前回この記事を書きました⤵

実はこの記事で富士山の景勝地として紹介した逗子市小坪の丘の中腹に有る小さな神社の名前が小坪の団塊世代~バブル世代の方々に話を聞いて回っても名前が解らなかったんですね。

この⤴神社です。
文献や古地図に記載が無い場合は今でも残っている伝承を自分の足と目と口と耳で拾い集めパズルのピースを完成させるしかなく、面識の無い色んな人に直に突撃取材する必要が有るんですよね。
秋葉神社と確認とるのに多くの人に協力して頂きました。
それで自分の古老や地主サンや郷土史詳しい人に力を貸して頂くのに・・・
「小坪の小さな神社について知りたいのですが」
「この地図の階段のくの字に曲がってる森に在る神社です」
「教えて下さい!」
・・・と全然知らない人の家をピンポンしたり昔から有りそうな商店とか御寺神社や方々の学芸員サンに頼んで質問する訳です。
こういう事は地元の団塊より更に御高齢の方々に聞く必要が有るのですが、小生がこのブログを書き始めて8年間で既に地元横浜の戦国時代の武将の事を聞いて回った先輩方も生きていても90歳以上で、ほぼ全員亡くなってしまいました。
当然ながら小坪漁港で超高齢者を探して聞いて回る訳にもいかず、逗子市の学芸員サンにも情報を貰ってもやはり文献に記載は無い事しか解りませんでした。
今回取り上げた小さな神社は、小生が調べ始めた当初は逗子市や地元に一番詳しい小坪漁港の職員の方にも協力して頂き調べてみましたが明確な事は解りませんでした。
小生も江戸時代の新編相模風土記稿や明治時代の地図を見る等の基本的な事は調べてみましたが現代小坪地域に残存している神社の名前以外に登場せず良く解らなかったんですね。
神奈川県神社庁にも属してない場所な上に小生が位置登録するまで名前が良く解らない神社として現代の小坪地区では無名に扱われていました。
しかし後日、相談した逗子市の学芸員サンから地元の歴史クラブが昔に発行した冊子の様な物が有る話を聞いて、どうやら新編相模風土記稿に掲載が無い❝秋葉神社❞が昔は有ったらしい話を教えて頂けました。
そして更に以前、参拝し御朱印を拝受した佛乗院の奥様に話を聞く機会が有りました。
佛乗院の檀家さん達の子供時代の話、つまり1920~40年代の話しで火伏の神様として小坪の小さな神社は信仰されていて昭和初期まで❝火の用心❞の防火巡回を子供や青年会が行う際に神社で御参りしていたと言うの聞いた事が有ると佛乗院の奥様が大正~昭和初期生まれ位の檀家サン達の思い出語りを覚えていらっしゃったんですね。
御寺の超高齢の檀家さんや亡くなった檀家さんの話と逗子市の学芸員サンが教えてくれた秋葉社名前から火伏(ひぶせ:防火)の御利益が整合性が有り全ての話に辻褄が合い総合すると、この小さな神社が秋葉神社だと解りました。


昔は小坪漁港にも子供や青年が沢山いて、この動画の様な光景が毎夜見る事が出来たんですね~!
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今では参拝者も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗ですので是非、目的は防火では無くなっても昔の様に多くの学生や若い世代に富士山と夕陽を見て貰って良い思い出と一緒に秋葉権現様の事も記憶に残してくれたら神様も喜ぶだろうな~と思います。

上の新編相模風土記稿の中の・・・
三浦郡巻之二 衣笠庄 小坪村 
秋葉神社の正体を調べる参考としては何の役にも立ちませんでしたが(笑)、新編相模風土記稿のこの項目には現在も小坪に残る神社が全て掲載されていました。
新編相模風土記稿三浦郡小坪村
・・・小坪村の歴史を大まかに遡(さかのぼ)る事が出来たので皆さんにも共有したいと思います。
下の記載は新編相模風土記稿に登場する小坪村の神社と管理してたと寺の話しで❝〇〇寺持ち❞と記載が有る場所は江戸時代までは神仏習合で神社で仏様を祀ったり御寺が神様を祀ったりしていたから所有者が❝〇〇持ち❞と説明で記載されていたんですね。
では先ず皆さんと一緒に風土記に登場する社寺の位置関係を見て行きましょう~!
小坪の社寺位置関係
上の画像は現在の衛星写真で見る地形と農研機構サンがGoogleEarthで提供してる明治政府の帝国陸軍が測量した明治初期の地形で迅速測図を見れるサービスを使い、登録した神社仏閣を表示して現代と明治初期を比較した物です。
埋め立てで全々地形が違うし、昔は天王濱と呼ばれた小坪海岸は岬の先端まで砂浜が広がっていた事が解りますね、現代では歩いて行けなくなった八大竜王様も昔は干潮時に歩いて御参りに行けたようです。
——各社寺の紹介と考察です——
海潮山 佛乘院 阿弥陀寺
本尊阿弥陀(如来)、諏訪社

佛乘院の御本尊は真言宗にも関わらず阿弥陀如来なのでもしかしたら記録は失せていますが地域性と信仰対象と宗派から源頼朝公か文覚上人が関与した可能性が有ると個人的に推測しています。
この阿弥陀如来像は逗子市の文化財指定を受けています。
佛乘院の諏訪社は大崎公園の手前に諏訪神社として現存していますから、どうやら大崎公園の山や披露山庭園住宅は元々は佛乘院の境内地だった様です。

神明宮

小坪村の鎮守 佛乘院持ち


西町、現在の小坪5丁目の神明宮は現在は神奈川県神社庁に属していない地域の共同管理である事が現地の方への取材で解りました。
現在、小坪地域の鎮守は天照大神社とされています。
天照大神社は今の兼務社の神職様の御話で昔から存在したとの事でした。
ただ宮司様の話を時系列無しに鵜呑みにすると、神明宮と天照大神社が2社同時に鎮守として存在した事に成ってしまい、鎮守として記載されいる天王社=須賀神社と神明宮2社が小坪村の鎮守である事と整合性が無くなるので実際の状況を時系列で問題が無いか整理したいと思います。
新編相模風土記稿三浦郡小坪村
新編相模風土記稿は天保十二年(1841年)の成立ですから、それ以前には天照大神社は存在せず幕末に御分霊が勧進されたと考えるのが自然でしょう。
天照大神社は記載が有りませんが、子ノ神社がしっかり掲載されており第六天社は記載が無い事から、第六天社と天照大神宮は幕末の動乱に伊勢神道が過熱したころか明治の初期に開かれたのではないでしょうか。
小坪5丁目(西町)の神明宮は先に存在した事が解ります。そして天王社=須賀神社も佛乘院持ちだった事が「下同じ」の記載から解ります。
取材した所、天照大神宮や神明宮ではなく子之神社の氏子さんから「元々は今は海岸沿いの子之神社は丘の上の天照大神宮と2つ並んで小さなな御宮が有った」と話を聞く事が出来ました。
つまり天保十二年(1841年)には存在しなかった天照大神宮は、その後に天照大神宮として存在したのは間違いないようです。
仮に1841年当時に既に子ノ神社の境内社として1841年には存在していたならば神社としては取り上げられない祠程度の物だったかも知れませんね。
対して現在では西町の神明宮は参詣すると明らかに鎌倉時代~室町時代の石祠や宝輪塔が無数に有り更に参道の路盤は昔の桟道状の切通し道から伸びていました。
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明らかに整備されている時代は古く当時の村の神社としては立派なものだった事が解りました。
記載の神明宮はこちらだと思います。
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明治時代に天皇家を頂点として近代化する際に英国の国家運営をもしたので神道もプロテスタントを模して国家神道が成立します。その段階で村の鎮守が神明宮から外され(神明宮は元来天照大神を祀るので鎮守の格を外すのは不適当)て天照大神宮が再整備され、天照大神宮と並んでいた子ノ神社も山を下され海岸に移動されたようです。
この段階で神明宮は西町の集落で地域の神社として小坪の住民の皆さんが自主的に運営する事に成ったので令和の現代に双方の分断が続いており双方の歴史が伝わらなく成ってしまった状況が有るのでしょう。
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西町の神明宮は明らかに鎌倉期~室町期の石祠や宝輪塔が無数にある状態からも近世位まで参拝者が多かった事が推測出来るのですが、何で西町の神明宮が昔は村の鎮守で参拝者が多かったかも現地を参拝すると直ぐ解りました。
小坪旧街道
上の画像を見ても解りますが、小坪の天王浜の埋立前の旧道は小坪村の鎌倉寄りの正覚寺前~海前寺前~神明宮参道前~小坪寺の前を経由する住吉城址の山腹に穿たれた桟道状の切通しで一段高い高潮の影響を受けない位置に存在しており、歴史的には古東海道と考えられています。
小坪旧道廃道
※クリックして拡大して見て下さい。
赤い線が現在は廃道に成っていますが昭和まで生活歩道として鎌倉に抜ける為に使われていた道で、これを見れば一目瞭然で神明宮の下を古街道が通っていた事が解りますね。
余談ですがこの桟道切通しで戦国時代に三浦家と北条家の大激戦が行われました。
住吉城の地形 久良岐のよし
ちょうど左手の豪邸の有る位置が迅速測図でも城のマークが入ってる住吉城の山です。
この城からの撤退戦が行われた事がワザワザ古文書を読まなくても新編相模風土記稿にも書かれています。
内容は原文を口語訳にするとコンナ感じ・・・
坂三
一ハ村北ニアリ名越坂或ハ名越切通ト云ウ
鎌倉郡大町村名越町ニ達ス故ニ此名ナリ登二町
一ハ廣尾坂村ノ中程ニアリ登六町
一ハ飯島ニアリ小坂ニテ切通ナリ元禄國圖ニ住吉切通ト載スル是ナリ永正九年三浦介義同北條早雲ノ爲ニ敗走シ三浦ヘ退去ノ時此切通ニテ支エ合戦セシトノ傳アリ尚下ノ城跡ノ條ニ併セ見ヘシ
此餘山間孔道四アリ是土民捷經ノ爲ニ穿ツ所ナリ高七八尺長七八間ヨリ十五間ニ至ル
土俗通矢倉ト呼フ
坂が3つあってさ
1つは小坪村の北に在(あ)る名越切通(なごえのきりとおし)って言うヤツな、鎌倉郡大町村~名越町に行けるから、この名前(名越切通)っつうのな、200m位登りだよ~。
1つは広尾坂村(披露山)の真ん中くらいにあって600m位登りだよ~。
1つは飯島にあるよ、小さな坂の切通しで元禄国図ってのには住吉切通って書かれてるのがコレな。
永正九年(1512年)三浦義同(よしあつ=三浦道寸公)が北条早雲公に負けて逃げる時にこの切通で戦って時間稼ぎしたって伝承が有るから、詳しい事は下のページの城跡ん所も一緒に見ろよな~。
この城山の間にトンネルが4つ有んだけど地元民が近道のために掘ったんだって。高さ2m~2.5mで長さは13m~14.5m~長いのは27mは有るよ。地元民は通矢倉(とおしやぐら)って呼んでる。
・・・この通り、神明宮側の参道前で十字交差してる道が海崖の側面に掘られた切通道だった事が書かれています。
では当時の切通の路盤は現在も旧道と一部は住宅道路として残っているので、明治初期に測量されてまだ幕末の地形が略残る迅速測図と比較してみましょう。
※下の衛星写真の黄線が住吉切通の路盤です。
住吉切通 久良岐のよし
道の形がそのまま残っているのが良く解りますね~。
この他にも新編相模風土記稿の小坪村のページには、この道が古東海道だった事も書かれています。

小生はこの古道の内容からも昔は栄えたのは現在の小坪の鎮守の天照大神宮ではなく神明宮の方だった事が地理からも一目瞭然だと思っています。
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神明宮の社殿の周囲には矢倉の痕跡が有ったので崩落が有り参道に石祠等が移動されていると思うのですが参道の石材の中の一つの宝篋印塔は鎌倉時代の武将の御墓と同時代の造りで部材が欠損している物なので、今では誰の御墓かも解らないし組み方も間違えられていますが、もしかしたら小坂光頼公の御墓が含まれているかもしれませんね。
もう一度小坪村の社寺の位置関係の地図で古道を見て見ましょう。
小坪の社寺位置関係
※クリックして拡大して下さい。
明治の道は切り通しを抜けると一之宮神社の前を通過し小坪小学校の西側から披露山住宅へ登って行き又逗子海岸の方へ道が下りて行きます。
この道ともう一筋の古道が迅速測図に黒く細い1本線で描かれており小坂天王社の前を通過~崖の山裾を経由~諏訪社へと登って行って行き披露山神社の方へ抜けて行きます。
この何れの道も現在の天照大神社の前を通過せず参道も記載されていないので鎮守ではなく子ノ神社がメインの神社だった事が地図から読めるかと思います。
子ノ神社は大黒天=出雲神と習合されたインド神話のシヴァ神なので伊勢信仰と天皇家を貴ぶ観点から境内に天照大神を祀る祠か小さな御社は有ったとしても不思議ではありませんね。
現代では神明宮は参拝者も少なく、天照大神社も崖の上で逗子マリーナに来た観光客も参拝に上がる人は少ないとは思いますが・・・
出来れば現在令和四年2,022年、未だ立派な社殿と雰囲気有る境内を維持している西町の神明宮が年末年始には昔の様に多くの参拝者で溢れる様に願います。
昔の様に小坪の由緒正しい鎮守の神社として神明宮を御祭りして大切にしないと町内の氏子サンがいくら大切にしても少子化で集落の今の世代がいなくなると小坪の歴史が途絶える事に成ると思います。
そして今の鎮守の天照大神社にも観光する皆さんが参拝に訪れる様に成れば良いなとも思います。

天王社(現:須賀神社?) 
疱瘡神社(現在所在不明:須賀神社or第六天神社?)

天王社は神明宮と同じく小坪村の鎮守と記載されています。
疱瘡神社は平維盛の子の六代御前を弔う為に旧暦六月二十六日に毎年小豆粥を炊いて御供えしたと記録が有ります。
天王社と疱瘡神社は御祭神が同じなので今の須賀神社に習合されているかも知れませんが、大六天神は神仏混交の日本独自の神様なので若(も)しかしたら、こちらが疱瘡神社かも知れません。
須賀神社の御祭神は一般的に素戔嗚(すさのおう)尊と子の五十猛(いそたける)神が御祭神ですが天王社と明治以前に言われた場所は牛頭天王が御祭神で明治以後に御祭神の名を変えられています。
よく天王町とか町に名前が残っていたり天王祭と呼ばれる多くの漁師船に大漁旗を掲げて出航したり御神輿を担いで海に入ったり、夜に船に篝火を掲げて海を照らす御祭りを行う地方が有りますが、それは明治政府の神仏習合に対する弾圧迄は牛頭天王社や祇園社や疱瘡神社と呼ばれた御社や御堂が有った場所ばかりです。
それ等の場所は明治以降は須賀神社、八坂神社、八雲神社、橘樹神社等に名を改めている場所が多く有ります。
小坪に関しては須賀神社が天王祭を引き継いでいるそうですが、疱瘡神社がここに合祀されているのかは不明です。
現代に疱瘡神社の名前が残ってない上に第六天神社も何時から存在するのか確認出来ず、第六天社=疱瘡神社の可能性も確認はできませんでした。

小坂天王社

江戸時代以前は社殿が有った。平安末~鎌倉時代には鎌倉御家人として有名な長江四朗義景公と当地の領主だった小坂太郎光頼公が崇敬した由緒正しい天王社だった事が記載されています。
長江義景公は軍神として中世の武士に崇拝された鎌倉景正公御子孫で、逗子に隣接する葉山町には邸址と矢倉(墓所)が有りました。しかし昭和の農地解放で義景大明神は廃社に追い込まれた話も別にいつか記事に書いて紹介したいと思います。

一ノ宮権現社(現:一ノ宮神社)

浅草の浅草寺から御分霊を頂いて開かれています。浅草寺は平安時代から存在するので小坪村の一之宮権現が開かれたのが何時(いつ)の時代かは解りません。

山神社(現在所在不明:披露山神社?)

披露山神社は披露山公園の入り口近くに存在しますが披露山庭園住宅建設で本来の住宅側の参道が破壊されてしまい参拝しにくい状況に成っています。
元は名主の高橋家の敷地内に初祀され稲荷神社だった云々・・・と社頭掲示に在りますが、この社頭掲示よりそれらしいものが新編相模風土記稿にシッカリ記載されてます。
稲荷社 康安ノ文書ニ小坪稲荷神田一段ト見ユ
山神社
普通に隣に併記されてるので、これが名主高橋家の敷地に在ったと社頭掲示されている物でしょう。
つまり名主高橋家の敷地に在ったのではなく、神社の在った場所に高橋家が屋敷を構えて頂けの可能性が有りますね。
実は社頭掲示では合祀されている様な説明ですが、元は地元の方が守っていたと言う稲荷社が佛乘院の飛び地にも存在しますので稲荷社の話は佛乘院に引き継がれている稲荷社だと思います。
仮に披露山神社の前身が稲荷社の宇賀神が主祭神ならば披露山稲荷となる筈です。
この稲荷社は普通に神田つまり神社用の田圃を与えられているので山の上に在る事は考えにくく、水の染み出る崖地の下か谷間や或いは井戸の有る場所の近くに神田が有った筈です。
披露山周辺
※クリックして拡大して下さい。
小坪村の中では上の現在の披露山神社の周辺には民家は明治14年時点で存在しません。
水田はやはり谷に在りますが、佛乘院の存在する西側の海岸沿いには井戸は有るものの砂地で水田は有りませんがで表示されている民家は無数に有ります。
北側の水田の辺りには集落が有ります。
高橋家は明治十四年(1881年)時点では披露山住宅の辺りに住んではいなかったようです。
翌年明治十五年(1882年)に小坪村の高橋家と久木村の松岡家の発願で21ヵ村、64人の代表出資者を募って現在の小坪(名越)トンネルが開かれていますので、小坪にこの時点でも住んでいたのは間違いない様です。
小坪隧道 名越側
横須賀方面から鎌倉市街に入るのに非常に便利の良い道は旧小坪村と旧久木村の名主の高橋家と松岡家の御蔭で開かれたんですね。
それまでは小坪村の北側内陸部の人は鎌倉の久木や大町方面に行く際はトンネルの上の名越切通しの尾根道を通って行くか遠回りの天王浜(鷺ヶ浦)側の住吉隧道の古道を通る必要が有りました。
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こんな⤴場所を鎌倉に売りに行く商材や旅の荷物持って通行するの下駄や草履の時代ですから雨の翌日とか最悪ですよね?輸送量自体が限定されて輸送コストもトンデモない事に成ります。
そりゃそうですよね、鎌倉を守る為に作られた敵の侵入を限定する為の防御施設ですから。
鎌倉城防衛網
なので当時の地形を再現するとこんな風に山の稜線に添って尾根が削平され、山腹を半トンネルにした切通しから尾根に出て又山を切通を通って下る道しか無い鎌倉時代の街道を徒歩で行くか船が主な交通手段でしたから、高橋さんも逗子と鎌倉との往来を簡単にして経済活性化を図る必要が有ったんでしょうね~。
こんなトンネルを掘れる名主ですから広大な敷地を持っているのが当然です。
敷地には山や畑も含まれたし他の分家や小作民の民家の敷地も高橋家の持物だった訳ですが地図からは披露山神社の前身の山神社と稲荷社がどこかは確認出来ません。
そこで先ずは神社がどの様に開かれるかを考える必要が有ります。
各地域に神社が祀られる理由は近代の国家神道の成立によって神社の祭祀様式が変わる以前は主に3つです。
①地形に関して災害避けや古代からの湧水地や奇岩等の聖地信仰が神社文化の成立過程で社殿が作らて、災害や地形に関する御祭神が祀られる。
[港湾と山稜]
白山権現=白山比咩神=伊弉弥神、大山祇大神=三嶋大明神=石山権現、牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、倭建と弟橘姫の夫婦神、八王子権現(牛頭天王の八人の子)=素戔嗚尊の子の五十猛(疱瘡治癒の神)、八幡大菩薩=応神天皇等、熊野権現。
[水上航行安全]
牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、八王子権現(牛頭天王の八人の子)=素戔嗚尊の子の五十猛(疱瘡治癒の神)、大山祇大神=三嶋大明神=石山権現、倭建と弟橘姫の夫婦神、住吉神=住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)、八幡大菩薩=応神天皇、金毘羅権現=ガンジス川の鰐(ワニ)=宮比羅大将=崇神天皇等。
[湧水地と治水]
牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、八幡大菩薩=応神天皇/弁財天)、宇賀神=御稲荷様=弁財天=インド神話のパールバティ(シヴァ神大黒天の妻神の水神で財神で芸能と勝利の女神)=市杵嶋姫(明治以後)、八大竜王=難陀竜王=インド神話のナーガ神(龍族の王=蛇水神)、熊野権現等。
②地域を治めた古代大和朝廷時代以前からの著名な豪族王~武士の戦没地や被葬地や屋敷跡や滞在地に、それらの著名な武将が神格化されて御祭神として祀られたり聖地化する。
神奈川県域
延喜式内社寒田神社 足柄上郡松田町
倭建が滞在し酒匂川の河川名由来に成った神事を行った場所。江戸時代の富士山の宝永噴火の際の火山灰堆積により酒匂川の土石流が発生し境内地の大部分が現在の酒匂川に削り取られ河川化してしまった。
八菅神社(八菅山七所権現) 愛甲郡愛川町
倭建の伝説が残る場所で明治以前は修験道の日本有数の大根拠地だった。ここから日向薬師大山寺大山阿夫利神社を参って最後には京都の石清水八幡宮を詣でるのが関東の修験道の修行の巡礼地に成っていた。
延喜式内社石楯尾神社 相模原市緑区
倭建が滞在し草薙剣と対に成る防具の天石楯(あまのいわだて)を埋めた場所。又、古代の豪族武将の坂上石楯が居館を構え滞在したと伝承する場所。
延喜式内社前鳥神社 平塚市四之宮
相模国四之宮で倭建が滞在したと伝承する場所、後に仁徳天皇の莵道稚郎子が居館を構えた場所、近くに巨大古墳が存在し発掘調査結果王族しか持ちえない道鏡や金属製鏃等が多数出土したが近年宅地開発で古墳は消滅し古墳の主の祟りを恐れて現代人によって古墳跡地の一角に神明神社が開かれた。
五社神社 綾瀬市早川
倭建が滞在したと言われ腰掛岩が有り、尾ノ井と呼ばれる明治時代まで神事を行った水源が残っている。行軍中の給水地点と思われる場所が聖地化。平安末期には近所の早川城を拠点にした渋谷重国公が五社神社を土地神として崇敬した。伊勢平氏の平清盛に弾圧されて相模国に逃げていた鎌倉御家人佐々木氏を擁護した人物が渋谷重国公で彼の飛び地の領地が東京の渋谷だったのでアチラにも渋谷の地名が残った。
腰掛神社 茅ヶ崎市芹沢
倭建が東征の際に立ち寄り休息した場所の一つ。この神社を含む神奈川県立茅ヶ崎里山公園の柳谷一帯は富士山の景勝地で現代でも関東の富士見百景の一つに選ばれている程。古代には街道筋は低地でなく山の尾根道や山腹の道だったので綾瀬市の五社神社延喜式内社宇都母知(うつもち)神社延喜式内社大庭神社旧蹟(熊野社)~逗子市小坪の住吉神社一帯の住吉城址披露山公園の一帯の披露山庭園住宅走水神社は古代東海道(上横山遺跡矢倉沢往還~三浦半島~房総半島)の経由地と考えられる。
御霊神社 坂東平氏と宇多源氏の氏族所領各地、
神奈川県域では坂東平氏系の神社が多く平良文公/葛原親王/平高望王/鎌倉景正公等が主に御祭神として祀られる。他にも宇多源氏系の祖先の敦実親王/間宮康俊公等を祀る場所も有る。
白旗神社 鎌倉御家人の所領各地
源頼朝公を御祭神とする神社で鎌倉市西御門地区の頼朝公の墓所に当たる法華堂跡の前に存在する白旗神社等が神奈川県内各所に在る。頼朝公の御家人だった武将達が自分の本拠地に勧進し崇敬した。
白幡神社 鎌倉御家人の所領各地
源頼朝公の御家人を御祭神にする所と、頼朝公を祀る場所が有る。
三浦半島~鎌倉市域で代表的な場所としては和田義盛公の本拠地だった初声和田の白旗神社等が有る。
③江戸時代に各武家の所領や江戸での屋敷地内に、各家の御祖先が住んでいた土地で祀っていた土地神様や自家の祖先神の氏神様を引越し先の自邸内に分霊して貰い祀る。
壺井八幡宮
鶴岡八幡宮の原型。源頼朝公の御先祖の源頼義公と義家公親子が河内国の壺井に住んでいた時代に義家公が元服式を行った石清水八幡宮から御分霊を戴いて壺井八幡宮を屋敷地に祀って以来の八幡信仰が河内源氏に伝統に成りました。以後、源頼義公は与力の大庭家の所領の茅ヶ崎市懐島に石清水八幡宮から御分霊を勧進して鶴嶺八幡宮(本元宮八幡)を開き⇒更にそこから鎌倉市材木座の由比若宮(元鶴岡八幡宮)を開き⇒源頼朝公が現在地の小林郷北山に由比若宮を遷宮し寺と社殿を併設した神仏習合の神宮寺として鶴岡八幡宮寺を開き⇒明治時代の神仏分離令で神宮寺部分を破却し撤去してしまい鶴岡八幡宮に有った立派な三重塔や門は姿を消して、名も鶴岡八幡宮寺から鶴岡八幡宮に改められ神社として再スタートしました。
源氏の御家人の居所や戦国時代には北条氏綱公の鶴岡八幡宮再建に関わった武将の根拠地にも本来の意味を離れて多く分祀されました。
佐々木神社
源頼朝公の御家人の宇多源氏の本拠地の近江国佐々木(安土町)の延喜式内社沙沙貴神社の御分霊。佐々木定綱公、経高公、高綱公、盛綱公の高名な4兄弟が鎌倉幕府設立の功臣として与えられた土地に一族を入植させていく段階で沙沙貴神社の御分霊を勧進して佐佐木神社御霊社を開いた場所が多く有る。
稲毛神社
 川崎市川崎区
川崎市川崎駅一帯を平安末期~鎌倉時代に領有した佐々木高綱公が源頼朝公の命で復興した神社。
堀之内の名が残る地域で元は佐々木家の城館が存在し戦国時代にも佐々木一族の間宮家が在城した地域の土地神様として信仰されたのだが、今では武士の城館後は城では無く夜の城に変わってしまいました。稲毛神社の社名の由来は秩父平氏で多摩郡稲毛庄の領主の川崎市多摩区の枡形城主稲毛氏が開いた山王権現の神社だったのですが廃仏毀釈の修験道と仏教弾圧の際に神仏分離令に山王権現の名が宜しくないとの事で神社を開いた平姓稲毛氏の治めた稲毛庄時代の地名から稲毛神社の名に改められた。
さて①~③の事例を見て頂きましたが・・・
この様な実例を踏まえて山神社と披露山神社の前身と佛乘院の関係を考える必要が有る。
新編相模風土記稿の山神社は地域的な事と総合すると社名が山神社なので大山祇大神(大山津見神/おおやまづみのかみ)か白山権現か熊野神社の御分霊の可能性が有ります、稲荷社は考えにくい。
小坪は古くからの港湾都市であり披露山は海上交通のランドマークの地形の山なので地域性から三嶋大社や大山阿夫利神社信仰の大山祇大神=山神社でしょう。
大山祇大神ならば別表記の大山津見神からも知られる通り「津=港」の守り神で葉山の森戸神社や伊勢原市の大山阿夫利神社の石山権現や伊豆の三島大社と同じ山の神であり海上交通の神様ですね。
また、この小坪から披露山庭園住宅に上がる道は東海道の前の旧東海道の更に前の古墳時代の古東海道が通っていた事で有名なので古代の尾根道の街道の登山口や分岐点に祀られる熊野社だった可能性もあります。熊野権現は逗子市域に山ノ根の名で祀られる場所も有ります。
純粋に山の神なら白山権現もよく山神社の名で祀られています。
どうやら披露山の御稲荷様としての説明はと佛乘院に引き継がれている稲荷様の事が社頭掲示に書かれているのではないでしょうか?
高橋家は名主=庄屋なので恐らく戦国時代の北条家臣で鎌倉公方代理吉良家の付家老だった高橋家の分家かも知れません。ただし戦国時代初期には江戸時代に名主に成り得る小坪の領主は北条傘下の三浦水軍の武将の石上弥次郎と言う事が北条所領役帳から解ります。
石上弥次郎
七捨八貫六百廿六文 小坪
弐捨弐貫文 御蔵出 此内五貫文引銭
以上
この記載が記載が有りますが、北条所領役帳は1520年~1555年と1559の間の小田原北条家臣団の給与地の記載なので、戦国時代も佳境に入り安土桃山時代に突入する頃の北条家臣団の配置を知る素材には成りません。しかも北条所領役帳は原本が残らず江戸時代の写しのみで更に所領の郡名もどうやら江戸時代の追記らしく写本毎に異なり統一性が無いので原本は「小坪」だけの様なピンポイント表記しか無かっただろうと小生は推測しています。
領地替えの話に関しては例えば所領役帳の中にも例えば歌手“ゆず”の地元の横浜市磯子区岡村は「関兵部丞」と言う人物の領地でしたが「岡郷買得」と記載が有る様に武士間でも領地の売買が行われていたり実は北条家は税率40%の善政だったので破産する家も有りました。具体例では鎌倉の玉縄城主だった北条綱成公の領地の1つに横浜市中区の本牧が有ったのですが、「五捨貫文 本牧之内橋本跡」と登場します。橋本サンは武士を辞めてしまった人らしく、当時は現代よりも広い領地単位の不動産取引が頻繁に行われたり主家の北条家の命令による領地替えも行われていた訳です。
なので名主高橋家は北条家が豊臣秀吉に降伏する頃に小坪村の領主だったので江戸時代に士分を捨てて名主に成る良く有るパターンだったのだと推察出来ます。
この小坪辺りには苗字が高橋の御分家の檀家が付近の御寺にも残っています。
まぁ石上家以前の源頼朝公の御家人で小坪領主だった小坂光頼公も既に室町時代には居なかった訳ですし、領地の所有者は頻繁に変わる訳ですね。
神社の社名や御祭神の変更についても近代に良く有る事でした。
実は神社の混乱は明治~昭和に良く有った事で例えば白旗神社の御祭神を事例をあげますと、神奈川県には江戸時代の記録にシッカリ「御祭神源頼朝」と記載が有るのに、討幕以降近代の反源氏ブームで義経が主人公に成り人気が出ると幕末~昭和初期に主祭神を「源義経」に変える場所も有ったりしました。逗子の近郷の有名な神社でも神仏分離令の煽りで例えば鎌倉市の十二所神社は元々は江戸時代まで名前は熊野神社で仏教時宗の一遍上人が改修して再興した光蝕寺の境内社でした。当然ながら神仏分離の際に神社の境内登記を寺院から分離させるか移転する必要が有って現在地に移転し、名前も十二所神社に改めらえていたりします。
大江広元公の屋敷の裏山(明石橋ミニストップの裏山)にあった大江家守護の大江稲荷神社ですら、廃仏毀釈で移転(おそらく一帯が元々光蝕寺の土地だった為)に御神体の御神像が光蝕寺に移され、大江稲荷も現在の辺鄙な場所に移されています。更には御神体は光蝕寺⇒真言宗の明王院へと現代に移されて所有権も移り大江稲荷の氏子サン達は明王院に御参りすると言う極々狭い地域内での遷移の実例もあります。
整理するとこう・・・
披露山神社の社頭掲示の説明
⇒佛乘院持ち稲荷社と混同?社頭掲示の稲荷社は佛乘院の持ちの話し?
新編相模風土記稿記載山神社
⇒披露山神社?山神社の消息不明なので披露山神社が社名からも比定されるべき。
恐らく披露山神社の社頭掲示は本来は佛乘院に管理が移っている稲荷社の話で、山神社が披露山神社ではないかと思います。
全て推測の範疇を出ませんが旧名主高橋家の所有する敷地内に両方の神社を祀っていた事が社頭掲示の話に成っているので、そもそもの山神社が高橋家の敷地に存在した話と幕末に伏見稲荷を勧進して開いた稲荷社の話で混乱を生んでるのではないでしょうか?
※高橋家の場所については引き続き要調査。
今回の記事で要調査の部分は引き続き折を見て地元の方に取材して行きたいと思います。

子ノ神社(ねのじんじゃ)

今も逗子マリーナの入口に健在です。
康安年間1361~1362年には小坪❝根神社❞として神田を所有していた記録が残るので南北朝時代以前の鎌倉時代には既に存在していた可能性が有ります。
現地で氏子サンに話しを聞いたところ御祭神は神様では無く「大黒天」らしい、との事ですがハッキリしないみたいです。新編相模風土記稿にも御祭神の記載は有りませんでした。
神奈川県には子之神社が数ヶ所有りますが全て出雲神族の大国主関連です。
足柄下郡湯河原・・・大己貴神(=大国主神)、子守大神。
足柄上郡山北 ・・・大己貴神(=大国主神)
横須賀市汐入 ・・・大己貴神(=大国主神)
横浜市戸塚区 ・・・不明
横浜市南区  ・・・大国主神
横浜市青葉区 ・・・大国主神
川崎市多摩区 ・・・大国主神
明治政府によって国家神道が成立する以前、大黒天様は大国主と習合されて信仰していました。
状況的には厳島神社が元々は弁財天と呼ばれていた様に江戸時代までの御祭神は大黒天の名で呼ばれた場所の方が多かったかも知れません。
小坪は逗子海岸の近くに徳川家の別邸が出来たり著名人が住んだ事で逆に景観破壊や旧来の文化破壊がされず国家神道の弾圧の影響を受けなかったので旧来の大黒天様と御祭神が伝わっている様です。
小坪寺の御住職に伺った所、子之神社は元々は山の上の天照大神宮と2つ並んで小さな御社が有ったそうです。それが明治以後に天照大神宮と分離して子之神社だけ山の下に下ろされたそうです。
これは推測するに天皇家の祖先神として明治政府の伊勢神道の発想で天照大神宮の神社として拡張整備する際に子之神社の敷地が確保出来なかったのではないでしょうか?
先程列挙した県内各地の子之神社の立地は全て切り立った崖の上なので、本来祀られるべき地形は海岸沿いの現在地では無く元の天照大神社の場所である事が解ります。

白髭社(現:白髭神社)

白髭明神と呼ばれる猿田彦の神を祀る神社です。
今は存在すら知る人も少なく石祠だけが逗子マリーナ横の小坪飯島公園と由比ヶ浜材木座海岸の和賀江島の間に存在しています。

昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。

それについては⤴この記事の秋葉神社と大崎公園の解説の【歴史】の部分で征夷大将軍の源実朝公と小坪と逗子市の史話を紹介していますので御興味の有る方は上のリンクから記事を御覧下さい!
逗子マリーナの景色⤵の紹介も合わせてどうぞ~♪

さて、今回は綺麗な景色の紹介を書く段階でこれらの事を知る事が出来たのと、また古い文化や郷里の歴史を伝えて下さっている方と面識を持ててうれしかったです。
皆さんも、是非、綺麗なリビエラ逗子マリーナ散歩と、小坪漁港の漁村の名残の秋葉神社辺りのオシャレな日本家屋のカフェに御茶しに行って、秋葉神社から富士山と相模湾の夕焼の景色を見て見ませんか~?

そして、きっと皆さんの家の御近所にも実は凄い歴史偉人と関わりの有った神社仏閣や城址の森や山や公園が有るかも知れません、ちょっと御近所の神社や御寺を散歩して看板の説明を読んでみませんか?

では又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪