歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:源頼朝

皆さんは鎌倉市の二階堂地区に源頼朝公が建立した壮麗な“永福寺”と言う御寺が曾(かつ)て存在していたのを御存知でしょうか?
その御寺は有名な京都府宇治市の平等院鳳凰堂や奥州藤原氏の拠点平泉の毛越寺と比肩して壮麗と当時は言われた寺院でした。
近年その永福寺跡の発掘調査が進み、この度、鎌倉市によって史跡として整備された記念に鎌倉歴史文化交流館で企画展“甦る永福寺”が12月09日(土)まで開催される運びと成りました。
鎌倉歴史文化交流館 企画展甦る永福寺 
小生は直接知り合いがおり今回の招待券を頂いていたので企画展の見学に行って参りました。
知り合いの職員の方と情報交換も有ったり調べ物を御願いしてあったので丁度良かったんですね。

先ず、鎌倉歴史文化交流館自体が今年開館したばかりの博物館で余り知名度も高くないので全国的には御存知の無い人も多いと思いますが、小生の個人的な感想として・・・
中規模の博物館ながら「恐らく南関東で一番、展示と解説の見せ方が美しく解り易い」美術館の様な素敵な博物館なのです。
DSC_0011
それもそのはず、この場所は旧三菱財閥岩崎家が住んでいた邸宅跡にして鎌倉時代の大寺院、無量寿院の跡地でもあります。建物も岩崎家の後にココに住んだ某出版社社長の巨大な自宅を改装しているので現代建築としても見応えが有りますよ。
DSC_0009
どんな場所かは以前に“今年6月の休日雑記”の中で解説しているので、博物館自体の様子を知りたい人は御参考までに以下の記事タイトルをクリックして記事を御覧下さい。

さて、では今回の解説の本題に戻ります。

この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は“館内の展示物の全てが写真撮影OK!”な上に、“触れる為の展示物も存在している”所です。常設展の素晴らしさは休日雑記の中でも紹介して有るので、其方(そちら)を御覧頂ければ良く感じ取って頂けるかと思います。
学芸員さんは歴史の楽しさを伝える為に、来館者と鎌倉時代の人の“歴史の時間を共有して貰いたい”との思いから、今回は発掘された永福寺の瓦2種類を実際に触ったり持ってみたりする事が出来ます。
体験を大切にする素晴らしい学芸員さんの素晴らしいアイディアですね。
CIMG5426
ジムで筋トレしまくってる小生でも「ん?」と感じる程度の重みは有ります。
CIMG5427
これは女性や子供からしたらソコソコ重いんじゃないかと思いました。実際に持つ事で御寺の規模を感じられれば子供にも良い経験に成りますね~♪。学芸員さんGood job👍
他の博物館はショボいレプリカの写真撮影すら拒む場所が殆(ほとん)どですからね~。
企画展で最初にパネルの解説で興味を惹かれたのが源頼朝公の彫像の写真でした。
CIMG5398
CIMG5399
色が落ちちゃってますが、造形は良く姿を留めていますね~。
甲斐善光寺に保存されているらしいので、本来は信州の大寺院の善行寺から武田信玄が略奪した彫像の様ですね。武田信玄は信州や関東に来ては略奪と強姦と腐女子の奴隷売買を行った悪逆非道な輩として有名です。まぁ、この頼朝公像も鎌倉時代のまま信州の善光寺に在ったら、武田氏の滅亡で後ろ盾を一時無くした甲斐善光寺に保存されるよりも色彩も状態良く残ったのかも知れませんね。
次に目を引いたのが宇治の平等院鳳凰堂と平泉の毛越寺跡の写真です。
CIMG5400
実はこの両方が鎌倉の永福寺に酷似しているのです。
鎌倉歴史文化交流館 永福寺CG 
それもそのはず、そもそも頼朝公は都の文化が御好きな風流人だったのですが、奥州征伐で藤原氏の拠点の栄え様をまざまざと見せつけられ、そして自分と同じ様に風流を愛した奥州藤原氏の文化をリスペクトし、“平等院と毛越寺の両方の良い所を取り入れて永福寺を造営した”と言うのが通説に成っています。確かに発掘調査後の予想復元CGは両方にソックリですからね。
そんな頼朝公に建てられた永福寺も各時代に火災で再建されたり規模も様子も少しづつ変化した様で、その調査結果も見取り図で解説されていました。
CIMG5411
CIMG5412
こんな感じで説明が有るので、素人でも良く理解できます。
CIMG5401
他にも経塚から出土した経筒や龜も展示されています。
CIMG5402
CIMG5403
CIMG5404
とても美しい水晶と純金製の数珠や・・・
CIMG5405
・・・盒子(ごうす)等も展示されています。
CIMG5407
800年前の人も素敵な装飾品を身につけてらっしゃったんですね~。
CIMG5416
他にも出土した柱や永福寺の瓦を組み上げた展示物が有ります。
CIMG5417
屋根や柱の装飾品も。
CIMG5419
CIMG5420
・・・う~ん、全部の写真を掲載してしまうと企画展の面白みが薄れてしまいますので、展示物の写真の掲載はここまでにして置きましょう(笑)。
実は学芸員サンのアイディアと大学生有志ボランティアで今回、この他にも見所が有ります!
CIMG5423
これらの復元CGをバーチャルリアリティーで体験出来るんです!
CIMG5424
台数は3台有り、上映時間は一人につき5分程度、恐らくこの企画展に人が殺到すると混みあうので、まだ博物館の知名度の低い(笑)今の内が、この体験をしに行く絶好のチャンスだと思いますよ~♪
なんせ博物館の中は風雨も寒さも関係無いので、これから秋冬に向けても良いレクリエーションに成ると思います。
今週末、又、天気荒れるらしいですがソレも関係無く楽しめますしね(笑)。

皆さん、どうでしょう?
企画展“甦る永福寺”を見学して見たく成りませんか?小生の様に招待される客で無くても、ここは広く歴史と鎌倉文化を広め様と言う志の高い経営方針の博物館なので一般来場者の入館料も500円と激安です!

そして鶴岡八幡宮の近くの鎌倉国宝館では今年の10月21日時点~12月03日(日)の間、「鎌倉公方足利基氏」企画展も開催されています。永福寺展と合わせて見に行くなら今がチャンス!
・・・まぁ、紅葉の季節に成ってから扇ヵ谷地区の海蔵寺や佐助稲荷神社界隈の紅葉散策や、反対側の浄明寺地区の浄妙寺や報国寺の紅葉散歩と合わせて見学に来るのもアリですね♪
一応、以下に鎌倉歴史文化交流館のアドレスと企画展のホームページ掲載して置きます。
【鎌倉歴史文化交流館】
【CGによって復元された永福寺ホームページ】
http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/cg.html

皆さん、そろそろ肌寒さを感じる季節に成りました。風邪等引かれません様に~。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪



















これの続き。
  ↓
休日雑記2017年07月15日の【前書き】。
  ↓
さて、前回の【前書き】の冒頭で書いた通り、この日は三浦義意公と御父上の三浦道寸公と叔父上の三浦道香公と関与した歴史偉人達の供養の納経の為に海蔵寺を訪問し、その後に天然記念物の諸磯隆起海岸の地層の写真を撮影に移動した。

CIMG4650
何でここに来たかと言うと、歴史偉人の顕彰活動にこの8万年前には海底だった丘の説明が必要だから。ここでは詳しい事は書かないが…
まぁ、一部のステレオタイプ考古学者が後生大事にしている通説は神奈川県に関しては通用しませんよ!と言う話を書くのに隆起速度だけでなく気温変化による海岸の後退速度や河川の土砂の堆積も、御城にも関係しているし多くの延喜式内社の位置関係にも関係してますよ!
…と言う説明の資料の写真撮影の為。
CIMG4652
昭和初期の文部省や地方自治体ってのは本当に地域単位での文化財や史跡の保護に熱心で、多くの天然記念物や重要文化財を史跡指定して我々に残して下さったのだが、戦後の左派染みた役所の連中は無文化で歴史も知らんし先人が残して下さった神奈川県下の歴史遺跡を僅か50年足らずで破壊し尽くした。三浦の場合、ちゃんと発掘したり郷土史を大切に伝えていたりするので、こうやって昔の天然記念物指定された場所も看板が作り直されたりしている。
う~ん、横浜市の水準は三浦に比べて雲泥の差(笑)。
CIMG4653
この地層が露出した部分が断層であり隆起した昔の海岸でもある。三浦にはこんな地形が多く有るが、ここは特に説明の看板の通り太古の時代のマテ貝の一種が掘った巣穴が小さい岩盤の穴なんだな。
この穴の露出で、どれだけ昔の地層がどれ位の期間を経て現在の地層に成ったか判る。
地質調査総合センター様にも色々と御教示頂いたのだが、2万年前の氷河期は現代の海水面より100m程下がっていた。逆に温暖だった縄文時代は現在よりも内陸にまで海が入り込んでいた。
つまり、地球が温暖化すると海面が上がると言うのは縄文時代に近づくと言う事なんだな。
さて、海の位置は現代では縄文時代よりも大分遠い場所にまで後退している訳だが、これは気温要因だけでは無い。
実際には大河川の土砂の堆積でどんどん海は埋め立てられる。海岸の岸壁の崩落でも岩が崩れ砂に成り砂が流され砂州が出来る。例を挙げるならこれが横浜の地名の由来に成った中区日本大通りに有った砂州の半島だな。あとは現在の川崎駅周辺。
そして気温変化の水位の変化と、河川の土砂の堆積以外に、もう一つ要因が有ってそれが地盤の隆起だ。
CIMG4655
この諸磯隆起海岸は8万年前に海だった所が既に標高30mにまで隆起していると、地質調査総合センターの担当者様から御教授頂いた。
この1万年でも5mも隆起したそうだ。つまり縄文時代ころから比べて地盤だけでも4~5mも上がっている。これに現代に近づく程に気温の寒冷化によって海水位が下がり海岸線も後退し、更に土砂の堆積で砂州が形成され陸地と成って行った訳だ。
ちょっと昔の考古学者は地質学者と違ってステレオタイプに「河川敷の近くの平地には弥生時代も人は住んでいなかった」と持論を展開する連中が多く、河川敷近く集落が在ったとする多くの古い神社の伝承をコケにしていた。所が最近になって出るわ出るわ川の近くの平地から弥生時代の集落の遺跡。
…以前、延喜式内社や式外社の伝承をコケにした考古学者達は「最近は川の近くでも人の生活の痕跡が発掘されています」と白々しい解説をしているが「おい、どの面下げて行ってるんだオマエ」とツッコミたくなる(笑)。
まぁ、そんな事を説明する参考の写真として、この諸磯隆起海岸は大切な素材に成るんだな。
観察してから写真をとり、満足して次の目的地へ移動。
CIMG4656
三崎漁港。この日は海南神社の夏の例大祭。
だから普段は都心部に出て働いてる三崎の出身者も皆帰って来て大賑わい!
CIMG4658
御神楽を演奏するチームが町内会毎に分かれて編成され、観光客を出迎えてくれる。
CIMG4659
当然ながら屋台も沢山出店する。
CIMG4661
そして本当に沢山の神輿が町に繰り出し熱気に溢れたパフォーマンスを展開する。
横浜市では絶滅してしまった古来の相模国の習俗だな。見ていて興奮する。
CIMG4664
子供達は屋台の方が気に成る様だね(笑)。
CIMG4662
左の屋台、アナと雪の女王って…許可取ってるのかな(笑)?
CIMG4663
三崎の商店街は昭和がそのまま残っていて小生はとても好きだ。だからたまにドライブに来てはブラブラしたりしてる。
CIMG4665
丁度、お昼も過ぎて小腹が空いてきた所に珍しい屋台を見つけた。
あげもんじゃ
興味が有ったので食事前に食べて見る事にした。
CIMG4666
もんじゃ焼きを春巻きかなんかの皮に挟んで揚げてあるんだな。
CIMG4667
皮も美味しいが、とにかくアツアツで食べるのに火傷しない様、注意が必要で大変だった(笑)。
でも御薦め!
CIMG4668
途中、新しい店が出来ていたので気に成った。ミサキ ドーナッツと言う店。
喫茶店?名前からするとドーナツ屋さん?今回は入らなかったが次回の訪問時は入って見よう。
CIMG4669
海南神社に着くと、既に全ての神輿は町内に出払って巡行中。割かし静かに参拝出来た。
CIMG4670
参道に民家を利用した喫茶ってんがオープンしていた。最近の開店の様だな。
CIMG4671
ここ海南神社は明治までは筌籠弁才天と言って三浦一族の信仰を集めた弁天様の神社だった。
鎌倉幕府で初代侍所別当に成った和田義盛公が船で房総へ渡る際に遭難したのだが、それを助けた御利益が有る神社で、更に前身の御稲荷様は三浦家が源頼朝公に付いて反平氏の軍勢を決起する切っ掛けを作った神託を与えた勝負の神様としても御利益が有る。
CIMG4672
そこに本宮神社の藤原資盈(すけみつ)公と、その御妻女である盈渡姫様を祀った御神霊を合祀して現在の形に成った。藤原資盈公御夫妻は京都で悪どい貴族の謀略で政争に敗れ、太宰府に逃げようとしたが船が遭難して東日本に来てしまったと伝承するが、そんな訳ゃ~ない(笑)!
CIMG4673
絶対に狙って坂東平氏を頼って亡命して来ている筈だ。だからこそ、三崎の領主に成れた訳だ。
御二人は三浦で庶民に文化教育を施した、謂(い)わば教育者の先駆け的な人物だった。その事を今でも感謝されており三崎の人々から神様として崇拝されている訳だ。
ところで海南神社には立派な御神木が有る。
CIMG4674
源頼朝公御手植えの銀杏だ。
CIMG4676
鶴岡八幡宮の大銀杏は台風で折れてしまったがコチラは健在だ。
CIMG4684
銀杏はなんか得体の知れないデッカイこぶがぶら下がっている。
CIMG4683
神社では前時代の事は良く解らなく成っている様だが、三浦家が崇敬した稲荷社なので水辺が昔は大切にされていた痕跡が有る。
CIMG4677
湧水地に石碑が建っていた。
CIMG4678
何だか陰に隠れているが昔の人が大切にした霊場としての池。
CIMG4679
まぁ、海辺の漁師町の神社なんでこんな絵も飾って有る。
CIMG4680
神楽殿で神職さんが御着替え中だった(笑)。
CIMG4681
本殿はどっからどう見ても弁天社や八幡社に近い様式なんだな、朱塗りの社殿で。
CIMG4682
境内には他にも金毘羅様が祀られている。これも海の神様、流石漁師町。
CIMG4687
境内には可愛い子猫達が沢山いた。何だか癒される(笑)。
CIMG4688
再び町に戻る。昔ながらの写真館…映画のロケ地に成りそうな雰囲気。
CIMG4689
何か知らないけれど東北の宮城県から来た人達が奉納舞かなんかを披露してらっしゃった。
観光客も足を止めて見入っていた。
CIMG4690
本格的に遅い昼食を食べる為に行きつけの寿司屋の紀ノ代に移動する途中、又、神輿が有った。
どうやら宮城県から祭りに参加に来ているのだろうか?
まさか?
宮城と言う地区が有るのだろうか?今度聞いてみよう。
CIMG4691
三浦映画社の前を通る。三浦半島での映画のロケに一役買っているNPOで、以前は多くの撮影した作品の関連展示が有ったが今回行ったら大半が撤去されていた。残念。
CIMG4693
とにかく過疎の三崎も賑やかなんだな、この1日は。
CIMG4692
目的地に到着。
紀の代(きのだい)サンと隣の黒羽亭は自分一人でも今回みたいにフラフラ散歩がてら三崎に来ては食べに来るだけでなく関西なんかの遠方からの来客や海外から友達が来たり外国人の友人が帰国する時等、機会が有る毎に来ている半ば行きつけの店。
以前も紹介した記事が有るので参考にして貰うと良いかと思う。→ココをクリック!
CIMG4694
この日も、いつも通りに前菜代わりに絶対に頼む“皮ポン”、鮪の皮のサラダみたいな料理を注文。
これがコラーゲンの塊なのだが程よい弾力が有って美味しい!
CIMG4696
それに小鉢丼セット。2つ頼んで確か1000円。この日は鯵の丼と鮪丼。味噌汁はセットでついてくる。
もしデートで行く人や子連れの人は、これを注文して別に料理を頼むと色々と楽しめて御薦め。
住所と連絡先は以下の通り。

御腹も満たして満足し、店を出て12日水曜日のリベンジで美味しい西瓜を買いに西瓜の直売所のザ・作兵衛へ移動…
CIMG4697
国道134号線沿い引橋の交差点から三浦海岸へ向かう道沿いに在る。派手な店なので直ぐに解る。
google mapで「直売ザ・作兵衛」と検索するとナビしてくれる。車じゃないと少々不便な場所。
ここは2年前まで看板娘の御婆ちゃんが店番をしていたのだが、骨折してから今の女将さんと若女将に看板娘の役目が引き継がれた。
まぁ、御婆ちゃんも今でも家で元気にしているそうなので何より。
夏は西瓜とメロンを直売、あと夏野菜も有る。
秋季には近くの蜜柑林を運営していてミカン狩りもやっているので子連れの家族には良いレクリエーションにも成る農園なのだ。そちらは石井みかん園で検索すれば出てくるだろう。
ここの店の西瓜は絶対に!外れが無い。どれを買って良いか解らない際は「甘そうなの選んでね~」と御願いすると美人若女将が選んでくれるので誰でも安心して買える。
CIMG4698
この日は15日土曜日、前回の11~12日に三浦半島に宿泊した帰りに立ち寄ったが店が休みで買えず、仕方なく別の店で西瓜を買ったが甘くなかった。やっぱりザ作兵衛がイチ押しの直売所な訳だ。
それでリベンジに来た。
その時の記事
   ↓

CIMG4699
ザ作兵衛では西瓜とメロンを購入。あと石井みかん園の蜜柑ジュース。
家族で食べたが、やはりとても甘く良い1日の〆に成った。

ふむ…三浦市の人々が無形文化財や天然記念物、そして農業と漁業をとても大切にして下さる御蔭で良い週末を凄し癒されました。ありがとう。

この三崎漁港や油壷周辺の他にも三浦市には城ヶ島や荒崎海岸、和田長浜海水浴場、江奈湾や毘沙門堂、剣崎灯台等沢山の封子明媚な観光地が有り夏の海辺を楽しむには持って来いです。
是非!お盆休みもその後も、皆さん三浦市を訪れてみては如何(いかが)でしょうか?
タグ三浦半島の記事→http://yoshi-kanagawa.blog.jp/tag/三浦半島

この記事を午前中に少し書いていたらいてもたっても居られなくなり、夕方に和田長浜(わだなはま)海水浴場と荒崎公園を散歩しに行って来ました。
とても綺麗でしたよ!

和田長浜海水浴場
CIMG4775

荒崎公園(神奈川の景勝50選、荒崎海岸)
CIMG4825
CIMG4831

では、又次のブログ記事で御会いしましょう!





前回の記事
  ↓
休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼
  ↑
コレの続き。
CIMG4283
前回、江ノ島の鳥居をくぐった直ぐ近くに有る旅館、岩本楼が明治時代まで江ノ島神社を含めた欽明天皇以来の天皇家の聖地としての江ノ島とその洞穴の管理を任されていた別当寺の‟岩本院”と言う寺院が前進だった事、明治以降に廃仏毀釈で旅館に転業し岩本楼と言う立派なホテルに成った事、そして岩本楼様の御厚意で宿泊客ではないのに資料館を見学させて頂き、又、昔の話もいくつか伺った事を書いて記事を一区切り着けた。
・・・現実社会での仕事が忙しく、そこから記事更新に10日間近く開いてしまったが、今日はそこからの続き。
CIMG4285
岩本楼さんの門を出て江ノ島神社の参道に復帰する。
すると目の前の階段の先に真っ赤な江ノ島神社下社の明神鳥居と唐様式の瑞心門が見えて来る。
CIMG4289
ふむ、美しい。ここに来ると一層「江ノ島に来たぞ~!」と言う感じに成る。
江ノ島神社の御祭神は恐らく最初は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=宇賀神だったはずだ。
そこに源頼朝公によって、宇賀神と同一視された弁才天様が祀られ、江ノ島弁才天として有名に成った。
弁才天様は名前が御神威を中国語訳した名前で、本来は一部分が仏教の元に成った古代ヒンドゥー教の神様サラスヴァティー神だ。
大変に美人な神様で男の神様からモテモテだったので江ノ島神社は女性にとって縁結び、もとい女性的な魅力の向上の御利益が有る訳だが、それよりも本来は水神様、軍神、音楽神そして財神としての性格が強い神様だった。
・・・まぁ、こんな女性が奥さんだったら良妻賢母間違い無いだろうが釣り合いの取れる旦那様はヒンドゥー教でサラスヴァティ神の旦那様とされたシヴァ神こと大黒天様みたいに最強最高の喧嘩の強さと社会的な強さを兼ね備えた完全無欠の男性じゃないとダメなんだろう。
・・・はい、小生は弁天様みたいな女性の旦那様に成る資格落第ぃ~(笑)。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
まぁ、そんな弁天様なので水神様と同時に軍神として特に源頼朝公も信仰した訳だ。
ついでに宇迦之御魂神=宇賀神様は御稲荷様の神様として存続している。
そもそも古代人にとっての財産は飲んでも病気に成らず夏にも枯れない水源だった。だから宇賀神様が湧水地に祀られた。
弥生時代~古墳時代に成ると農耕が全国に普及し豊かさの象徴が米に変わった。だから宇迦之御魂神に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の字が当て嵌められた。
そして更に平安時代末期に成り貨幣経済が導入されて豊かさの象徴が「金銭(きんせん)=貨幣」に成ると、財神で水神としての弁天様が倉稲魂神様に習合された。この段階が源頼朝公達の頃の話し。
ところが明治時代に成ると、森有礼等のキリスト教に改宗したりイギリスやら欧米列強の影響を受けた明治の政治家達がプロテスタントを模した国造りを進める中で、日本の宗教改革もとい弾圧を始めた。
神仏分離令と廃仏毀釈だ。
宗教改革と言いながら、アジア由来の仏教を弾圧し日本古来の神様と無理矢理切り離してしまった訳だ。
そして明治に正しい神仏分離に失敗し、弁天様は壱岐嶋媛(いちきしまひめ)の女神様が水神だったので、日本の神様の名前に変える為に歴史を知らない宗教改革者によって宇賀神では無くて壱岐嶋媛命とされた。

日本が有史で仏教を導入したのは西暦600年前後、しかし実際は応神天皇こと大鞆別命(おおともわけのみこと)は神託で自らの別名を“八幡大菩薩”と名乗っており更には、その皇子の菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が日本で最初にアジアの学問を導入した事が知られている事から、西暦300年代には既に日本の神様の中には大陸から移住して来た人と供にインドや中国から大陸の神様も日本に移ってきて日本の神様と仲良く祀られ、そして日本の神社様式で正しく祀られていたり、奈良時代にも成ると御寺でも日本の神様も大切に祀られていた訳だ。
ところがプロテスタントは一神教であり救主キリストを生んだ女性マリア様を崇拝する宗教だ。だからか知らんが明治の浅はかな宗教改革者は本来は地位の序列等無い日本の神様、それぞれの個性を尊重し得手も不得手も有る神様達、助け合ったり喧嘩したりする日本の活きた神様を女性の太陽神である天照大神を頂点として再編成してしまった。
これは天皇家の祖先神なのでやむを得ない事なのだが、本来は大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)でも、古事記でもそうである様に国を生んだ神様は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)だった訳だ。
その宗教改革のどさくさに紛れて明治政府は神社や御寺の収入源だった田畑や町の土地を没収し、結果的に神社も御寺も荒廃してしまった所が非常に多かった。特に神社は遷座(ぜんざ=神様の引っ越し)・合祀(ごうし=他の神様の神社に同居させる)の名の元に社殿を破壊され永久にこの世から失われた場所も多かった。
もっと酷いのは宗教改革をする立場の人間が神様の習合(しゅうごう=他の神様と同一視される事)の経緯を知らず、全く見当違いな神様を仏教と神道の分離時に海外の神様を日本の神様の名前に戻すのでは無く変更してしまった訳だ。
CIMG4290
現在の江ノ島神社は宗像三女神が御祭神とされるが、これは日本の天皇家の歴史の2600年の日本の歴史の中で明治以降のたかだか200年足らずの明治政府が唯一失敗した宗教改革の浅い間違った歴史でしかない。
本来の弁才天様の前身の神様はインドのサラスヴァティ神だが、日本では宇迦之御魂神に習合されている。だから日本全国の洞窟の湧水地に祀られていた宇迦之御魂神の神社に、弁財天様も祀られる様に成った訳だ。だから神仏分離を行うのであれば実際は弁天様は宇賀神に名前を改めなければいけなかったのだが、そんな事すら明治に宗教改革の名の下に多くの神社仏閣の規模を縮小させ、本来は自然崇拝の聖地と一体の神社をキリスト教の教会の様に神社の建物と十字架の代わりの鏡(かがみ)を拝む宗教に改革してしまった訳だ。
そもそも御神鏡が日本に最初に来たのは卑弥呼の時代、三国時代の中国の魏帝国からの下賜品が送られて以降でしかない。まぁ、古代豪族と直結した格式高い神社に鏡が祀られているのは、その神社の有る場所に宮殿を置いていた古代豪族が邪馬台国に直結した古い場所だとの証明に成る訳だが、そこから既に海外の影響を排除しきれていないし文化から海外の影響も受けながら発展して来た日本の歴史を切り離せていない。
ハッキリ言って中途半端で詰めが甘い。だから森有礼は不敬な人間で中途半端で、日本神道を利用して別物に作り替えようとしてプロテスタントの意識が抜けきれずボロが出て、伊勢神宮の社伝に靴を履いたままで土足参詣して保守派に切り殺された訳だ。
プロテスタントも素晴らしい面が有るが、彼の場合、プロテスタントを政治利用して己の思うが儘に文化を変えたのが天罰を受けた原因だろう。
因(ちな)みに森有礼等と異なり伊藤博文公は横浜市金沢区野島の金沢別邸で大日本帝国憲法の起草をした際に、二宮町の延喜式内社の二宮川匂神社や、金沢区の寶勝寺等を参拝しており古来の日本の宗教文化を大切にされていた。

日本の神様と仏教の仏様とインドの神様が仲良くしてからの歴史は約1700年、天皇家の2600年の歴史の中でも大半を占める。これを無理に引き剥がす理由は「西欧化」を目指した事以外に無い訳だ。
実際、明治以前は日本の神道も偶像崇拝の場所も多かった。仏像の様に御神像を御神体として祀っていた場所だな。鏡ではなくて。
所が明治以降、その御神像は日本社会から一斉に消えた。偶像崇拝を禁止するプロテスタントの影響をモロに受けた森有礼等大悪人達の所業だろう。
消えた御神像はどこに行った?転売されて利権に成ったよな?
もしくは心有る宮司様は御金を払って知り合いの御寺に管理を御願いして神様と「さようなら」する羽目に遭った訳だ。
だから言う、日本の宗教は江戸時代の価値観に戻すべきだ。
但し条件付きで、「本地垂迹」等とアホらしいどっちが上位かと議論する輩は僧籍も神職も取り上げてしまえば宜(よろ)しい。どっちも裏でどっちも表。もしくは別々だけれど一緒に祀るそれで良い。
大切な事は神様は日本文化に従って日本の神社様式で祀る事、御寺では仏様と同じ様に昔の和尚様達の様に仏壇に御祭りして御経をあげて庶民と世の中の平安を祈願して頂ければ宜しい。
そう、個人的に思う。
CIMG4291
さて、そんな事も有ったが江ノ島神社は日本古来の伝統を守り宇賀神様と弁天様を別々にしたがちゃんと両方とも大切に残された。残した上で明治政府の宗教改革者の不見識も飲んで、ちゃんと日本の古い神様として水神様としての宗像三女神様達を御祭した訳だ。
だからね、江ノ島神社の弁天様は仏教の法具を持ってらっしゃるんです。昔のままね。
こんな江ノ島神社、歴史を知らないネトウヨと新宗教にまみれ保守派に似て非なる右翼の石原慎太郎達の所属するカルト団体は江ノ島に来たら発狂するんじゃないかと思う(笑)。
しかし、ここはそんな偽保守派を頭から叩き潰す事の出来る歴史偉人が愛した場所で、日本を守った明治の元勲達が森有礼達とは異なり古来の価値観を大切にして来た事を知る事も出来るんだな。
児玉源太郎
ここは初代台湾総督を務めた児玉源太郎先生が愛した場所で、対ロシア戦略を練った島だった。
江ノ島の文化と風景と食べ物が大変に御好きだったそうだ。
台湾の初代総督も務めた方なのだが・・・
没後も台湾の人々から尊敬され、台湾の人により児玉神社が開かれ江ノ島から日本人を見守って下さっている。
今の石原慎太郎をはじめとした一派の自称保守の偽保守はハッキリ言って浅い。
奴等は西南戦争を起こした西郷さんや京都の文化財や天皇家を守った新選組の近藤さん達、幕末英雄の面々が既に明治天皇に赦免されている事すら知らずに「現代で罪を許し靖国に祀る云々・・・」あのな、明治天皇に許されていて、日本の為に命を落とした人も、敵国人で勇敢に戦った人も、あらゆる犠牲者も靖国に平等に祀られているんだからとっくに明治天皇に功績を認め許された時点で靖国に合祀されているんだよな、近藤さんも西郷さんも。もしされていないのなら、靖国の存在意義に疑問が出る訳だ。
そもそも児玉源太郎先生は日本文化も西洋文化も優れた物は隔(へだ)て無く愛された訳だ。
さて、そんなこんなで江ノ島は児玉源太郎先生が愛した場所なのだが、現代ではシラスが江ノ島や湘南の名物として有名だが当時~昭和初期まではサザエが名物だった。
そして明治時代に登場したのが親子丼、親子丼とサザエを合わせた名物が江ノ島の名物だったのだが、これはもう少し後で実物の写真を御店したいと思う。
CIMG4292
江ノ島は5ヵ所の聖地霊場から構成されている。
辺津宮・・・恋人達で賑わう一番神社らしい場所、ここで御朱印も頂ける。弁天様を祀る御堂も在る。
中津宮・・・慈覚大師が造営した御堂が前身。とても彫刻の綺麗な場所。
奥津宮・・・本宮。八方睨みの亀の天井絵や、源頼朝公奉納の石鳥居が現存する。
龍宮(わたつみのみや)・・・龍神を祀るとされるが綿津見大神の事、神話では素戔嗚命(すさのおうのみこと)が海の統治を任されている事や素戔嗚命の御神孫の安曇一族の祖先神が綿津見大神とされ、その前身が五十猛(いそたける)神なので、五十猛神の別名と考えた方が自然だろう。
岩屋・・・そもそもの江ノ島神社の始まりの聖地。ここを天皇家の勅願所に欽明天皇が定めた当時は神社は存在せず、洞穴そのものが聖地だった。海辺の洞窟にも関わらず飲用に耐える清涼な清水が湧き出る聖地。
・・・史実を元に話すと、大体そんな感じだな。
瑞心門を抜け、石像の弁天様の前の階段を過ぎると辺津宮の手水社が在る。

CIMG4293
石灯籠がとっても立派!欽明天皇、そして源頼朝公、北条時頼公、北条時宗公、そして戦国時代の北条氏康公が参詣して不利な合戦で奇跡の大勝利をした御利益に預かる人が鎌倉時代から絶えないので経済的にも豊かな神社として存続出来た訳だな。
CIMG4295
今回の辺津宮訪問は初夏の6月末、既にとても多くの人で賑わっている。
CIMG4296
辺津宮を正面に向いて右手に社務所が有り、そこで御朱印を頂ける。
CIMG4297
2種類有って、聖地としての江島神社の御朱印、そして昔は岩本楼が祀っていた弁天様の御朱印。
小生は両方拝領する事にした。
江島神社の御朱印を延喜式内社・式外社専用の御朱印帳に、弁天様を御稲荷様やなんかの御朱印帳に頂いた。
待つ間参拝・・・
CIMG4299
流石、弁天様を本来祀る神社だけあり、欄間には素晴らしい弁天様や天女達の彫刻。
CIMG4300
良く見ると彩色の名残が有るので、昔は朱・青・金等に彩られた極彩色の神々しい彫刻だったんだろうか?社殿は比較的新しく見受けられる。恐らく昭和の再建か改修が入ってるだろう。
CIMG4301
参拝を終えると御朱印も書き終わっていたので受領し、頼朝公が岩屋に祀った八臂弁財天様を拝みに弁天堂へ移動。
CIMG4302
写真撮影は出来ないので外観だけ。この中には文化財の八臂弁財天様と女体の弁天様像が鎮座している。
江島神社に来てココと洞穴を御参りしないのは全く意味が無いのと同じ。
ちゃんと御参りし、弁天様と、弁天様を信仰した頼朝公にも毎日御守護頂いている御礼を告げた。
弁天堂を出て山頂を目指す道に行くと直ぐに八坂神社が有る。
CIMG4303
余り大きくは無いが、町の中に在ったら普通に立派な規模に入る社殿だ。
CIMG4304
素戔嗚命が御祭神の神社、やはり海の神様なので江ノ島の漁民から崇敬を集めたようで、廃仏毀釈の影響もなんのその、牛頭天皇としての素戔嗚命を祀る天王祭りが今でも行われているそうだ。
これは尾張の津島大社と同じだな。
織田信長公
余談だが織田信長公の祖先は福井県劔神社の宮司家で代々、牛頭天王こと素戔嗚命を御祀りしていた事は小生のブログ読者の方々は既に知っていると思う。
だから尾張の津島大社の祭礼に、若い頃の信長公は飛び入り参加して庶民と一緒に踊ったり家臣達と笛を吹いたりして農民や町人と友達の様な関係を築いていたそうだ。
何とも、庶民を愛した信長公らしい逸話だ。
CIMG4305
八坂神社を後にして先に進む・・・
CIMG4306
・・・すると今度は秋葉社と稲荷社が合祀された御社が在る。
う~ん・・・弁天様と同一視されていた御稲荷様が更に別の御社にいらっしゃって各時代の変遷関係無いけど、これはこれで個性が有って良いかな。秋葉社は秋葉権現と呼ばれた火事除けの神様だな。軍神としても信仰された神様だ。
CIMG4307
これは南宋の文化人が寄贈した石碑らしいのだが、数百年の経過により字が磨滅して読めなかった。
CIMG4309
説明は有るので参考にすると良いかと思う。
CIMG4310
現代の石碑。
CIMG4311
猿田彦大神。山の神様。
CIMG4312
これを石碑に揮毫した阿部石年さんは儒学者で書道の名人でもあったらしい。良く知らん。
CIMG4313
江島神社のザックリした道案内が弁天様の琵琶に成っていて可愛かったりする。
CIMG4314
参道には紫陽花が咲いていて6月24日当日は見頃だった。まぁ、本来の目的は江ノ島の岩本楼と江島神社散策の後に鎌倉の長谷寺で紫陽花見物だったので、時期的には綺麗で当然だな。
CIMG4315
あと小さい花壇も有った。
CIMG4317
そうこうしていると中津宮への階段を上がり、大きな石灯籠が見えて来て、中村座の字が掘られている。ふむ、これが中村勘九郎さんの御先祖様が奉納した物なんだな。江戸時代の立派な灯篭。
CIMG4318
小生は辺津宮よりも中津宮の方が落ち着いているし神社らしい神社で好きだ。
ここでは結婚式も挙げられるそうだ。江ノ島は旅館も有るし観光地として有名なので、地方から友達や親戚を招いて江島神社で結婚式やって旅館に皆で泊まったら良い思い出に成りそうだな。
きっと、そうやって幸せな夫婦に成り添い遂げた男女も多いだろう。
そんな幸せを御裾分けして頂ける場所な訳だ。
CIMG4319
美しい恋したい・・・目下、独身の小生を代弁する言葉だが小生は美しくないので慎ましく幸せに恋したい(笑)。
中津宮を過ぎて山を登ると山頂のサムエルコッキング園と展望台。
CIMG4320
恋人達の聖地だ。小生には関係ない(笑)のでスルー(笑)。
CIMG4321
暫く行くと下り坂に成るが、この一角には多くの民宿や旅館、食事処が有って面白い。
妹が愛媛県松山市でまだ大学生だった頃、妹が友達を連れて帰省した際に二人をここに連れて来てあげたのを思い出し、当時食事した店を探す事にした。
CIMG4322
階段降りて直ぐ見つかった(笑)。
海花亭さん。ここで昔からの名物の江ノ島丼や現代の名物のシラス丼、他にもお刺身や色んな和食を食べる事が出来る。
CIMG4323
確か旅館もやってらっしゃったと思う。最初に来た時は浴衣の宿泊客がいたから。
CIMG4324
ここは展望席が有り涼しい浜風に当たりながら食事が出来て気持ちが良い。
小生は当然、江ノ島丼を注文。
CIMG4327
まぁ、最初の方で書いたけれども、江ノ島丼と言うのはサザエの卵とじ丼の事。
江戸時代~明治時代~昭和初期、まだまだ鶏卵は庶民は普段口にする事の少ない滋養強壮の食べ物だった。それに明治生まれの親子丼と江ノ島名物のサザエをアレンジして出来たのが江ノ島丼な訳だ。
きっと味は皆さんの想像通り・・・
CIMG4328
・・・親子丼(笑)。でもサザエ。
因みにサザエやカタツムリなんかは滋養強壮勢力増強の効果が有るので、卵と合わせて江戸庶民や明治の人々にとっては体力の付く食べ物だったんだろう。
現代人の小生には身近な味付けの食べ物だが。
きっと児玉源太郎先生も旅順攻略の作戦を立てながら、この江ノ島丼を食べたりしたんだろう。
同じ物を食べられたかも知れないと思うと何だか嬉しい(笑)。
CIMG4326
展望台を見上げながら清々しく食事をさせて頂きました。海花亭の皆さん、ありがとうございました!
海花亭を出ると横に御寺が在る。
CIMG4329
江ノ島大師、最福寺別院、真言宗。まぁ、近年の造営なので歴史は浅い。岩本楼が修験道寺院を止めて久しいので、修験道と関係の深い真言宗の寺院が開かれたのだろう。
そこの前を通り過ぎて注意しながら道の脇を見ていると、宗教史跡が有る。
CIMG4330
時宗を開いた一遍上人の所縁の場所。
CIMG4331
この付近は頂上で海辺の岩屋の水を汲みに行くのも不便だったのだが、一遍上人が井戸の水脈の掘りあて島民の生活を助けたそうだ。
CIMG4332
ふみ、庶民を助ける事を実践された素晴らしい逸話だな。
今回、改めてこうやって全ての石碑等を見て回ると時間が経つのが早く、実は島を離れるまで4時間位江ノ島の中を歩き回っていた様だ。
CIMG4333
更に先に進むと山二つと呼ばれる景勝地に出る。
CIMG4334
実はこの下にも古代からの霊場が有るのだが、降りる術が見つからない(笑)。
仕方が無いので先に進む。
CIMG4335
江戸時代からの鎌倉名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)の店が今でも沢山有る。
CIMG4336
そして又、宗教的な史跡。
今度は木食上人の所縁の場所。木食上人は真言宗の僧侶で法名を行勝とおっしゃった。
台風や長雨を止める祈祷等を得意としたそうだが、要は農民の味方、精神的な支柱だった人物な訳だ。
当然、祈祷をする以上、日本の神様への知識も深かっただろうし、だからこそ水に纏わる江ノ島の霊場に修行に来ていたのだろう。
CIMG4337
帰りに行こうと思って行くの忘れた(笑)。
この近くに凄い種類が豊富なソフトクリームの店が在った。
CIMG4338
これ、カップルならシェアして食べたら良い思い出に成りそうだ。
・・・ワサビ味とかシラス味は御免こうむるが(笑)。
CIMG4341
そして、もう一つ文化財。
CIMG4339
サルが沢山彫刻された珍しい庚申塔。
普通は見ざる聞かざる言わざるの三猿と、何か仏様や神様が彫られているんだけれど、ここは猿が沢山で可愛らしかった。
CIMG4340
謂(いわ)れは良く解らないらしい。
奥津宮に辿り着くと紫陽花が綺麗だった。
CIMG4345
もしかしたら長谷寺に間に合わないかも知れないので、ここで紫陽花をジックリ見学して置いた。
CIMG4344
健気に咲いてカップルを楽しませていた。偉いな君達。小生は中々人の役に立つ事を出来ず自分に不甲斐無さを感じる事が多いんだよ。君達は存在するだけで偉い。
CIMG4343
ふむ、心を癒してくれた紫陽花君達、ありがとう。
この場所が奥津宮の参道、神社の最深部の入口となる。CIMG4351
そして、この石の鳥居が源頼朝公の建てた物だそうだ。良くも応長の大地震、明暦の富士山噴火、関東大震災を乗り越えて現存していてくれた物だ・・・。
その手前右側に石碑が有る。
CIMG4348
字が摩耗して読めね~。
CIMG4349
ので看板を見てね(笑)。
その近くに亀石と言う名石がある。これも宝物の一つだ。CIMG4356
今は木に埋もれているが、これが鎌倉十石の一つに挙げられた名石らしい。
確かに亀に見えるんだな。これが天然の造形だから価値が有る訳だ。
その左手前に力石が有る。
CIMG4355
古い神社には良く有るのだが、昔の力持ちがこれを持ち上げて力比べをしたんだな。
多分、現代人の中で可成り力の有る小生でも持ち上がるかどうか。
実は江戸時代の人の男性平均身長は150~160cm程度。しかし飛脚の人達や肉体労働の町人の幕末の写真を見るとビックリするのだが、誰も彼もがプロレスラーの様なガタイをしている。
有名な話だが、武士は絶対に火消しやなんかに喧嘩を売らなかったそうだ。絶対に負けるから。
江戸時代当時の武士は既に官僚化が進んでモヤシが多かったそうだ。刀を抜けば殺人未遂だし、当時は士分は庶民を守るべき立場だったので庶民を傷つける事は実は当たり前なのだが許されなかった事を知る人は少ない。切り捨て御免なんてのを信じている奴はド阿呆で、武士側に落ち度が有れば普通に犯罪が成立する訳だ。
CIMG4358
そして山田検校の碑。
これ、①の記事で紹介した江戸時代の針治療のお医者様だね。江戸時代の名医らしい。
そしていよいよ奥津宮。
CIMG4359
明治以降の説明に価値を感じない小生。その前の1000年間の江ノ島の歴史の方が大切。
とは言え、宗像三女神様達も海上交通の安全を守って下さる大切な神様なので、ちゃんと御参りして来た。
CIMG4360
ここは拝殿の屋根に文化財が有るので絶対に御参りして天井を見上げて欲しい。
CIMG4361
CIMG4365
八方睨みの亀。
ガメラみたいだ・・・
奥津宮の少し先に龍宮が在る。
CIMG4366
CIMG4368
どうやらこの祠の真下が、江ノ島の古来からの聖地の洞窟らしい。
ここ自体は新しい礼拝所で、小生は特に・・・
御参りは外から拝んで岩屋を目指して先に進む事にした。
CIMG4370
にゃ~ん♡
江ノ島は島民に愛される猫ちゃん達が多くて癒される場所でもあるんだにゃ。
今回も歩く先々で猫ちゃんにモフらせて頂いた♡
CIMG4410
人懐っこい♪
CIMG4411
どの子も肥えとる(笑)。
それだけ可愛がられてるんだろう。
さて!
神社としての江ノ島はここまで、ここから先は原始宗教に繋がる岩屋部分、続きの③の記事で又、紹介します~♪
→その③

今日は休暇とってるので夜はユックリ某所旅館で過ごしながらブログ書きます。





小生の活動に賛同して下さる御寺と又、一つ五御縁を結べた。
鎌倉時代から続く横浜市金沢区六浦の名古刹、上行寺さんだ。
10日土曜日、午前中から動く筈だったが深夜に帰宅後、朝まで色々とやる事が有り結局寝たのは午前5時、起きたら10時位だった。
当初の計画では午前中から鎌倉に紫陽花を見に行き、2年ぶりに江ノ島に散歩に行こうと思っていた。
しかし不思議な事に車に乗り込むとなんだか「そわそわ」して思考が鎌倉に向かない・・・
まぁ、事前に鎌倉の長谷寺サンに問い合わせて現在の紫陽花の開花状況が5分咲きに届くかどうかと言う事を聞かされていたと言う事も少しは有るが、メインは鎌倉に車を停めて江ノ電で観光して回る事だったので、紫陽花は二の次だった。それに家から鎌倉はとても近いので又来週も見れるしね。
・・・で、途中から金沢区の建築文化財の料亭❝金沢園❞を旅館業に業種替えリニューアルした❝喜多屋❞と言う旅館に先日取材の下調べと挨拶に行った事も有り「今日、ランチ食べに行って見ようかな?」と思いついて栄区から鎌倉に続く朝比奈峠には行かず真っすぐ通り過ぎ金沢区八景方面に行く事にした。
これが昨日10日の運命の分岐点だった。
朝比奈峠の辺りから金沢八景に行こうとすると金沢区の六浦を通る。
この六浦と言う場所は江戸時代までは海が入り込んだ入江で商業港として機能していた場所だ。
鎌倉が武士の本拠地として機能した平安時代末期~鎌倉時代~室町時代初期まで大いに栄えた。
そして金沢八景の名で知られる景勝地として有名で、源頼朝公に始まり鎌倉公方足利家歴代、北条早雲こと伊勢盛時公、果ては徳川家康公まで金沢に滞在した歴史が有る。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
その風景の美しさから金沢の八か所の景勝地を歌川広重等が浮世絵にしている。
現在、昭和のアホの横浜市教育委員会が風致保護せず更に市と土建屋が埋め立ててしまい金沢八景の景勝は全て失われた。
そんな事を思い出しながら車を走らせ、京都出町柳に住んでいた頃にたまに拉麺を食べに行ってた北白川魁力家の六浦店の前である事が強烈に頭をよぎった。
「そうだ、上行寺が近くに在るな。」
「デジカメ買ってからまだ写真撮影に行ってないし、御住職に荒井さんの事を確認したいな…」
「よし!上行寺に行こう」
・・・と、これは何と言うか完全に思い付きだね。と言うか、こう言う事は天啓の様な物で、思い付きに従った方が良いと小生は経験で思っている。
で、上行寺を御参りした。
CIMG4055
ここは茅葺屋根の山門が今も現存する貴重な御寺で、明治政府のせいで縮小してしまった旧境内地のスシロー辺りまで鎌倉~室町時代の矢倉(やぐら=坂東武者文化の横穴式の墳墓)群が大量に周辺一帯に現存している。
因みに、由緒正しい平安末期~鎌倉期前後から存在する御寺は鎌倉文化圏の旧鎌倉群~久良岐郡~三浦郡では茅葺屋根の山門が多い。まぁ、瓦葺に吹き替えても屋根の形状で時代は解る。
更に高級なのが真言宗の別格本山だった金沢区の稱名寺で、檜皮葺の塔頭の山門が在ったりした筈だ。
因みに以前、栄区鍛冶ヶ谷の旧小岩井家住宅を紹介した記事でも書いたが、❝藁葺(わらぶき)屋根❞では無くて茅葺(かやぶき)屋根の場合、一棟の御屋敷の母屋(おもや)の屋根を葺き替えるだけで4千万円程度するそうだ。

  ↑
これがその記事。
だから江戸時代に瓦葺に吹き替えた場所は、手が掛かっていないんだな、寧ろ。
因みに今月の三十日(みそか)は全国の神社で❝夏越しの大祓❞の神事で茅の輪くぐりが行われる。
2014-06-30-16-31-17
今では茅は貴重な植物に成ってしまったので、昔でも高価だったのだが更に貴重な植物に成ってしまった訳だ。この植物は素戔嗚(すさのおう)尊が厄除けの道具として古代人に教えた事に始まる魔除けの植物でもある訳だ。
さて、突然訪問した上行寺、実は数回御参りに上がっているし間宮家と無関係では無いのに御住職様とユックリ御話する機会が今まで無かった。
なので、これも良い機会だと思い訪問を決めた瞬間から身が軽かった。
CIMG4111
山門をくぐると最初のこの供養塔が在る。❝船繋ぎの松❞が有った場所だが、真言宗時代の富木胤継公と後に御寺を復興した荒井平次郎光吉公の供養塔が在り、横に何世代目かの船繋ぎの松が在る。
何で❝船繋ぎ❞か、ちゃんと記事を熟読して下さっている人は解ったと思うが、昔は六浦は港だったと先に触れたが、この御寺は目の前が鎌倉時代の港で千葉家の武将達が鎌倉と房総半島の海を往来する際に船を停泊させた港でもあった訳だ。
金沢区の昔の海岸線 久良岐のよし
上の画像で白い部分が昔の海岸線。半島と沢山の島が入り組む湾は多くの文化人や大名から愛され、もし現存すれば京都の天橋立よりも美しい観光地として多くの外国人旅行客で栄えた事だろう。
そんな訳で上行寺は直ぐ目の前まで海だった。
折角なので、少し御寺のその時代の歴史に触れてみよう・・・
御寺は元は金勝寺と称した真言律宗の古刹で開基の当時は源平合戦の真っ最中の頃、その頃からの大旦那は房総半島千葉家臣だった富木(とき)家だったそうだ。
この富木、取材しない学者は富木(とみき)と読みかねない。
富木と書いて恐らくは土岐家の一族だろう。更に祖先は土気城の辺りを根拠地にしていたのだろうか?
千葉家の被官に成る以前はもしかしたら上総家の被官だったのかも知れない。
後に上総国で里見家の重臣と成った土岐家の祖先に当たる人物かも知れないが、この時点での姓は富木と書いて富木(とき)だった。その家の播磨守(はりまのかみ)富木胤継(たねつぐ)公が房総半島から船で鎌倉に向かう際に日蓮聖人様と同船されたそうだ。
そして仏法について御二方は熱く語り合い、船着き場兼御寺だった金勝寺へ到着後も話は盛り上がって夜に成り、富木公は自分が支援した金勝寺の当時の御住職の普識法印様に相談して御寺ごと日蓮宗に改宗し、寺名も現在の上行寺に改名、法華経布教の道場と成って真言宗風の御寺の立地条件の日蓮宗寺院としての歴史が始まり現在に至る。
明治以前の本山格は日蓮宗大本山の中山法華寺で、この中山法華寺の境内地が富木家の邸址だそうだ。
これは知らなかった。
DSC_0884
間宮家所縁の妙蓮寺や・・・
2014-09-14-13-14-28
・・・杉田の妙法寺も中山法華寺が本山に成っている。
明治時代に成るまで、日蓮宗も浄土宗も時宗も同じ法華宗と呼ばれ御寺の門閥として系統が解れていると認識されていた。禅宗も同様で臨済派・曹洞派・黄檗派等と呼ばれ記録に残っている。
因みに織田信長公と徳川家康公が特に信心していたのが、この法華宗で中でも浄土宗と日蓮宗の御寺を御二人とも良く支援してらっしゃった。
2015-10-04-15-52-13
上の写真は織田信長公の遺骸が葬られた朝廷公認の織田信長公と信忠公と家臣団の御本廟、京都市の蓮臺山阿弥陀寺。浄土宗。
2015-10-04-16-56-52
上は下鴨神社、下はその別当寺だった浄土宗大本山の知恩寺。阿弥陀寺と同じく京都市。
image
知恩寺は後醍醐天皇の勅願所で、徳川家康公家臣で忠臣名高い鳥居元忠公の菩提寺でもある。
織田信長公と徳川家康公の御二人は法華宗だけでなく、天台宗や禅宗や真言宗の寺院も多く復興されている。
因みに知恩寺が菩提寺に成っている鳥居元忠公は間宮家で屈指の武勇を誇った間宮康信公を黒駒合戦で討取った名将でもある。
間宮、真田、鳥居の戦勝実績はジャンケンみたいな関係で特徴が有る。 真田家>間宮>鳥居>真田こんな勝敗の関係に成っている。
その間宮康信公は北条綱成公の家老ながら間宮家が単独で伊豆・駿河方面で武田勢を散々にボコボコに追撃したり三増峠で山県昌景公や馬場信房公の武田奇襲部隊を押し返して北条氏照公の窮地を救った当時の間宮家の若様だな。 この頃から真田丸と大坂城攻防の間宮と真田による北条武田の因縁の代理戦争は繋がっているんだな。
間宮家も織田信長公や徳川家康公と同じく多くの神社仏閣を守っていた。
CIMG0809
上は杉田間宮の間宮信繁公の姫が嫁いだ初代久能山東照宮大宮司の榊原照久公の菩提寺、照久寺。 こちらも浄土宗。
2015-07-15-16-32-01
そして横浜市磯子区の上中里神社は間宮家が廃寺に成っていた御寺を法華宗日蓮派寺院として復興した間宮寺の跡。
無論、鶴岡八幡宮を始め若宮神社を勧進したり神道は言うに及ばず、真言宗の本山格だった横浜市南区の寶生寺やその末寺だった笹下城下の東樹院等の真言宗や、横浜市磯子区の修験道の大本山格だった泉蔵院や福禅寺権現堂の森浅間社。更に北条家臣だった歴史から曹洞宗寺院は多くなり他にも例を挙げればキリがない。 そんな間宮家は水軍を管理した家系でもあったのだが、恐らくその水軍で主力を成したのが妙法寺や上行寺を開いて六浦港や杉田港に勢力を誇っていた荒井家だ。
詳しい事は伝わっていないが大まかには荒尾城主だった事、源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進し瀬戸神社を開き大姫の誕生の際に琵琶湖の竹生島から勧進した弁天様を祀る琵琶嶋神社を開いた際に、枇杷嶋へ架かる橋を荒井家が単独で寄進した程、鎌倉時代には財力も有り家格もそれなりに有った訳だ。
豪商と江戸時代の記録に伝わるそうだが実際はれっきしとした❝武家❞だった筈だ。それも水軍を率いた。なので荒尾城と現代では場所の解らない城の城主だったのだが、この城跡と思しき場所も同日、小生は見つける事が出来たのだが・・・
御住職と色々と荒井さんの事の情報を共有し、話し込む内に小生の話を楽しいと評して下さった。
とても嬉しかった。
そして間宮家の顕彰文に間宮重臣荒井家の事を書かせて頂く御許可を頂き、そして活動を褒めて頂けてとても光栄と言うか恐縮と言うか・・・
素直に嬉しかった。
CIMG4173
CIMG4174
帰りに境内の霊木の榧の大樹の実から精製した油や新茶や御寺の縁起の冊子等、沢山のお土産を頂いた。
霊木の榧は開山日荷上人の御手植えで、榧の油は檀家さんだけで共有している物だそうだ。
何だか色々と御世話に成ったのに却って多くのプレゼントを頂いて大変恐縮した。
でも、檀家さんだけで共有している霊木由来の油を頂き、檀家同様に扱って頂く様な大変有難い気持ちの込められたプレゼントで嬉しい。何だか勿体なくて使えない(笑)! 小生は本当に自分は短気だし馬鹿だし小者なのに、多くの神社の宮司様や色んな宗派の和尚様達に可愛がって頂ける運にだけは恵まれている。これは本当に何と言うか知識と文化と先人の大切さを教えて頂ける多くの師を学校を卒業しても尚、得ているのと同じ事。
「生まれて来て良かったと」
・・・そう思える事の一つでも有る。でもこれは自分自身でどうこうと言う運命では無くて、殿様達に会に神社や御寺に行くと自然に道が開けて来た、例えるなら「御導き」みたいな感じなのかも知れない。
小生本人は行き当たりバッタリ的な行動。今回の上行寺の再訪問もそうだ。
運転中モヤモヤして鎌倉へ向かう分岐点の朝比奈峠の入口で目的地の鎌倉と違う方向の六浦にハンドル切ったら「そうだ!上行寺に行こう!」と成った訳だから。
思えば歴史偉人の顕彰活動を始めたのも今生きているのも、北条綱成公のおかげ。綱成公の御廟所へ御墓参りをしたのが歴史が本当に好きに成り神社仏閣巡りを始める切っ掛けだった。そして横浜に北条綱成公の家老で大活躍し壮絶な最期を遂げた間宮康俊公が居た事を知り、その康俊公と間宮家の関連した神社仏閣を巡り宮司様や和尚様達に話を聞いて回る内にアレよアレよと今では師と思う宮司様や和尚様達に宗派をとわず沢山巡り会う事が出来、次第に可愛がって頂ける様に成った。宗派を問わず。
気が付いたら某大学で教鞭をとる名誉教授の宮司様や現役教授の法華宗系の某宗派の和尚様や新任神職研修の指導教官だった大きな神社の宮司様や某禅宗の人事部長さんや青年部長さんやら、某高野山でお勤めに成っていた偉い和尚様とか。
今回の上行寺の和尚様も本当に始終笑顔で色々と教えて下さり、そして笑顔や時に目を見開きながら小生の話を真面目に聞いて下さって、それだけでも感謝が今、文章をタイピングしながらも湧き上がってくる。
御住職様、ありがとうございます。きっと荒井の殿様の歴史、世に再び知って貰える様に書きます!
玉縄北条家や間宮家の顕彰文にも、そして、いつか三浦家の顕彰文も書く際にも。
荒井家の御子孫とも面識有るしやらないといかん。
さて、小生の主観的な事はここまで、上行寺の写真を紹介したい。
CIMG4065
古い御寺、それも真言宗の大寺院だったので戦後に縮小された現代の境内地でさえ、鎌倉の大寺院がそうである様に沢山の矢倉が残っている。
CIMG4064
鎌倉武士達の墓所の跡だな。
CIMG4072
御寺を日蓮宗に改宗させた富木胤継公の富木(とき)家は千葉家臣だった時代の歴史しか現代に伝わらないが、先述の通り多分、後に里見家の家臣と成った土岐家の祖先なのだと思う。
この矢倉群の主が誰か、今度、改めて御住職に教えを請いに行こうと思う。
資料が散佚して解らなければ、許可を頂いて墓石の文字を撮影させて貰い読んでみようと思う。
そして先に紹介した船繋の松の旧跡。
CIMG4111
この直ぐ前まで海だった訳だな。
CIMG4059
太平洋戦争で戦死した将校の供養碑。立派だ。
CIMG4061
山門からずっと綺麗な石畳が続いており、御本堂へ向かう手前の分岐点に鐘楼が在る。
CIMG4067
鐘楼の屋根の上には千葉家の家紋。富木家が千葉家の家臣だった事が良く解る。
上行寺と言う御寺は鎌倉にも在って、実際、鎌倉の大町の辺りには千葉家と関連の在る場所も少なくないし、戦国時代に成っても昔は下総国臼井城主だった千葉一族の臼居家の御本家が住んでいて今も光明寺の塔頭となった元は弘法大師所縁の真言宗寺院だった蓮乗院が在ったりするが、そこは臼居家の菩提寺で千葉常胤公の所縁の御寺だったと伝承する。
CIMG4069
御本堂の右手に庫裡、庫裡の屋根の作りからして少し前までは茅葺屋根だったんだろう。
CIMG4068
対して御本堂は破風が付いており、江戸期~現代の造りに成っているので比較的新しい様だ。
CIMG4071
本化殿・・・浅学の小生には意味が解らない仏教用語だったのだが、調べたら法華経の事を意味するらしい。言い換えると法華堂と言う所だろうか?
そういえば源頼朝公は熱心な真言宗と修験道の信徒だったが、法華堂を大倉御所の近くに建てていたりもしたので法華の教えも好きだった様だ。
政子様は真言宗が御好きだった様だが、阿弥陀仏を信奉していた形跡が浄妙寺の歴史からも紐解けるが思想的には不明。御息子の三代将軍実朝公は臨済宗で釈迦如来を本尊とした様だ。この実朝公と北条一族によって鎌倉の至る所の御寺は臨済宗に改宗されて行った。そして禅宗を取り入れた武家文化が確立され、元寇を撃退する知識の泉と精神力の根源と成り反抗戦の原動力と成り奇跡の勝利を生み出した訳だ。だから神仏を崇拝する全ての宗派が日本の歴史を構成していて、そして全てが有ったから今が有る。だから、宗派の優劣も無いし、その代わりに確かに得意不得意な分野は有るかも知れないが、その個性が個々の得意分野を更に昇華させて日本文化を成熟させて行ったんだな。
だから不要な物なんて何も無い。
上行寺は現代は日蓮宗だ。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経と言ってさえいれば良い」と言った様な事を書くアホ学者や小説家も多いが、当時の法然上人や親鸞聖人もそうだが実際は密教や現代では宗派でカテゴライズされてしまい学ばなくなった多宗派の様々な知識も身に付けていて、だから親鸞聖人は鎌倉の仏僧の試験官として招聘されたり、日蓮上人が書いた密教的なものが根来に保管されていたりする。
更に法然上人が「念仏だけ唱えれば極楽に行ける」と言った様な事が言われているが、法然上人に帰依した熊谷直実公や土肥實平公等の名将の動向を見るに「やった事を反省し本当に悔いた上で更生し念仏を唱える事が大事」と言う意味だろうと小生は解釈している。
まぁ、法華関連の偉人を悪く言うこれらの言葉尻を捉えた様な話は、対立した宗派のプロパガンダだったんだろう。
では、鎌倉の禅宗はどうだっただろう?禅を「禅だけ練って質素な暮らしして精神修養だけしてりゃ~良い」とトンでも無い事を思う奴がいたら阿呆だ。
蘭渓道隆和尚も兀庵普寧和尚も退耕行勇和尚も座禅だけ組んでいた訳でなく、博識で武士達に現実社会で役に立つ思想学問や兵法や文化を叩き込んだ。そして元軍を打ち破るノウハウを鎌倉武士団は獲得した訳だ。禅宗は普段の生活も修行とし真面目に生きる事を教える宗派だ。それは臨済宗だけでなく曹洞宗も同じで、だからこそ曹洞宗を支援した戦国大名の北条家の政治も善政として有名だった。
天台宗も多くの学僧を抱え知識の泉として機能したし、真言宗は仏教の原型を出来るだけ保全して伝える言うなれば仏教界の考古学みたいな素晴らしさと日本の神様や文化も特に守って来た歴史を大切にする側面を備えている。
昔の仏教も神道も多宗派に非常に寛容だった事を、現代の宮司様や和尚様には知らない方もいるのかも知れないが、歴代天皇家は正に神様も仏様も色んな仏教門閥も其々の良さを見て大切にしていらっしゃった事は様々な歴史博物館や宗教施設の遺物を見て回ると理解出来る。
そんな訳で、昔の和尚さんや宮司さん達は大らかだった訳だが、上行寺も法華宗日蓮派に改宗した後も金沢山稱名寺とずっと交流が絶えなかった様だ。
だから、御寺を富木家の後に復興支援した荒井家出身の日荷上人が稱名寺とも交流が有ったのだろう。
しかも稱名寺には戦国時代に間宮信高公に姫が嫁いだ真里谷武田家の殿様が逃げて来て北条家次いで武田家に亡命した歴史が有る。何だか間宮家の歴史は荒井家ととても因縁めいている様だ。
CIMG4073
上行寺の前の道、六浦道と呼び、現代の笹下釜利谷道路の延長線上の終着点。
しかしここは昔は海だった訳だ。ここに千葉家の殿様達が船で往来していた当時と同じ様子の風景を見て見たかったが今では想像もつかない。
因みに富木家の子孫と小生が推測する土岐家、仕えた里見家と争った真里谷武田家の一門衆(しんぞく)には勝家がいる。恐らく幕末の安房守勝海舟先生の祖先だろう。もしそうなら間宮康俊公の御子息で間宮造酒之丞家の始祖と成った間宮信高公の奥方の真里谷家の姫君と勝海舟さんは遠い遠い親戚と言う事に成る。つまり間宮家と勝海舟先生も親戚って事だな。
所で土岐家は美濃の土岐家の戦国時代の分流と伝わるが、ハッキリした歴史は学者にも諸説有り解っていない。
だから小生は言う、富木は恐らく鎌倉時代に関東に残った土岐家の支流で美濃の土岐とはかなり早くに、それも鎌倉時代には分かれていた家だろう。
そして土岐では無くて富木の字を用いていたので歴史学者は気が付かないんじゃないかと。
まだ学者も知らない事が多い。北条綱成公の祖先の福島家が存在しないと実地見聞しない学者共はのたまうが、実際に福島家の子孫は多摩に存在する。子孫は庄屋に成って江戸時代も存続した。
❝文字に残っている事が全てでは無い!❞しかし学者は自己保身をしながら自説を論文に書かなければいけない不自由な職業の様なので、左翼弁護士の如く状況証拠で白黒判定する事を他の学者が許さない訳だ。つまり、歴史学なのにエジプト考古学や城郭考古学とは考え方が全く異なり嘘でも文書に成っていたら証拠として論文に書けるし文字に成ってる証拠しか拾えないと「変な空気に支配されている」チキンが多い訳だ。だから死んでも文字オタク歴史学者になんか小生は成りたくない。だから考古学者の先生達や無名でも博物館の学芸員を小生は尊敬する。
まぁ、小さい時から土器や石器拾って遊んでたしね。
と、言うか日本の歴史学者が左翼染みて居るのは、東大や京大を始め国立大学の教職員が左翼に学生闘争に参加し染まっていた連中が多く幅を利かせてそういう雰囲気を作ったんだと思う。
歴史は状況証拠の方が大切だと思うんだけどね、文字は後世の人間も騙そうとして意図的に制作されたり改竄複製されたりプロパガンダも沢山有る訳だから、客観的な状況証拠から実際に史跡を発掘する方が大切だろうと個人的には思っている。実際、凄まじい数の文献を見ている学者でも小生の様な学者で無い人間が知ってる武士達の名前の発音を知らずに読み仮名を想像で誤植して人名辞典に掲載している事も有るしね。実際に御子孫に会いに行くのが一番早いのにね。
少々、ここまで宗教的な解釈の話が多すぎたかも知れない。
上行寺を後にしてからの話に移ろう。
寺の背後の山中に伝承の荒尾城の遺構と思われる帯曲輪らしき多くの削平地や竪堀らしき地形も発見した。
それは又も偶然で横浜市教育委員会が破壊容認した上行寺東遺跡に行く時に道を間違えての事だった。
CIMG4074
ここが上行寺東遺跡の登り口。
CIMG4092
分岐する階段の上が遺跡のコピー、実際の遺跡はライオンズヒルのマンション建設で主要部分が破壊され消滅した。遺跡の前に小生が荒御城跡かな?と思った地形に至る道を紹介する。
右手の階段の上に遺跡のコピーが在るが小生は、ここで道を間違えて直進した。
CIMG4076
眺望が良く、上行寺の裏から昔海だった平地が見渡せる。
なんとなぁ~く海だった時代の風景が想像出来る。
少し行くと又もや階段が有る。
そこを登ると何かの神様が祀られている小さな御社が在った。
CIMG4077
思うに浄願寺や上行寺の関連なら御寺の守護神だった神様だろう。でも御社の名前も不明なので何の神様がいらっしゃるのか判断がつなかった。でもちゃんと御参りして来た。
頼朝公や千葉家の関係なので弁財天様だろうか?
CIMG4078
御参りが終わって階段を下り、誤った道(笑)を更に進むと完全に上行寺の裏手に回る。
ここら辺から道の様子が怪しく成ってくる。
CIMG4079
余り人の往来が有る形跡が無くなり始める。雑草が生え始める。
更に進むと・・・
ドンドン獣道に成って行く。

CIMG4080
てか、都会育ちの人はコレ見て❝道❞とは認識しないだろう(笑)。小生が円海山の近くで育って山の中を駆けずり回って遊んでたから道に見えるだけ。実際は多分、遊歩道だったんだと思うが現在の林市長に成ってから円海山も遊歩道の整備が滞って通行止めの場所が増えたりしているので、ここも放置されてしまったんだろうか?
CIMG4081
昔の市長が整備した跡だろう。樹脂製のフェイクの木柵が有る。多分円海山と同じで中田市長かその前の高秀市長の頃の物だろう。
CIMG4083
暫く行くと昔の岩盤が露出したり、昔のままの道に行き着く。
CIMG4084
その辺りから、山腹のここかしこに小さな平場が散在する様に成るし、尾根道の両端が人工的に裾切りされた切岸に成っている事に気が付き始める。
これ等の平場は、どこからどう見ても❝帯曲輪❞だろう。こんなん、遊歩道でも無いし、こんな崖地に畑を作る訳も無い。
CIMG4085
稱名寺を囲む金沢城に似ているんだな。
CIMG4087
ここは上行寺の西側裏手辺り、写真では判り難いが明らかに竪堀だ。
尾根も細くクビレて敵の侵入を限定しやすい。
山頂に行くまでも竪堀らしき場所が数ヵ所有った。
CIMG4090
そして途中で気が付いたのだが、開削された遊歩道に成っている平場の片側、岩盤を削り残した側は全て当時の六浦湊(みなと)側で、港側への防衛を意識した土塁と言うか岩盤の防壁の様に見てとれた。
CIMG4091
写真では判り難いが土塁の名残りの様な地形も続いていた。
これ、文献には出て来ず上行寺の伝承に残る荒尾城何じゃないかと思う。
実は直ぐ近くの上行寺東遺跡は源頼朝公と文覚上人が開いた浄願寺の遺跡だった。
頼朝公は森浅間神社の様に陣屋を置いた要塞の傍に神様や御寺を勧進する❝習慣❞が有った様だ。
それは港北区の三会寺もそうだし、南区の若宮神社も傍に後の蒔田城が有る。
多分、ここは六浦湊を守る場所としてスタートした要塞が起源の城で、六浦湊に鎌倉時代まで勢力を持って栄えていた荒井氏の拠点だったんじゃないだろうか?ここに烽火台を置けば東京湾沿岸部とも連絡が取りやすいし。
荒尾城址か? 久良岐のよし発見の城砦と思しき地形。
改めてGoogle earthで見てみると、有るわ有るわ森に埋もれた城址に良く見られる空堀跡が森を横切り直線の凹みに成っている地形。今度、駒澤大学の某教授や御世話に成っている城郭縄張り図制作者の方に報告して置こうと思う。
さて、流石に城跡らしき地形は嬉しかったが「これ、絶対に浄願寺の遺跡には続いてない(笑)」と途中で気が付いていた。
なので丁字の分岐点まで登り、そこから引き返して改めて遺跡の入口に戻って来た。
CIMG4092
浄願寺廃寺は遺構も良好に最近まで現存した。
源頼朝公と文覚上人により造営された格式高い御寺で、誰でも国語の授業で習う❝徒然草❞の著者の兼好法師こと吉田兼好がここを気に入って滞在していた。吉田兼好は仁和寺の僧侶で浄願寺と同じ真言宗の和尚さんでもあった訳だ。何で吉田兼好が横浜市に滞在していたの?と思う人が少なくないと思うが、鎌倉時代当時金沢八景と呼ばれた、この地域一帯を治めていたのが金沢北条顕時(あきとき)公で、その邸宅が現在の稱名寺の場所だった。
2009-04-02-16-24-47
稱名寺は最初は金沢北条家の私邸で持仏を安置し拝む御堂としてスタートした訳だ。
2015-04-01-13-10-04
それが金沢北条家が熱心な学者でもあり、隣の谷に文庫を創設して日本のみならず世界中の文献を収集しまくったので、武家初の私設図書館と成り、現代では東の正倉院と呼ばれる程、鎌倉~室町~戦国~安土桃山~江戸の各時代を通じて仏僧と武士の一大学問所と成った。
その金沢北条家の北条顕時公の執事を務めたのが兼好法師の実兄の吉田兼雄公だったそうだ。
まぁ、そんな訳で六浦と金沢八景と金沢文庫と野島は平安~近代まで文化醸成地で景勝地だったのだが、その景勝は横浜市によって埋め立てられ先述の通り消滅した。
一方、浄願寺自体も新田義貞の兵乱で戦火に巻き込まれ略奪され多くの御寺と神社が消えたのと同じく、一度廃寺に成った。しかし戦国時代、菅原道真公の御子孫で太田道灌公に与力していた菅野家と太田道灌公によって金沢区洲崎に龍華寺として復興され寺脈は受け継がれた。
2015-03-04-17-10-31
その龍華寺には太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公も滞在宿泊し支援した歴史が有る。
そんな歴史の浄願寺跡の上行寺東遺跡だが、ライオンズヒル建設準備中に横浜市が開発許可を出した事が明るみに成り、大きな問題と成った。
鎌倉市や横浜市の郷土史家や学者や文化人と市民が激怒し、大問題に発展させ新聞にも取り上げられたが開発利権が当時の市長に有ったのか無かったかは不明だが、破壊を強行され消滅した。
CIMG4096
遺跡と看板に書いてあるが事実は違う。
チキン横浜市教育委員会が己の悪行に自覚が有ったのか意味の無い張りぼてで消えた遺跡の一部を複製し神仏の天罰と市民の批判から己等の罪を粉飾するかの様に造ったのが上行寺東遺跡な訳だ。
だから上行寺東遺跡の主要部は意味の無い張りぼて。
CIMG4097
造形保存とか言ってるが、開発許可を踏みとどめられなかった教育委員会の体面保つ方便。
CIMG4098
この遺跡の入口には神社も有る。
CIMG4100
鳥居は神明造り。
でも何の御祭神化は解らない。海を守る場所、そして皇祖神系の神様を祀る神社に用いられる事の多い神明鳥居なので八幡社だろうか?恐らく御祭神は八幡大菩薩こと応神天皇、本来の御名前を大伴別命(おおともわけのみこと)と言い、別名の誉田別尊(ほんだわけのみこと)も有名な神様だろう。
源頼朝公の幕府設立に協力した千葉家や荒井家の祖先と思しき三浦家は皆、鶴岡八幡宮の八幡大菩薩を勧進して神社を造営したので恐らく、港を守るこの丘にも八幡様が迎えられたんじゃないだろうか?
看板が何も無いので神様も由来も解らない。
CIMG4101
残念。この御神紋も何の神様に用いる物なのか良く知らない。
八幡社なら波切紋の筈なんだけれどな・・・。
その左隣には小生をいつも守って下さる御稲荷様がいらっしゃった。
CIMG4102
ちゃんといつも守って頂いてる御礼と、次の訪問先で又無事に御会いする事が出来る様に御願いを申し上げた。
その御稲荷様の反対に上行寺東遺跡が在る。
CIMG4105
これ全部張りぼて。
こんな大規模なコピーする位なら市有地を土建屋に代替して開発諦めさせれば良かった物を・・・
CIMG4106
本当に勿体ない、完璧な鎌倉時代の御寺の文化だ。残っていればどれだけ貴重な史跡に成ったか。
鎌倉市の無量壽院址に匹敵する規模と保存状態だった筈だ、横浜市が容認するまでは。
CIMG4107
この矢倉は本物。
CIMG4108
映さなかったけど隣の矢倉は色々置かれてごみごみしてた。
一頻(ひとしき)り写真撮影をしてから、上行寺を再訪して荒尾城址と思しき地形の事を御住職に報告した。
六浦訪問の目的を全て終え、少し汗ばみ夕涼みしたく成ったので野島に移動した。
CIMG4114
野島の伊藤博文公の金沢邸の縁側で海を見ながらの夕涼みと、来月、甥っ子と姪っ子を連れてキャンプに来るので、ついでに案内所に手続きの事等を確認する目的も有った。

CIMG4115
ここは無料で見学出来るし縁側に座って夕涼みしてユックリ時間を過ごせる。
CIMG4117
まぁ、解説も充実してるし。
CIMG4120
CIMG4119
CIMG4122
建物の由来や、各時期の出来事とリンクした内容の解説は読んでいて面白い。
CIMG4126
ここで松越しの海と八景島を見ながら600円で抹茶と和菓子を頂いてボ~っとしに小生はたまに来る。
CIMG4127
金沢八景の解説や、伊藤博文公の生活やここで大日本帝国憲法の草案を起草した解説が有る。
ここに来ると伊藤博文公が朝鮮の王族と非常に友好な関係を築いていて、朝鮮王族が度々、伊藤博文公の金沢別邸に遊びに来て宿泊していた事実も知る事が出来たりする。
韓国人が知っても絶対に認めたくないだろう歴史事実だな。
CIMG4129
伊藤公の御蔭でゆっくり出来た。
建物を出て、キャンプ場の下見に移動。
CIMG4134
夏島が見える。あそこにも昔は旅館が在って、そこでも憲法の草案を考えていたそうだ。
風景綺麗だったんだろうね、本当に。
CIMG4135
その夏島の前に有るのが日産自動車追浜工場、昔の本社工場。そして戦前戦中を通じて横須賀鎮守府の海軍飛行場だった場所。
CIMG4143
だから戦時中に作られた零戦の格納庫が野島に現存していたりする。
CIMG4144
まぁ、今では存在を余り知る人はいない。
ここまでの徒歩5分程度の間に沢山の紫陽花を見る事が出来た。
CIMG4139
CIMG4138
CIMG4137
CIMG4140
来週位には鎌倉の紫陽花も満開に成るだろう。
零戦の格納庫の前一帯がキャンプ場に成っており、予約すると誰でも利用する事が出来る。
CIMG4148
その奥には野島青少年研修センターと言う場所が有り、20人以上の団体から宿泊する事も出来る。
CIMG4157
大学生のサークルやボーイスカウトが良く利用するそうだ。
素泊まりなので食事は付かず、自炊。
施設内に炊事場も有るが、キャンプ場を予約しておけばBBQ施設を使う事も出来る。
詳しい事は職員に聞くかネットを見ると良いと思う。
CIMG4159
キャンプ場について職員さんに色々と質問をして無事確認終了。
後は当日の天気が良い事を祈るのみ。
てな訳で野島の野島稲荷神社に移動した。
CIMG4161
以前も個別の紹介記事で書いたが、ここは紀州徳川家の崇敬を集めた御稲荷様だった。
何故なら現在のキャンプ場の辺りには紀州徳川家の別荘が在ったのだが、それを知る人は今の横浜市民には少ない。
CIMG4163
大きくも小さくも無い神社だが、森に囲まれ雰囲気は良い。
御狐様が出て来そう(笑)。
小生が子供の頃はこの社殿の裏側の崖に掘られた階段を上って頂上まで行く事が出来たのだが、今は危険個所扱いされ進入禁止にされてしまっている。
CIMG4166
神様に御祈りを終えて野島を後にした。
帰りしな家系亜種の六角家の直弟子が営む金八家で家系拉麺を食べた。
CIMG4168
ここの店主が修行した六角家は、元々は家系拉麺の創始者の吉村家の吉村実社長の直弟子で信頼され本牧家を任せられていたのだが、有る時に従業員全員を引き抜き退職、吉村社長の恩を仇で返す様に六角家を開いた神藤と言う人間の店だが昔は吉村社長の弟子達の家系の中でも有名な店だった。
まぁ因果応報と言うか、現代では吉村社長の直営店や別の吉村社長の直弟子の店等に取り囲まれ閑古鳥が鳴いている。
しかし六角家は新横浜ラーメン博物館のオープン当初に入店したり、昔は人気だった。だが吉村家等が更に味に研鑽を積み発展した中で六角家は勢力を縮小して現在に至る。
吉村社長と全く関係ない工場でスープを作る❝偽家系❞のチェーン店が最近は多くなっているが、金八家の店主は言い換えれば❝本物の吉村社長の孫弟子❞で本当の家系❝亜種❞の拉麺を食べられる店な訳だ。
CIMG4169
内装はとてもオシャレ。
CIMG4170
これなら女性にも入り易いだろう。
CIMG4171
店のキャラクターも可愛いな。
CIMG4172
味玉増しで注文、本流の吉村家や杉田家と比べるとアッサリ目、醤油タレの強さは控えめで確かに女性向けなのかも知れない。
家系総本山吉村家とは少し違うが、これはこれでちゃんと血統を受け継いでいる分家の流派の味として家系のセオリーを守っていて美味しい。
店員の皆さんも明るく、雰囲気も良かった!
まぁ、師匠は不義を働いたかも知れんが、更に厚顔無恥な工場生産スープの偽家系に対抗する勢力として家系を守って欲しい!
改めて言う、とても美味しかったですよ!

この後スポーツジムに行き
運動して風呂入ってサッパリしてから帰宅した。
良い休日を過ごせたし、又、素晴らしい和尚様と御縁が結べた事が嬉しかった。
次の休日はどんな人に出会えるんだろう?

初めて卒倒した人がAEDで救助されてるのを見ました。
AED フクダ電子様画像拝借 久良岐のよし
昨日、出勤前に商業施設で後期高齢者の男性が倒れてAEDで救助されているのを見ました。
小生が見た時には自立呼吸をしていたのですが、意識が戻らない様でした。
この時に初めて知ったのですが、AEDは電気ショックだけでなく❝心電図❞の計測機能や❝救急救命処置の音声ガイダンス❞が流れ、素人の救助者が救護活動を適切に行える様にサポートする機能が備わっているんです。
これには不謹慎ですが非常に感心しました。
その施設のスタッフ数名がAEDを使い、必死に名前を呼んで❝命を繋ぐ呼びかけ❞をしていました。
AEDからは大凡(おおよそ)以下の様な内容で音声指示が流れていました…
「電気ショックの必要は有りません」
「心電図を計測します、身体から離れて触れないで下さい」
「人工呼吸をして下さい」
…命を繋ぐ機材でも、それが有効活用されなかったら意味が無いので、非常に有用な機能だと思い感心しました。

後は、患者さんが無事に意識を取り戻して下さり御家族に元気な姿を見せれる事を小生は願うしか出来なかったので、小生が信仰する日本の神々と仏様達、歴史偉人様達に患者さんが意識を無事に取り戻す様に願いました。

このAEDの機能は日本の歴史と同じできっと、多くの人の命が失われた上で追加され発展した機能なんだと思います。
過去に素晴らしい蘇生機材の機能が緊急時に一般人に使い方が解らず活用されず、きっと多くの心停止した助かる筈(はず)だった命の犠牲の上で追加された機能なんでしょう。
それはAEDを開発してきた技術者達の命を無駄にしたくないと言う義侠心と開発に対する情熱の結果なのだと思います。

我々、日本人の現在の生活もAEDの発展と同じです。
先人達の多くの失敗と災難と悲しみ、そして一握りの幸せの上で経験と技術と文化を積み重ねて成立している物なんです。
ですから歴史は技術の蓄積と同じく人間の失敗の歴史を知り、起こりうる天災に備え失敗を回避する手段を知る手掛かりでも有る訳です。
そして、その記録媒体に成っているのが日本全国の神社や御寺や歴史史跡で、それ等の宗教施設の伝承や古文書の中に過去の災害の情報が蓄積されている訳です。
東日本大震災で津波の被害が拡大したのは、昭和に成り無教養な政治家と教育委員会と土建屋が建設利権を優先させて先人達が残して下さった「これより下には津波が来るから住んではいけない」と言う❝多くの石碑の警告❞を無視して縄文時代に海だった低海抜平野を宅地開発した結果の❝人災❞でした。
大阪市内にも江戸時代の津波の被害を伝える多くの石碑が街角に建っていますが、その存在を知る人も戦前の繁体字の漢字の文章を読める教養が有る人も少なくなってしまいました。

無教養、歴史に対する無関心は罪です。
過去の人々が神社仏閣や史跡や街頭の石碑に残してくれた災害のメッセージを活用出来ませんから。
それと同じように素晴らしいAEDと言う装置が有っても使い方が解らなければ意味が無い訳で、その問題を解消した開発者サンは本当に尊敬に値すると思います。
政府は開発した業者では無くて、こう言った発想を実現した名も無き技術者を探し出し表彰するべきだと思います。
そして政治家と教育委員会は建設利権を抑制し、過去の史跡を大切に活用し先人の災害の経験から備えを構築するべきだと思います。

横浜市教育委員会、とりあえずオマエ等、金沢区並木町~八景島界隈の埋め立て地を住宅地にして人を住ませるのを止めさせるか埋め立て当初の計画通り堤防を再構築する様に無文化市長に過去の津波踏まえて提言しろや! 並木一帯の地盤は大地震が来る度に沈下するんだよ!その三浦半島東西で沈下と隆起する歴史を報告しろや!
城ヶ島砲台の放棄の歴史、そして三浦半島の相模湾側に何で磯が多く東京湾側に崖地と浜が多かったか、埋め立て前の地形を区分して報告しろ!
何の為に歴史を管理してんだオマエ等! 
応長の大津波の事、富岡八幡宮の本社である金沢区の富岡八幡宮つまり源頼朝公が西宮から勧進した蛭子神様の御社の歴史を調べて活用しろやボケ!
オマエ等大人数いる癖に、たった数名のAEDの開発した技術者や汎用性を追加した技術者より日本人の役に立って無いよな?
反省しろ!
そしてAEDと神社を見て良く自分達の行政に対する惰性で業務を行う姿勢と思考停止を省みろ!

さて…
津波発生の可能性が有る金沢区富岡~並木~長浜千軒の地域に津波発生の100年前に海を鎮める蛭子神様を勧進された源頼朝公、そして蛭子神様、そして医療の神でもある素戔嗚尊様と五十猛様、どうぞ昨日の患者さんが意識障害無く救われます様に御加護下さいませ。

この日の行動の結果を先に行ってしまうと朝の7時半から夕方5時まで、略(ほぼ)ずっと登山と下山を繰り返していた。
…スポーツジムよりキツイ。しかも一睡もしていなかった。

前日仕事を終え1時頃に帰宅してから食事と入浴、その後、自分の事を色々やっていたら早朝5時に成っていた…
「仮眠したら又昼まで寝て休日1日無駄にする」
…と思ったので“必殺徹夜強行軍”作戦を決行。
早朝6時半に出発したので一般道でも混まず、横浜から伊勢原市まで50kmは離れているのを、ものの1時間で到着できた。
CIMG3133
最初に通り道に在る洞昌院公所寺を参詣した。
CIMG3146
ここは小生が尊敬し毎日遥拝している歴史偉人の一人である太田道灌公の菩提寺であり、太田道灌公とライバルだった北条早雲(伊勢盛時)公と太田道灌公の親友の禅僧出身の俳人、万里集九とで太田道灌公の首を切り盗られた後の胴体を葬り供養された御廟所が有る。
CIMG3147
今でも御廟所の前には北条早雲公と万里集九が手植えした松の枯れ朽ちた大きな幹が保護されている。
CIMG3143
公所寺には道灌公の御位牌と共に歴住の御位牌を祀る御堂も在る。
CIMG3142
そして公所寺は見事な枝垂れ桜が有り今時分、花を満開にした姿を見せてくれるのを知っているので道灌公への日々、御守護頂いている御礼を伝えに御参りし、そして、ついでに枝垂れ桜も撮影して来た。
CIMG3138
その後、再び車に乗り込み大山へと桜を見に向かった。
CIMG3152
大山国定公園の山麓には所々綺麗な桜の樹が満開に成っていた。
CIMG3149
そこかしこに立派な桜が咲いている。
CIMG3150
大山は山の頂上に霊石が有り江戸時代は石山権現と呼ばれた。大山の存在自体が縄文時代からの聖地だった。
CIMG3157
だから今でも多くの御社や石仏が有り、神職、僧侶、修験者達そして庶民が聖地として身を清めた滝が現在も沢山存在する。
古代に頂上に存在した祭祀場を起源に持つ延喜式内社の相模国十三座の内の一社である大山阿夫利神社と、天平勝宝七年(西暦755)年に大山阿夫利神社の別当寺として日本初代の大僧正と成った行基大僧正と東大寺の大仏建立に尽力した良弁僧正が開いた大山寺の参道が現在の登山道の下半分だ。
CIMG3160
そこには古代~人が通い、江戸時代には大いに栄え宿坊が立ち並び、お伊勢参りや出雲大社詣でと並んで多くの人で賑わっていた。そんな場所だった。
CIMG3161
CIMG3316
現在でも参道には沢山の御土産物屋さん、宿坊が営業している。
大山は古代からの水の聖地、そして海上交通のランドマークとして武士や海産物関連の商人や漁師、廻船問屋つまり現在で言う所の商社マン達から崇敬を集めた。
CIMG3159
だから多くの人間が山頂の奥院目指して参拝に来るので山を案内する修験者や僧侶や神職が先導師(関西で言う御師)と言う今で言う聖地巡りのツアコンを兼ねた宿屋を営業していた。
CIMG3165
だから今でも其(そ)の文化は続いていて多くの宿坊が営業し温泉街として情緒豊かな風景を留めている。
CIMG3166
昔から清涼な水を利用した豆腐料理を出す茶屋、清酒の蔵元も営業している。
昭和初期まで大山特産の土産だった“コマ”を製造販売している店も減ったが今も有る。小生が子供の頃は目の前で職人さんが木を削りだし塗装をする所を見学出来た。
そして山伏でもある修験者達は優秀な猟師でもあるので猪鍋や鹿鍋を出す茶屋と宿坊も多く、美味しい聖地でもあるのだ。

さて、今回の目的は主に4つ有る。
①大山の“普通の桜”と“樹齢1000年を超すという大山桜”を見る事。
②子供の頃から何回も参詣に来ている大山阿夫利神社なのだが何時(いつ)もケーブルカーでしか登っておらず下社までしか行った事が無いので山頂の奥院へ初登頂し奥院の御朱印を頂きたい事。
③駐車場より先、昔からの参道の登山道の風景を写真に収める事。
④猪鍋を食べる事。
参道へは到着したものの、問題はここからだった。
実は大山桜の場所はネットで検索してもGoogle Mapにも出て来ない。何故なら山林の中に自然に根付いた大樹で遊歩道などそもそも整備されていなかったから。だから大山桜を見るには地元の観光案内所で生き方を教えて貰うしか無いのだが、早朝の7時半にやっている観光案内所なんぞ田舎に在る訳が無い。
なので先に神社を参拝して、その後に標高約1300mの山頂の奥院(本宮:江戸時代まで石山権現と呼ばれた山頂の聖地)を御参りしてから下山して観光案内所に行く事にした。
※Google Mapには見学後、小生が位置を登録し公開して置きました。
CIMG3172
さて無論、早朝なので大山阿夫利神社下社までの登山ケーブルカーも運航していない。
…下社まで選択の余地無く強制徒歩登山決定(笑)。まぁ、歩く心算だったが甘えは許されない訳だな。早くケーブルカーにも乗って写真を撮りたいと言う気持ちも有ったので、甘い自分が出ない時間帯で良かったと思う。
なんでケーブルカーに乗りたかったかと言うと下社までも可也(かなり)キツく疲れるのも当たり前だが、何より昨年秋に新しく導入された車両と言うのが鉄道の2016年度グッドデザイン賞か何かを受賞しているのを知っていたので、以前の車両とどう違うか早く見たかったからなのだ。
しかしまぁ、諦めて帰りの楽しみにする異にした。
CIMG3170
大山ケーブルの駅の横には小さな神社が在る。
CIMG3171
悪縁邪念を断ち切る神社なのだが…早々に甘える邪念を払う御利益が有った訳だ(笑)。
CIMG3173
往路は初めて山腹の駐車場から徒歩で頂上の奥院まで登る訳だが、大山ケーブルの横に昔からの登山道が有る。
CIMG3174
左に行くと女坂、比較的登りやすい道として有名。
右を行くと男坂、結構キツくて登山者に有名。
小生は勿論、男らしく男坂…では無くて体力温存を考えて女坂を選んだ(笑)。
CIMG3175
階段上がって直ぐの所に廃屋が有った。
昔は御土産屋さんとして営業していたのだろう。開いたままの雨戸から中が見れた。
CIMG3176
う~ん…妙に生活感が有る。本当に廃屋のはずなんだが、最近までj人が居た様な気配さえ有る。
洗濯物とか有るし。商店に良く有る飲料用冷蔵庫が有るので、やはり昔は土産物屋さんか何かだったのだろう。
ケーブルカーの開通で客足が遠退いたのか、御店主が山を下りて御子さんと同居する事に成ったのかは分からない。
中腹の大山寺と大山阿夫利神社“まで”の参道の風景は体力的にも余裕が有り楽しめた。
CIMG3177
まず最初に登山客が出迎えてくれるのが“追分社(おいわけしゃ)”の八意思兼神だ。
この神様は天照大神の参謀総長の様な役割の神様で小生が崇拝する地元の神様の内の一柱(神様を数える単位は柱)だ。
思金神とも書く。
“追分”と言うのは道の分岐点の事。
この男坂と女坂の分岐点に思兼神が祀られていると言う事は昔の人は、この思金神を通じ登山者に対して…
「自分の体力と良く相談せいよ」
…と言う意味合いも有り追分社として御祀りしていたのだろうか?昔の宮司様達は今の神社と少し違って神様の役割を万能とは捉えておらず、それぞれの役割が有ると認識していたので、この神様に礼拝する事によって登山者自身に考えさせる機会を作る事で神様に御利益を発揮して貰い巡礼者達を守って貰おうとしたのかも知れない。
CIMG3180
この辺りは江戸時代に整備された石段も状態が比較的良く歩き易かった。
CIMG3181
渓流の景色も良い。
CIMG3182
CIMG3185
そして道端の草花がとても綺麗だった。
CIMG3184
CIMG3187
CIMG3188
源頼朝公も登った多くの可愛らしい石仏や深い渓谷の風景が登山を単調なモノにはさせず小生を楽しませてくれた。
CIMG3190
昔は多くの人がここを通り、お参りしたんだろう。
CIMG3192
CIMG3193
CIMG3195
大山の空気も聖地だからと言うよりは神奈川県の内陸部の海側に面した山の中で一番高い場所なのと国定公園で自然林と水源が守られているので“ヒンヤリ”と“凛として”いて“清々しい”空気が漂い、汗が噴き出す体を冷やしてくれるので心だけは清涼な感覚を得る事が出来た。
CIMG3189
 少しづつ参道の階段の角度も急に成ってくる。
CIMG3196
でも登山客は道端の石仏や樹木の伝承を書いた看板を読む為に立ち止まると良い休憩に成り、体力も回復しながら昔話も楽しむ事が出来る。
CIMG3198
CIMG3199
 CIMG3200
CIMG3201
そうこうする内に最初の目標地点、大山寺に辿(たど)り着いたのだが、こんな余裕は大山寺や下社までだと言う事を未だ、小生は知る由も無かった。。

CIMG3203
CIMG3205
 大山寺の手前には上の写真の前不動様と…
CIMG3204
 …現在は廃墟に成っている昔の大山寺の庫裡、来迎院(らいごういん)が在る。
来迎院は庫裡だったのだが、登山客の為に宿坊として機能していたそうだ。現代では山の下に新しい来迎院が建設され、登山客の減少も有り閉鎖され廃墟に成った。CIMG3207
庫裡の横の崩壊した部分には、過去帳と思われる文書が放置されていた。良いのかなコレ?
CIMG3208
前不動明王の横には元々二重の滝の横に現在は二重神社に明治時代にとって代わられた龍神堂が移築保護されている。
CIMG3209
廃仏毀釈の悪影響だ。名前が堂と言うだけで仏教施設として排除されたのだが、実は徳川家光公が二重の滝の横に御堂を寄進するまでは二重の滝自体が聖地として存在しても、宗教施設は存在しなかった。
CIMG3210

良弁僧正が神様より霊感を授かって開かれた聖地が二重の滝の霊場だったのだから、そのまま他所の地域と同じように「龍神社」に名前を変えるだけで良かった筈なのだが、特に八大竜王関連の宗教施設は牛頭天王社や祇園社と同じく弾圧の対象に成っている場所が多い。
先に述べたが大山は縄文時代から山麓の多くの滝が信仰対象に成っていた山頂の霊石が御神体崇拝対象だった聖地で延喜式神名帳の阿夫利神社が形成された。
古代から山頂では祭祀が行われており縄文~古墳時代の祭祀遺跡が出土している。
山頂からは海洋生物の化石も出土しする古代の海底だった地盤なのだが、ここはフィリピン海プレートと北米プレートがぶつかり合いせり上がる巨大な断層帯な訳だ。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
気象庁が公開している「地震の発生のしくみ」を見ると解り易い。正に大山と富士山は同じプレートの境目の上に存在している。神話で大山祇大神(おおやまづみおおかみ)の権化とされる大山と、此花昨夜媛(このはなさくやひめ)の権化とされる富士山が父と娘の関係なのも、あながち間違いでは無い訳だ。
そんな地理上のパワースポットで有るからこそ、水が豊富で特殊な三角形のランドマークに成る山に成った訳だ。
だから自然崇拝の対象にも成り、古代人の聖地に成り奈良時代~鎌倉時代~室町時代~安土桃山時代~江戸時代を通じて文化と歴史の蓄積で醸成された精緻なな訳だ。
CIMG3211
そして、平安時代には良弁大僧正が日本神話を大切にされた方だった事と古来の聖地をちゃんと認識しておられたので天平勝宝七年(755年)に神宮寺として大山阿夫利神社と同じ御神体を石山権現として神仏習合の形式で奉戴する大山寺が造営され、第三代住職を弘法大師空海和尚が勤めた歴史が有る。
当初は現在の大山阿夫利神社と同じ場所に仲良く一対(いっつい)に成って存在していた。
弘法大師様も尾張国一之宮真清田神社で庶民の為に雨乞い神事を行ったり、神奈川県では日本武尊の聖地を回っていたり、そこかしこに牛頭天王社や太子堂を造営した神話と仏教を両方共に大事にされた人物だった。
大山の聖地も古代に突然完成し明治に至った訳では断じて無い。
仏教も日本文んか形成に大いに貢献している事を、現在の神社本庁のトップである石清水八幡宮の田中恆清宮司も重視しており神仏習合の価値観を大切にしておられる訳だ。小生の祖先は大宮司だが、歴史を理解しているから歴代の天皇や尊敬する武将達と同じく御寺も大切に思う。
CIMG3212

大山寺は明治時代に神仏分離令と廃仏毀釈によって現代の場所に移転した。
寺に着いて直ぐに目にした、廃仏毀釈のせいで荒廃してしまった大山寺の管理を行う来迎院(らいごういん)の朽ち果て半壊しているの様子が痛々しかった。
CIMG3213
この日、幸運な事に大山寺は国宝の御本尊の不動明王様が御開帳の日だった。色々と管理人の女性職員の方と雑談をして予備知識を御教授頂いて情報収集をして、御朱印を御願いしてから書き上がるのを待つ間に御本尊を拝観させて頂いた。
CIMG3214

堂内撮影禁止なので写真に収める事は成らなかったが、とても威厳の有る不動明王様だった。
この御寺が今の阿夫利神社と一体だった時代に源頼朝公や太田道灌公や徳川家康公が同じ御本尊様を御参りしたと思うと何とも光栄な体験をさせて頂けた。image
参拝と堂内観覧を終え、御朱印を頂いてから再び登山を始め阿夫利神社下社を目指した。
CIMG3216
途中、登山列車の大山ケーブルの新型車両を参道の荒れ道から見る事が出来た。CIMG3219
外観は余り奇抜では無かったので「乗って見ないと判んねぇ~なこりゃ」と言う感想しか湧かなかった。
つがいのカエルも見る事が出来た。
CIMG3215
けど余り可愛くないな(笑)。両生類と爬虫類は可愛いと思わない(笑)。
でも、雨の使者でもあるので雨乞いの神様でもある大山に相応(ふさわ)しい生き物のつがいを見る事が出来て幸運だったのだろう。
CIMG3221
(小生にとって)少し苦労して下社の直ぐ下の茶屋の場所まで辿り着いた。
CIMG3223
ここまでユックリ来たので1時間半位はかかっただろうか?
CIMG3226
茶屋の名前は「さくらや」と言う。
CIMG3224
大山に来る度に名物の“豆腐ソフトクリーム”を食べる店で、店員の女性は名物姉さんに成っている人物だ。
さくらやに意味の解らない暖簾(のれん)が掛かってた…
CIMG3230
「ルーメソ」
…と書いて有る。珍しくてTVでも紹介されたそうだ。
店の姉さんに知ってるか?と聞かれて気に留めた事も無かったので改めて「何だろ?」と聞いた所、首を横に倒して見てみろと言われた。言われた通りにすると…
「ラーメン」
…と縦に書かれた「幟(のぼり)」を横にして暖簾に使ってしまったらルーメソと読めて人気が出たのでそのままにしているそうだ(笑)。
とりあえず姉さんに何時(いつ)も通り呼び込まれ、豆腐ソフトクリームを注文した。CIMG3225
姉さんが汗をかいた分の塩分補給に漬物をサービスで出してくれた。
疲れたし、まだ朝食も食べていなかったので朝食もとる事にした。
CIMG3228
ユカリご飯と味噌オデン(蒟蒻の田楽)を注文、何ともヘルシーな朝食と成った。
食事を終えて出発しようとすると、山頂に行くならコレ持って行きなと姉さんが気を回して登山用のストックを持って来てくれたのだが…
「アンタにはコッチの方が似合う」
CIMG3254
…と、修験道の山伏さん達行者が使う「金剛杖」を渡された(笑)。
まぁ、小生は見た目が厳(いか)ついから確かに似合うだろう。CIMG3229
小生も異存無いので有難く“さくらや”の姉さんの好意に甘え、装備を一つ増やして登山に備えれた。これが帰路下山する時に大活躍してくれた。
姉さんありがとう!
CIMG3232
登山する前に、当然、大山阿夫利神社下社を参拝した。
参道の階段に台湾の会社が奉納した石柱が有るのに気が付いた。
CIMG3233
今まで気が付かなかった。先日、台湾人の友人夫妻が横浜に遊びに来てくれたので、台湾の二文字が直ぐ目に留まった。まぁ、「台湾省」と書いて有るのが小生的には微妙なんだが。そこは中華民国台湾で良いんじゃないのか?
CIMG3234
この神社は夏と秋の期間限定で麓の参道の宿坊街からここまで、燈篭で照らす御祭りを開催している。
※詳しくは以下の過去記事を御覧下さい。

大山阿夫利神社下社の社殿の下には霊水の泉が有り、そこで霊水を汲み取る事が出来るし飲む事も出来る。美味しい。
CIMG3240
 御参りし、この神泉の水を飲んでから神社の職員サンと話し、前日の雨を踏まえて本来の頂上の奥院を目指す参道と、見張る台経由のなだらかだが遠回りの道とどちらが良いかリサーチ。
正式な参道で頂上を目指すことにした。
奥院への登山道の入り口には浅間神社が在り、大山祇大神の娘の姫神様である此花昨夜媛様と磐長媛様が祀られている。
CIMG3243
浅間神社は一般的に此花昨夜媛様を祀っている場所が多いので、珍しいと思う。
CIMG3245
此花昨夜媛様は美人だったらしい。磐長姫様はブ〇だったのだが永遠の寿命を持つ媛神様だった。
二人とも天皇家の祖先神である瓊瓊杵尊様の御妃様に成る予定で父神の大山祇大神様は 準備していたのだが、瓊瓊杵尊様が磐長媛との婚姻は拒んだので、以後、天皇家の寿命は一般人と同じに成ったと神話に書いて有ったりする。
う~ん、小生は性格が二人とも同じ程良いのなら、健康さの強い磐長媛の様な人と結婚したいとも思う。まぁ、一番大切なのは気が合うかと価値観や趣味をお互いに理解出来るかとかだよね。

CIMG3247
まぁ、無難に正式な参道の方を選んだのだが、しかし、これが失敗だった。
CIMG3249
登り始めは良いのだ。
石段を登って直ぐの所には旧白山神社の在った場所が有る。今は石碑だけ。

CIMG3250
この先から直ぐに、下社までの参道とは難易度が違う事を理解する事に成る。
CIMG3252
江戸時代には伊勢神宮や出雲大社に比肩する程に人気の聖地巡礼の場所として庶民や徳川幕府によって整備された石畳も、明治時代の廃仏毀釈後に神社と御寺が無理矢理分裂させられ大山信仰が衰退してしまうと、石畳の修復もままならず、現代では降雨による土砂の流出で石段の石材が全体的に崩落し歩き辛い障害物でしか無くなっていた。

CIMG3257
仏教と一緒の信仰対象だった事も有るし、自然崇拝では無い神社の社殿を重視した明治政府政府の宗教政策では大山の頂上の聖地への参道整備を支援しなかったのだろう。
これはプロテスタント派キリスト教を模して日本の宗教改革を目論んだ森有礼が悪い。
とは言え、途中で面白い場所も有った。
CIMG3255
夫婦杉。
CIMG3256
縁起の良い御神木の在る場所を通れて嬉しい。
しかし短気で根性無しの小生である。
大山阿夫利神社奥院の在る頂上までは都合28町目(富士山で言う所の1合目とかの単位)まで有る。
10合目で疲れた。
出てくる言葉は「怠(ダル)い」「歩きにくい」これしかない。CIMG3258
実際、すげ~歩きにくいし。最早、下社までの参道の頃の様に整備された状態を辛うじて留めている石段は何処にも無い。小生の様な山城以外に山を登らないトレッキング素人にとっては只単に質(タチ)の悪い岩山化している。
最悪だった。しかも前日の雨で泥濘(ぬかるみ)まくり。
歩き易くする為(ため)にジーンズを膝下までたくし上げている脹脛(ふくらはぎ)は泥だらけ。
景色を楽しむ余裕なんぞ1mmも無い。

しかも周りの登山者は皆、登山玄人っぽかったが年齢的には見た目60歳前後。
あとたまに、30歳位の美しい女性友人ペアとか。
女老人に体力で負けたくない。
チャリチャリ熊鈴鳴らし歩くオッサ…紳士を抜き去ってから、ほぼ同世代の男性と女性の混合チームと会い雑談をした。やはり小生と同じく素人で「風景を楽しむ余裕なんかない」との事(笑)。暫し話してから先に行かせて頂いた。
CIMG3259
江ノ島が見える。
まぁ、悪路の先にはちゃんと休憩出来るベンチが有る場所も有ったりして、人間と言うのは椅子に2~3分座ったり写真を撮ってる間にも体力がちゃんと回復するのだなと実感出来た。
CIMG3260
牡丹石なんてのも有った。
CIMG3262
CIMG3261
思うに富士山の噴火の際に積もった火山灰に、火山弾が飛んできてメリ込んで、そのまま固まった石なんじゃないだろうか?これに付いては知識が無いので只(ただ)の推測でしかない。
CIMG3263
CIMG3264
天狗の鼻突き岩なんて奇岩も有った。
大山は天狗信仰の場所でもある。大山の御祭神にOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)と言う龍神様がおり、まぁ龍神なので水神様な訳だ。これが先に説明した二重の滝の神様や龍神堂の八大竜王の本来の神様の名だろう。
そして、同じく山岳信仰の場である東京都多摩地方の高尾山も同じく“たかお”の地名と“天狗信仰”の場でもあるのは無関係では無いだろう。そんな事を考えながら良い休憩が出来た。
CIMG3265
CIMG3267
何と、この石柱は強力(ごうりき=運送屋)が人力で担ぎあげたそうだ。まぁ、それ以外に運搬手段が無いのでそうだろうが、凄いな。
江戸時代の飛脚の写真なんかを見ると、とんでもない体系だったりする。筋骨隆々で皆、ヘビー級の総合格闘家の様な体系をしている。だから江戸時代の官僚化した武士は絶対に火消しや飛脚なんかに喧嘩を売らなかったそうだ。
まぁ、相手によっぽどな落ち度が無ければ刀抜いて町人にケガさせた時点で武士も重罪に処されるから、素手で投げたり殴り合ったりしたら町人の方が凄まじく強かったりしたんだろうな。
CIMG3268
途中、富士見台は生憎の曇天で富士山見えず。
思わず「チクショーメ‼」と、解る人には解る言い回しで言いそうに成る残念感。
実際は「富士山見えねぇ~し!」とボヤくと…
小生より少し若い見目麗しい女性ペアが「ですよね~」「下は良いけど上は全滅ですよ~」と素敵な情報を提供して下さった。
…しかし綺麗な女性と話した事で士気は下がらず、熊鈴のオッサン(言っちゃった)に追いつかれる事も無く山頂奥院まで登り切れた。熊鈴のオジサン、ありがとう。御蔭でダレる事無く登り切れました。
勝手に目標作れた楽しかったし(笑)。
CIMG3269
山頂の手前27町目で鳥居が見えて、ちょっと安堵感が湧く。
参道の石畳も何となく原型を留めた姿が復活する。
CIMG3270
頂上に登ると前宮
CIMG3271
CIMG3272
拝殿?
CIMG3273
奥院が在った。
CIMG3278
先に御参りを済ませて、風景を見たがやはり富士山は見えない…
CIMG3275
でも看板には「振り向けば富士山」と書いて有る。CIMG3274
…悪天候は想定していないのね(笑)?
スポーツジムで2時間以上トレーニングしたよりも汗だくだくに成っていたので、脱水症状予防に売店でスポーツドリンクを買った所、不愛想なオッサンがウンともスンとも言わず金だけ受け取り黙ってドリンクを置いて奥に引っ込んでしまった。
頂上で商売敵もいなので殿様商売が罷(まか)り通るんだろうな~。でもまぁ~こんなもんだろう。CIMG3277
富士山は見えなかったけれど、伊勢原市や厚木市、綾瀬市の市街地は望む事が出来た。
残念ながら小生が大山阿夫利神社と同じく毎日御祈りする有鹿媛様と有鹿彦の夫婦神様がいる有鹿神社の本宮と奥宮の在る海老名市や相模原市は見渡せなかった。

帰路は石ゴロゴロの悪路を歩きたくないので見晴台経由で二重の滝を通るルートで阿夫利神社下社まで戻る事にした。
この選択が又失敗だった。
実は、そちらの道は坂は緩やかで岩も無いのだが、岩が無い分地面が土で、更に手すりも林道両脇に掴める木も無く横は断崖だった。
つまり前日雨だったので泥濘(ぬかる)んでいて「危険極まりない」チョイスを小生はしたのだ。これ、往路を見晴台経由にして帰路を正式な参道で帰ったらベストだったんだな。
そんな訳で帰りの道は“見晴し台”に辿り着くまで写真撮影する余裕すら無かった。
帰路、途中で御爺ちゃん達が前方を歩いているのに出くわした。歩調を合わせていたら「若い人お先にどうぞ~」と言って皆さんが道を譲って下さった。
「何かすいません」と思いながら「ありがとうございます~」と挨拶して、御老人集団を追い越した。
途中、更にデンジャラスゾーンに遭遇。
もう、道が危険すぎて手で掴む為の鎖が設置して有るエリアが3か所位。
しかし、小生がビビったのはこんな場所ではなくて…CIMG3280
一番安全なはずの見晴台の休憩所だった。
「熊出没注意」の看板
CIMG3282
…ソンナん出たら俺でもどうにも何ねぇ~し(;´・ω・)!
季節はもう春。熊も起きだして来る頃なのだろうか?マジ怖い熊。
昨年の山梨県の標高1600mの御坂峠に在る御坂城址に登った時も怖かったのは熊だった。
最近の熊は熊鈴にも慣れて、「熊鈴の音=エサ(人)が来た」と認識していると学者がTVで言っていたのは、丁度御坂城址に登城した2週間前に熊に人が食い殺される事件が頻発していた頃だった。もう熊マジ怖い。

でも付き合ってから独裁者に変貌する女性も同じ位怖い(笑)。
CIMG3283
そんなコンナで歩いていると道も再びなだらかな場所が増えて来て、早歩き位でも安全な路盤、鉄の手すりまで登場してペースを早める事がが出来た。
う~ん、無駄に「成し遂げた」感が有ったな。
CIMG3284
下社の近くまで来ると、二重の滝が在った。
ここが大山阿夫利神社の御祭神の内の一柱である高龗(タカオ)神様の聖地らしい。
江戸時代まで、大山阿夫利神社に参詣し頂上を目指す庶民や修験者達は、この二重の滝で滝行を行って禊(みそぎ)をしていたそうだ。
CIMG3286
江戸時代位までは水量が豊富だったのだろう。
CIMG3288
CIMG3289
この二重社の場所に、本来は徳川家光公が建立した大山寺の前不動明王横の龍神堂が建っていた訳だ。
CIMG3293
今では瀑布(ばくふ)とは呼べない白糸の滝と言った形容が似合う様な上品な滝に成っていた。
滝の写真を撮影して再び下社を目指す。
もう道も歩き易い。
CIMG3294
直ぐに“さくらや”の下の登山道の終点近くに何の神様かは解らない小さな御社が在った。
さくらやの姉さんに金剛杖が帰路に大活躍した御礼を述べて、今度は下社の社務所へ向かった。
社務所の職員さんに奥院行って来た事を伝え、下社と奥院の異なる大山阿夫利神社の御朱印を漸く頂く事が出来た。
うれしい。
image
さくらやの前を再び通過する際に御礼代わりでは無いが三ツ矢サイダーを買って「又、秋に来ます。宜しく」と挨拶を交わして大山ケーブルの駅へ移動した。

帰りは疲れ切っているし、ケーブルカーの内装を確認したいので大山ケーブルに乗車した。
以前の物と比べ確かに近くで見ると鋭い外観に成っていた。
CIMG3299
内装も良い!
CIMG3300
前面の窓が天井まで広がっていて、乗客が正面に見える相模湾の遠景を楽しめる設計に成っていた。そしてカッコ良い。
CIMG3301
ふむ、確かにこれならデザイン賞受賞したのは納得出来る。

ケーブルカーを降りると、真っ先に駅横の宿坊”元滝”に入った。
CIMG3304
この店は大山名物の豆腐料理や鹿や猪(イノシシ)の鍋を提供している上に、日帰り湯をやっているからだ。
CIMG3303
とりあえず、汗ダクダク泥だらけに成った体を洗いサッパリしたかった。
CIMG3305
元滝は宿坊(御寺兼宿)だったので、昔は先導師(案内人、関西では御師と言う)を務めた家だった。御風呂入る為にアメニティの準備をして頂く間に色々と御店主から話を伺う事が出来た。
CIMG3306
身体を洗ってサッパリ出来て生き返り、さっそく湯船に浸かった。
CIMG3307
御風呂は石造り、沸かし湯だが温泉の様でとてもリラックス出来た。湯船の中で筋肉をほぐし疲れを取り体力も回復出来た。
因みに、この大山と周辺の日向薬師や七沢には天然温泉の旅館や宿坊も当然沢山有る。
風呂から上がるとさっそく“猪鍋の豆腐セット”を注文した。
この時点で14時半。良くもまぁ~徹夜のまま6時間も山の中を登ったり下りたりしたもんだ。
CIMG3310
鍋が来る。以前も食べた事が有る。
CIMG3311
関東風のスキ焼の味付けに成っていて疲れた体にはもってこいの甘さと塩分。
そして猪肉の美味い事。
この鍋は白飯がついて2000円、300円のオプションでうどんスキにする為の饂飩(うどん)、そして大山名物の豆腐が付く。
CIMG3312
とても食べ応えが有り多めの一人分と言った良い量だ。
腹も満たして満足した所で山を下りる途中の参道で留学中に御世話に成った小生の姉貴分の様な存在の先輩夫婦と自宅用に御土産を購入。
image
毎回大山に来ると姉貴分に珍味的な物を送り付ける(笑)。
今回は豆腐の味噌漬け、それと塩ようかん。
大山は水が綺麗なので古くから豆腐と蒟蒻と清酒の産地として有名だった。豆腐の塩漬けは最近、酒のアテとして注目されつつ有り、チーズの様な味わいでとても体に良い健康食品だ。ワイン好きな姉貴分には良いと思って買って見た。

CIMG3317
御土産も買い終わり参道の御稲荷様にいつも御守り頂いている御礼をして駐車場近くに戻ると、先ずは観光案内所に行った。
CIMG3318
これが期待外れで観光協会の人も詳しい大山桜の位置を解っておられなかった。しかし大山阿夫利神社の下社では無く山裾に在る社務所の裏山の林道と大山小学校の真ん中位の所に大山桜への入口の順路を簡単に書いた地図を頂いた。
これが又、間違いだった。
麓の大山阿夫利神社社務所の裏には普通の桜が見えて美しいが、これは大山桜ではない。
CIMG3153
社務所裏手を右手に進む様に道が地図に書き込まれているのだが、正確には社務所裏手の土手を登り林道に出たら一度地図とは反対の左手に行ってから山に入らなければいけなかったのだ。
CIMG3343
しかし、そんな事を知らない小生は馬鹿正直に右回り、上の写真は一度左手を見ないと気が付けない入口。
結果的に大山小学校まで行ってしまい、一番過酷な小学校周りルートを再び“登山”する事に成った。
CIMG3322
この怪しい場所から金網の紐を自分で解いて入って行かないといけない。
CIMG3323
人の気配なんか無い。
CIMG3324
暫く歩くと、炭焼き小屋の跡が見えて来た。
CIMG3325
ここから再び山登り開始となった。
山を登り始めて程無く汗だく(笑)。
元滝のサッパリが無に帰す。
しかし、この大山桜を目指す道は遊歩道が設置されていないので本当に原生林の獣道を歩く感じがして、それはそれで楽しかったが汗の不快感は如何(いか)んともし難い。
社務所から40分位歩いたんだろうか?
CIMG3327
大山桜に到着した。
残念ながら、この大樹は1週間程度普通の桜より開花が遅いとは聞いていた通り未だ3分咲き程度だった。
CIMG3328
しかしながら、その幹の立派さ、満開に成った時は優美と言うよりは勇壮な威厳を持った姿だろうと想像出来た。
小学校側から登ると下大山桜を先に見る事に成る。その後に社務所に戻る道を目指すと上大山桜を見られる。この道のりはそこそこ登山の服装と靴でないと無理だ。若い子等がノリで普段着のまま見に来たら断念する事に成るだろう。
上大山桜を目指す途中、又、綺麗なミツマタの花を見る事が出来た。CIMG3330
CIMG3333
下大山桜から10分位歩いて漸(ようや)く上大山桜が見られた。
CIMG3334
こちらは景色も良い。
CIMG3336
大山桜越しに大山の普通の桜の林、そして伊勢原市街地、奥には相模湾が見渡せる。
きっと満開の景色は美しい物に成るだろう。
来年、又、満開の大山桜に会いに来たいと思った。
CIMG3339
そこから社務所に戻るまで、また20分は歩いただろうか?
この道が又、下るのに不向きな柵も手すりも無い崖地に道がちゃんと整備されておらず落ちたら死ぬ地形だった。
CIMG3341
これ、伊勢原市さん、観光の目玉にするなら林道整備しないといつか観光客の転落事故が起きますよ?
そして社務所に駐車していた車に戻り、車を出発させ自宅への帰路へ着いた。

色々と良い体験を出来て、綺麗な空気の中で時間を過ごせて有意義な一日に成ったと思う。
道中御加護下さった大山の神様仏様に感謝。そして大山の文化と景色と遺産を守って下さっている神職様和尚様民間の皆さんに感謝!

横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
CIMG2924
昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
CIMG2925
境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
CIMG1491
※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
CIMG2917
この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
CIMG2918
境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
CIMG2919
御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
CIMG2912
御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
北条政子様木像画像
今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
CIMG2915
昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
CIMG2922
今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
CIMG2923
・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

北鎌倉駅の裏には円覚寺と言う御寺が在ります。
image
と言うか、円覚寺の境内にJR横須賀線の北鎌倉駅が開業しちゃったんですね。
image
ですから参道には踏切も在ります。
円覚寺は正式には瑞鹿山圓覚興聖禅寺と言う名前で、東日本の臨済宗の寺院に置いて2番目に高い格式を鎌倉時代に皇族将軍家に認知され、執権である歴代北条家からも、その後の室町幕府の京都の歴代将軍家からも支援されて来た由緒有る御寺です。
それもその筈、この御寺は鎌倉幕府第八代執権の北条時宗公が開いた御寺なんだから立派で当たり前なんです。
image
時宗公は、モンゴル元朝の威を借りた朝鮮半島の朝鮮人の脅迫に屈せず、中国江南地方の水軍と朝鮮の略奪と侵略目的の軍勢を相手に交戦する事を決め、日本を守った名宰相です。
しかしながら身分的には皇族将軍の陪臣と言う立場だったので、官職は左馬権守(さまのごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)、官位も正五位下に抑えられていました。
五位以上の官位でギリギリ内裏(天皇の御所の朝廷会議が行われる場所)に参内(さんだい=入る事)が出来る程度なので、日本への貢献度を考えると異常に低い官位でしょうね。
実際にやっている事は右大臣や太政大臣こそ相応な業績を残している訳ですから。
そんな訳で、没後に天皇家から征夷大将軍達と同じ従一位の官位を追贈されています。
image
さて、そんな時宗公、何でこの御寺を建てたのかと言う理由が又、坂東武者らしい価値観に基づいており素晴らしい。
元寇の乱で亡くなった敵味方の戦士の慰霊の為でした。
本来の天皇家の血を引く「武士」と呼べる人々の考え方は神道的な考え方と仏教的な倫理観が融合していて、この北条時宗公も又、桓武天皇の御子孫に当たる人物なので、敵味方の区別なく勇敢に戦った武将や末端の兵士を分け隔てなく供養なさったのでしょう。
小生が時宗公を尊敬する所以(ゆえん=本来の中国語では「だから」の意味)でもあります。
小生は基本的に源氏の歴代殿様を暗殺して来た執権北条家は大嫌いです。
源頼朝公がいたから、今日の発展は有った訳です。しかも法治主義国家の基礎を築いたのも頼朝公ですからね。
北条時政や北条義時や北条政子と言うのは不義理で低文化な人間だと思っていますが、しかし彼らが合議制による民主主義の基本の様な価値観を武士に根付かせた事で、今日の日本人の思想は有るとも思っています。
小生は北条家の中でも、北条泰時公、北条実時公、北条時宗公は特に尊敬する人物でもあります。
ですから、小生は北条泰時公と北条実時公の名を菩提寺の御住職様に書いて頂いた色紙を大切にしています。
さて、円覚寺を開いた開基様=大旦那=オーナーが北条時宗公である事は説明しましたが、開山様=初代住職の話もしておきたいと思います。
image
写真は円覚寺の山門。
この円覚寺の初代の御住職様は日本人ではありません。中国から来た無学祖元和尚が北条時宗公の要請で就任しました。
この無学祖元和尚は、モンゴル軍が日本の友邦であった南宋を攻めた際に、現在の温州にいましたが元の臣民に成るのを好(よし)とせず、日本に亡命してらっしゃいました。
これは鎌倉五山第一位、建長寺の蘭渓道隆和尚とも同じ経緯ですね。
蘭渓道隆和尚については以前、北条泰時公の菩提寺の大船に在る粟船山常楽寺の紹介を書いた時に少し紹介して有るので、興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。
←ここクリック!
さて、上の写真の通り円覚寺の山門は大変に立派な物ですが、伏見上皇の勅願(天皇の要請により祈祷や物事を成す事)で再建された建築遺産です。
実は円覚寺は大火で一度灰燼に帰す憂き目に遭っています。
それでも尚、天明年間に当時の天皇陛下から再建の要請が有ったのは、この御寺を建てた北条時宗公の日本に対する勲功の大きさと御威徳によるものでしょう。
image
円覚寺は写真の様に、歴史を余り詳しくない観光客も読めば大切さが判る説明看板が親切に設置されています。
こう言うのをちゃんと読むと、新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿にも載っていない大切な伝承が書いて有ったりして歴史好きにとっても楽しかったりするんですよ~。
image
この訪問時、2月8日は鎌倉の梅も陽当りの良い場所は七分咲き位に開いておりとても綺麗でした。
image
山門を抜けると佛(仏)殿です。
image
image
ここは大正十三年(1923年)の関東大震災で倒壊し、現在は内側は鉄筋コンクリートで再建されています。
外観は見事に旧状を留めた再建と成っていて、円覚寺の職員の僧侶の方々の文化意識の高さと、再建に尽力され費用を拠出された檀家衆の皆様に時代を経て神奈川県民、日本国民としての後輩として頭が下がる思いです。
image
最近、浜松市の禅宗の某寺が左巻き歴史学者と一緒に、天皇家が守り神として神号を追贈した織田信長公をコケにする発言をしましたが、明治以前、本来は禅宗寺院も天皇家や神道的な価値観を非常に大切にする宗派だったので御覧の通り、円覚寺の仏殿の御本尊、寶(宝)冠釈迦如来様の前にも今上天皇聖寿万歳と書いて有ります。
左巻きバカ学者は織田家や天皇家を侮辱する事が大好きなんですね、何故なら某国にはいない民草を大切にした織田家は天皇家を復権させた立役者であり、神道的な古代の儀式を復興したり朝廷内の乱れ廃れていた文化儀礼をも復興した極めて「日本の良い所」を集めた人物だったからでしょう。
さて、再建された佛殿の天井には立派な龍の絵が描かれています。
image
image
御参りした際は是非、天井を見上げて下さい!
仏殿を左手側から出ると選仏場と言う名の茅葺屋根の御堂が在ります。image
座禅を行う場でしたが、その後、座禅を行う場所が正続院に機能移転したので、ここは御堂としてのみ現在は機能しています。
image
元々は座禅を行う場であり、経典を保管する蔵としても活用されていたそうです。
image
中にはとても美しい観音様と仏様が祀られてらっしゃいます。
image
ここも円覚寺で必ず立ち寄って仏様を拝んでおきたい場所でもあります。
image
この訪問時、鎌倉の梅は七分咲きと言った所でしたが、どうやら傾向としてどの梅林も紅梅は先に開花する様です。円覚寺の紅梅さんも可愛らしく咲いた姿を見せてくれました。
可愛いなぁ~!
本当、花に例えるなら梅みたいな御嫁さんと一緒にいられたら幸せだろうなぁ~。
実を結ぶ、御互いに成長する人間関係、季節の変わり目を楽しめる人。そんな女性を連想するのは多分、変態の小生だけですね(笑)。
image
さて、一頻り(ひとしきり=頻の本来の意味は区切りの意味。現在の中国語では頻道と書いてTVのchannelの意味で使われたりもする)平地の建物を回るといよいよ、奥院に当たる黄梅院と言う建物を目指す為に、谷戸に囲まれた登坂を登って行く事に成ります。
余談ですが、ちょくちょく小生の記事に登場しますが「坂」と言う字は古代では下り坂の意味しか有りませんでした。現在は平地の意味で使われる「ひら」と言う言葉こそが本来の登り坂と言う意味の古代語で、これは琉球語や古い縄文語に通じる言語に残っていたりします。
さて、そんな訳で谷合の平(ひら)を上がっていくと途中、左手に妙香池と言う溜池が有ります。
image
現在の姿は昔の絵図から旧状を発掘復元した姿だそうです。
image
綺麗な池ですよね。
放生池と言うのは、生き物の命を大切にする日本の放生祭と言う神事仏事を行う池の事で、本来、武士にとって高級な食材だった鯉等を殺さずに放流したりする池の事です。
源頼朝公も三島大社で放生祭を行っていますし、織田信長公の青春時代の御膝元で愛妻の生駒お塁さんの実家の有った愛知県江南市の久昌寺一帯で馬を放つ放生祭を行っています。江南市の放生祭神事は、明治以降の神仏分離で神社も御寺も衰退して行われなく成ってしまいました。
しかし円覚寺には妙香池が有る事で、この説明を見て疑問に感じた人がいれば調べて仏事神事に興味の無い人も歴史偉人達の教科書には載っていない性格の側面を知る事が出来たりします。
もっとも、小生の場合は直接偉人達の関係者を訪問して、昔、どんな事をやっていたか先に教えて頂くのですが。
image
妙香池を過ぎると、上の写真の説明石柱が有る丁字路に出ます。
左手に進むと舎利殿が有ります。
image
この奥…
image
国宝指定を受けている建造物。
image
ここは鎌倉幕府第三代将軍で頼朝公の御二男の源頼朝公が南宋より贈られた御釈迦様の歯を祀っている場所です。
舎利とは「捨てる」と言う意味ですが、仏舎利と言うのは御遺体の事を指します。
仏様に成ると言う事は生物的には死んでしまう訳ですね。
成仏と言う言葉の通りでしょう。
それと悟りを開くと言うのは又、別の意味の様で、だからこそ「生き仏」なんて言葉も有るのかも知れません。
image
一般人は入れないのですが、とても立派な茅葺屋根の建物と御堂が見えました。
見るに正面の建物の作りは江戸時代の建築様式ですね。
破風が付いてますから。
でも上部の屋根は旧来の構造を模している様に見えます。
さて、門の前から御釈迦様と源実朝公(菩提寺は寿福寺)に御参りしたら、元の丁字路に戻り坂を上ると直ぐに下の写真の場所に辿り着きます。
image
ここは佛日庵と言われる塔頭で、中に開基堂が在ります。
開基堂は、その名の通り日本を守った名宰相で円覚寺を造営した北条時宗公の御廟所です。
入口の門は現在では侵入不可ですが、脇に観光客用の通用門が設置されています。
image
ここも円覚寺に来たら絶対に立ち寄りたい、小生の御勧めの場所です。
image
この写真撮影日はまだまだでしたが、今頃は梅も綺麗な事でしょう。
ここでは美味しい抹茶を頂いきながら、時宗公の偉業を思ったり静かな時間を過ごす事が出来ます。
image
御干菓子も付いてますよ!
カップルで参詣にも適しているデートコースだと思います。
ゆっくり休まして頂き、その後、時宗公に日本を元朝の威を借りた朝鮮の蛮兵の略奪侵略から守って下さった御礼を申し上げると、時宗公も「うむ」と思って下さるか「お前もシッカリやれよ」と見守って下さるかも知れません(笑)。
小生はどうだったんでしょう?
「日本の前に御前、もっとシッカリせ~よ」
と言われた気がします(笑)。
頑張ろう・・・先ずはダイエットしてムキムキマンに復活するの。
image
中心の御堂に、時宗公達の御姿を写した彫像が祀られています。
image
その左手の建物、佛日庵も入らせて頂く事が出来ます。
その手前右手にはコケの庭園が在りますが…
image
これ、笑点の林家木久扇師匠の作庭です。
正直・・・幼少期にずっと美大受験生のオネイサン達に混じって絵と造形を学んでいた小生とは個人的にセンスが合いません(笑)。コンセプト不明( ´艸`)。
佛日庵を出ると、直ぐ近くに白鹿洞が在ります。
image
現在は崩落して人が入れるスペースも無い様ですね。
image
無学祖元和尚が説法をした際に、この白鹿洞から沢山の鹿が出て来て人々と共に説法を聞いたと伝承するそうですが、これが円覚寺の山号「瑞鹿山」の由来だそうです。
この洞穴、埋もれた場所に水流の跡が在る事、手前に埋没しているものの、水を堰き止める構造の跡が在る事から、恐らく鎌倉に良く見られる洞穴式の湧水を集める井戸と溜池の跡だと思います。この水を集めて、下の妙香池等に配水していたのだろうと、城マニアの小生は考えました。
小生の推測通りに湧水が有ったのなら、伝承の様に洞穴が崩落する前に洞穴内の池で鹿達が水を飲んでいて、説法が始まり大きな声に驚いて一斉に洞穴から出て来たとのかも知れませんね。
ここを過ぎると、いよいよ円覚寺の奥院、重要な黄梅院と言う塔頭寺院に着きます。
image
ここは東慶寺の初代尼住職で北条時宗公の奥方の覚山尼様が開いた塔頭寺院です。
image
それ故、円覚寺の守護神的な位置に当たる場所なのかも知れません。
建長寺の場合は半蔵坊の神社が黄梅院の役割を果たしていますね。
image
当初は時宗公の菩提を弔う場所だったのですが、円覚寺第十五代の住職にして枯山水様式の日本庭園作庭の大家(たいか)として有名な夢窓疎石(むそうそせき)和尚が塔頭寺院としての機能を備える御堂を建てたそうです。
この夢窓疎石和尚は近江国の大名、六角佐々木家の御一門でした。
image
室町時代に入り、第二代室町幕府征夷大将軍の足利義詮公の御分骨が埋葬され、それ以後は足利将軍家の室町時代の関東における菩提寺的な宗教的な意味を持つ場所に成ったと説明が有ります。
まぁ、足利家の鎌倉時代の鎌倉に於ける菩提寺は浄明寺、そして足利尊氏公の菩提寺は長寿寺なので、二代目以降の話だと思います。
image
この日、ここでもちゃんと御参りをして、から黄梅院を立ち去りました。
image
黄梅院の山門をくぐり山を下っていく途中、下りの右手には「續燈庵」と言う塔頭寺院が在ります。
燈火(ともしび)と言う字は、仏教では教えを受け継ぐ法脈を形容したりするので、ここも昔の何(いず)れかの円覚寺の御住職様と関係の深い場所だったのかも知れませんね。
残念ながら一般人は門の近くに行く事も出来ない場所なので、写真は遠くから写しました。
さて、山門の近くまで戻ってくると、自販機や売店や御朱印受付所が在り、参道入口方向に向かって右手には閻魔堂桂昌庵と言う塔頭が在ります。
image
中には閻魔様が祀られているのですが・・・
image
御堂に向かって左手に御住職様が開かれた弓道場が在るので、御堂の内部には弓矢がこれでもかと言う程置かれていました。奉納されたと言うよりは、閻魔様に保管して頂いているのでしょうかねぇ~?
image
さて、円覚寺の説明は大凡(おおよそ)こんな所です。
実は先日の訪問で、北鎌倉駅の直ぐ裏に素敵な御茶屋さんを見つけたので前回、別個に紹介記事を書いたんですが、香下庵と言う茶房です。
image
冬期~初春の間だけ、北鎌倉名物のけんちん汁が食べられますので、御勧めです。
image
春からは別メニューになるそうですが、あんみつや御団子も美味しそうでした。
image
梅越しに北鎌倉駅と横須賀線を見られる立地の御茶屋さん、こちらも合わせて訪問されると良いかと思います。

ではでは!又、次の解説記事で御逢いしましょう!
三月中旬は忙しくてブログ書けないかも知れません、ご容赦を!





鎌倉市には稲村ケ崎と言う、風景の綺麗な歴史史跡が在ります。
昨日2017年02月15日、横浜の歴史人物の顕彰で使用する風景写真撮影も兼ねて、昼に横須賀市の田浦梅林を訪れた後で七里ヶ浜の夕陽と稲村ケ崎の写真撮影で行ってまいりました。
良い機会なので少し解説と、沢山、稲村ヶ崎から見た夕陽の写真を掲載しようと思います。
CIMG2566
この写真だと少し判り難いのですが、江ノ島の右手には富士山が見えています。
右手は七里ヶ浜と呼ばれる浜辺で、手前の岩礁は今回紹介する稲村ケ崎へと続く七里ヶ浜の一番東の端っこの部分に当たります。
CIMG2536
この七里ヶ浜はとにかく風景が綺麗なので、台湾やアジア諸国からの観光客、そして日本の若いカップルがデートに来る場所でもあります。
七里ヶ浜は江戸時代の浮世絵に書かれている富士山遥拝の名所である事も以前も紹介しましたね。
そんな七里ヶ浜を見渡す一番の場所が下の写真の稲村ケ崎(鎌倉海浜公園)です。
CIMG2520
この入口から入ると左手に小高い丘が有り、公園と道路で隔たれた切通(きりどおし)状の地形の先に鎌倉の極楽寺坂の山々が連なっているのですが、この現代の道路の切通地形は鎌倉時代には存在せず、背後の山とは一体に連なっていました。
稲村ヶ崎と極楽寺坂切通しの位置関係 久良岐のよし
こんな感じ。
当時は西側から鎌倉市街に突入するには、極楽寺坂か化粧坂の切通しを突破するしか無く、更に市街地を取巻く絶壁の山々の全山を要塞化していたので、外敵は苦戦したんですね。
そして稲村ヶ崎の地形が、どれ程に堅牢な防衛拠点だったかは下の写真を見て貰えばわかります。
CIMG2548
先は海に突き出しており、軍勢はここを突破する事は常識では不可能な地形となっています。
そして背後の山々に連なる部分は山裾を人工的に直角に近く“のり切り”されて鎌倉市街地を守る城塞の切岸(きりぎし)として機能していました。
この写真で壁面に四角い窓穴が開いているのが判りますか?
CIMG2547
実は、ここは太平洋戦争でも西側の七里ヶ浜に米軍が上陸する事を想定されていたので、稲村ヶ崎に築かれたトーチカ(要塞)の砲撃用の窓なんです。
こんな事、歴史に興味が無いと見向きもしないんでしょうが、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の着眼点は近代戦争にも通用する程に鋭い戦略だったと言う事の証明でもあります。
CIMG2550
大正時代に鎌倉の青年団が築いた史跡の石碑が公園内には在ります。
CIMG2553
そして現代では稲村ケ崎の岬の頂上へは登る事は出来ませんが、山腹の写真撮影に適した場所までは入る事が出来ます。
その遊歩道の傍(かたわ)らには水仙が植えられており、今の梅の季節の頃に咲いて良い香りを漂わせてくれています。
CIMG2554
うん、皆そろって美人さんだ!
CIMG2555
今日も良い香りをありがとうね~。
登りきると、又、石碑が在ります。
CIMG2556
北里大学の創始者、北里柴三郎先生の師匠、ローベルト・コッホ博士が来日した事を記念して北里先生と鎌倉市で建てたそうです。
CIMG2557
ちゃんと文語から現代語訳された説明も有ります。
この石碑が在る辺りで夕陽の撮影をする方も多くいます。
実は、この場所の崖側に、下の写真の穴が在ります。
CIMG2560
恐らく稲村ケ崎要塞の入口だった場所でしょうね。
現代では崩落も有り入口も狭く人が入るのは不可能な様です。
さて、話を鎌倉時代の終焉の頃に戻しましょう。
CIMG2538
新田義貞は鎌倉攻めを行いましたが・・・
巨福呂坂(こぶくろざか=鶴岡八幡宮裏手北側侵入経路)も・・・
化粧坂(けわいざか=扇谷地区侵入経路)も・・・
亀ヶ谷(かめがやつ=北西侵入経路)も・・・
極楽寺坂(ごくらくじさか=南西侵入経路)の全て突破出来ず、苦戦しました。それだけ源頼朝公が築いた鎌倉城の守りは難攻不落だった訳です。
CIMG2521
そこで、この稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投げ入れて海の神へ、潮を引かせて鎌倉への侵入経路を開く様に祈願すると潮が引き海底が露出して大軍が稲村ケ崎の海側から鎌倉市街に侵攻する事に成功して鎌倉幕府執権北条家を滅亡させたと伝承が伝わります。
・・・まぁ、これは眉唾物の脚色でしょう。
しかし、この神事は実際に行ったと思います。
実は古代から平安時代は、鎌倉時代と違って海に囲まれた扇状地の様な湾の様な地形に侵入する経路は、海沿いの崖に切通しが作られた様です。
これは古代の東海道が残る、鎌倉市材木座~小坪の住吉城址と海前寺の切通しの事例を見ても明らかな歴史事実です。
恐らく新田義貞は、極楽寺坂や化粧坂の切通しを攻撃し北条家の注意を引く間に、工作兵を用いて稲村ケ崎の岸に兵士が通行可能な切通しを建設したのだと思います。
そして、そこを通行する際の安全祈願として神事を行ったのだと思います。
CIMG2549
近くに寄ると分かるのですが、特に上の写真の左手部分、人工的に少し平たく削平した名残りの様に傾斜が緩く成っているんですよね。
そして、近代要塞が築かれた辺りも崖の裾が今でこそ海波の浸食で崩落して歩く程幅は無いものの、その先には角度の緩い場所が復活しているんです。
今では渡れないこの比較的角度の緩い地形、実は新田義貞が突貫工事で削り出した道の跡なんじゃないかな~?
・・・と感じました。
まぁ、神様にお願いしたら海が引いて軍馬が通れる様に成った方が神秘的では有りますが、現実的では無いですよね。
さて、歴史解説は以上の通りですが、ここは小生の嫌いな勲章を粗末に扱った反日バンド“サザンオールスターズ”の歌「稲村ジェーン」のタイトルにも成っている景勝地。
他にも良い写真が撮れたので少し掲載したいと思います。
CIMG2542
波しぶきと江ノ島と夕陽。
CIMG2525
夕陽を見るカップルの後ろ姿と江ノ島。
CIMG2526
仲睦ましく、いつまでも御二人には幸せであって欲しいなぁ~と思いました。CIMG2573
富士山と七里ヶ浜と江ノ島と夕陽。
素敵な場所でしょ?
実は稲村ケ崎の目の前には素敵なレストランも在ります。
CIMG2572
MAINと言う御店です。
CIMG2593
CIMG2575
御覧の通り素敵な内装なのですが、窓辺の席からは富士山と江ノ島と七里ヶ浜を見ながら食事を出来ます。
CIMG2577
昨日は小生、平日の休みを利用して田浦梅林の山登りをしていたので単独行動もあり、稲村ヶ崎も当然一人でしたが、この御店は一人で来てもユックリ落ち着いて食事して有意義な時間を過ごせますし、恋人や夫婦で来ても雰囲気の良い御店ですのでくつろげると思います。
CIMG2583
因(ちな)みに昨日は200gのステーキとカシスティーを注文しました。
この後でスポーツジムに行く予定が有ったので当然、炭水化物抜き(笑)。
とは言いながら、田浦梅林の近くの和菓子の名店、ふじみ屋で買った“梅どら焼き”を食べていたので山登り前に当分は補給済みでした。
もう、昨年凄い太ったので贅沢して美味しい物を食べるときは炭水化物は外さないといけないんです(泣)!
CIMG2586
お肉美味しかったですよ!
ウェイトレスのお姉さん、良い接客をありがとう♪。

今回の記事はここまでですが、稲村ヶ崎、良い所でしょう?
是非、皆さんもお散歩して見て下さい!推薦の場所です。


では次回は鎌倉の円覚寺の解説か、建長寺の解説か、田浦梅林の現時点の梅林の開花状況報告を書きます。
又、次の記事でお会いしましょう♪



横浜市磯子区中原に、今では住宅街の中の普通の神社に成ってしまった元々凄い修験道の道場の跡地が有ります。
CIMG1459
今では、ただ熊野神社としか名前の表記が有りませんが、少しややこしいのですが、ここは現在でこそ“熊野神社”と呼ばれていますが、そもそもは鎌倉市山崎に存在して源頼朝公から崇敬された山崎泉蔵院と言う由緒ある修験道の大寺院の熊野権現を祀った道場でした。
山崎と言うのは今も鎌倉市北鎌倉駅~大船駅近くにかけて地名も残る丘陵地帯の事です。
現在の磯子区の熊野神社の前身と成ったのは大霊山泉蔵院桐谷寺と言う修験道寺院です。
その大霊山泉蔵院桐谷寺の更に前身が、今の鎌倉市山崎に存在した山崎泉蔵院です。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
源頼朝公が平家を倒して征夷大将軍に就任した際に、国と民百姓の安泰を祈願する為に鎌倉郡山崎の泉蔵院の大僧都真諦智覚法印と言う高僧に命じて、熊野三所権現から御神霊を勧進させて山崎泉蔵院の熊野権現を祀った道場を、この熊野神社の境内に開きました。恐らく当時は周辺の住宅街も全て道場だったはずです。
熊野三所権現と言うのは今の和歌山県熊野三山に鎮座する由緒ある那智大社、熊野速玉大社、熊野神社本宮の三社の事です。
つまり、磯子区中原の熊野神社に御参りすると、その三座の大社に御参りしたのと同じ事に成る場所として泉蔵院の道場が開かれた訳です。
まぁ、磯子区中原に鎌倉時代、泉蔵院の道場として熊野権現が開かれた当時は相当な敷地を誇っていたでしょうし、参道の両脇には明らかに旧境内地と思える住宅が有ります。
CIMG1466
この家とか参道と直結してるし・・・
CIMG1467
このマンションかアパートだかも明らかに旧境内地の谷戸(やと)の中に不自然に立っています。
さて、鎌倉山崎に在った泉蔵院は後に現在の磯子区中原の熊野権現に機能移転し、室町時代以降は現在の熊野神社の場所が泉蔵院の本拠地と成りました。
その時に、この山に囲まれた谷間の地名が❝桐谷(きりがやつ)❞だった事から、武蔵国久良岐郡に移転後の泉蔵院の正式な名称は大霊山泉蔵院桐谷寺と改められました。移転後も宗派は勿論、修験道で本山は京都市左京区に有る南禅寺近くの聖護院でした。現在は神道の神社ですけどね。
後で触れますが、戦国時代に泉蔵院を支援したのは北条家重臣だった間宮家です。
笹下城主の間宮信元公、間宮与七郎公、代々徳川将軍家の鷹匠頭を継いだ分家の杉田間宮家の江戸時代の当主だった間宮信久公の関与が現代に伝わる文書で確認出来ます。
この間宮家は水軍を率いており、戦国時代には現在の浦賀港の西浦賀を領有した間宮宗甫公、江戸時代には徳川家の水軍大将を務めた間宮信高公が三浦の横須賀市長坂に所領を有していましたが、三浦半島に三浦大根とは別に昔、聖護院大根が生産されていたのは、もしかしたら、この泉蔵院と間宮家が関係有るかも知れませんね。

頼朝公が没すると、鎌倉幕府は内戦が頻発し、鎌倉山崎の泉蔵院は戦火を逃れて、磯子区中原の熊野神社の道場に寺院機能を移転しました。その時に同地が桐ケ谷と呼ばれた場所だった事から寺名を大霊山泉蔵院桐谷寺と改めました。
しかし明治時代に成ると神仏分離令が発布され国策で当時の御住職は僧籍を返上し、桐谷寺は廃寺に成り熊野神社だけが残りました。
山崎地区
上は元々泉蔵院の所在した鎌倉市山崎地区の境界線を衛星写真上に再現した画像です。
北鎌倉駅を挟んで円覚寺と反対側の山、玉縄城址や大船駅の近くまでの山一帯が山崎と呼ばれた地域です。この山崎の“崎”と言う字には岬">(みさき)<と言う意味が有ります。
実は弥生時代位まで大船一帯は大船湾と呼ばれた海だったので、同地が昔は海に突き出した半島だった名残りに由来する地名でしょう。
古代の大船湾 久良岐のよし
緑色の地域が縄文時代に陸地だった場所で、白い場所は海底だった場所です。
山崎地区は見事に古代の大船湾に突き出した小さな半島=岬だった事が解ります。
修験道は山伏の神仏習合の宗派だったので日本古来の神道的な価値観に仏教の哲学と信仰を融合させていました。ですから延喜式内社と呼ばれる古代から存続する神社と同じ様に湧水地や山上の奇岩を御神体とし、自然に纏(まつ)わる神様の御分霊や仏様を祀り、修行の為の道場を開く宗派でした。
さて何故源頼朝公が、この磯子区中原に修験道の道場を開いたと言うと、頼朝公は日本神話を大切に信仰しておられ、更に神話を大切にする仏教の真言宗も大切にしておられました。
頼朝公は其(そ)れ故(ゆえ)に山岳信仰者でもあり、自ら神奈川県伊勢原市の大山や富士山の山頂まで当時の貧弱な装備で登山された史実が残っています。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
現在は熊野神社と成った泉蔵院は、頼朝公の時代には京浜急行に❝屏風ヶ浦❞の駅名が残る事からも察しがつくと思いますが海に切り立った断崖が現在の中区元町~金沢区六浦まで実に10kmに渡って続いていました。
この風景は江戸時代にも現在の神奈川区や関内に在った横浜の地名に成った半島の辺りから船に乗船して現在の京急杉田駅前を流れたいた聖天川までクルージングするのが観光コースに成っていたそうです。
そして熊野神社の出来る場所は湧水地と滝の有る場所なのですが、現在でこそ、それらしい物は現存しませんが周辺は中原四丁目緑地として遊歩道が設置されていて、壁面からの湧水でいつも地面がぬかるんでいます。
CIMG1457
今ではこの緑地帯の存在自体を知る人も少なく、歩く人も少ない。
CIMG1458
もし、この熊野神社に御参りされる方は是非、この辺りも散歩してみて下さい。
さて、現在の熊野神社其の物に話を戻します。
参道には様々な石碑が並んでいます。
CIMG1460
CIMG1461
CIMG1462
CIMG1463
歌碑だったり、泉蔵院時代からの歴史を書いて有ったり・・・
CIMG1464
この関寅吉さんは、杉田浦が埋立られる以前の一大産業だった海苔の養殖を近代に発展させた人物でした。
今では豊かだった杉田や屏風ヶ浦の海はアホの横浜市が埋め立てて消えてしまいました。
東京湾京浜地区の海苔の養殖は今では、金沢区の野島と三浦半島横須賀市走水で一部行われており、特に走水産の海苔は美味しいので小生は毎年冬に走水神社の年末年始の御参りを兼ねて買いに行っています。
CIMG1984
この、ながつか水産等で、昔のままの江戸前の美味しい海苔を購入する事が出来ます。
実は屏風ヶ浦一帯の海は海苔よりも鮑(あわび)や海鼠(なまこ)の漁獲量が豊富で特上の品質を誇っていた事で勇名でした。幕末には清国向けの輸出品として大変に重宝され、現地でも最高級品扱いされたそうです。
アホの横浜市が海を埋め立ててしまったので、当然、鮑等が生息できる環境ではなくなりました。
内陸部に平地の耕作地が沢山余っていたのだから、ハッキリ言って埋め立てる必要は無かった訳で、これは当時の市長が建設利権と結びついていた人物だったからと言うのも、泉蔵院の歴史を現代から鎌倉時代まで順番に周辺の環境の変化も含めて追っていくと解る事だったりします。
今の林文子横浜市長も、する必要の無い埋め立て工事を本牧沖で行っていますね。
CIMG1469
まぁ、そんな感じで、この地域は昔、現代の政治家と違って心から地域発展に力を尽くされた民間人を多く輩出しているので沢山、偉人達の石碑が有ります。
CIMG1471
修験道の道場だった場所なので熊野神社の在る場所も崖地で、参道の後半は階段に成っています。
CIMG1472
横には神仏習合時代の名残の石塔。
CIMG1473
階段を中段まで登ると本殿が見えます。
この中段の左手に、明治時代に政府の命令で僧籍を捨て神職に成られた元い泉蔵院の初代熊野神社宮司様が昔、頼朝公が開いた修験道の大道場だった事を伝える為に名残を残して下さっています。CIMG1475
その名も泉蔵社と言う摂社です。
ここに神仏習合時代の仏様達が祀られているそうですが、それが御分霊を祀っているのか、将又(はたまた)仏像その物が収蔵されている訳ではないそうです。
恐らく神仏分離令が発布されて熊野神社だけを残し泉蔵院が廃寺に成った際に、周辺の御寺サンに仏様達は譲って守って頂いたのかも知れませんね。
まぁ、泉蔵院も戦国時代に房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有るので、その時に仏様ももしかしたら持ち去られていたのかも知れません。
戦国時代には間宮家が奉納した太刀が有り、江戸時代にも存在した事が記録されています。
CIMG1478
この中段を一段上がった場所に御本殿が在ります。
CIMG1482
ふむ
CIMG1485
真新しいけど立派な扁額。
本殿へ参拝して左手に目をやると他にも摂社があります。
CIMG1484
摩利支天・・・
CIMG1487
仏教の仏様で元々はヒンドゥー教の神様の戦神。武士に多く崇拝された神様。
CIMG1488
そして御稲荷さん。
CIMG1489
どこの神社に行っても、大きな御寺に行っても、御城の址に行っても、いつもお稲荷さんに御参りする機会が有る。必ずと言って良い程に御社が有る。それだけ昔は庶民に愛された日本人と近しい神様。
小生は毎日、御稲荷さんを行く先々で見かける度に、今日も御参りの機会を頂けてありがとう御座いますと御礼を伝えています。

さて、熊野神社さん、今でこそ小さいけれど、そもそもは泉蔵院と言う大道場の跡だった訳ですが、今では映画やアニメのロケ地に使われてもおかしくない雰囲気の、町の中に残された中原緑地に佇む雰囲気の良い神社で有る事は伝わったでしょうか?
もし、屏風ヶ浦地区や杉田駅周辺に御住まいの方は、是非、御散歩がてら御参りされてみては如何でしょうか?

・・・昨年末に書き書けの神社仏閣まとめて紹介一覧記事、今週から少しづつ更新します。
季節柄税務関連の申告書作成とか忙しく、中々更新できておらず申し訳ありませんね(笑)。


では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!



↑このページのトップヘ