久應山 攝取院 寶秀寺(日本武尊の滞在した六角橋地名由来の聖地)
塩舐め地蔵(神大寺廃寺参道址) 

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  御祭神・御本尊等:阿弥陀如来・大伴久應供(黒主)養墳墓・塩嘗地蔵尊
  御利益:料理上達・立身出世・交通安全(陸・海)
  関係者:
  開基:大伴久應(黒主)
     日本武尊
  中興:秀蓮社清譽達道上人
  旧郡名:橘樹郡
  所在地:神奈川区神大寺地区の耕地近く六角橋
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
六角橋地名由来に成った聖地が後に寺院化した場所。ここに居館を構えていた大伴久應(走水神社社伝では大伴黒主)が日本武尊を自邸に招き歓待したとされる。その際に日本武尊が使用した箸が六角形で以後、宝とされ伝わっていたので六角橋の地名由来と成ったとする説がある。日本武尊の伯母の倭姫が日本武尊に与力として協力させた大伴部氏の拠点の一つだったと推測出来て、大伴部、大伴と呼ばれた氏族は神話でも日本武尊に叔母で元伊勢神宮(丹波国)の斎王だった倭姫から与力として大伴軍団と草薙の劔を貸与されている記載が有り走水神社と宝秀寺の神話とも整合している。
史実から推測すると当時の六角橋付近は湾が入り込み軍港だったのだろう。
宝秀寺の入口には大伴久應の供養碑と土饅頭(小型円墳)が有るが後世の供養塔替わりの物だろう。
宝秀寺の近くに塩嘗地蔵があり実はこの塩舐め地蔵前の住宅街の小道が古代の街道であり神大寺と言う大寺院の参道址だった。神大寺は寺名からするに前身寺院が神道的な聖地だった事が推測され、微高地に存在するのでこちらは元々は日本武尊か大伴久應を祀った神宮寺だったろう事が推測出来る。
戦国時代には塩嘗地蔵~寶秀寺~六角橋中学校の丘は神大寺跡と呼ばれ太田道灌公が小机城攻略の際に通った事から道灌森とも呼ばれている。
塩嘗地蔵は昔から疱瘡(ほうそう)=皮膚病治癒の御利益が有るとされ大切にされて来たが、疱瘡治癒の御利益が有る神様は五十猛や素戔嗚尊を御祭神とする場合が多く宝秀寺と関係が深い日本武尊は走水で海上交通の神である須賀神社を信奉して素戔嗚尊を祀っていた。
実は古代の神奈川区域は“店屋(てんや)”と呼ばれ橘樹郡衙(ぐんが=郡の政庁)と久良岐郡衙を繋ぐ中継拠点だったと推定されている。新編武蔵風土記稿にも江戸時代に現在の神奈川区三枚町(旧:三枚橋村)に天屋(てんや)=店屋の地名が残っており古代の駅伝制の名残と紹介されている。実際、橘樹郡衙だった橘樹神社~久良岐郡衙跡と推測されている横浜市南区の弘明寺の中間地点に当たるのが六角橋を中心とした地域で、六角橋商店街は旧綱島街道に当たり、その先には古代から聖地だった師岡熊野神社が存在する。
何にせよ神話に残る人物が直接関わり、大将軍を神格化した様な日本武尊に料理を提供して接待した接待奉行で料理奉行で水軍の武将の大伴久應が神格化された聖地の歴史を祀る寺院なので料理上達や立身出世の強い御利益が期待できる上に、海上交通交通安全の御利益も期待出来る。皮肉な話だが、近くには免停食らった人間を改心させる為に集める神奈川県警の交通安全センターが在ったりする。