歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:源頼朝


茅ヶ崎市に旧相模川橋脚遺跡と言う場所が有ります。
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旧相模川橋脚(FRP模造展示)
大正十二(1923)年の関東大震災で水田に橋杭が出現した遺跡。
そのまま本物が展示されていると思っている人が多いみたいですが大間違いです。
これを本物と勘違いしてネットで情報書いてる人って、何を見てるんですかね?
「じゃあ、これは何なんだよ!」
・・・って思う人いますよね?
現地訪問した人の中でちゃんと観察したり看板読んだりする人はイライラせずに「だよね~」と思うと思いますが。
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これ、ちゃんと見れば直ぐに誰でも解ります。
歴史オタクの彼氏に付き合わされて嫌々見に来た彼女サンとかなら小生同様に瞬殺で・・・
「アレ?これ木じゃないよね?」
・・・と気が付くと思いますよ。
小生の感想はこうでした・・・
「あ~、これ上行寺東遺跡と同じアレだ、偽物だ。」
・・・ってね。

他人の書いたネットの情報や大正昭和の学者のレポートを脳内にコピペし「遺跡だ!」と先入観を持って見に来る人の中には看板読むまで気が付かない人も多いかと思います。
読まない人も多いはず、だから「遺跡そのもの」として情報を誤って拡散するんでしょうね。
そう、これ木じゃないんです、ちゃんと5秒くらい観察すればきっと皆さんも看板読まなくても解ります(笑)。
KIMG4023
めっちゃテカテカしてるジャン!年輪無いジャン!みたいな?
プラスティックなんですよ。
実はコレ、発見当時の実物は何故かコールタールでベッチョベチョに塗ったくられて放置されてしまって腐食が進んでしまったのでプールの中に沈められ再度空気から遮断され保存されています。
そして実物の姿をプラスティックでコピーして、現代人にも実物に近い形で展示する。

これ大正時代の人のミスをカバーする現代の茅ヶ崎市教育委員会の学芸員サン達のファインプレイだと、個人的には思います。

「ブラボー!平成令和の茅ヶ崎市の学芸員サン

昔の人や上司の適当な仕事と間違いや権威に囚(とら)われず、事実を見て誤りは誤りとして現代で是正しリカバリーする、これ大切。

いくら積み上げた物があろうが、その積み上げた土台が間違ってるなら破却して再構築するか旧状に復し保存し、更に未来に優れた保存展示手段が確立されるまで繋ぐのも心ある考古学の志士の仕事。
改善はトヨタ生産方式の基本。
ちなみに小生の宗旨はトヨタ生産方式教です(笑)。

下らない誰かのメンツの為に皆が実害を被るのは御門違い。
どうやら茅ヶ崎市役所の学芸員サンや市長サンには東日本最大の蹈鞴製鉄遺跡の上郷深田遺跡の破壊容認や続日本100名城の小机城を未だに史跡文化財指定してしない、どこぞの横浜市役所とは違って強い良心が有る様です。

これ⤴️以前、鎌倉の製鉄遺跡の上郷深田遺跡の事を書いた記事。

さてさて、ここからが本題です。

茅ヶ崎市の学芸員サン達の大正時代の学者のミスに対しリカバリーのファインプレイで済ませましたが、小生は大正時代の文献コピペ学者様の間違いを指摘したいと思います。
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現在“旧相模川橋脚”と言われている遺跡は当時の歴史学者沼田頼輔サンによって、鎌倉時代の建久九(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証されたとされています。
本当でしょうか?
多分、沼田サンは文献考古学者で地形をちゃんと見てないんじゃないだろうか?
少し範囲を広げて鎌倉や平塚等の周辺の伝承も拾うと当時の地形が見えるんですけどね~。
近代の自己顕示強い学者学者した妙な権威の有る人は何故か皆やらかしてるんですよね・・・

これ⤴️とかね。

そもそも論で大正時代の沼田頼輔サンが吾妻鑑から引っ張って来た文章は小出川の流路が相模川の本流なんて一文字も書いてないので平安末期~鎌倉時代の相模川の流路は特定出来ていない訳です。
そして小生に言わせれば・・・

小出川の橋その物のではない事も証明されていない。

・・・小出川が相模川の支流では無く今と同じく海に注ぐ河口でしか合流していなかった可能性の方が高いんです。
これどうすんの?
旧相模川橋脚とか名前付けちゃって。
クールポコ
「なぁ~にィ~やっちまったなぁ~!」
と、クールポコに言われても仕方ないくらい。

小生は現地を訪問してみた感想として、ここは地形的に現代に再考証が必要な場所だと思います、多分ここは相模川では無い。
先ず重要な事実を突きつけると、大正時代に沼田等が発掘調査した後に“コールタールを塗ったくった”影響で炭素年代測定法で橋脚その物を測定すると橋脚の加工された年代が弥生時代~古墳時代初期と驚愕の年代に成ってしまうwww
そしてコールタールの影響を考慮して推測しても“古くてザックリ1000位前~その後の時代の間”とスンゴイ広い振り幅でピンポイントで1200年代とは言えない。これは茅ヶ崎市教育委員会に炭素年代測定の結果を確認済みの事実だ。
・・・次に同時代の鎌倉市街地や古墳時代の平塚の地形を例に挙げて話をしてみたいと思う・・・
鎌倉城塞網 国立歴史民俗博物館を参考 久良岐のよし
上の画像は現在の鎌倉市の中心部に当時の海岸線と鎌倉防衛網の“鎌倉城”を再現した画像です。
国立歴史民俗博物館の研究報告第118集の絵を元にGoogleEarthで加工しました。
由比ヶ浜の砂浜は現在の“下馬”の交差点辺り、つまり鶴岡八幡宮の大鳥居の辺りに入り込んでました。
これより前の時代、現在の材木座と呼ばれる地域は入江を形成していたので文字通り貯木場として利用されていたのかも知れないですね。
そして昔から陸地だった部分の滑川の流路も川幅も現在と変化は有りませんでした。
鎌倉を例にとると、地盤のしっかりした場所から流れ下る部分では河川の流路は大きく変化する事は無さそうな事が解ります。昭和の河川工事を除いては。
GoogleMapに表示すると当時の名残が解ります。
材木座 久良岐のよし
※マーカーが入ってる場所は小生が訪問済みの場所なだけなので気にしないで下さい。

この赤線の枠内が材木座と呼ばれる地域。
その赤枠中の現在東海道線の横須賀線が走る場所より南側~当時の海岸線の内側に入江が広がってい現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。付近は鎌倉時代以前に近い平安時代、つまり材木座入江が広がってた当時に開かれたと伝わる神社仏閣が有ります。
由比若宮こと元鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮が現在の小林丘に移転する以前に源頼義公によって開かれた八幡宮です。
甘縄神明宮は鎌倉市内最古の神社で和同年間に行基菩薩によって開かれ、源頼義公が再興開基して子宝祈願をして源義家公を授かったと伝承しています。
鎌倉の光明寺は寛元元年(1243年)に前身寺院が現在地に移転し開かれた場所ですが、実は光明寺よりも先に現在は塔頭寺院と成っている蓮乗院が真言宗寺院として存在し弘法大師の霊場でした。この光明寺の裏山は鎌倉防衛網を担う要害化されており戦国時代まで住吉城として機能していましたが、その山腹にある桟道(さんどう)状の切通しで古代の東海道とされており、弘法大師の教団は古道の整備と布教を行っていたので此方も奈良時代には存在した事に成ります。
鎌倉市街 久良岐のよし
つまり、これらの寺社の立地と同じ標高の場所は平安時代末期の材木座入江が存在した時代には間違いなく陸地だったと言う事に成ります。更に、それらの鎌倉市内の場所と同じ標高の茅ヶ崎市の地形は旧相模川橋脚とされる物が建築された時代には既に陸地だったと解り、その標高が相模川の河岸段丘面と同等の高さであれば相模川の本流が当時の段丘面を超える事は無いと言う証明にも成る訳です。
これらを確かめる方法が有ります。
迅速測図(明治時代の帝国陸軍測量図)
※歴史的農業環境閲覧システムhttps://habs.dc.affrc.go.jp/
GoogleEarth衛星画像
※小生はGoogleEarthPRO版を使用
※WEB版https://earth.google.com/web/
国土地理院色別標高図
※地理院地図電子国土web版https://maps.gsi.go.jp/では小生と一緒に材木座入江の名残りと当時の陸地と同じ地形を標高から特定して見みましょう♪

材木座入江特定 久良岐のよし
※上の画像をクリックして拡大して見て下さい♪
一番下の色別標高図で蓮乗院、元鶴岡八幡宮、甘縄神明社と同じ色の場所が鎌倉幕府が開かれる以前から間違いなく陸地だった場所です。
これを見ると解りやすいですね~♪
一番上の迅速測図で“材木座村”と表記された地区の南側に岩礁と砂丘が有り、横須賀線の線路辺りは陸地だった事が解ります、そして材木座地区の真ん中辺りに水色の地盤の窪地(くぼち)が有るのが一目瞭然ですねぇ~。
ツマリそう言う事。そこが平安時代の入江だった場所です。
材木座地区の海抜 久良岐のよしその周りの薄い黄緑色が湾を形成した陸地、水色の部分が古(いにし)えの材木座入江と干潟。
これで鎌倉時代、稲毛重成が“相模川”に頼朝公が暗殺されたかも知れない橋を立てた時代の海岸線が解りましたよね?
この材木座の入江が有った時代は現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。
入江が消滅した時期ですが、大正時代の関東大震災では三浦半島は西側が50cm隆起して東側は逆に沈下しました。つまり1回大地震が起きると神奈川県の旧相模国域は50cm前後隆起する様です。
関東大震災よりも前の応長元年(1311年)に現在の金沢区長浜~並木地区に在った長浜千軒と言う大海運拠点が津波と記録される天変地異で海没しました。
応長の大津波で長浜千軒はずっと海の底に沈んだままだったので、津波ではない事が解ります。
そして津波なら反射津波が房総半島も襲撃する筈なのに千葉県側には全く記録や伝承が残っていません。
どうやら横浜市の屏風浦と言われた地形が大断層で海に面した地盤が沈下し海に沈んだだけの様です。
この時代は花園上皇と後醍醐天皇の生きた時代で当時の京都では大地震が起きた記録が有り8ヵ月間余震が続きました。
これにより延慶四年四月(1311年5月)に縁起が悪いので元号が応長に改元されました。
つまり応長大津波とされる横浜市金沢区沿岸を直撃した天変地異は先に京都で起きた大地震に連動して関東の地盤も動き三浦半島東岸の付け根の横浜市沿岸部が沈下した様です。
当然ながらこの際にも神奈川県域の相模湾側は50cm前後隆起したんでしょう。

以前、富岡八幡宮の解説⇗を書いた時に少し触れた事が有るので興味がある人は下のリンクから記事を読んでみて下さい。
さて、関東大震災と応長大津波でザックリ合計1m隆起したとして未だ完全に材木座が隆起するには届きませんね?他に地震が起きたかも見てみましょう。

仁治鎌倉地震・・・M7クラス
仁治二年四月三日(1241年5月22日)に発生し由比ヶ浜の大鳥居が流され大鳥居の場所に在った八幡宮の施設も消失。
永仁鎌倉地震・・・M8クラス
正応六年四月十三日(1293年5月27日)に大地震が発生し火災により建長寺が倒壊し火災発生、死者2万3千人。参考までに当時の鎌倉市中心部の人口は3万人と言えば被害規模が解りやすい。この地震は相模トラフが動いたと考えられているので“鎌倉時代の関東大震災”でしょう。
つまり、材木座に入江が有った時代から令和まで応長~仁治~永仁~大正と都合4回の大地震が発生し相模湾を直撃しており1.5m以上の隆起は余裕で有った可能性が高い訳ですね~。
では次に茅ヶ崎市~平塚市の方を見てみましょう~♪
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
今はこんな感じ。旧相模川の橋脚とされる遺跡は小出川沿いに有りますね?
この小出川を大正時代の沼田頼輔博士が相模川と言ってるのはオカシイと言った訳です。
衛星写真を見てみましょう。
橋脚向き 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
旧相模川橋脚と呼ばれる遺跡は、橋脚が1列3本10m間隔×4set有ります。この事から橋の長さが40m前後、川幅が30m前後と解ります。そう、小生と同じ事を皆さんも思うでしょう?
「あれ?相模川、こんな細い訳ねぇ~じゃん(笑)?」
「丁度小出川と同じ川幅くらいにピッタリの橋じゃん(笑)。」
・・・と大正時代の沼田学者様の説に小生の中では既に草が生え始めますwww。
では川幅を見てみましょう・・・
小出川川幅 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
うん、27.5mだね、だいたい30m(笑)。
最初の方でも触れましたが、鎌倉時代の川幅と流路、似たような地形の鎌倉市内でも余り変わって無かったですよね?
そしてこの橋脚を見ると解りますが何故か小出川に並行して有りますよね?
つまりこの橋を元に考えると小出川の旧流路がこの位置で右に切れてれば10中8~9は小出川旧流路に架橋された橋と言う事が見えてきます。
未だ皆さんに昔のこの一帯の地形を御見せしてませんでしたので、一緒に昔の地形を見てみましょう。
さて迅速測図の出番です。
小出川旧流路比較 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
※クリックして拡大して見て下さい。
現在、小出川の横の橋脚遺跡はニトリ茅ヶ崎店の真横に所在しています。
小生の予測はドンピシャ!
きっと皆さんも同じ事を考えたのではないでしょうか?

明治時代の流路も橋脚の遺跡の辺りで右折している事が解ります。
更に明治時代の流路が現在のニトリの前の道に成っているようですね。
現在直進している小出川ですが、これも藤沢土木事務所に確認済みです。
昭和30年代~40年代に河川改修工事によって直進にされたそうです。
そして昔の微妙な河川の位置のズレですが、橋脚の出現当時、現地は水田でした。河川敷の湿地が工作地帯に開墾されていた様です。つまり旧流路の誤差範囲内。
「おんや~?もうこれ、小出川の昔の橋でしょう(笑)?」
・・・と普通は思うでしょ?
次に相模川本流を見てみましょう!
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
小出川と目久尻川は河川改修部分以外の上流で大きな変化はないのに相模川本流はだいぶ現在と異なり真っ直ぐに成っていますね?
実はこれ・・・橋梁の遺跡が出現した際に関東大震災で河口部の砂丘が隆起して堰止湖が出来てしまったり水害の危険性が高まった為に大正時代から直進流路化の工事が行われたそうです。
これも茅ヶ崎市教育委員会から確認をとっています。
さて、先に長々と鎌倉市での鎌倉時代の陸地の標高の基準を解説しましたよね?
今度は平塚市域と茅ヶ崎市域で見てみましょう!
とその前に、先に鎌倉時代に陸地だった場所の色別標高図の色を思い出してみましょう。
材木座入江特定 久良岐のよし
鎌倉市⤴️
黄緑色
が陸地、水色が海。
茅ヶ崎市・平塚市⤵️
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
橋脚遺跡付近の色別標高図 久良岐のよし
御覧の通り、明治時代までは河口部分は複雑は汽水湖を形成していた湖沼地帯だった事が解ります。
そして、その地域を除いて相模川の東側は河岸段丘が有り、現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡の部分に相模川本流が鎌倉時代に流れていた事が有り得ないと言う事実が地形からも確認できましたね?
極め付きは、とどめの一撃に古墳時代に開かれた平塚八幡宮を表示して置きました。
そうすると平安時代以前の古墳時代に既に陸地だった地域が特定出来る訳です。
平塚八幡宮を基準にすると、現在の相模川東岸の北緯が橋脚遺跡と同緯度の地域は、平安時代末期には明らかに海岸段丘が存在した事が解りますね。そして相模川河口部分の蛇行してた旧流路や汽水湖だった部分も標高が低い地形として形が見えますね。
現在の柳島スポーツ公園総合競技場東側の畑地域と西側のゴルフ場、浜見平団地が汽水湖や干潟に成っていた湾部だった様ですね。ちょっと次の関東大震災で液状化が心配な地域でもあります。
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更に言えば液状化して橋脚が現れるのであれば、それは東日本大震災でも解ったように液状化により水が抜けた地盤沈下の影響なので一帯に他にも橋脚が有れば更に多くの橋脚が露出するので、この橋脚の本数が当時のままなのだと言う事も当然ながら周囲くまなく発掘調査されてますし推測出来ます。
つまり小出川の川幅は全く変わっていない訳です。平塚市河口付近海抜分析 久良岐のよし
ちなみに小出川と相模川の水面や昔の流路や入江だった地域の標高は1~3mです。
明治時代の陸地部分の海抜も概ね低くて5m~8mは有ります。
つまり現在は1.5m水位が下がってると考えて当時は4~4.5mの位置に水面が有ったとしてもやはり陸地だった事が解りますね。
平塚市河口付近海抜分析2 久良岐のよし
こちらは東西の地形の断面ですが、北緯が橋脚遺跡と同緯度の相模川は海抜1mとほぼ海面の海抜0mと変わらない高さで川底は深いままの様です。
つまり現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡辺りは小出川の3mの水面に対して、相模川の1mの水面の位置では明らかに小出川が相模川が乗り越える事の無い河岸段丘の上を流れている事も解りますね。

やはり客観的に古墳時代まで遡(さかのぼ)って地形を見ても、現在、旧相模川橋脚とされる遺跡は・・・
相模川河口周辺地形 久良岐のよし
①小出川露出した橋脚の幅が川幅な訳だから正に現在の小出川の幅と整合している。
②ニトリと橋脚遺跡の間の道路が明治時代の流路で正に橋脚の列の向きとも仮定流路の向きもピッタリ整合し鎌倉時代の小出川の流路も明治時代の流路と同方向と考えるのが自然。
③鎌倉の材木座旧入江地区より上流の明治時代の流路を例にしても②を踏まえて相模川河口旧入江部より上流の小出川は余り変化をしていないと考えるのが自然。ただし河口部については地盤が砂丘だった為に浜見平団地の場所に有った湖では変化が多かったと推測出来る
④明時代に既に陸地だった地域の相模川の河岸段丘は古墳時代に開かれた平塚八幡宮や平安時代8世紀に開かれた三嶋神社と同程度の標高が有るので、昔の河口部の柳島~南湖にかけて存在した汽水湖部分を除いて鎌倉時代の相模川が橋脚遺跡の北緯以北で小出川に流れ込んでいたとは考え難い。
【小生の見解】
どうやら大正時代の沼田頼輔サンが旧相模川橋脚と断定した物は鎌倉時代も小出川にかかるだけの橋だった可能性の方が遥かに高そうと言うか、それ以外に無さそうです。
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
昔の幕末~昭和初期の近代の歴史学者さんって、よくこの手の事をしたみたいです。
なんせ判断材料が少なかったですからね、日本の発掘を主体とした考古学や地質学なんて明治十年(1877年)にモースさんが蒸気機関車に乗って新橋駅~初代横浜駅(桜木町駅)に行く時に車窓から大森貝塚を発見してから漸(ようや)く始まった位に歴史が浅くて未だ150年位しか情報の蓄積が無いですからね。だから未だに嘘か真か解らない文献考古学が中心で、学芸員サン達は古文書に書かれている事が嘘か本当か見抜く時代を超えた知恵比べを昔の人達としている訳です。
大和市の深見神社の社伝も神話時代の神様の話と古墳時代の人物を混同していたり全く海に成り得ない海抜標高80mの位置を海と断定したり・・・
横浜市戸塚区の徳翁寺は宅間上杉家の上杉乗国(乗忠)公の子、宅間上杉乗方(のりまさ)公の開基なのにも関わらず、この宅間上杉家の敵対勢力の山内上杉家を継いだ上杉謙信(長尾景虎)公の曾伯父(そうはくふ:曾祖父の兄弟)として意味不明な解説をしています。

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実際には上杉謙信は彼は実家が長尾家なので宅間上杉家と血縁は無いんですよ。
養子に入った山内上杉家に由来を求めても上杉謙信公の養父となった上杉憲政公の6代も前に上杉憲忠公が居ますが、この人物が別家の宅間上杉乗忠公と発音的には同性同名なので宣伝の為か間違えたのかは知りませんが混同して事が現代の歴史オタクには鼻の先で笑う位に間違った歴史認識である事が一瞬で見破れたりする訳です。
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宅間上杉乗国(乗忠)公は憲忠とは同一人物では無いですからね。
宅間上杉家の直接の祖先は京都の観修寺家ですし、宅間上杉家初代の上杉重兼公の母上と足利尊氏公と山名政氏公の母上が3姉妹で、その母達の実家が上杉家だったと言う程度の血縁です。
更に別流の犬懸上杉家から上杉憲政公の曾祖父の代前後に山内上杉家と血縁に成った人物はいますが、全然宅間上杉家じゃないですからね。特に江戸時代初期~中期と明治時代と昭和初期に書かれた古文書と論文には意図したデマと悪意の無い間違いがとにかく多い。
今回の“旧相模川橋脚”と決めつけられてしまった事は吾妻鏡を持ち出して文章の一部しか読まず地形を見なかった当時の沼田頼輔サンの検証不足の仕事の粗さが問題なだけ。

こんな事を小生も例えば寛政重修諸家譜の歴史人物の名前すら間違ってたり、江戸時代の役人が御寺に寺領を保証する朱印を発行する際に寺院名を間違って発行しちゃったり、昔の古文書の草書体を昭和初期の出版社が読めずに間違って違う漢字に誤植してしまったり、素人でも資料読んでて良く見つけるので、今回も御世話に成った色んな学芸員サン達から御教示頂いたり意見交換していると、本当に頭が下がるばかりです。
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特に茅ヶ崎市の現在の遺跡のレプリカ使って実物は水中に密閉する保存方法は、昔の人がコールタール塗ったくって雨ざらしにして腐らせた物を未来に繋ぐ改善を施し現代人にも展示を見られる様にしたファインプレイでしたね。
ただ茅ヶ崎市と言うよりは・・・
国の文化庁さん旧相模川橋脚と言われている場所は相模川じゃないですよね、何で調べないんで国指定史跡天然記念物にしたんでしょう?
別にここが鎌倉時代も小出川だったとしても、鎌倉時代の大規模橋梁が有った遺跡な事には変わりは無いのですから間違いを再検証し名称も変えるべきではないでしょうか?

さて。

今回、この地域を調べたり散策していて茅ヶ崎市教育委員会さんも一つ間違いが有る事に小生気づきました。
皆さん、まず江戸時代の風景画を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
この絵は東海道五十三次の一つ“南湖の松原左不二(富士)”と言う絵で、江戸時代の画家、歌川広重サンの作品です。
横浜の金沢八景とかの絵を描いたのも歌川広重サンで、我々神奈川県民には馴染み深い絵師サンです。
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鶴嶺八幡宮
(鎌倉の鶴岡八幡宮の前身)

凄く素敵な神社で、鶴岡八幡宮と同じく源頼朝公の御先祖様の源頼義公によって京都の石清水八幡宮から御分霊を勧進して開かれた神社です。頼朝公も崇敬したので御手植えの銀杏が有ったりします。
この鶴嶺八幡宮を鎌倉に遷宮したのが何と由比若宮つまり鶴岡八幡宮の元宮の元鶴岡八幡宮なんです。
なので鶴嶺八幡宮の別称は本社宮でした。鶴岡八幡宮の元の元と言う意味ですね。
そんな神社ですが、戦国時代に小田原北条家が豊臣秀吉公に敗北して改易され関西に移住すると大きな後ろ盾が無くなり荒廃してしまったそうです。
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幕末に皇女和宮様が江戸城に嫁ぐ頃に領主だった山岡家と鶴嶺八幡宮の別当寺だった常光院の住職によって、皇女が東海道を通る際に再整備した立派な参道が700m超の松並木に成っているんですね。
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この松並木の入り口に大鳥居が有ります。
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確かに、ここからは松と富士山が両方見えました。
この写真を撮影した位置に“南湖の松原左不二”の紹介の看板がありました。
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この場所を“南湖の松原左不二”の“松原”を鶴嶺八幡宮の764mの参道の松並木と想定している様で、案内看板が鶴嶺八幡宮の大鳥居の交差点の鳥井戸橋に設置されていました。
ただね、この説明は位置関係がオカシイんです。
もう一度絵を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
根本的に松原が左に曲がってますよね?
説明は鳥井戸橋の位置としてますが仮にこれが鶴嶺八幡宮の松並木だとしたら、大鳥居側から松並木に向かって先には鶴嶺八幡宮、そして富士山も一直線に無いとオカシイ事に成ります。
そして下町屋が無いとオカシイ事に成りますよね?では迅速測図で位置関係を見てみましょう。
南湖の松原左不二 久良岐のよし
赤線が鳥井戸橋から富士山が見える方角です。
残念ながら富士山を絵の方角で見ると鶴嶺八幡宮の松原は絵の右手側に伸びて行かないといけないのが解ります。
Nango-HidariFuji~2
ね~これ場所が違うでしょう?
でも、これ、小生場所特定しましたよ!
大正時代の沼田サンの間違い検証の参考に迅速測図を見まくってたら場所が解っちゃいました。
そもそも南湖の"松原"左不二(富士)なのに何で参道の“松並木”を比定しちゃったんでしょ?
松原と松並木は大違いですよ。
それに当時の地形は当時の地形に近い地図を見ないと位置関係も解らないでしょ?
では場所です。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
赤線が富士山の見える方向です。そして始点の‐‐‐‐‐‐で表示されている道の視点で現在の住宅を無視して地形だけの風景を見るとこうなります。
南湖の松原左不二特定② 久良岐のよし
この道路は1880~1886年に測量された迅速測図にも乗っている道なので歌川広重の生きた1797年~1858年の間の景色の道でもある訳ですね。では絵と見比べてみましょう♪
Nango-HidariFuji~2
もう、ここでしょ(笑)♪
歌川広重さん、又みっけ!
迅速測図でも松原の右手側に3軒並ぶ家が書かれてますしね~。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
この絵の構図の地点はGoogleMapの下の地点です。

現代では松原は伐採され住宅が建ち並び、ここに立っても富士山は見えないし松も無いでしょう。
そもそも皇女和宮が関東に嫁いで来た際には駿府の相模川の氾濫を東海道を通りませんでしたし、年代も文久元年(1861年)の事なので、それ以前に鶴嶺八幡宮の参道を山岡家と常光院別当の朝恵上人が再整備するよりも早い1858年に亡くなってる歌川広重さんが当時の様子を荒れてると表現されている八幡宮をわざわざ見に行く必要もなければ鳥井戸橋の辺りは畑と川しかない殺風景な場所で絵の構図に成らないんですよね。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
ところが南湖地区の南には大きな砂丘が有り、更には南湖地区と桺島(柳島)村の間の小出川河口は複雑な形の入江の干潟が広がる汽水湖に成っている上に“松原が広がっている”訳ですよ。
小生も4歳から絵画と彫刻の塾に通ってたのですが、今も綺麗な景色が好きなので自分が当時の茅ヶ崎市に行けるなら間違いなく南湖地区を旅して恐らく“南湖(なご)”の由来に成ってる複雑な汽水湖の景色や砂丘と松原を富士山の写真を撮影に行くでしょうね。
地形、当時の道路、GoogleEarthでの検証画像、全て丸っとパキっとひっくるめてココでしょ、歌川広重さんの描いた南湖の松原左不二。
小生が仮称:南湖(なご:なんこ)とした手の平型の湖は干拓され現代では浜見平団地に成っています。
旧相模川橋脚(絶対違う)の解説で少し話しましたよね?
・・・次の関東大震災が来たら液状化が心配だって指摘した団地です。
さて、広重サンの構図、現代でも綺麗なんですよ、神奈川県が地形消滅する開発許可を出して無い場所ね、この南湖松原も消えたけど。
ちなみに三浦の秋谷海岸の立石公園も歌川広重さん絵に描いてます。
まぁ、遠い富士山を近くに拡大して書いちゃったり漫画みたいな技法を凄く使うんですけどね。
相州三浦秋谷
秋谷の里広重構図 久良岐のよし
これが歌川広重さんの構図、綺麗でしょ?
こっち⇘は小生が選んだ構図。
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小生が当時の人間なら歌川広重さんに、いっぱい教えてあげたい構図が有る(笑)。
でも、もしタイムスリップ出来るなら中学時代に戻れるなら教師と親の言う事聞かずに中卒で鎌倉の正宗工芸に入門して包丁作りたかったかなぁ~。
でも、そうすると高校やアルバイトや留学で出会った親友や大切な人達にも出会ってなかったから、これからの人生をどうするかの方がやっぱり大切かな?

願わくば歌川広重さんや葛飾北斎さんが描いた景色や、彼等偉大な絵師が見つけられなかった綺麗な構図の景色が、これからもずっと残って欲しいと願います。

綺麗にまとめようと思ったけどやっぱり最後に小生らしく追撃の一言。

旧相模川橋脚は相模川の橋脚じゃなくて小出川の橋脚だよ(笑)。
ただし、こうも考えています。
小生は個人的に当時は暴れ川で川幅も広い相模川を跨ぐ様な大きな橋は建設する技術や財力が稲毛重成一人で揃えれたとは思えません。
現在も地名由来には諸説有りますが平塚市側に“馬入”の地名が有ります。明治時代の迅速測図を見ても、そして現代でもその一帯の相模川には中洲が多く有り比較的浅い馬で渡れる程の深さの場所が有ったのかも知れません。
だとしたら・・・
現在の旧相模川橋脚は相模川の橋脚では無くて小出川の橋脚だったとは思いますが、源頼朝公が落馬したのは小出川の橋の上だったかも知れないかな?とは少し思います。

special thanks!
鎌倉市藤沢市茅ヶ崎市平塚市の学芸員さんや土木事務所や発掘調査会社の元職員の皆さんのローカルな情報提供と御紹介頂いた資料と郷土史話も検証で役に立ちました。
ありがとうございました~♪

では皆さん、又、次の歴史解説記事か休日雑記か綺麗な景色の紹介か御料理のレシピ記事で御会いしましょう~♪
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大山国定公園の紅葉名所
神奈川の景勝50選の眺望
ミシェラン★★の夜景

大山寺と大山阿夫利神社下社
【関東三不動 雨降山大山寺】
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鶴岡八幡宮境内社の白旗神社
社殿前の池と紅葉の風流な景色

【景観】★★★
 紅葉は白旗神社周辺に限られるが、
 八幡様境内の壮麗な景色とマッチ。 
【電車】★★★★
 鎌倉駅     ~徒歩05分
 北鎌倉駅    ~徒歩20分
 金沢八景駅~バス乗車28分~
 ~鎌倉駅~徒歩5分 
        所要時間33分
【  車  】★★★★★
 周辺に有料駐車場多数。
 ※上限料金無しの場所有り注意!
【休憩】★★★★★
 境内は屋台が数軒。
 若宮大路、小町通に飲食店多数。
 離れた大町にオシャレな店有り。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 清浄な雰囲気と紅葉のコラボ◎
 境内林に可愛いリスが沢山◎で✖
 ※外来種で害獣。
 言うまでも無く荘厳な八幡様◎
 鎌倉国宝館の文化財必見◎
 当然、小町通り等の町ブラ楽しい◎
 鎌倉観光の起点なので周辺観光に◎
注意するpoint(•ω•)       
 駐車場の上限料金有無に要注意!
 他は注意必要ない(・ω・)人(・ω・)!
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
【見所】
鶴岡八幡宮の境内地で本殿に繋がる参道そのものには紅葉は一切無い。大鳥居から入り八幡宮の社殿に正対して舞殿から右手奥にある白旗神社の池周辺の紅葉が素晴らしく綺麗。その辺りは紅葉シーズンに結婚式後の新婦が白無垢で写真撮影している事も多く、何とも日本らしい風情を感じる事が出来る。
又、境内の鎌倉国宝館には鎌倉市の文化財が多く展示されていて仏像女子は必見!
【偉人】
源頼義公(頼朝公五代前の祖先)、源頼朝公、源頼家公、北条義時公、北条氏綱公、神保輝廣公、蒔田吉良頼康公、大道寺盛昌公、笠原信為公、北条綱成公、間宮康俊公、上杉謙信公等
【交通】
鎌倉駅からユックリ歩いても徒歩10分。
有料駐車場周辺に多数有り。
 ※鶴岡八幡宮駐車場始め料金上限の無い場所が有るので要注意!
※事前にGoogleMapで駐車場調べ不明な場所は電話確認すべし!
【周辺】
メインストリートの若宮大路や小町通りでランチも出来る店多数。
他の神社仏閣や博物館、由比ヶ浜散歩等と合わせると良い。
鎌倉歴史文化交流館は展示が綺麗でオススメ!
紅葉の名所の浄明寺地区や二階堂地区まで徒歩20分。浄妙寺や報国寺や瑞泉寺も紅葉◎
北鎌倉の建長寺、円覚寺、浄智寺尼寺の東慶寺等と合わせても良い紅葉散策が出来る◎
【名物】
●正宗の日本刀/包丁
鎌倉時代に名を馳せ今も有名な日本刀の名工、正宗の御子孫が小町通りの脇道で現在も‟正宗工芸”と言う打ち刃物屋を経営しており、豊臣秀吉が‟天下一の刀”と絶賛した日本刀:正宗の技術で製造した包丁を一般人向けに販売している。
●鎌倉彫り
鎌倉時代からの特産品と言えば鎌倉彫の漆器。現代ではブローチ等にも加工された装飾品が外国人観光客に人気。
●和紙
小町通りに社頭と言う和紙の専門店が有り、観光客向けには裏地をシール加工した千代紙、御朱印帳や絵葉書等、様々な和紙を販売する。僧侶や神官達も半紙も仕入れる御店で正に観光客~プロまで対応している専門店。
●女夫饅頭(めおとまんじゅう)。
現代人は知る人が少なく成ったが、実は江戸時代からの名物と言えば女夫饅頭で、今も老舗の饅頭屋が鎌倉市内には数軒残っている。
●鳩サブレ―
言わずと知れた豊島屋の銘菓で、鎌倉駅と北鎌倉駅前に御店が在るので御土産としても重宝する。
●鎌倉カスター
鎌倉ニュージャーマンと言う御店の御菓子で、最近はデパートでも取り扱いがある新しい部類の銘菓。フワフワの生地の中に色んな季節の果実のクリームを閉じ込めた洋菓子。最近、御店が鎌倉駅前に移転したので御土産としても重宝する。
●シラス
逗子と江ノ島の湘南シラスを提供する飲食店が小町通りに多数。
※【歴史】【関連記事】はボリューム多いので写真の末尾に移動します。
——鶴岡八幡宮正面——
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——境内社:白旗神社側——
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——鎌倉国宝館——
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【歴史】
本来の正式名称は‟鶴岡八幡宮寺”で神仏習合の‟寺社”で明治時代までは仏教建築の多宝塔や多数の僧房や寺院の御堂も存在した。これについては鶴岡文庫内に室町時代の様子の復元模型が有る。
鶴岡八幡宮は実は元々現在地ではなく、現在の材木座地域に源頼朝公の五代祖先の源頼義公によって開かれた。住所は材木座1-7、近年まで元鶴岡八幡宮と呼ばれ現在は由比若宮の名で存続している。
源頼朝公の統治が行き届き本格的に鎌倉の都市開発が始まると、京都を模した都市設計が計画され平安京時代の旧京都町割りで千本通りに有った天皇の内裏(御所)の位置に精神的支柱として鶴岡八幡宮を遷宮し壮大な社殿と寺院が建造された。
室町時代に成ると鎌倉一帯を領有した小田原城主北条氏綱公に敵対する房総半島の大名、里見家と正木家が海賊水軍を率いて海を越え三浦半島東岸や南方から攻め込み鎌倉市大船駅前の玉縄城を攻撃し❝鶴岡八幡宮合戦❞が勃発した。合戦の最中、里見義豊の軍勢による兵火で鶴岡八幡宮と鎌倉市街地は焼け落ち鎌倉は灰燼に帰した。しかし、この鶴岡八幡宮を焼いた事で里見家は関東諸大名から敵視されるに至り、里見家内で内紛が置き義豊は甥の里見義堯(よしたか)公により誅殺された。
その後、北条氏綱公による鶴岡八幡宮と鎌倉市街復興事業が始まり、氏綱公の実弟で今の伊勢原市に所領の有った神保輝廣公が経理や屋根に使う檜皮等の奉行を担当し鶴岡八幡宮の社宝を龍散寺で保護。
鶴岡八幡宮再建と鎌倉復興事業の総奉行を当初は大道寺盛昌公が担当した。しかし城代を務める埼玉県の河越城周辺で上杉家との戦闘が激化すると、再建総奉行は横浜市港北区の大曾根城主で小机城代の笠原信為公に引き継がれた。
材木の調達は後に玉縄城主と成る北条綱成(つなしげ)公が材木奉行を担当し、強い経済力と多摩川や呑川や目黒川の水軍を保有する横浜市南区蒔田御所(まいたごしょ)と世田谷区世田谷城主の蒔田吉良頼康公が大活躍しました。万単位の水夫を集め材木を筏に組み南関東から集積された材木を大河川の貯木場に集積すると、東京湾経由で当時は海だった中区関内辺りの旧:蒔田湾に海上移送、更に本牧半島を沖の海を越え材木奉行北条綱成公の付家老の間宮康俊公の軍港である磯子区杉田湊(みなと)に集積し鎌倉の復興の資材調達に成功する大活躍を成し遂げた。
いわゆる織田信長公の時代の本格的な戦国時代に成ると、未だ名前が長尾景虎(かげとら)だった時代の上杉謙信公が上杉家の養子入り上杉謙信と名を改め小田原城攻めの際に関東管領を継いだ参詣に訪れている。
江戸時代にも徳川家光公等によって境内の造営が行われ壮麗な社殿や大伽藍(がらん=宗教建築)を誇ったが明治時代の神仏分離令と仏教弾圧で寺院機能を持った僧房は解体され八幡宮の神社機能だけが存続し現在に至る。
【関連記事】
  紅葉名所一覧へ⤵
 
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もうすぐ仲秋の名月ですね~♪
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・・・皆さんは仲秋の名月が近づくと“彼岸花”が咲き誇る名所が横浜市港北区に在(あ)るのを御存知でしょうか?
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横浜市営地下鉄新羽駅から徒歩5分。
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・・・そんな駅近な立地の住宅街の真ん中に、元々は源頼朝公が鎌倉に開き、戦国時代に今の新羽の境内地に移転した事がちゃんと記録からも解る由緒正しい御寺です。
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補陀洛山 安養院 西方寺
西方寺の彼岸花の季節は9月下旬です
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すんごく彼岸花綺麗です。
この写真は2019年09月29日に撮影した写真です。
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西方寺は元は源頼朝公が建久年間(1190年頃)に鎌倉市極楽寺坂に開いた由緒正しい御寺。
鎌倉幕府の鎌倉城陥落時に新田義貞の軍勢に略奪狼藉を受け衰退してしまいました。
西方寺旧蹟
その西方寺が元在った鎌倉の場所は極楽寺坂を坂ノ下地区から登った先の、成就院さんの向かい側。
そこに如何にも御寺が在りました~!って解る地形が残っていて、いまではオレンジと言う御店が在る辺りですね。
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後に約500年前に現在の神奈川県域を戦国大名の北条家が統治下に入れ鎮撫すると、荒廃した鎌倉から現在の横浜市港北区新羽に移転再興され再び武士達に大切にされる様に成った。
その時は御寺の家財道具を船に積んで鶴見川を遡上(さかのぼ)って新羽迄移転して来たそうです。
西方寺と小机城の位置関係
衛生写真の“赤いマーク”の上のマークが西方寺、下のマークは北条家“白備え隊”小机衆の拠点だった小机城です。
確かに衛星写真を見て見ると戦国時代当時は水運に利用されていた大河川(かせん)の鶴見川が西方寺や小机城の直ぐ近くを流れています。
小机城は笠原氏が城代でしたが、初代の城主は恐らく北条幻庵公で、文書で確認出来る初代城主とされる推定次代城主が幻庵公の御子息の北条時長公でした。
2015-03-24-06-00-23
北条早雲公は皆さんご存知ですよね?
本名は伊勢盛時入道宗瑞公。北条幻庵公は北条早雲公の三男です。
北条幻庵公や小机城については以前、小机城の解説記事を書いているので御興味の有る方はそちらを御覧下さい。
これ記事へのリンク⤵
❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
北条幻庵
北条幻庵公はゲームではこんな感じにされちゃってますけど、戦国時代の関東で恐らく一番の教養を誇った武将で、高位の武家と貴族の礼儀作法に秀でて外交官として活躍した上に、北条家を裏から支えた名軍師としても戦国時代のファンには知られている名将です。
そして余り知られていないのは、箱根権現(現在の箱根神社)の別当職(宮司や住職みたいな)を務めた宗教家としても大変に大きな権威を備えた大人物でした。
そして箱根権現と言うのが修験道の聖地だったので、真言宗の西方寺は密教の寺院でもある事から、鎌倉で荒廃して消滅の危機に陥っていた所を小机城の北側の鬼門鎮護の御寺として移転復興したのが北条幻庵公だったのかも知れませんね。
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まぁ~北条家は豊臣秀吉に無理難癖つけられて小田原城に20万の大兵力で攻め寄せられて滅亡してしまいましたので、歴史文書は勝者側の物しか余り残らないので、現在では西方寺がどういった経緯で移転して来たか、北条家の来た時期との関係性の状況証拠しか残っていません。
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なので御寺の説明もザックリしていますし、新編武蔵風土記稿と言う江戸時代に書かれた歴史ガイドブックみたいな資料にも余り詳しい事は書かれていませんが、現代では鎌倉市の学芸員や神奈川県の教育委員会からは大変に重視されている御寺が、この西方寺です。
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解かる事と言えば、周辺の折本町や東方と言う地域は北条家臣の鈴木家が治めていました。
この文書に出て来る岩本豊後と言う武将は、横浜市磯子区と港南区の大半と横須賀市汐入~不入斗や海老名市一帯を治めた間宮林蔵の先祖の笹下城主間宮康俊公の同族で、やはり北条幻庵公と同じく修験道の大人物だった今の江ノ島の江島神社、当時の江島別当職だった間宮一族岩本家の人物でしょう。
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まぁ、今では余り鎌倉時代や室町時代の歴史を辿れる文書は残っていないんです。
でも西方寺は見事に残り、今でも厳かさに風流を加えた武士の仏教文化を伝えてくれています。
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手水(ちょうず)にもさり気なく彼岸花が飾り浮いていてとても綺麗でした。
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御本堂の屋根は吹き替えに数千万円かかる高価な茅葺(かやぶき)でした。
現代だから高価と言う訳では無く、昔から茅葺屋根は藁葺(わらぶき)とは違い庄屋サンや由緒ある御寺等、御金の有る所の建築物にしか用いられない様な高価な物だったんですよ。
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御本堂の左手に廻ると御朱印を受領出来る寺務所です。
その前にも素敵な赤と白の彼岸花が参拝客を迎えてくれる花壇が在ります。
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とても綺麗ですね。
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御本堂から向かって右手に廻ると・・・

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大悲閣と言う、十一面観音菩薩様が祀られている御堂が在ります。
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御堂内は撮影禁止だそうです。由緒ある観音様を拝みたい方は、是非!参拝して見て下さい。
この大悲閣の右隣には鐘楼が在りました。
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こちらも茅葺でとても風流な佇(たたず)まい。
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その前には横浜市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在りました。
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大悲閣に向かって左側には元々は大師堂か太子堂が在った場所に石倉が設けられています。
その隣には、古い御寺らしく神仏習合の文化が今も守られていて、御稲荷様が鎮座していました。
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いつも行く先々で御参りさせて頂く事の多い御稲荷様、宇迦之御魂神様に西方寺で又、御参りの機会を頂き、今日まで無事に過せた事の御礼をさせて頂きました。
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御参りし終り御預けしていた御朱印帳を受け取りに行く為に階段を降りると右側の紫色の素敵な御花の中にクマン蜂が蜜を吸っているのが見えました。
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今から寒くなるから、シッカリ栄養補給しないとね~♪
この子達はイタズラしない限り人間に攻撃を加えて来ない優しい子達。
蜂さんの写真を撮影し、寺務所にて御朱印を押印して頂いた御朱印帳を受け取り帰りに又、参道の彼岸花と御朱印を一緒に記念撮影~。
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西方寺サンでは、今の季節だけ彼岸花のデザインされた限定の御朱印が頂けます。
可愛いでしょ?
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正午を過ぎて続々と参拝客が増える参道。しかし本当に綺麗だ。
彼岸花って御彼岸の季節のイメージで何だか明るいイメージが余り無かったけれど、西方寺に初めて彼岸花の季節に来てみて大分とイメージが変わりました。明るくて可愛い!
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ついでに幸せ家族のほのぼの風景。幸せそうで羨ましい~!

まぁ~西方寺と彼岸花の解説はこんな所ですが、今年2019年を参考にするなら10月1日の仲秋の名月の日位までがタイムリミットだと思います。
2019年09月29日は、もう御花が部分的に萎(しお)れ始めていました。
なので見に行きたい方、限定御朱印を受領されたい方は、是非、平日でも休みをとれる方は急いで行かれる事をお勧めします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

※小生のブログは【カテゴリー】
から記事のジャンルを選んだり、記事文末の「タグ」の中のキーワードをクリックすると関連記事を検索出来ます。
行きたい場所の参考に成りそうな場所を探せる仕組みに成ってます♪
興味の有る方は参考にされて下さい。
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みなと湯
現代では希少なビジネス旅館みなと旅館の銭湯
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☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 ビジネス旅館みなと旅館の銭湯。
 共済病院前で御見舞い滞在に便利。
 タイルのモザイク画が可愛い
 鷹取山ハイキングコース近く。
 野島公園BBQキャンプ場近く。
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人470円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等浴室に有り
 使い切りシャンプー類販売有り
 レンタルのハンドタオル有り
 飲料販売有り
 ビジネス旅館併設
【電車】
 京浜急行追浜駅~徒歩8分
【  車  】
 駐車場若干有り
 周辺に有料駐車場複数
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
ーー入口~建物の外観ーー
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――番台――
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――更衣室――
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――浴室――
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横浜では少なくなった日本建築のビジネス旅館が運営する銭湯。
外観は日本風だが男湯と女湯でピンクと水色のパステルカラーに分かれていてタイルのモザイク画が可愛い~(笑)。しかし天井は高く昔ながらの風格と威厳有る建築に成っている。
老舗銭湯は据付のシャンプーとボディーソープが無い場所が大半だが、ここはビジネス旅館の運営する銭湯なので購入不要。突然行っても貸しタオルをレンタル出来るので、タオルを2本レンタルすれば持参しなくても大丈夫。
バスタオルは要持参。
立地的に野島公園のBBQ場から徒歩20分ちょと、神武寺~神奈川の景勝50選の一つ鷹取山の鎌倉石採石場跡や磨崖仏のハイキング帰りに立ち寄り入浴してサッパリしてから帰るにも丁度良い。鷹取山からは徒歩25分位。
近代には伊藤博文公が野島と夏島に滞在し大日本帝国憲法の草案を起草した。
実は平成世代には余り知られて無いが釜利谷~能見台~瀬戸神社~琵琶島~須崎や野島~六浦や内川周辺は江戸時代の歌川広重等が愛した景勝地で、見所が8ヵ所有った事から“金沢八景”の駅名由来に成っている。瀬戸神社と琵琶島辯財天は源頼朝公と北条政子様の御夫妻によって伊豆国一之宮三嶋大社と近江国竹生島辯財天が勧進され開かれた由緒ある神社で金沢八景駅前に存在する。
戦国時代にも太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公等が町屋町の龍華寺に滞在し周辺を楽しんだ事が現代に伝わり、昔は名将達のリゾート地だった。
その龍華寺の元の境内地が浄願寺跡と伝わった上行寺東側の丘陵の上で鎌倉時代末期には兼好法師の名で有名な吉田兼好も浄願寺に長期滞在した程の景勝地が、みなと旅館周辺の埋め立てられる以前の景色だった。
そんな訳で、現代では埋め立てられて景勝地ではなく成ったが、鷹取山~神武寺ハイク、野島公園BBQ、周辺の歴史散歩で汗をかいた後に立ち寄るにはもってこいの銭湯が、みなと旅館の“みなと湯”だったりする。

みなと旅館の直ぐ目前にはヘルニアの手術やスポーツ選手の機能改善治療で有名な横浜南共済病院が有るので、長期の御見舞いで滞在する場合の宿泊にも便利だったりする。

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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。
真名瀬海岸と裕次郎灯台
菜島と森戸大明神森戸海岸
 (神奈川の景勝50選)
仙元山と葉山マリーナ
【真名瀬】
【森戸海岸】
【仙元山】
【水質】  
【景色】
 真名瀬海岸★★
 森戸神社  
 森戸海岸 
 仙元山  
 葉山港  
【電車】  
※各所森戸神社から徒歩圏内。
 逗子駅~バス13分。
【  車  】  
 真名瀬海岸
 森戸神社 
 森戸海岸 
 仙元山  
 葉山港  
※仙元山周辺のみ駐車場無し。
【休憩】
 真名瀬海岸
 公衆トイレ有り。海の家無し。
 森戸海岸 
 公衆トイレ有り。海の家有り。
 仙元山  
 公衆トイレ有り。
 葉山港  
 公衆トイレ有り。海の家無し。 
※各所周辺一帯飲食店多数。
 宿泊施設も多数。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 全箇所徒歩でまわれるよ~。
 神奈川の景勝50選の一つだよ~◎

 源頼朝公も別荘置いた景勝地◎
 有名な葉山マリーナの近くだよ◎
 レストラン沢山有るよ◎
 森戸海岸は海の家有るよ◎
注意するpoint(•ω•)       
 仙元山は日没前に降りてね~。
 駐車場満車気を付けてね~。
 真名瀬と葉山小浜は海の家無し。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
“神奈川の景勝50選の一つ森戸の夕照”
森戸神社裏手や真名瀬から見える鳥居の島が源頼朝公の別荘が在った“名島(菜島)”で、手前の灯台が昭和の大スター石原裕次郎さん所縁(ゆかり)の“裕次郎灯台”。森戸神社や真名瀬海岸からは、その全てに加えて江ノ島と富士山も一望出来て夕焼けの海がとても美しい。
名島は鎌倉時代には森戸海岸と地続きだったが、砂岩の地層が波に削られ現代では硬い岩盤のみ残り島に成っており、現代では鳥居が立てられ観光客に神秘的な景色を見せてくれる。
真名瀬海岸は海の家も出店せず知名度が低いのに絶景なので、海水浴は隣の森戸海岸や一色海水浴場で楽しんでも是非にも風景を見に立ち寄りたい所。
 
森戸神社や真名瀬から歩いて行ける仙元山からは更に湘南の海岸線も良く見渡せるが、ビーチで遊ぶ格好では無理なガッツリ登山に成るので、海水浴シーズン以外に海での風景散歩と合わせて登山するのがオススメ。
 森戸神社は源頼朝公が伊豆国一之宮の延喜式内社である三嶋大社から御分霊を勧進して開かれた由緒正しい神社で、良く結婚式で神前式も行われる神社。
真名瀬~森戸海岸~葉山海岸にかけて飲食店と宿泊施設が沢山ありランチデートも楽しめる。
むろん、ディナータイムも良い店が沢山有るが中でも有名なラ・マーレは御店もロケーション良くオシャレで料理も美味しくオススメ♪
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※真名瀬海岸から裕次郎灯台と菜島(神奈川の景勝50選)
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※森戸大明神(三島大明神)
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※森戸海岸
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※仙元山からの眺望
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※葉山マリーナ
穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
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※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。


燈明堂海岸と浦賀燈明堂
千代ヶ崎砲台
 (江戸幕府海防陣所跡)


【景色】
【電車】
 浦賀駅~バス6分+徒歩9分。
 徒歩で36分
【  車  】★★
 駐車可能台数30台のみ。
【休憩】☠️
 今は公共トイレすら無い。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 海が抜群に奇麗だよ~◎

 縁結びの西叶神社東叶神社が近い◎
注意するpoint(•ω•)       
 海の家は無いよ~。
 今は公共トイレすら無い。
 駐車可能台数が少ないよ~。
 三浦東岸で夕陽は見えないよ~。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
海はピカ一奇麗!子連れの親子が浜辺で遊ぶのに最適だが、過去に公設海水浴場としての実績は無い。
東京湾の入口に存在している為に海水が市街地化の影響を受けておらず透明、更に砂岩と粉砕された貝殻で出来た砂浜は真っ白で美しい。ボぉ~っとしてるだけで幸せになる場所。
海岸の名前の由来は江戸幕府によって灯台として建設された浦賀燈明堂に由来する。燈明堂はその後も明治時代初期まで稼働していた。
西側岩場にワカメやヒジキが自生している。
付近は戦国時代からの要所で浦賀港の対岸には戦国時代の浦賀城址が有り、燈明堂海岸には江戸幕府によって要塞化された千代ヶ崎台場が建設され、明治に成ると千代ヶ崎砲台に近代化改修された。立地と縄張り的に戦国時代にも名前の残らない城塞だったのかも知れない。

浦賀港には縁結びで有名な源頼朝公と文覚上人が開いた東叶神社と西叶神社が有り、両方の神社を浦賀港を渡し船で海を渡って御参りすると“縁結び”の御利益が有ると若者に人気。
東叶神社西叶神社と渡船のリンク⤵️

東叶神社の山が浦賀城址で、西側の燈明堂側には江戸幕府の浦賀奉行所が存在した。
燈明堂沖の海獺島(あしかじま)は徳川埋蔵金伝説が有り、沈没船に幕府の蓄財が満載されていたらしい。
海獺島の名前の由来は、海水の奇麗な一帯には明治時代まで海驢(あしか)が生息していた事に由来し一帯の海が自然豊かな漁場だった歴史も垣間見える。KIMG8027
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※燈明堂海岸
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※浦賀燈明堂跡
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千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
※千代ヵ崎砲台跡

穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
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「自粛やぁ~めた!」
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・・・で、車で30分の近くの海に潮風に当たりに行って来た。
三ヶ月前から中国から情報共有されてたし、中国反省してからの対応は参考に成った。中国から3月初旬には大量の検査キットや医療用具の提供も有った。
そもそも武漢肺炎爆発感染開始直後に上海の医療先進チームが100人編成で武漢入りした際の装備の不備で全員感染し壊滅した事実も、外務省から厚生労働省に情報共有されなかったのかダイヤモンドプリンセスの検疫に活かされてもおらず、厚生労働省と政府の相談役の有識者は自分達の方法に拘り全て後手後手に回り、現場の職員は感染リスクにさらされた。
台湾のサーズの経験活かした中国からの感染者流入阻止と感染者隔離と防疫も、1月初頭から良い御手本に成っていたにも関わらず、それも模倣出来なかった。

全て無視して対応が3ヶ月遅れたのは政府の責任。三蜜回避要請も1ヵ月の約束だったはず。
自営業の連中はどんどん倒産してる。

「阿呆(アホ)らしい」

スーパーに親子連れで買物来てて、あれだけ過密してて皆で商品べたべた触って三蜜回避も外出自粛も無ぇ~よな?
伊勢佐木長者町や曙町の性風俗店は普通に営業黙認してるよな?
黒岩神奈川県知事、林文子市長?
なんで真面目な洋食屋さんや居酒屋がダメで、濃厚接触どころか直接粘膜擦れ合う淫靡な接触でヤクザの資金源で最凶最悪の性風俗店が営業してるのを実名公表しないんですかね?

あ~御二人とも性風俗の常連客なんでしょうか?

性風俗に事実上の自粛無用の営業公認する黒岩知事と林市長。
約束守らないし、国民の生活守らないし、日本企業守らない政府。
特によくいる実力不足だけど自己顕示欲が強い“苛めっ子優等生”タイプの西村大臣の大阪府知事に対するマウント。
くだらねぇ~なぁっ、エライさん方!
末端の公務員と県民の事考えてなさそうだ。

「だから自粛やぁ~めた(笑)!」
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うひゃ~♪
人のほとんどいない海って気持ち良ぃ~(笑)!

どこの会社にもいそうな有能な後輩を潰しにかかる無能上司みたいな西村ってオッサンにクサクサしても意味ないし、安倍総理も約束と違う“緊急事態宣言延長”とか言い出したから、もう自分なりにしていた三蜜回避の為の自粛の御願い聞くも止めて飲食店にも行く事にした♪
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うぉ~!焼き鳥美味ぇ~(笑)♪
※店は後で紹介する。もろ三蜜♡で食べる立ち食いの御店!

感染源特定出来ない状況にまで事態が悪化してるのに、外出自由の現状で外出自粛要請は意味が無い。
一番ダメなのは電車バス通勤を禁止しない事。
もう手と手、頭髪と頭髪で間接接触も直接接触もしまくり!

でも庶民の小生がそんな事を考えても政治家じゃないから仕方ないもんね(笑)。
身の回りにいる“男性のバブル世代や団塊世代”に言っても・・・
「政府より偉いと思ってるの?」
「自分が政治家に成れば?」
・・・とか、民主主義の「み」の字も自覚してない自分達が国家運営を委託する人間を決める国家運営に関わってる一員と言う自覚が丸出ない、無責任な発言しか聞かなかった。

てなわけで、なんかクサクサした気分を「パっと!」晴れやかにしたい気分に気持ちの良い青空、三密回避に山歩き行くには雨翌日の泥濘(ぬかるみ)で無理なので海に行ってきた・・・
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浦賀燈明堂(とうみょうどう)
これどこよ?と歴史に興味ない人は思うだろうけど、歴史的に重要な場所で有りメチャメチャ奇麗な場所。
写真の右上を見ると和風の建物が見えるだろうか?それが復元された江戸時代の“灯台”なんだな。
浦賀城周辺 久良岐のよし
実はそこ、江戸時代初期はおろか平安時代から重要視された浦賀港の入り口で、岩礁が有るので慶安元年(1648年)に江戸幕府の命令で築かれた日本最初期の灯台で、近代の明治五年(1872年)まで稼働していた施設なんだな。
そして戦国時代には三浦水軍の重要拠点として浦賀港の入口東側の東叶神社の丘陵が城塞化され、神奈川県では有名な浦賀城が築かれ東京湾防衛を担った。
北条家臣間宮一族で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた間宮宗甫公、そして平安以来の三浦郡領主の三浦氏の分家である横須賀氏が在番した水軍拠点の城だった。
城主の横須賀氏は元は鎌倉武士として源頼朝公の最大の協力者だった三浦義澄(よしずみ)公の支配した三浦一族の子孫で、三浦本家が滅亡して分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を次いで室町時代に大名に返り咲くと横須賀氏も重要視され、三浦氏の戦国大名として最後の武将と成った新井城主三浦義意(よしおき)公の母君が横須賀秀連公の御息女だったりする。
つまり、この横須賀秀連公が北条氏綱公が相模を統一した頃の横須賀の浦賀城主で、間宮宗甫公は横須賀氏の目付(副将兼監視役)的な意味で配置されたのだろう。
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間宮宗甫公の宗甫は名前では無く入道号であり仏門に出家した法名だ。
1560年迄の領地も“北条所領役帳”に記載が有る。
八貫五百文 神奈川斎藤分
六貫文   鎌倉紺屋分
弐捨貫文  御蔵出し
この鎌倉紺屋分と言うのは鎌倉を支配した本光院殿(北条為昌)の死後に、その遺領が再分配された当時の軍団編成が“本光院殿衆=鎌倉領”だったから所領役帳を写本した人物が誤認して“鎌倉”の注釈を入れたのだろう。
小机領、神奈川領と似た様な編成由来だと思われる。
そもそも現存しない原本には各所領の郡名は書き記してなかった筈で、証拠に別の写本とは郡名の違う場所が有る。
間宮本家の間宮康俊公の所領に富屋とあるが、これの郡名が各写本で異なる。今の坂戸市戸宮としている学者さんもいるが恐らく違う。間宮家所縁の神奈川区に実は富屋は今も存在する。実はJR東神奈川駅一帯がそもそも富屋町で、今はだいぶ狭い範囲になり安土桃山時代か江戸時代には既に神奈川の名の方が有名に成り江戸時代に写本した連中が神奈川区富屋=そもそもの神奈川宿周辺に戦国時代今より大きく広がっていた富屋町を辿る事が出来なかったので、同時期に検地された埼玉県方面の中に戸宮の名を見つけて当て込んでしまったんじゃないだろうか?
学者さんが根拠にしているのは、その検地された時期だけで、同時期に離れた富屋の検地がされていてもおかしくない。寧ろ京急神奈川駅一帯の権現山城の合戦に間宮家が籠城側として参戦してる事も富屋は神奈川区の富屋と考えた方が極々自然だったりする。
権現山合戦を書いた記事⤴️
紺屋の地名で他に間宮家に所縁の有る場所は鎌倉市には無いが旧本光院殿衆の与力所領は三浦には沢山ある。宗甫公は氏康公の直属に成る以前は或いは本光院殿衆だったのかも知れない。
三浦半島の東岸は西浦賀の他にも不入斗一帯が間宮本家の所領で、杉田の間宮家は走水で里見水軍を一網打尽にし里見の軍船を多数滷獲(ろかく:乗っ取る)に成功した際に不運にも間宮常信公が討死にしている。浦賀の紺屋を除いて走水防衛を担う出撃拠点が見当たらない。
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斎藤分町と言うのは六角橋商店街で有名な近所の一帯だな。小生は学生時代に交通違反点数累積の1ヵ月免停で違反者講習を受けに行ったのも六角橋の斎藤分町側だった(笑)。
ところで間宮宗甫の宗甫と言う法名だが・・・
戦国時代の北条家臣団は多くは主家北条家の宗旨が曹洞宗だった事から、一般的に当時は臨済宗と一緒に“禅宗”で一括りにされていた禅宗曹洞派の寺院で学問や禅の精神を学び、入道号に臨済宗大徳寺系の“宗〇”と大徳寺で修業した主家の創始者である北条早雲(実名:伊勢盛時 入道号:宗瑞)に倣(なら)って師僧から“宗”の字を貰って法名を名乗る事が多かった。
当然ながら地元の由緒ある臨済宗の御寺が菩提寺だったり自分の領地内に在ったりすると“道〇”と臨済宗系の法名を貰っている人も多くいた。
それ以外にも千葉家臣団系や武蔵国南部を拠点にした武士は日蓮宗系の“日〇”と名乗る武将も多かった。
面白い事に、北条家臣団は禅宗で学びながらそれぞれの菩提寺の宗旨でも法名を貰っていた様で、戒名には禅宗系と日蓮宗系のMIX戒名(笑)も多く見られる。
例えば間宮宗甫公の一世代後の間宮家の同族でも北条氏康公直臣として横浜市磯子区杉田一帯を治め小田原水尾城代を務めた間宮信繁公の戒名が「法種院殿“道因”“日縁”大居士」と臨済系の道〇と日蓮宗系の日〇の両方が入っている。
これは簡単に説明がつく。
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霊桐山 東漸寺(臨済宗関東十刹の1つ)

寺領の陣屋に臨済宗の関東の十大道場の一つである東漸寺が存在したので、そこで平素は禅の修行をしたから師僧から“道因”の入道号を与えられたのだろう。
そして“日縁”の法名は・・・
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牛頭山 妙法寺
・・・同じ杉田に存在する実家の菩提寺である妙法寺が日蓮宗だったので、亡くなった際に日蓮宗の法名も加えて戒名の法種院殿道因日縁大居士に成っている事が判る。
日蓮宗の多い千葉家臣団の遺臣の末裔である房総半島の武将達も間宮信繁公と同じ様に鎌倉時代以来の日蓮宗系の日〇+臨済宗系の道〇の法名を持つ武将が多いのも同じ理由。

室町時代を通じて北条家は浄土真宗と敵対する足利幕府の方針に従っていたので、足利義明の将軍就任以前は浄土真宗とは敵対していたので、先ず、安土桃山時代になるまで浄土真宗に帰依している武将はいなかった。
間宮家でも豊臣秀吉による北条家改易後に徳川家臣となった間宮綱信公が氷取沢の寶勝寺を禅宗から浄土真宗に復興開基したりしているのは、正にその理由で徳川家康公の重臣である本多正信公が近くの玉縄城主に成り影響を強く受けたからだろう。本多家が没落すると今度は自分の領地の荒寺を徳川家の宗旨の浄土宗に改宗して復興開基した所が多い。

東漸寺と妙法寺の紹介記事は以前書いているので、御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵


鎌倉時代に話を戻す。
源頼朝公と文覚上人は真言宗の密教と山岳信仰の修験道としての修行に造詣が深く、伊勢原市の大山や富士山を登って富士山の火口を一周する修行をしたりしている。
現代の様な登山靴も衣類も何にも装備がない時代に・・・
鉄人すぎる。
それ以外に二人は法華経を大切にしていた様で、頼朝公の御廟所も法華堂だったりする。
その後。源頼朝公の死を境に衰退しする。その頃に成ると源頼朝公の忠臣だった熊谷直実公や土肥実平公は法華経と阿弥陀如来を大切にする法然上人に帰依して、二人はそれぞれ浄土宗の僧侶に成ったり浄土宗の寺院に仏像を寄贈したりと支援を行っているが、二人を含めた源家の忠臣は鎌倉幕府を牛耳った北条家に政治的に干される。
恐らく、鎌倉で法然上人と弟子の親鸞上人が北条家から迫害されたのは武士同士の信仰的な結束とか政治的な結び付きが直結したのだと思う。
鎌倉幕府の執権と成っていた北条家が京都の藤原氏と組むと、藤原家が影響を及ぼしていた天台宗系の禅宗臨済宗を北条家が導入し、旧頼朝公の古参遺臣派と親北条派の政治的衝突に巻き込まれ熊谷家や土肥家と関係の深い法然上人の浄土宗の寺院が鎌倉で焼討された時期が有ったのだろう。
その後、執権の北条家が導入した臨済宗に宗旨替えをする武士が多く成り、その武士達が支援した寺院も臨済宗が多く成った。
だから神奈川県域の街道沿いや海沿いの早くから開けた場所だった寺院は臨済宗や元臨済宗が多く、杉田間宮家が支配した屛風ヶ浦辺りにも篁修寺や林光寺と言った臨済宗寺院が残っている。
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鳳林山 篁修寺KIMG6145
晴峯山 林香寺この二ヶ寺は北条家分家の名越北条家の丸に三ッ鱗紋の家紋を今も寺紋として使用しており、東漸寺の末寺として開かれた歴史が有る。
丸に三ツ鱗紋
一帯を鎌倉時代まで支配していた名越北条家の北条宗長公が、天台宗だった東漸寺を建長寺の末寺として再興したので、東漸寺から北条家の三ッ鱗紋を引き継いだ事も解かる。
因みに東漸寺の方はと言うと・・・
CIMG6785徳川葵紋
徳川家から葵の紋の使用を許されているので、現代では名越北条家より権威の有る葵の紋を使用している(笑)。
現代では鎌倉五山の第五位に列せられている東日本で5番目の格式を持つ臨済宗の浄妙寺・・・
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実はここも元は真言宗の大寺院だった。
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浄妙寺は足利家の鎌倉幕府征夷大将軍の家臣時代の居宅地であり鎌倉の菩提寺で、室町幕府初代将軍足利尊氏公の御舎弟(弟)である足利直義公の菩提寺だったりする。

三浦半島の浦賀湊に話に戻す・・・

源頼朝公御存命の平安末期以来の在地武士は真言系宗派を信仰する一族が多かった。だから三浦一族の拠点には真言宗寺院や元真言宗の御寺が多い。一部、天台宗の寺院も現存したり元は天台宗だった場所も多い。
鎌倉時代の三浦本家の学問所だった大善寺。
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金峯山 不動院 大善寺
ここは奈良時代に行基大僧正によって不動明王と蔵王権現が祀られて寺院の前身が出来て、後に真言宗の寺となり衣笠山が平安末期に三浦一族の居城となり衣笠城内に組み込まれると三浦家の学問所として一時は大いに繁栄したそうだ。戦国時代に三浦半島が小田原城主北条氏綱公の勢力下に入ってからは曹洞宗寺院に改宗したが、曹洞宗に成ってからも護摩壇が御堂に残されており真言宗時代の御不動様の護摩焚きを現在も行っていたりする。
神奈川県域にも弘法大師つまり空海和尚が布教活動に来られていたので比較的天台宗より真言宗が平安時代末期までの関東では勢力が強かったようだ。又、頼朝公の源氏が熱心な密教的要素の強い修験道の信者だった事もあり、真言宗と天台宗が残る原因に成ったのかも知れない。
更に古い時代には関東一円には法相宗の寺院も有った様だ。
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梅花山 成就院(現在の寺号)
(開基当時:曲田山 帶行寺→改宗後:梅花山 南無佛院 成就坊)
又、三浦半島から横浜に話を戻すが、港南区笹下の間宮家の居城笹下城跡に在る成就院は、現在は浄土真宗高田派だが平安時代の早い時代には法相宗だった事が書かれていたりする。そして文覚上人が源頼朝公の戦勝祈願の護摩焚を行ったと新編武蔵風土記稿に書かれている事からも鎌倉時代の頼朝公の時代には文覚上人の真言宗に一時期属していた事が判る。
そして例によって頼朝公が暗殺されて後に荒廃し、後に親鸞上人が笹下に布教に来た時期に浄土真宗に改宗し蓮如上人によって曲田山帶行寺から浄土真宗の御坊(ごぼう)として“成就坊”に改められたと伝わる。

成就院も以前記事を書いているのでコレ⤴御興味有れば御覧ください。

因みに、さんざん登場した文覚上人・・・
源頼朝公と親友だった真言宗系の密教修験道の有名な“御坊様”だった文覚上人が開いたのが浦賀湊(みなと)の入口を守る東と西の叶神社だ。
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叶神社(西)
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叶神社(東)
この2社は実にロマンが有り、2社を隔てる浦賀港の渡船に乗って両方御参りすると縁結び祈願が成就すると言う。因(ちな)みに小生は未だ、船で御参りした事が無い。

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ここが渡船の乗り場で、海に治策見えているのが赤色の船が渡船。
機会が有ったら好きな女性を連れて来て一緒に御参りしようかしら(笑)?
この神社は西が先だ東が先だと下らない事を推論する“御朱印バカ”がいるが、そもそも開いた文覚上人が僧侶で今でこそ神社だがそもそも神社じゃない。
神仏混交の八幡宮として京都石清水八幡宮から勧進された八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命の御神霊を御祀りしている真言密教系修験の聖地だった訳だ。

国土交通省水管理保全局が判りやすいブログを書いてくれているので、それを見ると一目瞭然だと思う。
そもそも石清水八幡宮は湧水の聖地であり、眼下には江戸時代まで巨大な巨椋池と言う湖が広り淀川や宇治川と言う水害を起こす大河川が流れていたので治水の神様として、それらを見下ろす男山に神様が遷宮された訳だ。しかも修験道の聖地として、仏教の僧侶が得た神託によって筥崎宮から遷宮された。
そして古代から存在する神社である延喜式内社の沿岸部における立地はは湾の最深部、湾の入口を守る左右の丘や岬の先端に存在する。
 
それはコレ⤴今年の初春の頃に書いた上総国一之宮の玉前神社の記事を読んで頂ければ納得して貰えると思う。
叶神社の主祭神は石清水神社から勧進された応神天皇=八幡大菩薩で破魔の神様であり水上交通つまり航行と治水の神様であり仏様だ。それらの歴史事実を踏まえて再度、叶神社の位置関係を見ると・・・
浦賀城周辺 久良岐のよし
延喜式内社や本来の神様の役割を熟知されていた御二人らしい叶神社の配置である事が理解できる。
・・・だから叶神社は当初から軍港を鎮護する御神威を期待されて浦賀湊の入口、左右の高台に勧進された事が推測できる。
だから西が先だ東が先だ言ってる輩は、そもそもの‟石清水八幡宮の歴史や地形からして理解していない”訳だ。
どっちが先かと言われたら、恐らく同時に開かれたはずだ。そして東叶神社の方が歴史が浅いと誤認される理由は恐らく、佐原三浦家が室町時代に大名化して鎌倉公方足利持氏公の与力となり房総半島の犬懸上杉家と戦った事や、その後は足利持氏公と大庭城主の扇谷上杉氏定公を裏切って山内上杉家に付いたりと、房総半島方面の勢力に備える為に東叶神社の本殿なり本堂成りが元々在ったであろう裏山の頂上に浦賀城を築いた際に、参道の中腹まで神社が移し降ろされたんじゃなかろうかと小生は個人的に推測している。
それが証拠に城が築城されて北条家の統治下でも城の鎮守として奥院は山頂に祀られたままで現在に成っても頂上に奥院が残っている。
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石段の規模を見るに、もう少し大きい御社が当初は存在したんじゃないかと思う。
ここは東京湾と浦賀港を守る城だっただけあり眺望も良い。
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実はこの写真から見えている対岸の岬の先端の場所が、冒頭の潮風を浴びに行った燈明堂海岸だったりする。この写真を見れば、燈明堂海岸が正に灯台を築く必要性の高い地形だった事が判る。
・・・で、ここで・・・やぁ~っと!普通の休日雑記に戻る(笑)。
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はぁ~♪白い砂浜最高Da~Yo~ねぇ~(笑)!
三蜜?馬鹿じゃないの(笑)?
何で人のいる場所に態々(わざわざ)行くの?
外出自粛?何でスーパーに友達や家族で超濃厚接触しながら行くの?
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電車通勤しちゃダメじゃん!車通勤しなよ!
車通勤させない会社は在宅労働させろよな?従業員が感染したら経営者の責任だからな?
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めちゃくちゃ気持ちいィ~人の略いない海ィ~♡
もう、あとは自分の奥さんと二人だったら最高なのに(未婚)!
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泳いでる人が一人だけいた(笑)。
 
・・・とか思った瞬間に爽やかだけど少し御腹空いてきて移動しおうと思った。

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一応、これが復元された燈明堂。
周りに木が生い茂ってしまったので今は灯台の役割は果たせない。
この海岸の裏山は近代に浦賀造船所と横須賀鎮守府を守る砲台要塞が築かれた場所だったりする。
千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
千代ヶ崎砲台跡保存状態は極めて良いものの、残念ながら現在は非公開で鉄錠門で封鎖され入れない。でも新型肺炎が終息したら横須賀市役所の公園管理してる部署に問い合わせれば、走水の御所ヶ崎砲台と同じで猿島ボランティアガイドの人が引率するツアーを組んで貰えるはず。
横須賀市長に成った上地雄輔クンの御父上、聞いた話だと浦賀奉行所も史跡として復興して神奈川県域の中高生の歴史教材に活用する計画とか。実に素晴らしい!
頑張ってくだされや~。
ところで小生、この千代ヶ崎砲台の地形を見て・・・
「あ~、これ城跡だわ」
・・・と速攻思いました。浦賀城と左右で港を守る名も無い要塞として戦国時代に整備されたんじゃないかな?と思ったんですが、御城ファンの皆さん、この構造体見てどう思います?
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さて、美しい燈明堂海岸で西村大臣の屑っぷりと加藤厚労大臣の対応遅れまくり無能ぶりにクサクサイライラしてた気持ちも横須賀だけに「スカっ!」と潮風で吹っ飛び(笑)・・・
自民党にはまだ河野防衛大臣や小野寺前防衛大臣やら、最近、総理に痺れを切らしたか覚醒されつつある岸田さん等の逸材がいる事を思い出し、何となく良い気分転換には成った。
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浜辺の草花も奇麗だったしね~♪
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本当、来て良かったよ。
東京も浜離宮恩賜庭園とか国立科学博物館付属自然教育園とか新宿御苑とか、今だからこそ開放して事前申請、2m以上離れて歩く事、ベンチに座らない事、とか規制かけて東京都民にガス抜きさせりゃ~良いんだ。
まぁ~我々庶民の声は自民党のド偉い、大阪府知事にマウントポジションとりたがる様な大臣先生様や10万円欲しい奴はくれてやるから手を挙げろよ的な感覚の富豪先生様には伝わらないだろう。
本当、今回は公明党の山口代表が良くぞガンっと言って下さったと思うよ。
さて、奇麗な海も見たし・・・
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次は浦賀港の対岸、東叶神社に正月以来の御参りに移動。
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東叶神社に到着、先に散々解説はしたからもう書かない(笑)。
本殿前で御参りしてから社務所奥の裏っ側に移動・・・
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実はこの弁天様が凄い厄除けの御利益が有って有名。
小生は毎年、年始の御参りで各神社で厄除けの御願いもするのだけど、今年は去年の受験した資格の合格の御願いばっかりして、余り厄除け熱心にお願いしなかったり、例年みたいに三賀日に沢山の神社仏閣を御参りして廻らなかった・・・
そしてら、1月に交通事故起こしたり、2月に右足首酷い捻挫して靭帯損傷して内出血するわ~、何回も風邪引いたり・・・
ん?あれ、もしかして東京に電車通勤してたから新型肺炎だったんだろうか?
でも一応、医者の言う通り4日間自宅待機して熱計測したら熱下がったし咳も出なかったしとか。
極め付きは今回の新型肺炎のせいで“失業するかも知れない(笑)”ピンチ(笑)!でもダメな時は何をやっても駄目なのよね~ん。
出来る事をやりながら、楽しまないとね♪
そんな訳で厄除けに東叶神社に今年2回目の御参りに来た。社務所で弁天様の厄除けの御守りを購入して、そんなこんな、今年の出来事を奥さんに話したら・・・
「あ~それじゃ是非!弁天様の矢倉の中に入って良いですから中で御参りして行って下さい」
「中に入って写真も撮影して良いですよ!」
「御利益ありますし、白い光も一緒に映るらしいですよ~」
・・・と、とっても親切に優しく明るく対応して下さった(笑)。
既に奥さんの対応が人の不幸にそっと寄り添いピンチを乗り越える為に元気に一歩踏み出す元気を下さる八幡様と弁天様みたいだ(笑)。
そんな訳で中に入らせて頂いて改めて参拝。
弁天信仰の歴史も少し知ってる小生、この頭が女神様胴体が蛇の神様を見てピンと来た・・・
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「あ~正しい弁天信仰の歴史がある」
「頼朝さんの頃から湧水の聖地だったんだな」
「だから、ここに八幡大菩薩が勧進されて今の叶神社が存在するんだな」
・・・実は現在は稲荷神社と呼ばれるところに祀られる神様の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が、元はこの女性の顔に蛇の胴体の神様だったんだな。関東での弁天信仰の流行は、欽明天皇の勅願所聖地だった江ノ島の洞窟の中に祀られている宇迦之御魂神に弁天様を同一視して習合し、それまで建物の無かった江ノ島に神社の建物を奉納して八臂弁財天様を御祀りした事で東日本武士文化の弁天信仰が湧水の聖地を守っていたり洞窟の中に祀られたこの蛇の女神様=弁天様=インドのサラスバティ神と同一視されて行った訳だ。
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江ノ島も海の中の島の洞窟に奇跡的に淡水の湧水の池が有る。
この池の御蔭で鎌倉公方足利成氏公が家臣の山内上杉家と扇谷上杉家に謀反され攻められた際に江ノ島を城塞化して相模国と北関東の武将の援軍を得て籠城し、豊富な水と堅固な地形を利用して両上杉家を撃退した歴史が有る。
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正に戦勝祈願の聖地な訳だ。
頼朝公は、この江ノ島の岩屋(洞窟)に籠って戦勝祈願をし、伊勢平氏の平清盛の一族に打ち勝って鎌倉幕府を開いた。
だから今も頼朝公が鎌倉武士団に広めた弁天信仰の聖地の江ノ島の洞窟にも蛇の女神様の石の御神像が有るし、鎌倉扇ヶ谷の海蔵寺の横井戸の中にも蛇の頭の神様が祀られているし・・・
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宇賀福神社

銭洗い辯財天も湧水のある洞窟に祀られ、そもそも神社の名前が宇賀神に由来していたりする。
そんな訳で、浦賀の港を守る東叶神社には海の直ぐ目の前なのに奇跡的に飲用できる井戸水が有ったり、勝海舟さんがその井戸水で断食して体を清めてから咸臨丸に乗ってアメリカに行ったりしてる。
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叶神社の奥さんの御蔭でありがたい弁天様=宇迦之御魂神様に御参りする事が出来た。
残念ながら小生には白いオーブは見えなかったけど。
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でも暗い洞窟から見える入口の光と緑がとても奇麗で気持ちよかった!
弁天様ありがとうございます~♪
東叶神社を後にして、海沿いを走水方面に車を走らせて観音崎の多々良浜にも海を見に行った。
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もう陽が西側に回り三浦半島東岸の海辺には光が届かない時間だったので少し散歩して走水神社にお参りに移動した。
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こちらも御正月から既に今年3回目の参拝だろうか?
一応、怪我したりしても無事に再度御参り来れた事を感謝し、今の世界中で蔓延してる新型肺炎が集束する様に御神威を発揮して頂き日本人と世界の日本の友邦の人々と善良な人々を助けて下さるように御願いして来た。
御腹すいたし、そう言えば暫く横須賀の若松町の激安の焼き鳥屋、相模屋に行ってないなぁ~・・・
と思い、昼食兼夕食を相模屋で焼鳥食いまくりする事にした。

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やきとり相模屋
ここはメチャクチャ安くて何本でも安心して食べられる(笑)!
そしてシステムが面白い。
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店内でも食べられるのだけど地元民は御酒飲まない時は外で食べる。
この写真の焼鳥の調理場が外のテイクアウト窓口として店側面に空いているのだが、その陳列された焼きたてアツウマの焼鳥を立ち食い出来るのだ。
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1本80円均一。食べた櫛を前のカップに入れる。会計の時には櫛を持っていくと本数で勘定してくれるシステム。政府の30万円給付みたいに意味の分からん官僚オナニーなシステムと違い明瞭会計だ!
民を支配する又は国を運営し法律を定め尚且つ民の支持を得る為には法律やスローガンは解り易く実効性の高い物にしないといけないのは、既に紀元前300年頃に漢帝国を打ち立てた劉邦が秦の帝都の咸陽を陥落させた際に証明している事。
そして民草を優先順位で重視しないとイザと言う時に協力してもらえないし、普段から大切にして約束を守っていれば相手が強大な大軍勢でも庶民が殿様を助ける為に武装蜂起して駆け付けてくれるのは、既に500年前に神奈川県小田原城主の北条家が証明した事。

三蜜回避や経済の回し方どうするかは、もう感度も悪いし対応も3ヵ月遅れでしかやらないノロマな政治家に任せないで、我々庶民が自主判断自己責任でやれば良いんじゃないのかな?
ただ、大阪府知事と北海道知事サンの言う事は聞いていて酷い事にはならなそうね。
自民党の中のマトモな議員と吉村知事と鈴木知事等で、頓珍漢な事を安倍首相にさせ続ける奸賊佞臣をブッ潰して欲しいなと思う週半ばの休日でした。





mixiチェック

G麺7と言う拉麺ファンには良く知られる名店が、戦国の名将間宮康俊公の居館跡の笹下城出丸松本城の御膝元、上大岡駅近くに在ります。
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G麺7

支那そばや、吉村家、すみれ(野毛店)等の老舗で拉麺の神様の本店や直営店に加え・・・

その御弟子さんやニューウェーブ世代が開いた名店の杉田家、王道、くじら軒。

・・・そして、くり山、るい斗と第三世代に名を連ねる横浜の新世代ラーメン名店がこの“G麺7”。
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新世代と言っても拉麺ファンには結構昔から有名で、かれこれ10年くらい前から出店している名店。
小生は間宮家子孫で笹下陣屋を代々守っていた(2019年に歴史をろくすっぽ知らない子孫が陣屋址を分譲売却してしまった)武内廣吉先生が書いた❝久良岐郡地名考❞と言う本を片手に笹下城址散策で馬飼谷(うまかいがやつ)と言う地名を探して付近をプラプラしていた時に、この御店が丁度出店したばかりの時に一度来ていた。
でもあれからもう10年来ていなかったが、久しぶりに間宮家と関係が深い修験門跡寺院鎌倉郡亀谷福禅寺名代権現堂持ちの鹿島神社と森浅間神社が近在するこの土地をフラっと訪れて見た。

始めて食べた時は塩ラーメンで、神奈川端麗系に近い味だった。
神奈川端麗系ってのは横浜発祥の名店“くじら軒”のサッパリしながら旨味も深い拉麺から広がって行ったジャンル。
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それをニューウェーブ世代で超有名な海老名の“中村屋”の社長で拉麺革命児の超イケメン中村栄利クンが更に発展させたジャンル。
その系統の印象だったG麺7は以前のままでも美味しかったが久しぶりに訪れたら更なる改良を加え発展していた。
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御店は相変わらず広くは無い。
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でも奇麗だし調理工程が見えるオープンキッチンで御洒落。
今回注文したのは・・・

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醤油拉麺
所謂、東京醤油拉麺とは全く異なるスープ。
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醤油の甘めのスープがすき焼の様な感じでもあり、くどくなく、淡麗系に近いより上品な味わい。
麺は中細くらいの麺・・・
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これが美味い!とにかくコシがありモチモチ感も有る。
とても美味しい拉麺。
・・・何か以前と全然違うスーパー進化をしている気がする。
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肉も美味しい。肉に関しては“凄い!”と言う程では無いけど、スープと麺が抜群に美味しい!
う~ん・・・
開店当初に食べた時とは差が凄まじくLV‐UPしてる気がする。
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煮卵も安定の美味しさでした。
横浜市民が誇る名店の一つと言っても過言ではないと思う。

余談ですが・・・
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森浅間神社
源頼朝公によって開かれた森浅間神社、旧鎌倉郡修験系門跡寺院の福禅寺名代だった権現堂が治める神社ですが、管理人さんを募集しているみたいです。
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神奈川県神社庁の掲載は少し間違っていて、社伝や間宮家関連の話では正確には源頼朝公の命で当時鎌倉市扇ヵ谷の亀谷(かめがやつ)に存在した福禅寺の住職によって富士山の神様である浅間権現(木花之佐久夜毘売)の御分霊を勧進して開かれた聖地霊場です。
境内に“不動の滝”が有りまして、福禅寺の歴代住職は就任する際は先ずここの不動滝に来て神事を執り行い、それから鎌倉の福禅寺に入ったそうです。そして門跡寺院と言うのは、天皇家の皇族が住職を務める寺院を指します。現代、本願寺系が門跡の名を広く使いますが、本願寺は戦国時代に高い御金を朝廷に支払って門跡寺院の格を獲得したんですね。
門跡寺院ってのはそれだけ凄いと言う事なんです。
まぁ~、詳しい事は以前、森浅間神社単体の記事を書いて有るので御覧下さい。
コレをクリックすると記事読めます⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
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鎌倉に在った福禅寺の最後の御住職は長円親王、そして長円親王の兄君が鎌倉幕府最後の征夷大将軍だった守邦親王で、鎌倉幕府滅亡直前に守邦親王は鎌倉幕府森陣屋の在った森浅間神社に逃げて来て難を逃れているので凄まじい“災難除け”の御利益も有る神社でも有る訳です。
何故ここが幕府が陣屋を置いたり、聖地としても重要だったかと言うと、鎌倉時代の福禅寺の御本尊が不動明王だったから自然の湧水の滝のあるこの地が聖地として重要だったからです。
戦うにも堅固な海に面した断崖の丘で飲み水が有るので籠城できますし、飲み水が有るから古代人の集落も形成されて聖地化した訳です。
因みに明治時代の仏教弾圧の際に権現堂家は国の命令で僧籍を返還し神職に専念する事と成り、修験道の道場の内、寺院機能の建物は全て破却させられるか仏教寺院と神社として分離独立させらました。
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その際に権現堂の御本尊だった不動明王像は港南区港南の福聚院に寄託され今に至っています。
小生の独自調査ですが、東京都青梅市二俣尾の海禅寺が状況証拠的には鎌倉の福禅寺の移転先後継寺院のようです。
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この海禅寺は扇谷上杉家の命によってか与力大名で奥多摩の勝沼城主三田家によって開かれてますが、時期が福禅寺の鎌倉での受難の時期と重なっています。
又、間宮家と関わりが有った1570年代に突如として海禅寺が天皇家勅願寺として勅願を賜わっている事、その寺院から住職を招いて間宮家は鶴見区に菩提寺の宝泉寺を復興している事、江戸時代に徳川幕府の官僚が寺号を誤って“海禅寺”と誤記する以前の寺名が“福禅寺”だった事、間宮家の寄親(上官)である北条綱成公の実家の福島姓の帰農した一族が江戸時代を通じて二俣尾村の庄屋を務めています。
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間宮と福島の二家は江戸時代を通じて江の島でも別当を勤めています。
これらの事から十分過ぎる関連性が伺えます。

さて、こんな由緒だたしい森浅間神社ですが前任の管理人御夫婦が御高齢の為か離職され、現在新たに夫婦で住み込み出来る管理人サンを募集中の様です。
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昨日は01月13日でした。
陰暦:建久十年一月十三日
陽暦:1199年02月09日
源頼朝公
820年前の昨日、源頼朝公が“落馬”して亡くなったと歴史に興味無い人は学校が教える事実確認してない適当な情報を擦り込まれる。

実は記録上は体調不良から死んでおり即死ではない。
頼朝公妻である北条政子様の妹、稲毛重成の妻が亡くなり供養も兼ねて相模川に橋がかけられ、その橋の開通式で落馬した。
昔の人は善行を行い死者を弔う事が有った。
つまり、開通式直前に稲毛重成の妻の、つまり義理の妹の供養の宴会に参加していた事が判る。そして体調不良に成る。
稲毛重成は後に源頼朝公の忠臣だった畠山重忠公に無実の罪を着せる讒言(ざんげん=他人を嵌めるデマ)を義理の父の北条時政等に言い、それにより畠山重忠公は殺害される。
更に稲毛重成自身がデマで畠山重忠を殺させたとして稲毛一族は北条家と当時はグルだった三浦家や伊豆の宇佐美に殺害される。
この時に稲毛一族を殺害して回った全員が工藤祐経公と伊東祐親公の遺産相続から発生した派閥抗争からみの人物だった。
曽我兄弟の敵討ち事件が北条時政による頼朝公暗殺未遂だと思われる一因でもある。
まぁ、この曽我兄弟事件の時は頼朝公の警護をした横浜市磯子区、歌手“ゆず”の岡村町一帯の殿様だった平子有長公の活躍で暗殺は阻止された。
そこ等辺は以前、平子有長公が開いた岡村天満宮の紹介記事でも触れている。
記事リンク⤵️
頼朝公の死亡の様子は小生は医療の専門化でも無く専門知識も無いが“落馬”する程の宴会からの急な体調不良は毒殺未遂だろう。
そこから急死してるので落馬に見せかけた脳挫傷や何かなら体調不良後→撲殺だろう。
“落馬”とされた相模川の橋の上の事件当時の随兵(親衛隊)が頼朝公を守れなかったと北条時政等幹部から言いがかりで、その場で全員粛清されてる。
これは随兵は戦闘に巻き込まれ殺害されていると考えた方が自然だろう。
状況的に法要の席で食事に混ぜたヒ素での暗殺が失敗し翌日式典で前後から視界を隠せる橋の上で随兵もろとも撲殺暗殺されたんだろう。 
実は頼朝公の没後に跡を継いだ御子息の源頼家公も同じ様に不可解な体調で危篤(きとく=意識不明)に成った事が有る。
そして頼家公は奇跡的に回復してから己が母方の北条家に暗殺されかけたと断定し「北条家討伐の密命」を和田義盛公等に出しているが、和田義盛公は三浦一族、そもそも、この時点で北条家のグルとまではいかなくても身内の三浦や縁の有る北条家を討つのに躊躇(ちゅうちょ)したのだろう。
和田義盛公の築城した城の造りは平安末期~鎌倉時代初期とは思えぬ、戦国時代の縄張りに酷似しており、所領は少なくとも街道に通行税を取り立てる関所を設けたり室町時代の武将の様に貨幣経済の概念を持っていたり理知的な人だった。だから和田義盛公は頼家公の密命の真相を“公平に確認しようとし”て北条家に密書を見せてしまう。
結果的に頼家公は北条家に薬殺ではなく、今度は入浴中に首を絞められ中々死なないので局部を切り落とされた挙げ句に惨殺される。
この直前、源頼朝公や頼家公が頼りにしていた比企能員公や梶原景時公も畠山重忠公同様に謀殺されている。
完全に計画的な将軍家潰しだろう。
欲にまみれた老害の北条時政とその子等が工藤兄弟や伊東祐親公の遺恨を利用した頼朝公暗殺による幕府横領を三浦一族と共謀したと考えた方が自然だろう。
そして、その陰謀の一つ畠山重忠公謀殺の実行犯が稲毛重成で稲毛重成の亡妻の父が北条時政に当たる。普通に考えて頼朝公は稲毛重成や北条時政に毒を盛られ暗殺未遂が起き、相模川の橋の上で護衛の武士もろとも殺害されたと考えた方が自然な訳だ。
そして全てを知る稲毛重成も謀殺された訳だ。

まぁしかし、北条家が天下を掌握しなければ北条時宗公は生まれなかったので、元寇から日本を守ったのは北条家とも言えるし、その政権の形を作り武士文化を生み出した源頼朝公はやはり偉大な人物だし、源頼朝公を初期に助けた最大の功労者の三浦義明公や三浦義澄公がいたから鎌倉幕府は成立した。
誤解される人も多いが実は源頼朝公は非常に恩情深い。敵対しても必ず事情を聞くし、相手側にやむを得ない事情が有り自分に矢を向けた武将も許し信頼し重用しているし、助命する事も多々有った。
畠山重忠公、伊東祐親公、大庭家なんかはその典型だ。
しかも頼朝公は口説いた女性は皆必ず大切にした。
決して冷淡な人ではなく理知的で人情にも厚い人だった。
逆に善玉と誤解する人の多い源義経は部下の手柄を自分手柄の様に報告するパワハラ、当時の武士は正義と礼儀が重要なのに戦いで打ち負かした敵の平家側の非戦闘員の女性をレイプした事がレイプされた女性の記録に残ってたり、口説いた愛人は何十人もいたり、その何十人の愛人を京都から逃げる時に同行させたのに脱落者を助けず見捨てたり。
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写真は金沢区の太寧寺。
別の弟の源範頼公は秦の翦将軍並みに優秀な大将だった上に、北関東の武士団に強く支持されていたので北条家や三浦家の南関東派閥から警戒され蟄居させられた上に、横浜市金沢区の太寧寺で自害に追い込まれた。
大寧寺の記事でその事は紹介しているので、興味の有る人は記事の下の“タグ「太寧寺」「源範頼」”をクリックすると太寧寺の記事を読めます。

色々、思惑が有り人の評価はねじ曲げられる。

一人一人の不幸なボタンの掛け違いが頼朝公暗殺や頼家公暗殺に繋がってしまったんだ。
ボタンの掛け違いは必ず最初からかけ直さないと大事故大事件に繋がる典型が源頼朝公の回りで起きた事件。

820年前の昨日はそんな日でした。
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