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タグ:磯子区

今年の蛍の見頃は6月以降かも知れません。

或(ある)いは今年は少ないままの可能性もあり得ます。
現地を今年も昨日25日の20時頃に訪問して来ましたが東急建設が開発の後で“蛍を人口育成して移設する計画”の為に捕獲してるとの事で、天然の蛍は捕獲されて減っているのではとの事です。

昨日05月25日の夜20時位には6匹しか確認出来ませんでした。
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対して一昨年の様子⤵️
YouTubeの平野タカアキさんの動画ですが、例年ですとこの様に蛍がまとまって飛んでいる様子を観察出来る所が数ヵ所あります。
栄高校から降りて来て右手側の瀬上沢沿いの林とか、瀬上池側に向かう民家周辺の用水路化してる部分、それと鉄塔付近、更にもう少し奥に行った辺りに良く蛍がいます。
今年は5月25日時点では1箇所で2匹見れたら良いと言うくらいに減っています。
先日大雨も有ったのですが今年の気候の問題かは謎です。

異常に“今年だけ”“今の時期に”個体数が現時点では少ないです。大雨の後でも雨上がりに蛍は良く飛ぶんですよね。
毎年もう20年くらい見に来ていると言う御高齢の御夫人のグループも「今年は少ない」とおっしゃってましたので、地元の方々のおっしゃる通り蛍の養殖の為の捕獲しか理由が見当たらないのが現状です。

まだ市から建設計画未承認なのですが開発ありきで天然の蛍の捕獲と成育を開始してるんでしょうか、説明会でも写真で捕獲した蛍を飼育してる様子を解説してました。
天候要因であれば例年どおり増えていくし、東急建設の捕獲人口育成計画が原因なら今年は少ないままでしょう。
後から東急建設サンが放流しましたと発表する様な事が有るなら、それはやはり瀬上沢破壊後に作る人口川に放流する人口蛍育成の為の捕獲が原因と言う事かも知れません。

それと自然環境保全しているとの事でしたが・・・
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・・・上郷深田遺跡側の森の遊歩道は荒れ放題でした。
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途中で立ち入り禁止のロープや金網でもバリケードも貼られていました。
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しかし、こちらに関しては東日本最大のタタラ遺跡の上郷深田遺跡ごと掘削したり深田遺跡の森の広がる谷ごと埋め立て跡形も残らない計画な為(ため)に、まだ未認可なから「保全しても意味がない」と切り捨てられているのかも知れません。
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計画ではこの写真の深田の谷の森が全て盛土で埋立られ丘は掘削されます。
左の方に今回の部分的な再調査で東日本最大と成った蹈鞴(タタラ)遺跡の上郷深田遺跡の尾根が有りますが、そこは蹈鞴製鉄の炉の遺跡ごと10m掘削され消滅するのが現段階での計画に成っています。
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この先が行き止まりにされてしまっており雑草が生い茂ってるので今ではハイキング客も少なくなってしまい、手入れはされていません。
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これより先は立ち入り禁止ですので皆さんも入らない様に気を付けて下さい。
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赤いタグが付いてる辺りが深田遺跡側の道の立ち入り禁止のロープで行き止まりの場所です。
不法投棄された車も放置されたままで人目につく瀬上沢手前側とは保全状況に随分差が有る様です。
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まだ未認可なので深田遺跡側も歩ける様に保全して頂いたり、不法投棄も主が解るなら通報しても良いかも知れませんが、まぁ東急建設さんに土地を売却した地権者が長年放置して来たので不法投棄車両の撤去等を迫るのは酷かも知れませんね。
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湧き清水が道路を跨いで流れていますが、深田遺跡側の谷底は元々湿地です。
こちら側では瀬上沢基金の方によると平家蛍が見られるそうです。瀬上沢の方は両方見れました。
東急建設の姿勢を評価出来る点も有りました。
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今回、横浜国大が保護していた江戸時代の農業用水トンネル史跡側の蛍生息地まで、東急建設の蛍の生息域の調査が拡大された様です。
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この白幡サンと言う方が御担当として実行されている様です。
強引に押し切らず慎重に評価されるのでしょうか?
しかし今年の蛍の確認出来る個体数の激減は地元の人達が話していた通りに説明会の❝蛍の採取❞の為だとしたら天然ホタルを減少させて人工繁殖させた蛍を増やしても意味が無いと思います。
大切なのは自然に蛍が生育する環境を残す事で、ここで開発事業を行うのは東急さんにとっても円海山の上郷一帯の森林を最大時の21%まで減少させる上に、東日本最大の蹈鞴遺跡の上郷深田遺跡と深田遺跡側の谷底の森林、そして瀬上沢一帯の森と水源の自然の川を部分的に調整池として掘削して無くし横に人口の川を作る計画は東急サンにも社会的な評価として旨くない話ですし、横浜市民のみならず日本人にとって損失だと思います。
深田遺跡1期2期発掘調査遺跡分布
御覧の通り30年前の遺跡発見地域から今回の部分的再調査だけで既に東日本最大の蹈鞴遺跡である事が発覚していますが、これも上郷深田遺跡を守る会の方が開発計画説明会の際にも指摘されていた所です。
深田遺跡再調査部分報告1
深田遺跡再調査部分報告2
舞岡上郷線の建設前の調査で上郷深田遺跡が発見されてから30年が経ち、周辺の住宅状況は空家だらけに成った上に自民党の政策でも史跡文化財保護強化と盛土による開発の抑制が推進されていますので、東急建設と横浜市民は政府から助成金を得て国の推進するIR事業の布石として東急グループがミナト未来21地区で実績のある寂(さび)れた港湾の商業地としての再開発経験を活かして新山下埠頭~本牧ふ頭の稼働率の低い突堤を代替地として、今回の開発計画地と等価値交換して頂くのが良いのではないでしょうか?
自然と史跡の保護の為なら支持は強いんじゃないでしょうか。

さて、諸先輩方に聞かされた過去の瀬上沢と深田遺跡の保護活動の話しから・・・
「瀬上沢の保護活動で❝外の人❞達のの力も借りないとダメかな~」
・・・と思い、色んな“外の人”達にも会いにいったり6月中旬まで休日も予定を埋めてあります。
私でも自分が取得しようとしてる資格の学習も秋まであるので並行して行っていたり、余りブログを更新できないと思います。
Twitterも休憩中に今迄の様に鬼のように返信しながらと言う訳にもいかなくなります。

6月中旬過ぎに一段落が片付くので、その頃には余裕が出てブログ更新します。
次は普通に歴史解説の記事を書きます。
暫くお待ちあれ~

次回の記事は質問を受けたので❝市内で北条政子サンに関係する場所❞の解説を書きたいなと思ってます。
それと、東急建設の現在の建設計画では上郷深田遺跡と瀬上沢西側の蛍生息地が削り取られたり埋められ消滅してしまう事や深田遺跡側の谷の森が埋め立てられる事が視覚的に解る地形図や配布された資料を用いた解説も書きたいと思います。

東急建設も損をしないように色々と市民から提案せる準備する事も大切だと思います。

6月にブログを少し更新したら又、07月10日前も少し忙しくなると思います。

また、これからも皆さんと歴史旅の情報を共有出来たら良いなと思います。

では!
東急建設さん、開発反対地権者も開発賛成地権者も、開発計画に関わられている政治家の方も、仲裁しようと過去に動かれた政治家の方も、開発反対の政治家の方も、開発反対の横浜市民と応援して下さる日本中の自然と蛍と刀剣文化のファンも、皆が幸せに成る為に国の力を借りて代替地案が成功して横浜市に日本中に自慢できる蹈鞴遺跡が史跡指定され、都会に残された蛍の広域生息地が自然保護公園化し、開発賛成派の方々も土地を東急様に売却して結果的に史跡と自然を守った奇特な方々として史跡博物館の運営者に加わる等何某かの利益が善玉として付与され、市役所も国も自然と史跡の保護と港湾再開発を両立させた功績が後々の余まで語り継がれて、上郷開発事務所の方々も真に世に誇れる業績を残され子々孫々まで語り継がれたら良いなと心から願います。
環状四号線の渋滞解決の為に高架化車線の建設なども推進して頂ければ、栄区の過疎化と高齢化の進む桂台や人口が伸び悩む本郷台方面の復活も目指せるので、鉄道高架化で実績のある東急サンには高架道路の建設で環状四号線渋滞問題と空家解消も上郷の自然保護の代替地案として最適の港湾再開発とセットで発注されれば間違い無いと思うのですが・・・

徐々に暑く成ってきましたが皆さん体調を崩されません様に。
皆で幸せになれます様に。

前回の休日雑記と同じ展開・・・

土曜日早朝、寝ていたら先週に引き続き又も姪っ子に奇襲された。
ガチャガチャガチャ!ガラガラっ!
「お~じチャ~ン!」

今回は何の事前情報も約束も無く母の手引きに因(よ)る姪の奇襲だった。
攻城戦において力攻めをする場合、門の守将を寝返らせて兵を城内に誘引させるのが常套手段なのだが、そもそも小生の家族は何故か皆小生の部屋の鍵を開ける事が出来る。
根(寝)城としても最早機能してると言えるのか解らない幼児が容易に大手門から攻め込める小生の家(笑)。

姪は土曜日午前中は英会話で午後はいつも書道があるのだが午後の書道が休みだそうで、勝手に義妹(弟妻君)と母と姪の3人が小生が土曜日休みなのを良い事に小生に事前相談も無く姪をランチ外食に連れて行かせようと決めていたらしい。
・・・裸で寝ず又、服着て寝てて良かった(笑)。

成人の日の妹と言い、義妹と言い、母と言い、姪も含めて我家の女性陣は小生の予定を無視すると言う迷惑甚だしい技を去年後半から使う様に成ってしまった。
まぁ~、懐(なつ)いてくれる姪が可愛く思うので良いかな(´▽`*)?

でも次に彼女出来たら引っ越して絶対に鍵はやらんからな!

さて、土曜日、当初の予定では前日に天候不順で行けなかった曽我梅林~小田原城天主閣✖センゴク権兵衛のコラボ企画見物~豊臣家の石垣山一夜城再訪~湯河原梅林の夜間ライトアップと見て廻る予定だったのだが、姪の奇襲により脆(もろ)くも、その野望は打ち砕かれる事に成った。
午前中は姪っ子の英会話送り迎えで拘束される事に成ってしまったからだ。しかも姪が英会話やってる10時位~12時迄は小生は“放ったらかし”にされる理不尽!
仕方ないので市内で1~2時間で廻れる観梅の名所に行く事にした。
弟の所の姪は本牧半島の何処かにある英会話教室に通っているので、素早く戻ってこれる範囲となると中区~南区~磯子区~港南区の狭い範囲に限定されてしまう。もうそうすると行ける場所は数少なくて根岸森林公園の梅林、三渓園の梅林、岡村梅林の3箇所しか行ける場所が無い。
実は三渓園は、この前日の03月01日に大船フラワーセンターと合わせて行っていたので後の選択肢は森林公園と岡村公園しかない。三渓園と大船フラワーセンターの梅園は日を前後するが又別に休日雑記に書こうと思う。
そして森林公園1箇所だと流石(さすが)に2時間も時間を潰(つぶ)せないので、今回は久しぶりに“ゆず”の町の岡村町散歩も含めて岡村梅林を見物に行く事にした。
“ゆずの町”散歩をするならJR磯子駅か京急と市営地下鉄の上大岡駅から徒歩20~30分位歩いて来るかバス、もしくは車での移動が選択肢なのだが、小生は車なので先ず岡村公園の駐車場に車を停めた。
岡村公園
岡村公園
ここの広大な公園敷地は元々は鎌倉時代の名将の三浦一族の平子有長公が開いた岡村天満宮と、戦国時代の名将の北条綱成公の開いた龍珠院と言う御寺の境内地だったが第二次世界大戦後に米軍基地として接収されて、その後、何故か神社と御寺ではなく横浜市に土地が返還されてしまい公園として整備されたので駐車場は十分広く駐車料金も安い。
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なので野球場も有ったりする。
この野球場の横の坂道を下って行くと、ここが岡村天満宮の旧参道だった名残が今も有って石の大鳥居が公園の坂道の入口に成っている。
この坂を下り始めると“ゆずファンの聖地”が沢山有って、歌の歌詞にも登場した場所だらけ。
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先ずこの坂道を含めた岡村天満宮~岡村公園の丘が“岡村ブギウギ”の歌詞に成っている場所。
その坂の下の大鳥居の裏側を観察して見る。
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昭和十二年十月建之とあり戦前に建てられているので岡村天満宮の旧境内地がここまで来ていた事が良く解る。
寄贈者の姓が気に成る。次の記事で書く戦国時代の北条家の重臣の一人で横浜~川崎に所領を持つ殿様でもある中田加賀守と同じ中田姓だ。1560年頃までは中田加賀守は港北区日吉に矢上城~川崎市高津区井田に井田城等の城を構え他にも保土ヶ谷区の川島町の地名の残る一帯を支配していた。戸塚区に中田の地名が残るので室町時代中頃か安土桃山時代に中田氏は川崎市西部~横浜市北部~鎌倉市東部の代官を務めた可能性が高いと言うのが小生や菩提寺の御住職や慶應大学で論文を書いている盛本先生等実際に地元を廻っている人間の共通意見だったりするが詳しい文物が既に失われていて状況証拠しかない。
しかし岡村町の岡村天満宮に中田姓の人物が石鳥居を奉納しているのは何ら不思議では無い。
実は岡村町の隣接地区の蒔田町は、室町時代に征夷大将軍の関東に於(お)ける代理を務める鎌倉公方の更に代理を務めた吉良頼康公の居城の蒔田城が存在した。
江戸時代に東京大学の前身と成った昌平坂学問所の地誌編纂部門で出世して頭取と成った間宮士信(ことのぶ)と言う学者が「中田加賀守は蒔田吉良家与力だった」と言う主旨の事を書いていたりするので、1560年代の前か後かは解らないが中田一族が岡村町近郷に所領を得て土着し昭和初期に単独で石の大鳥居を寄贈できる経済力を維持したまま一般人として生活していたと考えると経済力的にも全く不思議では無いし歴史的な状況から整合性も高い訳だ。
室町時代初期に岡村町は吉良家の領地だったのだが、北条綱成公の与力武将の行方(なめかた)家が岡村町を吉良家から買い取っている。恐らく、その後の安土桃山時代に更に中田加賀守の所属した小机衆が再編され中田家は江戸衆となり蒔田吉良家与力に再編され蒔田城付近に所領を与えられたが北条家が滅亡して戦国時代が終焉を迎え江戸幕府が開かると岡村近郷に土着した一族もいたのかも知れない。
詳しい住所は言わないが中田家の本家は今は川島町辺りに住んでいる。
中田加賀守の事は今晩、また菩提寺の紹介記事を書くので其処で紹介したい。
小机城と井田城紹介の過去記事でも触れているので、もし御城や戦国武将に御興味有る方は以下の記事タイトルをクリックして当該記事を読んで頂きたい。

クリックで記事にリンク⤵
川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
 ・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城
 城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。

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そして、この旧参道の石製の大鳥居を正面から見て左手に“ゆずの聖地”がもう一つ在る。
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モンマルト
モンマルトと言う洋菓子店で交通の便が悪い岡村町に在っても磯子区では元々美味しいスウィーツ店として名が通っていたのだが、“ゆず”の二人が通っていたり北川悠仁君(以下北川君と呼称)のお姉ちゃんが美人で良く買いに来ていたのが有名だったりするんだな。
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正面には恐らく昔は農家だった立派な家が在る。
モンマルトは遠方からも“ゆずファン”が来るのでオーナーパティシエの御店主はとても親切で店内の写真撮影も快(こころよ)く許可して下さった。
・・・何回か来てたのに未(いま)だに写真撮影して無かったからね。
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春らしい装飾が少しされていた。繰り返すが許可貰って写真バシャバシャ撮影してるからね~。
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ゆず来訪時の写真も幾つか有る。
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最近は岡村隆史も一緒に来たらしい。
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美人なお姉ちゃんのエピソードも話題に成ったらしい(笑)。CIMG8268
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ケーキはどれも美味しそうなんだけれど今更ながら御店主に「二人の好物って有るんでしょうか?」と聞いて見たら快く教えて下さった。
大将曰く・・・
「ゆうじん(北川君)はいつもクレープ食べるよ~、こうチャン(岩沢君)はソッチのモンブランが好きだよ~」
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岩沢厚治君(以下岩沢君)が好きなモンブラン。
いつもコレを食べるそうだ。てかモ“ソ”ブランに見える(笑)。
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北川君が好きなクレープ。丸めて有るから素手でも食べれるね~。
で、ゆずファンとしては❝両方食べる❞と言う選択肢一択しかない(笑)ので去年27kgダイエットしたのに現在8kgリバウンド中なのだが“ゆず愛(笑)”から両方購入した。
で御店主に「食べて行く?」と聞かれたので「え?店内で食べていいんですか?」と聞き返してしまった。この御店、テーブルが無くて店内にベンチだけあるのだけど、ゆずファンと言うキーワードを発すると御店主の脳内で❝ゆずファン=遠方からの来客❞と認識が有るようなので一応質問するそうだ。
・・・そう言えば今迄ゆずファンって言う機会無かったな。
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トレーに乗せて提供して下さった。
モンブランは齧(かじ)りついた断面が汚くて、とてもじゃないけど写真を御見せ出来ないけど大粒の栗のグラッセが丸々1つ入っていてケーキの底はクッキー生地に成っており、ファンが来ても手で持って食べれる形状に配慮されて作られていた。味も甘過ぎず大人向きでとても美味しい。
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クレープは変な表現だが苺大福の洋菓子バージョンと言った感じ。こちらも甘さ控えめで美味しい!そして持ち易い(笑)。
御店主に「御馳走様でした~美味しかったです~」と挨拶してトレーを返却したら何とプレゼントを下さった!
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20周年記念の絵ハガキ。

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2枚も下さった!2人分食べたからだろうか(笑)?
御店主ありがとうございました~♪思えばこれが朝御飯だったな。
モンマルトを後にして2年振りに岡村天満宮に移動した。

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大鳥居の坂道を登って行くと左手の途中に今の参道の入口が在る。
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とっても❝神社らしい雰囲気❞の有る赤が基調の神社で、北野天満宮の御分霊と言うより雰囲気は稲荷神社ぽい。
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御花がそこかしこに植えて有るのは多分、境内に保育園が有るからかな?
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料理業組合からも崇敬されている様だが経緯は聞いてないから知らない。
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参道の階段を登りきると天満宮らしい梅が見えて来るが、ここは現代の岡村梅林とは又別。
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この横浜市教育委員会の解説は考察が不親切で、もう少し詳しい事を言うと時期的に岡村天満宮を開いた武将は源頼朝公の随兵=近衛兵を務めた平子有長公だろう。曽我兄弟の敵討ちと言う、源頼朝公暗殺未遂事件で犯人の曽我兄弟と最初に抜刀して切り合い逮捕して源頼朝公を暗殺の危機から救った武勇に優れた武将だった。
そこら辺りは以前、岡村天満宮の紹介記事で書いているので、それを読んで貰うと良いかと思う。
ゆずの地元の岡村天満宮の殿様の平子有長公…源頼朝公の忠臣。
 …横浜市磯子区岡村町

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階段上って現在の境内の削平地に出る社殿が見えて来て何やら賑やかな音楽と女性の声が聞こえて来た。
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丁度、園児達が先生と境内でダンスの練習をしていたんだね。
神様に見守られ、春の日差しと梅の花の下で女性の先生達と子供達が踊りの練習をする姿は何ともホッコリして微笑ましかった。

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階段上って左手の稲荷社に先ず御参り。
ここが周辺から商売の神様として御利益で有名だった稲荷社。だから料理業組合もここを崇敬していたのだと思うけど未確認。
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その手前に牛サン。皆に触られてツルっツルで気持ち良い♪
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境内は紅梅が凄く神社の雰囲気に合ってとても綺麗♪
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園児か先生が育ててるのかな?花壇も有る。
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う~ん、子供達と同じく元気に咲いてくれていて何だか見ていて嬉しくなる。
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本殿前で参拝して気が付いたんだけど・・・
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拝殿の扉のガラスが陽光で鏡みたいに成って踊りを一生懸命に練習する園児と女性の先生と梅が映り込んでいる。
本殿から見た神様の視点でこの風景が見えてるんだね~。岡村天満宮、菅原道真公と平子有長公の二人が温かく園児達が健やかに梅と一緒に育つのを見守ってくれている神社みたいに感じたので拝殿に移った境内の風景も写真に撮影して見た。
そう言えば何回か参拝に来たり歴史調べているのに、ここで御朱印頂いた事も無いし御守りも買ってなかったと思い社務所で御朱印と御守りを受領して来た。
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御朱印。それと・・・
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ゆずの町らしい“ゆずの幸せ守り”。ゆずの匂いがする匂い袋に成っているらしいのだけど花粉症で鼻詰まってる小生には何にも感じない(笑)。
まだ我が春は遠いのか?花粉症が治った頃に新しい彼女が出来たりして(笑)?
参道を降りて岡村梅林に移動しようとするとコレが目に入った。
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元々、ゆずの二人は伊勢佐木町に在った松坂屋の前で路上ライブをしてデビューの切っ掛けを掴んだのだが、その事から松坂屋が閉店するまで二人が活動していた証(あか)しとして松坂屋前に作られていた二人のライブ当時をモザイク画にした壁があった。しかし松坂屋が閉店したので、ゆず所縁(ゆかり)の岡村天満宮サンに引き取られて現在も保存展示されているんだな。
ゆずを満喫して、もう一箇所、岡村公園周辺でこの日のメインの岡村梅林に向け移動開始。
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途中、野球場の隣の歩道にこの石畳があるのだが、実は岡村公園のある❝久良岐の丘❞は富士山のビュースポットとしても有名なんだな。ここから空がガスって無ければ富士山が綺麗に見える。
生憎と昨日2019年03月02日は午前中迄雨だったせいで地面から蒸発する水蒸気が濃くて富士山が見えなかった。
この時点で午後に行く曽我梅林も富士山が綺麗な場所だが富士山が見えないだろう事が判った。
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岡村梅林は丁度、満開でとても綺麗だった。数百本なので大規模な梅林では無いが、平安時代の頃から貴族や武士は桜では無くて梅を見て春を感じたそうだ。今もその風流な文化を身近に感じられるのは岡村天満宮の氏子サンと横浜を代表するプラント企業の日揮が一度米軍に伐採されて消滅した岡村梅林を復興して下さったからだな。
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この入口は鎌倉街道側に在る。
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枝垂れも白梅も紅梅も有り、ちょっと散歩するには丁度良い。今の時期に❝ゆず巡り❞をするなら是非岡村梅林もファンの方には散歩して頂きたい。
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うん!梅の花はやはり可愛い♪
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この日は小規模だが茶会も開かれていたのだが、生憎と姪を迎えに行く前にもう1箇所岡村町内で見て置きたい場所が有り時間的な余裕が無かったので、運営者の紳士の方や女性に御誘いを受けたが又の機会に参加させて頂く事にした。
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和むとても良い時間を、岡村天満宮と岡村梅林とモンマルトで過ごす事が出来た。
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又、来年も散歩に来たいな。
そこから駐車場に戻り、車に乗り同じ岡村町内だけど少し離れた笹堀地区の久良岐能舞台に移動した。
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ここの辺りには昔の彼女が住んでいた(笑)ので良く来ていたのだが、昔尼寺が有ったり、水子供養の墓地が有ったらしいのだが風土記を読んでもそれらしい事が書いて無くて良く解らない。
そして小生のハンドルネームの❝久良岐のよし❞の由来と成った旧久良岐郡の地名が残る数少ない場所の一つでもある。
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ここは薪能(たきぎのう)等も行われて、知る人ぞ知る文化的な場所なんだな。なんせ交通の便が悪いので余り知っている人は多くないが、拝観だけなら無料で出来るし❝元御寺❞の境内なので日本庭園の名残も有り落ち着いた時間を過ごす事が出来る。
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久良岐能舞台
まぁ、ここがどうやら尼寺の跡らしい事を昨日まで知らなかったんだけどね。
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元は御寺の境内地で池も有ったり裏手の元本堂跡と思われる削平地には水琴窟も有ったりするが、それが果たして御寺時代の遺物か能楽堂として再スタートしてからの再整備かは職員の人も存じ上げないそうだ。
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まぁこの灯籠は昭和後期の物なので現代の物だけど、良い雰囲気を演出する役目を大いに果たしてくれている。
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実は御寺がここだったらしい事を昨日、訪問して職員さんに色々と質問をしてから周辺の歴史の雑談をしていたら教えて貰えた。
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境内には可愛いヤマアジサイが咲いていた。
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綺麗だね~。小さな提灯みたい。
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能舞台の入口に人懐っこい茶虎の猫チャンがいて沢山モフらせてくれた。
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腹丸出し無警戒ありがとう(笑)
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ちなみにこの温かい飲み物は缶ジュース(笑)だが、中には茶室もあり茶会も開催される。
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緑に囲まれた外で御日様を浴びながら御弁当持参して食べる事も出来る。
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日本家屋の構造体の説明も少しづつ有ったり。
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敷地には人の暮らした名残りの井戸も残っていたりする。
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この入口から入り、もし利用者がいなければ職員さんに御願いすると中の能舞台を見学させて貰える。出来れば事前に電話すると良いと思う。
以前は彼女の家に遊びに来る時に外からだけ見た事も有るのだけど、中を見学させて貰った事が無かったので改めて訪問して見た。
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まぁ由来とか書いて有るけど元々は宮越賢治さんと言う資産家の個人が土地や建物を取得して横浜市に寄贈したんだな。
横浜市の豪商は原三渓サンといい皆文化的な上に公共の利益と福祉に寄与する崇高な志を持つ人が昔は多かった。ぽっと出の成金とは大違い。
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来訪者が少なく利用者もたまたまいなかったので特別に小生一人の為に見物に当たり解説をして頂けた。
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中から見る風景も又良いね。山深い御寺の雰囲気が有る。
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この能舞台は東京芸大が練習用に使用していた物を新調する際にここへ寄贈して下さったそうだ。
そして知らなかったのだが、どこも能舞台の絵は松が定番らしい。
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松は神や仏が降臨する場所と言う考えが有るそうで、その為に能舞台は全て舞の奉納の場所の意味も有り松の絵が描かれるそうだ。
因みにこの松の絵は有名な日本画家の❝平福百穂(ひらふくひゃくすい)❞氏の作画だそうで、いつ文化財指定を受けても可笑しくない価値が有るらしい。
そして結界として舞台の周りは白洲で境目が作られる。例え屋内でも。
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知らなかったな~。
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屋外を想定された物なのでちゃんと屋根が有り、屋根事家屋の中に移築されている。
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檜皮葺で由緒正しい神社と同じ屋根に成っている。
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そして聖なる場所なので必ず白足袋を着用しないと舞台に上がる事は許されないそうだ。
色々と聞いて見ないと知らない事が多い。
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欄間はシンプルな造りだけど、これはこれで良い。
で、資料も見せて下さった。
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能舞台、実は足音が響く構造が地下に有るそうだ。
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昔の人も音響効果を考えていたそうで、能舞台と言うのはどこも音の反響を良くする為に地下に甕(かめ)が埋められているそうで、久良岐能舞台も同じ構造体が有るそうだ。
これも知らなかった。
何でも詳しい人に話をしてみるもんだね、こんなに詳しく色入りと解説して頂けると思わなかった。
これだから教養や何かの経験に優れた人と話すのは楽しい♪
能舞台を見学した後は茶室も案内して頂けた。
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う~ん、茶室狭いけど小生は別に生活空間茶室位綺麗なら四畳半でも嫌じゃないかも・・・
無論、一軒家やマンションに住んでて他にキッチンや風呂が有り自分の部屋の割り当てならの話しね。
・・・そんで奥さんや彼女が10畳の部屋とかに住んでたら、それはそれで不満を感じるのかな(笑)?
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裏庭も散歩したけど、こちらの方がより御寺の跡らしい地形が解かった。
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一段高い削平地。
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谷戸に成っており典型的な寺院跡の地形。
恐らくは禅宗寺院で鎌倉時代末期~室町時代開基の寺院だったんじゃないだろうか?
寺の名前も知らないけど。谷戸地形に寺院を作りたがるのは鎌倉文化圏の武士と禅宗の臨済宗と曹洞宗に多い特徴。
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裏庭の梅の大樹が立派だった。
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ここまでちゃんと見て廻った事無かったからな。
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水琴窟もこの裏庭の削平地に在る。
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見学すればパンフレットも貰えて簡単な説明も有るので、もし❝ゆず観光❞して時間が余るなら上大岡駅から電車に乗って帰る人は徒歩で久良岐能舞台見学してから上大岡駅まで行くのも良いかも知れない。
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丁度、見終わった時間から20分後位が姪っ子の英語の終わる時間なので、姪と母を迎えに行った。
姪と母をピックアップしてから曽我梅林迄、東名高速道路を利用したが事故渋滞で2時間ちょいかかってしまった。
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でも現地についたら丁度見頃!
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紅梅も・・・

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枝垂れ梅も。
母が鍵を用水路に落として紛失すると言うハプニング以外は概ね楽しく見物出来た。
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姪っ子も幼いなりに楽しんでくれたようだ。
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ちっちゃな可愛いワンちゃんとも触れ合えたしね~。
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ここ曽我梅林は❝神奈川の景勝50選❞に選ばれた場所の一つでもある。
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曽我梅林
なので本来は晴天だととっても眺望が良く、広大な梅林の向こうに富士山が見える。
こんな感じ・・・
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昼の梅林と富士山・・・
曽我梅林 久良岐のよし撮影
夕刻の梅林と富士山。
上の2枚の写真は過去の写真。今年はタイミング悪く前日と当日朝まで雨天だったので水蒸気で富士山が見えなかった。
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でも、まぁ午後は晴天にも恵まれて人手も多く賑わっていた。この時点で14:30位に成っていたが事故渋滞と母の鍵用水路で流す事件が発生したせいで、まだ昼食をとっていなかったので屋台と売店の食べ物を購入して昼食にした。
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全部粉物・・・帰宅したら午前中のケーキと水分と粉物で2kg体重が増えていた。
昨年79kgの体脂肪率15%の筋肉量60kgのバキバキ腹筋割れまで身体作ったのに、帰宅したら体重が87.5kgで体脂肪率も25%に成ってしまっていた(笑)。
・・・また、shape-up&Pump₋up始めます。2ヶ月で10㎏痩せる。
とりあえず今月中に5kgは脂肪だけ体重落したい。今日からジムで体組成測定再開して身体改造習慣報告記事を又書きたいと思う。

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まぁハプニングも有ったが梅も見れたので、小田原牧場のアイスを買いに移動した。
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小田原牧場アイス工房
ここのアイスがとても美味しくて、特に梅酒のアイスが御薦め!
最近は有名に成り土日はアイスだけ目的の車が来てしまうせいで、この時期の観梅客用の駐車場に停めようとする阿呆が続発して観光の妨げに成っていたりもする。
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まぁ~何とも言えないけどアイスは美味しい。
そして、この小田原牧場アイス工房側の曽我梅林駐車場から見る景色が綺麗なんだな。
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本来ならここから富士山が良く見える。
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御土産に曽我の梅干しを購入した。
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昔ながらの酸っぱい梅干しで小生の好物。はちみつ漬けは日持ちしないので梅干し本来の役割を果たしていないし、梅干しの本来の調味料としての役割でも使う事が出来ない。だから小生はオーソドックスな酸っぱい梅干しが好き。
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姪は屋台の食事が口に合わなかったらしく余り食べなかったので帰路、中井PAに寄って姪っ子に好きな物を選ばせて、下の姪っ子に車中食べる物と義弟夫婦への御土産を購入した。
ここは新鮮な野菜の直販もやっているので良い。
姪が買った物の写真は撮り忘れたが、まぁ喜んでくれたので良かった。
しかしここから又帰路、事故渋滞に巻き込まれて姪を弟の自宅に送り届けるまで2時間半位かかってしまった。着いた時には名はグッタリしていた。
御疲れ様!午前中の勉強と午後の勉強頑張ったね。

又、叔父ちゃんと遊んでくれると嬉しい。
でもあと10年もすると彼氏出来て遊んでくれないだろうね~(笑)。

今回の休日雑記はここまで。
今晩、中田加賀守の開いた2つの御寺のどちらかの記事を書きます~。












冒頭は昨日書いた姪が遊びに来た内容と同じだけど・・・
2019年02月23日、この日は朝08:30に弟の家の姪っ子が遊びに来た。
・・・小生は起床直後に姪から奇襲を受ける事に成った。
ガチャガチャ!
小生「何だ(ビクビクッ)?」
ガラガラ・・・
「オジちゃ~ん♪‼」
・・・姪っ子の施錠解除からの奇襲攻撃だった。
姪が遊びに来るのは知ってたが、こんな早く来るとも知らんしビックリした。
う~ん・・・いつも素っ裸で寝てるから偶然寒くて服着て寝てて良かった。だらしないオジちゃん見せないで済んだな。
朝食未だだったが、夫婦共働き(弟は自営業)の弟夫婦、弟が大阪出張なので、代りに昼前に姪を英会話教室に送り届ける事に成っていた。10時過ぎで良いって言ってたのに早すぎる!
で、昨日書いたブログの通り、姪と一緒に駄菓子の所にある風船作るオモチャを買いに行って時間潰しに遊ぶ事にした。
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最初は上手く行かなかったけど直ぐに上手に成って風船タワーが出来ました(笑)。
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姪は文房具とか小物とか駄菓子とか雑貨とかが好き(叔父の小生と気が合うのよ)なので、その手の場所に連れて行くととても喜ぶ。小生の両親は自分の考えを押し付ける人だったので、小生は子供にはそうするまいと心に誓っている。
遊びも手本を見せてコツを口で説明して、一緒にやって見せて直接手は出さない。
だから姪と雑貨屋さんとかに保育園~低学年の姪や甥を連れて行っても100円~300円とか渡して自分で好きな物を選ばせて自分で買うか決定させるし、これが良いアレが良いと言う誘導もしない。
買った物も「自分で持てる量だけ買うんだよ~?」と前置きして姪達が買った物は自分達で運ばせる。
ウチの親と伊勢原の義伯父は小生達が子供の頃、ザリガニを獲(と)りたいと言い出し伊勢原市の義伯父宅の近くの田んぼの用水路にザリガニを獲りに行ったら、親達がザリガニ獲りに必死に成り獲ったザリガニを子供に渡して来た・・・そう言う事じゃないし面白くないんだよな、それじゃ。
子供が自分で決めて自分の責任で行動するから、充実感も得られて失敗も成功も経験に成って自尊心も育つんだよ。
小生は親に自尊心を圧し折られる事ばかりされて来たので、絶対にそうしたく無いんだ。
・・・幸い小生の発想は子供に合ってるらしく妹とこも弟とこも子供達が懐いてくれていて嬉しい。
姪を送り届けてから遅い朝食を食べに11時ごろ横浜南部市場に移動した。
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最初、場外市場の御菓子問屋で買物してから場内の‟がってん食堂”に移動した。
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がってん食堂
がってん食堂は市場の食堂らしく安価で新鮮な海鮮と、鳥や豚等出汁(だし)の元に成る材料も調達できるので驚愕の値段で海鮮丼と拉麺のセットや美味しいハヤシライス等、市場の食堂定番メニューを食べる事が出来る。
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昨日は本日の海鮮丼&拉麺750円!
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超新鮮じゃないと食べられない生白魚、鯛(たい)、サヨリ、鱸(スズキ)の海鮮丼と超美味い醤油拉麺。
これで750円て、小生のブログで‟がってん食堂”初見の人はビックリするだろう。
但(ただ)し、横浜市営から外れて独立した南部市場の商店主達を潰したいのか横浜市の再開発(嫌がらせ?)で市場のど真ん中に在(あ)った買出し者用の駐車場が不可解に場外市場と場内市場を視界から寸断する様に工事壁が築かれて、場外~場内に移動し方が解(わ)かり難(にく)く成ってしまっているので小生が衛星写真に順路を書き込んで置こうと思う。
がってん食堂順路
―赤線が‟がってん食堂”の在(あ)る場内市場“水産棟”への順路。
〇青丸がってん食堂一般客用駐車場の位置。
がってん食堂の在る場内市場の水産棟と、対面の青果棟は朝の05:30~06:00くらいに一般客も買物出来るが07:00にはだいたい店は営業終了する。
もう横浜市営じゃないので一般市民も業者用の超絶新鮮な青果も海鮮も場内で買物出来る。

入口はシーサイドライン南部市場を降りて直ぐ目の前、其処(そこ)から入って直ぐ左に御客様駐車場も在る。
駐車場の目の前が場外市場で、こちらは大体、朝07:00から営業開始される店が多く13時位であらかた閉店する。
がってん食堂は朝の7時~12迄営業時間で、プロの仕入れ人だけでなく、近隣のビジネスマンや夫婦で買出しに来ている御客さんも食事に来る。本店が関内のフグ料理屋なので料理の味は本当に美味しい。
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この醤油拉麺も本当に美味い!
そして昨日は新鮮な鯛や白魚やスズキやサヨリの丼・・・
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繰り返すけど、これで750円て凄いでしょう?
腹ごしらえも終わり、会社に用事が有ったので電話で連絡して上司とコンタクトとってから車に乗り込んで田浦梅林に移動した。
この日の南部市場以外の行動予定は当初は曽我梅林&湯河原梅林だったのだが、午前中雨天で午後から晴れたのだが恐らく相模湾~箱根~青木ヶ原樹海は湿度が高くガスって梅林越しに富士山が綺麗に見えないだろうと予定を変更して田浦梅林&鎌倉市歴史文化交流館の企画展の大正時代の関東大震災の被害の展示を見に行く事にした。
南部市場から田浦梅林は車で30分程度。
でも到着したら駐車場が全て何処も満車だらけで、駐車できず先に鎌倉市歴史文化交流館を見に行き、田浦梅林は夕方に人が少なく成ってから再度来る事にして田浦から離れた。
位置関係 久良岐のよし
別に南部市場~横須賀市田浦~鎌倉市扇ヶ谷は車でそれぞれ30分の移動時間で大したロスには成らないし帰路も小生の家は円海山の麓なので六浦経由か大船経由に成るかの差で大して時間をロスする訳では無い。
しいて言えば正三角形に近い移動がS字の往復に変わる位(笑)。
鎌倉市に入り車を御成通りのコインパーキングに駐車、そこから徒歩5分で歴史文化交流館に到着。
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逗子で少し渋滞したので移動時間、だいたい40分くらいだったろうか?
この歴文は今は企画展で関東大震災の被害の様子と復興をテーマに当時の写真をふんだんに見る事が出来る。
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建長寺なんかの大寺院も悉く関東大震災で倒壊して、復興に檀家サン達の支援による相当な資金がかかったらしい。
今は当時と違って寺社建築の部材を作る職人も宮大工其の物も減ってしまったので、あと30年以内に来ると言われる次の関東大震災が発生したら鎌倉市の建築文化財も御神像や仏像等も元通りに修復~復興出来るかはハッキリ言って望みが薄い。
住宅販売業者が海外からプラモデルみたいな住宅キットを輸入して暴利むさぼり、ちゃんとした職人を壊滅の危機に追いやった責任は重い。だからこそ東急不動産のごとき土建屋は文化と自然の保護を重視すべきでトヨタ自動車やDENSOの様に技術継承をちゃんと行う職人育成や、円海山瀬上沢の蛍群生地の保護等に力を注ぐべきなんだな。
さもなくば、文化軽視のアナタ等の父祖の墓、日本文化と自然を大切にしないんだから祖先の墓も要らなかろう?先ずは自分家の墓所を破砕し父祖の遺骨をゴミに入れて捨ててしまえば?と思う。
まぁ辛辣な表現だが土建屋の中の無文化な部類の連中は、そうされても文句を言えない事を自分達がやってる自覚を持った方が良い訳だ。
ゼネコンの中の無文化な連中は本当に悪でしかない。司馬遼太郎先生も敵視してたがな。歴史作家のみならず自然学者や歴史学者以外にも宗教者の中にも、土建屋の無倫理史跡破壊や自然破壊を極左や極右のテロ行為並みに敵視してる人間が多いと言うのも自覚するべきだ。
さて・・・
企画展を見終えて、学芸員さんに幾つか質問をしてから田浦梅林に移動した。

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2019年02月23日時点、今年は冬至~初春が寒かった事もあり開花が遅れていて樹によっては2分咲き~多くても五分咲きと言う所だった。
まぁ~それでも涼しい空気と田浦梅林の今上天皇の生誕記念に1933年に大規模植林された梅林なので、古木も多く成り暖かくならないと咲かない株も多い。
なので見て来た感じとしては3月第一週の土日位が丁度見頃だと思う。
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一部陽当りの良い斜面は見頃に近い。
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紅梅の方が開花が早い様(よう)だ。
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まぁ少し早かったけど、ここは頂上からの眺望が良いので少し咲いた梅と足元の推薦を見ながら頂上展望台に向けて歩を進めた。
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水仙はそろそろ終わりの季節かな?多分、今頃は鎌倉市の稲村ヶ崎公園の水仙が綺麗に咲いているんじゃないかな?
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ここ等辺りはまだこれから、あと2週間は観梅を楽しめそうだ。
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3年前に来た時は、丁度良い満開に鶯(うぐいす)が群がりとても可愛らしく風流で日本らしい季節感を演出してくれていたんだな。
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その時にスマホで撮った写真。
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まぁ、昨日は午前中雨だったので晴天とはいえ空もガスっていて少し暗かったのだが、空気感は清々しくとても良かった。
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この山の向こうに“田浦廃村”と言う再開発計画が頓挫して500戸程の住宅が放置されてたゴーストタウンが在り廃墟マニアには有名だったのだが、今年、再開発計画が再始動して取り壊しが始まってるらしい。一度見て見たかったが、やはり浮浪者が住み着いたり放火されてしてしまうので警察官が頻繁に巡回していると情報があり行かなかった。
まぁ~史跡には興味有るけど廃屋は色々と怖いからいいや・・・と言いながら人が何千人も死んだ古戦場に普通に行くのはやはり趣味趣向の微妙な差の問題(笑)。
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梅って白にピンクがかってとても綺麗だね~。
花の中で一番好きなのが梅、次が山吹かな~。
桜も好きだけどね~。
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そして頂上に到着。
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めちゃ景色良いし、頂上は芝生で気持ち良い。
だからデートに来てるカップルや夫婦や子連れもいて、寒い天気でもホッコリする空気感が流れる場所が田浦梅林なんだな。天皇陛下は今年御退位されて上皇に成られる訳だけど、今上天皇の誕生日に植林開始された梅林が寒空でも天皇陛下の御人柄の様に人々をホッコリ暖かくさせる憩いの場に成っているのは何だか感慨深い。
そして古木も多く成り梅も疲れ始め新しい株の植林も始まっているので、天皇家と同じく田浦の梅林も代替わりが始まっているんだな。
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高速道路、横浜横須賀道路が見える。少しいくと衣笠インターチェンジ、つまり鎌倉武士団で源頼朝公の最大の支援者だった三浦一族の居城、衣笠城がこの先に在る。
少しストレス溜まっていた小生、午前中に姪が遊びに来てくれて、昼に美味しい魚食べて食欲を満たし、久しぶりに歴史欲(笑)を鎌倉歴文の学芸員さんとの情報交換で満たし、田浦梅林で清々しい気分に成り良い一日に成った。
そうそう・・・
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今年も帰りに田浦商店街の“ふじみや”の絶品スイーツ“梅どら”を買った。
田浦 ふじみや 位置 久良岐のよし
ふじみや菓子店
ここは米軍基地の軍人サン達も観梅に来た御土産として人気の店で、本当に和菓子が全て美味しい。
特に田浦梅林の梅で作った爽やかな甘露煮が入ってる“梅どら”が美味しい。
以前は息子さん夫婦が三浦海岸駅の近所で支店をやっていたのだが、そちらは場所柄人口も少なく店を閉店してしまったので今は横須賀市田浦の本店でしか買う事が出来ない。
とにかく美味しいので田浦梅林に観梅に行く予定の在る人は必ず食べて!と強硬に推薦する程に本当に美味しい。
小生は職場の上司と友人と両親への御土産と自分用(笑)に10個買った。
あと横須賀の相模湾側名物の“へらへら団子”もこの店で生産しているので購入する事が出来る。

最後に美味しい梅どらも食べて、良い一日に成った。

そう言えば本日2019年02月23日と来週は岡村梅林でもイベントが有りますよ~♪
2019年岡村梅林の夜間ライトアップ
岡村梅林2019年茶会
小生は仕事で行けませんが、御近所の方は行かれて見ては如何でしょう?
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昼なら車で直ぐの近所には横浜市電保存館もあって子連れでも楽しめると思います。

次は中田加賀守の御城址の御寺と菩提寺のどちらかの記事を書こうと思っています。
・・・では次の記事で御会いしましょう。






杉田商店街のメインストリートが昭和初期まで重要な街道だった事を皆さんは御存知でしょうか?
そんな重要な街道を繋ぐ杉田商店街のメインストリートの脇道、少し住宅街に入った場所に杉田商店街が開かれる以前の古道が今も残っているのを横浜市民のどれだけの人が御存知でしょうか?
少し脇道に入ると今も頼朝公が歩いた聖地巡礼の古道です。
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杉田商店街、実は歴史的に重要な場所に立地しているんです。
源頼朝公が深く信仰した重要な修験道系の神社、現在の伊勢原市大山国定公園の大山阿夫利神社と大山寺の聖地の大山山頂を繋ぐ古道て、頼朝公が平安時代末期に杉田に開かせた由緒有る神社の参道の旧街道の交差点が今でも100均ローソンから徒歩3分の杉田の中原地区に今も存在しています。
その神社は明治に成る迄(まで)修験道系の聖地として大切にされ大靈山泉蔵院桐谷寺と呼ばれていました。明治時代の神仏分離令で只の熊野神社と名前を変えてしまいましたが、実は江戸時代に成る迄は❝泉蔵院❞の院号や❝山崎泉蔵坊❞の御坊としての名で多くの古文書に記録されています。
そして遠く杉田商店街から離れた同じ修験道系の聖地であり神道でも仏教でも大切にされて来た縄文時代からの神聖な場所、伊勢原市大山国定公園の全域が聖地の大山阿夫利神社と大山寺と言う神社仏閣が存在しますが・・・
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実は神奈川県内の修験道の聖地として大切な大山阿夫利神社と大山寺の在る大山と杉田商店街は一本の道で繋がっているんです。
歴史を知らない人が他所から来て市役所の役人に成る事の多い横浜市は、杉田商店街の発展には無頓着だし❝杉田梅❞と言う日本で最高のブランド梅の梅林が広がった杉田梅林の伐採許可を出して旧来の文化と歴史の名残は今では余り感じられませんが、実は杉田商店街を歩くとそんな歴史を少しだけ今でも垣間(かいま)見る事が出来るんです。
・・・実はね、杉田商店街のメインストリートは以前、杉田間宮陣屋の解説記事でも説明しましたが聖天掘(せいてんぼり)と言う川に蓋(ふた)をした暗渠(あんきょ)の上に敷かれた道なんです。この大工事の末に整備され今では横浜市がおざなりにしている道が源頼朝公が大切にされた横浜の修験道の聖地の泉蔵院~伊勢原市の大山阿夫利神社を繋ぐ近代の新道で名を❝横浜・伊勢原線❞と言う地方主要道路だったんです。
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大山阿夫利社(延喜式内社)大山阿夫利神社に関しては以前紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
大山阿夫利神社と灯籠祭りの夜景と参道温泉街…伊勢原市。
この横浜伊勢原線と呼ばれ、磯子区部分を杉田街道と呼ばれた道の起点が杉田商店街の国道16号線側からの入口です。
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ここが起点と成り、伊勢原市の大山阿夫利神社へと続く最後の宿場町の高部屋神社前、伊勢原市上北ノ根まで続いていますが、この事を横浜市役所の人間でも知る人は少ないでしょう。
横浜伊勢原線終点 伊勢原市上北ノ根 久良岐のよし
大山詣りをする人は古代から多く、大山山頂からは縄文時代からの神事の遺跡が出土し、神社の中でも延喜式内社と呼ばれる最古級の格を確認出来る大山阿夫利神社と別当寺だった大山寺が在り、奈良時代にも行基大僧正が上粕谷神社等の修験道系の❝大山道❞の中継地点と成る場所に宗教施設を設置し、一帯には国府レベルの史跡と祭祀遺跡と古墳がゴロゴロ出土しています。
そして最盛期は室町時代~明治時代の600年間位の期間で、正に地方主要道路❝横浜・伊勢原線❞は重要な宗教的な聖地を結ぶ観光や商業の道路として開かれた事が解かります。
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杉田商店街から久良岐(くらき)郡の名残を地名に残す❝栗木❞方面に歩いて行くと、明治時代の大工事の名残に出会う事が出来ます。
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よく観光地にある雷神堂と言う御煎餅屋さんを通り抜け、インドカレーの御店や飲屋さんや郵便局より更に先に行きます・・・
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すると上の写真の通り浜中学校の下の道が大きな切通地形に成っているんです。
実はここは明治時代に造られた❝隧道(すいどう=トンネル)❞が存在した名残で❝杉田街道❞と昔は呼ばれ知らない人がいなかった道の一部なんです。
ここは明治時代初期までは道は無く崖地で、当時の重要な道はこの道より北側の山の上を超える❝桐ヶ谷(きりがやつ)道❞と浜中学校側の山を登る道しか有りませでした。近代に成ると物流や人の移動に❝馬車❞が運用される様に成ります。そして明治天皇の全国行幸(みゆき)が開始される準備として多くの明治の新道が建設されました。国道16号線根岸~磯子~金沢地区の埋め立てが完了し泥亀のバイパスが整備され完成するのは昭和40年代初頭の話しですからね。
❝トンネル❞だったのですが関東大震災の際に崩落してしまったので、山を改めて削り取り❝切通し❞に生まれ変わりました。この歴史からも判りますが、現在も崩落危険個所指定を受けている崖地が杉田~笹下~屛風ヶ浦~磯子には多く有り、それは地盤が砂岩と泥岩の脆い地層で出来ているからなんです。
逆に言うと戦国時代には御城を造るには加工し易い地形で丘の平坦部分は地盤も強固で地震に強いし標高も高いので津波の心配も無い訳ですね。
そんな丘だらけの地形の不便さを解消するべく作られた杉田街道のトンネルは明治天皇の為に造られた物ではないでしょうが、当時の久良岐郡の役所は現在では区が解かれてしまった港南区笹下の❝関❞と言う場所に郡役所が存在し、皇族の方々は杉田梅林を見学する為に笹下の石川楼と言う料亭に宿泊され杉田梅林迄来られたので、トンネルは皇族の為に造られたのかも知れません。
戦国時代~江戸時代中期迄杉田郷を治めた間宮林蔵の祖先の間宮家とその一族が杉田梅林を植林したのですが、分家の杉田間宮家の菩提寺である杉田の牛頭山妙法寺には明治に皇族の方々が梅林へ度々観梅にいらっしゃっていた記念碑が今も有ります。
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さて、そんな杉田街道の起点も昔は川で、江戸時代までは源頼朝公が歩いた住宅街の中の❝古道❞と成っている❝桐ヶ谷道❞が残っていますが、少し判り難い位置に在ります。
では古地図を見て見ましょう・・・
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印を付けた場所が旧街道の入口の交差点です。
これは迅速測図と言う明治新政府が全国の地形測量をさせた地図ですが、この地図が制作された頃はまで江戸時代の地形のままの場所が多く、修験道の神仏混交の道場だけが❝神社化された名前❞で表記されています。
御覧の通り、杉田商店街はまだ❝聖天掘=聖天川❞で一本南にズレた道がメインストリートだった事が判ります。丁度、セブンイレブン杉田3丁目店の前の道ですね。そして黄色い★印が聖天堀を暗渠にして繋げた杉田街道と修験道の聖地だった泉蔵院=熊野神社の古来の参道と繋がる桐ヶ谷道の交差点でした。
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今も昔の道路の名前が解かる道路標識が立っています。でもここの行き方解り難いですよね?
もう一度古地図を見て見ましょう。
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印の在る杉田街道と泉蔵院時代の参道と桐ヶ谷道の交差点に成る所に今現在は小さな商店の長屋が存在していて、御店の有る場所が平安時代~戦国時代~明治時代~現代を繋ぐ時代の交差点でもあるんですね。
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水色のマーク「指定した地点」と表示されている場所が2ヶ所有りますが、左上は映画の「恋は雨上りのように」のロケ地で、右下が迅速測図の印の交差点に当たる場所です。
この交差点は、新杉田側から杉田商店街に入り~浜中学校~栗木方面に向い歩き、100均ローソン横の脇道の次の住宅街に入る道路との丁字路です。
その余り大きくはない住宅街の道路を真っ直ぐ進みます。
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すると上の写真の中途半端な「石碑かな?」と思う何も書いていない変な石が角に在る交差点に行き当たります。杉田商店街側から入って来ると石碑?の左手に曲がる少し上り坂に入っていく交差点ですね。
その上り坂が昔の杉田街道の前身と成った桐ヶ谷道の続きで、ここから山を越えて笹下釜利谷道路=金澤道(かねさわみち)=六浦道(むつらみち)へと続いて鎌倉に行く主要街道と、笹下釜利谷道路を田中方面~笹下~関の下~吉原~舞岡~戸塚と抜ける旧鎌倉街道に連結するとても大切な道の❝追分(おいわけ)❞がこの変な石の場所だったんですね。
この道は杉田街道が整備されて重要性が無くなるまでは笹下釜利谷街道へ行く為に徒歩で通行する人が多かった事でしょう。ここを桐ヶ谷道を西に進まず、更に商店街側から直進して北に行くと源頼朝公が開いた聖地の熊野神社、旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺が存在します。
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熊野神社(旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺)元々は鎌倉市大船駅前の丘の山崎地区に存在した修験道大道場の御坊様が源頼朝公の命令で久良岐郡杉田郷中原村に、この杉田中原地区の熊野神社を開きました。後に新田義貞の鎌倉焼討ち等の戦火で山崎の泉蔵坊が荒廃したので本社機能を現在の中原の熊野神社に移転し、靈山泉蔵院桐谷寺と名を改めました。その後も各時代の統治者に大切にされ、江戸時代に代々徳川幕府の鷹匠頭を務め杉田を治めた杉田間宮家の殿様や本家で久良岐郡北部や佐渡金山や生野銀山を治めた笹下間宮家の殿様から大切にされていたいので古文書にも度々登場します。
間宮敦信公泉蔵院宛て書状。久良岐のよし
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
これは古文書を小生が書き起こした画像ですが、まぁ、こんなものが沢山残っています。
この文書からも判りますが、間宮家が大切にしただけでなく、熊野神社の大親分である那智大社やなんかの熊野三山と呼ばれた修験道の聖地の神社ととっても関係の深い格式の有る神社だったんですね。
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そして泉蔵院の熊野社は少し高い場所に在るので江戸時代に杉田梅林を見物する観光地としても有名だったそうで、現在でも社殿の東側の崖地からは杉田の街並みが一望出来ます。
泉蔵院についても以前、紹介記事を書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。

写真で正面に見える丘が妙法寺の境内地の裏山で、恐らく戦国時代には杉田間宮家が籠城する要害だったはずです。
まぁ、古文書にも登場し源頼朝公や間宮家が大切に守った修験道の聖地の一つ❝泉蔵院の旧参道❞と❝桐ヶ谷道❞そして日本レベルで大切な❝大山阿夫利神社❞を繋ぐその明治の❝杉田街道❞との❝聖なる交差点(笑)❞に立地するのが杉田商店街な訳です。
さて、小生、このブログ書く為に改めて浜中学校下の切通の写真撮りに行ったり、丁度腕が神経痛みたいに成ってたので久しぶりに町の銭湯にユックリつかりたくて熊野神社への参拝と浜中学校下の切通し写真撮影に合わせて杉田商店街の裏にある杉田湯に入りに来た訳です。
車なら円海山の麓の自宅から10分ちょい位なのでそう遠くないですしね~。
そして、この日は弟方の姪っ子がウチに来る日だったので御土産に杉田商店街の雷神堂で御煎餅を買って帰りました。
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雷神堂 杉田店
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小生の妹や弟妻君の義妹はどうも食べさせるものに煩(うるさ)くて、スナック菓子とか食べさせると良い顔しない。だけど御煎餅とかなら嫌な顔しないので、杉田の御土産にはいつも菓子一の❝うめさやか❞か雷神堂の御煎餅を買っている。
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菓子一
菓子一に行けば杉田間宮家の間宮信繁公が残して下さった梅林文化を今でも垣間見る事が出来るからね。
浜中学下の切通しの写真撮影をしたこの日、実は杉田商店街でずっと行きたくて訪問時間がいつも合わずに入りに行けなかった念願の杉田湯にやっと入れました!
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その場所は杉田商店街~泉蔵院熊野神社に行く旧参道を途中を少し曲がった場所に在る。
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杉田湯昭和30年代創業の昔ながらの銭湯、杉田湯さん。ずっとずっと、東漸寺さんや妙法寺さんや泉蔵院の御参りや雷神堂や菓子一に買物に来る度に地図で見て「行きたいな~」と思いながら、営業時間が午後15:30~21:00となかなか時間が合わずに入りに来る事が出来なかったんだな。
今回、杉田湯に初入浴!
入口はこんな感じ。
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う~ん良いね良いね~♪
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居酒屋の下駄箱みたいな下駄箱。昔は良く見たよね。
小生の実家の近くにも昔は銭湯が有ったのだけれど、今では全滅してしまった。スーパー銭湯も好きだけれど、昭和の風呂屋の情緒はやはり銭湯に行かないと味わえないよね。
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そして玄関入っていきなり女湯男湯に分かれる・・・
左を覗いてみたいとは思わないよ、うん、決して思わない。
覗くくらいならちゃんと彼女つくって存分に一緒に混浴して貰うから。見るだけで触れないで捕まるとか阿呆な痴漢の行動原理が理解不能。
・・・そして❝男湯❞の扉を開いて中に入って先ず最初にした事はトイレにいって💩うんちした(笑)。
この日はずっと港南台のホームセンターと杉田を小用で往復していてトイレ行ってなかった(笑)。
風呂場の写真も撮りたいけれど、流石に無理なので皆さんには御覧頂く事は出来ません(笑)。
一応、御風呂の情報としては昔ながらの銭湯なので❝石鹸❞とかアメニティーは一切合切持参するか、番台のオバちゃんから購入する必要が有ります。小生はハンドタオルとバスタオル持参してましたが石鹸とシャンプーが無いとは思わず準備不足でした。入浴料金は480円で木曜日定休だったかな?
浴場は昔ながらの木造の高い屋根に壁には富士山の絵、そしてスーパー銭湯と異なり地元の御客サンばかりなので騒がしくなくとてもノンビリとくつろげました。
番台のオバちゃんと話して杉田湯の歴史とか色々教えて貰って「又来るね~!」と小生が言うと、少し笑顔で「又宜しくね!」と言ってくれました。
妙法寺にもしょっちゅう殿様の御墓に御参りに来てるし泉蔵院にも御参りに来るし、雷神堂とか菓子一にも買物来るから必ず入りに行こうと思う。
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湯上りの至福の時、苺オレ。瓶のはもう無いんだね~。小生はフルーツ牛乳より苺オレ派。
そして帰宅して・・・
忘れてたんだけど、この日の夜に語学教室行かないと行けなくて、風呂でくつろぎ過ぎて横浜の学校についた時には30分遅刻してしまった。
杉田湯の番台のオバちゃん、又、御風呂入りに行ったら話し相手に成ってね~♪

さて、皆さん、まさか商店街が歴史の交差点だったなんて思わなかったでしょう?
きっと皆さんの家の近くにも思いがけず歴史偉人と繋がりのあるタイムマシーンみたいな神社や御寺や御城の跡の公園があるはずです。
・・・だから少しお出掛けして散歩してみませんか?

では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪














2018年06月01日金曜日、小生は休み。
午前中は某外国語学校、そして日本のアウトレット先駈けとして一時代を築いた❝横浜ベイサイドマリーナアウトレット❞が本年09月をもって一時営業終了し、09月02日~2年間かけて3F建ての新施設建造リニューアル工事するとの事。小生行きつけの店から閉店セールの通知が来ていたので行って見る事にした。
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❝恋雨❞のロケ地でもある杉田から横浜シーサイドラインに乗車してベイサイドマリーナにて買物した後に、恋雨の聖地巡りをする計画で行動。
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久しく乗車していなかったが、このシーサイドライン沿線もドラマやアニメのロケ地に良く成っている。
釣りバカ日誌や、最近じゃ不倫ドラマ❝昼顔❞なんかも度々このシーサイドライン沿線でロケしている。
ベイサイドマリーナのアウトレットは❝鳥浜駅❞で下車。
ダイエットも結果を出してアスリート体型に成れたので一段落、祝杯代わりにソフトクリームとアイスコーヒーを堪能した(笑)。
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ところで、ベイサイドマリーナのアウトレットの閉店セール、本当に安かった!
凄い物は50%OFF!更にそこから4点買えば20%値引きの更に三井アウトレットパークのクレジットカードで支払いして5%割引で、何と小生は服をチノパン1着とシャツ3着の合計4着購入、定価で2万円強の価格の品が1万円チョイで購入する事が出来た。

さて、買い物が終わると❝恋雨聖地巡り❞の一箇所でもあり交通の要所として聖地巡り基点として適した杉田に戻った。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
この日は❝恋は雨上がりのように❞のロケ地で歴史ブログ書くために散々横浜市内の住宅街も走り回って自分の見知っている場所を写真に撮影したかった事も有り、ロケ地の一つである屛風ヶ浦~杉田商店街の間の住宅街等は車を停めれないので公共交通機関と徒歩を駆使して移動する事にしていたからね。
まぁ、主人公の❝あきら❞サンも電車とバスで風見沢高校まで通学してる設定だしね~。

杉田からはロケ地の港南台円海山へ行くのにJR新杉田駅から港南台駅にも出られるし、杉田駅近くのロケ地を見た後でバスで舞台の氷取沢高校方面やロケ地の能見台~氷取沢地区にも行ける。
無論、今回は廻らなかったがロケ地である京急能見台駅やJR桜木町駅前のジョナサンにもアクセスしやすい。

今回小生が訪問したロケ地は以下の通りで、その最寄り駅は下のGoogleearth画像に表示した場所だ。
恋は雨上がりのように ロケ地最寄り駅 久良岐のよし
だいたいの場所を知っていて訪問し詳細特定したロケ地は以下の通り。
●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点
・・・最寄り駅=1,JR新杉田駅or京急杉田駅、2,能見台駅
1,杉田駅or新杉田駅~横浜市営バス杉田小学校前(バス停)~下ヶ谷(バス停)~徒歩8分
2,能見台駅~京急バス能見台駅(バス停)~能見台1丁目(バス停)~徒歩2分

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁
・・・最寄り駅=同上

●京急線のアンダーパス
・・・最寄り駅=JR新杉田駅~徒歩8分、京急杉田駅~徒歩4分

●町を見下ろす風景の長い下り坂
・・・最寄り駅=JR港南台駅
1,JR港南台駅~市営バス港南台駅(バス停)~港南環境センター前(バス停)~徒歩8分
2,JR港南台駅~徒歩20分


では映画の予告動画の画像と、実際に小生が現地で撮影して来た写真で比較しつつ周辺情報も交えて紹介したいと思う。

●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点・・氷取沢高校近くの能見台グラウンド前
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
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住所クリック⤵でGoogleMapにリンクします!
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台1丁目
ここ等辺りは円海山の麓(ふもと)に住む小生にとっては庭みたいな場所なので団地の映像を見て直ぐに解った。近くには日本100名城の一つ八王子城を縄張(なわばり=設計)した間宮綱信公の居館である氷取沢陣屋と横浜市が保護せずマンション建設で破壊された陣屋址に在った氷取沢間宮家の土地神様の氷取沢神社や間宮綱信公の菩提寺の宝勝寺も存在する。参拝すれば知恵者であり北条家外交官として織田信長公に厚遇された間宮綱信公の外交的なセンスと知力の御利益に預かれるかもしれない(笑)。
それと、横浜家系ラーメンの創始者である総本山吉村家の吉村社長の愛弟子の中で杉田家の津村サンと1、2を争う実力者として有名な鶴巻サンの店の王道之印も近くに存在する。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
→王道之印(横浜家系ラーメン創始者吉村社長の有名な弟子、鶴巻氏の店)
→氷取沢神社(八王子城縄張り、北条家外交官として織田信長公との外交で活躍した間宮綱信公の土地神様)
→宝勝寺(間宮綱信公の菩提寺で、室町幕府鎌倉府の最後の鎌倉公方である足利成氏公所縁の寺)

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁・・・能見台グラウンド横のメガロン能見台擁壁
恋は雨上がりのように 予告 タイトル
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GoogleMapにリンク⤵
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台2丁目
最初、氷取沢高校の横のバス停前かと思ったが、現地に行って見て改めて地形を観察するとバス停付近の擁壁道路には実際は歩道が有り又、ブロック擁壁の下には画像と違って路肩が無かったので直ぐにバス停の傍がロケ地ではない事が判った。
・・・これも城跡を多く見て地形観察する眼力が向上した賜物か(笑)。
それで「あ~団地の周りだコレ」と解った・・・
更に映像をスマホで見て観察すると、コンクリート擁壁の排水管から❝コンクリートの石灰質が溶解して出来た白い染み❞の存在に気が付いた。それでピンと来たのだが、先に紹介した❝ドリフトT字路(笑)❞の能見台グラウンド隣のメガロン能見台と言う集合住宅の台地の擁壁コンクリートに雨水で出来た石灰質の染みが有るのでドンピシャで当該地形を特定出来た。

●京急線のアンダーパス(熊野神社泉蔵院参道)・・・京急杉田駅北側、杉田小学校西側のアンダーパス
恋は雨上がりのように 杉田ロケ地 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒235-0036 神奈川県横浜市磯子区中原4丁目2
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ここは地元、磯子区杉田のゆるキャラのウメニ―に特定して貰った(笑)。
地形的に屛風ヶ浦~杉田の間だとは推察していたのだがハッキリ解らなかったのでウメニーに憑依している人(笑)に聞いた所、ウメニ―は小生のスクショ見て瞬殺で特定してくれた。
源頼朝公が鎌倉市山崎に昔は存在した修験道の聖地、山崎泉蔵院の高僧に命じて開かせた泉蔵院熊野神社の参道の石碑が目印。
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杉田駅側から屛風ヶ浦駅側に向かって歩くと熊野神社参道の石碑が在る徒歩3分位の位置。
杉田は徳川家康公の参謀で江戸幕府初代鷹匠頭を務めた間宮信繁公の旧領で、関ヶ原の戦いで徳川軍を勝利させた名軍師。特殊部隊である鷹匠鉄砲部隊50人で毛利家の本陣南宮山を偵察し徳川本隊3万を前進させ小早川勢寝返りを誘引させる事に成功させた人物。そして戦国時代~昭和初期まで高級梅として有名だった幻の杉田梅の杉田梅林を植林させた人物でもある。杉田梅林は明治に成っても皇族が度々訪れる観光名所として有名だったが皇族の聖跡の杉田梅林も横浜市役所が戦後保護を怠り開発許可を出し消滅させた。杉田梅は現在では小田原市曽我梅林に植林された物が現存する。杉田商店街に在る❝菓子一❞と言う和菓子屋で、杉田梅林文化を受け継いだ梅の和菓子を現在も販売していたりするので御土産に御薦め!泉蔵院は源頼朝公や北条家最強の黄備え隊大将北条綱成公の副将だった間宮家の信仰を集めた神社なので必勝祈願の御利益も期待できる。近くには日本武尊伝説の聖地が弘法大師によって仏教化され戦国時代に間宮信繁公等杉田間宮家の菩提寺に成った牛頭山妙法寺も在る。又、臨済宗関東十刹の一つで大きな釈迦堂が現存する東漸寺も存在する。何(いず)れを御参りしても知恵と勝利の御利益が期待出来る。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
泉蔵院熊野神社(源頼朝公が開き間宮家が支援した勝負と治水の神様のパワースポット)
菓子一(昭和初期までの横浜名物杉田梅の文化を継いだ和菓子店)
東漸寺(鎌倉幕府名越北条家が再興し、戦国時代に間宮家が支援した臨済宗の名古刹)
妙法寺(日本武尊神話の舞台の一つで、徳川家康公の参謀の間宮信繁公の菩提寺)
杉田家(新杉田駅近くの横浜家系ラーメン発祥地で吉村家旧店舗前に在る吉村社長の秘蔵っ子、津村サンの店)
ついでにウメニ―は杉田小学校の生徒が生み出したキャラクターなので、出来れば皆で子供を育て可愛がる様に❝恋あめファン❞にもTwitterフォローして頂けると旧久良岐郡民の小生としても嬉しい。
ウメニ―のTwitter→https://twitter.com/umeny_sugita

●町を見下ろす風景の長い下り坂・・・円海山山頂下の坂道
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒234‐0054 神奈川県横浜市港南区港南台8丁目
実は横浜市で標高最高地の円海山でロケされている。ここに至る目標としてはGoogleMapで❝円海山❞とさえキーワード入力すれば誰でも来られる場所。バスに乗らなくても歩いて来る事も出来る。
横浜市では貴重な鎌倉市まで繋がる大森林が現存し自然公園として歴代横浜市長に守られて来たので、円海山山麓の瀬上沢は現在でも蛍の大生息地として有名。又、一年を通じて晴天の日には夕焼けに染まる富士山やダイヤモンド富士、そして横浜市最高所からの夜景の名所として横浜市民に愛されている。
しかし近年、東急グループが土地を買収し自然破壊と蛍生息地が壊滅する宅地開発を計画し林文子市長も歴代市長の自然と円海山の保護政策を否定する東急グループ擁護発言を行い、林文子市長と東急グループにより現在の映画ロケ地や横浜市最後の蛍群生地と自然は破壊の危機に神している。
円海山山頂へ続く長い坂のロケ地位置GoogleMapリンク
円海山の蛍の大生息地瀬上沢と富士山と夜景の絶景スポット写真紹介記事リンク

因(ちな)みにTwitterで小生が暴露した❝恋あめ❞の舞台❝風見沢❞の架空地名由来、反響が大きかったので少し紹介したいと思う・・・
風見沢は実は小生のハンドルネームの❝久良岐のよし❞の元ネタである横浜市南部の旧行政区分:久良岐郡に存在した地名に由来している。
風見沢、この仮の地名は実名しないが、由来に成った場所は舞台と整合しハッキリしている・・・
風・・・屛❝風❞浦(びょうぶがうら)
見・・・能❝見❞台(のうけんだい)
沢・・・氷取❝沢❞(ひとりざわ)
・・・この上記の町名や江戸時代までの旧地名から駅名やバス停の地名として残る場所をくっつけてつくられている。そして、これらの舞台は横浜らしい坂の多い旧久良岐郡地域の丘の上に面した場所なのでロケ地にも坂道が多く登場する訳だ。
現在、❝屛風ヶ浦❞と言う明治まで別荘地として繁栄した風光明媚な断崖絶壁の海岸が横浜市中区~横須賀市域まで10km近く長く続く地形に由来した住所は、他地域からの移住者役人だらけのアホの横浜市役所と旧郵政省によって消滅させられ存在しない。埋立地にして景勝地を消滅させてしまった事を隠蔽する為か屛風ヶ浦の地名ごと消し去られたが、それに歯向かう様に郷土横浜の景勝地だった文化を引き継ぐハマっ子達と京浜急行電鉄は駅名や店舗の支店名として今でも屛風浦駅近辺に旧景勝地の誇りを引き継いでいたりする。
恋は雨上がりのように ロケ地周辺地形 久良岐のよし
御覧の通り、舞台の中心である能見台~杉田~本牧半島にかけて現在でも旧海岸線は断崖絶壁の海蝕岸壁丘陵が続く。もっとも、海蝕岸壁とは言われるが当該地は応長の大津波の伝承や三浦半島の西側が隆起し東側が沈下するプレートの境界線である事からも、この崖は巨大な断層と考えた方が自然だろう。
能見台は江戸時代迄は東青野台と富岡と呼ばれた地域を宅地開発した際に新設された地所名で、丘の上に閑静な住宅地が広がる。元々は兼好法師こと徒然草の筆者で真言宗の僧侶だった吉田兼好が愛して住した金沢八景の景勝の由来に成った地域を一望できる能見堂と言う禅宗曹洞派の仏教草庵の寺院名が由来と成っている。
氷取沢は地名由来に諸説有る。一説には鎌倉幕府の将軍や執権北条家、その後の室町幕府鎌倉府の鎌倉公方に献上する氷室(ひむろ=氷の貯蔵庫)や氷その物を採取する沢が有ったからとも言われているが、小生の様な歴史オタクや郷土史家の多くの意見としては氷取沢地名の由来は、そもそも❝氷❞取沢は❝火❞取沢と書き製鉄の盛んだった場所で戦国時代にも鍛冶師が住した地域なので蹈鞴(たたら)製鉄の溶鉱炉の灯りが夜も明々(あかあか)としている火の燃える様子に由来すると言う説も可能性として指摘する所でもある。
そんな地域で奈良時代には先進的な地域で鎌倉時代には武家最高の教養を備えた金澤北条家と名越北条家の根拠地だったのだが、鎌倉幕府を攻撃した新田義貞の乱暴狼藉で周辺地域は多くの神社仏閣や村々は略奪の被害に遭い焼き討ちされ室町時代に一時期荒廃した歴史も有る。
戦国時代には江戸時代の杉田玄白や間宮林蔵や間宮士信等凄まじい学者達の祖先であり、北条家五色備え黄備え隊の軍師副将として活躍した間宮康俊公や徳川家康公の参謀として活躍した間宮信繁公や間宮直元公、東京都の浅草寺の僧正を輩出した伊丹家の根拠地だった場所でもある。
主人公の❝あきら❞サンが通い、恐らく原作者の❝眉月じゅん❞先生が愛した屛風ヶ浦~杉田~富岡~能見台~円海山は、戦後の横浜市役所が景勝地の自然を破壊するまでの昭和初期までは鎌倉以来の武士団の文化教養として源頼朝公や金沢北条実時公や北条早雲公や太田道灌公や徳川家康公にも大切にされ観光地として有名だった場所なんだな。
そこで作者の眉月先生も人生の一時期を主人公あきらサンみたいに過したんですね~。

さて、余り歴史に興味が無いかも知れない❝恋あめ❞ファンもいるかも知れませんが、舞台の町、そして架空の人物だけど主人公あきらサンや店長が働く能見台の町、ロケ地となった横浜市金沢区~磯子区~港南区~中区一帯の事、少しは興味持って貰えたでしょうか?
少しだけ紹介しましたが、このロケ地周辺には歴史偉人が大切にした御利益の有るパワースポットの神社仏閣御や蛍が大量に見れる横浜市最後の自然の聖地や、戦国時代以来の横浜の梅文化に根付いた美味しい和菓子屋さんや横浜家系の発祥地杉田駅周辺には家系総本山吉村家の吉村社長直弟子のラーメン屋サンも有ります。
皆さんが恋アメ聖地巡りの際の食事や観光や土産の参考に成れば幸いと思い、記事にしました。

では、皆さんにとって、この映画とロケ地巡りが良い人生の糧に成ります様に願います♪

・・・次に書く記事ではガッチガチの歴史解説か鎌倉の秘密のパワースポットの紹介をすると思います。


恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
公式ホームページURL→http://koiame-movie.com/#/boards/koiame
主題歌「フロントメモリー」MPV→YouTube公開動画


2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
杉田~富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくす・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ沢山の蛍の見れる季節に成る貴重な横浜最後の自然が残る金沢区~栄区~磯子区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
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富士山の赤富士とダイヤモンド富士の景勝を見られるポイントとしても夕日の撮影が趣味の人達には広く知られています。
恐らく知らないのは❝築地育ち❞の林文子市長くらい。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
Google map→リンク
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守って来た❞貴重な自然を子供達の為、日本文化と自然保護の為に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 
〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









本当は今日はコッチ
       ↓
【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)
 ↑ 
コレの続きの記事を書かなきゃいけなかったんだけど、1月2日と同じSuper moonでの皆既月食が見れたので、そっちの事を少し書こうかなと。

2018年01月31日、この日はSuper Moonの皆既月食・・・
横浜市の最高峰の円海山へと登り月食の様子を撮影に夜9時半頃からずっと観察してた。
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スーパームーンの皆既月食を観察する為に夜ジムに行かずに、横浜市最高峰の円海山の中腹の在る所に・・・そこは円海山の木々が少し開けた場所で星空が良く見える。
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そこで寝そべりデジカメを両手でシッカリホールドして皆既月食を撮影してた・・・
「クッソ寒い(笑)」
・・・でも夜の冷気と古代人が大切にした円海山の清々しい空気で最近クサクサした心が少し晴れた。
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2万円の安いデジカメを持参、望遠レンズも無し三脚も無し、別に天体観察オタクでも無いので歴史オタクの小生はこのクオリティーで満足。
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思った以上に綺麗に撮影で来たかな?
でも手振れが激しく(笑)月が分身した写真が何枚も撮れてしまった(笑)!
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まぁ、これはこれで面白い(笑)!
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誰もいない夜の山の広場に寝転んで星空を見上げて見る満月はとても神秘的だった。
きっと古代人は月読(つくよみ)の神様の命(みこと)を拝んで皆既月食を観察して閏年の調整を行ったのだろう。
天体観測を通じて何だか古代人と繋がった様な気分に成れ嬉しかった。
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この❝円海山の瀬上沢”は❝横浜市最大最後の蛍の群生地❞として有名ですが、アホの東急不動産と横浜の林文子市長が開発しようとして横浜市民の保護活動と交戦状態の最前線に成っている場所で、古代人の聖地と鑪(たたら)製鉄遺跡と灌漑水田史跡、更には鎌倉武士達が有事に使っていた高速道路鎌倉早駆けの道の間道も幾本も林道として残るのですが、林文子市長に成ってから林道保持が怠られた状態に成っていたりもします。
現地には日本神話最古の知恵の神様の思金神を祀る思金神社や、浄土宗総本山の知恩院住職となった任蓮社然譽了鑑大和尚を輩出した❝峯の阿弥陀寺❞も現存しています。
以前書いた記事が有るので、御興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして読んで見て下さいね!
●円海山と瀬上池の沢…蛍が見れる横浜南部の最後の大森林。
●円海山の蛍が観察出来る季節です。・・・過去記事の転載も。
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道①…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道②…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●思金神社…古代人の遺跡の有る横浜市内1番の自然のパワースポットの円海山に在る神社。
●神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町


あ、それと梅の季節ももう直ぐなのでそれのリンクも貼ります・・・
●神奈川県内の梅花鑑賞に適した梅林一覧。
※イベント日付が以前のままなので、詳細は御自分で記事に掲載されている電話番号までお問い合わせくださいね♪

次の❝【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥❞はSuper moonの夜の日に訪問した、仁徳天皇=大鷦鷯尊大王の弟皇子で莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が埋葬されていたのに神奈川県教育委員会が保護せず破壊された真土大塚古墳と莵道稚郎子命が御祭神の延喜式内社である前鳥神社、そして古墳時代初期の神事を行う神奈川県の寒川大社の追儺神事つまり神社文化成立以前の古代から続く神事の事を書きます。この神事は上賀茂神社や寒川大社などの一部だけで中国渡来の陰陽道や仏教の文化の影響を受けず、そして明治基督教徒の政治家による宗教改革でプロテスタント化した国家神道の影響を受けずに続く貴重な❝日本古来の進行の原型を残す神事❞だったりします。

・・・では!次の記事で又皆さんに報告したいと思います~♪

年末の横浜南部市場に2日間に分けて蟹と鮪の柵を仕入れに行った。
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30日、場内市場の鮮魚棟。
年内営業最終日の店が多く、売れ残りを避けたい店が鮮魚を値引きしてくれるんだな。
今年は蟹が種類問わず不漁で値段が若干昨年より高め。
まぁ、毛蟹も店で値段はマチマチ・・・
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2500円・・・
冷凍の毛蟹だけどソコソコ。
次の店・・・
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1800円。
質が悪い訳じゃなくて元からのランクと在庫数の兼ね合い、それと本当に営業終了予定時間が差し迫ってる店から安く成っていく。
でも昨年、市営から外れ公設市場では無く成ったせいで逆に民間化して客足が増え(た笑)、それで今年は店も強気で値下げしてくれない(-_-;)。
そして・・・
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昨年も値下げしてくれた店で活毛蟹が1500円!まぁ、昨年より最終値200円高いがそれでも安いよね~。
即決で4杯購入。
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本日、31日大晦日。
早朝04時に自宅を出発し川崎市高津区の橘樹神社に向け出発・・・
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橘樹神社
この神社は御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)の奥さんの弟橘媛(おとたみばなひめ)。
実は神社は遥拝所。
今では住宅街に成ってしまった背後の丘が昔は巨大な円墳で弟橘媛の遺品が埋葬されていると伝承する。
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神社は真っ直ぐ背後に円墳の頂点を背負って存在する。
先ずは神社で弟橘媛様に1年間の御礼参り。
その事、弟橘媛御陵の登頂部に移動。
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本来なら橘樹神社の本宮に当たる古墳の残存部に登り、弟橘媛様に御詣りし感謝と心願と来年又、参拝に来ますと御伝えし南部市場に向けて出発。
途中で大倉山のセブンイレブンに寄道・・・
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・・・実は大倉山梅林の梅酒“梅の薫”が“いつもなら”売っているのだが、今年は眞子様の婚約で贈物として大倉山の梅の薫が選ばれたとTVで紹介されてしまったせいで売り切れだった。残念❕
そのまま下道の綱島街道沿いに横浜市磯子区を目指す。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
実は橘樹神社~綱島~神奈川区三枚橋交差点~六角橋の道は恐らく日本武尊と弟橘媛御夫妻も走水を目指して当時は港だったであろう宝秀寺の在る六角橋まで歩いた道のはずなんだな。
しかし今回は三枚橋交差点~六角橋には向かわずに片倉町経由で三ツ沢を通り横浜駅前を通過し保土ヶ谷区の洪福寺方面に行き、そこから南区堀之内に至り中村川沿いに磯子区に入った。
三枚橋交差点の在る三枚町は江戸時代までは三枚田村と呼ばれ一帯は“店屋(てんや)”と言う古代大和政権の駅伝制の中継集落で行政区域だった名残の“天屋”の地名が旧住所の小名に残っていた。
小生が今日通った三ツ沢方面の道を日本武尊が歩かなかったと断言出来るが、それは横浜駅が開かれて以降に主要街道として開かれた道だからだな。
何故なら江戸時代にもまだ横浜駅周辺は平沼や岡野の先、天王町の手前まで海で根本的に陸ではなかった。
当然ながら弥生時代~古墳時代の皇族である日本武尊の時代も横浜駅辺りは海の底。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
江戸時代の歌川広重が描いた神奈川宿の浮世絵。
今は台町と呼ばれる丘が江戸時代の東海道で旅籠が並んでいた。絵に描かれた海が今の横浜駅辺りだな。
因(ちな)みに坂本龍馬サンの没後に未亡人お龍サンが働いていたのも、ここの田中家だった。
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葛飾北斎が描いた富嶽三十六景:神奈川沖浪浦もこの辺りの海。本牧半島辺りの風景だろう。
江戸時代には東海道は陸の道に成っていたが、実は日本武尊と弟橘媛御夫妻の時代の東海道は今とは大分異なる。
古代の街道と延喜式内社&式外社&遺跡の分布 久良岐のよし
そもそも昔は富士山の北側~御殿場を抜け~寒田神社~比々多神社~有鹿神社本宮~神崎遺跡~宇都母知神社~大庭神社~鎌倉~逗子駅辺り~葉山町~上下の山口地区~を経て走水神社に至り海を越えて房総半島の富津に至る文字どおり海の道が東海道だった。
古代東海道ほぼこんな感じ・・・
矢倉沢往還
     +
高座郡を貫く県道406号
     +
鎌倉郡を貫く県道43号
     +
三浦半島内の国道16号線
・・・これが大凡(おおよそ)の古代の東海道なんだな。
日本武尊はモデルが数人いる筈で古代の大将軍に相当する官職名に由来する神号だと推測している。
そして小生は素戔嗚命の後に軍を司った卑弥呼が倭姫、卑弥呼の弟が景行天皇で九州で活躍した初代日本武尊、二代目が走水に来た日本武尊、三代目が菟道稚郎子命、四代目が恐らく武蔵国造の乱を調停したであろう雄略天皇だろうと何となく神話、各神社の社殿、考古学、地理と地形の情況から推測している。
この内、綱島街道沿いを歩いたり船で往来した可能性が有るのは恐らく大伴部と吉備氏を与力とし后が弟橘媛だった景行天皇の皇子で2代目かも知れない弥生時代末期の一般的に日本武尊の神話として知られる最初の東征を行った皇族の大将軍と、四代目で武蔵国造の乱を調停したかもしれない古墳時代の雄略天皇だろう。
まぁ現代では川崎市高津区や横浜市港北区からは横浜駅前を通り磯子に抜けるのが磯子区・横須賀への1番のショートカットだ。
途中で又、寄道し神社に参拝・・・
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八幡橋八幡神社だな。
八幡橋八幡神社・・・ここは古代には現代の陸地から見て上空に社殿が在ったであろう場所(笑)。
ラピュタ的な意味では無くて江戸時代に現在の関内辺り~吉野町の海だった吉田新田地域を埋め立てる際に八幡橋八幡神社の辺りの久良岐の丘を一部開削し、その土で海を埋めたんだな。
だから八幡橋八幡神社は現在では低い場所に在るが昔は本牧半島の付根に存在したはずだ。
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この神社は奈良時代には存在していたと伝わる。古代から存続する神社はだいたいが古代の半島の付根か先端、若(も)しくは湧水地や奇岩や古墳の傍に所在する。
だから神社の歴史を踏まえると、成立時は開削前の久良岐の丘の在ったので今の位置より“上空に在った(笑)”事に成る訳だな。
実は小生の血が繋がらない義祖母の実家は元は横浜のシルク商で、この八幡神社を崇敬していた。八幡宮の神様は海上交通と治水と産業と軍事の神様なんだな。
だから古い八幡宮は海に付き出した半島の付根や川や湖の港だった場所に多く分布している。
小さい時に義祖母と一緒に御詣りした神社で神様に1年の御礼を伝えて御参りを終えると横浜南部市場に移動した。
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行きつけの場外市場の鮮魚店に又、最終日の弱味にツケコミ(笑)買付に。
南部市場で職場の同僚と待合せし、鮮魚店を見て廻るが余り安くない。
今年は客足が伸びて値下がりするタイミングがまだ来ていない。イブリガッコ等を購入して同僚とは解散、時間を空けて又、後で小生が再訪問し同僚にはLINEで値段を伝えて買い付ける算段に予定変更。
そこで、値下がりするまでの時間稼ぎに後で訪問する予定だった三浦半島の横須賀市域に在る走水神社に向け出発・・・
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走水神社
朝から氏子サンがお掃除してらした。
年越しの御詣りに備えての準備かな。
一般参詣者が神社で初詣出来るのは、こんな祭事の準備や神社の維持の努力をして下さる各神社の氏子サンの御蔭様。感謝。
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本殿で日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様と天磐楯命に改めて1年の感謝を伝えてから来年の心願成就をお助け下さる様、そして国籍人種問わず日本の自然と文化と歴史史跡を大切にする“親日の人間”の平安を祈願した。
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ちゃんと東郷元帥や乃木大将が大切にした奥宮にも参詣した。
参拝後に暖かい珈琲が飲みたくて近くのコンビニに行くと人懐っこくて毛並みの綺麗な柴チャンがいた。
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尻尾振って寄って来てくれたのでモフらせて頂いた🎵
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そう言えば新年は戌年だっけ?
縁起が良いね、ありがとワンちゃん!
南部市場に戻る途中で横須賀名物のポテチパンを販売する中井パンに寄道・・・
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中井パン店
朝御飯食べてなかったからオナカ空いちゃったよ。
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大晦日だけど御客さん来てたね、大晦日も昼まで営業されるそう。
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朝食代わりにポテチパンを食す。
海苔塩味。
車中ポテチパンを頬張りながら運転し30分位?南部市場に到着したのが10時前後。
でも安くなるの待つのに持久戦、先に車の中でスマホでFF3やりながら時間を潰し11時位、早めの昼食に市場の食堂で鯵・シラス丼食べて時間稼ぎ・・・
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・・・攻城戦と同じで相手=市場の店は営業最終日の今日中に在庫を売り尽くすと言う勝利を得なければいけないのだが、戦う為の残り時間と言う名の兵糧が切れる時刻はあと数時間でやってくる。ソレを恐れ必ず買物客(敵)に和平の値下をしてくるはず(笑)。
対してコチラは相手が兵糧が僅(わず)かに成り“音(ね)を上げて値を下げる(笑)”のを悠々と食堂と言う名の付城で暖房に当たりながら食事と言う名の兵站(へいたん)を確保し対陣(笑)。
値下げしてくると踏んだ営業時間終了の1時間前位に行動開始、そして・・・
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・・・勝利の瞬間到来(*´∀`)」❗️
値下してくれた社長さん、ナイスガイのニイチャンあんがとな!
皆さん、この店の名は場外市場の浜光水産ですよ~♪
浜光水産
真実一路、新鮮な魚を取り扱い客に親切に心地光明の精神で対応して下さる最良の鮮魚店です。新年の買出し何卒贔屓にして上げて下さい♪
・・・何て御膳立てを魚屋さんにしてみる(笑)。
タラバ足を2つ買い、あと場内で作業してたこの浜光水産の社長さんから事前に御薦めとしてリサーチしていた特選の鮪の柵、それと刺身用の帆立貝柱を購入した。
因みに頼むと店頭に並ばない魚も用意出来るか調べてくれたりする本当に親切な店なので小生は家で魚食べたいと良く円海山の麓の家から買い出しに来るんだな。

・・・ふむ、横浜での土地神様の神社の宮司様と御世話に成ってる御寺の和尚様に先週挨拶も済ませたし、今日は小生が崇敬する夫婦神様と与力の神様にも挨拶を済ませれたし、カニも鮪も正月に備えて補充出来たし・・・
良い1年の締め括りに成った。

神様と仏様と御先祖様と恩人と恩師と家族と同僚に感謝!

追記
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蒸し上がったでござる。
生きたまま蒸した蟹サン、美味しく御命頂きます🍴🙏。
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蟹サンの分も善き人と日本文化と親日の人の為に自分の命を使わねば。

皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
2008-12-12-14-46-45
現在、鎌倉市はアホの左派市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にあり(現在の東漸寺運営)ー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










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