歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:築地場外市場

2016年11月26日は関東南部の平野部は絶好の紅葉狩りの1日と成った。

本来なら小生は早朝4時に友人のO型君と横浜市中区を出発し、伊勢原市の大山阿夫利神社の御神体である大山に山登りに行って紅葉のライトアップを見るか、あきる野市の秋留野渓谷に紅葉を見に行くはずだった。
前日の25日、小生にO型からメッセージが届いた・・・
「明日どうする?」
・・・と。
だから❝予定は早朝から出発、雨天なら世田谷豪徳寺か三渓園って1週間前に決めてあったろ~が!❞と思ったが、何かO型君が遠出を面倒くさがってそうなので「築地にセリを見に行かないか」と改めて新しい提案もしてみた。
O型:「英会話の予約9時に入れたから早朝は無理。」
何で予定入れるか!と思ったが・・・
小生:「あ~朝から動くの嫌なんだな」
・・・と思い、英会話優先して貰う代わりに貴重な休日を半日何もしないのは勿体ないので本日はO型君と別行動にして貰い、小生は1日個人行動をする事にした。
O型がちゃんと準備して紅葉を見に行く気が無いのなら、単独行動で別に人の多い日曜日じゃなくて小生は定休の水曜日に一人で行けば良いからね。
個人行動にしたので、今日は行かない心算だったが母の所に顔を出す事にした。
でも母の病院に行って築地で食事して終わりでは味気無い。
そこで思い付いたのが下の訪問先・・・
2016年11月26日訪問先位置関係
旧泉蔵院~弘明寺~寶泉寺~築地の拉麺屋❝若葉❞。
「そうだ!まだガラケー以来、デジカメで写真を撮影していなかった間宮家関連の神社仏閣を高速道路を使わずに巡りながら、築地まで下道で行こう!」
・・・と言う思い付き、これなら早朝出発し、午前中丸々と有意義に時間も使えるし築地の食事以外無駄遣いもしないで済む上、午後は病院に行ける。
で、出発の前に早朝に一仕事。
母も入院しているので自分の洗濯物3日分を、自宅洗濯機では洗わずコインランドリーでさっさと洗って、その足で出発する事にしたのが午前5時半くらいだろうか?
家じゃ夜中に洗濯機回せないし、コインランドリーだと大型洗濯機で洗濯して乾燥機で直ぐに乾くから便利だ。
まぁ、1回の洗濯に拉麺1杯と同じ700円かかるのは微妙だけど、時間を700円で買ったと思うと有意義だ。
コインランドリーでは洗濯を待つ間は缶コーヒーを飲みながら間宮家関連の古文書のコピーを読んでいた。
そうこうしていると、直ぐに洗濯➡乾燥が終了。フカフカで気持ち良い!
便利だなデカい乾燥機。

最初の訪問先は小生の住まう久良岐郡内に在った物凄く由緒正しい大寺院の❝跡❞、つまり廃寺に成った御寺の旧跡。
CIMG1453
その場所は現在では住宅地に成っている。
鎌倉時代は山崎泉蔵院と呼ばれ、源頼朝公が鎌倉のどの寺院よりも深く崇敬した修験道の寺院だった。
在る時期に戦火に捲き込まれて(恐らくは和田合戦か新田義貞の鎌倉乱入のどちらか)、鎌倉の山崎から道場の在った久良岐郡森村(磯子区中原)に移転して来た。
何故(なぜ)ここに移転したかと言うと、泉蔵院の山崎泉蔵坊は源頼朝公の命を受けて、この場所に熊野那智大社から熊野権現の御分霊を勧進したのだ。だから、この泉蔵院跡の熊野権現や屏風浦の森浅間神社は泉蔵院の支配地で、転居するのに便が良かった。
頼朝公の亡き後も、九条将軍や親王将軍の歴代から崇敬を集めた。
そして戦国時代には北條家臣の相模十四騎筆頭、間宮家から保護をされた。旦那が間宮家の頃に房総半島の里見家の海賊に略奪された歴史も有ったりする。新編武蔵風土記稿によれば、間宮家の奉納した太刀も寺宝に有ったようだ。
しかし明治政府の宗教政策神仏分離令と1村1社政策の失敗によって多くの神社仏閣が日本から消え失せたのと同じく、この磯子区中原に移転した泉蔵院も当時の僧侶が僧籍を捨て宮司に成った際に、社地確保の為に止むを得ず泉蔵院を廃寺にした上で更地にして頼朝公が勧進した熊野権現の名を熊野神社に改めて、神社としてだけ存続するしか無かった。
つまり、明治政府は水戸学と言うカルト宗派の影響を強く受けていたので、歴代天皇達が信仰した権現様の存在も山伏達の修験道も存在を弾圧した訳だ。
明治政府は概ね、外交と商業工業では日本の発展を成功させたが、日本文化を急速に弱体化させた罪は重い。
CIMG1457
ところで、この旧泉蔵院の宅地には修験道の道場だった頃の自然が一部保存されていて、緑地帯に成っている。
CIMG1458
余り歩く人も多くなさそうだが・・・
熊野神社の参道は、宅地化によって泉蔵院の頃とは恐らく違う、若干斜めに付けれている。
CIMG1459
ここは規模が大きい訳では無いが雰囲気が良い。
宅地化されたとは言え、背後に中原緑地が残り、鎌倉文化らしい谷戸地形に在る神社(元は修験道の道場)なので、早朝の凛とした空気と合わさって清浄な空気が漂う。
CIMG1477
ちゃんと、明治時代に泉蔵院を廃寺にして熊野神社だけを残して宮司に成った初代の宮司様は、歴史を残す為に境内社に泉蔵社として名前を一部残している。
CIMG1480
ここは(修験道の)寺院だった時は湧水地で修業の場として栄えた場所だった。
鎌倉幕府が滅亡して戦国時代には、横浜市南部の殿様で間宮林蔵達の祖先だった間宮家の殿様一族が深く信仰し、泉蔵院の山崎泉蔵坊泉勝は熊野那智大社に大旦那(スポンサー)として間宮与七郎と同平那隼人佑達を報告している。
小生はこの間宮与七郎こそが間宮林蔵の祖先に当たると推測している。間宮林蔵の祖先は間宮康俊公の子とされ実名は伝わらず間宮隼人とだけ官途名が伝わる。間宮与七郎も元服後の名と官途が伝わらず、字(あざな)だけが伝わっている。しかし部下と思われる同 平那隼人佑と記載される人物の官途が隼人佑なので、この部下に隼人佑の官職を授けれれると言う事は律令制度の隼人正(はやとのじょう)の官職を代々世襲した家系だろうか?
間宮一族は北条家中でも一番、鷹匠としての教養も備えた集団だった。間宮林蔵公の家系は鷹狩りに造詣が深かったと伝わる。
この間宮与七郎の名が登場する文書の年代は天文八年(1530年)なので、間宮康俊公は当時12歳で有る事から康俊公とは完全に別人だろう。恐らく、父の間宮信元公の字は伝わっていないので、この信元公本人かも知れない。若しくは信元公の兄弟か、名が登場する年代から康俊公の従兄くらいの関係だろう。
つまり、間宮林蔵の祖先が間宮康俊公とするのは誤りの可能性が高いが、少し惜しい外れで、正解はその父の間宮信元公の世代か康俊公の年長親族が間宮与七郎公が一番有力な祖先の候補に成ると小生は思っている。そして、間宮元重公の実父なのでは?とも思う。

泉蔵院の熊野権現への参詣を7時半頃に終えて、次は弘明寺に移動した。
CIMG1491
弘明寺と言うと京浜急行や横浜市営地下鉄の駅名や地名と認識されがちだが、元々は無畏三蔵法師と言うインド人の高僧が聖地と定め結界石を配置した場所に天平九年(737年)聖武天皇の時代に行基大僧正が開山と成って造営され後に天皇家の悪病平癒の勅願所だった。更に後の弘仁五年(814年)には弘法大師空海和尚が当地にて護摩を焚かれた記録が有る。
ここには新編武蔵風土記稿に❝弘明寺❞の字を建長寺の高僧玉隠が揮毫した扁額の裏面には奉納者達の名前が載っていて中心に❝本願宗閑同伴衆❞と刻まれ以下に同伴衆往嶋道徳面々の名も刻まれている。
同伴衆と言うのはつまり与力武将や家臣の事だ。道徳と言うのは臨済宗の入道号だな。
間宮家の家臣団の多くは、生前から入道号(禅宗修行僧としての名前)や、屋号を名乗る者が非常に多い。
そして屋号に川崎市由来の名を持つ者も多く、例えば間宮信親(信冬公と同一人物と推測)から感状を与えられている屋号が古門の内田対馬守の同族に、紺屋の屋号を持つ内田家がいる。紺屋と言うのは間宮家の旧本拠地の川崎の地名だ。
そして、その川崎の紺屋の地名の由来は三浦半島浦賀港西岸一帯の嘗ての地名の紺屋町の筈だ。
西浦賀(旧紺屋地区)は間宮家の所領だった。その紺屋を屋号に持つ紺屋内田家は現在も笹下城跡近くに住んで居て、近年までアパートを経営し、そのアパート名すら紺屋荘だったので小生は間宮家臣内田家のこの文書を読み古門内田家を探しに笹下を散策した際は、ものの3時間程度と直ぐに紺屋内田家を探し出し、そこから古門内田家と、高津間宮の間宮正秀公の遺骸を印旛郡高津村(八千代市高津)まで届けた源左衛門の祖先とおぼしき内田源左衛門家の足跡も探し出せた。
CIMG1500
❝本願宗閑同伴衆❞と扁額に書かれているそうだが、この宗閑と言うのは実は、間宮康俊公の戒名として現代に伝わる名だ。しかし扁額の奉納は大永元年(1522)年であり整合性が無い。3~4歳の間宮康俊公に同伴衆の大人が10人以上も連名で扁額を奉納するとは考え辛い。
実は間宮家は、近親ですら系図上で親や祖父、従兄弟の名や戒名を間違えて伝えた結果、寛政期の家系譜作成で同一人物と思しき人物の初名や改名後の名と思われる物が数人分有ったりする。
小生は、この弘明寺の扁額の記載事実から実は間宮康俊公の戒名が宗閑と伝わるのはそもそも間宮一族による事実誤認だと思っている。年代的に宗閑の戒名は康俊公の父の信元公の物であるべきだ。
恐らく康俊公には戒名が無かったのを、娘の於久の方が父の菩提を旦那様の徳川家康公に弔って貰う際に、誤って弘明寺に記録の在った祖父の入道号を父の入道号と事実誤認して以降、間宮信元公の入道号だった宗閑が、間宮康俊の戒名として後世に伝わってしまったと可能性が高いと推測している。
CIMG1510
何でこんな可能性を指摘するのかと言うと、弘明寺の寺宝だった花瓶にこんな文が書かれているそうだ。
「間宮監物コレを修理 天正十八年(1590年)二月吉日」と。この間宮監物と言うのは間宮家の寛政期の系譜上では間宮信俊と言う人物とされているが、小生の推測では間宮康俊公と同一人物だろう
❝信❞の字は間宮家の出自である近江源氏佐々木家の通し名であり、弘明寺の宗派真言宗は佐々木氏の本来の信仰する宗派である事から、北条家臣として主君北条氏康公から賜った❝康❞の字を使う間宮康俊の名と佐々木一族として神社仏閣と関わる際の間宮信俊としての名を使い分けていたのだろうと思う。
北条家では曹洞宗に帰依する事を家法とされていたので当然の事だと思っている。
つまり、康俊公が戦死した際に娘の於久様が父の近々の事績の残る寺院で父の戒名と成る入道号を知らなかった娘の於久さんが間違て調べて来てしまったか、後に追善供養を間宮正次公が行う際に誤って弘明寺の扁額に有る宗閑をもう一世代前の間宮信元公の戒名の可能性を考えずに間宮康俊公の戒名としてしまった可能性が高いと考えられる。
娘の誤解のせいで根本的に間宮康俊公には入道号も戒名もまだ現代に至っても実は無いままなんじゃないだろうか?
こう言う事が間宮一族には多過ぎる。
常に前線で戦う事を求められた一族だったので戦死者が多すぎて、一族内でも祖先達の氏名を間違えて追善供養を行ってしまったりしている。
CIMG1506
しかもよりにもよって、弘明寺の僧侶たちは歴史的な知識が欠如しているのか、この扁額をどっかにやって新調してしまったようで改めて訪問したが「弘明寺」と書かれた扁額が見当たらなかった。
CIMG1518
歴史を知らない神主や和尚が、宮司や住職に成ると起きる悲劇がここでも起きたのかも知れない。
CIMG1519
何はともあれ、弘明寺は巨大寺院だったのだが、こちらも明治政府の弾圧によって境内地が大規模に接収されてしまい、現在の弘明寺商店街と京浜急行電鉄の線路と駅が建設されてしまった。だから、現在でも普通よりは大きい規模の御寺では有るが、一時は無住職に成り廃寺の危機に陥った。
真言宗と修験道を崇拝した源氏の源頼朝公は度々、この弘明寺を参詣した。妻の北条政子も港南区の野庭関城の下の鎌倉街道下道を通って弘明寺を訪れている。或いは夫婦で参詣したのかも知れない。
CIMG1523
だから北条政子木像が有ったり・・・
CIMG1524
頼朝公を始め鎌倉武士が軍神として信奉した弁財天様が祀られれいる。
弘明寺で僧籍職員を質問攻めにしたが、全く歴史知識が欠如していて寺院を保護して下さった歴代の壇那様に対する感謝も無い。
むしろ、清掃していた事務員の方が詳しい始末。
僧侶がそんな事では御寺を維持するのは難しいだろう。その破滅の一歩が扁額の紛失かも知れない。
ちゃんと自分の御寺の歴史くらいは小生の様な素人一般人に突っ込まれない程度には学習するべきだと思う。
ところで、弘法大師様が護摩焚きした伝承が残る寺院や霊場(神道の聖地も含め昔は区別して無かった)では、不思議な事に自然湧水地と延喜式内社や式外社と日本武尊伝説の残る聖地が多い。
走水神社の辺りにも弘法大師は来ているが、走水は古代から飲用に適した湧水があり聖地とされていた。
尾張一宮真清田神社や横浜市港北区の師岡熊野神社や相模原市の有賀神社奥宮等の延喜年間以前からの天皇家の勅願所や祈願所も全て湧水地な訳だが、これは神社文化の成立を考古学的に考えると当然の事なん訳だ。
CIMG1521
古代人にとっては飲んでも御腹を壊さず清涼な生活水が確保出来る土地そのものが聖地であり、その湧水地を中心に集落が形成され、リーダーが生まれ豪族の住む場所が高床式の屋敷と成り、そこがやがて神殿となって行った訳だ。
空海和尚は、日本神話を大切にしておられたので自分で日本武尊伝承地を廻っている内に、恐らくそう言った歴史事実に考古学が存在しなかった時代にお気付きに成られていたのだろう。
そして弘明寺も、そう言った意味で凄まじい聖地である・・・
ここは昔からの温泉地だった。今ではそれを知る人も少ないけどね。

弘明寺で扁額の喪失の事実を確認してしまって大分、テンションが下がったまま、次の目的地の横浜市鶴見区下末吉の寶泉寺へ移動した。
CIMG1532
この御寺は間宮家で最初の武勇が記録に残る間宮信冬公の開基と御寺では伝えている。
つまり権現山合戦で活躍したあの間宮彦四郎だ。
所が、川崎大島村(現在の川崎駅前から徒歩20分超の大島町)の伊左衛門の官途名を屋号に持つ間宮家臣子孫達が毎年旧暦八月二十六日に箱根の山中城で討死した間宮康俊公の追善供養を行っていたそうだ。この大島村の伊左衛門は、弘明寺の扁額に間宮宗閑同伴衆として名を連ねた往嶋道徳(おうしまどうとく)の子孫だろう。
この大島家を始めとした家臣団の康俊公の追善供養と、開基の間宮信冬公の話がいつの間にか、寶泉寺の外で語られる寺の歴史が間宮康俊公開基と話が混同されてしまって、事も有ろうに昌平坂学問所の頭取で間宮家の子孫である間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿でも同様に間宮康俊開基と紹介してしまっている。
しかしこれは誤りで、寶泉寺が正しく、恐らくは間宮康俊公は寶泉寺を❝中興❞されていたのだと小生は推測する。
間宮家が末吉や川崎辺りを本拠地にしたのは間宮信冬公や間宮信盛公の時代の話なので、やはり当事者である寶泉寺の寺伝が正しいだろう。
CIMG1536
ところで、この御寺は都会の中に在りながら、御庭は中々広く綺麗な御寺だ。
CIMG1542
CIMG1540
CIMG1541
手入れが行き届いている。素晴らしい。
CIMG1544
建築も素晴らしい。
そして寺紋は間宮家所縁の四ツ目結び紋に丸を配した物。
丸に四ツ目結びは紋は、間宮家の分家や家臣団が間宮本家から与えられる家紋だ。
分家の嫡流は間宮本家と同じ四ツ目結び紋。それ以外の末端の一族や有力家臣や神社仏閣が〇で囲ってある丸に四ツ目結び紋な訳だ。
だから間宮家の戦国時代の本拠地の磯子区や港南区の地主達は、この寶泉寺と同じ家紋が多い。
寶泉寺の現住職の若様と一しきり寶泉寺の事を話し込んで、御寺の寺伝を纏めた冊子を頂きました。
若様に感謝。
御参りと写真撮影を終えて、思い付きで川崎駅前の瑞龍山宗三寺もついでに寄る事にした。
CIMG1548
宗三寺は旧東海道の目の前に在り、直ぐ裏には京浜急行川崎駅も在る。
一帯は堀之内の地名が町名だが、これは間宮信盛公の城館が在った事に由来する。
そもそもは源頼朝公に与力した平安時代末期の名将、佐々木高綱公の城館が在った場所が現在の宗三寺の境内地だ。佐々木高綱公の引退後、この地を引き継いだのは甥っ子の佐々木信綱公だった。佐々木高綱公と間宮家の祖先とは祖先同士が親戚に当たる。
高綱公の祖父の佐々木秀定公と間宮家の祖先の佐々木行定公が御兄弟に当たる訳だ。
CIMG1549
宗三寺の場所に在った佐々木家は、信綱公の子、佐々木泰綱公の代に横浜市港北区の小机の開発願いを鎌倉幕府に届け出て承認されている。この川崎多摩川を利用した水運には適するものの、当時は砂州で耕作に適さなかったからだろう。その頃に関東に残った佐々木一族は小机を本拠に移したと思われる。
小机も佐々木高綱公の居城跡の鳥山八幡宮や高綱公が開基した三会寺が現存する。
川崎の宗三寺は、元々は勝福寺と言う真言宗の寺院だった。
佐々木高綱公の甥の信綱公の子、佐々木泰綱公が弘長三年(1263年)に同志5000人の寄付で梵鐘を鋳造させて勝福寺に奉納している。そんな川崎に間宮家が戦国時代に入ったのは北条家の事情に由ると思われる。
北条家が関東で勢力を伸張するに当たり、獲得した領地支配の正当性を主張する為に、古来の領主の子孫を故地に配属していたので、佐々木一族の間宮家を川崎に配置したのだろう。
ここを本拠地にしていたのは間宮信盛公だ。
そして間宮信盛公が元々真言宗の勝福寺を中興するのだが、その縁で信盛公の入道号、宗三をとって是(これ)を寺名と改め、宗旨も北条家の帰依した曹洞宗に改宗された。
さらに時代が下って子孫の氷取沢間宮家の一族、間宮孫兵衛盛重公が宗三寺を中興した。
CIMG1554
しかし、この間宮盛重公、とんでも無いミスをやらかしていて、間宮信盛公の墓碑に誤って間宮本家の名将、間宮康信公の名を彫り込んでしまっている。
しかも子の間宮盛正が元禄四年(1702年)に刃傷沙汰を起した挙句に預かり先の旧武田家臣、依田家で不可解な火災を起こして改易されている。
この一連の事件の責任をとってか、間宮家の本家や杉田間宮家は奉行職を同時期に辞任している。
更に同時期に高津間宮家の間宮信要も延宝四年(1677)年に刃傷沙汰を起し切腹されられている。
更に少し前の延宝元年(1673年)には大田区の善慶寺が菩提寺の間宮太郎兵衛達が起こした義民六人衆の事件が起きている。
小生は、これ等一連の事件を義民六人衆事件を契機に間宮家を敵視し、更に旧北条家臣団を敵視して金権政治を行っていた側用人達の陰謀と後に旧武田家臣の柳沢吉保の関与が有ったのではないかと推測している。
同じ時期の元禄二年(1700)年には間宮と同じ旧北条家臣で蒔田吉良家の与力だった世田谷の喜多見家が喜多見重政の代に2万石の大名から改易されている。これも柳沢吉保の陰謀と言われている。
写真を撮影し終わって、間宮信盛公の御廟所と本堂にも御参りして、築地に向かった。
CIMG1567
日曜日の築地場外市場は大盛況で、中々歩くのも大変な程だった。
小生の目的はもう少し歩き易い門跡通りの歩道に面した拉麺屋の❝若葉❞。
CIMG1562
ここは築地に始めて来た10年位前に気になって、母の入院以来ずっと食べるチャンスをう窺(うかが)っていたのだが毎回、お店が早すぎてもやってないし午後だとやってなくて食べれなかった。
CIMG1563
今回はやっと席に着く事が出来た。
CIMG1564
シンプルな醤油ラーメン。でもこれが凄く美味い!
CIMG1565
極細縮(ちぢ)れ麺が旨味の深い醤油スープを良く持ち上げてくれるんだな。
700円と築地に在りながら割と良心的な値段で味も凄く良く大満足。
しかし食べたりない小生は、この後、鶏肉の総菜で有名な鳥藤に移動・・・CIMG1571
チキンペッパーステーキを食べ歩きして・・・
CIMG1570
更に!
CIMG1572
イチゴ大福も食べました(笑)
CIMG1574
餡までイチゴが入っていて美味しかったよ。
御腹もいっぱいに成った所で国立がんセンター研究病院に移動。
母は火曜日に手術して4日目だが、何と、見舞いに行った日から食事が復活していた!
まだ柔らかいオカズが多かった様だが、回復の速さにビックリした。
帰りに病院のロビーで面白い展示物が有るのに気が付いた。CIMG1577
医療器具やら病院の歴史の展示。
こうやって時間系列での器具の発展や、病院解説なんかの展示してあると興味が注がれる。
CIMG1576
CIMG1578
CIMG1579
CIMG1580
CIMG1581
CIMG1582
CIMG1583
CIMG1584
ここは今上天皇陛下御夫妻も見学に来られたそうだ。
CIMG1585
ふむ、予定通りの紅葉見学とは行かなかったが、尊敬する間宮家の殿様達の足跡を改めて辿り写真撮影を行えて、美味しい拉麺も食べて、母も回復しつつ有り、大変良い休日を過ごせた!
水曜日はあきる野に紅葉を見に行こう。

では!又、次の記事であいましょう!
そろそろ、何か解説記事書きたいな・・・


CIMG1287
母の入院している国立ガン研究センター病院の目の前が築地市場なので、夜中に仕事終わって入浴してから、朝4時半に寝ずに家を出発し場外市場へ早朝散歩&朝食を食べに来た。
CIMG1270
公設市場は築地に限らず日本中で水曜日と日曜日は一般的に休みなので、最初から場外市場を散歩。
人もまばらだったが5時半位から御店もそれなりに開き始め、観光客も僅かに増え始めた。
CIMG1272
小生のお目当ては"つきじかんの"で早朝だけ特別に食べらる"目覚まし海鮮丼"だ。
CIMG1274
1000円で提供されていて、とてもお買得!CIMG1277
美味しかった。
CIMG1283
その後、築地山長の玉子焼きを購入に・・・
CIMG1284
(小)250円を購入。
CIMG1286
食べ歩きしながら波除稲荷神社へ御参りに・・・
CIMG1290
波除稲荷神社は小さいながらも名だたる築地の店店が氏子なだけあり儲かっ・・・活気が有り、社殿も立派。
CIMG1294
丁度酉の市で熊手を売っていた。
CIMG1300
江戸時代から観光名所だった稲荷社で、お歯黒した獅子の頭が有名な場所だ。
CIMG1299
徳川家綱公の時代に築地界隈の埋め立てが難行した際に海に光る稲荷様の御神体が発見されたので奉った所、波風は止み埋め立てが成功したそうで、以来、築地界隈の守神として地域の店屋や住人から崇敬を集めたそうだ。
CIMG1297
願掛けは御本殿と別に、この御獅子の中でも出来る。
小生は獅子頭と本殿とでちゃんと御賽銭を献じて両方御参りした。
CIMG1316
小さいけど良い神社。
そして変わった供養塔やスポンサーの石碑が沢山。
CIMG1317
さすが、吉野家一号店の在る築地らしい石碑。
それ以外にも寿司屋の多い築地の神社らしい変わった供養の石碑が沢山有った。
CIMG1302
CIMG1304
CIMG1306
海老塚(笑)。もしかして苗字が海老塚の人って、本当に海老塚の前に住んで居たんだろうか(笑)?
一しきり参拝し散歩もして満足すると一先ず病院の駐車場に戻った。
車で一時間半仮眠して母に面会。
CIMG1245
病院からの眺めは良く、築地市場や築地本願寺が目の前に見える。
CIMG1246
スカイツリーも。
母は睡眠薬が効いていて眠そうだったが元気だった。
子宮癌の手術後、腸の動きも回復しつつあるとの事で、重湯を午後からとる事が出来ると看護婦さんに説明されていた。
看護婦と言う仕事は本当に立派な仕事だと思う。
生産性の有る仕事では無いが、人の生き死にを毎日見て、色んな人間の不安と不平と不満を肌に感じ時には暴言も浴びせられる事だろう。仕事は不規則で、患者と関わってる看護婦自身が病むと思う。
精神的に健康で強い人、そして判断力と集中力の有る人じゃないと出来ない立派な仕事だ。
お医者様は技術屋だが、小生は看護婦さんの方が偉いと思う。でも自分が入院中に看護婦じゃなくて看護師さんに対応されたらあまり元気が出ないと思う(笑)。
冗談はさて置いて、看護婦さんと結婚する人は優しい旦那さんじゃないと可哀想だな、家の中で位、看護婦さんには楽させてあげたいよな。
母と1時間ちょっと一緒にいて、取りあえず元気だったので土曜日に又来ると伝えて昼食を食べる前に病院から築地市場の前を通って浜離宮恩賜公園に7年前後ぶりに行った。
途中、築地市場の壁に面白いプレートを見つけた。
CIMG1325
ビキニ環礁で被爆した船舶の話と・・・
CIMG1324
・・・なんと築地は松平定信公の屋敷地だったらしい。以前来た時は、こういったものに興味が無く気が付かなかった。ちゃんと見ないとダメだね。
CIMG1326
10分程歩いて浜離宮についた。
CIMG1330
これは完全に城だな!
CIMG1331
元々は将軍家の御鷹場だったのを、海辺の埋め立て拡張工事と甲府徳川家の下屋敷を造営する事を承認されて庭園の前身が出来た場所だったので、恐らくは平城として造営されたのだろうと推測した。
築山とされている土手が明らかに風化した土塁なんだな。
CIMG1340
更に堀の内側だけに土塁と思しき土手が在る。
CIMG1366
更に平地では喰い違い虎口状の土手が沢山・・・
帰り際に受付で職員さんから解説を受けたら、やはり、堀の横の土手は土塁で上には木戸やなんかが有ったそうだ。ついでに熱心に聞き入っていたら通常配布する物と別の資料も頂けたけれど公開しません(笑)。
CIMG1337
ただ、甲府藩下屋敷としての浜離宮は完成して間もなく明暦の大火に遭って屋敷地としての機能は失われたそうだ。
CIMG1343
現代では紅葉も美しい庭園。
CIMG1357
この庭園の草庵にはドイツ帝国のフリードリヒ皇太子やアメリカのグラント大統領が滞在した。
CIMG1370
記憶が確かならば以前はハワイのカラカウア国王も浜離宮に滞在されて、明治天皇陛下に日羽連合国構想を提案されたはずなのだが、浜離宮の説明にそれらしいものは見当たらなかった。
と、言うか、滞在された外国の要人の記録は一切、園内の説明看板には無かった。
CIMG1377
中島の御茶屋に移動
CIMG1381
上生菓子と御抹茶を頂いた。
CIMG1382
満足満足。
CIMG1391
続いて一しきり散策し、庭園内に在る稲生神社を御参りした。旧と成っているので御神体は遷宮されたのだろうか?不明。
CIMG1400
CIMG1401
園内は江戸時代の鷹狩場、ついで鴨の狩猟場だったので、当時の施設がそのまま残っている。
CIMG1392
アホの犬公方、綱吉公(笑)によって生類憐みの令が発布されて鷹狩が禁止された後は下の写真のネットで捕まえる様に成った様だ。
CIMG1396
この法令は真に迷惑な物で、小生の住む横浜市の殿様だった間宮信繁公は鷹匠頭だったのだが、御子孫達は鷹匠の仕事からあぶれてしまったりした訳だ。
でも徳川吉宗公の時代に成って鷹匠は復活している。
久し振りの浜離宮の散歩はとても気持ちが良かった。
昼食にはまだ早かったので、まだ参詣した事の無い築地本願寺へ御参りに行って見た。
CIMG1407
もの凄い立派な近代建築だった!
最初の堂宇は江戸時代初期、徳川秀忠公の時代、准如上人によって大坂から移民した信徒等が動員され海を埋め立て造営された。
CIMG1423
度重なる火災や関東大震災の後、昭和初期に現在の重要文化財に指定されている近代建築に生まれ変わった。
CIMG1427
本当に綺麗だったよ。
中でこんなコーナーが有った。
CIMG1430
そう言えばHIDEの葬儀はここで行われたんだったね。
参拝を終えて、又、築地場外市場を散策。
CIMG1439
アイスクリームを購入。
CIMG1438
昼食で食べようと思っていたラーメン屋さんが午後は閉まってて、仕方がないから病院の喫茶店で昼食をとってから帰宅した。
母の調子も良さそうで心配が少なく成り、看病より観光に時間を使ってしまった(笑)
しかし母の御蔭で良い一日に成ったし、母も元気で良かった。

ふむ。満足な休日、そして母の容体に安心した日に成った。

↑このページのトップヘ