浅草と言えば浅草寺と芸人の町として昭和には有名に成り、ビートたけしサン始め多くの話芸の達人を生み出してきました。
そんな浅草の浅草六区と言う町に“ホッピー通り”と言う素敵な飲み屋街が在るのを皆さんは御存知でしょうか?
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写真はホッピー通りの名物、もつ煮込みの店の一つです。こんな感じで道に迫り出す様に屋根とテーブル席が設けられていて、昼も日中から(笑)多くの観光客と地元客が御酒とツマミを楽しんでいる風景を見る事が出来ます。
後で位置関係は地図で説明しますので、先ずはアドレスだけ紹介します。
【ホッピー通り】
小生も余り通っている訳では無いので、その店が特に美味しいと言う記憶が鮮明に有る訳では有りませんが、外国人の友人が東京に来た時に浅草寺を観光案内してからココに連れて来ると大変に喜んでくれます。まぁ~、モツ煮が口に合うかどうかは別にして。
この界隈は浅草六区と言う町な訳ですが、感の良い人は「浅草ロック座」って無かったっけ?と別の店の名前で思い出すかも知れませんね。
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この写真を拡大して頂くと解りますが、六区の街頭には昭和の名俳優と芸人の写真が掲げられています。
浅草六区は芸人の町なので話芸と演芸の芸人を育てる素地が有ります。
浅草ロック座と言うのは浅草六区に在る有名な“ストリップ劇場”の名前です。
小生はヤクザが大嫌いなので、裏社会と繋がりの臭うストリップ劇場はおろか、パチンコの類、キャバクラや性風俗店を保守派として敵視している人間です。ですから小生は一生、浅草ロック座の御世話に成る事は無いでしょう。しかしながら、この店は芸人を育てると言う事に置いて非常に大切な役割を果たして来ています。
昭和の話芸の芸人達は多くが浅草ロック座で司会や前座として話術を磨き、そして芸能界にデビューしています。例えば冒頭で名を挙げたビートたけしサンやアズMAXの御父さんの東八郎サンがロック座から出世して行きました。
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ですから、この界隈は下町の宗教文化の賑わいと、芸人達の下積みの場、そして美味しい御酒の合間った明るく不思議な、そして裏では血の滲む様な泥臭い努力をしている人達が集まる混沌とした魅力溢れる町なんですね。
この場所、行き方が良く解らない人が多いので少し解説しますが、先ずはついでに浅草寺の夜景も紹介したいと思います。
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浅草寺と言えば雷門ですが地下鉄の駅から雷門へ向かう途中、アサヒビールの“金ウンコ(笑)”とスカイツリーが見えたりします。
その近くには立ち食いソバの“富士そば”が在りますが、実は富士そばの隣の甘味処の“西山”は幕末創業160年以上の老舗だったりします。
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この西山は元々は穀類や豆類の問屋から始まっている事も有り、今でも小倉餡や団子は自社で材料の調達から加工、調理提供まで行っています。
すっごく美味しくて、他の店と比較すると味の良さが格段である事が判ります。
位置関係の地図は最後に載せるとして先(ま)ずはアドレスを掲載して置きます。
【甘味処 西山】
さて、西山をもう少し西に歩くと道路を挟んで雷門の正面着きます。
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・・・写真でポーズをとっている人は気にしないで下さい。
この門、現代では“雷門”と言う誤った名称が一般的に観光客には誤認されていますが、本来は風神と雷神を祀る門なので簡略化するのなら“風雷神門”と言う名称が正しい所です。
日が落ちた直後の浅草寺はライトアップされとても綺麗な事を結構、観光客の方は知らないんですね。
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浅草寺界隈ではフザケたTシャツも人気の御土産に成っています。
因(ちな)みに仲見世の通りには江戸時代には塔頭(たっちゅう)寺院と呼ばれる、大きな御寺の支店みたいな小さな御堂が沢山建ち並んでいました。
さて、仲見世を通り過ぎると左手前方に五重塔が見えて来ます。
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ここも昼に見るより夜来た方がとても綺麗なんですね。
実はこの五重塔、現在は浅草寺本堂に正対して左手つまり西側に建っていますが、元々江戸時代には右手東側に建っていました。大火災等を経て、配置も色々と変わっています。
この五重塔の手前左側に行く道の“伝法院通り”が在りますので、そちらに進むと浅草六区の“ホッピー通り”に行くことが出来ます。
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御不動様も夜光に照らされ更に威厳の有る御姿を見せて下さいます。
そして本堂に向かって進むと山門(参門)と呼ばれる内門に当たる宝蔵門が観光客を迎えて下さいます。
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夜の濃紺の空にライトアップされて赤と金に光る宝蔵門はとても映えますね。
浅草寺は元々は天台宗の寺院で現在の東京都内では現存最古の寺院です。戦後に天台宗から分離独立して聖観音宗と言う仏教宗派の総本山に成りました。
実は小生の住む横浜市とは縁が深い御寺です。
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横浜市金沢区には手子神社(旧名:手子明神社/小泉弁才天)と言う神社が存在し、元々は源頼朝公が開いた瀬戸神社と言う神社の大山祇神(おおやまづみのかみ)の御分霊を祀る神社として開かれました。しかし新田義貞の鎌倉乱入の戦火や永享の乱等、鎌倉横浜周辺の神社仏閣は度々荒廃していました。
戦国時代に、この手子神社周辺を治めたのが小田原北条家の家臣の三河守(みかわのかみ) 伊丹永親(ながちか)と言う人物です。実はその孫に当たるのが江戸時代初期の浅草寺の高僧、權僧正(ごんのそうじょう)智樂院忠尊和尚様でした。その御縁から智樂院忠尊和尚様は祖父が治めた釜利谷の赤井村、坂本村、宿村の3ヵ村の総鎮守の神社だった手子神社の社殿を江戸時代初期に造営しています。
つまり神仏共に大切にする元は天台宗だった浅草寺の高僧らしい文化的な活動を、智樂院忠尊和尚様は祖先の故地、現在の金沢区釜利谷で行った歴史が有る訳ですね。
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ついでに手子神社境内には瀬戸神社の前に在る源頼朝公と北条政子様御夫妻が御息女の大姫の誕生祝に琵琶湖の竹生島から弁天様の御分霊を勧進して開いた琵琶島弁才天と呼ばれた琵琶島神社から更に御分霊を勧進した小泉弁才天の名で江戸時代に親しまれた弁天社が現存しています。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この小泉弁才天は江戸時代に歌川広重によって“金沢八景の一つ、小泉夜雨”として景勝の地として浮世絵に描かれ江戸からの観光客で賑わいました。そんな訳で江戸時代初期には中国の明朝の滅亡時に亡命して来た高僧の東皐心越和尚様等によって紹介され全国的にも景勝地として有名だったので智樂院忠尊和尚様も祖先の治めた土地に誇りを持っていたんでしょう。
さて、そんな訳で浅草寺と横浜はとても偉い神仏共に大切にされた伊丹家出身の智樂院忠尊和尚様の御縁で結ばれているのですが、そんな神仏習合の文化を残す浅草寺宝蔵門の先に進むと、いよいよ浅草寺の本堂です。
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まぁ、ここまで紹介して何なんですが、夜間ライトアップの時間に成ると当然、本堂は閉門しており中に入って参拝は出来ません。
ですから小生の御薦めとしては先に一度、仲見世で御土産の購入を済ませて御本堂を参拝してからホッピー通りに行き夕食をとり、日没してから帰路に着くと夜の浅草寺境内を通って地下鉄の駅まで戻る事が出来て観光するには良いかと思います。
スカイツリーや上野動物園も見学するのであれば、そちらは早い時間に見学してしまう方が良いでしょう。

さて、浅草のホッピー通りと西山、良い御店でしょう?
もし浅草寺界隈に行く機会が有ったら是非!立ち寄って見て下さい。
ホッピー通りと西山と浅草寺界隈 久良岐のよし
最後に位置関係。
☆マークが今回紹介した店や、超有名な料理屋さんです。

では、又、次の解説記事で御会いしましょう。