歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:磯子区

2018年06月01日金曜日、小生は休み。
午前中は某外国語学校、そして日本のアウトレット先駈けとして一時代を築いた❝横浜ベイサイドマリーナアウトレット❞が本年09月をもって一時営業終了し、09月02日~2年間かけて3F建ての新施設建造リニューアル工事するとの事。小生行きつけの店から閉店セールの通知が来ていたので行って見る事にした。
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❝恋雨❞のロケ地でもある杉田から横浜シーサイドラインに乗車してベイサイドマリーナにて買物した後に、恋雨の聖地巡りをする計画で行動。
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久しく乗車していなかったが、このシーサイドライン沿線もドラマやアニメのロケ地に良く成っている。
釣りバカ日誌や、最近じゃ不倫ドラマ❝昼顔❞なんかも度々このシーサイドライン沿線でロケしている。
ベイサイドマリーナのアウトレットは❝鳥浜駅❞で下車。
ダイエットも結果を出してアスリート体型に成れたので一段落、祝杯代わりにソフトクリームとアイスコーヒーを堪能した(笑)。
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ところで、ベイサイドマリーナのアウトレットの閉店セール、本当に安かった!
凄い物は50%OFF!更にそこから4点買えば20%値引きの更に三井アウトレットパークのクレジットカードで支払いして5%割引で、何と小生は服をチノパン1着とシャツ3着の合計4着購入、定価で2万円強の価格の品が1万円チョイで購入する事が出来た。

さて、買い物が終わると❝恋雨聖地巡り❞の一箇所でもあり交通の要所として聖地巡り基点として適した杉田に戻った。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
この日は❝恋は雨上がりのように❞のロケ地で歴史ブログ書くために散々横浜市内の住宅街も走り回って自分の見知っている場所を写真に撮影したかった事も有り、ロケ地の一つである屛風ヶ浦~杉田商店街の間の住宅街等は車を停めれないので公共交通機関と徒歩を駆使して移動する事にしていたからね。
まぁ、主人公の❝あきら❞サンも電車とバスで風見沢高校まで通学してる設定だしね~。

杉田からはロケ地の港南台円海山へ行くのにJR新杉田駅から港南台駅にも出られるし、杉田駅近くのロケ地を見た後でバスで舞台の氷取沢高校方面やロケ地の能見台~氷取沢地区にも行ける。
無論、今回は廻らなかったがロケ地である京急能見台駅やJR桜木町駅前のジョナサンにもアクセスしやすい。

今回小生が訪問したロケ地は以下の通りで、その最寄り駅は下のGoogleearth画像に表示した場所だ。
恋は雨上がりのように ロケ地最寄り駅 久良岐のよし
だいたいの場所を知っていて訪問し詳細特定したロケ地は以下の通り。
●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点
・・・最寄り駅=1,JR新杉田駅or京急杉田駅、2,能見台駅
1,杉田駅or新杉田駅~横浜市営バス杉田小学校前(バス停)~下ヶ谷(バス停)~徒歩8分
2,能見台駅~京急バス能見台駅(バス停)~能見台1丁目(バス停)~徒歩2分

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁
・・・最寄り駅=同上

●京急線のアンダーパス
・・・最寄り駅=JR新杉田駅~徒歩8分、京急杉田駅~徒歩4分

●町を見下ろす風景の長い下り坂
・・・最寄り駅=JR港南台駅
1,JR港南台駅~市営バス港南台駅(バス停)~港南環境センター前(バス停)~徒歩8分
2,JR港南台駅~徒歩20分


では映画の予告動画の画像と、実際に小生が現地で撮影して来た写真で比較しつつ周辺情報も交えて紹介したいと思う。

●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点・・氷取沢高校近くの能見台グラウンド前
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
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住所クリック⤵でGoogleMapにリンクします!
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台1丁目
ここ等辺りは円海山の麓(ふもと)に住む小生にとっては庭みたいな場所なので団地の映像を見て直ぐに解った。近くには日本100名城の一つ八王子城を縄張(なわばり=設計)した間宮綱信公の居館である氷取沢陣屋と横浜市が保護せずマンション建設で破壊された陣屋址に在った氷取沢間宮家の土地神様の氷取沢神社や間宮綱信公の菩提寺の宝勝寺も存在する。参拝すれば知恵者であり北条家外交官として織田信長公に厚遇された間宮綱信公の外交的なセンスと知力の御利益に預かれるかもしれない(笑)。
それと、横浜家系ラーメンの創始者である総本山吉村家の吉村社長の愛弟子の中で杉田家の津村サンと1、2を争う実力者として有名な鶴巻サンの店の王道之印も近くに存在する。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
→王道之印(横浜家系ラーメン創始者吉村社長の有名な弟子、鶴巻氏の店)
→氷取沢神社(八王子城縄張り、北条家外交官として織田信長公との外交で活躍した間宮綱信公の土地神様)
→宝勝寺(間宮綱信公の菩提寺で、室町幕府鎌倉府の最後の鎌倉公方である足利成氏公所縁の寺)

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁・・・能見台グラウンド横のメガロン能見台擁壁
恋は雨上がりのように 予告 タイトル
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GoogleMapにリンク⤵
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台2丁目
最初、氷取沢高校の横のバス停前かと思ったが、現地に行って見て改めて地形を観察するとバス停付近の擁壁道路には実際は歩道が有り又、ブロック擁壁の下には画像と違って路肩が無かったので直ぐにバス停の傍がロケ地ではない事が判った。
・・・これも城跡を多く見て地形観察する眼力が向上した賜物か(笑)。
それで「あ~団地の周りだコレ」と解った・・・
更に映像をスマホで見て観察すると、コンクリート擁壁の排水管から❝コンクリートの石灰質が溶解して出来た白い染み❞の存在に気が付いた。それでピンと来たのだが、先に紹介した❝ドリフトT字路(笑)❞の能見台グラウンド隣のメガロン能見台と言う集合住宅の台地の擁壁コンクリートに雨水で出来た石灰質の染みが有るのでドンピシャで当該地形を特定出来た。

●京急線のアンダーパス(熊野神社泉蔵院参道)・・・京急杉田駅北側、杉田小学校西側のアンダーパス
恋は雨上がりのように 杉田ロケ地 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒235-0036 神奈川県横浜市磯子区中原4丁目2
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ここは地元、磯子区杉田のゆるキャラのウメニ―に特定して貰った(笑)。
地形的に屛風ヶ浦~杉田の間だとは推察していたのだがハッキリ解らなかったのでウメニーに憑依している人(笑)に聞いた所、ウメニ―は小生のスクショ見て瞬殺で特定してくれた。
源頼朝公が鎌倉市山崎に昔は存在した修験道の聖地、山崎泉蔵院の高僧に命じて開かせた泉蔵院熊野神社の参道の石碑が目印。
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杉田駅側から屛風ヶ浦駅側に向かって歩くと熊野神社参道の石碑が在る徒歩3分位の位置。
杉田は徳川家康公の参謀で江戸幕府初代鷹匠頭を務めた間宮信繁公の旧領で、関ヶ原の戦いで徳川軍を勝利させた名軍師。特殊部隊である鷹匠鉄砲部隊50人で毛利家の本陣南宮山を偵察し徳川本隊3万を前進させ小早川勢寝返りを誘引させる事に成功させた人物。そして戦国時代~昭和初期まで高級梅として有名だった幻の杉田梅の杉田梅林を植林させた人物でもある。杉田梅林は明治に成っても皇族が度々訪れる観光名所として有名だったが皇族の聖跡の杉田梅林も横浜市役所が戦後保護を怠り開発許可を出し消滅させた。杉田梅は現在では小田原市曽我梅林に植林された物が現存する。杉田商店街に在る❝菓子一❞と言う和菓子屋で、杉田梅林文化を受け継いだ梅の和菓子を現在も販売していたりするので御土産に御薦め!泉蔵院は源頼朝公や北条家最強の黄備え隊大将北条綱成公の副将だった間宮家の信仰を集めた神社なので必勝祈願の御利益も期待できる。近くには日本武尊伝説の聖地が弘法大師によって仏教化され戦国時代に間宮信繁公等杉田間宮家の菩提寺に成った牛頭山妙法寺も在る。又、臨済宗関東十刹の一つで大きな釈迦堂が現存する東漸寺も存在する。何(いず)れを御参りしても知恵と勝利の御利益が期待出来る。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
泉蔵院熊野神社(源頼朝公が開き間宮家が支援した勝負と治水の神様のパワースポット)
菓子一(昭和初期までの横浜名物杉田梅の文化を継いだ和菓子店)
東漸寺(鎌倉幕府名越北条家が再興し、戦国時代に間宮家が支援した臨済宗の名古刹)
妙法寺(日本武尊神話の舞台の一つで、徳川家康公の参謀の間宮信繁公の菩提寺)
杉田家(新杉田駅近くの横浜家系ラーメン発祥地で吉村家旧店舗前に在る吉村社長の秘蔵っ子、津村サンの店)
ついでにウメニ―は杉田小学校の生徒が生み出したキャラクターなので、出来れば皆で子供を育て可愛がる様に❝恋あめファン❞にもTwitterフォローして頂けると旧久良岐郡民の小生としても嬉しい。
ウメニ―のTwitter→https://twitter.com/umeny_sugita

●町を見下ろす風景の長い下り坂・・・円海山山頂下の坂道
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒234‐0054 神奈川県横浜市港南区港南台8丁目
実は横浜市で標高最高地の円海山でロケされている。ここに至る目標としてはGoogleMapで❝円海山❞とさえキーワード入力すれば誰でも来られる場所。バスに乗らなくても歩いて来る事も出来る。
横浜市では貴重な鎌倉市まで繋がる大森林が現存し自然公園として歴代横浜市長に守られて来たので、円海山山麓の瀬上沢は現在でも蛍の大生息地として有名。又、一年を通じて晴天の日には夕焼けに染まる富士山やダイヤモンド富士、そして横浜市最高所からの夜景の名所として横浜市民に愛されている。
しかし近年、東急グループが土地を買収し自然破壊と蛍生息地が壊滅する宅地開発を計画し林文子市長も歴代市長の自然と円海山の保護政策を否定する東急グループ擁護発言を行い、林文子市長と東急グループにより現在の映画ロケ地や横浜市最後の蛍群生地と自然は破壊の危機に神している。
円海山山頂へ続く長い坂のロケ地位置GoogleMapリンク
円海山の蛍の大生息地瀬上沢と富士山と夜景の絶景スポット写真紹介記事リンク

因(ちな)みにTwitterで小生が暴露した❝恋あめ❞の舞台❝風見沢❞の架空地名由来、反響が大きかったので少し紹介したいと思う・・・
風見沢は実は小生のハンドルネームの❝久良岐のよし❞の元ネタである横浜市南部の旧行政区分:久良岐郡に存在した地名に由来している。
風見沢、この仮の地名は実名しないが、由来に成った場所は舞台と整合しハッキリしている・・・
風・・・屛❝風❞浦(びょうぶがうら)
見・・・能❝見❞台(のうけんだい)
沢・・・氷取❝沢❞(ひとりざわ)
・・・この上記の町名や江戸時代までの旧地名から駅名やバス停の地名として残る場所をくっつけてつくられている。そして、これらの舞台は横浜らしい坂の多い旧久良岐郡地域の丘の上に面した場所なのでロケ地にも坂道が多く登場する訳だ。
現在、❝屛風ヶ浦❞と言う明治まで別荘地として繁栄した風光明媚な断崖絶壁の海岸が横浜市中区~横須賀市域まで10km近く長く続く地形に由来した住所は、他地域からの移住者役人だらけのアホの横浜市役所と旧郵政省によって消滅させられ存在しない。埋立地にして景勝地を消滅させてしまった事を隠蔽する為か屛風ヶ浦の地名ごと消し去られたが、それに歯向かう様に郷土横浜の景勝地だった文化を引き継ぐハマっ子達と京浜急行電鉄は駅名や店舗の支店名として今でも屛風浦駅近辺に旧景勝地の誇りを引き継いでいたりする。
恋は雨上がりのように ロケ地周辺地形 久良岐のよし
御覧の通り、舞台の中心である能見台~杉田~本牧半島にかけて現在でも旧海岸線は断崖絶壁の海蝕岸壁丘陵が続く。もっとも、海蝕岸壁とは言われるが当該地は応長の大津波の伝承や三浦半島の西側が隆起し東側が沈下するプレートの境界線である事からも、この崖は巨大な断層と考えた方が自然だろう。
能見台は江戸時代迄は東青野台と富岡と呼ばれた地域を宅地開発した際に新設された地所名で、丘の上に閑静な住宅地が広がる。元々は兼好法師こと徒然草の筆者で真言宗の僧侶だった吉田兼好が愛して住した金沢八景の景勝の由来に成った地域を一望できる能見堂と言う禅宗曹洞派の仏教草庵の寺院名が由来と成っている。
氷取沢は地名由来に諸説有る。一説には鎌倉幕府の将軍や執権北条家、その後の室町幕府鎌倉府の鎌倉公方に献上する氷室(ひむろ=氷の貯蔵庫)や氷その物を採取する沢が有ったからとも言われているが、小生の様な歴史オタクや郷土史家の多くの意見としては氷取沢地名の由来は、そもそも❝氷❞取沢は❝火❞取沢と書き製鉄の盛んだった場所で戦国時代にも鍛冶師が住した地域なので蹈鞴(たたら)製鉄の溶鉱炉の灯りが夜も明々(あかあか)としている火の燃える様子に由来すると言う説も可能性として指摘する所でもある。
そんな地域で奈良時代には先進的な地域で鎌倉時代には武家最高の教養を備えた金澤北条家と名越北条家の根拠地だったのだが、鎌倉幕府を攻撃した新田義貞の乱暴狼藉で周辺地域は多くの神社仏閣や村々は略奪の被害に遭い焼き討ちされ室町時代に一時期荒廃した歴史も有る。
戦国時代には江戸時代の杉田玄白や間宮林蔵や間宮士信等凄まじい学者達の祖先であり、北条家五色備え黄備え隊の軍師副将として活躍した間宮康俊公や徳川家康公の参謀として活躍した間宮信繁公や間宮直元公、東京都の浅草寺の僧正を輩出した伊丹家の根拠地だった場所でもある。
主人公の❝あきら❞サンが通い、恐らく原作者の❝眉月じゅん❞先生が愛した屛風ヶ浦~杉田~富岡~能見台~円海山は、戦後の横浜市役所が景勝地の自然を破壊するまでの昭和初期までは鎌倉以来の武士団の文化教養として源頼朝公や金沢北条実時公や北条早雲公や太田道灌公や徳川家康公にも大切にされ観光地として有名だった場所なんだな。
そこで作者の眉月先生も人生の一時期を主人公あきらサンみたいに過したんですね~。

さて、余り歴史に興味が無いかも知れない❝恋あめ❞ファンもいるかも知れませんが、舞台の町、そして架空の人物だけど主人公あきらサンや店長が働く能見台の町、ロケ地となった横浜市金沢区~磯子区~港南区~中区一帯の事、少しは興味持って貰えたでしょうか?
少しだけ紹介しましたが、このロケ地周辺には歴史偉人が大切にした御利益の有るパワースポットの神社仏閣御や蛍が大量に見れる横浜市最後の自然の聖地や、戦国時代以来の横浜の梅文化に根付いた美味しい和菓子屋さんや横浜家系の発祥地杉田駅周辺には家系総本山吉村家の吉村社長直弟子のラーメン屋サンも有ります。
皆さんが恋アメ聖地巡りの際の食事や観光や土産の参考に成れば幸いと思い、記事にしました。

では、皆さんにとって、この映画とロケ地巡りが良い人生の糧に成ります様に願います♪

・・・次に書く記事ではガッチガチの歴史解説か鎌倉の秘密のパワースポットの紹介をすると思います。


恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
公式ホームページURL→http://koiame-movie.com/#/boards/koiame
主題歌「フロントメモリー」MPV→YouTube公開動画


2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
杉田~富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくす・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ沢山の蛍の見れる季節に成る貴重な横浜最後の自然が残る金沢区~栄区~磯子区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
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富士山の赤富士とダイヤモンド富士の景勝を見られるポイントとしても夕日の撮影が趣味の人達には広く知られています。
恐らく知らないのは❝築地育ち❞の林文子市長くらい。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
Google map→リンク
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守って来た❞貴重な自然を子供達の為、日本文化と自然保護の為に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 
〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299

さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









本当は今日はコッチ
       ↓
【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)
 ↑ 
コレの続きの記事を書かなきゃいけなかったんだけど、1月2日と同じSuper moonでの皆既月食が見れたので、そっちの事を少し書こうかなと。

2018年01月31日、この日はSuper Moonの皆既月食・・・
横浜市の最高峰の円海山へと登り月食の様子を撮影に夜9時半頃からずっと観察してた。
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スーパームーンの皆既月食を観察する為に夜ジムに行かずに、横浜市最高峰の円海山の中腹の在る所に・・・そこは円海山の木々が少し開けた場所で星空が良く見える。
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そこで寝そべりデジカメを両手でシッカリホールドして皆既月食を撮影してた・・・
「クッソ寒い(笑)」
・・・でも夜の冷気と古代人が大切にした円海山の清々しい空気で最近クサクサした心が少し晴れた。
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2万円の安いデジカメを持参、望遠レンズも無し三脚も無し、別に天体観察オタクでも無いので歴史オタクの小生はこのクオリティーで満足。
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思った以上に綺麗に撮影で来たかな?
でも手振れが激しく(笑)月が分身した写真が何枚も撮れてしまった(笑)!
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まぁ、これはこれで面白い(笑)!
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誰もいない夜の山の広場に寝転んで星空を見上げて見る満月はとても神秘的だった。
きっと古代人は月読(つくよみ)の神様の命(みこと)を拝んで皆既月食を観察して閏年の調整を行ったのだろう。
天体観測を通じて何だか古代人と繋がった様な気分に成れ嬉しかった。
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この❝円海山の瀬上沢”は❝横浜市最大最後の蛍の群生地❞として有名ですが、アホの東急不動産と横浜の林文子市長が開発しようとして横浜市民の保護活動と交戦状態の最前線に成っている場所で、古代人の聖地と鑪(たたら)製鉄遺跡と灌漑水田史跡、更には鎌倉武士達が有事に使っていた高速道路鎌倉早駆けの道の間道も幾本も林道として残るのですが、林文子市長に成ってから林道保持が怠られた状態に成っていたりもします。
現地には日本神話最古の知恵の神様の思金神を祀る思金神社や、浄土宗総本山の知恩院住職となった任蓮社然譽了鑑大和尚を輩出した❝峯の阿弥陀寺❞も現存しています。
以前書いた記事が有るので、御興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして読んで見て下さいね!
●円海山と瀬上池の沢…蛍が見れる横浜南部の最後の大森林。
●円海山の蛍が観察出来る季節です。・・・過去記事の転載も。
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道①…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道②…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●思金神社…古代人の遺跡の有る横浜市内1番の自然のパワースポットの円海山に在る神社。
●神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町


あ、それと梅の季節ももう直ぐなのでそれのリンクも貼ります・・・
●神奈川県内の梅花鑑賞に適した梅林一覧。
※イベント日付が以前のままなので、詳細は御自分で記事に掲載されている電話番号までお問い合わせくださいね♪

次の❝【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥❞はSuper moonの夜の日に訪問した、仁徳天皇=大鷦鷯尊大王の弟皇子で莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が埋葬されていたのに神奈川県教育委員会が保護せず破壊された真土大塚古墳と莵道稚郎子命が御祭神の延喜式内社である前鳥神社、そして古墳時代初期の神事を行う神奈川県の寒川大社の追儺神事つまり神社文化成立以前の古代から続く神事の事を書きます。この神事は上賀茂神社や寒川大社などの一部だけで中国渡来の陰陽道や仏教の文化の影響を受けず、そして明治基督教徒の政治家による宗教改革でプロテスタント化した国家神道の影響を受けずに続く貴重な❝日本古来の進行の原型を残す神事❞だったりします。

・・・では!次の記事で又皆さんに報告したいと思います~♪

年末の横浜南部市場に2日間に分けて蟹と鮪の柵を仕入れに行った。
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30日、場内市場の鮮魚棟。
年内営業最終日の店が多く、売れ残りを避けたい店が鮮魚を値引きしてくれるんだな。
今年は蟹が種類問わず不漁で値段が若干昨年より高め。
まぁ、毛蟹も店で値段はマチマチ・・・
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2500円・・・
冷凍の毛蟹だけどソコソコ。
次の店・・・
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1800円。
質が悪い訳じゃなくて元からのランクと在庫数の兼ね合い、それと本当に営業終了予定時間が差し迫ってる店から安く成っていく。
でも昨年、市営から外れ公設市場では無く成ったせいで逆に民間化して客足が増え(た笑)、それで今年は店も強気で値下げしてくれない(-_-;)。
そして・・・
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昨年も値下げしてくれた店で活毛蟹が1500円!まぁ、昨年より最終値200円高いがそれでも安いよね~。
即決で4杯購入。
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本日、31日大晦日。
早朝04時に自宅を出発し川崎市高津区の橘樹神社に向け出発・・・
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橘樹神社
この神社は御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)の奥さんの弟橘媛(おとたみばなひめ)。
実は神社は遥拝所。
今では住宅街に成ってしまった背後の丘が昔は巨大な円墳で弟橘媛の遺品が埋葬されていると伝承する。
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神社は真っ直ぐ背後に円墳の頂点を背負って存在する。
先ずは神社で弟橘媛様に1年間の御礼参り。
その事、弟橘媛御陵の登頂部に移動。
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本来なら橘樹神社の本宮に当たる古墳の残存部に登り、弟橘媛様に御詣りし感謝と心願と来年又、参拝に来ますと御伝えし南部市場に向けて出発。
途中で大倉山のセブンイレブンに寄道・・・
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・・・実は大倉山梅林の梅酒“梅の薫”が“いつもなら”売っているのだが、今年は眞子様の婚約で贈物として大倉山の梅の薫が選ばれたとTVで紹介されてしまったせいで売り切れだった。残念❕
そのまま下道の綱島街道沿いに横浜市磯子区を目指す。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
実は橘樹神社~綱島~神奈川区三枚橋交差点~六角橋の道は恐らく日本武尊と弟橘媛御夫妻も走水を目指して当時は港だったであろう宝秀寺の在る六角橋まで歩いた道のはずなんだな。
しかし今回は三枚橋交差点~六角橋には向かわずに片倉町経由で三ツ沢を通り横浜駅前を通過し保土ヶ谷区の洪福寺方面に行き、そこから南区堀之内に至り中村川沿いに磯子区に入った。
三枚橋交差点の在る三枚町は江戸時代までは三枚田村と呼ばれ一帯は“店屋(てんや)”と言う古代大和政権の駅伝制の中継集落で行政区域だった名残の“天屋”の地名が旧住所の小名に残っていた。
小生が今日通った三ツ沢方面の道を日本武尊が歩かなかったと断言出来るが、それは横浜駅が開かれて以降に主要街道として開かれた道だからだな。
何故なら江戸時代にもまだ横浜駅周辺は平沼や岡野の先、天王町の手前まで海で根本的に陸ではなかった。
当然ながら弥生時代~古墳時代の皇族である日本武尊の時代も横浜駅辺りは海の底。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
江戸時代の歌川広重が描いた神奈川宿の浮世絵。
今は台町と呼ばれる丘が江戸時代の東海道で旅籠が並んでいた。絵に描かれた海が今の横浜駅辺りだな。
因(ちな)みに坂本龍馬サンの没後に未亡人お龍サンが働いていたのも、ここの田中家だった。
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葛飾北斎が描いた富嶽三十六景:神奈川沖浪浦もこの辺りの海。本牧半島辺りの風景だろう。
江戸時代には東海道は陸の道に成っていたが、実は日本武尊と弟橘媛御夫妻の時代の東海道は今とは大分異なる。
古代の街道と延喜式内社&式外社&遺跡の分布 久良岐のよし
そもそも昔は富士山の北側~御殿場を抜け~寒田神社~比々多神社~有鹿神社本宮~神崎遺跡~宇都母知神社~大庭神社~鎌倉~逗子駅辺り~葉山町~上下の山口地区~を経て走水神社に至り海を越えて房総半島の富津に至る文字どおり海の道が東海道だった。
古代東海道ほぼこんな感じ・・・
矢倉沢往還
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高座郡を貫く県道406号
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鎌倉郡を貫く県道43号
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三浦半島内の国道16号線
・・・これが大凡(おおよそ)の古代の東海道なんだな。
日本武尊はモデルが数人いる筈で古代の大将軍に相当する官職名に由来する神号だと推測している。
そして小生は素戔嗚命の後に軍を司った卑弥呼が倭姫、卑弥呼の弟が景行天皇で九州で活躍した初代日本武尊、二代目が走水に来た日本武尊、三代目が菟道稚郎子命、四代目が恐らく武蔵国造の乱を調停したであろう雄略天皇だろうと何となく神話、各神社の社殿、考古学、地理と地形の情況から推測している。
この内、綱島街道沿いを歩いたり船で往来した可能性が有るのは恐らく大伴部と吉備氏を与力とし后が弟橘媛だった景行天皇の皇子で2代目かも知れない弥生時代末期の一般的に日本武尊の神話として知られる最初の東征を行った皇族の大将軍と、四代目で武蔵国造の乱を調停したかもしれない古墳時代の雄略天皇だろう。
まぁ現代では川崎市高津区や横浜市港北区からは横浜駅前を通り磯子に抜けるのが磯子区・横須賀への1番のショートカットだ。
途中で又、寄道し神社に参拝・・・
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八幡橋八幡神社だな。
八幡橋八幡神社・・・ここは古代には現代の陸地から見て上空に社殿が在ったであろう場所(笑)。
ラピュタ的な意味では無くて江戸時代に現在の関内辺り~吉野町の海だった吉田新田地域を埋め立てる際に八幡橋八幡神社の辺りの久良岐の丘を一部開削し、その土で海を埋めたんだな。
だから八幡橋八幡神社は現在では低い場所に在るが昔は本牧半島の付根に存在したはずだ。
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この神社は奈良時代には存在していたと伝わる。古代から存続する神社はだいたいが古代の半島の付根か先端、若(も)しくは湧水地や奇岩や古墳の傍に所在する。
だから神社の歴史を踏まえると、成立時は開削前の久良岐の丘の在ったので今の位置より“上空に在った(笑)”事に成る訳だな。
実は小生の血が繋がらない義祖母の実家は元は横浜のシルク商で、この八幡神社を崇敬していた。八幡宮の神様は海上交通と治水と産業と軍事の神様なんだな。
だから古い八幡宮は海に付き出した半島の付根や川や湖の港だった場所に多く分布している。
小さい時に義祖母と一緒に御詣りした神社で神様に1年の御礼を伝えて御参りを終えると横浜南部市場に移動した。
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行きつけの場外市場の鮮魚店に又、最終日の弱味にツケコミ(笑)買付に。
南部市場で職場の同僚と待合せし、鮮魚店を見て廻るが余り安くない。
今年は客足が伸びて値下がりするタイミングがまだ来ていない。イブリガッコ等を購入して同僚とは解散、時間を空けて又、後で小生が再訪問し同僚にはLINEで値段を伝えて買い付ける算段に予定変更。
そこで、値下がりするまでの時間稼ぎに後で訪問する予定だった三浦半島の横須賀市域に在る走水神社に向け出発・・・
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走水神社
朝から氏子サンがお掃除してらした。
年越しの御詣りに備えての準備かな。
一般参詣者が神社で初詣出来るのは、こんな祭事の準備や神社の維持の努力をして下さる各神社の氏子サンの御蔭様。感謝。
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本殿で日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様と天磐楯命に改めて1年の感謝を伝えてから来年の心願成就をお助け下さる様、そして国籍人種問わず日本の自然と文化と歴史史跡を大切にする“親日の人間”の平安を祈願した。
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ちゃんと東郷元帥や乃木大将が大切にした奥宮にも参詣した。
参拝後に暖かい珈琲が飲みたくて近くのコンビニに行くと人懐っこくて毛並みの綺麗な柴チャンがいた。
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尻尾振って寄って来てくれたのでモフらせて頂いた🎵
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そう言えば新年は戌年だっけ?
縁起が良いね、ありがとワンちゃん!
南部市場に戻る途中で横須賀名物のポテチパンを販売する中井パンに寄道・・・
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中井パン店
朝御飯食べてなかったからオナカ空いちゃったよ。
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大晦日だけど御客さん来てたね、大晦日も昼まで営業されるそう。
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朝食代わりにポテチパンを食す。
海苔塩味。
車中ポテチパンを頬張りながら運転し30分位?南部市場に到着したのが10時前後。
でも安くなるの待つのに持久戦、先に車の中でスマホでFF3やりながら時間を潰し11時位、早めの昼食に市場の食堂で鯵・シラス丼食べて時間稼ぎ・・・
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・・・攻城戦と同じで相手=市場の店は営業最終日の今日中に在庫を売り尽くすと言う勝利を得なければいけないのだが、戦う為の残り時間と言う名の兵糧が切れる時刻はあと数時間でやってくる。ソレを恐れ必ず買物客(敵)に和平の値下をしてくるはず(笑)。
対してコチラは相手が兵糧が僅(わず)かに成り“音(ね)を上げて値を下げる(笑)”のを悠々と食堂と言う名の付城で暖房に当たりながら食事と言う名の兵站(へいたん)を確保し対陣(笑)。
値下げしてくると踏んだ営業時間終了の1時間前位に行動開始、そして・・・
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・・・勝利の瞬間到来(*´∀`)」❗️
値下してくれた社長さん、ナイスガイのニイチャンあんがとな!
皆さん、この店の名は場外市場の浜光水産ですよ~♪
浜光水産
真実一路、新鮮な魚を取り扱い客に親切に心地光明の精神で対応して下さる最良の鮮魚店です。新年の買出し何卒贔屓にして上げて下さい♪
・・・何て御膳立てを魚屋さんにしてみる(笑)。
タラバ足を2つ買い、あと場内で作業してたこの浜光水産の社長さんから事前に御薦めとしてリサーチしていた特選の鮪の柵、それと刺身用の帆立貝柱を購入した。
因みに頼むと店頭に並ばない魚も用意出来るか調べてくれたりする本当に親切な店なので小生は家で魚食べたいと良く円海山の麓の家から買い出しに来るんだな。

・・・ふむ、横浜での土地神様の神社の宮司様と御世話に成ってる御寺の和尚様に先週挨拶も済ませたし、今日は小生が崇敬する夫婦神様と与力の神様にも挨拶を済ませれたし、カニも鮪も正月に備えて補充出来たし・・・
良い1年の締め括りに成った。

神様と仏様と御先祖様と恩人と恩師と家族と同僚に感謝!

追記
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蒸し上がったでござる。
生きたまま蒸した蟹サン、美味しく御命頂きます🍴🙏。
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蟹サンの分も善き人と日本文化と親日の人の為に自分の命を使わねば。

皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホの左派市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にあり(現在の東漸寺運営)ー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










皆さんは公害発生の可能性を断つ日本で最新鋭の火力発電所が横浜市磯子区に存在しているのを御存知でしょうか?名前を東京電力南横浜火力発電所と言います。
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そして、その火力発電所の施設の模型や文字による解説、映像資料等を展示した場所が存在するのを御存知でしょうか?その施設の名前をISOGOエネルギープラザと言います。
実は小生も最近まで知らなかったのですが、この施設が無料で入館出来るのです。車で行けないので少々不便ですが磯子駅からバスで直ぐに来られるので、横浜市民のみならず他都市からも見学に訪れる事が出来ます。
位置的にはこんな感じ・・・
ISOGOエネルギープラザの場所 久良岐のよし
ここの存在を知ったのは2週間くらい前に夜景を探して夜な夜なドライブして来た際にGoogle Mapを見ていて火力発電所の存在を再認識してから、ホームページを検索して情報を入手したからでした。
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その時に撮影したのが09月14日に記事にしたこの風景。
コレ記事リンク→
今回、最初は金沢文庫博物館が展示替えしたので其方に遊びに行く心算(つもり)で何にも準備しておらず、ISOGOエネルギープラザさんの事を思い出して電話連絡してから訪問したのですが、別に電話しなくても日曜日以外は常設展示は直ぐに無料見学出来ます。
しかも!ちゃんと事前に予約すると火力発電所その物も見学させて頂く事も可能だそうです。
残念ながら今回は突然の思い付きの訪問だったので今回の記事は常設展示の紹介だけですが、いずれ火力発電所実物の見学も予約してレポート記事の続きを書こうと思います。

さて・・・

ISOGOエネルギープラザさんはセキュリティーの守衛さんが立っている正門をくぐって直ぐ右手に建物の入口が在(あ)り、そこがそのまま解説展示施設の入口にも成っています。
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この入口の右手が駐車場なのですが、そこにも機械好きの興味を引く展示物が有りました。
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建替え前の旧火力発電施設時代の低圧タービンとか・・・
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蒸気ドラムとかですね!
・・・もうコレ、戦艦とか工場とか大好きなデカイ機械マニアにはタマらん逸品でしょう(笑)?
そして、この展示物に並行して植えられている桜の木の解説を読むと、この会社の志の高さを知る事が出来ます。
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この会社の初代総裁である高碕達之助翁が生前、旧岐阜県荘川村(現:荘川町)が御母衣ダム建設によって湖底に沈む事が決まった際に、安土桃山時代に植えられたアズマヒガンと言う樹齢400年超の桜の巨木2本を桜博士の笹部新太郎先生の力を借りて荘川村村民の郷土の誇りを失わせない為に古今未曽有の移植事業を行い保護したそうです。
最近はどの企業経営者も従業員を大切にせず、地域貢献や国の発展等に目もくれず目先の金だけを稼ぐ事に執着し天下100年の計も無く世を見通す力も無く、TOSHIBAやSHAAPやSANYOの様に自分達の地位保全だけの為に売国行為に走っていますね。
ところが昔の経営者と言うのは淡路島と函館の街を作った高田屋嘉兵衛さんに始まり、我が郷里横浜市の原三渓さんの原財閥、鉄道敷設と日本の物流発展に寄与した浅野財閥、経済世民を地で体現した渋沢栄一先生、日本近代造船の父であり横浜に深い関わりの有る渡部忠右衛門さん、そして今回訪問した磯子火力発電所を開いた電源開発(J-POWER)の初代総裁の高碕達之助さん達・・・これ等の経営の先人達は皆、国民の生活や自然環境と日本文化の保護や国と地域の発展を考えて私利私欲の前に“公益世務”と言う言葉を体現されて生涯を全うしておられるのです。
そんな事が荘川桜の移植の事からも感じ取れたりするのですが、中の展示を見ると、この高碕翁の理念が体現された施設が現在の磯子火力発電所である事が理解できます。
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先ず中に入ると対象年齢12才前後と思われる内容の映像解説を見る機会が有ります。
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このミニシアターで火力発電の源である石炭が、鉱石としてどうやって地球の悠久の歴史の中で生成されていったか、植物の化石である事から非常に解り易い動画で解説してくれます。
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そして、どの様に人間の文化に利用されていったか等、文化面や工業面で人間の文明を発展させて来た石炭の歴史が解説されます。
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小生は浅学で知らなかったのですが、中国では中華料理に必要な強い火力を得る為に1200年位前には既に石炭が利用されていたそうです。中華料理の炒め物や揚げ物や煮物は強い火力を利用して短時間で作り上げる料理が多いのですが、これはガスの登場以前からの文化だったのですね。
・・・日本人は明朝までの中国には非常に敬意を感じる人も多いと思いますが、中国文化はやはり本来は素晴らしく発展した物だった様ですね。満州族征服王朝である清朝で今の中国共産党みたいに軍拡帝国主義で疲弊し、共産主義の文化大革命で文明後退する以前の中国はやはり素晴らしい文明の国だった訳です。
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そしてイギリスで蒸気機関が発明され産業革命が起きて給食に鉄鋼業等の重工業の発展が齎(もたら)された時期、その蒸気機関に必要不可欠だった物が石炭だと言う解説も有ります。
何故、石炭の解説を動画で行っているかと言うと、実は現代の火力発電所も石炭を燃焼させて発熱しタービンを回して発電するからです。
「え?じゃあ産業革命や日本の高度経済成長期みたいに公害未だに凄いんじゃない?」
・・・と思うでしょう?それが違う。今の磯子火力発電所には高碕達之助翁の理念と魂が吹き込まれており公害の元と成る粉塵や有毒ガスは限り無く0の無公害処理の上で放出されているんです。
有る意味、高リスクで産廃処理不可能な原子力発電より素晴らしい施設ですね。
ミニシアターの他にも面白い物が有りました。
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潜水艦の潜望鏡の様な機材なのですが、実は火力発電所の高さ300mの排煙塔に据え付けられた展望カメラを自由に操作する事が出来ます。
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これで遊ぶのも当然無料。だから子供連れてきたら、きっと喜んで遊ぶので家族連れにピッタリの施設である事が既にこの段階で伝わるんじゃないでしょうか?
文字による解説も充実しています。
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非常に解り易い!まぁ~、館内の模型解説と内容が被ってるんですがね(笑)。
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パンフレットも日本語・英語・中国語で揃っています。これ、公害の凄い中国の政治家に読んで反省して欲しいな。
さて、中に入ると中央に“施設の位置”を解説する為のジオラマが有ります。
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これが又、結構精巧に作られていて面白い。
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タッチパネルを操作すると各施設の役割が理解出来る解説が表示されます。
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こんな感じ。
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そして更に、これとは別に一つ一つの“施設の役割”と“物理的な動き”を解説する模型と映像解説が壁面に細かく細分化されて展示されています。
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最初は文字と写真の資料。
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これをちゃんと読むと一連の火力発電の流れが小生の様な文系人間の歴史マニア馬鹿にも理解できます。
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そして御丁寧に石炭を採掘するところの説明と現物展示から始まり・・・
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採掘後の運搬船と、発電所施設への搬入と管理方法の解説・・・
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模型と光を使って石炭の流れを再現してくれます。
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本当に解り易い。
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石炭なんか、静電気で火災発生したりしたら本当に大惨事だから思ってみれば搬送する所から本当に大変なんだよな~。
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横浜の磯子火力発電所の石炭貯蔵施設は4つクローバーの花の様に並んだサイロなのでクローバー型と呼ばれ有名らしいです。
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どうやって管理されているかも模型で再現されています。
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そして凄いのが施設内でのコンベアによる搬送方法。
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このベルトコンベア、動力が空力で、ベルトを空気圧で浮遊させて石炭を運ぶので騒音が発生させず周辺町村に迷惑をかけずに施設が稼働出来るそうです。
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そして、これも知らなかったのですが昔の蒸気機関や高度経済成長期の発電所と違い、効率よく石炭を燃焼させたり公害を抑える為に先ず、石炭自体を細かい粉末に粉砕してから使うそうです。
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でもね~、これ、凄く技術力と精密な管理がいると思うんです。
石炭なんてただでさえ可燃性なのに、粉末って静電気発生しやすいでしょう?
小麦粉とかのサイロでも静電気で火災が発生する事件って有るんですよね~。
だから本当に、磯子火力発電所はとんでもない最新鋭の管理技術が導入されているのが燃料としての石炭の破砕の項目一つとっても解るんですよね~。
でも高碕翁の理念が現代の従業員にも脈々と活きづいているから、このクオリティーを実現出来るんでしょう。
「おい!横浜市最後の蛍の広域生息地と自然公園の円海山瀬上沢を宅地開発したがってる東急グループと容認派の林文子市長!アンタ等東急創業者の渋沢栄一先生が御祭神として祀られた東横神社の神前で懺悔して来いや!そしてJ-POWERの職員を見習って自然環境保全と日本文化史跡保護の理念再認識しろや!」
・・・と、施設を見学しながら脳裏を過(よぎ)る小生。
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この模型と同じ構造の粉砕機を使って石炭を砕き吸い上げるそうなんだが・・・
本当に良く火事に成らんな。
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何かボイラーの構造も凄くって解説を見る限り、蒸気の再加熱だけでも何重の構造が設けらえていたりするらしい。
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プラスティックの透過性を利用して光を使い上手く炉内の掘能を演出した模型。
これなら子供にも解り易い。妹の所の甥っ子と姪っ子がもう少し大きく成ったら火力発電所見学予約して連れて来てあげたいなぁ~。
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そしてタービンの解説。
なんか横浜のは直列式と言って、効率の良い施設配置に成っているらしく設置コストも抑えられるらしい。
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左側が横浜のが採用している形式、右側が異なる形式。
素人目にも左の方がスッキリしてジェットエンジンのタービンみたいで効率良さげなのが何となく解る。
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写真も有るので実物の規模も解り易い。
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そして最後に送電な訳だが、電気を販売するのは東京電力の仕事で別会社、その東京電力に電気を売るまでがJ-POWERの仕事らしい。
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送電線は銅線だそうだ。
だから良く金属泥棒が送電線盗んだり事件に成るんだな。
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でもこれ、地下トンネルに送電線配置されてる訳だろ?関東大震災来たら水没するだろうし大丈夫なんだろうか?と素人目に一抹の不安も沸いた。
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んで最後に空気の浄化システムの解説とか有って・・・
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てか、静電気で灰塵を選別するとか・・・粉塵と電気の最悪の組み合わせを火災に成らずに使いこなす技術って凄いね。
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乾式排煙脱硫装置と言うらしい。
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この数値が凄まじい。恐らくヨーロッパで未だに酸性雨の被害が凄いのもディーゼル車が主流なせいでは無く原発廃止して火力発電所増やしているのに日本程の技術力が無い旧世代の火力発電技術しかないから窒素酸化物とか硫黄酸化物が略略(ほぼほぼ)垂れ流しなんだろうな。
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何か今回の訪問で知ったのだが、石炭と言うのは産廃に成らず肥料の元と硫酸に成るらしい。
そして肥料の元と硫酸は転売が利くので、それも副産物に成るそうだ。
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クリンカは大きめの石炭の溶解して再結晶した灰。フライアッシュは粉塵のままの灰だそう。
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あと子供が好きそうな火力発電の趣味レーター。
タービンを1つ~3つ、個別に回したり3つ同時に回して発電した場合の電力発生のスピードの差を模擬実験出来る。
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そして通電する物としない物の実験装置。
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自分で電極を持って、実際にヤカンやなんかに触れて確認出来る。
こう言う実験は子供の興味を引くが我々オッサンも楽しい(笑)。
2017年09月27日の小生の来場時間は客が小生一人だったので実験しまくりの上、ゆっくり観覧出来て非常に良かったのだが・・・
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これだけの素晴らしい見学可能な火力発電所と展示館、来客が少ないのは文明向上には損失だと思う。
横浜市民のみならず、もっと多くの子供達や進路に迷っている高校生や大学生に社会科見学や理科の課外学習なんかに来て貰って、色々と高碕翁の偉大な理念や化学系の仕事でも人々の役に立てる事を理系文系問わず考える機会に成れば、何某(なにがし)か人生の選択の助けに成るんじゃなかろうかとも思った。

この施設の直ぐ近くには海づり公園も有ります、小さい子のいる御家庭のパパさんママさん、そして進路に迷う高校生や大学生、一度、ここに散歩に来て施設見学してみては如何(いかが)だろう?

ISOGOエネルギープラザ 営業時間:10:00~16:30 日曜日定休

昨晩、綺麗な夜景を求めていつもと違う磯子界隈を走っていたら綺麗な夜景を見つけたので写真載せるだけの中身の無い記事ですが・・・
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JR磯子駅から徒歩だと少し無理な距離、東京ガス前バス停。そこから見たJXTG根岸製油所プラントの夜景。
夜景探してドライブしてたのにデジカメ不携帯のアホの小生、スマホ撮影。因って画質悪し。
この夜景の綺麗な場所は、東日本大震災発生当時に東北の人々を凍死の危機から救ったJR貨物と日本エネオス根岸製油所(当時)の人達の勤務場所なんだな。つまり現代の無名の英雄達の働く場所。
コレは明治時代の伊藤博文公や、東日本大震災時の根岸で働く無名英雄達の行動を紹介した記事。
  ↓

新磯子周辺 東京ガス前バス停位置 久良岐のよし
位置的にはこんな感じ、地図中央が東京ガス前バス停。
横浜市民にも知っている人は少ないけれど、実は、この先には良い海釣り公園が有ったり、東京ガスのISOGOエネルギープラザってのが有って、日曜日以外に施設が開かれていて火力発電の仕組みやなんかの模型の常設展示が見学出来たり出来るので小学生か中学生位の子供のいる家のパパさんママさんが家族で来ると良い場所だったりする。
そちらは手元に写真が無いので改めて写真撮影に行こうと思う。
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しかし綺麗だ。
昭和後期生まれには伝わると思うけれど“魔晄炉”みたいじゃない(笑)?
では!又、次のブログ記事で!

昨年末、母が子宮癌に成り築地市場近くの癌専門の病院に入院した。
入院前、鎌倉時代~江戸時代に武家や庶民の女性達から“婦人病治癒”の名刹として有名だった浄妙寺の淡島大明神様に母の病気の手術成功と平癒を祈願し、御守りを購入して母に渡した。
浄妙寺は鎌倉市浄明寺地区の地名にも成っている室町時代以前の鎌倉における足利家の菩提寺だ。
母の手術も成功し、昨今は自由に歩き回り旅行する体力も回復したので、昨日、母の気分転換も兼ねて浄妙寺に御礼参りをして来た。
母は信心深い人間でも歴史に興味の有る人間でも無いが、珍しく1分間位手を合わせていただろうか?
小生は多くの神社仏閣をここ数年間、尊敬する織田信長公、徳川家康公、足利基氏公、宅間上杉重兼公、太田道灌公、吉良成高公、吉良頼康公、北条綱成公、間宮康俊公等の顕彰活動で御参りする機会が有ったので、浄妙寺の淡島大明神様の事もたまたま知っていたのだが…
信心と言うのは物事に対処する際、万全を尽くした最後の最後に不安感を抑えてくれたり理性を保ち出来るだけ安心して事に当たれる、そんな役割を果たしてくれる存在だと思う。
ザックリと簡単に言えば「心の持ち様の問題」と成る。
信じるも信じないも自由。
でも、「御参りして来たよ!」と母に伝え御守りを渡し、それを持っている事で少し母の気が紛れたのなら、それが正に御利益なのだと思う。
当事者が自暴自棄に成らない為の存在だね。
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御参りが済んだので、浄妙寺に在る喜泉庵と言う茶室で御抹茶と御干菓子を頂いて来た。
ここを最初に訪れたのは3年程前だろうか?
朝比奈~浄明寺地区は好きで良く散歩に来ていたのに、何故か浄妙寺には来ていなかった。
訪問したら直ぐに大好きに成り、季節の変わり目毎に訪問し、喜泉庵で抹茶を飲んでユックリして帰るのが習慣に成った。
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いつも美味しい御抹茶をありがとう御座います。
さて、もう直ぐ雛祭りと言う事も有り、茶室には雛人形も飾って有った。
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可愛らしい。
ウチは血の繋がっていない妹が増えるまで、仲の悪い(笑)男兄弟しかいなかたので立派な五月人形は有れど、この様な可愛らしい風習は無かった。
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小生達親子が訪問する直前まで、フランス人旅客の団体が滞在されていた。
最近は外国人観光客の来訪も増えたので、以前は置いていなかったテーブル席も設置される様に成った。
御参りし、一服しくつろぎ、次の目的地へ移動した。
同じ鎌倉市内の大船地区、神奈川県立フラワーセンター大船植物園だ。
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ここは幼稚園の頃に来たのが最初だ。
卒園の日、担任だった黒沢恵子先生が寿退社されるとの事で、父母会が送別会と卒園会を兼ねて我々園児を連れて皆、親子同伴、御弁当持参して来たのが最初だった。
小生は2歳からの記憶が有るので、幼稚園の頃の記憶は鮮明に覚えている。
子供の頃は有刺鉄線に雁字搦めに成って血塗れに成るような遊びをしたり、アホな事をして両手を骨折したり両親には大変心配をかけたクソガキだったと思う。
今回久々にここを訪問したのは、梅の名所の紹介記事を更新した際に、大船フラワーセンターが改装の為に今年の有るで一時休園して来年の夏まで見る事が出来なくなるのを知ったからだった。
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久々に来てみると可愛いけど良く知らんキャラクターがいた。
しずくちゃんって、何だコイツ?何のモチーフなんだ?
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神奈川にはもう、コイツ↑がいるから無駄にキャラ増やさなくて良いだろう(笑)。
さて、今回、大船フラワーセンターに来たのは一時閉園するからだが、無論、目的も有り…
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この地域に在った玉縄城の城名と地域名を関した早咲きの玉縄桜が今丁度、満開で見頃だから、それを見に来た訳だ。大船フラワーセンターには多くの玉縄桜と各種様々な梅の樹が植樹されており、咲く時期の重なる両者を一度に見る事が出来るのだ。
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この他にも、寒桜の「おかめ桜」が見頃を迎えていた。
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大船フラワーセンターについては、来年の夏にリニューアルオープンしたら改めて紹介記事を書こうと思う。
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他にも色んな植物が当然有る。
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しかし今の時期はやはり、梅と桜だろう。
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とにかく、色んな種類の梅が植樹されていて、品種名を見ながら写真を撮っているととても楽しい。
母も喜んでいた。
・・・個人的には次回は母ではなく、彼女か奥さんと次は来たいなと思う(笑)。まぁ、彼女か奥さんがいたら、彼女のお母さんも一緒に来て賑やかに過ごしても楽しそうだ。
デパートで御弁当勝って来て芝生の上にレジャーシート広げて、梅を見ながら御昼を過ごすのも良いかも知れない。
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次、この子達を見に来れるのは2年後か…少し寂しいな。
小生は変な感性が有るのか、植物を擬人化して見てしまう癖が有り、梅は女の子に見えるんだな。
梅以外に色々と見所は有るのだが…
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改装前、玉縄桜と梅を除いた一番の押しはやはり温室だろうか?
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円形に配置された建物の中に色んな熱帯植物が展示されている。
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まぁ、色が鮮やかで綺麗な花も毒々しい花も有って見ていて飽きない。
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何で学生の頃は再訪しなかったんだろうかと思う。
こう言う場所にデートに来ていれば、彼女とゆっくりと時間を過ごせて良いと思うのは自分が年を経たから湧く感覚なのだろうか?それとも、当時の自分が只単に無文化だったんだろうか?
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何にも知らない花でも品種名を見ながら歩いて回ると発見が有る様でとても楽しい。
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メダカ?も沢山泳いでいた。
この子達も改装後もちゃんと大切にして貰えるんだろうか?
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残りの開園期間も約1ヵ月位なんだろうか?
素晴らしい場所なので、多くの人に来てもらいたいなぁ~。
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ケバブ屋さんとか鎌倉ローストビーフ丼の店とか、大阪のイカ焼きの屋台も有るので親子連れなら子供も喜ぶだろう。
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昔、最初に来た時はパンジーが大量に咲いていた記憶が有るが、今は余り多くは無い。
その代わり、蓮の花が多く成っている。
今回、出口付近には盆栽コーナーが有った。
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どれも綺麗だった。
ここを後にして、地元に戻る途中で丸亀製麺で昼食をとった。
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チェーン店だけど好きな店。
昼食を終えて、帰宅。母は友人の家に出掛け自分は昼寝、夕方4時に起きてからジムに行って汗を流し、風呂に入ってサッパリしたら、今度はその足で戦国武将間宮家と“ゆず”のお膝元の磯子区に移動して、岡村梅林の夜間ライトアップを見学した。
ジムのスコアが1ヵ月で14ポイントも上昇したのでとても気分よく観梅出来た。
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うん!今年も綺麗だ!
地元の自治体連合の皆さん、今年も良い企画をありがとうございます!
お陰様で鎌倉時代の武士や戦国時代の北条家と間宮家が神奈川に残した梅林文化を堪能できました!
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甘酒も御馳走様でした(笑)。
小生がこの記事を書いている今日、26日は模擬店出店して昼間の観梅会ですね!頑張って下さい!
さて、一頻(しき)り見学した後、“ゆず”も小中学生時代に遊んだであろう岡村公園のグラウンドを通って駐車場に移動・・・
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・・・車に乗り込むと、今度は北上し港北区の大倉山を目指した。
大倉山梅林も観梅の名所として観梅会の日には大変に賑わいを見せる。
しかし今回の小生の目的は観梅会では無く、大倉山梅林の梅で造った梅酒だ。
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それを販売しているのが、上の写真のセブンイレブン横浜大倉山店。
ここで“梅の薫”と言う名の梅酒を買って帰宅、普段一滴も酒を飲まない小生も、これだけは、ここ数年間春の楽しみに成っている。
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梅の香りが普通の市販の梅酒よりも濃厚だけど飲み易く、酒嫌いの小生も、とても美味しく感じる。
因(ちな)みに小生は普通の渡来系と縄文系の混血日本人よりも縄文系の遺伝子が濃いのでアルコールは強い。ただ、酒を飲んで美味しいと感じない上に、酒に使う時間と金が無駄に感じるだけ。
でも、これは買う価値が有ると思っている。
他にも小田原市曽我梅林の梅で造った「曽我梅林の梅酒」や、横須賀の田浦梅林の梅で造った「梅リキュール」等が平安時代末期以来の武士由来の梅林文化の有る神奈川県の特産梅酒だ。
美味しいので、是非、皆さんにも試して頂きたい。

沢山梅を見て、母の手術成功の御礼参りも出来て、運動もして、美味しい甘酒と梅酒も飲んで、とても充実した休日の1日を過ごせた。
これも浄妙寺の檀家さん、大船フラワーセンターの職員の皆さん、岡村町と岡村天満宮の関係者の皆さん、大倉山の商店街の皆さんの御蔭です。
ありがとう。

では、昨日の休日雑記はここまで。
又、次の休日雑記は台湾から友人が来る来月中旬以降に成るでしょうか?
それまで、毎週1件、訪問済みの城址や神社仏閣の解説記事を書き足して行こうと思います。






本日2017年02月26日午前10時から、“ゆず”の地元、旧岡村天満宮境内地岡村公園の岡村梅林で観梅会が開催されます!
模擬店も出店するので、恋人同士や御子様連れの若夫婦の皆さん、写真撮影の好きな皆さん、是非、足を運んでみては如何でしょうか?
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写真は2015年撮影の物ですが、2017年現在の開花状況は5分咲き~8分咲き、十分見頃に成っています。
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あと1週間もすると満開に成り更に綺麗な梅林の様子も見られるので、岡村梅林に足を運んだ事の無い近隣の磯子区・中区・南区・港南区・金沢区の人々はこれを機に是非訪れて見てください!
屋台も有り御子さんも喜ばれるかと思います!
では、ついでに昨晩開かれた夜観梅会の様子も掲載します。
余計な解説は不要だと思うので、写真を沢山載せたいと思います。
その夜観梅の写真の後に、周辺の史跡や見所の解説もしたいとおもいます。
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さて、では周辺の見所を紹介します。
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近くには岡村天満宮と言う、源頼朝公の最初の暗殺を未遂に食い止めた名将の平子有長公が京都の北野天満宮から御分霊を頂いて造営した由緒正しい天神様も鎮座しています。
※岡村天満宮の歴史に興味の有る人は以前書いた記事を下のリンクをクリックして御覧下さい!


そして境内は“ゆず”の聖地らしいモニュメントも有ったりします。
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昔、伊勢佐木町の松坂屋に在った“ゆず”の路上ライブの様子を再現したレリーフです。
松坂屋の解体時に現在の岡村天満宮境内に移設保護されました。
流石、ゆずの地元ですね!
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岡村天満宮と岡村梅林から徒歩直ぐの場所には、“ゆずファン”が愛用する“岡中ジャージ”を購入できるオリオンスポーツや、歌に出てくるモンマルトルと言うケーキ屋さんも在ったりします。
更に歴史好きに御勧めの場所は、徒歩圏内に下の写真の龍珠院と言う御寺が在るのですが…
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ここはJR大船駅の近くに在った玉縄城で上杉謙信の攻撃を撃破した名将の北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺で、御朱印も頂く事が出来ます。
この御寺は金沢区の伝心寺と言う、玉縄北条家所縁の御寺の末寺として開かれたのですが、何故、ここにそんな名将が関与したかと言うと、直ぐ近くに蒔田御所と呼ばれた蒔田城が在り、そこの城主が戦国時代に一時期、鎌倉公方(かまくらくぼう)の代理を務めた吉良成高(きらしげたか)公や吉良頼康公の居城として機能していたからでした。
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蒔田城址の断崖絶壁は現代人でも攻略するのは難しい要害性の高い地形です。
そして、蒔田城址の大手口には勝國寺と言う御寺が在ります。
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ここは吉良家の戦国時代の菩提寺で、今も吉良政忠公以下成高公、頼康公等の菩提が弔われる御廟所が存在します。
この歴史に興味が有る人は、昔書いた以下の記事を御覧下さい。

鎌倉公方代を訪問する際に、宿舎が必要に成るので岡村梅林の近くに龍珠院が開かれたと推測出来る訳です。
戦国時代の武将は自分の土地に御寺を開いて、宿舎替わりに使う事が良く有ったんです。
その代わりに、和尚様達の生活の面倒を見たり御堂を建てたりして支援した訳ですね。
宗教的に和尚様達を尊敬している事に加えて現実的な用途も寺院には有ったんです。
この蒔田城址や勝国寺と、岡村梅林の中間位には三殿台遺跡が在ります。
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ここは縄文~弥生時代の遺跡で、当時の様子が再現された住居跡や出土品の常設展示が有ります。
興味の有る人は、これも昔書いた記事が有るので、以下のリンクをクリックして見て下さい!

さて!
今日はお出掛け日和です!
記事は岡村梅林鑑賞会当日のUPで申し訳無いのですが、梅もこれからまだまだ2週間は見頃です!
是非!岡村梅林に足を運んで、ついでに“ゆず”の聖地巡りや歴史散歩をしてみては如何でしょうか?

では!又、次のブログ記事で!



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