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実は坂本龍馬の奥さんの御龍サンの終焉の地が神奈川県だと言う事を皆さん御存知でしょうか?
横須賀市大津町と言う所に在る信楽寺は、お龍サンの眠る御寺です。
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宮谷山 至心院 信楽寺

正式な寺名は宮谷山至心院信楽寺。
信楽寺と書いて「しんぎょうじ」と読みます。
お龍サンは、坂本龍馬サンと死別後、高知の龍馬さんの身内に龍馬サンの名跡乗っ取られたり、龍馬サン没後に支援者だった西郷隆盛サンも西南戦争で亡くなってしまったり、龍馬サンの師匠の勝海舟サンの紹介で横浜の「田中家」と言う料亭で働いた後、再婚した相手が実の妹と不倫をして又、独身に戻ったり…
まだ坂本龍馬サンの偉業を世間が知る前だったので、この横須賀市で政府の支援を受けられないまま、壮絶な人生を送って亡くなりました。
坂本龍馬サン
明治政府内や世間で坂本龍馬サンの偉業が漸く認識され、世間で「お龍サン」の事も話題に成りだした頃には既に、お龍サンは余命僅かでした。
お龍サンが亡くなる直前、坂本龍馬サンの霊が当時の明治天皇の御妃の昭憲皇后(美子皇后)の夢枕に現れ、危篤のお龍サンの身の上を案じられた昭憲皇后から御見舞いの電報が届けられたり、海軍大将だった井上良馨公が発起人となり見舞金の募金が集められ届けられましたが、時既に遅く、お龍サンは亡くなってしまいました。

晩年は幸せでは有りませんでしたが・・・
お龍サンが、この「大津町にいる!」と解って以来、没後も、町の人はその事を忘れていません。
全国的には有名でなくても横須賀の信楽寺のある大津町の地元の人は今でも、お龍サンがこの町で暮らした事を誇りに思っています。

…大津の人が誇りに思うお龍サンの話をする前に先ずはこの信楽寺サンの歴史と外観から紹介したいと思います。この信楽寺サン、今では一般的な御寺程の大きさの敷地ですが、恐らく昔は可也(かなり)の規模を有していたのだと思います。


その証拠に鎌倉光明寺の末寺だった歴史を有しており、更に周辺地形からも往時の範囲は容易に推測出来ます。
鎌倉の光明寺と聞いても歴史に興味が無い方には良く解らないと思うので御説明差し上げますと、鎌倉〜室町時代の御寺は幕府等の行政機関が御寺の収入源である土地の保護をしたり和尚様の就任を承認したり文章で手続きを管理していました。
鎌倉の光明寺と言う御寺は格が高いので一般的な行政官僚では取り扱いが許されない程で、鎌倉公方や、その権力代行者の関東管領(かんとうかんれい:首相)、又は関東管領の執事(しつじ:官房長官)等の高い身分の執政者が行政文書の発行を行なっていた様です。
光明寺と言う御寺はそれ程の御寺だった訳ですが、現在でも大本山格の御寺として鎌倉材木座に存続しています。
光明寺は信楽寺の本山でしたから、信楽寺は光明寺の直接影響下に置かれていた事に成ります。つまり住職が世襲制に成る前の信楽寺は光明寺の偉い和尚様が赴任して来ていた訳です。
本山⇄末寺の関係と言うのは本社⇄支店の様な関係なので、当然、本山の格が高ければ末寺も栄えていた訳です。
これで信楽寺の権威は御理解頂けたでしょうか?
次ぎに、どれだけ栄えていたかを推測する物証(地形)です。
信楽寺には素敵な鐘楼が有ります…
…御寺の裏の鎮守の山の尾根筋に、水墨画に出て来そうな素敵な佇(たたず)まいで存在しています。
今では背後の山の周辺は削平され宅地化されてしまっていますが…
つまり、この鐘楼の存在が示す通り、昔はこの背後の山も寺領だったはずです。
それでは、この鐘楼が在る山の地形を見てみましょう…
信楽寺がマークされている右手の山に鐘楼が在ります。
そして信楽寺は鐘楼の山に囲まれていますが、これは鎌倉時代〜室町時代の谷戸構(やとかま)えと呼ばれる山を城壁代わりにして谷間に建築物を建設する南関東の丘陵地独特の文化で、信楽寺は周辺の山を谷戸として所有する造りだった推測が成り立ち、大寺院だった事が推測出来ます。
下の写真は鎌倉の浄妙寺です。
綺麗にスッポリ山に囲まれていますね。
谷間に作り、谷の入口に門を設ける事で外部と遮断され防犯や火災の類焼避けに成る訳です。
鎌倉の報国寺や寿福寺も、この様な作りに成っています。

話しを信楽寺に戻します。
信楽寺は多くの檀家さんがいらっしゃる様で大きな観音様?が、お庭にいらっしゃったり土地は全盛期より縮小されても栄えていらっしゃいます。

う~ん、素敵な観音様だ♪
信楽寺には、他に保久利(ぽっくり)地蔵さんと言う六地蔵が祀られています。 2015-12-16-13-40-20
説明の文章によれば、人間が動物的な下等な習性を抑制し成長を助けてくれる御地蔵さんと言う事でしょうか?
昭和52年の建立ですので割と新しい御地蔵さんですが、6体とも、とても御優しい御顔をしてらっしゃいます。
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この保久利地蔵を建立する事に成った切っ掛けは、実在した農家の御婆ちゃんがとても人から尊敬される人格者で長生された方だったそうです。その御婆ちゃんを偲(しの)んで建立されたのがこの御地蔵様だそうで、その言われが下の写真の説明銘板に書いて有りました。
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粗衣粗食…
小生も見習わないといけないなと本気で思います。でも食欲に負けてばっかりです。
…なんかこの食欲をコントロールする方法な無いもんだろうか?
生前の行いを周囲の方々に有り難いと感謝され御地蔵様として祀られるなんて、本当に人格者だったんでしょうね。
本当に見習わないといけない。小生は短気ですからね。

まぁ、こんな感じで現在では広さは普通より少し広い位ですが、昔は立派な規模を誇っていた事を容易に想像出来る御寺な訳です。
しかも関係の有る歴史偉人も凄いんです。
実は、信楽寺の仏様は平安時代末期の鎌倉武士団の名将、熊谷直実公の守り仏だったそうで、それが後に熊谷直実公は浄土宗の開祖の法然上人お弟子さんとなり蓮生坊と名乗り以後も持仏として大切にされたそうです。
そんな歴史偉人達の大切にした仏様ですが、近江国大津の信楽寺に移送しようとした所、使者が誤って鎌倉から近い、この「大津の信楽寺」に安置して現在に至るそうです。
本当なら少し面白いですね(笑)?その間違いの御蔭で、小生達も御参り出来る訳ですから。
でも、この「大津」と言う地名が、この信楽寺に眠る「お龍さん」ととても因縁が有る地名なんですよ!
先ずは、お龍サンの旦那様の龍馬サンの活躍した京都の史跡の位置関係を見てみましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
※画像をクリックして拡大して見て下さい!
写真上部に在る池田屋は有名な新選組の活躍した池田屋事件の舞台ですね。
今年の9月に、友人の結婚式で京都に久しぶりに帰った際に、丁度撮影しておいた写真が有るので…
三条大橋の近くに、池田屋の跡の石碑が在ります。
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その場所に建つ店は、全て長続きしなかったので「呪いじゃないの?」なんて噂も有りましたが…
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当時の池田屋と同じ名前の「池田屋」と言う居酒屋に成ってから潰れずに繁盛しているそうです!
…逆に池田屋リスペクトで存続出来てしまったら、呪いを証明している様な気が…
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ちゃんと説明の看板も有ります。当時の池田屋の見取り図や、事件の経過と攻守双方の犠牲者の名前も掲載されています。
こうやって双方ともに扱う姿勢は素晴らしいですね。立場の違いは有れど、お互い日本の事を本気で案じていた訳ですから。
この時の近藤さん達の活躍で、当時テロリストだった攘夷派の中の過激派による京都市街大放火のテロ行為が未然に防がれました。
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三条大橋の池田屋側から2番目位の欄干(らんかん)には、この池田屋事件の時に付いたと言われる刀傷が現在も残っています。
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そして、池田屋のある通りから延びる三条通りの三条商店街には、沖田総司の佩刀(はいとう)の菊一文字の名を冠した刃物屋さんが今も在ります。
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もう一度、衛星写真に戻りましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
…池田屋から直ぐに衛星写真を南北に貫く緑に覆(おお)われた筋に見える道路が「木屋町通り」です。
木屋町通りの直ぐ横、川沿いが有名な観光地の先斗町(ぽんとちょう)です。
それと反対側、写真左側の「河原町通り」沿いに、龍馬サンが暗殺者に襲撃され落命した事件の舞台「近江屋」の跡が在ります。
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現地には龍馬サンの顕正の一環として、史跡として事件が発生した場所だと解る説明と石碑が建てられていて、商店街の皆さんによってちゃんと守られています。
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ファンが御墓参りしやすい様に、下の看板も有りました。
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因みに、お龍サンは亡くなってから、舎利が分けられ、この信楽寺の御廟所と更に今は龍馬サンの眠る京都で一緒に成る事が出来ました。…亡くなってからでも離れ離れじゃなくなって良かった(泣)。
さて、ここからが信楽寺の在る横須賀市大津町と、お龍サンの因縁の話に進みます。
衛星写真で見る京都の範囲を、もう少し広くしてみましょう…
龍馬関連地域
写真の下の方が現在の京都市伏見区です。そこに、お龍サンと龍馬サンとが夫婦生活を送った寺田屋が在ります。
ここは、お龍サンが入浴中に幕府の役人達が龍馬サンを逮捕に来ているのに気付いて、素っ裸のまま危険を伝えて龍馬サンを生きながらえさせた有名な寺田屋事件の舞台です。
でも、因縁の話の舞台はここではありません。
写真の右上、滋賀県の琵琶湖の畔(ほとり)に大津市が在りますよね?
お龍サンが眠る信楽寺の所有する元は熊谷直実公が所有した仏様は、本来、この滋賀県大津市に届けられる筈だった話は先にしましたよね?
つまり、御寺の在る大津町と滋賀の大津は仏さまで地名だけでなく仏縁も結ばれているのですが更に、お龍サンの旦那様の坂本龍馬サンの坂本家の御先祖様とも深く関係が有ります。
龍馬サン御本人の話では、坂本家の祖先は戦国時代に滋賀県大津市の坂本を本拠地にした明智光秀の一族だそうです。ですから、同じ大津の地名の、更に滋賀県の県名の由来に成った信楽(しがらき)の名を冠する宮谷山至心院信楽寺の在る大津町で、お龍サンが晩年を過ごされたのは…
龍馬サンの奥さんに成った御龍サンが、晩年この土地に行き着いたのは、龍馬サンの氏神様と信楽寺の仏様の御導きで呼ばれ守られていたと思いたく成るくらいの偶然が重なった諸縁で結ばれているんですね。
或(ある)いは…
もし死後の世界と言うものが本当に有るのなら、龍馬サンが氏神様や仏様の御力を御借りして、お龍サンを見守っていたのかも知れませんね。

さて、お龍サンと滋賀県と神奈川県の「大津」との因縁はここまでにして、ついでに横浜時代の御龍サンの働いた横浜の料亭の田中家(たなかや)もついでに話します。
冒頭で少し書きましたが、お龍サンは勝海舟先生の紹介で田中家で働き始めたそうです。

この田中家の歴史は古く、江戸時代には存在していました。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
※拡大して見てみて下さい。
上は安藤広重の「東海道五十三次 神奈川宿 台之景」の浮世絵の風景画ですが…
この中に「さくらや」と言う旅籠(はたご:旅館)が描かれているのですが、この店が田中家の元に成った御店なんです!
浮世絵にのっちゃう位、昔から栄えた店だったみたいですね。
しかも、この田中家、今でも絶賛営業中なんですよ!
GoogleEarthの3Dモデル衛星画像で場所を見てみましょう。
田中家近景
上の浮世絵と同じ構図で見ると、やはり坂道に面しているのが解ると思いますが…
あれ?坂の左っ側は海なんじゃないの?と思いますよね?
…実は、この周辺は近世~現代にかけて絶賛埋め立て中なんですね!
では、もう少し地表から離れた田中家の衛星写真で位置関係を見てみましょう。
田中家周辺
写真中央が田中家です。御覧の通り、すぐ左上(東側)に横浜駅が在ります。
つまり、横浜駅周辺は埋め立て地な訳です。
ですから、この間の東日本大震災の際には、この横浜駅周辺で昔は海だった地域は、地震速報で示された震度より実際は強く揺れたみたいですね。
平地は全て昔は海だった訳です。だから、歴史の古い田中家は、元から陸地だった丘に沿った坂道の傍らに在るんですね。
埋め立て地に横浜駅が在るならば、当然、現在の東海道も、お龍サンが横浜で働いていた頃とは様子が違います…
神奈川旧東海道
昔の東海道は元々半島だった丘に沿って通っていました。
この丘は古くは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公が築城し籠城した「権現山城」と言う城跡で、戦国時代にも横浜の殿様の間宮信冬(まみやのぶふゆ)公が「権現山合戦」で活躍された舞台にも成った場所で、旧東海道の元に成った街道が古来より存在し、交通の要衝(ようしょう:重要な場所)だったので軍事拠点としても重視された場所だった訳です。
更に戦国時代中期に成ると、権現山城は現在の本覚寺と言う御寺が在る辺りを中心に拡張され「青木城」と言う御城に改修されて小田原北条家の軍師だった多目元忠(ためもとただ)公が城主を務めていました。
ここら辺の歴史は以前書いた間宮家殿様の事績の顕彰文の中で説明しているので、御興味が有れば読んでみて下さい。
間宮家の事績のまとめ記事はココ」←クリック!
現在の東海道は、この青木(権現山)城の在った半島をブッた切る形で切通しが掘られ、そこに国道一号線(現在の東海道)と鉄道の線路が敷設されました。
ですから東海道は、お龍サンが生きていた時代とは違う位置を通っているのですが、昔の東海道は住宅街に埋没したので必然的に田中家も今では住宅街の中で営業する情況に成った訳ですね。

時代が変われば風景も道路も変わってしまう訳です。
では、ついでに、この旧神奈川宿一帯が最近40年間程度でもどれくらい風景が変化したか、1970年代の航空写真をGoogleEarthに張り付けて比較した画像で見比べてみましょう!
神奈川区昔の様子
ごく最近の写真なのに、たった数十年で横浜駅一帯はこうも風景が変わってしまったんですね…。
因みに、上の昔の衛星写真を継ぎ接ぎして作った画像に写ってる貨物列車の線路は、明治時代に伊藤博文公によって建設された新港埠頭に繋がる路線で、その路線は東日本大震災で東北地方の人々が燃料切れで凍死する恐れが有った時期に、日石とJR貨物職員による燃料緊急輸送作戦で横浜市磯子区根岸の石油コンビナートからの貨物輸送で利用され活躍した線路です。
お龍サンと同じ時代の伊藤博文公の偉業で、現代の東北の方々は命を救われた訳です。
※緊急燃料輸送の記事は「ココ」←クリック!
ですからね小生、よくブログで持論として言いますが…
現代の我々の生活は、昔の人の多くの悲しみと失敗と、少しの成功と幸せの結果、先人によって築かれたものだと言う事を忘れてはいけない
…そう思っているから、こうやって先人に感謝とリスペクトの思いを込めてブログの記事に拙い文章を感情のまま殴り書きしています。

今回は、お龍サンと、その人物の歴史を現代に伝えて下さる信楽寺の御話しをしました。
次は何を書きますかね~?
少し歴史偉人から離れて綺麗な風景の記事でも書きましょうか?
…とは言っても、どこに行っても偉人の皆さんの足跡だらけなんですが(笑)。

では、又、次の記事で御会いしましょう♪