歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:笠原信為

新横浜の日産スタジアムの近く、JR小机駅の側に在(あ)る小机城址で今年も竹灯籠祭りが開かれるよ〜!
記事の中で沢山、以前の竹灯籠祭りの写真を紹介したいと思います。
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小机城址(続日本100名城の一つ)
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JR新横浜駅は新幹線が通る交通の要所で、その直ぐ裏手が旧街道なのを知る人は今では多く有りません。その旧道の他に第三京浜道路と言う自動車専用道路が通り、近くの神奈川区三枚橋町は江戸だ時代まで三枚田と呼ばれた地域で、古代の“店屋”と言う古代大和朝廷の駅伝制(伝馬制とも言う)の馬を交換する情報伝達網の中継基地が置かれた重要な地域でした。
そんな重要な地域を抑える城がJR横浜線小机駅の直ぐ隣の“小机城”と新横浜駅裏に存在した篠原城でした。

篠原城については以前、別に記事にしているので御興味有る方は上のリンクをクリックして記事を御覧下さい♪

さて、今回紹介する小机城ですが・・・
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小机城は現代では竹灯籠祭りが行われる風流な竹林の城址に成っています。この小机城と篠原城は鶴見川の水運を守る位置に築かれとても重要な役割を果たした城でした。
室町時代の初期に恐らく扇谷上杉家により築城され、東京の石神井公園の場所に在った石神井城城主の豊島家の一族が籠城し、関東を代表する名軍師の太田道灌公と攻防戦が行われた事でも歴史ファンには有名な御城です。
太田道灌公
・・・そして太田道灌公が内紛によって主君に暗殺されると扇谷上杉家が衰退し、そこに北条早雲こと伊勢盛時、改め入道(にゅうどう=出家する事)宗瑞(そうずい)公と跡継ぎの北条氏綱公が神奈川県東部まで侵攻して来て小机城は北条家の持ち城と成りました。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
この頃、明確な史料は現存しませんが所領や後の城主等を見ると状況的に初代の城主は北条早雲公の三男の北条幻庵公だった様です。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
太田道灌公や北条早雲公の生きた戦国時代初期には経済は一部輸入した中国貨幣と日本で産出される金銀の粒、そして直接商品を交換する物々交換によって経済が成立していましたが、鶴見川を使った水運の流通経済網に置ける重要地点だったんですね。
その小机城や篠原城の先には現在の六角橋商店街が有りますが、その直ぐ近所の久応山寶秀寺は古代の大伴久応とも大伴黒主とも呼ばれた日本武尊の与力豪族の邸址で日本武尊が滞在した伝承も伝わっていたりします。
更に、直ぐその横には神大寺と言う江戸時代の人が“城址”と間違える程に巨大な寺院跡が存在したのですが、その御寺の址に陣地を置いて太田道灌公が休息した伝承が現在も一帯には伝わっており昔は道灌森と呼ばれ緑豊かな場所でしたが、現在では農地開拓と戦後の農地改良でスッカリ削平地にされて何も遺構は残っていません。
ただ、神話の弥生時代後半~古墳時代には既に超重要な交通の要所だった事は神話と店屋の地名の伝承から伝わっている訳です。
もっとも、神話時代の少し前の縄文時代には鶴見川は小机城の辺りまで海で考古学的には鶴見湾と呼ばれています。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
白い部分が縄文時代の鶴見湾と現代人に名付けられている海だった地域で、一帯は鎌倉時代初期に成っても古代海だった名残で湿地帯でした。
今では干拓され広大な平地と成り、小机城の近くには日韓共催サッカーワールドカップの決勝戦が行われた日産スタジアムも在ります。
交通の要所なので昔は湿地帯でしたが鎌倉時代には佐々木泰綱公が開拓を幕府に申請している事が記録に残っており、鎌倉幕府成立以前、源頼朝公による関東統治過程で重要な与力だった佐々木高綱公に一帯の土地が与えられていたりします。


だから別のブログ記事でも触れた鎌倉時代の佐々木高綱公の館址の鳥山八幡宮も在ったり…
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新横浜駅裏には篠原城と言う御城の在った大豆戸町と言う地域が在ったりします。

以前、に行われる小机城址竹灯籠祭りの紹介ブログでも少し触れた「小机城」と言う戦国時代のお城が在ったり城址だらけなんです。
これ↴は小机城現存部の復元縄張り図。

現在城址に在る看板は↓こちら。
看板を見て頂くと分かりやすいのですが、現在城址はJR横浜線と第三京浜高速道路に分断されています。
しかし!
複数の地権者の方々の郷土愛により現存部は守り抜かれ「非常に良好な状態で空堀や曲輪群が現存してる」んです!


その様子は本当に素晴らしいので、小机城の殿様の紹介を始める前に城址公園の写真を先に御覧頂こうと思います…


伝・本丸直下の空堀
この空堀、風化している現在でさえ高さ6m以上なので当時は堀底〜曲輪まで7〜8m、土塁を入れれば10m近い高低差が有ったはずです。


本丸に続く土橋


写真だと判り難いけど横堀と帯曲輪
小机城は素人でも土の城を理解出来る程に状態が良いのです。
石垣よりタチが悪く殺傷能力の高い、土を削りこんで作る関東流の城を一目瞭然理解出来ます。
石垣城はライフタイムが長いのですが、敵兵が登れてしまいます。
しかし
土塁と土の空堀の北条流の空堀は、戦時には堀底に大量の竹槍が設置され、更に水がブチまけれ壁面は泥と化し、屈強な武者や忍者も登れなくなります。
落ちれば竹槍に串刺しに成ってしまうんですね…。
怖い!痛い!エグい!


更に北条流の空堀を発展させたのが障子堀(しょうじぼり)と言う、その名前の通り和室の障子みたいに仕切りがついた空堀です。
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これ↑ね。
これは伊豆山中城の障子堀です。
山中城は横浜の戦国武将で名将北条綱成公の副将だった間宮康俊公が籠城し、豊臣の大軍80000を間宮勢200で迎撃した場所です。
豊臣方の大名を道連れにして豊臣軍死者3000の大損害を与えました。
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それぞれの凹みは深さが当時は2m以上で堀の底から5m位上に曲輪(くるわ)と呼ばれる防御陣地が障子堀の上に有り、更に曲輪の上に土塁と言う高さ2m位土壁が有りました。
ここの空堀は当時は関東ローム層の赤土剥き出しで戦時に水をブチまけ泥ドロにしてしまうと空堀に進入した敵は必ず穴に落ちます。
武者は総重量30kgの鎧兜や刀を装備しているので当然登れませんし、穴の狭さで逃げる事も出来ません。
その逃げる事が出来なく成っている敵を、防衛側は淡々(たんたん)と弓矢や鉄砲で射殺して行くんですね…。
北条流の空堀は凄く残虐で堅固な防御施設なんです。
関東の戦国時代の城が石垣城では無い理由は関東ローム層を活用した方が石垣を組むより“殺傷力の高い要塞”を作る事が出来たからなんですね。

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写真は戦国時代の小田原城遺構の“小峯の大堀切”です。風化した今でも深さ8m程度有りますが、当時は堀は更に深く曲輪に土塁が巡らされていて堀底から上まで10m超の深さが有りました。
更にこの様な大規模な空堀と水堀で小田原城は町ごと囲まれていて“総構(そうがま)え”と呼ばれ堅固で、豊臣軍20万は小田原城の北条軍3万に手も足も出ませんでした。
実はこの北条流の空堀を、小田原城攻めで苦戦した豊臣秀吉も模倣し大坂城の総堀に採用していたんですよ。


さて、この小机城、古くは関東一の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公と豊島氏が1ヶ月に渡る攻防を繰り広げた舞台でもあるのですが…


小田原北条家の宿老で箱根の風魔忍者を管理した怪軍師北条幻庵公か御子息の北条時長公が城主を務めていたんです。


KOEIのゲームでは↑こんな頭デッカチに描かれてます(笑)。
この北条幻庵公は先程も話した通り、北条早雲公の三男で長生きしたので第三代小田原北条家の当主で名将名高い北条氏康公の時代に成っても活躍しており名軍師であり外交官としても歴史ファンには有名な方です。
文化人としても日本古来の神仏習合時代の伝統を守る宗教家としても教養高く当時から有名な方だったのですが、その教養の高さを示すのが衰退した室町幕府が本来行っていた武家としての儀式を鎌倉公方(くぼう=将軍)代を務めた蒔田(まいた)吉良家の吉良頼康公に北条家から姫が嫁(とつ)ぐ際に有職故実(ゆうそくこじつ=当時は失われかけていた武家の儀式)や人間関係の掌握方法や個々の人物毎での対応の仕方等を書付けアドバイスした“北条幻庵覚書”と言う古文書が今も残っており、室町時代の武士の生活を知る貴重な第一級資料として有名だったりします。
実は北条幻庵公は北条家の家臣団の中で最大の領地を有しており、“小田原衆所領役帳”とか“北条家所領役帳”とか色んな呼び方の有る古文書(小生は小田原所領役帳と言う名を採用している)によると合算して五千四百四拾弐貫百文の永代(子孫まで保証された)給与を貰っていました。
安土桃山時代の石高に換算すると1貫文=2石です。
北条幻庵公の所領=5442.1貫=10884.2石。これを収入にすると・・・
1石=米150㎏ 現代の米相場平均1㎏=400円前後。
10884.2石×150㎏×400円=年収653,052円(6億5千3百5万2千円)となります。
この1万石がどれ程凄い事かと言うと、初期の北条家が治めた相模国は1国で16万石しか有りませんでした。そして小田原所領役帳が編纂された1559年頃には武蔵国南部も支配地に組み込んでいましたが、武蔵国は1国で約67万石ざっくり半分で33.5万石です。
16万石+33.5万石=49万5千石が北条幻庵公や息子さんの北条時長公が城主だった当時の大凡(おおよそ)の北条家の総石高だと試算出来ます。
北条家も所領役帳に乗る幹部クラス社員や管理職社員だけでも、ここで書き込めない程大量の北条家の社員がいた訳ですが、そんな中で北条幻庵公の所領は実に広大だった事が解りますね。
では49.5万石の内の1万石もたった一人で領有してしまっている訳です。
現代の感覚では6億5千3百万の収入はカルロスゴーンさんが日産自動車の社長だった頃の年収に匹敵しますが、ただ、この1万石の収入で非正規の兵士も含めて戦時には兵士500人を集めないといけなかったので幹部でも決して豊かな状態とは言えないのが当時の武士でした。
しかし初期の北条家で所領以外にも本光院殿(所領役帳編纂時既に亡くなってる北条為昌公の戒名)衆の代理統率官を行っていたので、支配した勢力数は北条家中で相当な物が有りました。
この様に直臣では無くて本家の家臣を預かる武将を寄親(よりおや)と呼び、その部下に成る人を(寄子)と呼びますが、有名どころだけでも相当数の寄子が記録に残っています。
【小机衆】に関しては、本稿の最期の方で歴代城主と与力武将達の簡単な紹介を纏めて載せようと思います。きっと港北区や都筑区に住んでいる人は「おっ!」と思う地名が出てくると思います。
白備え隊の笠原信為公を小机城代として小机城近辺の武将で構成された軍団を率いた北条幻庵公は武人としても功績を挙げており、中でも河越合戦や国府台合戦での活躍が有名です。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成

北条幻庵公は関東最強だった武将の北条綱成公と今の埼玉県川越市に在った河越城に援軍に赴き河越城主の大道寺盛昌公と合計3000の兵士と共に籠城します…
敵兵80,000を率いる関東管領上杉家と古河公方との合戦で半年間も防衛に成功した上、大逆転勝利に導いた名軍師でした。
8万対3千と絶望的な戦力差ですね。
・・・こんな兵力差の敵兵に囲まれて、小田原の主君北条氏康公との連携を可能にしたのが彼が管轄した「風魔忍者」とその首領「風魔小太郎」の存在でしょう。


KOEIでは↑こんな感じに描かれてる風魔の小太郎。
彼等忍者がいたからこそ、外部との連絡が取れ、また謀略に長けた北条幻庵公だからこそ軍略に長けた北条綱成公と共に河越への後詰(ごづ)めを任されたんでしょうね。
さて、いくら北条幻庵公が謀略に長けていても統率者として優れた副官がいないと軍は統制出来ません。
この小机城、実は平時は笠原信為と言う武将が城代を務めていたのですが…
実はこの笠原信為公も優れた武将で文化人でした。
戦国時代の北条家には五色備えと言う5色に色分けされた5つの主力部隊が存在しました。
その内、"白備え"を率いたのが北条幻庵公で、老齢の幻庵公の代官を務めていたのが城代の笠原信為公だったんですね。
更に里見家と正木家による鎌倉市街地と鶴岡八幡宮への乱入、掠奪、放火、破壊で鎌倉が壊滅した鶴岡八幡宮合戦の復興を統括し、北条家の敵対勢力である上杉家の協力まで取付け鶴岡八幡宮再建を成功させています。

この事業では同じく横浜の蒔田城主吉良頼康公や笹下城主間宮康俊公も活躍しています。
笠原信為公は血筋も由緒ある家系で、古代、律令制以前に存在した相武国(さがむこく:埼玉県東京都神奈川県全域を合わせた行政区域)を治めた相武国造(さがむのくにのみやつこ)の子孫に当たる方なんですが、武士として教養も高く和歌の名人として有名だったそうです。
彼は1557年没なので、丁度、河越合戦で白備えを指揮したのは彼だったはずです。
この信為公と小机城を顕彰する祭りが毎年春に行われています。
小机城址祭り
…と言うお祭りです。
白じゃないじゃん!赤じゃんか!
…なんて無粋なツッコミはしないだけてくだせぇな。
何せ、地域振興のボランティアだから皆。


横浜市港北区長が信為公に扮し、地域住民の方々が扮する白備え部隊を率いパレードや小机城にていくつかの演出もあります。
屋台も沢山出るので家族連れも楽しめるイベントです。
冒頭で触れた今月の竹灯籠祭りと合わせてオススメのレクリエーションです。
イベント抜きにしても、小机城は歴史好きな方にはオススメの場所です。
JR小机駅から徒歩10分もかからないので竹林に覆われた城址公園の遊歩道で、是非、一度お散歩されてみてはいかがでしょうか?
御祭りの様子を崩壊した過去記事へのリンクを以下に掲載して置きます。
※以下のタイトルをクリックすると記事へリンクします。



さて、最後に小机城の歴代城主と小田原所領役帳に掲載される白備え隊小机衆の主だった武将達を紹介して記事を〆たいと思います。

【歴代城主】
●北条 長綱公・・・入道号:幻庵宗哲。
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその家臣団も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。先述の通り、河越夜戦で白備え隊を率いて黄備え隊大将北条綱成公と黄備え隊副将間宮康俊公等と古河公方ー上杉連合軍8万の大軍を城兵3千で半年間の防衛に成功し、更に国府台合戦でも活躍した文武両道を地で行く武将だった。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・戒名:宝泉寺大年用公。
早世したので城主としての事績は詳(つまび)らかでは無い。
所領役帳には“三郎殿”と記されている人物。近年になり実名が時長と判明したが城主としての在任期間は短命の為に短かった。“新編相模風土記稿 足柄下郡の風祭村(小田原城下の東海道から箱根への入口) ”に在る宝泉寺の“開基北条時長”と書かれた文書の存在や、永禄三年(1560年)07月20日が命日と判明している事、同年に北条氏尭公が小机城主の座を継承している事の整合性から宝泉寺が菩提寺の北条時長公が三郎殿だと推定されている。
※風魔忍者の根拠地が風祭で箱根の山を熟知した集団と言われている。
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
永禄三年(1560)年に小机城址と成る前は平井城主だった。平井城は上杉謙信が相続した山内上杉家の本拠地だった事もある重要な城だった。武蔵国の防衛で活躍し、上杉謙信の関東侵略に際して河越城に援軍に赴き撃退に成功している武勇の持ち主だった。
伊達家との外交でも活躍していた事が古文書の存在によって明らかに成っている。
●北条 氏光公・・・北条氏康公の八男と言われるが確定されてはいない。
北条幻庵公の姫が正室(せいしつ=本妻)。元々は戸倉城主だった。
織田家の中部地方支配が本能寺の変で崩壊すると、羽柴秀吉の了解を得て甲府を制圧した徳川家康公が武田家最後の居城だた新府城(山梨県韮崎市)へ入城する。武田家と縁戚だった北条家も織田領へ侵攻し旧武田領を切り取り始める。新府の徳川家康公を挟撃殲滅するべく北条家第五代当主の北条氏直公の大軍は新府の北の若神子城(山梨県北杜市)に大軍着陣し徳川軍を引きつけ、別動隊として北条氏光公の小机衆と北条氏勝公の玉縄衆が富士山の東側を回り甲斐と駿河国境側から御坂城(標高1600m山梨県笛吹市)へ兵10000で着陣し挟撃の機会を伺った。しかし小山城(笛吹市)を兵3000で守備していた鳥居元忠公が北条家の動きを察知しており、統率者が若い小机衆と玉縄衆は急峻な山を下り黒駒の狭隘な谷間で鳥居元忠公の急襲を受け壊滅、殿軍(しんがり)を務めたと思われる玉縄衆の付家老である間宮家を継承していた間宮康信公が討ち死にする等大損害を受けた。
尚、間宮康信公は当時、父の間宮康俊公の跡を継ぎ笹下城(横浜市港南区)の城主に就いていたと思われるが武田信玄の存命中に駿河東部で当時の寄親である玉縄城主北条綱成公が深沢城(静岡県御殿場市)の守備も兼務したいた時代に、間宮康信公が率いる黄備え隊の分隊は武田軍を駆逐して追撃壊滅させる大活躍をしています。
代替わりした大将が実力不足だと河越城防衛で活躍した白備え隊も黄備え隊も軍団の実力を発揮出来なかった様です。
【歴代城代】
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。

【小机衆寄子】
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際に豊臣軍に内通した松田憲秀の子、笠原政晴が継いだのはこの弥十郎の家系と思われる笠原綱信の跡目だと近年の研究で判明している。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。
領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
●福田    ・・・領地は都筑区大熊町。
●高田 玄蕃助・・・領地は川崎市宮前区中部~西部一帯。

他にも小机衆は沢山居て切りが有りませんが主だった人達は又おいおい追記しようとおもいます。
どうですか?小机城と小机城に関わった人々、皆さんの地元が関わりの有る武将も多かったんじゃないでしょうか?
又、こんな感じで北条家の各軍団と皆さんの地元の御縁を紹介して行けたら良いなぁ~と思います。

では!、又この記事の小机衆の名簿更新と新しい別の記事で御会いしましょう!
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以前の中田加賀守と横浜市保土ヶ谷区正観寺事を紹介した記事を書いた事が有ります。

今回は、その戦国時代の北条家臣中田家の本拠地だった❝慶応大学日吉キャンパス❞を御城として数回に分けて解説したいと思います。
横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
2014-04-06-11-44-56
小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
2014-03-23-16-35-29
その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、続きの記事で紹介したいと思います。
次に続く⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。




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今年も戦国時代の小田原北条家の白備え隊、小机衆と言う軍団の拠点だった小机城で日本の竹ファンクラブにより「小机城址市民の森 竹灯籠まつり」が開催されます。
本稿の最後の方で小机城で活躍した記録の残る武将達の紹介もしますが先ずは、御祭りの紹介を!
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
竹灯籠まつり詳細は以下リンクへ!
日本の竹ファンクラブ 小机城址市民の森竹灯籠まつり
Twitterに途中経過も掲載されていますので御興味有る方は御覧下さい!


さて、小机城址の竹灯籠まつり、余り御存知無い人の為に一応、過去の竹灯籠まつりの写真と、小机城に関するブログ記事リンクを掲載して置きます。



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以下、小机衆だった主だった武将の名前です。
【小机衆】
[歴代城主]
●北条 長綱公=入道号:幻庵宗哲
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその遺領も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・早世
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
[城代家老]
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。
[軍団重臣]
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
・・・この他にも沢山の代官や北条家の被官が居ますが挙げていたらキリが無いのでひとまずこれまで。
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小机城で活躍した現在では名も知られない武将達の御子孫達が横浜市の行政による宅地開発に抵抗し守って来てくれた小机城の城址で毎年開催される風流な竹灯籠まつり、皆さんも楽しんでみませんか?
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第13回 小机城址市民の森 竹灯籠まつり
今年も開催されます!
竹灯篭祭公式様 借り物 久良岐のよし
この祭り、めちゃめちゃ綺麗だから是非にも足を運んでみて下さい!
【2016年度開催日】
10月29日土曜日※雨天順延

【アクセス】
JR横浜線 小机駅から徒歩5分。
車で行く場合は日産スタジアム付近に臨時駐車場が設置されます。
主催するボランティア団体「日本の竹ファンクラブ」の公式ホームぺージは「コチラ」←クリック!
詳細は上記の公式サイトをご覧ください。

戦国時代に北条幻庵公達が城主を務め、笠原信為公が城代を務めた小机城址に5000本近くの竹灯籠を設置して夜に竹林を浮かび上がらせます。
その幽玄な景色は他では見られない神秘的な物です。
そして子供も喜ぶ笹団子や焼き鳥等の食べ物や竹製品の物販も行われていて、老若男女問わず足腰健康なら皆楽しめます。
※小机城を詳しく知りたい方は以下の過去記事もタイトルクリックして御覧下さい。


他にも関連記事を書いてますが、上の二つの記事が小机城と周辺に関して良く解ると思います。

さて、昨年までの竹灯篭祭の写真も少し掲載します。

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だいたい皆さん18時頃から見に来るみたいです。
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少し暗いですがとても神秘的。
ただ、城址で戦国時代の土の城なので、スポーツシューズやトレッキングシューズ等の歩き易い靴、ジーンズ等の長ズボンで雑木林対策を十分にして行く事をお薦めします。
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工芸品の様に細工された灯篭等も沢山あり綺麗です。
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城の空堀や切岸を灯篭が浮かび上がらせます。
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笹団子と抹茶も美味しい!
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小生が推薦する夜祭の一つです。
もう直ぐ伊勢原市大山の灯篭祭も始まります。
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※大山ケーブルの秋季特別夜間運行は「公式ホームページ」←ココから御覧ください!
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 ←以前書いた祭の紹介記事
ついでに大山は日本酒と豆腐料理が名物なので以前の記事も紹介します。

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←クリックで!

大山夜間ライトアップ 公式拝借 久良岐のよし
とにかく綺麗なので、是非、訪れてみて下さい。
※車で行くと必ず渋滞し間に合いません。電車で伊勢原駅まで行き、そこからバスで移動し、渋滞にバスが嵌まったら麓(ふもと)から徒歩で登山してケーブルカー駅まで行く事をお薦めします。

そして他の紅葉の名所も・・・
大雄山最乗寺も綺麗に朱に染まります。
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【紅葉状況:2015年】神奈川県内の紅葉名所の11/18現在の状況と見頃予測。←昨年の今頃纏めてた紅葉の名所紹介記事。
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昨年は気温が高く色づき悪いまま枯れてしまう樹も多かったのですが、今年は涼しいのできっと綺麗に色づくでしょう。
鎌倉の紅葉も綺麗ですよ!
お薦めは浄明寺地区。
中でも浄妙寺は特に良い。
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下の写真の綺麗な庭園を見ながら抹茶も頂けます。
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そして報国寺。
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こちらは竹林で有名な御寺です。ミシェランガイドでも三星。
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奥の草庵でゆっくり時間を過せます。
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抹茶付の拝観券を購入すると、ここで抹茶と落雁を頂きながら風景を楽しめます。
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東京都世田谷区の豪徳寺も紅葉が綺麗です。
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豪徳寺は蒔田吉良家の居城、世田谷城址に在った寺院を、江戸時代に大名の井伊家が菩提寺に定め拡張して庭園を整備しました。
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これからは秋の風物詩が楽しみですね!

では!次は神社仏閣城址の解説記事で御会いしましょう!
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真田丸に7回放送から登場している板部岡江雪斎サンは、横浜市戸塚区の御殿様でした。
板部岡 江雪斎
豊臣家との交渉を任された、安土桃山時代後半の北条家の外交官。
因みに安土桃山時代前半の北条家の外交官は横浜市港北区大曾根出身の笠原康勝公と横浜市港南区磯子区の旧笹下郷出身の間宮綱信公。
これハマっ子の知っておくべき豆知識な!

ちなみに、この板部岡江雪斎公を演じる山西惇さんは京大卒の関西人…
何で関東人にやらせんのか!…と個人的には思う。
名俳優ですけれどね。

も一つ豆な!
徳川家康公を演じる内野聖陽サン・・・
徳川家康
実は横浜市港北区の雲松院て御寺の先代住職の息子さんで、今は叔父さんが御寺継いでるんだけれど、その雲松院は戦国時代の北条家の重臣だった笠原信為(のぶため)公が亡くなった御父さんの笠原信種公の為に建てた御寺なんだな。
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だから内野サンは家康公より北条氏政公の役柄を演じるべきと個人的に思うんだな…。

因みに、笠原家が城代家老を務めたのがJR小机駅前の小机城で、本拠地は大倉山記念館の所在地の大倉山~太尾見晴らしの丘公園の丘陵に在った大曾根城なんだな。
この笠原家の一番有名な御殿様の笠原信為公は鶴岡八幡宮再建で総奉行を任されて、5万人を動員し、同じ横浜の殿様の南区蒔田の吉良頼康公、港南区笹下の間宮康俊公、大船の北条綱成公等と協力して成功させた偉い政治力と教養の高い殿様だったんだな。
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この5万人と言うのは当時としては古今未曽有の大事業クラスの規模で、しかも関東東北で北条家の傘下に入って無い所か目上の大名にまで北条家が命令を出して再建する、北条家の立場を確立する意味でも大変な事業だったんだな。
大曾根城址は東急不動産が破壊してテニスコートや宅地にしようとしたんだけれど、30年前に大曾根商店街の方々が義挙して周辺住人と抗議活動と横浜市への保護要請をした結果、当時の文化と歴史史跡保護に熱心だった細郷市長が❝腐れ東急❞から土地を買い上げ、現在の大倉山公園として笠原家所縁の御寺の竜松院前の大曾根城空堀を残し、そこに小田原北条家の❝梅林文化❞を復古して下さり、現在の大倉山の梅林を整備して下さったんだな!

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昔の横浜市長サンは今の林文子とは大違いだね!

今の市長の↓悪事
●現在進行形で栄区港南区磯子区金沢区にまたがる❝円海山と言う古代からの蹈鞴(たたら)製鉄遺跡や貴重な蛍の生息地や鎌倉武士の古道や庄戸地区に源頼朝公が崇敬した白山神社と言う天皇家の御先祖様の神様を御祭神に抱くを聖地❞を東急不動産に宅地開発破壊を容認していく政治判断をしている。
●米軍から返還された戸塚区の通信基地跡地が米軍の意向でアメリカ由来のスポーツ少年野球のチーム交流戦の聖地に成っていたにも関わらず、子供たちを追い出し鉄格子で囲んだ挙句、そこに建設利権に絡んで花博を行いインフラ建設し、その後の土建屋への用地転売→宅地開発に道をつけようとしている。
●北条家相模十四騎筆頭の間宮家居城笹下城址の破壊を容認し❝傾きマンション❞で有名に成った三井不動産レジデンシャルや野村不動産に宅地開発させた。結果、地形は無残に崩され、本丸跡の空堀も三井不動産レジデンシャルに完全破壊された。
●豊かな漁場だった本牧半島沖を、福島県の放射線汚染廃棄物焼却灰等を含む廃材で、建設利権に深く絡む埋め立て工事→新山下の上屋倉庫街を移転すると宣言していたが、現在進行形で本当に本牧半島沖の埋め立て工事をして生態系を破壊しているし建築業者との関連に疑念を持たざるを得ない。

あ~何で今の市長に投票しちゃったんだろ…待機児童0も実際継続達成してないし。


関東を開拓し発展させて下さった素戔嗚尊様や大物主様や建御名方神の御神孫の初代佐賀牟国司様!
関東の乱を治めた日本武尊様と弟橘姫様!
関東人の教育と文化向上に貢献された弘法大師空海和尚様、文覚上人様、円光大師法然和尚様、見真大師親鸞和尚様、立正大師日蓮和尚様、大覚禅師蘭渓道隆和尚様、承陽大師道元和尚様!
源頼義公、源義家公、源義朝公、源頼朝公、源頼家公、源実朝公!
菅原景行公、菅原行基公!
平良文公、鎌倉景正公、三浦為継公、三浦義継公、大庭景義公、三浦義明公、岡崎義実公、真田義忠公、和田義盛公、佐原義連公!
北条泰時公、北条実時公、北条時宗公、覚山尼様、用堂尼様!
太田道灌公、吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、宅間上杉富朝公、宅間上杉乗富公!
伊勢盛時公、北条氏綱公、北条氏康公、北条氏直公!
北条綱成公、北条氏繁公、北条繁広公、北条氏長公!
間宮信冬公、間宮信盛公、間宮信元公、間宮康俊公、間宮直元公!
多目元忠公、板部岡江雪斎公、石巻康保公、安藤良整公、成田甲斐姫、天秀尼様!
…歴代の殿様や和尚様や宮司様や戦中世代の先輩達がせっかく残してくれた自然や文化財や史跡や子供のスポーツ教育環境を破壊する、こんな市長を我々の世代で選んでしまって申し訳有りませんでした。
…我々に代わり、現市長に神仏の罰か現実的に何かベッキーのセンテンススプリング事件並みのペナルティーを与えて下さい。
でも、現市長が改心して文化や史跡や自然を保護する開発地域選定に政治姿勢転換するならば、彼女に名執政官として名を遺す功名を立てさせて上げて下さい…。

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旅に出よう! に参加中!
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今年も、横浜市港北区、新横浜近くのJR小机駅から徒歩5分、戦国時代の御城、小机城の城址公園で「竹灯籠まつり」が開催されます!
※竹灯籠祭り日程などは日本の竹ファンクラブ公式ホームページココクリックして御覧ください
この御祭り、横浜市が他府県に誇るべき古今融合した素敵な夜景が見れる御祭りで、戦国時代の石垣の無い関東流の築城術でつくられた小机城址公園の空堀や各曲輪の切岸を夜陰に城址を埋め尽くす無数の幻想的な竹のキャンドルで浮かび上がらせます。
これは必見です。

過去の竹灯籠祭りの写真を集めた記事と、小机城を紹介した記事をそれぞれ書いているのでリンクはります。
そちらから竹灯籠祭りの幻想的な夜景がどんなもんか、試しに見てみて下さい!

●以前の竹灯籠祭りの写真を掲載したブログ記事ココ←クリック!
小机城を紹介したブログ記事「ココ←クリック!
城代だった笠原信為公の事績を紹介したブログ記事「ココ←クリック!

では!皆さん、御祭りですれ違うかも知れませんが楽しんで下さいね~♪
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ブログネタ
春の花、どの花のどんな姿が好き? に参加中!
明日、2015年04月05日に小机城址祭りが今年も開催されます。
戦国時代、1500年代初めに小机城代を務めた笠原信為(のぶため)公を顕彰(けんしょう=リスペクト)したお祭りです。
殿様の信為公役は毎年、横浜市港北区長さんが演じます。
※小机城と笠原信為公について書いた以前の記事も有るので御参考にどうぞ!
⚫︎小机城址記事は「ココ」←クリック!
⚫︎笠原信為公の記事は「ココ」←クリック!
お祭りでは武者行列パレードがJR小机駅近くの鳥山町の三会寺(さんねじ)からスタートし、小机駅前を通り小机城址でイベントが行われます。
因(ちな)みに、小机城址近くの鳥山町も歴史偉人と関わりが深く、鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝公の重臣として有名な佐々木高綱(たかつな)公が領主を務めた地域でした。
高綱公と言えば宇治川合戦などで大活躍した坂東武士の中の鑑(かがみ)と言っても過言では無い名将です。
実は三会寺や近くの鳥山八幡宮は佐々木高綱公の開いた寺社でもあります。
つまり、昔からこの地域は関東武士団の根拠地の一つだった訳です。

※佐々木高綱公の城跡の鳥山八幡宮と、開基した御寺の三会寺記事は以下を御参考にどうぞ。
⚫︎鳥山八幡宮の記事は「ココ」←クリック!
⚫︎三会寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!

武者行列が住宅街を歩くシュールな絵面も何ですが、数十m置きに模擬鉄砲隊の砲撃演武も有りますよ。
小机城址の桜満開の本丸では出陣式などの演目等も行われます。
屋台も出ますよ!
近隣の小・中学生も可愛らしい武者に扮して参加してます(笑)。
横浜市民にとっては地元と誇りを今に伝えるローカルなお祭りですが、他地域の方も楽しめるので是非見学してみて下さい!
※雨天順延

では、又、次の記事で!
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JR小机駅近くに雲松院と言う御寺と、小机城と言う御城の跡が在(あ)ります。
雲松院は戦国時代の笠原信為(のぶため)公と言う武将の開基(かいき=建設)した笠原家の菩提寺(ぼだいじ)です。
この笠原信為公、実は北条家の重臣で雲松院と小机駅を挟んで反対側に在る小机城の城代を務めた人物です。御本人の居城は大曾根城と言う城が近くの大曾根~太尾地区に別に在りました。
しかも、信為公は戦国大名北条家で軍隊で言う所の軍団長に当たる白備(しろぞなえ)隊の大将代行の役割を担っていた重臣でした。
ですから笠原家の菩提寺である雲松院は現在でも広大な敷地を持ち、さながら小大名の武家屋敷の様(よう)な門構えです。
昔は漆喰塀だったんでしょうね。
雲松院は、そもそも神奈川区の神大寺地区に戦国時代に存在した❝神大寺❞と言う大寺院の塔頭か別院の様な扱いで、笠原信為公が御父君の笠原信種公の菩提寺として造営したと伝わっています。
その後、神大寺が戦国時代には既に焼失してしまったので、江戸時代にも成ると笠原家の菩提寺としての機能自体も雲松院に移転して来た様です。

笠原信為公は白備えの副将格(実質上の大将)です。
戦国大名の北条家には、五色に分けて編成した有事に即応する為の軍団が有りました。
その軍団は青・白・黒・黄・赤に軍装を色分けされていました。
各部隊の大将の名前と居城を北条家最強の時代を参考にあげますと…

●青備(ぞな)え 冨永直勝 公  
  葛西城主(東京都葛飾区)
  主に房総半島の里見家に備えた部隊。
※現在の葛飾区は昔は下総国葛西郡の一部。今の感覚で言うと葛飾区は千葉県の一部だった。

●赤備え…北条綱高 公
  江戸城主(現在の皇居)
  主に静岡県方面の攻防を担当した軍団。
  武蔵国多摩地方攻略にも活躍した軍団。
※北条綱高公は実家は九州の名族高橋家で、北条家2代目当主の北条氏綱公に気に入らて養子に成った人物。

白備え…笠原信為 公  
  小机城代 大曽根城主(横浜市港北区)
  主に、武蔵国の防衛を担った部隊。
※小机城はJR小机駅近く、大曽根城は大倉山記念館の丘一帯。
※小机城主は北条幻庵(げんあん)公。幻庵公は笠原家の上司で普段は小田原在住。又、箱根権現(今の箱根神社)の宮司を務め風魔忍者の管理者でもあった。
※上記関連記事「ココ」←クリック!

●黒備え…多目(ため)元忠  公
  青木城主(横浜市西区と神奈川区の間)
  主に北条家の本隊として活動した部隊。
  吉良家の護衛も担った。
※青木城は今の京急神奈川駅一帯、本覚寺〜権現山にかけての半島上に築かれた城だった。江戸時代には東海道神奈川宿が置かれた。
※多目元忠公は北条氏康公の軍師で河越合戦などで活躍した。
※上記関連記事「ココ」←クリック!
  
●黄色え…北条綱成 公
                 副将…間宮康俊 公
  玉縄城主(鎌倉市北部〜藤沢市市境一帯)
  対外遠征と前線の援軍を担当した軍団。
※玉縄城の範囲は広大で今の藤沢市渡内〜鎌倉市玉縄〜植木〜横浜市栄区長尾台にかけて築かれた城郭で、武田信玄と上杉謙信も撃退した堅城。
※実質的に北条家最強の軍団で肝心な合戦には必ず黄備え隊が参戦した。
※北条綱成公は綱高公同様に、2代当主北条氏綱公に気に入られ婿養子に成った人物。
※上記関連記事「ココ」と「ココ」←クリック!

さて、五色備えは何となく御理解頂けたと思いますが、実はこの軍団編成は織田信長公に先駆ける事、数十年も早く作られた画期的なシステムだったんです。
現在の軍隊と同じシステムだったんですね。
そんな北条家白備えの大将だった笠原家の菩提寺だから、当然に雲松院の境内も立派な訳です。
この写真では分かりにくいですが、本堂の上の金色の家紋装飾は笠原家の「丸に三つ柏紋」と徳川家から許された「葵の紋」が入っています。
家格の高さが窺(うかが)い知れますね。
京都の相国寺や天龍寺くらいの敷地が有るでしょうか?
周囲の山林も含めて雲松院です。

鐘楼も立派ですよね。
この雲松院は明治時代の廃仏棄釈まで、付近の白山神社の別当(べっとう管理職)も
兼務していました。
つまり、笠原家は神道では白山神社を信奉していたと言う事ですね。

白山神社は北信越地方の神様です。
そして、曹洞宗の大本山が今の横浜市鶴見区総持寺に移る前の能登国永平寺だった頃から曹洞宗の守護神として崇めらてきました。
実は雲松院は曹洞宗の御寺です。
小田原北条家には曹洞宗を信仰する武将が比較的多い様です。
しかし、笠原家が白山神社を信仰したのは、北条家家臣だったから以外にも理由が有ると思われます…

笠原家ですが…
古代神話の時代には相模国と武蔵国を合わせた広大な範囲の佐賀牟国造(さがむのくにのみやつこ)を務めた人物の子孫だとも伝承しています。
そうであるなら、長野県の諏訪大社の神様、建御名方神(たけみなかたのかみ)の御神孫と言う事にもなりますね。
まだ、神奈川県や東京や埼玉が、相模国とも武蔵国とも呼ばれる更に前の「佐賀牟(さがむ)国と呼ばれた時代、古代の国主は「国造(くにつくりのみやつこ)」と呼ばれました。
その時代、初代の佐賀牟国造に任命されたのが、建御名方神から数えて6代後の子孫だそうです。
信州出身の家系だから、古代から北信越で自然信仰で崇拝されていた白山神社を神孫の笠原家も信仰する事は当然と言えば当然だと言えますよね。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)を信奉していましたしね。

その後、佐賀牟国造の乱で笠原氏は内紛を起こし分裂してしまい、更に大和朝廷の仲裁を受け弱体化と古代大和朝廷の大王(おおきみ=天皇)に臣下化し埋没していきました。
※写真は雲松院の文化財一覧

しかし小机城代の笠原家は古代〜室町時代まで、ずっと神奈川県に定住していた訳では無く北条家が、まだ伊勢を苗字にし岡山県にいた頃からの家臣でした。
おそらく、古代の国造の子孫は時代を経て鎌倉幕府の御家人と成り、岡山県に移住したのかも知れないですね。
室町時代に領地を拡大し支配するには大義名分が必要だったので、家臣の家系の祖先が治めた土地に、その家臣を領主にする事で支配権を公言するのは上等手段でしたから、北条家は笠原家に小机城を拠点に武蔵国橘郡と都筑郡の経営を任せたのかも知れません。
北条家の歴代殿様は古典歴史にも精通していましたから、笠原家のルーツもご存知だったはずです。
武田信玄の場合は、家臣に縁も所縁(ゆかり)も無い地域の滅んだ武士の苗字を自称させて強引に支配権を主張したりしました。

岡山県の笠原家ですが…
他の武家にも岡山県に移住した具体例が有ります。
鎌倉時代初期の当時、源頼朝公より岡山県に恩賞の領地を与えられ赴任した武士には、他に梶原家や長井家がいます。
梶原家は旧鎌倉郡梶原の地名を苗字にした坂東平氏梶原景時公の子孫です。
長井家は大江家の分家で、大江広元公の子孫です。
いずれも源頼朝公の重臣です。

笠原家は他に古代から信濃国より出なかった一族もおり、武田信玄に敵対しています。
そちらは佐賀牟国造の伝承を証明する様(よう)に「諏訪神氏系図」で神孫と記され長野県佐久郡志賀に定住していた事や、鎌倉時代に源頼朝公に臣従していた事が記録に残っています。
つまり、鎌倉時代に御家人として幕府に出仕した笠原家が、元:伊勢平家(平清盛の一族)の領地だった荘園を恩賞として源頼朝公より与えられ備前国に移住したか、北条家が本姓伊勢家だった頃に室町幕府の命令で伊勢家同様に移住したんでしょうね。

この様に古代からの由緒ある家系の笠原家ですが、笠原信為公は内政でも活躍し歴史に名を刻んでいます。
1526年、房総半島の里見家に鎌倉市街地に攻め込まれ、鶴岡八幡宮が略奪・放火され焼失する事件が起きました。
その後、鶴岡八幡宮を再建するに当たり、北条氏綱公は鶴岡八幡宮再建の総奉行に笠原信為公を任命しました。
この役割りは非常に重く、「統率力」「経済力」「高貴な血筋」「文化的歴史的知識の深さ」の全てが無いと担えない役割りでした。
結果、信為公は鶴岡八幡宮再建に成功します。
因(ちな)みに、この再建事業には黄備えの副将間宮康俊公も与力(よりき=部下)の奉行として参加しています。
間宮家も宇多天皇の子孫に当たり、室町幕府鎌倉府の武士の家系でしたので有職故実(ゆうそくこじつ=古いしきたり)に精通していたはずなので、抜擢は理解出来ます。
信為公ですが、他にも減税による民衆からの支持を得たり内政面での活躍が現代にも伝わっています。
更に文化人としても和歌や漢詩に長けていた事も伝わっています。

合戦指揮だけで無く、事務処理能力にも長けて文化人としても高名とは…
現代の会社にはなかなか、こんな素養の高い高級管理職いないですよね。
仕事が出来ても人間腐ってたり、金稼げても文化的素養が欠落した無文化成金だったり、仕事出来ない癖にふんぞり返って実力無かったり…
信為公の様な上司って少ししかいませんよね。

そんな信為公の笠原家御一門は、今でも小机の雲松院から横浜市民を見守って下さっています…
これ↓歴代殿様の御廟所から見た風景
新横浜が一望出来ます。

そして、御廟所の写真を撮影するのは不敬なので、今回も写しませんでしたが、御廟の石塔の配列説明を代わりに撮影してきました。


皆さん、もし、小机城を見学する機会が有れば、雲松院を御参りし笠原家の殿様達に神奈川県北東部の発展に寄与して下さった事に、一言お礼を伝えてみませんか?

本日はここまで。
では、又、次回の記事で!
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