大山小学校の真ん中位の所に大山桜への入口の順路を簡単に書いた地図を頂いた。
これが又、間違いだった。
麓の大山阿夫利神社社務所の裏には普通の桜が見えて美しいが、これは大山桜ではない。
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社務所裏手を右手に進む様に道が地図に書き込まれているのだが、正確には社務所裏手の土手を登り林道に出たら一度地図とは反対の左手に行ってから山に入らなければいけなかったのだ。
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しかし、そんな事を知らない小生は馬鹿正直に右回り、上の写真は一度左手を見ないと気が付けない入口。
結果的に大山小学校まで行ってしまい、一番過酷な小学校周りルートを再び“登山”する事に成った。
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この怪しい場所から金網の紐を自分で解いて入って行かないといけない。
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人の気配なんか無い。
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暫く歩くと、炭焼き小屋の跡が見えて来た。
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ここから再び山登り開始となった。
山を登り始めて程無く汗だく(笑)。
元滝のサッパリが無に帰す。
しかし、この大山桜を目指す道は遊歩道が設置されていないので本当に原生林の獣道を歩く感じがして、それはそれで楽しかったが汗の不快感は如何(いか)んともし難い。
社務所から40分位歩いたんだろうか?
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大山桜に到着した。
残念ながら、この大樹は1週間程度普通の桜より開花が遅いとは聞いていた通り未だ3分咲き程度だった。
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しかしながら、その幹の立派さ、満開に成った時は優美と言うよりは勇壮な威厳を持った姿だろうと想像出来た。
小学校側から登ると下大山桜を先に見る事に成る。その後に社務所に戻る道を目指すと上大山桜を見られる。この道のりはそこそこ登山の服装と靴でないと無理だ。若い子等がノリで普段着のまま見に来たら断念する事に成るだろう。
上大山桜を目指す途中、又、綺麗なミツマタの花を見る事が出来た。CIMG3330
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下大山桜から10分位歩いて漸(ようや)く上大山桜が見られた。
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こちらは景色も良い。
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大山桜越しに大山の普通の桜の林、そして伊勢原市街地、奥には相模湾が見渡せる。
きっと満開の景色は美しい物に成るだろう。
来年、又、満開の大山桜に会いに来たいと思った。
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そこから社務所に戻るまで、また20分は歩いただろうか?
この道が又、下るのに不向きな柵も手すりも無い崖地に道がちゃんと整備されておらず落ちたら死ぬ地形だった。
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これ、伊勢原市さん、観光の目玉にするなら林道整備しないといつか観光客の転落事故が起きますよ?
そして社務所に駐車していた車に戻り、車を出発させ自宅への帰路へ着いた。

色々と良い体験を出来て、綺麗な空気の中で時間を過ごせて有意義な一日に成ったと思う。
道中御加護下さった大山の神様仏様に感謝。そして大山の文化と景色と遺産を守って下さっている神職様和尚様民間の皆さんに感謝!

横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
北条政子様木像画像
今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

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