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皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホの左派市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にありー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










皆さんは公害発生の可能性を断つ日本で最新鋭の火力発電所が横浜市磯子区に存在しているのを御存知でしょうか?名前を東京電力南横浜火力発電所と言います。
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そして、その火力発電所の施設の模型や文字による解説、映像資料等を展示した場所が存在するのを御存知でしょうか?その施設の名前をISOGOエネルギープラザと言います。
実は小生も最近まで知らなかったのですが、この施設が無料で入館出来るのです。車で行けないので少々不便ですが磯子駅からバスで直ぐに来られるので、横浜市民のみならず他都市からも見学に訪れる事が出来ます。
位置的にはこんな感じ・・・
ISOGOエネルギープラザの場所 久良岐のよし
ここの存在を知ったのは2週間くらい前に夜景を探して夜な夜なドライブして来た際にGoogle Mapを見ていて火力発電所の存在を再認識してから、ホームページを検索して情報を入手したからでした。
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その時に撮影したのが09月14日に記事にしたこの風景。
コレ記事リンク→
今回、最初は金沢文庫博物館が展示替えしたので其方に遊びに行く心算(つもり)で何にも準備しておらず、ISOGOエネルギープラザさんの事を思い出して電話連絡してから訪問したのですが、別に電話しなくても日曜日以外は常設展示は直ぐに無料見学出来ます。
しかも!ちゃんと事前に予約すると火力発電所その物も見学させて頂く事も可能だそうです。
残念ながら今回は突然の思い付きの訪問だったので今回の記事は常設展示の紹介だけですが、いずれ火力発電所実物の見学も予約してレポート記事の続きを書こうと思います。

さて・・・

ISOGOエネルギープラザさんはセキュリティーの守衛さんが立っている正門をくぐって直ぐ右手に建物の入口が在(あ)り、そこがそのまま解説展示施設の入口にも成っています。
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この入口の右手が駐車場なのですが、そこにも機械好きの興味を引く展示物が有りました。
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建替え前の旧火力発電施設時代の低圧タービンとか・・・
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蒸気ドラムとかですね!
・・・もうコレ、戦艦とか工場とか大好きなデカイ機械マニアにはタマらん逸品でしょう(笑)?
そして、この展示物に並行して植えられている桜の木の解説を読むと、この会社の志の高さを知る事が出来ます。
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この会社の初代総裁である高碕達之助翁が生前、旧岐阜県荘川村(現:荘川町)が御母衣ダム建設によって湖底に沈む事が決まった際に、安土桃山時代に植えられたアズマヒガンと言う樹齢400年超の桜の巨木2本を桜博士の笹部新太郎先生の力を借りて荘川村村民の郷土の誇りを失わせない為に古今未曽有の移植事業を行い保護したそうです。
最近はどの企業経営者も従業員を大切にせず、地域貢献や国の発展等に目もくれず目先の金だけを稼ぐ事に執着し天下100年の計も無く世を見通す力も無く、TOSHIBAやSHAAPやSANYOの様に自分達の地位保全だけの為に売国行為に走っていますね。
ところが昔の経営者と言うのは淡路島と函館の街を作った高田屋嘉兵衛さんに始まり、我が郷里横浜市の原三渓さんの原財閥、鉄道敷設と日本の物流発展に寄与した浅野財閥、経済世民を地で体現した渋沢栄一先生、日本近代造船の父であり横浜に深い関わりの有る渡部忠右衛門さん、そして今回訪問した磯子火力発電所を開いた電源開発(J-POWER)の初代総裁の高碕達之助さん達・・・これ等の経営の先人達は皆、国民の生活や自然環境と日本文化の保護や国と地域の発展を考えて私利私欲の前に“公益世務”と言う言葉を体現されて生涯を全うしておられるのです。
そんな事が荘川桜の移植の事からも感じ取れたりするのですが、中の展示を見ると、この高碕翁の理念が体現された施設が現在の磯子火力発電所である事が理解できます。
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先ず中に入ると対象年齢12才前後と思われる内容の映像解説を見る機会が有ります。
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このミニシアターで火力発電の源である石炭が、鉱石としてどうやって地球の悠久の歴史の中で生成されていったか、植物の化石である事から非常に解り易い動画で解説してくれます。
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そして、どの様に人間の文化に利用されていったか等、文化面や工業面で人間の文明を発展させて来た石炭の歴史が解説されます。
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小生は浅学で知らなかったのですが、中国では中華料理に必要な強い火力を得る為に1200年位前には既に石炭が利用されていたそうです。中華料理の炒め物や揚げ物や煮物は強い火力を利用して短時間で作り上げる料理が多いのですが、これはガスの登場以前からの文化だったのですね。
・・・日本人は明朝までの中国には非常に敬意を感じる人も多いと思いますが、中国文化はやはり本来は素晴らしく発展した物だった様ですね。満州族征服王朝である清朝で今の中国共産党みたいに軍拡帝国主義で疲弊し、共産主義の文化大革命で文明後退する以前の中国はやはり素晴らしい文明の国だった訳です。
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そしてイギリスで蒸気機関が発明され産業革命が起きて給食に鉄鋼業等の重工業の発展が齎(もたら)された時期、その蒸気機関に必要不可欠だった物が石炭だと言う解説も有ります。
何故、石炭の解説を動画で行っているかと言うと、実は現代の火力発電所も石炭を燃焼させて発熱しタービンを回して発電するからです。
「え?じゃあ産業革命や日本の高度経済成長期みたいに公害未だに凄いんじゃない?」
・・・と思うでしょう?それが違う。今の磯子火力発電所には高碕達之助翁の理念と魂が吹き込まれており公害の元と成る粉塵や有毒ガスは限り無く0の無公害処理の上で放出されているんです。
有る意味、高リスクで産廃処理不可能な原子力発電より素晴らしい施設ですね。
ミニシアターの他にも面白い物が有りました。
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潜水艦の潜望鏡の様な機材なのですが、実は火力発電所の高さ300mの排煙塔に据え付けられた展望カメラを自由に操作する事が出来ます。
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これで遊ぶのも当然無料。だから子供連れてきたら、きっと喜んで遊ぶので家族連れにピッタリの施設である事が既にこの段階で伝わるんじゃないでしょうか?
文字による解説も充実しています。
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非常に解り易い!まぁ~、館内の模型解説と内容が被ってるんですがね(笑)。
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パンフレットも日本語・英語・中国語で揃っています。これ、公害の凄い中国の政治家に読んで反省して欲しいな。
さて、中に入ると中央に“施設の位置”を解説する為のジオラマが有ります。
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これが又、結構精巧に作られていて面白い。
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タッチパネルを操作すると各施設の役割が理解出来る解説が表示されます。
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こんな感じ。
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そして更に、これとは別に一つ一つの“施設の役割”と“物理的な動き”を解説する模型と映像解説が壁面に細かく細分化されて展示されています。
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最初は文字と写真の資料。
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これをちゃんと読むと一連の火力発電の流れが小生の様な文系人間の歴史マニア馬鹿にも理解できます。
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そして御丁寧に石炭を採掘するところの説明と現物展示から始まり・・・
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採掘後の運搬船と、発電所施設への搬入と管理方法の解説・・・
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模型と光を使って石炭の流れを再現してくれます。
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本当に解り易い。
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石炭なんか、静電気で火災発生したりしたら本当に大惨事だから思ってみれば搬送する所から本当に大変なんだよな~。
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横浜の磯子火力発電所の石炭貯蔵施設は4つクローバーの花の様に並んだサイロなのでクローバー型と呼ばれ有名らしいです。
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どうやって管理されているかも模型で再現されています。
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そして凄いのが施設内でのコンベアによる搬送方法。
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このベルトコンベア、動力が空力で、ベルトを空気圧で浮遊させて石炭を運ぶので騒音が発生させず周辺町村に迷惑をかけずに施設が稼働出来るそうです。
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そして、これも知らなかったのですが昔の蒸気機関や高度経済成長期の発電所と違い、効率よく石炭を燃焼させたり公害を抑える為に先ず、石炭自体を細かい粉末に粉砕してから使うそうです。
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でもね~、これ、凄く技術力と精密な管理がいると思うんです。
石炭なんてただでさえ可燃性なのに、粉末って静電気発生しやすいでしょう?
小麦粉とかのサイロでも静電気で火災が発生する事件って有るんですよね~。
だから本当に、磯子火力発電所はとんでもない最新鋭の管理技術が導入されているのが燃料としての石炭の破砕の項目一つとっても解るんですよね~。
でも高碕翁の理念が現代の従業員にも脈々と活きづいているから、このクオリティーを実現出来るんでしょう。
「おい!横浜市最後の蛍の広域生息地と自然公園の円海山瀬上沢を宅地開発したがってる東急グループと容認派の林文子市長!アンタ等東急創業者の渋沢栄一先生が御祭神として祀られた東横神社の神前で懺悔して来いや!そしてJ-POWERの職員を見習って自然環境保全と日本文化史跡保護の理念再認識しろや!」
・・・と、施設を見学しながら脳裏を過(よぎ)る小生。
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この模型と同じ構造の粉砕機を使って石炭を砕き吸い上げるそうなんだが・・・
本当に良く火事に成らんな。
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何かボイラーの構造も凄くって解説を見る限り、蒸気の再加熱だけでも何重の構造が設けらえていたりするらしい。
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プラスティックの透過性を利用して光を使い上手く炉内の掘能を演出した模型。
これなら子供にも解り易い。妹の所の甥っ子と姪っ子がもう少し大きく成ったら火力発電所見学予約して連れて来てあげたいなぁ~。
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そしてタービンの解説。
なんか横浜のは直列式と言って、効率の良い施設配置に成っているらしく設置コストも抑えられるらしい。
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左側が横浜のが採用している形式、右側が異なる形式。
素人目にも左の方がスッキリしてジェットエンジンのタービンみたいで効率良さげなのが何となく解る。
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写真も有るので実物の規模も解り易い。
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そして最後に送電な訳だが、電気を販売するのは東京電力の仕事で別会社、その東京電力に電気を売るまでがJ-POWERの仕事らしい。
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送電線は銅線だそうだ。
だから良く金属泥棒が送電線盗んだり事件に成るんだな。
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でもこれ、地下トンネルに送電線配置されてる訳だろ?関東大震災来たら水没するだろうし大丈夫なんだろうか?と素人目に一抹の不安も沸いた。
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んで最後に空気の浄化システムの解説とか有って・・・
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てか、静電気で灰塵を選別するとか・・・粉塵と電気の最悪の組み合わせを火災に成らずに使いこなす技術って凄いね。
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乾式排煙脱硫装置と言うらしい。
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この数値が凄まじい。恐らくヨーロッパで未だに酸性雨の被害が凄いのもディーゼル車が主流なせいでは無く原発廃止して火力発電所増やしているのに日本程の技術力が無い旧世代の火力発電技術しかないから窒素酸化物とか硫黄酸化物が略略(ほぼほぼ)垂れ流しなんだろうな。
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何か今回の訪問で知ったのだが、石炭と言うのは産廃に成らず肥料の元と硫酸に成るらしい。
そして肥料の元と硫酸は転売が利くので、それも副産物に成るそうだ。
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クリンカは大きめの石炭の溶解して再結晶した灰。フライアッシュは粉塵のままの灰だそう。
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あと子供が好きそうな火力発電の趣味レーター。
タービンを1つ~3つ、個別に回したり3つ同時に回して発電した場合の電力発生のスピードの差を模擬実験出来る。
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そして通電する物としない物の実験装置。
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自分で電極を持って、実際にヤカンやなんかに触れて確認出来る。
こう言う実験は子供の興味を引くが我々オッサンも楽しい(笑)。
2017年09月27日の小生の来場時間は客が小生一人だったので実験しまくりの上、ゆっくり観覧出来て非常に良かったのだが・・・
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これだけの素晴らしい見学可能な火力発電所と展示館、来客が少ないのは文明向上には損失だと思う。
横浜市民のみならず、もっと多くの子供達や進路に迷っている高校生や大学生に社会科見学や理科の課外学習なんかに来て貰って、色々と高碕翁の偉大な理念や化学系の仕事でも人々の役に立てる事を理系文系問わず考える機会に成れば、何某(なにがし)か人生の選択の助けに成るんじゃなかろうかとも思った。

この施設の直ぐ近くには海づり公園も有ります、小さい子のいる御家庭のパパさんママさん、そして進路に迷う高校生や大学生、一度、ここに散歩に来て施設見学してみては如何(いかが)だろう?

ISOGOエネルギープラザ 営業時間:10:00~16:30 日曜日定休

昨晩、綺麗な夜景を求めていつもと違う磯子界隈を走っていたら綺麗な夜景を見つけたので写真載せるだけの中身の無い記事ですが・・・
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JR磯子駅から徒歩だと少し無理な距離、東京ガス前バス停。そこから見たJXTG根岸製油所プラントの夜景。
夜景探してドライブしてたのにデジカメ不携帯のアホの小生、スマホ撮影。因って画質悪し。
この夜景の綺麗な場所は、東日本大震災発生当時に東北の人々を凍死の危機から救ったJR貨物と日本エネオス根岸製油所(当時)の人達の勤務場所なんだな。つまり現代の無名の英雄達の働く場所。
コレは明治時代の伊藤博文公や、東日本大震災時の根岸で働く無名英雄達の行動を紹介した記事。
  ↓

新磯子周辺 東京ガス前バス停位置 久良岐のよし
位置的にはこんな感じ、地図中央が東京ガス前バス停。
横浜市民にも知っている人は少ないけれど、実は、この先には良い海釣り公園が有ったり、東京ガスのISOGOエネルギープラザってのが有って、日曜日以外に施設が開かれていて火力発電の仕組みやなんかの模型の常設展示が見学出来たり出来るので小学生か中学生位の子供のいる家のパパさんママさんが家族で来ると良い場所だったりする。
そちらは手元に写真が無いので改めて写真撮影に行こうと思う。
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しかし綺麗だ。
昭和後期生まれには伝わると思うけれど“魔晄炉”みたいじゃない(笑)?
では!又、次のブログ記事で!

昨年末、母が子宮癌に成り築地市場近くの癌専門の病院に入院した。
入院前、鎌倉時代~江戸時代に武家や庶民の女性達から“婦人病治癒”の名刹として有名だった浄妙寺の淡島大明神様に母の病気の手術成功と平癒を祈願し、御守りを購入して母に渡した。
浄妙寺は鎌倉市浄明寺地区の地名にも成っている室町時代以前の鎌倉における足利家の菩提寺だ。
母の手術も成功し、昨今は自由に歩き回り旅行する体力も回復したので、昨日、母の気分転換も兼ねて浄妙寺に御礼参りをして来た。
母は信心深い人間でも歴史に興味の有る人間でも無いが、珍しく1分間位手を合わせていただろうか?
小生は多くの神社仏閣をここ数年間、尊敬する織田信長公、徳川家康公、足利基氏公、宅間上杉重兼公、太田道灌公、吉良成高公、吉良頼康公、北条綱成公、間宮康俊公等の顕彰活動で御参りする機会が有ったので、浄妙寺の淡島大明神様の事もたまたま知っていたのだが…
信心と言うのは物事に対処する際、万全を尽くした最後の最後に不安感を抑えてくれたり理性を保ち出来るだけ安心して事に当たれる、そんな役割を果たしてくれる存在だと思う。
ザックリと簡単に言えば「心の持ち様の問題」と成る。
信じるも信じないも自由。
でも、「御参りして来たよ!」と母に伝え御守りを渡し、それを持っている事で少し母の気が紛れたのなら、それが正に御利益なのだと思う。
当事者が自暴自棄に成らない為の存在だね。
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御参りが済んだので、浄妙寺に在る喜泉庵と言う茶室で御抹茶と御干菓子を頂いて来た。
ここを最初に訪れたのは3年程前だろうか?
朝比奈~浄明寺地区は好きで良く散歩に来ていたのに、何故か浄妙寺には来ていなかった。
訪問したら直ぐに大好きに成り、季節の変わり目毎に訪問し、喜泉庵で抹茶を飲んでユックリして帰るのが習慣に成った。
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いつも美味しい御抹茶をありがとう御座います。
さて、もう直ぐ雛祭りと言う事も有り、茶室には雛人形も飾って有った。
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可愛らしい。
ウチは血の繋がっていない妹が増えるまで、仲の悪い(笑)男兄弟しかいなかたので立派な五月人形は有れど、この様な可愛らしい風習は無かった。
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小生達親子が訪問する直前まで、フランス人旅客の団体が滞在されていた。
最近は外国人観光客の来訪も増えたので、以前は置いていなかったテーブル席も設置される様に成った。
御参りし、一服しくつろぎ、次の目的地へ移動した。
同じ鎌倉市内の大船地区、神奈川県立フラワーセンター大船植物園だ。
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ここは幼稚園の頃に来たのが最初だ。
卒園の日、担任だった黒沢恵子先生が寿退社されるとの事で、父母会が送別会と卒園会を兼ねて我々園児を連れて皆、親子同伴、御弁当持参して来たのが最初だった。
小生は2歳からの記憶が有るので、幼稚園の頃の記憶は鮮明に覚えている。
子供の頃は有刺鉄線に雁字搦めに成って血塗れに成るような遊びをしたり、アホな事をして両手を骨折したり両親には大変心配をかけたクソガキだったと思う。
今回久々にここを訪問したのは、梅の名所の紹介記事を更新した際に、大船フラワーセンターが改装の為に今年の有るで一時休園して来年の夏まで見る事が出来なくなるのを知ったからだった。
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久々に来てみると可愛いけど良く知らんキャラクターがいた。
しずくちゃんって、何だコイツ?何のモチーフなんだ?
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神奈川にはもう、コイツ↑がいるから無駄にキャラ増やさなくて良いだろう(笑)。
さて、今回、大船フラワーセンターに来たのは一時閉園するからだが、無論、目的も有り…
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この地域に在った玉縄城の城名と地域名を関した早咲きの玉縄桜が今丁度、満開で見頃だから、それを見に来た訳だ。大船フラワーセンターには多くの玉縄桜と各種様々な梅の樹が植樹されており、咲く時期の重なる両者を一度に見る事が出来るのだ。
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この他にも、寒桜の「おかめ桜」が見頃を迎えていた。
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大船フラワーセンターについては、来年の夏にリニューアルオープンしたら改めて紹介記事を書こうと思う。
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他にも色んな植物が当然有る。
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しかし今の時期はやはり、梅と桜だろう。
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とにかく、色んな種類の梅が植樹されていて、品種名を見ながら写真を撮っているととても楽しい。
母も喜んでいた。
・・・個人的には次回は母ではなく、彼女か奥さんと次は来たいなと思う(笑)。まぁ、彼女か奥さんがいたら、彼女のお母さんも一緒に来て賑やかに過ごしても楽しそうだ。
デパートで御弁当勝って来て芝生の上にレジャーシート広げて、梅を見ながら御昼を過ごすのも良いかも知れない。
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次、この子達を見に来れるのは2年後か…少し寂しいな。
小生は変な感性が有るのか、植物を擬人化して見てしまう癖が有り、梅は女の子に見えるんだな。
梅以外に色々と見所は有るのだが…
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改装前、玉縄桜と梅を除いた一番の押しはやはり温室だろうか?
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円形に配置された建物の中に色んな熱帯植物が展示されている。
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まぁ、色が鮮やかで綺麗な花も毒々しい花も有って見ていて飽きない。
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何で学生の頃は再訪しなかったんだろうかと思う。
こう言う場所にデートに来ていれば、彼女とゆっくりと時間を過ごせて良いと思うのは自分が年を経たから湧く感覚なのだろうか?それとも、当時の自分が只単に無文化だったんだろうか?
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何にも知らない花でも品種名を見ながら歩いて回ると発見が有る様でとても楽しい。
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メダカ?も沢山泳いでいた。
この子達も改装後もちゃんと大切にして貰えるんだろうか?
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残りの開園期間も約1ヵ月位なんだろうか?
素晴らしい場所なので、多くの人に来てもらいたいなぁ~。
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ケバブ屋さんとか鎌倉ローストビーフ丼の店とか、大阪のイカ焼きの屋台も有るので親子連れなら子供も喜ぶだろう。
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昔、最初に来た時はパンジーが大量に咲いていた記憶が有るが、今は余り多くは無い。
その代わり、蓮の花が多く成っている。
今回、出口付近には盆栽コーナーが有った。
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どれも綺麗だった。
ここを後にして、地元に戻る途中で丸亀製麺で昼食をとった。
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チェーン店だけど好きな店。
昼食を終えて、帰宅。母は友人の家に出掛け自分は昼寝、夕方4時に起きてからジムに行って汗を流し、風呂に入ってサッパリしたら、今度はその足で戦国武将間宮家と“ゆず”のお膝元の磯子区に移動して、岡村梅林の夜間ライトアップを見学した。
ジムのスコアが1ヵ月で14ポイントも上昇したのでとても気分よく観梅出来た。
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うん!今年も綺麗だ!
地元の自治体連合の皆さん、今年も良い企画をありがとうございます!
お陰様で鎌倉時代の武士や戦国時代の北条家と間宮家が神奈川に残した梅林文化を堪能できました!
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甘酒も御馳走様でした(笑)。
小生がこの記事を書いている今日、26日は模擬店出店して昼間の観梅会ですね!頑張って下さい!
さて、一頻(しき)り見学した後、“ゆず”も小中学生時代に遊んだであろう岡村公園のグラウンドを通って駐車場に移動・・・
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・・・車に乗り込むと、今度は北上し港北区の大倉山を目指した。
大倉山梅林も観梅の名所として観梅会の日には大変に賑わいを見せる。
しかし今回の小生の目的は観梅会では無く、大倉山梅林の梅で造った梅酒だ。
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それを販売しているのが、上の写真のセブンイレブン横浜大倉山店。
ここで“梅の薫”と言う名の梅酒を買って帰宅、普段一滴も酒を飲まない小生も、これだけは、ここ数年間春の楽しみに成っている。
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梅の香りが普通の市販の梅酒よりも濃厚だけど飲み易く、酒嫌いの小生も、とても美味しく感じる。
因(ちな)みに小生は普通の渡来系と縄文系の混血日本人よりも縄文系の遺伝子が濃いのでアルコールは強い。ただ、酒を飲んで美味しいと感じない上に、酒に使う時間と金が無駄に感じるだけ。
でも、これは買う価値が有ると思っている。
他にも小田原市曽我梅林の梅で造った「曽我梅林の梅酒」や、横須賀の田浦梅林の梅で造った「梅リキュール」等が平安時代末期以来の武士由来の梅林文化の有る神奈川県の特産梅酒だ。
美味しいので、是非、皆さんにも試して頂きたい。

沢山梅を見て、母の手術成功の御礼参りも出来て、運動もして、美味しい甘酒と梅酒も飲んで、とても充実した休日の1日を過ごせた。
これも浄妙寺の檀家さん、大船フラワーセンターの職員の皆さん、岡村町と岡村天満宮の関係者の皆さん、大倉山の商店街の皆さんの御蔭です。
ありがとう。

では、昨日の休日雑記はここまで。
又、次の休日雑記は台湾から友人が来る来月中旬以降に成るでしょうか?
それまで、毎週1件、訪問済みの城址や神社仏閣の解説記事を書き足して行こうと思います。






本日2017年02月26日午前10時から、“ゆず”の地元、旧岡村天満宮境内地岡村公園の岡村梅林で観梅会が開催されます!
模擬店も出店するので、恋人同士や御子様連れの若夫婦の皆さん、写真撮影の好きな皆さん、是非、足を運んでみては如何でしょうか?
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写真は2015年撮影の物ですが、2017年現在の開花状況は5分咲き~8分咲き、十分見頃に成っています。
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あと1週間もすると満開に成り更に綺麗な梅林の様子も見られるので、岡村梅林に足を運んだ事の無い近隣の磯子区・中区・南区・港南区・金沢区の人々はこれを機に是非訪れて見てください!
屋台も有り御子さんも喜ばれるかと思います!
では、ついでに昨晩開かれた夜観梅会の様子も掲載します。
余計な解説は不要だと思うので、写真を沢山載せたいと思います。
その夜観梅の写真の後に、周辺の史跡や見所の解説もしたいとおもいます。
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さて、では周辺の見所を紹介します。
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近くには岡村天満宮と言う、源頼朝公の最初の暗殺を未遂に食い止めた名将の平子有長公が京都の北野天満宮から御分霊を頂いて造営した由緒正しい天神様も鎮座しています。
※岡村天満宮の歴史に興味の有る人は以前書いた記事を下のリンクをクリックして御覧下さい!


そして境内は“ゆず”の聖地らしいモニュメントも有ったりします。
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昔、伊勢佐木町の松坂屋に在った“ゆず”の路上ライブの様子を再現したレリーフです。
松坂屋の解体時に現在の岡村天満宮境内に移設保護されました。
流石、ゆずの地元ですね!
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岡村天満宮と岡村梅林から徒歩直ぐの場所には、“ゆずファン”が愛用する“岡中ジャージ”を購入できるオリオンスポーツや、歌に出てくるモンマルトルと言うケーキ屋さんも在ったりします。
更に歴史好きに御勧めの場所は、徒歩圏内に下の写真の龍珠院と言う御寺が在るのですが…
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ここはJR大船駅の近くに在った玉縄城で上杉謙信の攻撃を撃破した名将の北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺で、御朱印も頂く事が出来ます。
この御寺は金沢区の伝心寺と言う、玉縄北条家所縁の御寺の末寺として開かれたのですが、何故、ここにそんな名将が関与したかと言うと、直ぐ近くに蒔田御所と呼ばれた蒔田城が在り、そこの城主が戦国時代に一時期、鎌倉公方(かまくらくぼう)の代理を務めた吉良成高(きらしげたか)公や吉良頼康公の居城として機能していたからでした。
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蒔田城址の断崖絶壁は現代人でも攻略するのは難しい要害性の高い地形です。
そして、蒔田城址の大手口には勝國寺と言う御寺が在ります。
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ここは吉良家の戦国時代の菩提寺で、今も吉良政忠公以下成高公、頼康公等の菩提が弔われる御廟所が存在します。
この歴史に興味が有る人は、昔書いた以下の記事を御覧下さい。

鎌倉公方代を訪問する際に、宿舎が必要に成るので岡村梅林の近くに龍珠院が開かれたと推測出来る訳です。
戦国時代の武将は自分の土地に御寺を開いて、宿舎替わりに使う事が良く有ったんです。
その代わりに、和尚様達の生活の面倒を見たり御堂を建てたりして支援した訳ですね。
宗教的に和尚様達を尊敬している事に加えて現実的な用途も寺院には有ったんです。
この蒔田城址や勝国寺と、岡村梅林の中間位には三殿台遺跡が在ります。
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ここは縄文~弥生時代の遺跡で、当時の様子が再現された住居跡や出土品の常設展示が有ります。
興味の有る人は、これも昔書いた記事が有るので、以下のリンクをクリックして見て下さい!

さて!
今日はお出掛け日和です!
記事は岡村梅林鑑賞会当日のUPで申し訳無いのですが、梅もこれからまだまだ2週間は見頃です!
是非!岡村梅林に足を運んで、ついでに“ゆず”の聖地巡りや歴史散歩をしてみては如何でしょうか?

では!又、次のブログ記事で!



今年も梅が見頃の季節に成りましたので、神奈川県内で綺麗な梅の花の名所を小生の知る場所だけ、一覧として掲載します。
もし他にも県内に素晴らしい梅林を御存じの方は、紹介コメントを残して頂けると幸いです。
※小生が写真未撮影の梅林については公式ホームページの写真を転用し紹介します。
※公式ホームページが有る場所は名前にリンクも貼りますので参考にしてみて下さい。
※梅林の名称をクリックすると、リンク先の公式ホームページを閲覧出来ます。


湯河原梅林
住所:〒259-0313足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1付近
見頃:2月初旬~3月初旬
湯河原梅林様公式 画像拝借1 久良岐のよし  
湯河原梅林様公式 画像拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
●夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話確認するか、公式ホームページを御覧下さい
湯河原梅林は約4000本の梅を誇る。箱根~小田原~熱海の温泉地や名勝旧跡からも車で1時間以内と近く、周辺には温泉宿も多く有る風光明媚な観光地で泊りがけの梅林鑑賞を楽しめる夜間ライトアップも行っている。
連絡先
湯河原町観光課 TEL 0465-63-2111
アクセス
幕山公園
駐車場…500円~300円(会場との距離で料金が異なる)
JR湯河原駅~バス乗車(約20分に1便間隔)~15分で到着 湯河原梅林 アクセス 久良岐のよし



【辻村植物公園】
住所
:〒250-0042小田原市久野荻久保4381
見頃:2月初旬~3月初旬
辻村植物公園2 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし 
辻村植物公園 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
特に無い。
連絡先
小田原市広報広聴課 TEL 0465-33-1261
アクセス
辻村植物公園
駐車場500円
JR小田原駅西口~バス乗車いこいの森(わんぱくらんど)行き~約10分、辻村植物園で降車
辻村植物公園 アクセス 久良岐のよし 

小田原城 城址公園内梅園
住所:小田原城址公園
見頃:1月末~2月末
小田原城 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借 
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※2015年02月28日撮影。
この頃が見頃。
イベント
梅まつり
梅林の規模は50本前後と小さいが、御城を見学出来る上に場内でレンタル甲冑で写真撮影等も出来る。
また、辻村植物公園の梅林や曽我梅林や小田原フラワーガーデンと合わせて鑑賞に来れる距離。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-23-1373
アクセス
JR小田原駅から徒歩10分
公共駐車場無し。周辺に私営駐車場有り。 小田原城アクセス 久良岐のよし


小田原フラワーガーデン
住所
:〒250-0055 神奈川県小田原市久野3798-5
見頃:1月末~2月末
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借 久良岐のよし 
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
渓流の梅林 梅まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-34-2814
アクセス
JR小田原駅乗り換え~伊豆箱根鉄道大雄山線飯田岡駅~徒歩10分
駐車場(140台)無料
小田原フラワーガーデンアクセス 久良岐のよし 


曽我梅林
住所
:〒250‐0205神奈川県小田原市曽我別所282付近一帯

見頃:1月末~2月末
曽我別所梅まつり観光協会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
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※2015年02月28日に撮影
イベント
小田原梅まつり 
※曽我梅林は他の梅林とケタ違いの3万本以上の広大な梅林です。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
小田原別所観光協会 TEL 0465-42-1965
アクセス
電車…JR東海道本線国府津駅~御殿場線に乗り換え~下曽我駅~徒歩15分。
バス…小田原駅・国府津駅からバス有り。中里で降車~徒歩20分。
曽我別所梅まつりアクセス 久良岐のよし 


松岡山東慶寺 金峯山浄智寺
住所
東慶寺〒247‐0062鎌倉市山ノ内1367

浄智寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1402
見頃:2月初旬~3月初旬
東慶寺様公式ki-chi様撮影 拝借1 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
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※2015年06月14日に撮影
駆け込み女と駆け出し男
※東慶寺は2015年公開の映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台です。
イベント
特に無し。
東慶寺は約100本以上、浄智寺にも数十本の梅が咲く。
東慶寺と浄智寺は徒歩5分の距離。
浄智寺は鎌倉五山で京都の征夷大将軍が直接住職を任命する特別な寺だった。 現在は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つ。
東慶寺は鎌倉幕府執権北条時宗の妻、覚山尼様の開基。その後は後醍醐天皇の皇女用堂尼様、戦国時代には豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務めた。映画❝のぼうの城 ❞のヒロインで女傑として有名な成田甲斐姫も天秀尼様の養育係として仕え東慶寺に同行し住したと伝承する。
浄智寺は鎌倉五山の一つの各式を持つだけでなく、嘗(かつ)ては広大な敷地と無数の堂塔を有し、鎌倉公方の仮御所に定められる事も度々有り、足利持氏公や足利成氏公が滞在した場所でもある。
又、2015年に公開された映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台でもある。
連絡先
東慶寺 TEL 0467-33-5100
浄智寺 TEL 0467-22-3943
アクセス
東慶寺 JR北鎌倉駅~徒歩5分
浄智寺 JR北鎌倉駅~徒歩8分
東慶寺浄智寺アクセス 久良岐のよし 


錦屏山瑞泉寺異名:花の寺&荏柄天神社】
住所:
瑞泉寺 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
荏柄天神社 〒248-0002 鎌倉市二階堂74
見頃:1月中旬3月初旬、黄梅は2月中旬~3月中旬 
瑞泉寺様公式mayumi-katsu様撮影 拝借1 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
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荏柄天神社は日本三古天神社の一つに数えられる天満宮で、境内には数十本の梅が咲く。
イベント:
瑞泉寺
瑞泉寺様公式催事 拝借 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
季節ごとに、その季節に見頃の花を植樹してある。梅は数百本を数える。
鎌倉時代~江戸時代まで権力者達が心の安らぎを瑞泉寺の花々に求めて訪れ歌会等を催した。
裏山にかつて在った一覧亭と言う建築からの眺望が良く、水戸徳川光圀(黄門様)も訪れた。
近くの荏柄天神社にも数十本の梅が植樹されているので、荏柄天神社と瑞泉寺をセットで見学するのが御薦め。
徒歩に行ける範囲の浄妙寺や鎌倉宮と合わせて見学しても、より鎌倉市街の旧鎌倉幕府拠点地域の原風景を楽しめる。浄明寺では抹茶も飲める。鎌倉宮は桜の名所。
連絡先
瑞泉寺 TEL 0467-22-1191
荏柄天神社 TEL 0467-25-1772
アクセス:
荏柄天神社 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車10分~天神前で降車
瑞泉寺 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車15分~終点大塔宮で降車
瑞泉寺荏柄天神社アクセス 久良岐のよし 


神奈川県立フラワーセンター大船植物園
住所:
〒247-0072 神奈川県鎌倉市岡本1018
見頃:2月初旬~3月初旬
大船フラワーセンター様公式 拝借1 久良岐のよし 
大船フラワーセンター様公式 拝借3 久良岐のよし
※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
イベント:

玉縄桜を楽しもう
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
玉縄桜の❝玉縄❞とは古来より伝わるこの地域の地名で、戦国時代、今の清泉女学院中学校を本丸にした❝玉縄城❞と言う名城が在った。上杉謙信軍10万、武田信玄軍2万6千に攻められても落城しなかった堅城だった。
その歴代城主が小田原北条家親族の玉縄北条家で、玉縄桜はその殿様の居城の名を頂いた由緒正しい桜で、観梅の頃に咲く。近くの龍寶寺は関東最強の武将北条綱成公の菩提寺で歴代城主の御廟所も在る。境内には他に玉縄歴史資料館も有り、玉縄城の復元縄張り模型や出土品が展示されている。
連絡先:
神奈川県立フラワーセンター大船植物園 TEL 0467-46-2188
アクセス:
駐車場109台
電車&徒歩 
大船駅降車 大船駅西口(大船観音側)~徒歩16分
バス 
大船駅西口バスターミナル1番乗り場から❝渡内経由藤沢駅行き❞か❝公会堂経由城廻り中村行き❞に乗車~❝岡本(駅から3番目のバス停)❞で降車~徒歩3分。 
大船フラワーセンターアクセス 久良岐のよし制作 


田浦梅林の里
住所:
横須賀市田浦大作町
見頃:2月初旬~3月初旬
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※写真は2015年03月07日
イベント:
梅林まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
田浦梅林は今上(現在の)天皇陛下の御生誕記念に植樹されたのが始まりで、現在では梅の本数は2700本を超え、梅の根元には水仙75,000株が植えられている。
田浦の山全体に梅が植林されており、山頂からは梅林越しに懐かしい神奈川の里山の風景を眺める事が出来る。
連絡先:田浦観光協会 TEL 046-961-4181
アクセス:
バスと徒歩…田浦郵便局バス停で降車~山頂まで徒歩20分
電車(JR)と徒歩…JR田浦駅で降車~山頂まで徒歩25分
電車(京急)と徒歩…京急田浦駅で降車~山頂まで徒歩40分
田浦梅林


岡村梅林
住所:
〒235-0021横浜市磯子区岡村6-8-19
見頃:2月初旬~3月初旬
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※写真は2015年03月07日撮影
イベント
夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
梅まつり
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
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岡村梅林は大きくは無いが、150本前後の梅が植林されている。
この岡村梅林は、元々周辺の横浜市立岡村公園(スポーツ公園)と合わせて、近隣の岡村天満宮の社地だった。岡村天満宮の開基は鎌倉御家人三浦家の一族の平子家と伝わり、その人物は平子有長公と推定出来る。有長公は鎌倉御家人で最初の源頼朝公暗殺未遂事件の実行犯を取り押さえた勇敢な武将でもあった。丘の裏手には戦国時代の名将北条氏繁公の開いた龍珠院も在る。
岡村天満宮の社領は第二次世界大戦後に米軍に接収された後、横浜市に返還されたが横浜市が岡村天満宮に返還しなかった為に一度、岡村梅林は消滅したが、岡村天満宮の氏子様の有志達が旧社地の一部を買戻し、現在の岡村梅林部分にも梅を植林し梅林を復興して下さった歴史が有る。
連絡先:岡村公園 TEL 045-751-4375
アクセス:
バス
京急弘明寺駅/市営地下鉄弘明寺駅/蒔田駅/JR磯子駅のいずれかの駅から乗車~天神前バス停か岡村交番前バス停で降車~徒歩5分
駐車場…岡村公園の有料駐車場~徒歩3分
岡村梅林アクセス


根岸森林公園
住所:
〒231-0853 横浜市中区根岸台1-2
見頃:2月初旬~3月初旬
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※写真は2015年03月02日撮影
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※上写真は明治時代の旧競馬場一等観覧席(米軍横須賀ベース管理の史跡)DSC_0129ドルフィン外観DSC_0131眺望
イベント:特に無い。
広い芝生の広場と園内に広がる桜林は横浜市民の憩いの場としても有名だが、公園の中央には400本からの梅林も整備されている。
もともとは競馬場だった。
幕末、横浜港が開港され本牧半島が外国人居留地に成った事で、駐在する欧米の外交官や軍人の要望で明治時代に建設された日本最初の競馬場の跡地。
隣接してJRAのポニー広場や競馬関連の博物館も有り、御弁当を持参すれば小さい子供連れの家族でゆっくり時間を過ごせる場所。自然湧水の池では子供がザリガニ捕り等も楽しめるる公園。
又、徒歩すぐの場所にはユーミンが十代の頃、まだ芸名が荒井由実だった時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲で歌詞に歌ったレストランの❝ドルフィン❞が有る。
歌の通り、ドルフィンソーダを頼むと、この曲をかけて貰えます。
連絡先:横浜市環境創造局 TEL 045-671-3648
アクセス:
JR根岸駅~徒歩15分
駐車場有り。
根岸森林公園アクセス 久良岐のよし


三渓園
住所:
231-0824横浜市中区本牧三之谷58‐1
見頃:2月初旬~3月初旬
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イベント:
季節ごとのイベント有り、梅の季節は原家以来の伝統で茶が振る舞われる。
桜の季節には観桜の夕べで桜の夜間ライトアップ有り。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
明治時代の原財閥の富豪、原三渓が当時、廃仏毀釈で荒廃した全国の仏閣や徳川家所縁の城跡の建築文化財を広大な私邸に移築し保護した。日本で全国に先駆けて私立公園として私邸の建築文化財と日本庭園を広く庶民に公開した。
中には聖武天皇の勅願所だった京都府の灯明寺の旧本堂や三重塔や鎌倉の尼寺東慶寺の仏殿、紀州徳川家の和歌山の別荘や、京都の伏見城等、数え切れない程の建築遺産が移築保護されている。
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現在は原財閥から横浜市が管理を委ねられている。
原三渓の御蔭で破壊を免れた重要文化財や、季節ごとの花の綺麗な広大な日本庭園。
連絡先:045-621-0834
アクセス:
駐車場有り。
桜の季節は駐車場に入るのに1時間以上待つ場合が多々有ります。
電車&バス
JR根岸駅でバス乗車~本牧下車。
JR桜木町駅/横浜駅東口~バス乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
みなとみらい線元町中華街駅4番出口近く、山下町バス停乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
三渓園様公式拝借2 久良岐のよし
三渓園アクセス 久良岐のよし


大倉山公園梅林
住所
:〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-36-8付近
見頃:2月初旬~3月初旬
大倉山観梅会様公式 拝借2 久良岐のよし
※写真は大倉山観梅会運営様公式から拝借
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※2016年02月27日撮影
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※2016年02月27日撮影
イベント
大倉山観梅会
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
大倉山観梅会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は2016年の広告
大倉山の梅林の隣には、戦国時代の北条家重臣笠原康勝公が開いた竜松院と言う御寺が在る。
その御寺を含む大倉山公園~太尾見晴らしの丘公園にかけて続く鶴見川河畔の丘陵は、笠原家の居城❝大曾根城❞だった。
その城址に小規模な梅林が有り丘一体は大倉山地区の住民の憩いの場だったのを、東急不動産が開発破壊しようとした際に、義挙した住民が一丸と成り東急の城址と自然破壊に反対し、約30年前当時の細郷横浜市長の下で横浜市が買い上げ自然を残した公園として整備し梅林として有名に成った。
初春には周辺地域からも観梅客で賑わう。
連絡先:港北区地域振興課(観梅会実行委員会事務局) TEL 045-540-2235


本沢梅園(ほんざわばいえん)
住所:
相模原市緑区河尻4457‐1
見頃:2月初旬~3月初旬

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※撮影日は2016年02月24日
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※撮影日は2016年02月24日
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※撮影日は2016年02月24日
イベント:
開園期間
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
※本沢梅園は官営なので管理人が常駐しておらず、開園期間以外は梅園の遊歩道には入れない。
※梅園自体は山腹の斜面に広がっているので、道路沿いからでも十分観梅が楽しめる。
本沢梅園祭り
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
約1000本の梅が植林されている。
昔は谷だったが、近隣の津久井湖建設の残土で谷間を埋めて、そこに梅を植林した。
周辺に歴史史跡も多く、山頂の金刀比羅宮は古来、雨乞いの神事が行われた水の枯れない池が在る。
梅林から尾根伝いの山裾(やますそ)の寶泉寺を囲む山は平安時代末期に長井家によって築城された小松城址でもある。
近くの津久井湖や戦国時代の名城、津久井城址の山のピクニック等と合わせて見学に行くと、1日中自然を満喫出来る良いレクリエーションに成る。
※津久井城址は根古屋地区のパークセンターに無料駐車場有り、鎧や城址復元図等の展示も有る。
連絡先:
相模原市コールセンター TEL 042-770-7777
城山まちづくりセンター TEL 042-783-8115
アクセス:
駐車場…無料130台
バスと徒歩…JR/京王線の橋本駅~バス❝若葉台住宅行き❞に乗車~若葉台住宅で降車~徒歩30分。
本沢梅園アクセス

 

横浜市磯子区中原に、今では住宅街の中の普通の神社に成ってしまった元々凄い修験道の道場の跡地が有ります。
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今では、ただ熊野神社としか名前の表記が有りませんが、少しややこしいのですが、ここは現在でこそ“熊野神社”と呼ばれていますが、そもそもは鎌倉市山崎に存在して源頼朝公から崇敬された山崎泉蔵院と言う由緒ある修験道の大寺院の熊野権現を祀った道場でした。
山崎と言うのは今も鎌倉市北鎌倉駅~大船駅近くにかけて地名も残る丘陵地帯の事です。
現在の磯子区の熊野神社の前身と成ったのは大霊山泉蔵院桐谷寺と言う修験道寺院です。
その大霊山泉蔵院桐谷寺の更に前身が、今の鎌倉市山崎に存在した山崎泉蔵院です。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
源頼朝公が平家を倒して征夷大将軍に就任した際に、国と民百姓の安泰を祈願する為に鎌倉郡山崎の泉蔵院の大僧都真諦智覚法印と言う高僧に命じて、熊野三所権現から御神霊を勧進させて山崎泉蔵院の熊野権現を祀った道場を、この熊野神社の境内に開きました。恐らく当時は周辺の住宅街も全て道場だったはずです。
熊野三所権現と言うのは今の和歌山県熊野三山に鎮座する由緒ある那智大社、熊野速玉大社、熊野神社本宮の三社の事です。
つまり、磯子区中原の熊野神社に御参りすると、その三座の大社に御参りしたのと同じ事に成る場所として泉蔵院の道場が開かれた訳です。
まぁ、磯子区中原に鎌倉時代、泉蔵院の道場として熊野権現が開かれた当時は相当な敷地を誇っていたでしょうし、参道の両脇には明らかに旧境内地と思える住宅が有ります。
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この家とか参道と直結してるし・・・
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このマンションかアパートだかも明らかに旧境内地の谷戸(やと)の中に不自然に立っています。
さて、鎌倉山崎に在った泉蔵院は後に現在の磯子区中原の熊野権現に機能移転し、室町時代以降は現在の熊野神社の場所が泉蔵院の本拠地と成りました。
その時に、この山に囲まれた谷間の地名が❝桐谷(きりがやつ)❞だった事から、武蔵国久良岐郡に移転後の泉蔵院の正式な名称は大霊山泉蔵院桐谷寺と改められました。移転後も宗派は勿論、修験道で本山は京都市左京区に有る南禅寺近くの聖護院でした。現在は神道の神社ですけどね。
後で触れますが、戦国時代に泉蔵院を支援したのは北条家重臣だった間宮家です。
笹下城主の間宮信元公、間宮与七郎公、代々徳川将軍家の鷹匠頭を継いだ分家の杉田間宮家の江戸時代の当主だった間宮信久公の関与が現代に伝わる文書で確認出来ます。
この間宮家は水軍を率いており、戦国時代には現在の浦賀港の西浦賀を領有した間宮宗甫公、江戸時代には徳川家の水軍大将を務めた間宮信高公が三浦の横須賀市長坂に所領を有していましたが、三浦半島に三浦大根とは別に昔、聖護院大根が生産されていたのは、もしかしたら、この泉蔵院と間宮家が関係有るかも知れませんね。

頼朝公が没すると、鎌倉幕府は内戦が頻発し、鎌倉山崎の泉蔵院は戦火を逃れて、磯子区中原の熊野神社の道場に寺院機能を移転しました。その時に同地が桐ケ谷と呼ばれた場所だった事から寺名を大霊山泉蔵院桐谷寺と改めました。
しかし明治時代に成ると神仏分離令が発布され国策で当時の御住職は僧籍を返上し、桐谷寺は廃寺に成り熊野神社だけが残りました。
山崎地区
上は元々泉蔵院の所在した鎌倉市山崎地区の境界線を衛星写真上に再現した画像です。
北鎌倉駅を挟んで円覚寺と反対側の山、玉縄城址や大船駅の近くまでの山一帯が山崎と呼ばれた地域です。この山崎の“崎”と言う字には岬">(みさき)<と言う意味が有ります。
実は弥生時代位まで大船一帯は大船湾と呼ばれた海だったので、同地が昔は海に突き出した半島だった名残りに由来する地名でしょう。
古代の大船湾 久良岐のよし
緑色の地域が縄文時代に陸地だった場所で、白い場所は海底だった場所です。
山崎地区は見事に古代の大船湾に突き出した小さな半島=岬だった事が解ります。
修験道は山伏の神仏習合の宗派だったので日本古来の神道的な価値観に仏教の哲学と信仰を融合させていました。ですから延喜式内社と呼ばれる古代から存続する神社と同じ様に湧水地や山上の奇岩を御神体とし、自然に纏(まつ)わる神様の御分霊や仏様を祀り、修行の為の道場を開く宗派でした。
さて何故源頼朝公が、この磯子区中原に修験道の道場を開いたと言うと、頼朝公は日本神話を大切に信仰しておられ、更に神話を大切にする仏教の真言宗も大切にしておられました。
頼朝公は其(そ)れ故(ゆえ)に山岳信仰者でもあり、自ら神奈川県伊勢原市の大山や富士山の山頂まで当時の貧弱な装備で登山された史実が残っています。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
現在は熊野神社と成った泉蔵院は、頼朝公の時代には京浜急行に❝屏風ヶ浦❞の駅名が残る事からも察しがつくと思いますが海に切り立った断崖が現在の中区元町~金沢区六浦まで実に10kmに渡って続いていました。
この風景は江戸時代にも現在の神奈川区や関内に在った横浜の地名に成った半島の辺りから船に乗船して現在の京急杉田駅前を流れたいた聖天川までクルージングするのが観光コースに成っていたそうです。
そして熊野神社の出来る場所は湧水地と滝の有る場所なのですが、現在でこそ、それらしい物は現存しませんが周辺は中原四丁目緑地として遊歩道が設置されていて、壁面からの湧水でいつも地面がぬかるんでいます。
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今ではこの緑地帯の存在自体を知る人も少なく、歩く人も少ない。
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もし、この熊野神社に御参りされる方は是非、この辺りも散歩してみて下さい。
さて、現在の熊野神社其の物に話を戻します。
参道には様々な石碑が並んでいます。
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歌碑だったり、泉蔵院時代からの歴史を書いて有ったり・・・
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この関寅吉さんは、杉田浦が埋立られる以前の一大産業だった海苔の養殖を近代に発展させた人物でした。
今では豊かだった杉田や屏風ヶ浦の海はアホの横浜市が埋め立てて消えてしまいました。
東京湾京浜地区の海苔の養殖は今では、金沢区の野島と三浦半島横須賀市走水で一部行われており、特に走水産の海苔は美味しいので小生は毎年冬に走水神社の年末年始の御参りを兼ねて買いに行っています。
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この、ながつか水産等で、昔のままの江戸前の美味しい海苔を購入する事が出来ます。
実は屏風ヶ浦一帯の海は海苔よりも鮑(あわび)や海鼠(なまこ)の漁獲量が豊富で特上の品質を誇っていた事で勇名でした。幕末には清国向けの輸出品として大変に重宝され、現地でも最高級品扱いされたそうです。
アホの横浜市が海を埋め立ててしまったので、当然、鮑等が生息できる環境ではなくなりました。
内陸部に平地の耕作地が沢山余っていたのだから、ハッキリ言って埋め立てる必要は無かった訳で、これは当時の市長が建設利権と結びついていた人物だったからと言うのも、泉蔵院の歴史を現代から鎌倉時代まで順番に周辺の環境の変化も含めて追っていくと解る事だったりします。
今の林文子横浜市長も、する必要の無い埋め立て工事を本牧沖で行っていますね。
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まぁ、そんな感じで、この地域は昔、現代の政治家と違って心から地域発展に力を尽くされた民間人を多く輩出しているので沢山、偉人達の石碑が有ります。
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修験道の道場だった場所なので熊野神社の在る場所も崖地で、参道の後半は階段に成っています。
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横には神仏習合時代の名残の石塔。
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階段を中段まで登ると本殿が見えます。
この中段の左手に、明治時代に政府の命令で僧籍を捨て神職に成られた元い泉蔵院の初代熊野神社宮司様が昔、頼朝公が開いた修験道の大道場だった事を伝える為に名残を残して下さっています。CIMG1475
その名も泉蔵社と言う摂社です。
ここに神仏習合時代の仏様達が祀られているそうですが、それが御分霊を祀っているのか、将又(はたまた)仏像その物が収蔵されている訳ではないそうです。
恐らく神仏分離令が発布されて熊野神社だけを残し泉蔵院が廃寺に成った際に、周辺の御寺サンに仏様達は譲って守って頂いたのかも知れませんね。
まぁ、泉蔵院も戦国時代に房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有るので、その時に仏様ももしかしたら持ち去られていたのかも知れません。
戦国時代には間宮家が奉納した太刀が有り、江戸時代にも存在した事が記録されています。
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この中段を一段上がった場所に御本殿が在ります。
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ふむ
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真新しいけど立派な扁額。
本殿へ参拝して左手に目をやると他にも摂社があります。
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摩利支天・・・
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仏教の仏様で元々はヒンドゥー教の神様の戦神。武士に多く崇拝された神様。
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そして御稲荷さん。
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どこの神社に行っても、大きな御寺に行っても、御城の址に行っても、いつもお稲荷さんに御参りする機会が有る。必ずと言って良い程に御社が有る。それだけ昔は庶民に愛された日本人と近しい神様。
小生は毎日、御稲荷さんを行く先々で見かける度に、今日も御参りの機会を頂けてありがとう御座いますと御礼を伝えています。

さて、熊野神社さん、今でこそ小さいけれど、そもそもは泉蔵院と言う大道場の跡だった訳ですが、今では映画やアニメのロケ地に使われてもおかしくない雰囲気の、町の中に残された中原緑地に佇む雰囲気の良い神社で有る事は伝わったでしょうか?
もし、屏風ヶ浦地区や杉田駅周辺に御住まいの方は、是非、御散歩がてら御参りされてみては如何でしょうか?

・・・昨年末に書き書けの神社仏閣まとめて紹介一覧記事、今週から少しづつ更新します。
季節柄税務関連の申告書作成とか忙しく、中々更新できておらず申し訳ありませんね(笑)。


では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!



小生の仕事は一般的な会社勤務の方と異なって、祭日は関係ない。
だから、ここ数年、自分の休日が偶然重ならないと年末年始も仕事をしている事が多かった。

良い事も有って、週休二日なのだが平日1日と土曜日が休みなので、病院に行ったり役所に行ったり用事が有る場合に重宝するし、平日だと出掛けても余り人込みに捲き込まれる事も無い。これは花見や紅葉の観光シーズンには非常に利点となる。
しかし欠点も有って、どこかに宿泊に行く場合は自分で仕事を休む必要が有ったりする。
昨年は母が子宮癌の手術をした事も有り、正月に縁者を呼んで快気祝いを催す心算で予め2日と3日を休みにしておいた。しかし生憎ながら両親の縁者は皆それぞれ身内と旅行の予定が入ってしまっていたそうな。
しかも身内も妹達はディズニーのミラコスタに年末からぶっ通しで宿泊、ディズニーランド&ディズニシー漬け。
弟の所も義妹が流通関係の仕事の責任者だったり、義妹の母上と先約が3日に入っていたりで小生の計画は相談前に無残に打ち砕かれた(笑)!

そんな訳で、結果的に溜まっている仕事とブログの更新と年末の御礼参りと、小生の尊敬する天神様菅原道真公の神社と日本武尊の神社に元日の初詣。
そしてブログの「 」の更新の為に、未訪問だった平塚八幡宮や、デジタル写真未撮影の場所を2日に行く事にした。

そんな訳で年末に向けて21日から動き出した。
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いつも御守護頂いている弟橘姫様の古墳を背後に抱える神社、つまり本来は弟橘姫御陵の遥拝所だったはずの橘樹神社へ御礼参り。
神社の真っすぐ後ろに古墳跡の宅地の丘の頂点が位置している。
神奈川県教育委員会は自分達が発掘調査も保護もしなかった事に触れない為に、明らかに人口地形で円形に削られている宅地には説明看板でも一切触れていない。
ただ「今よりも大規模だったと推測される」と誤魔化している。古墳は頭頂部のキャップみたいな部分の一部だけ現存するが、墳丘の形状は地形に残っている。
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日本武尊と弟橘姫様に御夫婦で御守護頂いている事を御礼申し上げて、改めて走水神社へも御礼参りに伺う事をお伝えして帰宅した。

24日の家の用事は年末の買出しの一環、新海苔を買う事。私事は走水神社への御礼参り。
実は走水海岸は海苔の名産で、正真正銘の江戸前海苔、しかも太平洋の綺麗な海水が流れ込んで来る場所で育っているので美味い!
これを正月のチラシ寿司用にと買いに来た訳だが、もちろん、主たる目的は別に有り走水神社の日本武尊と弟橘姫様への一年間の御礼参りだった。
先ずは海苔の直売所は後回しにして、❝かねよ食堂❞でランチした。
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かねよ食堂では、この日はランチの時間を少し過ぎてしまったのでカフェタイムの和食から金目鯛の煮つけ定食を頼んだ。
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金目鯛の卵の煮つけも付いていた。美味しかったです、いつもごちそうさまです!
余談だが、かねよ食堂の店員の御姉さん達は皆美人、オーナーシェフさんもサーフィンが好きすぎて三浦半島に住んだ人物だけありオシャレな雰囲気の日曜大工好きな変わった人(笑)。
食事を終えると、ながつか水産へ移動。車で1分、徒歩なら3分の距離。
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小生は❝かねよ食堂❞で食事する時や走水神社に御参りに来ると必ずこの❝ながつか水産❞で海苔を購入している。購入後、走水神社に御礼参り。
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1年間、御加護を頂いた事を日本武尊と弟橘姫様に御礼申し上げ、初詣に又来る旨を御伝えした。
走水神社はすっかり大晦日の二年参りの準備が出来ていた。
氏子の皆さん、ご苦労様です。
その後、せっかくの休日、真っすぐ帰宅するのが嫌で少し周辺を散歩しに行った。
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近くには現代では半島の先端の岬、海面の高かった古代には島だった御所ヶ崎と言う場所が有る。
ここは古事記にも登場する、日本武尊と弟橘姫様が一時、仮御所を建てて過ごしていた場所なのだが、それを知る人は現代では少ない。
日本武尊を小生は弥生時代を終わらせて青銅器全盛の古墳時代に変革させた人物だと推測している。
無論、一人の人物ではなくて、最初の日本武尊が走水で過ごした西暦100年代~200年代頃の人物で、その後にも応神天皇や雄略天皇等の事績も習合されていると推測している。
・・・と、言うか、恐らく日本武尊と言うのは古代の「征夷大将軍」の様な古代の称号と言うか非常設の官職名だったんだろう。
ちなみに走水に居た日本武尊は景行天皇の皇子で成務天皇の御実弟なのだが・・・。
景行天皇は卑弥呼の弟君だろう。三国志に書かれている、卑弥呼に唯一話せる男性と言うのが景行天皇だと思う。無論、只の当て感。
そして叔母の倭媛(やまとひめ)命は卑弥呼だろう。更に神功皇后は臺与だと思っている。
更に、日本武尊を接待した大伴氏は、走水神社では大伴黒主、横浜市神奈川区六角橋や同区浦島町では大伴久応と伝わるが恐らく同一人物で、この時代の日本武尊の伝承が関東における浦島太郎伝説の原型に成っていると小生は推測している。
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御所ヶ崎は、浦島太郎伝説の竜宮城と同じく海の❝中❞に在る。もっとも中の意味が少し違うが。
しかも弟橘姫様も海の中で生活する乙姫と同じく海中に飛び込み海の底に沈む。
恐らく小生の推測は当たっているだろうが、民話伝承なので古文書が有る訳でも無い。
この御所ヶ崎からは明治に成るまでは海岸線の先に富士山が綺麗に見えたのだが、御所址の神社は海軍に撤去されて軍事要塞化されて、現代では一般非公開に成っている。
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しかし今の季節なら門の前から旧社殿の在った石段の上の削平地が見る事が出来る。
立入禁止には成っているが現代も近くの丘からは走水の海岸線の真っすぐ先に富士山が見えて夕陽が沈む様を見る事が出来る。
この御所ヶ崎砲台を見学したければ横須賀市の公園管理課に予約を入れると見学出来る。
この日は、富士山は帰路の車の中から見るに留めた。
帰宅して文献読んだり資料整理したり。
朝までブログを更新して少し寝てから翌日仕事開始。

 ↑
その記事はコレ。年が明けた01月03日現在も随時更新中。

28日。
この日は母の要望で横浜南部市場に歳末の買出しに行って来た。
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この日の様子は既に別の記事↓コレで紹介しているので省略する。

昼から夕刻は義祖母の墓参りやジーパンを買いに行ってから夕闇にシルエットを浮かべる富士山を見た。
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帰宅してから部屋の掃除したり神社仏閣の纏め記事の更新を書いていたら翌日早朝になり、少し寝て又、仕事に向かった。


31日休日。昨年の大晦日は久しぶりに休みだったので、朝から南部市場を再訪した。
目的の一つは朝食。
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しかし、最終日は飲食店は殆どが営業終了していて、場外市場の寿司屋で、から揚げカキフライと豚汁の定食を頂いた。
カキフライがとても美味しかった。
この日の訪問の目的はズバリ❝毛ガニ❞だった。
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ビンゴ!
初日に1杯4200円した比較的質の良い毛ガニが、最終日は多くの店舗がほとんど営業しておらず客足も少ない事も有って売り尽くしで2杯5000円に価格が大暴落していた(笑)。
小生は昨年の経験からコレを予測しており、蟹は最終日に買う事に決めていたのだ。
良い買い物が出来て満足。
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夕刻16時、小生が横浜市内の智慧の神様として一番崇敬する永谷天満宮を参詣し、歳末の大払の神事に参加させて頂いた。例年仕事で来れなかったので嬉しい。
この永谷天満宮は菅原道真公の5男で父上同様に賢者として名高い菅原淳茂公の御住まいに成っていた邸址に立っており、そして御神体も道真公が自らの姿を手彫りした彫像だったりする。極めて菅原道真公の御利益が強いと言える場所。
アホで喧嘩っ早い小生が生きてられるのは永谷天満宮や関東に関わった菅原道真公・菅原景行公・菅原淳茂公の御蔭だと思っている(笑)。
改めて参列時の写真を見ると小生より前列の参列者は皆さん頭がハゲ上がっ・・・
何でもない。小生も気を付けて髪の毛を労わろうと今、写真を見て思った。
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神事で形代に厄を移して、宮司様に焼いて頂く。
形代には息を吹きかけて厄を移すのだが、小生の後ろにいた不倫バカップルみたいなジジ・・・中年の方が小生の首にまで息がかかる程強く息を吹き腐って、生理的にも気色悪いし、とても縁起が悪いので、その後、手水舎の水でメッチャ首を洗って清めた(笑)。
帰宅すると1月1日は小生は仕事が在ったので、資料を見ながら神社仏閣紹介のブログを更新してから寝た。

1月1日
早朝の5時頃に目が覚めたので、走水神社に初詣に行く事にした。
日本武尊と弟橘姫様と大伴久応黒主様に新年の御挨拶の御参りに行った。小生の氏神様は東京都羽村市と熊本県にいらっしゃるのだが、横浜市における土地神様や智慧の神様として崇拝している永谷天満宮は翌日の休みにユックリ参拝する計画だったので、先ずは走水神社に御参りに行く事にした訳だ。
前日永谷天満宮で不倫バカップルっぽい中年男に息を吹き込まれたせいか、元日早々変わった事が有った。
御酒の匂いを漂わせた陽気な御兄さんにガソリンスタンドで話しかけられ、何やら深酒で酔っぱらっている御兄さんは判断力が低下していたのが強い口調で語りかけて来たのだが、その後、何故か握手を一方的にされると言う珍事を経験した。
ふむ・・・
寒川神社の寒川比古様と寒川比女様の八方守り買っておいて良かったな。
いつもの小生なら話に応じず、イライラしたかも知れない。何言ってるか解らん奴の相手なんぞ平素なら絶対にしないと言うか、握手されるとは知らずに手を掴まれそうになったら問答無用で頭突きするかもな。
まぁ、御守りと言うのは正直「心の持ち様」と言う所は有ると思う。
しかし、御守りをどう言う心算(つもり)で買って持っているかと自覚する事が大切なんだとも思う。
困った時の神仏頼みと言うのは、最後の最期で自分だけではどうにもならない面を精神的に後押しして貰う事自体が大切なんだろう。
取りあえず、不倫バカップル爺の呪い(笑)は寒川神社の神様がブロックして下さったんだと思う(笑)。
てか、酒に飲まれるようなバカは一生酒飲むなボケ!弱い癖に飲むんじゃね~よ!
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先日は無かった横断幕が掲げられていた。
拝殿で参拝してから、裏山の奥宮にも参拝して、早朝の走水湾の風景を見た。
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清々しい。
この元日は朝から良い事も有った。
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御所ヶ崎近くの丘から、走水の海岸線のずっと先に綺麗に富士山を見る事が出来た。
気持ち良く1年の始まりを迎え、仕事始めも終える事が出来た。

さて、皆さんは今年一年、どんな目標を持っているだろうか?
小生は神社仏閣の保護や歴史偉人と神様に成った先人達の顕彰活動を公に頑張りたい。
間宮家の顕彰活動は今年、形に成る。
織田信長公の実質本妻の生駒お類様の菩提寺の久昌寺の支援活動を経済面でも文章でも形にしたい。
それを通じて先ずは経験と実績を積んでフォーマットを築き、横浜市内と県下の偉人と所縁深いけど荒廃している神社仏閣歴史史跡の保護と再興事業を将来担いたい。
個人的にはささやかな願いだがダイエットを成功させる。
あとは昔の様に武術を何か時間を作って習いたい。武道じゃなくて武術ね。
結果的に、公私ともに充実した1年にしたい。昨年より更に。
しかし昨年は睡眠時間が少なすぎて髪の毛に負担をかけたので、今年は本来の小生の剛毛に復活させる為に睡眠は十分に気を付けよう。
・・・と、いいつつ昨日2日は神社仏閣紹介記事用の写真撮影で徹夜のまま早朝に川崎の橘樹神社に行った後に下道で中原街道沿いに、都筑~大和市の左馬神社~綾瀬~寒川経由~二宮町の川勾神社~~二宮町国府本郷へ移動~六所神社~箱根駅伝見物~馬場公園~神揃山~大磯町へ移動~大磯城山公園の古墳群を見学~高来神社~平塚市へ移動~平塚八幡宮と回り、更に伊勢原市に移動して例年の三之宮比々多神社の初詣をし可愛い巫女さん達(笑)に鈴で御祓いをしてもらってから元宮を御参りして帰って来た結果、徹夜のまま13時間活動してしまった。
これでは、いくら禿げない小生の遺伝子でも又、髪の毛が細くなってしまう。
本当に気を付けよう。

さて、次回は神社仏閣紹介記事を更新しつつ、まだまだ未紹介の城址、神社、仏閣、歴史史跡が有るので何か解説記事を書きたいと思います。

では!皆さん、祝新年快楽!皆さんにとって良い1年に成ります様に~。
そして熊本の復興と常総市の復興と東日本大震災の復興が早く成し遂げられます様に。

下の写真は港南区笹下に所在する梅花山成就院です。
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この御寺の存在を横浜市でも知らない方が多いとは思いますが、杉田玄白や間宮林蔵の一族、間宮家の安土桃山時代~江戸時代初期の本家と歴代住職が深い関係が有ります。そして戦国時代の笹下城の一角に建っている御寺です。

この成就院の山門は江戸時代に本牧奉行を務めていた間宮家の本家、笹下間宮家が本牧奉行を辞任し、幕府により下総国に転封される際に笹下陣屋から移築されたものです。つまり江戸時代初期から存在する間宮家の屋敷の邸門です。
笹下間宮家と言うのは江戸時代に旗本として成立した家で、そもそもは室町時代に鎌倉将軍府の初代公方、足利基氏公に従って近江国より伊豆国に移住して来た佐々木一族の舟木信行が、現在の伊豆の国市、旧函南郡馬宮(まみや)に移住して来た際に、所領となた馬宮の地名をとって馬宮に改姓、後に間宮を漢字を改めた事に始まる一族です。
祖先は宇多天皇、近江国篠箇(ささげ)庄の出身の近江源氏佐々木家の一族です。
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六角家、京極家、黒田家、乃木家、間宮家は全て佐々木一門で、佐々木家の祖先で宇多天皇の御子息の敦実親王を御祭神とする滋賀県近江八幡市安土町に所在する延喜式内社(西暦800年代以前造営と朝廷公認の神社)の沙沙貴神社にも、間宮家の家譜が佐々木一族として記録されています。
その間宮一族は関東において武将として陸戦のみならず水軍も率いており、更に築城家、鷹匠、外交官、内政官としても活躍した記録の残る稀有な一族です。
戦国時代には北条家臣と成ると、“相模国人衆の14家の筆頭”に数えられました。
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上は神奈川権現山合戦で活躍する間宮彦四朗=間宮信冬公です。
戦国時代に最初に活躍したのが、鶴見区末吉、川崎市川崎区一帯を領有した間宮信冬公です。
間宮信冬公は扇谷上杉家と山内上杉家の連合軍を、北条家の先鋒として現在の京急神奈川駅一帯に在った権現山城に上田政盛公と共に籠城し迎撃すると、敗戦濃厚と成った際に敵陣への突撃を敢行し武名を関東中に轟かせました。
時代は下り、信冬公の系譜上の跡継の間宮彦二郎信盛(別名:信親)公が信冬公の権現山合戦の頃に川崎を一時失陥したと思われ、本拠地が川崎や末吉から磯子区杉田に移ります。
更にその後、信冬公の孫の間宮信元(別名:盛頼)公と曾孫の間宮康俊(別名:信俊)公と間宮綱信公時代には現在の港南区笹下地区~磯子区洋光台地区の広大な範囲に築城された笹下城に移されました
間宮康俊公は安土桃山時代の間宮家当主で、関東最強だった猛将の北条綱成公の付家老(つけがろう:家臣ではなくて役職上の補佐官)として大活躍します。北条綱成公は武田信玄や上杉謙信の侵略から幾度も防衛に成功した名将で“地黄八幡”の異名で周辺大名から恐怖の対象と成った人物です。
その綱成公の強さは、武田信玄は配下の真田家に対して「地黄八幡の武功に肖(あやか)れ」と、戦場に落ちていた北条綱成公と間宮家の率いた”黄備え隊”の軍旗を真田家に与え薫陶を授けた程でした。この”朽葉色の八幡旗”は以後真田家の家宝と成り、現在も松代市の博物館に保管されています。
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※写真は日本百名城の一つ、箱根の山中城。出丸と、それを取り囲む障子掘り状の三日月掘り。
間宮康俊公は北条綱成公の没後、豊臣秀吉の小田原攻めの際に箱根山中の山中城に城将松田康長と共に手勢200弱で籠城、秀吉軍本隊8万の先鋒豊臣秀次率いる中村一氏と渡辺了、一柳直末、堀尾吉晴、山内一豊、長谷川秀一等有名武将の大軍勢26,000を迎撃、圧倒的不利で玉砕するも奮闘し豊臣勢に寡兵で大打撃を与え、秀吉配下の小大名一柳直末を討取る大功を建てました。
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※上の写真は横浜市鶴見区下末吉に在る長谷山寶泉寺です。
鶴見区に在る長谷山寶泉寺は江戸時代に成っても毎年、間宮康俊公を慕う旧家臣団が集まり追善供養を行った場所で、康俊公の御位牌も最近まで安置されていた場所です。
現代では普元院殿武月宗閑が一般に康俊公の戒名と誤って認識されてしまっています。
これは康俊公の御息女で徳川家康公の側室に成った“間宮於久(おひさ)の方”様と御子孫の戒名取り違えによって康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名である普元院殿武月宗閑が誤認されてしまった様です。
この普“”院殿武月宗閑には間宮信元公の俗名の"元”の漢字が入っている事からも、戒名に俗名を一字取り入れる事の多い風習を考えれば、やはり信元公の戒名が現代、康俊公の戒名として取り違えられてしまっている様です。
この康俊公の入道号( にゅうどうごう=出家した僧名)は江戸時代に家臣団が度々追善供養を行った寶泉寺では正しくは「一宿宗覚庵主」として伝わり、戒名は「普光院殿壱宿宗覚庵主」とされています。。この戒名は康俊公が参禅した際に伝燈録の永嘉(ようか)大師の法話を紹介した間和の記録にも残っていたそうですが、近年の寶泉寺の本堂の火災で文書や康俊公の御位牌は焼失してしまいました。
しかし新編武蔵風土記稿に御位牌が祀られていた菩提寺である事が記録に残ります。寶
泉寺寺伝の戒名が正しいと断定出来る記録が更に別の御寺にも残ります。
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※上の写真は横浜市南区の瑞往山蓮華院弘明寺(ずいおうさんれんげいんぐみょうじ)です。
この弘明寺は元は求明寺と書いて「ぐみょうじ」と読みました。鎌倉時代に寺名を一字改名していますが、横浜市では最古級の御寺です。この御寺には間宮家の家臣団と武将が多く関与しています。
一つは、間宮信俊公と言う人物の記録が有ります。天正十八年(1590)年、間宮康俊公が山中城で討死する前年に官途が監物の間宮信俊公が弘明寺の寺宝の花瓶を私財で修理し奉納した記録が残ります。
信俊公と康俊公の名前が酷似していますね。これは同一人物で、信俊は康俊公の初名、もしくは北条家の武将としてでは無く個人として真言宗寺院に関与する際には祖先の佐々木家以来の“通し名”の一字である"信”の字の入った名前、初名の信俊を名乗ったのではないかと推測出来ます。
更に、有力な証拠が記録に存在しています。
江戸時代、間宮信元公の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌編纂で功績を上げて頭取を務めた間宮士信(ことのぶ)公が編集した記録にスケッチされた絵図と一緒に紹介されている、弘明寺の扁額に関する記載です。
この記載によれば、現代では紛失した“弘明寺”と書かれた扁額は入道号が宗閑と言う人物の同伴衆(家臣団)によって大永元年(1521年)に奉納したと扁額に裏書されているそうです。
その中には川崎大島村の伊左衛門と言う、寶泉寺で追善供養に参加していた人物の祖先と思われる人物の名も有り往島(おうしま)と記載されています。扁額の裏書には“板旦那神奈川住人”と書かれ製作出資者の一同が間宮家の所領、神奈川と呼ばれた川崎~末吉~権現山一帯の人間である事が解ります。続いて“端山内匠助国重”と書かれています。“端山(はやま)内匠助(たくみのすけ)国重”は製作者名でしょう。続いて書かれた“本願宗閑 同伴衆”奉納者達が宗閑の家臣団と解ります。つまり、この扁額の奉納時に、既に彼等を配下にしていた宗閑は生前から禅宗に帰依して入道(僧籍に入り)“宗閑”の入道号を名乗っていた証拠に成ります。
宗閑の戒名は一般的に間宮康俊公の戒名と言われていますが、間宮康俊公は永正十五年(1518年)生まれです。
この弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で間宮康俊公は僅(わず)か3歳ですので、当然、僧籍に入り入道号を得る程の年齢でも無ければ、家臣団を従えて神社仏閣に祈願の奉納もする訳も無いし、まだまだ間宮信元公が存命中なのに3歳の康俊公が家財を投入出来る訳も無い訳です。
こと、ここに至れば当然、戒名と名前の“元”の漢字の一致、年齢からやはり康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名が普元院殿武月宗閑であると判断出来ます。
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※上の写真は伊豆山中城址に建つ宗閑寺。間宮康俊公の菩提寺。
間宮康俊公は天正十八年(1590年)旧暦三月二十九日(5月3日)に当時としては高齢の72歳で戦死しています。
恐らく、康俊公の御息女の於久様は旦那様の徳川家康公に御願いをして、山中城址に康俊公の菩提寺を建てる際に御寺の名前を決める為に康俊公の一番最近関与した御寺を訪ねて法名を決めて貰ったはずです。
つまり、信俊と康俊が同一人物であるなら、間宮家の関与していた弘明寺です。
そこに間宮康俊公が生きた時代に記録である入道号が“宗閑”と扁額に有ったので、そのまま御爺様の間宮信元公の事績を年齢的に知る筈(はず)も無い、於久様や徳川家によって派遣された人物が当時の弘明寺の調査をして、この“宗閑”を康俊公の入道号と誤認したのでしょう。そして、間宮康俊公の戒名にしてしまった。ところが、家臣団達は康俊公の没後直ぐに康俊公が信冬公が開基した寶泉寺を中興した事を当然知っていて、寶泉寺の住職にちゃんと戒名を付けてもらったので法謚(ほうし=入道号)は一宿宗覚庵主で普光院殿壱宿宗覚庵主と戒名が伝わったのでしょう。そして曹洞宗の僧侶達はそれを知っていたので、江戸時代の法話でも伝えたのだと推測が成り立ちます。
この一宿宗覚庵主が鶴見区の家臣団や川崎の家臣団の伝承通り康俊公の入道号ならば、更に信俊と康俊の事も差異が埋まります。
 では、間宮信俊と間宮康俊の謎に移りましょう。
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※御廟所の写真撮影は失礼に当たるので掲載しません。
この御本堂の左手に、間宮家や豊臣方の一柳家や長谷川家の戦死者の御廟所が在ります。
間宮康俊公の五代子孫、間宮正次公が箱根の山中城址で追善供養を行った際に、この信俊公と康俊公を別人で兄弟として間宮家の墓碑を建立しています。
この墓碑には間宮信俊公の異名が"一本将監(いっぽんしょうげん)”として、間宮康俊公の法名が“普元院殿武月宗閑”と彫られています。しかし、康俊公の生年から普元院殿武月宗閑が戒名で有る事は無い訳です。

間宮信俊公の異名が"一本将監”で有る事、寶泉寺と川崎の家臣の伝承の間宮康俊公の戒名が“一宿宗覚庵主”である事、弘明寺の寺宝の壺を直した間宮信俊公の官途が“監物(けんもつ)”で有る事、これらの名前は少しづつ似ていて、他には例のない相似です。
時系列でまとめてみましょう。
間宮康俊公の名前の“康”の漢字は主君の北条氏康公からの一字拝領。
両者の年齢、康俊公の生年の永正十五年(1518年)と北条氏康公の元服の享禄二年(1529年)から1529年以降しか北条氏康と名乗った事実は無いので、弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で主君の北条氏康公から“康”の一字を拝領する事は不可能よって年齢から初名が間宮信俊と推測
②公私と宗派による名の使い分け。
北条家は曹洞宗で家臣もこれに従う習慣が有ったので、祖先の佐々木家以来の宗旨が真言宗で有る事から、公の北条家臣と私では名前を使い分けていたのでしょう。
北条家臣として御寺に関わる時は康俊。
佐々木家以来の伝統で真言宗の御寺に関わる時は祖先以来の信の字が入る初名の信俊。
③徳川家の使者の調査ミスによる間宮信元公の戒名を誤報告。
①や②の事情をを知らない於久か徳川家康公に派遣された徳川家の調査員が誤って間宮信元公の戒名を報告した。ところが笹下と杉田と氷取沢の間宮一門衆や旧間宮家臣団は間宮康俊公の入道号が“宗覚”と当然知っていて、康俊公と一番関係の深かった寶泉寺の当時の御住職に戒名を一宿宗覚庵主と決めて貰い既に寶泉寺で供養をしてしまっていた
④徳川幕府のミスを間宮家臣団が指摘できる筈も無く…間宮信俊の俗名と康俊普元院殿武月宗閑戒名の併用
戒名における徳川家のミスを間宮家や家臣団が指摘しよう物なら徳川家康公のメンツも潰す事に成る、於久様の立場も悪くする、更に家康公に外戚として重職を与えられ可愛がられた康俊公嫡孫の間宮直元公の地位も危うくなる。
そんな指摘を出来る訳が無い!そこで…
間宮一門衆はやむなく
公の立場で間宮康俊公の供養をする際は間宮康俊普元院殿武月宗閑と俗名の間宮信俊を兄弟として両方一緒に供養する事以外に手段が無かった。
⑤…ところが子孫には④のそんな事情も知らない物も100年も経てば当然出て来た。
間宮本家の五代目、間宮正次公は四代目の養子。しかも四代目の間宮正信公は実兄だった。つまり、間宮正次公は嫡子としての教育を受けないまま兄の養子に成って跡を継いでいる。一般的に兄弟間で養子に入る際は大体が兄の急死による末期養子か、無嗣子のまま体調が悪くなり途中から養子に入るパターンが多い
そして間宮正次公は兄の病死を祖先の戦死した山中城で供養をしなかった祟(たた)りとでも思ってか、山中城で追善供養を行う事にしたのだが…
間宮正次公は山中城で祖先達の追善供養を行う際に、家系図を調べたが、幕府提出用に編纂された家系図には④の事情から同一人物の間宮信俊と間宮康俊の名が有り、更に公式な戒名として記録されてしまっている普元院殿武月宗閑が間宮信元公の戒名と何ぞ知る訳も無く、墓碑に間宮信俊公と康俊公を別人格として彫らせてしまった。
そして、これが間宮家内で間宮信元公の戒名が忘れ去られる原因に成ってしまった。
以後、現代に至るまで多くの学者がこの事実を知らず、寛政重修諸家譜の誤りをそのまま引用するしか無く成り、間宮家の最古参の家臣団の集まる川崎や下末吉地域に伝わる正しい間宮康俊公の戒名の一宿宗覚庵主が現代では余り知られなくなってしまった…

そんな訳で、有名な文書しか読まない学者先生には申し訳有りませんが、時系列による寶泉寺や古参家臣団の伝承と弘明寺の記録上、寶泉寺の寺伝が正しい事に無いります(笑)。

又、間宮家では康俊公の御舎弟、間宮綱信公も大変に活躍されました。
滝山城主で北条家当主北条氏政公の御舎弟北条氏照公の付家老として活躍した人物です。間宮綱信公は築城家、内政官、外交官として活躍し、北条家の外交官として徳川家康公と謁見し、更には安土城に赴き織田信長公にも謁見した人物です。
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※写真は日本百名城の一つ、八王子城の御主殿(本丸)の石垣。八王子城は間宮綱信公の縄張りと伝わる。
また、間宮信冬公の孫の代に分家した杉田間宮家も初代の間宮信次(本名:常信)公が記録に残ります。
間宮家が三浦半島の走水で房総半島の里見家の水軍を撃破し敵軍船14艘を鹵獲する等の大活躍をした際に、杉田間宮信次公は手勢50人余りと玉砕した記録が現代に伝わります。この手勢50人は歴史に興味の無い人からすれば小勢ですが、実際は一万石の大名の動員可能兵士数が300人なので、石高換算すると江戸時代の1500石相当の大身旗本クラスに相当します。小大名の家来なら家老に成れる程でしょう。
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※上の写真は戦国時代からの杉田間宮家の菩提寺、牛頭山妙法寺。
杉田間宮家は水軍を持つだけでなく、笹下間宮家の間宮康俊公の子の間宮元重公、康俊公の娘の継姫(つぐひめ)様の子の間宮(旧姓:豊前)元盛公と並び“鷹匠”としての高い教養を備えた家柄でした。
当時の鷹匠は武士で、鷹狩は高貴な血筋の武士の嗜みでした。
江戸時代に成ると杉田間宮信次公の嫡孫、間宮信繁公が大規模な梅林を造営し杉田梅林として有名に成りました。
この杉田梅林で植林されたのが幻の高級梅干し“杉田梅”の原種で、この梅林は江戸時代を通じて江戸市民の観光旅行先として有名で、明治~大正にも皇族の方々が度々訪れる程でしたが、横浜市教育委員会が保護を怠った為に杉田梅林は宅地開発され消滅してしまいました。
現在の御住職様が妙法寺の裏山、“妙法寺山”と昔呼ばれた境内地の丘の上に梅林復興を目指し目下奮闘中です。
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※写真は小田原市の曽我梅林。神奈川県下最大の梅林で現在は曽我十郎梅の産地。
実は曽我梅林の起源は、昭和初期に杉田梅林が消える直前、杉田から移植された杉田梅の梅林を発端としています。そして、この梅林の杉田梅を更に品種改良したのが曽我十郎梅と言う訳です。つまり、間宮信繁公の植えた梅の遺伝子を継ぐハイブリッド品種が曽我十郎梅で、東の梅の横綱と言う訳です。
そんなこんなで間宮家は色んな殿様が色々あって家系図も混乱していますが、素晴らしい功績を残している訳です。
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※上の写真は駿府城。
間宮綱信公が徳川家康公と直接面識が有った事、間宮家が間宮信冬公~間宮信盛(信親)公~間宮信元(盛頼)公~間宮康俊(信俊は同一人物の可能性有り)と歴代水軍、陸軍の戦闘で北条綱成公の武名を支えた事、そして最後の山中城の戦いの活躍が徳川家康公の目に止まり、於久様が側室と成り御姫様を産み、駿府城で生涯を終えました。
※下の写真は家康公の祖母の源応尼様の菩提寺で、華陽院と名付けられた。
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華陽院の寺名は、家康公の祖母の源応尼の戒名をとって名付けられました。家康公に大切にされた於久様は、この華陽院に御廟所が設けられ、家康公の御婆ちゃんの近くで眠ってらっしゃいます。
さて、ここからやっと笹下城址に建つ梅花山成就院に話が戻ります。
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この成就院の山門は間宮家の笹下陣屋の邸門です。
つまり、徳川家康公の側室、間宮於久(おひさ)の方の甥っ子の間宮直元公が初代として数えられる笹下外戚で、間宮直元公~御子孫の正次公が本牧奉行を辞職して下総国へ転封されるまでの四代の間の邸宅の門だった訳です。

そして成就院の背後の丘一帯が冒頭で紹介した笹下城本丸跡です。

この成就院一帯には昭和のIHI団地開発で破壊されるまで境内と周辺一帯が江戸時代に植林された梅林に囲まれていました。先に紹介した磯子区杉田の牛頭山妙法寺周辺の杉田梅林と合わせて観梅の名所でした。

現在では杉田と笹下は近代の横浜市成立後の区域分割で分けられていますが、間宮家が川崎市堀之内に在った城館から久良岐郡に移った頃には、杉田と笹下は一つの久良岐郡“上/下杉田郷”と言う区分でした。1510年に権現山合戦が発生し間宮家が杉田郷に移住し、1526年に鶴岡八幡宮合戦が起きて鎌倉防衛と沿岸部の防衛を兼ねた城が必要に成り、間宮家が信元公の代に至って鎌倉街道と金沢(六浦)道を押さえるのに適した笹下村の丘陵に笹下城を築城し本拠地とすると、笹下の地名が記録に登場する様に成ります。これは笹下城の名が間宮家の故地、近江国篠箇(ささげ)から名付けたとする説にも整合性が有り、杉田を治めた間宮信次(常信)公と兄弟での統治区分から笹下城の笹下郷と杉田郷と区分された様です。しかし以降も江戸時代まで杉田郷を笹下郷の地名が両方混在して記録される事も有った様です。

そんな杉田梅の杉田梅林と笹下城址の梅林を江戸時代初期に非常に身分の高い方々が京都から見学にいらっしゃった事が成就院に関する記録に残ります。前関白の九条幸家公と京都の本願寺の第十三世良如上人が金沢八景を遊覧しに参られた時に、笹下城址の梅林も見学にいらっしゃいました。九条幸家公の御姫様は良如上人の御妻女でした。この間宮家の梅林見学の際、御二人は成就院に滞在され梅林の美しさを絶賛された事で成就院の山号は梅花山に改められた歴史が有ります。

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※上の写真は築地本願寺です。

現在の本堂は関東大震災後、昭和九年(1934)年に完成したインド様式近代建築で国の重要文化財に指定されています。
浄土真宗関東根本道場として徳川家康公、本田正信公、間宮直元公の没後直ぐの元和三年(1617年)に最初の堂宇伽藍が完成しました。築地本願寺の造営には、徳川家康公の要請で大坂から移住して来た佃島の漁師達の協力が有り当時は海だった境内地と周辺の築地の埋立工事が成功しました。

築地本願寺の建設中は丁度、大坂冬の陣の直前に当たり、徳川家康公が駿府城に御隠居し、徳川秀忠公は征夷大将軍として江戸城に在城していました。間宮家が付家老として与力した玉縄城主の北条氏勝公は下総国岩富城に転封され、家康公参謀の本多正信公が玉縄城主に成っていました。

梅花山成就院に良如上人がいらっしゃったのは、完成して数十年後の築地本願寺へ御越しに成る際に鎌倉~金沢~笹下と金沢道(笹下釜利谷道路)沿いに旅をし遊覧されて回った事が推測出来ます。そして笹下杉田の梅林の事を御存知だったのは、築地本願寺建設中に准如上人の時代に、本多正信公が熱心な一向宗(※当時、江戸幕府統治下での浄土真宗の名称)門徒だったので、居城の玉縄城から近い間宮家の笹下と杉田の梅林を観光地として准如上人へ紹介されていたのでしょう。

加えて、氷取沢間宮家の間宮綱信公の菩提寺である宝勝寺や、笹下間宮家臣団の関与の有った成就院が一向宗の寺院だった事から、間宮家の笹下城本丸跡の下に建つ成就院が良如上人御一行の滞在場所に成ったのかも知れません。

杉田梅林や岡村梅林に匹敵する規模を有した笹下の梅林も、横浜市教育委員会と観光協会による保護が無かった為に残念ながらIHI団地の建設で消失しました。
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※写真は鎌倉の若宮大路から見た鶴岡八幡宮。

この成就院には幕末に僧籍から還俗し、元治元年(1864年)11月21日に鎌倉の若宮大路で鎌倉事件を起こした間宮一の廟所も存在します。

鎌倉事件は攘夷派の間宮一と清水清次が起こした事件ですが、二人の姓は伊豆以来の旧北条家重臣の姓です。鎌倉事件は間宮林蔵公にも見られる旧北条家臣団の結びつきを伺わせる事件でもあります。

この鎌倉事件の発端に成った事件が2年前に横浜市の笹下間宮家の旧領、末吉から近い生麦で起きています。

生麦事件は英国政府による日本での租界地獲得の政治的意図が見え隠れする事件で、間宮一はこれに義憤を感じ事件を起こした様です。

間宮一が同じ旧北条家臣と思わしき清水清次と鎌倉事件を起こした元治元年の2年前、戦国時代に間宮康俊公の所領だった鶴見区末吉の直ぐ隣の鶴見区生麦で、文久二年(1862)年8月に日本人なら誰もが義務教育で“生麦事件”が起きました。
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上の写真は鶴見区生麦の旧東海道、生麦事件発生現場と、下の写真はそこに民間によって設置された碑文。
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文久二年(1862年)8月、公家と武家が過激派の攘夷分子と、現実路線で分裂し日本に内戦の気配が漂い始めた頃、内戦を阻止し日本の速やかな近代化を図(はか)る薩摩藩の前半主島津久光公は公武合体を将軍に具申すべく薩摩兵700を率いて江戸へ登り、その帰り道に現在の横浜市鶴見区生麦で事件は発生しました。
横浜の英国人商人マーシャル、マーシャルの従妹で香港在住のマーガレット、横浜の米国人商人のクラーク、上海在住の英国人商人リチャードソンが事も有ろうに薩摩藩の軍列に対し正面から騎乗したまま突っ込んで来ました。この様な行為は英国でもテロ行為と見做(みな)されて即時射殺か斬殺されて当然の行為なので、彼等の中に何某かの意図が有ったのは明白でしょう。

しかし薩摩藩士達は外国人で有る事から日本の作法を知らないものと解釈し、当初は前衛の藩士達が騎乗のまま突っ込んでくる欧米人に対して身体を使って道を明ける様にジェスチャーをしたそうです。しかし英国人達は騎乗のまま隊列に突っ込んで来ました。これは明らかな政治的な意図の介在する挑発行為、もしくは本当に愚かな白人上位思想からくる黄色人種蔑視から来る嫌がらせでしょう。英国でも当然、庶民が貴族の馬列に正面から突っ込み体当たりをすれば反社会的行為と見做されます。挙句の果てに、彼らは久光公の籠の傍まで来て薩摩兵の隊列を

き乱す動きをし縦横に動き回ったそうです。その暴挙に至り、薩摩藩士はやむなく前藩主久光公護衛の為に不良外国人4人に斬りかかりました。
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※上の写真はリチャードソン落命の場所に日本人によって建てられた供養碑です。

4人はアメリカ領事館であった本覚寺に逃げ込もうとしますが、結果的にリチャードソンに致命傷、現在の国道1号線(東海道)と旧東海道の合流地点近くまで来て落馬した所で止めを刺されました。マーシャルとクラークは重傷、マーガレットは騎馬で薩摩藩の隊士蹴散らし離脱しました。

リチャードソン落命の場に日本人が建てた供養碑が有ります。一連の事件は明らかに英国人集団に非が有ります。しかし英国は事件の発生直後に幕府に対して莫大な賠償金を請求します。日本への賠償金請求に発展した挙句、幕府が道理に乗っ取り拒否すると理不尽にも英国外務大臣のラッセルが対日宣戦布告の準備を横浜で始めさせます。極めて計画的です。

これは巧妙に仕組まれた英国による租界、或るいは植民地獲得の為の政治的意図が見え隠れします。

この英国の強硬な態度に対して、国際法を熟知していない老中並の小笠原長行は英国と日本国の間で調停裁判を起こす事も無く、臆して独断で賠償金支払いを決めてしまいました。幕府の賠償金支払い後も当然ながら英国は脅迫を止めず英国艦隊を鹿児島湾に強硬入港させ、薩摩に対しても賠償金を請求し挑発をします。英艦隊は薩摩藩軍艦を拿捕し更なる挑発をすると薩摩藩は生麦事件の時と同様に喧嘩を買ってしまい英国艦隊を砲撃し薩英戦争が勃発します。

しかし、ここからが面白い事に恐らく英国人にとっては予想外だった展開に発展して行きます。

薩摩藩は意外にも劣った武装と防衛施設で善戦し、英国艦隊に大打撃を与えてしまうのです。これは日本人にとって幸運な事で、英国人の日本人に対する明治期の好意的な評価につながって行ったと思われ、薩摩藩も英国の植民地化されずに済み、更には日本近代化の窓口を大きく開いた瞬間でもありました。後に英国は近代において最大の親日国、支援者に成りました。

※下の写真は横浜市中区の本牧山妙香寺です。
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妙香寺は弘仁五年(814年)に弘法大師空海和尚の開いた寺院で、本牧山東海寺と言う寺名でしたが、鎌倉時代に領主で御寺の大旦那だった佐藤家が、日蓮上人が同寺に滞在された際に感銘を受け宗旨を改宗したそうです。

山号の本牧山の通り、久良岐の丘、本牧半島の先端に在る寺院です。

古代の日本武尊の頃~奈良時代に本牧半島は軍馬の生産地でした。これによって本牧の地名が当地に残ります。妙香寺は江戸時代、多くの学僧を抱えた壇林として栄えた御寺で、間宮直元公が本牧奉行として治めた地域に在る御寺でもあります。幕末に成ると、江戸幕府に寺域が英国軍の駐留地として指定された事で日本の吹奏楽発祥地・国家君が代発祥地・テニス発祥地に成りました。
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※写真は山手町公園内に在るテニス発祥記念館。

薩英戦争の際の薩摩藩の善戦によって英国はアプロ―チを変えて行きました。薩摩と英国は蜜月な中に成って行き、現在の横浜市中区の本牧山妙香寺に英国軍駐屯地が置かれると、薩摩藩士が妙香寺に入りびたり英国軍のジョン・ウィリアム・フェントン軍楽団長に師事して吹奏楽を学ぶ様に成ります。

このフェントン軍楽団長が「世界に通用する国として国歌を持つべき」との提言が有り、日本国歌が作曲される事に成りました。“君が代”はフェントン軍楽団長作曲、歌詩は後の大山巌(おおやまいわお)元帥により行われ、古今和歌集第七巻賀歌の部から選定されました。
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※写真は江戸時代に榊原照清公の邸宅が在った当時は海に浮かぶ島だった越中島跡に架かる錬兵衛橋。
杉田間宮家の間宮信繁公の御息女は、久能山東照宮初代宮司の榊原照久公に嫁いで、榊原照清公を産みました。その居所が在ったのが東京都江東区に在る越中島と言う当時は島だった場所です。現在は埋立られて地域名に成っています。
明治三年(1872年)9月8日に国歌君が代は初めて日本で演奏されました。その場所が越中島でした。
この越中島は紹介した通り間宮家と所縁の深い土地でありますが、大山巌元帥も間宮家と同じ近江源氏佐々木家支族で家紋も間宮家の家紋と酷似した“丸に隅立て四ツ目紋”です。         
丸に隅立て四ツ目紋丸に隅立て四ツ目紋、大山家の家紋。
隅立て四ツ目結び紋隅立て四ツ目結び紋、近江源氏佐々木家と間宮家の家紋。

この様に、間宮家が嘗て治めた土地で、同じ佐々木家の御子孫の大山巌元帥とフェントン軍楽団長によって最初の君が代が作られた事も、有る意味御縁なのかも知れません。今の君が代はドイツ人音楽教師エッケルト先生の編曲です。
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※上の写真は横浜市中区に有る横浜開港資料館です。

昭和六年(1931年)年に英国領事館として建築されました。
ペリー神奈川上陸
※ペリーが上陸した際の絵図。横浜開港資料館の屋外展示でも見れます。
この庭に在る玉楠(たまくすのき)はペリー提督が上陸した際の絵にも描かれていて、英国領事館は横浜の地名の由来に成った半島の上に建っている事が解ります。
開港資料館には生麦事件で起きた薩英戦争の白人犠牲者だけを追悼するプレートが壁に有ります。
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玉楠の樹の横には絵図の通り昔、弁財天様の御社が在りました。この弁天様は源頼朝公が勧進し造営した弁天様でしたが、関内地区が外国人居留地に成った頃、元町と羽衣町にそれぞれ分祀遷座されました。
明治の神仏分離令で渡来神で神仏習合の弁天様は、そのまま神社に御奉り出来なくない名前を厳島神社に改められて主祭神の名も日本神話の市杵島姫様に変えられてしまった事で、現在では源頼朝公が勧進した神社と言う縁起を知る人は宮司様と禰宜様達を除いては横浜市民にも御存知の方もほとんど居ません。
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元町の弁天様の御神紋は鎌倉の銭洗い弁財天こと宇賀福神社と同じ北条三鱗に浪切紋なので、恐らくは源頼朝公が開いた宇賀福神社から勧進され、後に鎌倉幕府執権の北条時頼公の支援が有ったと推測出来ます。
昔の横浜の地名の由来の半島の内側が、戦国時代の蒔田湾で、戦国時代の鶴岡八幡宮再建で、蒔田吉良家の殿様の吉良頼康公と、間宮家の間宮康俊公が再建の際に笹下川~大岡川~蒔田城下の蒔田湾へ材木を集積し、間宮家の杉田湊に水運で運び、更に鎌倉まで輸送しました。そんな港、蒔田湾が在ったのが横浜開港資料館を挟んで現在の山下公園や大桟橋と反対側の横浜球場~吉野町一帯でした。
蒔田湾は江戸時代に埋め立てられて吉田新田と成り消えましたが、安土桃山時代~江戸初期まで間宮直元公~間宮正次公の五代の間、本牧奉行として間宮家が管理した港でもあった訳です。

この様に間宮家の歴史は横浜と深い関わりが有り、所縁の神社仏閣史跡を廻るだけでも横浜や東京を散歩して回る口実も出来ます。
そして、その神社仏閣は思いがけず皆さんと昔の偉人達を繋ぐタイムカプセルに成ってくれる訳です。

皆さん、近所の神社仏閣や史跡を御散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

2016年11月26日は関東南部の平野部は絶好の紅葉狩りの1日と成った。

本来なら小生は早朝4時に友人のO型君と横浜市中区を出発し、伊勢原市の大山阿夫利神社の御神体である大山に山登りに行って紅葉のライトアップを見るか、あきる野市の秋留野渓谷に紅葉を見に行くはずだった。
前日の25日、小生にO型からメッセージが届いた・・・
「明日どうする?」
・・・と。
だから❝予定は早朝から出発、雨天なら世田谷豪徳寺か三渓園って1週間前に決めてあったろ~が!❞と思ったが、何かO型君が遠出を面倒くさがってそうなので「築地にセリを見に行かないか」と改めて新しい提案もしてみた。
O型:「英会話の予約9時に入れたから早朝は無理。」
何で予定入れるか!と思ったが・・・
小生:「あ~朝から動くの嫌なんだな」
・・・と思い、英会話優先して貰う代わりに貴重な休日を半日何もしないのは勿体ないので本日はO型君と別行動にして貰い、小生は1日個人行動をする事にした。
O型がちゃんと準備して紅葉を見に行く気が無いのなら、単独行動で別に人の多い日曜日じゃなくて小生は定休の水曜日に一人で行けば良いからね。
個人行動にしたので、今日は行かない心算だったが母の所に顔を出す事にした。
でも母の病院に行って築地で食事して終わりでは味気無い。
そこで思い付いたのが下の訪問先・・・
2016年11月26日訪問先位置関係
旧泉蔵院~弘明寺~寶泉寺~築地の拉麺屋❝若葉❞。
「そうだ!まだガラケー以来、デジカメで写真を撮影していなかった間宮家関連の神社仏閣を高速道路を使わずに巡りながら、築地まで下道で行こう!」
・・・と言う思い付き、これなら早朝出発し、午前中丸々と有意義に時間も使えるし築地の食事以外無駄遣いもしないで済む上、午後は病院に行ける。
で、出発の前に早朝に一仕事。
母も入院しているので自分の洗濯物3日分を、自宅洗濯機では洗わずコインランドリーでさっさと洗って、その足で出発する事にしたのが午前5時半くらいだろうか?
家じゃ夜中に洗濯機回せないし、コインランドリーだと大型洗濯機で洗濯して乾燥機で直ぐに乾くから便利だ。
まぁ、1回の洗濯に拉麺1杯と同じ700円かかるのは微妙だけど、時間を700円で買ったと思うと有意義だ。
コインランドリーでは洗濯を待つ間は缶コーヒーを飲みながら間宮家関連の古文書のコピーを読んでいた。
そうこうしていると、直ぐに洗濯➡乾燥が終了。フカフカで気持ち良い!
便利だなデカい乾燥機。

最初の訪問先は小生の住まう久良岐郡内に在った物凄く由緒正しい大寺院の❝跡❞、つまり廃寺に成った御寺の旧跡。
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その場所は現在では住宅地に成っている。
鎌倉時代は山崎泉蔵院と呼ばれ、源頼朝公が鎌倉のどの寺院よりも深く崇敬した修験道の寺院だった。
在る時期に戦火に捲き込まれて(恐らくは和田合戦か新田義貞の鎌倉乱入のどちらか)、鎌倉の山崎から道場の在った久良岐郡森村(磯子区中原)に移転して来た。
何故(なぜ)ここに移転したかと言うと、泉蔵院の山崎泉蔵坊は源頼朝公の命を受けて、この場所に熊野那智大社から熊野権現の御分霊を勧進したのだ。だから、この泉蔵院跡の熊野権現や屏風浦の森浅間神社は泉蔵院の支配地で、転居するのに便が良かった。
頼朝公の亡き後も、九条将軍や親王将軍の歴代から崇敬を集めた。
そして戦国時代には北條家臣の相模十四騎筆頭、間宮家から保護をされた。旦那が間宮家の頃に房総半島の里見家の海賊に略奪された歴史も有ったりする。新編武蔵風土記稿によれば、間宮家の奉納した太刀も寺宝に有ったようだ。
しかし明治政府の宗教政策神仏分離令と1村1社政策の失敗によって多くの神社仏閣が日本から消え失せたのと同じく、この磯子区中原に移転した泉蔵院も当時の僧侶が僧籍を捨て宮司に成った際に、社地確保の為に止むを得ず泉蔵院を廃寺にした上で更地にして頼朝公が勧進した熊野権現の名を熊野神社に改めて、神社としてだけ存続するしか無かった。
つまり、明治政府は水戸学と言うカルト宗派の影響を強く受けていたので、歴代天皇達が信仰した権現様の存在も山伏達の修験道も存在を弾圧した訳だ。
明治政府は概ね、外交と商業工業では日本の発展を成功させたが、日本文化を急速に弱体化させた罪は重い。
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ところで、この旧泉蔵院の宅地には修験道の道場だった頃の自然が一部保存されていて、緑地帯に成っている。
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余り歩く人も多くなさそうだが・・・
熊野神社の参道は、宅地化によって泉蔵院の頃とは恐らく違う、若干斜めに付けれている。
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ここは規模が大きい訳では無いが雰囲気が良い。
宅地化されたとは言え、背後に中原緑地が残り、鎌倉文化らしい谷戸地形に在る神社(元は修験道の道場)なので、早朝の凛とした空気と合わさって清浄な空気が漂う。
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ちゃんと、明治時代に泉蔵院を廃寺にして熊野神社だけを残して宮司に成った初代の宮司様は、歴史を残す為に境内社に泉蔵社として名前を一部残している。
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ここは(修験道の)寺院だった時は湧水地で修業の場として栄えた場所だった。
鎌倉幕府が滅亡して戦国時代には、横浜市南部の殿様で間宮林蔵達の祖先だった間宮家の殿様一族が深く信仰し、泉蔵院の山崎泉蔵坊泉勝は熊野那智大社に大旦那(スポンサー)として間宮与七郎と同平那隼人佑達を報告している。
小生はこの間宮与七郎こそが間宮林蔵の祖先に当たると推測している。間宮林蔵の祖先は間宮康俊公の子とされ実名は伝わらず間宮隼人とだけ官途名が伝わる。間宮与七郎も元服後の名と官途が伝わらず、字(あざな)だけが伝わっている。しかし部下と思われる同 平那隼人佑と記載される人物の官途が隼人佑なので、この部下に隼人佑の官職を授けれれると言う事は律令制度の隼人正(はやとのじょう)の官職を代々世襲した家系だろうか?
間宮一族は北条家中でも一番、鷹匠としての教養も備えた集団だった。間宮林蔵公の家系は鷹狩りに造詣が深かったと伝わる。
この間宮与七郎の名が登場する文書の年代は天文八年(1530年)なので、間宮康俊公は当時12歳で有る事から康俊公とは完全に別人だろう。恐らく、父の間宮信元公の字は伝わっていないので、この信元公本人かも知れない。若しくは信元公の兄弟か、名が登場する年代から康俊公の従兄くらいの関係だろう。
つまり、間宮林蔵の祖先が間宮康俊公とするのは誤りの可能性が高いが、少し惜しい外れで、正解はその父の間宮信元公の世代か康俊公の年長親族が間宮与七郎公が一番有力な祖先の候補に成ると小生は思っている。そして、間宮元重公の実父なのでは?とも思う。

泉蔵院の熊野権現への参詣を7時半頃に終えて、次は弘明寺に移動した。
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弘明寺と言うと京浜急行や横浜市営地下鉄の駅名や地名と認識されがちだが、元々は無畏三蔵法師と言うインド人の高僧が聖地と定め結界石を配置した場所に天平九年(737年)聖武天皇の時代に行基大僧正が開山と成って造営され後に天皇家の悪病平癒の勅願所だった。更に後の弘仁五年(814年)には弘法大師空海和尚が当地にて護摩を焚かれた記録が有る。
ここには新編武蔵風土記稿に❝弘明寺❞の字を建長寺の高僧玉隠が揮毫した扁額の裏面には奉納者達の名前が載っていて中心に❝本願宗閑同伴衆❞と刻まれ以下に同伴衆往嶋道徳面々の名も刻まれている。
同伴衆と言うのはつまり与力武将や家臣の事だ。道徳と言うのは臨済宗の入道号だな。
間宮家の家臣団の多くは、生前から入道号(禅宗修行僧としての名前)や、屋号を名乗る者が非常に多い。
そして屋号に川崎市由来の名を持つ者も多く、例えば間宮信親(信冬公と同一人物と推測)から感状を与えられている屋号が古門の内田対馬守の同族に、紺屋の屋号を持つ内田家がいる。紺屋と言うのは間宮家の旧本拠地の川崎の地名だ。
そして、その川崎の紺屋の地名の由来は三浦半島浦賀港西岸一帯の嘗ての地名の紺屋町の筈だ。
西浦賀(旧紺屋地区)は間宮家の所領だった。その紺屋を屋号に持つ紺屋内田家は現在も笹下城跡近くに住んで居て、近年までアパートを経営し、そのアパート名すら紺屋荘だったので小生は間宮家臣内田家のこの文書を読み古門内田家を探しに笹下を散策した際は、ものの3時間程度と直ぐに紺屋内田家を探し出し、そこから古門内田家と、高津間宮の間宮正秀公の遺骸を印旛郡高津村(八千代市高津)まで届けた源左衛門の祖先とおぼしき内田源左衛門家の足跡も探し出せた。
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❝本願宗閑同伴衆❞と扁額に書かれているそうだが、この宗閑と言うのは実は、間宮康俊公の戒名として現代に伝わる名だ。しかし扁額の奉納は大永元年(1522)年であり整合性が無い。3~4歳の間宮康俊公に同伴衆の大人が10人以上も連名で扁額を奉納するとは考え辛い。
実は間宮家は、近親ですら系図上で親や祖父、従兄弟の名や戒名を間違えて伝えた結果、寛政期の家系譜作成で同一人物と思しき人物の初名や改名後の名と思われる物が数人分有ったりする。
小生は、この弘明寺の扁額の記載事実から実は間宮康俊公の戒名が宗閑と伝わるのはそもそも間宮一族による事実誤認だと思っている。年代的に宗閑の戒名は康俊公の父の信元公の物であるべきだ。
恐らく康俊公には戒名が無かったのを、娘の於久の方が父の菩提を旦那様の徳川家康公に弔って貰う際に、誤って弘明寺に記録の在った祖父の入道号を父の入道号と事実誤認して以降、間宮信元公の入道号だった宗閑が、間宮康俊の戒名として後世に伝わってしまったと可能性が高いと推測している。
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何でこんな可能性を指摘するのかと言うと、弘明寺の寺宝だった花瓶にこんな文が書かれているそうだ。
「間宮監物コレを修理 天正十八年(1590年)二月吉日」と。この間宮監物と言うのは間宮家の寛政期の系譜上では間宮信俊と言う人物とされているが、小生の推測では間宮康俊公と同一人物だろう
❝信❞の字は間宮家の出自である近江源氏佐々木家の通し名であり、弘明寺の宗派真言宗は佐々木氏の本来の信仰する宗派である事から、北条家臣として主君北条氏康公から賜った❝康❞の字を使う間宮康俊の名と佐々木一族として神社仏閣と関わる際の間宮信俊としての名を使い分けていたのだろうと思う。
北条家では曹洞宗に帰依する事を家法とされていたので当然の事だと思っている。
つまり、康俊公が戦死した際に娘の於久様が父の近々の事績の残る寺院で父の戒名と成る入道号を知らなかった娘の於久さんが間違て調べて来てしまったか、後に追善供養を間宮正次公が行う際に誤って弘明寺の扁額に有る宗閑をもう一世代前の間宮信元公の戒名の可能性を考えずに間宮康俊公の戒名としてしまった可能性が高いと考えられる。
娘の誤解のせいで根本的に間宮康俊公には入道号も戒名もまだ現代に至っても実は無いままなんじゃないだろうか?
こう言う事が間宮一族には多過ぎる。
常に前線で戦う事を求められた一族だったので戦死者が多すぎて、一族内でも祖先達の氏名を間違えて追善供養を行ってしまったりしている。
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しかもよりにもよって、弘明寺の僧侶たちは歴史的な知識が欠如しているのか、この扁額をどっかにやって新調してしまったようで改めて訪問したが「弘明寺」と書かれた扁額が見当たらなかった。
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歴史を知らない神主や和尚が、宮司や住職に成ると起きる悲劇がここでも起きたのかも知れない。
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何はともあれ、弘明寺は巨大寺院だったのだが、こちらも明治政府の弾圧によって境内地が大規模に接収されてしまい、現在の弘明寺商店街と京浜急行電鉄の線路と駅が建設されてしまった。だから、現在でも普通よりは大きい規模の御寺では有るが、一時は無住職に成り廃寺の危機に陥った。
真言宗と修験道を崇拝した源氏の源頼朝公は度々、この弘明寺を参詣した。妻の北条政子も港南区の野庭関城の下の鎌倉街道下道を通って弘明寺を訪れている。或いは夫婦で参詣したのかも知れない。
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だから北条政子木像が有ったり・・・
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頼朝公を始め鎌倉武士が軍神として信奉した弁財天様が祀られれいる。
弘明寺で僧籍職員を質問攻めにしたが、全く歴史知識が欠如していて寺院を保護して下さった歴代の壇那様に対する感謝も無い。
むしろ、清掃していた事務員の方が詳しい始末。
僧侶がそんな事では御寺を維持するのは難しいだろう。その破滅の一歩が扁額の紛失かも知れない。
ちゃんと自分の御寺の歴史くらいは小生の様な素人一般人に突っ込まれない程度には学習するべきだと思う。
ところで、弘法大師様が護摩焚きした伝承が残る寺院や霊場(神道の聖地も含め昔は区別して無かった)では、不思議な事に自然湧水地と延喜式内社や式外社と日本武尊伝説の残る聖地が多い。
走水神社の辺りにも弘法大師は来ているが、走水は古代から飲用に適した湧水があり聖地とされていた。
尾張一宮真清田神社や横浜市港北区の師岡熊野神社や相模原市の有賀神社奥宮等の延喜年間以前からの天皇家の勅願所や祈願所も全て湧水地な訳だが、これは神社文化の成立を考古学的に考えると当然の事なん訳だ。
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古代人にとっては飲んでも御腹を壊さず清涼な生活水が確保出来る土地そのものが聖地であり、その湧水地を中心に集落が形成され、リーダーが生まれ豪族の住む場所が高床式の屋敷と成り、そこがやがて神殿となって行った訳だ。
空海和尚は、日本神話を大切にしておられたので自分で日本武尊伝承地を廻っている内に、恐らくそう言った歴史事実に考古学が存在しなかった時代にお気付きに成られていたのだろう。
そして弘明寺も、そう言った意味で凄まじい聖地である・・・
ここは昔からの温泉地だった。今ではそれを知る人も少ないけどね。

弘明寺で扁額の喪失の事実を確認してしまって大分、テンションが下がったまま、次の目的地の横浜市鶴見区下末吉の寶泉寺へ移動した。
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この御寺は間宮家で最初の武勇が記録に残る間宮信冬公の開基と御寺では伝えている。
つまり権現山合戦で活躍したあの間宮彦四郎だ。
所が、川崎大島村(現在の川崎駅前から徒歩20分超の大島町)の伊左衛門の官途名を屋号に持つ間宮家臣子孫達が毎年旧暦八月二十六日に箱根の山中城で討死した間宮康俊公の追善供養を行っていたそうだ。この大島村の伊左衛門は、弘明寺の扁額に間宮宗閑同伴衆として名を連ねた往嶋道徳(おうしまどうとく)の子孫だろう。
この大島家を始めとした家臣団の康俊公の追善供養と、開基の間宮信冬公の話がいつの間にか、寶泉寺の外で語られる寺の歴史が間宮康俊公開基と話が混同されてしまって、事も有ろうに昌平坂学問所の頭取で間宮家の子孫である間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿でも同様に間宮康俊開基と紹介してしまっている。
しかしこれは誤りで、寶泉寺が正しく、恐らくは間宮康俊公は寶泉寺を❝中興❞されていたのだと小生は推測する。
間宮家が末吉や川崎辺りを本拠地にしたのは間宮信冬公や間宮信盛公の時代の話なので、やはり当事者である寶泉寺の寺伝が正しいだろう。
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ところで、この御寺は都会の中に在りながら、御庭は中々広く綺麗な御寺だ。
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手入れが行き届いている。素晴らしい。
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建築も素晴らしい。
そして寺紋は間宮家所縁の四ツ目結び紋に丸を配した物。
丸に四ツ目結びは紋は、間宮家の分家や家臣団が間宮本家から与えられる家紋だ。
分家の嫡流は間宮本家と同じ四ツ目結び紋。それ以外の末端の一族や有力家臣や神社仏閣が〇で囲ってある丸に四ツ目結び紋な訳だ。
だから間宮家の戦国時代の本拠地の磯子区や港南区の地主達は、この寶泉寺と同じ家紋が多い。
寶泉寺の現住職の若様と一しきり寶泉寺の事を話し込んで、御寺の寺伝を纏めた冊子を頂きました。
若様に感謝。
御参りと写真撮影を終えて、思い付きで川崎駅前の瑞龍山宗三寺もついでに寄る事にした。
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宗三寺は旧東海道の目の前に在り、直ぐ裏には京浜急行川崎駅も在る。
一帯は堀之内の地名が町名だが、これは間宮信盛公の城館が在った事に由来する。
そもそもは源頼朝公に与力した平安時代末期の名将、佐々木高綱公の城館が在った場所が現在の宗三寺の境内地だ。佐々木高綱公の引退後、この地を引き継いだのは甥っ子の佐々木信綱公だった。佐々木高綱公と間宮家の祖先とは祖先同士が親戚に当たる。
高綱公の祖父の佐々木秀定公と間宮家の祖先の佐々木行定公が御兄弟に当たる訳だ。
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宗三寺の場所に在った佐々木家は、信綱公の子、佐々木泰綱公の代に横浜市港北区の小机の開発願いを鎌倉幕府に届け出て承認されている。この川崎多摩川を利用した水運には適するものの、当時は砂州で耕作に適さなかったからだろう。その頃に関東に残った佐々木一族は小机を本拠に移したと思われる。
小机も佐々木高綱公の居城跡の鳥山八幡宮や高綱公が開基した三会寺が現存する。
川崎の宗三寺は、元々は勝福寺と言う真言宗の寺院だった。
佐々木高綱公の甥の信綱公の子、佐々木泰綱公が弘長三年(1263年)に同志5000人の寄付で梵鐘を鋳造させて勝福寺に奉納している。そんな川崎に間宮家が戦国時代に入ったのは北条家の事情に由ると思われる。
北条家が関東で勢力を伸張するに当たり、獲得した領地支配の正当性を主張する為に、古来の領主の子孫を故地に配属していたので、佐々木一族の間宮家を川崎に配置したのだろう。
ここを本拠地にしていたのは間宮信盛公だ。
そして間宮信盛公が元々真言宗の勝福寺を中興するのだが、その縁で信盛公の入道号、宗三をとって是(これ)を寺名と改め、宗旨も北条家の帰依した曹洞宗に改宗された。
さらに時代が下って子孫の氷取沢間宮家の一族、間宮孫兵衛盛重公が宗三寺を中興した。
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しかし、この間宮盛重公、とんでも無いミスをやらかしていて、間宮信盛公の墓碑に誤って間宮本家の名将、間宮康信公の名を彫り込んでしまっている。
しかも子の間宮盛正が元禄四年(1702年)に刃傷沙汰を起した挙句に預かり先の旧武田家臣、依田家で不可解な火災を起こして改易されている。
この一連の事件の責任をとってか、間宮家の本家や杉田間宮家は奉行職を同時期に辞任している。
更に同時期に高津間宮家の間宮信要も延宝四年(1677)年に刃傷沙汰を起し切腹されられている。
更に少し前の延宝元年(1673年)には大田区の善慶寺が菩提寺の間宮太郎兵衛達が起こした義民六人衆の事件が起きている。
小生は、これ等一連の事件を義民六人衆事件を契機に間宮家を敵視し、更に旧北条家臣団を敵視して金権政治を行っていた側用人達の陰謀と後に旧武田家臣の柳沢吉保の関与が有ったのではないかと推測している。
同じ時期の元禄二年(1700)年には間宮と同じ旧北条家臣で蒔田吉良家の与力だった世田谷の喜多見家が喜多見重政の代に2万石の大名から改易されている。これも柳沢吉保の陰謀と言われている。
写真を撮影し終わって、間宮信盛公の御廟所と本堂にも御参りして、築地に向かった。
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日曜日の築地場外市場は大盛況で、中々歩くのも大変な程だった。
小生の目的はもう少し歩き易い門跡通りの歩道に面した拉麺屋の❝若葉❞。
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ここは築地に始めて来た10年位前に気になって、母の入院以来ずっと食べるチャンスをう窺(うかが)っていたのだが毎回、お店が早すぎてもやってないし午後だとやってなくて食べれなかった。
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今回はやっと席に着く事が出来た。
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シンプルな醤油ラーメン。でもこれが凄く美味い!
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極細縮(ちぢ)れ麺が旨味の深い醤油スープを良く持ち上げてくれるんだな。
700円と築地に在りながら割と良心的な値段で味も凄く良く大満足。
しかし食べたりない小生は、この後、鶏肉の総菜で有名な鳥藤に移動・・・CIMG1571
チキンペッパーステーキを食べ歩きして・・・
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更に!
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イチゴ大福も食べました(笑)
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餡までイチゴが入っていて美味しかったよ。
御腹もいっぱいに成った所で国立がんセンター研究病院に移動。
母は火曜日に手術して4日目だが、何と、見舞いに行った日から食事が復活していた!
まだ柔らかいオカズが多かった様だが、回復の速さにビックリした。
帰りに病院のロビーで面白い展示物が有るのに気が付いた。CIMG1577
医療器具やら病院の歴史の展示。
こうやって時間系列での器具の発展や、病院解説なんかの展示してあると興味が注がれる。
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ここは今上天皇陛下御夫妻も見学に来られたそうだ。
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ふむ、予定通りの紅葉見学とは行かなかったが、尊敬する間宮家の殿様達の足跡を改めて辿り写真撮影を行えて、美味しい拉麺も食べて、母も回復しつつ有り、大変良い休日を過ごせた!
水曜日はあきる野に紅葉を見に行こう。

では!又、次の記事であいましょう!
そろそろ、何か解説記事書きたいな・・・


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