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タグ:玉縄北条家

お盆休み、まだ尊敬する北条綱成公の御墓参りを済ませていなかったので、菩提寺の龍寳寺に御佛前に供えて頂く御菓子を購入して伺った。
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龍寳寺は巨大な玉縄城址城塞郡の一角である鎌倉市植木に“現在の境内”がある。鎌倉市と謂(い)えども略、大船なので小生の自宅からも車で近い。
城跡だから寺の在る谷の山裾は全て裾切りされた城壁石垣より強力な防御壁となる断崖絶壁の切岸に囲まれている。
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元々は山上の栄光学園一帯が旧境内地だったのだが、儒学者で徳川家六代将軍の側用人だった新井白石が玉縄領主に成った際に龍寳寺を現在の谷間に移して今に至る。つまり昔は龍寳寺は山頂にあり非常時には砦の詰所の役割も担っていた訳だ。
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山門横を車で通り過ぎ、庫裏(くり)=現在の僧侶の居住区兼事務所前の駐車場に車を停めて、御本堂の御釈迦様に御参りしてから数年前に御本堂の横に移設された歴代玉縄北条家の御廟を御参りし綱成公達に御盆の御挨拶と近況報告を済ませた。
駐車場前の花園の黄花秋桜(キハナコスモス)がとっても美しかった。
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大将の北条綱成公と副将の間宮康俊公が統率した“玉縄衆”は、軍団の前身が“北条五色備え”の内の“黄備え隊”で、統一された隊旗が朽葉色=黄色地に“八幡大菩薩”の御神名を染め抜いた馬印(うまじるし=部隊識別シンボル)だった。
正にキハナコスモスの色がそれだな。
丸で綱成公や康成公を御盆休みに御迎え見送るのに合わせて咲いている様に感じた。
庫裏に御住職を訪ね御盆の御挨拶をし、御佛前に供えて頂く“葡萄餅”を御預けし少し雑談をしてから車に戻った。
柏尾川沿いの道を栄区方面と反対の江ノ島に向かい下って行った。
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実は今週半ばから酷いギックリ腰で昨日まで立ち上がるのも辛かったのだが、少しだけ足を引き摺(ず)り歩ける位に回復したのと気分が暗かったのも有り、殿様に近況報告してから海にリハビリを兼ねて散歩に行くつもりだった。午前中は背を伸ばして立つ事も困難だったので、まだ整骨院にも行ってない。
午後に調子が良くなり、龍寳寺参り&七里ヶ浜散歩を決めた次第だ。
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夏なので鎌倉の海岸沿いは渋滞激しく流れない。
なので、止まる度にゆっくり風景を見る事が出来た。
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スラムダンクの踏み切りは今日も観光客でいっぱい。
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程なくして七里ヶ浜に到着。
台風で砂浜が又、流出したと聞いて確認を兼ねて気分転換の散歩に来た。
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このMAINと言う御洒落(おしゃれ)なレストランは以前も紹介したが、ロケーション良く窓側の席だと秋冬には江ノ島と夕陽と七里ヶ浜と富士山を一編に眺めながら食事が出来る。
このレストランの横に公共駐車場があり、今日もそこに車を入れた。
関係ないけど、渋滞に巻き込まれ運転時間長引いてる間にギックリ腰が又悪化して、この写真撮影してる頃は既に痛くてマトモに歩けていない(笑)
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思ってたより“砂浜の後退”が激しかった。台風で砂浜が流出し遊歩道の橋脚が露出する事態が発生中。渡れない。
でも、これで小生は文字通り“自然だな”と感じた。
実は1990年代には砂浜は幅はもっともっと有り海水浴場も有ったぐらい。しかし2004年に海水浴場は閉鎖し更に昨日は御覧の通りだ・・・
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・・・遊歩道の橋脚は砂が流出し人が歩けない高さに取り残された状態成っており、砂浜は手前の鎌倉寄りで幅“10m”を残すのみ、奥の江ノ島寄りは“最早、砂浜が消滅”した状態だった。
小生は“これが自然”だと思う。
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稲村ヶ崎は新田義貞が鎌倉幕府攻撃の際に奇襲をしかける突破口に選んだ場所として歴史の授業でも習う。
超有名な観光地。
そこの砂浜が反日バンドと化したサザンオールスターズの“稲村ジェーン”の舞台にも成っていた。
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しかし、この間の台風でゴッソリ砂が持っていかれた訳だ。 
水は海水も地下水も川の流路も、いくら人間が“盛土”したり“掘削”した人工的に改変した地形をコンクリートで固定しようとしても、容赦なく周りの砂や土から抉(えぐ)り取り元に戻ろうとする力を発揮する。
2018年と2002年の衛星写真を比較すると解り易いかも。
下の衛星写真、上段が2018年1月、下段が2002年8月。
七里ヶ浜~稲村ヶ崎2018年
右手鎌倉市側の稲村ヶ崎と、左手江ノ島側の小動(こゆるぎ)の砂の流出が特に顕著だ。
これ比較すると小動側の防波堤の形状も工事で変化が在ったみたいだから、波の影響で破損が酷かったのだろうか?
繰り返すが小生に言わせりゃ・・・
「これで普通」
・・・なんだな。
気象予報士のお姉ちゃんが知ってる自然なんて考古学から見たら短い観測期間しかない。
今の温暖化は普通に元に戻りつつあるだけでしょ?
余り知られてないが室町時代は小氷河期。実は最近まで“地球が冷えてる時期”だったて事だね。
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だから農作物も凶作ばかりなので、料の乏しい冬に成ると上杉謙信や武田信玄は地元の農兵を引き連れて、神奈川県や東京に来ては略奪や婦女子を拉致し奴隷として地元や地方で販売したり鬼畜な事をして越冬していた歴史が有る。
まぁ、生き残るのに人の物を奪いとらなきゃいけない地方が有ったんだ。今の日本は恵まれているね、まだ良くならなきゃいけないけど。
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地球が縄文時代の気候に戻ろうと“二酸化炭素の影響ではなくて”温暖化して行く“自然の力”は凄いね。
もう、こんなに砂浜が減った。考古学的な話をすると、だいたい日本神話の時代と比較して現在の平らな地域の海岸線は少なくとも12km位は後退してるから逆に過去の地震による隆起を考慮してもかなり内陸まで海に戻ってもおかしくないのかな?
由比ヶ浜なんかは15年で50m砂浜が無くなってるから、対応しなければ今後10年で33m海岸線が陸を侵食する。
1000年後は少なくとも3.3km。
それがどれくらいかと言うと・・・
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・・・江ノ島からだと藤沢駅の手前の石上・本鵠沼・柳小路辺りまで海没する計算に成る。無論、微高地は残るだろうね。
小生が思うに七里ヶ浜の砂浜の減少は河川の護岸工事で砂の体積が阻害されてる影響も大きいのだと思う。江ノ島の境川とか、七里ヶ浜の極楽寺川とか音無川とかの上流が住宅街にされてしまい、風化した鎌倉石の地盤から砂が運ばれなく成ってしまったんだろう。
鎌倉も材木座~大町辺りは平安初期にはまだ入江だった。
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それでも約1km程度内陸だっただけ。
つまり15年で50m侵食は比較的早い。人工的な河川工事は海岸部の地形に影響を与えやすいって事かな。
いつまでも自然の摂理で風化した砂が体積するのを阻害する河川の土木工事のままでは内陸まで“元通りの海”に戻るスピードを早くするって事。

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この稲村ヶ崎は数百年後には又、一部だけ海から顔を出す半島か島に成ってるんだろうか。
1000年後には茅ヶ崎市平塚市は大部分が海の底に戻ってんじゃない?
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砂浜は無くとも夕陽と江ノ島と海には癒され、ギックリ腰等で落ちた気分も少し晴れた。
帰り、元来た道を村岡方面~大船に抜け円海山の麓(ふもと)の自宅に戻ろうかと思いながら駐車場に戻る途中目にしたこの光景。
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往路は空いていた江ノ島方面に向かう下り車線が凄まじい渋滞。
鎌倉市街地を抜けて帰る上りルートに変更。
帰路、無性に京都拉麺のチェーン店の魁力屋の“唐揚げ”が食べたくなり、朝比奈方面の上郷側にある魁力屋に遠回りして夕飯を食べた。
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旨いんだよ、この唐揚げ。

ふむ、身体はまだまだ、気持ちも暗かったが、少し殿様と海と夕陽の御影で癒され楽に成った。
ちなみに、この時点で無理して歩いたので、もう腰が痛く高齢のお爺ちゃんみたいにビッコ引いて歩いてる状態(笑)。

夕陽さん、海さん(笑)、御釈迦様、江ノ島の弁天様、綱成公と玉縄北条家御一族の皆様に感謝を感じた午後だったかな?

では、今日の休日雑記はここまで~♪

皆さんは東京都青梅市に横浜で生まれ、戦時中に青梅市に自宅を写し数々の歴史小説を執筆した吉川英治先生の旧宅の素敵な古民家と日本庭園が博物館として季節限定公開されているのを御存知でしょうか?
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この周辺には観光地として申し分ないスポットも幾つかあり、小生は昨年初めて訪問して再訪したいと思っていたところ、Google mapの情報で今年2019年03月に開館の後、03月20日で運営中止となり完全閉館される事を知りました。
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駐車場も完備されており古民家としてだけでも見物に値し、更に歴史好きや三国志好きならたまらない吉川英治先生の生涯や作品紹介の展示物もある素敵な博物館なんです。
吉川英治記念館だけでは奥多摩まで足を運ぶには小生の様に神奈川県民では距離的に足がなかなか向かない人もいると思いますので、吉川英治記念艦周辺の観光地としての魅力を先ず強調する為に周辺の景勝地を紹介したいと思います・・・
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大悲山 観音寺(通称:塩船観音)
塩船観音は吉川英治記念館から車で30分程度の場所、関東指折りの躑躅の名所の一つで人魚伝説の八百比丘尼が住職を務め、更には天台宗の総本山、比叡山を代表する高僧の一人で天台密教の大家である五大院先徳 阿覚大師 安然和尚様が大寺院に拡張した歴史がある場所です。そのごは坂東平氏三浦一族の金子家が平安時代~鎌倉時代に支援し、戦国時代には三田領を束ねた三田家が支援した御寺で、現在は真言律宗の別格本山であり寺院の奥院が躑躅に囲まれる非常に美しい場所でもあります。
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JR青梅駅周辺❝昭和レトロ商店街❞
青梅市は映画とドラマのロケ地誘致と昭和の街並みの景観保存に力を入れておりJR青梅駅周辺は散歩するだけでも楽しい。❝赤塚不二夫記念館❞や❝昭和幻燈館❞や❝青梅宿津雲邸❞等もあり駅周辺でもかなり時間を割いて散策出来る。
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へそまんじゅう総本舗奥多摩を代表する御土産物屋と言って過言では無く、蒸したてホカホカの名物へそ饅頭を1個売りでも箱でも販売してくれる。小腹が空いたらオヤツにも丁度良い。
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奥多摩釜めし
山深い場所に来た時に関東地方では定番の観光地の食事と言えば釜飯。青梅市の二俣尾でも釜飯の名店❝奥多摩釜めし❞があり、観光気分を満喫しながら食事が楽しめる。吉川英治記念館からも車でそう遠くはない。
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瑞龍山 海禅寺(戦国時代の天皇勅願所寺院)
とても素敵な楼門と、境内に綺麗な躑躅も咲き、春には枝垂れ桜の立派な大樹が見所の御寺。
戦国時代に扇谷上杉家の与力小大名だった三田家が室町時代中期に開いた寺院だが、本来の寺号は❝福禅寺❞と言い恐らく前身寺院は鎌倉亀ヶ谷に存在した修験道の大道場で源頼朝公が崇敬した亀谷山福禅寺が前身。度重なる戦火で福禅寺の権現堂は横浜市港南区に機能移転し、福禅寺は扇谷上杉家によって三田家に青梅市二俣尾の現在地で再興されたと推測出来る。横浜市沿岸部を北条早雲の時代に治めた北条家相模十四騎筆頭の間宮家棟梁、間宮信冬公によって福禅寺の住職が鶴見下末吉に招かれ長谷山 寶泉寺が開かれた。この間宮家は間宮林蔵や杉田玄白の一族祖先であり、又、現在の江の島の江島神社が真言宗系修験道の聖地霊場だった江戸時代までは間宮家が住職である別当を務めた。この間宮家は鎌倉から移転した福禅寺の権現堂を横浜市域で保護しているが、これが鎌倉に在った修験道の福禅寺時代には天皇家御門跡寺院だったので、三田家滅亡後は曹洞宗として間宮家や間宮家の寄親の玉縄北条家一族福島家や同じ北条家臣師岡家や旧三田家臣団によって支援された頃に突如天皇家勅願所に成っているので、間宮家や鎌倉亀谷山福禅寺と青梅市瑞龍山海禅寺の本来の寺号の福禅寺の深い関連が推測出来る。
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吉川英治記念館(2019年03月20日閉館決定)
吉川英治先生の生涯と作品を展示した博物館と、旧宅の古民家と日本庭園を併設した記念館。
風景も庭園もとても美しく、又、古民家好きにとっても素敵な場所。吉川英治三国志や彼の歴史作品を愛読した人ならば閉館前に必ず行きたい所。
3月までは季節柄開館時期では無く03月01日の開館~20日まで営業して終りを迎える。
3月からの開館機関も火曜日は定休日なので訪問日程には注意が必要。
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澤乃井櫛かんざし美術館この美術館と多摩川を挟んで対岸に在(あ)る老舗酒蔵の澤乃井酒造が運営する日本の櫛と簪(かんざし)を大量に収蔵展示した珍しい美術館。ここは風景もとても美しいが収蔵された櫛と簪はどれも綺麗で緻密な細工のされた物ばかりで、江戸時代の御姫様達が用いた物から近代工芸品として発展した物まで多種多様な❝美術工芸品❞としての櫛と簪を見る事が出来る。女性陣は必見!
対岸の澤乃井酒造も吊橋を渡って行けるし、逆に澤乃井酒造側に車を駐車して歩いて来る事も出来る。
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寒山寺(澤乃井酒造創業家小沢家の持仏堂)澤乃井酒造経営者の小沢家が建てた持仏堂で❝澤乃井櫛かんざし美術館❞と澤乃井酒造の土産物売店とレストランが併設された❝澤乃井園❞を繋ぐ多摩川上流にかかる吊橋のたもとに存在する。
美術館と澤乃井園と合わせて見物出来る景勝地。


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澤乃井酒造&澤乃井園江戸時代初期から続く老舗酒蔵の澤乃井酒造の醸造所と、観光客向けに日本酒の飲み比べや土産販売、食事店舗を併設した場所が澤乃井園。奥多摩ながら観光客で日々賑わい、下の多摩川の河原にも降りられるので渓流で沢遊びをする家族にも人気の観光地に成っている。
又、予約すれば酒蔵の方も時間限定で見学する事が出来る。酒を飲まない小生でも力を込めて推薦したい観光地。ここの梅酒は酒嫌いにもとても美味しい!
歴史好きにたまならいガクシャ先生も知らない情報を余談として一つ・・・
澤乃井酒造の小沢家は旧武田家重臣で武田信玄の娘婿だった穴山梅雪の与力武将が御先祖で、武田家滅亡時に復興資金を持って現在地に移転して来て、そのまま武田家は復興されたなかったので林業を営む傍(かたわ)ら酒造業を始めたそうです。社長さんに取材確認済みなので間違いないそうです。
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福島家住宅(江戸時代までの二俣尾村庄屋宅の古民家)

さてさて・・・

吉川英治記念館の周辺、すっごい沢山見所有るでしょ?
この他にも城好きには辛垣山城跡なんかも有りますが、ちょっとした登山に成ってしまうので一般の観光客には不向きと判断し紹介は差し控えました。今回紹介した場所は小生が自分で廻った事のある場所ばかりですが、吉川英治記念館周辺は他にも見どころと成る美術館や観光施設が沢山有ります。
渓流には釣りが出来る場所やキャンプ場も有りますので、アウトドアと合わせて吉川英治記念館の見学に行くのも良いかも知れません。
奥多摩が観光地として魅力的なのは伝わったでしょうか?

・・・では、ここから吉川英治記念館そのものの紹介に戻ります。
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国道411号線から都道41号線に入り西の多摩川上流に向かって車を走らせると、この写真の看板が見えます。駐車場も30台分くらい有るので十分停められると思います。
吉川英治を平成生まれの若い世代は余り知らないのでインスタ映えする古民家が有ってもデートに大挙して来る事もないでしょうから。
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駐車場の脇から住宅道路みたいな田舎道を進むと入口に辿り着きます。DSC_0568
第二次世界大戦中に都会から疎開する為に旧豪農の邸宅を買い取って住んだそうなので、もう長屋門まであって既にこの時点で歴史好き、古民家好き、日本庭園好きにはたまらない雰囲気が漂ってきます。
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中に入ると直ぐ右手に・・・
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物置に使われていた立派な蔵が有ります。凄いよね~。
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御庭とても綺麗。
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住宅部分は玄関の中まで公開されています。
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そして各部屋には生活していた当時の写真が展示されており、今でも往時をありありと想像する事が出来ます。
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御庭に回りましょう。
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こちら側に回ると執筆する書斎として増築された洋館部分の玄関に回る事が出来ます。
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この洋館部分の玄関のタイルが見事でとても綺麗なんです。
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この、こじんまりした洋館の書斎で小説を執筆されていたそうです。
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小生は訪問するまで存じ上げなかったのですが、吉川英治先生は横浜市中区元町の生まれだそうで、生活も吉野町でされたりしたそうです。御先祖は小田原藩士だったとのこと。でも御本人は仕事を色々と変えて数奇な運命を辿っています。今で言うと転職しまくって余り大成しなさそうなかんじなんですけどね~。
そこからどうやって大作家に成ったかとか資料館部分で見る事が出来ます。
洋館から裏庭に回りましょう。
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本当に素敵な庭園なんです。
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まるで横浜三渓園みたい。
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裏庭側から資料館の入口に回れます。
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ここから中は撮影禁止です。
中には吉川英治先生と前妻や後妻さんや家族との年表や詳しい生活の様子、個人的な人生の紆余曲折も解説されていて歴史小説に興味ない主婦の方も昼メロドラマ並みに乱万丈非常に先生の生涯には興味を惹かれると思いますよ(笑)。

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御花もとても素敵な場所です。
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・・・こんな素敵な吉川英治記念館ですが、残念ながら今年2019年3月1日~20までの公開を以て閉館と成ってしまうそうです。残念ですね~。
もし彼女が出来たら一緒に連れて来てあげたい場所の一つだった。
もう彼氏彼女や夫や妻がいる皆さん、どうです?吉川英治記念館と周辺の観光スポット、とっても綺麗でしょ?是非3月の最終公開期間、訪れて見ては如何でしょう?

では、又、次の歴史解説記事で御会いしましょう~。
・・・津久井城の記事早く書かないとね。神社仏閣一覧も更新しないと。


















前回の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←コレの続き・・・

大永峯嗣法山傳心寺・・・と言っても現代では判る人は少ないでしょうか?
もし新編武蔵風土記稿で久良岐郡の金沢領の項目を読んだ事が有る人なら「あ~!」と思い出す人もいると思います。
さて、この大永峯嗣法山傳心寺と明治時代以前まで正しい名前が伝わっていた御寺も、明治や戦後の宗教改革を経て寺院名は簡略化されて現代では昔とは大分異なっています。
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嗣法山 伝心寺(正式には大永峯嗣法山傳心寺)
さて、この御寺は❝北条氏繁公が開基(かいき=新設)したと❞神奈川県教育委員会や金沢区観光協会が間違った歴史を紹介しており、その事は前回の記事で書いた磯子区の龍珠院の伝承の勘違いと全く同じ❝文献の未確認❞❝歴史人物と伝承の生年の整合性の未確認❞と言う❝初歩的なミスを神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の誰かサン❞が犯して適当な仕事のまま伝心寺サンや金沢区観光協会に報告してしまったので❝公式❞に歴史が誤認されてしまっている様です。
少し前回の龍珠院の記事と被りますが、何故、この伝心寺が北条氏繁公の開基と言うのは有り得ない事かを説明させて貰います。
前回龍珠院の記事→❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区←クリックで読めます。
さて、新編武蔵風土記稿には旧北条家臣間宮家の子孫で東京大学の前身と成った江戸幕府官営の昌平坂学問所の頭取を務め地誌編纂で多大な功績を残した間宮士信(ことのぶ)サンが伝心寺について以下の記載をしています。

~前略~
禪宗曹洞派相模國小田原香雲寺の末(すえ=末寺)、大永峯嗣法山と號(号)す本堂はなく本尊釈迦の坐(座)像は假(仮)堂に置(おけ)り、開山養拙宗牧、開基は北条左京大夫氏直、大永元年(1521年)の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず、
~以下省略~
因(ちな)みに江戸時代にも既に御寺を開いた人物についての認識に混乱が有った様で、どうも伝心寺の御住職は歴代伝える文書は無く口伝が中心だった用です。そして昭和に成ってからの御住職様は新編武蔵風土記稿も読んでらっしゃらなかったみたいですね~。御寺の復興に忙しかったんでしょうね。
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※伝心寺の参道、昔はこの辺りから御寺だった様です。道路の配置から一目瞭然。
まぁ、ちゃんと北条氏繁公や北条氏直公の誕生日を知っていればコンナ初歩のミスを犯さないんですが、何で歴代の和尚さんに御寺を開き寺領を与えて下さった大恩有る開基の御殿様の御名がちゃんと伝わらなかったか新編武蔵風土記稿の文中にヒントが有りましたね…

まず①で現代では簡略化され誤って伝えられている御寺の正式名称と字体が解ります。

そして伝承が正しく伝わらなかった原因が②に有ります。小生の推測では恐らく戦国時代末期に房総の里見家の海賊行為で御堂ごと焼け消失、江戸時代にも本堂は再建されずにいたから御寺その物が荒廃していたのでしょう。その為(ため)に造営から数年後には記録文書が消滅したと推測出来ますが、その原因と成ったであろう合戦の候補は二つ有ります。
●1つ目、永正十五年(1518年)八月二十七日に起きた三浦半島(横須賀市域)走水合戦
北条家臣で後の玉縄城主北条綱成公の付家老と成る前の時代の間宮家が単独で里見家を横須賀市走水で迎撃して殲滅した戦いです。この合戦では間宮家が水軍率いて横須賀市域で里見海賊を迎撃、特に活躍したのが走水を死守玉砕した間宮分家の杉田間宮家初代当主、間宮常信公でした。常信公は官途を兵庫頭(ひょうごのかみ)と名乗り、この合戦では海賊の大将の植松筑前守を討ち取った上に敵軍船14艘を奪い取った記録が残っています。間宮家は勝利したものの残念ながら間宮常信公は34歳の若さで戦死されその戦功が記録されています。常信公の菩提寺は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
妙法寺の記事は→妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。←クリック!
・・・結論から言うと時代が合わない。なのでこの合戦では有りません。が!いつの時代も役所の役人と言うのは適当な仕事をする奴もいれば真面目な人もいると言うのが判る一例として晒(さら)し上げの代りに誤記だらけの内容を解説して置きましょう。
先ず、この記録が登場するのは寛政重修諸家譜と新編武蔵風土記稿と言う文献ですが、寛政重修諸家譜に関しては近代若しくは昭和期の国家公務員か出版社の人間が適当な仕事をして永正を天正と誤記しています。これは江戸時代の文書から活版印刷に文字を起こす際に起きたミスでしょう。
更には新編武蔵風土記稿でも間宮家の子孫である間宮士信サンが❝間宮常信❞と書いている御殿様の名前を江戸幕府の馬鹿役人は❝間宮信常❞と誤記しています。
更に平成の世と成った現代でも間宮常信の事に関して適当な事を執筆して本にしているNHK歴史解説員と研究家である事を誇張してWikipediaでツラツラと書いて有るガクシャの人がいるのですが、文献の内容の事実確認をされない上に御子孫への取材をする事も無く上記2つのミスをコピペして出版している本に事実誤認や誤記を丸写ししていたりします(笑)。
酷いですよね、いつの時代も❝適当な仕事をする部類の人種❞って。

2つ目、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦
この合戦では恐らく、三浦半島と現在の横浜市域が里見家と正木家の軍隊と海賊に略奪されつくされ鎌倉市街地域に至っては放火され鶴岡八幡宮まで焼失してしまいました。
恐らく町屋地区も略奪放火され六浦から朝比奈峠を越えて里見の海賊は鎌倉市街に乱入し、正木の海賊は城ヶ島方面から北上して鎌倉に侵入したのでしょう。里見家も走水や金沢八景や杉田方面の各所から侵入を試みた様で、杉田に有る源頼朝公が開いた元は修験道の大本山だった熊野神社=大霊山泉蔵院桐谷寺も略奪に遭っています。
泉蔵院(熊野神社)の記事→横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。←クリック!
この鶴岡八幡宮合戦での略奪放火で八幡様が焼失した事件は北条家のみならず北条家と敵対していた小弓公方足利義明や関東武士団にとって文化的精神的なダメージと成る大事件で、里見家は失火の原因の責任から内紛が起こり、北条派の里見義尭(よしたか)が当主に成る程でした。
この際の鶴岡八幡宮と鎌倉市街地の再建事業では横浜の3人の殿様が活躍しているのを間宮家の事績解説で紹介しているので興味が有る人は御覧下さい。
鶴岡八幡宮再建事業関連記事→間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリック!
※余談ですが、間宮家の事績はこの文章を叩き台にして何れ書籍化する予定では有りますが調べ物増えすぎてブログとシェイプアップと銀の指輪造りと季節の散歩と合わせて予定が伸びに伸びて未定です(笑)!
さて小生の推測、大永六年(1536年)の鶴岡八幡宮合戦で里見家の乱入が有った際に御寺も燃やされたので伝心寺は荒廃し書物も御堂も火事で無くなり御本尊の釈迦牟尼仏様だけが難を逃れていた事が皆さんにも「久良岐のよしの言ってる事は整合性有りそうだな?」と御納得頂けたかと思います。
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では新編武蔵風土記稿の伝心寺の解説の③と④ですが、もうそのままですね。
開基は北条左京大夫氏直、大永元年の起立と傳(伝:つたわ)れと(ど)、大永元年は氏直未生の時なり、其頃は左京大夫氏綱の代なれば此(この)人の開基なるも知るべからず
江戸時代には恐らく御寺を開いた殿様の名前が❝北条左京太夫(さきょうだいぶ)❞とだけ伝わっていたのでしょう、だから江戸時代の御住職が前代には御寺の歴史の引き継ぎが廃れていたのを何かの文献を読んで「あ!北条左京大夫って北条氏直公の事なのね?」と間違った解釈をして以後~明治まで御寺の歴史として伝わっていたんでしょう。しかし左京大夫は北条家歴代の殿様が名乗った官職名でした。
実は❝五位、左京大夫❞と言うのは元々は北条家の傘下の小大名で北条家より家格の高い蒔田吉良家の殿様の歴代が名乗った官途です。蒔田吉良政忠公の代まで左京大夫でした。しかし蒔田吉良家に北条家の姫君が嫁ぎ、吉良成高公や吉良頼康の代に成ると鎌倉公方の代理を務める様に成り官位も❝四位、左衛門佐(さえもんのすけ)❞に上がったので、その際に北条家に左京大夫の官職が譲られたのでしょう。
北条氏綱公
2代目の北条氏綱公の先代の初代北条早雲公は実は生前に北条姓を名乗っていませんでした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
それどころか早雲公の代までは伊勢姓で伊勢盛時と名乗り僧籍に入ってからは伊勢宗瑞となのっていらっしゃったので官職も左京大夫ではなかった筈です。
ですから蒔田吉良成高公が初代鎌倉公方代理だとすれば正に北条氏綱公の世代に当たるので、北条家初代の左京大夫を名乗った殿様は北条氏綱公と成り、伝心寺が開かれた大永元年(1521年)ともドンピシャで整合性が有る訳です。
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さて、これで取り合えず❝傳❞心寺を開いたのが北条氏綱公が有力で有る事が解ったかと思います。
では、何故(なぜ)現代、この御寺が「玉縄北条家の北条氏繁公が開いた」と誤った伝承を現在の御住職様も伝えているのでしょう?これは一つは先代の御住職の頃の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会の責任です。素人(シロウト)歴史オタクの小生でも調べられる程度の事すらちゃんと調べずに御寺に嘘を教えたんでしょうね。
そして御寺に伝わっていた❝歴史事実はこれだけ❞だと思います・・・
「玉縄北条家の殿様の菩提寺である、でも誰か今では解らない」
・・・と。
これは他宗派の真言宗で、伝心寺の直ぐ近くに在る龍華華サンが成り歴史を紐解くヒントに成りそうです。
2015-03-04-17-10-31
知足山 彌勒院 龍華寺
龍華寺を紹介したブログ開始初期の拙い記事→龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。←クリック!
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・・・実はこの龍華寺は北条家の本拠地小田原城の前の城主の大森家の遺児が戦国時代初期に住職を務めていました。この御寺は扇谷上杉家と関係が非常に深く、大森家は扇谷上杉家の与力大名でしたし、同じく関東最強の無敗の軍師で築城の名手だった太田道灌公も扇谷上杉家の直臣で家宰(主将代理)でした。
太田道灌公
室町時代の太田道灌公と菅原道真公の御子孫の菅原朝臣(すがわらのあそん=菅原氏)中務丞の菅野資方(すけかた)公が御一緒に、鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が新田義貞による鎌倉幕府討伐の戦火で略奪放火され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、復興された御寺が龍華寺で、江戸時代には龍源寺と呼ばれていました。
この龍源寺を道灌公と一緒に復興した菅野さんは今の東京都の浅草辺りに住んでいた道灌公の与力武将でした。
先に伝心寺は里見家が鶴岡八幡宮同様に放火略奪した可能性が有る事を指摘しましたが、ちょうど大森家の遺児が龍華寺に居たのはその時代の話です。
鶴岡八幡宮再建事業の頃、玉縄城主は北条為昌公でした。北条家3代目当主の北条氏康公の実弟ですが、どうも小生の見立てでは自分の家来や他勢力と共謀して実兄を差し置いて跡継ぎに成ろうとした形跡が残っている人物です。
鶴岡八幡宮再建では為昌公は鎌倉の玉縄城主だった事も有り、鶴岡八幡宮再建に携(たずさ)わる人々と緊密に成る機会が有ったのですが、当時のこんな話が有ります「氏康公はアホだから、弟が跡継いだ方が良い」と噂が広められていたようです。
実は北条為昌公は烏帽子親や後見人が北条家初期の重臣であった笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公でした。この二人から名前を一字づつ貰って成人した事が解ります。そんな為昌公と鶴岡八幡宮再建で親密だったと推測出来るのが大道寺・笠原の他に❝神保輝廣❞公でした。この神保輝廣公、苗字が違うので歴史学者でも知らない人が多いのですが、実は北条早雲公の実子で2代当主北条氏綱公の実弟であり鶴岡八幡宮再建では檜皮奉行や財経担当として再建に携わっていたので北条為昌公を可愛がる動機が十分に有りました。
当時、北条氏康公は後の織田信長公の若い頃同様に評判が悪く奇行が多かったそうです。
北条氏康
※北条氏康公:KOEI信長の野望大志よりは画像拝借
そんな事も有り中の良かった人達だけで勝手に氏康公を廃嫡しよう等と言う協議がされたかも知れません、しかも敵方の小弓公方足利義明や里見家と結託した上で。
龍華寺の記録では北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している文書が紹介されています。
先に説明しましたが、北条早雲公の生前の名は北条姓ではありません。本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代で、統治が安定して龍華寺に寺領保証の朱印を発給出来た人物は北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だと解ります。
さて、玉縄城主だった人物が、兄の北条氏康公を差し置いて三代目当主に成ろうとした動きが後の玉縄城主北条綱成公と俗説では混濁されています。
北条綱成
これは有り得ない事で、北条綱成公は養子なので実子を差し置いて跡継ぎに成る権利は有り得ません。
これは恐らく同じ玉縄城主でも先代の北条為昌公の話が玉縄城主として余りにも有名な北条綱成公と混濁され誤認された事が推測出来ます。
北条為昌公は烏帽子親が筆頭家老の大道寺盛昌公、名を同じく筆頭格の重臣である笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公から貰っているので、人脈的にも後ろ盾に成る人物がいて嫡男:氏康公の廃嫡を画策出来るのは彼以外におらず、更に1530年代後半に行われた鶴岡八幡宮再建では北条一族で伯父の神保輝廣公が買い会計関連と屋根に使う檜皮の調達と施工管理の奉行として頻繁に玉縄城近くの鶴岡八幡宮に出入りしていたので神保輝廣公とも兄の北条氏康公廃嫡の謀議を重ねれる状況に在(あ)りました。
小生はこの為昌公の菩提寺が、伝心寺なのだと推測しています。
実際に為昌公は1539年~公文書に登場しなく成り1542年に23歳の若さで亡くなっているのも1541年に北条氏綱公が没して後に兄の北条氏康公が跡を継いだ際に誅殺されたか自害したのかも知れませんね。
そして北条家所縁の傳心寺に葬られたのが、末寺の龍珠院開基の北条氏繁公の話とごちゃ混ぜに成り江戸時代以降に誤伝したのだろうと解る。
江戸時代の北条氏直公説なんぞ間宮士信サンが解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
話を傳心寺に戻すと・・・。
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つまり傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成ります。
玉縄城主が開基したと伝わるならば、当時、永正十七年(1520年)に北条為昌公は生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。新編武蔵風土記稿ではこれを以て父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している訳です。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろう事が判明します。
神保輝廣公も小田原所領役帳が編纂された1559年当時には北条一門なのに84貫32文と異常に低い中級武士待遇扱いをされている事が解り、これももしかしたら為昌公の陰謀に加担した懲罰としか思えない状況が有ります。為昌公の次の玉縄城主と成った北条綱成公は1370貫612文。
神保輝廣公と北条綱成公の所得を比較すれば、明らかに神保輝廣公が冷遇されており何某かの懲罰を受けて減封されている事が読み解ける訳です。
余談ですが伝心寺を開いたとか御廟所が有ると誤伝した北条氏繁公の菩提寺は鎌倉市玉縄の玉縄城下の龍寶寺で、氏繁公の母の大頂院様の菩提寺は鎌倉市大船の大長寺(大頂寺)で、子の北条繁廣公も大長寺にて菩提が守られている。
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※傳心禅寺、真新しい扁額にはちゃんとした字体で傳心寺の禅寺としての寺号が刻まれている。
さて、ここまで読んで頂けた人には少しは小生の説・・・
1伝心寺を開いたのは北条氏綱公
2伝心寺で菩提を弔われているのは北条為昌公
3北条氏康公を廃嫡させ三代目北条家当主と成ろうとしたのは北条為昌公
・・・この傳心寺の歴史を踏まえて小生の推測を納得頂けたんじゃないでしょうか?
更に伊勢原市の龍散寺の記事と丸々被(かぶ)りますが書き並べます。

❝北条氏康公を廃嫡して嫡子に擁立しようとする動きが一部の家臣団に有った❞なら❝画策する人物は北条為昌公だった❞だろうし、「嫡男の北条氏康公がアホ」等と敵と組んだり家臣団を分断してまでプロパガンダをやらかしたならば当然、犯人が北条氏綱公にバレて為昌公に懲罰を与える際は自分の所縁(ゆかり)の御寺に蟄居させるか仏門に入らせ世俗との縁を切らせる筈ですよね。
この政治的な北条家分裂の謀略を画策したのは反北条・反古河公方足利高基公の勢力となる訳で、小弓公方足利義明・扇谷上杉朝興・里見義豊だろう。
伊勢原市の龍散寺を再興開基した神保輝廣公は鎌倉の玉縄城主だった北条為昌公と会う機会が多かった事が快源僧都記を読んでも判ります。
そして北条為昌公は大雨で大船の戸部川(柏尾川)が増水して真直ぐ帰れないと言う理由で不可解に横浜市金沢区方面を経由して帰ったりもしています。
玉縄城~鶴岡八幡宮~金沢伝心寺位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を確認すれば一目瞭然、いくら鶴岡八幡宮から玉縄城に戻るのに柏尾川が氾濫したからと言って、柏尾川は玉縄城の東を流れているのだから伝心寺の在る金沢区方面に行っても結局は柏尾川に阻まれるます。
ならば普通に鶴岡八幡宮の西側の巨福呂坂切通しを抜けて小袋谷方面から粟船(大船)で柏尾川の前に出て渡河可能な上流まで北上した方が効率も良いし、大雨で増水している様な悪天候に金沢六浦湊から船で杉田湊に上陸して、笹下城~永谷城を経由して柏尾川上流に出るなど不効率極まりなく更に海路を取る事は自殺行為でしかありません。
つまり❝金沢方面に行く❞と言う事は❝東京湾側に用事が別に有った❞と言っている様な物で、大雨で海も荒れて出航など出来ない時に港町の金沢六浦方面でわざわざ行き会いたい人間が居たと考えた方が自然に成ります。
しかもソレは・・・
父北条氏綱公や兄北条氏康公が来るかも知れない鶴岡八幡宮では不味かった訳です。
恐らく、向かった先は上杉家与力の小大名だった大森家遺児の龍王丸が住職を務める龍華寺でしょう。
そこで足利義明や扇谷上杉家や里見家と会合を開いたのではあるまいか?
・・・と小生は推測する訳です、その様に推測する理由もちゃんと有る。
北条家当主の左京太夫北条氏綱公が保証した龍華寺の永楽銭7貫と寺領の権現山(金沢八景駅~六浦上行寺背後の山)、1559年の所領役帳編纂時点で消滅しています。何らかの理由で没収されている事が解る訳です。
そして天文十二年(1543年)の段階では北条家ではなく❝中務小輔 古尾谷 重長❞が檀那(檀家総代みたいな)に成っている事が梵鐘に刻字されていると新編武蔵風土記稿に紹介が有ります。
この古尾谷家は元は入間郡出身の家で後に北条家臣と成ると三浦半島の警護を天文十年(1541年)に担っている事が解ります。余談ですが小田原北条家の直臣で玉縄北条家の付家老を務めた間宮家も入間郡の坂戸市戸宮に領地を持っていました。
つまり北条為昌公の没年である天文十一年(1542年)の翌年の天文十二年(1543年)には何らかの理由で大森龍王丸が住職を務めた龍華寺から北条家が支援を止めて寺領を没収し、代わりに家臣の古尾谷家が個人で支援を始めている訳です。
・・・北条家が直接の支援を止める理由は何らかの北条家中に不利益に成る事件を龍華寺が起こしたとしか思えず、これが北条為昌公が兄の北条氏康公廃嫡を関係の深い伯父の神保輝廣公や反北条勢力と謀議した舞台で、それが発覚したからだろうと思う。
仮に、出向前に滞在するだけなら北条家が開いた曹洞宗寺院の傳心寺に宿泊すればいいだけですからね。
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伝心寺の屋根や窓ガラスには北条家から下賜された北条家の家紋の三鱗紋が寺紋として装飾されています。
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さて伝心寺に眠る“玉縄城主だった北条家の人物”が北条為昌公と小生は推測する訳ですが・・・
伊勢原の龍散寺と同じく北条家所縁の傳心寺の寺紋は北条家の三鱗紋に〇を象(かたど)った物の使用を許されている。小生の推測通り北条為昌公が謀反を起こそうとしたのならば、将来の復帰を見据えた上で玉縄城からも近く北条氏綱公が直接支援した傳心寺に蟄居させるのが一番安全な訳です。その間に仏門に入り僧侶として修行して反省させたのかも知れませんね。
・・・そして1541年08月に父の北条氏綱公が亡くなる。
氏綱公の跡を兄の氏康公が跡を継ぎ10ヶ月が過ぎる。
年が明けて夏に差し掛かり氏康公の政権が万全に機能する。
邪魔な為昌公は自害させられたか誅殺されたのでしょう。伝心寺で蟄居させられ仏門に入っていたのならば、ここに眠っているのが為昌公であり玉縄城主だったので末寺の龍珠院を支援した氏繁公と勘違いされた事も納得が行きますよね?

叔父上の神保輝廣公は氏康公廃嫡と為昌公の嫡子推薦を主導したのかも知れない。
恐らく神保輝廣公の所得が84貫と一門衆なのに低くいが北条一門だから諸役免除と特別待遇は受けているのは、そんな背景が有ると小生は推察する。この所得は実際は政権から干されている状況で、会社で言えば北条屋の創業者一族なのに玉縄方面統轄支部の課長待遇で全く政治的な力を削がれた状態にされた訳だ。これは北条氏康公と、氏康公の実弟で玉縄城主だった北条為昌の跡継ぎ争いで為昌公に加担した懲罰的な待遇だったのだろうと思う。
この件は以前、新横浜の篠原城の解説記事で少し紹介しています。
コレ→篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
文字だけ読んでいても、文書なんか戦国時代~現代の間に火災で焼失したり散佚した物だらけで歯抜けの情報しか無いのだから自分で歩いて取材して廻らないと解らない事の方が多い訳です。
そんな風に小生の尊敬する北条家の殿様達の御縁で横浜市と伊勢原市との歴史も繋がったりする。
そして鎌倉市と横浜市の金沢区と磯子区と港南区の歴史も繋がる訳です。
余談ですが、神保輝廣公の菩提寺は伊勢原市の龍散寺です。
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金鳳山 龍散禅寺・・・花の寺、伊勢原聖観音神保輝廣公の御寺だけ有り当時❝鶴岡八幡神宮寺❞と呼ばれていた鶴岡八幡宮の再建時には、この龍散寺に一時、鶴岡八幡宮の社宝や神器が保管された。更には北条家一門の御寺らしく北条早雲公の御位牌が安置されていたりします。でも早雲公の御位牌、小田原城に貸し出した際に教育委員会が破損させたので、「もう外部には貸し出したくない」って副住職様が仰ってました。
・・・お~い神奈川県教育委員会、不真面目な奴はさっさと止めて、真面目で現場で頑張ってる教育者や学芸員が出世出来る仕組みにサッサと改革しろや!みたいな風に一般人として思う事件ですね。

さて、同じ曹洞宗の伊勢原市龍散寺、横浜市磯子区龍珠院、そして金沢区の龍華寺と傳心寺の歴史が繋がった所で、北条氏繁公と間違われている為昌公と思われる人物の御墓の場所ですが…
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・・・今では歴代住職の御墓の中でどれか解らないみたいです。
小生の推測通り龍珠院に蟄居させられて僧侶に成っていたのなら歴代住職の御廟所に御墓が在るのも納得が行きますよね?
でも背後の墓石、これ間違いなく室町時代の頃に多い御墓の様式なんですよ~。正面の立派な墓石は代表した供養塔ですね。
この記事を書くために改めて写真の撮影に伝心寺を再訪した時は二月初旬でした。
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梅が咲き始めた頃で境内にもとても綺麗な梅花が開いて心を癒してくれました。

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横浜市には伝心寺と龍珠院、そして港北区の泉谷寺、3つも戦国時代の関東で一番❝侵略❞と❝善政❞に長けた名将の北条氏綱公が関わった御寺が有ります。
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庫裡では御朱印も頂けますよ~。
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きっと皆さんの御近所にも今は規模は大きく無くても本来は凄い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れません、御散歩した山や公園が実はそんな神社仏閣に関わった歴史偉人の御城の跡かも知れません。
少し歩いて御寺や神社の説明や、屋根の瓦の模様を見て見ると、途端に過去の歴史偉人とその場所が皆さんを繋ぐタイムカプセルに成るんですよ!
・・・さあ、天気が良くて気分転換したければ、御近所を散歩してみませんか?

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
次いつ更新するかは解りませんが(笑)!
肉体改造、四月一杯で形に成りそうです。少しだけ玉縄北条家と間宮家と太田道灌公と蒔田吉良家と宅間上杉家の殿様の顕彰文の原稿書くのとブログ更新のペース遅くなるの、猶予下さいね~。

んじゃ!

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









小田原北条五代祭り 公式様より拝借 久良岐のよし

神奈川県で日本最大級の武者行列の御祭が毎年行われているのを御存知でしょうか?
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戦国時代の関東の覇者、小田原城主北条家を顕彰する御祭りが毎年05月03日に開催されています。
この御祭の凄い所は、武者行列の数がとにかく多い事、そして実際の城跡で行われる事、極めつけは戦国時代当時の軍団編成と同じく各地方から各軍団の顕彰会が文字通り“手勢” を率いて行われる所だんです。
つまり小田原市単独では無く、鉢形衆、八王子衆、玉縄衆、津久井衆等の北条家の主戦力部隊が勢ぞろいする御祭りなんです。
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良く判らん普通のオッサンも歩いていたりします(笑)。

昨年までは席が無かったのですが、今年からは当日席のみで500円で大迫力の武者隊の出陣式を見学する為に観覧席が設けられているそうです!
ですから、今回掲載している小生の写真よりも、更に北条家の大軍勢をいっぺんに見渡せるそうです。

この小田原城址は明治期に徹底的に破壊され、昭和にも歴史知識の無かった政治家主導の観光用のハチャメチャな公園化が行われましたが、平成になり立派な城が復興されています。
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 写真の様に平成に入ってから発掘調査に基づいた江戸時代の建築復興が現在進行形で行われています。
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天守閣は鉄筋コンクリートですが、その背後の山には戦国時代の本丸や八幡曲輪の遺跡も発掘展示されていたりします。
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その辺りは以前書いた小田原城址の解説記事を御覧下さい。 
 2年前の記事→
ゴールデンウィーク、せっかくなので小田原に城に行ってみては如何でしょうか?
それともう一つ!
外郎(ういろう)は名古屋の名物と思っている人、多くないですか?
違います!
京都発祥、そして小田原の外郎(ういろう)家が本家で、元々天皇や朝廷貴族と室町幕府三代将軍足利義満公に薬師として仕えた外郎サンが、殿様達を接待する際に提供した御菓子が外郎なんですよ!
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ですから、本家本元の小田原の外郎サンは、北条早雲公に招聘されて戦国時代に京都から小田原に移住して以来ずっと今でも薬と御菓子の外郎を製造販売しています。
そして写真の建物は安土桃山時代に士分を捨てて薬一本を家業にした際に、天皇家から餞別として普通では庶民が許されない格の高い家柄しか作れない唐破風を多用した建築許可を頂いて以来、今でも伝統として天皇家の御好意を受け継いで唐破風を多用した建物を再建し続け店舗にしています。
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 包装用紙の五七桐紋も天皇家から下賜された物です。
解説記事→
あと、名物の曽我梅干しと蒲鉾、曽我梅林の梅酒も御勧めです!
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そして梅の季節には曽我梅林の梅が大変綺麗な街でもあります。
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皆さん、小田原は戦国武将の史跡と美味しい和菓子と魚と梅の有る素敵な街です。
箱根温泉も直ぐ近く!
5月3日、小田原北条五代祭り、是非!見学されては如何でしょうか?

【北条五代祭り】
開催地:小田原城とその周辺の城下町を武者行列パレード
日時 :2017年05月03日12:30~
住所 :〒250-0014 神奈川県小田原市城内地内城内5−3−22 
アクセス
小田原駅から徒歩10分
周辺に臨時駐車場多数。一般の有料駐車場の方が比較的空いていますのでナビを活用してみて下さい。
ホームページ
http://www.odawara-kankou.com/houjyou/ 

朝7時半に自宅を出発し千葉県八千代市高津の高津山観音寺に間宮家顕彰活動の御参りと自分の活動への賛同を頂く事と現地での間宮家の情報収集で大住職様を訊ねて来た。

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ここは江戸時代の学者で昌平坂学問所の頭取だった間宮士信(ことのぶ)の菩提寺。

間宮の姓の通り、笹下城主間宮信元公の御子孫。家系的には、氷取沢間宮家の更に分家の高津間宮家に当たる。

笹下城主の間宮信元公の御子息で滝山城主北条氏照公の家老だった間宮綱信(つなのぶ)公の子孫に当たる。

なので綱信公が初代と成った氷取沢間宮家の子孫な訳だ。

ここに小生の尊敬する間宮士信公が葬られた理由は、士信公御自身が尊敬していた祖先の間宮正秀公(綱信公の孫)が、この御寺の境内の神社に葬られ祀られていたからだった。なので士信公はわざわざ遺言して御自身の遺体を塩漬けにさせて、江戸から遥かに離れた領地の下総国印旛郡高津村(八千代市高津)の観音寺まで運ばせた。

なので、ここには明治の神仏分離令で無理やり管理を分けられて荒廃してはいるが、間宮正秀公を祀った高秀靈神社の旧跡と、墓所も有る。
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正秀公は大坂で真田幸村隊と交戦し討死した。その際に源左衛門と言う武将が遺骸をこの高津の遺族の元に届けたそうだ。

この源左衛門は恐らく間宮本家の家臣、内田家の内田源左衛門だ。近年まで笹下城下である雑色地区に屋号で❝げんざむサン❞と呼ばれた内田さんがいたらしいのだが、その家の祖先だろう。内田家の本家の対馬守家は今も笹下に残ってらっしゃる。間宮家は寄親の玉縄北条家の官途が左衛門大夫だったので、左衛門大夫の部下に当たる官途の左衛門尉配領して以来、屋号に〇左衛門とつく内田家の子孫がいる。

対馬守家は一番古い家なので、玉縄北条家の与力に成る以前に拝領した官途対馬守を名乗り、屋号は古門だった。そんな訳で、間宮家分家の高津間宮の間宮正秀公の御遺骸か首を大坂から戦後届けたのは間宮本家の重臣だった内田ゲンザムさんの家の当時の御当主だと思う。
この神社と観音寺はいずれ解説記事で詳しく書こうと思う。

大住職様から聞く高津間宮家の歴史は既知の事ばかりだったが、士信公の御遺骸を運ぶ様子や正秀公の御遺骸がまだちゃんと地下に保存されている事を聞けたのは現地に訪れないと解らない事だった…

これだから現地訪問&当事者の御子孫や後代への取材は必要なのだ。

…それと東京大学資料編纂室と御縁が出来そうだ。

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あと、観音寺背後の高津比賣神社を御詣りし宮司様から様々な事を御教授頂けた。

古代大和朝廷時代には、八千代市高津一帯が軍馬生産地だったそうだ。

間宮家が江戸時代に本牧奉行を務めて治めた久良岐の丘=本牧半島も古代大和朝廷の軍馬生産地だったのは、間宮家繋がりの偶然だが御縁だろうか。

更に御教授頂けた面白い歴史が有る。

この高津比賣神社の御祭神、多岐津比賣(たきつひめ)は藤原時平の娘だと言うのだ。

この藤原時平と言うのは、醍醐天皇を蔑ろにし朝廷を牛耳ろうとした人物で、その為に醍醐天皇の御父帝君宇多天皇と醍醐天皇の忠臣で参謀だった菅原道真公を謀略でハメて大宰府に左遷した大悪人だ。

菅原道真公を無実の罪で追い落とした後、この時平の一族は災難が20余年も続いたそうだ。恐らく災難と言うのは天皇家の怒りに触れたと言う事だろう。

結果的に、多岐津比賣も中央を追われて、この高津の地へ落ち延びて来てヒッソリ暮らしたそうだ。これが平安時代の話。

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高津間宮家がこの地に来るのは江戸時代初期の話。

しかしながら、よりにもよって間宮家はその宇多天皇の御子孫であり、更に高津間宮家の祖先の間宮綱信公は菅原道真公の御三男の菅原淳茂(あつしげ)公の居所跡に永谷天満宮を造営した宅間上杉家の姫を妻にしている。

そこら辺は以前、永谷天満宮の解説記事を書いているので興味の有る人は読んで貰うと詳しく解ると思う。

宅間上杉家も祖先は勧修寺家と言う藤原氏の傍流だが、少し本流藤原氏と異なり北野天満宮の宮司を務めた家の御子孫に当たる。つまり、菅原道真公を崇拝していた家系な訳だ。

この宅間上杉家の上杉富朝公の姫君と間宮綱信公が御結婚された生まれた御子孫の高津間宮家が藤原時平の娘の終焉の地を領地としたのは何とも因縁めいた歴史だと思う。


こんな有意義なやりとりを宮司様と終えた後、丁度昼食の時間と成ったので、直ぐ近くの八千代市ローカルのステーキハウス カウベルで昼食をとった。

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八千代市周辺にしか無い店なので知らなかったが、この店は食材を地元で生産しているらしく…

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美味いんだコレが!神奈川にも出店して貰いたい。

このハンバーグとカットステーキのランチで1600円位だったかな?

食べ終えると次の目的地の佐倉城址と国立歴史民俗博物館に向かって出発した。

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行く前、てっきり郷土資料館なのかと思っていたら国立なので日本の民俗文化を紹介する場所だった。

展示品は写真撮影可能で、現在は甲冑の特別展示が行われている。

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それと日本の歴史解説の常設展示。

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平安時代末期の武家の配置図とか、これは良かった。

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江戸時代の銀座日本橋辺りの復元模型とか。

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公家の御姫様の奈良時代の平城京の時代の格好とか。

ただ、テーマが広すぎて、佐倉市ローカルな佐倉城の縄張り図や千葉氏関連の展示を期待していたので思惑が外れてしまった。
余り関西地方に行く機会の無い人は、ここは良い平安時代の勉強の場に成ると思う。

小生は京都は友人も居るし、昔住んで居た事も有るので源氏物語ミュージアム等で同様の展示物を数回見る機会も有ったので良い復習に成りました。

この博物館を出ると、すぐ横が大規模な佐倉城の❝角馬出し❞の跡。

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角馬出しと言うのは城門の前に築かれた守備兵を安全に出撃させる為の防塁と空堀であり、敵が攻め寄せた際に城門に大兵力を集結出来なくする為の防御施設なのだが…

これを丸くしたのを❝丸馬出し❞と呼び、真田幸村が大坂城南側の城門前に築いた要塞が、この上の写真の馬出しを何倍も巨大な規模にした丸形状の丸馬出しだった。

角馬出しは北条流築城術で多用され、丸馬出しは武田流築城術で多用される。

この城は千葉氏が初期造成したので、この角馬出しは北条家に従属化していた時代の千葉氏によって造られた施設を、後に佐倉城主と成った徳川家臣土井家が改修した物だろう。

展示方法に問題が有る。

何の心算か知らないが、空堀全周に生垣を植えてしまっているので子供が中の様子を見れない。

大人も見難い。これは公園化されてから整備を担当している部署の責任者が城の知識が皆無な不見識な人間で有る証拠だろう。

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土塁に見立てているのならば、外側に生垣を作るのはおかしい。

まぁ、ここら辺は知識の有る人が責任者に成ればすぐに改善される程度なので問題ない。

この佐倉城を含め、徳川家や織田家や豊臣家の築城術は関東や甲信地方に比べて未熟だったが安土桃山~江戸時代初期に武田家臣や北条家臣を配下に組み込んだ頃から、関東流の武田と北条の築城術を両方とも取り込んだ大坂城や徳川紀河越城に見る築城術が確立されて行く。

もっとも、北条流も武田流も一級品の築城術と言われるが、北条流で豊臣家との攻防を耐え抜いた小田原城をはじめとした城はどれもこれも太田道灌の太田家が確立した扇谷上杉流で初期に築城された城ばかりだった。

扇谷上杉流の築城が近世の豊臣家の攻城戦術に耐えたのは、攻城側が塹壕を掘れない土地を選んで太田道灌公や御父君の道真公が城を築城したからだ。太田家が関与した扇谷上杉家の城は、どれもこれも深い湖沼に浮かんだ丘に築かれた城なので埋め立てる事も容易では無い訳だ。

他の施設も見て回ったが、城址の規模と歴史に反して保存状態はすこぶる悪い!

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空堀は博物館の横以外は手入れが行き届いておらず、中途半端。

竹林にするなら横浜市港北区の小机城址の様に徹底して美しい竹林にすれば良い。

これは只、雑木林に成るのを定期的にルーチンワークで伐採しているだけで見せるコンセプトでは無い。

明治期に陸軍の施設に成って城址の丘陵上の土塁部分は大半が破壊されたとは言え、立派な空堀群は多く残っているのだから、それを角馬出し部分同様に芝生にするだけでも見やすいだろうし、そこに失われた土塁を復興したり柵列を築くだけでもかなりの迫力で城ファンが全国から多くの見物に来る様に成るだろう。

この城は宇都宮城同様に室町期~江戸期を通じて石垣化せず関東の堅い土を活かした築城のまま使い続けられた珍しい土の城なのだから。
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江戸期の縄張り図も残っているので、ヤル気になればいつでも出来るだろう。

佐倉城が残念だったのは国立民俗博物館含めて郷土色が薄く、千葉氏の時代や歴代の殿様の歴史や城址を開設する展示物が非常に少なかった事に尽きる。

しかし、徳川家康公の隠し子と言われる幕府大老の土井利勝公の城だけあり、空堀の幅と深さは小田原城に近い物が有った。将来の再整備次第で関東で10本指に届くか届かないかの城址公園に成るだろう。
佐倉城は改めて解説記事をいつか書こうと思う。

佐倉城を見終わり、本当は四街道市の大隆寺に行くつもりだった。そこは笹下城主間宮康俊公に従って山中城で共に討ち死にした御子息の間宮信好公の菩提寺なのだが、16時近く成り日が傾き始めたので、止むを得ず最終目的地の佐倉市弥富の岩富城址へ向かう事にした。

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小生は神様仏様の様に崇拝する殿様が数人いらっしゃって、その内の御一人の鎌倉郡玉縄城主だった北条綱成公、その嫡孫に当たる北条氏勝公が北条家滅亡後に徳川家臣として赴任したのが、この岩富城だった。

岩富城は元は地名と同じく弥富城と言い、平安時代以来の房総半島の大名、千葉家の重臣の原家の支城だった。この地に北条氏勝公が1万石で転封されて入城された訳だが…

事実上の左遷だろう。

玉縄北条家は動員兵力が3000程度、つまり10万石相当、ただし北条家は他大名家と異なり重臣の配下は全て小田原北条家の宗家の直臣であり、あくまで玉縄北条家の動員できる士卒は全て与力武将でしかなかった。

そう考えると玉縄北条家自体の石高もよくて1~2万石程度だろうか?となれば1万石は妥当な線と言える。

この推測を裏付けるのが間宮家の存在で、間宮家は徳川家康公直臣に取り立てられたので岩富城には同行していない。その間宮家の本家、笹下間宮家の動員兵力は200前後。一族郎等は高津間宮家の様に、それぞれ別に所領を貰っているので一族全てを合計すると1万石の大名程度は一族で持っていたかも知れない。但し、北条家は家臣の官僚化を進めていたので家臣の一族全てが行動を共にする事は無く、それぞれが北条一門を軍団長にした集団の与力として別々に諸役に従事していた。その典型的例が北条綱成に家老として与力した間宮康俊公と北条氏照公に家老として与力した間宮綱信公兄弟と、ハトコの間宮信繁公が北条氏康公の直臣だった事実だろう。

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弥富城址残存部の入口は浅間神社の鳥居が立っていて説明看板も有るが、中は荒れ放題。

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何故か山羊が居てビビった(笑)。

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しかしながら、一部だが幾つかの空堀も残存していて城の遺構は確認出来る。

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残念なのは岩(弥)富城の説明看板の縄張り図が薄くて見難い事と、整備されていない事だろうか。

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城址の様子を見ると、もう何年も殿様を偲んで浅間神社に御参りに来る人もいないんじゃないかと思わせるような雰囲気だった…

氏勝公は、徳川家家臣の保科正直公の子の北条氏重公を跡継ぎにしようとし策動した奸臣(かんしん=悪い家臣)堀内により保科家からの氏重公養子縁組を強いられ、挙句の果てに元々養子縁組していた御実弟の北条繁広公は、北条氏勝公の死亡直後に不可解な急死をしてしまう。

この保科氏重改め北条氏重公の兄弟には保科正光公がおり、その保科正光公が徳川秀忠公の諸子を養子としていた事から、一連の事件は北条氏勝公の養子と成っていた繁広公と仲の悪い家老の堀内家が政治を掌握する為に保科家から養子を迎え将軍家と縁戚に成る事で繁広公の排除と己の立身出世と保身を図ったと思われる。
これは玉縄北条家改易後にいけしゃぁしゃぁと旧地の鎌倉郡藤沢に帰農し、挙句の果てに現代に至り忠臣の子孫面をして自己宣伝している。
恐らく、山中城から北条氏勝公が撤退せざるを得なかったのも黒駒合戦で失態を招いたのも、この奸臣堀内が幅を利かせていたせいだろう。

こんな堀内とたもとを分かって、山中城に籠城し最後まで戦って玉砕した間宮家は真に尊敬に値する。

それ故に、徳川家康公も間宮直元公を直臣として但馬奉行・佐渡奉行・本牧奉行を任せたのだろう。

この堀内家の子孫は、現代、間宮家の功績もさも自家の功績であったかのように史実を知らない人に言いふらしている。
さて、重臣が奸臣であった為に寺町と社家町多く栄える鎌倉から近い玉縄城から農地しかない岩富城に左遷された北条氏勝公は、せめてもの救いが養子にしていた御実弟の繁広公が暗殺されたのを知らずに済んだ事位だろうか?

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岩富城市から見る風景は、少し玉縄の地形に似ている…

でも気のせいだろうか?懐かしい風景と言うより、歴史を知ってしまっていると寂しい風景に見えて仕方がない。

後日談だが、堀内は大河内松平家氏重を主君に変えて、一時は掛川城主の家老にまで成るのだが主家が無嗣断絶、因果応報、没落し藤沢に戻る。正義は勝てなくても滅びないが、悪は栄えても必ず滅びるんだな。


今回の小旅行は玉縄北条家の衰退の歴史を辿る悲しい旅にも成ったが、色んな方々が横浜の土地を開拓して守って下さり、間宮士信公が現代人に平安~戦国時代の神社仏閣や地誌を纏めて伝えて下さった、先人への御恩を噛みしめる機会にも成った…。

肉、美味しかったな。



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