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文字通り御菓子の「ウイロウの本家」は小田原の外郎家です!
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「ういろう」が「お菓子の名前だと思ってる人」がいますがね…
ういろう=外郎=人の苗字です!
もう少し詳しく説明しますと、外郎と言うのは中国大陸の王朝、南宋王朝と元王朝の「礼部員外郎」と言う官職名由来の苗字です。
小田原市に現在住んで薬とお菓子のウイロウを販売している外郎家は、元は中国の王朝の官僚だった方で陳延祐と言う名の中国人でした。
陳延祐サンは今の中国浙江省台州市の出身で、元が明帝国に転覆され滅亡した際に日本に亡命し1368年、博多経由で嫡男(ちゃくなん=跡取り)の大年宗奇の代に天皇家に招聘され京都に移住しました。
伝承では、その頃、室町幕府三代将軍の足利義満公に提供したのが今の一般的に「ういろう」と呼ばれる外郎家が相伝で伝えた身分の高い客人の為に作っていた茶菓子だと伝わっています。
あくまで身分の高い人をもてなす為だけに作られる菓子でした。
まぁ、現代ではウイロウが人の名前と知らない方が多く成ってしまいましたが。
元は高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の「ういろう」として大衆的に誤認されているものなんですね。
小田原の外郎家では、菓子のウイロウは「お菓子のウイロウ」と言う名前で「薬のウイロウ」「外郎家そのものの苗字」とちゃんと現代でも分けています。
それ等の歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。
本当に立派なつくりですね。
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。
繰り返しになりますが、この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました…
が!
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ…
…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。
1800貫がどれほど凄いかと言うと…
1貫=4石 つまり 1800×4=7200石
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!
江戸時代、1万石で大名として扱われました。
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度…
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満…
徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。
「ウイロウ売りの口上」は今ではTVアナウンサーが朗読練習で必ず暗唱出来る様に練習する演目としても有名ですね。
因みに、内容は以下の通りです…
拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、
御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、
欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。
元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、
昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。
帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用うる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。
依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。
即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。
只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、
イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしは親方圓斎ばかり。
もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。
御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、
系図正しき薬で御座る。
イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、
されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。
先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、
薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。
魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。
さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。
ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。
そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。
アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。
開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。
一つへぎへぎに、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒、書写山の社僧正。
小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。
繻子・緋繻子、繻子・繻珍。
親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。
古栗の木の古切り口。
雨合羽か番合羽か。貴様の脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。
尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。
河原撫子・野石竹、野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。
一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。
京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。
御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。
来るわ来るわ何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。
武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。
菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。
麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。
あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。
向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。
がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。
たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干蛸。
落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。
中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。
鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。
小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。
おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く三里ばかりか、
藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。
隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。
アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、
産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまい。まいまいつぶりまいつぶり、
角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばち桑原桑原と、
羽目を外して今日御出での何茂様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、
東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃりませぬか。
…ね?江戸時代の人の認識でも外郎は小田原の外郎家の物だったんですよ。
そして何で小田原の外郎が近年全国に普及しなかったかと言うと、新幹線と家の格式のせいです。
朝廷との逸話から、明治時代になると外郎家のういろうが特許として内閣特許局にすぐに登録されました。
しかし天皇家との関わりからウイロウは小田原の外郎家での直接相伝しかしないと言う伝統を守り販売も小田原外郎家の本店での直接販売しかしないと伝統を守って来た事が原因なんです。
新幹線は小田原は「ひかり」しか止まりませんからね…
そんな訳で某地方都市の偽物が新幹線開業を機会に大量生産する企業が多数参入し、歴史を御存知無い方々に事実誤認されてしまった訳です。
そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ!
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。
初代:陳延祐
元朝時官途:礼部外交院外郎
長慶天皇の治世、正平二十三年(1368)年、元朝滅亡時に日本亡命。
医術、天文学に通じる。
博多に住す。
官職から陳外郎と日本では呼ばれる様に成る。
↓
後円融天皇の従弟、足利義満公により博多より京に招聘。
京に移住はせず博多に戻るが子を京に留める。
↓
子は京に留まり足利一門の断家、宇野の名跡と旧領を与えられ格を上げられた上で朝廷にも仕える。
外交使節の応対を担当。
足利一門の帰依していた禅宗に入門した事で法名は大年宗奇と伝わる。
父の初代延祐も禅宗に帰依し入道。
今は福岡市博多区に移転した、当時は太宰府に在った横岳山嵩福寺で剃髪、台山宗敬と名乗る。
※この入道号"台山宗敬"は恐らく陳家が浙江省台州出身の貴族である事に由来する。
※帰化後、本来は元朝の官職の外郎を苗字とし読みを官途の外郎(げろう)と区別し外郎(ういろう)にした。
※朝廷に上がる為に宇野を併用した。京極、六角に置ける苗字佐々木の併用に類似の事例。
↓
陳外郎宇野台山宗敬、享年73歳。
応永二年(1400年)七月二日没。
↓
後柏原天皇治世
永正元年(1504年)。
五代:陳外郎宇野藤右衛門定治の代に小田原の北条家より招聘され移住。
この際に弟の家を分家させ京に残し接待菓子や薬の製法も弟の家にも残した。
↓
しかし兵火により京の外郎(宇野)家は断絶する災難に遭う。
※当然、京都の財産や文書も消失。
この際に弟子が外郎の故知の博多、官領代として乱を沈静化させ当時の博多を傘下に置いた大内家により雇用され広まったと、外郎家では山口市と博多市の菓子の外郎を系統と社史で事実上公認している。
血脈は小田原のみ存続する。
天皇家の制約を守り菓子を販売せず。
薬の製法は明治まで一子相伝だった。
※明治時代の解説に繋がる。
↓
小田原でも北条家の外交使者接待担当。陳外郎宇野家は石高換算で江戸幕府の7000石超相当の格を継続して遇される。
※有職故実に通じたのでの江戸幕府に置ける高家対偶に類似。
※実際に其だけの所領を北条家でも与えられたとは考え難いので関東では室町幕府の格式の維持に留まったはず。実際、当時の石高換算の1貫=2〜4石の最大値で計算しても北条家臣筆頭の松田家で所領役帳で2798貫=11192石となり、やはり外郎家は格式に特化した保証を受けたと考えた方が自然。
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北条家、豊臣秀吉の小田原攻めにより改易、当主氏直公は蟄居。この際、士分の北条旧臣は小田原城下から退去を命ぜられるが朝廷との縁から特例で残留を認められる。
以後は医家として存続、嘗ての朝廷に置ける儀礼を守り透頂香と菓子も外郎の在所以外での販売をせず現代に至る。
この際に天皇家より医家にも関わらず以下の桐紋と建築様式の使用の御赦免を賜る。
八方八つ棟
表側三つ棟玉堂造り
唐破風に桐紋瓦
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江戸時代に至っても外郎家は高名で、今の市川海老蔵の祖先である二代目市川團十郎(元禄元年1688年〜寶歴八年1758年)が愛用し、享保年間に外郎の透頂香で喉の持病が根治した事を感動し歌舞伎の演目"外郎賣"を造り上げ以後は市川家十八番の演目の一つとして現代に至る。
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明治に成ると特許条例が制定されたが、天皇家との関わりで真っ先に特許承認された。
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外郎家系統の製法を受け継ぐ地方では外郎(ういろう)の名を使う事を憚(はばか)り、"ういろ"等と名を変えて敬意を近代まで払っていた。
その名残で今も「ういろう」と平仮名で書いても「ういろ」と発音する人が年配には多い。
但し、外郎家と無関係の名古屋は例に漏れる。