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タグ:神奈川の名木100選

大庭神社旧蹟=元宮熊野社(延喜式内社・古代遺跡に囲まれた丘)
&臺谷戸稲荷(古代遺跡の台地に納得する水源と豊穣の神様の稲荷様)
&臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の木(神奈川の名木100選)
舟地蔵(大庭城落城の原因の老婆の伝承の石仏様)
大庭城(扇谷上杉家初期の居城、有数の大城郭も今は半分に・・・)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公
 ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の歴史偉人の御祭神と神皇産靈神
 ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦火で仔細不明  
御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
関係者:
開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
         大庭 景親 公?
   左京大夫  山名 時氏 公(足利尊氏公の母の従兄弟)
   関東管領家 上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
   神祇伯   白川 資顕 王
   郷士    諏訪部定太郎公
   郷士    山崎 包高 公
旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
所在地:大庭神社旧蹟(熊野社)・・・藤沢市大庭1846の微高地
所在地:臺谷戸稲荷と椨の木・・・藤沢市大庭神社旧蹟徒歩1分南側
所在地:舟地蔵・・・大庭城南端直下の外堀、小糸川と引地川の合流地点
所在地:大庭城址・・・藤沢市大庭城址公園
※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
延喜式神名帳に記載が有るものの、大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が祀り始めと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
今宮である現在の大庭神社は引地川の対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。
その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
この扇谷上杉氏定公の家宰の太田家の太田道真公と太田道灌公親子が深く関与したと推測される宗賢院が近在し、この宗賢院も戦国時代以前の伝承は伝わらないが寺宝に大庭景親公の陣釜が有り、更には太田家の太田桔梗紋を寺紋としている上に同じく扇谷上杉家の後の居城だった伊勢原市の大城郭上杉糟屋館城下の政務所を兼ねた太田道灌公の詰所が❝蟠龍山❞洞昌院公所寺であり宗賢院も山号が❝蟠龍山❞である事から、宗賢院は前身寺院が大庭神社舊跡(元宮)に関与し大庭城主大庭家とも関係が有り室町時代には扇谷上杉家の政務所を兼ね、舟地蔵の地名が起こる以前は伊勢原の❝蟠龍山❞と同じく❝公所(ぐそ)❞が地名だった可能性が有る。
これらの事から宗賢院は太田家の支援を受け、大庭神社も大庭家、山名家、扇谷上杉家、太田家の関与が有った事が推測出来る。
そして大庭神社が鎮護した大庭庄で乱暴を働いた人物は悉く直後に滅亡している事から、その神威が強い事も歴史的に立証されている。
余談だが大庭城を攻めた北条家は繁栄したが、北条軍は大庭城を落城させた際は御丁寧に舟地蔵地区の堤を切り沼堀を水抜して防御を無力化した上で落城させ、更に周辺の神社仏閣を保護した事が宗賢院の曹洞宗寺院としての中興開基時期から判る。この沼掘りの弱点を漏洩してしまったのが扇谷上杉家の殿様を慕う地元の老婆で、北条家のスパイにそれとは知らずに大庭城の頑強さを自慢する内に堤防を切ってしまえば水が抜ける事を話してしまい結果的に殺害された供養の石仏が舟地蔵と伝わる。
この大庭城のエピソードや山城の大庭城山上に井戸がある事からも神話時代での創世記に相当する縄文時代の人の集落は台地上に必ず在るが、台地上で水が確保出来る泉が在った高いので可能性が熊野信仰にも結び付き、相模国造の穂積氏が弥生時代~古墳時代に周辺を開拓した事も推測出来る。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

大庭神社(延喜式内社・大庭神社の今宮)
稲荷山 成就院(足利家親族の山名時氏公が開いた大庭神社別当寺) 
日枝社(戦時中の軍飛行場建設で遷宮された神社)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公・山王権現・愛染明王
  ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の御祭神と神皇産靈神
  ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦乱で仔細不明  
  御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
  関係者:
  開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
  中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
           大庭 景親 公?
     左京大夫  山名 時氏 公
     (足利尊氏公の母の従兄弟)
    関東管領家  上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
    神祇伯    白川 資顕 王
    郷士     諏訪部定太郎公
    郷士     山崎 包高 公
  旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
【歴史概要】
大庭神社については延喜式神名帳に記載が有るものの、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
旧蹟側の熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が土地開拓し祀り始めたと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
現在の藤沢市善行側の大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、今宮である現在の大庭神社は旧蹟側と引地川を挟んで対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。その時に旧蹟の場所から現在地に社殿を移転したのだろう事も推測出来る。その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
善行側、現在の稲荷山成就院の丘上に現在は荏原冷却システム株式会社の広大な削平地が広がっているが、実はここ第二次世界大戦中の海軍飛行場だった。この飛行場の建設で当地に在った日枝神社も現在地に遷宮された。第二次世界大戦に日本が敗戦すると神社は国からの支援が無くなり何処も大規模な境内地を接収されてしまい氏子の寄付金に因る収入源だけが頼りに成るが、戦時中の空港建設で集落が移転してしまい過疎化した事で由緒ある延喜式内社の大庭神社は神主不在の惨状と成り、近年、神楽殿も解体され境内の石鳥居も崩壊したままに成っている。しかしながら、この神社の御利益は歴史が証明している。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

深見神社(延喜式内社、名将達が崇敬した神社)
深見神社の春楡(神奈川の名木100選)
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  御祭神・御本尊等:
  闇神(くらおかみ)・武御雷神・建御名方神・宇迦之御魂神
  御利益:立身出世・雨乞い・農業豊作・治水・戦勝祈願
  関係者:
  開基:闇神(くらおかみ)
  中興:雄略天皇
     征夷大将軍    源 頼朝 公
     渋谷庄領主    渋谷重国 公
     相模守護代    太田道灌 公
     相模守      北条氏康 公・・・以下歴代北条家当主
     大膳太夫     武田信玄
     徳川幕府寺社奉行 坂本重安 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:大和市深見の境川沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
源頼朝公を始め、明治時代の帝国海軍東郷平八郎元帥の御先祖様で鎌倉武士の渋谷重国公、戦国時代の関東最強の無敗の軍師で名築城家の太田道灌公、日本三大夜襲の一つ河越合戦で手勢1万1千を率いて敵の大軍上杉勢8万5千を撃破した軍略と戦国最高の内政力を誇った北条氏康公、戦と治水で古今稀な事績を残した名将武田信玄等、戦と内政の天才達から崇拝され戦勝祈願と内政で高い御利益を歴史的に証明している延喜式内社。
境内には神奈川の名木100選の一つ‟深見神社の春楡(はるにれ)”が御神木として存在する。
神(くらおかみ)と言う在地の神様がこの地を治めたのが聖地としての始まりと神社の縁起に伝わる。その後雄略天皇が社殿を造営して神社と成った。古くから存在して神社で闇神は雨乞いの神とされ、また境内社に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)も祀る事から古代からの農地開発と農業の豊穣に深い関わりが有って庶民~時代時代の権力者から崇敬を集めた。
神の龗は龍神を指し転じて水神の意味で有り、龍神は古来、雨乞いの神であり農業の神様でもある。
深見神社の縁起に記された社名由来の説明では古代、この地域に海の湾部が近在し❝深い海❞→❝ふかいうみ❞→❝ふかみ❞→深見と転化したのだろうと推測されているが、残念ながら深見神社周辺が海だった事実は無い。
深見神社の社名の由来のヒントに成る場所は玉川上水の取水堤の在る東京都羽村市に存在し、同市の田ノ上地区には古くから淵(ふち=川の深い場所=深水(ふかみ))に木製の龍を沈める雨乞い神事が行われていた事実が有る。もう一つのヒントは大山阿夫利神社の御祭神の一柱である高龗神(たかおかみ)が水神であり龗の字が龍神を指す事、この2つの事例を踏まえると深見神社の御祭神が闇(くら)い龍神である事、神社の社名が深見=ふかみ=深水に通じる事からも淵(ふち=底の見えない深水)にまつわる信仰と関係が有る事が解る。そして神社の背後には境川が存在する事からも社名の由来は龍神が住んだであろう境川の深水=深見と成るだろう。

五社神社(式外社・浩宮殿下も御参詣された日本武尊の聖地)
日本武尊の腰掛石(日本武尊東征のおり腰掛休息した聖跡)
尾の池(古代~近世迄雨乞い神事等が行われた湧水の聖池)
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  御祭神・御本尊等:日本武尊・天照皇大神・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・天津比古比瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほおでみのみこと)・鵜草茸不合尊(うがやふきあえずのみこと)・倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・須佐之男命(すさのおのみこと)          
  御利益:交通安全(陸・海)・農業豊穣・子宝・子孫繁栄
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:渋谷荘領主 渋谷 重国 公 以下渋谷一族
     西大寺長老 浄覚 大徳宣瑜和尚
     (天台密教や真言律宗を学んだ高僧)
     征夷大将軍 徳川 家光 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:綾瀬市早川、古代の矢倉沢往還~中原街道~古東海道のバイパス沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
平成30年時点の皇太子浩宮殿下も歴史が御好きで神奈川県の岡崎城址や玉縄城址を調査されにいらしてらっしゃるが、この五社神社にも歴史調査の一環として来訪された程に神話伝承と歴史に整合性が有る由緒正しい神社。神社の前身の聖地としての始まりは景行天皇の皇子、日本武尊が東征の際に榊(さかき)を植樹し地神五代を祀り五頭宮(ごずのみや=牛頭の宮)として信仰の場を開いたのが始まりと伝わる。後に浄覚大徳 宣瑜和尚が社殿を再建し、地元民から五社宮(ごしゃのみや)との呼称で崇敬される様に成った。明治の軍人、東郷平八郎元帥の御先祖で御当地の渋谷荘領主だった早川城主渋谷重国公に代表される鎌倉時代の渋谷一族から崇敬され五社神社宛ての文書も現存する。近隣に日本武尊東征の兵站陣城址と思しき国指定史跡の神崎遺跡が有り、出土物は神話と整合するように弥生時代の東海地方の影響を受けた土器ばかり出土している。日本武尊は伯母で伊勢神宮の恐らく斎王だった倭姫から兵や草薙剣を貸与されているので東海地方の文化を持ち込める軍団を率いれる人物は神格化された日本武尊を置いて他にいないと考えられ納得が行く。
神崎遺跡が兵站と考えられるのは人が定住した痕跡が無く住人埋葬の痕跡が無い事から、あくまで❝城砦❞であり❝輸送基地❞としての機能しか考えられないからだ。或いは日本武尊が屯田兵を率いていたとすると日本武尊と同時代に世界初の屯田兵制度を発明した三国志の後漢丞相で魏公の曹操の技術が日本で直ちに導入されていた事が解かり、卑弥呼と魏の繋がりが垣間見える。となると日本武尊の伯母に当たる倭姫の正体が卑弥呼で有る事も見えて来る。又、この付近は古代の東海道である矢倉沢往還から鎌倉郡に抜ける古代街道だったと思われる県道406号線沿いに神崎遺跡や五社神社が存在し、日本武尊が開いた兵站基地が神崎遺跡だとするとそこから古墳時代~奈良時代の店屋(てんや=中継基地)に発展して行った可能性も有る。神崎遺跡は地形的にも舌状丘陵の先端に位置し、周辺は湿地帯だったので軍事的に❝城❞を築城する立地として神崎遺跡は最適であり、その城が守る街道が五社神社の前を通る県道406号線なのが解る。この406号線の先の秋葉台で分岐し旧高座郡大庭御厨(おおばのみくりや)に発展した大庭神社から海沿い甘縄神社側から葛原岡に抜ける道と、飯田牧場や小栗判官と照手姫伝説の花應院前の間道を通過し遊行寺直下に至り旧鎌倉郡村岡城址方面へ抜け鎌倉玉縄城址を通過し鎌倉市山崎へ抜けるのが2本の鎌倉郡衙へ通じるバイパスだったのだろう。鎌倉郡衙の先で逗子住吉城址の切通しを通過し三浦半島走水神社の前から船で海路房総半島へ通じるのが古代東海道だった。
古代の東海道は今の東名高速に近い御殿場市側を通る矢倉沢往還側から鎌倉辺りで海側に出るルートだったが、平安時代に御殿場市側の古代東海道が富士山の噴火による火山灰堆積や土石流で長い間廃道に成り、今の東海道の箱根越え~横浜市の旧鎌倉郡~旧久良岐郡を通過する道の原形が開拓された。
この箱根峠越えルートを開拓したのがどうやら状況的に“金太郎”や“坂田金時”のモデルの古代豪族である下毛野氏で一族に下毛野公時(しもつけのきんとき)がおり、金太郎伝説の箱根金時山の麓に公時神社も有る。下毛野朝臣は京で宮仕えした武将もいるが本来は栃木の古代豪族なので一族は山岳道の開拓に適しており下毛野公時公の近親者が箱根峠越えルートを開削し源頼光(みなもとのよりみつ)公の箱根峠越えの道先案内を勤め下毛野公時公が源頼光公に仕える御縁が出来たとするば伝承地理歴史の全てに整合性が高い。坂田の苗字に成るのは大江山の鬼(渡来系民族の反乱)を鎮圧した功績で近江国坂田郡を与えられたのだろう。
何にしても日本武尊の時代の東海道は今の国道1号線とは大幅に違うルートで、矢倉沢往還~寒田神社付近~八菅山七所権現付近~有鹿神社本宮付近~五社神社~県道406号~神崎遺跡を経由するルートが国土交通省関東地方整備局の古東海道推定部分とも限り無く重なり合うのが事実だったりする。
近郷の早川城址公園は平安時代末期に渋谷家の居城が築かれた場所だが縄文時代からの遺跡でもあり、五社神社の周辺が古代から人の定着した重要な地域だった事が解かる。
境内の裏手には明治の宗教改革が行われる以前、古代から近世まで湧水地を聖地化した雨乞い等の神事が行われた❝尾の池❞も現存している。
境内には❝日本武尊の腰掛石❞が在るが、日本武尊が滞在した聖跡が神社化した場所には他にも腰掛石が有るので弥生時代~古墳時代への転換期に当たる頃は、鎌倉時代~戦国時代の武将の様な床机(しょうぎ=折りたたみ椅子)の様な便利な物はまだ開発されていなかった当時の文明も判る。金属で釘やビスの様な物を作り出す技術がまだまだ普及して無かった時代なので当然ながらヒンジなんぞ作れれず折りたたみ椅子なんてのは当時の皇族将軍である日本武尊も目にした事も無かっただろう。この日本武尊の時代の神格化された豪族武将達が手にしていたのは中国から輸入した鉄剣やそれを元に青銅で鋳造した物が将軍級の物部(もののふ=武士)の武具で、甲冑も皮鎧、楯も木製革張りの物だっただろう。金属製の甲冑や刀剣の製造が本格化するのは古墳時代に入って以後の事、なので大将軍たる日本武尊も金属で釘やヒンジを作る技術が無かった時代にはパイプ椅子に座る事も出来なかったので手頃な岩に腰をかけ、配下の大伴家や吉備家の豪族武将達と軍議をしたのだろう。
そう考えれば古来の神社建築が釘を用いないのはそもそも釘が無かった時代の神話の縄文~弥生の米蔵=高床式倉庫=高倉=高座の建築様式が有力者の宮殿化した頃の文化を継承した証拠だとも言えなくもない。伊勢原市に存在する延喜式内社の高部屋神社の2016年に国指定文化財に成った社殿を見学させて頂くと、内側から見た屋根の構造などは本当に古代の竪穴式住居を彷彿とさせる。
この五社神社と周辺遺跡と古代街道と歴史背景は斯くの如く整合性が高い。
江戸時代には徳川家光公から13石の社領を保護する朱印を賜わっている。
近くに渋谷家の早川城址城山公園、高座豚手作りハム綾瀬本店、牧場が直営するソフトクリーム販売所のカナサシファーム、神崎遺跡等が有り、ちょっとした散策ルートにも適している。

神奈川県と言うと県外からの移住者や旅客は❝武士文化の根拠地❞と言う文化的なイメージや勇壮な鎌倉武士団や戦国時代関東最強だった北条武士団のイメージを持って下さる人は少なくて、横浜の港のほんの一部分の都会的なチャラついたイメージしか浮かばない人の方が多いんですが・・・
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実際はこんな写真みたいに長閑(のどか)でゆったりとした時間の流れる田舎も沢山のこっていまして、不自然に狭い横浜市に人口が密集する開発をする必要が無く、もっと郊外の周辺都市を開発した方が良いんじゃね?
・・・と言うのが神奈川県民として思う所だったりする訳です。
鎌倉時代は当然ながら神奈川県鎌倉市が日本の武家文化と国土防衛の中心地だっただけでなく、戦国時代の北条家も日本の大名の中で抜きんでた善政と統治を行い、防衛戦と攻城戦を得意とした戦国時代の先駆けとなる集団戦術や鉄砲を早くから導入した軍団として歴史好きには知られていたりします。
そんな小田原北条家は初期には❝五色備え❞と言われた仏教五色に準(なぞら)え軍旗が色分けされた主力軍団が5軍団在り、どうも1560年頃には五色備えの軍団編成は解除されていた様で各方面軍として再編成されていたらしい事が❝北条所領役帳❞と言う資料を見ると各家臣一族がバラバラに配置されている事からも推測出来たりします。
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相模原市津久井は、そんな北条家後期の安土桃山時代には成立していた❝津久井衆❞と呼ばれる軍団の根拠地である津久井城が存在し、現在は神奈川県立津久井湖城山公園として緑地保存されています。
津久井城については改めて内藤家の事と一緒に紹介したいと思います。
まぁ、余談ですが武田信玄の家臣団には北条家臣津久井城主❝内藤❞家と同姓を自称する偽❝内藤❞とか、美濃国源氏の分家❝山縣(やまがた)❞姓を自称する❝飯富(おぶ)❞とかニセモノが多くいるんですが、戦国時代当時は領土支配は侵略戦争を起こすには大義名分が必要でして、例えば北条家なら現在の神奈川県の旧武蔵国域沿岸部の支配の大義名分には鎌倉時代に源頼朝公の命によりその辺りを領土に持っていた渋谷氏や佐々木氏の血を引く佐々木氏支族間宮家を領主に置く事で北条家による支配の大義名分としたり、武蔵国西部北部への支配の大義名分として小机城代に神話の時代の武蔵国国造の族姓、笠原氏を配置する事で大義名分と出来た訳です。
ところが武田家臣団はカッペ集団で、ほとんどが茨城県と千葉県にしか血縁地縁がない家臣団しかいなくて教養も低く血統的な貴種もいなかった為、他地域への侵攻の大義名分を得るには例えば信濃に侵攻したいなら信濃守(しなののかみ)の官職を得るか幕府の信濃守護の役職を得る事でしか支配の大義名分を維持できず中央の政局次第では永続的な大義名分に成らないので無理矢理❝食品偽造❞❝ブランド偽造❞みたいな家臣の苗字偽造(笑)をして支配の大義名分にした訳ですね。
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まぁ、北条家臣内藤家は北条家臣化する以前の中世から小大名として津久井城主として居城し愛甲郡北部一帯を支配ていました。武田の偽内藤(笑)とは血筋が全く異なり由緒正しく、鎮守府将軍藤原秀郷公の御子孫に当たる家系な訳です。
元々小大名だったので当然、北条家の従属勢力化しても独自の家臣団を編成しており、その軍団が津久井衆と呼ばれた訳です。
津久井城に関しては今回の記事の2016年に根小屋諏訪神社参詣した際に城址も散策し写真を撮影して有りますので改めて記事に書きたいと思います。今回は根小屋諏訪神社だけですね。
その津久井衆の武士達が駐在する武家屋敷が立ち並んでいた名残の地名でもある根小屋(ねこや)と呼ばれる地域が周辺に有り、そこには根小屋諏訪神社と言う軍神建御名方神を祀る武家文化に相応しい神社が今も存在しています。
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根小屋諏訪神社
&神奈川の名木100選“根小屋諏訪神社のスギ”

根小屋や根古屋と言う地名は全国に在りますが、それは❝城山の根❞=裾野の部分に構えられた家臣団の家屋が構えられたので根小屋と成った事に由来する地名です。
実は津久井城、鎌倉時代には既に城の原型が存在していたと言われています。
そもそも津久井の地名が三浦半島の横須賀市津久井に由来しており、平安時代末期まで相模国三浦郡を本拠地にした坂東平氏の名家、三浦氏頭領三浦義澄公の子の1人、三浦義胤公が横須賀市津久井浜辺りを領地としていたので筑井義胤と名乗った事に由来し、その後現在の相模原市緑区辺りを領地にした事で津久井の地名と成ったと考えられます。
因(ちな)みに三浦の津久井浜今ではイチゴ狩り農園で有名な場所です。
まぁ、津久井の郷土史では筑井義胤と書かれ、三浦家の系譜では三浦胤義と書かれている物も有る様(よう)で正直な所、津久井の地名についても三浦が先か相模原が先かは卵が先か鶏が先かみたいな感じで小生は詳しくは調べておらず判別尽きません。ですが三浦家の通名として義の字は普通、三浦義明、岡崎義實、真田義忠、三浦義澄、和田義盛、佐原義連、朝比奈義秀みたいに義の字が名の頭文字に成るので津久井領主の名に関しては相模原市の郷土史に書かれる筑井義胤の方が正しそうです。
そして佐原家が所領とした千葉県の佐原市も先に存在した三浦の佐原城が有る事や、鎌倉市の朝比奈と関係する朝比奈義秀公の所領が千葉に有る事から、神奈川県の武士団の出身地である三浦郡や鎌倉郡由来の地名がその後の各武士の入植地に地名として移植されたと考えた方が自然でしょう。
つまり相模原市の津久井は三浦半島の津久井由来と考えられる訳です。
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根小屋諏訪神社の伝承では、その筑井義胤公が建久三年(1192年)に津久井城築城の際に鎮護の神様として諏訪大社から建御名方神の御分霊を勧請されたと伝承します。
恐らく本当でしょう、源頼朝公が日本国総追捕使、征夷大将軍に任命されて幕府を開き領地を自由に与えられる守護の設置が可能に成った頃の話しなので三浦半島の津久井浜から筑井義胤公が領地として預かり移住し、鎌倉時代当時に武神として崇敬されていた長野県の諏訪大社から建御名方神を勧請し霊的な領地の守りとして背後の険阻な山に津久井城を築城したと言うのは合点が行く訳です。
明治時代以前の別当寺は井木山壽性院と言う真言宗の御寺だったので、神道と修験道や真言宗や法華経の信者だった源頼朝公御存命の時代の宗教的な歴史背景とも整合性が有りますね。
残念ながら壽性院はダム湖の造成で大井村もろとも湖底に沈み、その檀家サンの菩提は津久井城近くの大蔵寺に合祀されました。
まぁ、正直現代では相模原市緑区一帯は人口減少が進み過疎化も酷いのですが、明治時代以前は甲斐国への街道も付近を通り徒歩の移動がメインだった時代には重要な拠点だった訳です。
ですから苗字詐欺師の武田信玄も津久井城を度々攻めていますし※失敗しまくりだけど(笑)、豊臣秀吉の北条征伐戦では籠城兵僅(わず)かの津久井城に対して徳川家臣随一の合戦上手として知られる本多忠勝公率いる20000超の大軍によって攻城が行われ、武田信玄も落とせなかった名城津久井城は小田原北条家本隊による援軍も無く陥落しました。
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そんな津久井城の歴史を三浦家支配の時代より見守って来たのが、この根小屋諏訪神社な訳です。
明治以前の源頼朝公の時代~鎌倉幕府北条家の時代~室町幕府鎌倉公方足利家の時代~北条家臣内藤家の時代~徳川幕府の時代には神仏混交だったので神社には神様と仏様が仲良く一緒に祀られていらっしゃったので、今では過疎の根小屋地区にヒッソリ佇(たたず)むこの神社にも神様と仏様が仲良く並んでいる姿を見る事が出来ます。
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本当に隣同士仲良し・・・明治維新以前の古き良き日本人の感性を垣間見えてホッコリする。
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御地蔵様もいらっしゃいます。
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街道を守って来た馬頭観音様も。
もしかしたらこれらの石仏群は津久井湖造成で水没した、かつての津久井城下の村落から諏訪神社境内に移されて来たのかも知れませんね~
社殿は参拝客も少なくなっても氏子さん達によって立派に守られてらっしゃいます。
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社殿の覆殿の中に小さな朱漆の本殿が見えます。
戦国時代の北条家も武神として諏訪神社を崇拝していたので、やはり三崎城址や山中城址等の重要な場所には必ず諏訪神社が在りました。
根小屋諏訪神社では御神輿も拝む事が出来ました。
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煌びやかで色の剥落も無く、現代でも集落の氏子さん達によってちゃんとメンテナンスされているのが判りますね~。こうやって氏子サン達の経済力と言う名の努力によって鎌倉時代の神社造営以来、長野県の諏訪湖の畔の諏訪大社からいらっしゃった神様の御分霊は守られて来たんですね~。
さて、今は目立たなくても昔は多くの鎌倉武士達や江戸時代に帰農し農家と成った旧北条家臣団の御子孫によって守られて来た神社だけあり、境内には立派な御神木も存在します。
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神奈川県の名木100選の一つ、❝根小屋神社のスギ❞です。
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推定樹齢500年・・・
つまり北条家臣団として活躍し、武田信玄を幾度も苦戦させた名将の津久井城主内藤綱秀公も幼少期に諏訪神社を参拝して、この杉が普通の背丈だった頃に木陰で御女中達と散歩して遊んでらっしゃったかも知れませんね~。
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本当に立派な大樹です。
今はひっそりした神社でも、源頼朝公御家人で三浦氏の筑井義胤公や、戦国時代の名将の内藤綱秀公と一緒に歴史を歩んで来た事を証明してくれる御神木。
神奈川県内にはまだまだ、こういった何気ない神社でも凄い歴史偉人と関係の有った場所が沢山有ります。
ですから皆さん、気分転換ついでに近所の神社や御寺や城跡の公園や山を御散歩してみませんか?
きっと神社や御寺を参拝して神様仏様に御挨拶すれば、我々にはもう見えない歴史偉人も神様仏様と一緒に笑顔で喜んで我々を歓迎してくれているかも知れませんよ~♪

人が一番怖いのは自分が死んだ後で自分の事を皆が忘れてしまったり、生きていた時に自分が大切に思う人の役に立ってあげれなかった事だと思います。
でも我々が近所の優しい御爺ちゃんや御婆ちゃんの家に遊びに行くみたいに神様仏様を拝みに行くついでに地域を今も見守って下さってるかもしれない歴史偉人に挨拶もすれば、きっと昔の武将や御姫様も喜んでくれると思います。

・・・では、次の記事で御会いしましょう~♪津久井城の事書こうかな~?

PS・・・昨日早朝、太腿に大火傷しまして仕事休んでいるので久しぶりに歴史解説記事ちゃんと書けました(笑)。
火傷のフザケた報告記事も読んでね⤵
熱いのぶちまけてやるぜ・・・ぐへへへへ





江ノ島観光の休日雑記の途中だけれど少し近況報告を三浦の海岸沿いの某宿泊先から・・・

小生は梅雨に入って気温も上がり初夏に突入すると繁忙期、だいたい毎日の睡眠時間は常人の1/2とか1/3程度しか寝れない日が多くなってしまう。
先月はジムに2回しか通えなかった。今月もまだ行けてない。
だからブログの更新も疎かに成るし気のせいか昨年より体力が落ちた。
まぁ、今年は休日は出来るだけ寝て体力回復を計る事にしていたのだが、そんな中でも休日の午後位は動いていた。

今年はTVで鎌倉が沢山特集されたせいで観光客が多く、とうとう鎌倉~江ノ島巡りで4回目の鎌倉市長谷の長谷寺紫陽花見物チャレンジも失敗、なので小生の住まう円海山の裾野から車で程近い永谷天満宮の鎮守の森、菅秀塚の紫陽花を見に行って来たりしていた。
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永谷天満宮の社殿の左手が菅秀塚の入口なのだが、結構地元の人もここへ来ない様だ。
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神奈川の名木100選の一つ、“上永谷の天神社のカシ”なんて大樹も有ったりするんだが・・・
その名木の前を通り過ぎると直ぐに紫陽花のトンネルが出迎えてくれるんだな。
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陽当りが余り良ろしくない場所だが、山の斜面の一面に紫陽花が咲き誇る。
・・・う~ん、咲き誇ると言うよりは毎年健気に数少ない見物者を優しく謙遜しながら出迎えてくれると言う感じだろうか?
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一輪一輪が大振りで立派、確かに北鎌倉の明月院や長谷の長谷寺程の規模は無いけれども季節を感じて散歩するには十分!
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今年も綺麗だ。
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永谷天満宮の紫陽花君達、今年も綺麗な花を見せてくれてありがとうね~!
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頂上には浅間神社が在る。
永谷天満宮の社殿の方向とは明後日の方向を向いて祠が建っている。
何でこの向きに浅間神社の祠が向いてるのか、ちゃんと神様に対して信仰心を持って神社を観察する人なら直ぐに気が付くのだが、当然、この祠の真後ろに浅間権現此花咲耶姫命様の化身である富士山が在るんだな。
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既に横浜は夏日なのに珍しく相模湾上の水蒸気が薄く、そして雪化粧している此花咲耶姫命の富士山が姿を見せてくれた。富士山の頂上に浮かぶ雲が此花咲耶姫命様が市女笠を被って日差しを除けてらっしゃるようで可愛らしく思えた。
因みに市女笠と言うのは↓こう言う奴。
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以前撮影した小机城址祭りの様子。
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小生には、こんな可愛らしい御姫様の格好に脳内変換されんだな。
まぁ、江戸時代の和装は余り好きじゃなくて、女性は室町時代の格好の方が可愛らしと思うからなんだが。
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永谷天満宮の地は伝承によれば御祭神の天満大自在天こと菅原道真公の五男で菅秀才と呼ばれ醍醐天皇に重用されたが藤原氏の出世妨害で官位は高位には成らなかった菅原淳茂公が移住してきて一時期住んでいた居館跡と伝わっているんだな。まぁ実際に関東に亡命して平将門公や平良文公達の坂東の桓武平氏を頼って来たのは三男の菅原景行公が茨城県の大生郷天満宮の社伝にも伝わっているし、永谷天満宮は旧鎌倉郡で、平良文公の御子孫の村岡家の一族達が治めた土地であり村岡一族の鎌倉景正公、梶原景時公、俣野景久公、大庭景義公、長尾景春公等々、鎌倉郡を統治した人々は“景”の一文字が入っている事から三男の菅原景行公との関連と考えた方が自然なのかも知れないが、そこはそれ、どっちか解らないならば“どちらかがいらっしゃった”として“両二方とも大切に史実と伝承を両方伝えれば良い”訳だ。
そうすれば御子息が二人も永谷天満宮で大切にされて、御祭神の菅原道真公も喜んで下さるかも知れない。
塚に手を合わせながら、そんな事を考えていたりした、この日。
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月が変わって7月初旬、野島公園のキャンプ場を予約して妹夫婦と甥姪とBBQをした。
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この日、燃料を予約していたのだが炭だけ渡されて火を付けるまで上手く行かなかった。
家から先日の木目金鍛造の為に買った1500°の火炎が出るガスバーナーも持参したのだが、ガスバーナーで炙っても窯が大きすぎて熱が上手く籠もらずに肉を焼ける様に成るまで30分近くかかってしまった。その間に姪っ子も甥っ子も飽きてしまって母が持参したオニギリを食べて御腹一杯に成り、もうまともに食事してくれなかった。
折角、南部市場でサザエやホタテも沢山買ったのだが、食べきれなかった分は保冷材も無いので廃棄した。

先週の事・・・
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ライチが美味しい季節に成ったので夕刻近くに漸(ようや)く起き出して昼食ついでに横浜中華街の八百屋に生ライチを買いに行って来た。
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妹の家もいると言うので綺麗な物を1ケース分選別して購入。
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その後は中国超市で肉まんと月餅を買い食いして昼食とした。
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コンビニのとは違って皮が甘くフワフワで美味しい。
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まぁ、日本で肉饅と呼んでいる物は中国では三丁包(さんでぃんばお)と呼ばれる餡なのだがね。本来の肉饅の餡は本当に肉しか入っていないんだ。これは少し違うが美味しい。
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先一昨日、京都から歴史仲間が出張で横浜に出て来たので中華街に行き、一緒に食事をした。
途中、久しぶりに横浜スタジアム方面から歩いて見たら変な専門店が出来ていた。
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香菜(シャンツァイ)=パクチー料理の専門店・・・
小生は香菜が大嫌いなので絶対に行かないだろう(笑)。でも女性には好きな人も多いので、まぁ、狭い範囲のファンが定着しそうだなとは思う。
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夜20時過ぎだったが土曜日と言う事も有って中々の人数だった。
残念な事に行きつけの店が閉店したので、山東と言う、もう一つの行きつけの水餃子の美味しい店に歴史仲間を連れて行った。
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写真は豆腐干絲(ドウフガンスー)=干し豆腐の千切りの冷菜、それと牛肚(ニィウトゥ)=牛の胃袋の冷菜。さっぱりして夏でも食欲が湧く小生の夏季御薦め料理。
他にも空心菜の炒め物とかトンポーローとか山東名物の水餃子を注文して二人で7000円分位食べた。
親友のO型君が転職して東海地方に行ってしまう際に転職祝いで食べに来て以来、2ヵ月ぶりくらいだったかな?たまに食べたくなる。
食事後は車を停めた大桟橋(国際客船ターミナル)まで徒歩戻る際に、夜間でも見れる史跡を少し回りながら移動した。

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日本最初の下水管とか。
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何故か横浜市は中区の近代史跡だけ大切にし、鎌倉の隣で武士文化の遺産が多く有るのに其方は破壊しまくるんだな。意味不明。所詮、田舎者ばっかりの市職員はヨコハマのイメージしか無いんだろう。
横浜市はヨコハマで有る前に鎌倉郡の一部であり久良岐郡であり橘樹郡であり都築郡なんだが、そんな事も知らんのだろうな。
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様は移民が文化財保護担当してる様なもんだから理解が足りないんだろうか?
まぁ、政治家の建築利権の方が大きいんだろう、現代の役人はアウシュビッツの職員よろしく善悪の判断をせずに政治家の要望通りに破壊してんだろう。でなければ、自然公園として歴代市長が守って来た円海山の史跡も自然環境を東急グループの建設利権の為に開発しようとしたり、日本的に見ても重要な意味の有った笹下城も蒔田城も青ヶ台城等の城址も発掘せずに破壊したりしないだろう。
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まぁ、ハッキリ言って観光向けに街づくりしてる筈なのに、外国人観光客に不人気なのは文化を大切にしてないから魅力が無いって気が付かない田舎者が仕切ってる横浜市の役人と建築利権臭プンプン臭う執政者って事に成る訳だ。
まぁ、この明治の元勲、伊藤博文公が作った新港埠頭=みなと未来21地区の夜景は綺麗だ。
これは高秀前市長が建築族だっただけでなく高文化で、港から見た時の景観と文化財の保護を考えて街づくりをして下さった御蔭なんだな。
今の市長は語るに・・・不足の極み。待機児童問題も停滞中、一瞬良い時だけ発表して印象操作。
折角期待されてるのだから史跡保護や最後の蛍の広域生息地の自然環境保護も頑張って立派な市長に成って欲しい。
待機児童問題も上手く行ってないなら、それはそれで正直に言えば皆も本気で考えるだろう。
一々自分の印象を良くしようとする様な発表の仕方をしたってダイエー再建失敗した時の様に、結果は数字でしか出ないんだから。これは補佐役が悪いのかもな。

まぁ、そんな訳で最近も休日は夕方から少しは動いていたが、もう学生時代の様に半徹夜の仕事連勤+自分の活動を平行してやる体力が無くなって来たようだ。
筋力増強も上手く行ってない。
体力付ける為に、夏が終わって繁忙期が過ぎたら本気でトレーニング頑張ろう。

では、皆さん、休日雑記江ノ島編の続き③でお会いしましょう~♪




海老名市探訪の〆に中村屋で人生で一番美味しいと感じた拉麺を食べてから、次の目的地の綾瀬市の神崎遺跡に向かって移動した。
どうやら、この際に通った道が古代の街道だったらしく周辺には多くの史跡が有る事に気が付いたのだが神崎遺跡までの道程(みちのり)には偶然の発見が多数あった。
最初の偶然見つけたのが…
高座豚手作りハム綾瀬本店
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高座豚(こうざぶた)と言うのは❝旧高座(たかくら/こうざ)郡❞の厚木市が一番有名な神奈川県旧高座郡産のブランド豚の事だ。
藤沢市境川以西、大和市、綾瀬市、厚木市、海老名市、寒川町、相模原市相模川東岸は昔は全てが高座郡だった。
この高座郡の延喜式内社しかも昔は広い境内に立派な社殿を持ち栄えていた神社が多いので高座(たかくら)=巨大な米倉が建ち並ぶ集落が多かったのに由来するのだろうか?今となっては良く解らない。
そんな神奈川県を代表する豚肉のブランド高座豚の養豚→加工をしている会社の本社直売所の看板を神崎遺跡に向かう道すがら偶然発見して立ち寄って見た訳だ。
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店内には様々な高座豚の加工食品が陳列されていたのだが、珍しいスペアリブやレバー等のハムやポークジャーキー等も有り面白かった。
後でGoogle mapのレビューを見たら、ここは豚カツ等の御惣菜も大変美味しいらしい。

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今回はレバースモークと…
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…ポークジャーキーを御土産に購入して見た。後日、曽我梅林の梅酒と一緒に家族で食したが大変に美味しかった。レバーも全く生臭さが無く美味しかったがポークジャーキーは評判が頗(すこぶ)る良くて今後は他地域の友人への御土産として購入しても重宝しそうだ。
リンクを以下に貼って置く。
高座豚手作りハム綾瀬本店
高座豚手作りハム綾瀬本店を後にして、神崎遺跡へ向かう途中で道の右側に何やら大きな石碑が有るので気に成って立ち寄って見た。
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どうやら徳川秀忠公や家光公の時代、江戸時代初期に名医として高名だった半井(なからい)
端壽(まさとし?)驢庵(ろあん)と言う人物の邸址らしい。しかし発掘調査が行われた形跡や見取り図等は無く石碑だけが昭和初期の神奈川県知事の半井清さんによって建立された様だ。
なんと半井清さんは横浜市長も務めた横浜市民の小生の郷里の大先輩に当たる人物だそうだ。
姓から半井驢庵公の御子孫かと思ったが、どうやら直径子孫では無く半井家に養子に入った人物の様だ。面白い事に半井清市長の生家は岡山県の福井家で、その地で半井家に養子に入っていると言う事は300年近い江戸時代の歴史の中で半井家は岡山にも縁を何か持っていた可能性が有る訳だ。
半井清市長は1946年に公職追放に成っているそうなのでGHQによる処分だろう。戦争協力者のレッテルを貼られた様だが公職追放解除と共に横浜商工会議所の頭取りに成っている。
戦前の神奈川県は役人によって多くの歴史史跡が保護され、例えば大庭城址等にも「保存状態良くて戦国の城が解りやすい場所だから大切にせんといかんよ~」と言う様な趣旨の石碑が神奈川県によって建てられていたりするのだが、半井市長が県知事だった時代の頃だろう。
昔の神奈川県職員や横浜市職員は大変に神奈川県下の文化と史跡を大切にしたのだが、今の黒岩県知事と林文子市長は糟屋館の切岸と帯曲輪と縄文史跡の不保護破壊、笹下城址空堀の宅地開発破壊や円海山蛍生息の環境地破壊等の文化と自然と史跡破壊ばっかりしている。
これは半井市長達が若し御神霊やなんかとして祀られていたら現知事や市長を祟(たた)るレベルの落ち度だろうなとか、撮影した石碑の写真を見ながら半井市長の事を調べてシミジミ思ったりした。
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さて、この半井驢庵邸址の傍らに一際立派な木が聳(そび)えていたのだが、これが久々の❝神奈川の名木100選の一つ有馬の春楡(はるにれ)❞の大樹だった。
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皆さんもこの石碑が有ったら神奈川の名木100選の木なので説明文を読んでみて下さい。
小生は津久井城址近くの根小屋の諏訪神社、横浜市港南区の永谷天満宮、大和市の延喜式内社の深見神社、横浜市磯子区杉田の妙法寺等で他の名木100選も見る事が出来たが、今回は完全にドライブ傍ら偶然の賜物なので大変に嬉しかった。
これも横浜市長だった半井市長が石碑に揮毫し昔の熱心な方々が史跡の保護活動をして下さった御蔭なので、時代を超えて小生達に史跡と大樹を残して下さった綾瀬市の諸先輩にも心の中で御礼を申し上げたく成る。
今の政治家は開発利権と癒着している人物が多く日本文化も大切にしないので信仰心も無い。
だから平気で先人の遺物を破壊し、先人が残して下さる教訓も世界から抹消してしまう。
しかし昭和初期までの政治家は違った訳だ。
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半井清市長、綾瀬の貴重な史跡を残して下さりありがとう御座いました。
以下、半井驢庵邸址と神奈川名木100選有馬のハルニレの所在地。

〒243-0417, 本郷 海老名市 神奈川県 243-0417

さて、有馬の春楡の大樹を後にして神崎遺跡に向かった。ここから神崎遺跡は車で10分も掛からない。

後日Google mapを見ていて気が付いたのだが、近くには行って見たいと思っていた❝カナサシファーム❞と言う酪農業者が営むアイスクリーム製造直売所が在った。
この時は気が付かずに神崎遺跡に行ってしまったので、次回、有鹿神社を訪れる際には同じく綾瀬市内の五社神社や蟹ヶ谷公園とセットで廻ってみようと思う。
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ここは昨年一昨年初めて藤沢市の延喜式内社の宇都母知神社を参詣してから早川城址公園を訪問した際に移動途中で神崎遺跡の看板が目に入り存在を知った訳だ。

思うに毎回古い神社~古い神社へ移動すると遺跡に当たるのだが、この遺跡や小生が当日走った道は古代の鎌倉郡衙~大庭神社付近の集落に有った店屋(古代の駅)を過ぎ~宇都母知神社の集落~神崎遺跡を経由し、深見神社と有鹿神社へ至る分岐点の要衝で古代の街道だったんだろう。
古代一之宮有鹿神社~鎌倉郡衙の脇往還 久良岐のよし
上の図はGoogle earth上に小生が登録した古代の神社や城址の位置と、国土交通省関東地方整備局が想定した大凡(おおよそ)の古代街道想定図を重ね合わせた物なのだが、若干小生の想定と違うのだが村岡城址辺りは古代の鎌倉郡衙(ぐんが=郡役所)だった筈(はず)だ。
そして村岡城址の辺りが分岐点と成る想定は小生と同じで、「想定伝路」と国土交通省が曖昧にしている部分は恐らく延喜式内社の大庭神社→宇都母知神社→神崎遺跡→有鹿神社へと繋がっていたはずだ。
そして古代の中原街道が神崎遺跡で分岐し…
寒川神社(高座郡寒川町)=相模国一之宮⇔神崎遺跡⇔深見神社⇔神大寺(横浜市神奈川区)⇔師岡熊野神社⇔橘樹神社(川崎市高津区)=橘樹郡衙へと繋がっていたはずで、これが原初の中原街道だった筈だ。
この事には今年の正月に川崎の橘樹神社~大磯町の二之宮川勾(かわわ)神社へ思い付きで下道で行った際に偶然発見した。車を走らせていてナビと道路標識に出て来る地名が全て古代から開けていた神社や遺跡、そして武士達が城砦を築いた場所の近くだったのだ。
これは偶然では無いだろう。
下道で行こうとアホな事もしてみるもんだ。
所で、正月に小生が走った道は江戸時代の中原街道だった。
橘樹神社~中原街道経由~川勾神社 久良岐のよし
黄色い線が正月に走ったルート。
この道は徳川家康公と徳川秀忠公によって再整備された街道なので、古代の街道からは若干逸れると思う。その逸れている部分を補填するのが新編武蔵風土記稿で間宮士信(ことのぶ)公が注記している各地の店屋(てんや)の地名だろう。
実は青木城の神奈川区神奈川や神大寺旧跡の神奈川区神大寺地区や宝秀寺の神奈川区六角橋地区や三枚橋と呼ばれた三枚町地区は古代に全てひっくるめて「店屋」の地名で呼ばれたそうだ。
横浜市港南区野庭にも「天谷(てんや)」の古代の「店屋」と同じ音の地名が橋の名に残り、更にはその一帯は鎌倉幕府が野庭関城を築城した交通の要衝だった。
思うに古代の「店屋」と言うのは現代の学者は伝馬制度の「駅」と誤認している人も多いが、間宮士信公の言う通り❝伝馬制度の拠点の置かれた行政区❞全体を指す地名だったんだと思う。
そして、それは全ての駅の有る行政区で「店屋」と呼ばれたのだろう。
これは江戸時代の「宿場町」に相当する感覚だと考えれば自然だと思う。つまり町全体、古代の場合は集落=郷全体を「店屋」と呼んだのだろう。

話を神崎遺跡に戻す。
初訪問の2015年4月当時は未だ開園前で整備中だったので何の史跡なのかも良く解らなかったし、何も展示されていなかった。
今回の訪問で解かったのは遺跡としては人が定着せずに短期間で放棄された環濠集落だそうだ。
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小生が思うに、この頃に神奈川県の先人は丘の上から耕作に適した河川近くの平地に移住して行くのだが、それは丁度、日本武尊(やまとたける)神話の時代に相当する。
しかも!ここは「東海地方からの移住の文化が確認出来る遺跡」として国定遺跡の指定を受けているのだ…
日本武尊は佐賀牟(さがむ)国、すなわち古代の神奈川県中央部に来ている。
そして彼の軍勢は伊勢神宮の倭姫から借り受けた軍勢だったはずだ。与力は大伴氏と吉備氏の武将。
横浜の宝秀寺と三浦半島走水神社には日本武尊の従者として大伴姓の大伴黒主と大伴久応が登場するが恐らく同一人物で、古代に大王(天王)家の近衛軍を率いた大伴家と渡来の軍団編成を取り入れていた吉備家の軍勢が与力、日本武尊軍の本隊は伊勢や東海地方の伊勢神宮の斎王(さいおう)倭姫の軍勢で構成されていたのだろう。つまりは東海地方の兵達だ。
…まぁ、人口の少なかった当時の編成は国を挙げての大軍団と言っても最大規模で数千人、東征の各部隊はせいぜい数十人~数百人規模の軍団だった筈だ。
日本武尊は佐賀牟の神に欺かれて静岡の焼津へと攻撃に出征しているのだが、それまで駐留した日本武尊軍団は神奈川県各地に分散し布陣し陣城を構築した筈(はず)だ。
その日本武尊軍団の陣城の一つが神崎遺跡だったんじゃないかと古代は海に面した半島の地形と古代の街道の位置、そして短期間で放棄された痕跡から小生は想定している。CIMG3601
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まぁ、歴史遺跡は発掘した「物」だけ見ても何も繋がらないし「文」の無い時代や生存者の思惑で書かれた「文物」には後世の我々を騙す陰謀も込められているので「文だけを頼りにするのもド阿呆」な訳だが学者先生は物的証拠が無い限り断定してはいけない「縛り」で活動をされているので小生みたいな推測は思っても書けないし言えないらしい。
同じく宮司さんの中には明治以降にプロテスタントを手本に再構築されたいる国家神道を盲目的に信じて明治以前の歴代天皇の価値観を無視する人もいて、そう言う人達は不遜にも天皇家の祖先神に神格化された古代の大王家の人々の偉業の痕跡である歴史遺跡から出土する事実に目を伏せて「本居宣長」が訳し間違えてる部分も絶対に沢山有る、中国神話の様な非現実的な描写に書き換えられている筈の神話の描写を全て鵜呑みにしてしまっている。
古事記の音だけを拾って書き起こした原本を現代人は「原本を隠された様に」原本の写しを見る事が出来ないが、恐らくはもっともっと現実的な政治や外交や徴税や軍事の事が書かれている筈だ。
神崎遺跡は薬研堀の環濠に囲まれていた。
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その堀の跡を今はコンクリの道で舗装し、位置が判る様にしてある。
小規模だがとても親切な試(こころ)みだと思う。
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弥生時代、それより前の縄文時代この一帯の海だった平地部分は数回の大地震による地殻変動で隆起し陸地に成ったが沼地だった。それは戦国時代近くまで続き内陸の伊勢原市辺りも同じだった。
ちゃんとした陸田として江戸時代に開発が進むまでずっとそうだった。
だから半島から周囲が隆起して丘に代わった神崎遺跡の近くには古代の中原街道や海老名~鎌倉の往還が開通しても、平地はまだまだ沼地が多かったので、日本武尊軍団は沼に囲まれた丘で守りの堅固なこの神崎遺跡に兵を置いたのではないだろうか。
面白い事に神崎遺跡からは人の遺骸が出土していない。
小生はこれを「男女が生活を営んだ集落ではない証拠」だと解釈している。
まぁ~歴史ってのは、、こいう事を考えられるから面白い。
神崎遺跡には博物館も有る。
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中は小規模ながら綾瀬市の歴史が一目瞭然と成る年表やCIMG3586
発掘調査結果の解説。
そして平安末期~戦国時代の綾瀬市の武士団の説明等も有る。
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小規模ながら実に良い展示をしている歴史博物館だ。
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動画の上映も有り、この日は平日と言う事も有ってか小生の他には客は2組だけだった。
綾瀬市民の祖父母と小学生位の孫の家族の1組、小学生位の子と父親の1組。
まだまだ知名度が低い施設なので、有名に成って欲しいと思う。
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中学生~大学生位が来ても歴史が好きなら掲示物を読み込むだけでも十分楽しめると思う。
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動画の解説もとても解りやすく良かった。
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神崎遺跡の模型も有ったり…
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発掘当時の様子等も解る航空写真も有った。
そして素晴らしいのが、子供向けの勾玉(まがたま)製造の体験教室等も行っているそうだ。
神崎遺跡と早川城山公園は、小中学生の子供を持つ多くの綾瀬市民の夫婦には是非にも子連れで来て欲しいと神奈川県民として切に思う。
綾瀬市の散策はとても美味しく、そして先人の日本文化保護に対する情熱と古代の神話のロマンを感じれる充実した時間と成った。

次回、第4部藤沢市編に続く。


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