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タグ:石楯尾神社

石楯尾神社(延喜式内社・日本武尊の鉄壁無双の楯)
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  御祭神・御本尊等:
  石楯尾大神(いわたておおかみ)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・坂上石楯公・守良親王・他・・・
  御利益:厄避け・敵人懲服・戦勝祈願・学問上達・立身出世
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:崇神天皇
     応神天皇
     文徳天皇
     中衛将監  坂上 石楯 公
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 氏政 公
     神祇管領  卜部家(京都市吉田神社宮司家)
  旧郡名:高座郡
  所在地:相模原市緑区名倉の相模川沿いの丘の上
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)=石楯尾大神を御祀りしたのが石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)の始まり。天磐楯が地下に埋蔵され神社が成立したとされ中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。そこに応神天皇が東国へ行幸された際に行在所(あんざいしょ=仮御所)が建てられた場所が現在の神社の所在地と伝わる。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。早くに朝廷から官位を賜り国家鎮護の神社として大切にされて歴代天皇に古代~近代に及び崇敬された。源頼朝公からも大鳥居を七基寄進された古社だが、武田信玄が三増峠合戦前の小田原城攻撃で進軍して来た際に武田軍に因(よ)る略奪で戦火に遭い古代からの社宝は消失した。この合戦については武田信玄の重臣高坂昌信が主君の行為を「何も得る物も無く身内もボロボロに成った」と酷評する程に武田軍は苦戦したが、その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡した。
日本武尊の災難を度々守った天磐楯を御神体として始まった神社だけ有り、八方除けの一之宮寒川神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。又、社殿を破壊した武田家を滅亡させ一族絶滅させた御神威、武田家による社殿破壊以前に石楯尾神社を保護した北条家が豊臣秀吉に改易されても北条家の一族と家臣団を生存させ多くの北条家家臣団を徳川幕府奉行職や学者として大成させた御利益は群を抜いている。

北朝鮮問題の軍事的解決は「想像絶する悲劇」もたらす-米国防長官
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この人の事は本当に尊敬しています。
日本の物も含めアジアの六韜三略や曹操が編集した孫子等の戦略教本、平家物語や太平記なんかの戦史も凄まじい数を所持熟読してらっしゃるとか。

更には敬虔なプロテスタントで、明治以前の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗の僧侶の様な質素で清廉な生活をされ、浄土真宗以外の昔の仏教の様に不犯を守ってらっしゃるとか。
現代アメリカ人版の上杉謙信て所でしょうか?
上杉謙信

もっとも上杉謙信の場合は統治者としての所業は悪人でしたがね・・・
上杉謙信の場合は越後で飢饉が起きる度に掠奪目的で関東に来て、村々を焼き"女子供を拐(さら)って奴隷売買の公設市場を開いて年を越す"なんてトンデモ悪人の側面が有る。
彼が"義の人"と言われる由縁は政治的に権力が弱かった"剣豪将軍"足利義輝公に古今未曾有の忠義を尽くしたからで忠"義"の義なんだな実は。
・・・彼には正義は無かった訳だ。
頼って来た者が武田に侵略された領地に、"奪い返す"大義名分で攻め込んで支配下に組み込んでも実際には保護した者へ領地を返還せずに、代官として利用しただけだし。
そこへ行くと織田信長公は素晴らしい。
織田信長公

織田家が徳川家に度々援軍を送り更に遠江国の支配権を承認し恩賞に駿河を与えた事の寛大さが窺い知れるわな。
徳川家康公

裏切らず、兄貴分の織田信長公を信じて援軍を待ち続け、時には信長公の合戦に参戦した与党として誠実を貫いた本能寺の変以前の徳川家康公こそ正に「義」の人の称号は相応しい。
そこへ行くと徳川家康公の誠実さが良く解る不誠実で利己的な人物の代表は❝お艶の方❞だろう。
遠山家へ嫁いだ織田家の艶姫は酷い。女城主お艶の方として有名な人物だな。
おつやの方

遠山家臣団は織田家との関係を深める為に、艶姫を迎えて織田家と婚姻関係に成る訳だ。
城主は子が無く病弱(親武田派に毒を盛られていた可能性有り?)だったので、織田から見捨てられない為に❝織田信長公の実子の御坊丸を遠山家の養子に迎えた❞のだが・・・
織田包囲網が形成されて武田氏が織田領に侵攻して来るや、遠山景任公は戦傷が元で死ぬ。
果たして本当に戦傷が元なのだろうか?
この時期、織田家は岩村城救援の戦略で、明智光秀公や池田恒興公が東美濃で合戦に及んでいる。
しかし遠山家は情報過疎だったか武田領の信濃国木曽地方に隣接する所領を持つ親族衆達が鼻から武田派だったのか、当主倒れて後、秋山勢に屈し❝お艶の方と敵方の秋山信友の婚姻和議❞を画策して成立させてしまう訳だ。完全に保身の風見鶏。
織田が強ければ織田に靡き、織田が不利で武田が優勢なら武田に靡く。丸で某半島の国。
・・・決定的に酷いのは、お艶と秋山の縁談が纏まった際に❝信長公の実子の御坊丸を武田家に織田の人質として提供してしまう❞極悪非道な裏切り行為に出た訳である。
これで怒りに火が付いた織田信長公は、織田包囲網を打破する過程で裏切り者達の本拠地の岩村城を標的にする訳だ。そして殲滅戦を行い、風見鶏の様に信念も誠実さも無い遠山家の親族重鎮達を全て処刑し彼等に利用された艶を磔(はりつけ)にして獄門に処して裏切りの対価を払わせた訳だ。
岩村城に援軍を直接送らずとも戦略的に東美濃を奪還しようと奮闘した信長公と織田家臣団を利己的に裏切ったんだから当たり前だな。
この岩村城における織田信長公の戦略と事例と同じ事はマティス司令官もイラクで現地の酋長達に通達している。まぁ、現代人のマティス司令官の場合は軍事法廷に裏切者を引き出して裁判で処刑にするんだが。戦争中の基本的な事だな・・・
現代の軍隊なら世界各国どこも敵前逃亡と裏切りは軍事法廷で死刑は基本だ。
・・・但し裏切らず誠実に、そして勇敢に敵から領民を守った者は徳川家康公の様に評価され恩賞も貰えて信頼される訳だ。
この作戦を日本で早くから行った事で有名なのは坂上田村麻呂公だな。
坂上田村麻呂

蝦夷(えみし=アイヌ=縄文文化を続ける日本の民族)討伐でマティス司令官や織田信長公の戦略を先に行った人物。裏切ったり歯向かう敵は殲滅し、逆に縄文文化のアイヌ族でも友好的で協力的な豪族は朝廷に迎えて優遇し統治者として登用して行った訳だ。
因みに、この坂上田村麻呂公と同族と思われる古代の名将軍が神奈川県にも所領を持ち移住していた。
坂上石楯(さかのうえのいわだて)公だ。
藤原仲麻呂の乱で活躍して今の相模原市辺りを所領として賜り移住し、延喜式内社で相模原市の名倉に所在する石楯尾神社の近くに城館を構え、石楯尾(いわだておの)神社を支援した人物だ。
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上の写真は石楯尾神社は、そもそも日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、自らが装備していた草薙の剣と対に成る防具の天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の印として現在の石楯尾神社の辺りに埋蔵し、それが神格化された事に信仰が始まる。その化身として烏帽子岩も信仰対象に成っていたが近代、交通網整備の際に破壊されてしまった。

まぁ、そんな訳でマティス長官は日本の名将達と類似の戦略なんぞ頭の中に常識として入っている訳で、御本人も誠実で潔癖な様、そして実際に名将としても人格者としてもイラク現地で酋長達からも民百姓からも慕われた訳だ。
マティス司令官は法治主義者であらせられるので上杉謙信と違いモラルも高い紳士で、中東でも与力のイスラム文化の酋長達からも一目置かれた訳だな。これは凄い事だ。
或いは北朝鮮の軍人すら交流すれば彼を尊敬するかも知れない。
上杉謙信を引き合いにだしたので北陸の武将に例えるなら・・・
どちらかと言えば生活態度は上杉謙信、内面は直江景続、武勇は柿崎景家公、統治実績は柴田勝家公並の善政てとこか。
・・・ただ、色欲が無いので英雄では無く名軍師の範疇に留まる様だ。
欲の有る者のみが1番上に成りたがる。
まぁ、だから生涯陪臣を貫き通した小早川隆景公や黒田孝高公や直江兼続等は妻帯しても愛妻家で側室を持たなかったんだろうな。
「吾も斯く在りたい」とは思いつつ・・・
まぁ、小生は完全に名軍師じゃなくて短慮浅学でアホな猪武者人格なんだ。
だから、せめて社会の役に立つ事を1つで良いから行って死にたい、そしてそれは「小生がやった」と世に知られる必要も無い。
結果的に知っている人だけが知っていてくれて「あ~アイツだったのか」とか「アイツらしい」と死んだ時に友人達や歴代の彼女(笑)と恩師達や関わった宮司様達や和尚様達に心の中で褒めて貰えると嬉しい。
それで十分。

マティス司令官の様に生きてみたいなぁ~。
でも食欲の権化だし自分に甘から、憧れの域を出ないな~。
だから自分なりに小さくても社会の役に立つ事をしてから死のう。

2017年03月18日、前日で台湾の知人が台北の日本式おでん居酒屋の写真を掲載していたのを見て六角橋商店街のオデン屋“かずさや”さんを思い出し無性に食べたくなり、六角橋に行く用事を作り、横浜市南部鎌倉近くの自宅から神奈川区六角橋界隈散策に行って来た。
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この店で久しぶりの屋台風のオデンはとても美味しかった。
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オデン種5つとドリンクで650円と格安!
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久しぶりに来たので、玉子とハンペンを追加注文した。美味い!
神奈川大学が近在する事も有り、学生の町で夜には女子大生も地元の爺婆(ジジババァ)(笑)も集う愛すべき店なのだが・・・
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実は小生の昔の彼女が神大の生徒で六角橋の白楽駅近くに住んでいた事も有り、この店を知り別れてからも一人たまに食べに来ていた(笑)。
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 ・・・最近は女の子向けの雑誌にも載ったとかで、小生が店に入った時も若い女性客が友達同士二人仲良くオデンを食べに来ていた。
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六角橋商店街裏通りの仲見世は、この通り昭和情緒に溢れる。
丁度、京都の錦市場と同じ程の道幅、同じ様な造り。昔の脇道と言うのは概(おおむ)ね、この様な道幅だった。
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学生の街だけあって、色んな店が軒を連ねる。
大正~昭和風の職人さんが営む時計屋さん・・・
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そして数年前に流行した和名:焼き小籠包こと生煎包(しぇんじぇんばお)。
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三国志が好きで行った中国留学時代に好きで良く現地の店で食べていたので非常に懐かしい。
さて・・・
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・・・このオデンを食べに行くのに小生が作った用事と言うのは2年振りの"塩嘗め地蔵"様と"寳秀寺"さんの参拝と写真撮影だった。
六角橋商店街にオデンを食べに行く前に、そちららを先に訪問してきた。
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塩嘗め地蔵は昔から「イボ取り地蔵様」として地元の信仰対象として大切にされて来た。
塩を供え物にする変わった習慣が有る。
解説を読む限り、この御地蔵さんを守る人より小生の方が少々塩嘗め地蔵の歴史について詳しそうだ(笑)。
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日本武尊(やまとたけるのみこと)が信奉した須賀神社は何処も大凡(おおよそ)が素盞嗚命(すさのおのみこと)や五十猛(いそたける)を御祭神として御祀(まつ)りしている。
この父子の神々は疱瘡(ほうそう=イボ皮膚病)治癒の神として昔から崇拝されて来た。
横浜市に唯一現存する延喜式内社(延喜式神名帳に記録された古い神社)の杉山神社の御祭神も五十猛神である地縁は、塩嘗め地蔵と無関係では無いだろう。
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杉山神社の方は今では参拝客も減り、ひっそりとしているが氏子さん達によって立派に守られている。
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以前書いた杉山神社解説記事→ 
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塩嘗め地蔵前の道は戦国時代まで、その近くに存在した神大寺の参道だったそうだ。
神大寺は江戸時代の人が城址と間違える程に立派な規模を誇っていたそうだし、戦国時代に火災で焼失している事から戦火に巻き込まれているのだろう。つまり、要塞としても転用出来る程の大寺院乃至神宮寺だった筈。
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そして塩嘗め地蔵尊の前の直ぐ下の道は古代~戦国時代の八王子往還の一筋であり、八王子の地名は素盞嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)と、其(そ)の子の八人の神々を御祭神とした聖地、八王子神社に由来する。
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※写真は八王子城御主殿。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
八王子神社は戦国時代に八王子城が築城され、その八王子地域の鎮守の神としても本丸に今も鎮座し古代から崇められている。
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※写真は八王子城本丸の八王子神社。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
塩嘗め地蔵が参道入口だった神大寺の寺名から推測出来るのは、“神”“大”“寺”、つまり"神様を祀る大きな寺"だっただろうと言う事だ。恐らく牛頭天王=素盞嗚命か、素盞嗚命を信奉した日本武尊が祀られていたのかも知れない。しかし、戦国時代に火災で焼失し詳しくは江戸時代には既に解らなかった様で"間宮士信"公が編纂した新編武蔵風土記稿にも書かれてない。

塩嘗め地蔵の直ぐ近く、六角橋には"久応山寳秀寺"と言う御寺が存在する。
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この久応山の山号は神話の人物に由来する。
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その境内が嘗(かつ)て倭建(やまとたける)命が滞在した大伴久応の邸址と伝承する。滞在時に食事に使用した"箸(はし)"が六角形の物で、大伴氏に神器として伝承していたそうだ。
この故事が六角橋の地名由来に成った。
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現在は大伴久応の陵墓の土饅頭が寳秀寺山門の前に行ちょこんと現存するが「後世の供養ではあるまいか?」と推測する。しかしながら、形状は円墳で時代的血統的な事実とも整合する。
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川崎市高津区子母口の弟橘媛を御祭神とする橘樹神社の背後に現存する弟橘媛の御陵もやはり、中国三国志時代以降の朝鮮半島渡来文化の影響が見てとれる。
倭建命は走水神社の神話と、それを編集に含も古事記や日本書紀の記載で西暦100年代の倭国の大王の太子だった人物とされる。
仮に、長い歴史の誤差で100年程度のズレなら文章に残らない古墳時代の人物に成り、三国志の記載と日本神話がリンクして証明と成ったりもす。
つまりこうだ・・・
倭姫(やまとひめ)
景行天皇の妹、倭建の伯母=卑弥呼(ひみこ=日巫女?)
※丹波国元伊勢神宮の斎王か?
大足彦忍代別大王(おおたらしひこおしろわけのおおきみ/すめらみこと)
倭建の父大王。倭姫の兄弟=景行天皇。
※三国志魏書倭人の項に登場する卑弥呼の実弟、唯一面会出来る男性とは古代神社の斎王制度の文化から見て景行天皇の事を指すのだろうと推測出来る。
※この時代に天皇の二字の称号は有り得ないので大王の二字に訂正し"すめらみこと(皇命)"の読み方のみ残す。
恐らく大足彦忍代別"天皇"の名は大化の改新時点で大王の二字が天皇に差し替えられ藤原氏に改竄されている。
倭健(やまとたける)命
景行天皇の次子、成務天皇の実弟、倭姫の甥。
そして景行天皇に指名された皇位後継権保有者。
※現在の神道に伝わる「命(~のみこと)」と言うのは、古代語で現代語の「霊位」「御霊」や仏教用語の「尊」の字に当たる言葉、つまり肉体を離れ現世で亡くなった神の霊魂を指すのだろう。日本の神様は我々の祖先だから、神様同士で喧嘩したり恋愛したり戦争して殺しあったり、海で溺死したり、酒に酔ったり、スケベだったり何とも人間らしい親しみを持てる日本の発展に寄与して下さった先人達を神格化した存在の事なんだが・・・
日本武尊は以下の通り少々悲惨な生涯の終え方をしている。
※東征からの帰路に伊吹山の神に妨害され病を得るのは、倭建の皇位継承を阻止し自ら皇位継承を画策した成務天皇による暗殺未遂乃至成務天皇派の豪族の王との合戦の傷に由るものと推測する。
仮に成務天皇派との合戦が起きたとすれば伊吹山の麓、関西へ抜ける関ヶ原の関所が舞台だろう。
鈴鹿の地で没したのは、関ヶ原通過を阻止されたので南側の鈴鹿の関を突破し河内王朝(応神天皇の代まで首府は河内国きんぺん)或いは大和国か丹波国の伯母の在所へ帰還中の事だろう。
大伴久応(黒主)
[六角橋の神話]
六角橋の伝承と寳秀寺の縁起では自邸に倭建を逗留させ歓待したとされる人物。
[走水の神話]
三浦半島の横須賀市走水に現存する走水神社の伝承では大伴黒主と名を伝えられ、やはり日本武尊(倭建命)に海鮮料理を振舞い歓待した人物と伝わる。やや倭建ははまぐりはまぐり蛤(はまぐり)の膾(なます)がお気に入りだったそうだ。故に現代では料理と漁師の神として祀られる。
[日本書紀]
日本武尊の東征に吉備一族、"大伴"部一族が与力として付けられている。大伴氏は和邇(和珥)氏の一族で佐伯氏とも同族であり、古代水軍拠点を治めた氏族。
六角橋周辺には丸子、大口の名を冠した町が有る。丸子は古語で"丸子(わに/わじ)"と発音する事から和邇氏の土地であった事が解り、大口は和邇氏の祖先神の大口納(おおぐちな)命に通じる地名でもある。
和邇(わに)は和珥(わに)と同義別字だが、和邇とは中国大陸の動物の鰐(わに)を転じて様子が古代の丸木舟に似ている事から"舟"の意味を指す事が用意に解る。この
解釈を用いると"因幡の白兎"の神話の元に成った話も容易に推測できる。
とどのつまり白兎(しろうさぎ/はくつ)=はくづ=ひゃくず=百済=百済国乃至百済人が和邇氏の統括する水軍を利用し隠岐国(隠岐島)を和邇氏の援軍により征服しようとしたが、バレて和邇氏に討ち取られ隠岐島が日本に帰属したと言う国の成り立ちが変化した例えの物語りだろう。因みに当時は朝鮮半島最南端まで漢帝国に倭人の土地と認知された邪馬台国(日本)領だった。
それ故に古代の中国語で日本国の事を扶桑(ふそう)=扶桑(FuSang=フゥサン )国、台湾を蓬莱島と呼んだが、現在でも名残として扶桑(フゥサン)に通じる中国語で釜山(FuShan)の町が在ったりする。
尚、新羅国は日本人により建国されたと中国語の史書に記されているが、古代、海の神でもあった素盞嗚命(すさのおのみこと)が朝鮮半島に渡った神話とも関連が推測出来る。

さて、話を寶秀寺その物に戻そう。
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境内には徳川家の三つ葉葵紋がふんだんに使用されているが、これが徳川家康公が浄土宗に帰依していて浄土宗に下賜した家紋だからか、それとも寶秀寺に直接徳川家から与えられた物かは未だ調べていない。
しかしながら近在する港北区鳥山地区の真言宗三会寺や浄土宗泉谷寺等は、戦国時代の鎌倉玉縄城主北条家の遺領を家康公の参謀、本多正信公が得た際、本多正信公を介して家康公から寺領保証の御朱印と家紋を頂いている事から、徳川家から下賜された寺紋なのかも知れない。
まぁ、三会寺に関しては徳川家より格上の源頼朝公から頂いた笹竜胆(ささりんどう)の源氏の家紋を寺紋としている。
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なので三会寺サンに限っては徳川家の家紋を寺紋としては使っていないし、北条家の家紋も当然使っていない。まぁ、平安時代に関東の文化水準を飛躍的に向上させたのは頼朝公の功績、そして武士文化を確立させたのは蘭渓道隆和尚や道元和尚と執権北条家の功績。だから鎌倉幕府を樹立した頼朝公の方が武士としては徳川家と功績は同等でも血筋が上な分、優先される訳だ。
寶秀寺には立派なイヌツゲの植木が有り、これが横浜市指定の銘木古木に成っている。
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その隣にも松の立派な植木が有る。
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今は境内に墓地が有るが、本堂前の植木は昔は立派な庭園の一部だったのかも知れない。
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本堂に参拝し、デジタル画像を撮影していなかったので境内の写真を一頻(ひとしき)り撮影させて頂いた。
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立派な新しい扁額。
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御本尊にもちゃんと御参りして・・・
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江戸時代の歴代御住職様の御廟所にも御参り。

塩嘗め地蔵尊と寶秀寺で六角橋と神大寺地区の歴史浪漫を探訪し、その後オデンを食べに六角橋商店街に移動した。

帰りは着替えを持参していたのでジムで汗を流してから、露天風呂に入りに行った。

まぁ、美味しいオデンを食べ、神話と歴史浪漫に想いを馳せ、ジムで汗を流し、大浴場で露天風呂満喫し寛(くつろ)ぎ・・・
しみじみ良い休日と感じる1日を過ごせた。
日本武尊様、弟橘媛様媽祖様、大伴久応黒主様、ありがとうございました!

【備考】
走水神社、日本武尊、弟橘姫に関しては“タグ付け”しておくので、ブログ記事最後尾に付けられた「タグ」の中から興味の有るワードをクリックして昔の記事を御覧下さい!

17日は年末最後の遠出に大月市~都留市~相模原市~相模湖と廻り圏央道厚木Pで買食いして帰宅してきた。
ここ暫くブログを更新していないのだが、リアでの副業と執筆が間に合わない。
何処にも行ってなかった訳じゃなくて鎌倉にはしょっちゅう出かけていたし(主に文献読みに)、県央の寒川神社や前鳥神社方面にも久々に行ったりしていた。
でもブログを書く暇が無かった。

色々考えて、今年の遊び〆を17日にして、残り半月はダイエットと溜まってる事をやるのと、義祖母の墓掃除と御世話に成った神社仏閣への御礼参りと、年末の大掃除をする事にした。

そんな訳で深夜まで働いてから、AM:2:00頃に高速道路使わずに下道で2時間半かけて山梨県大月市へ移動した。到着後はコンビニの駐車場で車中泊。
睡眠2時間前後?早朝7時半から活動開始。
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コンビニの前は旧甲州街道で、街道沿いには風情の有る建物が立ち並んでいた。
そこから最初の目的地である岩殿山を目指して移動。
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途中、岩殿城址である岩殿山が良く見える場所が在った。
この山は海抜では無くて比高(地面からの高さ)が632m、東京スカイツリーと同じ高さ有る。
今まで目の前の中央高速や甲州街道を原付や車で通過していて、いつかは登ってみたいと思いながら機会が無く、今回は大月市の猿橋や、相模原市の石楯尾神社と合わせて訪問する事にした。
遠くから見ると一枚岩の様に見えるが、実際の岩殿山は細石(さざれいし)で構成されている。
武田家滅亡の原因、小山田信茂の居城の岩殿城の麓に中央高速のトンネルが築かれたので、戦国時代当時と現在の登山口は違う。
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市営駐車場の前に、写真の軽自動車が停まっている場所が有り、その後ろに細い坂道の跡らしき地形が有る。
この地形は、駐車した際にこの路盤に気が付いて・・・
「あれ~明らかに現在の登城口が不自然でコッチの方が昔の道に見えるよな~?」
・・・と思っていたので、登山後に‟岩殿山ふれあい館”の職員さんに確認して御墨付を頂いたのだが、その軽自動車の背後の草がボーボーに生えた細い坂道が見えるが、実はこの坂道こそが本来の登城口だったそうだ。
現在は中央高速のトンネルが建設され道が寸断されているので通行禁止に成っている訳だ。
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地形を見ていつもなら其方(そちら)側から登りたい所だが流石に通行禁止のものを無理に登る訳にも行かず、普通の順路で山頂を目指した。
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岩殿山は富士山が綺麗に見える。好天に恵まれた事は神様仏様に感謝!
神様仏様と言ったのは、実はここは天台宗系の修験道の円通寺の道場として古代から戦国時代まで栄えていた場所なのだ。そしてその霊場である奇岩も山頂に極最近まで存在したのだが崩落の危険が有るとかで掘削撤去されてしまった。
天台宗の圓通寺が麓には在ったのだが、戦国時代には一時、この山自体が城に成っていたので霊場として使えなかった時期も暫く有った様だ。
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この眺望の良さなので、川沿いを進む中世の旧甲州街道廃道の‟いどみ坂”辺りと合わせて富士山信仰の霊場だったのだろう。
明治時代以前の修験道・真言宗・天台宗・臨済宗・曹洞宗・浄土宗等は古来の日本神話の神様も大切にする仏教宗派だったので、素戔嗚尊(すさのおうのみこと)=牛頭天王=武塔天神の御妃(きさき)様である木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身が富士山とされたので、昔の人達は富士山を見て美しいと思いながら同時に木之花咲耶姫様として遥拝(ようはい=遠くから拝む事)をした訳だ。
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途中、丸山公園が有り、そこに‟岩殿ふれあい館”が或る。ここは降りて来てから見学した。
・・・と、言うのも通過時点でまだ午前08:00ちょっと過ぎで営業時間外だったから。ここの営業時間は9時から。
この岩殿山は現代造られた登山道が有り登り易い。と言うか、本来は昔のままの道を残さないといけないのだが、中央高速のせいでそうもいかない。
先々月10月に登った静岡と山梨の県境に在る御坂城とは違い、この岩殿城は山頂を常に見上げて登れるので目的地が確認出来る事から「あとどれくらい」で到達出来るか実感が有り山登りも苦にならない。
どれ位歩けば着くか解らない道のりは疲れるから。
その点、御坂城より精神的に登り易い。
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こんな感じで、ふれあい館にあった看板の説明と実際の風景を見比べながら・・・
「あ~あそこ等辺にこんな感じの施設が有ったのか~」
・・・とか思いながら登れる。
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途中、遺構の説明もちょろちょろ有る。
小生の個人的な感想だが、この岩殿山は険阻な断崖で築城が困難な山城では有るが、実際の防御陣地面積や施設の構造を見て廻ると城としては大した事は無い様に思う。
正直、隣接市の相模原市緑区城山地区に在る北条家臣内藤家の居城、津久井城の方が構造も規模も岩殿城を上回っていると思う。
漫画家や小説家、更に学者まで小山田家は武田家の家臣と誤解してか恣意(しい=わざと)的にか説明をする連中もいるが、実際には武田家の従属同盟者に過ぎず家臣では無かった。例えるならば織田家/徳川家の関係と同じ。
そして、武田家中で最強の軍団が小山田軍団だった。この軍団は単体で何度も北条家を撃退したり、徳川家を翻弄したり活躍した。山県昌景公の赤備え隊や馬場信房隊を武田家臣団で最強とゲームの影響で思っている連中も多いが、実際は智勇兼備で軍団長としての作戦実績でも小山田信茂隊は、馬場・山県の両将を上回る。
その小山田家の居城としては余りにも防衛施設が小規模過ぎる。
丸で鎌倉時代以前の三浦家の居城、三浦半島横須賀市の衣笠城と同等、つまり多くても数百人~1000人位でしか守備出来ず、万単位の大軍団を相手にする戦国時代の籠城戦に耐えれないとの印象を受けた。
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山頂には本丸も有ったが、変電所に成っていた。
城として当たり前だが感心した事も有る。
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こんな岩山の高所にちゃんと湧水が有る。
まぁ、この水量、少なくとも秀吉が小田原を包囲した際に築いた石垣山一夜城の井戸より水量は豊富だし、北条家臣内藤家の津久井城の井戸よりも大きい。
これだけでも数百単位の将兵の飲み水なら配給に耐えるんじゃないかと思う。
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この岩殿城址を乃木大将も登られた様で漢詩を吟じている。
それを甥の正木正之中佐が揮毫して石碑が建てられた様だ。
正木姓からして旧里見家与力の三浦一族正木家の御子孫なんだろうか?
乃木大将は佐々木一族なので、武田家や小山田家とは直接関係も無く、ただ歴史マニアとして城址を訪問された様だ。
城を降りて、前日から徹夜で大月に来たので入浴もしておらず気持ち悪いので、事前に地図上から見繕(みつくろ)っておいた日帰り入浴の出来る温泉に連絡をして見た。
実は数日前から行きたいと思っていた‟日の出鉱泉”さんに電話したのだが取り次ぐ人も無く、岩殿山から車で15分と近くなので仕方なしに直接訪問して見た。
やはり御不在で「廃業されたのかな?」と思っていたら、経営者の方々が御帰宅された。
「営業は続けている」が、「事前に連絡が有れば準備する」と言った感じだそうだ。
「昼過ぎには沸かせるけど待てる?」
・・・と、親切に御主人が申し出て下さった。大月周辺の温泉は源泉が高温では無いのでどこも薪で追い炊きしているので、わざわざ小生の為に浴槽に温泉を張り沸かして下さると言うのだ。
どうも中央高速の開通以来、甲州街道の人通りも減り温泉への湯治客も減り大月市自体の観光産業が全体的に打撃を受けている様だ。
そんな背景も有り、御主人の申し出には正直感謝の念で一杯に成ったが・・・
生憎(あいにく)小生の予定上の時間が無いので「又来ますのでよろしくお願いします」とだけ伝えて、車に乗り、もう一つの候補の‟金山鉱泉山口館”に電話をかけた。
山口館も岩殿山から車で20分程度と近い。今回は運が良く、当日に宿泊客がいる事と小生と別に日帰り湯の予約が有った事で快く受け入れて頂けた。
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山口館への林道は細く車同士はすれ違えない。
しかも車道に枯れ枝や落ち葉が沢山有り、どうも遊歩道として主に登山者が使う道の様だった。
落ち葉を踏みしめる車の轍も僅(わず)かで少々不安な気持ちに成りながら、GoogleMap先生とポンコツカーナビを頼りに進むと長閑(のどか)な山荘に出た。
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山小屋と言うか自宅兼山荘と言った雰囲気。
小生の祖母が暮らした田舎に来た様な雰囲気・・・いや、それ以上に田舎(笑)。
山口館の前には渓流も在り、ここに宿泊してから山登りを楽しむ人には堪らない環境なんだろう。
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小生は山登りはもっぱら城址だけ。好き好んでゴールの見えない風景を楽しめる心の豊かさは無い(笑)。
山口館から50m位離れた場所に駐車場も5台分くらい在った。
車止めもフェンスも無いのでバックし過ぎたら渓流に真っ逆さまの駐車場だけど(笑)。
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小生は大きなホテルより、こう言った雰囲気の鄙(ひな)びた旅館が好きなので嬉しい。
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本当、昭和の山荘と言った雰囲気だった。
ちゃんと着替えもバスタオルとハンドタオルも持参して来て良かった。
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風呂は家族風呂が2つ、女性用と男性用が有るだけだが、家族や恋人同士で来ても貸切湯に出来るそうだ。
もっとも・・・
恋人同士で来る雰囲気では無いので二人とも城や山が好きなら心の底から楽しめるだろう。
・・・と言った感じの本当に山奥の長閑な山荘。でも、若い人は余りこう言う場所に来る経験も無いだろうから一度は来て、山奥でのんびり温泉に浸かる楽しみを経験するのもお勧めしたい。
宿の奥さんと色々と話していたら、結構、芸能人も来ている様で、山登りの前後に宿泊する山荘として有名な様だ。
又、こっち方面に来たら日の出鉱泉さんと合わせて温泉巡りで立ち寄りたいと思う。
御主人、奥さん、お嬢さん、御世話に成りました。又、宜しくお願いします。
金山地区を出て大月駅方面へ車で戻る途中、山奥なので廃屋が有ったり・・・
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浄照寺と言う室町時代に開かれた御寺サンが在ったりして寄り道して散策を楽しみながら大月駅の近くまで戻って来た。
岩殿山~山口館に行きしな気に成っていた饂飩(うどん)屋さんが在ったので、次の目的地に行く前に入って昼食をとる事にした。
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吉田屋と言う、山梨県名物と成った富士吉田市発祥の吉田ウドンを手打ちで提供している店だ。
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山梨県は水田を作るのに適さない地形と地盤なのだが・・・
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岩殿山から見た桂川(相模川上流域)の様子。
桂川の右手が急な段丘に成っているのが御解りだろうか?実はコレ、猿橋溶岩と言って富士山から流出した溶岩が此処(ここ)まで到達して相模川に冷やし固められた地形。だから写真の桂川左手の溶岩では無い地形は川に浸食されて一段低い地形に成っている。
溶岩の固い地盤は水捌けが良いので水田には向かなかった訳だ。だから富士山の影響を受けた山梨県の多くの土地では昔から小麦やトウモロコシが主食として良く食べられていた歴史が有る。
山梨県はホウトウやウドンの食文化が発展したのは、そのせいだろう。
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入って見たら結構な人気店の様だ。芸能人も小さな店なのに結構来ているらしい。
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小生は馬のモツ煮込みと・・・
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肉(馬)のせ月見饂飩を注文した。吉田饂飩の特徴は、讃岐うどんよりも更に歯ごたえが有る事。
小生はシッカリした感触が好きなので、前回に御坂城と甲斐一宮浅間神社を訪問して帰りに中央高速の初狩Pで馬肉のせ吉田饂飩を食べて以来、饂飩は吉田饂飩が一番好きに成った。
この吉田屋さんの饂飩、とても美味しかったので是非、この付近に観光に来る予定が有る人にはお勧めしたい。
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都留市に移動しリニア実験線駅の博物館を見学。
今は年末で年明け暫くまでリニアモーターカーは走って無いそうだ。
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その代わりと言ってはなんだが実物が常設展示と合わせて、超電導の科学実験なんかも見れた。
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液体窒素で超低温化した高磁力金属を使ったリニア実験を見せて貰えた。
電車や科学が好きな幼児~高校生くらいの子のいる家は、是非、訪れてみると良いともう。
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説明するオバ・・・係員さんの目の前には磁力で浮いた磁石金属。
中々良い実験を見せても貰えた。
季節を選べば少し先に在る甲州市でブドウ狩りやモモ狩りと併せて子供連れの夫婦やカップルのデート等のレクリエーションとしても楽しめるだろう。CIMG1873
乗れるリニア模型も有るし・・・
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綺麗なジオラマも有った。
もっとも、リニアの実物展示や、実験線が走ってるのを見られる所や電動磁石の実権以外の鉄道資料館としての機能は、京都や埼玉の鉄道博物館には遠く展示数は及ばない。しかし、ここに来る意味は有ると思う。
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なんせ実物を見られるのだから。
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一応、平常ならば一日に数回はリニアが走っているので、下の時刻表の時間に合わせて来ると良いと思う。
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見学を終えて物品を販売してる建物に移動。
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新幹線好きな甥と姪に新幹線靴下を買ってあげようと思ったが、妹に二人の足のサイズをlineで聞いても返信無かったので已(や)む無く電車の沢山かかれた茶碗を購入。
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ここで買い物をするとリニア乗車の抽選権が貰える。‟道の駅つる”で買い物もしてリニア試乗応募券にハンコを押して貰えると応募できるシステムらしい・・・
上手いぞ山梨県(笑)。素晴らしい販促活動だ(笑)。
その後、‟道の駅つる”に移動した。
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ここからもリニア実験線が走っているのを見られそうだ。線路が綺麗に見える。
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でも、直ぐ横で見学できるからリニア見学センターに行った方が良いだろう。
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中は物産展。
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桃ジュースを買ってちゃんとハンコ手に入れた。
茶碗と合わせて妹に渡そう。
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その後、大月市の猿橋地区に移動し、日本三大奇橋の一つ猿橋を見学した。
猿橋は日本でも例の少ない橋脚の無い木造橋で、建築業界では有名らしい。
実は猿橋の在る場所は、先に説明した‟猿橋溶岩”の上に在る。
富士山から流れて来た溶岩流が相模川(上流の桂川)にぶつかり急速に冷やされて固まったのだが、その溶岩が南北で一番幅が狭く近い場所まで寄った場所に建設されたのが猿橋なのだ。
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歴史は古く千数百年前に遡る伝承が有るらしい。江戸時代には猿橋と下を流れる桂川渓谷が景勝地として知られ、安藤広重が浮世絵にも描いていたりする。
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これは橋のたもとに在る大黒屋さんに在る絵。
段丘面から川底までは深さが50m近く有り、江戸時代の技術をもってしても橋脚を作るのは困難だったので、溶岩の堅い岩盤を利用して側面に穴を穿(うが)って、横向けに梁(はり)状に材木を突き出し、それを重ねて延長し橋を架ける構造に成っている。
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これを作るのに、江戸時代でもどれだけの危険が伴って、どれだけの時間を要した事か考えると先人に対して心底、敬服の念が沸いてくる。
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凄い。
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そして、この橋自体が旧甲州街道だった訳だ。
猿橋は一見の価値が有るが、その下の桂川渓谷も遊歩道も設置されていて、綺麗な風景を目で楽しむ事も出来る。
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川岸に降りる事も出来る。
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ただ、川幅の広い相模川が、ここで急に川幅が狭くなるので流れは速く深い淵ばかりなので、小さな子供連れの家族はちゃんと見て無いと危ないと思う。ママさん、パパさん、気を付けてね!
ここも岩殿城や金山鉱泉と合わせて小生オススメの見学コースだ。
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猿橋の横には大黒屋と言う御土産物屋さんが在るのだが、そこで御土産の野沢菜を買った際に、御店主の女性にこんな質問をしてみた・・・
「一帯の商店街の雰囲気が温泉街に似てますね。」
・・・と。そうした所、この猿橋一帯は旧甲州街道の中でも旅籠が立ち並んでいた場所だったそうで、中央高速の開通まで旅館が立ち並んでいた名残りで、現在も御土産屋さんが沢山有るらしい。
ただ、こんなに綺麗な桂川渓谷と素晴らしい文化財の猿橋自体を知る人も現代では少なく観光客もまばらだった。
もっと多くの人が来てくれると良いのにね。
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猿橋を後にして、相模原市緑区名倉に在る相模国延喜式内社13座の一つ石楯尾神社を御参りし御朱印を拝領。
現在の参道は昔とは違う場所に設けれている。昔の桟道とは反対の裏側から入る道に成っている。
そもそも、名倉の石楯尾神社は古代、高座郡寒川町の寒川神社、相模原市南区磯部(勝坂)の有賀(あるか)神社奥宮と並んで古代の朝廷から官位を与えられた凄く格式の高い神社なので、源頼朝公も鎌倉時代に土地を寄進したり旧地名で宮原と呼ばれた旧境内地にも7つの大鳥居を寄進したりして保護したのだが・・・
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だから随神門(たぶん、明治までは仁王門)が有るのは現在の入口とは正反対の方。
この神社は武田信玄に乱暴され略奪の被害を受けたり、明治時代に土地を縮小されたり色々と受難の歴史を超えて、今の氏子サンや先代、先々代の宮司様達によって守られて来た。
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参拝客はちゃんとこっちも歩いて欲しいな。
現在は知らない人が見ると、ただの山の中の立派な神社なのだろうが、この神社を守る為に、先代宮司様の没後は息子さん御兄弟が会社員を務めながら兼業でこの格式高い由緒正しい神社を守って宮司と禰宜を務めてらっしゃるそうだ。
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拝殿は立派で、彩色された彫像が四方にあり、扁額も凄く立派。
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訪問した際、拝殿に上がれる様に扉が開かれていたが、事前に許可を得る確認をしていなかったので外から撮影だけさせて頂いた。
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きっと昭和初期までの日本の農村部が元気だった頃、この拝殿には沢山の農家さんが集まって宮司様の祈祷を受けて農作物の豊作祈願をしたりしたんだろう。
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神殿にはちゃんと覆殿が設けられていて、風化しない様に保護されていた。歴史を知らない人間が増えて少なくなった氏子達が、歴史と由緒有る石楯尾神社を守ってる努力に感謝。
この人達の御蔭で古代の朝廷や歴代天皇や源頼朝公達が大切にして来た御神威と権威の有る神社が現在に存続していける訳だ。
御参りを終えて、御朱印を頂き、帰路に着きました。
帰りしな相模湖のイルミネーションをやっているのも思い出して見てきました。
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相模湖プレジャーランドのイルミネーションは関東最大規模で有名なのですが、入園料1700円、駐車場1000円と男一人でわざわざ見に行く金額では無いので、相模湖近くのコンビニで御茶を購入がてら、相模湖公園の無料のイルミネーションを見学。
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無料だけど、散歩するには丁度良い。きっとご近所の人も喜んでるでしょうね~。
この相模湖公園近くには貸しボート屋さんも沢山有って、昼間は船遊びも出来るのでピクニックにはもって来い。
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千葉県のドイツ村のイルミネーションも綺麗らしいですね~。今度行って見よう。
帰りは相模原市愛川町の辺りから圏央道にのり、新湘南バイパス経由で横浜に戻った。
普通に中央高速や東名や首都高速使ったら、高速料金片道だけで3000円くらい、年明けの甥姪姪姪の合計4人の御年玉出費に備え、オジちゃん節約しないとね。

今年の遠出はこれで終わり!
あとは遠くても川崎と走水に日本武尊と弟橘姫様に御礼参りに行く程度。
もう、御金は使わない(笑)。

ふむ、17日は良い休日を過ごせた。

この後、年内いっぱいは間宮家の顕彰文の改訂版の作成と、ブログの神奈川県の御利益強い神社リストに自前の写真撮影して来た場所を追記しないといけないので、基本、年明けまで新しい記事は書けないと思います。
記事内容の更新のお知らせは改めて行います。
では!皆さん、年末健やかに恙無く御過し下さい~! 

又、記事更新報告で御会いしましょう! 

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