歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:神社仏閣

小生は良く、神社仏閣や歴史偉人の御廟所、歴史史跡や近代史跡、景勝地を散歩し美味しい物を食べ歩いています。

最近、そんな日本文化や歴史史跡の保護コンテンツとして非常に素晴らしいゲームを見つけました。
ポケモンGOです!
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実はこのゲーム、神社仏閣や史跡、注目されにくい石仏や小さな神様の祠(ほこら)が❝ポケストップ❞と言うゲーム内の❝補給所❞の様な場所に設定されています。
又、その周りでは沢山のキャラクターを採集出来る場合が多いゲーム設定にも成っています。
つまり、今まで歴史や宗教文化や日本の伝統に興味の無かった層に、歴史史跡や神仏やキリスト教の文化を再認識させるコンテンツとしても文化保護の役割が期待出来る訳です。
例えば、小生は横浜市に住んでいますが、近所がポケストップに成っています。
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ポケストップは、上の画面の様にゲーム内でチェックポイントの様な設定に成っていて、GPS追跡で衛星のデータと実際の地図に重ねたゲーム画像がリンクしていて、ユーザーに❝ポケストップ❞に到着した事を携帯電話のバイブ機能で知らせてくれます。
つまり左翼系報道局のネガティブキャンペーンで常に携帯画面を見ながら周りに追突する危険が有るゲームの様なデマが流布されていますが、実際は歩きながら常に携帯を見るゲームではありません
ポケストップに到着して、そこをクリックすると、その史跡の説明が画像付きで表示されます。
下が小生の近所のポケストップです。
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この昇竜橋は現代の自動車道路と歩道とは違う、河岸段丘の一段下の廃道にかかっている目立たない❝重要文化財❞だったのですポケモンGOによる紹介で若者を含め広く市民にも、その存在を再認識させる事に成功した先人が我々に残した遺産で、ポケモンGOの有益性を代表する事例の一つだと思います。
では、この昇竜橋が現代どれくらい粗末に扱われているか目立たない場所に存在しているかを衛星写真で見てみましょう…
八軒谷戸 昇竜橋付近
ね。
…この通り、河岸段丘面の下に存在し、現代の道路は段丘面の上に築かれたので普段は全く気が付かない場所に在(あ)ります。しかしながら、その道こそが鎌倉武士達が朝比奈峠を抜けて鎌倉へ馳せ参じた鎌倉古道の史跡の一つでもある訳です。

小生は鎌倉の某八幡宮の資料館や図書館に良く行く用事が有ったり普段から史跡巡りが趣味なので、放っておいてもポケモンに遭遇する機会が多いようです(笑)。

さて、この様に文化と史跡保護として威力を発揮する事が面白く無い人達がいます…
日本文化と宗教文化を破壊したい共産主義者とマルクス主義者です。
…当然、それらの人が多い左翼系議員と左翼系報道局はネガティブキャンペーンを行います。

一番顕著にネガティブキャンペーンを行っているのは従軍慰安婦問題を捏造したり、報道の中立とは程遠い常に左翼視点の記事を報道し続ける朝日新聞社系列の媒体です。
【ポケモンGO熱中、クマに気づかず接近も 交通事故多発:朝日デジタル】
コンナ↑記事ばっか最初から書いていますね(笑)。
皆さんも、ネガティブな記事とポジティブな記事を見かけたら発信元を調べて見て下さい。そして経済と社会の別記事も一読して見て下さい。そうすると、大体の傾向がコンナ感じで分かれます…
ポケモンGOに肯定的な報道局→保守系
ポケモンGOに否定的な報道曲→朝日新聞系・毎日新聞系・左翼系報道局
全体を俯瞰して見ると、それぞれの意図が感じられて面白いですね(笑)。

さて…
そこで小生なりに意見が有ります。
実際に運転しながらポケモンGOをやって事故を起こすバカや、私有地に不法侵入するクズ、神社仏閣の社殿や御堂がゲームでポケスポットに設定されていて参拝客を邪魔してまでゲームに興じる低モラルユーザーがいるのは問題です。しかし、これはゲーム設定を変更する事で完全に解決出来る問題だと思っています。
なので、以下に小生の考えを纏めてみます…

【朝日系と毎日系、左翼思想者によるポケモンGOのネガティブキャンペーンが多い理由】
コノ手のネガティブキャンペーン、最初に始めたのは共産・民主系と結託している朝日系列と毎日系列の報道機関だった。
左翼がポケモンGOに対してネガティブキャンペーンを繰り広げる4つの理由
1、ポケストップの多くは今まで注目されなかった史跡や神仏の祠(ほこら)、キリスト教系教会等宗教施設や歴史史跡を紹介している。
→これは左翼共産主義マルクス主義者達の反宗教思想には大変に邪魔な存在でしかない。

2、横浜市長の林文子や民進党議員達のような在〇某半島人労働者の多い鉄道会社と建設会社の左翼系労組が支持母体として関係の有る共産系・民主系の議員は、宗教文化を世界に再認識させかねないポケモンGOは文化保護コンテンツ的な要素が有り、開発の邪魔
なので当然、左翼系政治思想者の発言や朝日や毎日の報道は否定的意見が多く、それにより流行を衰退させようとネガティブなプロパガンダ報道が多い。...

3、ポケモンGO運営は自民党押しだから。自民党本部がポケスポットに成っていて「永遠の与党」と説明表示されるのに噛みついたのは民進党だったのは記憶に新しい。
つまりポケモンGOを左翼団体は敵視していて、右翼の保守意識を扇動しポケモン潰しをしようとしている。バカな右翼系保守層も扇動に乗ってしまっている。

4、アベノミクスを後押ししそうな日経平均株価を押し上げる要素は全て潰したいから。



【ポケモンGOの長所】
1、文化・史跡保護コンテンツとして有効
個人的な意見だが、多くの土建屋が調査もせず撤去しようとする多くの史跡や神仏の祠が、このコンテンツで再
認識されるのは日本文化を愛する保守派としては非常に有り難い。

2、反共産主義・抗反日文化勢力コンテンツとして有効。
史跡や神社仏閣を破壊し、石仏や小さい御社を排除して日本文化を破壊しながら宅地開発を行いたい左翼系議員とマッチポンプの建設会社に対して、国民レベルでの日本文化と史跡と神仏宗教の再認識による対抗手段に成り、将来、左翼の史跡乱開発を阻止出来る可能性が上がる。

3、文化保護と同時に、ニートに社会復帰の機会を与える。
家に閉じこもってるニートを外の世界に引っ張り出すリハビリコンテンツとして非常に効力を発揮している。
又、ポケスポットでの史跡紹介が有り、世間に文化歴史史跡を再認識させる効力を発揮している。

【ポケモンGOの短所と対策方法の提案】
1、低モラルユーザーによる宗教施設内の理不尽なプレイ
境内を散歩しながらやる程度は本来遊び好きな日本神話の神々や、寛容な仏様も微笑んで見守って下さるだろうが、問題は社殿や拝殿の近くで参拝客を邪魔してしまう低モラルDQNが発生している事。
対策
→ポケストップを設定した場所を社殿や鳥居の前から、邪魔に成らない境内の池のほとり等に変更した上で、紹介文は神社や仏閣や史跡全体もしくは部分的な説明に改める。wikipediaとの連結にゆる参照程度で十分。

2、バイクor自動車の運転中に使用できてしまい事故を起こすDQNユーザーが少なくない。
対策
→ポケモンGOにはゲーム内にポケモンを入手する手段として孵化装置と言うシステムがあり、GPS追跡による時速測定で自動車運転等の高速移動では反応しない設定がされている。
このシステムをプレイ中の移動自体にも適応し、例えば時速10km以上で移動した場合はアプリが反応しない仕組みにしてしまえば十分すぎる程の改善に成り、運転中の使用は勿論不可能に成る。

こんな所だろうか?
左翼に扇動される右翼も如何かと思うが、実際にDQNプレイヤーが左翼による文化保護コンテンツであるポケモンGOに対するネガティブ扇動の口実を与えてしまうならば、根本的にDQNプレイヤーが発生しようのないゲームシステムに変えてしまえば良い。

以上
乱筆失礼、久良岐のよし

前回07月10日の休日雑記の続き。

07月11日の朝は、宿泊先の三崎漁港のホテルで迎えた。
ビジネスホテルでは無くPCを置くスペースが無く、酒や菓子を広げる程度のテーブルしか無かったので、夜は良く眠れた。
朝、5時頃目が覚めただろうか?
この日の朝はホテルの朝食時間の7時過ぎまで、ドライブ&対岸の城ヶ島散歩を楽しむ事にした。
出発時、当初は大好きな城ヶ島公園の方を散策するつもりだった、そちらからは富士山も見える。
しかし、城ヶ島へ渡る連絡橋を走っていて…
「いつもと反対側、そう言えば行った事無いなぁ~?」
…と気に成ったので、公園駐車場との分岐点でハンドルを切らず、正反対の島の西側に行って見る事にした。
城ヶ島周辺
「どうせ開拓するなら思いっきり反対側が良い!」と思い、本当に真西に向かって車を走らせると暫くして東側とは違う何やら昼間なら賑やかそうな商店街が見えて来た。
その商店街の辺りの駐車スペースに車を停めて散策する事にした。
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最初に来たのが❝楫(かじ)の鼻❞と言う岩礁辺り。
この地形を見ると三浦半島は南西から地盤が押し上げられ隆起し、北東は東京湾に向かって沈下しているのが
一目瞭然だ。地層が斜めに立ち上がっている。
この楫の鼻の地名の由来に成った場所が有る。
この岩礁の手前がその場所。
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楫の三郎山。
三崎町の鎮守、海南神社の御祭神でもある藤原資盈(すけみつ)公が関東に亡命して来る際に、船の楫(かじ)を操船していた三郎と言う家臣が、資盈公の安住を祈願した伝承に由来する場所。
大正時代位まで大蛇が住んでいるから登ってはいけないと言って人々は崇拝対象としてだけ拝んでいた場所らしい。
頂上には楫三郎の神社が在った。
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なんか、名の有る武将の御廟所の様な造りで普通の神社とは又違う。
思うに、ここ実は菅原資盈公か楫三郎の御廟所なんじゃなかろうか?
ならば大蛇伝説が有った事が理解できる。
さて、三浦半島の崖地には、そこかしこに黄色い綺麗な花が咲いている。
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供えられていた。
余り花に関する知識が無いので解らないが、多分、ユリ科の植物。昔から気に成っていたが、三浦半島では良く見かける花だ。
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少し歩けば直ぐに見つける事が出来る。
楫の三郎山を離れ、細い商店街の路地を抜け、港屋や城ヶ島京急ホテルと言う風景の綺麗さで有名な宿泊施設の有る方に歩いて行くと、城ヶ島西側の灯台がある。
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灯台のの前は西洋式の庭園に成っているのだが、多分、カップルの観光客を呼びこむ為に作られたであろう西洋式の庭園だった。
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早朝で観光客はいないが、灯台が開いてる時間にくれば人が多いのだろうか?
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池には綺麗な蓮の花が咲いていて、何とも西洋と東洋の混じった不思議な空間だが、赤い花弁が白い庭園にマッチしていて雰囲気が良かった。
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綺麗だな…。
ここ城ヶ島灯台は明治時代に建設された場所で、云わば建築遺産でもある。
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漁船や太平洋を往来する船達の安全の為に建てられた場所で有るから、当然古い習慣の安全祈願も残っていて、庭園内には恐らく灯台より先に、この丘の住人だったと思われる御地蔵様もいらっしゃった。
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末永く旅人と地元民を御守護下さる様に御参りして、散歩を続ける事にした。
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城ヶ島灯台の遊歩道を西側に抜けると素晴らしい眺望に行き当たる。
その周辺に城ヶ島京急ホテルや、港屋が在る。
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途中、真っ赤な素敵な大人びた雰囲気の花も咲いていた。南方の植物だろうか?
今回、こちら側に来たのは偶然だったが、とても景色が良く東側城ヶ島公園も素晴らしいが甲乙つけがたいと言うのが正直な感想だろうか?又、こちら側には宿泊に来たいと思う。
小桜姫観音周辺 久良岐のよし
位置関係は衛星写真の通りで、一目瞭然、どの旅館も眼前に磯と海が広がり素晴らしい景色を部屋から楽しめそうだ。
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小生は城ヶ島京急ホテルの前の遊歩道を歩く事にした…
遊歩道に縁結びの聖地❝小桜観音❞と書いて有ったので気に成ったのも有るが、楫の三郎山から此方(こちら)側を見た時に素敵な遊歩道が設置されており、そこに沢山のユリ?が咲いていたので歩きたいと思ったのだ。
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ふむ。やはり雰囲気の良い遊歩道だ。
❝観光橋❞と、言う名らしい。
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橋の傍の崖には沢山の鼻が咲いている。
小生、元来、梅の花が一番好きなのだが…
どうやら蝋梅(ろうばい)、山吹、そしてこの三浦半島の海岸に群生するユリの様な黄色い花の写真も沢山撮っているので黄色い花々も好みらしい。
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実に明るい、なんだか南洋の島の女性の様な雰囲気の、笑顔を振りまいている様な花だ。
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この橋の上からユリ?の花の崖伝いに奥の方へ眼をやると、何だか御社らしき物が目に留まった。
どうやらアレが小桜観音のようだ。
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橋の上から澄んだ海を見ながら、御社を目指した。
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近くに行くと何やらホタテ貝に恋人同士で祈願を書いた絵馬?代わりの願掛けがされていた。
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どうやら洞穴に作られた御社の様だが、名前も観音様であり周辺に石塔が有るので、神社としての機能は極最近に設けられたのだろう。本来は小桜観音と言う名の通り仏教的な聖地霊場だったのだろうか?
後で調べたのだが、ここは小桜姫伝説の舞台らしい。小桜姫と言うのが小生はパッとしないのだが、戦国時代の三浦家所縁の御姫様らしいと言う事は解った。
ただ、平安時代~戦国時代の三浦家滅亡までの主だった御寺の住職様や神社の宮司様と直接面識の有る小生の知識をフル稼働しても、その様な人物は三浦家には実在していなかった。
どうやら小生の尊敬する三浦荒次郎義意(よしおき)公の奥方とか側室とか伝承が有るようだが、歴史上、小桜姫と言う名の奥方様の記録は無い。
三浦義意公の奥方は本妻も側室も房総半島の小大名、真里谷(まりやつ)武田家の姫君だけだ。
民間信仰として小桜姫と名が伝わっているこの伝承の理由、この後に書くが三浦同寸研究会副会長と面会した際に、副会長の御教授と小生の知識で詳しく解る事に成った。
姫様の名前の由来は置いておいても、三浦義意公には確かに真里谷家の奥方様がいたので、その方がモデルで有るかも知れないし、仮に小桜姫として拝んでも真里谷の姫を拝んでいるのと同じ事…
きっと縁結びの御利益は有るに違いない。

散歩を進めよう。
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車に戻る途中で、商店街の港屋の支店売店の前に大量に海藻が干してあった。
天草(てんぐさ)だな。
これを煮詰めて干して寒天の原材料にする訳だ。
寒天は現在ではカロリー0のデザートとしても重宝されている。小生も御世話に成っている。
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看板を見て気に成ったのだが港屋サンではどうやら、ヤドカリをアマ蟹と言う名で料理して提供しているらしい。
気に成るので次回食べに来ようと決めた。
早朝の5時過ぎ~7時半位の約2時間の散歩だったが、綺麗な花と海を見て、思いがけず三崎町の歴史に深い関わりの有る神社と観音様を御参りする事も出来て気分良く一日の始まりを迎える事が出来た。

宿に帰ると既に朝食の準備をして下さっていた。
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小生は働く時間が不規則なので、宿に外泊する時の和食の朝食がとてもありがたく美味しく感じる。
特に三崎はマグロと干物が名物なので、このエボダイも大変美味しく頂きました。
「美味しいよ」と宿の朝食調理担当の叔母ちゃんに御礼を言うと、そこから打ち解ける事が出来て談笑しながら三浦の事を色々話しをした。
すると来週(07月16日土曜日)は三崎町の鎮守、海南神社の例大祭でとても賑やかだから是非にも見たら良いと勧められたので、翌週も来る事に決めた…
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部屋に戻り、壁の絵画を見ながらチェックアウトの準備をして、散歩でかいた汗を流す為に大浴場で贅沢な朝風呂を浴びてから、少し仮眠してチェックアウトの時間を待つ事にした…

②へ続く。









神奈川県には❝神奈川の景勝50選❞と言う県指定の景勝地が有りまして…
横須賀市には❝鷹取山と神武寺周辺の景勝❞が、その一つに選ばれています。
ここは小生が尊敬する武将の1人であり、関東屈指の名軍師だった太田道灌公が鷹狩をした伝説の残る場所でもあります。
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昔は遊歩道は無くて、本当に自然の登山道だけでしたが、今は幸か不幸か山を掘削して公園と遊歩道が作られ気軽に登る事が出来る様に成っています。
遊歩道は自然を破壊して後からつけられましたが…
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まぁ、その分、ちゃんと紫陽花が植えられて遊歩道として綺麗です。
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実は鷹取山は古来、全山が❝鎌倉石❞と呼ばれる現在では採掘禁止の凝灰岩の高級石材の切り出し場だった。
だから現在の遊歩道ではなくて古い登山道は石切り場に面していて、そちらの方が自然と神秘的な地形の景観が素晴らしいんですね。
だから小生も、現在の遊歩道を嫌って、紫陽花の切れ目から子供の頃に歩いた古道を見つけてソッチから登山する事にした。
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鷹取公園側から登ると、古道の入口の目印は有りません。
上の写真の紫陽花の生垣の切れ目、「ゴミ捨て禁止」の看板が有る横そこ入ると…
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ちょっと奥に昔の石切り場と掘られた石仏達が姿が現れます。
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何か変な不自然な色にペンキで塗られてしまった壁面が有りますよね…
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実は石仏群です。
遊歩道設置後の数十年は道から外れて、拝む人は少ないみたいです。
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着色するのはどうなの?余り良くない気がしますが…
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因(ちな)みに、普通のアスファルトの遊歩道を歩けば鷹取山公園の入口から展望台の有る岩場まで10分足らず、遊歩道をそれて古道に入ると危険極まりない(笑)風化した鎌倉石と自然を満喫する道なので展望台まで30分以上かかります。
しかし、小生はこちら側の道が懐かしく好きなので、今回は古道を紹介します。
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昔の道は石切り場沿いで、魅力的な景観を楽しめます。
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壁面に穴がいっぱいあいてますよね?
これ、無文化で自分勝手なロッククライマー達が自分の欲望の為に鉄杭を打ち込んだ後です。
この付近の石仏は歴史も浅く余り価値は無いかも知れませんが、この石切り場時代が景勝地なのでロッククライマー達の行為は破壊行為でしかありませんね。
先日も、他府県で重要文化財の岩場に鉄杭打ち込んだロッククライマーがいて問題に成ってましたね。
さて、この新しい石仏群を抜けると、本当に本当の古道です。
そして、そちら側の景色が本当に凄い。
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ね?
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神奈川県内で、こんな風景余り見れませんよね。
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ここと、三浦半島の長坂~芦名地区へ行く途中の石切り場も有りますが、彼方(あちら)は登山を楽しめる場所とは違うので、近くから見れるのは鷹取山の石切り場だけですね。
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ただ、この古道は本当に危険で、砂礫が集まって出来た凝灰岩の高級石材❝鎌倉石❞の山なので風化が激しく、御覧の崖の様な場所も有ります。
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しかしながら…
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尾根道に出てしまえば、その景観は美しい…
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まぁ、尾根道も横須賀市内とは思えない御覧の通りの険しさですが。
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手すりが有るだけマシかな?
この尾根道を伝って六浦駅方面~神武寺方面と正反対の方向から登山する事も出来ます。
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尾根を抜けると、石切り場の広場に出ます。
ここへは昔の山道を歩きたくないなら、鷹取山公園入口の遊歩道から来れば直ぐです。
しかし、昔の登山道と違い何の面白みも綺麗な風景も無いですよ。
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又もや、ロッククライマーが穿(うが)った穴だらけ(怒)。
良くないね。
DSC_3035こう言う史跡や文化財や景勝地の破壊をするロッククライマーや土建屋は刑事罰制定して取り締まって欲しい。

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すんごい風景でしょう?
写真だと大きさが解らないと思いますが、どの岩も高さ20mくらい有ります。
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展望台も有り、上ると横浜~横須賀~三浦~葉山~鎌倉を一望できます。
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上の写真、拡大すると解りますが…
大日本帝国憲法草案を伊藤博文公が起草した際に宿泊していた旅館が在った夏島、伊藤博文公別邸の在る野島、武家初の鎌倉時代の図書館である金沢文庫と称名寺の山その奥に横浜ランドマークタワーが見えています。
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横須賀港の軍艦も…
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山の端(は)と山の端が重なり合った谷あいの向こう、日光で白んだ辺りが葉山港です。そして、葉山から横須賀方面に延びる谷が古代東海道。
この展望台からの眺望も素晴らしいのですが、鷹取山にはもう一つ素晴らしい場所が有ります。
そこへは鷹取山公園に一度降りてから磨崖仏と書かれた方向に歩いて下さい。
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そこに至るには又、石切り場も通りますが、こちらの道は舗装されていて歩きやすい道に成っています。
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磨崖仏に至る道は、遊歩道沿いに色んな野草が花を咲かせていて、古道側とは又、違った風景で目を楽しませてくれます。
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不勉強で申し訳ない、花の名前は存じ上げませんが、とても綺麗で可愛らしい花でした。
この花や紫陽花を見ながら10分ちょっと歩くと鷹取山で一番の有りがたい場所に辿(たど)り着きます。
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弥勒菩薩様の大石仏。
ここは歴史も有り、いずれ国の重要文化財に指定されるべき場所でもあります。
小生、心願に公人としての御願い、私人としての御願い、人間としての御願いをしてきました。
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弥勒菩薩様の横には、鷹取山の地名由来が書かれていました。
どうやら色んな説が有るみたいですね。

どうですか?
鷹取山、神奈川県とは思えない魅力的な風景でしょう?
もし京浜急行沿線に御住みの方は、是非、御弁当持参して鷹取山を登ってみては如何(いかが)でしょうか?

あ…

注意点です。
手持ちのバックは危険です。必ず両手を使えるリュックに荷物を入れて登山に来て下さい。
岩場や古道の地面は不安定なので、靴は必ずトレッキングシューズか運動靴で登山して下さい。
火気厳禁、タバコも禁止です。
昆虫採集も禁止です。
以上。

次は大庭城址公園の紹介記事を書くと思います。

皆さん、では次のブログ記事で御会いしましょう~♪














前回の記事では大庭神社の論社(推定地)の一つで伝承上の元宮(もとみや=元々の所在地)だと伝承する❝大庭神社舊跡❞と近くの❝神奈川の銘木100選の一つ臺谷戸稲荷の椨の樹❞の風景を紹介しました。
※前回の記事は「ココ」←クリック!
さて…
今回はいよいよ、現在にも江戸時代の建築遺構が多く残る現在の大庭神社と周辺の風景を写真と解説で紹介したいと思います。
現在の大庭神社は、人口の少なく成った大庭の引地川沿いにヒッソリと佇んでいでいます。
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一見すると余り目立たない普通の神社に見えてしまいますが、ここは前回、前々回の記事でも解説した通り、平安時代の醍醐天皇達から見ても古い歴史を持ち保護すべき神社として延喜式神名張に記載された神社の現在の所在地で、凄まじい由緒と権威の有る神社です。
この神社の現在の所在地は、嘗ては目の前に海の入江が広がっていました。
大庭神社周辺
※拡大して見て下さいね。
画面左に大庭神社の所在地がマークされています。
白い部分が古代の海です。
元宮の大庭神社舊跡とは、湾を挟んで反対側に在ります。現在の大庭神社の在る丘は、平安時代末期に成って鎌倉景正(かまくらかげまさ)公によって開拓された地域です。古代の史跡は全て古代の湾の左岸、つまり大庭神社の舊跡側から出土しています。
さて、何故、現在地に大庭神社が移ったかは【前編】で解説した通りです。
※【前編】解説記事は「ココ」←クリック!
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鎌倉時代末期~室町時代初期の武将で、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の母方の従弟だった山名時氏公が1352年頃に恐らく元は大庭地区に所在した成就院と言う御寺を現在の稲荷地区に移転させ再興開基した際に、同寺が別当寺として管理を任せていた大庭神社も一緒に舊跡=元宮から現在地に移転させたと考えられるからです。
余談ですが、山名時氏公は横浜市港南区上永谷の永谷城主宅間上杉家の御先祖の宅間上杉重兼公の従兄でもあります。つまり、足利家・山名家・宅間上杉家は親戚なんですね。
稲荷の成就院と大庭神社の歴史を裏付ける様に、成就院の元の寺名は院号では無くて❝宝染寺❞であった事が伝わっていますが現在はその寺名が使われていません。つまり前身寺院が移転して来て名を変えた可能性が成り立つ訳です。
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この様な例は他にも良く有る事で、例えば戦国時代の北条家の重臣の笠原信為公の造営した雲松院と言う御寺が横浜市港北区に在りますが、元々は神奈川区の神大寺の別院的な御寺だったのが神大寺が後に焼失したので神大寺の機能ごと雲松院に移転した歴史が有ったりします。
※笠原家菩提寺の雲松院の記事は「ココ」←クリック!
他にも大庭神社と同じ延喜式内社の比々多神社や高部屋神社等も古代の位置から遷座している歴史が有ります。
その辺にも御興味が有る方は【カテゴリー:延喜式内社と歴史千年以上の古社】←このの中から記事を探して見てみて下さい。
さて、藤沢市稲荷の成就院解説は又、別記事にするとしましす。
と山名時氏公の解説も後回しにして、先に大庭神社の風景と施設を紹介します。
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大庭神社の石の大鳥居の前には、自然公園が広がっています。
引地川親水公園周辺 久良岐のよし
引地川親水公園と言う、引地川の湿地を利用した広大な自然公園で、稲荷の大庭神社の前には湿生園もあり子供達に湿地帯の植物を観察せるのに適した場所であり、都会の藤沢市街地の直ぐ近所で子供が自然に触れられるとても大切で貴重な場所でもあります。
…藤沢市土木事務所、公園課の方々Good Job!
さて、その引地川親水公園の前の鳥居をくぐり、階段を登ると…DSC_0346
写真撮影に行った時は3月下旬で、綺麗な木蓮(もくれん)の花が咲いていました。
参道は鳥居の在る階段を上ると左に折れて社殿へ続きます。
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参道の入口には、格式の高さを感じさせる立派な灯篭が在りました。
氏子サン達、頑張って醍醐天皇の御意思を継いで大庭神社を守って下さっています。
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推測するに、延喜式内社の格式と、足利家の縁戚で室町幕府重鎮と成った山名家の関与が有った神社なので、この周辺、神社境内と平行する削平地と裏の傾斜地は往時は全て大庭神社の境内地だったのだと思います。
丘の上は現在は大企業の工場に成っていますが、この神社の境内と平行した削平地と傾斜地だけは緑が保存されています。
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さて、延喜式内社の解説で良く話すのですが、明治時代に明治政府によって神仏分離令・一村一社令・神仏分離令と言う愚かな政策と、伊勢系統の神様を優遇する政策が行われたせいで歴史の古い多くの延喜式内社を含めた神社と御寺が破壊されたり、❝合祀(ごうし=別の神社に神様を移す)❞と言う名目で聖地を御神体とした神社が消滅させられました。
明治政府には森有礼等の日本文化の破壊を目論んだ勢力が多く入り込んでいて、天皇系統の祖先神を優遇するとの宗教改革の名目で多くの神社仏閣が破壊され聖地霊場も埋め立てられたり掘削されて姿を消してしまいました。
何とか古(いにしえの)社(やしろ)に伝わる文化を保護しようとした方々がいらっしゃって、それが平氏や源氏の武家の御子孫であられた東郷元帥や乃木大将達でした。
2014-11-02-07-33-52
三浦半島の横須賀市走水に在る日本武尊と弟橘姫の神話の舞台の走水神社と言う神社には、現在もその歴史と明治の元勲達の逸話が残っています。
因みに首相も務めた伊藤博文公も横浜市金沢区の野島の別宅から、隣接する横浜市磯子区氷取沢の寶勝寺と言う名の御寺に良く通われていた歴史と遺物が残っていて、どうやら❝明治の元勲達と違う勢力❞が暗躍して、国家神道と言う新しい宗教観が神道に導入され、仏教徒の分離も為(な)されたたようです。
そして多くの延喜式内社は縄文文化を受け継いだ神様が多く、伊勢系統の神様を御祭神としていない場所が多かったので、歴史の浅い伊勢神道系の神社の管理下に置かれ衰退してしまった訳です。

しかし、古代からの神事を守りながらも実は多くの延喜式内社には奈良時代~明治時代に成るまでの日本の千数百年来の伝統が守られている場所が多く有ります。
仏教の文化も異文化でも良い物として、日本の神様達の神社の中に受け入れて融合した神仏習合の日本文化です。
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だから、この大庭神社には成就院が別当寺の役割を解任された現在も、鐘楼が保護されています。
つまり延喜式神名張を編纂させた醍醐天皇達天皇家の方々本来の寛容性の高い価値観を守る神社が、偶然にも宮司様不在に成っている大庭神社や他の延喜式内社には多く残っている訳です。現代の比較的新しい神社では縄文~弥生~古墳時代からの聖地も神事も無い上に、神仏混交時代の遺物や行事も残らない場所が多く古代から大庭神社をはじめとした延喜式内社とは大分、様子が異なります。
さてこの鐘楼の前を通り過ぎると、いよいよ社殿です。
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神社なのに瓦葺(かわらぶき)なので、建物は江戸時代中期以降か最近の建て替えが有った様ですね。
歴史があり格式の高い古社は、金銭的に余裕が有る歴史偉人との関わりから板葺(いたぶき)、それも檜皮葺(ひわだぶき)か、茅葺(かやぶき)の屋根が奉納されています。
ここ大庭一帯は、神奈川県下でも過疎に成りかけていた場所なので、寧(むし)ろ瓦葺でも新しい立派な屋根を奉納で来た氏子サン達は本当に身を削って神話時代(縄文末期)からの神社文化に残った伝統を守ってらっしゃると思います。敬服するばかり。
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拝殿の注連縄(しめなわ)も立派です。本当に氏子サン達の努力の賜物。
神様も喜んで下さるでしょうね。
縄文文化の伝統が現存する神社では、この注連縄に莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)と呼ばれる海藻が更に装飾されます。
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この海藻が後に海の遠い大和国に朝廷が転居した頃に、代用品として紙垂(しで)が作られる様に成った事は想像に容易(たやす)い事ですね。
でも、そんな古代の歴史を一度断ち切ってしまった神道では、この伝統が伝わっていない場所が大多数で、代用品の紙垂が「稲妻に似てるから邪気払いとか稲光の梅雨の季節の豊穣祈願」とかバラバラな説明がされているようです。
古代の大王(おおきみ)/大君、その先人達の古墳が海に近い九州や河内や摂津の各地に在る歴史事実を考えれば、莫告藻が紙垂に変化したのは直ぐに理解出来る話です。
聖地霊場や神様に成られた先人の古墳の大切さよりも、神社の建物を作る事と神器の鏡を奉るを重視した明治の国家神道だけ学んでも解らない事です。
考古学や地理、神話の神様の御陵の現在地と古代の海岸線を知らないと繋がら無いですからね。
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順番があべこべには成りますが、大庭神社の御祭神は…
●神皇産靈(かみむすび)の神
女神様で、出雲大社の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=素戔嗚尊の子孫を助けた神様です。つまり、長寿や治病に御利益が有りそうな神様ですね。

●熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)…元宮の主祭神

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成る。遅くとも飛鳥時代より前の造営。

●大庭三郎景親(おおばさぶろうかげちか)公
元宮や稲荷地区の大庭神社一帯を平安時代末期に治めた在地領主の大庭景親公が御当地の人々によって死後、御祭神として祀られたと考えられる。
大庭氏から領土の守護神として崇拝されたのだろう。それ故に元宮は大庭城の近くに在る。

●菅原道眞(すがわらみちざね)公
江戸時代の天明3年(1783年)秋に地頭(じとう=土地の所有者)の諏訪部定太郎と、名主(なぬし=町長)の山崎六郎兵衛(ろくろうひょうえ/ろくろべえ)包高(かねたか)によって、勧請された。
実は、この西暦1783年は旧暦7月8日(太陽暦の6月くらい?)に浅間山が大噴火している。大噴火の際は雷雲が火口に発生するので、平安時代に雷神として神格化れた菅原道真公を奉(たてまつ)る事で天災から逃れたかった当時の江戸時代の人々の思いが伝わる御祭神だと推測出来る。
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一見して、宮司様も御不在、しかも少し寂しい所にある神社ですが凄い歴史が有るでしょう?
きっとね、皆さんの御近所にも、同じ様に神社や御寺の大きさに関わらず凄い歴史が有って思いもよらない神様のモデルの偉人や武将達との所縁(ゆかり)のある神社や仏閣が有ると思いますよ~。
そして、近所の公園や山は、実は武士達が命を懸けて領民と農地を守る拠点だった旧街道沿いの古城の城址かも知れませんよ?
だからね、少し、御近所の神社や御寺や山を散歩して見ませんか~?
きっと、小さな御社や御地蔵様も、神様や先人と皆さんを結び付けるタイムカプセルに成ってくれるかも知れまんよ~♪

では、又、次の記事で御会いしましょう!
次は大庭城か、藤沢市稲荷地区の成就院と山王社かな?


前回、解説記事で大庭神社には大庭神社と大庭神社舊跡の2箇所が近在している事を歴史踏まえて解説しましたが…
内容は大庭神社の元宮と、大庭神社2ヶ所有る理由でした。つまり最初に大庭神社の社殿が在り、神社が古代に造営された聖地とされた場所だったのが舊跡=元宮で、立派な大庭神社は移転後の場所と推測されている理由でした。
※御興味有る方は「ココ」←クリックして前回の記事を御覧下さい。
さて、今日は大庭神社舊跡(きゅうせき)その物と近くの臺谷戸稲荷の様子を写真で解説したいと思います。
この大庭神社舊跡は、所謂(いわゆる)神社で言う所の元宮(元々神社が移転前に在った場所)な訳ですが…
現在の本宮と比定されている稲荷地区の大庭神社より、だいぶ寂れているものの清々しい聖地の雰囲気を醸(かも)し出しています。
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長い参道は竹林に覆われ、幻想的な雰囲気です。
こちらの御祭神は熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)です…

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成ります。
遅くとも飛鳥時代より前の造営でしょうから、神話が始まる考古学的は縄文時代が終わる西暦紀元前400年頃の神様を祀(まつ)っていたようですね。
余談ですが、実は神道の宮司様にも考古学を御存知無く、神話と実際の日本文化の変遷を理解していない人が多いんですが、日本神話と考古学の歴史って整合性が有るんですよ。
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※写真は横浜市緑区の延喜式内社、御祭神は五十猛(いそたける=素戔嗚尊の子)の杉山神社。
神話が始まったのが西暦紀元前600年頃、縄文時代の終焉が紀元前400年頃、素戔嗚尊が古代日本で活躍するのが丁度その頃。そして弥生時代が始まるのですが、関東各地の古社の御祭神は悉(ことごと)く素戔嗚尊の御神孫なんですよ。つまり関東の古社の神話では出雲神族が関東を開拓した神話が有り、最近の発掘成果では、その頃に稲の水田耕作も伝播してる事が解っています。
そして弥生時代の終焉、古墳時代の到来が西暦100~200年代と言うのも古い古墳の発掘で推定されていますが、実は神奈川県の走水神社の伝承では日本武尊が三浦半島の走水に仮御所を置き、そこから房総半島に船で渡ったのが西暦110年か114年の正月だと伝承しています。つまり青銅器の導入や古墳文化の伝播が日本武尊神話と整合性が有るんですね。
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さて、話を神話と考古学から、大庭神社の元宮に戻します。
畑地と住宅街の在る山に所在し入口が解り難いのですが、上の石碑が目印です。
船地蔵周辺
最寄りのバス停は❝船地蔵バス停❞か❝第六天バス停❞です。
電車の最寄りの駅は無いので、藤沢本町とか辻堂駅等の周辺からバスでの訪問か車を大庭城址公園、もしくは近所のコンビニに停めるしか無い、少々不便な所です。
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さて、ここは嘗(かつ)て大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれた地区で、縄文時代~人が住んだ地域でした。
その大庭御厨を水田耕作に適した土地に開拓したのが、戦国武将上杉謙信の祖先で、平安時代の名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公は坂東武者達から武士の鑑(かがみ)として尊敬され軍神として鎌倉市坂ノ下の御霊神社で崇拝されました。
失明した際に供養した目を埋めた土地から瞬く間に樹木が成長した逸話から❝眼病治癒の神様❞、そして御霊神社周辺で多くの貴族や武士が恋愛の詩歌を詠(よ)んだ舞台だった事から❝縁結びの神様❞として人々に信奉されています。
※権五郎御霊神社については「ココ」←クリックして以前の記事を御覧下さい!
現在ではこの地区、船地蔵地区と呼ばれています。
その由来は大庭城址落城の秘話と密接に関係が有ります。
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上は大庭城址の空堀と土塁。
大庭城は引地川辺りに堤防を作る事で、城の周辺を湖沼化し守りを堅めていたそうです。
しかし・・・
この引地川の堤防と言うのは、引地川に注ぐ川を堰(せ)き止めた堤(つつみ)なのか、それとも引地川の水を引き込んで沼にしたのか現代には伝わっていません。
そこで地形を見てみましょう。するとある程度は推測が出来ます。
もう一度衛星画像で位置関係を確認してみましょう。
船地蔵周辺
大庭城址東側は元々湿地帯です。ですから水を堰き止める必要は有りません。
東側より西側が標高が高いので、西側を湿地にする程の大堤防を築けば南側の街道全て使用不能に成ってしまいます。
西側は湿地では無いのですが、滝ノ沢が流れ、更に江戸時代に❝熊野社❞と呼ばれた大庭神社舊跡が在ります。
恐らく、そこに嘗(かつ)て存在した滝や、湧水地の流れを引地川に入る前に堰き止めて西側一帯を湖沼化させていたんでしょう。
熊野社と言うのは、古来の神聖な湧水地や滝の傍に造営される神社でした。つまり、西側は湿地では無いにしろ当時は湧水池か豊富な水量を誇る滝が有る川だった可能性が有る訳です。川の名前がそもそも滝ノ沢だった訳ですしね。
そして、この地域からは多くの縄文~弥生文化遺構が出土しています。
これは説明するまでも無いのですが熊野那智大社は聖地である那智の滝の傍に在り、紀元前からの貝塚史跡が出土している丘を境内に抱える師岡熊野神社も聖地である池の傍にあります。そして両方とも天皇家の崇拝を受けました。
ここ大庭神社旧跡は、その前を流れる川の滝か、滝の傍の湧水地で聖地として後に熊野社が勧進され名前は大庭神社と呼ばれていたのでしょう。
そして、前回の解説記事でも推論を述べましたが、足利幕府の重鎮であった山名家と別当寺の都合で後から現在の稲荷地区に移転した筈です。
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この元宮と推測される大庭神社は参道が二段階に成っていて奥まで行かないと御社(おやしろ)が見えません。
恐らく、この御社の神様を奉る理由に成った、神社その物より大切な聖地とされた滝や池が昔は存在した筈なのですがね。現在は地殻変動か宅地開発かで往時の面影は解りません。
とは謂(い)えども、ここはヒッソリとしている物の、醍醐天皇の時代、西暦900年代の京都の貴族達にも神聖な場所として認識されて延喜式神名張に記載されている神社だったので、神奈川県下現存14座の延喜式内社+数社の式外社と数少ない悠久の歴史を持つ神社な訳です。
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現在では、本当に御社(おやしろ)と言う他無い規模の神社ですが、昔の人から我々が受け継いだ聖地である事には変わり有りません。そして、神様の御利益や聖地としての大切さに神社その物の規模など微塵も関係が無いんです。
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是非、ここ大庭神社の元宮と、現在の大庭神社両方を合わせて御参りして欲しいです。
そうする事で、ここを大切にしてこられた縄文~弥生~古墳~奈良~平安~鎌倉~戦国~江戸~明治大正昭和の人々の生きた歴史を感じ、平成の時代に我々が土地の文化を守る大切さと、神社の伝統を守る大切さの両方を引き継ぐ事が出来るんだと思います。

こ大庭神社の元宮近くには、この地が古来早く開けていた証拠と成る神様も鎮座しています。
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臺谷戸稲荷神社です。
この稲荷社の名前の由来は、大庭神社の所在する台地が古来❝臺(だい)❞と呼ばれ、北側が谷戸(やと=谷を利用した集落)だった事に由来しているそうです。
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古来、稲荷社の御祭神は宇賀神(うがじん/うかのかみ)や宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたまのかみ)と呼ばれた豊穣の象徴の神様でした。後に平安時代末期に成ると中国から輸入した貨幣❝宋銭❞での経済活動が始まり、穀類や海産物の物資その物から貨幣経済へ社会構造が変革した事で富の象徴が❝貨幣❞と成りました。その過程で、印度(インド)から中国経由で渡って来た七福神の弁天様が❝戦の女神❞❝美の女神❞❝財運の神❞❝水の女神❞としての多くの御利益が在った事から、女神でもあり似た御利益宇賀神と習合され一緒に崇拝される様に成った歴史が有ります。
宇賀神は半蛇半女の姿で描かれる事の多かった神様なので、蛇神=水神としても信仰されたので弁天様は水辺に祀(まつ)られている訳です。
そして更に明治時代の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく=仏教弾圧)思想と明治政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい=日本の神様と外国から来た神様を再分離してしまう政策)によって、弁財天や弁天社として日本全国に存在した神社を破壊から守る為に、全国の弁天信仰の神社の氏子サン達が、弁天様と日本古来の海上交通=水の女神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を同一として習合する事で神社を存続させた訳です。
そんな訳で、明治時代に成って宇賀神も宇迦之御魂神も弁財天様も市杵島姫命も別々に成ってしまったので、逆に古代から明治時代まで受け継いだ歴史が寸断されて訳が解らなくなってしまった訳です。
まぁ、市杵島姫命自体は名前や御神威からして福岡市沖に浮かぶ聖なる島の❝壱岐❞に古代いらっしゃた神様(古代天皇家の王族の姫、もしくは壱岐国の女王か王族の姫様がモデルか?)か、島自体を神格化した神様でしょうから、とても大切な神様である事には変わり有りませんが…。
そんな、縄文~明治時代直後までの富の象徴としての宇賀神信仰の歴史を全て残しているのが鎌倉の銭洗い弁天様です。
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ですから先日、休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区でも書いた鎌倉の銭洗い弁天の正式名が宇賀福神社も名前は宇賀神を元々祀っていた事が解りますね。同一視された辨財天が、源頼朝公によって御神体として祀られ、更に後に明治時代に市杵島姫命が祀られた歴史が全部詰まっている、財運の女水神様です。
話を臺谷戸稲荷其の物に戻します。

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この御稲荷様の御社の直ぐ手前に大木が有ります。
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この臺谷戸稲荷神社を覆い隠している大木ですね。
銘板が見当たらなかったのですが、ここは小生の行く先々の城址や神社仏閣で度々登場する❝神奈川の銘木100選❞の一つ❝臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の樹❞です。
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小さい御社ですが、大木が育つ環境と言う事は古代~近代に成っても地元の人々に愛されてきた場所なんでしょうね~♪

きっと、皆さんの家の御近所にも、この大庭神社みたいにヒッソリとした場所に在りながら、とてつもない歴史や偉人達との関わり合いが有る神社や御寺、城址や史跡の山が有ると思います。
ですから…
皆さん、御近所の神社仏閣や里山を散歩して見ませんか?

今回はここまで!
次回は現在の立派な方の大庭神社の社殿を写真で紹介します。
では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪

藤沢市大庭地区が、古代から戦国時代の初期まで神奈川県内でとても大切な場所だった事を知る人は、現代では多くは有りません…
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その大切さがどれほどの物かと言うと、大庭には縄文時代の遺跡が大量に出土しているだけでなく平安時代の醍醐天皇の時代、延喜年間の日本人から見ても「古い」「聖地」として認識され後世の人間に「保護しなさい」と言う意味で❝延喜式神名張❞に記載され我々に託された神社の一つ❝大庭神社❞が有るんですね。
上の写真が大庭神社です。
実は大庭神社は藤沢市内に2箇所あり、江戸時代に横浜の殿様間宮家の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌を編纂した間宮士信(まみやことのぶ)達の新編相模風土記公でも、この件を取り上げています。

その2箇所の場所は…
藤沢市大庭…
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大庭神社舊蹟(きゅうせき=旧蹟)、つまり元々大庭神社が有ったとされ、後に熊野社と呼ばれた神社。
そして藤沢市大庭の大庭神社。
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新編相模風土記稿で、ここを取材した記者は、まだまだ考古学の❝こ❞の字も学問としての考古学が発展していなかった時代の人間なので、古代の大庭の様子も解らなかった結果、「舊蹟は元宮とは疑わしい」と言う事を言ってしまっています。
でも小生、この江戸時代の学者を論破できます「解ってねぇ~なオマエ(笑)」とね。
小生は断言します。
古代関東開拓の歴史と、旧跡が熊野社と呼ばれた事を証拠に大庭神社舊蹟こそ本来の大庭神社の元宮だと。
先ずはコレ↓を見て下さい。
大庭神社周辺
大庭神社と大庭神社舊蹟の位置を、古代の海岸線に重ねた地図です。
白い部分が神話の時代に海だった所」です。
解り易いように現代の鉄道も表示します。
これを見ると解ると思いますが、現代の藤沢市の中心を為(な)す平地は古代の海底です。
この藤沢本町一帯の地域が開拓されるのは大分遅く平安時代末期、鎌倉時代の少し前の話です。
もっと具体的に言うと、藤沢本町を開拓したのは平安時代の名将、鎌倉景正公です。
鎌倉景正公については以前に御霊神社の解説で紹介したので興味の有る人は当該記事を御覧下さい。
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※鎌倉景正公の記事は「ココ」←クリック!
さて、大庭神社に話を戻します。
大庭神社周辺
古代、日本人が住めた地域は現代人から見て丘や山の上の地域だけです。
だから縄文時代~弥生時代~古墳時代の遺跡は、山や丘の上から出てくるんですね。
そこで大庭神社の位置を見ると、やはり古代の海岸線にあります。
左上の同じ延喜式内社である宇津母知神社も、やはり古代の入江の付け根に所在しているのが解ると思います。
この海岸線は縄文時代の海岸線です。つまり古い神社と言うのは日本人本来の縄文文化を継承している場所でもある事が解るかと思います。だから日本人は沖縄やアイヌの人と古代は同族だったんですよ。

さて、では何で小生が大庭神社舊蹟を元宮だと思うか、状況証拠を箇条書きにしてみます…
1,縄文時代の遺跡は新旧大庭神社の在る入江の左岸から多く出ている。
  西岸に在る平安末期~戦国時代の大庭城の丘も縄文時代の遺跡が出土している。
2,東岸が開拓されるのは平安時代以降。
坂東平氏の祖である平良文(たいらのよしふみ)公が村岡城址を拠点に開拓を始めた。その後、東西北に子孫が拡散して行き関東全域に開拓地を広げていき武士文化の基礎を坂東平氏が築いた。
3,大庭神社舊蹟が❝熊野社❞と呼ばれたから。
熊野社とは新鮮で清潔な水の湧く場所や滝を聖地として開かれる神社。現代人も誤解しがちだが古代人は川の水をガブガブ飲んでた訳じゃなくて、自然湧水の有る地域にいついています。そりゃそうです、古代は抗生薬なんて無いですから腹壊す(=感染症や寄生虫)事は死に直結するんですよ、川の水なんかそのまま飲んだら。
だからこそ、井戸の掘削技術を手に入れた平安時代に至っても古代の聖地である自然湧水の有る神社を霊場として崇敬していた事実が有る。
つまり、大庭神社舊蹟が熊野社と呼ばれた以上、付近に古代は遊水地が有ったはず。遊水地が有れば古代人が住み着いた訳で、事実縄文時代の遺跡が周辺に在る。
…まぁ、挙げればキリが無い。

では、何で現在の大庭神社が新宮だと推測するかと言うと、理由は上記の2が絡んできます。そして大庭神社の別当寺だった稲荷山成就院宝染寺が原因だと思います。
成就院は、室町時代初期に山名氏公が造営した真言宗の御寺です。真言宗の開祖弘法大師空海和尚は日本神話や神様も大切にされた人物だったので、明治時代以前まで真言宗自体が神仏習合の要素の強い宗派でした。
よく有る事なのですが、武士が自分の領地の中心に守護神として近所の御利益の有る神社を移転させる事が良く有りました。室町時代にも成ると本来の自然信仰から御神体や偶像崇拝へと日本の宗教観も変化していたので、当時の人は罪悪感も無く聖地と神社を切り離してしまう事が有りました。
同じ延喜式内社の高部屋神社もその典型ですね。
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※高部屋神社の記事は「ココ」←クリック!
平安末期、源頼朝公の随兵も務めた糟屋有季(かすやありすえ)公は、本来、大山山系の渋田山に所在した高部屋神社が御自分が支配した糟屋郷の鎮守に相応しいとの独自判断から自分の居城だった千鳥ヶ城(糟屋城)の丘陵を通る大山街道前に遷座した歴史が有ります。
平安時代にも成ると、御神体が聖地で有る事を認識できなく成っていた人々も多かったと言う事でしょうね。
だからこそ、醍醐天皇が延喜式神名張を編纂させて保護すべき神社を指示したんですがね~。
源頼朝公も醍醐天皇と同じく自然信仰や古代の宗教観を引き継いでらっしゃったので、大山や富士山を登山し頂上で礼拝しています。

又々、解説が大庭からずれていたので話を大庭に戻します。
戦国時代初期まで鎌倉が東日本の首都だとすれば大庭は南関東の首府だった時代が有るんですね。
鎌倉公方足利家に忠誠を誓っていたのは、戦国時代の関東管領山内上杉家ではなくて、鎌倉公方配下の扇谷上杉家と宅間上杉家でした。
その内、宅間上杉家は足利尊氏公と母方従兄弟の血縁関係であり、扇谷上杉家は鎌倉公方の本拠地である相模国を拠点にしていました。
その初期の居城が藤沢市の大庭城と伊勢原市糟屋(上杉)館だったんですね。
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写真は大庭城址に昭和9年、当時の神奈川県知事や職員や教育者が、この城址の重要性を後世に伝える為に建てた石碑です。
残念ながら現代の教育委員会は無知無文化な上に土木事務所は❝土建会社に不利に成る事を妨げない様にする反日本文化的❞な連中なので、大庭城址も北半分が宅地開発され消失してしまいました。
大庭城址の南西は船地蔵地区と呼ばれ、大庭城落城の時の詳細な状況が伝承している船地蔵が地名の由来です。
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東の引地川は名前からして水掘りに水を引き込める程の河川の水量があったようです。
こちら側、船地蔵地区は古代から自然湧水の沢があり、そこを堰き止めて大庭城西側を湿地にしていた事が伝承から解ります。
つまり、寄生虫の危険の有る川の水では無く、古代人が飲料水に用いる湧水池が在った可能性が高い地域なんですね。
だからこそ縄文遺跡も、こちら船地蔵地区側や大庭城址から出土する。
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上の写真は扇谷上杉家の重要拠点だった糟屋館(上杉家の大城郭)の跡地の台地ですが現在の神奈川県の黒岩知事は、この糟屋館の丘を破壊して県道を通そうとしています。
そして、教育委員会は地元住民が伝える城址の地名を無視して、既に開発された産能大学の敷地だけが城址だと日本城郭体系や郷土史と異なる戯言を並べて黒岩知事の破壊行為支援をしているようです。
さて、こんな訳で県央の伊勢原市~大庭は古代から中世、関東で重要な場所だった事は御理解頂けたと思いますが…

糟屋館には大手を守る寺院、蟠龍山洞昌院公所寺が有ります。
実は、大庭神社舊蹟の在る船地蔵側には大庭城の鎮護だったと思われる寺院が有ります…
しかも山号が伊勢原市糟屋の寺院と同じなんです。
その名も❝蟠龍山❞宗賢院。
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この二つの御寺には更に凄い共通点が有ります。
…両方とも御寺の寺紋(じもん=御寺の家紋)が太田桔梗なんですね。
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上は藤沢市大庭の宗賢院。拡大して見ると太田桔梗紋が屋根の上に見える。
下は伊勢原市上粕屋の洞昌院、太田道灌公の菩提寺。同じく拡大して見ると、そこかしこに太田桔梗があしらわれている。
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この2つの御寺は、大庭城、糟屋館の鎮護の役割をしていたと推測できます。
扇谷上杉家は禅宗の臨済宗の信徒だった。同じく太田道灌公も鎌倉の建長寺で修業した臨済宗の信徒だった。しかし、この2つの御寺は北条家の時代に曹洞宗として中興している。
宗賢院に関しては、曹洞宗以前の記録が残っていないので開基を1505年としている。しかしながら、平安時代末期の当地大庭の領主大庭景親公の遺物が寺宝として伝わっており、更に太田道灌公ゆかりの桔梗紋が寺紋である事から、現在では名の伝わらない太田道灌公が支援したであろう前身寺院が間違えなく平安時代末期には存在した事が確実なんだな。
では何故現在、宗賢院も洞昌院も同じ禅宗でも曹洞宗かと言うと、太田道灌公亡き後に、道灌公をリスペクトしていた北条早雲公が曹洞宗の信徒で、北条早雲公が後に関与した寺院の殆どが北条家の庇護下に入る際に曹洞宗に改宗している。だから大庭城や糟屋館の落城後に御寺を復興したのは北条早雲公や北条氏綱公達だったからこそ現在は曹洞宗なんだな。

何でこの宗賢院と洞昌院の歴史に話を掘り下げたかと言うと…
これで、大庭地区の昔は海の入江だった東西どちら側が先に発展して来たか、関与した偉人達の足跡を辿(たど)る事で推測する事が出来るでしょう?完全に西側から発展してますね。
いよいよ本題です。
大庭神社の舊蹟が元宮だとするのは、ここまで話した通り県央から徐々に文化は東に伝播して行ったからです。
舊蹟と現大庭神社の間には湾があり、大庭城址や船地蔵地区の古代の湾の西側から人が住み始めたのは出土した史跡から明白である以上、考古学的にも大庭神社舊蹟=元宮=本来の大庭神社が有った場所=現在の大庭神社は後の支配者によって遷座された…
と周辺状況をまとめると容易に推測出来る訳です。

完全に西側から発展してるんですよ、縄文時代の古代だけでなく中世もね。
東側が開拓されるのは、坂東武者の鑑や軍神として鎌倉武士達に崇拝された鎌倉景正公が本藤沢を開拓して以降の話し。
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※写真は鎌倉市の御霊神社。本藤沢を開拓した鎌倉景正公を御祭神として祀る神社。
そして恐らく、大庭神社が現在の地に移されたのは、明治時代まで別当寺であった成就院との関係によると推測出来るんですね~。
下の写真が大庭の成就院。
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この成就院、足利尊氏公と母方の従兄だった山名時氏公が開基したと伝わっています。正確には山名伊豆守。
開基(かいき=寺社を造営する事)は1352年頃とされています。
…つまりね、平安時代の人から見ても古いと思われていた古代から存続する大庭神社の別当寺の割には歴史が凄く浅いんですよ、この成就院は。
でも、足利尊氏公や山内上杉重房公や宅間上杉重兼公と縁戚の山名時氏公の開基だから、否応無しに格式が高く成る訳です。そうなってくると当然、付近の神社の別当寺に成って管理業務を担う様に成った訳ですよ。
でも、御寺の傍に管理する神社が無いと不便でしょう?そこで二つの仮説が立つ訳です。
1、御寺の傍に大庭神社を移しちゃった。
2、本藤沢側の台地が後に発達したから、元々船地蔵地区に在った御寺が本藤沢側に移転して、その際に一緒に神社が移転されられた。
小生、この仮説を立てた時に気が付いたのですが、藤沢の成就院は御寺の山号が稲荷山です…
しかし御寺の有る地区は地名こそ❝稲荷❞ですが、この地区に稲荷社が在った歴史は無い!
ところがところがぁ~♪
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船地蔵地区の大庭神社舊蹟の直ぐ近くには❝臺谷戸稲荷❞が鎮座しています。
しかも、こちら側の大庭神社舊蹟の大庭神社(熊野社)も別当寺は成就院でした。
…もう、これで状況証拠は集まったでしょう。
恐らく、この地区に成就院の前身だった宝染寺が在った。そして当然、大庭神社舊蹟が元宮であり、古代から船地蔵地区に存在したので、宝染寺が別当寺に成った。
その後、1352年頃に鎌倉に近い現在の稲荷地区に山名時氏公が何らかの関わりが有って、宝染寺と大庭神社を東側の丘の麓に遷座し、宝染寺も成就院と院号に寺名を改める事に成ったが山号は船地蔵地区に在った時のまま稲荷山を引き継いだ。
結果的に成就院が移転して来た丘陵地帯の地名が御寺の山号をとって❝稲荷❞と呼ばれる地区に成った。
だから、現在の大庭神社は若宮で、地元の伝承の通り江戸時代に熊野社と一時期呼ばれた大庭神社舊蹟こそ元宮そのものだと推測が成り立つ。
そして、この大庭神社舊蹟や臺谷戸稲荷や大庭城の在る、古代の湾の西側の陸地からは縄文時代~弥生時代の史跡が出土している…
ダメ押しすると、大庭神社舊蹟の住所は藤沢市❝大庭❞。
つまり、伊勢神宮直轄地だった大庭御厨(おおばのみくりや)は大庭神社舊蹟の側一帯の丘を指す訳ですよ。
どうでしょう?
…以上が周辺の歴史ですが、もう元宮は大庭神社舊蹟で決定ですよね?
江戸時代の間宮士信先生の弟子の三文学者が、江戸時代に東海道が通っていた本藤沢側が栄えていたからって勝手に地元の伝承を否定したのは、現代の発展した考古学と古代からの地勢を見れば誤りだったのが良く解る訳ですね~。

次は大庭神社元宮と近所の稲荷社を写真で紹介します。
では次回の記事で御会いしましょう~♪

平安時代の人からも古くて由緒有る神社と思われていたのが延喜式内社と呼ばれる普通の神社とは比べ物に成らない❝別格❞の神社です。
醍醐天皇が編纂させた延喜式と言う律令制度の改正法に定められた保護すべき対象の神社一覧が延喜式神名張に載る延喜式内社です。
又、延喜式成立以前から存在するが、当時は修行場や祈祷所と機能していたので祖先や神を奉る神社とは意味が若干異なっていていたり藤原家に不都合な歴史が有り掲載できなかった神社を延喜式内社に対して式外社と言います。
その神様の御神威と歴史が別格の意味に社殿の大小や現代の参拝客の多さは関係有りません。
多くの延喜式内社には縄文~弥生文化の遺跡が近在し、又、神社の宝物に日本神話の時代に当たる弥生時代に作られた祭器が有る所も少なくなく更には考古学的にも、その祭器が弥生時代や古墳時代初期の物だったり境内の遺跡が縄文文化の史跡と確認されている場所が多く有ります。

そんな延喜式内社が神奈川県には旧相模国内に13座、旧武蔵国(横浜市)に1座、式外社で古事記に登場する様な霊験あらたかな場所や歴代天皇の勅願所も数ヵ所有ります。
その中の一つで、現在も比較的大きな規模を誇るのが大和市の深見神社(ふかみじんじゃ)です。
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ここ深見神社は雄略天皇の時代(西暦500年前後)に闇神(くらおかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を御祭神として創建された事が関係文献から解っている様です。
神は水神=雨乞いの神様として信仰されたそうですが、似た名前の神様に高神(たかおかみ)と言う神様が雨乞いの聖地だった大山阿夫利神社の御祭神として祀られています。
この二神は名前も似ていますが同じ様な御神威を御持ちの様です。
今年2016年の夏は水不足なので神奈川県知事や自治体の首長には御参りして欲しい所ですね。
さて…少し脱線します。
延喜式内社も凄いのでですが、式外社にも凄い場所が有ります。

特に凄い場所は以前も紹介した…
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日本武尊の仮御所近くに、日本武尊の冠を御神体として地下に埋蔵して創建された横須賀市の走水神社。
ここは最近の社殿建て替えの際に本当に地下に石室が有る事が確認されています。
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日本武尊の御妃様の弟橘姫の古墳が神社社殿の背後に控える川崎市の橘樹神社。
神奈川県教育委員会の怠慢と不見識で、大古墳は一部を除いて宅地化されてしまいましたが、古墳頭頂部の一部がかろうじて現存しています。
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そして歴代天皇が勅願所道場として信奉した師岡熊野神社です。
歴代の天皇家と源氏や小田原北条家、徳川家から信奉され、特に光孝天皇から「関東随一大霊験所熊野宮」の異名を与えられ、その勅額を頂いた周辺に聖なる池を多数抱える神社でもあります。
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今回紹介する深見神社は、この師岡熊野神社と同じ雨乞いの神様として古代人からも信奉された古社な訳ですが…
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伝承や郷土史研究者の意見では、この辺りも古代に海が入り込んだ入江だったので❝深い海❞が地名の深見に転化したと考えられていますが、小生の意見は少々異なります。
何故かと言うと古代の海岸線と深見神社の位置は離れているからです。
神奈川県名の延喜式内社と古代の海岸線 久良岐のよし
そこで小生が推測するのは、深見(ふかみ)の地名由来は❝深水(ふかみ)に嵌(は)まる❞の方の深水だと思うんです。
実は、この深見神社は重要な場所に在(あ)りまして、すぐ近くを❝境川❞が流れています。
延喜式内社と河川の位置 久良岐のよし
※拡大して見ると、河川と延喜式内社の位置が解ります。
古代は橋を架橋する技術が無かったので、大河川を渡河するには舟での移動しか有りませんでした。
若しくは…徒歩で渡れる浅瀬を探すかですね。
残念ながら神奈川県には相模川や鶴見川の様な巨大河川が幾筋も有り古代人にとっては交通の便の良い土地では有りませんでした。
それ故、この道を❝東海道=東の海の道❞と古代人が名付けた訳です。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
古代の東海道は何筋もの大河川を船で渡り、最後は走水から海を越えて房総半島に渡っています。
さて、そんな訳で深見神社の眼前には今も昔も境川が流れているのですが、これが上流部分が旧相模国と旧武蔵国の国境と定められた川だから❝(国)境(の)川❞と成った訳です。
この境川も相当な下流域は海でしたが、実際の所は深見神社の氏子サンや郷土史家の推測は海岸線の歴史事実と異なり、深見神社の眼前に入江が広がっていた歴史は存在しえません。
そこで小生の説は「❝川の深水❞が有ったから深見神社と名付けられた」と成る訳ですが…
「え?深水なんて別にありがたくも何も無いじゃん?」
…と思ったら、貴方は神道と日本の祭祀の歴史を全く解ってない。
古代人にとって川の❝淵❞や❝深水❞と呼ばれる地勢は聖地として信仰対象に成っていたんですよ!
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上の写真は江戸市民の水の供給源だった東京都羽村市の多摩川上流にある根搦前水田を横断している雨乞い街道です。旱(ひでり)の日は、聖地とされた深い淵で雨乞い儀式を行う習慣が有りました。
そして深見神社の御祭神の名前の❝闇神(くらおかみ)❞です。
神(暗い場所の水神様)と解釈出来る御名前から、鬱蒼とした樹木の下に流れる境川の水深の深い水辺を連想させますよね。
似た名前で同じ雨乞いの神様の高神は大山阿夫利神社の神様ですが、実は大山は標高1000mを超す場所に沢山の自然湧水や滝が有るんです。❝高❞い場所に水を湧かせる❝神(おかみ=龍神)❞様だから高神なんでしょうね。
恐らく、ミシェランガイドで三星の観光地認定された東京都日野市の高尾山の❝高尾❞は、大山阿夫利神社の❝高龗❞神と同じ神様を奉っていた歴史が古代に有ったんじゃないかと思います。多分高尾山は山岳信仰と雨乞いの対象だったんでしょう。大山と同じ様に天狗(てんぐ)信仰も盛んですからね。

話を深見神社その物に戻します。
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深見神社は北西から入ってくる変則的な表参道の横に石碑が有ります。
これは、この深見の江戸時代の領主が、この神社と周辺を大好き過ぎてアレやコレや寄進しまくった時に建てたそうです(笑)。
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その近くに立派な狛犬さんも鎮座していて参拝客を御出迎えしてくれます。
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凛々しい狛犬様。
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めっちゃ筋骨隆々だね。
参道から、社殿正面へ続く駐車場の傍(かたわ)らには大和市の保護指定を受けている大樹があります。
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すんごい立派ですね。
駐車場に車を止めると富沢稲荷と言う小さい摂社が有ります。何故か境内には遷座されていない。
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こちらは参拝客もまばらそうですが、小生は御城や神社や御寺を御参りする度に御稲荷様が鎮座していて、参拝客や地域の方々を守って下さっているのでちゃんと御挨拶をして御参りして来ます。
勿論、この時も御挨拶しました。
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現在では一見すると普通の少し広めの神社程度の境内ですが、参道の向きや周辺の森と道路の敷設されたルートを見ると、明らかに昔は周辺の住宅街全部が深見神社だった事が見てとれます。
深見神社推定旧境内 久良岐のよし
こんな感じかな?
ちゃんと現在の社殿前の鳥居の反対側にも、昔の参道が有り、先にも廃道が有る。
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現在は私有地に成ってしまっているので通れない。
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こう言うのは明治政府のせいなんだよ。
明治政府が神社の土地を接収しちゃって、更にその後で太平洋戦争で負けた時にも米軍に神社の土地は大きく接収されてしまったので、こんな風に古い参道が使えなく成って家が建っちゃった場所は少なくないんだな。

さて深見神社の社殿はとても立派です。
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造りからすると多分新しい。ごく最近の再建。
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この時は春に差し掛かった頃に訪れたので、桜の花が咲いていてとても綺麗でした。
深見神社は江戸時代に周辺領主だった坂本家が武神の武御雷神を鹿島神宮から勧進した歴史も有るので一時、鹿島社の別名で呼ばれていた事も有ります。
そっちの神様はハッキリ言って深見神社や深見の土地と関係が無い。
寧(むし)ろ、相模国の延喜式内社と関係が有る戦神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と五十猛(いそたける)神日本武尊と弟橘姫だからね。平安時代にも関東では武御雷神じゃなくて、八坂神社や浅間神社で素戔嗚尊が崇拝されたし、西暦700年頃からは弁才天様も崇拝されだした。
後から深見神社に引っ越して来たのが武御雷神。
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そこ等辺の事は説明の看板にも書いて有るけれど、元に成った記事を読みたい人は横浜の殿様間宮家の子孫の間宮士信が編纂した新編武蔵風土記稿を読むと、周辺の歴史も解って楽しいですよ♪
深見神社は手水舎にはちゃんと水道から新鮮な水が流れていて身を清めれます…
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…多くの延喜式内社が伊勢と関係ない神様で宮司様不在で寂れて水道も流れてないからね。
ここは他にも施設が沢山有ります。
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靖国社。靖国神社の末社かな?と思ったら全く違いました。
元々、この大和市や厚木市は大日本帝国海軍時代の厚木飛行場が有ったので、そこに空の神様として神社が建てられた航空神社を、戦後厚木基地が米軍に接収される際に引き取って当地に遷座したそうです。
それと、さっきの富沢稲荷様とは又違う境内社の稲荷大明神。DSC_0552
御倉大明神と言って、一時期、闇神がこちらに移されて、本殿には明治時代の国家神道と関係が深い武御雷神が本殿に祀られて優先順位と歴史的にアベコベにされていた様です。
現在は闇神様は本殿に無事帰還されています。

それと御神木…
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出ました!神奈川県の銘木100選。
小生の行く先々でちょくちょく登場する銘木100選、その一つが深見神社の現在の御神木の春楡(はるにれ)の大樹。
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春楡(はるにれ)が❝春を❞❝諭す=楡❞、つまり春の訪れを知らせる様に花が咲くからだそうです。
深見神社では種類が解らず「なんじゃもんじゃの木」と渾名されていたようです(笑)。

ここには、古代の文化を伝える神様がいらっしゃいます。
そして江戸時代に武士に崇拝された戦神様も後に同居されました。
古代から近代まで、色んな時代の人の記憶がつまった大切な場所、そして古代人の聖地だったはずの境川の淵の横に建てられた神社だったんだろうなと思います。

きっと皆さんの御近所にも、あんまり大きくなくても凄い歴史偉人との繋がりや、古代からの文化や遺跡を継承しているとんでもない神社や御寺が在ったり、近くの公園や山に行くとソコが平安時代~江戸時代に日本の文化を発展させた武士達の御城の古址だったりするかも知れません。
…御近所の神社仏閣や城址を散歩して、昔の人事を少し思い出してあげませんか?そして文化を大切にしてみませんか?
御参りして先人に「日本の発展に寄与して下さりありがとう」と御礼を伝えれるだけでも、偉人達や神様や仏様は喜んで下さるかも知れませんよ。

では、今日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう♪

自宅のある横浜を出発したのは午前11時頃…
北鎌倉までは車で1時間とかからないで到着する。
渋滞に捲き込まれてやっと60分程度、普段なら40分くらいだろうか?

小生の仕事は連休が無い。
世間がゴールデンウィークも仕事した分、本来、6月1日には休暇を使って一週間ぶっ通しで京都~愛知に行ってるはずだった。
京都の阿弥陀寺様に、昨年の間宮家の顕彰活動で訪問した際に追善供養に参加する様に御声がけ頂いていたからだ…
めちゃくちゃ贅沢してやる心算で半年超かけて30万円旅費を積み立てていた。
移動にタクシー借り切って、食事は全て有名な料亭や西洋料理のレストランを予約して食べるつもりだった(笑)。
…しかし、熊本大地震が発災。
京都行の旅費は全て熊本に送ってしまった。

でも、せっかく休むつもりだったのをキャンセルして何もしないのも癪(しゃく)に障(さわ)る。
けど、今月の小遣いは京都に行くいは足りない…
「そうだ!鎌倉に行こう(2週間に一回は来てる)‼」と、成った訳だが、断念した旅行を諦めたくない。
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で、こうなった。
「車で一瞬で帰宅できる距離だけど、宿泊しちゃえば良いんジャネ?」
…てな感じで三浦半島に宿泊中。
1週間ブっ通しの休暇をキャンセルして日曜日1日だけ休暇にし1泊2日の連休。

長者ヶ崎の砂浜に面しロケーション最高の家族経営の旅館「大海荘」。
今は持ち込んだPC叩いてる訳だ。
結局、京都に行かなかった分、❝作家ゴッコ❞みたいな(笑)プチ贅沢な土曜日を
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ここは海辺まで徒歩30歩(笑)と近い。
そして、この長者ヶ崎は❝神奈川の景勝50選❞の一つだ。当然風景は綺麗。
朝食だけの素泊まりで6,500円。家族経営なので規模は小さいが部屋は清潔。
でも天然ラドン温泉。風呂トイレは昭和初期の旅館らしく共用。
車で10~15分程度の近所には以前も記事で紹介した秋谷海岸の地魚地野菜のイタリアン「DON」や、佐島マリーナの海に張り出したウッドデッキの最高のロケーションで食事出来る「海辺」なんてレストランも有る。
だから、ちょっと三浦半島のドライブ兼ねて、もの凄く美味しい料理店でランチをとる事も出来る。
素泊まりにすれば逗子マリーナや葉山マリーナの御洒落なレストランで食事も出来る訳だ。
夕食付にすると8000円。
事前に相談すれば、旅館の庭先では天候に関係なく屋根の下でBBQも出来る。
夕食をBBQに変えるのも家族連れやカップルには良いかも知れないが…
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小生は一人旅なので、和食を頂いた。
葉山だけあって御刺身と魚の天ぷら美味しかった。
サーファーや夏休みの子供連れ家族の海水浴や鎌倉旅行兼ねた旅には丁度良いだろう。
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雰囲気は外観がオシャレな海の家、中は典型的な大正~昭和の日本旅館。
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小さい家族経営の旅館らしく、ロビーもこんな感じ。
江戸時代の旅籠もこんな規模が多かった。坂本龍馬サンの定宿の寺田屋とか近江屋とかね。
小生が箱根で良く宿泊する温泉も、家族経営だが築100年の小さい旅館だったりする。
小生はホテルより日本旅館が好きなので、プチ旅行でシティホテル泊まるよりも風景の綺麗な葉山は長者ヶ崎のこの旅館が好きだ。
本当、帰ろうと思ったら、横浜横須賀道路で30分チョイ(笑)。でも近くに宿泊するチョットした贅沢に満足(笑)。

本当に車移動なら海水浴や鎌倉旅行にロケーション良いからオススメしたいんだよね。
この旅館の部分は別記事でもう少し追記して紹介しようと思う。

こっから6月4日の訪問地域。
昨日は珍しく余り多くの場所を訪問しなかった。
行ったのは北鎌倉と宿泊地の海岸だけ…
●明月院…紫陽花の名所。
●鎌倉五山(と言う飯茶屋)。
●長寿寺…足利尊氏公の菩提寺。
●亀ヶ谷の切通…鎌倉七口(昔の鎌倉の出入り口は7ヵ所の切通ししか無かった)の一つ。
●建長寺…臨済宗の大本山、歴史の授業でも習う鎌倉五山の第一位の禅宗寺院で道場。
●半蔵坊…建長寺の守護神として裏山に鎮座する塔頭とは異なる修験道の神社。天狗様。

横浜を出て35分位だろうか?無事北鎌倉駅近くに到着し車を駐車。
先ず訪れたのが第一の目的地だった紫陽花の名所、明月院。
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昨日は6~7分咲き。
ここは紫陽花が綺麗なだけでなく、鎌倉武士文化中興の祖とも言える北条時頼公の菩提寺でもある。
又、中の草庵で御抹茶と和菓子を頂く事も出来る。
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当然、紫陽花は6分咲きでも綺麗だった。
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明月院は初めてではないのに、今まで裏の庭園(拝観料500円別途)に足を運んだ事が無かった。
警備院サンに質問したら菖蒲が見頃との事で、これも良い機会と思い足を運んでみたら…
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…これが予想外の美しさ!なんで今まで来なかったのか!
そして発見も有った…
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なんか菖蒲庭園の奥に❝通せん棒❞されている場所があり、その更に奥の右側には不自然なツタに覆われた路盤と思しき地形が見えた。古道の跡に見えたので、御寺の園芸部の職員さんや寺事務所の方に質問した所やはり、このツタに覆われた場所は古道の跡で、ここは表通りを通らず此(こ)の道を通って直接、臨済宗大本山の建長寺サンや円覚寺サン行ける昔の古道だそうだ。
今では、御寺同士の関係性は本山末寺の関係よりも現代の法律による土地の所有権等の事で各自境界が明確に成っているので封鎖されているそうだ。
ここを通れば山の尾根伝いに、関東の臨済宗の大本山の建長寺や円覚寺に行ける訳だ。
裏庭だけでなく、通常の順路も紫陽花以外に躑躅(つつじ)が綺麗だった。
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海の向こうに紅葉した山々を表現したような枯山水なのかな?
ところで、不敬無礼無秩序な輩が竹林に落書きをしていたので晒して置こうと思う。
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久保寺誠、松本、この両名の身の上にに釈迦牟尼仏と北条時頼公の仏罰と祟りが降りて以後、悪事を行えなく成ります様に。
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ちゃんと御寺サン書いてるでしょう?

明月院を出てから表通り(鎌倉街道)に移動する途中の風景…DSC_2055
少し趣が京都の哲学の道に似てるかな?水路沿いに在る邸宅は全て石橋が掛かっている。
この地域は山ノ内と呼ばれる場所で、その名の通り、関東管領山内(やまのうち)上杉家の邸宅がこの谷戸の奥には在った。つまり、この道を山内上杉家の歴代殿様や配下武将達が行き交(か)っていた訳で、恐らく上杉謙信も関東管領就任の前後は、この辺りに宿泊したんだろうか。
因(ちな)みに玉縄城の目と鼻の先なので、仮に宿泊したなら危険が伴い防備を怠れなかったはず。
明月院を出て鎌倉街道に復帰するとすぐに鎌倉五山と言う茶屋が有って…
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北鎌倉名物の建長寺汁(けんちんじる)を食べる事が出来る。
けんちん汁は、建長寺発祥の料理なんだな。
御寺の精進料理なので、本来のケンチン汁には肉魚は一切入っていない。
ベジタリアン歓喜の料理。素朴で小生は好き。でも魚食べたい。
美味しく頂きました。

その後は臨済宗大本山建長寺へ…
行こうと思って歩いていたら、普段は一般参拝不可の長寿寺サンが特別公開を行っていた!
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ここは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の関東における菩提寺で、寺の開基(かいき=オーナー)は尊氏公の御子息で鎌倉公方の足利基氏公と言う、由緒正しい格の高い御寺サン。
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庭園も見事だったが、御住職様と御話しさせて頂く機会があり、有意義な時間を過ごせた。
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秋に奉拝出来たらきっと庭の紅葉が綺麗な枯山水の御庭。
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尊氏公は南朝の後醍醐天皇とは政権運営で対立したが、明朝の文化と日本の武士文化を融合した華美と質実を領有した室町文化の礎を築いた偉人である。尊敬すべき先人だ。

ここを出るとすぐの所に鎌倉七口の切通しの一つが在る…
亀ヶ谷(かめがやつ)坂の切通し。
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この切通の先には河内源氏の幼き日の源頼朝公や源義朝公が住んだ源氏の邸宅跡寿福禅寺が在る。
現代は少し広く開削さえているが、当時は人が2人程度しか横に並んで歩けない幅に、騎馬武者が侵入困難な程に急角度で屈曲させた喰い違い虎口(こぐち)が全ての切通しに設けられていて鎌倉市街防衛の要だった。
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事実、新田義貞は鎌倉の切通しを突破できず、一年に数回の大干潮を待って稲村ケ崎の海中に露出した磯から侵入してやっと鎌倉を攻略できた。

ここを歩いていたら、鎌倉文化らしい路地の壁面に掘られた地蔵菩薩様がいらっしゃったので、鎌倉を旅する人達と地域の方々の安全と御地蔵様御自身が末永く存続する様に御祈り申し上げて来た。
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御地蔵様の周りの壁面の形状を見るに、元々は矢倉に掘られていたのが、矢倉部分が崩壊して露出したのだと推察出来る。

そして、いよいよ臨済宗鎌倉五山第一位の建長寺へ…
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ここは桁違いの規模を現在でも維持していて、だいぶん減少したものの塔頭寺院もいくつか現存している。
又、明治時代以前の神仏習合の文化も維持していて、境内の奥院と言う場所には神仏習合山岳信仰の象徴である天狗様を祀る半蔵坊と言う寺の名前の神社が有る。
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総門をくぐると・・・
更に中には立派な門。

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京都の大寺院の南禅寺よりも大きい門。
南禅寺は立派な御堂が現存しているから甲乙つけがたい。
規模は京都の同じ臨済宗の大徳寺にも勝るとも劣らないが、鎌倉は度々戦火に捲き込まれているので大徳寺の方が塔頭寺院は多く現存している。
詳しい事は、いずれ建長寺様だけの記事を改めて書くとして、見所としては徳川秀忠公の奉献された金ピカの唐門なんかも有る。
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奥のやつね。

半蔵坊へ移動。
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半蔵坊は建長寺オリジナル御朱印帳を持つ人だけが入れる。
参道は少し歩く。
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正に神仏を共に大切にされた歴代天皇と武士達の価値観を大切に受け継がれいる証拠。
御寺の守護神として神社がある。
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そして山岳信仰の天狗様。
こちらからは、晴れていると相模湾が一望出来る。
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生憎の曇天で相模湾と曇り空が一体化してしまった(笑)。

その後、建長寺様の参拝を終えて、昨晩から宿泊している葉山の海辺に在る「大海荘」さんへ移動。

で、記事冒頭の長者ヶ崎に戻る。
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昨日は曇天だが、なんとか富士山が見えた。
良い一日でした。

さぁ、チェックアウトだ…
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久しぶりに食べた朝ごはんも美味しかった!
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長者ヶ崎も朝から散歩出来て、朝風呂にラドン温泉にも入れたし満足!
さてさて…もうすぐチェックアウトの時間。

今日は何をしようかな?
生憎雨天、鎌倉の紫陽花は満開の来週に長谷寺を再訪するとして…
…三浦も雨では佐島マリーナの「海辺」と言うレストランに行こうと思ったが、それも変更。
やはり鎌倉に行くか!
う~ん、三崎漁港に行こうか?作兵衛の菖蒲園も見頃だろうし。

そんな休日雑記でした。


藤沢市打戻地区に宇津母知(うつもち)神社と言う、とても古い神社が在ります。
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それはそれはとても古い神社で、古文書に記録では既に西暦500年より前、雄略天皇の時代、つまり古墳時代には既に存在した事が確認出来ている神社です。
この宇津母知神社の在る現在の藤沢市打戻及び神奈川県中央部周辺は、古墳時代当時大きな入江が可成り内陸まで入り込んでいました。
古代の海岸線と延喜式内社 久良岐のよし
御覧の通り、日本神話より遥かに昔の縄文時代6000年前の海岸線に、延喜式内社と式外社は存在しています。
ただ1社、前鳥神社だけを除いて。
実は前鳥神社が他の延喜式内社と違って縄文時代の海の真ん中に在りますが、これは既に考古学的、地形、文献の3つから説明が付きます。
まず、現代伝わっている「前鳥神社」の名前が誤りです。平安時代の誤記が元で現在の名前の字が変わってしまっています。正しくは「前❝島❞神社」だった様です。
…つまり、昔の字の意味からすると佐賀牟国の❝海の前に浮かぶ島❞で島自体が御神体だった神社と解釈出来ます。では、本当に島だったのでしょうか?
前鳥神社の地形 久良岐のよし
はい、前鳥神社は本来の前島神社の名の通り、相模川の浸食を受けない自然堤防の上に立つ神社でした。
つまり、海に浮かぶ島だった地形上に在る訳です。
そんな訳で、延喜式内社を回ると、悠久の縄文からの文化を受け継いで弥生時代に何某かの偉人達の事績が神話に成って日本文化として僅(わず)かでも現在に伝わっている事が容易に想像出来ますね。
さて、延喜式内社が古い神社と言うのは解ったと思います。
そもそも延喜式と言うのは平安時代の醍醐天皇が纏めた政令で、その内の延喜式神名張と言う文書に当時の人から見ても古いと思っていた神社を保護の為に列挙したのが延喜式内社と言う訳です。

そこまで話した所で、話を宇津母知神社に戻します。DSC_0422
この神社は交通に若干不便な農村に在るので車で行くか本数少ないバスで行ってから徒歩に成りますが、駐車場側から行くと入口近くには立派な御神木が出迎えてくれます。
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そこを通り過ぎると、表参道に回れます。
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この宇津母知神社の境内は、延喜式内社だけあり可成りの広さが有ります。
ですから、参道も歩くと普通の神社より長く感じます。
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現在は鎌倉に近く小田原に向かう途上に在る事もあり、武士達の度重なる戦火に巻き込まれたせいか敷地だけ立派で古来の建物は現在では残ってはおらず、氏子サン達の努力で再建された御社と社務所が鎮座しています。
しかしながら、明治政府による神仏分離令や国家神道による統制以前の建築遺産が表参道とは異なる西側に残っています。
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鐘楼ですね。
明治政府によって伊勢神道を基本にした国家神道で神仏習合の歴代天皇家が守って来た価値観は破壊されましたが、奈良時代~江戸時代の終わりまで日本人は天皇家と共に、弁財天様などインド神話由来の神様や仏教文化もひっくるめて日本の神様として受け入れて大切になさっていたんですね。
現在の表参道が南側に在るのは、日本神道のセオリーで社殿は南側を向かせているので、その社殿に合わせて参道を付け替えた為でしょうか?
本来の街道は西側に在るので、この鐘楼の在る昔の表参道も西側に面しています。
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鐘楼の近くには、昭和の土地改良の石碑がありました。
この昭和の土地改良は、それまで水稲耕作に向かなかった全国の土地を稲作に出来る水田に生まれ変わらせましたが、同時に小生達歴史オタクから見ると弊害もありまして本来の古道や城址の痕跡が完全に破壊された場所も少なくなかったんですね。
とは言っても、国民が飢えなく成る事が一番大切なので、これはこれで偉大な事業だと思います。
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その土地を耕しながら、この土地の人々が社殿が老朽化する度に再建し、古代からの伝統と神話に成っている先人の事を伝えて下さったんですね~。
本殿は現在はトタン屋根です。
多分、昔は茅葺か檜皮葺だったんだと思いますが、信仰心の薄くなった現代人の更に過疎に成った現在の藤沢の農村では、大変高価な茅葺や檜皮葺を維持するのは困難だったんでしょうね。
でも、こうして社殿を守って下さっている事が大切なんですね。
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因みに、この規模の屋根を茅葺で吹き替えると4000万円超かかるそうです。これは以前、横浜市栄区の古民家、旧小岩井家住宅の職員さんに教えて頂きました。
※小岩井家住宅の記事は「ココ」←クリック!
さて、本殿の左隣には神輿か山鉾(だし)をしまってある建物でしょう。
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右側には神楽殿。
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この規模の神社に宮司様が常駐していないのが真に残念。
しかし、神奈川県は何故か醍醐天皇以来歴代天皇や統治者が御守りに成られた延喜式内社を伊勢系の神社より荒廃してしまったり宮司様がいらっしゃらない場所が多い様です。
ですから宮司様では無く氏子様達が良く守ってらっしゃっておられる神社が少なくありません。
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この狛犬様達は、造りからして江戸時代~明治時代初期の彫刻でしょうか?
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下の基礎部分に何某かの刻銘が有るのですが、石が剥落して読めない字も多いですね…
「宮〇家」は❝宮丞家❞か❝宮司家❞と書いて有るのかな?
その下は二世彦次郎と書いて有りますね~。
姓の刻銘が無いので戦国時代は武士だった家系の江戸時代の地元の豪農の氏子サンとかかな?
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社務所は立派なのですが、電話してもやはり宮司様御不在で御朱印は頂けませんでした。
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残念、再訪する前にアポとれたら良いなぁ~。
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う~ん、この御祭りに合わせて行くしか無いのかな?
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宇津母知神社の御祭神は稚産霊神か、若日下部命、天照大神。摂社の菅原道真公と御稲荷様。
んな訳で、菅原神社。
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実は関東には菅原道真公の御子息が御二人移住して来た伝承の有る神社があり、それが横浜市港南区の永谷天満宮と茨城県坂東市の大生郷天満宮です。
大生郷天満宮は菅原道真公の御三男の菅原景行公、永谷天満宮には五男菅原敦茂公が移住して来られた伝承が有ります。
小生は、周囲の武士団の子孫の名前から関東に来たのは菅原景行公の説が特に有力だと思っています。
関東の平良文系の坂東平氏の武士団が盛んに天神様=菅原道真公を信奉していた節が有ります。
どこの城の址の近くにも、古い城程、御稲荷様と天神社が有りますからね。
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そして稲作と所縁深い御稲荷様。
これも平氏系の武士団が大切にした神様。関東は平安時代に鎮守府将軍平良文公の御子孫が水田を開いた土地が多いですからね~。
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この藤沢市しかり。
藤沢を開いたのは、平良文公の御子孫で、名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公も又、鎌倉市の権五郎御霊神社で軍神・縁結び・眼病治癒の神様として祀られています。
※御霊神社の記事は「ココ」←クリック!
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意外なところに古代に続く凄まじい歴史を持つ神社が有るでしょう?

どうですか?
皆さん、県内の延喜式内社御参りしてみたくなりませんか?
延喜式内社以外にも、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史を持つ神社や御寺が在って、とんでもない歴史偉人との繋がりが有ったりするかも知れませんよ~?
だから、神社や御寺や城址や歴史史跡や古民家や里山とちょこっと散歩してみませんか?

では、また、次の記事で!










休日なので寝ずに桜の写真撮影に・・・
多分、今週末までが撮影のチャンスだけど今日が一番の見頃と予想し、かねての計画通り強行軍で色々回ってきた。
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朝七時に家を発ち、九時過ぎに伊勢原市の渋田川河畔に到着。
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芝桜と染井吉野の咲く遊歩道を散歩。
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地域の人が守る池田神社を御参り。

厚木市七沢地区小野の延喜式内社、小野神社目指し移動。

途中、高部屋神社により、今年2月16日に社殿が国指定重要文化財に成ったので御挨拶の御参りをした。
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隣接する丸山城址公園の桜も満開だった。
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再出発。
通り道の七沢地区も山々に桜が咲き綺麗だった。
途中、立派な御寺らしき建物が北条家の三つ鱗紋の幟(のぼり)を掲げているのが目に留まり寄り道。
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龍散寺と言う御寺だった。
何と、自分が趣味で調べている戦国時代の鶴岡八幡宮再建時に、神器を一時的に移し保護した寺院だった。
そして同寺は北条氏綱公の御実弟、神保輝廣公の開基である事も知った。
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偶然だけども、光栄な参拝が出来た。
三つ鱗紋を見て飛び込んで良かった。
小野神社に到着。
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御参りした。
宮司様は御不在だったが御家人とは連絡が取れた。
面白い事に気がついた。
宮司様は恐らく戦国大名の毛利元就公と同族だ。
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又、改めて御朱印は頂きに上がろうと思う。
厚木市飯山観音(飯山温泉)地区に向け移動。
飯山地区に着いて、真っ先に橋のたものとの龍蔵神社が目に入ったので御参りした。
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その後、桜並木の綺麗な曹洞宗金剛寺の参道を散歩した。
どうやら先に御参りした龍蔵神社は元は龍蔵院と言い、金剛寺の塔頭寺院だったのが明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で神社として独立したらしい。
檀家の御婆さんに曹洞宗なのに真言宗の体を成している事を質問した所、昔、弘法大師空海和尚が開かれた太子堂が始まりで後に源頼朝公と御家人足立(安達)藤九朗盛長公が支援していた寺院らしい。
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次代は下り小田原北条家の影響下で真言宗から曹洞宗に改宗したようだ。
御婆さんの話がクソ長くて、話を断ち切るのに1時間かかってタイムロスした。
長谷観音まで登りたかったが、やむなく断念。
次の目的地の伊勢原市上粕屋の太田道灌公菩提寺幡龍山洞昌院公所寺に向け出発。

公所寺に向かうに当たり、七沢リハビリテーションセンター脳神経外科経由で向かう。 この所在地が扇谷上杉家の重要な支城で、戦国時代初期当時、扇谷上杉家当主定正の実弟の七沢朝昌が城主を務めていた堅城だった。DSC_0741
敵対する山内上杉家に攻められた際は城兵200で防衛に成功した実績を有する。
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地勢的に津久井~甲斐や武蔵北部に通じる重要な街道を抑えている。
公所寺に到着。
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扇谷上杉定正の居城とされる大庭城の麓に、寺院の歴史は戦火で途絶えている公所寺と同じ曹洞宗の寺院の宗賢院と言う寺院が有り、公所寺と同じ寺紋”太田桔梗紋”な上に山号まで全く同じ”幡龍山”である事から、御住職に宗賢院さんとの関連性を質問する為に再訪した。
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枝垂れ桜が見事だった。
道灌公の御位牌と御廟所を御参りしてから、まだ訪れていなかった太田神社まで散歩した。
行く間、戦国時代に作られた疎水(そすい=用水道)を大山街道沿いに見る事が出来た。
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あと上粕屋神社も。
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太田神社についてがっかり。
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北条早雲公がリスペクトする太田道灌公の御霊を御祭神として造営した太田神社の社殿が、管理人の子孫かなんかに私物化され一般宅かしてしまったいた。
明らかに形状が拝殿と本殿の造りで鳥居と太田神社の石碑まで有るのに、個人の自宅にされている…
神奈川県神社庁、何とかしろよ。鎌倉に鶴岡八幡宮の観光用の鳥居なんて再整備してないで、偉人達が残した物をちゃんと保護する仕事にも力を入れて欲しい。
その後、当初の予定通り延喜式内社比々多神社へ御朱印を頂く為に移動。
比々多神社で御参りを済ませて御朱印を頂いた後、大山桜を見に大山阿夫利神社の社務所へ移動。
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大山阿夫利神社の御神体でもある大山=丹沢大山国定公園では山々に咲く桜が綺麗に見れた。
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社務所の裏山には樹齢400年前後の桜が数本ある。
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一昨年の夏に水不足で枯れていた愛宕の滝が復活していた。
うん、良い一年に成りそうだ!
残念な事も…
桜の季節で稼ぎ時なのにも関わらず、商店や旅館、懐石料理やが悉(ことごと)く開いていなかった。
かろうじて造り酒屋の遠州屋さんが開いていたので義叔父に御土産の日本酒を買い、昼食とってない自分の間食用に酒粕飴を買い移動。
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車の中で飴を舐めながら、本日の計画上、桜の撮影の最終目的地だった秦野市弘法山へ向け出発。
途中、空腹に耐えられなく成り刀削麺の店に入った。
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主菜に牛肉刀削麺、副菜に豆腐干と砂肝の前菜を頼んだ。
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店員全員中国人で、山西省大同市で食べた時と同じレベルで美味しかった。
近くの鶴巻温泉に入りたかったが、写真撮影優先しスルー。
改めて弘法山に向け移動開始。
弘法山からの眺望は素晴らしかった。
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桜の後ろに大きい富士山が見える。
ただ、頂上展望台への山道の傾斜は結構な角度でキツイ。
しかし登る価値は有ると思う。
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権現山展望台へ登山中、どうも山一帯の地形が腰曲輪らしき形状に見えてしかたなかったのだが…
頂上に行って案内板全て読んで廻ったら自分の推測は当たっていたらしく、権現山は南北朝期の詳細不明の城塞だったらしい。
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麓に古東海道に接続する矢倉沢往還が通っているので、その守りの為に山城化された時代もあったのだろう。
ひとしきり写真を撮影して伊勢原市の義叔父の家に向け出発。
義叔父の家に向かう途中、鶴巻温泉~秦野の東海大学の辺りを通り過ぎ、平塚市内を走行中、たまたま赤信号で止まった交差点の右側に気に成る地形が見えた。
カーナビを見た所”塚越古墳”と表示されていたので近くのスーパーに車を止めて、見学に立ち寄った。
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前方後円墳。
弥生時代までの関東の古墳は方形周溝墓。
古代大和政権の影響下に入った時代の古墳が前方後円墳な訳だから、この古墳の主は邪馬台国もしくは大和に関係が有ったのだろう。
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この古墳を見学していて、すぐ近くに真田城址である天徳寺が有るのを思い出し、又も寄り道の為に移動。
天徳寺を参拝。
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天徳寺の在る段丘が嘗(かつ)ての真田城の本丸に当たる曽我曲輪だったそうで、歴代住職の廟所と思しき場所は土塁と思われる地形の上に在った。
城としての遺構は不鮮明だが、近くのファミリーマート側から天徳寺の台地を見ると笹薮に囲われていた。
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城址は地形の保全の為に笹を植えるのは良く有る事なので、これが昔からの地形だとすると真田城址の遺構の可能性が高い。
もっとも、墓地の宅地開発されていない側には、昔の曲輪の境目が解る地形も一部残存していた。
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近くに真田神社もあったので、合わせて御参りして来た。
特に説明書きは無く御祭神も素戔嗚尊のようだったので三浦一族と関連が有るか不明だが、或いは佐奈田義忠公在城時からの鎮守の御社だったのかもしれない。
ようやく義叔父の家に到着。
御土産を渡してさっさと退散するつもりが、夕食に及ばれして出発したのが19時過ぎに成ってしまった。
夜は下道で1時間程度で着く距離だったが、さすがに24時間以上寝てなかったので睡魔に襲われ自宅まで残り1kmまで帰って来たところでコンビニの駐車場に車を止め仮眠。
僅かな距離でも眠く成ったら寝ないと自己の元。
なかなか眠くならないから耐えれるが、一回眠く成ったらもう駄目だね。
なんだかんだ…
色々回れたけれど、今日、特に感動したのは最初の渋田川の芝桜と、弘法山の桜と富士山の共演の景色だった。
まぁ~中の上の休日に成った。
写真も沢山撮れたし良かった。

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