歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:神社仏閣

横浜市磯子区杉田には杉田八幡宮と言う神社が在(あ)ります。
横浜市は他地域からの移住者が多く御存知(ごぞんじ)無い方も多いのですが…
実は此方(こちら)の八幡神社、宮司様から聞いた話によると鎮守府将軍も務め前九年後三年の役で活躍した源八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公が開いたそうで、本当にその通りなら、千年の歴史を有するとてつもなく由緒ある八幡社(昔の人は神社を一括りにはしなかった)なんです。
・・・江戸時代までの記録で小生は宮司様の話しと同様の記録を見た事が無いので正直ビックリしました。
江戸時代までの記録には有りませんが、宮司様曰く杉田八幡宮は鎌倉の鶴丘八幡宮と同時期に開かれた八幡様なんだそうです。
正確に言うと相模国鎌倉郡に鶴岡八幡宮を義家公の御父君の源頼義公が開き…
武蔵国久良岐郡に義家公が鶴岡八幡宮より御分霊を勧進された、それが杉田八幡宮だと社伝にはあります。
2014-08-31-12-43-08
※写真は現在の鶴岡八幡宮を若宮大路から見た風景。
しかしながら史実を解説しますと源義家公の時代に“鶴岡八幡宮”と言う八幡宮は鎌倉にも何処にも存在していなかったんですが・・・
DSC_2264
源義家公の御父君、源頼義公が鎌倉に開いた八幡社は材木座の元鶴岡八幡宮と最近まで呼ばれた場所の事です。
DSC_2266
今では鶴岡八幡宮により管理され“由比若宮”と名を改めています。
ですから源頼朝公が遷座した今の八幡宮は当初は若宮(新しい御宮)と呼ばれ鶴岡八幡“神宮寺”と言う正式名称で神仏習合の大規模な神宮寺でした。今も参道の名は若宮大路ですね。
当時は別名鶴岡若宮とも呼ばれています。
つまり“鶴岡八幡宮”の名は平安時代と言うより比較的最近の呼び方ナンですね。
因(ちな)みに杉田八幡宮の宮司様の言う時代に鶴岡八幡宮の名は存在しませんでしたが、似た名前の鶴岡八幡宮よりも遥かに古く平塚市に仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)により開かれた八幡宮が存在していました。
CIMG2258
現在は三大七夕祭りの一箇所として有名な平塚八幡宮ですね。源義家公の存命中の社名を“鶴峰山”八幡宮と言いました。平塚八幡宮と名を改めたのは第二次世界大戦後のつい最近の話です。鶴峰山八幡宮の格式は高く一国一社の八幡宮として開かれた場所です。
この鶴峰山八幡宮と鶴岡八幡宮の名は似ているので、杉田八幡宮に鶴峰山八幡宮の名が鶴岡八幡宮と誤って伝承し杉田八幡宮が開かれたならば時代的な整合性はつきますね。
しかし、その場合、源義家公との縁は無く説明はつきません。
杉田八幡宮の現在の伝承によれば開かれた年は康平6年(西暦1063)との事なので、間違い無ければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の八幡社の完成と同年ですね。 何故、杉田八幡宮に元鶴岡八幡宮や材木座の八幡社では無く鶴岡八幡宮とされて伝わったかは謎ですね。
杉田八幡宮の宮司様の話しが正しければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の元鶴岡八幡宮が開かれて直ぐに御分霊が勧進された事に成ります。
ただ、その事が何の古文書に書かれているかは不明です。 少なくとも江戸時代の幕府公認の歴史書の新編武蔵風土記稿には❝勧進の年代詳しならず❞と書いてあり、江戸時代には既に杉田八幡宮の元に成った八幡社にも別当寺の間宮山妙観寺にも伝わっていなかった事が記録されているので、何故、現代「康平6年の勧進」とされているか、いつからその事が判明したのか出典の文書を調べる必要が有ると思います。
※別当寺については後述します。
義家公の同様の伝承は他の八幡社にも見られるので、義家公が御分霊を頂き杉田八幡宮の元に成った八幡社を開いた可能性は有ると思います。
仮に源頼朝公が再建した鶴岡八幡宮なら他の場所では“若宮八幡宮”の名を継承している場所がよく有ります。
2016-01-27-16-20-15
横浜市南区の若宮八幡宮です。
南区の若宮八幡宮は、昔は近くまで蒔田湾の入江で港が在ったので、治水と海上交通の神様の八幡大菩薩が勧進されて開かれた様です。
小生は現在、個人的に記録を確認できる古文書が有るか義家公と武蔵国の各八幡宮の関係を調査中です。
伝承通り、源頼義公と義家公が親子で久良岐郡と鎌倉郡に同時に八幡宮を開いても全く不自然ではありませんからね。 
宮司様の話しの“時代設定”を根拠にすれば時代的に杉田八幡宮が頂いた御分霊は今の鶴岡八幡宮と言うのは史実と整合性は無く異なり、元鶴岡八幡宮の御分霊を指す事に成りますが、余り規模の大きな神社ではなかったでしょう。
源頼義公が同時代に鎌倉の葛原岡から扇ヵ谷地区に遷座した巽神社は一般的な町の中の神社と同規模ですし、本拠地の河内国の氏神として祀っていた壺井八幡宮は由比若宮を少し大きくした程度で巽神社と同じ程です。
恐らく杉田八幡宮が御分霊を勧進した元鶴岡八幡宮は材木座海岸の近くですが、源頼義公の時代には材木座は入江が有ったので更に海が近かった事でしょう。
※源頼義公が創建した元鶴岡八幡に関する記事は「ココ」←クリック!
この杉田八幡宮も昭和初期まで眼前に海が広がっており、現在の杉田駅近く暗渠(あんきょ=蓋のされた川)に成った聖天川の河口に船着き場が在りました。
杉田八幡宮と周辺位置関係
この杉田の八幡様、頼朝公の時代には今より社領も広かった痕跡が付近の地名に残ります。
それを示す様に近所には上の衛星写真に示した交差点に残る「神戸(ごうど)」と言う地名が有りまして、神戸は神社に寄進された土地と言う意味です。
昔の住所の❝字(あざ)❞や❝小名(こな)❞と呼ばれる今の番地みたいな地名は、結構、公園や交差点や電信柱の名前の中に残っていたりします。
因みに伊勢原市に在る古代存続する比々多神社にも付近に神戸と言う地名が有ります。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
神戸は神社の土地な訳ですが、義家公の御子孫、源頼朝公も土地を寄進し、この八幡社を久良岐郡の惣社として再興されたと、現在の杉田八幡宮宮司様より頂いた参考資料にも記載があり、付近の旧地名と神社と頼朝公の時事績の伝承には整合性が有ります。
ただ、先程も例に挙げた❝新編武蔵風土記稿❞と言う江戸時代の学者間宮士信が編纂した資料を見る限りでは、「久良岐郡の総社」ではなく「杉田郷の総社」と成っているので、どこかの時代で杉田郷から久良岐郡に誤解された可能性も有ります。
しかしながら、本当に義家公の創建ならば、伝承通り鎌倉時代に義家公の御子孫の源頼朝公により久良岐郡の総社に定められた可能性は十分有るので、時代によって社格が著(いちじる)しく異ったのかも知れませんね。
まぁ、平安時代の価値観だと総社とかより鎮守と言う表現が一般的でしょうか?後は規模を大社とか小社とか表現しました。各は他にも位階を与えられる場合が有りました。

杉田八幡宮は、本殿の前に控え御社を守っている狛犬が有形文化財に指定されています。
可愛そうなんですが、右の狛犬は上顎が割れて無くなっちゃってます(泣)。
痛々しい…
ちょこっとユーモラスなデザインで可愛らしい狛犬さんですね。

伝承によれば、以前記事に書いた間宮林蔵や一族の杉田玄白の祖先に当たる間宮家の殿様が、この杉田八幡宮を支援していたそうです。
その殿様の名前を杉田八幡宮では江戸時代の「間宮信廣(のぶひろ)」と伝えています。
確かに、この杉田の領主は戦国時代~江戸時代を通じて北条家の家臣で水軍も抱えた間宮家の領地でした。
新編武蔵風土記稿を編纂した学者は、実は間宮本家笹下城主間宮康俊公の弟で、織田信長公への外交使者を務めたり日本百名城の一つ八王子城を縄張(なわば)り=設計した分家の氷取沢間宮家間宮綱信公の御子孫でした。
その学者の名前は江戸幕府の歴史編纂機関であり学問所だった昌平坂学問所の地誌取調所で頭取を務めた「間宮士信(ことのぶ)」です。
間宮士信は、杉田八幡宮を中興した殿様を敢(あ)えて「間宮信広」ではなく「間宮某(なにがし)」と名が解らないと記録
しています。
つまり、江戸時代まで間宮家が支援していた事実は殿様の名前は解らなくても記録として残っていた訳です。
新編武蔵風土記稿にも「八幡社」として、現在の杉田八幡宮の元に成った「妙観寺」と言う御寺の敷地に在った「八幡社」の記載が有ります。
ですから…
神社の幼稚園の敷地内に昔の杉田八幡宮別当寺の顕彰石碑が有りまして…
八幡宮の別当寺の名前は新編武蔵風土記稿にも確かに間宮山妙観寺跡と書いて有ります。
記録によれば日蓮宗中山法華寺の末寺と言う事です。   
御寺の山号が間宮山(かんぐうさん)なのは間宮家が中興だからですかね〜。
間宮家は小田原北条家臣で、相模国十四騎筆頭と称された武家でした。
間宮家については別記事を以前書いてますので、そちらを御覧下さい。
※間宮家関連の記事は「ココ」←クリック!
この妙観寺、お隣の妙法寺と本山が同じ中山法華寺です。
妙法寺は、杉田八幡宮を再興したと伝わる杉田間宮家の菩提寺です。
何故に間宮家や法華寺が末寺を妙法寺の隣に造営したかは謎ですが、背後の山は江戸時代❝妙観寺山❞と呼ばれたそうなので、妙観寺が存在した事は間違い無く、杉田八幡宮の前身の八幡社が存在した事の証明にも成ります。
間宮家の祖先の近江源氏佐々木家は真言宗でしたが、江戸時代の間宮家の御子孫は法華宗(浄土宗・時宗・日蓮宗…等々の宗派をまとめて江戸時代までの人の認識では法華衆だった)の宗旨に改宗していたので、杉田八幡宮の前身の八幡社の御社の別当寺の妙観寺が中山法華寺の末寺だったと言う事は非常に信憑性が高い伝承だと思います。
別当寺と言うのは江戸幕府の方針で、神社は大小様々あり荒廃してしまう場所もあったりする関係で檀家を抱える寺院の僧侶に管理を委ねていたので、その管理人の事を「別当(べっとう)」と呼び、管理する本社機能の有る寺院を「別当寺」と呼んだ訳です。
更に明治時代以前は国家神道は成立しておらず、神仏習合が千数百年来の価値観だったので僧侶が神事も行えたし日本の神様も信仰していましたし、仏事と神事は融合していたんですね。
なぜ、仏教僧に別当職を任せ管理させたかと言うと、実は切支丹(きりしたん:キリスト教)の禁止令と関係が有ります。
江戸時代初期に発生した九州の天草四朗時貞の扇動した切支丹一揆が大規模な内戦に発展してしまい江戸幕府はその鎮圧に苦戦した経験から、キリスト教徒を改宗させたり農民や町民の宗旨を把握する為に文章による管理機構を有していた寺院に、一般人の宗教の管理を「檀家制度」を用いて行わせた為に、寺院が別当職を担っていたんですね。
これは、間宮家の家臣の御子孫に聞いたのですが、昔は武士の家だけが明確な自前の墓地を持ち、寺ではなく自分の敷地に祖先を埋葬していたので「死んだら自分家の山に放り込んでおいたんだよ(笑)」と冗談めかして御話しされていました。
そして、日本国民のキリシタン化阻止と戸籍管理も兼ねて、どの寺院の檀家かを明確にする事が義務化されたそうです。
確かに、古くから間宮家に仕えた武士団の御子孫達は皆さん自前の墓地を御持ちでした。
小生の一族も自家の墓地を田舎に所有していますし、一族同士の墓も隣り合って存在します。
ところで杉田八幡宮の本殿は御寺みたいに瓦葺です。
接写するの忘れましたが、本殿の彫刻も立派でしたよ!

杉田八幡宮の記録が明確に記されているのは新編武蔵風土記稿な訳ですが…
現在の杉田八幡宮の認識では、間宮家分家の杉田間宮家7代目の間宮信広(のぶひろ)公と言う方が中興し9代目で無嗣断絶したと伝承しますが、実際は8代目で断絶の上に寛政重修諸家譜に当該人物の記録は有りません。
後世に縁起を書いた人の間違いなのか創作なのか不明で・・・
系図を簡単に纏めるとこんな感じです。
※系図の為に敬称略失礼。
兄:間宮信元____間宮康俊____本家笹下間宮。
弟:間宮信次_②間宮信忠_③間宮信繁_④間宮信之_⑤間宮信勝_⑥間宮信久
  (別名:常信)                           (別名:信盛)                     |__間宮俊信_⑦間宮敦信 _⑧間宮信勝_断絶
これは偽書と言う訳では無く、当時の殿様は普通に名前を何回も改名する文化が有ったので不自然では無い事で、加えて、この時代の間宮家一族は早世する人間が続発し、一族間で養子を出し合って家名を存続した事から混乱が有っても不思議では無いんです。
江戸時代に自分要因の過失事件を起こした場合は記録から抹消されますしね。
ただ、一つ気に成る事は有ります。
間宮士信は、実在したけれど諸般の事情で、例えば主家の北条家が今川家や古河公方等の旧主から鞍替えや独立した都合で当時の名前を誰と関連付けるのに不都合が有る祖先に関しては、「名は詳しならず」と濁すのですが
杉田八幡宮の中興者に関しては「間宮某」と敬意を表さない例外的な表現をしているんです。

因(ちな)みに江戸初期の笹下間宮本家の間宮直元公は佐渡奉行や但馬奉行も務め、大坂攻めでは坑道を掘って大坂城の櫓を破壊する作戦に従事した方です。大坂城総掘りを埋める作戦を進言したにも旧玉縄北条氏与力衆黄備え隊の間宮直元公と銀山衆と伝わり記録にも残ります。
※間宮直元公の事績に関しては「ココ」←クリック!
2a46e62b
因みに、間宮家で最初に歴史に名を残した人物は、伊勢氏北条家の家臣で「間宮信冬」公と言う人物です。
別の説ではこの人物を「間宮信盛」公とする説も有ります。
小生は「間宮信冬」とする説を基準にさせて頂いています。
信冬公は現在の京急川崎駅前の堀之内に城館を構えていた人物です。
「川崎の堀之内」の地名は間宮家の城跡だから、その「城跡の堀割りの名残り」に由来する地名です。
今の京浜急行神奈川駅の場所に在った「権現山城の合戦」で活躍した人物です。しかし合戦自体は北条家が敵方の上杉勢に敗北し、現在の杉田八幡宮や妙法寺や東漸寺の場所に移住してきた記録が残るのが間宮信盛公です。

その間宮家の子孫で、江戸時代に間宮家一族からも学者出世頭として一目置かれていたのが間宮士信なので、自分の一族の神社の社格を誤記する筈が無く、江戸時代には徳川幕府の管理下で間違いなく久良岐郡総社ではなく、杉田村の総社だった訳です。
ただ、源義家公や源頼朝公の時代には久良岐郡総社だった可能性は十分有ります。
何故かと言うと、江戸時代にはこの杉田八幡宮は「八幡宮」ではなく、ただの「八幡社」としてしか記載が無いのですが…
戦国時代には、この杉田八幡周辺の狭い範囲は鶴岡八幡宮の直轄領として記録が残っているからです。
これは、杉 田八幡宮が鶴岡八幡宮と伝承通り同時期に作られ管理されていた名残の可能性と言えなくもない訳です。
…確証は無いですけれどね。
戦国時代、杉田郷の八幡社周辺は房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有ります。杉田に隣接する中原町内の在った源頼朝公に大切にされた泉蔵院も海賊の被害に遭っています。
ですから杉田八幡宮が略奪さた後に規模が縮小されたまま、別当寺の妙観寺の一、摂社みたいな状態に成っていたのを間宮家の殿様が「八幡宮」と呼べる社殿に復興したのではないかとも推測が出来ます。

この状況を整理すると、近代に杉田八幡宮の歴史を編纂した人物が古文書を読まずに伝承を、平安時代の歴史と江戸時代の伝承を混同して伝えた結果、折衷された歴史が現在、杉田八幡宮の伝承として伝わったのでは無いでしょうか?
本殿の隣には不自然な空きスペースがあります。
小さな御社が見えますね?
あれは稲荷社で、地頭だった稲葉家の氏神様として存在している事を間宮士信もちゃんと書いているので江戸時代のままです。
もしかしたら、本来はこの空きスペースに何か、現在の本殿の大きさに等しい立派な建物が間宮家が支援した頃の江戸時代初期には在ったのかも知れませんね。
更に、現在の神楽殿か倉庫のような建物の裏の宅地まで、この削平地は続いているので昔は、その宅地も八幡社別当寺妙観寺の土地だった可能性は高いと思います。
でも、ここで又、現在の杉田八幡宮と江戸時代の杉田の八幡社の記録で異なる事が有ります。
江戸時代の記録では元来の社殿の位置関係上、本殿の位置は現在のこの空きスペースになければいけないんです。
江戸時代の杉田郷の八幡社(妙観寺)の記載ではこうあります。
       ↓
●小名(しょうみょう)宮原に所在
→現在の地名は杉田4丁目で位置関係は不明。
●例大祭は6月15日と9月25日
→6月15日の祭事は恐らく田植え神事か、素戔嗚尊に関する祭り。9月25日は収穫祭か中秋の名月。
※昔は氏子同士で農作業を協力して行ったので、神事は直接生活にも関係が有った。
村の総鎮守
→✖現在の伝承では久良岐郡の総鎮守
石段の所に鳥居が在る
→〇現在と同じ。
本殿は東向きに建っている
→〇現在と同じ。
稲荷社は本殿の右手に在る
→✖現在は本殿の左手に稲荷社が在る。
別当寺の妙観寺は本殿に向かって右手に在る
→△現在は本殿の東側石段の下に石碑が在る。石段を含めると右手。
※但し、稲荷社を見ると完全に✖
●御神体は❝法躰(ほうたい=仏僧の格好)軍扇(ぐんせん=)サイズは約八寸五分の像❞間宮某の寄贈。 
→彫像の外観と当時の間宮家の状況から推測して江戸時代の御神体の正体は法体の八幡大菩薩か?
 ※明治時代の廃仏毀釈と現在の宮司様が仏教嫌悪的御発言が有る方なので八幡大菩薩と思しき江戸時代の御神体が現在も存在するか不明。
江戸時代の記録に在る稲荷社の位置関係との整合性が無いですね。
では杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮 
航空写真で見ると、杉田八幡宮の本殿は稲荷社の右手…
本来とは位置関係が異なり八幡社は外観から他の神社と違う構造をしていなければ成りません。
では上の杉田八幡宮の屋根の構造と、他の八幡宮を比べてみましょう。
京都の石清水八幡宮…平安時代以来の八幡宮総本社の様な存在。
石清水八幡宮
杉田八幡宮の伝承に登場する源義家公が元服、現代で言う所の成人式を挙げた場所として有名です。
この様に、石清水八幡宮の本殿の例に見られる屋根が二棟くっついた構造を「八幡造(はちまんつく)り」と呼びます。これが伝統的な八幡宮の建築様式です。
実は八幡宮は軍神であると同時に❝水神様❞です。つまり、水難を防ぐ神様です。
石清水八幡宮も戦国時代までは眼前に巨椋池と言う巨大な湖が広がっていました。
ですから、由比ガ浜と材木座海岸の広がる鎌倉の総鎮守も鶴岡八幡宮ですね。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は一見すると本殿が回廊で囲まれており石清水八幡宮とソックリですが、本殿屋根は一棟しか無く八幡造りではありません。
頼朝公の時代には八幡作りだったかも知れませんがん、その後の関東では八幡造りの様式が伝わら無かったようです。
現在の鶴岡八幡宮の社殿は江戸時代後期に徳川家斉公によって再建されています。
石清水八幡宮の場合、戦国時代に織田信長公による建築の寄進、江戸時代の徳川家光公の本殿の再建なので古い由緒正しい八幡造りが継承されたのでしょう。でも鶴岡八幡宮の本殿の江戸時代の再建の頃には「八幡造り」と言う形式が江戸や関東の職人には伝わっていなかったのかも知れませんね。
戦国時代の北条氏綱公による再建事業の際には、快元僧都記を読むと奈良から宮大工を集めていますから、石清水八幡宮の形状と同様の八幡造りによる再建だった可能性が有ると思います。戦国時代に鶴岡八幡宮再建を行った職人だけでなく、氏綱公の御父君である伊勢盛時(北条早雲)公は京都に勤務していましたし、古文書には再建事業の詳細は出て来ませんが室町幕府や石清水八幡宮から再建に差し当たって建築文化的な面でも支援を直接受けていたかも知れませんね。
横浜には、鶴岡八幡宮以外に河内源氏が開いた伝承の有る八幡宮が有ります。
南区の若宮八幡宮と金沢区の富岡八幡宮です。
富岡八幡宮はスタートが神戸の西宮神社から蛭子(えびす) 様を勧進した神社で、初期は八幡宮では無かったので少々事情が違います。
2015-01-07-15-26-01
兵庫県の西宮神社から源頼朝公が蛭子(えびす)様を勧進して開いた波除の神社としてスタートし、安貞元年(1227年)に「八幡大菩薩」と自らの神名を名乗った神様から自分を祀る様に神託が有り八幡様が習合されて以来、八幡社と成りました。
八幡様は蛭子様同じ海上航海と治水と雨乞いの水神様であり、軍神でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)ですね。

下は最初から若宮八幡社として頼朝公によって建立された伝承の有る、南区の若宮八幡宮です。
2016-01-27-16-27-47
拝殿と幣殿は棟続きですが本殿は二棟分離しています。
この右手の建物は拝殿と弊殿、左奥に離れて本殿が在ります。
2016-01-27-16-27-51
以前は近郊の熊野神社の本殿がここに在ったそうですが、半世紀程前に再建の際に再建されたそうです。
江戸時代以降は関東では石清水八幡宮や河内源氏の殿様が伝えた文化が継承されず「八幡造り」と言う建築を東海地方出身の家柄の幕府寺社奉行や宮大工が理解しておらず関東の八幡宮神職の間でも知識が途絶えた可能性が有りますね。 
ついでにこの若宮八幡宮の眼下にも江戸時代初期まで「蒔田湾」の名で呼ばれた入江が広がっていました。
つまり石清水八幡宮や鶴丘八幡宮と同じく、水上交通の神様として交通の要所に勧進された事が解ります。
これらを見ると軍事や商業で重要な海や湖や河川の港湾の傍(かたわら)に八幡社が開かれた事も状況証拠として解ります。
蒔田湾は材木輸送の基地としても利用された港湾機能を有していた事が戦国時代の蒔田城主吉良頼康公や間宮家の参加した鶴岡八幡宮再建の事績からも、この一帯の土地が港湾として重要だった事が解ります。
そして、吉良頼康公が蒔田湾から本牧半島を経由して海から輸送した木材は、この杉田に在った杉田湊(みなと)に一旦集積された事が「快元僧都記」や「各寺院の間宮家関連の古文書」で記録されています。
杉田八幡宮も先に見て貰った位置関係の衛星図で、昔は海が眼前に広がっていた事や港が在ったを説明しましたが、やはり水神様としての性格が有ってこの杉田に勧進された事が窺(うかが)い知れます。
では、もう一度杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮
やはり、本来の石清水八幡宮の様な八幡造りでも、若宮八幡宮の様な関東流?の八幡造りでもありません。
では、新編武蔵武蔵風土記公の八幡社(現杉田八幡宮)の配置を記した文章を見てみましょう。 

●石段に鳥居が在る。
●本殿は東向きに建ち右手には稲葉家の氏神の稲荷社が在る。
●本殿の右手に別当寺の妙観寺の本堂が在る。
先程説明した屋根の造り、江戸時代の建物の位置、現在の位置関係を改めて見るに、やはり現在の本殿は妙観寺の本堂だった可能性があり、現在の本殿と地続きの稲荷社左手の削平地宅地部分にに新編武蔵風土記稿の記載通り「旧八幡社」が在ったのでは?…と推測出来ると思います。
杉田八幡宮配置(新編武蔵風土記稿) 
現在の杉田八幡宮の本殿に向かって右に歴史記録と異なりスペースが無いので、石段の下の右側に妙観寺跡の石碑を立てたのかも知れません。 
この社殿の位置関係について2020年06月11日に本殿は明治に再建されたらしいと情報提供頂きました。
※情報提供者様に感謝!
つまり明治の再建で江戸期とは位置関係が変えられアベコベに成った様です。


さて、間宮家により保護されたり妙観寺が有って杉田八幡宮は現代に存続出来た訳ですが・・・
八幡信仰は漢学を導入した応神天皇=大鞆別(おおともわけ)命の皇子の仁徳天皇により始められた信仰で長らく仏教と一体でしたので、少し八幡宮信仰と言う文化について個人的な意見を書いておこうと思います。
IMG_0342
先ず、石清水八幡宮は平安時代に筥崎宮より八幡大菩薩の御神霊が神託によって遷座された聖地です。
現在の神社本庁の総長を御勤めに成っておられるのは石清水八幡宮の宮司様ですが、鶴岡八幡宮も御神霊は石清水八幡宮の御分霊を頼朝公が改めて勧進され鶴岡若宮八幡宮が成立したました。その石清水八幡宮は神職のみならず江戸時代まで修験者や僧侶達に等しく日本神話の八幡大菩薩の聖地として大切にされており、神様と仏教哲学とも結びついた神仏習合時代には多くの社殿僧坊が石清水八幡宮の在る男山に立ち並び、大変に多くの日本皇族や全国の有力武士から多くの寄進が集まり大変興隆しました。
2014-07-27-19-06-56
同じ様に神奈川県の延喜式内社である大山寺が神宮司だった石山権現大山阿夫利神社や修験者が守っていた式外社の八菅山七所権現八菅神社等は神仏習合の場ですが縄文の古代よりの祭祀場が出土したり日本武尊が行幸された聖地として古来より神職修験者僧侶や貴族武士庶民大切にされた場所です。
CIMG6079
現在も石清水八幡宮は当時の文化を尊重し重視されておられますし、鶴岡八幡宮も正式名称は源頼朝公の再興以来、明治政府成立までは“鶴岡八幡神宮寺”であり巨大な寺院機能が鎌倉国宝館や横浜国立大学附属中学校一帯の敷地に存在し、神様としても仏教施設としても武家の本地としても大切にされていました。
DSC_3585
筥崎宮には亀山天皇が書いた筥崎宮の八幡大菩薩の名で神様と成られた応神天皇へ祈願を書いた❝敵国降伏❞の起請文が社宝として伝わりますが、東郷平八郎元帥達は八幡大菩薩の御神威を得るべく、その起請文を復制した護符を御分霊として戦艦三笠に奉っていました。
同じ様に多くの神仏習合の八幡様が主祭神の八幡社では、江戸時代の記録を読めば御神体は御神鏡ではなく八幡大菩薩像等の神仏習合の神様として祀られていた事実が解ります。
IMG_2539
小田原市の曽我別所の八幡社では現在でも御神像が祀られています。
そもそも八幡信仰は大鞆別命=誉田別命=応神天皇(この時代に天皇号は未成立)に渡来思想と技術力と漢学を学んだ皇子の大鷦鷯尊=仁徳天皇と莵道稚郎子が父大王の命(みこと)=御霊(みたま)にヒンドゥー教由来の外国思想を取り込み八幡の神号を習合してスタートしているので弾圧される謂れは無い訳ですね。スタートから神仏習合だった皇族の祖先な訳ですから。
その仁徳天皇が開いたのが鶴峯山(平塚)八幡宮。
CIMG2259
そして弟皇子で兵法や文学等の漢学を導入したのが莵道稚郎子命で、延喜式内社四之宮前鳥神社の御祭神でもある訳です。
CIMG1731
根本的に応神天皇の御神霊は自らを「八幡大菩薩」と称した神託の記録が元に成り神号として定着している事を知らない神職もいますが、横浜でも八幡大菩薩と応神天皇が自称し神託を発した場所が富岡八幡宮な訳です。
2015-01-07-15-29-46
八幡信仰は、そもそも日本の自然崇拝や御霊信仰から始まった神様では無く外国の思想哲学や工業も象徴しつつ大鞆別命=応神天皇が事績から治水の御神威も持ち合わせた形で神格化され仁徳天皇や莵道稚郎子命によって八幡信仰がスタートしている事が解る訳ですが、明治以降の自然信仰や聖地崇拝や神仏混淆信仰を邪とする発想は江戸時代の水戸藩の借金増加戦犯である水戸光圀が始めた水戸学が原因で、明治政府を樹立した政治家が倒幕思想として学んだ事に由来している事を知らない人も多いのが現代の問題の原因です。 
彼は為政者としては民に重税を課した政治家としても有名ですが、思想家としても所領の八幡宮を打ち壊して回った人物でした。

そもそも明治の東郷元帥達海軍軍人は歴代天皇と同じく神仏や聖地自然を全て往古のまま大切にされて、明治の森有礼等キリスト教徒政治家による宗教改革に不服従で、戦艦三笠の守護神御神体は明治の宗教改革後も「箱崎神宮八幡大菩薩」だった事すら知らない人が嫌仏神職には多いのが現場です。

杉田八幡宮は配置から状況を整理すると、小生が杉田八幡宮は「社殿が御寺みたい」と感じた直感は正しくて妙観寺の本堂が現在の神社の本殿に転用されたんだと思います。 
因(ちな)みに、石清水八幡宮には仏様が祀られていたスペースが現在も残されています。
石清水八幡宮の仏間
正に、八幡大菩薩が元々神仏習合の象徴たる歴史を示しているのが、江戸時代と現代の杉田八幡宮の建物の位置関係の謎とも言えます。
明治時代まで日本人は神様も仏様も大切にしたんですね。
自然を敬い古代の祖先からの文化を継承する神社、哲学や学問を広め建築技術を発展させた御寺、その両方が協力し明治時代に成るまで歴史と伝統と祖先や古代の祖先に繋がる氏神様を守って来た
日本の文化の象徴的な存在が八幡信仰なのかも知れませんね。

杉田八幡宮は“間宮信廣”なる間宮家譜的には謎の某人が登場するので、間宮家の神道や御寺に対する一族の功績と血筋を箇条書きにして考察を〆ようと思います。

※小生の家は間宮及び宇多源氏の血は一滴も遺伝子に組み込まれておりませんし、もっと古い国造系宮司家の子孫ですが、個人的な意見として間宮家は神道的にも仏教的にも修験道的にも以下の理由で現代の神奈川県神社庁からも大切にされるべき家柄だと思っております。

1,間宮家は宇多源氏の氏神の沙沙貴神社宮司家の子孫ですし、沙沙貴神社の御祭神は文化の神様の敦実親王でありその御神孫にも当たります。佐々木高綱公や黒田如水公や乃木大将は遠い親戚ですが、その中でも宇多源氏氏神の宮司家直系子孫が船木・真野・間宮・杉田で初代鎌倉公方の直臣として関東に入り伊豆国馬宮を領して以後に間宮を名乗りました。
image
※安土城下の沙沙貴神社随神門の写真。
江戸時代の学者の間宮士信公、杉田玄白、間宮林蔵公等も子孫に当たります。

2,間宮家は室町時代より代々一族が天皇勅願所だった江ノ島の岩屋を管理する江島神社別当の岩本坊別当職を世襲した家でした。
間宮家が別当職を務めて居た時代には古河公方足利成氏公が逆徒山内上杉家と扇谷上杉家の藤原家流血統の鎌倉府専横に対して圧倒的不利な状況下で江の島に籠城し、両上杉逆徒を撃破撤退させる事に成功した御神威を別当職として引き出しています。
戦国時代にも北条家の北条綱成公がが3000千の寡兵で川越城に籠城し上杉家連合の大軍8万相手に半年間の防衛に成功していますが北条綱成公の家老が間宮康俊公です。更に、主君の北条氏康公が救援に兵8000を率いて河越城に向かう2日前、江ノ島の岩本坊に滞在し江ノ島神社別当岩本坊に滞在し間宮家の祈祷によって八臂弁財天様と天皇勅願所の加護を得て河越城の北条綱成公と合わせ兵11000で上杉軍80000超の大軍を撃破しています。
当時の間宮家は恐らく修験道で江戸時代に成ってから幕命で真言宗に属していると思われますが、神職としも僧侶としても修験者としても、その能力は大変な物だと歴史事実から思います。
IMG_3526
※江ノ島の大鳥居。参道右手に在る旅館岩本楼は江島神社と勅願所岩屋の別当を務めた岩本坊が明治の基督教信者閥政治家の宗教改革による仏教弾圧寺に寺院を廃業して宿坊機能だけを活かし旅館業に転身した。社長の岩本家が本姓佐々木氏で一族には明治に分家し初代江ノ島郵便局長で関東俳画界の巨星と成った間宮霞軒翁がいる。現在の江島神社宮司家は間宮家とは無関係だが良く歴史を伝えておられる。

3,関東に於ける八幡宮と言えば武家の本地の鶴岡八幡宮が全国的に有名ですが、その八幡宮が鶴岡八幡宮合戦で里見家と正木家の海賊と狼藉者によって鎌倉市街地ごと放火略奪され灰燼に帰した際に、小机城代で北条家筆頭家老格で再建奉行の笠原信為公、海運を担当した蒔田御所吉良頼康公等と協力して寄親で材木奉行の北条綱成公の調達管理実務を間宮康俊公が行い杉田港に材木を集積し鎌倉まで輸送し、更には鶴岡八幡宮内の築地塀奉納に北条一門や家老衆と名を連ねている事実が快元僧都記や地理や家臣団の名から解っていますので、日本の八幡信仰に対して多大な貢献をしている事実から現代の神道に残した功績は少なくない思います。
CIMG5852
間宮康俊公は居城の笹下城下にも若宮八幡社を勧進し開き大切にされています。

4,間宮家は戦国時代に現在の海老名市、国分(現在の海老名市中心街)にも所領に持っていました。
この海老名市に在る延喜式内社の有鹿神社は古代一之宮で今五之宮ともされる上に天平年間には天智天皇より国家鎮護の勅願所として祭祀が行われましたが、新田義貞の鎌倉乱入戦時の社寺への略奪放火や室町時代の上杉禅宗の乱や永享の乱で荒廃し古代からの水引神事が中絶していました。有鹿神社は別当寺が真言宗成就院ですが、間宮家が海老名領主の時代に間宮家の主君の北条氏政公により水引神事が成就院の僧侶によって復興されました。間宮家と神事と真言宗の関係性を考慮すれば、この古代の神事復興に間宮家が関与した可能性は大いに有ります。神社と言う形式成立以前からの古代の神事祭祀を復興された事は神道的価値観からも修験道の価値観からも真言宗としても日本文化保護の見地からも大きな意義が有り、間宮家の関与が裏付けられれば寒川神社の追儺祭神事が古代の形式と言葉を用いて現在にも続いているのに匹敵するのと同じ程に素晴らしい事と言えるでしょう。
CIMG5985

5,間宮康俊公の姫の於継サンは古河公方足利家重臣豊前氏盛公に嫁ぎ、もう一人の姫の於久サンは東照大権現徳川家康公に側室として嫁ぎ姫を産み、康俊公の御子息の康次公の姫は延喜式内社で関東最古の大社の鷲宮神社宮司大内泰秀公に嫁ぎ、杉田間宮家の間宮信繁公の姫は久能山東照宮の初代大宮司榊原照久公に嫁ぎましたので宗教的に高い家格でした。
CIMG0811

さて・・・
新編武蔵風土記稿には、「八幡社の背後の山から下に見る梅林の風景が綺麗だ」と書いていますが、これが幻のブランド梅の「杉田梅」の梅林でした。
この杉田の梅林は杉田間宮家の間宮信繁公が植林された梅林で、江戸時代~昭和初期には一大観光地として栄え、明治天皇や皇族も見学に来られた程の規模でした。 
間宮信繁公は徳川幕府初代鷹匠頭で家康公の供を常に勤めた人物で関ヶ原でも活躍しました。
間宮信繁公の御墓は、近くの牛頭山妙法寺に在ります。
※妙法寺の記事は「ココ」←クリック!
杉田梅林は罰当たりな横浜市教育委員会が保護しなかったので、見事に宅地化され消滅してしまいました。
意外かも知れませんが、この旧杉田郷付近は重要な歴史史跡が多いんです。
弘法大師空海和尚様が開いた妙法寺も近所在ったり、この横浜~三浦一帯には日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承も有ります。
杉田駅前の東漸寺も鎌倉幕府の名越北条氏の北条宗長公が開いた古い御寺です。
この名越北条家の殿様の移住先が現在の名古屋市で、古くは名越野と書き、後に那古野、更に江戸時代に那古やと成った名古屋の地名のルーツの殿様の御寺だったりします。
杉田の隣接地、磯子区峯~港南区港南台~栄区上郷~金沢区釜利谷に跨る円海山は、古代人が住み蹈鞴(たたら)製鉄を行った遺跡が出土し、古代神の思金神を祭る神社や鎌倉武士が使った間道史跡の鎌倉古道が林道に成っていたり、京都知恩院大僧正を輩出した由緒ある阿弥陀寺や古河公方の御子息が開いた寶勝寺も有ります。
そして東急不動産と今の林市長が開発してしまおうとしていますが、円海山の瀬上沢一帯では自然のホタルも見れます。
磯子区や港南区を含めた久良岐郡が古くから開けていた史跡が点在し、豊かな自然も円海山には残っています。
この伝統を守って下さっていたのが、明治時代以前までの神社の宮司様や御寺の和尚様達な訳です。
ですから杉田八幡宮にも源義家公との逸話や、間宮家の殿様との逸話も伝承する訳です。
屛風ヶ浦には源頼朝公の開いた森浅間神社も在ります。

もし、杉田駅の御近所に住んでらっしゃる方がいれば、杉田商店街で買い物ついでに歴史偉人の開いた東漸寺〜杉田八幡宮〜妙法寺を歴史散歩なんて贅沢な時間の過ごし方が出来ますね〜。

今回は杉田八幡宮を紹介させて頂きましたが…
皆さんの住宅街の中にも意外な偉人との関わりや深い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れませんよ〜?
…と、言うお話でした!

では、皆さん、又次のブログ記事でお会いしましょう!
mixiチェック

ブログネタ
「秋を感じるひとこま」教えてください に参加中!

横浜市港南区~磯子区峰~金沢区氷取沢にかけて円海山と呼ばれる山がありまして・・・

風景がとても横濱と思えない綺麗さなんです。 IMG_5684
今では静寂な森の中の古道沿いにある阿弥陀寺と言う御寺と、昔は阿弥陀寺の奥院だった護念寺と呼ばれる御寺ですが、実は江戸時代~昭和初期まで凄く有名で、日々参拝客が蟻の行列の様に大量に列をなして訪れた名古刹なんです。

実はこの護念寺ですが、お灸治療の大本山とも言うべき御寺でして、古典落語「強情灸」の舞台でもあるんですね。
ですから、この御寺は「峰の灸」の別名でも呼ばれています。
IMG_5682
嘗(かつ)て、磯子区杉田〜港南区笹下にかけて点在した広大な杉田梅林は、江戸からの江戸っ子観光客で賑わっていました。

船で磯子区杉田の聖天川までクルージングし海からの屏風ヶ浦の美しい風景を楽しみながら、杉田梅林を見学に来る訳ですね。残念ながら杉田梅林は教育委員会が開発容認し消滅しました。…明治天皇や皇族もよくいらっしゃった美しい風景と最高級の梅のブランド杉田梅を教育委員会が消失させたんですね。

で、その江戸時代から昭和初期の観光コースに峰の灸も入っていたし、純粋な治療客も沢山いました。

横浜横須賀道路と言う高速道路の開通で阿弥陀寺と鎌倉古道が寸断され、鉄道の駅からも遠い事から、昭和の高度経済成長期に成ると段々、参拝客も減ってきてしまいましたが・・・
今でも慢性的に体の痛みがある人がココに来て治療を受ける、お灸の本場なんです。

もっとも・・・
小生はソンナ歴史も知らなかった20歳の頃、原付バイクでフラっと田舎道の風景を探して立ち寄って、その聖地のような清々しい空気感に呼びこまれて迷い込んだ御寺なんです。
その時は、竹林の風景の美しさと、何だか…
「あ~横浜市が久良岐郡と呼ばれた頃の風景はこんな感じで美しかったんだろうな~」
・・・と思っただけでした。
IMG_5706
この護念寺は清浄園と言う公園墓地に至るまでのアプローチが昔の鎌倉古道なので、とても神秘的な風景が残っているんです。
でも今じゃ落語の“強情灸”を知らない人の方が多いですよね?
せっかくの機会ですし、強情灸を御存(ごぞん)じ無い方(かた)の為にその噺(はなし)を紹介します・・・
IMG_5680

【強情灸】 
通りかかった知り合いが唸っているので、気になった男、家に招き寄せる。 
聞けば何でも体がだるいので、""という店に灸を据えてもらいに行ったらしい。


「このお灸な、凄まじく熱いんで評判なんだよ。気の弱い奴なんかな、一つ据(す)えただけで… 
「ギャー!!」
なんて天井突き破って飛んでっちまうんだと」 

余りにも熱すぎるので、せっかく来た人が怖気づくぐらいだが… 
それでも"効く"という評判のおかげで店の前は長蛇の列。 
仕方がないから、番号札を配って据えてもらっているらしい。


俺がもらったのが"への36番"行列のどん尻だぜ?これじゃ日が暮れちまう… 
「帰ろうかな」 
…って思ったらよぉ! 
先に並んでた綺麗なお嬢さんが先客が熱がってるんで心配(不安)に成っちゃったんだろ? 
…俺に 
「ねえ、アタシと代わってくれませんか」 
なんて… 
「ええ!ようござんす♪」 
…と、喜んで代わりましたとも。 

早速内に入ると、店の者が… 
「うちの灸は熱いですよ。大丈夫ですか?」


頭にきた友人、上半身裸になるや… 
「さあ据えてくれぃ!」 
…と怒鳴る。 

灸を36箇所に据えると言われ、なおも意気がった友人… 
「全部いっぺんに据えろ(怒)!」と一喝。 
啖呵に店の者も釣り込まれ、本当に全部いっぺんに据えてしまった。 

一つで飛び上がるような灸を、36個いっぺんに据えたんだからどうなるか?


身体中から煙が上がる…不動明王みたいになっちまったが…"ここで逃げたらカチカチ山のおタヌキ様"だ。 
我慢して唸ってたら… 
店にいた奴らがみんな寄ってきてヨ! 
「この人、本当に人間かい?」 
「神様の化身でしょう」 
…なんて感心してやがんだよ。 
…その中にね、さっき俺と札を取り替えたお嬢さんがいてさ、俺の顔を見てポーッとなってんだ。 
「あぁ…たくましい人ね、お嫁になるならこんな人が」 
…なんて思ってやしないかと。 

自業自得で熱い目に遭ってきて帰り道で唸っているような間抜けの(笑)、体(てい)もないノロケ話を聞かされ、呼び込んだ方の男は面白くない。 
元来こちらも同類の馬鹿である… 
「たかだか灸ぐらいで威張るな!」 
…と、奥から藻草(もぐさ)を持ってきて、腕に山盛りに積み上げるや早速点火(笑)♪


「活火山だよコリャ(笑)…見てろ!今に火が回ってくるから(笑)」 
火勢が強まり、煙が上がる。 
男、脂汗を流しつつ歯を食いしばる。

「うう(汗)…」 
「…灸ぐらいで威張るな、石川五右衛門なんか、油で茹でられたのに平気で辞世の句を詠んでたぞ!」 
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ…ってな!」 
「八百屋お七なんか、15歳で火炙(ひあぶ)りだぞ?」 

…それに比べりゃこんな物…お七…五右衛門…お七… 

ぎゃぁあぁっつ!」

とうとう辛抱堪(たま)らず藻草を払い落とし、なおも「五右衛門んん…」と唸っている男に、友人が意地悪く声をかける…

「五右衛門がどうしたって(笑)?」 
「…」 
「……」

「………さぞ熱かったろう」 

IMG_5683
円海山 清浄院 護念寺

・・・どうです?強情灸、バカでしょう~(笑)?
いつの時代も男は可愛い女性の前で良い顔したがる見栄っ張りってネタでした(笑)。
ところで、この写真の建物はが仮本堂であり現在も御灸の施術をする建物でもあるそうです。
昭和の頃迄は沢山の御客さんで賑わっていたそうですが、現在は要予約だそうです。
定休日は月曜日。診療は午前中のみ受け付けているそうです。
IMG_5714
境内の雰囲気とても素敵でしょう?
丸で鎌倉の隠れ家に来たような・・・
神様の住んでる御社(おやしろ)でもありそうな雰囲気ですよね?
秋には紅葉もチラホラとあり、この季節はここに来てヒンヤリとした空気を吸い込むと、何だか生きてる感じが凄く静かに感じられるんです。
IMG_5685
少しこの御寺の歴史を見てみましょう・・・
KIMG5301
ハイキングコース地図の右下に阿弥陀寺、その少し真ん中寄りに護念寺、右側中央に“道場丸”と“いっしんどう=一心堂”の地名が残ります。この一帯は阿弥陀寺の奥院だった護念寺の寺領だったのでしょう。恐らく御寺の収入減は大岡川や鼬川の水運を利用した木材の売却だった筈です。二つの河川を使う事で相模湾側の鎌倉や、江戸湾の江戸方面に材木を出荷出来て昔は大いに繁栄したのでしょう。
新編武蔵風土記稿の護念寺の項目に“この一帯の緑は寺の敷地だったから残った”と言う記載に円海山の森林が残されていた理由と整合します。
IMG_5691
今でも樹木に囲まれた御寺です・・・
この、静かに遠慮気味に色づく紅葉達の奥に御念寺の現代の本殿があります。
撮影した日は法事の車が数台とまっていたので御本堂の写真は写しませんでした。 
御本堂を過ぎるとマイナスイオンでヒンヤリとし、静寂な神聖な霊気を感じる様な竹の隧道が出迎えてくれます。 
IMG_5693
さて、この護念寺には幾つかの由緒ある仏像が有り、その一つが薩摩の大名どうやら島津家から拝領した威徳明王の1寸八分(545mm)の伝弘法大師作の彫像らしいです。
元々は護念寺の向かいの山の上に堂が有って、そこに祀られていた物だけど御堂が壊れたから護念寺に移したと言う事が新編武蔵風土記稿に書いて有ります。
昔は坂下バス停辺りに本院だった阿弥陀寺が在りました。
そこから登って来る護念寺の清浄園墓地側の道は現在廃道ですが、恐らく、そちらが江戸時代の参道だった筈です。阿弥陀寺の方は1400年代には旧所在地に存在したと伝承しています。
鎌倉の戦火で矢部野(洋光台~峯)一帯が戦火に巻き込まれて阿弥陀寺が現在の山の上に移転したのが1400年代だと伝わりますので、この鎌倉の戦火は鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義教公が対立した永享の乱か、足利持氏公の御子息で最後の鎌倉公方と成った足利成氏公の頃の話でしょう。
護念寺とその谷を挟んで反対の山上は現在の阿弥陀寺に当たり、既に阿弥陀寺は1600年代の頭には現在地に移転していたので護念寺の威徳天が祀られていた向かいの御堂は阿弥陀寺ではなさそうです。
では、どこでしょう?
一心堂位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して下さい。
この威徳明王が祀られていたのは恐らく円海山の一心堂広場だろうと思います。
丁度現在も参道に使われている谷筋を登る道以外に私道になり廃道化してる道が有ります。
その谷道を挟んで一段高いのが“いっしんどう広場”=一心堂でしょう。
現在の位置関係で見てしまうと阿弥陀寺の場所が向かいの山に見えてしまいますが、時代的にも威徳明王が祀られた江戸時代には既に阿弥陀寺が存在していた為、阿弥陀寺の山ではなさそうです。
となると、向かいの山で更に“堂”の名前が付くので一心堂がその場所だろうと推測出来る訳です。
ちょっと今の阿弥陀寺との位置関係だと護念寺が阿弥陀寺の奥院として機能していた事が理解し難いのですが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
・・・昔の阿弥陀寺は洋光台6丁目坂下バス停辺りに存在したそうで、確かに、その位置からだと真っすぐ直線状の背後の山に護念寺は所在しています。
画像に赤く引いた線は現在は廃道に成っている古い道で、実はそちらは切通状に成っていて重要な道だった事も解かります。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
この道は明治時代初期の迅速測図にも-----の点線表記で護念寺の右手の舌状丘陵の尾根道として記載されています。
KIMG8344
その道がこの解体屋サンが並ぶ丘の道を更に一本裏側に入った場所です。
KIMG8343
今では草が鬱蒼としてしまっています。
KIMG8348
その先は円海山清浄園の墓地の先っちょ、この道に繋がっています。
昔は小道だったようですが、もしかしたら墓地造成で開削され、更に丘の入口が解体屋サンに払い下げられ今は使われなくなったのかも知れません。
一心堂の場所ですが・・・
KIMG8352
氷取沢側から見た円海山、鉄塔の辺りが一心堂広場の近くです。
KIMG8351
現在は遊歩道としては整備されていませんが、氷取沢側の農道から続く江戸時代の道は今でも生きています。
この道を登ると・・・
KIMG8349
ちゃんと昔の道標がわりだった交通安全の仏様の馬頭観音様が多分、昭和時代位に上の部分だけ作り直されて今も有ります。この場所がT字路に成っていて富士塚休憩所を経由して護念寺の墓地に成っている円海山清浄園の古道や鉄の道の尾根道に通じていました。
KIMG7585
又、迅速測図を見ると古代の尾根道の街道が悉(ことごと)く護念寺の辺りに集まっているので、前身の御念寺は逗子の岩殿寺や金沢区の浄願寺の様に山岳信仰的な要素が有り弘明寺や八菅山の様に山全体が聖地化されていて各所に御堂や神社が有った事が推測出来ます。
製鉄有る所に豪族有り、豪族有る所に神社仏閣有り・・・と言った所でしょうか。

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。
コレ⤵️
宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜(べんぎ=便利)とす。


要約すると・・・
「護念寺の在る円海山は城址」
「だから往来が不便で星谷智久公がショートカットの道を御寺の為に作りました」
・・・つまり円海山=長野山は城でした。
合わせて、この文書から調査した末端の記者か編集した人のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨です。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
星谷家が足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)と調査した江戸時代の記者も編集者の間宮士信公も昭和の出版社も何故注意が向かなかったのでしょう?
その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しており単位も両・朱・分でしたし、永楽銭は廃れています。
つまり宝暦二年(1752年)に星谷家が永楽銭を寄付する事自体が変な訳です。
調べた記者か編集者かが他の元号と読み間違えた事は明らかです。
永楽帝の在位期間は1402年~1424年永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。なので宝暦の書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択すれば正体が判明しますね。
康暦二年(1390年)→1411年以前
宝徳二年(1450年)→1411年以後
・・・宝徳を読み間違えたんでしょう。
では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるので宝徳を宝暦と読み間違えて記者が取材し風土記の編集に間違えたまま峰村の説明にも反映されたみたいですね。
そのせいで現代にも混乱を及ぼしているのでしょう。
「そんな学者や編集者が間違える事有るんかい?」
・・・と思う人がいると思いますが、そんな事は現代でもしょっちゅうです。
江戸幕府の役人が書き間違えた杉田間宮家初代の名前を菩提寺や御子孫に調査すらせず間違えたままコピペ出版してる人もいます。
地名でも例えば阿弥陀寺や護念寺は昔は杉田郷と呼ばれた行政区分の地域でした。所が昔は現在とは字が異なります。
杉田=杦田
杉ではなく杦の字で表記したんですがコレが読めない学者サンが・・・
「“松”田とか書き間違えてる」
・・・と杦=杉を読めず杦を松と勘違いし“間違いじゃないのに間違えた指摘をする”事も有ります。
昭和のいい加減な仕事の出版物をコピペして終わってる学者サンいるんですね、それと武将の名前も江戸時代の幕府の誤記を子孫や御寺や神社に確認しないで誤記のまんまコピペしてる人もいます。
誰とは言いませんが横須賀市やNHKの歴史解説員をしていると自己顕示満々のプロフで宣伝してる勲章貰った学者サンとか。本当に歴史偉人をリスペクトしていて御墓参りすれば一発で気が付く事なんですんが。
さて、今回の間違いですが・・・
永錢が永楽銭と言う事は、戦国時代を好きな人は大概知っています。
徳と歴 久良岐のよし
永楽銭なら宝暦ではなく宝徳だと歴史学者でもなんでもない小生でも、この様に気が付きます。
これにより阿弥陀寺と奥院の御念寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。
そして、この阿弥陀寺の奥院御念寺への寄進は応永二十三年(1416年)の戦闘によって阿弥陀寺は焼失後現在地の山の上に新しく御堂を建てて復興されたけれど、奥院の御念寺は一時は城塞化されていた不便な立地なので復興が遅れ、永享十一年(1439年)に永享の乱が終わり、鎌倉公方が一端途絶して平和な時代が来た宝徳二年(1450年)に漸(ようや)く再整備の手が回る様に成った状況が理解出来ますね。
余談ですが、戦国時代に旧間宮領にいて江戸末期に里正(庄屋)に成っていた旧北条家臣団の名字に星谷はいません。
ただし越前朝倉家臣に星谷家がいると沼津市では伝承しているそうですから、そもそも朝倉家の旧主斯波家臣に星谷家がいた可能性はあります。
北条家臣にも朝倉家がいるのは斯波家が南北朝時代に関東執事を務めていた名残りでしょう。
以前にコレ⤴️品濃白旗神社の記事で少し書いていますが、南北朝時代に近くの秋葉郷(戸塚区東戸塚~品濃辺り)に柴田勝家高経公が関わっていたり、足利尊氏公の御実弟足利直義公の頃に星谷家が杉田郷に関わっていてもおかしくはありません。
そして朝倉家は
右馬助(うまのすけ)朝倉政景が戦国時代の北条家臣として横須賀市の浦郷や追浜辺りや、伊豆半島三島市玉川辺りを支配していました。
この朝倉家の朝倉平次郎と言う武将が間宮家と玉縄衆と言う軍団で同僚だった事も解かっていますし、
南区太田にも朝倉又四郎と言う武将がいました。
ただ、峯町の星谷サンは北条家臣朝倉家の家来ではないでしょう。寧(むし)ろ旧間宮領にいる朝倉家は玉縄衆朝倉又四郎が豊臣秀吉による北条家改易後に本牧奉行、佐渡金山奉行、生野銀山奉行に成っていた間宮家を頼って江戸時代に移住して来て家臣化した一族かも知れませんね。

星谷の苗字を名乗る武将は戦国時代~江戸時代初期、そして現代に付近にいませんが、他の北条家臣団の苗字を持つ大地主達は現在も存続します。
この地域の地主は槙田家、塩沢家、大塚家、苅部(軽部)家、小原家です。
近くでは金子家、岡本家、野本家、内田家、市村家、荒井家、斎田家、北見(喜多見)家、朝倉家、笠原家、田野井家、山野井家、高梨家、武田家です。
もっと離れて南区まで行くと、森家、並木家、佐々木家等の蒔田吉良家臣団の名前が蒔田吉良家菩提寺の勝國寺の檀家さんに沢山いたりします。
加えて磯子区港南区地域では間宮一族分家や系図上養子が入っていると伝わる松本家、武内家、間辺家がいます。
沼津市の伝承では朝倉家臣星谷家がいるらしいですが朝倉はこの阿弥陀寺や護念寺近辺の峰地域に地主はいませんし、北条家臣朝倉家の更に家臣が杉田郷の地頭では北条家の公式記録の北条所領役帳に記載された間宮家の所領の歴史と整合性がありません。
どうも北条氏照公が元服前の藤虎丸時代に崇拝し、元服して北条氏照と名乗ってからも“陣屋”=“宿舎”としても利用していた座間市の星谷寺(しょうごくじ)辺りの現代の地名は“入谷”ですが、元々は星谷(ほしのや)が正式な地名なので、その辺りが出自でしょうか?
だとしたら、遠い祖先は横浜市港北区に移住して茅ヶ崎城代と成った座間家と親せきだったかも知れませんね。
この茅ヶ崎城主は平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公の協力者だった摂津源氏多田行綱公の関東における城館でしたが、戦国時代に入ると北条家臣座間家が城代を務めた場所でした。
 
駿河国戸倉城近く沼津市大平に、元今川家臣で後に北条家臣と成ったと言う星谷姓の武将がいて城館跡が有るものの出自は不明、沼津市では資料がなく、間宮や江川家と関わり深い伊豆の国市でも資料は無く、座間市にも全くありませんでした。
しかし現在も鎌倉時代位の星谷家の出身地域と思(おぼ)しき座間市~海老名市~寒川町辺りには星谷姓の家が点在するので、座間市入谷(旧:星谷)が出自“くさい”所ではあります。
偶然ですが、座間家の上官に当たる大曾根城主、小机城代だった笠原信為公の笠原家も伊豆出身で、その一族の笠原綱信公の養子、笠原政晴が戸倉城主を務めています。
何だか座間家と星谷家は笠原家与力として北条家で編成されてた家も存在した可能性があります。
しかし星谷家について現代では何も解りません。

・・・星谷家が座間市出身と仮定してすると・・・

南北朝時代に鎌倉公坊足利義詮公家臣になり・・・
関東執事の斯波高経公の与力として配属され南北朝時代に峰町辺り旧矢部野村を治めた分家の星谷家がいて・・・

足利尊氏公の二男、足利基氏公が鎌倉公方になり伊豆国一帯を自身の与力で固めた際に伊豆に入植した星谷家と、磯子区峯町一帯に地頭として残り室町時代初期まで存在した星谷家がいて、それぞれ別々の運命をたどり・・・
横浜市に残った鎌倉公方与力だったかも知れない星谷智久公は宅間上杉与力となり・・・

更にその後、永享の乱頃には扇谷上杉派の与力となり、北条氏綱公が扇谷上杉家と対立すると湘南に勢力を張っていた北条家臣間宮家により駆逐されたのかも知れません。
KIMG5535
※写真は伊豆半島、田方郡函南町“間宮町”の“間宮南”交差点。
もし、このプロセスならば阿弥陀寺を江戸時代に中興した苅部家の領主、間宮家が足利基氏公の家臣として近江国から伊豆国田方郡間宮、今の函南町間宮に移住し神奈川県東部に勢力伸長したプロセスと酷似しており有り得ると思います。
しかし新編武蔵風土記稿に話を戻すと、星谷家は室町時代末期にも杉田郷には名が見えず、安土桃山時代にも、江戸時代初期にも名が見えず、現代の地主にも名が見えず・・・
新編武蔵風土記稿の記載通りなら地頭なのに江戸時代中期の一時代だけいるのはおかしな話しだと個人的には思います。
・・・星谷家は北条家が武蔵国域を支配し杉田郷が間宮家臣団の支配地に組み込まれた頃には磯子区磯子城主の平子家と同じ様に駆逐されたと考えた方が自然でしょう。
平子家については以前書いた記事があります。
コレ⤵
 
仮に江戸時代に“地頭”と言うか在郷武士だったなら、隣の六浦には今も江戸中期に大名として入って来た米倉さんが横浜市大の近所の六浦藩陣屋跡に普通に現代の家を建てて住んでいますし、江戸時代中期に地主侍なら今も間宮家臣団の他の地主同様に現代の大地主としているでしょう。
KIMG3468
※江戸時代の六浦藩陣屋跡の旧藩主米倉サン家の石段。
米倉サン家のこの石段は陣屋(邸宅)の裏口だったらしいです。。
ちゃんと米倉さん家の奥さんに許可貰って撮影してますよ!
だから間宮家臣団や六浦藩主米倉家の事を踏まえると江戸時代の大地主なら今も大地主として住んでいるはずですから、星谷氏が護念寺の前身、御念寺や阿弥陀寺に関与したのは風土記の“宝暦”の記載は誤りで“宝徳”年間、永享の乱前後の話だと個人的には思います。

又、隣村の栗木村の項目でこうも書いて有ります・・・

古(いにしえ)は御料にて元禄九年に星合摂津守に賜い、今子孫鍋五郎知行す

・・・江戸時代の元禄の頃、徳川綱吉公の頃に磯子区栗木村に移住して来た星合サンと峯村の多分、南北朝時代~室町初期にいた星谷サンの項目は話がゴッチャに成ってるぽい雰囲気を感じます。
この古は御料にて元禄九年に星合摂津守云々~の御料は将軍直轄地と言う意味で“天領”だった、と言う事に成ります。

実は!
間宮家は鷹狩りに秀でた一族で氷取沢間宮家を開いた間宮綱信公は北条家の外交使者として織田信長公に謁見し鷹を献上したり、分家杉田間宮家が代々、徳川幕府鷹匠頭の職位を継承する程だったのですが、戦国時代~江戸初期に港南区~磯子区一帯を治めた間宮本家の笹下間宮家は下総国に転封され栗木を支配していなかったので、星合摂津守が一時期いた可能性は有ります。

まぁ~十中八九、星谷サンの話は間宮家が来る前の護念寺の前身の御念寺を復興した話と、似た元号と、隣村栗木村の星合サンの話を記者が頭の中でゴッチャのまま勘違いを書いちゃったのを昭和の出版社がそのまま丸写ししてそうな気がします。

しかし星谷知久公が足利幕府鎌倉府の家臣で在地領主として阿弥陀寺の奥院だった御念寺を支援したのだとしたら、それはそれで素晴らしい史話だと思います。
因みに、栗木のバッティングセンターは松坂大輔選手が横浜高校時代に練習に来ていたそうです


・・・話は飛びましたが(笑)・・・


護念寺と本院の阿弥陀寺は阿弥陀寺の旧境内地の逸話と元号の問題、そして星谷智久公の奉納したお金が永楽銭だった事実から、永楽銭が使われなくなっていた江戸時代中期の宝暦年間1750年代ではなくて宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

しかし1400年代の開基では、江戸時代の人から見て“古刹”にはならないでしょう。
ですから鎌倉時代より前の平安時代には御念寺と阿弥陀寺は存在していたのでは無いかと、近隣の御寺の文書に残らない寺伝からも予想がつきます。
例えば以前にブログで紹介した間宮家の笹下城跡の本丸直下にある成就院・・・
・・・ここは現在は浄土真宗高田派ですが草創期は法相宗だったと伝わるので、下手したら奈良時代~平安時代初期位の行基大僧正に開かれていて真言宗開祖の弘法大師空海和尚や天台宗開祖の伝教大師最澄和尚達の時代より古い可能性が有ります。
他にも・・・
・・・ここ杉田商店街の東漸寺は鎌倉幕府の重鎮、名越北条家の名越北条宗長公によって正安三年(1301年)に開かれたと記録上される臨済宗の寺院で関東十刹に挙げられる名古刹ですが、実は境内にある法輪塔は更に古い時代の物で御寺の伝承でも名越北条家によって臨済宗として再興開基される以前に天台宗だった事が伝わっています。つまり鎌倉時代以前の平安時代から存在する事が法輪塔から証明されている訳です。
更に・・・
・・・同じく杉田の妙法寺は前進の牛頭天王社が弘法大師空海和尚によって開かれた事が伝承しており、文和元年(1352年)に荒井光吉入道日荷上人によって立派な堂宇が建立され寺院化しています。
他にも幕末の吹奏楽発祥地で国家君が代とテニスの発祥地の本牧の妙香寺・・・
・・・ここも元は真言宗でしたが日蓮上人が自ら滞在した際に御寺の大檀那(オーナー)だった佐藤家が日蓮上人に惚れ込んで門徒になり、日蓮宗に改宗した歴史が有る御寺です。滞在時の浴衣姿の日蓮上人の彫像が祀られている変わった御寺だったりもします。
この様に、横浜市域だけでなく鎌倉幕府~室町幕府の武士が多くいた地域の臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、法華宗等の鎌倉時代に流行したり起こった宗派は元々は更に古い奈良時代に始まる修験道や法相宗、平安時代に始まった真言宗や天台宗の寺院だった場所が多くあります。

更に護念寺と阿弥陀寺の歴史の証明となる星谷智久と言う“地頭”が護念寺の長野山が元々御城で不便だから色々ショートカットの道作ってあげた・・・と書いて有ります。
地頭職は鎌倉幕府以来の武士です。つまり鎌倉時代に既に地頭だった星谷氏が室町時代の宝徳二年(1450年)城跡と言っていると言う事は、既に室町時代には使われなくなっていた鎌倉時代か平安末期の城跡と言う事を言っている事に成る訳です。
鎌倉城防衛網円海山 久良岐のよし

護念寺の在る円海山と尾根伝いの円海山山系の観音山、大丸山、関谷見晴台、荒尾城(御伊勢山、権現山)、青ヵ台城(能見堂~阿王ヵ台~赤井)は完全に人の手が入って城塞化されていると小生はずっと主張している通り、鎌倉防衛網を構築し所々の要所が城塞化されており、護念寺の洋光台側の急峻な崖や各所の尾根道の掘切りも城跡だからと、この文章で証明されます。
本当、護念寺を取り巻く竹林の中には、竹林に成ったが故(ゆえ)に高速道路をブチ抜かれたり墓地を造成した場所以外は旧地形が良く残り、恐らく江戸時代には畑にも成っていたであろう、明らかにお城の帯曲輪郡と竪堀が幾筋も現存しています。
ここ円海山は飛鳥時代から東日本最大のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡猿田遺跡一帯で鉄が生産され、刀槍の材料となる玉鋼(たまはがね)を輸送するのが尾根道でしたから、流通や軍兵の交通を監視する要塞や関所が必要だったのでしょう。
実際、この尾根道だけを伝って昔は鎌倉に行きるだけでなく、更に尾根続きの鎌倉十二所からは元は真言や天台の修験者が御参りしていた岩殿寺や神武寺や鷹取山、更に三浦半島まで山の中の道が繋がっていました。
KIMG1347
ですから現在も鷹取山~神武寺の尾根道は修験者の人達や娯楽としてハイキングを楽しむ人達を見かける事が出来ます。

CIMG9622
醫王山 来迎院 神武寺

神武寺は現在も山の中で神秘的な雰囲気を保っています。
神武寺は神亀元年(724年)の開基(かいき=開かれる事)と伝わっています。
古代の街道は尾根道だったので、その中継拠点や湧水地だったので飲用水補給の聖地として神武寺は開かれたのでしょう。
・・・同じ様な立地の護念寺も、もしかしたら前身の御念寺は相当古いのかも知れませんね。

威徳明王が祀られたであろう一心堂の場所の話から威徳明王の像に話を戻します。
威徳明王の彫像は弘法大師の手彫りと伝承しています。
天長年間(824~834年)に弘法大師空海和尚が守敏僧都と法力争い(密教の問答だろう)をして威徳明王の威力で勝った事、更に威徳明王に関する宗論で守敏僧都を言い負かす事が出来たので掘った像が護念寺の威徳明王で嶋津又三郎の姫の竹姫様から元は鎌倉の浄土宗大本山光明寺の僧侶だった護念寺中興開山の淸蓮社浄譽圓海和尚(明和三年:1766年没)が拝領したと記載があります。

更に清和天皇(850~881年)の守り本尊だったのを嶋津家に伝えられていたと記載が有ります。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている事から亡くなる直前に彫られた仏像と言う事に成りますね。
そして、その後清和天皇に渡り、清和天皇の子孫の島津家にどういった経緯かは判らないものの伝わり、円海山に御縁が有って祀られる事に成った訳です。

次に竹姫は嶋津家=島津家の姫様は誰かと言う話ですが、実はココに誤解を生む罠が有ります。

この場合の竹姫の“姫”は父子関係ではなく尊称の“姫”なんですね。つまり御妻君も姫様と呼ばれるケースが有る訳です。例えば北条家から蒔田吉良家に嫁いだ“さき姫”や、前田家から義叔父の秀吉公の仲介で宇喜多秀家公に嫁いだ豪姫等は有名です。これを考慮すると謎は直ぐに解けます。

1766年に亡くなった浄譽上人が竹姫様から威徳明王像を貰っているから、威徳明王像が伝えられたのは1700年代と言う事が判ります。

この竹姫の“御身内”の嶋津又三郎サンですが、実は島津家歴代当主は“又三郎”を名乗っているので世代的には第五代薩摩藩主の島津継豊公の時代位の話しと解かります。
そして島津継豊公の継室(後妻)が竹姫なんです。しかも竹姫の人脈から更に凄い人達の名前が登場します・・・

御実家は権大納言と非常に地位の高い京都の貴族で、竹姫のフルネームは清閑寺竹姫、戒名が浄岸院です。
尚且(なおか)つ!徳川綱吉公の養女と言う立場に当たる人物です。そして薩摩藩主の妻。
凄いですね~!
当時の阿弥陀寺と奥院の護念寺の寺格の高さが解かるエピソードです。
何で竹姫が威徳明王を護念寺に寄進したか不明です。
もしかしたら・・・
御父上の継豊公が護念寺の圓海和尚に鍼灸治療をして貰ったのかも知れないですね。
圓海和尚の弟子で実際に護念寺の再興開基に寄与した法雲和尚と言う方は鎌倉の光明寺の僧侶だったそうですし、関東の浄土宗は織田信長公や徳川家康公が浄土宗(当時は法華宗として時宗や日蓮宗と一緒の別派閥と認識されていた)の信徒だった事から特に江戸幕府開府以来、他宗派よりも強く徳川幕府の庇護を受けていたので、その様な御縁が有っても不思議では無いんですね。
続きの阿弥陀寺の記事で書きますが、なんせ本院の阿弥陀寺の戦国時代の御住職は浄土宗のトップと京都知恩院で務めた任蓮社然譽了鑑大僧正ですから、この方の繋がりが有れば当然ながら徳川幕府とのコネクションは深いでしょう。
IMG_5705 
現代には護念寺の周りは私有地だらけになり横浜市の今の市長の政策では私道を遊歩道として通行出来なく成ってしまい円海山護念寺に通じる古道だらけですが・・・
今の道は今の道で素敵ですね。
この竹の道を過ぎると、清浄園と言う御寺の院号からとった墓地に辿(たど)り着きます。 
そこからは横浜港が一望でき、ランドマークタワーやベイブリッジが見えます。
IMG_5710
この日は生憎の曇天でしたが、紅葉に色づく円海山の眺望に満足できました。
IMG_5711
御住職は御灸の施術を予約すると直接面会出来ますし、色々と昔々の横浜の風景や文化の御話を聞けて楽しそうです。
今はこの奇麗な景色の中に有る古道は間にゴルフ場は横浜横須賀道路が出来たせいで完全に寸断されてしまっています。

IMG_5708
とにかく景色は良いですよ!
IMG_5712
実はこの円海山山系の大丸山含め、この地帯が昔の久良岐郡と現在の横浜市で一番標高の高い場所なんです。
・・・と、言っても海抜300mくらいですが、それでも海から2km程度内陸に入っただけの沿岸部なのでだいぶん高低差があります。
だから景色の素敵な場所でしょう?

護念寺の本院だった「阿弥陀寺」と「白山神社」の話は、また改めて別記事にまとめましたので別に御覧頂ければ幸いです! 


以上、久良岐のよしがお届けしました「強情灸」と「護念寺の凄い歴史」、楽しんでいただけましたでしょうか?
きっと皆さんの御自宅の近所にも凄い歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や御城の址の山が有りますよ!
ちょっと御近所を御散歩して、神社や御寺や城址の公園の看板を読んでみませんか?
思いがけず凄い人達と土地の繋がりを知れば、更に地元に愛着が湧くかも知れませんよ?

ではでは、次回は護念寺の本院だった円海山、峰の阿弥陀寺と白山神社の記事でお会いしましょう!


mixiチェック

小生は良く、神社仏閣や歴史偉人の御廟所、歴史史跡や近代史跡、景勝地を散歩し美味しい物を食べ歩いています。

最近、そんな日本文化や歴史史跡の保護コンテンツとして非常に素晴らしいゲームを見つけました。
ポケモンGOです!
image
実はこのゲーム、神社仏閣や史跡、注目されにくい石仏や小さな神様の祠(ほこら)が❝ポケストップ❞と言うゲーム内の❝補給所❞の様な場所に設定されています。
又、その周りでは沢山のキャラクターを採集出来る場合が多いゲーム設定にも成っています。
つまり、今まで歴史や宗教文化や日本の伝統に興味の無かった層に、歴史史跡や神仏やキリスト教の文化を再認識させるコンテンツとしても文化保護の役割が期待出来る訳です。
例えば、小生は横浜市に住んでいますが、近所がポケストップに成っています。
image
ポケストップは、上の画面の様にゲーム内でチェックポイントの様な設定に成っていて、GPS追跡で衛星のデータと実際の地図に重ねたゲーム画像がリンクしていて、ユーザーに❝ポケストップ❞に到着した事を携帯電話のバイブ機能で知らせてくれます。
つまり左翼系報道局のネガティブキャンペーンで常に携帯画面を見ながら周りに追突する危険が有るゲームの様なデマが流布されていますが、実際は歩きながら常に携帯を見るゲームではありません
ポケストップに到着して、そこをクリックすると、その史跡の説明が画像付きで表示されます。
下が小生の近所のポケストップです。
image
+-
この昇竜橋は現代の自動車道路と歩道とは違う、河岸段丘の一段下の廃道にかかっている目立たない❝重要文化財❞だったのですポケモンGOによる紹介で若者を含め広く市民にも、その存在を再認識させる事に成功した先人が我々に残した遺産で、ポケモンGOの有益性を代表する事例の一つだと思います。
では、この昇竜橋が現代どれくらい粗末に扱われているか目立たない場所に存在しているかを衛星写真で見てみましょう…
八軒谷戸 昇竜橋付近
ね。
…この通り、河岸段丘面の下に存在し、現代の道路は段丘面の上に築かれたので普段は全く気が付かない場所に在(あ)ります。しかしながら、その道こそが鎌倉武士達が朝比奈峠を抜けて鎌倉へ馳せ参じた鎌倉古道の史跡の一つでもある訳です。

小生は鎌倉の某八幡宮の資料館や図書館に良く行く用事が有ったり普段から史跡巡りが趣味なので、放っておいてもポケモンに遭遇する機会が多いようです(笑)。

さて、この様に文化と史跡保護として威力を発揮する事が面白く無い人達がいます…
日本文化と宗教文化を破壊したい共産主義者とマルクス主義者です。
…当然、それらの人が多い左翼系議員と左翼系報道局はネガティブキャンペーンを行います。

一番顕著にネガティブキャンペーンを行っているのは従軍慰安婦問題を捏造したり、報道の中立とは程遠い常に左翼視点の記事を報道し続ける朝日新聞社系列の媒体です。
【ポケモンGO熱中、クマに気づかず接近も 交通事故多発:朝日デジタル】
コンナ↑記事ばっか最初から書いていますね(笑)。
皆さんも、ネガティブな記事とポジティブな記事を見かけたら発信元を調べて見て下さい。そして経済と社会の別記事も一読して見て下さい。そうすると、大体の傾向がコンナ感じで分かれます…
ポケモンGOに肯定的な報道局→保守系
ポケモンGOに否定的な報道曲→朝日新聞系・毎日新聞系・左翼系報道局
全体を俯瞰して見ると、それぞれの意図が感じられて面白いですね(笑)。

さて…
そこで小生なりに意見が有ります。
実際に運転しながらポケモンGOをやって事故を起こすバカや、私有地に不法侵入するクズ、神社仏閣の社殿や御堂がゲームでポケスポットに設定されていて参拝客を邪魔してまでゲームに興じる低モラルユーザーがいるのは問題です。しかし、これはゲーム設定を変更する事で完全に解決出来る問題だと思っています。
なので、以下に小生の考えを纏めてみます…

【朝日系と毎日系、左翼思想者によるポケモンGOのネガティブキャンペーンが多い理由】
コノ手のネガティブキャンペーン、最初に始めたのは共産・民主系と結託している朝日系列と毎日系列の報道機関だった。
左翼がポケモンGOに対してネガティブキャンペーンを繰り広げる4つの理由
1、ポケストップの多くは今まで注目されなかった史跡や神仏の祠(ほこら)、キリスト教系教会等宗教施設や歴史史跡を紹介している。
→これは左翼共産主義マルクス主義者達の反宗教思想には大変に邪魔な存在でしかない。

2、横浜市長の林文子や民進党議員達のような在〇某半島人労働者の多い鉄道会社と建設会社の左翼系労組が支持母体として関係の有る共産系・民主系の議員は、宗教文化を世界に再認識させかねないポケモンGOは文化保護コンテンツ的な要素が有り、開発の邪魔
なので当然、左翼系政治思想者の発言や朝日や毎日の報道は否定的意見が多く、それにより流行を衰退させようとネガティブなプロパガンダ報道が多い。...

3、ポケモンGO運営は自民党押しだから。自民党本部がポケスポットに成っていて「永遠の与党」と説明表示されるのに噛みついたのは民進党だったのは記憶に新しい。
つまりポケモンGOを左翼団体は敵視していて、右翼の保守意識を扇動しポケモン潰しをしようとしている。バカな右翼系保守層も扇動に乗ってしまっている。

4、アベノミクスを後押ししそうな日経平均株価を押し上げる要素は全て潰したいから。



【ポケモンGOの長所】
1、文化・史跡保護コンテンツとして有効
個人的な意見だが、多くの土建屋が調査もせず撤去しようとする多くの史跡や神仏の祠が、このコンテンツで再
認識されるのは日本文化を愛する保守派としては非常に有り難い。

2、反共産主義・抗反日文化勢力コンテンツとして有効。
史跡や神社仏閣を破壊し、石仏や小さい御社を排除して日本文化を破壊しながら宅地開発を行いたい左翼系議員とマッチポンプの建設会社に対して、国民レベルでの日本文化と史跡と神仏宗教の再認識による対抗手段に成り、将来、左翼の史跡乱開発を阻止出来る可能性が上がる。

3、文化保護と同時に、ニートに社会復帰の機会を与える。
家に閉じこもってるニートを外の世界に引っ張り出すリハビリコンテンツとして非常に効力を発揮している。
又、ポケスポットでの史跡紹介が有り、世間に文化歴史史跡を再認識させる効力を発揮している。

【ポケモンGOの短所と対策方法の提案】
1、低モラルユーザーによる宗教施設内の理不尽なプレイ
境内を散歩しながらやる程度は本来遊び好きな日本神話の神々や、寛容な仏様も微笑んで見守って下さるだろうが、問題は社殿や拝殿の近くで参拝客を邪魔してしまう低モラルDQNが発生している事。
対策
→ポケストップを設定した場所を社殿や鳥居の前から、邪魔に成らない境内の池のほとり等に変更した上で、紹介文は神社や仏閣や史跡全体もしくは部分的な説明に改める。wikipediaとの連結にゆる参照程度で十分。

2、バイクor自動車の運転中に使用できてしまい事故を起こすDQNユーザーが少なくない。
対策
→ポケモンGOにはゲーム内にポケモンを入手する手段として孵化装置と言うシステムがあり、GPS追跡による時速測定で自動車運転等の高速移動では反応しない設定がされている。
このシステムをプレイ中の移動自体にも適応し、例えば時速10km以上で移動した場合はアプリが反応しない仕組みにしてしまえば十分すぎる程の改善に成り、運転中の使用は勿論不可能に成る。

こんな所だろうか?
左翼に扇動される右翼も如何かと思うが、実際にDQNプレイヤーが左翼による文化保護コンテンツであるポケモンGOに対するネガティブ扇動の口実を与えてしまうならば、根本的にDQNプレイヤーが発生しようのないゲームシステムに変えてしまえば良い。

以上
乱筆失礼、久良岐のよし

mixiチェック

前回07月10日の休日雑記の続き。
07月11日の朝は、宿泊先の三崎漁港のホテルで迎えた。
ビジネスホテルでは無くPCを置くスペースが無く、酒や菓子を広げる程度のテーブルしか無かったので、夜は良く眠れた。
朝、5時頃目が覚めただろうか?
この日の朝はホテルの朝食時間の7時過ぎまで、ドライブ&対岸の城ヶ島散歩を楽しむ事にした。
出発時、当初は大好きな城ヶ島公園の方を散策するつもりだった、そちらからは富士山も見える。
しかし、城ヶ島へ渡る連絡橋を走っていて…
「いつもと反対側、そう言えば行った事無いなぁ~?」
…と気に成ったので、公園駐車場との分岐点でハンドルを切らず、正反対の島の西側に行って見る事にした。
城ヶ島周辺
「どうせ開拓するなら思いっきり反対側が良い!」と思い、本当に真西に向かって車を走らせると暫くして東側とは違う何やら昼間なら賑やかそうな商店街が見えて来た。
その商店街の辺りの駐車スペースに車を停めて散策する事にした。
DSC_3389
最初に来たのが❝楫(かじ)の鼻❞と言う岩礁辺り。
この地形を見ると三浦半島は南西から地盤が押し上げられ隆起し、北東は東京湾に向かって沈下しているのが
一目瞭然だ。地層が斜めに立ち上がっている。
この楫の鼻の地名の由来に成った場所が有る。
この岩礁の手前がその場所。
DSC_3394
楫の三郎山。
三崎町の鎮守、海南神社の御祭神でもある藤原資盈(すけみつ)公が関東に亡命して来る際に、船の楫(かじ)を操船していた三郎と言う家臣が、資盈公の安住を祈願した伝承に由来する場所。
大正時代位まで大蛇が住んでいるから登ってはいけないと言って人々は崇拝対象としてだけ拝んでいた場所らしい。
頂上には楫三郎の神社が在った。
DSC_3403
なんか、名の有る武将の御廟所の様な造りで普通の神社とは又違う。
思うに、ここ実は菅原資盈公か楫三郎の御廟所なんじゃなかろうか?
ならば大蛇伝説が有った事が理解できる。
さて、三浦半島の崖地には、そこかしこに黄色い綺麗な花が咲いている。
DSC_3404
供えられていた。
余り花に関する知識が無いので解らないが、多分、ユリ科の植物。昔から気に成っていたが、三浦半島では良く見かける花だ。
DSC_3405
少し歩けば直ぐに見つける事が出来る。
楫の三郎山を離れ、細い商店街の路地を抜け、港屋や城ヶ島京急ホテルと言う風景の綺麗さで有名な宿泊施設の有る方に歩いて行くと、城ヶ島西側の灯台がある。
DSC_3418
灯台のの前は西洋式の庭園に成っているのだが、多分、カップルの観光客を呼びこむ為に作られたであろう西洋式の庭園だった。
DSC_3414
早朝で観光客はいないが、灯台が開いてる時間にくれば人が多いのだろうか?
DSC_3415
池には綺麗な蓮の花が咲いていて、何とも西洋と東洋の混じった不思議な空間だが、赤い花弁が白い庭園にマッチしていて雰囲気が良かった。
DSC_3417
綺麗だな…。
ここ城ヶ島灯台は明治時代に建設された場所で、云わば建築遺産でもある。
DSC_3427

漁船や太平洋を往来する船達の安全の為に建てられた場所で有るから、当然古い習慣の安全祈願も残っていて、庭園内には恐らく灯台より先に、この丘の住人だったと思われる御地蔵様もいらっしゃった。
DSC_3420
末永く旅人と地元民を御守護下さる様に御参りして、散歩を続ける事にした。
DSC_3428
城ヶ島灯台の遊歩道を西側に抜けると素晴らしい眺望に行き当たる。
その周辺に城ヶ島京急ホテルや、港屋が在る。
DSC_3432
途中、真っ赤な素敵な大人びた雰囲気の花も咲いていた。南方の植物だろうか?
今回、こちら側に来たのは偶然だったが、とても景色が良く東側城ヶ島公園も素晴らしいが甲乙つけがたいと言うのが正直な感想だろうか?又、こちら側には宿泊に来たいと思う。
小桜姫観音周辺 久良岐のよし
位置関係は衛星写真の通りで、一目瞭然、どの旅館も眼前に磯と海が広がり素晴らしい景色を部屋から楽しめそうだ。
DSC_3435
小生は城ヶ島京急ホテルの前の遊歩道を歩く事にした…
遊歩道に縁結びの聖地❝小桜観音❞と書いて有ったので気に成ったのも有るが、楫の三郎山から此方(こちら)側を見た時に素敵な遊歩道が設置されており、そこに沢山のユリ?が咲いていたので歩きたいと思ったのだ。
DSC_3439
ふむ。やはり雰囲気の良い遊歩道だ。
❝観光橋❞と、言う名らしい。
DSC_3440
橋の傍の崖には沢山の鼻が咲いている。
小生、元来、梅の花が一番好きなのだが…
どうやら蝋梅(ろうばい)、山吹、そしてこの三浦半島の海岸に群生するユリの様な黄色い花の写真も沢山撮っているので黄色い花々も好みらしい。
DSC_3442
実に明るい、なんだか南洋の島の女性の様な雰囲気の、笑顔を振りまいている様な花だ。
DSC_3446
この橋の上からユリ?の花の崖伝いに奥の方へ眼をやると、何だか御社らしき物が目に留まった。
どうやらアレが小桜観音のようだ。
DSC_3444
橋の上から澄んだ海を見ながら、御社を目指した。
DSC_3450
近くに行くと何やらホタテ貝に恋人同士で祈願を書いた絵馬?代わりの願掛けがされていた。
DSC_3451
どうやら洞穴に作られた御社の様だが、名前も観音様であり周辺に石塔が有るので、神社としての機能は極最近に設けられたのだろう。本来は小桜観音と言う名の通り仏教的な聖地霊場だったのだろうか?
後で調べたのだが、ここは小桜姫伝説の舞台らしい。小桜姫と言うのが小生はパッとしないのだが、戦国時代の三浦家所縁の御姫様らしいと言う事は解った。
ただ、平安時代~戦国時代の三浦家滅亡までの主だった御寺の住職様や神社の宮司様と直接面識の有る小生の知識をフル稼働しても、その様な人物は三浦家には実在していなかった。
どうやら小生の尊敬する三浦荒次郎義意(よしおき)公の奥方とか側室とか伝承が有るようだが、歴史上、小桜姫と言う名の奥方様の記録は無い。
三浦義意公の奥方は本妻も側室も房総半島の小大名、真里谷(まりやつ)武田家の姫君だけだ。
民間信仰として小桜姫と名が伝わっているこの伝承の理由、この後に書くが三浦同寸研究会副会長と面会した際に、副会長の御教授と小生の知識で詳しく解る事に成った。
姫様の名前の由来は置いておいても、三浦義意公には確かに真里谷家の奥方様がいたので、その方がモデルで有るかも知れないし、仮に小桜姫として拝んでも真里谷の姫を拝んでいるのと同じ事…
きっと縁結びの御利益は有るに違いない。

散歩を進めよう。
DSC_3454
車に戻る途中で、商店街の港屋の支店売店の前に大量に海藻が干してあった。
天草(てんぐさ)だな。
これを煮詰めて干して寒天の原材料にする訳だ。
寒天は現在ではカロリー0のデザートとしても重宝されている。小生も御世話に成っている。
DSC_3455
看板を見て気に成ったのだが港屋サンではどうやら、ヤドカリをアマ蟹と言う名で料理して提供しているらしい。
気に成るので次回食べに来ようと決めた。
早朝の5時過ぎ~7時半位の約2時間の散歩だったが、綺麗な花と海を見て、思いがけず三崎町の歴史に深い関わりの有る神社と観音様を御参りする事も出来て気分良く一日の始まりを迎える事が出来た。

宿に帰ると既に朝食の準備をして下さっていた。
DSC_3458
小生は働く時間が不規則なので、宿に外泊する時の和食の朝食がとてもありがたく美味しく感じる。
特に三崎はマグロと干物が名物なので、このエボダイも大変美味しく頂きました。
「美味しいよ」と宿の朝食調理担当の叔母ちゃんに御礼を言うと、そこから打ち解ける事が出来て談笑しながら三浦の事を色々話しをした。
すると来週(07月16日土曜日)は三崎町の鎮守、海南神社の例大祭でとても賑やかだから是非にも見たら良いと勧められたので、翌週も来る事に決めた…
DSC_3388
部屋に戻り、壁の絵画を見ながらチェックアウトの準備をして、散歩でかいた汗を流す為に大浴場で贅沢な朝風呂を浴びてから、少し仮眠してチェックアウトの時間を待つ事にした…

②へ続く⤵️










mixiチェック

神奈川県には❝神奈川の景勝50選❞と言う県指定の景勝地が有りまして…
横須賀市には❝鷹取山と神武寺周辺の景勝❞が、その一つに選ばれています。
ここは小生が尊敬する武将の1人であり、関東屈指の名軍師だった太田道灌公が鷹狩をした伝説の残る場所でもあります。
DSC_2997
昔は遊歩道は無くて、本当に自然の登山道だけでしたが、今は幸か不幸か山を掘削して公園と遊歩道が作られ気軽に登る事が出来る様に成っています。
遊歩道は自然を破壊して後からつけられましたが…
DSC_3001
まぁ、その分、ちゃんと紫陽花が植えられて遊歩道として綺麗です。
DSC_3002
実は鷹取山は古来、全山が❝鎌倉石❞と呼ばれる現在では採掘禁止の凝灰岩の高級石材の切り出し場だった。
だから現在の遊歩道ではなくて古い登山道は石切り場に面していて、そちらの方が自然と神秘的な地形の景観が素晴らしいんですね。
だから小生も、現在の遊歩道を嫌って、紫陽花の切れ目から子供の頃に歩いた古道を見つけてソッチから登山する事にした。
DSC_3065
鷹取公園側から登ると、古道の入口の目印は有りません。
上の写真の紫陽花の生垣の切れ目、「ゴミ捨て禁止」の看板が有る横そこ入ると…
DSC_3007
ちょっと奥に昔の石切り場と掘られた石仏達が姿が現れます。
DSC_3008
何か変な不自然な色にペンキで塗られてしまった壁面が有りますよね…
DSC_3010
実は無許可で掘られた石仏群です。
遊歩道設置後の数十年は道から外れて、拝む人は少ないみたいです。
DSC_3011
着色するのはどうなの?余り良くない気がしますが…
DSC_3012
因(ちな)みに、普通のアスファルトの遊歩道を歩けば鷹取山公園の入口から展望台の有る岩場まで10分足らず、遊歩道をそれて古道に入ると危険極まりない(笑)風化した鎌倉石と自然を満喫する道なので展望台まで30分以上かかります。
しかし、小生はこちら側の道が懐かしく好きなので、今回は古道を紹介します。
DSC_3017
昔の道は石切り場沿いで、魅力的な景観を楽しめます。
DSC_3018
壁面に穴がいっぱいあいてますよね?
これ、無文化で自分勝手なロッククライマー達が自分の欲望の為に鉄杭を打ち込んだ後です。
この付近の石仏は歴史も浅く余り価値は無いかも知れませんが、この石切り場時代が景勝地なのでロッククライマー達の行為は破壊行為でしかありませんね。
先日も、他府県で重要文化財の岩場に鉄杭打ち込んだロッククライマーがいて問題に成ってましたね。
さて、この新しい石仏群を抜けると、本当に本当の古道です。
そして、そちら側の景色が本当に凄い。
DSC_3019
ね?
DSC_3020
神奈川県内で、こんな風景余り見れませんよね。
DSC_3021
ここと、三浦半島の長坂~芦名地区へ行く途中の石切り場も有りますが、彼方(あちら)は登山を楽しめる場所とは違うので、近くから見れるのは鷹取山の石切り場だけですね。
DSC_3023
ただ、この古道は本当に危険で、砂礫が集まって出来た凝灰質砂岩の高級石材❝鎌倉石❞の山なので風化が激しく、御覧の崖の様な場所も有ります。
DSC_3024
しかしながら…
DSC_3025
尾根道に出てしまえば、その景観は美しい…
DSC_3026
まぁ、尾根道も横須賀市内とは思えない御覧の通りの険しさですが。
DSC_3027
手すりが有るだけマシかな?
この尾根道を伝って六浦駅方面~神武寺方面と正反対の方向から登山する事も出来ます。
DSC_3029
尾根を抜けると、石切り場の広場に出ます。
ここへは昔の山道を歩きたくないなら、鷹取山公園入口の遊歩道から来れば直ぐです。
しかし、昔の登山道と違い何の面白みも綺麗な風景も無いですよ。
DSC_3030
又もや、ロッククライマーが穿(うが)った穴だらけ(怒)。
良くないね。
DSC_3035こう言う史跡や文化財や景勝地の破壊をするロッククライマーや土建屋は刑事罰制定して取り締まって欲しい。

DSC_3034
すんごい風景でしょう?
写真だと大きさが解らないと思いますが、どの岩も高さ20mくらい有ります。
DSC_3038
展望台も有り、上ると横浜~横須賀~三浦~葉山~鎌倉を一望できます。
DSC_3041
上の写真、拡大すると解りますが…
大日本帝国憲法草案を伊藤博文公が起草した際に宿泊していた旅館が在った夏島、伊藤博文公別邸の在る野島、武家初の鎌倉時代の図書館である金沢文庫と称名寺の山その奥に横浜ランドマークタワーが見えています。
DSC_3042
横須賀港の軍艦も…
DSC_3043
山の端(は)と山の端が重なり合った谷あいの向こう、日光で白んだ辺りが葉山港です。そして、葉山から横須賀方面に延びる谷が古代東海道。
この展望台からの眺望も素晴らしいのですが、鷹取山にはもう一つ素晴らしい場所が有ります。
そこへは鷹取山公園に一度降りてから磨崖仏と書かれた方向に歩いて下さい。
DSC_3049
そこに至るには又、石切り場も通りますが、こちらの道は舗装されていて歩きやすい道に成っています。
DSC_3050
磨崖仏に至る道は、遊歩道沿いに色んな野草が花を咲かせていて、古道側とは又、違った風景で目を楽しませてくれます。
DSC_3053
DSC_3059
不勉強で申し訳ない、花の名前は存じ上げませんが、とても綺麗で可愛らしい花でした。
この花や紫陽花を見ながら10分ちょっと歩くと鷹取山で一番の有りがたい場所に辿(たど)り着きます。
DSC_3062
弥勒菩薩様の大石仏。
高名な芸術家が昭和35年に彫刻した磨崖仏。
ここは鷹取山は歴史もあり、いずれ石切場も磨崖仏含め国の重要文化財に指定されるべき場所でもあります。
小生は心願に公人としての御願いと私人としての御願い、人間としての御願いをしてきました。
DSC_3063
弥勒菩薩様の横には、鷹取山の地名由来が書かれていました。
どうやら色んな説が有るみたいですね。

どうですか?
鷹取山、神奈川県とは思えない魅力的な風景でしょう?
もし京浜急行沿線に御住みの方は、是非、御弁当持参して鷹取山を登ってみては如何(いかが)でしょうか?

あ…

注意点です。
手持ちのバックは危険です。必ず両手を使えるリュックに荷物を入れて登山に来て下さい。
岩場や古道の地面は不安定なので、靴は必ずトレッキングシューズか運動靴で登山して下さい。
火気厳禁、タバコも禁止です。
昆虫採集も禁止です。
以上。

次は大庭城址公園の紹介記事を書くと思います。

皆さん、では次のブログ記事で御会いしましょう~♪














mixiチェック

前回の記事では大庭神社の論社(推定地)の一つで伝承上の元宮(もとみや=元々の所在地)だと伝承する❝大庭神社舊跡❞と近くの❝神奈川の銘木100選の一つ臺谷戸稲荷の椨の樹❞の風景を紹介しました。
※前回の記事は「ココ」←クリック!
さて…
今回はいよいよ、現在にも江戸時代の建築遺構が多く残る現在の大庭神社と周辺の風景を写真と解説で紹介したいと思います。
現在の大庭神社は、人口の少なく成った大庭の引地川沿いにヒッソリと佇んでいでいます。
DSC_0335
一見すると余り目立たない普通の神社に見えてしまいますが、ここは前回、前々回の記事でも解説した通り、平安時代の醍醐天皇達から見ても古い歴史を持ち保護すべき神社として延喜式神名張に記載された神社の現在の所在地で、凄まじい由緒と権威の有る神社です。
この神社の現在の所在地は、嘗ては目の前に海の入江が広がっていました。
大庭神社周辺
※拡大して見て下さいね。
画面左に大庭神社の所在地がマークされています。
白い部分が古代の海です。
元宮の大庭神社舊跡とは、湾を挟んで反対側に在ります。現在の大庭神社の在る丘は、平安時代末期に成って鎌倉景正(かまくらかげまさ)公によって開拓された地域です。古代の史跡は全て古代の湾の左岸、つまり大庭神社の舊跡側から出土しています。
さて、何故、現在地に大庭神社が移ったかは【前編】で解説した通りです。
※【前編】解説記事は「ココ」←クリック!
DSC_0350
鎌倉時代末期~室町時代初期の武将で、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の母方の従弟だった山名時氏公が1352年頃に恐らく元は大庭地区に所在した成就院と言う御寺を現在の稲荷地区に移転させ再興開基した際に、同寺が別当寺として管理を任せていた大庭神社も一緒に舊跡=元宮から現在地に移転させたと考えられるからです。
余談ですが、山名時氏公は横浜市港南区上永谷の永谷城主宅間上杉家の御先祖の宅間上杉重兼公の従兄でもあります。つまり、足利家・山名家・宅間上杉家は親戚なんですね。
稲荷の成就院と大庭神社の歴史を裏付ける様に、成就院の元の寺名は院号では無くて❝宝染寺❞であった事が伝わっていますが現在はその寺名が使われていません。つまり前身寺院が移転して来て名を変えた可能性が成り立つ訳です。
DSC_0349
この様な例は他にも良く有る事で、例えば戦国時代の北条家の重臣の笠原信為公の造営した雲松院と言う御寺が横浜市港北区に在りますが、元々は神奈川区の神大寺の別院的な御寺だったのが神大寺が後に焼失したので神大寺の機能ごと雲松院に移転した歴史が有ったりします。
※笠原家菩提寺の雲松院の記事は「ココ」←クリック!
他にも大庭神社と同じ延喜式内社の比々多神社や高部屋神社等も古代の位置から遷座している歴史が有ります。
その辺にも御興味が有る方は【カテゴリー:延喜式内社と歴史千年以上の古社】←このの中から記事を探して見てみて下さい。
さて、藤沢市稲荷の成就院解説は又、別記事にするとしましす。
と山名時氏公の解説も後回しにして、先に大庭神社の風景と施設を紹介します。
DSC_0329
大庭神社の石の大鳥居の前には、自然公園が広がっています。
引地川親水公園周辺 久良岐のよし
引地川親水公園と言う、引地川の湿地を利用した広大な自然公園で、稲荷の大庭神社の前には湿生園もあり子供達に湿地帯の植物を観察せるのに適した場所であり、都会の藤沢市街地の直ぐ近所で子供が自然に触れられるとても大切で貴重な場所でもあります。
…藤沢市土木事務所、公園課の方々Good Job!
さて、その引地川親水公園の前の鳥居をくぐり、階段を登ると…DSC_0346
写真撮影に行った時は3月下旬で、綺麗な木蓮(もくれん)の花が咲いていました。
参道は鳥居の在る階段を上ると左に折れて社殿へ続きます。
DSC_0342
参道の入口には、格式の高さを感じさせる立派な灯篭が在りました。
氏子サン達、頑張って醍醐天皇の御意思を継いで大庭神社を守って下さっています。
DSC_0339
推測するに、延喜式内社の格式と、足利家の縁戚で室町幕府重鎮と成った山名家の関与が有った神社なので、この周辺、神社境内と平行する削平地と裏の傾斜地は往時は全て大庭神社の境内地だったのだと思います。
丘の上は現在は大企業の工場に成っていますが、この神社の境内と平行した削平地と傾斜地だけは緑が保存されています。
DSC_0345
さて、延喜式内社の解説で良く話すのですが、明治時代に明治政府によって神仏分離令・一村一社令・神仏分離令と言う愚かな政策と、伊勢系統の神様を優遇する政策が行われたせいで歴史の古い多くの延喜式内社を含めた神社と御寺が破壊されたり、❝合祀(ごうし=別の神社に神様を移す)❞と言う名目で聖地を御神体とした神社が消滅させられました。
明治政府には森有礼等の日本文化の破壊を目論んだ勢力が多く入り込んでいて、天皇系統の祖先神を優遇するとの宗教改革の名目で多くの神社仏閣が破壊され聖地霊場も埋め立てられたり掘削されて姿を消してしまいました。
何とか古(いにしえの)社(やしろ)に伝わる文化を保護しようとした方々がいらっしゃって、それが平氏や源氏の武家の御子孫であられた東郷元帥や乃木大将達でした。
2014-11-02-07-33-52
三浦半島の横須賀市走水に在る日本武尊と弟橘姫の神話の舞台の走水神社と言う神社には、現在もその歴史と明治の元勲達の逸話が残っています。
因みに首相も務めた伊藤博文公も横浜市金沢区の野島の別宅から、隣接する横浜市磯子区氷取沢の寶勝寺と言う名の御寺に良く通われていた歴史と遺物が残っていて、どうやら❝明治の元勲達と違う勢力❞が暗躍して、国家神道と言う新しい宗教観が神道に導入され、仏教徒の分離も為(な)されたたようです。
そして多くの延喜式内社は縄文文化を受け継いだ神様が多く、伊勢系統の神様を御祭神としていない場所が多かったので、歴史の浅い伊勢神道系の神社の管理下に置かれ衰退してしまった訳です。

しかし、古代からの神事を守りながらも実は多くの延喜式内社には奈良時代~明治時代に成るまでの日本の千数百年来の伝統が守られている場所が多く有ります。
仏教の文化も異文化でも良い物として、日本の神様達の神社の中に受け入れて融合した神仏習合の日本文化です。
DSC_0340
だから、この大庭神社には成就院が別当寺の役割を解任された現在も、鐘楼が保護されています。
つまり延喜式神名張を編纂させた醍醐天皇達天皇家の方々本来の寛容性の高い価値観を守る神社が、偶然にも宮司様不在に成っている大庭神社や他の延喜式内社には多く残っている訳です。現代の比較的新しい神社では縄文~弥生~古墳時代からの聖地も神事も無い上に、神仏混交時代の遺物や行事も残らない場所が多く古代から大庭神社をはじめとした延喜式内社とは大分、様子が異なります。
さてこの鐘楼の前を通り過ぎると、いよいよ社殿です。
DSC_0343
神社なのに瓦葺(かわらぶき)なので、建物は江戸時代中期以降か最近の建て替えが有った様ですね。
歴史があり格式の高い古社は、金銭的に余裕が有る歴史偉人との関わりから板葺(いたぶき)、それも檜皮葺(ひわだぶき)か、茅葺(かやぶき)の屋根が奉納されています。
ここ大庭一帯は、神奈川県下でも過疎に成りかけていた場所なので、寧(むし)ろ瓦葺でも新しい立派な屋根を奉納で来た氏子サン達は本当に身を削って神話時代(縄文末期)からの神社文化に残った伝統を守ってらっしゃると思います。敬服するばかり。
DSC_0344
拝殿の注連縄(しめなわ)も立派です。本当に氏子サン達の努力の賜物。
神様も喜んで下さるでしょうね。
縄文文化の伝統が現存する神社では、この注連縄に莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)と呼ばれる海藻が更に装飾されます。
2016-01-03-13-09-08
この海藻が後に海の遠い大和国に朝廷が転居した頃に、代用品として紙垂(しで)が作られる様に成った事は想像に容易(たやす)い事ですね。
でも、そんな古代の歴史を一度断ち切ってしまった神道では、この伝統が伝わっていない場所が大多数で、代用品の紙垂が「稲妻に似てるから邪気払いとか稲光の梅雨の季節の豊穣祈願」とかバラバラな説明がされているようです。
古代の大王(おおきみ)/大君、その先人達の古墳が海に近い九州や河内や摂津の各地に在る歴史事実を考えれば、莫告藻が紙垂に変化したのは直ぐに理解出来る話です。
聖地霊場や神様に成られた先人の古墳の大切さよりも、神社の建物を作る事と神器の鏡を奉るを重視した明治の国家神道だけ学んでも解らない事です。
考古学や地理、神話の神様の御陵の現在地と古代の海岸線を知らないと繋がら無いですからね。
DSC_0334
順番があべこべには成りますが、大庭神社の御祭神は…
●神皇産靈(かみむすび)の神
女神様で、出雲大社の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=素戔嗚尊の子孫を助けた神様です。つまり、長寿や治病に御利益が有りそうな神様ですね。

●熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)…元宮の主祭神

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成る。遅くとも飛鳥時代より前の造営。

●大庭三郎景親(おおばさぶろうかげちか)公
元宮や稲荷地区の大庭神社一帯を平安時代末期に治めた在地領主の大庭景親公が御当地の人々によって死後、御祭神として祀られたと考えられる。
大庭氏から領土の守護神として崇拝されたのだろう。それ故に元宮は大庭城の近くに在る。

●菅原道眞(すがわらみちざね)公
江戸時代の天明3年(1783年)秋に地頭(じとう=土地の所有者)の諏訪部定太郎と、名主(なぬし=町長)の山崎六郎兵衛(ろくろうひょうえ/ろくろべえ)包高(かねたか)によって、勧請された。
実は、この西暦1783年は旧暦7月8日(太陽暦の6月くらい?)に浅間山が大噴火している。大噴火の際は雷雲が火口に発生するので、平安時代に雷神として神格化れた菅原道真公を奉(たてまつ)る事で天災から逃れたかった当時の江戸時代の人々の思いが伝わる御祭神だと推測出来る。
DSC_0333
一見して、宮司様も御不在、しかも少し寂しい所にある神社ですが凄い歴史が有るでしょう?
きっとね、皆さんの御近所にも、同じ様に神社や御寺の大きさに関わらず凄い歴史が有って思いもよらない神様のモデルの偉人や武将達との所縁(ゆかり)のある神社や仏閣が有ると思いますよ~。
そして、近所の公園や山は、実は武士達が命を懸けて領民と農地を守る拠点だった旧街道沿いの古城の城址かも知れませんよ?
だからね、少し、御近所の神社や御寺や山を散歩して見ませんか~?
きっと、小さな御社や御地蔵様も、神様や先人と皆さんを結び付けるタイムカプセルに成ってくれるかも知れまんよ~♪

では、又、次の記事で御会いしましょう!
次は大庭城か、藤沢市稲荷地区の成就院と山王社かな?

mixiチェック


前回、解説記事で大庭神社には大庭神社と大庭神社舊跡の2箇所が近在している事を歴史踏まえて解説しましたが…
内容は大庭神社の元宮と、大庭神社2ヶ所有る理由でした。つまり最初に大庭神社の社殿が在り、神社が古代に造営された聖地とされた場所だったのが舊跡=元宮で、立派な大庭神社は移転後の場所と推測されている理由でした。
※御興味有る方は「ココ」←クリックして前回の記事を御覧下さい。
さて、今日は大庭神社舊跡(きゅうせき)その物と近くの臺谷戸稲荷の様子を写真で解説したいと思います。
この大庭神社舊跡は、所謂(いわゆる)神社で言う所の元宮(元々神社が移転前に在った場所)な訳ですが…
現在の本宮と比定されている稲荷地区の大庭神社より、だいぶ寂れているものの清々しい聖地の雰囲気を醸(かも)し出しています。
DSC_0411
長い参道は竹林に覆われ、幻想的な雰囲気です。
こちらの御祭神は熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)です…

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成ります。
遅くとも飛鳥時代より前の造営でしょうから、神話が始まる考古学的は縄文時代が終わる西暦紀元前400年頃の神様を祀(まつ)っていたようですね。
余談ですが、実は神道の宮司様にも考古学を御存知無く、神話と実際の日本文化の変遷を理解していない人が多いんですが、日本神話と考古学の歴史って整合性が有るんですよ。
DSC_0024
※写真は横浜市緑区の延喜式内社、御祭神は五十猛(いそたける=素戔嗚尊の子)の杉山神社。
神話が始まったのが西暦紀元前600年頃、縄文時代の終焉が紀元前400年頃、素戔嗚尊が古代日本で活躍するのが丁度その頃。そして弥生時代が始まるのですが、関東各地の古社の御祭神は悉(ことごと)く素戔嗚尊の御神孫なんですよ。つまり関東の古社の神話では出雲神族が関東を開拓した神話が有り、最近の発掘成果では、その頃に稲の水田耕作も伝播してる事が解っています。
そして弥生時代の終焉、古墳時代の到来が西暦100~200年代と言うのも古い古墳の発掘で推定されていますが、実は神奈川県の走水神社の伝承では日本武尊が三浦半島の走水に仮御所を置き、そこから房総半島に船で渡ったのが西暦110年か114年の正月だと伝承しています。つまり青銅器の導入や古墳文化の伝播が日本武尊神話と整合性が有るんですね。
DSC_0410
さて、話を神話と考古学から、大庭神社の元宮に戻します。
畑地と住宅街の在る山に所在し入口が解り難いのですが、上の石碑が目印です。
船地蔵周辺
最寄りのバス停は❝船地蔵バス停❞か❝第六天バス停❞です。
電車の最寄りの駅は無いので、藤沢本町とか辻堂駅等の周辺からバスでの訪問か車を大庭城址公園、もしくは近所のコンビニに停めるしか無い、少々不便な所です。
DSC_0412
さて、ここは嘗(かつ)て大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれた地区で、縄文時代~人が住んだ地域でした。
その大庭御厨を水田耕作に適した土地に開拓したのが、戦国武将上杉謙信の祖先で、平安時代の名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公は坂東武者達から武士の鑑(かがみ)として尊敬され軍神として鎌倉市坂ノ下の御霊神社で崇拝されました。
失明した際に供養した目を埋めた土地から瞬く間に樹木が成長した逸話から❝眼病治癒の神様❞、そして御霊神社周辺で多くの貴族や武士が恋愛の詩歌を詠(よ)んだ舞台だった事から❝縁結びの神様❞として人々に信奉されています。
※権五郎御霊神社については「ココ」←クリックして以前の記事を御覧下さい!
現在ではこの地区、船地蔵地区と呼ばれています。
その由来は大庭城址落城の秘話と密接に関係が有ります。
DSC_0278
上は大庭城址の空堀と土塁。
大庭城は引地川辺りに堤防を作る事で、城の周辺を湖沼化し守りを堅めていたそうです。
しかし・・・
この引地川の堤防と言うのは、引地川に注ぐ川を堰(せ)き止めた堤(つつみ)なのか、それとも引地川の水を引き込んで沼にしたのか現代には伝わっていません。
そこで地形を見てみましょう。するとある程度は推測が出来ます。
もう一度衛星画像で位置関係を確認してみましょう。
船地蔵周辺
大庭城址東側は元々湿地帯です。ですから水を堰き止める必要は有りません。
東側より西側が標高が高いので、西側を湿地にする程の大堤防を築けば南側の街道全て使用不能に成ってしまいます。
西側は湿地では無いのですが、滝ノ沢が流れ、更に江戸時代に❝熊野社❞と呼ばれた大庭神社舊跡が在ります。
恐らく、そこに嘗(かつ)て存在した滝や、湧水地の流れを引地川に入る前に堰き止めて西側一帯を湖沼化させていたんでしょう。
熊野社と言うのは、古来の神聖な湧水地や滝の傍に造営される神社でした。つまり、西側は湿地では無いにしろ当時は湧水池か豊富な水量を誇る滝が有る川だった可能性が有る訳です。川の名前がそもそも滝ノ沢だった訳ですしね。
そして、この地域からは多くの縄文~弥生文化遺構が出土しています。
これは説明するまでも無いのですが熊野那智大社は聖地である那智の滝の傍に在り、紀元前からの貝塚史跡が出土している丘を境内に抱える師岡熊野神社も聖地である池の傍にあります。そして両方とも天皇家の崇拝を受けました。
ここ大庭神社旧跡は、その前を流れる川の滝か、滝の傍の湧水地で聖地として後に熊野社が勧進され名前は大庭神社と呼ばれていたのでしょう。
そして、前回の解説記事でも推論を述べましたが、足利幕府の重鎮であった山名家と別当寺の都合で後から現在の稲荷地区に移転した筈です。
DSC_0413
この元宮と推測される大庭神社は参道が二段階に成っていて奥まで行かないと御社(おやしろ)が見えません。
恐らく、この御社の神様を奉る理由に成った、神社その物より大切な聖地とされた滝や池が昔は存在した筈なのですがね。現在は地殻変動か宅地開発かで往時の面影は解りません。
とは謂(い)えども、ここはヒッソリとしている物の、醍醐天皇の時代、西暦900年代の京都の貴族達にも神聖な場所として認識されて延喜式神名張に記載されている神社だったので、神奈川県下現存14座の延喜式内社+数社の式外社と数少ない悠久の歴史を持つ神社な訳です。
DSC_0414
現在では、本当に御社(おやしろ)と言う他無い規模の神社ですが、昔の人から我々が受け継いだ聖地である事には変わり有りません。そして、神様の御利益や聖地としての大切さに神社その物の規模など微塵も関係が無いんです。
DSC_0415
是非、ここ大庭神社の元宮と、現在の大庭神社両方を合わせて御参りして欲しいです。
そうする事で、ここを大切にしてこられた縄文~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~戦国~江戸~明治大正昭和の人々の生きた歴史を感じ、平成の時代に我々が土地の文化を守る大切さと、神社の伝統を守る大切さの両方を引き継ぐ事が出来るんだと思います。

こ大庭神社の元宮近くには、この地が古来早く開けていた証拠と成る神様も鎮座しています。
DSC_0403
臺谷戸稲荷神社です。
この稲荷社の名前の由来は、大庭神社の所在する台地が古来❝臺(だい)❞と呼ばれ、北側が谷戸(やと=谷を利用した集落)だった事に由来しているそうです。
DSC_0405
古来、稲荷社の御祭神は宇賀神(うがじん/うかのかみ)や宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたまのかみ)と呼ばれた豊穣の象徴の神様でした。後に平安時代末期に成ると中国から輸入した貨幣❝宋銭❞での経済活動が始まり、穀類や海産物の物資その物から貨幣経済へ社会構造が変革した事で富の象徴が❝貨幣❞と成りました。その過程で、印度(インド)から中国経由で渡って来た七福神の弁天様が❝戦の女神❞❝美の女神❞❝財運の神❞❝水の女神❞としての多くの御利益が在った事から、女神でもあり似た御利益宇賀神と習合され一緒に崇拝される様に成った歴史が有ります。
宇賀神は半蛇半女の姿で描かれる事の多かった神様なので、蛇神=水神としても信仰されたので弁天様は水辺に祀(まつ)られている訳です。
そして更に明治時代の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく=仏教弾圧)思想と明治政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい=日本の神様と外国から来た神様を再分離してしまう政策)によって、弁財天や弁天社として日本全国に存在した神社を破壊から守る為に、全国の弁天信仰の神社の氏子サン達が、弁天様と日本古来の海上交通=水の女神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を同一として習合する事で神社を存続させた訳です。
そんな訳で、明治時代に成って宇賀神も宇迦之御魂神も弁財天様も市杵島姫命も別々に成ってしまったので、逆に古代から明治時代まで受け継いだ歴史が寸断されて訳が解らなくなってしまった訳です。
まぁ、市杵島姫命自体は名前や御神威からして福岡市沖に浮かぶ聖なる島の❝壱岐❞に古代いらっしゃた神様(古代天皇家の王族の姫、もしくは壱岐国の女王か王族の姫様がモデルか?)か、島自体を神格化した神様でしょうから、とても大切な神様である事には変わり有りませんが…。
そんな、縄文~明治時代直後までの富の象徴としての宇賀神信仰の歴史を全て残しているのが鎌倉の銭洗い弁天様です。
IMG_20160615_142609
ですから先日、休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区でも書いた鎌倉の銭洗い弁天の正式名が宇賀福神社も名前は宇賀神を元々祀っていた事が解りますね。同一視された辨財天が、源頼朝公によって御神体として祀られ、更に後に明治時代に市杵島姫命が祀られた歴史が全部詰まっている、財運の女水神様です。
話を臺谷戸稲荷其の物に戻します。

DSC_0418
この御稲荷様の御社の直ぐ手前に大木が有ります。
DSC_0403
この臺谷戸稲荷神社を覆い隠している大木ですね。
銘板が見当たらなかったのですが、ここは小生の行く先々の城址や神社仏閣で度々登場する❝神奈川の銘木100選❞の一つ❝臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の樹❞です。
DSC_0406
小さい御社ですが、大木が育つ環境と言う事は古代~近代に成っても地元の人々に愛されてきた場所なんでしょうね~♪

きっと、皆さんの家の御近所にも、この大庭神社みたいにヒッソリとした場所に在りながら、とてつもない歴史や偉人達との関わり合いが有る神社や御寺、城址や史跡の山が有ると思います。
ですから…
皆さん、御近所の神社仏閣や里山を散歩して見ませんか?

今回はここまで!
次回は現在の立派な方の大庭神社の社殿を写真で紹介します。
では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪

mixiチェック

藤沢市大庭地区が、古代から戦国時代の初期まで神奈川県内でとても大切な場所だった事を知る人は、現代では多くは有りません…
DSC_0332
その大切さがどれほどの物かと言うと、大庭には縄文時代の遺跡が大量に出土しているだけでなく平安時代の醍醐天皇の時代、延喜年間の日本人から見ても「古い」「聖地」として認識され後世の人間に「保護しなさい」と言う意味で❝延喜式神名張❞に記載され我々に託された神社の一つ❝大庭神社❞が有るんですね。
上の写真が大庭神社です。
実は大庭神社は藤沢市内に2箇所あり、江戸時代に横浜の殿様間宮家の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌を編纂した間宮士信(まみやことのぶ)達の新編相模風土記公でも、この件を取り上げています。

その2箇所の場所は…
藤沢市大庭…
DSC_0408
大庭神社舊蹟(きゅうせき=旧蹟)、つまり元々大庭神社が有ったとされ、後に熊野社と呼ばれた神社。
そして藤沢市大庭の大庭神社。
DSC_0335
新編相模風土記稿で、ここを取材した記者は、まだまだ考古学の❝こ❞の字も学問としての考古学が発展していなかった時代の人間なので、古代の大庭の様子も解らなかった結果、「舊蹟は元宮とは疑わしい」と言う事を言ってしまっています。
でも小生、この江戸時代の学者を論破できます「解ってねぇ~なオマエ(笑)」とね。
小生は断言します。
古代関東開拓の歴史と、旧跡が熊野社と呼ばれた事を証拠に大庭神社舊蹟こそ本来の大庭神社の元宮だと。
先ずはコレ↓を見て下さい。
大庭神社周辺
大庭神社と大庭神社舊蹟の位置を、古代の海岸線に重ねた地図です。
白い部分が神話の時代に海だった所」です。
解り易いように現代の鉄道も表示します。
これを見ると解ると思いますが、現代の藤沢市の中心を為(な)す平地は古代の海底です。
この藤沢本町一帯の地域が開拓されるのは大分遅く平安時代末期、鎌倉時代の少し前の話です。
もっと具体的に言うと、藤沢本町を開拓したのは平安時代の名将、鎌倉景正公です。
鎌倉景正公については以前に御霊神社の解説で紹介したので興味の有る人は当該記事を御覧下さい。
image
※鎌倉景正公の記事は「ココ」←クリック!
さて、大庭神社に話を戻します。
大庭神社周辺
古代、日本人が住めた地域は現代人から見て丘や山の上の地域だけです。
だから縄文時代~弥生時代~古墳時代の遺跡は、山や丘の上から出てくるんですね。
そこで大庭神社の位置を見ると、やはり古代の海岸線にあります。
左上の同じ延喜式内社である宇津母知神社も、やはり古代の入江の付け根に所在しているのが解ると思います。
この海岸線は縄文時代の海岸線です。つまり古い神社と言うのは日本人本来の縄文文化を継承している場所でもある事が解るかと思います。だから日本人は沖縄やアイヌの人と古代は同族だったんですよ。

さて、では何で小生が大庭神社舊蹟を元宮だと思うか、状況証拠を箇条書きにしてみます…
1,縄文時代の遺跡は新旧大庭神社の在る入江の左岸から多く出ている。
  西岸に在る平安末期~戦国時代の大庭城の丘も縄文時代の遺跡が出土している。
2,東岸が開拓されるのは平安時代以降。
坂東平氏の祖である平良文(たいらのよしふみ)公が村岡城址を拠点に開拓を始めた。その後、東西北に子孫が拡散して行き関東全域に開拓地を広げていき武士文化の基礎を坂東平氏が築いた。
3,大庭神社舊蹟が❝熊野社❞と呼ばれたから。
熊野社とは新鮮で清潔な水の湧く場所や滝を聖地として開かれる神社。現代人も誤解しがちだが古代人は川の水をガブガブ飲んでた訳じゃなくて、自然湧水の有る地域にいついています。そりゃそうです、古代は抗生薬なんて無いですから腹壊す(=感染症や寄生虫)事は死に直結するんですよ、川の水なんかそのまま飲んだら。
だからこそ、井戸の掘削技術を手に入れた平安時代に至っても古代の聖地である自然湧水の有る神社を霊場として崇敬していた事実が有る。
つまり、大庭神社舊蹟が熊野社と呼ばれた以上、付近に古代は遊水地が有ったはず。遊水地が有れば古代人が住み着いた訳で、事実縄文時代の遺跡が周辺に在る。
…まぁ、挙げればキリが無い。

では、何で現在の大庭神社が新宮だと推測するかと言うと、理由は上記の2が絡んできます。そして大庭神社の別当寺だった稲荷山成就院宝染寺が原因だと思います。
成就院は、室町時代初期に山名氏公が造営した真言宗の御寺です。真言宗の開祖弘法大師空海和尚は日本神話や神様も大切にされた人物だったので、明治時代以前まで真言宗自体が神仏習合の要素の強い宗派でした。
よく有る事なのですが、武士が自分の領地の中心に守護神として近所の御利益の有る神社を移転させる事が良く有りました。室町時代にも成ると本来の自然信仰から御神体や偶像崇拝へと日本の宗教観も変化していたので、当時の人は罪悪感も無く聖地と神社を切り離してしまう事が有りました。
同じ延喜式内社の高部屋神社もその典型ですね。
DSC_0681
※高部屋神社の記事は「ココ」←クリック!
平安末期、源頼朝公の随兵も務めた糟屋有季(かすやありすえ)公は、本来、大山山系の渋田山に所在した高部屋神社が御自分が支配した糟屋郷の鎮守に相応しいとの独自判断から自分の居城だった千鳥ヶ城(糟屋城)の丘陵を通る大山街道前に遷座した歴史が有ります。
平安時代にも成ると、御神体が聖地で有る事を認識できなく成っていた人々も多かったと言う事でしょうね。
だからこそ、醍醐天皇が延喜式神名張を編纂させて保護すべき神社を指示したんですがね~。
源頼朝公も醍醐天皇と同じく自然信仰や古代の宗教観を引き継いでらっしゃったので、大山や富士山を登山し頂上で礼拝しています。

又々、解説が大庭からずれていたので話を大庭に戻します。
戦国時代初期まで鎌倉が東日本の首都だとすれば大庭は南関東の首府だった時代が有るんですね。
鎌倉公方足利家に忠誠を誓っていたのは、戦国時代の関東管領山内上杉家ではなくて、鎌倉公方配下の扇谷上杉家と宅間上杉家でした。
その内、宅間上杉家は足利尊氏公と母方従兄弟の血縁関係であり、扇谷上杉家は鎌倉公方の本拠地である相模国を拠点にしていました。
その初期の居城が藤沢市の大庭城と伊勢原市糟屋(上杉)館だったんですね。
DSC_0275
写真は大庭城址に昭和9年、当時の神奈川県知事や職員や教育者が、この城址の重要性を後世に伝える為に建てた石碑です。
残念ながら現代の教育委員会は無知無文化な上に土木事務所は❝土建会社に不利に成る事を妨げない様にする反日本文化的❞な連中なので、大庭城址も北半分が宅地開発され消失してしまいました。
大庭城址の南西は船地蔵地区と呼ばれ、大庭城落城の時の詳細な状況が伝承している船地蔵が地名の由来です。
DSC_0326
東の引地川は名前からして水掘りに水を引き込める程の河川の水量があったようです。
こちら側、船地蔵地区は古代から自然湧水の沢があり、そこを堰き止めて大庭城西側を湿地にしていた事が伝承から解ります。
つまり、寄生虫の危険の有る川の水では無く、古代人が飲料水に用いる湧水池が在った可能性が高い地域なんですね。
だからこそ縄文遺跡も、こちら船地蔵地区側や大庭城址から出土する。
2015-11-25-16-11-09
上の写真は扇谷上杉家の重要拠点だった糟屋館(上杉家の大城郭)の跡地の台地ですが現在の神奈川県の黒岩知事は、この糟屋館の丘を破壊して県道を通そうとしています。
そして、教育委員会は地元住民が伝える城址の地名を無視して、既に開発された産能大学の敷地だけが城址だと日本城郭体系や郷土史と異なる戯言を並べて黒岩知事の破壊行為支援をしているようです。
さて、こんな訳で県央の伊勢原市~大庭は古代から中世、関東で重要な場所だった事は御理解頂けたと思いますが…

糟屋館には大手を守る寺院、蟠龍山洞昌院公所寺が有ります。
実は、大庭神社舊蹟の在る船地蔵側には大庭城の鎮護だったと思われる寺院が有ります…
しかも山号が伊勢原市糟屋の寺院と同じなんです。
その名も❝蟠龍山❞宗賢院。
DSC_0355
この二つの御寺には更に凄い共通点が有ります。
…両方とも御寺の寺紋(じもん=御寺の家紋)が太田桔梗なんですね。
DSC_0365
上は藤沢市大庭の宗賢院。拡大して見ると太田桔梗紋が屋根の上に見える。
下は伊勢原市上粕屋の洞昌院、太田道灌公の菩提寺。同じく拡大して見ると、そこかしこに太田桔梗があしらわれている。
2015-11-25-15-12-43
この2つの御寺は、大庭城、糟屋館の鎮護の役割をしていたと推測できます。
扇谷上杉家は禅宗の臨済宗の信徒だった。同じく太田道灌公も鎌倉の建長寺で修業した臨済宗の信徒だった。しかし、この2つの御寺は北条家の時代に曹洞宗として中興している。
宗賢院に関しては、曹洞宗以前の記録が残っていないので開基を1505年としている。しかしながら、平安時代末期の当地大庭の領主大庭景親公の遺物が寺宝として伝わっており、更に太田道灌公ゆかりの桔梗紋が寺紋である事から、現在では名の伝わらない太田道灌公が支援したであろう前身寺院が間違えなく平安時代末期には存在した事が確実なんだな。
では何故現在、宗賢院も洞昌院も同じ禅宗でも曹洞宗かと言うと、太田道灌公亡き後に、道灌公をリスペクトしていた北条早雲公が曹洞宗の信徒で、北条早雲公が後に関与した寺院の殆どが北条家の庇護下に入る際に曹洞宗に改宗している。だから大庭城や糟屋館の落城後に御寺を復興したのは北条早雲公や北条氏綱公達だったからこそ現在は曹洞宗なんだな。

何でこの宗賢院と洞昌院の歴史に話を掘り下げたかと言うと…
これで、大庭地区の昔は海の入江だった東西どちら側が先に発展して来たか、関与した偉人達の足跡を辿(たど)る事で推測する事が出来るでしょう?完全に西側から発展してますね。
いよいよ本題です。
大庭神社の舊蹟が元宮だとするのは、ここまで話した通り県央から徐々に文化は東に伝播して行ったからです。
舊蹟と現大庭神社の間には湾があり、大庭城址や船地蔵地区の古代の湾の西側から人が住み始めたのは出土した史跡から明白である以上、考古学的にも大庭神社舊蹟=元宮=本来の大庭神社が有った場所=現在の大庭神社は後の支配者によって遷座された…
と周辺状況をまとめると容易に推測出来る訳です。

完全に西側から発展してるんですよ、縄文時代の古代だけでなく中世もね。
東側が開拓されるのは、坂東武者の鑑や軍神として鎌倉武士達に崇拝された鎌倉景正公が本藤沢を開拓して以降の話し。
2014-08-31-10-50-34
※写真は鎌倉市の御霊神社。本藤沢を開拓した鎌倉景正公を御祭神として祀る神社。
そして恐らく、大庭神社が現在の地に移されたのは、明治時代まで別当寺であった成就院との関係によると推測出来るんですね~。
下の写真が大庭の成就院。
DSC_0350
この成就院、足利尊氏公と母方の従兄だった山名時氏公が開基したと伝わっています。正確には山名伊豆守。
開基(かいき=寺社を造営する事)は1352年頃とされています。
…つまりね、平安時代の人から見ても古いと思われていた古代から存続する大庭神社の別当寺の割には歴史が凄く浅いんですよ、この成就院は。
でも、足利尊氏公や山内上杉重房公や宅間上杉重兼公と縁戚の山名時氏公の開基だから、否応無しに格式が高く成る訳です。そうなってくると当然、付近の神社の別当寺に成って管理業務を担う様に成った訳ですよ。
でも、御寺の傍に管理する神社が無いと不便でしょう?そこで二つの仮説が立つ訳です。
1、御寺の傍に大庭神社を移しちゃった。
2、本藤沢側の台地が後に発達したから、元々船地蔵地区に在った御寺が本藤沢側に移転して、その際に一緒に神社が移転されられた。
小生、この仮説を立てた時に気が付いたのですが、藤沢の成就院は御寺の山号が稲荷山です…
しかし御寺の有る地区は地名こそ❝稲荷❞ですが、この地区に稲荷社が在った歴史は無い!
ところがところがぁ~♪
DSC_0405
船地蔵地区の大庭神社舊蹟の直ぐ近くには❝臺谷戸稲荷❞が鎮座しています。
しかも、こちら側の大庭神社舊蹟の大庭神社(熊野社)も別当寺は成就院でした。
…もう、これで状況証拠は集まったでしょう。
恐らく、この地区に成就院の前身だった宝染寺が在った。そして当然、大庭神社舊蹟が元宮であり、古代から船地蔵地区に存在したので、宝染寺が別当寺に成った。
その後、1352年頃に鎌倉に近い現在の稲荷地区に山名時氏公が何らかの関わりが有って、宝染寺と大庭神社を東側の丘の麓に遷座し、宝染寺も成就院と院号に寺名を改める事に成ったが山号は船地蔵地区に在った時のまま稲荷山を引き継いだ。
結果的に成就院が移転して来た丘陵地帯の地名が御寺の山号をとって❝稲荷❞と呼ばれる地区に成った。
だから、現在の大庭神社は若宮で、地元の伝承の通り江戸時代に熊野社と一時期呼ばれた大庭神社舊蹟こそ元宮そのものだと推測が成り立つ。
そして、この大庭神社舊蹟や臺谷戸稲荷や大庭城の在る、古代の湾の西側の陸地からは縄文時代~弥生時代の史跡が出土している…
ダメ押しすると、大庭神社舊蹟の住所は藤沢市❝大庭❞。
つまり、伊勢神宮直轄地だった大庭御厨(おおばのみくりや)は大庭神社舊蹟の側一帯の丘を指す訳ですよ。
どうでしょう?
…以上が周辺の歴史ですが、もう元宮は大庭神社舊蹟で決定ですよね?
江戸時代の間宮士信先生の弟子の三文学者が、江戸時代に東海道が通っていた本藤沢側が栄えていたからって勝手に地元の伝承を否定したのは、現代の発展した考古学と古代からの地勢を見れば誤りだったのが良く解る訳ですね~。

次は大庭神社元宮と近所の稲荷社を写真で紹介します。
では次回の記事で御会いしましょう~♪
mixiチェック

平安時代の人からも古くて由緒有る神社と思われていたのが延喜式内社と呼ばれる普通の神社とは比べ物に成らない❝別格❞の神社です。
醍醐天皇が編纂させた延喜式と言う律令制度の改正法に定められた保護すべき対象の神社一覧が延喜式神名張に載る延喜式内社です。
又、延喜式成立以前から存在するが、当時は修行場や祈祷所と機能していたので祖先や神を奉る神社とは意味が若干異なっていていたり藤原家に不都合な歴史が有り掲載できなかった神社を延喜式内社に対して式外社と言います。
その神様の御神威と歴史が別格の意味に社殿の大小や現代の参拝客の多さは関係有りません。
多くの延喜式内社には縄文~弥生文化の遺跡が近在し、又、神社の宝物に日本神話の時代に当たる弥生時代に作られた祭器が有る所も少なくなく更には考古学的にも、その祭器が弥生時代や古墳時代初期の物だったり境内の遺跡が縄文文化の史跡と確認されている場所が多く有ります。

そんな延喜式内社が神奈川県には旧相模国内に13座、旧武蔵国(横浜市)に1座、式外社で古事記に登場する様な霊験あらたかな場所や歴代天皇の勅願所も数ヵ所有ります。
その中の一つで、現在も比較的大きな規模を誇るのが大和市の深見神社(ふかみじんじゃ)です。
DSC_0527
ここ深見神社は雄略天皇の時代(西暦500年前後)に闇神(くらおかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を御祭神として創建された事が関係文献から解っている様です。
神は水神=雨乞いの神様として信仰されたそうですが、似た名前の神様に高神(たかおかみ)と言う神様が雨乞いの聖地だった大山阿夫利神社の御祭神として祀られています。
この二神は名前も似ていますが同じ様な御神威を御持ちの様です。
今年2016年の夏は水不足なので神奈川県知事や自治体の首長には御参りして欲しい所ですね。
さて…少し脱線します。
延喜式内社も凄いのでですが、式外社にも凄い場所が有ります。

特に凄い場所は以前も紹介した…
2014-11-02-07-33-52
日本武尊の仮御所近くに、日本武尊の冠を御神体として地下に埋蔵して創建された横須賀市の走水神社。
ここは最近の社殿建て替えの際に本当に地下に石室が有る事が確認されています。
※記事は「ココ」←クリック!
2015-02-04-10-37-49
日本武尊の御妃様の弟橘姫の古墳が神社社殿の背後に控える川崎市の橘樹神社。
神奈川県教育委員会の怠慢と不見識で、大古墳は一部を除いて宅地化されてしまいましたが、古墳頭頂部の一部がかろうじて現存しています。
※記事は「ココ」←クリック!
DSC_0209
そして歴代天皇が勅願所道場として信奉した師岡熊野神社です。
歴代の天皇家と源氏や小田原北条家、徳川家から信奉され、特に光孝天皇から「関東随一大霊験所熊野宮」の異名を与えられ、その勅額を頂いた周辺に聖なる池を多数抱える神社でもあります。
※記事は「ココ」←クリック!

今回紹介する深見神社は、この師岡熊野神社と同じ雨乞いの神様として古代人からも信奉された古社な訳ですが…
DSC_0525
伝承や郷土史研究者の意見では、この辺りも古代に海が入り込んだ入江だったので❝深い海❞が地名の深見に転化したと考えられていますが、小生の意見は少々異なります。
何故かと言うと古代の海岸線と深見神社の位置は離れているからです。
神奈川県名の延喜式内社と古代の海岸線 久良岐のよし
そこで小生が推測するのは、深見(ふかみ)の地名由来は❝深水(ふかみ)に嵌(は)まる❞の方の深水だと思うんです。
実は、この深見神社は重要な場所に在(あ)りまして、すぐ近くを❝境川❞が流れています。
延喜式内社と河川の位置 久良岐のよし
※拡大して見ると、河川と延喜式内社の位置が解ります。
古代は橋を架橋する技術が無かったので、大河川を渡河するには舟での移動しか有りませんでした。
若しくは…徒歩で渡れる浅瀬を探すかですね。
残念ながら神奈川県には相模川や鶴見川の様な巨大河川が幾筋も有り古代人にとっては交通の便の良い土地では有りませんでした。
それ故、この道を❝東海道=東の海の道❞と古代人が名付けた訳です。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
古代の東海道は何筋もの大河川を船で渡り、最後は走水から海を越えて房総半島に渡っています。
さて、そんな訳で深見神社の眼前には今も昔も境川が流れているのですが、これが上流部分が旧相模国と旧武蔵国の国境と定められた川だから❝(国)境(の)川❞と成った訳です。
この境川も相当な下流域は海でしたが、実際の所は深見神社の氏子サンや郷土史家の推測は海岸線の歴史事実と異なり、深見神社の眼前に入江が広がっていた歴史は存在しえません。
そこで小生の説は「❝川の深水❞が有ったから深見神社と名付けられた」と成る訳ですが…
「え?深水なんて別にありがたくも何も無いじゃん?」
…と思ったら、貴方は神道と日本の祭祀の歴史を全く解ってない。
古代人にとって川の❝淵❞や❝深水❞と呼ばれる地勢は聖地として信仰対象に成っていたんですよ!
DSC_1084
上の写真は江戸市民の水の供給源だった東京都羽村市の多摩川上流にある根搦前水田を横断している雨乞い街道です。旱(ひでり)の日は、聖地とされた深い淵で雨乞い儀式を行う習慣が有りました。
そして深見神社の御祭神の名前の❝闇神(くらおかみ)❞です。
神(暗い場所の水神様)と解釈出来る御名前から、鬱蒼とした樹木の下に流れる境川の水深の深い水辺を連想させますよね。
似た名前で同じ雨乞いの神様の高神は大山阿夫利神社の神様ですが、実は大山は標高1000mを超す場所に沢山の自然湧水や滝が有るんです。❝高❞い場所に水を湧かせる❝神(おかみ=龍神)❞様だから高神なんでしょうね。
恐らく、ミシェランガイドで三星の観光地認定された東京都日野市の高尾山の❝高尾❞は、大山阿夫利神社の❝高龗❞神と同じ神様を奉っていた歴史が古代に有ったんじゃないかと思います。多分高尾山は山岳信仰と雨乞いの対象だったんでしょう。大山と同じ様に天狗(てんぐ)信仰も盛んですからね。

話を深見神社その物に戻します。
DSC_0528
深見神社は北西から入ってくる変則的な表参道の横に石碑が有ります。
これは、この深見の江戸時代の領主が、この神社と周辺を大好き過ぎてアレやコレや寄進しまくった時に建てたそうです(笑)。
DSC_0529
その近くに立派な狛犬さんも鎮座していて参拝客を御出迎えしてくれます。
DSC_0532
凛々しい狛犬様。
DSC_0533
めっちゃ筋骨隆々だね。
参道から、社殿正面へ続く駐車場の傍(かたわ)らには大和市の保護指定を受けている大樹があります。
DSC_0530
DSC_0531
すんごい立派ですね。
駐車場に車を止めると富沢稲荷と言う小さい摂社が有ります。何故か境内には遷座されていない。
DSC_0534
こちらは参拝客もまばらそうですが、小生は御城や神社や御寺を御参りする度に御稲荷様が鎮座していて、参拝客や地域の方々を守って下さっているのでちゃんと御挨拶をして御参りして来ます。
勿論、この時も御挨拶しました。
DSC_0535
現在では一見すると普通の少し広めの神社程度の境内ですが、参道の向きや周辺の森と道路の敷設されたルートを見ると、明らかに昔は周辺の住宅街全部が深見神社だった事が見てとれます。
深見神社推定旧境内 久良岐のよし
こんな感じかな?
ちゃんと現在の社殿前の鳥居の反対側にも、昔の参道が有り、先にも廃道が有る。
DSC_0536
現在は私有地に成ってしまっているので通れない。
DSC_0537
こう言うのは明治政府のせいなんだよ。
明治政府が神社の土地を接収しちゃって、更にその後で太平洋戦争で負けた時にも米軍に神社の土地は大きく接収されてしまったので、こんな風に古い参道が使えなく成って家が建っちゃった場所は少なくないんだな。

さて深見神社の社殿はとても立派です。
DSC_0546
造りからすると多分新しい。ごく最近の再建。
DSC_0545
この時は春に差し掛かった頃に訪れたので、桜の花が咲いていてとても綺麗でした。
深見神社は江戸時代に周辺領主だった坂本家が武神の武御雷神を鹿島神宮から勧進した歴史も有るので一時、鹿島社の別名で呼ばれていた事も有ります。
そっちの神様はハッキリ言って深見神社や深見の土地と関係が無い。
寧(むし)ろ、相模国の延喜式内社と関係が有る戦神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と五十猛(いそたける)神日本武尊と弟橘姫だからね。平安時代にも関東では武御雷神じゃなくて、八坂神社や浅間神社で素戔嗚尊が崇拝されたし、西暦700年頃からは弁才天様も崇拝されだした。
後から深見神社に引っ越して来たのが武御雷神。
DSC_0541
そこ等辺の事は説明の看板にも書いて有るけれど、元に成った記事を読みたい人は横浜の殿様間宮家の子孫の間宮士信が編纂した新編武蔵風土記稿を読むと、周辺の歴史も解って楽しいですよ♪
深見神社は手水舎にはちゃんと水道から新鮮な水が流れていて身を清めれます…
DSC_0543
…多くの延喜式内社が伊勢と関係ない神様で宮司様不在で寂れて水道も流れてないからね。
ここは他にも施設が沢山有ります。
DSC_0550
靖国社。靖国神社の末社かな?と思ったら全く違いました。
元々、この大和市や厚木市は大日本帝国海軍時代の厚木飛行場が有ったので、そこに空の神様として神社が建てられた航空神社を、戦後厚木基地が米軍に接収される際に引き取って当地に遷座したそうです。
それと、さっきの富沢稲荷様とは又違う境内社の稲荷大明神。DSC_0552
御倉大明神と言って、一時期、闇神がこちらに移されて、本殿には明治時代の国家神道と関係が深い武御雷神が本殿に祀られて優先順位と歴史的にアベコベにされていた様です。
現在は闇神様は本殿に無事帰還されています。

それと御神木…
DSC_0548

出ました!神奈川県の銘木100選。
小生の行く先々でちょくちょく登場する銘木100選、その一つが深見神社の現在の御神木の春楡(はるにれ)の大樹。
DSC_0549
春楡(はるにれ)が❝春を❞❝諭す=楡❞、つまり春の訪れを知らせる様に花が咲くからだそうです。
深見神社では種類が解らず「なんじゃもんじゃの木」と渾名されていたようです(笑)。

ここには、古代の文化を伝える神様がいらっしゃいます。
そして江戸時代に武士に崇拝された戦神様も後に同居されました。
古代から近代まで、色んな時代の人の記憶がつまった大切な場所、そして古代人の聖地だったはずの境川の淵の横に建てられた神社だったんだろうなと思います。

きっと皆さんの御近所にも、あんまり大きくなくても凄い歴史偉人との繋がりや、古代からの文化や遺跡を継承しているとんでもない神社や御寺が在ったり、近くの公園や山に行くとソコが平安時代~江戸時代に日本の文化を発展させた武士達の御城の古址だったりするかも知れません。
…御近所の神社仏閣や城址を散歩して、昔の人事を少し思い出してあげませんか?そして文化を大切にしてみませんか?
御参りして先人に「日本の発展に寄与して下さりありがとう」と御礼を伝えれるだけでも、偉人達や神様や仏様は喜んで下さるかも知れませんよ。

では、今日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう♪

mixiチェック

自宅のある横浜を出発したのは午前11時頃…
北鎌倉までは車でそうかからないで到着する。
渋滞に捲き込まれてやっと時間がかかる程度だろうか?

小生の仕事は連休が無い。
世間がゴールデンウィークも仕事した分、本来、6月1日には休暇を使って一週間ぶっ通しで京都~愛知に行ってるはずだった。
京都の阿弥陀寺様に、昨年の間宮家の顕彰活動で訪問した際に追善供養に参加する様に御声がけ頂いていたからだ…
めちゃくちゃ贅沢してやる心算で半年超かけて30万円旅費を積み立てていた。
移動にタクシー借り切って、食事は全て有名な料亭や西洋料理のレストランを予約して食べるつもりだった(笑)。
…しかし、熊本大地震が発災。
京都行の旅費は全て熊本に送ってしまった。

でも、せっかく休むつもりだったのをキャンセルして何もしないのも癪(しゃく)に障(さわ)る。
けど、今月の小遣いは京都に行くいは足りない…
「そうだ!鎌倉に行こう(2週間に一回は来てる)‼」と、成った訳だが、断念した旅行を諦めたくない。
DSC_2126
で、こうなった。
「車で一瞬で帰宅できる距離だけど、宿泊しちゃえば良いんジャネ?」
…てな感じで三浦半島に宿泊中。
1週間ブっ通しの休暇をキャンセルして日曜日1日だけ休暇にし1泊2日の連休。

長者ヶ崎の砂浜に面しロケーション最高の家族経営の旅館「大海荘」。
今は持ち込んだPC叩いてる訳だ。
結局、京都に行かなかった分、❝作家ゴッコ❞みたいな(笑)プチ贅沢な土曜日を
DSC_2122
ここは海辺まで徒歩30歩(笑)と近い。
そして、この長者ヶ崎は❝神奈川の景勝50選❞の一つだ。当然風景は綺麗。
朝食だけの素泊まりで6,500円。家族経営なので規模は小さいが部屋は清潔。
でも天然ラドン温泉。風呂トイレは昭和初期の旅館らしく共用。
車で10~15分程度の近所には以前も記事で紹介した秋谷海岸の地魚地野菜のイタリアン「DON」や、佐島マリーナの海に張り出したウッドデッキの最高のロケーションで食事出来る「海辺」なんてレストランも有る。
だから、ちょっと三浦半島のドライブ兼ねて、もの凄く美味しい料理店でランチをとる事も出来る。
素泊まりにすれば逗子マリーナや葉山マリーナの御洒落なレストランで食事も出来る訳だ。
夕食付にすると8000円。
事前に相談すれば、旅館の庭先では天候に関係なく屋根の下でBBQも出来る。
夕食をBBQに変えるのも家族連れやカップルには良いかも知れないが…
DSC_2129
小生は一人旅なので、和食を頂いた。
葉山だけあって御刺身と魚の天ぷら美味しかった。
サーファーや夏休みの子供連れ家族の海水浴や鎌倉旅行兼ねた旅には丁度良いだろう。
DSC_2121
雰囲気は外観がオシャレな海の家、中は典型的な大正~昭和の日本旅館。
DSC_2120
小さい家族経営の旅館らしく、ロビーもこんな感じ。
江戸時代の旅籠もこんな規模が多かった。坂本龍馬サンの定宿の寺田屋とか近江屋とかね。
小生が箱根で良く宿泊する温泉も、家族経営だが築100年の小さい旅館だったりする。
小生はホテルより日本旅館が好きなので、プチ旅行でシティホテル泊まるよりも風景の綺麗な葉山は長者ヶ崎のこの旅館が好きだ。
本当、帰ろうと思ったら、横浜横須賀道路で30分チョイ(笑)。でも近くに宿泊するチョットした贅沢に満足(笑)。

本当に車移動なら海水浴や鎌倉旅行にロケーション良いからオススメしたいんだよね。
この旅館の部分は別記事でもう少し追記して紹介しようと思う。

こっから6月4日の訪問地域。
昨日は珍しく余り多くの場所を訪問しなかった。
行ったのは北鎌倉と宿泊地の海岸だけ…
●明月院…紫陽花の名所。
●鎌倉五山(と言う飯茶屋)。
●長寿寺…足利尊氏公の菩提寺。
●亀ヶ谷の切通…鎌倉七口(昔の鎌倉の出入り口は7ヵ所の切通ししか無かった)の一つ。
●建長寺…臨済宗の大本山、歴史の授業でも習う鎌倉五山の第一位の禅宗寺院で道場。
●半蔵坊…建長寺の守護神として裏山に鎮座する塔頭とは異なる修験道の神社。天狗様。

横浜を出て35分位だろうか?無事北鎌倉駅近くに到着し車を駐車。
先ず訪れたのが第一の目的地だった紫陽花の名所、明月院。
DSC_1993
昨日は6~7分咲き。
ここは紫陽花が綺麗なだけでなく、鎌倉武士文化中興の祖とも言える北条時頼公の菩提寺でもある。
又、中の草庵で御抹茶と和菓子を頂く事も出来る。
DSC_2006
当然、紫陽花は6分咲きでも綺麗だった。
DSC_2010
明月院は初めてではないのに、今まで裏の庭園(拝観料500円別途)に足を運んだ事が無かった。
警備院サンに質問したら菖蒲が見頃との事で、これも良い機会と思い足を運んでみたら…
DSC_2035
…これが予想外の美しさ!なんで今まで来なかったのか!
そして発見も有った…
DSC_2037
なんか菖蒲庭園の奥に❝通せん棒❞されている場所があり、その更に奥の右側には不自然なツタに覆われた路盤と思しき地形が見えた。古道の跡に見えたので、御寺の園芸部の職員さんや寺事務所の方に質問した所やはり、このツタに覆われた場所は古道の跡で、ここは表通りを通らず此(こ)の道を通って直接、臨済宗大本山の建長寺サンや円覚寺サン行ける昔の古道だそうだ。
今では、御寺同士の関係性は本山末寺の関係よりも現代の法律による土地の所有権等の事で各自境界が明確に成っているので封鎖されているそうだ。
ここを通れば山の尾根伝いに、関東の臨済宗の大本山の建長寺や円覚寺に行ける訳だ。
裏庭だけでなく、通常の順路も紫陽花以外に躑躅(つつじ)が綺麗だった。
DSC_2047
海の向こうに紅葉した山々を表現したような枯山水なのかな?
ところで、不敬無礼無秩序な輩が竹林に落書きをしていたので晒して置こうと思う。
DSC_2054
久保寺誠、松本、この両名の身の上にに釈迦牟尼仏と北条時頼公の仏罰と祟りが降りて以後、悪事を行えなく成ります様に。
DSC_2051
ちゃんと御寺サン書いてるでしょう?

明月院を出てから表通り(鎌倉街道)に移動する途中の風景…DSC_2055
少し趣が京都の哲学の道に似てるかな?水路沿いに在る邸宅は全て石橋が掛かっている。
この地域は山ノ内と呼ばれる場所で、その名の通り、関東管領山内(やまのうち)上杉家の邸宅がこの谷戸の奥には在った。つまり、この道を山内上杉家の歴代殿様や配下武将達が行き交(か)っていた訳で、恐らく上杉謙信も関東管領就任の前後は、この辺りに宿泊したんだろうか。
因(ちな)みに玉縄城の目と鼻の先なので、仮に宿泊したなら危険が伴い防備を怠れなかったはず。
明月院を出て鎌倉街道に復帰するとすぐに鎌倉五山と言う茶屋が有って…
DSC_2058
DSC_2057
北鎌倉名物の建長寺汁(けんちんじる)を食べる事が出来る。
けんちん汁は、建長寺発祥の料理なんだな。
御寺の精進料理なので、本来のケンチン汁には肉魚は一切入っていない。
ベジタリアン歓喜の料理。素朴で小生は好き。でも魚食べたい。
美味しく頂きました。

その後は臨済宗大本山建長寺へ…
行こうと思って歩いていたら、普段は一般参拝不可の長寿寺サンが特別公開を行っていた!
DSC_2061
ここは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の関東における菩提寺で、寺の開基(かいき=オーナー)は尊氏公の御子息で鎌倉公方の足利基氏公と言う、由緒正しい格の高い御寺サン。
DSC_2064
庭園も見事だったが、御住職様と御話しさせて頂く機会があり、有意義な時間を過ごせた。
DSC_2070
秋に奉拝出来たらきっと庭の紅葉が綺麗な枯山水の御庭。
DSC_2075
尊氏公は南朝の後醍醐天皇とは政権運営で対立したが、明朝の文化と日本の武士文化を融合した華美と質実を領有した室町文化の礎を築いた偉人である。尊敬すべき先人だ。

ここを出るとすぐの所に鎌倉七口の切通しの一つが在る…
亀ヶ谷(かめがやつ)坂の切通し。
DSC_2080
この切通の先には河内源氏の幼き日の源頼朝公や源義朝公が住んだ源氏の邸宅跡寿福禅寺が在る。
現代は少し広く開削さえているが、当時は人が2人程度しか横に並んで歩けない幅に、騎馬武者が侵入困難な程に急角度で屈曲させた喰い違い虎口(こぐち)が全ての切通しに設けられていて鎌倉市街防衛の要だった。
DSC_2082
事実、新田義貞は鎌倉の切通しを突破できず、一年に数回の大干潮を待って稲村ケ崎の海中に露出した磯から侵入してやっと鎌倉を攻略できた。

ここを歩いていたら、鎌倉文化らしい路地の壁面に掘られた地蔵菩薩様がいらっしゃったので、鎌倉を旅する人達と地域の方々の安全と御地蔵様御自身が末永く存続する様に御祈り申し上げて来た。
DSC_2079
御地蔵様の周りの壁面の形状を見るに、元々は矢倉に掘られていたのが、矢倉部分が崩壊して露出したのだと推察出来る。

そして、いよいよ臨済宗鎌倉五山第一位の建長寺へ…
DSC_2084
ここは桁違いの規模を現在でも維持していて、だいぶん減少したものの塔頭寺院もいくつか現存している。
又、明治時代以前の神仏習合の文化も維持していて、境内の奥院と言う場所には神仏習合山岳信仰の象徴である天狗様を祀る半蔵坊と言う寺の名前の神社が有る。
DSC_2090
総門をくぐると・・・
更に中には立派な門。

DSC_2091
京都の大寺院の南禅寺よりも大きい門。
南禅寺は立派な御堂が現存しているから甲乙つけがたい。
規模は京都の同じ臨済宗の大徳寺にも勝るとも劣らないが、鎌倉は度々戦火に捲き込まれているので大徳寺の方が塔頭寺院は多く現存している。
詳しい事は、いずれ建長寺様だけの記事を改めて書くとして、見所としては徳川秀忠公の奉献された金ピカの唐門なんかも有る。
DSC_2105
奥のやつね。

半蔵坊へ移動。
image
半蔵坊は建長寺オリジナル御朱印帳を持つ人だけが入れる。
参道は少し歩く。
image
正に神仏を共に大切にされた歴代天皇と武士達の価値観を大切に受け継がれいる証拠。
御寺の守護神として神社がある。
image
そして山岳信仰の天狗様。
こちらからは、晴れていると相模湾が一望出来る。
image
生憎の曇天で相模湾と曇り空が一体化してしまった(笑)。

その後、建長寺様の参拝を終えて、昨晩から宿泊している葉山の海辺に在る「大海荘」さんへ移動。

で、記事冒頭の長者ヶ崎に戻る。
DSC_2124
昨日は曇天だが、なんとか富士山が見えた。
良い一日でした。

さぁ、チェックアウトだ…
image
久しぶりに食べた朝ごはんも美味しかった!
image
長者ヶ崎も朝から散歩出来て、朝風呂にラドン温泉にも入れたし満足!
さてさて…もうすぐチェックアウトの時間。

今日は何をしようかな?
生憎雨天、鎌倉の紫陽花は満開の来週に長谷寺を再訪するとして…
…三浦も雨では佐島マリーナの「海辺」と言うレストランに行こうと思ったが、それも変更。
やはり鎌倉に行くか!
う~ん、三崎漁港に行こうか?作兵衛の菖蒲園も見頃だろうし。

そんな休日雑記でした。


mixiチェック

↑このページのトップヘ