歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:玉屋のようかん

五月は雨も多いけど抜けるように真っ青な雲の少ない晴天も多く、山も海も散歩するには気持ちの良い季節・・・
今日は小生の様に独り散歩(笑)でも彼氏彼女とのデートでも丁度良い、そんな江ノ島~鎌倉の浜辺歩きながら撮影した写真を紹介したいと思う。
・・・実は湘南モノレール江ノ島駅~江ノ島前の片瀬海岸や腰越海岸に出て、そこから由比ヶ浜の端っこの小坪飯島公園まで散歩し更に鎌倉駅にまで戻ると丁度、徒歩で11kmと程良い歩行距離と奇麗な景色を楽しむ事が出来る。
江ノ島~鎌倉散歩 久良岐のよし
このGoogleEarthの衛星画像をクリックして拡大して見て欲しい。
黄色く表示したのがコース。
赤いグラフがコースの海抜を現した起伏で下の青い字が小生が追記した見物先の地点名。
こうして見ると高低差が余りなく穏やかで歩きやすい事が判ると思う。
この11kmコースは普段の休みに山道を20km歩き回ってる小生には短い様で、実は砂浜を歩くので山道の20kmと遜色ない運動量に成る。
山は山で緑の匂いと風と鳥の囀る声も心地良く感じられるが、海風と波に戯れる人々の微笑ましい快活な様子を見られる風景も又気持ちが良い♪
KIMG8214
この日、小生はいつもと同じく日没の少し前に稲村ケ崎に着く様に逆算して徒歩で出発し大船駅から湘南モノレールに乗車し江ノ島を目指した。
KIMG8215
いつ見てもカッコ良い、線路が無い懸垂式の湘南モノレール!
KIMG8218~2
う~ん面構えが良い。
先頭車両からの景色はコンナ感じ・・・
KIMG8216
・・・大船駅だね。
途中端折って江ノ島駅に到着。
KIMG8219
そこから江ノ電片瀬江ノ島駅を通過、商店街を抜け江ノ島に向かって歩く。
途中見えるのが・・・
KIMG8221
玉屋のようかん 本店
この玉屋サンは明治四十五年(大正元年)の1912年に開かれた100年企業の老舗で、昔からこの本店と江ノ島島内の支店で羊羹を販売している。余り若い人は羊羹食べないかも知れないが、プレゼントする相手が高齢者(笑)だと玉屋の歴史が100年有る事を説明すると喜んで貰える、良い江ノ島の御土産に成るんだな。
前回も紹介したけど今回もホームページのリンク張って置く(笑)。
もう1軒魅力的な店が有って・・・
KIMG8222
紀伊国屋旅館
紀伊国屋サンて言う老舗の良い旅館、宿泊費も安い!しかも江ノ島の海水浴場まで徒歩5分!
高級なリゾート旅館やホテルじゃなくて、本当に旅館ちっく
でも事実上の停止命令の自粛で今年のONシーズンは宿泊も海の家の営業中止しちゃったんだって。
黒岩知事さぁ、貴方と安倍総理の初動対応の遅れと、その後のクッソ遅い補償と脅迫付き政策のせいで雰囲気良い老舗がバタバタ潰れてくんだわ。
・・・早く何とかしてね。
KIMG8223
江ノ島島外の紀伊国屋サンだけでなく江ノ島島内の旅館の皆さん、三浦半島の民宿や旅館の経営者の皆さん・・・
新型肺炎は感染に注意はしても、もう自粛止めて下さい!
皆、営業再開して生き残りましょう!
・・・中途半端な本来は強制ではないはずの自粛要請でビジネスマンは電車バス通勤して全く三密回避していないし、一番感染リスク高い性風俗店やキャバクラ普通に営業して西村経再大臣も黒岩知事も実名公開で自粛要請も何もしない事実上の黙認。
これで真面目にやってる観光業、旅館業、飲食店が自粛を脅迫されるのは不平等極まりない理不尽ですから、もう営業して自衛して欲しい。
・・・でも、安倍首相の鈍間加減にも、野党の反対しかしない愚鈍さに対しても・・・
00220_l
「駄目だこりゃ(笑)!」
「再開(つぎ)行って見よ~ぅ!」
・・・と思った小生の同士(笑)達がシッカリ三密回避しながら江ノ島で家族の安らぎの一時、恋人同士のユックリとした優しい時間を過ごしていました。
KIMG8227
パパが女の子の手をシッカリ繋いであげて渚で遊ぶ様子は見ていて微笑ましく羨ましい(笑)。
皆、観光して神奈川県の商店主達を助けてくれてありがとうねぇ~!
馬鹿な自民党の幹部老害と野党の極左実害政治家達や、鈍間な厚生労働省の国家公務員から我々庶民が個人判断で経済を守りながらお互いの物理的な距離を保ち、シッカリ消毒して日本人の生活と文化を守って行きましょう~♪
KIMG8228
ここから見る近い江ノ島と長い長い浜辺に打ち寄せる波も良いね。
さて、この江ノ島を正面にして左手の海岸を東浜と言うが、ここに元々は橋なんて無かった。
2014-09-02-10-38-19
干潮に成り潮が引くと島と海岸が繋がり徒歩で渡る事が出来る“神秘性”が有る島だったからこそ、欽明天皇や文武天皇が勅願所にした聖地であり、源頼朝公や足利成氏公や北条氏康公が戦勝祈願をして不利な合戦で大勝利を収めた魅力的な観光地として江戸時代の庶民にも愛され、わざわざ当時の人は東京から徒歩で江ノ島を参り、伊勢原の大山を登り、そして富士山を御参りするのが定番コースに成っていた訳だ。
それと後で実際の写真を掲載するが、恐らく江ノ島の橋脚やヨットハーバーの建設が潮の流れの変化を生み七里ヶ浜稲村ケ崎の砂の流出と思われ無関係では無いだろうと思う。
KIMG8226
幸いな事に境川河口に近い東浜~腰越海水浴場はまだ砂浜が残っている。
家族連れで賑わい、恋人同士が仲睦(なかむつ)まじく手をとり散歩するホンワカした風景が広がっている。
まぁ・・・
住宅街と商業街の下流の海だから水質は御世辞にも良くは無いのが江ノ島近辺なんだけど(笑)。
そこから小動の岬に向かって歩く。
KIMG8229
すると小動の岬の側面西側には戦時中に連合軍の上陸迎撃を想定して築かれたトーチカ遺構の入口が現在も残っている。
半島の側面そこかしこに内部の塹壕から狙撃する小窓状の四角い穴も開いている。
この様な遺構は相模湾から三浦半島西岸の崖地に今も多数残っていたりする。
小動岬の上に在る小動神社を目指して歩くと、渋滞に多くの多摩ナンバーや品川ナンバーの車を見かけた。
KIMG8231
いらっしゃい!ようこそ神奈川へ。
お金落としてくれてありがとう♪
本当にクラスタ感染の抑え込みが必要だった2~3月ならいざ知らず、今となっては政府の感染源特定不能が広がった4月以降は中国やイタリアみたいに完全外出禁止命令にしないと全く意味が無い状態だったので誰が来ようが最早関係ない(笑)。
もう感染覚悟で経済回さないと、今はダラダラ政府と黒岩知事の脅迫付き実質営業停止命令の自粛延長のせいで多くの中小企業や飲食店や旅館が潰れ始めている。
KIMG6991
バブル崩壊後、民主党政権の暗黒時代より酷い。
挙句の果てにド田舎39県は自粛解除され、首都圏の商店主や観光業や飲食業は自粛延長で潰れてる。
なのに安倍総理、西村大臣、黒岩知事は一番感染リスク高い性風俗を全く自粛対象にせず、店名名指しのペナルティも課さなかった。
理不尽極まりない。
普通に電車バス通勤を我々現役世代は強いられ、学校が休校中の中高生の子供は集団で遊びまわる、大学生はレンタカー借りて行楽地に行き海で山でBBQ、感染自覚ありながら高速バスで山梨にBBQ行って男とSEXして東京帰って来る女みたいな確信犯の奴等がカオス。
山に川に行くなと言わないし、寧(むし)ろ自然の中で人と物理的距離をとって単独で行動したり友人や恋人とも少し我慢して離れて歩けば全く問題ない。
でもこの女は自覚症状が有りながら彼氏に触れ合って高速バスで帰って来た訳だ。
石田純一並に最悪な行動だろうな。
KIMG8232
武漢市民が武漢市封鎖寸前に多く日本に逃げて来た1月初旬は法律上、彼等を政府が拒否しない限り我々にとって武漢の方々も大切な御客様だった。ならば政府は感染開始の1月~から成田や羽田で感染者特定の体温検査と特定後の隔離を草々に行うべきだった。
つまり1月~2月~3月初頭が水際作戦&クラスター追跡と隔離しながら検査を実施するベストチャンスだった。
台湾の蔡総統の成功例と習主席直接の防疫体制確立指示が出てからの中国の対処を日本は共有されていたから、その時期に同じ事を真似すれば良かっただけなのに、過去の事例と官僚の面子に拘ったせいで2月頭からのアドバンテージは発揮されず、3月中旬には失敗が確定した。
しかも中途半端な自粛で休校中の子供達は自由に遊びまわり、老齢の方々も必ず団体行動で感染リスクを高めた。
若者と老人が感染を恐れず広げ、現役世代は感染リスクに怯えながら1月~2月を過ごし、3月には諦(あきら)めた訳だ。寧ろ4月~5月に成っても政府の公称「自粛」の実質脅迫付き、自粛の損失補償無し「営業停止命令」は続いた。
KIMG7413
東京駅周辺も観光が殺され仮死状態から潰れた店がある。
申請しても直ぐに振り込まれない補償。
最初は家賃補助すら話題にもせず営業自粛“強要”だけ政治家にされて、家賃の支払いも出来ず絶望して店を閉めた店も有るだろう。
小生自身が恐らく失業する。
小生の幼馴染の両親がやっていた店も潰れた。他にも知ってる店が潰れた。
先ず対応遅れた戦犯の加藤厚労相と尾身とか言うジジイが殺意湧く程許せない。
ダラダラ中途半端な自粛をさせる安倍総理と西村大臣も許せない。
・・・とは言っても、人を呪ってもメシは食えない(笑)www
自分の精神衛生上の理由でも海や山を歩き神仏に御参りしストレスを追いやり、高温多湿で安全な各地の銭湯巡り、小さな良さげな店で美味い物を食う!
そして感染しない様に距離を取り、人の密な場所には・・・
元々行かないし、横浜駅界隈や東京の港区みたいなコンクリートの無文化な町(笑)嫌いだしな。
KIMG8233
小動神社小生は3月からはもう、三密リスク回避は自分でしながら通勤可能な外出自粛なんて中途半端で意味の無い事をせず、ガンガン山歩きと浜辺散歩をし、神社を御参りしてストレスを貯めず自分の健康維持に務める事にした。そして神社や御寺を御参りして、世界の新型肺炎終息終息の祈願を神仏に御願いしていた。・・・当然ながら一人行動でね。
小動神社に御参りしたのも、その一環。
KIMG8237
この小動神社は鎌倉時代に源頼朝公の与力の名将、佐々木盛綱公が近江国の八王子神社を勧進して開いたと伝わるが、宗派を超えて歴史を辿ると、どうやら神社が開かれる以前から小動の岬状の地形が典型的な古代の海からのランドマークとして聖地化されていたらしく、今は道路を隔てて反対側にポツンと存在する真言宗の浄泉寺は空海和尚が開いたと伝わる。

そして、この浄泉寺を佐々木盛綱公が船の上から参拝したと伝わっているので、恐らく元々八王子社の前身に成る牛頭天王社か何かを空海和尚が御寺の境内社として開いたんじゃないかと思う。
それを佐々木盛綱公が御参りしたと言う事だと、空海和尚は方々の港や岬に海上交通の守護神として日本神話に則(のっと)って牛頭天王(素戔嗚尊:スサノオノミコト)を御祀りする御堂を建立して回っている歴史事実とも整合性が出る。
そして、恐らく鎌倉時代には既に荒廃していたので改めて佐々木盛綱公が近江国から八王子社の御心霊を勧進したのだろう。八王子神社の御祭神も一般的に牛頭天王とその王子なので矛盾しない。
この神社は佐々木家と関係が深いので佐々木家の隅立て四ツ目結び紋に〇で囲われた社紋が現在でも使われている。
KIMG8239
小動神社は改めて別の独立記事にしたいと思う。
余談だが江ノ島は元々島全体が聖地で洞窟が欽明天皇の勅願所だった。その江ノ島を管理する別当が真言宗系修験の岩本坊で、岩本坊は明治の仏教弾圧に岩本楼と言う旅館に業種替えして現在も存続している。その岩本楼の社長が元々の江ノ島と奥津宮岩屋(洞窟)別当職で僧侶であり侵食だった岩本家で、明治までの本姓は間宮であり、平時は間宮家を公的には家祖である佐々木氏を称した。
つまり江島神社にも佐々木一族が深く関わっていた歴史が有る。

そこら辺は間宮家の簡単な解説を以前書いた時に触れている⤴
江ノ島観光した時の記事にも、もう少し詳しく解説を書いたと思う⤵

ところで小動神社には展望台が有って、そこからの眺望が凄く良いのだが・・・
小動神社展望台
・・・外出自粛で人が少ない17時過ぎに誰も参拝に来ないと思ったのか、三十代くらいのオラ系ファッションの男とギャルっぽいカップルがベンチで“だいしゅきホールド”で抱き合って明らかに♀に入った♂まんま、女の方はまさかの緊張感の眼差しで、小生が“ゆっくり(笑)”淡々と境内で一頻(ひとしき)り参拝をして回る間、ずっと身じろぎもせず男に抱き着いたまま顔はコッチを見ていた(笑)。
下半身は展望台の壁で見えず腰から上しか見えてないから、風景の写真撮るフリして撮影したろか(笑)?と思ったが、せっかく興奮して盛って交尾したのが嫌な思い出に変わったら可哀そうだから、一応見て見ぬふりしてあげていた。
ちなみに“だいしゅきほーるど”てのはコンナ⤵
そしたら後から来た白人カップルの参拝客が空気読まずに展望台に上ろうと近づいて、そんでも男女からまったまんま動けずにいたのが面白かったが、流石に白人も「変だな?アレ~?」と思ったらしく4~5m位手前でUターンして戻って来た(笑)。良かったなバカップル(笑)?
これが小生や優しい白人オジサンじゃなくてヤンキーだったら男はボコボコにされて女は輪姦されたかも知れないな。
SEXするなら神様に迷惑かけない場所でやりましょう(笑)。神罰くらうぞ(笑)。
KIMG8245
アホな男女の怪しいだいしゅきホールドのハプニング発見の後で小動神社を参拝し終えて七里ヶ浜に移動。ここから砂浜づたいに約5km稲村ヶ崎迄を歩く事にした。
・・・と、言うか砂浜を散歩するのがメインの目的だった。
KIMG8246
サーファーも良いねぇ~!

これぞ鎌倉の海!
でも可哀そうなくらい普通の波しか来てなかった(笑)。
KIMG8249
だいぶ歩いてきた。
で、毎回この辺り来ると一応立ち寄る場所・・・

鎌倉高校前駅があり、そこの踏切から海を臨む景色が有名。
スラムダンク鎌倉高校前駅横踏切
スラムダンクの舞台で台湾や中国からの新婚旅行の若夫婦なんかが記念撮影に来る場所。
・・・で砂浜に戻る階段にコレが書いてる。
KIMG8252
タバコボ?
KIMG8253
駐車場の辺りから振り返ると良い感じに夕陽に富士山の影が浮かび上がる時間に成って来た。
あとちょっと歩いたら稲村ケ崎。
砂浜歩くの止めた、と言うか歩けなくなった・・・
KIMG8256
・・・原因は最初の方に江ノ島の腰越海岸の部分で話してた砂の流出な。そもそも歩く砂浜が環境破壊のせいで皆無に成ってしまた。これを行政は温暖化だなんだと責任転嫁するが、実は違う。
潮流が変わる余計な堤防工事や、市街地化した部分の河川の護岸工事で砂が生成されずもう70年以上もまともに相模湾に砂が流れ込まなくなったからだ。
実に昭和の高度経済成長期の土木は無節操で20年前の中国の都市開発並みに稚拙だと思う。
全く自然への影響が考慮されていなかった。
縄文海進 久良岐のよし
縄文時代、東京湾?と言うか関東平野は海で最奥部は群馬県に達していた。東京なんて多摩地区以外は略々(ほぼほぼ)海の底。弥生時代位に段々と気温が下がって北極と南極と山岳の氷塊の体積が爆増し海が引いて行き、それと同時に山野が削られ洪水の度に土砂が堆積して行きやがて沼地となり更に広大な武蔵野平野となり、弥生時代も末期には稲作が普及し古墳時代には更に国家により統制された大規模開拓が全国で行われ、元々海だった平野の野草が生える土地には古墳時代に成ると軍馬の繁殖の場が設けられ房総半島や本牧半島や三浦半島の風通し良くも海が近く密林に成らない一部の地域が名馬の産地と成ったので、古代から存続する武蔵国の一之宮~六之宮の延喜式内社が集結し行う国府祭(こうのまち)神事では今も軍馬を奉納する儀式が継承されている。
川崎市川崎区周辺の海抜0m地帯 久良岐のよし
戦国時代の始まった頃に成っても神奈川県域だと川崎駅前の堀之内、間宮家の河崎城館址の直ぐ近くまで海が広がっていて、太田道灌公が「海が直ぐ近くの河崎って場所に泊まったよ」って書いてたりする。その古文書が証明する通り、標高を色で表示する国土地理院の色別立体図で見ると現在も川崎駅の南部には戦国時代の海の名残の海抜0m地帯の洪水リスク高い地域が広がっている。
言い換えると寒冷期だった戦国時代~平成時代のたかだか500年間でこれだけの範囲の海が土砂の堆積と海の後退で‟一時的”にも出来ていた方が、温暖化で陸地が消失するより驚愕の事実なんじゃないだろうか?
当然ながら昔の高度経済成長期の乱開発が始まる以前の藤沢市や鎌倉市域は森林や田畑が広がっていた、江ノ島の海に注ぐ川の上流域が森林伐採され河川がコンクリで固められ砂が生成されずに、砂そのものの流入が半世紀以上も無くなった事も要因だろう。
上流に当たる藤沢市鵠沼~村岡周辺~鎌倉市手広や深沢や大船~横浜市栄区や戸塚区がその上流に当たる。
写真で比較すると解かり易(やす)い。

←左が昭和初期の藤沢駅周辺
藤沢駅周辺の古今変化 久良岐のよし
       右が令和現在の藤沢駅周辺→

左側の戦後直ぐ位までは写真の60%を占めていた水田と畑と森林が、右側の写真では完全に全滅している。そしてこの写真に流れる河川の合流地点が旧高座郡を流れる境川、右から流れてくるのが柏尾川で、その柏尾川の源流水源が瀬上沢と鼬川であり、鎌倉市域~横浜市栄区~港南区~金沢区~磯子区の乱開発で消えてしまった森林が水源な訳だ。
円海山の上郷地区は更なる森林と源流瀬上沢の破壊計画があり、港南台地区の大森林は住宅街に変貌して完全消滅した
コンクリートで固めたから都市部の蓄熱率が上がり熱帯夜に成るのだし、地球環境の変化はそもそも戦国時代から寒冷期だったのが現代に至り、縄文時代に回帰する温暖化の“自然なベクトル”に向かってるだけだろう。
自然破壊しまくった欧米が森林伐採を二酸化炭素にすり替えるのは、土建が批判に晒されない為の論点粉飾でしかないだろう。
KIMG8255
海面が高く成れば当然ながら砂や土は瞬く間に削られる。それを遅らせるのが山を削り小川から河川となり河口から供給される砂だった訳だ。その砂が供給されなくなって70年も過ぎれば、当然ながら海が砂浜を侵食して“縄文時代の地形に戻ろう”とする自然のパワーが爆発するわな・・・
KIMG8257
この排水路のだけ海岸に浮いて存在するが、この排水路の高さまでちょっと20年くらい前まで砂で覆われていた訳だ。海水浴で賑わった映画“稲村ジェーン”の舞台の稲村ケ崎~七里ガ浜の海水浴場は既に泥岩の地層が露出し砂浜は完全に消え失せた。
KIMG8262
露出した小川の河口。無残な姿。
この高さでも覆い隠す程の砂の高さが有った訳だ。
KIMG8263
川を跨ぐ遊歩道の橋脚が空洞になってしまっている。
自然活かすのではなく自然に勝とうとする傲慢なコントロールは自然には必ず負ける。
その良い教科書が今の七里ヶ浜の惨状だね。去年の台風後の来訪時より荒れてる。
KIMG8259
辛うじて僅かに残る浜辺。
でも実は寒冷期だった戦国時代~江戸時代~明治大正昭和平成の近代、この場所が砂浜だった事の方が長い歴史で見たら“一時の偶然でしかない”事が判る証拠も露出していた・・・
KIMG8264
砂浜が無くなって露出した元は波打ち際の磯だった時代の泥岩の岩盤。
小さな気持ち悪い穴は実は穿孔貝類、一般的には“磯マテ貝”と呼ばれる種類の貝が堀った巣穴の跡で、地球が温かい時期の七里ヶ浜のあるべき姿の歴史を覆いかくしていた砂浜の消失で再度露出した訳だ。
今は昔の気候に戻りつつあるだけで温暖化は異常気象ではなく“寒冷期に文明を発展させた現代人”にとって不都合なだけと言う歴史事実をまざまざと見せつけてくれている訳だ。
縄文海進 久良岐のよし
こっちが多くの生物にとって繁殖しやすい温暖な気候の地球の本来の姿。
縄文の温かくて海面が高かった時代は高座郡の寒川町~伊勢原市辺りまで入り込んでた名残から神話の時代に当たる弥生時代になっても旧海底部分が湖沼地帯で住居に適さなかった。
だから平安時代以前から存在し弥生時代の古代の聖地が信仰対象化した延喜式内社と式外社も、古墳時代に開かれた平塚八幡宮や前鳥神社を除いては全て古代の海岸線より内側に存在する訳だ。
主な歴史千年以上の古社と古刹と古代の海岸線 久良岐のよし
ギャーギャー騒ぐのがオカシイ。
ツバルなんかも元は人が住んで無かった場所に海洋民族が進出しただけの話し。
ツバルの人を水没後にどこに移住させてあげるかって議論をする方が重要だと個人的には思う。
地球の異変じゃなくて自然の一部なのよ。
でもね、先に話した通り七里ヶ浜が地球の自然な温暖化の海蝕の影響をモロに受けた原因は、昭和の河川の護岸工事と砂防ダム建造に森林伐採、住宅乱開発だろう。
七里ヶ浜に流れ込む極楽寺川・音無川・辻川・行合川これ等の上流に当たる谷戸が全て森と自然の河岸が宅地造成されコンクリートで何でも固める治水の影響で七里ヶ浜東部の海に砂が流れ込まなくなった事の影響が大きい。
更に鎌倉や横浜や藤沢や大和の森林伐採宅地開発と江ノ島のマリーナ建設や境川河口の護岸工事で潮流が変わったり、砂が不自然に流れつかなくなったからだろう。
腰越海岸を辛うじて保つ程度の砂しか入らなく成った訳だ。KIMG8267
上の写真が今回の散歩で撮影したの。
下の写真が以前に冬場に撮影したの。
CIMG2538
やっぱ砂の無い七里ヶ浜も個人的には美しいと思うけど(笑)。
でも夕陽の写真撮影するなら空気が冷たく水蒸気の少ない晩秋~冬~初春がベストだね。
しかし、ここに長大な砂浜が続く江戸時代同様の穏やかな景色も見てみたいなぁ~。
富士三十六景
空き家が増えているのに、このまま無軌道に森林伐採を行い不必要な宅地開発を続ければ、やがて鎌倉~藤沢のみならず茅ヶ崎~大磯~小田原の砂浜の消失も早まるだろうな~。
今でも凄い奇麗だけどね~。
で、稲村ケ崎で写真撮影してたら、絵に成りそうな見知らぬ美人サン発見!
さっそく夕陽に浮かぶシルエットの写真撮影させてもらった。
KIMG8268
この日、最良の一枚に成ったかな?
海と夕陽の写真を撮りに行くと、良く知らない人(笑)に突然声かけてモデルに成ってもらうけど皆優しくて?ん?突然でビックリしてかな(笑)?断られる事は少ない。
数年前に撮影した由比ヶ浜の材木座側での写真も地元の女子高生がモデルに成ってくれた。
CIMG2397
これは結構好きな写真。
image
地元の仲良し二人組が肩を並べて富士山と夕陽を眺める青春の一コマ的な。
KIMG7166
今年の初旬だと長者ヶ崎でも地元の御姉さんがモデルに成ってくれた。
女性の後ろ姿と海と夕陽は実に合う。
KIMG3373
この写真が一番綺麗。
黒崎の鼻で撮影したこの写真だけ他人じゃなくて身内だけど。
モデルのいる風景写真撮るのは御願いから始まるから独身男には難しい。
まぁ~そんな訳で七里ヶ浜も凄く夕陽と富士山と江ノ島と海が一編に撮影出来て奇麗な場所なんだな。
KIMG8267
砂は完全に無いけれど(笑)。
もう稲村ヶ崎界隈は七里ヶ浜から七里ヶ磯に改名しないと文字に整合性が無い。
磯にしちゃえば良いんじゃない?
まぁ~、色々と素直に自然の美しさだけを満喫していられないのが現在の七里ヶ浜だったりするんだな。
最終目的地の由比ヶ浜に向かって出発!
KIMG8274
由比ヶ浜の端っこから稲村ケ崎側~極楽寺側の崖を見る。
現在でこそ切通し状の道で稲村ヶ崎~由比ヶ浜は難なく歩いて来れるが昔は切通しが無く、あの崖上に上がる道しか鎌倉市街地と七里ヶ浜のを往来する手段が無かったから大変だった訳だ。
KIMG8275
この断崖絶壁が鎌倉市街中心の防衛網の役割を担っていた鎌倉城の一部で最南端が稲村ヶ崎、こちら側を突破するには極楽寺坂の切通しを攻略する必要が有った。
だから新田義貞公は稲村ヶ崎のヘリに恐らく突貫工事で道を作り、干潮時に海側から一気に大軍を市街地に乱入させた訳だ。
それは以前コレ⤴に解説しているので、御興味有る方は斜め読みしてくれれば成る程ねぇ~?と成ると思う。
KIMG8276

由比ヶ浜の最西端の岸壁からは反対側の三浦半島が奇麗に見える。
KIMG8277
見える煙突は火葬場。あの煙は誰かがこの日、本当の意味で旅立たれた家族と最後の御別れをした証拠。出来ればこの煙のたつ前に家族とちゃんと御別れ出来ています様に・・・
岡江久美子サンや志村けんサンは家族と御別れも出来なかったから。
KIMG8278
由比ヶ浜に到着~!
超~元気なワンちゃんが波にハシャイでて凄く可愛い!
ブラジル人ぽいカップルが犬の散歩していた。
こんな生活本当に良いなぁ~。
でも実際の鎌倉市は現在でもアジサイの季節と夏と秋は人でゴッタがえして大船駅から電車も満車で、江ノ電鎌倉駅なんて駅に入るのが1時間以上待ちとか生活に適さない上に、アホの松尾市長が市外からの車乗り入れ規制を決定していて、そうなれば観光客がバスにも電車にも乗れなくて最早、怒号が飛び交う地獄絵図が展開するのは決定事項。観光客にも不人気な都市に成りそうな気がする。
・・・まぁ~、山の中を往復20km歩いて余裕で鎌倉市街に遊びに行く小生には関係無いけど~(白目)。
でも、就労先も鎌倉中心部で住居も鎌倉なら、本当に生活するには天国だと思う。
本当に本当の教養有る大企業の社長さんとかは鎌倉市内とか京都の左京区の下賀茂神社辺りとか神戸とか横浜の元町の山の上に住んだり昔からすんだよな。
やっぱりちゃんとした人は文化と自然との共生に魅力を感じるんだろう。
最近、IT関連の会社が鎌倉に拠点をどんどん移してきてるのも、彼らは本能より“頭を使う”仕事の人達だから頭を休める場所の大切さを見だすのかもな。
ちょっと道路側に戻ってみる。
稲瀬川と言う川が有る。
KIMG8281
例によって昭和の無文化河川工事でコンクリートの用水路みたいにされてしまっているが、実はここは歴史文化的に大切な場所で昔は和歌が詠まれたり、いわゆる鎌倉時代の市の中心街との境目に成っていた場所で北条政子さんが鎌倉入りする時に、この由比ヶ浜から三浦半島を見渡す風景がいたく気に入ったらしく数日間、川の畔(ほとり)の庶民の民家に滞在させて貰った歴史が有る。
KIMG8280
北条正子さんと言うと怖いイメージが有るかも知れないが・・・
頼朝さん大好きで山野を歩いて韮山の蛭ヶ小島まで愛を遂げに行ったり・・・
農村育ちだから素朴で純粋だったり・・・
神奈川県を頼朝さんと夫婦で一緒に旅行して廻って、色んな神社を一緒に参拝して夫婦らしい子宝祈願したり・・・
義弟義経の愛人の静御前が鶴岡八幡宮の舞台で義経への愛情の和歌を詠(うた)って舞った時に共感して頼朝さんに助命嘆願したり・・・
頼朝さん死んじゃった後で長男頼家公が自分の父親に暗殺されちゃったり、次男実朝公が実兄に殺害されちゃったり(小生は実は実兄の義時公と大江広元公が国外に逃がしたと推測)した後で、家族が誰もいなくなった時に起きた承久の乱て戦争の時に頼って逃げて来たのが、旦那さんと良く御参りに来ていた思い出の弘明寺の山で、その山に立てたのが井土ヶ谷の乗蓮寺だったり・・・
実は夫が凄く出世しちゃっただけで、本人は気が強いけど可愛らしい普通の女性だったと思うよ。
実際、誰も家族がいなくなっちゃって井土ヶ谷に居た時期の乗蓮寺の木像は凄く寂しそうな顔をしてるんだよね。
北条政子様木像画像
写真は横浜市南区井土ヶ谷の元:北条正子様の山荘だった乗蓮寺にある生前に掘られた彫像。
夫が側室持つのが当たり前だった当時、頼朝さんが側室を持つとヤキモチ焼いて文字通り側室の家を武士と一緒に攻撃したりしちゃったから、そんなイメージついたんだろね。
乗蓮寺については以前に解説記事を書いている。

今なら政子さんの感覚は凄く正常だと思う。
自分も奥さん貰うなら、北条政子サンみたいな人が良いな。
ところで稲瀬川の辺りの歩道はデザインが可愛い。
KIMG8283
東西南北の方角+各季節どんなイベントが有るか絵で示してくれているマンホール蓋。
KIMG8286
4月は鶴岡八幡宮の静の舞
KIMG8284
9月は元々畠山重忠公が開基した横浜市金沢区の東光寺と言う御寺の旧所在地だった鎌倉宮の薪能。
鎌倉宮に成る前に東光寺で後醍醐天皇の皇子の護良親王が自害に追い込まれた後、東光寺は金沢区釜利谷に移転させられ鎌倉宮が開かれて護良親王を祀る事に成った。
KIMG8287
8月・・・アホの松尾が中止した由比ヶ浜の花火大会。
鎌倉の松尾と横浜の林文子は本当に無文化極まりない。
KIMG8285
8月の鶴岡八幡宮の雪洞(ぼんぼり)祭り・・・
以前何で八月に雪洞(せつどう)なんだ?
・・・とか思ってたら、実は雪洞(ボンボリ)=行燈(あんどん)の事だと大分後に知った思い出が有る。
始まったのが1930年頃と言うから、夜間ライトアップして御祭りにしたとか、まだイルミネーションが一般的じゃなかった当時の鎌倉の人は本当に昔から風流だったんだねぇ~。
砂浜に戻ったら高校生くらいの男女2組のカップルが海の中で青春を謳歌してた。
KIMG8279

う~ん微笑ましい青春の縮図。
いつまでも仲良し4人組でいて欲しいなぁ~。
社会人に成っても友達でいて欲しいな。
中学高校の友達って余り大人になったら大切な友達でいつづけるケースは実際少ないって統計があるから。でもそうじゃない場合も有る。
この子達がずっと仲良しでいれますよ~に♪
由比ヶ浜をずっと歩いたらスッカリ日没に成ってしまい、若宮大路から鎌倉駅に向かう事にした。
途中には遺構は残らないが史跡が有る・・・
KIMG8288
畠山重保邸址
実は以前も別の記事で紹介した鎌倉時代の武将、畠山重保公の館跡で、室町時代の供養塔も存在する。

新編相模風土記稿は鎌倉の御廟を墓所だろうと言ってるが明らかに間違い。
何故なら、この供養塔は室町時代の建立だから。
合戦は発生したろうが、当日は御父君:畠山重忠公が鎌倉に来る予定だったので大蔵幕府側の畠山邸で送迎の準備をしていたはずだから、由比ヶ浜の館で戦火が上がり事態を把握して、鎌倉に向かっている父親に陰謀を知らせる為に八王子街道を目指し、先ず鎌倉から脱出する為に兵が配置されている巨袋坂切通しと古鎌倉街道中道を避けて、平安時代の古道の天園ハイキングコースの山に逃げて白山古道を通り釜利谷に抜け、六浦道(むつらみち)から鎌倉街道下道から北上し保土ヶ谷区で八王子街道に入る事を目指す以外に選択肢が無い。
そして釜利谷の御廟所一帯は恐らく東光寺が移転した経緯からも、畠山家の所領だったはずだから、そこで追っ手にかかり最後の時を迎えた方が明らかに自然。
まぁ、そんな感じで鎌倉駅に到着した。
KIMG7670
常楽湯
・・・で大船駅まで電車で戻り、銭湯好きの小生は大船駅で下車して大船の常楽湯に入って徒歩で流した汗を流してサッパリしてから帰宅した。
小さいけれど実は約100年の歴史が有る銭湯だったりする。
中のトイレは未だに大正~昭和初期のボットン便所!
常楽湯は最初に訪問した時に御店主の方に許可を頂いて中の写真も撮影させて頂いてるので改めて別記事にしたいと思う。
この日のDoor to Doorの歩行距離は16km、22000歩と山歩きと比較すると歩数も距離も少ないが、砂浜10km位を歩いた疲労感は山道の20kmと同じ位だった(笑)。
Screenshot_20200517-211620~2
江ノ島~鎌倉散歩 久良岐のよし
江ノ島~由比ヶ浜~鎌倉駅、良い散歩コースだったので、皆さんも天気の良い日、夏に成る前に少しお出かけして見ては如何だろう?

海の砂浜侵食にはいろいろと考えさせられる1日だったが、まぁHカップルに遭遇したりハプニングも有ったが、全体的には海風が気持ち良く、良い写真も撮れて充実した1日だった。







mixiチェック

前回の記事
  ↓
休日雑記 2017年06月24日の訪問先その②・・・江ノ島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮・龍宮)
  ↑
コレの続き。
CIMG4365
江島神社奥宮の辺津宮と龍(わだつみ)宮を御参りして八方睨みの亀を見学してからの続き・・・
CIMG4367
辺津宮は江島神社の奥宮で、源頼朝公が奉納した石鳥居等が現存している。古き良き江島神社の姿を残す場所だ。
CIMG4363
“神社”としては奥宮、ここ迄だが実は江ノ島はここから先が最重要な聖地なのだが知らない観光客も多く、ここで引き返すカップルも少なくないのだが、江ノ島に来て“岩屋”=洞穴に行かないと本当に御神体としての“江ノ島”に来たとは言えないのだ。
コレ→(休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼)でも少し触れたが、江ノ島は欽明天皇以来の天皇家の勅願所(ちょくがんじょ=天皇家の祈願事を代理で行う聖地)として機能しているのだが、その場所は江島神社では無く江ノ島の稚児ヵ淵(ちごがふち)に存在する数ヵ所の洞窟な訳だ。
その場所は辺津宮から、そう遠くないが少々階段の上り下りが有るので知らない人は面倒くさがり行かない事も有る。
辺津宮から稚児ヵ淵に向かう途中、周辺には猫が沢山いて民家の玄関先等でくつろいでいる姿を見せてくれたりする。
CIMG4369
その②で紹介した猫ちゃん、人馴れしてる子ばかりで触っても逃げない子も多い。かわえぇ~。
日本の猫の大多数は仏教の経典や仏像を鼠の害から守る為に遣隋使~遣唐使と一緒に船に乗って日本に来た子達の子孫なのだが、つまり現在の唐代の中国建築の影響を受けている神社仏閣の建築技術を伝える図面やなんかを守ってきてくれた猫チャンの子孫達であり現代では多くの人を癒してくれる"聖獣(笑)"な訳だな。
こんな猫チャン達を数匹見かけつつ階段を降りて行くと、こんな場所に行き当たる。
CIMG4371
CIMG4374
松尾芭蕉や服部南郭を始め、文人達の句を紹介した石碑が沢山有る場所。
CIMG4373
松尾芭蕉の句は直接江ノ島と関係無いが、服部南郭は此処(ここ)で漢詩を詠んだらしい。
CIMG4372
明治の元勲達も皆そうだが、江戸時代~大正時代の偉人達は教養の高い人が多く、余裕で現代中国人の詠めない漢詩を創作したりする知識と風流さを兼ね備えていたんだな。
因みに偉そうに解説する小生は、華語が話せて武士の言葉も読めるので漢文の意味は解るが詠み創作する事は出来ない低文化人だ(笑)。
何故この一角に句碑が沢山有るかと言うと・・・
CIMG4375
もう海が見えるから、この風景に関係のある詩句が紹介されている訳だ。
この下の岩場が稚児ヵ淵と呼ばれる。
歌舞伎の演目の“白浪五人男”の弁天小僧は岩本院(現在の岩本楼)の稚児がモデルに成っていると伝わるが、不勉強な小生はコレを笹下城下に取材に行った際に偶然、岩本楼の先代の奥様の御身内から御教授頂いてから調べて知る事と成った。
江戸時代の娯楽も見ておくべきだね。
因みに弁天小僧には、こんなセリフが劇中有る・・・
「岩本院の稚児上がり、普段気馴れし振袖から、髷(まげ)も島田に由比ヶ浜!」
・・・意味わかります?
コレは江戸時代の民間人特有の洒落(しゃれ)っ気が効いたセリフに成っています。
セリフを区切って解説して見ましょう。

[岩本院の稚児上がり]
江島弁才天を管理する岩本院で幼少時代修行していた人物である事を説明している。弁天様を祀っている岩屋(洞穴)の前の稚児ヵ淵の磯の地名とも掛けてラップの様に音(いん)を踏んでいる。

[普段気馴れし振袖から]
弁天小僧達、白浪五人衆は実は盗賊なのだが善玉の義賊として描かれている。その中でも弁天小僧は女装の変装が得意な美少年だったので「普段気馴れし振袖」そのまま、女装して呉服屋に乗り込んだりする役柄。

[髷も島田に由比ヶ浜]
髷は丁髷(ちょんまげ)の事、島田は江戸時代の女性の髪型の結い方の一つ、つまり男性が女装している様子を形容している。
由比ヶ浜の部分は江ノ島は現在は藤沢市だが明治までは鎌倉郡だったので、鎌倉の有名な由比ヶ浜の地名の“由比(ゆい)”と髪を結う“結い”を掛けて洒落たラップの様にしてある。

そんな感じで江戸市民ってのは他地域と違ってユーモアを好み、かつ現代の芸人みたいに人をイジメたり笑い者に成る教養の無い嘲笑を煽る笑いの取り方では無くて、文芸や歴史知識と世相や時事ネタを入れ込んで謎かけみたいな事をするのが大好きな人達だったんですね。
まぁ、江戸を築いたのは大坂の佃村から移住して来た人々と品川と江戸城周辺の農民だったので、本来の大坂の笑いも江戸時代までは江戸の古典落語や歌舞伎や狂言の笑いみたいに教養に溢れたものだったのかも知れない。
東京にしろ大阪にしろ、落語家達には当時の笑いの流儀が受け継がれている様に素人目に感じる。
CIMG4404
さて、稚児ヵ淵は多くの観光客で賑わうが、鎌倉の護岸工事される以前の磯が残っている。
風景が良いだけでなく、子供には良い自然観察の場にも成る。
CIMG4406
だから立派な藤壺やら・・・
CIMG4408
・・・亀の手が沢山生息している。オッサンの小生にはどれも採取して家で湯がいて食べたい蟹の御仲間の水生生物、酒の肴にしか見えないんだが(笑)。
CIMG4376
三浦半島と伊豆半島も見えてとても景色の良い場所だ。
CIMG4379
ここを過ぎると欽明天皇が天皇家の勅願所に定めた洞穴が有って、豊かさの象徴の神様であり古代は水の神様だった宇迦之御魂神が祀られている。
CIMG4380
立派に観光地化されており、入口は屋根が付いているが洞窟の深部はそのままに成っている。
CIMG4381
入口横には古代の海洋生物の化石も沢山露出していたりする。
CIMG4382
入場料は大人500円と安い。だからカップルだけでなく親子連れや団体観光客でも賑わっている。数年ぶりに来たら外国人観光客も増えていた。
CIMG4383
中に入ると池が有る。
CIMG4384
実はこの水辺が聖地と成った大切な意味を成しているのだが、これは後で説明しようと思う。
CIMG4385
池の中の句碑は与謝野晶子さんの物で、知らなかったのだが彼女は江ノ島が大好きだったそうだ。
そう言えば先日、御子孫の与謝野馨前特命大臣が他界されたばかりだな。
CIMG4386
洞窟の壁には深部に行くまで色々な解説の掲示物が有るので、是非、ちゃんと読んで欲しい。これを読んで置けば、将来、自分の子供にも、又は皆さんが現在の恋人と別れて新しい彼女と(笑)再訪しても説明して上げれるだろう(;^ω^)。
CIMG4387
ここは昔から、途中で係員から蝋燭(ろうそく)を貰って自分で足元を照らしながら探索する、ちょっとしたイベント的な要素が有ってカップルに大人気だったりするんだな。
CIMG4388
途中、天井部分に透明のビニールシートが貼られている場所が多くあるのだが、これは石清水が多く湧き出していて雨の様に降ってきているから。これが古代の人々や頼朝公には神秘的に感じられた訳だ。
CIMG4389
そして多くの石仏や石の御神像が昔のまま並んでいる。
CIMG4391
場所によっては結構な暗さだったりもする。夏なので今自分は観光客が多く若干渋滞する場所も有るのだが、天井が低い部分も有るので気を付けないと頭をぶつけて文字通り頭が割れて血だらけに成る事に成る(笑)。本当に気を付けないといけない。
CIMG4392
どちらかの和尚様の座像・・・
CIMG4393
そして最深部、この場所が欽明天皇以来の勅願所の始まりと成った場所。
恐らく当時は祠(ほこら)も無かっただろう。祠の下の石の台座の上で神職者が神事を行ったり修験者や真言宗の僧侶が護摩炊きしたりして旱魃(かんばつ)の回避や降雨を祈願したり、稲の豊穣や疫病鎮定の祈願をしたんだろう。
さてそこで、先ほどの与謝野晶子さんの句碑の有った池が大切に成る。
CIMG4384
ここは曲がりなりにも海辺の洞穴である。
しかし洞窟内は雨が降る様に清水が天井や壁面から湧き出し、一年中、例え旱魃の年も枯れる事が無い訳だ。その洞窟の池が本当に海水では無い事の証明が下の写真だ。
CIMG4394
なんと淡水魚の金魚が悠然と泳いでいる訳だが、これだけ豊かな水量を誇る清水が海に突き出した江ノ島でずっと湧き出している事が既に古代人にとって奇跡な訳だ。
西暦900年代の醍醐天皇達から見ても古い神社を記録した一覧の延喜式神名帳に掲載された古社の中には神奈川県内でも有鹿神社、大山阿夫利神社、比々多神社や未掲載だが天皇家の勅願所だった仏教施設になっていた師岡熊野神社等は縄文時代からの遺跡を旧境内地に抱えている、そしてどこも水や酒に関係する神様が祀られている訳だ。これが何を意味するかと言うと、小生のブログの読者様は飽きる程繰り返し読まされているが、古代人は井戸を掘る術も無いし、川の水を直接飲むと病気に成るので湧き水が聖地であり命を繋ぐ飲料水を確保する大切な場所だった訳だ。この習慣は古墳時代や飛鳥時代に成っても続いたので、当然奈良時代にも平安時代にもその文化は形骸化しても残っていた訳だ。
そして戦国時代に江の島険阻な地形を利用して逆臣上杉家と戦った鎌倉公方の足利成氏公は、長期間江ノ島に籠城出来たのも、数千の兵士に行き渡る水源が江ノ島島内に確保出来ていたからだった訳だ。
米の補給は房総半島から船で出来たとしても、水が無ければ忽(たちま)ち兵士は活力を失い士気が下がり降伏せざるをへ無くなるから。
そして、この奇跡の土地の宇迦之御魂神様や弁天様の御利益で、源頼朝公は伊勢平氏の平清盛の軍勢を打ち破り藤原秀衡の子達を屈服させて鎌倉幕府を開き、足利成氏公は逆賊上杉家相手に奇跡の大勝利を収め、戦国時代には北条氏康公が岩本院の前身の岩本坊に宿泊しここで源頼朝公の様に戦勝祈願をして河越夜戦で奇跡の北条家兵8000人で上杉家兵80,000を破る大逆転勝利を収めた訳だ。
つまり戦勝祈願としては古今無双と言って良い御利益が有る訳だな。
そして神道成立以前の古代からの原始宗教~古代の神道の原型~仏教との融合~明治時代の神仏再分離による誤った神様の名前の誤植の歴史の変遷も知る事が出来る場所な訳だ。
現代の女性にとっては縁結びの心強い神様でもあるのが江ノ島の弁才天様なんだな。
・・・でも女性の味方の神様だから、駄目な彼氏と一緒に行ったら縁切りの御利益も有るかもね(笑)。
さて、第1洞穴を出て第2洞穴へ行く途中に下の写真の場所が有る。
CIMG4395
第二洞窟の入口との連絡通路から見える亀に見える石だな。
江ノ島弁才天は、鎌倉時代以前からの社紋は確か亀甲紋だったと思う。現在、表立って使われているのは鎌倉幕府の北条時頼公由来の三鱗紋と波切り紋を合わせた社紋に成っている。
古代に海を収めた息長一族(素戔嗚尊の御神孫)や出雲族達は亀甲紋を社紋にしていたのだが、江ノ島の弁天様は海の神様でもあるので何とも因縁めいた亀の形をした岩の見える風景が有る訳だな。
CIMG4397
その亀の石の見える海の上の岸壁に洞窟がもう一つ口を開いているが、恐らくこれは近代に成って築かれた要塞の跡だろう。形状が完全に人口の洞穴だな。
この相模湾周辺は、米軍の上陸が予想されており七里ヶ浜の稲村ヶ崎や玉縄城址出城の二伝寺に高射砲が設置されたり要塞が築かれていた。つまり昭和の戦争史跡でもある。これは戦争が他国の侵略から国民の生命と財産と自由と信仰を守る意味が有る事や、一歩間違えると侵略側に成ってしまう歴史の両面を教え伝える意味でも本来公開するべきだと個人的には思う。
まぁ、公開すれば左翼が発狂するし、右翼は自己都合の歴史観を現実逃避して主張し混乱するので事なかれ主義の現代の教育委員会は公開しないのだろう。
寧(むし)ろ、左派も右派も中道も保守も改革も、議論するのは悪い事では無いと小生は思うのだが。
左派の中にも中道左派で良い政策を提言する方もいれば、中道保守にも真面目に国防を考え経済振興政策も提言する方も少なくない。
用を成さない連中は自己肯定の為にステレオタイプに他人の主義主張をコピーしてる連中と何でもかんでも相手の批判しかしない民進党と共産党の連中だけだからな。
まぁ、そんな訳で、江ノ島には日本の各時代を網羅した遺跡が在る訳だ。
第2岩屋に入って見よう。
CIMG4398
コチラは要塞化されていた様で、明らかに人工的な部分も多い。
CIMG4399
とは言え、こちらも民話の伝承する場所でもある。
CIMG4400
中に進んでいくと、民話を元に設置された龍の張りぼてがある。
CIMG4403CIMG4402
解説では江ノ島生まれの民話とされるが、その説明は間違いだ。
CIMG4401
旧鎌倉郡全体の民話と捉えた方が良い。
現在の鎌倉市深沢辺りと江ノ島が舞台の民話で、古来より深沢の山中の池に住んでいた暴れん坊の龍が、江ノ島の弁天様がモデルの天女に惚れて、その天女にプロポーズしたところ説教されて改心し尻に敷かれて幸せに成ると言う話だ。
小生は、この民話の龍のモデルも察しがついている。
山崎地区
鎌倉市の山崎地区には鎌倉中央公園が有り、そこには大きな池が有る。
この山崎地区には源頼朝公も崇拝した山崎泉蔵院と言う修験道の大寺院が有ったが、現代の鎌倉市や神奈川県の教育委員会も場所を把握していない。泉蔵院は熊野権現と不動明王を大切にする寺院だったので、湧水地を聖地として寺院や山伏(やまぶし)の修行道場を造営する宗派なのだが、恐らく鎌倉中央公園の場所が泉蔵院の室町時代の横浜市移転前の旧所在地だろう。
そして修験道は日本古来の信仰の聖地を寺院や神社化する宗派なので、この龍の神話の池が鎌倉中央公園の池なのだろうと小生は推測している。
山崎地区の隣接平野部は寺分とされ、古代より後の時代に寺領に成り地名が変わっている事も解るし、山崎は昔は只の“山崎”と言う地形を表す言葉だけで深沢も同様だっただろう。だからこの周辺は一色単に山崎や深沢と言われていたのだと推測出来る。
例えば山崎に在った泉蔵院は水辺で神様を祀る熊野信仰と関係が深いが龍神信仰が有ったかは現代では伝わらない。しかし関東では古代から根強く雨乞いの神様として龍神様が信仰されていて、伊勢原市大山阿夫利神社の二重滝のOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)や大和市の深見神社の御祭神の闇Okami 10.5pt.png神(くらおかみ)は何れも雨乞いの神様で有り龍神様だ。そして多摩地方の雨乞いも龍神信仰だった。
2014-07-27-19-06-56
大山阿夫利神社下社、徒歩10分の場所にOkami 10.5pt.png神の権化とされる二重滝(ふたえのたき)が在る。
CIMG3293
大山に入山する修験者や僧侶や一般参拝者は、昔はここと下の方の良弁の滝で禊(みそぎ)=行水=沐浴(もくよく)をして身を清めてから山頂奥宮の石山権現へ参拝したそうだ。
DSC_0542
大和市の深見神社、闇Okami 10.5pt.png神が御祭神。こちらは神社と地域の名前から推察して境川沿いの深水が龍神信仰の聖地だったと推測出来るが、地域の伝承に古代は付近まで湾が入って来ていたも伝わるので境川沿いに細長い入江が入って来て可能性も有るが龍神信仰は八幡信仰に通じる八大竜王信仰やインドや中国の水生生物の鰐の神格化された神様の影響なので淡水に関する信仰の場合が多い。
DSC_1084
旧武蔵国多摩郡の東京都羽村市にも近代まで龍神信仰が残っていて、羽村市内を流れる多摩川上流の深い淵が龍神信仰の聖地だった。そして日野市の高尾山、この高尾山(たかおさん)の高尾(タカオ)は大山阿夫利神社と同じOkami 10.5pt.png神のOkami 10.5pt.png(タカオ)が転訛した当て字だろう。その証拠に大山も高尾山も天狗伝説の土地だ。天狗はウィグル族やインド系の西方の人で、龍神信仰は彼らが日本に帰化して広まったのかも知れない。飛鳥時代の大和朝廷にはウィグル人の官僚がいた事が知られている。
大山も高尾山も大和市深見の何れの龍神信仰も、八幡信仰や弁天信仰の仏教成立後の中国伝来の信仰よりも古いのは間違い無い。
つまり、この江ノ島と深沢の民話は、古来の龍神信仰していた豪族が中央大和政権の影響で弁天様へ信仰対象を宗旨替えした事の比喩だと小生は推測している。
そして、その弁天信仰の極め付けの火付け役と成ったのが鎌倉幕府を成立させた源頼朝公と北条政子様ご夫妻だった訳だ。
CIMG1523
上は横浜市南区の瑞応山蓮華院弘明寺が所有する北条政子様の彫像。
弘明寺は古くは善無畏三蔵法師がインドから渡来し聖地を開き、弘法大師空海様が民百姓の為に災難除けの仏事を行い、平安時代末期に源頼朝公から崇敬を集めた御寺なので厄除け大師として有名だが、源頼朝公が信仰した弁天様を祀る御寺としても有名だ。
CIMG1524
弘明寺には今も立派な八臂弁財天様が祀られている。
まぁ、江ノ島と鎌倉市深沢周辺の龍神と天女の伝承の様に、歴史や民話は解らない部分が有るから謎解きが面白い。
しかし職業歴史学者は小生と違って、こういう自由な推測を文字に起こすとバッシングされる可能性が有るので書けないが、小生は歴史好事家(オタク)の一個人(笑)なので昔の人の気持ちに成って書いても誰からも何も言われない(笑)。仮に親切な学者さんに間違いを指摘され正しい知識を教えて頂けるなら、それこそ学ぶ機会と小生は狂喜する訳だ。
まぁ、立身出世が目的でなく宗教的な意味も大切にするので毎回、行く先々で御会いする色んな神社の宮司様や御寺の和尚様から宗派を超えて民話伝承を御教示頂けたり非公開の文書や保有する遺物を見せて頂いたり、宗教的な側から歴史を学ぶ機会が増えて嬉しかったりする訳だな。
社会人に成ったら色んな事は自分で学ばなきゃいけない。人は教えてくれないし、教えてるフリしてる客先や上司は自己利益を追及する為にマウントポジション取る為に意見してるだけの場合が多い訳だ。
社会人に成っても文化と人々の精神的な支柱である宮司様や和尚様達に師事出来るのは本当に幸せな事だ。色々有ったが、これは本当に小生の人生が他の人と違って幸せだと言い切れる部分だ。
CIMG4407
岩屋を出て稚児ヵ淵を通り江ノ島から江ノ電の駅を目指す。
・・・フジツボと亀の手、気持ち悪っ(笑)!でも蟹の仲間で食べると美味しいんだよね。
戻る途中、撮影し忘れた句碑を改めて訪れた。
・・・福島漁村の句碑。
CIMG4414
江ノ島奥津宮と聖地の岩屋の別当の岩本院を治めたのが間宮。この福島漁村さんの兄弟子に当たる人物である間宮霞軒さんは、岩本院の間宮家出身だそうだ・・・
日本俳画会を起こした人物で更に江の島の初代郵便局長、中津宮の境内に在る句碑は昭和33年81歳の時、親交の有った文化人の飯田九一サンや有志等が建てたそうだ。
・・・そして福島漁村。昭和31年1868年~1956年を生きた人物で辺津宮の近くに有った旅館の江の島館の主、地方自治に活動した政治活動家でもあったそうだ。この福島姓は間宮家の戦国時代の上司、玉縄城主北条綱成公の生家の姓だ。
主従の義理と交友関係は近世に入り近代に至っても地縁と人の縁で繋がっているのを知る学者は少ない。何故なら悪の権化、堀内一族のせいだ。堀内一族は玉縄北条家の有力武将だった。戦国時代を通じて家老は間宮家だったのだが、堀内は近世に殿様の実弟の北条繁広公を殺害し保科家から北条家の名跡を繋げる為に殿様の養子を迎えて事実上、玉縄北条家を乗っ取った。結果的に福島家に関する古文書はありとあやゆる所から確認出来なく成った。完全に堀内一族の粉飾による歴史改竄と抹消だ。
この堀内一族は現代でもとんでもないデマを流布していて、徳川家康公の軍師に成り鉱山経営で活躍し真田丸や大坂城総掘り埋め立てを進言したのが間宮家の手柄で有る事が兵庫県や間宮関連の寺院でも有名な事実なのに堀内家の古文書は偽書が多く現在も間宮家の手柄や福島家の手柄を自分の家の手柄と喧伝している。とんでもない一族だが、実際に風土記でも関連の神社仏閣でも朝来市教育委員会でも実物の古文書や資料が編纂されていてそこに大坂城関連の事に堀内は一言も出て来ないので情報共有し易い現代では堀内のデマだと赤っ恥を晒している。
そもそも玉縄北条家を私物化して乗っ取っていたが、たかが小藩の家老の堀内家が、徳川家康公の外戚で鉱山奉行や地方代官を務めた間宮家の様に直接徳川家康公に謁見出来る訳が無い(笑)。
そんな事も辿れたりするんだな。
CIMG4413

残念ながら福島家が辺津宮近く、丁度小生が"その②"で紹介した海花亭の横の江ノ島大師、最福寺別院が建てられている場所に存在した福島家の江の島館は、昭和三十一年(1956年)に火災で焼失し営業終了してしまったそうだ。
CIMG4412
間宮一族岩本家の岩本楼の成立の例を考えると、この江の島館の福島家も中津宮や辺津宮の別当だった上ノ坊や下ノ坊の何れかの寺院が前身だったのかも知れない。江ノ島大師様にも聞いてみたのだが、やはり江ノ島館の福島家は前進が寺院だったと言う事は解っているが、現在の江ノ島大師様とは直接繋がりは無く、江ノ島館の寺院時代の事も伝わっていないそうだ。
これは風土記を読めば上ノ院に関する事は掲載されていると思うので、今後調べてみたいと思う。

CIMG4415
サムエルコッキング園まで戻って来て、タコ煎餅作ってる所を見学。CIMG4416
う~ん、どっかの工場にしか見えない(笑)。

CIMG4417
中津宮の参道を降りる時の風景が綺麗だった。
登って来る時は気が付かなかったが小動~腰越の辺りが良く見渡せて美しい。
江ノ島を後にして、江ノ電江の島駅へ向かう途中、江の島大橋でけたたましい騒音を故意に鳴らす迷惑なバイクを見かけた。
CIMG4421
日本の恥部。見てイラっとしたが、そう言えば行きに気に成っていた甘い物の店を思い出し直ぐに嫌な事を忘れ、その店に向かった。
CIMG4422
玉屋のようかん。
CIMG4423
ここでは江戸時代以来の名物、海苔羊羹を始め様々な伝統的な羊羹が製造販売されている。CIMG4424
店構えも立派で、もし電車で江の島に行く機会が有る人には是非御薦めしたい昔ながらの江の島土産の店だな。
小生は自分でも何故だか知らないが羊羹を買わずに、ここでキャラメルを買った(笑)。
ここから江ノ島駅は直ぐ近く・・・
CIMG4425
暫く待つと直ぐに電車が来た。

CIMG4426
今回はここまで!
続きは江ノ電観光と鎌倉市内の史跡辺となる“その③”で紹介します!
では又!続きでお会いしましょう~!
mixiチェック

↑このページのトップヘ