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タグ:祭り

ブログネタ
今年のゴールデンウィーク、楽しみましたか? に参加中!
小田原城と言うお城が神奈川県小田原市にあります。
2015年05月03日に小田原城址公園で「小田原北条五代祭り」が開催されましたので、小田原城の解説と御祭りを紹介する記事とを書きたいと思います! 
※写真は小田原城復興天守閣
(注:復興天守なので鉄筋コンクリート製)
上の写真の様(よう)な建造物を「お城」と思い込んでる人もいますが、それは大きな誤りですよ〜!
写真の様なの様にそそり立つ建造物を「矢倉(やぐら)」と呼び、司令所の役割を果たす「本丸(ほんまる)」と呼ばれる場所に立つ物は特に「天守閣」と呼びます。
小田原城は戦国時代には既に、まだ珍しかった天守閣が有ったそうです。
しかも!
現在の小田原城址公園は戦国時代の小田原城域の「ほんの一部分」でしかありません。
北条家が治めていた当時は石垣城より殺傷能力の高い岩盤や土を削り出して建造する自然地形を利用した城塞で、守ると言うよりトラップだらけの「攻め手を如何(いか)になぶり殺す罠にかけるか」に重点を置いた攻撃重視の施設群で構成されていました。
つまり戦国時代の小田原城は…
例えるならば「防御側スナイパーによる敵兵射殺を行いやすくする構造」と「敵兵が自滅して事故死する構造」が幾重にも設けられていた訳です。 

以前書いた「滝山城」と「小机城」と「茅ヶ崎城」の記事を見た方は御理解頂けますよね?
御参考までに…
⚫︎滝山城の記事→「ココ 」←クリック!
⚫︎小机城の記事→「ココ  」←クリック! 
⚫︎茅ヶ崎城記事→「ココ  」←クリック! 

戦国時代に圧倒的に不利な兵力差で何回も攻められても敵は城を落とせなかった訳ですが…
先ず認識して頂きたい事が一つ!
※1万を超えたら戦国時代では大軍です。
で、小田原城の堅城ぶりを示す具体例は以下の通り!
⚫︎VS上杉謙信&以下関東管領連合軍11万
 
北条家は11万超の大軍を有する上杉謙信から小田原城を1ヶ月守り通した上に、偽報を用いて関東管領軍の各大名の協調を崩し上杉謙信が撤退せざるを得ない状況を作り出し防衛に成功。
更に敵軍から失地回復に成功。
※上杉謙信関連の過去記事は以下
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⚫︎VS武田信玄2万
※昔よく見たアレは畠山義綱と近年判明。
※近年では武田信玄の肖像画としてよくコレ↓が使われてます。 
武田信玄は2万超の大軍で八王子の北条氏照公の守る滝山城を攻撃するも落とせず、鎌倉の北条氏繁公の守る玉縄城は包囲しても玉縄城の堅城ぶりから撤退、小田原城に侵攻するも小田原北条家当主の北条氏康公の守る本城小田原城も当然ながら落とせず撤退。
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⚫︎VS豊臣秀吉軍(九州除く日本全土)20万
 
豊臣秀吉は20万の大軍を動員し、小田原城を本拠地にする北条家攻略軍を発する。
殆どの支城が無血降伏する中、落城せず頑強に豊臣軍に抵抗した成田長親と成田甲斐姫の物語、映画「のぼうの城」の 舞台の北条家臣成田家の忍城や…
北条氏規(うじのり)公の守る韮山城の攻防も本城小田原城の戦い並みに有名。
忍城では豊臣方石田三成軍28000vs北条方成田家3000で成田勢が防衛に成功。
韮山城では更に凄く豊臣方40000vs北条氏規公勢たった300で攻撃側を翻弄し防衛に成功している。
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更に本城の小田原城では秀吉軍20万を迎撃し、功を焦り攻め込んだ秀吉軍を痛撃し長期戦に持ち込んだ。
しかし重臣松田憲秀(のりひで)が裏切り内応しようとする事件が発覚すると北条家側に動揺が万延し、ついに降伏。
ただし、長期の籠城戦中、城に攻め込もうとした敵勢は全て返り討ちにしている。
因(ちな)みに、この戦国期の小田原城の縄張(なわば)り=城域は下の写真の茶色の線で区切られた広大な範囲でした。 
小田原城域 縄張り図 

…凄まじい範囲でしょう? 
東側は太平洋時戦争時の軍艦:酒匂の名前にも成った酒匂川(さかわがわ)近く久野川、西側は箱根温泉から注ぐ早川の急流を大外堀に、更に旧城下町を取り囲む長大な土塁と総掘(そうぼり)がそっくり後北条家の首府小田原を取り囲んでいました。 
当時の城下町は戦災の続いた京都から多くの文化人や学者、医者、鍛冶や職人が移住してきており大変栄えていたので、上杉謙信や武田信玄の攻撃を経験した小田原を市街地ごとソックリ守る戦国時代最大級の城塞へと小田原城は変貌していたんです。 
ですので、室町時代に移住してきた薬屋の中に、元々天皇家に御仕えし足利家一門の名跡を頂いた「外郎(ういろう)家」さんもいました。その外郎さんが高貴な人に出す茶菓子として製造していたのが現在の菓子の「ういろう」なんですね。 
その歴史を示す証拠が、実は外郎家の建物の形状そのものなんです。 
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八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋…
御城の天守閣と見間違えそうな造りでしょう? 
室町時代当時は建物の外見も庶民には規制が有りました、この建物の造りは特に天皇家がその使用を外郎家に対し「祝儀」代わりに許した造りだそうです。 
ですので、戦火や火災や老朽化で建て替える度に天皇家から下賜(かし=プレゼント)された文化として建築様式を受け継いで外観を変える事無く現代に伝わるそうです。 
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本当に立派なつくりですね。 
上級武士でも、このような邸宅はなかなか持てなかったですからね。 

この外郎家が現代商品としている「お菓子ういろう」は元々天皇家にも献上するものなので、明治時代になるまで朝廷の命令で販売は禁止されていました… 
          が! 
…それを知らない某地都市では偽物が江戸時代に横行し、彼等はその偽ウイロを現在では特産品と言い張っています。 
しかしながら、本家は小田原の外郎と言うのは歴史的見地から裁判でも証明されています。 
そして、元々京都にいたので、小田原の外郎家が足利家一門の名跡を継いだ後に小田原に移住する際、弟に京都の外郎本家を継がせたので「京都のウイロウは元祖」とも言えます。 
更に外郎家は京都時代に当時の管領代大内氏とも親交が有ったはずなので、「山口市のウイロウも本物」と言えると思います。 
偽物のウイロウはどこのものか…宮内庁に外郎家と天皇家の歴史を問い合わせれば解ると思います。 
因みに外郎家の家紋とウイロウの商標に使われている家紋↓のこれ… 
image 

…外郎家が天皇家より下賜された「五七桐紋」です。 
明治時代以前、まだ家紋や苗字を全ての日本国民が自由に使ってはいけなかった時代、この皇家所縁(ゆかり)の桐紋はとてつもなく格式の高い家紋で、その家柄が高貴な事を表す家紋でした。 
実際、外郎家は足利家一門として扱われ、滅んだ「宇野家」の名跡を継いでおり北条家からも1800貫の知行地(ちぎょうち=領地)=を与えられ武士として扱われていました。 
1800貫がどれほど凄いかと言うと… 

1貫=4石 つまり 1800×4=7200石 
戦闘に参加しないにも関わらず7200石も領地を所有していたんです!  
江戸時代、1万石で大名として扱われました。 
北条家で外交の筆頭を司った「白備え隊副将」で小机城代の笠原信為(のぶため)公の動員可能兵力が700と言われています。         
1万石の動員可能兵力は凡(およ)そ兵300と言われています。 
つまり北条家筆頭家老で2万3千石程度… 
同じく外交副使や鎌倉再建の奉行を務めた「黄備え隊副将」間宮家でも動員兵力300未満、1万石未満… 

徳川幕府の忍者を統括した服部半蔵正成でさえ8000石程度です。 
つまり、今の会社に例えると、外郎家はその家格と実績で部長職以上、常務とか役員待遇だったと言える訳です。 
そんな外郎家のお菓子ウイロウでは無く、本業の薬のウイロウは江戸時代には有名な歌舞伎俳優がその薬効に感動し、喉の病が完治した御礼に「外郎売りの口上」と言う演目を演じて江戸っ子にも大人気に成りました。 

そんな「外郎家の「本物のお菓子のウイロウ」、是非、小田原北条五代祭りの御土産に、「小田原曽我梅の梅干し」と共にお勧めですよ! 
そんな凄い職人や町人を守る為に、戦国時代の小田原城は強大且つ鉄壁の城塞と成長した訳です。 

さて、そんな小田原の城下町を守った総掘りですが、戦国期の総掘りと同じ時期に作られた大空堀の堀切(ほりきり=山伝いに敵が進入できないように尾根を切った空堀)が今も一部のこっています。 
今の神奈川県立小田原高等学校に行くと、その付近が戦国期の本丸と推定されている地域なのですが、そこから北西に徒歩2分くらいの距離に、当時の大空堀の一部が現存しているので撮影してきた写真をご覧ください。 
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この写真、戦国期掘り底から撮影したものです。 
つまり上杉謙信や武田信玄が攻めた頃の堀切ですね。 
あまり写真だと深さが解りませんでしょうか? 
今でのその深さは浅い場所で8、深い場所で10m以上ありますので、当時は空堀の深さは13〜15m前後はあったはずです。 
更によくみると「障子掘り」といわれる横移動出来なくするための形状の遺構の様なウネリも少し残っています。 
写真の部分はS字型にクランクが効いていますね。 
右上は昔は何らかの郭だったのだと思います。 

深さが解る写真を見てみましょう。 
撮影当日、たまたま地元の子供が散歩していました。 
小学校高学年くらいでしょうか? 
この子供と左手の切岸(きりぎし=人工的に作った崖地)を比較すれば、その深さが解りますよね。 
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現在でこそ樹木がしげっていますが、当時は土が剥き出しの壁面で、戦時には堀底に「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする仕掛けが設置され、空堀に水をぶちまけて泥壁にし敵の進入が不可能な状態にしてしまう訳です。

この付近には案内看板も沢山あり、戦国時代の縄張り図も掲示されています。 
まず県立小田原高等学校のある辺りに行ってください。
そうすると、付近に下の案内看板があります。
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小峰の大堀切と言うのが戦国時代の大空堀残存部分です。
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で、小田原高校が現在地と書いてある位置で、戦国時代に本丸が置かれた辺りに近い重要な場所だったのが解りますね。
写真真ん中辺りの「本曲輪(ほんくるわ)」と言うのが、つまり江戸時代の御城で言う所の天守閣や殿様の御殿が置かれる本丸に当たる施設があった所です。
戦国時代の小田原城の位置関係を現在の小田原城の本丸と比較するとこんな感じ…
大空堀位置
今の本丸は戦国時代は本丸ではなく、戦国時代はもっと山の上にあったんですよ。
すっごく、スンゴク!巨大な城域だったんです!

そして、この巨大な城郭の出入口が「大手門」と呼ばれる城門や、「虎口(こぐち)」と呼ばれる裏口です。
実は間もなく宅地開発で消滅する、北条時代の小田原城の虎口の「百姓曲輪(ひゃくしょうくるわ)」と言う史跡が幸運にも2015年05月03日の小田原城址祭りの日に消失前最後の状態を観察してこれたので、その百姓曲輪の構造を参考に虎口を解説したいと思います。
※写真の赤字現在地」のすぐ上、「北条期虎口」と「百姓曲輪」と表記の部分です。
百姓曲輪は今、発掘調査中で調査後は跡形も無くなります。
小田原城は範囲が広大過ぎる為、八幡曲輪や今の城址公園部分以外は「調査→開発」は正常なルーチンなので止むを得ません。
確認してきました現状としては、既に更地化された部分の土砂崩れを防ぐ為に雨水の誘導溝が掘られてしまってます。
御近所の住人の方にも確認しましたが、空堀の発掘調査ではなく土建屋による土砂崩れ止めだそうで、遺構破壊ではありますが止むを得ないと思います。
樹木の無い裸の斜面を放置すると災害が起きますからね。
八幡山古郭にある小田原城縄張り図と、今日、百姓曲輪と虎口を自分で見てきた結果、予想する縄張りの構造は下の衛星写真に枠線で記してみました。
戦国期小田原城 百姓曲輪 虎口
ただ、既にこの雨水の誘導溝、城史跡に無知な土建屋は発掘調査中にも関わらず、百姓曲輪の「右側の張出し形状の曲輪」跡や帯曲輪と思われる部分に掘ってしまっています。
左側に至っては、既にだいぶ削られ原型は失われています。
ここ↓右側の張り出し構造
この百姓曲輪、戦国時代の詰めの小田原城本丸、八幡山古郭や本曲輪に攻め込もうとする敵軍を久野地区側から挟み撃ちにする位置に在ります。
ですので、此方(こちら)側の丘陵も嘗(かつ)て曲輪群が有りました。
百姓曲輪の頂上には当時の尾根伝いの土塁遺構と思われる地形と、その百姓曲輪虎口の出入口と思われる尾根伝い土塁の切れ目が残っていました。
それより重要そうな地形が百姓曲輪と土塁を挟んだ丘の反対側斜面の虎口に成る筈の場所にやはり残っていました。
城跡のセオリー通り、重要な登城口や曲輪の跡に在りがちな家臣や地元民の子孫が史跡を守る為に建てる小さな「御社(おやしろ)」を見つけたので…

その場所、人工的に横長の長方形に空堀と切岸で地面が削り込まれた地形でした。
現地写真だと垂直に地面が切り込まれているの分かりづらいでしょうか?
この↓部分です。
写真縄張り図の丁度中心部ですね。
ただ、小生の見た印象だと…
縄張り図のような土橋遺構の有るような地形では無く、寧ろ前面の切岸と側面の空堀状の地形から「角馬出し」の様に見えました。
「角馬出し」とは四角形の曲輪の両側が出入口に成っている出撃し易く守り易い防御施設の事です。
そこに柵列と門を当時は設けていました。
城門に突入しようとする敵は、城門の前の「角馬出し」と呼ばれる防御構造に陣取る守備側の狙撃手から容赦無く鉄砲や弓矢で射殺されてしまう訳です。
そんな構造が良く解るのが、この「百姓曲輪」なんですね。

場所は「八幡曲輪」と「本曲輪」の在った神奈川県立小田原高校東側の谷を挟んだ反対の丘、養林寺と慈眼寺の間の更地一帯です。

…上杉謙信が攻めた時代の小田原城に話を戻します。

アホのwikipediaで小田原城の項目を編集した人間は蓮池門を上杉謙信軍の太田資正に破られ落城寸前なんて阿呆な事を書いていますが、蓮池門なんぞ当時一番外側の門を一つ破られただけ、言い換えると引き込んで殲滅出来る状態な上に、その先に幾重もの曲輪と殺人トラップが設置されていた訳で、落城とは程遠い状態だった事が解ります。
ですから、蓮池門の前で上杉謙信はわざわざ北条勢に対し余裕を誇示するパフォーマンに弁当を食べたなんて演技じみた事をする必要があった訳で、いずれにしても戦国期、総掘りがまだない小田原城も城塞部分の縄張りは鉄壁だった事を示している訳です。
では、その蓮池門を今の小田原市と小田原城址公園を基準に衛星写真と縄張り図で比較して解り易く特定してみましょう!
【縄張り図】
蓮池門縄張り図
【衛星写真】
蓮池門航空写真
さて、位置関係は解って貰えたでしょうか?
これを踏まえて、上杉謙信が攻めた頃の戦国期の小田原城の予想範囲の全体像を再度みて下さい。
初期小田原城予想範囲図
この赤線の範囲を上杉謙信軍11万が包囲した初期小田原城域と見積もっても、たかだか蓮池門一つ突破されただけで落城云々言うのは「片腹痛いわ!」と、思わず言いたくなりませんか?
この範囲を初期の小田原城の範囲と小生が仮定した根拠は、じつはこの範囲が一つの尾根で繋がってる連結部分だからです。
航空写真で見たうえで実際に徒歩と車を併用して見て回った上での予想です。

この蓮池門跡は今現在、幸田門跡と名を変え商店街の中に存在しています。
現地には今でも蓮池門の曲輪跡の土塁が保存されています。
下写真↓この場所です…城跡には見えないでしょうか?
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現在でこそ水掘りは埋め立てられてしまっていますが、ちゃんと一部でも保存しようと言う小田原市民の気概が素晴らしいですね。

門跡の内側から外側の進入口だった商店街を見ると今は平和な風景が…
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そんな幸田門=蓮池門跡には城ファン以外の人にも城跡の一部分だと解るよう現地には看板もあります。

…心無い人に一部引き裂かれてしまっていますが、なんとか読めます。
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まぁ、しかし、小田原城で防戦指揮を執った名将の北条氏康公は、何とか軍神とも呼ばれた上杉謙信を撤退させる事に成功したとは言え北条家の支配地域の被害は甚大でした。
鬼畜の上杉謙信は北条家の小田原城と支城(しじょう=本拠地に付属する各地域の支配拠点の城)の城下町を焼き払い、至る所の神社や御寺や農家や商家を略奪して回り婦女子を奴隷として連れ去り売買したり、上杉謙信と、後に同じ事をする武田信玄の暴虐により農民がいなくなり廃村寸前になる村が沢山出てしまいました。
この反省を踏まえ、小田原城は安土桃山時代のには幾度の改修を加えられ茶線で囲まれた範囲に拡大され城下町ごと堀と土塁で取り囲む↓この範囲に成った訳です。
小田原城域 縄張り図
その改修過程で中期に、先述の「百姓曲輪」のある丘陵が外側の守りとして拡張された総構えに成っていたのだと思います。
百姓曲輪は出撃も出来る虎口「角馬出し」を有しつつ、別ルートから内側に侵入した敵を迎撃する構造のある郭が有り、更にその「角馬出し」と「百姓曲輪」の間に土塁で城門跡と思しき幅の出入口が設けられていましたからね。
恐らく上杉軍の「略奪」や「人取(ひとど)り=民間人の大量拉致」を経験し、農民を守る為に農民の収容先として想定されて造られたから名前に「百姓曲輪」の名残があるのでは?と、推測しています。
更に武田信玄による農村焼き討ちや略奪も経験し、最終形態の「総構え」に成ったのだと思います。

で、その総構えの外側の防衛施設「総掘り」の規模が先に紹介した戦国時代当時は深さ15m以上傾斜角度60度以上あったであろう「小峰の大堀切」と同規模かそれ以上のものだった訳です。
※一応、小峰の大堀切↓画像
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さてさて、では、ここからは皆さんが想像する「御城らしい御城」の部分、現在の小田原城址公園=江戸時代の小田原城復興史跡を見学する際の小生の御勧め見学ルートを辿りながら、構造を解説して行きたいと思います!
御勧めのルートは、まず最初に先ほど説明した「蓮池門=幸田門跡」を見学コースのスタートとしたルートです。
①幸田門跡
  ↓
②銅門(戦国~江戸時代の城門復興史跡)
  ↓
③馬屋曲輪
  ↓
④馬出曲輪
  ↓
⑤二の丸~本丸への進入口
  ↓
⑥本丸と本丸の売店(笑)
  ↓
⑦天守閣
  ↓
⑧御米曲輪
  ↓
⑨車の人は二の丸方面から三の丸へ抜けて退場、戦国時代の城域を見学したい人と電車の人は御米曲輪側裏口から退場。

※位置関係は↓コンナ感じ
小田原城見学

見学に際し気をつけて頂きたいのは…
JR小田原駅からだと裏門、小田原城址公園の市営駐車場からだと城正面の最近架橋された歴史の無い赤い橋から入場してしまいますので、遠回りでもまずは「幸田門跡」に行ってみて下さい!
さもないと昭和の高度経済成長期に破壊された殺風景な城らしくないただの公園を散歩しているような印象を受けかねません!

幸田門跡は既に解説したので改めて説明の必要はありませんね。
では幸田門跡~現在の小田原城址公園に歩いて行くと、そこは昔の三の丸の跡です。
そこでは、こんな風景が見えます…

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水掘りと石垣が見えますね。幸田門側から見たこの石垣側が昔の二の丸です。
そして、この端っこの一段高く造られた建物の土台の様な石垣は「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれる防御施設が有った遺構です。
この土台の上に、防衛側が鉄砲や弓の射撃手に敵を射殺させる為の防衛拠点が立っていました。
その建物は小さな天守閣の様な構造の物が多かったようです。

この隅櫓を横目に二の丸の水掘り沿いに進んで下さい。
そうすると下の「赤い橋」が見えてきます。
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注意!:絶対にこの橋から二の丸に入らないで下さい!
何故(なぜ)この橋を渡ってはいけないかと言うと、この橋は戦国代や江戸時代には存在しなかった偽物の建築物で、ここを渡っても御城らしい施設を見る事は出来ません!。
昭和の高度経済成長期、無知な当時の神奈川県行政は商業主義に走り史跡を破壊し、こう言った偽物の施設を史跡に沢山つくってしまったんです。
この橋を渡ると史跡を破壊し更地にした殺風景な広場があるだけです。

と、言う訳でこの「赤い橋」をスルーしてずんずん西側に進むと直ぐに江戸時代の城門を近年に復興した史跡が見えてきます。
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この漆喰塀の切れ目が見えたら、そこに江戸時代の城門があり、観光客もそこから城址公園に入場出来ます。
なお、この付近に下の看板があり、その「馬出門」と言う城門のと、「枡形虎口」と言う防御構造の解説が見れます。
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さっきの「赤い橋」じゃなくてこっち↓が本物の入口ですからね!
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ね?御城らしい風景に成って来たでしょう?
この「馬出し門」で見るべきポイントは2つあります。

一つは門を取り囲む城壁にある沢山の長方形と三角形の小窓。
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2つ目は馬出し門の最初の門を突破すると次の城門をぐるっと四角く取り囲む構造です。
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実はこの城門を四角く取り囲む城壁の構造が「枡形」と呼ばれる防御施設なんです。

滝山城の記事を書いた時にも触れましたが、「枡形」について改めて説明をさせて頂くと…
枡形と言うのは、城門を囲うように四方を壁で取り囲んだ施設で、進入してくる敵はその数を制限されてしまう上に、まさに防御側から見て攻撃側は「袋のネズミ」になり、防御側は城門を取り囲む枡形の城壁に設けられた射撃窓から雨あられと鉄砲玉と弓矢を射掛(いか)けて、侵入者を集団射殺してしまう恐ろしい構造です。
この枡形虎口は北条流の築城術の特徴です。
敵を引き込んで殲滅する、恐ろしい施設なんですね。

因みに、武田家は「丸馬出し」と言う構造を城門の前に多用していました。
※武田家最後の拠点「新府城」の縄張り図と丸馬出しの拡大図。
新府城
真田幸村(本名:信繁)が大阪城で徳川軍を散々に痛めつけた時に立て籠もっていた要塞「真田丸」も、この丸馬出しを巨大にした構造物でした。
北条流の枡形虎口が防御しながら敵を引き込んでなぶり殺し殲滅する」のに対し…
武田流の丸馬出しは敵を引き付けて、そこから全方位射撃を積極的に加える言うなれば相手をおびき出して集中砲火を加える「攻撃の為に敵をおびき出す」構造と言えます。
丸か四角かだけでも戦術が違うのが理解出来ますよね?

話を小田原城の「馬出し門の枡形」に戻します…

敵を引き込み袋叩きにするのが枡形な訳(わけ)ですが、その敵を射殺する為に防衛側がスナイパーを配置する馬出し門の入口を狙う位置に有るのが下の写真の射撃用の窓です。

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長方形の窓が弓矢用、三角形の窓が鉄砲用だそうです。
恐らく長方形は弓矢を突っ込む為に必要な形状で、細長い筒状の鉄砲は先を出せる三角形の小さい窓で十分なんでしょうね。

この射撃口は内側が広く外側が狭く角度がついているので、見た目以上に射撃可能な範囲が広く、且(か)つ敵からの攻撃を受けにくい構造になっています。
別の写真で角度別に三枚その射撃範囲を御見せしましょう。
※正面向き
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※左向き
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※右向き
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ね?
こんな小さい窓で結構広範囲を射撃出来るでしょう?
しかも正面なんか城門入って来た敵を狙い撃ちに出来る位置ですよね。
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よく考えられて作られていますよね~。
ちなみに、この復興城門は北条家の戦国時代の縄張(なわば)り=設計を、江戸時代に徳川家臣で後に小田原城主に成った大久保家が改修して今の姿に成ったと言われています。
恐らく戦国時代は土塁=土壁か土塁の上に設置した板塀や漆喰塀にこのような小窓が設けられていたんでしょう。
これらの馬出し門枡形防御構造の有る「馬出し曲輪」を突破すると、次に見えてくるのが馬屋曲輪です。
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今でこそ土塁は取り払われてしまっていますが、当時はこの馬屋曲輪を取り囲む様に高い土塁が張り巡(めぐ)らされおり、その上にさっきの馬出し門と同じ様な射撃用の小窓のついた塀が設けられており、更に角には隅櫓が設置されていました。
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下の写真を見ると当時の構造が良く解ります。
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この石垣が馬屋曲輪の隅櫓が有った土台なんですね。
ここから三の丸に侵入した敵を捕捉(ほそく)し、ここを守る武将が周囲の守備兵に対し作戦命令を指示する訳です。

馬出し門の右手には、いよいよ二の丸に侵入する敵兵を迎撃する小田原城で一番立派な城門「銅門(あかがねもん)」待ち構えています。
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銅門も見ての通り「枡形」構造に成っていますが、枡形銅門の最初の門の手前には「住吉橋」がかかり、水掘りによって敵兵が容易に城門にとりつけなくする意地悪(笑)な設計になっています。
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住吉橋の門の上の漆喰塀にも沢山の射撃口が見えますよね?
この狭い橋には槍を持った敵兵は2列か3列でしか突入できず、その3隊列の先頭の人間から順番に射殺されてしまう訳です…
怖いですよね。

銅門を内側から見ると下の写真みたいな構造に成っています。
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櫓門(やぐらもん)と呼ばれる構造で、この建物は倉庫の機能と守備兵を収容する機能があります。
守備兵はこの建物の床に設けられた小窓から、進入してくる敵兵に…
「加熱し沸騰させて煮えたぎった油や糞尿
…を浴びせかけて大火傷させたり、弓矢で攻撃したり石を叩き付けて敵を撲殺したりするんですね。
守備兵に攻撃された侵入者は臭いし熱いし大火傷して痛いし、後ろは味方の兵士がいて逃げ帰る事も出来ず身動き出来ないまま皮膚呼吸出来なくなり痛みにのた打ち回りながら酸欠死するかショック死するか…
いずれにしても悲惨な事に成る訳です。
因みにこの糞尿&油戦法、太平記の時代に赤坂城や千早城で足利尊氏公を苦戦させた有名な南朝方の忠臣の楠木正成(くすのきまさしげ)公が得意とした戦術でした。

さて、この銅門を突破すると、いよいよ江戸時代の本丸と天守閣が見えてきます。
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でも勿論(もちろん)、すんなり本丸に辿りつける訳は無く、その手前には常盤門と言う城門が待ち構えており、更に!そこに至る前に又、泥の堀と土橋を突破しなければいけませんでした。
下の写真は昔、本丸下の泥の堀が有った場所で、今は埋め立てられて観賞用の花が栽培されている畑に成っています。
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銅門を抜け二の丸~本丸に至る土橋を渡ると…
侵入しようとする敵に再び「枡形」構造のある城門が待ち構えています。
この門は常盤木門と言います。
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常盤木門も櫓門(やぐらもん)」と枡形とが一体になって設けられています。



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もう、ここまで攻め込んで来たら確実に蓮池門で先頭に立っていた兵士は生きていないだろうね…
幸い歴史上ここまで攻め込んで来れた攻撃者はいなかったので沢山兵士が死なずに済んだ訳ですが。
実は、戦国時代の御城の大半は戦争を経験していません。
小田原城でも城内で交戦が有ったのは、先述の上杉謙信&関東管領連合軍旗下の岩槻城主太田資正(おおたすけまさ)公が攻め込んだ蓮池門と三の丸までです。
豊臣秀吉軍は攻め込もうとした武将もいましたが城門を一つも突破する事すら出来ませんでした。

しかしながら…
豊臣秀吉の軍は強大で、小田原城攻め参陣武将は…
さながら戦国武将百科事典の様相(ようそう)を成していました。
その総兵力22万
対する北条軍は総兵力6万、籠城兵は3万とも…
衆寡敵せず勝てる筈は有りません。北条家が兵11000で古河公方軍兵80000に大勝した時とは異なり、相手は歴戦の織田軍の生え抜き。しかも名将揃い。


兵の多さ云々以前に羽柴勢(豊臣)に参陣している武将がとんでも無く凄い… 秀吉の小田原攻め布陣図
豊臣秀吉・豊臣秀次・羽柴秀勝・宇喜多秀家・加藤嘉明
徳川家康・酒井忠次・榊原康政・奥平信昌・大久保忠世
織田信雄・織田信包
蒲生氏郷・丹羽長重・池田輝政・細川忠興・堀秀政・九鬼嘉隆
毛利輝元・長宗我部元親
更に秀吉本隊には軍師黒田官兵衛や、加藤清正、福島正則等々…

この合戦、最大の敗因は確かに松田憲秀一族の内応は有りましたが、それ以前に北条氏政公が敵の戦力と先述と状況の分析を見誤った事にあります。

実は小田原征伐以前、北条家は過去上杉謙信の10万の軍から小田原城を守り切った事や武田信玄を撤退させた時と同じ様に、北条家のとった戦術は各地の支城(しじょう=地方拠点)の防備を強化し野戦を行わず徹底的に籠城させる作戦にでました…
その作戦は敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦です。
しかし!この豊臣秀吉は敵が経済的に優位で兵糧補給に事欠かず、しかも得意戦術は城攻めの際に敵城を包囲する陣城を構築し逆に籠城側を兵糧攻めにし戦意喪失させて離反者を増やし籠城不可能に陥らせる作戦なんです。
既に、戦術で逆転の目を潰されており完敗確定していたと言っても過言では有りません。
実はこの籠城戦術を強硬に主張したのが当時、北条家中で家老職に在り発言力の有った松田憲秀と、その息子なんですね。
彼等は当初、敵の戦力分析より過去の実績を盲信し、自分達の地位の保身の事を優先させたのでしょう。
しかし、この籠城には敗北しか無いんですよ。援軍も来なければ、敵軍の兵糧が枯渇し撤退する事も無いですからね。

以前との状況の違いを説明しましょう。
上杉謙信連合軍は参陣武将が寄り合い所帯の地方豪族ばかりで、個々の北条方が支城に戦力を分散させて籠城しても個々の豪族に北条家の支城を落とせるだけの戦力は有りませんでした。
この時の北条側の各支城の戦力は兵3000前後です。地方豪族の戦力もそれと同等でした。
しかし
豊臣秀吉軍は諸大名の連合軍を地方ごとに方面軍化し各大部隊が少なくとも2万以上の戦力を有していました。これは各方面軍がそれぞれ以前の武田信玄の最大動員数2万強に匹敵する戦力に成る訳で、その戦力でたかだか数千の支城を本気で攻めれば一般的には守りきるのは不可能に近い訳です。

しかも、以前と異なり、北条氏照公等各武将は小田原城に詰めてしまって居て、各支城は老兵や女子供ばかりな訳で普通にいけば秀吉の各方面軍には太刀打ち出来る要素が無いんですね。

もっとも…
こんな中で最後まで落城しなかった…
忍城  …成田長親公・成田甲斐姫3000vs石田三成軍20000⇒援軍到着後:石田三成軍50000
韮山城…北条氏規公300vs秀吉軍40000
この二城の戦果は通常ではあり得ない、防衛側の籠城成功からの北条家による開城命令で決着しました。
実は、この城以外の多くの城は戦わずに降伏してしまっていたんですね。
交戦した城は全て落城しています。八王子城や神奈川県相模原市の津久井城、伊豆の下田城、箱根の山中城、吉良家の世田谷区の世田谷城など、全て攻略されてしまいました。
落城した城の中で秀吉軍相手に健闘したのは、山中城の出城袋崎出丸で活躍した黄備え隊副将間宮康俊公の部隊200と、伊豆下田城に籠城した清水康英公の兵600くらいでした。
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上の写真は間宮康俊公が玉砕した際に活躍し名声を獲得した場所の山中城の衛星写真。

因みに強硬に小田原籠城を主張した松田憲秀は、言いだしっぺなのに息子と秀吉に内応(ないおう=うらぎり降伏する事)しようとして幽閉切腹処分されています。

この小田原城包囲に用いた攻城戦術において秀吉は既に「小寺家の御着城攻め」「別所家の播磨三木城攻め」「毛利家配下吉川経家の籠城した鳥取城」で成功実績を挙げていました

もし、北条家の執政者北条氏政公が、事前に秀吉の実績と周辺大名の外交情報をちゃんと分析していれば、この籠城作戦をとらず織田政権時代と同じ様に早期に傘下に入っていたでしょう。
寧(むし)ろ、何で織田信長公の勢力版図より広い領土を手中に治め、周辺有力大名を屈服させていた秀吉に交戦したのか小生には個人的に理解不可能なんです。
恐らく、全ての戦犯は北条家中で権力を牛耳(ぎゅうじ)っていた逆臣松田憲秀による政治判断の誤りでしょう。
しかし、北条氏政公の戦力分析と状況判断に誤りが有ったのは間違い有りません。

実は…
この北条氏政公の情報分析力の欠点を早くから見抜いていた人物がいました
…それが御父君で名君と名高かった北条氏康公です。
こんな逸話が現代に伝わっています。
ある日、合戦の陣中で北条氏康公と北条氏政公親子は食事を共にとりました。
戦時中の食事なので白米に味噌汁をかけて食べるだけの簡単な物です。
この"猫飯(ねこまんま)"を食べる際、氏政公はご飯に味噌汁を2杯かけたそうです
すると!
北条氏康公「将たる者、白飯にかける汁の分量なぞ1回で決めれずなんとするか!」と激怒したそうです。

皆さん、何で氏康公が怒ったのか、もう御判(わか)りですよね?
つまりこうです…
「御椀に入った飯の量」…敵兵の戦力
「飯にかける味噌汁の量」…投入するべき自軍の戦力
…この分量を見誤る様では、合戦で敵味方双方の分析を見誤り敗戦を招いてしまう訳ですね。

然(しか)して、氏康公没後、秀吉による小田原北条家への降伏勧告と討伐戦の両方で、北条氏政公は双方の勢力分析と戦術分析を誤り小田原北条家の滅亡を招いた訳です。

因みに小田原北条家は滅亡しましたが、北条家自体は存続している事を御存知無い方も多いので捕捉説明させて頂きますが…
実は!
韮山城で奮戦し防衛に成功した北条氏規公が秀吉に3万石で大名として復帰させられ北条家は江戸時代を生き抜き、明治時代まで大阪府狭山市の狭山藩として存続しました
狭山と言う地名は北条家の旧領武蔵国にもあり、何だか因果なものですね。
今も御子孫がちゃんと生きてらっしゃいます。

さて…
今日はここまで!

次回はいよいよ本丸の風景とにうつります!
が!
すみません!
前回、前々回と戦国期小田原城の写真ばかり撮影して天守閣に登る時間がありませんでした!
ですので、本丸の写真だけでは寂し過ぎるので、今年中にもう1回、箱根温泉にでも宿泊に行くついでに天守閣に登って写真撮影したら小田原城の記事を更新します!


小田原城の記事は又年内以内に! 

では又!次のブログ記事で御会いしましょう!

ブログネタ
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4月… 
この時期に成ると、学生時代に誰しも、桜並木の下の露店で買物をしたり、お好み焼きやタコ焼きを食べたりなんかして楽しみ…
或(ある)いは家族や親戚と桜の下にレジャーシートをしいて楽しくお弁当を囲んで花見を楽しんだ事を思い出すんじゃないでしょうか。
今日は2015/04/02…
この写真は一昨々年2012年の写真です。
「桜道」と呼ばれ、去年まで存在した横浜市内港南区の港南中央駅近く〜日野公園墓地の長い距離に渡って存在した桜並木です。
今の横浜市長の林文子さんの施政と統治の下、行政と土木事務所により主要部分の桜の大樹の並木は切り倒され桜並木の規模が縮小されて大木は多くが消されてしまいました。
今年はもう見る事が出来ません。
悲しく残念な出来事です。

しかし、まだ文化ある御寺や神社には保護された立派な桜も幾らか残ります。
そこで、横浜沿岸部周辺地域の桜の名所の今日4月2日時点の桜の開花状況をレポートします。

桜が東京〜横浜では概(おおむ)ね満開に成りましたが、所により今週末くらいまで御花見日和りみたいです🎶

下は4月5日に小机城址祭りが開かれる、JR横浜線小机駅近く小机城代の殿様、笠原家の菩提寺の雲松院の桜の大樹の今日の写真。
桜以外にも可愛らしい花が咲いていました。
相変わらず枝垂れ桜は立派。
…満開で散り始めてますが、城址祭りまで持ってくれそうですよ♫

因(ちな)みに、小机城址祭りは近所の三会寺から4月5日午前10時に武者行列パレードがスタートし小机城址を目指します。
三会寺の山門も桜に彩られていました。
三会寺は征夷大将軍源頼朝公が鎌倉の鬼門に当たる北の街道を押さえる地勢に位置する、この港北区鳥山地区に名将佐々木高綱公を配置しました。
三会寺は鬼門鎮守の為に高綱公が開基した御寺です。
ですから、御寺の屋根には源頼朝公の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」の使用が許され寺紋として掲げられています。

雲松院の枝垂れ桜と三会寺からスタートする小机城址祭り見学、週末おすすめですよ♫

次は港南区の永谷天満宮と貞昌院の参道の桜並木と、裏山の桜です。
永谷天満宮と貞昌院は南北朝時代〜戦国時代にこの地を治め、関東管領も務めた宅間上杉家の殿様が開いた天神様の神社と御寺です。
こちらの桜は八分咲き、週末見頃だと思います。
下の写真、永谷天満宮や貞昌院の裏山から正面に見える永野小学校一帯の丘が宅間上杉家の居城永野城の在った場所です。
宅間上杉家の殿様は、こちらから自分の御城を眺めたんでしょうかね〜?

次は神社仏閣ではありませんが、桜の名所の久良岐公園。
結構凄いでしょ?
ところで、昔、横浜市南部は久良岐郡と呼ばれた地域で神話の時代に軍神の日本武尊も訪れた聖蹟のある地域であり、源頼朝公も沢山の神社仏閣を開基した文化醸成地域でした。
いまでは久良岐の地名は、この久良岐公園に残るのみとなりました。
久良岐公園には市電も展示保存されています。
桜林はレジャーシート広げ宴会してる客も多いですが、遊歩道にも桜並木が有り、ゆっくり花見しながら散歩出来ますよ!
まだ九分咲き、週末まで持ちそうです。

最後は1番おすすめな称名寺の参道と庭園の桜並木。
こちらは八分咲きくらい。
週末見頃間違い無し♫
この赤門の向こうに桜のトンネルの参道が広がっているんです。
この茶屋の蕎麦は手打ちで美味い!

称名寺の参道綺麗でしょ?
鎌倉時代創建で、金沢文庫の地名に成った鎌倉幕府重鎮の金沢北条家の図書館が今では金沢文庫博物館として称名寺の隣りで運営されています。
仁王門の裏には称名寺の庭園が広がります。
亀さんが何時も甲羅干しししてますよ!
北条家の御寺だから寺紋も北条家の三つ鱗紋。
今週末はバザーらしいです。
花見しながら買物も良いですね〜♫
良い場所でしょ?

下は称名寺と金沢文庫を開いた鎌倉幕府の重鎮、金沢北条実時さん。
このトンネルで金沢文庫博物館と繋がっています。

さて、行きたい場所はありましたか?
では皆さん、良い週末を♫

又、次の記事でお逢いしましょう!

JR新横浜駅は新幹線が通る交通の要所で、その直ぐ裏手が旧街道なのを知る人は今では多く有りません。その旧道の他に第三京浜道路と言う自動車専用道路が通り、近くの神奈川区三枚橋町は江戸だ時代まで三枚田と呼ばれた地域で、古代の“店屋”と言う古代大和朝廷の駅伝制(伝馬制とも言う)の馬を交換する情報伝達網の中継基地が置かれた重要な地域でした。
そんな重要な地域を抑える城がJR横浜線小机駅の直ぐ隣の“小机城”と新横浜駅裏の篠原城(←クリックすると紹介記事にリンクします)でした。
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小机城は現代では竹灯籠祭りが行われる風流な竹林の城址に成っています。この小机城と篠原城は鶴見川の水運を守る位置に築かれとても重要な役割を果たした城でした。
室町時代の初期に恐らく扇谷上杉家により築城され、東京の石神井公園の場所に在った石神井城城主の豊島家の一族が籠城し、関東を代表する名軍師の太田道灌公と攻防戦が行われた事でも歴史ファンには有名な御城です。
太田道灌公
そして太田道灌公が内紛によって主君に暗殺されると扇谷上杉家が衰退し、そこに北条早雲こと伊勢盛時、改め入道(にゅうどう=出家する事)宗瑞(そうずい)公と跡継ぎの北条氏綱公が神奈川県東部まで侵攻して来て小机城は北条家の持ち城と成りました。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
この頃、明確な史料は現存しませんが所領や後の城主等を見ると状況的に初代の城主は北条早雲公の三男の北条幻庵公だった様です。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
太田道灌公や北条早雲公の生きた戦国時代初期には経済は一部輸入した中国貨幣と日本で産出される金銀の粒、そして直接商品を交換する物々交換によって経済が成立していましたが、鶴見川を使った水運の流通経済網に置ける重要地点だったんですね。
その小机城や篠原城の先には現在の六角橋商店街が有りますが、その直ぐ近所の久応山寶秀寺は古代の大伴久応とも大伴黒主とも呼ばれた日本武尊の与力豪族の邸址で日本武尊が滞在した伝承も伝わっていたりします。
更に、直ぐその横には神大寺と言う江戸時代の人が“城址”と間違える程に巨大な寺院跡が存在したのですが、その御寺の址に陣地を置いて太田道灌公が休息した伝承が現在も一帯には伝わっており昔は道灌森と呼ばれ緑豊かな場所でしたが、現在では農地開拓と戦後の農地改良でスッカリ削平地にされて何も遺構は残っていません。
ただ、神話の弥生時代後半~古墳時代には既に超重要な交通の要所だった事は神話と店屋の地名の伝承から伝わっている訳です。
もっとも、神話時代の少し前の縄文時代には鶴見川は小机城の辺りまで海で小机湾と呼ばれていたんですけどね。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
白い部分が縄文時代の鶴見湾と現代人に名付けられている海だった地域で、一帯は鎌倉時代初期に成っても古代海だった名残で湿地帯でした。
今では干拓され広大な平地と成り、小机城の近くには日韓共催サッカーワールドカップの決勝戦が行われた日産スタジアムも在ります。
交通の要所なので昔は湿地帯でしたが鎌倉時代には佐々木泰綱公が開拓を幕府に申請している事が記録に残っており、鎌倉幕府成立以前、源頼朝公による関東統治過程で重要な与力だった佐々木高綱公に一帯の土地が与えられていたりします。
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だから別のブログ記事でも触れた鎌倉時代の佐々木高綱公の館址の鳥山八幡宮も在ったり…
(高綱公の記事は「ココ」←クリック)
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新横浜駅裏には篠原城と言う御城の在った大豆戸町と言う地域が在ったりします。

以前、今月の2014年10月25日に行われる小机城址竹灯籠祭りの紹介ブログでも少し触れた「小机城」と言う戦国時代のお城が在ったり城址だらけなんです。
(竹灯籠祭りの記事は「ココ」←クリック)
これ↑は小机城現存部の復元縄張り図。
現在城址に在る看板は↓こちら。
看板を見て頂くと分かりやすいのですが、現在城址はJR横浜線と第三京浜高速道路に分断されています。
しかし!
複数の地権者の方々の郷土愛により現存部は守り抜かれ「非常に良好な状態で空堀や曲輪群が現存してる」んです!

その様子は本当に素晴らしいので、小机城の殿様の紹介を始める前に城址公園の写真を先に御覧頂こうと思います…

伝・本丸直下の空堀
この空堀、風化している現在でさえ高さ6m以上なので当時は堀底〜曲輪まで7〜8m、土塁を入れれば10m近い高低差が有ったはずです。

本丸に続く土橋

写真だと判り難いけど横堀と帯曲輪
小机城は素人でも土の城を理解出来る程に状態が良いのです。
石垣よりタチが悪く殺傷能力の高い、土を削りこんで作る関東流の城を一目瞭然理解出来ます。
石垣城はライフタイムが長いのですが、敵兵が登れてしまいます。
しかし
土塁と土の空堀の北条流の空堀は、戦時には堀底に大量の竹槍が設置され、更に水がブチまけれ壁面は泥と化し、屈強な武者や忍者も登れなくなります。
落ちれば竹槍に串刺しに成ってしまうんですね…。
怖い!痛い!エグい!

更に北条流の空堀を発展させたのが障子堀(しょうじぼり)と言う、その名前の通り和室の障子みたいに仕切りがついた空堀です。

これ↑ね。
この写真はネットから持って来た借り物ですが、伊豆山中城の障子堀です。
それぞれの凹みは深さが1m〜2m位あり、ここに戦時に水をブチまけ泥ドロにしてしまうと空堀に進入した敵は必ず穴に落ちます。
武者は総重量30kgの鎧兜や刀を装備しているので当然登れませんし、穴の狭さで逃げる事も出来ません。
その逃げる事が出来なく成っている敵を、防衛側は淡々(たんたん)と弓矢や鉄砲で射殺して行くんですね…。
北条流の空堀は凄く残虐で堅固な防御施設なんです。

実はこの北条流の空堀を、小田原城攻めで苦戦した豊臣秀吉も模倣し大坂城の総堀に採用していたんですよ。

さて、この小机城、古くは関東一の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公と豊島氏が1ヶ月に渡る攻防を繰り広げた舞台でもあるのですが…

小田原北条家の宿老で箱根の風魔忍者を管理した怪軍師北条幻庵公か御子息の北条時長公が城主を務めていたんです。

KOEIのゲームでは↑こんな頭デッカチに描かれてます(笑)。
この北条幻庵公は先程も話した通り、北条早雲公の三男で長生きしたので第三代小田原北条家の当主で名将名高い北条氏康公の時代に成っても活躍しており名軍師であり外交官としても歴史ファンには有名な方です。
文化人としても日本古来の神仏習合時代の伝統を守る宗教家としても教養高く当時から有名な方だったのですが、その教養の高さを示すのが衰退した室町幕府が本来行っていた武家としての儀式を鎌倉公方(くぼう=将軍)代を務めた蒔田(まいた)吉良家の吉良頼康公に北条家から姫が嫁(とつ)ぐ際に有職故実(ゆうそくこじつ=当時は失われかけていた武家の儀式)や人間関係の掌握方法や個々の人物毎での対応の仕方等を書付けアドバイスした“北条幻庵覚書”と言う古文書が今も残っており、室町時代の武士の生活を知る貴重な第一級資料として有名だったりします。
実は北条幻庵公は北条家の家臣団の中で最大の領地を有しており、“小田原衆所領役帳”とか“北条家所領役帳”とか色んな呼び方の有る古文書(小生は小田原所領役帳と言う名を採用している)によると合算して五千四百四拾弐貫百文の永代(子孫まで保証された)給与を貰っていました。
安土桃山時代の石高に換算すると1貫文=2石です。
北条幻庵公の所領=5442.1貫=10884.2石。これを収入にすると・・・
1石=米150㎏ 現代の米相場平均1㎏=400円前後。
10884.2石×150㎏×400円=年収653,052円(6億5千3百5万2千円)となります。
この1万石がどれ程凄い事かと言うと、初期の北条家が治めた相模国は1国で16万石しか有りませんでした。そして小田原所領役帳が編纂された1559年頃には武蔵国南部も支配地に組み込んでいましたが、武蔵国は1国で約67万石ざっくり半分で33.5万石です。
16万石+33.5万石=49万5千石が北条幻庵公や息子さんの北条時長公が城主だった当時の大凡(おおよそ)の北条家の総石高だと試算出来ます。
北条家も所領役帳に乗る幹部クラス社員や管理職社員だけでも、ここで書き込めない程大量の北条家の社員がいた訳ですが、そんな中で北条幻庵公の所領は実に広大だった事が解りますね。
では49.5万石の内の1万石もたった一人で領有してしまっている訳です。
現代の感覚では6億5千3百万の収入はカルロスゴーンさんが日産自動車の社長だった頃の年収に匹敵しますが、ただ、この1万石の収入で非正規の兵士も含めて戦時には兵士500人を集めないといけなかったので幹部でも決して豊かな状態とは言えないのが当時の武士でした。
しかし初期の北条家で所領以外にも本光院殿(所領役帳編纂時既に亡くなってる北条為昌公の戒名)衆の代理統率官を行っていたので、支配した勢力数は北条家中で相当な物が有りました。
この様に直臣では無くて本家の家臣を預かる武将を寄親(よりおや)と呼び、その部下に成る人を(寄子)と呼びますが、有名どころだけでも相当数の寄子が記録に残っています。
【小机衆】に関しては、本稿の最期の方で歴代城主と与力武将達の簡単な紹介を纏めて載せようと思います。きっと港北区や都筑区に住んでいる人は「おっ!」と思う地名が出てくると思います。
白備え隊の笠原信為公を小机城代として小机城近辺の武将で構成された軍団を率いた北条幻庵公は武人としても功績を挙げており、中でも河越合戦や国府台合戦での活躍が有名です。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
北条幻庵公は関東最強だった武将の北条綱成公と今の埼玉県川越市に在った河越城に援軍に赴き河越城主の大道寺盛昌公と合計3000の兵士と共に籠城します…
敵兵80,000を率いる関東管領上杉家と古河公方との合戦で半年間も防衛に成功した上、大逆転勝利に導いた名軍師でした。
8万対3千と絶望的な戦力差ですね。
・・・こんな兵力差の敵兵に囲まれて、小田原の主君北条氏康公との連携を可能にしたのが彼が管轄した「風魔忍者」とその首領「風魔小太郎」の存在でしょう。

KOEIでは↑こんな感じに描かれてる風魔の小太郎。
彼等忍者がいたからこそ、外部との連絡が取れ、また謀略に長けた北条幻庵公だからこそ軍略に長けた北条綱成公と共に河越への後詰(ごづ)めを任されたんでしょうね。
さて、いくら北条幻庵公が謀略に長けていても統率者として優れた副官がいないと軍は統制出来ません。
この小机城、実は平時は笠原信為と言う武将が城代を務めていたのですが…
実はこの笠原信為公も優れた武将で文化人でした。
戦国時代の北条家には五色備えと言う5色に色分けされた5つの主力部隊が存在しました。
その内、"白備え"を率いたのが北条幻庵公で、老齢の幻庵公の代官を務めていたのが城代の笠原信為公だったんですね。
更に里見家と正木家による鎌倉市街地と鶴岡八幡宮への乱入、掠奪、放火、破壊で鎌倉が壊滅した鶴岡八幡宮合戦の復興を統括し、北条家の敵対勢力である上杉家の協力まで取付け鶴岡八幡宮再建を成功させています。
この事業では同じく横浜の蒔田城主吉良頼康公や笹下城主間宮康俊公も活躍しています。
笠原信為公は血筋も由緒ある家系で、古代、律令制以前に存在した相武国(さがむこく:埼玉県東京都神奈川県全域を合わせた行政区域)を治めた相武国造(さがむのくにのみやつこ)の子孫に当たる方なんですが、武士として教養も高く和歌の名人として有名だったそうです。
彼は1557年没なので、丁度、河越合戦で白備えを指揮したのは彼だったはずです。
この信為公と小机城を顕彰する祭りが毎年春に行われています。
小机城址祭り
…と言うお祭りです。
白じゃないじゃん!赤じゃんか!
…なんて無粋なツッコミはしないだけてくだせぇな。
何せ、地域振興のボランティアだから皆。

横浜市港北区長が信為公に扮し、地域住民の方々が扮する白備え部隊を率いパレードや小机城にていくつかの演出もあります。
屋台も沢山出るので家族連れも楽しめるイベントです。
冒頭で触れた今月の竹灯籠祭りと合わせてオススメのレクリエーションです。
イベント抜きにしても、小机城は歴史好きな方にはオススメの場所です。
JR小机駅から徒歩10分もかからないので竹林に覆われた城址公園の遊歩道で、是非、一度お散歩されてみてはいかがでしょうか?
御祭りの様子を崩壊した過去記事へのリンクを以下に掲載して置きます。
※以下のタイトルをクリックすると記事へリンクします。



さて、最後に小机城の歴代城主と小田原所領役帳に掲載される白備え隊小机衆の主だった武将達を紹介して記事を〆たいと思います。

【歴代城主】
●北条 長綱公・・・入道号:幻庵宗哲。
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその家臣団も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。先述の通り、河越夜戦で白備え隊を率いて黄備え隊大将北条綱成公と黄備え隊副将間宮康俊公等と古河公方ー上杉連合軍8万の大軍を城兵3千で半年間の防衛に成功し、更に国府台合戦でも活躍した文武両道を地で行く武将だった。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・戒名:宝泉寺大年用公。
早世したので城主としての事績は詳(つまび)らかでは無い。
所領役帳には“三郎殿”と記されている人物。近年になり実名が時長と判明したが城主としての在任期間は短命の為に短かった。“新編相模風土記稿 足柄下郡の風祭村(小田原城下の東海道から箱根への入口) ”に在る宝泉寺の“開基北条時長”と書かれた文書の存在や、永禄三年(1560年)07月20日が命日と判明している事、同年に北条氏尭公が小机城主の座を継承している事の整合性から宝泉寺が菩提寺の北条時長公が三郎殿だと推定されている。
※風魔忍者の根拠地が風祭で箱根の山を熟知した集団と言われている。
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
永禄三年(1560)年に小机城址と成る前は平井城主だった。平井城は上杉謙信が相続した山内上杉家の本拠地だった事もある重要な城だった。武蔵国の防衛で活躍し、上杉謙信の関東侵略に際して河越城に援軍に赴き撃退に成功している武勇の持ち主だった。
伊達家との外交でも活躍していた事が古文書の存在によって明らかに成っている。
●北条 氏光公・・・北条氏康公の八男と言われるが確定されてはいない。
北条幻庵公の姫が正室(せいしつ=本妻)。元々は戸倉城主だった。
織田家の中部地方支配が本能寺の変で崩壊すると、羽柴秀吉の了解を得て甲府を制圧した徳川家康公が武田家最後の居城だた新府城(山梨県韮崎市)へ入城する。武田家と縁戚だった北条家も織田領へ侵攻し旧武田領を切り取り始める。新府の徳川家康公を挟撃殲滅するべく北条家第五代当主の北条氏直公の大軍は新府の北の若神子城(山梨県北杜市)に大軍着陣し徳川軍を引きつけ、別動隊として北条氏光公の小机衆と北条氏勝公の玉縄衆が富士山の東側を回り甲斐と駿河国境側から御坂城(標高1600m山梨県笛吹市)へ兵10000で着陣し挟撃の機会を伺った。しかし小山城(笛吹市)を兵3000で守備していた鳥居元忠公が北条家の動きを察知しており、統率者が若い小机衆と玉縄衆は急峻な山を下り黒駒の狭隘な谷間で鳥居元忠公の急襲を受け壊滅、殿軍(しんがり)を務めたと思われる玉縄衆の付家老である間宮家を継承していた間宮康信公が討ち死にする等大損害を受けた。
尚、間宮康信公は当時、父の間宮康俊公の跡を継ぎ笹下城(横浜市港南区)の城主に就いていたと思われるが武田信玄の存命中に駿河東部で当時の寄親である玉縄城主北条綱成公が深沢城(静岡県御殿場市)の守備も兼務したいた時代に、間宮康信公が率いる黄備え隊の分隊は武田軍を駆逐して追撃壊滅させる大活躍をしています。
代替わりした大将が実力不足だと河越城防衛で活躍した白備え隊も黄備え隊も軍団の実力を発揮出来なかった様です。
【歴代城代】
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。

【小机衆寄子】
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。
領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
●福田    ・・・領地は都筑区大熊町。
●高田 玄蕃助・・・領地は川崎市宮前区中部~西部一帯。

他にも小机衆は沢山居て切りが有りませんが主だった人達は又おいおい追記しようとおもいます。
どうですか?小机城と小机城に関わった人々、皆さんの地元が関わりの有る武将も多かったんじゃないでしょうか?
又、こんな感じで北条家の各軍団と皆さんの地元の御縁を紹介して行けたら良いなぁ~と思います。

では!、又この記事の小机衆の名簿更新と新しい別の記事で御会いしましょう!

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