歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:瀬上池

ブログネタ
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横浜市港南区~磯子区峰~金沢区氷取沢にかけて円海山と呼ばれる山がありまして・・・

風景がとても横濱と思えない綺麗さなんです。 IMG_5684
今では静寂な森の中の古道沿いにある阿弥陀寺と言う御寺と、昔は阿弥陀寺の奥院だった護念寺と呼ばれる御寺ですが、実は江戸時代~昭和初期まで凄く有名で、日々参拝客が蟻の行列の様に大量に列をなして訪れた名古刹なんです。

実はこの護念寺ですが、お灸治療の大本山とも言うべき御寺でして、古典落語「強情灸」の舞台でもあるんですね。
ですから、この御寺は「峰の灸」の別名でも呼ばれています。
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嘗(かつ)て、磯子区杉田〜港南区笹下にかけて点在した広大な杉田梅林は、江戸からの江戸っ子観光客で賑わっていました。

船で磯子区杉田の聖天川までクルージングし海からの屏風ヶ浦の美しい風景を楽しみながら、杉田梅林を見学に来る訳ですね。残念ながら杉田梅林は教育委員会が開発容認し消滅しました。…明治天皇や皇族もよくいらっしゃった美しい風景と最高級の梅のブランド杉田梅を教育委員会が消失させたんですね。

で、その江戸時代から昭和初期の観光コースに峰の灸も入っていたし、純粋な治療客も沢山いました。

横浜横須賀道路と言う高速道路の開通で阿弥陀寺と鎌倉古道が寸断され、鉄道の駅からも遠い事から、昭和の高度経済成長期に成ると段々、参拝客も減ってきてしまいましたが・・・
今でも慢性的に体の痛みがある人がココに来て治療を受ける、お灸の本場なんです。

もっとも・・・
小生はソンナ歴史も知らなかった20歳の頃、原付バイクでフラっと田舎道の風景を探して立ち寄って、その聖地のような清々しい空気感に呼びこまれて迷い込んだ御寺なんです。
その時は、竹林の風景の美しさと、何だか…
「あ~横浜市が久良岐郡と呼ばれた頃の風景はこんな感じで美しかったんだろうな~」
・・・と思っただけでした。
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この護念寺は清浄園と言う公園墓地に至るまでのアプローチが昔の鎌倉古道なので、とても神秘的な風景が残っているんです。
でも今じゃ落語の“強情灸”を知らない人の方が多いですよね?
せっかくの機会ですし、強情灸を御存(ごぞん)じ無い方(かた)の為にその噺(はなし)を紹介します・・・
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【強情灸】 
通りかかった知り合いが唸っているので、気になった男、家に招き寄せる。 
聞けば何でも体がだるいので、""という店に灸を据えてもらいに行ったらしい。


「このお灸な、凄まじく熱いんで評判なんだよ。気の弱い奴なんかな、一つ据(す)えただけで… 
「ギャー!!」
なんて天井突き破って飛んでっちまうんだと」 

余りにも熱すぎるので、せっかく来た人が怖気づくぐらいだが… 
それでも"効く"という評判のおかげで店の前は長蛇の列。 
仕方がないから、番号札を配って据えてもらっているらしい。


俺がもらったのが"への36番"行列のどん尻だぜ?これじゃ日が暮れちまう… 
「帰ろうかな」 
…って思ったらよぉ! 
先に並んでた綺麗なお嬢さんが先客が熱がってるんで心配(不安)に成っちゃったんだろ? 
…俺に 
「ねえ、アタシと代わってくれませんか」 
なんて… 
「ええ!ようござんす♪」 
…と、喜んで代わりましたとも。 

早速内に入ると、店の者が… 
「うちの灸は熱いですよ。大丈夫ですか?」


頭にきた友人、上半身裸になるや… 
「さあ据えてくれぃ!」 
…と怒鳴る。 

灸を36箇所に据えると言われ、なおも意気がった友人… 
「全部いっぺんに据えろ(怒)!」と一喝。 
啖呵に店の者も釣り込まれ、本当に全部いっぺんに据えてしまった。 

一つで飛び上がるような灸を、36個いっぺんに据えたんだからどうなるか?


身体中から煙が上がる…不動明王みたいになっちまったが…"ここで逃げたらカチカチ山のおタヌキ様"だ。 
我慢して唸ってたら… 
店にいた奴らがみんな寄ってきてヨ! 
「この人、本当に人間かい?」 
「神様の化身でしょう」 
…なんて感心してやがんだよ。 
…その中にね、さっき俺と札を取り替えたお嬢さんがいてさ、俺の顔を見てポーッとなってんだ。 
「あぁ…たくましい人ね、お嫁になるならこんな人が」 
…なんて思ってやしないかと。 

自業自得で熱い目に遭ってきて帰り道で唸っているような間抜けの(笑)、体(てい)もないノロケ話を聞かされ、呼び込んだ方の男は面白くない。 
元来こちらも同類の馬鹿である… 
「たかだか灸ぐらいで威張るな!」 
…と、奥から藻草(もぐさ)を持ってきて、腕に山盛りに積み上げるや早速点火(笑)♪


「活火山だよコリャ(笑)…見てろ!今に火が回ってくるから(笑)」 
火勢が強まり、煙が上がる。 
男、脂汗を流しつつ歯を食いしばる。

「うう(汗)…」 
「…灸ぐらいで威張るな、石川五右衛門なんか、油で茹でられたのに平気で辞世の句を詠んでたぞ!」 
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ…ってな!」 
「八百屋お七なんか、15歳で火炙(ひあぶ)りだぞ?」 

…それに比べりゃこんな物…お七…五右衛門…お七… 

ぎゃぁあぁっつ!」

とうとう辛抱堪(たま)らず藻草を払い落とし、なおも「五右衛門んん…」と唸っている男に、友人が意地悪く声をかける…

「五右衛門がどうしたって(笑)?」 
「…」 
「……」

「………さぞ熱かったろう」 

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円海山 清浄院 護念寺

・・・どうです?強情灸、バカでしょう~(笑)?
いつの時代も男は可愛い女性の前で良い顔したがる見栄っ張りってネタでした(笑)。
ところで、この写真の建物はが仮本堂であり現在も御灸の施術をする建物でもあるそうです。
昭和の頃迄は沢山の御客さんで賑わっていたそうですが、現在は要予約だそうです。
定休日は月曜日。診療は午前中のみ受け付けているそうです。
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境内の雰囲気とても素敵でしょう?
丸で鎌倉の隠れ家に来たような・・・
神様の住んでる御社(おやしろ)でもありそうな雰囲気ですよね?
秋には紅葉もチラホラとあり、この季節はここに来てヒンヤリとした空気を吸い込むと、何だか生きてる感じが凄く静かに感じられるんです。
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少しこの御寺の歴史を見てみましょう・・・
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ハイキングコース地図の右下に阿弥陀寺、その少し真ん中寄りに護念寺、右側中央に“道場丸”と“いっしんどう=一心堂”の地名が残ります。この一帯は阿弥陀寺の奥院だった護念寺の寺領だったのでしょう。恐らく御寺の収入減は大岡川や鼬川の水運を利用した木材の売却だった筈です。二つの河川を使う事で相模湾側の鎌倉や、江戸湾の江戸方面に材木を出荷出来て昔は大いに繁栄したのでしょう。
新編武蔵風土記稿の護念寺の項目に“この一帯の緑は寺の敷地だったから残った”と言う記載に円海山の森林が残されていた理由と整合します。
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今でも樹木に囲まれた御寺です・・・
この、静かに遠慮気味に色づく紅葉達の奥に御念寺の現代の本殿があります。
撮影した日は法事の車が数台とまっていたので御本堂の写真は写しませんでした。 
御本堂を過ぎるとマイナスイオンでヒンヤリとし、静寂な神聖な霊気を感じる様な竹の隧道が出迎えてくれます。 
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さて、この護念寺には幾つかの由緒ある仏像が有り、その一つが薩摩の大名どうやら島津家から拝領した威徳明王の1寸八分(545mm)の伝弘法大師作の彫像らしいです。
元々は護念寺の向かいの山の上に堂が有って、そこに祀られていた物だけど御堂が壊れたから護念寺に移したと言う事が新編武蔵風土記稿に書いて有ります。
昔は坂下バス停辺りに本院だった阿弥陀寺が在りました。
そこから登って来る護念寺の清浄園墓地側の道は現在廃道ですが、恐らく、そちらが江戸時代の参道だった筈です。阿弥陀寺の方は1400年代には旧所在地に存在したと伝承しています。
鎌倉の戦火で矢部野(洋光台~峯)一帯が戦火に巻き込まれて阿弥陀寺が現在の山の上に移転したのが1400年代だと伝わりますので、この鎌倉の戦火は鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義教公が対立した永享の乱か、足利持氏公の御子息で最後の鎌倉公方と成った足利成氏公の頃の話でしょう。
護念寺とその谷を挟んで反対の山上は現在の阿弥陀寺に当たり、既に阿弥陀寺は1600年代の頭には現在地に移転していたので護念寺の威徳天が祀られていた向かいの御堂は阿弥陀寺ではなさそうです。
では、どこでしょう?
一心堂位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して下さい。
この威徳明王が祀られていたのは恐らく円海山の一心堂広場だろうと思います。
丁度現在も参道に使われている谷筋を登る道以外に私道になり廃道化してる道が有ります。
その谷道を挟んで一段高いのが“いっしんどう広場”=一心堂でしょう。
現在の位置関係で見てしまうと阿弥陀寺の場所が向かいの山に見えてしまいますが、時代的にも威徳明王が祀られた江戸時代には既に阿弥陀寺が存在していた為、阿弥陀寺の山ではなさそうです。
となると、向かいの山で更に“堂”の名前が付くので一心堂がその場所だろうと推測出来る訳です。
ちょっと今の阿弥陀寺との位置関係だと護念寺が阿弥陀寺の奥院として機能していた事が理解し難いのですが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
・・・昔の阿弥陀寺は洋光台6丁目坂下バス停辺りに存在したそうで、確かに、その位置からだと真っすぐ直線状の背後の山に護念寺は所在しています。
画像に赤く引いた線は現在は廃道に成っている古い道で、実はそちらは切通状に成っていて重要な道だった事も解かります。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
この道は明治時代初期の迅速測図にも-----の点線表記で護念寺の右手の舌状丘陵の尾根道として記載されています。
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その道がこの解体屋サンが並ぶ丘の道を更に一本裏側に入った場所です。
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今では草が鬱蒼としてしまっています。
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その先は円海山清浄園の墓地の先っちょ、この道に繋がっています。
昔は小道だったようですが、もしかしたら墓地造成で開削され、更に丘の入口が解体屋サンに払い下げられ今は使われなくなったのかも知れません。
一心堂の場所ですが・・・
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氷取沢側から見た円海山、鉄塔の辺りが一心堂広場の近くです。
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現在は遊歩道としては整備されていませんが、氷取沢側の農道から続く江戸時代の道は今でも生きています。
この道を登ると・・・
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ちゃんと昔の道標がわりだった交通安全の仏様の馬頭観音様が多分、昭和時代位に上の部分だけ作り直されて今も有ります。この場所がT字路に成っていて富士塚休憩所を経由して護念寺の墓地に成っている円海山清浄園の古道や鉄の道の尾根道に通じていました。
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又、迅速測図を見ると古代の尾根道の街道が悉(ことごと)く護念寺の辺りに集まっているので、前身の御念寺は逗子の岩殿寺や金沢区の浄願寺の様に山岳信仰的な要素が有り弘明寺や八菅山の様に山全体が聖地化されていて各所に御堂や神社が有った事が推測出来ます。
製鉄有る所に豪族有り、豪族有る所に神社仏閣有り・・・と言った所でしょうか。

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。
コレ⤵️
宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜(べんぎ=便利)とす。


要約すると・・・
「護念寺の在る円海山は城址」
「だから往来が不便で星谷智久公がショートカットの道を御寺の為に作りました」
・・・つまり円海山=長野山は城でした。
合わせて、この文書から調査した末端の記者か編集した人のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨です。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
星谷家が足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)と調査した江戸時代の記者も編集者の間宮士信公も昭和の出版社も何故注意が向かなかったのでしょう?
その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しており単位も両・朱・分でしたし、永楽銭は廃れています。
つまり宝暦二年(1752年)に星谷家が永楽銭を寄付する事自体が変な訳です。
調べた記者か編集者かが他の元号と読み間違えた事は明らかです。
永楽帝の在位期間は1402年~1424年永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。なので宝暦の書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択すれば正体が判明しますね。
康暦二年(1390年)→1411年以前
宝徳二年(1450年)→1411年以後
・・・宝徳を読み間違えたんでしょう。
では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるので宝徳を宝暦と読み間違えて記者が取材し風土記の編集に間違えたまま峰村の説明にも反映されたみたいですね。
そのせいで現代にも混乱を及ぼしているのでしょう。
「そんな学者や編集者が間違える事有るんかい?」
・・・と思う人がいると思いますが、そんな事は現代でもしょっちゅうです。
江戸幕府の役人が書き間違えた杉田間宮家初代の名前を菩提寺や御子孫に調査すらせず間違えたままコピペ出版してる人もいます。
地名でも例えば阿弥陀寺や護念寺は昔は杉田郷と呼ばれた行政区分の地域でした。所が昔は現在とは字が異なります。
杉田=杦田
杉ではなく杦の字で表記したんですがコレが読めない学者サンが・・・
「“松”田とか書き間違えてる」
・・・と杦=杉を読めず杦を松と勘違いし“間違いじゃないのに間違えた指摘をする”事も有ります。
昭和のいい加減な仕事の出版物をコピペして終わってる学者サンいるんですね、それと武将の名前も江戸時代の幕府の誤記を子孫や御寺や神社に確認しないで誤記のまんまコピペしてる人もいます。
誰とは言いませんが横須賀市やNHKの歴史解説員をしていると自己顕示満々のプロフで宣伝してる勲章貰った学者サンとか。本当に歴史偉人をリスペクトしていて御墓参りすれば一発で気が付く事なんですんが。
さて、今回の間違いですが・・・
永錢が永楽銭と言う事は、戦国時代を好きな人は大概知っています。
徳と歴 久良岐のよし
永楽銭なら宝暦ではなく宝徳だと歴史学者でもなんでもない小生でも、この様に気が付きます。
これにより阿弥陀寺と奥院の御念寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。
そして、この阿弥陀寺の奥院御念寺への寄進は応永二十三年(1416年)の戦闘によって阿弥陀寺は焼失後現在地の山の上に新しく御堂を建てて復興されたけれど、奥院の御念寺は一時は城塞化されていた不便な立地なので復興が遅れ、永享十一年(1439年)に永享の乱が終わり、鎌倉公方が一端途絶して平和な時代が来た宝徳二年(1450年)に漸(ようや)く再整備の手が回る様に成った状況が理解出来ますね。
余談ですが、戦国時代に旧間宮領にいて江戸末期に里正(庄屋)に成っていた旧北条家臣団の名字に星谷はいません。
ただし越前朝倉家臣に星谷家がいると沼津市では伝承しているそうですから、そもそも朝倉家の旧主斯波家臣に星谷家がいた可能性はあります。
北条家臣にも朝倉家がいるのは斯波家が南北朝時代に関東執事を務めていた名残りでしょう。
以前にコレ⤴️品濃白旗神社の記事で少し書いていますが、南北朝時代に近くの秋葉郷(戸塚区東戸塚~品濃辺り)に柴田勝家高経公が関わっていたり、足利尊氏公の御実弟足利直義公の頃に星谷家が杉田郷に関わっていてもおかしくはありません。
そして朝倉家は
右馬助(うまのすけ)朝倉政景が戦国時代の北条家臣として横須賀市の浦郷や追浜辺りや、伊豆半島三島市玉川辺りを支配していました。
この朝倉家の朝倉平次郎と言う武将が間宮家と玉縄衆と言う軍団で同僚だった事も解かっていますし、
南区太田にも朝倉又四郎と言う武将がいました。
ただ、峯町の星谷サンは北条家臣朝倉家の家来ではないでしょう。寧(むし)ろ旧間宮領にいる朝倉家は玉縄衆朝倉又四郎が豊臣秀吉による北条家改易後に本牧奉行、佐渡金山奉行、生野銀山奉行に成っていた間宮家を頼って江戸時代に移住して来て家臣化した一族かも知れませんね。

星谷の苗字を名乗る武将は戦国時代~江戸時代初期、そして現代に付近にいませんが、他の北条家臣団の苗字を持つ大地主達は現在も存続します。
この地域の地主は槙田家、塩沢家、大塚家、苅部(軽部)家、小原家です。
近くでは金子家、岡本家、野本家、内田家、市村家、荒井家、斎田家、北見(喜多見)家、朝倉家、笠原家、田野井家、山野井家、高梨家、武田家です。
もっと離れて南区まで行くと、森家、並木家、佐々木家等の蒔田吉良家臣団の名前が蒔田吉良家菩提寺の勝國寺の檀家さんに沢山いたりします。
加えて磯子区港南区地域では間宮一族分家や系図上養子が入っていると伝わる松本家、武内家、間辺家がいます。
沼津市の伝承では朝倉家臣星谷家がいるらしいですが朝倉はこの阿弥陀寺や護念寺近辺の峰地域に地主はいませんし、北条家臣朝倉家の更に家臣が杉田郷の地頭では北条家の公式記録の北条所領役帳に記載された間宮家の所領の歴史と整合性がありません。
どうも北条氏照公が元服前の藤虎丸時代に崇拝し、元服して北条氏照と名乗ってからも“陣屋”=“宿舎”としても利用していた座間市の星谷寺(しょうごくじ)辺りの現代の地名は“入谷”ですが、元々は星谷(ほしのや)が正式な地名なので、その辺りが出自でしょうか?
だとしたら、遠い祖先は横浜市港北区に移住して茅ヶ崎城代と成った座間家と親せきだったかも知れませんね。
この茅ヶ崎城主は平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公の協力者だった摂津源氏多田行綱公の関東における城館でしたが、戦国時代に入ると北条家臣座間家が城代を務めた場所でした。
 
駿河国戸倉城近く沼津市大平に、元今川家臣で後に北条家臣と成ったと言う星谷姓の武将がいて城館跡が有るものの出自は不明、沼津市では資料がなく、間宮や江川家と関わり深い伊豆の国市でも資料は無く、座間市にも全くありませんでした。
しかし現在も鎌倉時代位の星谷家の出身地域と思(おぼ)しき座間市~海老名市~寒川町辺りには星谷姓の家が点在するので、座間市入谷(旧:星谷)が出自“くさい”所ではあります。
偶然ですが、座間家の上官に当たる大曾根城主、小机城代だった笠原信為公の笠原家も伊豆出身で、その一族の笠原綱信公の養子、笠原政晴が戸倉城主を務めています。
何だか座間家と星谷家は笠原家与力として北条家で編成されてた家も存在した可能性があります。
しかし星谷家について現代では何も解りません。

・・・星谷家が座間市出身と仮定してすると・・・

南北朝時代に鎌倉公坊足利義詮公家臣になり・・・
関東執事の斯波高経公の与力として配属され南北朝時代に峰町辺り旧矢部野村を治めた分家の星谷家がいて・・・

足利尊氏公の二男、足利基氏公が鎌倉公方になり伊豆国一帯を自身の与力で固めた際に伊豆に入植した星谷家と、磯子区峯町一帯に地頭として残り室町時代初期まで存在した星谷家がいて、それぞれ別々の運命をたどり・・・
横浜市に残った鎌倉公方与力だったかも知れない星谷智久公は宅間上杉与力となり・・・

更にその後、永享の乱頃には扇谷上杉派の与力となり、北条氏綱公が扇谷上杉家と対立すると湘南に勢力を張っていた北条家臣間宮家により駆逐されたのかも知れません。
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※写真は伊豆半島、田方郡函南町“間宮町”の“間宮南”交差点。
もし、このプロセスならば阿弥陀寺を江戸時代に中興した苅部家の領主、間宮家が足利基氏公の家臣として近江国から伊豆国田方郡間宮、今の函南町間宮に移住し神奈川県東部に勢力伸長したプロセスと酷似しており有り得ると思います。
しかし新編武蔵風土記稿に話を戻すと、星谷家は室町時代末期にも杉田郷には名が見えず、安土桃山時代にも、江戸時代初期にも名が見えず、現代の地主にも名が見えず・・・
新編武蔵風土記稿の記載通りなら地頭なのに江戸時代中期の一時代だけいるのはおかしな話しだと個人的には思います。
・・・星谷家は北条家が武蔵国域を支配し杉田郷が間宮家臣団の支配地に組み込まれた頃には磯子区磯子城主の平子家と同じ様に駆逐されたと考えた方が自然でしょう。
平子家については以前書いた記事があります。
コレ⤵
 
仮に江戸時代に“地頭”と言うか在郷武士だったなら、隣の六浦には今も江戸中期に大名として入って来た米倉さんが横浜市大の近所の六浦藩陣屋跡に普通に現代の家を建てて住んでいますし、江戸時代中期に地主侍なら今も間宮家臣団の他の地主同様に現代の大地主としているでしょう。
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※江戸時代の六浦藩陣屋跡の旧藩主米倉サン家の石段。
米倉サン家のこの石段は陣屋(邸宅)の裏口だったらしいです。。
ちゃんと米倉さん家の奥さんに許可貰って撮影してますよ!
だから間宮家臣団や六浦藩主米倉家の事を踏まえると江戸時代の大地主なら今も大地主として住んでいるはずですから、星谷氏が護念寺の前身、御念寺や阿弥陀寺に関与したのは風土記の“宝暦”の記載は誤りで“宝徳”年間、永享の乱前後の話だと個人的には思います。

又、隣村の栗木村の項目でこうも書いて有ります・・・

古(いにしえ)は御料にて元禄九年に星合摂津守に賜い、今子孫鍋五郎知行す

・・・江戸時代の元禄の頃、徳川綱吉公の頃に磯子区栗木村に移住して来た星合サンと峯村の多分、南北朝時代~室町初期にいた星谷サンの項目は話がゴッチャに成ってるぽい雰囲気を感じます。
この古は御料にて元禄九年に星合摂津守云々~の御料は将軍直轄地と言う意味で“天領”だった、と言う事に成ります。

実は!
間宮家は鷹狩りに秀でた一族で氷取沢間宮家を開いた間宮綱信公は北条家の外交使者として織田信長公に謁見し鷹を献上したり、分家杉田間宮家が代々、徳川幕府鷹匠頭の職位を継承する程だったのですが、戦国時代~江戸初期に港南区~磯子区一帯を治めた間宮本家の笹下間宮家は下総国に転封され栗木を支配していなかったので、星合摂津守が一時期いた可能性は有ります。

まぁ~十中八九、星谷サンの話は間宮家が来る前の護念寺の前身の御念寺を復興した話と、似た元号と、隣村栗木村の星合サンの話を記者が頭の中でゴッチャのまま勘違いを書いちゃったのを昭和の出版社がそのまま丸写ししてそうな気がします。

しかし星谷知久公が足利幕府鎌倉府の家臣で在地領主として阿弥陀寺の奥院だった御念寺を支援したのだとしたら、それはそれで素晴らしい史話だと思います。
因みに、栗木のバッティングセンターは松坂大輔選手が横浜高校時代に練習に来ていたそうです


・・・話は飛びましたが(笑)・・・


護念寺と本院の阿弥陀寺は阿弥陀寺の旧境内地の逸話と元号の問題、そして星谷智久公の奉納したお金が永楽銭だった事実から、永楽銭が使われなくなっていた江戸時代中期の宝暦年間1750年代ではなくて宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

しかし1400年代の開基では、江戸時代の人から見て“古刹”にはならないでしょう。
ですから鎌倉時代より前の平安時代には御念寺と阿弥陀寺は存在していたのでは無いかと、近隣の御寺の文書に残らない寺伝からも予想がつきます。
例えば以前にブログで紹介した間宮家の笹下城跡の本丸直下にある成就院・・・
・・・ここは現在は浄土真宗高田派ですが草創期は法相宗だったと伝わるので、下手したら奈良時代~平安時代初期位の行基大僧正に開かれていて真言宗開祖の弘法大師空海和尚や天台宗開祖の伝教大師最澄和尚達の時代より古い可能性が有ります。
他にも・・・
・・・ここ杉田商店街の東漸寺は鎌倉幕府の重鎮、名越北条家の名越北条宗長公によって正安三年(1301年)に開かれたと記録上される臨済宗の寺院で関東十刹に挙げられる名古刹ですが、実は境内にある法輪塔は更に古い時代の物で御寺の伝承でも名越北条家によって臨済宗として再興開基される以前に天台宗だった事が伝わっています。つまり鎌倉時代以前の平安時代から存在する事が法輪塔から証明されている訳です。
更に・・・
・・・同じく杉田の妙法寺は前進の牛頭天王社が弘法大師空海和尚によって開かれた事が伝承しており、文和元年(1352年)に荒井光吉入道日荷上人によって立派な堂宇が建立され寺院化しています。
他にも幕末の吹奏楽発祥地で国家君が代とテニスの発祥地の本牧の妙香寺・・・
・・・ここも元は真言宗でしたが日蓮上人が自ら滞在した際に御寺の大檀那(オーナー)だった佐藤家が日蓮上人に惚れ込んで門徒になり、日蓮宗に改宗した歴史が有る御寺です。滞在時の浴衣姿の日蓮上人の彫像が祀られている変わった御寺だったりもします。
この様に、横浜市域だけでなく鎌倉幕府~室町幕府の武士が多くいた地域の臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、法華宗等の鎌倉時代に流行したり起こった宗派は元々は更に古い奈良時代に始まる修験道や法相宗、平安時代に始まった真言宗や天台宗の寺院だった場所が多くあります。

更に護念寺と阿弥陀寺の歴史の証明となる星谷智久と言う“地頭”が護念寺の長野山が元々御城で不便だから色々ショートカットの道作ってあげた・・・と書いて有ります。
地頭職は鎌倉幕府以来の武士です。つまり鎌倉時代に既に地頭だった星谷氏が室町時代の宝徳二年(1450年)城跡と言っていると言う事は、既に室町時代には使われなくなっていた鎌倉時代か平安末期の城跡と言う事を言っている事に成る訳です。
鎌倉城防衛網円海山 久良岐のよし

護念寺の在る円海山と尾根伝いの円海山山系の観音山、大丸山、関谷見晴台、荒尾城(御伊勢山、権現山)、青ヵ台城(能見堂~阿王ヵ台~赤井)は完全に人の手が入って城塞化されていると小生はずっと主張している通り、鎌倉防衛網を構築し所々の要所が城塞化されており、護念寺の洋光台側の急峻な崖や各所の尾根道の掘切りも城跡だからと、この文章で証明されます。
本当、護念寺を取り巻く竹林の中には、竹林に成ったが故(ゆえ)に高速道路をブチ抜かれたり墓地を造成した場所以外は旧地形が良く残り、恐らく江戸時代には畑にも成っていたであろう、明らかにお城の帯曲輪郡と竪堀が幾筋も現存しています。
ここ円海山は飛鳥時代から東日本最大のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡猿田遺跡一帯で鉄が生産され、刀槍の材料となる玉鋼(たまはがね)を輸送するのが尾根道でしたから、流通や軍兵の交通を監視する要塞や関所が必要だったのでしょう。
実際、この尾根道だけを伝って昔は鎌倉に行きるだけでなく、更に尾根続きの鎌倉十二所からは元は真言や天台の修験者が御参りしていた岩殿寺や神武寺や鷹取山、更に三浦半島まで山の中の道が繋がっていました。
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ですから現在も鷹取山~神武寺の尾根道は修験者の人達や娯楽としてハイキングを楽しむ人達を見かける事が出来ます。

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醫王山 来迎院 神武寺

神武寺は現在も山の中で神秘的な雰囲気を保っています。
神武寺は神亀元年(724年)の開基(かいき=開かれる事)と伝わっています。
古代の街道は尾根道だったので、その中継拠点や湧水地だったので飲用水補給の聖地として神武寺は開かれたのでしょう。
・・・同じ様な立地の護念寺も、もしかしたら前身の御念寺は相当古いのかも知れませんね。

威徳明王が祀られたであろう一心堂の場所の話から威徳明王の像に話を戻します。
威徳明王の彫像は弘法大師の手彫りと伝承しています。
天長年間(824~834年)に弘法大師空海和尚が守敏僧都と法力争い(密教の問答だろう)をして威徳明王の威力で勝った事、更に威徳明王に関する宗論で守敏僧都を言い負かす事が出来たので掘った像が護念寺の威徳明王で嶋津又三郎の姫の竹姫様から元は鎌倉の浄土宗大本山光明寺の僧侶だった護念寺中興開山の淸蓮社浄譽圓海和尚(明和三年:1766年没)が拝領したと記載があります。

更に清和天皇(850~881年)の守り本尊だったのを嶋津家に伝えられていたと記載が有ります。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている事から亡くなる直前に彫られた仏像と言う事に成りますね。
そして、その後清和天皇に渡り、清和天皇の子孫の島津家にどういった経緯かは判らないものの伝わり、円海山に御縁が有って祀られる事に成った訳です。

次に竹姫は嶋津家=島津家の姫様は誰かと言う話ですが、実はココに誤解を生む罠が有ります。

この場合の竹姫の“姫”は父子関係ではなく尊称の“姫”なんですね。つまり御妻君も姫様と呼ばれるケースが有る訳です。例えば北条家から蒔田吉良家に嫁いだ“さき姫”や、前田家から義叔父の秀吉公の仲介で宇喜多秀家公に嫁いだ豪姫等は有名です。これを考慮すると謎は直ぐに解けます。

1766年に亡くなった浄譽上人が竹姫様から威徳明王像を貰っているから、威徳明王像が伝えられたのは1700年代と言う事が判ります。

この竹姫の“御身内”の嶋津又三郎サンですが、実は島津家歴代当主は“又三郎”を名乗っているので世代的には第五代薩摩藩主の島津継豊公の時代位の話しと解かります。
そして島津継豊公の継室(後妻)が竹姫なんです。しかも竹姫の人脈から更に凄い人達の名前が登場します・・・

御実家は権大納言と非常に地位の高い京都の貴族で、竹姫のフルネームは清閑寺竹姫、戒名が浄岸院です。
尚且(なおか)つ!徳川綱吉公の養女と言う立場に当たる人物です。そして薩摩藩主の妻。
凄いですね~!
当時の阿弥陀寺と奥院の護念寺の寺格の高さが解かるエピソードです。
何で竹姫が威徳明王を護念寺に寄進したか不明です。
もしかしたら・・・
御父上の継豊公が護念寺の圓海和尚に鍼灸治療をして貰ったのかも知れないですね。
圓海和尚の弟子で実際に護念寺の再興開基に寄与した法雲和尚と言う方は鎌倉の光明寺の僧侶だったそうですし、関東の浄土宗は織田信長公や徳川家康公が浄土宗(当時は法華宗として時宗や日蓮宗と一緒の別派閥と認識されていた)の信徒だった事から特に江戸幕府開府以来、他宗派よりも強く徳川幕府の庇護を受けていたので、その様な御縁が有っても不思議では無いんですね。
続きの阿弥陀寺の記事で書きますが、なんせ本院の阿弥陀寺の戦国時代の御住職は浄土宗のトップと京都知恩院で務めた任蓮社然譽了鑑大僧正ですから、この方の繋がりが有れば当然ながら徳川幕府とのコネクションは深いでしょう。
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現代には護念寺の周りは私有地だらけになり横浜市の今の市長の政策では私道を遊歩道として通行出来なく成ってしまい円海山護念寺に通じる古道だらけですが・・・
今の道は今の道で素敵ですね。
この竹の道を過ぎると、清浄園と言う御寺の院号からとった墓地に辿(たど)り着きます。 
そこからは横浜港が一望でき、ランドマークタワーやベイブリッジが見えます。
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この日は生憎の曇天でしたが、紅葉に色づく円海山の眺望に満足できました。
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御住職は御灸の施術を予約すると直接面会出来ますし、色々と昔々の横浜の風景や文化の御話を聞けて楽しそうです。
今はこの奇麗な景色の中に有る古道は間にゴルフ場は横浜横須賀道路が出来たせいで完全に寸断されてしまっています。

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とにかく景色は良いですよ!
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実はこの円海山山系の大丸山含め、この地帯が昔の久良岐郡と現在の横浜市で一番標高の高い場所なんです。
・・・と、言っても海抜300mくらいですが、それでも海から2km程度内陸に入っただけの沿岸部なのでだいぶん高低差があります。
だから景色の素敵な場所でしょう?

護念寺の本院だった「阿弥陀寺」と「白山神社」の話は、また改めて別記事にまとめましたので別に御覧頂ければ幸いです! 


以上、久良岐のよしがお届けしました「強情灸」と「護念寺の凄い歴史」、楽しんでいただけましたでしょうか?
きっと皆さんの御自宅の近所にも凄い歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や御城の址の山が有りますよ!
ちょっと御近所を御散歩して、神社や御寺や城址の公園の看板を読んでみませんか?
思いがけず凄い人達と土地の繋がりを知れば、更に地元に愛着が湧くかも知れませんよ?

ではでは、次回は護念寺の本院だった円海山、峰の阿弥陀寺と白山神社の記事でお会いしましょう!


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今年ももう直ぐ円海山で蛍が見れる季節に成ります。
蛍は5月の終りに見え始めます。
6月中旬~下旬に最盛期を迎え7月中旬頃まで少し見る事が出来ます。
時間的には20時位からが見易いでしょう。
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2017年の6月の写真です。
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円海山 瀬上沢ホタル群生地
※住所クリックで地図にリンク!⤵️
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
場所は円海山の瀬上池~旧上郷高校=現在の栄高校~神奈川の橋100選の一つ昇竜橋と白山神社旧跡への鼬川遊歩道に合流する瀬上沢の渓流沿いです。

観察マナーについては、色んな考えも有れば何も考えていない人、自分達のローカルルールをさも当たり前の様に押し付ける人もいて千差万別、これも文末で解説したいと思います。

蛍、小生の小さい頃うん十年も昔はもっと見れたのですが、横浜市教育委員会の怠慢と林文子市長による円海山の開発容認で今の自然環境が破壊される事に成り絶滅の危機に瀕しています。
瀬上沢蛍の観察可能な場所 久良岐のよし
個体数の激減の原因は過去に開発されてしまった庄戸地区とみどりが丘の宅地化による環境の悪化、それに加えて過去の横浜市による誤った公園整備によって天然のフナが居た瀬上沢が重機で荒らされてしまったり蛍だけでなく生態系も破壊してしまった訳ですが・・・
現在、僅かに生き残った蛍に止めを刺そうとしている組織がいます。

それが東急グループの土地買収による宅地と商業地化の開発計画です。
歴代市長が守って来た円海山の自然環境保全を事実上放棄して東急に対して土地放棄や買収等の対価を払う等の対案を示さず、それどころか円海山の林道整備すら放棄して丸で段階的に宅地化を容認する構えの様な言動しか現状していない林文子市長と円海山の史跡と自然環境の保護を怠っている横浜市教育委員会。
過去の記事の転載も交えて説明したいと思います。

先ず、円海山その物を知らない人が多いと思います・・・
円海山は横浜市栄区港南区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園です。 
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域で尾根には砂鉄と玉鋼を輸送し武士が行き交った古道もあります。
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この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、山頂からは天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。
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正月の朝焼けの赤富士や・・・
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・・・夕焼けに染まる赤富士の写真撮影スポットとして非常に有名です。
横浜市で一番高い所なので、富士山とは反対側の海側の畑から見える横浜港の夜景も当然ながらとても綺麗です。
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この夜景スポットにはベンチが有り、冬でも良くカップルが夜景を見に来ています。
実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡で東日本最大の鑪(たたら)製鉄遺跡の上郷深田遺跡から鎌倉に鉄を輸送した道でもあります。
更に‼︎
蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
この小川が瀬上沢ですが、こんな不必要な護岸工事が横浜市の建設利権の為か環境整備局の不見識か行われてしまったせいで天然のフナは姿を消しました。
当時、環境整備局の前身組織の負の遺産ですね。挙句の果てに保持が怠られているのが現状です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。釣りはやりませんでしたが友人達はよくフナを釣りに瀬上池や瀬上沢にも来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の磯子区氷取沢側の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山を降りた大谷戸広場側、市に名前を消された戦国時代の要害址の人工地形が今も残る観音山です。
この円海山一帯は昔ながらの貴重な里山保存区域です。
綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?本当、貴重な自然と里山なんです。
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金沢市民の森側、大谷戸広場付近は護岸工事されずに一部上流だけ源流が昔のままの沢の姿を保っています。

写真撮影した季節は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。
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尾根は古代の砂鉄と玉鋼輸送で活躍した道があり・・・
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・・・そこを往来した武士達により鎌倉市街地を取り囲む源氏山~太平山の鎌倉城~大丸山~円海山~金沢区御伊勢山~権現山の荒尾城には要塞郡が築かれ写真の様に歩行しやすい街道でありながら防衛し易い様に侵入する軍勢の隊列を制限する為に岩を開削して築かれた“切通し”が多数現存しています。
昔の市長達の遺志を踏みにじる東急と林さん。
東急の土地買収で茅が生えて「神社に売るんか(笑)!」ってのが現状です。

以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。しかし多くの林道は林市長に成ってから保全されず、通行止めの箇所が異常増加中・・・

今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!


この池が瀬上池。
小生が子供の頃、友人達は釣りが自由に出来るここに来てはフナや鯉なんかを釣っていました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。

この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。

別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!
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ついでに言えば、昔は護念寺の本院だった阿弥陀寺は浄土宗の総本山である知恩院の住職を務められた了鑑大僧正を輩出した名刹だったりもします。最古参の旦那は苅部(かるべ)氏で、元は戦国時代に鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良家の吉良頼康公の重臣の子孫に当たります。
蒔田吉良家は戦国時代初期には世田谷を本拠地にした足利家の中で一番格の高い足利家の一族でした。
北条家に従属しながらも吉良様や蒔田御所と敬意を特に払われた高貴な殿様の重臣だったのが苅部家です。
蒔田吉良家は戦国時代末期には横浜市南区の蒔田城を本拠地にして、鎌倉公方代理を務めたので蒔田御所と呼ばれていました。
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上の写真は世田谷豪徳寺の三重塔です。豪徳寺の所在地が蒔田吉良家の初期と終焉の頃の居城の世田谷城址です。
この苅部一族の菩提寺の在る円海山一帯を江戸時代に抑えていたのが氷取沢領主として徳川家康公直属の旗本と成った北条旧臣の間宮綱信公や間宮家本家の笹下間宮の間宮直元公です。
生野代官所位置関係 久良岐のよし
上の画像は朝来市教育委員会様に提供頂いた資料をGoogle earthに張り付けた生野代官所の縄張り図です。
間宮直元公は但馬銀山や金山を含めた但馬国内の江戸幕府直営の施設や領地を治める但馬奉行として生野代官所に居り、同時に現在の横浜市中部沿岸部を治める本牧奉行を務め、徳川家康公からも信任が厚かった人物です。
大久保長安が経営失敗して業績不振だった佐渡金山の業績を好転させるべく、徳川家康公の命令で但馬銀山経営のノウハウを持って佐渡に支援に行き、瞬く間に業績を好転させた事から大久保長安の失脚後は佐渡奉行も兼任した名経営者の御奉行様でした。
更に大坂城の真田丸や総構えの埋め立て作戦を立案し、直接徳川家康公に献策したのも間宮直元公でした。
その菩提寺が円海山山麓、笹下川を挟んで反対に位置する場所に在る妙蓮寺です。
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ここには昭和期まで御神廟に間宮直元公の彫像が祀られていましたが、残念ながら火災で焼失してしましました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に掲載されているのが上の写生図。
下は間宮一族の間宮さんが焼失前に撮影した実物の画像です。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
円海山から釜利谷に抜け鎌倉に至る六浦道=金澤道、つまり現代の笹下釜利谷道路と円海山の間道を抑えたのが間宮綱信公です。
間宮綱信公の江戸時代の陣屋は円海山の氷取沢側、氷取沢神社旧境内地でした。
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現在の氷取沢神社は団地開発で移転させられ山の下に降りてきています。
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その近くに在る寶勝寺は元は古河公方足利成氏公が開いた御寺で、元は禅宗でしたが間宮綱信公が浄土真宗に改宗させて復興再開基したと伝わり、以後は氷取沢間宮家の菩提寺と成ったので今でも歴代の殿様の墓石が存在します。
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公にも謁見した人物で、八王子城主で北条家No,2の北条氏照公の付家老(つけがろう=組織上の補佐役だが家臣では無く、主家の家臣のまま出向した家老)を務めた人物です。
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上の写真は八王子城址。現代では日本100名城の一つにも選定されていますが、この城の縄張り、つまり設計を担当したのが間宮綱信公と八王子の現地では伝わっています。
残念ながら八王子城は要害部の完成前に農民と姫様や僅かの守備軍しかいない状況で、豊臣秀吉の配下と成った上杉景勝公、真田昌幸公、前田利家と裏切者の大道寺政繁の大軍勢によって攻め落とされてしまいました。
元は吉良家の北条家臣化後の北条家臣として間宮家の同僚に当たる苅部家、そして北見(喜多見)家、そして北条氏照公与力の重臣として間宮綱信公の格下同僚だった金子家、間宮本家の仕えた玉縄北条家で間宮家の格下同僚だった岡本家等、現在も円海山周辺には多くの旧北条家臣団の苗字が残るのは、江戸時代に間宮家が幕府の奉行職を歴任し、大変栄えたので北条家解体後に元同僚の伝手(つて)で間宮家に与力として仕えた為でしょう。
この内、岡本家は氷取沢間宮家の重臣となり陣屋を守り、杉田間宮家の陣屋は鎌倉時代以来の一帯の名門武士だった荒井家が守り、本家の笹下間宮家の笹下陣屋本牧奉行所は間宮家から養子が入っている武内家が守っていました。
円海山からは、そんな戦国時代の偉人達の足跡も辿る事が出来ます。
そして現在では余り知る人も少なくなりましたが旧白山社旧跡も瀬上沢と山を挟んで反対側、市の教育委員会が自然保護を怠った庄戸地区に在り、その参道の前を流れる鼬川に掛かる橋は昇龍橋と言います。
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横浜市教育委員会では無く神奈川県土木部道路整備課によって神奈川の橋100選に選定されました。
この鼬川周辺も昔は蛍を見る事が出来ましたが、先述の通り自然環境の悪化で今では・・・
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畠山重忠公の開いた東光寺や御子息の畠山重保公の御廟所が有る釜利谷地区とは山の裏側の辺り、瀬上川の河畔には昔の水田への灌漑施設の隧道が残っています。
 
ここは円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。
以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急建設が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する東急建設と、それを容認する環境整備局そして陳情を見殺しにする現横浜市長の林文子市長の暴挙ですね。
林文子市長は事前の保護も開発阻止も自然環境保護の先手も打たず陳情に対して・・・
「地権者が開発したいんだから邪魔出来ねぇ~し知らね」
・・・と言う事を言っています。
彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りません。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか歴史偉人達の遺産を踏みにじったか我々で語り継いで行きますよと。
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…

皆んなで淡々と事実拡散するしか蛍の住める環境を含めた自然環境を守るには出来ません。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の森でもありますから。
執政者と開発業者の責任者の名前と経営者の名前を負の歴史として記録して永久に地域で残します。
それが民主主義で出来る事。
陳情に色良いレスポンスないんだから、やったら責任は歴史に刻んで後世に判断して貰いましょう。
この他にも円海山だけでなく横浜市内には腐る程、間宮家関連、蒔田吉良家関連の神社仏閣が有り、円海山の開発が進めが情報も檀家氏子で共有し更に間宮会から世間にも拡散されて行く事に成るでしょう。
この手の自然保護活動と破壊に関心の高い新聞社も間宮家の研究に熱心な某所に出入りしていますし。
東京の蒔田吉良家臣団の御子孫とも連携出来ますしね~。

まぁ、今なら東急さんも林市長も横浜の自然環境を守った偉大な英雄に成れるかも知れないけど。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

さて蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。 
瀬上池の位置
今月の写真を交えつつ、観察or鑑賞マナーについて書いてみます。
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先ず、小生の様にフラッシュを焚いた蛍その物の写真を撮影したい方は以下の点に留意するべきです。
●他の鑑賞者のいる時間帯にフラッシュを焚いて撮影しない・・・他の人が蛍の光を見えなく成ります。
※小生は毎回深夜の1時~4時頃、誰もいない中、必要が有れば川に入って撮影しています。
※蛍はフラッシュ焚いて撮影しても、連写しないで数十秒間を置けば光る事を止めません。
●暗がり対策で持参した懐中電灯で照らし続けるのは止めましょう。
※フラッシュより観察や位置確認の為でも懐中電灯で照らし続ける方が蛍が光るのを止めてしまします。
●深夜遅くて暗くて怖かろうが1人で行ってヒッソリと撮影&観察した方が良いでしょう。
※複数人で言って話し声や大勢の気配がすると逃げてしまいますし、何より深夜に御近所に民家も1軒有るので迷惑に成ります。
※先述の通り、小生は必要が有れば川に足つかったりしながら、蛍の見える位置に回り込んで撮影します。蛍を動かしたり捕まえて撮影しない為の行動です。
●深夜に大勢で鑑賞会なんて絶対にするなよ。近所迷惑だから。
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以下当たり前の事。
●円海山は火気厳禁です。タバコはポイ捨て以前に吸うな馬鹿野郎。当然花火も焚火もするな。
●大勢で押しかけるな。家族や少数の友人と行き静かに鑑賞しないと近所住人に迷惑。
●他の鑑賞者がいる状況でフラッシュ撮影するな。先述の通り。
※どうしてもやりたければ、小生の様に深夜に懐中電灯も持たずに一人で行って、時間間隔空けながら撮影しましょう。そうすれば迷惑にも成らないし蛍も光るのを止めません。
●18歳以下の学生は夜間外出を控えましょう、根本的に22時以降に蛍を鑑賞していたら警察に補導されますよ。当該地域周辺は警察官が巡回しています。
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この写真はフラッシュ焚いた数十秒後に再撮影した写真。
あと、蛍が尻の光を点滅すると思ってる人いますけど、蛍って点灯しっぱなしの子もいるんですよ~。
この子は点灯しっぱなしの子でした。

さて、こんなマナーみたいなものを言わなきゃいけない程に蛍が珍奇な存在に成ってしまったのが小生が小さい頃の田舎的な風景や蛍の多さからは想像もつきません。
昔は、多分他府県の人も同じ経験をしていると思いますが・・・
「蛍見に行こう~!」(多人数でわいわい)
「あら危ない懐中電灯もって行きなさい(おばちゃん)」(蛍照らしまくりの観察しまくり)
「蛍綺麗だね~!」(横で花火)
・・・小生の場合、育った年代的にも円海山や上郷の宅地化は進んでいませんでしたし、祖母の住む田舎が有ったり、幼馴染が引っ越した千葉県も自然が豊かだったりで、普通に宅地の傍の農道や自宅の近くの湧水の農業用の池の周りに昔は蛍がいたんです。円海山の瀬上沢も近所だから遊びに良く行きましたしね~。千葉の印旛沼辺りじゃ田圃に農薬撒いた翌日もスンゴイ蛍沢山見れたしね。

円海山に蛍をわざわざ保護しないといけない環境にしたのは横浜市ですが、その蛍の生息できる環境に止めを刺す開発を行いたいのが東急不動産で、それを容認する発言を回答したのが林文子市長です。
ただ多分、横浜市よりも現状では東急建設に理性が有って踏みとどまってくれて様子を見ているんだと思います。横浜市役所は内部の連携が目茶目茶で林市長が統治出来てるのかも謎。
あと十年余りで樹齢100年に成る桜並木の街路樹を伐採させたり、調査もせずに城址の空堀を掘削したり盛土して宅地化する案を容認する横浜市歌も歌えない奴が務める横浜市建設指導部と違い、本来は伊勢神宮から天照大神の御分霊を勧進し東横神社を開基し自然や文化の保護に意識が高かった❝昔の東急東横線の五島慶太社長❞始め過去の歴代社長は今の東急建設を見たらどう思いますかね?きっと苦虫を噛み潰したような表情で現在の瀬上沢開発に関わる東急グループ社員と林文子市長と黒岩知事には天罰落としたいと思っている事でしょう。なんせ東横神社は伊勢神宮から勧進した天照大神と合祀された渋沢栄一公が御祭神、自然守護の象徴たるお伊勢様と経済世民と愛国を両立した渋沢栄一サンを東急グループは守護神としている訳だが・・・
この事を恐らく東急建設の現経営陣は知らんだろうな。
これを機に、林市長と横浜市と東急建設に瀬上沢の横浜市による土地買上げと当該地域への広域自然保護区認定を改めて行って貰える様に、皆さんで陳情して頂けると幸いです。
●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299
●林文子市長支援者の黒岩神奈川県知事の窓口
〒231₋0007 横浜市中区弁天通1₋15₋1
黒岩祐治事務所 TEL:045₋227₋5119
●林文子市長を推薦した自民党の横浜市選出の菅義偉官房長官
〒232₋0017 横浜市南区宿町2₋49
横浜市部事務所
TEL:045₋743₋5550 FAX:045₋743₋5296
✉:suga.yoshihide@gmai.com

・・・個人的に小生は思想的には保守寄りで自民党の日本文化を大切にする姿や経済政策の支持でも有りますが、こと東急建設と林市長の円海山一帯開発利権の為の文化史跡自然破壊に関しては看過出来ません。小生と意見を同じくする人は既に十万人超の署名が集まり、日に日に増えているそうです。
これもセーブザ瀬上の皆さんの活動の御陰です。
横浜市の自然と古来の文化醸成地を守った英雄に成って頂く道を選択して頂き担当者さんや林市長に歴史に良い意味で名を残して頂きたい。
そう、高秀秀信市長の先例に倣って。
東急さん?鎌倉市歴史文化交流館を御存知ですか?あそこは某出版社の経営者の方が取得した広大な土地を鎌倉市に寄贈して出来た施設なんですよ?
黒岩知事、あなたの統治下で神奈川県教育委員会が神奈川県立金沢文庫の保有する国宝の経典がカビさせたのは❝エアコンの整備予算❞を出さなかったからですよね?それと同じ失敗を繰り返すのですか?
アナタの支援者には創価学会が付いています、日蓮聖人は密教にも精通し日本各地の聖地霊場と自然と史跡を巡り修行をされた方です、鎌倉市七里ヶ浜で雨乞い神事を行われた場所も史跡に成っておりますし、横須賀市猿島の岩屋も有名です。正に横浜市における円海山の様な場所は日蓮聖人が現代におられたら大切にされる場所でしょうね。実際、磯子区妙法寺と金沢区上行寺は日蓮聖人の聖跡ですが、その上行寺の船中問答の船着き場や六浦湾や上行寺東遺跡を破壊したのも埋立地と開発利権の商奴の如き輩でしたね。
高秀市長の時は大塚歳勝土遺跡と茅ヶ崎城址を保護し素晴らしい都市計画をされ、小机城址も保護されましたよね?御蔭で小机城址は❝続日本100名城❞にも選定されましたが、いつに成れば県指定史跡にするのでしょう?
・・・ましてや円海山の自然をこれ以上破壊するとは、自然保護区として遊歩道を整備して来た歴代市長や知事の意思に反し、横浜市の宗教者達も黙ってはいないでしょうね。
林文子市長、アナタはダイエーの再建に失敗し、待機児童0達成直後だけ良い顔してその後の悪化に関しては大々的に報じない丸で宣伝の様な利用の仕方、素晴らしい政策も良し悪し両方同じ様にアピールしないと誠実とは言えませんよ?給食に代わる弁当予約システムも、学生一人当たり単価がとんでも無い金額に成っているのに、何でWikipediaにはアナタに不利な情報が掲載されるとたちどころに削除されるのでしょうね?そしてアナタの最大支援者はヤクザの山口組を賛美されておりますが、それでカジノを作りたいですか?
市長に成ってからは円海山開発容認発言、間宮林蔵と杉田玄白と間宮士信の祖先で徳川家外戚の間宮家の笹下城址の地形破壊を容認し、笹下城址外郭の松本城址樹齢100年に迫る桜並木を伐採容認し、そして瀬上沢と横浜市最後の蛍の群生地破壊反対票と十万人単位の反対署名無視・・・
まぁカジノは日本人が利用出来ない様にして下されば良いでしょう、しかし円海山と瀬上沢と小机城は一切手出ししないように。そして早く横浜市指定自然保護区域の拡大保護、史跡指定を行う事を切に願います。

まぁ、庶民に合法的に出来る事は語り伝えあなた方の事績の記録を残す事と檀家氏子で共有し、陳情とマスコミと連携して全ての事実をブチ撒けるだけ・・・。

日本屈指の史跡、上行寺東遺跡を破壊させた横浜市役所、同じ事をするなら許さない。

推進派の役人1人々々が個人単位で対 横浜市民数十万単位の御近所様と戦う覚悟でいろ。末代までな。
おまエラが建設利権を貪るよりも、高秀市長の様に歴史知識も文化自然にも見識有る政治家主導の開発地取捨選択と発覚した貴重な場所の保護を両立させた都市計画が大切なんだわ。
今の緑地は既に過去から❝保護すべき場所❞として残された場所なんだわ。
瀬上沢は横浜市の聖地円海山、室町時代まで栄区~神奈川区~磯子区~港南区に跨って使われた幻の地名❝峯❞の由来であり、神道のみならず修験道や真言宗や臨済宗や曹洞宗や浄土宗や浄土真宗や日蓮宗にとっても鎌倉文化にとっても大切な場所なんだわ。
他府県から❝就職❞の為に市役所に入り勤めて、何も考えず何も知らず何も調べず何も横浜市民として郷土愛も持たずに横浜市の古来の日本文化史跡と自然を破壊する一部役人と開発利権無文化土建屋を、保守派と日本の為に世界と戦い横浜復興に力を尽くされた原財閥や浅野財閥の皆さんと同じく生粋のハマっ子日本人は許さない。
横浜市役所に勤めながら横浜に愛着を持てず、横浜の最大最後の自然と文化破壊を何とも思わない奴は日本人を止めろ。いつまでも横浜を地元と思えないなら❝おまエラの地元❞に帰れ!
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2月・・・
如月十五夜お月様の事をスノームーンと言うらしい。
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スノームーン🌕のまん丸お月様が余りに綺麗だったので円海山の頂上に写真撮りに行って、ついでに横浜横須賀道路🌉と横浜市街の夜景🌃も撮影して来た。
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街明かり綺麗。スマホだと少し限界有るかな~?
デジカメでも撮影してみた。
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うん!やっぱり綺麗に撮れてるね。
そんな風に歩きながら風景見て・・・
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・・・えっちらおっちら頂上よりも月の写真撮りやすい秘密のポイントに移動。
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途中、横浜横須賀道路の夜景も撮影!
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悪くないね、夜の道路の風景も。
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目的地のとある場所に到着。
誰も🌃夜に人来ないデジカメ持ったまんま仰向けに地面に寝そべってても不審者扱いされたり通報されない場所じゃないとね(笑)。
空向いたまんま両手を固定して撮影出来ないと上手く🌕お月サン撮れないからね~。
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スマホ📱サンだとこんな感じが限界だった。
う~ん・・・
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・・・小っさ(笑)!
デジカメ君出番だぜっ!
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・・・やりよるの~デジカメ君📷✨。
20000円なのに充分頑張ってくれてるね~。ありがとう!
てかさ・・・
「スノームーン🌕て名前なんで?」
・・・とか思ってたら色白美人サンな満月だからなんだね~。
本当に真っ白だった!
比較対照に同じ場所で何年か前に撮影した月蝕の時の満月🌕サン・・・
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漫画のハゲキャラの頭みたいに“きらーん✨”て光ってる(笑)。
何か月って黄色っぽい印象だけど、多分、2月の十五夜の満月は特に真っ白だから“スノームーン”て言うのかな?

まっ!色白美人サンな満月も良いね。

ところで円海山の山頂は月もだけど富士山と夜景も綺麗。
日没直後に円海山から西側を見ると富士山の山影・・・
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・・・そして栄区~鎌倉~藤沢~茅ヶ崎~平塚~厚木~伊勢原~秦野~大磯~二宮~小田原~湯河原~箱根の街明かりが見渡せる。
反対の東側も綺麗・・・
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・・・横浜港の夜景が一望出来るのね~♪。
朝の富士山も綺麗。
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夕焼けの富士山も綺麗。
昼間の富士山も綺麗。
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初夏には麓の瀬上沢の蛍も綺麗・・・
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でも、この蛍は東急建設の開発計画で瀬上沢西側の沢ごとえぐりとられ人工貯水地に沈む範囲に組み込まれてしまっている・・・
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・・・林市長、保護してくれないかな?
上郷深田遺跡
東日本最大で日本屈指の奈良~平安時代の歴史的に長い間使われた鑪製鉄の遺跡、上郷深田遺跡も開発で削りとられ破壊される計画に成っている。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
とくに上郷深田遺跡はユネスコに世界文化遺産登録出来る程の価値が有る稼働期間数百年、日本最大規模のタタラ遺跡です。
林市長、月と蛍が良く見える自然の夜の暗さが有る横浜最後の大森林の円海山と上郷深田遺跡守って下さい。
そしたら皆も応援出来ます。
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円海山を御存知ですか?
今、その円海山と言う山の「瀬上沢」と言う沢で蛍を見る事が出来ます。
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画面ぶれててすいませんね、街灯の無い真っ暗な農道での撮影…携帯ではこれが限界でした。

6月7日、横浜市港南区磯子区栄区にまたがり鎌倉まで繋がる横浜最後の大森林、そして平安時代からの武士達の駆けた鎌倉早駆けの道の史跡が林道として残る円海山に蛍を観察に行ってきました。

蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。
瀬上池の位置
この栄高校の有る場所一帯は奈良時代からのタタラ製鉄遺跡が出土した史跡だった場所であり、その瀬上沢も奈良時代から今に灌漑水稲耕作を今に伝える文化醸成地であります。
大げさでは無く、この一帯の田畑は農業の史跡であり、古代からの灌漑施設の史跡とも言えます。

今日、蛍は5~6匹出てきて可愛いオシリの優しい光をホワ~と照らしてくれました…
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携帯だから良く写せないけれど、それでも優しい光がわかりますよね~♪

小生が子供の頃は、良く瀬上池にザリガニを獲りに自転車で行って、みんなで瀬上沢で水遊びしたり瀬上池で釣りをしたり、林道を駆けずり回って遊んでいました。
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昔はもっともっと沢山の可愛い蛍が見れたんです。
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左上の2匹の蛍君達…オシリが光ってるの判りますか?
昔わね~瀬上沢には天然のフナもいたんですよ~!
今でも瀬上池にはいますけれど、もう、瀬上沢にはフナはいません…


この瀬上沢周辺、局地的に見るとぱっと見は有り余る自然に囲まれているようですが…
瀬上沢

少し離れて見てみると…
瀬上池の位置
…丘の上を宅地開発されてしまい自然環境が劣化したせいで蛍も激減し、フナも消えました。
沢蟹も減り、トンボの幼虫のヤゴのエサになるカワニナも減り…
この瀬上沢も自然環境が崩壊寸前、歴代市長の御蔭で首の皮一枚、繋がっている状況でした…

が!

近年、歴代市長や市民の意志を踏みにじり、ふとどきにも!この沢の自然環境にトドメをさして宅地開発しようとする業者とそれを止めない市長が出てきてしまいました。
東急グループと、その労組と、林市長です。

蛍を消し去る意志が無かろうが、宅地化した瞬間に間違いなく蛍は消えます。
結果的に消えてしまえば、自然環境を破壊したのは開発した業者」と、その業者の労働者の代表の「労組」と、歴代市長の「里山思想に基づく円海山の保護」と乖離した「開発容認する市長」です。
つまり、この瀬上沢においては「林文子市長」と「東急グループの労働者」と「東急グループの経営者」と言う事に成ります。

皆さん、横浜市にこんな素晴らしい自然環境が首の皮一枚つながった程度の危うい状況で残っているのを知っていましたか?
円海山は横浜市で一番高い山なので風景も綺麗です…
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この通り、まだ神社や御寺が生活に密着していた昔の古代~戦前、多くの関東地方の先人が「此花昨夜姫(このはなさくやひめ)」の化身として仰ぎ見た富士山も綺麗に見えます。
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先に述べましたが、円海山の林道は鎌倉武士達が利用した古道の史跡で、今でも円海山~鎌倉の古代の出入口だった十二所の大平山の古道や鎌倉時代の出入口だった朝比奈峠の朝比奈切通しへ通じています。
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皆さん、蛍を見に行って古代人から受け継いだ自然を鑑賞してみませんか?
可愛い蛍君達に、弱ってしまった自然の中、ギリギリ残った儚(はかな)い可愛さを見せてもらい、瀬上沢の自然の大切さを感じて見ませんか?

円海山に富士山を見に行って、先人達が女神さまとして拝んだその美しい姿を心で感じてみませんか…?

この円海山は文化醸成地だったので、以前のブログ記事で紹介した竹林の風景が美しく古典落語「峰の灸」の舞台に成った「円海山護念寺」と言う御寺や…
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元々は護念寺の本院だった安養山 峰の阿弥陀寺も在ります。
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この阿弥陀寺は浄土宗総本山である京都の知恩院の第四十六世、了鑑大僧正を排出した由緒の有る御寺でも有ります…
その阿弥陀寺の前にある峯白山神社は阿弥陀寺の昔の和尚様によって当時の阿弥陀寺境内だった現代の境内地に白山権現様を勧進して開かれた神社です。
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瀬上池と瀬上沢の近く、阿弥陀寺とは円海山の反対側八軒谷戸には白山神社古址と旧参道に架かけられた横浜最古の石橋で神奈川の橋100選の一つにも選ばれている昇竜橋と、庄戸地区に移転した白山神社も有ります。
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この神社の白山権現の神様は天皇家の御先祖様に当たる女神様です。
そんな神様が鎮座し、大僧正を排出し、古典落語の舞台にも成った円海山ですが…
可愛い蛍も「瀬上沢」で待ってくれていますよ~!

皆さん、鎌倉文化や古代人の歴史を刻んだ円海山、是非、この機に散歩しみて下さい。

注意!
蛍を鑑賞する際は以下の事を順守して下さい!

蛍を見に行く時は大人数で行かない!…大人数の集団だと虫さんがビックリして逃げてしまします!
暑くても長袖長ズボンに虫よけちゃんと塗って行くのをお勧めします。…自然の中、夏、当然、蚊がいます。
タバコを吸わないで!…火事の元な上に、匂いで虫が逃げます。そもそも条例で禁止されています。
火気厳禁!…当たり前。見かけたら通報します。
ゴミは持ち帰れバカ野郎!…そもそも自然公園でゴミを出すな。
夜中に騒ぐなバカ野郎!…風流の欠片も無い事をするなら来るな!騒ぐなら昼間の川遊びにしろ!てか祭りに行って騒げ!てか寧ろ日本人辞めてどうぞ!
以上、宜しく。



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節分は豆まき派? 恵方巻き派? に参加中!
関東では節分に豆撒きをし、関西圏で恵方巻きを食べる様に、地域住民に根ざした文化は、それぞれ由来に成った文化醸成地が有ります。

横浜市港南区栄区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園が有るのを皆さん御存知(ごぞんじ)ですか?
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域でもあります。
この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。

実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。

更に‼︎

蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の金沢区の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山大谷戸広場側です。
昔ながらの貴重な里山保存区域です。
綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?
本当、貴重な自然と里山なんです。

今は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。

以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。
今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!
この瀬上池は釣りが自由に出来て、フナや鯉なんかが小生子供の頃は釣れました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。
この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。
別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!

円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所は、下の写真の場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。

以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
マジなんだかな〜?
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する暴挙だろ、これ。

彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りませんね。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか我々で語り継いで行きたいと思います…
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…
…くれるかな〜?
皆んなで淡々と事実拡散するだけですね。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の杜でもありますから。
過去帳にも歴史として残るし…。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

あ、そうだ!
前回の記事投稿から10日も間を空けて済みませんでした!

では皆様、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
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