歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:目黒区

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梅花开了。
快要2月份了,新春到来了。
照片是今天在东京都目黑区圆融寺拍了的照片。
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那里是日本战国时代的名将,北条纲高常来了的寺庙。很能受神佛的保佑,会达成愿望的寺庙。
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我今天参拜了圆融寺向釈迦如来,阿弥陀如来与日本的宇贺御魂神祈愿了想达成的私事与日中台港的友邦成功瘟疫收敛的事。
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梅花开了的今天在日本发生了国内感染者第15个人。
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我早就说过「在日本会有从二月份开始流行感染的情况」。
不过这次的肺炎根本没有那么像诶博啦那种一样厉害的,只是比较感染能力高的肺炎而已。还能控制的种类。
我认识的医生也说了不要害怕,只要做日本人平时做的卫生管理就行了。
只是武汉的前市长与有关部门负责人错了判断而已。
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还有日本一般人一直想支援湖北省的。就是现在在市场完全没有口罩,也没有发送邮件的方法而已。日本政府把医疗用品继续用包机航班寄给中国政府的。

中国的经济也一定会恢复的。
这次发生的事情有了像在初中学习理科实验的时候使用的利特茅斯试纸一样的效果了。对我们日本中国两个国家来说这次有了一个收获了吧。
我们互相明白了到底可以信赖的国家是哪里,会理解感恩的民族是哪个民族。
我们可以观察了平时我们日本与中国给支援的国家之内到底哪个国家是利己主义的只做拒绝所有中国人入境的,好能骂遇难的湖北人的国家国民是哪里人,民度很低的是哪里人。
我们通过正在发生的疫病,可以知道了吧?
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中国果然是可以和我们交友谊的友邦了。你们一直说感谢了。我们对你们的反应却要说感谢的。
日本人常做这样的事也一般没有这么又好又热情的反应。
除了湖北人以外,还有土耳其这个日本的兄弟还在保持和我们的友谊。还有台湾人也是对日本人很热情的。所以你们不要批评台湾兄弟了。他们这次只是不够生产能力的吧。

这次给日本表示感谢的友邦朋友们,我们希望以后也保持信赖,互相帮助。
以后也请多关照吧(笑)。
希望结束这次的问题后湖北朋友们多次来日本玩♪
哦,我老乡神奈川县有一个梅林之名胜,是在小田原市的曾我梅林。
曽我梅林 久良岐のよし撮影
那里不仅是有看得值得四万棵梅树梅林・・・
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从梅林还能看到富士山呢。
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・・・日本武士有了爱看梅花读古诗的文化了。还利用梅树的果子做了保存食量的干梅。
小田原城是今天参拜了的东京都目黑的圆融寺的支持人北条纲高的主公北条氏康统治了的古城。所以还在保持大规模梅林的文化。

我们就这么保持古代从中国过来的梅花与看梅花的文化呢。
今年好像中国朋友们来不及看曾我梅林了,明年来横滨,小田原梅林,箱根温泉玩吧!我们相信你们会控制疫病,恢复经济的。
在我们两个国家正在发生一样的感染病,分享困难,一起解决问题。
我们这里还有跟中国共有的日本武士的看梅花文化。
这真的是做了亲戚一样的状态了(笑)。

湖北的朋友们,一起加油吧!
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恋は雨上がりのように紹介した記事⤵️
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
今日は公開日です。
ロケ地は小生の地元の円海山周辺・・・
残念ながら栄区は有りませんでしたが旧鎌倉郡の栄区的には鎌倉市由比ガ浜もある意味地元(笑)。
ロケ地、判るだけでも以下の場所が有りました~。
鎌倉市由比ガ浜
横浜市金沢区能見台
横浜市金沢区冨岡
横浜市磯子区氷取沢
横浜市港南区港南台円海山
横浜市中区桜木町駅

この他に埼玉県とか千葉県我孫子市でもロケされてます~。
全部、横浜の殿様、間宮康俊公に縁がある土地の近く。


さて、旅行ブログか歴史解説ブログ、今夜書いて明後日位には更新します~。

因みに今日は休日の小生の1日行動報告・・・
午前中~
爆睡&某外国語学校

昼過ぎ~
目黒区の妹の夫の歯科医院で定期受診
昼食に目黒駅近くの宮崎県産直の農産品が食べれる宮崎県日南市じとっこ組合
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鳥の叩き
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馬刺
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目黒駅界隈散歩&誕生八幡宮と高福院参詣DSC_0781
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此方は享保の改革を行った水野忠邦公等の関わった神社、今では小さいけど歴史偉人と所縁有る凄い場所。
水野忠邦公、松平定信公の様に己の正義を貫く強さと、間宮林蔵公や杉田玄白公や河井継乃助公や高田屋嘉兵衛サンや近藤サン土方サン高杉サン西郷サン桂サンみたいに新しい事と古い事を共に活かし社会の為に立功する人間でありたいと願うので御詣り出来て嬉かった。
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隣には元は八幡宮の別当寺だった高福院さんが在った。ここは何と真言宗の聖地高野山の重要な塔頭だった寺院が江戸時代に移転されて来た大切な御寺で、明治以前は関東における高野山の窓口として機能したそうだ。



夕方~
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恋は雨上がりのように パンフレット購入し鑑賞!
夜~
今から帰宅して少しユックリしたらブログ書くよ!

さて、今日も残り時間僅かに成りましたが世界中の日本文化と自然を大切に思う皆さんにとっても小生にとっても善良な部類の法治主義者にとっても神様仏様歴史偉人皆様にとっても、今日も良い日で1日が☀️終わり明日も健やかな良き日でありますよに~🎵

では!又明日か明後日の記事で!
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ブログネタ
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東京駅の近く、今の皇居は戦国時代には江戸城と呼ばれた御城が在(あ)りました。
きっと余り歴史に興味の無い人は…
「江戸城を築城したのは徳川家康と諸大名だろ?」
「何で安土桃山時代〜江戸時代に築城された江戸城が戦国時代から有るんだよ?」
…な〜んて思うかも知れませんが、それは違いますよ。
徳川家康公や徳川秀忠公をはじめ、黒田長政公や加藤清正公達は江戸城を拡張した「改修者」です。
今では江戸城は天皇家の皇居に成っていますね。
江戸城
…元々江戸城は、太田道灌(どうかん)公と言う戦国時代初期の名軍師として名高い殿様が築城した御城です。
道灌公は相模国や武蔵国南部を支配した扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家裁(かさい=首相)でした。
その太田道灌公が築城した当時の江戸城の一部が今も皇居に残っていて、正に天皇陛下の宮殿の横に在る水堀が戦国時代から今に残る、その名も「道灌濠(どうかんぼり)」と呼ばれる遺構です。
それが下の衛星画像。
実は太田道灌公は智謀と人望が非常に高かったので、器の小さい主君の扇谷上杉定正に恐れられ、更に他の奸臣(かんしん=悪事を働く家臣)に妬(ねた)まれ、今の神奈川県伊勢原市に在った扇谷上杉家の初期の本拠地七沢城に赴いた際に、別荘の粕屋館で入浴中に暗殺されてしまいました。

そんな事もあり上杉定正は更に家臣からの人望を失います。
結果、北条家が南関東に進出してくると間宮家や上田家、足利一門で太田道灌公の盟友の吉良家の離反を誘発してしまい、後に太田道灌公の一族も悉(ことごと)く北条家の傘下に入り江戸城も北条家の持ち城に成りました。
※吉良家と太田道灌公に関係の有る記事は「ココ 」←クリック!
※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
織田信長公達が活躍した所謂(いわゆる)戦国時代に江戸城に詰めて城代を務めたのが、北条家で5本指に入る戦功と智謀を誇った北条綱高(つなたか)公でした。
その功績は立派で、北条家の主力部隊五色備えと呼ばれた5色の旗指物や軍装で色分けされた部隊の内、赤備え隊の大将を務められた名将でした。
最初の頃は今の鎌倉市大船駅近くの玉縄城の城代を務め、後に世に有名な河越合戦後、今の東京都府中市や調布市や立川市の辺りの重要拠点だった深大寺城(現在の深大寺は戦国時代御城だった)を守備しました。
その際、深大寺城に攻め寄せて来た扇谷上杉家の重臣、難波田(なんばだ)家の軍勢を迎撃し撤退に追い込み、更に追撃して完勝しています。
又、伊豆方面の守備を担当する事も多く、最後は江戸城に詰めて、江戸城で79歳と当時としては長寿に数えられる年齢で亡くなりました。
綱高公の軍学の師匠は、今の京浜急行神奈川駅一帯に在った青木城主の多目元忠公で、この元忠公は北条家の軍師格だった知将でした。
※多目元忠公と青木城の記事は「ココ 」←クリック!

綱高公は智謀だけでなく、その武勇も評価が高く、関東で最強の武将だった義兄弟の北条綱成公と並ぶ評価を受けた方でした。
綱高公は元々は実家が九州の名族高橋(たかばし)家の血筋で、実父の代に北条家二代当主の北条氏綱公に仕えて才覚を気に入られ氏綱公の婿養子に迎えられて姓を北条に改めた方でした。
KOEIさんのゲームだとこんな感じ…

ゲームの絵なのに地味でしょ?
実は実績も名前も有名なんですが何故か人気が無くて、安土桃山時代はおろか江戸時代の肖像画も小生は見た事も無いんですよ。有るのかな?

…小生、その不人気の原因は綱高公の菩提寺の江戸時代の対応に有ると考えています。
実は綱高公は御父君が元々幕臣だった関係か、当時の上方の室町幕府管領(三好家)の支配地域で信者の多かった日蓮宗を信心していました。
しかし日蓮宗が悪いのでは無く、その後の御寺の歴史の話なので先ずは我慢して読んでください。
綱高公の戒名(かいみょう=亡くなった時に貰う僧籍の名)も高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と現代に伝わっています。
だから、その菩提寺(ぼだいじ=墓所の在る寺院)は碑文谷法華寺とハッキリ伝わっています。
今の御寺の名前は「円融寺」に変わり、宗派も日蓮宗から天台宗に改宗しています。
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円融寺の山門から続く参道は、綱高公の人物を表す様に落ち着いた趣(おもむ)きが有ります…
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当時の日蓮宗には対応に二種類の御寺が有りました。
一つは、一般的な参拝客も相手にする派閥
もう一つは、不受不施と言う檀家以外の参拝客からのお布施(寄付金等)を受け取らない自分達に非常に厳しく真剣に修行のみを追求した主義の御寺でした。
実は 、その主義の為に困窮する寺院が多数あり、更に、その主義を幕府より「排他的」と見做(みな)されてしまい不受不施だった法華寺は改宗する事に成り、日蓮宗から天台宗に改め御寺の名も現在の円融寺に改められたそうです。
天台宗に改宗した理由は、元々、法華寺の前身は天台宗の御寺だったからです。
元は日源上人と言う日蓮宗の有名な和尚様が、日蓮宗の御寺として再興開基したので江戸時代まで日蓮宗だった訳です。
この御寺からは日蓮宗で特に有名な「日進上人」様も排出しています。
日進上人と言えば、神奈川県鎌倉市の妙隆寺出身の有名な和尚様で、妙隆寺は七福神の寿老人を御祀りする御寺です。
鎌倉江の島七福神御朱印の一ヵ所にも成っていますね。
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そんな御寺が「菩提寺だった」ので、北条綱高公は戒名が日蓮宗の和尚さん風な訳です。
何で「だった」と言う表現は読み進めて頂ければ解ります。

この円融寺、宗派は変わっても今でもその規模は立派で、内門には仁王門も控えています。
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立派ですよね?
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正に綱高公の菩提寺に相応しいのですが… 2015-05-02-11-21-03
残念な事に、参拝した際に現在の円融寺の御住職に綱高公の御廟所の所在を伺(うかが)った所…
「現在、この御寺に俗名が北条綱高と呼ばれた人物の御廟所は無い」
…と衝撃的な回答が返って来ました。

最初、この回答を頂いた時に「あ~観光客とか歴史好きの訪問はウザいのかな?」とか解釈しましたが…
帰って調べてみたら、日蓮宗から天台宗に改宗した際に「日進上人の法脈は完全に途絶えた」と記載が有りました。
つまり!
天台宗に改宗した際に御廟所も全て廃棄されてしまったか、どちらかに移転させられてしまい、その際に日蓮宗の高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と言う戒名だった綱高公の墓標も撤去された可能性が非常に高い訳です。

綱高公の御廟が不明に成れば、当然、江戸時代にも拝む人が来なくなり、やがて其の綱高公御自身もマイナーに成ってしまいますよね…

残念ですね…
宗旨が変わって偉大な人物の御墓を撤去や移転するとは。
当時の和尚さんが歴史に無知な方だったんでしょうかね?
他の宗派では、その様な事は余り聞いた事が無かったので少し「イラっ(怒)」としました。
関東の発展に寄与して下さった人物の御廟所を無下に扱うのは、小生の信条としては歴史遺産の破壊活動としか受け止められなかったので。

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でも日源上人の追善供養はなさっているんですよね~。
これはやはり、当時の住職が歴史に無知で御廟所を移転してしまうか撤去してしまったと考えるのが自然なんでしょうか…?

そんな訳で今では名将北条綱高公の御廟所はありませんが、円融寺の雰囲気は北条綱高公の御人格を今にも伝える様な雰囲気は感じる事が出来ました。

今日はここまで!
では、又、次の記事でお会いしましょう!



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