星宿山 蓮華蔵院 王禅寺の紅葉
東の高野山と呼ばれた天皇家の勅願所の聖地
御朱印
こちらは寺院なので御朱印も拝受できますし、車なら直ぐ近くの柿生琴平神社でも宮司様の兼務されている横浜市緑区の延喜式内社杉山神社の御朱印を拝受できます。
【歴史と偉人】
孝謙天皇が観音菩薩より「武蔵国の光ヶ谷戸に居るから私を探索しなさい」と霊夢で告げられた事から天皇として勅命を発して捜索させた所、本当に1寸八分(2.65cm)の小さな黄金製の観音様が発見された事から、王禅寺の前身と成る寺院の建立を始めた事が王禅寺の起源と成り次第に堂塔が建ち並ぶ大寺院と成り“東の高野山”の異名で呼ばれる真言宗の大道場に成った。
この霊夢、荒唐無稽な話でも無く実は付近は日本の中でも早く古代から製鉄集団化した豪族や稲作を開始した豪族がおり文化的に開けていたので中国大陸からの文化の流入が有った。
隣接する柿生琴平神社の宮司が宮司職を兼務する横浜市緑区の杉山神社は武蔵国六之宮に定められる格式を持つ式内社で、近隣には都築郡設置等で大和朝廷と直接関連が有ると考えられている稲荷前古墳群や製鉄に縁深い地名の鐡町(くろがねちょう)が有る他、王禅寺地区を中心に北側には川崎市麻生区~多摩区に多くの古墳群と製鉄集団がいた事が考古学的に知られている。
王禅寺の寺名は醍醐天皇の命名に由る。
醍醐天皇は元慶九年(885年)~延長八年(930年)を生きた天皇で藤原氏の専横から天皇御親政を復興しようとされた天皇として有名だが、文化や聖地保護に尽力した方としても有名。醍醐天皇の時代の人から見て聖地としてとても古い歴史の有る場所を政令で保護する為に指定された古社“延喜式内社”を醍醐天皇が制定した“延喜式神名帳”と言う物に掲載されている神社が神奈川県内には十三座現存する。
王禅寺は仏教寺院なので延喜式神名帳には掲載されていないが、その延喜式内社同様に重要な存在だったので醍醐天皇の関与があり保護がされている事が窺い知れる。
武士の世と成り周辺一帯は鎌倉時代にも多いに栄え王禅寺も歴代征夷大将軍から崇敬を集め隆盛を極めた。鎌倉の鶴岡八幡宮は明治維新まで正式名称を鶴岡八幡神宮寺と呼び実は神仏習合の“寺院系神社”だったのだが、その神宮寺の総支配する別当が、この王禅寺だったので当時の格式の高さが窺い知れる。
しかし後醍醐天皇の討幕の綸旨に呼応した新田義貞が鎌倉幕府に攻め上りながら天皇家の関与した聖地霊場の神社仏閣でさえも襲撃し御寺の宝物を略奪してまわった。この時に王禅寺も新田軍に襲われて略奪放火され、嘗て高野山と比肩された壮大な堂塔や支院寺院は消失し衰退してしまった。
戦国時代に成ると関東最強合戦無敗の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公が横浜市港北区の小机城を攻めた際に、当時の王禅寺の住職が禅師丸柿を道灌への陣中見舞いの手土産に持参した話が記録に残っていたりする。太田道灌公は扇谷上杉定正公の家臣だったので、室町幕府時代には扇谷上杉家や関東の将軍である鎌倉公方の支援を受けていた事が状況から解る。
後に戦国時代末期に成ると関東の覇者、北条氏直公によって毎年銀三十貫(3750万円前後)の扶持銀(銀貨で支払う年俸給与)を与えられ保護されているので、氏直公の祖父に当たる肖像画の北条氏康公が川崎一帯を完全に支配下に治めた頃からの慣習だったかも知れない。
更に徳川将軍家の時代には三十石(年俸180~240万円相当の米穀売却収入)の朱印(権利保証書)を与えられ寺院として継続した。
(1石=米150kg)×(現代の大体の米相場1kg=400円前後)×30石=180万円。
因(ちな)みに徳川幕府は小判の改鋳を繰り返したせいで貨幣価値が不安定なので、上記の通り現在のスーパーで売ってる様な米価で換算しています。
三十石(180万円)と聞くと歴史に興味の無い人は“徳川幕府はショッパイケチ臭い”と思うかも知れないが、実はこの他にも当時は材木の売買が非常に盛んだったので三十石の土地=寺領にある材木を流通させるさせて大きな収入も得られた。更に王禅寺は当時は無檀家の“学問所”だったが30箇所余りの末寺を抱える本寺だったので、末寺からの上納金が有り現代で言う所の大学の様な仏僧達の学問所として十分な資金を以て機能していた歴史が有る。
また関東では珍しく徳川家の菩提寺である三河国岡崎城下の大樹寺同様に徳川家康公~歴代将軍の位牌を祀っている寺院でもある事から江戸時代にも高い格式を以て将軍家に遇されていた事が判る。
明治時代に成ると王禅寺は学問所で直接の庶民檀家を持っていなかった事や、明治政府の仏教弾圧で多くの寺領(不動産)を没収されてしまった上に戦後のGHQによる農地解放で現代の規模に縮小したが、紅葉の季節の東門参道の落ち葉を踏みしめながら仁王門の階段を上がって行くと歴代の天皇に崇拝されて朝廷の祈願所として歩んできた聖地の雰囲気を感じられる、御利益の深い隠れ紅葉の名所だったりする。
東の高野山と呼ばれた天皇家の勅願所の聖地
【景観】★★★
紅葉は多くは無いが景観良い名刹。
御堂と紅葉の景色が美しい♪
【電車】★★★
田園都市線/横浜市営地下鉄
あざみ野駅~新百合ヶ丘行バス~
~乗車13分~王禅寺東三丁目降車
~徒歩2分 ・・・所要時間15分
小田急新百合ヶ丘駅
あざみ野駅行きバス乗車~13分~
~王禅寺東三丁目降車~徒歩2分
・・・所要時間15分
【 車 】★★★
王禅寺ふるさと公園駐車場 64台
【休憩】★
王禅寺ふるさと公園にトイレ有り
飲食店無し
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )
御堂や参道と紅葉の景色◎
芝生の公園でのんびり◎
御朱印拝受出来ますよ◎
日本最初の甘柿禅師丸の発祥地◎
孝謙天皇、醍醐天皇の勅願寺◎
☞注意するpoint(•ω•)
駐車場から200m、迷わないでね!
御寺だから余り騒がないでね!
——以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵——
御堂と紅葉の景色が美しい♪
【電車】★★★
田園都市線/横浜市営地下鉄
あざみ野駅~新百合ヶ丘行バス~
~乗車13分~王禅寺東三丁目降車
~徒歩2分 ・・・所要時間15分
小田急新百合ヶ丘駅
あざみ野駅行きバス乗車~13分~
~王禅寺東三丁目降車~徒歩2分
・・・所要時間15分
【 車 】★★★
王禅寺ふるさと公園駐車場 64台
【休憩】★
王禅寺ふるさと公園にトイレ有り
飲食店無し
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )
御堂や参道と紅葉の景色◎
芝生の公園でのんびり◎
御朱印拝受出来ますよ◎
日本最初の甘柿禅師丸の発祥地◎
孝謙天皇、醍醐天皇の勅願寺◎
☞注意するpoint(•ω•)
駐車場から200m、迷わないでね!
御寺だから余り騒がないでね!
——以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵——
——王禅寺東門参道(旧正門側)——
——観音堂周辺——
——本堂~禅師丸柿原木周辺——
——御本堂~東門の脇道——
【交通】
電車なら横浜市営地下鉄ブルーライン/田園都市線の“あざみ野駅”からも、小田急小田原線新百合ヶ丘駅からもバスで15分と交通の便は比較的良好。
車でも王禅寺ふるさと公園に駐車場も有って便利で台数も64台と比較的余裕が有る。
【見所】
歴代の天皇に崇拝され、嘗(かつ)ては東の高野山と呼ばれた大寺院群の名残りの緑豊かな里山ごと公園化されており首都圏の都会の喧騒を忘れさせてくれる。
日本最初の甘柿の品種“禅師丸柿”の発祥地で、その原木が今も境内に保護されている。
銀杏や椛(もみじ)楓(かえで)の紅葉を参道、山門、観音堂と上手くからめて撮影すると良い写真が撮影出来る。
昔は朝廷からも崇敬され徳川幕府からも保護された寺院だが現代では明治政府以後の法律で境内地や寺領が縮小した為に余り全国的には知られていない名古刹。
【名物】
現在では市場に流通しない幻の日本最初の甘柿の“禅師丸柿”、その原木が境内に現存する。
川崎市としては他にも農産品多数有り。
苺狩り等を出来る農家を“かわさき観光農園”のホームページから検索出来ます。
——観音堂周辺——
——本堂~禅師丸柿原木周辺——
——御本堂~東門の脇道——
【交通】
電車なら横浜市営地下鉄ブルーライン/田園都市線の“あざみ野駅”からも、小田急小田原線新百合ヶ丘駅からもバスで15分と交通の便は比較的良好。
車でも王禅寺ふるさと公園に駐車場も有って便利で台数も64台と比較的余裕が有る。
【見所】
歴代の天皇に崇拝され、嘗(かつ)ては東の高野山と呼ばれた大寺院群の名残りの緑豊かな里山ごと公園化されており首都圏の都会の喧騒を忘れさせてくれる。
日本最初の甘柿の品種“禅師丸柿”の発祥地で、その原木が今も境内に保護されている。
銀杏や椛(もみじ)楓(かえで)の紅葉を参道、山門、観音堂と上手くからめて撮影すると良い写真が撮影出来る。
昔は朝廷からも崇敬され徳川幕府からも保護された寺院だが現代では明治政府以後の法律で境内地や寺領が縮小した為に余り全国的には知られていない名古刹。
【名物】
現在では市場に流通しない幻の日本最初の甘柿の“禅師丸柿”、その原木が境内に現存する。
川崎市としては他にも農産品多数有り。
苺狩り等を出来る農家を“かわさき観光農園”のホームページから検索出来ます。
御朱印
こちらは寺院なので御朱印も拝受できますし、車なら直ぐ近くの柿生琴平神社でも宮司様の兼務されている横浜市緑区の延喜式内社杉山神社の御朱印を拝受できます。
【歴史と偉人】
孝謙天皇が観音菩薩より「武蔵国の光ヶ谷戸に居るから私を探索しなさい」と霊夢で告げられた事から天皇として勅命を発して捜索させた所、本当に1寸八分(2.65cm)の小さな黄金製の観音様が発見された事から、王禅寺の前身と成る寺院の建立を始めた事が王禅寺の起源と成り次第に堂塔が建ち並ぶ大寺院と成り“東の高野山”の異名で呼ばれる真言宗の大道場に成った。
この霊夢、荒唐無稽な話でも無く実は付近は日本の中でも早く古代から製鉄集団化した豪族や稲作を開始した豪族がおり文化的に開けていたので中国大陸からの文化の流入が有った。
隣接する柿生琴平神社の宮司が宮司職を兼務する横浜市緑区の杉山神社は武蔵国六之宮に定められる格式を持つ式内社で、近隣には都築郡設置等で大和朝廷と直接関連が有ると考えられている稲荷前古墳群や製鉄に縁深い地名の鐡町(くろがねちょう)が有る他、王禅寺地区を中心に北側には川崎市麻生区~多摩区に多くの古墳群と製鉄集団がいた事が考古学的に知られている。
王禅寺の寺名は醍醐天皇の命名に由る。
醍醐天皇は元慶九年(885年)~延長八年(930年)を生きた天皇で藤原氏の専横から天皇御親政を復興しようとされた天皇として有名だが、文化や聖地保護に尽力した方としても有名。醍醐天皇の時代の人から見て聖地としてとても古い歴史の有る場所を政令で保護する為に指定された古社“延喜式内社”を醍醐天皇が制定した“延喜式神名帳”と言う物に掲載されている神社が神奈川県内には十三座現存する。
王禅寺は仏教寺院なので延喜式神名帳には掲載されていないが、その延喜式内社同様に重要な存在だったので醍醐天皇の関与があり保護がされている事が窺い知れる。
武士の世と成り周辺一帯は鎌倉時代にも多いに栄え王禅寺も歴代征夷大将軍から崇敬を集め隆盛を極めた。鎌倉の鶴岡八幡宮は明治維新まで正式名称を鶴岡八幡神宮寺と呼び実は神仏習合の“寺院系神社”だったのだが、その神宮寺の総支配する別当が、この王禅寺だったので当時の格式の高さが窺い知れる。
しかし後醍醐天皇の討幕の綸旨に呼応した新田義貞が鎌倉幕府に攻め上りながら天皇家の関与した聖地霊場の神社仏閣でさえも襲撃し御寺の宝物を略奪してまわった。この時に王禅寺も新田軍に襲われて略奪放火され、嘗て高野山と比肩された壮大な堂塔や支院寺院は消失し衰退してしまった。
戦国時代に成ると関東最強合戦無敗の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公が横浜市港北区の小机城を攻めた際に、当時の王禅寺の住職が禅師丸柿を道灌への陣中見舞いの手土産に持参した話が記録に残っていたりする。太田道灌公は扇谷上杉定正公の家臣だったので、室町幕府時代には扇谷上杉家や関東の将軍である鎌倉公方の支援を受けていた事が状況から解る。
後に戦国時代末期に成ると関東の覇者、北条氏直公によって毎年銀三十貫(3750万円前後)の扶持銀(銀貨で支払う年俸給与)を与えられ保護されているので、氏直公の祖父に当たる肖像画の北条氏康公が川崎一帯を完全に支配下に治めた頃からの慣習だったかも知れない。
更に徳川将軍家の時代には三十石(年俸180~240万円相当の米穀売却収入)の朱印(権利保証書)を与えられ寺院として継続した。
(1石=米150kg)×(現代の大体の米相場1kg=400円前後)×30石=180万円。
因(ちな)みに徳川幕府は小判の改鋳を繰り返したせいで貨幣価値が不安定なので、上記の通り現在のスーパーで売ってる様な米価で換算しています。
三十石(180万円)と聞くと歴史に興味の無い人は“徳川幕府はショッパイケチ臭い”と思うかも知れないが、実はこの他にも当時は材木の売買が非常に盛んだったので三十石の土地=寺領にある材木を流通させるさせて大きな収入も得られた。更に王禅寺は当時は無檀家の“学問所”だったが30箇所余りの末寺を抱える本寺だったので、末寺からの上納金が有り現代で言う所の大学の様な仏僧達の学問所として十分な資金を以て機能していた歴史が有る。
また関東では珍しく徳川家の菩提寺である三河国岡崎城下の大樹寺同様に徳川家康公~歴代将軍の位牌を祀っている寺院でもある事から江戸時代にも高い格式を以て将軍家に遇されていた事が判る。
明治時代に成ると王禅寺は学問所で直接の庶民檀家を持っていなかった事や、明治政府の仏教弾圧で多くの寺領(不動産)を没収されてしまった上に戦後のGHQによる農地解放で現代の規模に縮小したが、紅葉の季節の東門参道の落ち葉を踏みしめながら仁王門の階段を上がって行くと歴代の天皇に崇拝されて朝廷の祈願所として歩んできた聖地の雰囲気を感じられる、御利益の深い隠れ紅葉の名所だったりする。
——紅葉名所一覧へ⤵——