大崎公園と小坪の神社からの眺望
逗子マリーナと小坪漁港越しの富士山の佳景。
【大崎公園】
——葉山港と鐙摺城~森戸神社の遠景——
―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
不便なのは本当に大正~昭和の漁村の家並みが丘一帯に広がっているからで、細い細い坂道の路地が寧ろ良い味を出しています。
黄昏時~宵の頃のマジックアワーに成ると、富士山のシルエットに目の前のリビエラ逗子マリーナと小坪漁港の街灯(まちあか)りが非常に生えて美しい。
付近一帯は丘に上がればオシャレな富士山の景色を見る事が出来る日本家屋のカフェも有るし、リビエラ逗子マリーナ一帯には海鮮料理を提供する飲食店も複数有ります。
もしデートで彼氏彼女と逗子マリーナに休日の昼下がり食事に来たなら大崎公園や地図に名も乗らない郷土史の学芸員にすら名の知れなくなってしまった漁村の丘の中腹の小さな神社から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いかも知れないですね。
以前紹介したリビエラ逗子マリーナ⤴や小坪漁港からの富士山の景色も美しいけれどバリバリの観光地で人がいなく成る事は無いので若い御二人でムフフな甘い時間を過ごすにはあんまり向かないかも知れませんが思いで作りとしては間違いないので、大崎公園から直ぐ近くですし両方合わせて訪問しても良いかもしれません。
大崎公園は披露山公園やリビエラ逗子マリーナからの景色と比べても中々だと思いますしチュー( ˘ ³˘)♥(´꒳` *)してても人とすれ違う確率は低く(笑)良い面も有りますが、如何(いかん)せん人が少なくどちらの雰囲気が良いかはエスコートするアナタ次第・・・だぁ~🫵(笑)!
下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
——小さな神社について——
この神社はブログに記事を書くに際して自分でも調べてみた結果、逗子市小坪の漁協や御寺や逗子市教育委員会の助力で文献に記載の無いこの神社は❝秋葉神社❞である事が判明しました。
この解説は書くと長く成ってしまい景色や郷土の簡単な紹介の範疇を超えてしまいますので別の記事に書いて以下にリンクを貼ります。
これ⤴御興味の有る方は御覧ください。
ちょっと調べたら平安末期の名将、鎌倉景正公の御子孫で源頼朝公に仕えた長江義景公の名前や小坪の領主だった小坂光頼公の名前も登場しました。
さて、今では参拝社も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗です。
是非、現役学生カップルや結婚前の様に結婚してからデートする仲良し御夫婦の方にも秋葉神社から富士山と夕陽を見て貰って良い思い出の一端に秋葉権現様の記憶も残して貰えたら神様も喜んで下さると思います。
さて、今回の小坪の郷土史紹介は小坪に関わったメジャーな方々を紹介したいと思います。
今では昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。
実はこれから鎌倉殿の13人にも登場する事に成る鎌倉幕府第二代将軍の源頼家公や三代将軍の源実朝公は非常に武士としての素養が高く、この小坪漁港の元々砂浜だった海岸で流鏑馬大会を開いたり武門の頭領らしい事も沢山してらっしゃったんですね~。
今では鶴岡八幡宮や三浦半島油壷の荒井浜や小田原市の曽我梅林で行われる流鏑馬ですが、当時の鶴岡八幡宮は境内に回廊が巡らされていたので、やったとしても現代程の大規模な流鏑馬は出来なかったでしょう。ですから、ちょこっと鎌倉市街から離れた当時の避暑地地感覚だったかも知れない小坪海岸で流鏑馬大会を挙行されたのかも知れませんね。
源頼家公は母方の親戚の北条家を警戒していた様で祖父や叔父のたむろする鎌倉よりも、父上の頼朝公も生前に良く来ていた小坪が好きで信頼のおける仲間達と小坪領主の小坂光頼公の屋敷を訪ね、天王浜の海に遊びに来ていた様です。
一方で北条家に育てられた二男で三代将軍の実朝公は小倉百人一首や勅撰和歌集にも名を連ねる貴族的な教養も高い人物としての印象が先行してしまった様で、余り歴史に関心の無い人には何故か石川啄木の様な文弱(ぶんじゃく=ナヨナヨして男らしくない文学オタク)な印象が有るみたいです。
石川啄木⤵
「ちょっ!き君ぃ~、風評被害だよ!」
・・・と啄木さんが言いたい以上に実は源実朝公が風評被害と言いたかったと思います。
実は母の実家の北条家が横暴を極めた時も北条家が無実の罪で処罰しようとした渋川サンを助けたり、畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が事実かどうかも解らない謀反の容疑がどっからか湧いてきて、有力御家人の小山朝政公の実弟の長沼宗政と言う武将によって殺害されたた事についても可也ハッキリとこんな事言ってるんですね。
「テメー等過去に無実の畠山重忠ブッ殺して冤罪生んでんじゃねーか😠🖕!」
「俺が畠山重慶は生かして裁判にかけろっつったら俺の言う事聞けっ😬👎!」
この人⤴実朝公の言ってる冤罪で殺されちゃった人。更に有罪か無罪かの聴取もしないで御子息の重慶公も長沼宗政に殺害されてしまった。
でも実朝公は畠山重忠公の時と同じパターンだった事から有力御家人だろうと容赦せず毅然とした態度で長沼を懲戒処分にして謹慎処分にしてるんですね。
実朝公の言う⤵過去の冤罪で畠山サンぶっ殺した共犯達。
源実朝公が激怒した、畠山重忠公の御子息の重慶公を殺害した長沼は明らかに北条家の命令で動いていて、本来は北条家の対立勢力の小山家の更に傍流(分家)でしかないのに北条側にずっと味方し続けて見返りに大変破格な厚遇を受け続けた事実が現在に伝わっています。
まぁ要するに、実朝公は兄の源頼家公や父の頼朝公は母方の親類や北条親派の御家人に殺されたと思っていただろうし、それでも上手くやってたし実母や叔父や祖父に対してガンとして意見する人物だったし、高い教養と活発な行動力を兼ね備えていた様です。
もうアホな家臣達が動物園の猿山の様に成ってワチャワチャ自分の事しか考えず権力闘争してるのに愛想尽かして遠洋航海船作り始めて「権力いらねぇ~し」「俺、中国に勉強に行く」とか言い出す人でしたしね。
この実朝公、実は旧鎌倉郡の中でも特に現在の逗子市域が好きだったみたいです。
逗子市には岩殿寺と神武寺と言う2つの由緒正しい名古刹が存在するのですが、これ等の御寺は昔は山道を歩く巡礼道で繋がっており、そこを源実朝公は鎌倉から山道を歩いて御参りに来ました。
もう数年前に御参りしているのに未だブログに書いていないので、その内紹介するとして場所だけ今回は掲載して置きます。
海雲山 護國院 岩殿寺
昔は修験者が歩いたこの道を伝って今でもハイキングする人を見かける事が出来ますが、江戸幕府による修験道の天台宗か真言宗への服属強制と明治政府の廃仏毀釈神仏分離令の2回の弾圧によって修験道が衰退したのでトレッキング中に白装束を来た山伏とすれ違う事は有りません。
以前も紹介した鷹鳥山や横須賀の田浦方面にも抜けれたし山伝いに三浦半島を縦断出来た古道が昔は繋がっていたんですね。
当時はこんな敷石の無かった赤土と砂岩と腐葉土の山道を歩いて実朝公は鎌倉の大蔵幕府~岩殿寺~神武寺を参詣されたんですね。
醫王山 来迎院 神武寺
これについたては又、別の記事で紹介しています。
源実朝公の御父上の源頼朝公は意外に山岳信仰の修験道を大切にしてアルピニストだったので、それに似て実朝公もハイキングが好きだったんですね。
鎌倉の大蔵幕府から岩殿寺と神武寺と御参りしたのは御爺ちゃんの義朝公の沼濱亭の跡地を訪ねてみたかったのかも知れませんね。
いずれにせよ結構ハイキングコースを歩いて参詣したり、元来は活発な方だった様です。
実朝公グランパ⤴の義朝公。
こっちはパパ⤵頼朝公。
因(ちな)みにパパの頼朝公は凄くて当時の山岳登山装備が何にも無かった時代に神奈川県伊勢原市の大山頂上の石山権現まで登って行って御参りしたり、後の富士山信仰でも行われた富士山の頂上まで登って火口を1周する荒行も達成されていたりします。
大泉洋⤴のせいで色ボケ軟弱なサイコ経営者的な描写に鎌倉殿の13人では成っていますが、実際は教養が有っただけじゃなく、頼朝公~実朝公親子は健康的で活発だった様ですね。
源実朝公が軟弱だったり病弱だったりするイメージを惹起(じゃっき:印象を植え付ける連想させる)事が吾妻鏡に書いてあるのは北条家の専横と政権簒奪(さんだつ:乗っ取り)を正当化する為のプロパガンダである事が、複数の郷土史で異なる伝承が伝わる事から状況証拠として解ったりする訳です。
こんな風に逗子市は源義朝公が住んでいた事も有ったり、源頼朝公が披露山で宴会を開いたり、源頼家公が大崎公園の下の小坪漁港で流鏑馬をしたりと、源実朝公が岩殿寺や神武寺をトレッキングで御参りされたりと源家の歴代棟梁はこの土地の景観を非常に愛していた様です。
逗子マリーナと小坪漁港越しの富士山の佳景。
【大崎公園】
【秋葉神社】
——葉山港と鐙摺城~森戸神社の遠景——
―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
不便なのは本当に大正~昭和の漁村の家並みが丘一帯に広がっているからで、細い細い坂道の路地が寧ろ良い味を出しています。
黄昏時~宵の頃のマジックアワーに成ると、富士山のシルエットに目の前のリビエラ逗子マリーナと小坪漁港の街灯(まちあか)りが非常に生えて美しい。
付近一帯は丘に上がればオシャレな富士山の景色を見る事が出来る日本家屋のカフェも有るし、リビエラ逗子マリーナ一帯には海鮮料理を提供する飲食店も複数有ります。
もしデートで彼氏彼女と逗子マリーナに休日の昼下がり食事に来たなら大崎公園や地図に名も乗らない郷土史の学芸員にすら名の知れなくなってしまった漁村の丘の中腹の小さな神社から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いかも知れないですね。
以前紹介したリビエラ逗子マリーナ⤴や小坪漁港からの富士山の景色も美しいけれどバリバリの観光地で人がいなく成る事は無いので若い御二人でムフフな甘い時間を過ごすにはあんまり向かないかも知れませんが思いで作りとしては間違いないので、大崎公園から直ぐ近くですし両方合わせて訪問しても良いかもしれません。
大崎公園は披露山公園やリビエラ逗子マリーナからの景色と比べても中々だと思いますしチュー( ˘ ³˘)♥(´꒳` *)してても人とすれ違う確率は低く(笑)良い面も有りますが、如何(いかん)せん人が少なくどちらの雰囲気が良いかはエスコートするアナタ次第・・・だぁ~🫵(笑)!
下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
——小さな神社について——
この神社はブログに記事を書くに際して自分でも調べてみた結果、逗子市小坪の漁協や御寺や逗子市教育委員会の助力で文献に記載の無いこの神社は❝秋葉神社❞である事が判明しました。
この解説は書くと長く成ってしまい景色や郷土の簡単な紹介の範疇を超えてしまいますので別の記事に書いて以下にリンクを貼ります。
これ⤴御興味の有る方は御覧ください。
ちょっと調べたら平安末期の名将、鎌倉景正公の御子孫で源頼朝公に仕えた長江義景公の名前や小坪の領主だった小坂光頼公の名前も登場しました。
さて、今では参拝社も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗です。
是非、現役学生カップルや結婚前の様に結婚してからデートする仲良し御夫婦の方にも秋葉神社から富士山と夕陽を見て貰って良い思い出の一端に秋葉権現様の記憶も残して貰えたら神様も喜んで下さると思います。
さて、今回の小坪の郷土史紹介は小坪に関わったメジャーな方々を紹介したいと思います。
今では昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。
実はこれから鎌倉殿の13人にも登場する事に成る鎌倉幕府第二代将軍の源頼家公や三代将軍の源実朝公は非常に武士としての素養が高く、この小坪漁港の元々砂浜だった海岸で流鏑馬大会を開いたり武門の頭領らしい事も沢山してらっしゃったんですね~。
今では鶴岡八幡宮や三浦半島油壷の荒井浜や小田原市の曽我梅林で行われる流鏑馬ですが、当時の鶴岡八幡宮は境内に回廊が巡らされていたので、やったとしても現代程の大規模な流鏑馬は出来なかったでしょう。ですから、ちょこっと鎌倉市街から離れた当時の避暑地地感覚だったかも知れない小坪海岸で流鏑馬大会を挙行されたのかも知れませんね。
源頼家公は母方の親戚の北条家を警戒していた様で祖父や叔父のたむろする鎌倉よりも、父上の頼朝公も生前に良く来ていた小坪が好きで信頼のおける仲間達と小坪領主の小坂光頼公の屋敷を訪ね、天王浜の海に遊びに来ていた様です。
一方で北条家に育てられた二男で三代将軍の実朝公は小倉百人一首や勅撰和歌集にも名を連ねる貴族的な教養も高い人物としての印象が先行してしまった様で、余り歴史に関心の無い人には何故か石川啄木の様な文弱(ぶんじゃく=ナヨナヨして男らしくない文学オタク)な印象が有るみたいです。
石川啄木⤵
「ちょっ!き君ぃ~、風評被害だよ!」
・・・と啄木さんが言いたい以上に実は源実朝公が風評被害と言いたかったと思います。
実は母の実家の北条家が横暴を極めた時も北条家が無実の罪で処罰しようとした渋川サンを助けたり、畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が事実かどうかも解らない謀反の容疑がどっからか湧いてきて、有力御家人の小山朝政公の実弟の長沼宗政と言う武将によって殺害されたた事についても可也ハッキリとこんな事言ってるんですね。
「テメー等過去に無実の畠山重忠ブッ殺して冤罪生んでんじゃねーか😠🖕!」
「俺が畠山重慶は生かして裁判にかけろっつったら俺の言う事聞けっ😬👎!」
この人⤴実朝公の言ってる冤罪で殺されちゃった人。更に有罪か無罪かの聴取もしないで御子息の重慶公も長沼宗政に殺害されてしまった。
でも実朝公は畠山重忠公の時と同じパターンだった事から有力御家人だろうと容赦せず毅然とした態度で長沼を懲戒処分にして謹慎処分にしてるんですね。
実朝公の言う⤵過去の冤罪で畠山サンぶっ殺した共犯達。
源実朝公が激怒した、畠山重忠公の御子息の重慶公を殺害した長沼は明らかに北条家の命令で動いていて、本来は北条家の対立勢力の小山家の更に傍流(分家)でしかないのに北条側にずっと味方し続けて見返りに大変破格な厚遇を受け続けた事実が現在に伝わっています。
まぁ要するに、実朝公は兄の源頼家公や父の頼朝公は母方の親類や北条親派の御家人に殺されたと思っていただろうし、それでも上手くやってたし実母や叔父や祖父に対してガンとして意見する人物だったし、高い教養と活発な行動力を兼ね備えていた様です。
もうアホな家臣達が動物園の猿山の様に成ってワチャワチャ自分の事しか考えず権力闘争してるのに愛想尽かして遠洋航海船作り始めて「権力いらねぇ~し」「俺、中国に勉強に行く」とか言い出す人でしたしね。
この実朝公、実は旧鎌倉郡の中でも特に現在の逗子市域が好きだったみたいです。
逗子市には岩殿寺と神武寺と言う2つの由緒正しい名古刹が存在するのですが、これ等の御寺は昔は山道を歩く巡礼道で繋がっており、そこを源実朝公は鎌倉から山道を歩いて御参りに来ました。
もう数年前に御参りしているのに未だブログに書いていないので、その内紹介するとして場所だけ今回は掲載して置きます。
海雲山 護國院 岩殿寺
岩殿寺は文字通り当時は山の山腹~山頂にかけて建てられた御寺で鎌倉からずっと尾根の古道伝いに歩く修験道の巡礼道でもありました。
昔は修験者が歩いたこの道を伝って今でもハイキングする人を見かける事が出来ますが、江戸幕府による修験道の天台宗か真言宗への服属強制と明治政府の廃仏毀釈神仏分離令の2回の弾圧によって修験道が衰退したのでトレッキング中に白装束を来た山伏とすれ違う事は有りません。
以前も紹介した鷹鳥山や横須賀の田浦方面にも抜けれたし山伝いに三浦半島を縦断出来た古道が昔は繋がっていたんですね。
当時はこんな敷石の無かった赤土と砂岩と腐葉土の山道を歩いて実朝公は鎌倉の大蔵幕府~岩殿寺~神武寺を参詣されたんですね。
醫王山 来迎院 神武寺
この神武寺の参道を南側に下りきった谷が武道谷(ぶどうがやつ)と呼ばれた場所で源義朝公の沼濱亭が有った様で、神武寺~降りて来る武道谷と反対の法勝寺を含めた山稜一帯が沼濱城と呼ばれ所々削平される等して詰城として機能していた様です。
これについたては又、別の記事で紹介しています。
源実朝公の御父上の源頼朝公は意外に山岳信仰の修験道を大切にしてアルピニストだったので、それに似て実朝公もハイキングが好きだったんですね。
鎌倉の大蔵幕府から岩殿寺と神武寺と御参りしたのは御爺ちゃんの義朝公の沼濱亭の跡地を訪ねてみたかったのかも知れませんね。
いずれにせよ結構ハイキングコースを歩いて参詣したり、元来は活発な方だった様です。
実朝公グランパ⤴の義朝公。
こっちはパパ⤵頼朝公。
因(ちな)みにパパの頼朝公は凄くて当時の山岳登山装備が何にも無かった時代に神奈川県伊勢原市の大山頂上の石山権現まで登って行って御参りしたり、後の富士山信仰でも行われた富士山の頂上まで登って火口を1周する荒行も達成されていたりします。
大泉洋⤴のせいで色ボケ軟弱なサイコ経営者的な描写に鎌倉殿の13人では成っていますが、実際は教養が有っただけじゃなく、頼朝公~実朝公親子は健康的で活発だった様ですね。
源実朝公が軟弱だったり病弱だったりするイメージを惹起(じゃっき:印象を植え付ける連想させる)事が吾妻鏡に書いてあるのは北条家の専横と政権簒奪(さんだつ:乗っ取り)を正当化する為のプロパガンダである事が、複数の郷土史で異なる伝承が伝わる事から状況証拠として解ったりする訳です。
こんな風に逗子市は源義朝公が住んでいた事も有ったり、源頼朝公が披露山で宴会を開いたり、源頼家公が大崎公園の下の小坪漁港で流鏑馬をしたりと、源実朝公が岩殿寺や神武寺をトレッキングで御参りされたりと源家の歴代棟梁はこの土地の景観を非常に愛していた様です。