歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:由比ヶ浜


茅ヶ崎市に旧相模川橋脚遺跡と言う場所が有ります。
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旧相模川橋脚(FRP模造展示)
大正十二(1923)年の関東大震災で水田に橋杭が出現した遺跡。
そのまま本物が展示されていると思っている人が多いみたいですが大間違いです。
これを本物と勘違いしてネットで情報書いてる人って、何を見てるんですかね?
「じゃあ、これは何なんだよ!」
・・・って思う人いますよね?
現地訪問した人の中でちゃんと観察したり看板読んだりする人はイライラせずに「だよね~」と思うと思いますが。
CIMG1858
これ、ちゃんと見れば直ぐに誰でも解ります。
歴史オタクの彼氏に付き合わされて嫌々見に来た彼女サンとかなら小生同様に瞬殺で・・・
「アレ?これ木じゃないよね?」
・・・と気が付くと思いますよ。
小生の感想はこうでした・・・
「あ~、これ上行寺東遺跡と同じアレだ、偽物だ。」
・・・ってね。

他人の書いたネットの情報や大正昭和の学者のレポートを脳内にコピペし「遺跡だ!」と先入観を持って見に来る人の中には看板読むまで気が付かない人も多いかと思います。
読まない人も多いはず、だから「遺跡そのもの」として情報を誤って拡散するんでしょうね。
そう、これ木じゃないんです、ちゃんと5秒くらい観察すればきっと皆さんも看板読まなくても解ります(笑)。
KIMG4023
めっちゃテカテカしてるジャン!年輪無いジャン!みたいな?
プラスティックなんですよ。
実はコレ、発見当時の実物は何故かコールタールでベッチョベチョに塗ったくられて放置されてしまって腐食が進んでしまったのでプールの中に沈められ再度空気から遮断され保存されています。
そして実物の姿をプラスティックでコピーして、現代人にも実物に近い形で展示する。

これ大正時代の人のミスをカバーする現代の茅ヶ崎市教育委員会の学芸員サン達のファインプレイだと、個人的には思います。

「ブラボー!平成令和の茅ヶ崎市の学芸員サン

昔の人や上司の適当な仕事と間違いや権威に囚(とら)われず、事実を見て誤りは誤りとして現代で是正しリカバリーする、これ大切。

いくら積み上げた物があろうが、その積み上げた土台が間違ってるなら破却して再構築するか旧状に復し保存し、更に未来に優れた保存展示手段が確立されるまで繋ぐのも心ある考古学の志士の仕事。
改善はトヨタ生産方式の基本。
ちなみに小生の宗旨はトヨタ生産方式教です(笑)。

下らない誰かのメンツの為に皆が実害を被るのは御門違い。
どうやら茅ヶ崎市役所の学芸員サンや市長サンには東日本最大の蹈鞴製鉄遺跡の上郷深田遺跡の破壊容認や続日本100名城の小机城を未だに史跡文化財指定してしない、どこぞの横浜市役所とは違って強い良心が有る様です。

これ⤴️以前、鎌倉の製鉄遺跡の上郷深田遺跡の事を書いた記事。

さてさて、ここからが本題です。

茅ヶ崎市の学芸員サン達の大正時代の学者のミスに対しリカバリーのファインプレイで済ませましたが、小生は大正時代の文献コピペ学者様の間違いを指摘したいと思います。
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現在“旧相模川橋脚”と言われている遺跡は当時の歴史学者沼田頼輔サンによって、鎌倉時代の建久九(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証されたとされています。
本当でしょうか?
多分、沼田サンは文献考古学者で地形をちゃんと見てないんじゃないだろうか?
少し範囲を広げて鎌倉や平塚等の周辺の伝承も拾うと当時の地形が見えるんですけどね~。
近代の自己顕示強い学者学者した妙な権威の有る人は何故か皆やらかしてるんですよね・・・

これ⤴️とかね。

そもそも論で大正時代の沼田頼輔サンが吾妻鑑から引っ張って来た文章は小出川の流路が相模川の本流なんて一文字も書いてないので平安末期~鎌倉時代の相模川の流路は特定出来ていない訳です。
そして小生に言わせれば・・・

小出川の橋その物のではない事も証明されていない。

・・・小出川が相模川の支流では無く今と同じく海に注ぐ河口でしか合流していなかった可能性の方が高いんです。
これどうすんの?
旧相模川橋脚とか名前付けちゃって。
クールポコ
「なぁ~にィ~やっちまったなぁ~!」
と、クールポコに言われても仕方ないくらい。

小生は現地を訪問してみた感想として、ここは地形的に現代に再考証が必要な場所だと思います、多分ここは相模川では無い。
先ず重要な事実を突きつけると、大正時代に沼田等が発掘調査した後に“コールタールを塗ったくった”影響で炭素年代測定法で橋脚その物を測定すると橋脚の加工された年代が弥生時代~古墳時代初期と驚愕の年代に成ってしまうwww
そしてコールタールの影響を考慮して推測しても“古くてザックリ1000位前~その後の時代の間”とスンゴイ広い振り幅でピンポイントで1200年代とは言えない。これは茅ヶ崎市教育委員会に炭素年代測定の結果を確認済みの事実だ。
・・・次に同時代の鎌倉市街地や古墳時代の平塚の地形を例に挙げて話をしてみたいと思う・・・
鎌倉城塞網 国立歴史民俗博物館を参考 久良岐のよし
上の画像は現在の鎌倉市の中心部に当時の海岸線と鎌倉防衛網の“鎌倉城”を再現した画像です。
国立歴史民俗博物館の研究報告第118集の絵を元にGoogleEarthで加工しました。
由比ヶ浜の砂浜は現在の“下馬”の交差点辺り、つまり鶴岡八幡宮の大鳥居の辺りに入り込んでました。
これより前の時代、現在の材木座と呼ばれる地域は入江を形成していたので文字通り貯木場として利用されていたのかも知れないですね。
そして昔から陸地だった部分の滑川の流路も川幅も現在と変化は有りませんでした。
鎌倉を例にとると、地盤のしっかりした場所から流れ下る部分では河川の流路は大きく変化する事は無さそうな事が解ります。昭和の河川工事を除いては。
GoogleMapに表示すると当時の名残が解ります。
材木座 久良岐のよし
※マーカーが入ってる場所は小生が訪問済みの場所なだけなので気にしないで下さい。

この赤線の枠内が材木座と呼ばれる地域。
その赤枠中の現在東海道線の横須賀線が走る場所より南側~当時の海岸線の内側に入江が広がってい現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。付近は鎌倉時代以前に近い平安時代、つまり材木座入江が広がってた当時に開かれたと伝わる神社仏閣が有ります。
由比若宮こと元鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮が現在の小林丘に移転する以前に源頼義公によって開かれた八幡宮です。
甘縄神明宮は鎌倉市内最古の神社で和同年間に行基菩薩によって開かれ、源頼義公が再興開基して子宝祈願をして源義家公を授かったと伝承しています。
鎌倉の光明寺は寛元元年(1243年)に前身寺院が現在地に移転し開かれた場所ですが、実は光明寺よりも先に現在は塔頭寺院と成っている蓮乗院が真言宗寺院として存在し弘法大師の霊場でした。この光明寺の裏山は鎌倉防衛網を担う要害化されており戦国時代まで住吉城として機能していましたが、その山腹にある桟道(さんどう)状の切通しで古代の東海道とされており、弘法大師の教団は古道の整備と布教を行っていたので此方も奈良時代には存在した事に成ります。
鎌倉市街 久良岐のよし
つまり、これらの寺社の立地と同じ標高の場所は平安時代末期の材木座入江が存在した時代には間違いなく陸地だったと言う事に成ります。更に、それらの鎌倉市内の場所と同じ標高の茅ヶ崎市の地形は旧相模川橋脚とされる物が建築された時代には既に陸地だったと解り、その標高が相模川の河岸段丘面と同等の高さであれば相模川の本流が当時の段丘面を超える事は無いと言う証明にも成る訳です。
これらを確かめる方法が有ります。
迅速測図(明治時代の帝国陸軍測量図)
※歴史的農業環境閲覧システムhttps://habs.dc.affrc.go.jp/
GoogleEarth衛星画像
※小生はGoogleEarthPRO版を使用
※WEB版https://earth.google.com/web/
国土地理院色別標高図
※地理院地図電子国土web版https://maps.gsi.go.jp/では小生と一緒に材木座入江の名残りと当時の陸地と同じ地形を標高から特定して見みましょう♪

材木座入江特定 久良岐のよし
※上の画像をクリックして拡大して見て下さい♪
一番下の色別標高図で蓮乗院、元鶴岡八幡宮、甘縄神明社と同じ色の場所が鎌倉幕府が開かれる以前から間違いなく陸地だった場所です。
これを見ると解りやすいですね~♪
一番上の迅速測図で“材木座村”と表記された地区の南側に岩礁と砂丘が有り、横須賀線の線路辺りは陸地だった事が解ります、そして材木座地区の真ん中辺りに水色の地盤の窪地(くぼち)が有るのが一目瞭然ですねぇ~。
ツマリそう言う事。そこが平安時代の入江だった場所です。
材木座地区の海抜 久良岐のよしその周りの薄い黄緑色が湾を形成した陸地、水色の部分が古(いにし)えの材木座入江と干潟。
これで鎌倉時代、稲毛重成が“相模川”に頼朝公が暗殺されたかも知れない橋を立てた時代の海岸線が解りましたよね?
この材木座の入江が有った時代は現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。
入江が消滅した時期ですが、大正時代の関東大震災では三浦半島は西側が50cm隆起して東側は逆に沈下しました。つまり1回大地震が起きると神奈川県の旧相模国域は50cm前後隆起する様です。
関東大震災よりも前の応長元年(1311年)に現在の金沢区長浜~並木地区に在った長浜千軒と言う大海運拠点が津波と記録される天変地異で海没しました。
応長の大津波で長浜千軒はずっと海の底に沈んだままだったので、津波ではない事が解ります。
そして津波なら反射津波が房総半島も襲撃する筈なのに千葉県側には全く記録や伝承が残っていません。
どうやら横浜市の屏風浦と言われた地形が大断層で海に面した地盤が沈下し海に沈んだだけの様です。
この時代は花園上皇と後醍醐天皇の生きた時代で当時の京都では大地震が起きた記録が有り8ヵ月間余震が続きました。
これにより延慶四年四月(1311年5月)に縁起が悪いので元号が応長に改元されました。
つまり応長大津波とされる横浜市金沢区沿岸を直撃した天変地異は先に京都で起きた大地震に連動して関東の地盤も動き三浦半島東岸の付け根の横浜市沿岸部が沈下した様です。
当然ながらこの際にも神奈川県域の相模湾側は50cm前後隆起したんでしょう。

以前、富岡八幡宮の解説⇗を書いた時に少し触れた事が有るので興味がある人は下のリンクから記事を読んでみて下さい。
さて、関東大震災と応長大津波でザックリ合計1m隆起したとして未だ完全に材木座が隆起するには届きませんね?他に地震が起きたかも見てみましょう。

仁治鎌倉地震・・・M7クラス
仁治二年四月三日(1241年5月22日)に発生し由比ヶ浜の大鳥居が流され大鳥居の場所に在った八幡宮の施設も消失。
永仁鎌倉地震・・・M8クラス
正応六年四月十三日(1293年5月27日)に大地震が発生し火災により建長寺が倒壊し火災発生、死者2万3千人。参考までに当時の鎌倉市中心部の人口は3万人と言えば被害規模が解りやすい。この地震は相模トラフが動いたと考えられているので“鎌倉時代の関東大震災”でしょう。
つまり、材木座に入江が有った時代から令和まで応長~仁治~永仁~大正と都合4回の大地震が発生し相模湾を直撃しており1.5m以上の隆起は余裕で有った可能性が高い訳ですね~。
では次に茅ヶ崎市~平塚市の方を見てみましょう~♪
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
今はこんな感じ。旧相模川の橋脚とされる遺跡は小出川沿いに有りますね?
この小出川を大正時代の沼田頼輔博士が相模川と言ってるのはオカシイと言った訳です。
衛星写真を見てみましょう。
橋脚向き 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
旧相模川橋脚と呼ばれる遺跡は、橋脚が1列3本10m間隔×4set有ります。この事から橋の長さが40m前後、川幅が30m前後と解ります。そう、小生と同じ事を皆さんも思うでしょう?
「あれ?相模川、こんな細い訳ねぇ~じゃん(笑)?」
「丁度小出川と同じ川幅くらいにピッタリの橋じゃん(笑)。」
・・・と大正時代の沼田学者様の説に小生の中では既に草が生え始めますwww。
では川幅を見てみましょう・・・
小出川川幅 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
うん、27.5mだね、だいたい30m(笑)。
最初の方でも触れましたが、鎌倉時代の川幅と流路、似たような地形の鎌倉市内でも余り変わって無かったですよね?
そしてこの橋脚を見ると解りますが何故か小出川に並行して有りますよね?
つまりこの橋を元に考えると小出川の旧流路がこの位置で右に切れてれば10中8~9は小出川旧流路に架橋された橋と言う事が見えてきます。
未だ皆さんに昔のこの一帯の地形を御見せしてませんでしたので、一緒に昔の地形を見てみましょう。
さて迅速測図の出番です。
小出川旧流路比較 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
※クリックして拡大して見て下さい。
現在、小出川の横の橋脚遺跡はニトリ茅ヶ崎店の真横に所在しています。
小生の予測はドンピシャ!
きっと皆さんも同じ事を考えたのではないでしょうか?

明治時代の流路も橋脚の遺跡の辺りで右折している事が解ります。
更に明治時代の流路が現在のニトリの前の道に成っているようですね。
現在直進している小出川ですが、これも藤沢土木事務所に確認済みです。
昭和30年代~40年代に河川改修工事によって直進にされたそうです。
そして昔の微妙な河川の位置のズレですが、橋脚の出現当時、現地は水田でした。河川敷の湿地が工作地帯に開墾されていた様です。つまり旧流路の誤差範囲内。
「おんや~?もうこれ、小出川の昔の橋でしょう(笑)?」
・・・と普通は思うでしょ?
次に相模川本流を見てみましょう!
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
小出川と目久尻川は河川改修部分以外の上流で大きな変化はないのに相模川本流はだいぶ現在と異なり真っ直ぐに成っていますね?
実はこれ・・・橋梁の遺跡が出現した際に関東大震災で河口部の砂丘が隆起して堰止湖が出来てしまったり水害の危険性が高まった為に大正時代から直進流路化の工事が行われたそうです。
これも茅ヶ崎市教育委員会から確認をとっています。
さて、先に長々と鎌倉市での鎌倉時代の陸地の標高の基準を解説しましたよね?
今度は平塚市域と茅ヶ崎市域で見てみましょう!
とその前に、先に鎌倉時代に陸地だった場所の色別標高図の色を思い出してみましょう。
材木座入江特定 久良岐のよし
鎌倉市⤴️
黄緑色
が陸地、水色が海。
茅ヶ崎市・平塚市⤵️
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
橋脚遺跡付近の色別標高図 久良岐のよし
御覧の通り、明治時代までは河口部分は複雑は汽水湖を形成していた湖沼地帯だった事が解ります。
そして、その地域を除いて相模川の東側は河岸段丘が有り、現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡の部分に相模川本流が鎌倉時代に流れていた事が有り得ないと言う事実が地形からも確認できましたね?
極め付きは、とどめの一撃に古墳時代に開かれた平塚八幡宮を表示して置きました。
そうすると平安時代以前の古墳時代に既に陸地だった地域が特定出来る訳です。
平塚八幡宮を基準にすると、現在の相模川東岸の北緯が橋脚遺跡と同緯度の地域は、平安時代末期には明らかに海岸段丘が存在した事が解りますね。そして相模川河口部分の蛇行してた旧流路や汽水湖だった部分も標高が低い地形として形が見えますね。
現在の柳島スポーツ公園総合競技場東側の畑地域と西側のゴルフ場、浜見平団地が汽水湖や干潟に成っていた湾部だった様ですね。ちょっと次の関東大震災で液状化が心配な地域でもあります。
KIMG4032

更に言えば液状化して橋脚が現れるのであれば、それは東日本大震災でも解ったように液状化により水が抜けた地盤沈下の影響なので一帯に他にも橋脚が有れば更に多くの橋脚が露出するので、この橋脚の本数が当時のままなのだと言う事も当然ながら周囲くまなく発掘調査されてますし推測出来ます。
つまり小出川の川幅は全く変わっていない訳です。平塚市河口付近海抜分析 久良岐のよし
ちなみに小出川と相模川の水面や昔の流路や入江だった地域の標高は1~3mです。
明治時代の陸地部分の海抜も概ね低くて5m~8mは有ります。
つまり現在は1.5m水位が下がってると考えて当時は4~4.5mの位置に水面が有ったとしてもやはり陸地だった事が解りますね。
平塚市河口付近海抜分析2 久良岐のよし
こちらは東西の地形の断面ですが、北緯が橋脚遺跡と同緯度の相模川は海抜1mとほぼ海面の海抜0mと変わらない高さで川底は深いままの様です。
つまり現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡辺りは小出川の3mの水面に対して、相模川の1mの水面の位置では明らかに小出川が相模川が乗り越える事の無い河岸段丘の上を流れている事も解りますね。

やはり客観的に古墳時代まで遡(さかのぼ)って地形を見ても、現在、旧相模川橋脚とされる遺跡は・・・
相模川河口周辺地形 久良岐のよし
①小出川露出した橋脚の幅が川幅な訳だから正に現在の小出川の幅と整合している。
②ニトリと橋脚遺跡の間の道路が明治時代の流路で正に橋脚の列の向きとも仮定流路の向きもピッタリ整合し鎌倉時代の小出川の流路も明治時代の流路と同方向と考えるのが自然。
③鎌倉の材木座旧入江地区より上流の明治時代の流路を例にしても②を踏まえて相模川河口旧入江部より上流の小出川は余り変化をしていないと考えるのが自然。ただし河口部については地盤が砂丘だった為に浜見平団地の場所に有った湖では変化が多かったと推測出来る
④明時代に既に陸地だった地域の相模川の河岸段丘は古墳時代に開かれた平塚八幡宮や平安時代8世紀に開かれた三嶋神社と同程度の標高が有るので、昔の河口部の柳島~南湖にかけて存在した汽水湖部分を除いて鎌倉時代の相模川が橋脚遺跡の北緯以北で小出川に流れ込んでいたとは考え難い。
【小生の見解】
どうやら大正時代の沼田頼輔サンが旧相模川橋脚と断定した物は鎌倉時代も小出川にかかるだけの橋だった可能性の方が遥かに高そうと言うか、それ以外に無さそうです。
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
昔の幕末~昭和初期の近代の歴史学者さんって、よくこの手の事をしたみたいです。
なんせ判断材料が少なかったですからね、日本の発掘を主体とした考古学や地質学なんて明治十年(1877年)にモースさんが蒸気機関車に乗って新橋駅~初代横浜駅(桜木町駅)に行く時に車窓から大森貝塚を発見してから漸(ようや)く始まった位に歴史が浅くて未だ150年位しか情報の蓄積が無いですからね。だから未だに嘘か真か解らない文献考古学が中心で、学芸員サン達は古文書に書かれている事が嘘か本当か見抜く時代を超えた知恵比べを昔の人達としている訳です。
大和市の深見神社の社伝も神話時代の神様の話と古墳時代の人物を混同していたり全く海に成り得ない海抜標高80mの位置を海と断定したり・・・
横浜市戸塚区の徳翁寺は宅間上杉家の上杉乗国(乗忠)公の子、宅間上杉乗方(のりまさ)公の開基なのにも関わらず、この宅間上杉家の敵対勢力の山内上杉家を継いだ上杉謙信(長尾景虎)公の曾伯父(そうはくふ:曾祖父の兄弟)として意味不明な解説をしています。

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実際には上杉謙信は彼は実家が長尾家なので宅間上杉家と血縁は無いんですよ。
養子に入った山内上杉家に由来を求めても上杉謙信公の養父となった上杉憲政公の6代も前に上杉憲忠公が居ますが、この人物が別家の宅間上杉乗忠公と発音的には同性同名なので宣伝の為か間違えたのかは知りませんが混同して事が現代の歴史オタクには鼻の先で笑う位に間違った歴史認識である事が一瞬で見破れたりする訳です。
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宅間上杉乗国(乗忠)公は憲忠とは同一人物では無いですからね。
宅間上杉家の直接の祖先は京都の観修寺家ですし、宅間上杉家初代の上杉重兼公の母上と足利尊氏公と山名政氏公の母上が3姉妹で、その母達の実家が上杉家だったと言う程度の血縁です。
更に別流の犬懸上杉家から上杉憲政公の曾祖父の代前後に山内上杉家と血縁に成った人物はいますが、全然宅間上杉家じゃないですからね。特に江戸時代初期~中期と明治時代と昭和初期に書かれた古文書と論文には意図したデマと悪意の無い間違いがとにかく多い。
今回の“旧相模川橋脚”と決めつけられてしまった事は吾妻鏡を持ち出して文章の一部しか読まず地形を見なかった当時の沼田頼輔サンの検証不足の仕事の粗さが問題なだけ。

こんな事を小生も例えば寛政重修諸家譜の歴史人物の名前すら間違ってたり、江戸時代の役人が御寺に寺領を保証する朱印を発行する際に寺院名を間違って発行しちゃったり、昔の古文書の草書体を昭和初期の出版社が読めずに間違って違う漢字に誤植してしまったり、素人でも資料読んでて良く見つけるので、今回も御世話に成った色んな学芸員サン達から御教示頂いたり意見交換していると、本当に頭が下がるばかりです。
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特に茅ヶ崎市の現在の遺跡のレプリカ使って実物は水中に密閉する保存方法は、昔の人がコールタール塗ったくって雨ざらしにして腐らせた物を未来に繋ぐ改善を施し現代人にも展示を見られる様にしたファインプレイでしたね。
ただ茅ヶ崎市と言うよりは・・・
国の文化庁さん旧相模川橋脚と言われている場所は相模川じゃないですよね、何で調べないんで国指定史跡天然記念物にしたんでしょう?
別にここが鎌倉時代も小出川だったとしても、鎌倉時代の大規模橋梁が有った遺跡な事には変わりは無いのですから間違いを再検証し名称も変えるべきではないでしょうか?

さて。

今回、この地域を調べたり散策していて茅ヶ崎市教育委員会さんも一つ間違いが有る事に小生気づきました。
皆さん、まず江戸時代の風景画を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
この絵は東海道五十三次の一つ“南湖の松原左不二(富士)”と言う絵で、江戸時代の画家、歌川広重サンの作品です。
横浜の金沢八景とかの絵を描いたのも歌川広重サンで、我々神奈川県民には馴染み深い絵師サンです。
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鶴嶺八幡宮
(鎌倉の鶴岡八幡宮の前身)

凄く素敵な神社で、鶴岡八幡宮と同じく源頼朝公の御先祖様の源頼義公によって京都の石清水八幡宮から御分霊を勧進して開かれた神社です。頼朝公も崇敬したので御手植えの銀杏が有ったりします。
この鶴嶺八幡宮を鎌倉に遷宮したのが何と由比若宮つまり鶴岡八幡宮の元宮の元鶴岡八幡宮なんです。
なので鶴嶺八幡宮の別称は本社宮でした。鶴岡八幡宮の元の元と言う意味ですね。
そんな神社ですが、戦国時代に小田原北条家が豊臣秀吉公に敗北して改易され関西に移住すると大きな後ろ盾が無くなり荒廃してしまったそうです。
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幕末に皇女和宮様が江戸城に嫁ぐ頃に領主だった山岡家と鶴嶺八幡宮の別当寺だった常光院の住職によって、皇女が東海道を通る際に再整備した立派な参道が700m超の松並木に成っているんですね。
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この松並木の入り口に大鳥居が有ります。
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確かに、ここからは松と富士山が両方見えました。
この写真を撮影した位置に“南湖の松原左不二”の紹介の看板がありました。
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この場所を“南湖の松原左不二”の“松原”を鶴嶺八幡宮の764mの参道の松並木と想定している様で、案内看板が鶴嶺八幡宮の大鳥居の交差点の鳥井戸橋に設置されていました。
ただね、この説明は位置関係がオカシイんです。
もう一度絵を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
根本的に松原が左に曲がってますよね?
説明は鳥井戸橋の位置としてますが仮にこれが鶴嶺八幡宮の松並木だとしたら、大鳥居側から松並木に向かって先には鶴嶺八幡宮、そして富士山も一直線に無いとオカシイ事に成ります。
そして下町屋が無いとオカシイ事に成りますよね?では迅速測図で位置関係を見てみましょう。
南湖の松原左不二 久良岐のよし
赤線が鳥井戸橋から富士山が見える方角です。
残念ながら富士山を絵の方角で見ると鶴嶺八幡宮の松原は絵の右手側に伸びて行かないといけないのが解ります。
Nango-HidariFuji~2
ね~これ場所が違うでしょう?
でも、これ、小生場所特定しましたよ!
大正時代の沼田サンの間違い検証の参考に迅速測図を見まくってたら場所が解っちゃいました。
そもそも南湖の"松原"左不二(富士)なのに何で参道の“松並木”を比定しちゃったんでしょ?
松原と松並木は大違いですよ。
それに当時の地形は当時の地形に近い地図を見ないと位置関係も解らないでしょ?
では場所です。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
赤線が富士山の見える方向です。そして始点の‐‐‐‐‐‐で表示されている道の視点で現在の住宅を無視して地形だけの風景を見るとこうなります。
南湖の松原左不二特定② 久良岐のよし
この道路は1880~1886年に測量された迅速測図にも乗っている道なので歌川広重の生きた1797年~1858年の間の景色の道でもある訳ですね。では絵と見比べてみましょう♪
Nango-HidariFuji~2
もう、ここでしょ(笑)♪
歌川広重さん、又みっけ!
迅速測図でも松原の右手側に3軒並ぶ家が書かれてますしね~。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
この絵の構図の地点はGoogleMapの下の地点です。

現代では松原は伐採され住宅が建ち並び、ここに立っても富士山は見えないし松も無いでしょう。
そもそも皇女和宮が関東に嫁いで来た際には駿府の相模川の氾濫を東海道を通りませんでしたし、年代も文久元年(1861年)の事なので、それ以前に鶴嶺八幡宮の参道を山岡家と常光院別当の朝恵上人が再整備するよりも早い1858年に亡くなってる歌川広重さんが当時の様子を荒れてると表現されている八幡宮をわざわざ見に行く必要もなければ鳥井戸橋の辺りは畑と川しかない殺風景な場所で絵の構図に成らないんですよね。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
ところが南湖地区の南には大きな砂丘が有り、更には南湖地区と桺島(柳島)村の間の小出川河口は複雑な形の入江の干潟が広がる汽水湖に成っている上に“松原が広がっている”訳ですよ。
小生も4歳から絵画と彫刻の塾に通ってたのですが、今も綺麗な景色が好きなので自分が当時の茅ヶ崎市に行けるなら間違いなく南湖地区を旅して恐らく“南湖(なご)”の由来に成ってる複雑な汽水湖の景色や砂丘と松原を富士山の写真を撮影に行くでしょうね。
地形、当時の道路、GoogleEarthでの検証画像、全て丸っとパキっとひっくるめてココでしょ、歌川広重さんの描いた南湖の松原左不二。
小生が仮称:南湖(なご:なんこ)とした手の平型の湖は干拓され現代では浜見平団地に成っています。
旧相模川橋脚(絶対違う)の解説で少し話しましたよね?
・・・次の関東大震災が来たら液状化が心配だって指摘した団地です。
さて、広重サンの構図、現代でも綺麗なんですよ、神奈川県が地形消滅する開発許可を出して無い場所ね、この南湖松原も消えたけど。
ちなみに三浦の秋谷海岸の立石公園も歌川広重さん絵に描いてます。
まぁ、遠い富士山を近くに拡大して書いちゃったり漫画みたいな技法を凄く使うんですけどね。
相州三浦秋谷
秋谷の里広重構図 久良岐のよし
これが歌川広重さんの構図、綺麗でしょ?
こっち⇘は小生が選んだ構図。
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小生が当時の人間なら歌川広重さんに、いっぱい教えてあげたい構図が有る(笑)。
でも、もしタイムスリップ出来るなら中学時代に戻れるなら教師と親の言う事聞かずに中卒で鎌倉の正宗工芸に入門して包丁作りたかったかなぁ~。
でも、そうすると高校やアルバイトや留学で出会った親友や大切な人達にも出会ってなかったから、これからの人生をどうするかの方がやっぱり大切かな?

願わくば歌川広重さんや葛飾北斎さんが描いた景色や、彼等偉大な絵師が見つけられなかった綺麗な構図の景色が、これからもずっと残って欲しいと願います。

綺麗にまとめようと思ったけどやっぱり最後に小生らしく追撃の一言。

旧相模川橋脚は相模川の橋脚じゃなくて小出川の橋脚だよ(笑)。
ただし、こうも考えています。
小生は個人的に当時は暴れ川で川幅も広い相模川を跨ぐ様な大きな橋は建設する技術や財力が稲毛重成一人で揃えれたとは思えません。
現在も地名由来には諸説有りますが平塚市側に“馬入”の地名が有ります。明治時代の迅速測図を見ても、そして現代でもその一帯の相模川には中洲が多く有り比較的浅い馬で渡れる程の深さの場所が有ったのかも知れません。
だとしたら・・・
現在の旧相模川橋脚は相模川の橋脚では無くて小出川の橋脚だったとは思いますが、源頼朝公が落馬したのは小出川の橋の上だったかも知れないかな?とは少し思います。

special thanks!
鎌倉市藤沢市茅ヶ崎市平塚市の学芸員さんや土木事務所や発掘調査会社の元職員の皆さんのローカルな情報提供と御紹介頂いた資料と郷土史話も検証で役に立ちました。
ありがとうございました~♪

では皆さん、又、次の歴史解説記事か休日雑記か綺麗な景色の紹介か御料理のレシピ記事で御会いしましょう~♪
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鎌倉の材木座海岸や鎌倉駅から歩いて15分・・・
地元の人しかブラつかない辺りにルアーズと言う御洒落な大人な雰囲気で美味しい料理が楽しめ気さくなマスターがいる御店が有ります。
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Lure`s(ルアーズ) 
小生がこの御店を知る切っ掛けに成ったのは骨折する前の5月に御近所の銭湯‟清水湯”サンに入りに行くのが主目的で横浜から山の中を歩いて行き周辺をプラついてた時に偶然ルアーズさんの店構えが気に成って立ち寄ったのが最初でした。
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低カロリー高たんぱくの料理しか食べてなかった時期なので、この看板のカジキマグロステーキに惹かれたんです(笑)。以前は逗子とかに写真撮影しに行く時や光明寺と住吉神社を御参りする時には車で通過してしまっていた地区なので、今年に入ってから週末に鎌倉まで往復20km超の円海山~天園ハイキングコース散歩を楽しむ様に成った副産物ですね。
ハイキングを通じて小生より年齢が上の友人も沢山増えました。
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ルアーズの店内の雰囲気はこんな感じ。
とっても落ち着いていて良い御店です。
横浜の山下公園界隈に有りそうな終戦後の米軍統治時代の様な異国情緒有る御店。
良いでしょう?
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ここの御店は自家製の梅酒を提供しています。
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小生のブログの古い読者は御存知かと思いますが飲酒嫌いの小生、梅酒だけは各旅行先で日本酒の蔵元を探して必ず買って来る。なので当然ながらルアーズでも注文しました。
飲みやすくて美味しかったですよ~。
これ、きっと女性は好きだと思います。
さてお料理ですが・・・
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カジキマグロのステーキ。
このソースがとっても美味しくて質問して色々聞いたんだけど、今ちょっと忘れちゃいました(笑)。
ちなみにカジキマグロのステーキだけだと、この量でカロリー400kcal未満。
筋肉増やすには非常に良い食材です。
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それとサラダも美味しかったです。
皆さんももし、ハイキングや電車旅行で鎌倉を訪れる事が有れば、是非、ルアーズでお食事してみては如何でしょうか?
鎌倉と言えば和食に走りがちですが、1日遊ぶなら夕食はレストランやカフェやBARに行っても鎌倉の落ち着いた雰囲気を満喫できますよ~。
余談ですが・・・
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・・・鎌倉のケンタのカーネル叔父さんは畠山重忠公の大鎧を着ています。
GoogleMapの口コミに御店の紹介とルアーズ周辺のオススメ散歩コースを書いて見ました⤵

・・・では皆さん、良い週末を~♪
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五月は雨も多いけど抜けるように真っ青な雲の少ない晴天も多く、山も海も散歩するには気持ちの良い季節・・・
今日は小生の様に独り散歩(笑)でも彼氏彼女とのデートでも丁度良い、そんな江ノ島~鎌倉の浜辺歩きながら撮影した写真を紹介したいと思う。
・・・実は湘南モノレール江ノ島駅~江ノ島前の片瀬海岸や腰越海岸に出て、そこから由比ヶ浜の端っこの小坪飯島公園まで散歩し更に鎌倉駅にまで戻ると丁度、徒歩で11kmと程良い歩行距離と奇麗な景色を楽しむ事が出来る。
江ノ島~鎌倉散歩 久良岐のよし
このGoogleEarthの衛星画像をクリックして拡大して見て欲しい。
黄色く表示したのがコース。
赤いグラフがコースの海抜を現した起伏で下の青い字が小生が追記した見物先の地点名。
こうして見ると高低差が余りなく穏やかで歩きやすい事が判ると思う。
この11kmコースは普段の休みに山道を20km歩き回ってる小生には短い様で、実は砂浜を歩くので山道の20kmと遜色ない運動量に成る。
山は山で緑の匂いと風と鳥の囀る声も心地良く感じられるが、海風と波に戯れる人々の微笑ましい快活な様子を見られる風景も又気持ちが良い♪
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この日、小生はいつもと同じく日没の少し前に稲村ケ崎に着く様に逆算して徒歩で出発し大船駅から湘南モノレールに乗車し江ノ島を目指した。
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いつ見てもカッコ良い、線路が無い懸垂式の湘南モノレール!
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う~ん面構えが良い。
先頭車両からの景色はコンナ感じ・・・
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・・・大船駅だね。
途中端折って江ノ島駅に到着。
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そこから江ノ電片瀬江ノ島駅を通過、商店街を抜け江ノ島に向かって歩く。
途中見えるのが・・・
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玉屋のようかん 本店
この玉屋サンは明治四十五年(大正元年)の1912年に開かれた100年企業の老舗で、昔からこの本店と江ノ島島内の支店で羊羹を販売している。余り若い人は羊羹食べないかも知れないが、プレゼントする相手が高齢者(笑)だと玉屋の歴史が100年有る事を説明すると喜んで貰える、良い江ノ島の御土産に成るんだな。
前回も紹介したけど今回もホームページのリンク張って置く(笑)。
もう1軒魅力的な店が有って・・・
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紀伊国屋旅館
紀伊国屋サンて言う老舗の良い旅館、宿泊費も安い!しかも江ノ島の海水浴場まで徒歩5分!
高級なリゾート旅館やホテルじゃなくて、本当に旅館ちっく
でも事実上の停止命令の自粛で今年のONシーズンは宿泊も海の家の営業中止しちゃったんだって。
黒岩知事さぁ、貴方と安倍総理の初動対応の遅れと、その後のクッソ遅い補償と脅迫付き政策のせいで雰囲気良い老舗がバタバタ潰れてくんだわ。
・・・早く何とかしてね。
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江ノ島島外の紀伊国屋サンだけでなく江ノ島島内の旅館の皆さん、三浦半島の民宿や旅館の経営者の皆さん・・・
新型肺炎は感染に注意はしても、もう自粛止めて下さい!
皆、営業再開して生き残りましょう!
・・・中途半端な本来は強制ではないはずの自粛要請でビジネスマンは電車バス通勤して全く三密回避していないし、一番感染リスク高い性風俗店やキャバクラ普通に営業して西村経再大臣も黒岩知事も実名公開で自粛要請も何もしない事実上の黙認。
これで真面目にやってる観光業、旅館業、飲食店が自粛を脅迫されるのは不平等極まりない理不尽ですから、もう営業して自衛して欲しい。
・・・でも、安倍首相の鈍間加減にも、野党の反対しかしない愚鈍さに対しても・・・
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「駄目だこりゃ(笑)!」
「再開(つぎ)行って見よ~ぅ!」
・・・と思った小生の同士(笑)達がシッカリ三密回避しながら江ノ島で家族の安らぎの一時、恋人同士のユックリとした優しい時間を過ごしていました。
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パパが女の子の手をシッカリ繋いであげて渚で遊ぶ様子は見ていて微笑ましく羨ましい(笑)。
皆、観光して神奈川県の商店主達を助けてくれてありがとうねぇ~!
馬鹿な自民党の幹部老害と野党の極左実害政治家達や、鈍間な厚生労働省の国家公務員から我々庶民が個人判断で経済を守りながらお互いの物理的な距離を保ち、シッカリ消毒して日本人の生活と文化を守って行きましょう~♪
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ここから見る近い江ノ島と長い長い浜辺に打ち寄せる波も良いね。
さて、この江ノ島を正面にして左手の海岸を東浜と言うが、ここに元々は橋なんて無かった。
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干潮に成り潮が引くと島と海岸が繋がり徒歩で渡る事が出来る“神秘性”が有る島だったからこそ、欽明天皇や文武天皇が勅願所にした聖地であり、源頼朝公や足利成氏公や北条氏康公が戦勝祈願をして不利な合戦で大勝利を収めた魅力的な観光地として江戸時代の庶民にも愛され、わざわざ当時の人は東京から徒歩で江ノ島を参り、伊勢原の大山を登り、そして富士山を御参りするのが定番コースに成っていた訳だ。
それと後で実際の写真を掲載するが、恐らく江ノ島の橋脚やヨットハーバーの建設が潮の流れの変化を生み七里ヶ浜稲村ケ崎の砂の流出と思われ無関係では無いだろうと思う。
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幸いな事に境川河口に近い東浜~腰越海水浴場はまだ砂浜が残っている。
家族連れで賑わい、恋人同士が仲睦(なかむつ)まじく手をとり散歩するホンワカした風景が広がっている。
まぁ・・・
住宅街と商業街の下流の海だから水質は御世辞にも良くは無いのが江ノ島近辺なんだけど(笑)。
そこから小動の岬に向かって歩く。
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すると小動の岬の側面西側には戦時中に連合軍の上陸迎撃を想定して築かれたトーチカ遺構の入口が現在も残っている。
半島の側面そこかしこに内部の塹壕から狙撃する小窓状の四角い穴も開いている。
この様な遺構は相模湾から三浦半島西岸の崖地に今も多数残っていたりする。
小動岬の上に在る小動神社を目指して歩くと、渋滞に多くの多摩ナンバーや品川ナンバーの車を見かけた。
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いらっしゃい!ようこそ神奈川へ。
お金落としてくれてありがとう♪
本当にクラスタ感染の抑え込みが必要だった2~3月ならいざ知らず、今となっては政府の感染源特定不能が広がった4月以降は中国やイタリアみたいに完全外出禁止命令にしないと全く意味が無い状態だったので誰が来ようが最早関係ない(笑)。
もう感染覚悟で経済回さないと、今はダラダラ政府と黒岩知事の脅迫付き実質営業停止命令の自粛延長のせいで多くの中小企業や飲食店や旅館が潰れ始めている。
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バブル崩壊後、民主党政権の暗黒時代より酷い。
挙句の果てにド田舎39県は自粛解除され、首都圏の商店主や観光業や飲食業は自粛延長で潰れてる。
なのに安倍総理、西村大臣、黒岩知事は一番感染リスク高い性風俗を全く自粛対象にせず、店名名指しのペナルティも課さなかった。
理不尽極まりない。
普通に電車バス通勤を我々現役世代は強いられ、学校が休校中の中高生の子供は集団で遊びまわる、大学生はレンタカー借りて行楽地に行き海で山でBBQ、感染自覚ありながら高速バスで山梨にBBQ行って男とSEXして東京帰って来る女みたいな確信犯の奴等がカオス。
山に川に行くなと言わないし、寧(むし)ろ自然の中で人と物理的距離をとって単独で行動したり友人や恋人とも少し我慢して離れて歩けば全く問題ない。
でもこの女は自覚症状が有りながら彼氏に触れ合って高速バスで帰って来た訳だ。
石田純一並に最悪な行動だろうな。
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武漢市民が武漢市封鎖寸前に多く日本に逃げて来た1月初旬は法律上、彼等を政府が拒否しない限り我々にとって武漢の方々も大切な御客様だった。ならば政府は感染開始の1月~から成田や羽田で感染者特定の体温検査と特定後の隔離を草々に行うべきだった。
つまり1月~2月~3月初頭が水際作戦&クラスター追跡と隔離しながら検査を実施するベストチャンスだった。
台湾の蔡総統の成功例と習主席直接の防疫体制確立指示が出てからの中国の対処を日本は共有されていたから、その時期に同じ事を真似すれば良かっただけなのに、過去の事例と官僚の面子に拘ったせいで2月頭からのアドバンテージは発揮されず、3月中旬には失敗が確定した。
しかも中途半端な自粛で休校中の子供達は自由に遊びまわり、老齢の方々も必ず団体行動で感染リスクを高めた。
若者と老人が感染を恐れず広げ、現役世代は感染リスクに怯えながら1月~2月を過ごし、3月には諦(あきら)めた訳だ。寧ろ4月~5月に成っても政府の公称「自粛」の実質脅迫付き、自粛の損失補償無し「営業停止命令」は続いた。
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東京駅周辺も観光が殺され仮死状態から潰れた店がある。
申請しても直ぐに振り込まれない補償。
最初は家賃補助すら話題にもせず営業自粛“強要”だけ政治家にされて、家賃の支払いも出来ず絶望して店を閉めた店も有るだろう。
小生自身が恐らく失業する。
小生の幼馴染の両親がやっていた店も潰れた。他にも知ってる店が潰れた。
先ず対応遅れた戦犯の加藤厚労相と尾身とか言うジジイが殺意湧く程許せない。
ダラダラ中途半端な自粛をさせる安倍総理と西村大臣も許せない。
・・・とは言っても、人を呪ってもメシは食えない(笑)www
自分の精神衛生上の理由でも海や山を歩き神仏に御参りしストレスを追いやり、高温多湿で安全な各地の銭湯巡り、小さな良さげな店で美味い物を食う!
そして感染しない様に距離を取り、人の密な場所には・・・
元々行かないし、横浜駅界隈や東京の港区みたいなコンクリートの無文化な町(笑)嫌いだしな。
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小動神社小生は3月からはもう、三密リスク回避は自分でしながら通勤可能な外出自粛なんて中途半端で意味の無い事をせず、ガンガン山歩きと浜辺散歩をし、神社を御参りしてストレスを貯めず自分の健康維持に務める事にした。そして神社や御寺を御参りして、世界の新型肺炎終息終息の祈願を神仏に御願いしていた。・・・当然ながら一人行動でね。
小動神社に御参りしたのも、その一環。
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この小動神社は鎌倉時代に源頼朝公の与力の名将、佐々木盛綱公が近江国の八王子神社を勧進して開いたと伝わるが、宗派を超えて歴史を辿ると、どうやら神社が開かれる以前から小動の岬状の地形が典型的な古代の海からのランドマークとして聖地化されていたらしく、今は道路を隔てて反対側にポツンと存在する真言宗の浄泉寺は空海和尚が開いたと伝わる。

そして、この浄泉寺を佐々木盛綱公が船の上から参拝したと伝わっているので、恐らく元々八王子社の前身に成る牛頭天王社か何かを空海和尚が御寺の境内社として開いたんじゃないかと思う。
それを佐々木盛綱公が御参りしたと言う事だと、空海和尚は方々の港や岬に海上交通の守護神として日本神話に則(のっと)って牛頭天王(素戔嗚尊:スサノオノミコト)を御祀りする御堂を建立して回っている歴史事実とも整合性が出る。
そして、恐らく鎌倉時代には既に荒廃していたので改めて佐々木盛綱公が近江国から八王子社の御心霊を勧進したのだろう。八王子神社の御祭神も一般的に牛頭天王とその王子なので矛盾しない。
この神社は佐々木家と関係が深いので佐々木家の隅立て四ツ目結び紋に〇で囲われた社紋が現在でも使われている。
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小動神社は改めて別の独立記事にしたいと思う。
余談だが江ノ島は元々島全体が聖地で洞窟が欽明天皇の勅願所だった。その江ノ島を管理する別当が真言宗系修験の岩本坊で、岩本坊は明治の仏教弾圧に岩本楼と言う旅館に業種替えして現在も存続している。その岩本楼の社長が元々の江ノ島と奥津宮岩屋(洞窟)別当職で僧侶であり侵食だった岩本家で、明治までの本姓は間宮であり、平時は間宮家を公的には家祖である佐々木氏を称した。
つまり江島神社にも佐々木一族が深く関わっていた歴史が有る。

そこら辺は間宮家の簡単な解説を以前書いた時に触れている⤴
江ノ島観光した時の記事にも、もう少し詳しく解説を書いたと思う⤵

ところで小動神社には展望台が有って、そこからの眺望が凄く良いのだが・・・
小動神社展望台
・・・外出自粛で人が少ない17時過ぎに誰も参拝に来ないと思ったのか、三十代くらいのオラ系ファッションの男とギャルっぽいカップルがベンチで“だいしゅきホールド”で抱き合って明らかに♀に入った♂まんま、女の方はまさかの緊張感の眼差しで、小生が“ゆっくり(笑)”淡々と境内で一頻(ひとしき)り参拝をして回る間、ずっと身じろぎもせず男に抱き着いたまま顔はコッチを見ていた(笑)。
下半身は展望台の壁で見えず腰から上しか見えてないから、風景の写真撮るフリして撮影したろか(笑)?と思ったが、せっかく興奮して盛って交尾したのが嫌な思い出に変わったら可哀そうだから、一応見て見ぬふりしてあげていた。
ちなみに“だいしゅきほーるど”てのはコンナ⤵
そしたら後から来た白人カップルの参拝客が空気読まずに展望台に上ろうと近づいて、そんでも男女からまったまんま動けずにいたのが面白かったが、流石に白人も「変だな?アレ~?」と思ったらしく4~5m位手前でUターンして戻って来た(笑)。良かったなバカップル(笑)?
これが小生や優しい白人オジサンじゃなくてヤンキーだったら男はボコボコにされて女は輪姦されたかも知れないな。
SEXするなら神様に迷惑かけない場所でやりましょう(笑)。神罰くらうぞ(笑)。
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アホな男女の怪しいだいしゅきホールドのハプニング発見の後で小動神社を参拝し終えて七里ヶ浜に移動。ここから砂浜づたいに約5km稲村ヶ崎迄を歩く事にした。
・・・と、言うか砂浜を散歩するのがメインの目的だった。
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サーファーも良いねぇ~!

これぞ鎌倉の海!
でも可哀そうなくらい普通の波しか来てなかった(笑)。
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だいぶ歩いてきた。
で、毎回この辺り来ると一応立ち寄る場所・・・

鎌倉高校前駅があり、そこの踏切から海を臨む景色が有名。
スラムダンク鎌倉高校前駅横踏切
スラムダンクの舞台で台湾や中国からの新婚旅行の若夫婦なんかが記念撮影に来る場所。
・・・で砂浜に戻る階段にコレが書いてる。
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タバコボ?
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駐車場の辺りから振り返ると良い感じに夕陽に富士山の影が浮かび上がる時間に成って来た。
あとちょっと歩いたら稲村ケ崎。
砂浜歩くの止めた、と言うか歩けなくなった・・・
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・・・原因は最初の方に江ノ島の腰越海岸の部分で話してた砂の流出な。そもそも歩く砂浜が環境破壊のせいで皆無に成ってしまた。これを行政は温暖化だなんだと責任転嫁するが、実は違う。
潮流が変わる余計な堤防工事や、市街地化した部分の河川の護岸工事で砂が生成されずもう70年以上もまともに相模湾に砂が流れ込まなくなったからだ。
実に昭和の高度経済成長期の土木は無節操で20年前の中国の都市開発並みに稚拙だと思う。
全く自然への影響が考慮されていなかった。
縄文海進 久良岐のよし
縄文時代、東京湾?と言うか関東平野は海で最奥部は群馬県に達していた。東京なんて多摩地区以外は略々(ほぼほぼ)海の底。弥生時代位に段々と気温が下がって北極と南極と山岳の氷塊の体積が爆増し海が引いて行き、それと同時に山野が削られ洪水の度に土砂が堆積して行きやがて沼地となり更に広大な武蔵野平野となり、弥生時代も末期には稲作が普及し古墳時代には更に国家により統制された大規模開拓が全国で行われ、元々海だった平野の野草が生える土地には古墳時代に成ると軍馬の繁殖の場が設けられ房総半島や本牧半島や三浦半島の風通し良くも海が近く密林に成らない一部の地域が名馬の産地と成ったので、古代から存続する武蔵国の一之宮~六之宮の延喜式内社が集結し行う国府祭(こうのまち)神事では今も軍馬を奉納する儀式が継承されている。
川崎市川崎区周辺の海抜0m地帯 久良岐のよし
戦国時代の始まった頃に成っても神奈川県域だと川崎駅前の堀之内、間宮家の河崎城館址の直ぐ近くまで海が広がっていて、太田道灌公が「海が直ぐ近くの河崎って場所に泊まったよ」って書いてたりする。その古文書が証明する通り、標高を色で表示する国土地理院の色別立体図で見ると現在も川崎駅の南部には戦国時代の海の名残の海抜0m地帯の洪水リスク高い地域が広がっている。
言い換えると寒冷期だった戦国時代~平成時代のたかだか500年間でこれだけの範囲の海が土砂の堆積と海の後退で‟一時的”にも出来ていた方が、温暖化で陸地が消失するより驚愕の事実なんじゃないだろうか?
当然ながら昔の高度経済成長期の乱開発が始まる以前の藤沢市や鎌倉市域は森林や田畑が広がっていた、江ノ島の海に注ぐ川の上流域が森林伐採され河川がコンクリで固められ砂が生成されずに、砂そのものの流入が半世紀以上も無くなった事も要因だろう。
上流に当たる藤沢市鵠沼~村岡周辺~鎌倉市手広や深沢や大船~横浜市栄区や戸塚区がその上流に当たる。
写真で比較すると解かり易(やす)い。

←左が昭和初期の藤沢駅周辺
藤沢駅周辺の古今変化 久良岐のよし
       右が令和現在の藤沢駅周辺→

左側の戦後直ぐ位までは写真の60%を占めていた水田と畑と森林が、右側の写真では完全に全滅している。そしてこの写真に流れる河川の合流地点が旧高座郡を流れる境川、右から流れてくるのが柏尾川で、その柏尾川の源流水源が瀬上沢と鼬川であり、鎌倉市域~横浜市栄区~港南区~金沢区~磯子区の乱開発で消えてしまった森林が水源な訳だ。
円海山の上郷地区は更なる森林と源流瀬上沢の破壊計画があり、港南台地区の大森林は住宅街に変貌して完全消滅した
コンクリートで固めたから都市部の蓄熱率が上がり熱帯夜に成るのだし、地球環境の変化はそもそも戦国時代から寒冷期だったのが現代に至り、縄文時代に回帰する温暖化の“自然なベクトル”に向かってるだけだろう。
自然破壊しまくった欧米が森林伐採を二酸化炭素にすり替えるのは、土建が批判に晒されない為の論点粉飾でしかないだろう。
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海面が高く成れば当然ながら砂や土は瞬く間に削られる。それを遅らせるのが山を削り小川から河川となり河口から供給される砂だった訳だ。その砂が供給されなくなって70年も過ぎれば、当然ながら海が砂浜を侵食して“縄文時代の地形に戻ろう”とする自然のパワーが爆発するわな・・・
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この排水路のだけ海岸に浮いて存在するが、この排水路の高さまでちょっと20年くらい前まで砂で覆われていた訳だ。海水浴で賑わった映画“稲村ジェーン”の舞台の稲村ケ崎~七里ガ浜の海水浴場は既に泥岩の地層が露出し砂浜は完全に消え失せた。
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露出した小川の河口。無残な姿。
この高さでも覆い隠す程の砂の高さが有った訳だ。
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川を跨ぐ遊歩道の橋脚が空洞になってしまっている。
自然活かすのではなく自然に勝とうとする傲慢なコントロールは自然には必ず負ける。
その良い教科書が今の七里ヶ浜の惨状だね。去年の台風後の来訪時より荒れてる。
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辛うじて僅かに残る浜辺。
でも実は寒冷期だった戦国時代~江戸時代~明治大正昭和平成の近代、この場所が砂浜だった事の方が長い歴史で見たら“一時の偶然でしかない”事が判る証拠も露出していた・・・
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砂浜が無くなって露出した元は波打ち際の磯だった時代の泥岩の岩盤。
小さな気持ち悪い穴は実は穿孔貝類、一般的には“磯マテ貝”と呼ばれる種類の貝が堀った巣穴の跡で、地球が温かい時期の七里ヶ浜のあるべき姿の歴史を覆いかくしていた砂浜の消失で再度露出した訳だ。
今は昔の気候に戻りつつあるだけで温暖化は異常気象ではなく“寒冷期に文明を発展させた現代人”にとって不都合なだけと言う歴史事実をまざまざと見せつけてくれている訳だ。
縄文海進 久良岐のよし
こっちが多くの生物にとって繁殖しやすい温暖な気候の地球の本来の姿。
縄文の温かくて海面が高かった時代は高座郡の寒川町~伊勢原市辺りまで入り込んでた名残から神話の時代に当たる弥生時代になっても旧海底部分が湖沼地帯で住居に適さなかった。
だから平安時代以前から存在し弥生時代の古代の聖地が信仰対象化した延喜式内社と式外社も、古墳時代に開かれた平塚八幡宮や前鳥神社を除いては全て古代の海岸線より内側に存在する訳だ。
主な歴史千年以上の古社と古刹と古代の海岸線 久良岐のよし
ギャーギャー騒ぐのがオカシイ。
ツバルなんかも元は人が住んで無かった場所に海洋民族が進出しただけの話し。
ツバルの人を水没後にどこに移住させてあげるかって議論をする方が重要だと個人的には思う。
地球の異変じゃなくて自然の一部なのよ。
でもね、先に話した通り七里ヶ浜が地球の自然な温暖化の海蝕の影響をモロに受けた原因は、昭和の河川の護岸工事と砂防ダム建造に森林伐採、住宅乱開発だろう。
七里ヶ浜に流れ込む極楽寺川・音無川・辻川・行合川これ等の上流に当たる谷戸が全て森と自然の河岸が宅地造成されコンクリートで何でも固める治水の影響で七里ヶ浜東部の海に砂が流れ込まなくなった事の影響が大きい。
更に鎌倉や横浜や藤沢や大和の森林伐採宅地開発と江ノ島のマリーナ建設や境川河口の護岸工事で潮流が変わったり、砂が不自然に流れつかなくなったからだろう。
腰越海岸を辛うじて保つ程度の砂しか入らなく成った訳だ。KIMG8267
上の写真が今回の散歩で撮影したの。
下の写真が以前に冬場に撮影したの。
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やっぱ砂の無い七里ヶ浜も個人的には美しいと思うけど(笑)。
でも夕陽の写真撮影するなら空気が冷たく水蒸気の少ない晩秋~冬~初春がベストだね。
しかし、ここに長大な砂浜が続く江戸時代同様の穏やかな景色も見てみたいなぁ~。
富士三十六景
空き家が増えているのに、このまま無軌道に森林伐採を行い不必要な宅地開発を続ければ、やがて鎌倉~藤沢のみならず茅ヶ崎~大磯~小田原の砂浜の消失も早まるだろうな~。
今でも凄い奇麗だけどね~。
で、稲村ケ崎で写真撮影してたら、絵に成りそうな見知らぬ美人サン発見!
さっそく夕陽に浮かぶシルエットの写真撮影させてもらった。
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この日、最良の一枚に成ったかな?
海と夕陽の写真を撮りに行くと、良く知らない人(笑)に突然声かけてモデルに成ってもらうけど皆優しくて?ん?突然でビックリしてかな(笑)?断られる事は少ない。
数年前に撮影した由比ヶ浜の材木座側での写真も地元の女子高生がモデルに成ってくれた。
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これは結構好きな写真。
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地元の仲良し二人組が肩を並べて富士山と夕陽を眺める青春の一コマ的な。
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今年の初旬だと長者ヶ崎でも地元の御姉さんがモデルに成ってくれた。
女性の後ろ姿と海と夕陽は実に合う。
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この写真が一番綺麗。
黒崎の鼻で撮影したこの写真だけ他人じゃなくて身内だけど。
モデルのいる風景写真撮るのは御願いから始まるから独身男には難しい。
まぁ~そんな訳で七里ヶ浜も凄く夕陽と富士山と江ノ島と海が一編に撮影出来て奇麗な場所なんだな。
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砂は完全に無いけれど(笑)。
もう稲村ヶ崎界隈は七里ヶ浜から七里ヶ磯に改名しないと文字に整合性が無い。
磯にしちゃえば良いんじゃない?
まぁ~、色々と素直に自然の美しさだけを満喫していられないのが現在の七里ヶ浜だったりするんだな。
最終目的地の由比ヶ浜に向かって出発!
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由比ヶ浜の端っこから稲村ケ崎側~極楽寺側の崖を見る。
現在でこそ切通し状の道で稲村ヶ崎~由比ヶ浜は難なく歩いて来れるが昔は切通しが無く、あの崖上に上がる道しか鎌倉市街地と七里ヶ浜のを往来する手段が無かったから大変だった訳だ。
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この断崖絶壁が鎌倉市街中心の防衛網の役割を担っていた鎌倉城の一部で最南端が稲村ヶ崎、こちら側を突破するには極楽寺坂の切通しを攻略する必要が有った。
だから新田義貞公は稲村ヶ崎のヘリに恐らく突貫工事で道を作り、干潮時に海側から一気に大軍を市街地に乱入させた訳だ。
それは以前コレ⤴に解説しているので、御興味有る方は斜め読みしてくれれば成る程ねぇ~?と成ると思う。
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由比ヶ浜の最西端の岸壁からは反対側の三浦半島が奇麗に見える。
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見える煙突は火葬場。あの煙は誰かがこの日、本当の意味で旅立たれた家族と最後の御別れをした証拠。出来ればこの煙のたつ前に家族とちゃんと御別れ出来ています様に・・・
岡江久美子サンや志村けんサンは家族と御別れも出来なかったから。
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由比ヶ浜に到着~!
超~元気なワンちゃんが波にハシャイでて凄く可愛い!
ブラジル人ぽいカップルが犬の散歩していた。
こんな生活本当に良いなぁ~。
でも実際の鎌倉市は現在でもアジサイの季節と夏と秋は人でゴッタがえして大船駅から電車も満車で、江ノ電鎌倉駅なんて駅に入るのが1時間以上待ちとか生活に適さない上に、アホの松尾市長が市外からの車乗り入れ規制を決定していて、そうなれば観光客がバスにも電車にも乗れなくて最早、怒号が飛び交う地獄絵図が展開するのは決定事項。観光客にも不人気な都市に成りそうな気がする。
・・・まぁ~、山の中を往復20km歩いて余裕で鎌倉市街に遊びに行く小生には関係無いけど~(白目)。
でも、就労先も鎌倉中心部で住居も鎌倉なら、本当に生活するには天国だと思う。
本当に本当の教養有る大企業の社長さんとかは鎌倉市内とか京都の左京区の下賀茂神社辺りとか神戸とか横浜の元町の山の上に住んだり昔からすんだよな。
やっぱりちゃんとした人は文化と自然との共生に魅力を感じるんだろう。
最近、IT関連の会社が鎌倉に拠点をどんどん移してきてるのも、彼らは本能より“頭を使う”仕事の人達だから頭を休める場所の大切さを見だすのかもな。
ちょっと道路側に戻ってみる。
稲瀬川と言う川が有る。
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例によって昭和の無文化河川工事でコンクリートの用水路みたいにされてしまっているが、実はここは歴史文化的に大切な場所で昔は和歌が詠まれたり、いわゆる鎌倉時代の市の中心街との境目に成っていた場所で北条政子さんが鎌倉入りする時に、この由比ヶ浜から三浦半島を見渡す風景がいたく気に入ったらしく数日間、川の畔(ほとり)の庶民の民家に滞在させて貰った歴史が有る。
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北条正子さんと言うと怖いイメージが有るかも知れないが・・・
頼朝さん大好きで山野を歩いて韮山の蛭ヶ小島まで愛を遂げに行ったり・・・
農村育ちだから素朴で純粋だったり・・・
神奈川県を頼朝さんと夫婦で一緒に旅行して廻って、色んな神社を一緒に参拝して夫婦らしい子宝祈願したり・・・
義弟義経の愛人の静御前が鶴岡八幡宮の舞台で義経への愛情の和歌を詠(うた)って舞った時に共感して頼朝さんに助命嘆願したり・・・
頼朝さん死んじゃった後で長男頼家公が自分の父親に暗殺されちゃったり、次男実朝公が実兄に殺害されちゃったり(小生は実は実兄の義時公と大江広元公が国外に逃がしたと推測)した後で、家族が誰もいなくなった時に起きた承久の乱て戦争の時に頼って逃げて来たのが、旦那さんと良く御参りに来ていた思い出の弘明寺の山で、その山に立てたのが井土ヶ谷の乗蓮寺だったり・・・
実は夫が凄く出世しちゃっただけで、本人は気が強いけど可愛らしい普通の女性だったと思うよ。
実際、誰も家族がいなくなっちゃって井土ヶ谷に居た時期の乗蓮寺の木像は凄く寂しそうな顔をしてるんだよね。
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写真は横浜市南区井土ヶ谷の元:北条正子様の山荘だった乗蓮寺にある生前に掘られた彫像。
夫が側室持つのが当たり前だった当時、頼朝さんが側室を持つとヤキモチ焼いて文字通り側室の家を武士と一緒に攻撃したりしちゃったから、そんなイメージついたんだろね。
乗蓮寺については以前に解説記事を書いている。

今なら政子さんの感覚は凄く正常だと思う。
自分も奥さん貰うなら、北条政子サンみたいな人が良いな。
ところで稲瀬川の辺りの歩道はデザインが可愛い。
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東西南北の方角+各季節どんなイベントが有るか絵で示してくれているマンホール蓋。
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4月は鶴岡八幡宮の静の舞
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9月は元々畠山重忠公が開基した横浜市金沢区の東光寺と言う御寺の旧所在地だった鎌倉宮の薪能。
鎌倉宮に成る前に東光寺で後醍醐天皇の皇子の護良親王が自害に追い込まれた後、東光寺は金沢区釜利谷に移転させられ鎌倉宮が開かれて護良親王を祀る事に成った。
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8月・・・アホの松尾が中止した由比ヶ浜の花火大会。
鎌倉の松尾と横浜の林文子は本当に無文化極まりない。
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8月の鶴岡八幡宮の雪洞(ぼんぼり)祭り・・・
以前何で八月に雪洞(せつどう)なんだ?
・・・とか思ってたら、実は雪洞(ボンボリ)=行燈(あんどん)の事だと大分後に知った思い出が有る。
始まったのが1930年頃と言うから、夜間ライトアップして御祭りにしたとか、まだイルミネーションが一般的じゃなかった当時の鎌倉の人は本当に昔から風流だったんだねぇ~。
砂浜に戻ったら高校生くらいの男女2組のカップルが海の中で青春を謳歌してた。
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う~ん微笑ましい青春の縮図。
いつまでも仲良し4人組でいて欲しいなぁ~。
社会人に成っても友達でいて欲しいな。
中学高校の友達って余り大人になったら大切な友達でいつづけるケースは実際少ないって統計があるから。でもそうじゃない場合も有る。
この子達がずっと仲良しでいれますよ~に♪
由比ヶ浜をずっと歩いたらスッカリ日没に成ってしまい、若宮大路から鎌倉駅に向かう事にした。
途中には遺構は残らないが史跡が有る・・・
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畠山重保邸址
実は以前も別の記事で紹介した鎌倉時代の武将、畠山重保公の館跡で、室町時代の供養塔も存在する。

新編相模風土記稿は鎌倉の御廟を墓所だろうと言ってるが明らかに間違い。
何故なら、この供養塔は室町時代の建立だから。
合戦は発生したろうが、当日は御父君:畠山重忠公が鎌倉に来る予定だったので大蔵幕府側の畠山邸で送迎の準備をしていたはずだから、由比ヶ浜の館で戦火が上がり事態を把握して、鎌倉に向かっている父親に陰謀を知らせる為に八王子街道を目指し、先ず鎌倉から脱出する為に兵が配置されている巨袋坂切通しと古鎌倉街道中道を避けて、平安時代の古道の天園ハイキングコースの山に逃げて白山古道を通り釜利谷に抜け、六浦道(むつらみち)から鎌倉街道下道から北上し保土ヶ谷区で八王子街道に入る事を目指す以外に選択肢が無い。
そして釜利谷の御廟所一帯は恐らく東光寺が移転した経緯からも、畠山家の所領だったはずだから、そこで追っ手にかかり最後の時を迎えた方が明らかに自然。
まぁ、そんな感じで鎌倉駅に到着した。
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常楽湯
・・・で大船駅まで電車で戻り、銭湯好きの小生は大船駅で下車して大船の常楽湯に入って徒歩で流した汗を流してサッパリしてから帰宅した。
小さいけれど実は約100年の歴史が有る銭湯だったりする。
中のトイレは未だに大正~昭和初期のボットン便所!
常楽湯は最初に訪問した時に御店主の方に許可を頂いて中の写真も撮影させて頂いてるので改めて別記事にしたいと思う。
この日のDoor to Doorの歩行距離は16km、22000歩と山歩きと比較すると歩数も距離も少ないが、砂浜10km位を歩いた疲労感は山道の20kmと同じ位だった(笑)。
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江ノ島~鎌倉散歩 久良岐のよし
江ノ島~由比ヶ浜~鎌倉駅、良い散歩コースだったので、皆さんも天気の良い日、夏に成る前に少しお出かけして見ては如何だろう?

海の砂浜侵食にはいろいろと考えさせられる1日だったが、まぁHカップルに遭遇したりハプニングも有ったが、全体的には海風が気持ち良く、良い写真も撮れて充実した1日だった。







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自分の好きな富士山の絶景地いくつか並べて見るので、お出かけする時の参考にしてみてね。
インスタ映え間違いなし!

※住所をクリックするとGoogle Map にリンクして位置確認出来ます。

岩殿山城址からの富士山
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富士山が手前の山並みの間からひょっこり菱形に見える面白い位置関係の景勝地。
武田家の与力小大名、小山田氏の居城の山城。標高634mでスカイツリーと同じ高さの岩山なのに水が湧いているので御城が作れた。
同地は天台宗系修験道の聖地修練の場としても古来人が往来した。

御坂城址からの富士山
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富士三十六景甲斐御坂越え
歌川広重も富士三十六景❝甲斐御坂越え❞として書いた富士山と河口湖が見渡せる標高1600mの絶景地。
同地は古来より鎌倉往還として機能していた。こんな場所を昔の人は草鞋で登っていたのかと思うと口をアングリあけて呆けてしまう。ここを超えないと駿河国と甲斐国を往来出来ないので戦国時代に北条家が山城を築いた交通の要所だが、山登り素人にはかなり玉ヒュンな山道。

山中城址岱崎出丸からの富士山
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室町時代~江戸時代の東海道が真下を通る戦国時代北条家の防衛拠点の名城。
ここからの富士山の眺望はとても良い。
豊臣秀吉が小田原攻めを敢行した際に小田原防衛ラインの最前線として北条家重臣北条氏勝公が3000人で守備したが敵前逃亡、副将の間宮康俊公と城主松田康長公が僅か300人で籠城し豊臣軍8万を迎撃して豊臣軍に3000人の損害を与えて玉砕した堅城。守備の要だけあり駿河国と伊豆国を見渡す眺望は良い。

大観山展望台からの富士山
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富士山と芦ノ湖を望む絶景。ドライブインも併設されており、デートコースや家族で熱海や湯河原から抜けて箱根に行く時に富士山を見るのに最適の場所。もし大涌谷が渋滞して行けない時は、ここから富士山を見ると良いと思う。

曽我梅林からの富士山
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関東最大の3万数千本の梅林。小田原の名物が梅干しなので、観賞用でもあり農家の農産品としても植林されている。元は江戸時代に最高級の梅として流通した杉田梅の産地だった横浜市磯子区杉田の杉田梅林が伐採される際に、杉田梅を大量に移植して梅の栽培が拡大し、後に品種改良によって曽我十郎梅等が開発され小田原の特産品に成った。
夕焼けと梅花に飾られた富士山はとても美しい。

稲村ヶ崎~七里ヶ浜からの富士山
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富士三十六景
歌川広重が富士山十六景に描いた相州七里浜の風景がそのまま残る絶景地。
稲村ヶ崎からの眺望は特に良く夕陽と富士山と江ノ島と七里ヶ浜とオレンジに夕焼けする相模湾を眺められる。又、公共駐車場の横にあるMAINと言うオシャレなレストランも有り、電車で行けば、ゆっくり日没直後の夕焼けの海を見ながら食事と御酒も楽しめる。

由比ヶ浜(材木座~小坪)からの富士山
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夕焼けの富士山をバックに江ノ島と稲村ヶ崎の街灯りを見る事が出来る絶景地。
同地の背後にある光明寺~正覚寺~海前寺の裏山は平安時代末期~戦国時代の大名、三浦家の拠点の住吉城址だった。戦国時代には北条早雲が籠城した城としても有名。
台風の翌日の海の荒れた日に行くと迫力の有る富士山と海の写真が撮れる。

真名瀬海岸からの富士山
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相模湾に浮かぶ鳥居と裕次郎灯台と夕焼けの富士山を一望出来る景勝地。
昭和の大スター石原裕次郎が愛した海で、葉山港も近いので海辺や仙元山のハイキングと合わせて訪れると充実した休日を過ごせる。家族でもデートでも夕方に来て鳥居と夕焼けの富士山を見ながら砂遊びをしてユックリとした時間を過ごすのも良いかも知れない。

仙元山からの富士山
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葉山と言えば海の街だが、このハイキングコースからの眺望も絶景。
高い位置から見る夕陽の光が相模湾に差し込んで反射し、その傍らに富士山が望める。
葉山港も近いので、ハイキングを楽しんでから葉山マリーナで食事をして帰るのも良い。

黒崎(農協みかんがり事務局前)からの富士山
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米軍が終戦後に空港建設を予定して整備された1.5km程の直線の農道に並ぶ電信柱の先に相模湾と富士山が見える絶景。
まるで映画のワンシーンの様な景色を見る事が出来る。三崎口駅から徒歩で来られるので、子連れやデートで三崎漁港で鮪料理を食べた後で散歩に来たら良い1日の〆に成る。

黒崎の鼻
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黒崎の先端、岬から相模湾と伊豆半島と富士山を見渡せる絶景。
ドラマや映画のロケにも度々利用されるのだが、最近は常識の無いキャンパーがテントを張って岬を占有して景観を損ねているので見かけた方々は砂浜にテントを張る様に是非注意して欲しい。
最近では❝ドクターX❞や❝せごどん❞でもロケ地に採用された。
海岸は戦時中に海軍が回天の出撃を想定した防衛拠点だった。

宮川公園付近農道からの富士山
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最近まで風車の有った宮川公園辺りの農道から見える富士山。
夏は西瓜畑、冬は大根畑、春はキャベツ畑に成る農地から見える富士山はとても美しい。
剱崎灯台の絶景やブランドの魚の松輪鯖や黄金鰺や三崎鮪を食べられる江奈ビレッジも車で直ぐ近く。
城ヶ島や油壷マリンパーク観光のついでに剱崎灯台方面に回り富士山を見るのも良いかも知れない。

円海山からの富士山
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横浜市最大最後の鎌倉まで続く大森林、横浜市最高峰の円海山と上郷緑地から見える富士山の絶景。
2020年4月に東急建設が麓の瀬上沢緑地の大森林の伐採と盛土による埋立で宅地と商業地開発を計画しており、もし横浜市が開発計画を承認してしまった場合、この森林の緑の先に富士山と夕陽が沈む景色と蛍の名所は永久に神奈川県から消え去る事に成る。
2020年02月末に業者による測量が実施されており、いよいよ富士山の名所である円海山の生態系と蛍の最後の群生地破壊が現実味を帯びて来た。


さて・・・
本格的に春に成ると気温が上がり富士山を綺麗に見える日は少なく成ります。
最近は皆さん、コロナウィルスのせいで人混みにも外出できない事でしょう。
どうでしょう?車を運転して人と余り接触しないで済む自然を楽しみに行って見ては?
・・・歴史オタク久良岐のよしからのストレス発散の提案でした!

次回は千葉県の玉前神社と鵜羽神社のシリーズ最終回を書きます!






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夏も海水浴シーズンを過ぎて、鎌倉の由比ヶ浜からは若者の姿も減って来ました・・・
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もう直ぐ秋ですね~。
海水浴やナンパ待ちナンパする側の若者達と微笑ましい家族達の姿もそろそろ減る由比ヶ浜ですが、その目の前の長谷地区寄りの道路を跨(また)いだ場所に御洒落(おしゃれ)なCaféが在(あ)るのを皆さんは御存知でしょうか?
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Daisy's Cafe
Daisy's Cafeと言う御店です。
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鎌倉の長谷駅から徒歩で10分位?目の前は由比ヶ浜の良い景色、海まで徒歩1分と観光客にも御薦めなのですが・・・
ここは小さな御店で、我々地元の人間が楽しむ御店なんです、どちらかと言うと(笑)。
もう本当に御店の前の道を渡れば由比ヶ浜で、沢山の漁船の間を抜けると砂浜に辿(たど)り着きます。
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小生は人の多い、普段は泳ぎもしないのにナンパやシーズンだからと言って来る御客さん達に混じるのが❝苦手❞でして、どうしてもユックリ出来る季節に独(ひと)りで、或いは彼女がいる時期は彼女と一緒に海に行きたくなるんです。小生にとっては海は癒しの場で、静かに散歩して風景を見て潮風に当たり潮(しお)さいを聞いて過(す)ごしたい場所なんですね。
だから食事した後に直ぐに海を散歩出来るDaisy's Cafeが好きなんです。
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店内はアメリカンでクラシックなイメージの内装です。小生アメリカに行った事が無いから(爆)!
でも、小生は日本庭園も好きだし古民家も落ち着くから好きなのですが、横浜の大桟橋のJack cafeとかCJ Caféとか、横須賀のドブ板通りのサーフタコとかアメリカっぽい御店も心が何だか落ち着くので良く友人とも独りでも食事に行きます。
Caféに行っても御酒嫌いだから飲まない(笑)。
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Daisy's Cafe、良い感じの御店でしょ?
歴史小説家の神様みたいな司馬遼太郎先生も生前この辺りが好きで散歩して❝街道を行く❞ってシリーズの❝三浦半島記❞で直ぐ近くの極楽寺坂の切通しを通過してんだよ。
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御霊神社参道入口の❝力持家❞とか・・・
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・・・江ノ電が参道の鳥居の目の前を通過する御霊神社とかの事を書いてたりする。
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この鳥居の目の前を本当に電車が通過するんだよ。

御霊神社は以前、紹介記事を書いているので興味が有ったら読んで見てね!
コレ記事リンク⤵
鎌倉の御霊神社の神様鎌倉景政公は上杉謙信の祖先。
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そんな長谷の由比ヶ浜に面したDaisy's Cafeの窓際の席に座ると眼前に海、とても和む。
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小生はこの御店を長谷に住んでるサーファーの知人から「行って見て!御薦めだから!」「デイジーズライスが美味しいから食べて見て!」って言われて食べに来たのが初めての来訪の切っ掛けで、要するに口コミですよね。
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そしてコレがデイジーズライス。・・・混ぜた後でスイマセン(笑)。猫まんまみたいな写真だな。
名前はオーナーさんの名前からデイジーズと成っていますが、実際は所謂(いわゆる)❝ガパオライス❞みたいな物を想像して頂くと良いかと思います。
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小さいけれど海も近くて良い御店でしょう?皆さん、由比ヶ浜や長谷観音や御霊神社に御散歩に行って、もし食事する所に迷ったらDaisy's Cafeでドリンク飲みながらゆっくりするのも良いですよ~♪

さて・・・
小生のブログは腐っても❝歴史旅行❞のブログ、ここで少し由比ヶ浜の歴史を通じて❝自称❞霊能者って連中の大半が嘘吐きって事を暴露してみたいと思います。
皆さんは由比ヶ浜や材木座海岸のイメージってどんな印象ですか?
きっとこんな感じかな?
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弓なりに続く波の穏やかな砂浜・・・
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稲村ヶ崎と富士山の影を横にして水平線に沈む夕日・・・
凄く綺麗なイメージだったり、夫婦ならまだ彼女や彼氏だった頃に一緒に海水浴に来た思い出とか、付き合い始めのカップルも最初の夏の思い出♡(笑)とか明るいイメージが有りますよね?
実はね、そんな鎌倉の由比ヶ浜、夏は海水浴に来る若者で賑わう海として知られますが奈良~平安時代には❝公共墓地❞だったって知ってますか(笑)?
よく偽霊能者が霊能力有ると標榜(ひょうぼう=勝手に嘘ついたり)して不敬にも日本の発展に寄与して多くが神社に祀られて御祭神と成っている鎌倉幕府の先人達の御廟所を心霊スポットとして紹介したりしていますがハッキリ言ってデマなんですよね、彼等の能力。
もし彼等が本当に何か見えるなら最大の心霊スポットは江戸の大火で3万人、関東大震災では10万人以上、大戦中の大空襲でも10万人が死んでる東京都23区全域(笑)が最強の心霊スポットな筈なんです(笑)。
だからね・・・
「心霊何て誰にも見えてない」
・・・ってのが霊夢を見たり轢き逃げに何回か遭っても死んでない小生の歴史事実も根拠にした持論なんです。まぁ、偽霊能者の中にはカウンセラーとして優秀な人もいるのかも知れないけど❝嘘❞で金もうけをしている時点で小生は敵視します。カルト宗教と変わらない、人を騙して金を巻き上げている悪。
仮にさ・・・
本当に心霊ってのがいたとするわな?そもそも人間は2人の原種が交尾して繁殖して増えたのに、何で魂がソンナに大量に増殖するのかね?だから生まれ変わりも小生は信じていないと言うか、もし生まれ変わりが有るならば今迄の人生で大恩有る親友や恩師や恩人や支えてくれた昔の彼女(笑)とか恩人達が皆亡くなる迄は守護霊として此の世に留まって❝悪い者❞を打(ぶ)ん殴り守ってあげたいのね。
勿論、今、彼女がいたら生きたまま彼女の守護生霊(笑)なんて物に成るかも知れない(爆)!
・・・つまりさ、もし小生が皆の守護霊に成っちゃうと、皆が彼女や彼氏や旦那さんや奥さんと❝子作り❞してる所とか見ちゃうわけじゃない(笑)?
そんなん守護霊化した小生からしたら「オェ~(ToT)」って成るわ(笑)!
て事はだよ?その自称霊能者達はHしてる時に大勢の空襲で死んだ人とか自分の御爺ちゃんとか御婆ちゃんとかに囲まれながら❝〇ン〇ン堅く成ってる❞のかね(笑)?
「無いわ~(笑)!絶対イヤ!」
・・・ってのが戦争や天災や墓地の歴史を知っている小生の意見だったりするんだよね。
出来たら神様にも仏様にも守護霊様にも小生はコレから先、又彼女が出来て結婚して子作りする時に見ていて欲しくない(笑)。でも守ってもらってるから我慢しないといけないのか(笑)?

だからね~、皆も古代の公共墓地だった由比ヶ浜とか、和田合戦で激戦地だった材木座海岸とか散歩しても❝癒される❞でしょ?
それが正しい感覚なの。
詐欺師に先入観を与えられる前の。
だってね、例えば以前紹介した❝女性を守る縁切寺の北鎌倉の東慶寺❞を舞台にした大泉洋さんと戸田恵梨香さん主演の❝駆け込み女と駆け出し男❞って映画が有るんだけれど・・・
駆け込み女と駆け出し男
この映画の序盤で戸田恵梨香サンがDV夫の武田真治サンから東慶寺に逃げて離婚するか、家に帰るか占いをする❝六地蔵❞って場所が有るんだけれど・・・
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これね、昔はもっと由比ヶ浜寄りに在って、それが墓地の入口だったんだよ。
東慶寺については以前、映画と一緒に紹介する記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
コレ記事リンク⤵
女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆け込み女と駆け出し男」
・・・あとね、小生ね、金縛りに遭って茶運び人形や般若の面が自分の部屋を歩いたり浮遊してるのを見た事が有るのだけど、アレも自分で解明したんだよね。
アレね、身体と脳は寝てるのに意識だけ起きてて夢と現実が重なり合ってる状態なんだよね。そして疲れてる時に良く成る。
最初に茶運び人形を見た時に前身金縛りに遭って、身体動かなくて、その時に「次が有ったら絶対に捕まえれるか確かめてやる( ̄~ ̄)/」とか決めて本当に次が有ったんだよね・・・
それが般若の面だった。
般若の面の時もやっぱり金縛りに遭ってね、でも前回の経験から「指先から少しづつ動かして動ける様に成ったら一気に掴(つか)んでやる!」って決めてて、指先から慣らして行ったら本当に手が直ぐに全部動く様に成って「ブン!」って一気に目の前の般若のを掴もうとしたけど、不思議な事に手が届かないんだよね。
・・・それで確信したのさ、「あ~、これって今、意識だけ起きて目に見える風景と脳内の無意識の夢が一緒に見えちゃってんだな~」って。
どうも疲れ過ぎてるとそうなり易いみたいだね。あとね、両方とも蛍光塗料の緑色みたいな色に見えたんだよね、それも科学的に調べたら目の網膜とかなんかや、当時の家のガラスに透過した外の光とか科学的に説明が着(つ)くのかも知れないけれど、生憎(あいにく)と小生は科学的な知識も脳科学的な知識も皆無なので解らない。
でもね!
小生達の様な歴史オタクや司馬遼太郎先生の様な歴史小説家や歴史博物館の学芸員サンや鎌倉の神社仏閣の和尚様や宮司様達は皆、由比ヶ浜が墓地だったり戦場だった歴史を知っているから我々歴史の証人達からすると❝自称霊能者(笑)❞達の言ってる事が「妄言だと断言出来る」訳です。
だって司馬遼太郎先生も書いてるし、小生達の様に鎌倉が好きで子供の頃から良く行ってる人や地元民は知ってるけれど、昔は鎌倉市内の小学校や中学校の校庭の砂には良く人骨が砕けてキラキラ光るのが混じってたんだよね(笑)。
だからさ、本当に自称霊能者が何か見えるなら「由比ヶ浜に行くな!」って言うでしょ?しかも彼等はだいたいが勝手に僧侶や神職の装いをしていますが、根本的にちゃんと仏教大学や國學院大學で勉強もした事も無ければちゃんとした宗派の道場で修行すらした事の無い「詐欺師」同然の輩だし、まして日本最高の謂(い)わば古来は大王から天皇に成った実際は❝教皇❞の様な霊力に優れた天皇家の皇族にも出来ない神通力を、只の金髪豚男やガリガリ細目ババアが天皇家を凌駕する霊能力なんて持ってる訳が無いでしょう(笑)?
古来、宮司や天台宗の座主や真言宗の高僧や日蓮宗の僧侶等は密教的な学問も良く学ぶ宗派だったので、所謂(いわゆる)退魔や地鎮の法力や神様の力をお借りする神通力と言うのは目に見えなくても有るのかも知れませんが、まぁ、小生は「真っ当に生きる事」を教えてくれる場所や「精神的な支柱」に成る場所が神仏を祀る人々の守る神社仏閣で御奉仕される神官僧侶の役割なんだろうと思っています。
だから大学の先生に会いに行く様に和尚様や宮司様を尊敬するんですがね~♪

まぁ、そんな訳で偽霊能者が公共墓地だった歴史を知らなかったり、海の家を出店する❝ヤクザが怖いから(笑)❞由比ヶ浜を❝心霊スポット❞って言わないってのは歴史好きなら誰でも知ってるんですよ(笑)。
しかも神道や仏教の日本古来の考え方では、自分の信念に基づいて戦って亡くなった武士の魂は❝英霊❞であって、その人達を尊敬していれば❝守護❞して下さる側に成ってくれる心強い存在なんだよね。
だからね、小生は偽霊能者とカルト宗教が心から許せないの、偉大な先人達を愚弄する連中だからね。

小生は色んな人が眠る静かな季節の美しい由比ヶ浜の長い湾曲した砂浜がとっても好きです。
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これから秋に成ったら海の家も無く成って、又、静かに散歩出来る美しい由比ヶ浜~材木座海岸に戻ります。若いカップルや若夫婦の皆さん、デートで静かな浜辺を散歩してから司馬遼太郎先生が愛した長谷地区の、サーファーや地元民の憩いの場のDaisy's Cafeで一服お茶して行きませんか?

では、又、次の解説記事で!
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鎌倉の権五郎御霊神社の新任宮司様への挨拶と、間宮家顕彰文内での御霊神社の紹介文の執筆許可を頂いて来た帰り道。
雲一つ無い快晴、夕陽が綺麗なので「チャンス」と思い鎌倉材木座海岸の住吉城址に夕焼けに浮かぶ富士山と江ノ島の写真を又、撮影に来た。
・・・由比ヶ浜の夕日の写真の中でここ数年間の最高の1枚を撮影出来た。
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海岸に遊ぶ地元女子高生が写真を撮影していたので二人のカメラで写してあげた所、小生の写真のモデルにも成ってくれたので、女の子二人の後姿を前に由比ヶ浜の海と夕陽と富士山を撮影させて貰った。

二人の仲の良さが伝わるかな?
鎌倉の魅力、伝わるかな?
皆に伝わると良いな~♪
実は、この風景の直ぐ近く、住吉城址の在る浄土宗大本山の天照山光明寺の守護神の天照大神を祀る天照山から見た由比ヶ浜の景色は神奈川の景勝50選に選ばれている。
二人の写ってない風景も・・・CIMG2395
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ここ2ヶ月間、鎌倉市中央図書館に毎週文献読みに来る度に、富士山と江ノ島と由比ヶ浜の海と夕陽の1枚に収まる写真を撮り続け、この場所を知ってから約3年、会心の1枚と成った。
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名前聞くの忘れたけど、モデルに成ってくれた元気な二人、ありがとうね!
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ブログネタ
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鎌倉に海光山 慈照院 長谷寺と言う、それはそれ素敵な紫陽花(あじさい)が寺域を取り囲む御寺が有ります。
この長谷寺、実は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つで縁起の良い御寺でも有ります。
この可愛らしい七福神様の書かれた専用色紙に御朱印を頂いて回るんです。
ですから紫陽花見物を切っ掛けに御朱印巡りを始める方も少なくない様(よう)です。
因みに御近所には同じ七福神巡りの一つで参道を江ノ電が通り抜ける鎌倉御霊神社さんもあり、由比ヶ浜まで散歩する良いコースでもあります。

長谷寺の紫陽花の見事さは西の三室戸寺、東の長谷寺と言ってもオーバーでは無いと思います。
個々の紫陽花もとても可愛いらしく…
絨毯の様に壁面に咲き誇る色んな紫陽花が見られますよ〜!
珍しいですよね?
恥ずかしながら小生、七福神の御朱印で昨年参詣するまで、こんな種類の紫陽花を観た事が有りませんでした!
この種類は開花前ですが可愛いと言うより何だか凛々しい印象ですかね〜?
紫陽花って女性的な種類や男性的な種類やら両方有り、何だかフェミニストな美男子や男装女子みたいな印象を個人的に受けます。

今の季節を感じるデートや鎌倉観光には持ってこい!…な御寺ですね。
参道にはお土産物屋さんも有りますし、由比ヶ浜まで歩いて行けます。
そして、長谷寺は展望デッキからの眺望も良いですよ〜♪
そりゃそうですよね?
この長谷寺周辺は良くドラマや映画のロケ地に成ってる位ですから。
この長谷寺の御近所には大仏様も鎮座しているので、江ノ電に乗るコースの鎌倉観光には本当にBestです。
江ノ電鎌倉高校前駅は風景の綺麗な駅100選で1位に成った眺望の駅であり、目の前の七里ガ浜から見る江ノ島と富士山がとても綺麗なので、江ノ電観光コースは「間違いない」鎌倉観光に成ります。
そして、鎌倉高校前駅の近くの踏み切りがアニメ「スラムダンク」のオープニングでロケハンされた場所で、台湾や東南アジアからの観光客が沢山来る名所にも成っています。

長谷寺に話を戻すと…
開基は貴族で藤原北家の藤原前房とされていて、藤原家の主流を築いた人物です。
皆さん、週末は鎌倉に紫陽花見物なんて如何(いかが)でしょうか〜?

では、又、次のブログ記事で〜!
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