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タグ:糟屋有季

高部屋神社:高部屋八幡宮
(延喜式内社・古代神事を守る国指定文化財の神社)
丸山城址公園(鎌倉時代の名将、糟屋有季公の城址)
高部屋神社元宮(古代人の聖地、渋田山山腹の水源)
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2016-01-03-13-53-18高部屋神社本宮の位置 久良岐のよし
  御祭神・御本尊等:神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと:神武天皇)・息長長足媛命(おきながのたらしみめのみこと:神功皇后)・三筒男命(みつつおのみこと:住吉三神)・誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)・大鷦鷯尊(おおささぎのみこと:仁徳天皇)・磐之媛命(いわのひめのみこと:仁徳天皇皇后)
  御利益:武芸(スポーツ)上達・戦勝祈願・漁業豊漁・農業豊穣・治水・雨乞い・地鎮・交通安全(海)
  関係者:
  開基:聖地渋田山(奥津城)周辺の古代人
  中興:糟屋庄領主 糟屋 有季 公
     関東管領家 上杉 定正 公=扇谷上杉家当主
     相模守護代 太田 道灌 公
     左京大夫  伊勢 宗瑞 公=北条早雲
     北条家臣  渡辺 岩見 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡 
  所在地:高部屋神社と丸山城址公園・・・伊勢原市高部屋付近、国道246で分断された丘
  所在地:高部屋神社本宮・・・大山山系の伊勢原市下糟屋、渋田山の山腹
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
本来の神社の発祥地である元宮は関東総鎮護の聖地、大山山系の一つ、渋田山に紀元前より存在したと伝承する。
御祭神は三筒男命(みつつおのみこと=住吉大神)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと=神功皇后=臺与?)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、磐媛之命(いわひめのみこと)と、いずれも海上交通や土地開発や海外渡航と戦争に関係の有る天皇や神様な上に、本宮の在った渋田山が弥生時代前後まで周辺が海だった事からも、水神様と土地開発と先勝祈願の神様としての性格が有る。
古来渋田山は奥津城と呼ばれた霊域だったので、古代人の関与が深い土地でもあった。
明治時代まで「汐汲み神事」が行われており、海岸線が後退し内陸16kmに神社が取り残されても歴代の宮司が徒歩で海まで海水を採取しに行く神事が続き明治時代に伊勢原皇大神宮の管理下に置かれ伝統神事は一時途絶えたが、現在の伊勢原皇大神宮の宮司家によって150年前に途絶えた神事が2018年から再開された。現在も海が近かった時代の風習を垣間見える風習が有り社殿の注連縄(しめなわ)に海藻の「神馬藻(ホンダワラ)」を飾る。
平安時代末期に成ると現在の社殿のある丘陵に要塞を築いて糟屋庄を領有した糟屋有季公が、所領の総鎮守として渋田山から現在の高部屋神社の所在地に社殿を移転させた。本来の渋田山の本宮跡には現在は社殿は無いものの御神霊を祭る祠(ほこら)が今も鎮座している。
糟屋有季公は武勇に秀で、源頼朝公による逆臣源義経討伐で活躍し、義経の重臣佐藤忠信を討取り堀景光を逮捕する事に成功している。
戦国時代に渡辺岩見守により社殿が再建し、江戸時代に成ると徳川家康公より社領安堵の御朱印を賜り江戸幕府より保護された。
この高部屋神社は式内社で有る事から古来より有名で、江戸時代に江戸の町人や武士に流行した「大山参り」のコースに組み込まれており、神社の鳥居前の道も旧大山街道だった事や下糟屋の宿場町だった事で、御利益に肖(あやか)りに来る非常に多くの参拝客で賑わった。
又、いずれも天皇も「天皇」の呼称が始まる前の古代の正式な名のまま祀られている事も、由緒有る古社である事を物語っている。江戸時代には高部屋八幡宮の名で親しまれ雨乞いの神様として有名だった。
高部屋神社の丘一帯は軍事拠点としても重要な場所だったので、鎌倉時代~戦国時代の歴代の領主によって城塞として使用され、各時代ごとに改修された事が解る城址公園として、近年国道建設で分断された丘陵の一方は丸山城址公園が整備されて見学出来ます。
海に関係する神社だけあり、屋根の唐破風部分には浦島太郎伝説にまつわる彫刻が有り、社殿は2017年に国の登録有形文化財に指定された。

今年(2016年)の正月3日、明治時代に新道が開通するまで、江戸からの参拝客でごったがえした強い御利益を持つ、それはそれは古い歴史を持つ高部屋神社に御参りに行ってきました。
その時に写真を撮って来て書いた記事が↓コレです。
【前編】高部屋神社と丸山城址公園…神奈川県中央内陸部が海だった事を伝える神社。伊勢原市。
その記事でも少し触れましたが、この高部屋神社のある丘陵が、数十年前まで完璧な城址として残存していた“丸山城”、昔の名を“糟屋(かすや)城”“千鳥ヵ城と呼ばれた平安時代末期~戦国時代中期の御城の跡なんですね。
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現在は周辺の宅地化と国道246号線の建設で城址主要部分と高部屋神社は寸断されてしまっています。
ですから丸山城址公園へは高部屋神社から歩道橋を渡って行くか、住宅街の中の上の石碑が有る場所から入る事に成ります…
と、その前に!
少し高部屋神社付近の様子を衛星写真と航空写真で見てみましょう!
現在の高部屋神社周辺です…
糟屋城の現在
宅地化されてしまって、どこがどう城址なのだか、全体像が判り難(にく)く成ってしまっています。
では少し前、昭和52年頃の様子を見てみましょう…
糟屋城カラー
ふむ!これを見ると良く城址の規模が判る!
先に見たGoogle Earthの衛星写真で高部屋神社と糟屋城主要部分の位置を確認して見て下さい。
現在では糟屋城は城址公園部分の半円形の部分しか有りませんが、この1977年の衛星写真を見ると、城址を取り囲む空堀(昔は水掘りか?)が丘陵の東端まで繋がっており、南側は川が外堀の役割を果たしている大分と東西に延びた大きい城址の地形が残存していた事が解りますね!
因みに、この一帯は米軍が終戦直後1946年に撮影した写真も有ります。
糟屋城白黒
この写真だとよりシンプルに道が解りますね!
高部屋神社の記事を書いた時に少し触れましたが、実は神社の前の道が大山街道と呼ばれる旧街道でして、江戸時代は大山詣(もうで)で大山山頂を目指す江戸からの観光客が絶えなかったそうです。
糟屋宿
今でも江戸時代の名残が有りまして、高部屋神社の前の大山街道の古道沿いには旧糟屋宿、つまり大山街道の宿場町だった糟屋宿だった範囲が判るバス停の名前として残っています。
“糟屋上宿”と“糟屋下宿”ですね!
この上下の間の距離は300m程です。この300mの範囲に昔は旅籠(はたご=りょかん)や料理屋が数十軒並んで賑わったんでしょうね~!
さて、何故(なぜ)、この大山街道の話をしたかと言いますと…
江戸時代以前の御城は町を守る為の物では無く、街道を抑えて敵の侵入を阻害し防衛する場所に築城(ちくじょう=御城を建てる事)されたんですねぇ~。
現代人の感覚だと、町を守らない城とか聞くと歴史に興味の無い人は「え?町を守らないのに城なの?」と思うでしょうね。
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でも良く考えて下さい…
江戸時代以前には、根本的に商業都市なんて日本中探してもほとんど無かったんですよ?
だって戦国時代は、庶民の買物はまだまだ物々交換が主流の時代でしたし、商業経済中心の社会では無く農業主体の社会だったんですね。
つまり、守るのは町では無くて領地全体の農地だった訳です。ですから根本的に敵の侵入を防ぐ位置に御城は作られた訳です。
先程説明した通り、この糟屋城の一部にある高部屋神社の前が旧街道です。
戦時には街道の城内部分の門を閉じてしまえば、敵軍の進行を防げますね。
つまり、糟屋城は典型的な昔の御城だった訳ですね。
ついでに言いますと、この御城を築城した最初の城主は糟屋(かすや)藤太郎(とうたろう)有季(ありすえ)公と言う鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の配下武将で、命令遂行能力の高い方でした。しかし、頼朝公亡き後、幕府を乗っ取った北条家と対立し有季公は二代将軍の源頼家公の遺児一幡を逃がそうと奮戦して討ち死にしました。
その一族は京都に逃れ、没落するのですが…
戦国時代にはこの糟屋城は小田原北条家の領土に成ると、その北条家臣の中に糟屋藤十郎と言う名前の武将が存在しています。
彼の苗字の「糟屋」と名前の「“藤”十郎」から、間違いなく糟屋有季公の御子孫でしょう。
推測ですが、鎌倉時代に北条家と対立し降伏した子孫が、勢力は縮小したまま土着して命脈を保っていたか…
京都に移住した子孫が北条早雲公に仕えて共に関東に下向し、祖先の故地を与えられたか…
そのいずれかでしょうか?
北条家の領地支配は大義名分を得る為に、その土地を嘗(かつ)て支配した武将の子孫に領地を支配させて、北条家の領土統治の正当性を示す傾向が有りました。
その代表例が現在の川崎駅一帯の堀之内に在った城塞を拠点にしていた間宮家、それと小机城代だった笠原家の例ですね。
笠原家は祖先がまだ相模国と武蔵国が分裂する前の佐賀牟(さがむ)国国司だった家系の子孫で、その子孫の支配地域と思しき地名が小机なので笠原家を小机に置く事で、北条家の支配の正当性を示したのでしょう。
川崎駅周辺は、鎌倉時代に源頼朝公の重臣の佐々木高綱(たかつな)公の城館が在った場所なので、高綱公の親族の佐々木行定(ゆきさだ)公の子孫に当たる間宮家に川崎駅周辺の支配を委ねたのでしょう。
さて、何で古い城は街道沿いに御城を造ったかが解った所で、丸山城址公園の説明に戻ります。
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この丸山城址公園は、平安時代築城の後、室町時代に扇谷上杉家の支配の後に北条家の支城だったので関東流の特殊な築城術がいくつも盛り込まれていました。
その代表例が上の写真の空堀を障子(しょうじ)の様に区切った“障子掘り”ですね。
障子掘りは小田原北条家特有の施設です。他の大名の城には見られず、唯一北条家以外では北条家の小田原城を攻略出来なかった経験を持つ豊臣秀吉が自分の大坂城建設の時に総掘りに、この北条家の障子掘りの技術を導入していました。
そして下の写真は横矢(よこや)と言って、城壁を登ろうとする敵を横から射殺する事が出来る形状の施設の跡の“出構え”部分です。
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この構造を有する城は関東以外には余り有りません。
甲斐武田家終焉の城、新府城には同じ施設が有りました。
新府城
新府城の縄張り図では上の東堀に同じ構造が見られます。
丸山城址にも、この構造が少しだけ保存されています。コレ↓ね。
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この横矢のかかる出構え部分の下、現在の遊歩道部分は昔は空堀でした。
この空堀部分の上、一段高い所にも少しだけ城跡が保存されていて、説明の看板も有ります。
芝生の公園で、目立たずに見落としがちですが…
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ちゃんと下の写真の様に土塁が一部分ですが保存されています。
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そして、素人でも解る様に、発掘調査に基づいた推定形状も丁寧に解説の看板が立っています。
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う~ん伊勢原市教育委員会、素晴らしい仕事をなさってますな~♪
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こんな感じで、現存部分は極めて狭い範囲ですが、丁寧な説明看板が有り城址公園として整備されていながら、城址公園の上の部分は子供が自由に遊べる広場に成っていて、公園施設と歴史遺跡保存の両立が上手くなされています。
横浜市も城址破壊したり、山をわざわざ削って公園作らないで、城址公園整備による公園確保と史跡保存の両立を見習ってほしいと思いました。
因(ちな)みに近くには、戦国時代関東最高の軍師、太田道灌公の首塚も有ります。

さて、短い記事では有りますが如何でしたでしょうか?
きっと調べれば皆さんの家の近くにも、平安時代~戦国時代の武将達が居た御城の跡が有るはずです。
少し調べて気分転換の御散歩に城址散策して見ませんか?
散歩ししながら先人に思いを馳せると言うのも中々楽しいものですよ!

では!また、次の記事で御会いしましょう!


神奈川県の伊勢原市には神話の時代、弥生時代以前から聖地として存続する神社が数ヵ所在(あ)ります。
それ等の神社の旧社域からは縄文時代の祭祀遺跡~古墳時代の墳墓等が沢山出土していて、伊勢原市の大山の山頂~麓(ふもと)まで日本の神話を証明する様に❝地下を掘れば遺跡❞と言っても大げさでは無い神社が沢山有ります。
その一つが高部屋神社と言う神社です。
延喜式に登場する神社で、式内社の中でもかなり古い歴史を持つ神社です。
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この現在の高部屋神社は平安時代に現在の場所に社殿を移されたのですが、それでも尚、神話の時代の神秘や「浦島太郎伝説」の結びつきを彷彿とさせる建造物や意図的に古代の儀式を惹起(じゃっき)させる配置で植えられた古代は霊的な意味を持った植物等、多くのミステリーを持ち、尚且つ明治時代に成るまで江戸から御参りに来る観光客で賑わった程の有名な神社でした。
なんせ、この神社の目の前の道、現在は普通の住宅街の中の道ですが、この道は昔の実は大山街道なんです。
江戸時代、江戸の市民には富士山登山と伊勢原市の大山登山はセットで憧れの観光プログラムでした。
これは平安時代末期にも、鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公も行ったレクリエーションを兼ねた山岳信仰でした。
現代では余り❝権化❞や❝権現❞と言う言葉を口にする日本人もいなく成りましたが、昔の人は自然と神様や仏様の存在を結び付けて同一視する事で自然信仰と神仏崇拝を同時に行っていました。
伊勢原市に在る❝大山は大山祇大神の権化❞として…
富士吉田から登山する❝富士山は大山祇大神の娘神様の此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の権化❞として…
それごれ信仰対象と成っており、江戸市民はその山を登る事で幸せに成る御利益を授かろうとしたり、ごく自然に風景の美しさに感動したりしていました。
先ずは、伊勢原市周辺の神社や城跡の位置関係を御覧下さい。
高部屋神社位置関係
※画像クリックして拡大して見て下さい!
画像の中心辺りに現在の高部屋神社、真ん中の少し上に高部屋神社の奥院の印が有ります。
実は、この高部屋神社も元は渋田山と言う場所に在り、山岳信仰の対象でした。
しかも!
古代はこの渋田山は❝奥津城❞と呼ばれていた事が知られており、縄文~奈良時代くらいまでの古代人と何か関係の有る山城か山岳集落の有った事を匂わせる聖地でもあります。
❝城❞と言う字は、本来の漢字の意味では現代日本語の❝町❞を指します。
そして❝町❞の本来の漢字の意味は、田圃(たんぼ)の区画を数える単位で、市街地を指す意味は有りません。
中国の❝町❞は、近代まで城壁に覆われていましたからね、唐の時代に西安に留学した大和朝廷の国費留学生達は、城の意味と城壁の意味を誤認して帰って来たのかも知れませんね。
現代日本語の❝町❞を指す言葉は、都市としての町は❝城❞と書き、城の中の所謂(いわゆる)❝町❞の意味の漢字は❝街❞と書きます。
現代の華語でも日本語で言う処の町の事を❝城市❞と言います。

現在の高部屋神社の社殿の在る場所は、平安時代に源頼朝公の配下の武将の糟屋有季(かすやありすえ)と言う御殿様が築いた千鳥ヶ城と言う城の一部でした。 2016-01-03-13-08-59
糟屋有季公が御自分の領地の鎮守の神様として、高部屋神社を渋田山から現在地に遷宮されたんですね。
しかし、元の社殿の所在地だった渋田山には、現在も奥院として祠(ほこら)が建っていると、氏子サンから教えて頂きました。
この奥院の在る渋田山が古代❝奥津城❞と呼ばれた理由であろう要素は、歴史好きには容易に想像が出来ます…
先に述べた通り、奥津❝城❞と言う位なので恐らく元々の高部屋神社の社殿の在った奥院の周辺には古代人の山間の集落が存在したはずです。
そして奥津城の❝津❞の字は現代語で言う処の❝港❞と言う意味の言葉です。
❝津波❞と言うのは❝港に襲来する大波❞と言う意味に成りますね。
つまり、この奥津城=高部屋神社奥院は、古代は海が眼前に広がっていたと言う事に成ります…
でも、上の衛星画像で見た通り、現在は大分内陸ですよね?
しかし、近隣のやはり縄文時代から存続する比々多神社と、この高部屋神社には現在も海に関する神事が存続しています。
下の写真は高部屋神社拝殿に吊(つ)るされた❝ホンダワラ❞と言う海藻です。
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高部屋神社では、昔から神社にこの海藻のホンダワラを社殿に供える風習が残っています。
ホンダワラは古代名は❝莫告喪(なのりそ)❞と呼ばれ、和歌では動詞の❝名告(なの)る❞の枕詞(まくらことば)として用いられた風流な海藻なのですが…
小生は個人的に軍神であり水神様の八幡大菩薩=応神天皇の本来の御名前の❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)❞の発音「ホンダワケ」と「ホンダワラ」が似ていると感じるので、なにがしか古代に於(お)いては、この海藻のホンダワラは応神天皇と結び付けられて考えられた植物だったんじゃないかと感じました。


…実際、この高部屋神社は江戸時代までは高部屋八幡宮や糟屋八幡宮の別名で日本全国で有名だった神社であり、御祭神も応神天皇です。
古い八幡宮は、だいたいが海や湖や大河川の傍に建てられましたからね。
この高部屋神社には明治まで続いた❝汐汲み神事❞が存在しました。
この神事では歴代の宮司は海まで必ず徒歩で歩いて行き、海水を汲んで来たそうです。
拝殿の屋根の破風(はふ=一部分構造の名前)の部分には、浦島太郎の物語の彫刻まで有り、この高部屋神社の由緒が海と密接な関係が有る事を窺わせています。
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もう一度、高部屋神社周辺の位置関係を見て下さい。
高部屋神社位置関係
高部屋神社の社殿が元々在った場所❝奥院❞の所在地の古代名は奥津城ですが…
津は先程申し上げたとおり、❝港❞と言う意味です。
では何故、こんな山の中に奥❝津❞城の津の地名が存在し、海に関する神事が存続するかと言うと…
それは、古代、この場所が海だったからです。
昔の海岸線

この伊勢原の周辺の神社の元に成った古代人の祭祀史跡の出土する場所は伊勢原皇大神宮を除いて高部屋神社を含めだいたいが神話の以前の縄文時代から存続しています。
高部屋神社の前には渋田川と呼ばれる川が流れており、その上流までさかのぼると奥院のある渋田山=奥津城まで辿(たど)りつけます。
ここからは推測ですが、恐らく昔は渋田川にそって奥津城まで細長い入り江が続いていたのかも知れません。
❝渋田山=奥津城❞には古代~古墳時代くらいまで入り江に漁村があり渋田山にも山麓の集落があり❝城❞=町=村を形成していたのかも知れません。
では、上の海岸線を元に衛星写真上に高部屋神社や比々多神社の位置と、縄文時代の海岸線の位置を再現してみましょう。
高部屋の海岸線
ね?
見事に高部屋神社の近くまで、海が入り込んできていたのが解るでしょう?
つまり、この奥津城は古墳時代位の古代の漢字の本来の意味での城が在ったのかも知れません。
実際、この高部屋神社周辺の比々多神社や大山阿夫利神社一帯では縄文時代~奈良時代までの墳墓や祭祀上跡や住居跡が大量に発掘されていますしね。
しかし、まだ汐汲み神事が行われていた幕末には既に海岸線は現在の位置まで後退してしまっていたので、宮司様は古代の風習を守り伝える為に既に海岸線から10km以上内陸に取り残された高部屋神社から必ず徒歩で海まで海水を汲みに行ったそうです。
昔の宮司様は、こうやって日本の伝統文化を神事として守って下さったのですが、明治時代に成り神社や神話が国により統制される❝国家神道❞が成立すると、高部屋神社は400年強の歴史しか無い伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成り、この神代より続いていたであろう汐汲み神事も消滅してしまいました。
伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成ったのは、恐らく伊勢原大神宮の神様が伊勢系の神様で天皇家の祖先に当たる天照大神だからでしょう。
神奈川の発展に寄与して下さった歴史人物に関係の有る神社を色々回って来ましたが、どうも関東では明治政府によって出雲系の神様の神社や伊邪那美神系の神社は合祀の名の下に弾圧を受け多く消滅しています。
しかし
この神社には海との繋がりだけでなく、今も、日本古来の神道思想を窺わせる神秘的な物も残っています。
と、その前に、高部屋神社の色んな施設を紹介しておきたいと思います。

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看板にもある通り、この高部屋神社は延喜式内社です。関東では余り多くは無い凄く重要な神社。
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そして古代から存続する為(ため)か、御祭神の御名前もあくまで古代からの御名を継承しています。
天皇の尊称は中国の影響を受けたもので、1400年位しか歴史の無い呼び方ですからね。
日本の皇家の歴史は少なくとも2600年以上有るとされる訳ですから、神格化されている❝おおきみ❞様に関しては天皇の尊称以前の御名前を呼ぶべきだと小生も思います。
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高部屋神社の拝殿の前には大きな石造りの鳥居が有りますが少し視線を左にやると、又、別の石段が有りまして…
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こちらの石段の年季の入り様は、恐らく江戸時代くらいからある階段である事を証明してくれています。
この石段の横には昔、御神木であったであろう木の切り株が有ります。
この短い石段を登ると、高部屋神社の社殿とは別の八坂神社の御社が在ります。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)です。
この神様も古代の軍神であると同時に海の神様です。
…と言うか、日本神話上、海を治めることを命じられた神様ですので日本最初の海上交通や治水の神様と言って良いと思います。
平安時代には治水の神様と言えば八幡大菩薩=応神天皇か宗像三女神でしたが、それより以前の日本の古代の海の神様と言えば軍神の素戔嗚尊か、その御子息の安積磯良(あづみのいそら)/磯良(いそたける)神でした。
走水神社の奥社にも日本武尊が信奉したと伝わる須賀神社があり、この❝須賀❞神社の❝須賀❞と言うのは素戔嗚尊と御妃(おきさき=奥さん)奇稲田姫(くしなだひめ)が御一緒に開拓し建国された国の須賀国の名前に由来した神社です。
すなわち日本武尊は御自分以前の軍神で水神の素戔嗚尊と奇稲田姫命を御祀(まつ)りしていた事が解ります。
海の神社の高部屋神社らしい神様ですね。
高部屋神社は江戸時代までは八幡宮だったので、八幡宮の御祭神の八幡大菩薩とは敢えて別棟に御祀りされたのかも知れませんね。
さて、ここは延喜式内の神社でありながら、後に御祭神の関係で八幡宮として江戸時代に呼ばれていただけあり御祭神の八幡大菩薩=応神天皇が神仏習合の象徴的な存在だっただけあり、境内には鐘楼も有ります。
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…逆光で申し訳ない。
でも、この鐘楼は重要文化財に指定されています。
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そして、その隣りにはも御社が在りまして…
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こちらも又々、水神様の金毘羅(こんぴら)様が御祀りされています。
金毘羅様も八幡大菩薩と同じく神仏習合の神様で、インド出身の神様です。
金毘羅(こんぴら)と言うのは元々、古代インドのサンスクリット語で❝クンピーラ❞と言う名前で呼ばれていたインドのガンジス川の神様です。後に仏教に取り込まれ、インドから中国に伝来した後に、中国に仏教留学した日本人僧侶達によって日本に広められました。
日本に伝来すると、神格の似ている大物主と言う神様と習合され水神様として主に日本神話を特に大切にした真言宗の僧侶達に大切にされ、海で働く漁師や廻船商人達からも崇拝されました。
やはり、海にまつわる高部屋神社らしい神様ですね。
最初は中国で、サンスクリット語の発音に宮比羅(ゴンビィルォ)とか金毘羅の漢字が当字されていましたが、日本に伝来した漢字の❝宮❞の発音は訛りが有り❝宮比羅❞では❝コンピラ❞とは日本人が読めないので❝金毘羅❞と真言宗の僧侶達により統一された様です。
明治時代に成ると、仏教迫害の神仏分離令の被害を受けてクンピーラとしての神格は薄れてしまい(仏様じゃなくてインドの神様なんですけどね)、大物主様とだけ形式上祀られる事で、金毘羅宮は破壊を免れる事が出来ました。
ぶっちゃけて言うと、金毘羅様は動物のワニを神格化した神様で、言ってみれば朱雀や白虎や麒麟みたいな動物の神様的な感じでしょうか?
仏教に取り込まれると金毘羅大将とも呼ばれ擬人化した仏像で表現されますが仏教の守護❝神❞の一人として扱われる様に成りました。
まぁ、本来の神格は日本と同じ自然崇拝の習慣を持つインドの方らしく❝水神様のワニ❞です。
小生、香川県の金刀毘羅宮にも御参りしましたが、確か同じ様な解説も書いてあったと思います。
いずれにせよ、高部屋神社の氏子様達が祖先から受け継いだ御社とコンピラ様を大物主様の御宮として守って下さった事で、水神信仰の名残を垣間見える事が出来ます。感謝。

高部屋神社は八幡宮としての神格から、この様な神仏習合の神様も沢山いらっしゃいますが、古代から存続する神社なので、今の一般的な神社では廃(すた)れてしまった古来の風習と思しき習慣も残っています。
その一つが先に紹介したホンダワラを飾る習慣と…
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この枝ぶり、どこかで見た事が有りません~? 2016-01-03-13-38-41
実は皆さん、絶対に毎日生活の中で見てるはずなんですよ。
この木は招霊樹(おがたま)と言う名前の木です。
しかし!
生活のどこで見ているか、その正体を教える前に、うんちく垂(た)れます。
よく神事で用いる榊(さかき)って植物を御供えしますよね?
実は招霊樹、榊より以前から神事に用いられていた節が有り、招霊樹が植生しない地域では榊を主に使う様に成った様です。
この木は黄心樹とも書きますが、正しくは招霊樹と書きます。
和歌で字の発音で❝黄心樹❞と当字されてしまって以来、その字も使われる様に成ってしまいましたが、元々は招霊樹と書きました。
古代中国では❝含笑花❞とも書かれました。
皆さんは普段、一円玉として良く見ています。
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お金にデザインされたり含笑花とか書くので何か縁起の良い植物そうな事は解りますが、日本語の招霊樹では何か神霊的な意味を持っている事も解りますよね。
この招霊樹と御榊(おさかき)は同じ使われ方をします。
榊で説明すると、神棚に供えますが、あれは招霊樹と外見が似ている事から使われる様に成り、榊(さかき)と呼ばれる様に成ったのは発音から境木(さかいき)として用いられ神様の御住みになられる場所を守る結界(けっかい=バリア)を張る役割を担う植物に成ったからですね。
つまり、先に榊の役割で説明してしまいましたが、神様の住む社殿を守る心霊的な結界として古来の神社には植えられていた植物なんですね。ですから現代でも神棚に榊を供える風習が残っている訳です。
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写真は拝殿裏の本殿ですが、やはり本殿も招霊樹の木に守られています。
この様な古代の民俗風習を守る神社は今では少なく成っていますね。
さて、高部屋神社には古代の風習が氏子サン達によって今でも守られている事がなんとなく御理解頂けたでしょうか?
では、社殿を見てみましょう。
この日は1月2日の御正月だったのですが、幸運な事に氏子の偉い方に拝殿の中に入って見学させて頂けました。
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よく古い神社で見かける、上の垂れ幕みたいなもの、これにデザインされている模様が小生にはホンダワラを意匠化した物の様に感じられます。
昨年末、関東最古の大社格の神社の埼玉県の鷲宮神社に横浜の殿様の間宮家の顕彰活動の一環で御参りした際に、同じ物を見て不思議に感じたのですが…
実は鷲宮神社の江戸時代までの宮司家は大内家でした。このホンダワラを意匠化した様な模様、戦国時代オタクはすぐに判(わか)るんですが大内家の家紋にソックリ!なんですよね。
鷲宮神社の伝承では関東を開いた神様は出雲系の神様です。大内家の出自も出雲大社の在る中国地方です。
中国地方の大名だった大内家は渡来系とされ百済王の子孫を自称しましたがそれは藤原氏に気を使って血筋を貶(おとし)めただけで、実際は渡来系でもより古い中国大陸から南方経由で回って来た氏族だと思います。
でなければ歴史事実と神話の両方と整合性が無くなりますからね。そう言う意味では関東地方の神話と鷲宮神社の旧社家の大内家の伝承と整合性が高く成ります。
そうなると大内家は出自は出雲系の御神孫支族だったんじゃないかと言うのが推測出来ますが、実は鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司家も戦国時代は大伴家で、やはり古代からの豪族でした。
高部屋神社の直ぐ御近所で、同じく延喜式式内社の比々多神社も神社としての最初の宮司様は紀氏でした。
関東を早くから開き神事に従事した一族は、藤原氏台頭以前の古豪達が多かった様です。
そう言う意味で個人的な感想ですが、やはりこの意匠は何だか海の大名の大内家やホンダワラと関係が有りそうな気がします。
天皇家の御先祖様自体も海幸彦山幸彦の神話で海と関係が有り、先に紹介した高部屋神社拝殿の屋根の唐破風には浦島太郎の彫像が…
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浦島太郎↑と↓乙姫様と竜宮城
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もうこれ、絶対に出雲系の神様や海藻ホンダワラと関係の有る神紋なんじゃないかなと思うんですよね。
ところで神話から話が逸れますが…
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屋根の構造を内側から見ると、古い建築で釘を使わない日本本来の技術で骨格が組まれている事が見てとれました。
さて、招霊樹の説明で先に少し写真を載せました本殿はこの後ろに在ります。
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本殿には招霊樹の木と、神様を守る専任の狛犬様が結界を守ってらっしゃいました。
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この中に神様がいらっしゃるんですね~。
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本殿はかなり高い位置に鎮座しておられます。
なんだか出雲大社の古の社殿の在り様を、古い神社ほど意識している様に感じます。
それとも高い場所に本殿を祀るのは山岳信仰の日本古来の価値観で山を御神体としたからでしょうかねぇ~?
はたまた、神様が住んでいた高天原(たかまがはら)を意識して、昔の神社は神殿を高い位置に築いたんでしょうか?

こんな風に、高部屋神社は古代のミステリーを今に伝える神社なんです。
是非!伊勢原市方面、大山の桜や紅葉のライトアップや温泉を楽しみにに行かれる機会があれば、近くに在る、この高部屋神社も御参りして日本神話や古代人の風習に触れてみては如何でしょうか?

冒頭で申し上げましたが、この場所は平安時代末期~戦国時代まで千鳥ヶ城や糟屋城の名で呼ばれた城址だったので、現在は道路で分断されていますが…
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道の向こう側は城址公園として土塁や空堀の遺構も保存されて説明の看板も有ります。
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丸山城址公園は、次回、この記事の後編として書きます。

では、皆さん、又、次の記事で御会いしましょう!


前回の記事で伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺と、そこが菩提寺の太田道灌公である御話し、道灌公がどれだけ偉大な武将だったかを紹介しました。

その際に道灌公暗殺の一部始終も一旦、同じ記事内に書いてみたのですが長く成りすぎて読み難かったので今回の記事に「太田道灌公暗殺の状況」を別記事として分離し、補足情報を追記します。
※前回の記事は「ココクリック!

さて、太田道灌公の説明を改めてさせて頂きます。
太田道灌公
神奈川県の伊勢原市上粕屋町に在る洞昌院公所寺(ぐぞじ)と言う、各時代で関東の歴史事件と関連の有った御寺が有ります。
同寺は室町時代初期〜戦国時代初期の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の拠点:粕屋館(大規模な平山城)の遺構の外郭の一部であり…
道灌公暗殺の舞台です。

太田道灌公の祖先は摂津源氏、家は代々、関東管領を務めた扇谷上杉家の執事(しつじ:社長代行みたいな職)を務めました。 
道灌公は河越城や江戸城、佐江戸城を築城し、川越市、東京都23区、新横浜の発展の基礎を築いた人物です。 
合戦では無敗を誇り、築城した城の多くは戦国時代、江戸時代を通じ名城として存続しました。 
後の世に残る築城の名手でも有った訳です。 
更には和歌に造詣も深く、遠く和歌の本場の京都の貴族達の間でも太田道灌公は和歌の名人として認識されていた有名人でした。 

関東人にとっては、関東の発展や文化、神社仏閣の建築遺産の保護に偉大な業績を残された偉人でもあります。

今回の訪問で、和尚様より文献には載らない寺と地域伝承の道灌公暗殺時の一部始終を御教授頂きました。
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この参道にある石柱は山門(さんもん=御寺の正門)代わりですが、太田道灌公が落命した山門は本堂〜80m、この石柱の手前50mの所に在ったそうです。
山門は大正時代の関東大震災で倒壊して以来、再建されていませんが、道灌公にまつわる話が寺伝として残っています。
洞昌院は「道灌公の暗殺事件発生以来、門を閉じてはいけない。」と言う決まりが有るそうです。
ですから仮の門も造られていないんですね。
この御寺の規則が道灌公暗殺事件そのものと関係が有ります。
この洞昌院の横には自然地形を利用した糟屋館の巨大な空堀跡地形も現存します。
目の前の丘陵が全て糟屋館と呼ばれる広大な扇谷上杉家の城塞の跡で…
…その丘の手前の田圃(たんぼ)の有る長い谷が自然地形を利用し手を加えた空堀跡。
 
当時は、この田圃(たんぼ)が自然の障子掘りみたいな状態だったんでしょうか?
付近は第二東名工事と宅地化の事前発掘がされています。
なんせ、付近は全て糟屋館の城跡ですからね。

上の写真は糟屋館の北東部、「外堀」の地名が伝承する地域の発掘調査中の看板です。
ここの発掘調査自体は戦国時代と全く関係無い「古代遺跡」の調査です。 
伊勢原市は神話の舞台な上に、大山阿夫利神社や比々多神社と言う、縄文時代からの祭祀場跡や古墳時代の遺跡を旧社領に大量に抱える2大聖地が有りますからね…
※比々多神社の記事は「ココクリック!
※大山阿夫利神社の記事は「ココクリック!
伊勢原市に新東名高速が開通するのに伴い、神奈川県が「外堀の遺構」に新たな県道を建設する為、事前発掘調査をしています。
又、一つ、黒岩知事によって超重要な城址が破壊される…。
さて、この一見、糟屋館とは関係無さそうな外堀りの日本草創期の古代遺跡が発掘調査中の御蔭で、付近は丘陵の雑木林が伐採され戦国時代の糟屋館(巨大な平山城)の地形が露出し、その人口掘削された地形が綺麗に露出して見えます。
扇谷上杉家粕谷館の北東方面の切岸や曲輪群と思しき地形。
 
この地形↑なんか良く犬走りや曲輪らしき人工の地形が見えますね…
これも↓切岸に犬走りが有り、そこが農道として利用されたと推測できす地形が。
 
この写真、地面が露出していない部分は竹林に覆われていますよね?
どうも小机城、篠原城、笹下(ささげ)城の遺構を見て来た小生の感想として、室町時代の関東流の御城は、城域の切岸(きりぎし:人工的に掘削した石垣代わりの斜面)には雨天に地形が変わらない様に土止めの竹や篠(ささ)を植えていた様です。
竹だと戦時に伐採し、竹束(たけたば:火縄銃の銃弾を弾き返す盾)や乱杭(らんぐい:水掘りや川に設置するバリケード)、逆茂木(さかもぎ:空堀や切岸の底面に設置し、敵が落ちた時に串刺しにする罠)に加工出来ます。
篠は脂分が多く良く燃える燃料(ただし破裂する)にも成りますからね。
城塞の保持と、軍備、更には秋の筍(たけこの)を干して保存食にしたりと様々な用途で役に立った訳です。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この糟屋館、名前は館ですが地域の方々が守り伝えて来た地名と洞昌院を位置関係を衛星写真で見て見ましょう。
広大な範囲が城域だったのが解りますし、実際にその伝承通りに要害性の有る地域や、施設の跡が発掘されています。
赤枠で囲まれた文字は現在も伝わる地名です。
水色の線で囲んだ範囲が、伝承と小生が今回自分で見て回った周辺地形から見て取れた扇谷上杉家糟屋館の推定城域です。
水色で塗りつぶしている場所は、外郭と城外との境界と思われる沼掘り・空堀・堀切・切岸等の跡らしい地形です。

洞昌院の右手は現在も地元の老人や御寺の和尚様達によって空堀跡と地形が伝承されています。
さて、この衛星図を見て頂いたので道灌公暗殺の状況を説明します。
●以下「黒字」が共通の伝承以外の部分。
●以下「赤字」が室町時代から伝わる地元と洞昌院の伝承部分。
●以下「青字」が江戸時代の太田資武状の伝承部分。
●以下緑字 共通の伝承部分。

道灌公の暗殺の状況として文章しか読まない学者先生が参考にするのは「太田資武(おおたすけたけ)状」と言う古文書です。
…でもその内容、地元の伝承と比較すると、だいぶ端折(はしょ)られている内容ですし地元に伝わるかなり詳細な暗殺の状況を伝言ゲームしたら間違って伝わった様な感じなんです。
其(そ)れも其の筈(はず)で、太田資武状の著者の太田資武は太田道灌公の子孫ですが、糟屋館の所在地である神奈川県伊勢原市上糟屋と遠く離れた今の埼玉県さいたま市岩槻区生れ、その後、父が兄に造反された際に父と共に茨城県に移り、更に福井県に移住した人物なので詳しい事和は知る筈も無いんですね。
更に太田 資武自身が道灌公の死後84年して生まれた人物なので太田資武状が書かれた頃には既に事件から100年は経過した頃なんです。
ですから、正確な内容が伝わる方が困難なんすね。しかし、中にはそれが全てと誤解してらっしゃる方もいるんですね、机に噛り付いて実際に検証しないタイプの人とか。
でもまぁ、地元の伝承は事の始終が、もっとハッキリ伝わっています。

もう一度、衛星画像で位置関係を確認しながら…
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
1,洞昌院と地元の伝承…暗殺事件発生の原因。
太田道灌公の主家である扇谷上杉家は同族の山内上杉家と関東の覇権を賭けて抗争中だった。
道灌公の活躍により扇谷上杉家は優位な戦況を維持していた。
しかし道灌公の活躍と人望を恐れた器の小さい主君の扇谷定正と関係が段々悪化した。
それに目を付けた山内上杉家は扇谷上杉定正に太田道灌公を殺させ、扇谷上杉家を弱体化させようとした。
その為、定正を煽動(せんどう)した所、器の小さい定正は道灌公を殺害する事にし、糟谷館に道灌公を呼びつけた。
※太田資武状と共通の部分。

2,地元の伝承…暗殺の舞台、糟屋館城域周辺の地形。
洞昌院の場所より内側には、軍兵は進入を許されなかった。当時はここより先は平時は武将のみ入れた。
→洞昌院の直ぐ近くには「しめ引き」と言う地名が有ります。これは恐らく「閉め引き」と書き、そこには引き橋(ひきばし=戦時に撤去出来る橋)と開閉可能な城門が有ったと思われます。ですので、洞昌院の地域に伝わる伝承の証明に成るかも知れない地名です。
→糟屋館は上杉家の屋敷では無く、屋敷を取り込む巨大な糟屋城塞。
※太田資武状では事件の舞台に成った城館が名前の糟屋館から「ただの館」としてしか認識されていない。
※文献には載らない糟屋館の実情を示す地域伝承では立派な城塞の規模と施設を備えていた。

3-1,地元の伝承暗殺された時の状況。
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に糟屋館(実際は巨大な平山城)に呼び出され訪問した。
その際に定正の館で旅で疲れた体を労わる様に勧められた。
しかし主君は関東管領も務めた家柄なので、家臣の道灌公が主君と同じ風呂に入るのは失礼に当たる為、道灌公は洞昌院の近くにある同寺の塔頭にて休もうと移動した。そこで暗殺者に襲撃された。
その場所は現在、竹藪に成っている辺りと伝わる。
糟屋館近く豊岡(現在の伊勢原市富岡)の在地武将、小沢某も道灌公に与力したが討死した。
道灌公は即死では無く、武装兵の進入が許されない洞昌院に逃げ込もうと傷を負ったまま移動する。
竹藪の近くに在る七人塚の辺りで道灌公の配下武将が敵と交戦し討死
した。
しかし道灌公は洞昌院の山門に辿りついたが、不幸にも門は閉ざされていて逃げ込めなかった。御寺の衆が外の異常に気が付いて門を開け放った時には既に道灌公は虫の息だった。
→七人塚の北側、空堀沿いには竹藪が残る。仮にそこが暗殺者に襲撃された塔頭の所在地だとすると、洞昌院へ道灌公を逃がす為に配下の武将が洞昌院山門への別れ道に当たる七人塚の辺りで敵の追撃を食い止め時間稼ぎをしたと考えられ、七人塚と洞昌院の位置関係と伝承に整合性が高い。
→小沢某は御子孫が富岡に住んでいたので「小沢文書」と言う古文書にも討死の経緯が保存されていた。又、小沢家は在地武将だったので、道灌公が糟屋館に出張する折りの接待役を務めた可能性は高く、寝所の洞昌院塔頭への案内を務めている最中に事件に巻き込まれた可能性は高い。
※地理的にも事件の経過順に位置関係と伝承の整合性が高いので事実だった可能性が高く、しかも詳細。

3-2,太田資武状暗殺された時の状況。
その内容記されている暗殺の状況は、略(ほぼ)以下の様な内容です…
太田道灌公は主君の上杉定正に、扇谷上杉家の糟屋の館に呼ばれた。
定正が道灌公に「風呂にでも入ってゆっくりして行きなさい」と言ったので、道灌公は入浴(当時は蒸し風呂、でも糟屋なので温泉か?)した後、風呂場から出ようとした所、小口で曽我兵庫と言う武将に襲われて、「当方滅亡」と言葉を残し絶命した。
けど、これは先に述べた通り伊勢原の事件現場から、これを書いた太田資武の出身地岩槻まで遠く離れている上に当事者の道灌公達は殺されているので、事件の状況を人づてに伝言ゲームで岩槻に伝えたら不正確に伝わった結果だと、地元の伝承と比較すると解ります。
しかも資武の頃には事件の100年後ですからね。

3-3,「太田資武状」に書かれた状況を、岩槻の人間は知らない現地の伊勢原の地名で解釈すると?
実は「太田資武状」を現地の地名を踏まえて読めばで 「洞昌院伝承」と御互いの情報を補完する自然な解釈が出来るんですね。
道灌公は主君の定正の勧めにより旅の疲れを取る為に湯殿入り小口から出た所を襲撃された。
現地を歩かない、現地の地名を調べない古文書しか読まない怠慢学者が解釈すると誤解しか出来ないし、そのまま「風呂に入って小さい出入口から出ようとした瞬間に襲撃された」としか解釈出来ない。
しかし太田資武状の伝承内容を地名として解釈すると至極自然に無理なく、地元の伝承と整合性が高く解釈出来る様に成る。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
現地の地形と地名を見て見ると、「湯殿入」と言う地名が有り、その先には「虎口(こぐち=小口)」に当たると思われる屈曲した道路が有り、その先は馬攻口へと繋がっている。
太田資武状の湯殿入や小口を「風呂場の話しでは無く地名と解釈」する
  ↓
道灌公は主君の扇谷上杉定正に糟屋館で「風呂にでも入って休め」と言われ、(城外の寝所に定めた洞昌院の塔頭に移動する際に)湯殿入り(側)から( 馬攻口へ城を)出る小口(虎口)で暗殺者に襲撃され絶命した。
…これだと極々、自然な解釈ですし、地形的にも地元の伝承と整合性が高い訳です。
虎口と言うのは城門に敵兵を迎撃する為の射撃施設を設けている場所で、現代のトーチカ(要塞)みたいな構造物ですから、道灌公が虎口に差し掛かった時に弓兵を率いた暗殺者が作戦を実行し易い場所でもある訳です。

4,洞昌院の内規…道灌公絶命の状況を証明する洞昌院だけの伝承と規則。
道灌公は洞昌院の再興者で最大の支援者なのに、山門を閉じて居たばかりにその恩人を死なせてしまった事を忘れない為、以後、洞昌院は平成の現在に至っても「山門を閉めてはいけない」言う規則が有る。
※御寺の規則と、道灌公暗殺の地元の伝承には整合性が有る。もっとも、現在、山門は大正時代の関東大震災で倒壊後は再建されていない。

【洞昌院と、地名で解釈した太田資武状の両方を合わせ暗殺状況を検証】
…両方の伝承を合わせると、伝承内容と地名が完全に合致して詳細な暗殺の状況が解る。
扇谷上杉家糟屋館の暗殺場所推定
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に呼び出され、糟屋館(城塞)を訪問した。
  ↓
糟屋館の中、今の立原(たちはら=館原)に在った、扇谷上杉家の御殿(ごてん=屋敷)で定正に謁見し、会見が終了した頃に定正から「風呂にでも入って休め」と言われ退去した。
※この御殿が「湯殿(ゆどの)」と当時言われていたのではないだろうか?
※伊勢原市糟谷や七沢や大山は現在でも温泉地で、ここは扇谷上杉家の湯治場であり大山参りの際の宿泊所だったのでは。
※大山は平安時代から既に武士達の信仰を集めた聖地で、参拝者の通る道「大山街道」が関東全土に広がっている程だった。
  ↓
道灌公の寝所は糟屋館の外郭機能を果たした洞昌院の塔頭だったので、「湯殿入」と言う地名の方面を抜け、虎口(こぐち=小口)から城を下り馬攻口から寝所の洞昌院の塔頭(が在った七人塚の北方の竹藪) へ向かおうとした所、城内から攻撃し易い虎口の中で定正の兵に襲撃された
  ↓
道灌公は虎口で既に負傷したが、洞昌院の外に待機している自らの兵と連絡をとり安全を確保する為に、兵権不介入の洞昌院に逃げ込もうとした。
その際に、道灌公の配下武将7人が時間稼ぎをして道灌公を逃がす為に、(当時の)洞昌院の寺域を囲む参道への入口( 今の七人塚辺り)追っ手を迎撃した末、全員討死した
  ↓
道灌公は洞昌院の山門へ辿り付いたが、生憎と門は閉まっており既に瀕死だった道灌公は助けを呼ぶのがやっとだった。気づいた御寺の僧侶が状況も解らないまま山門を開いて道灌公を収容しようとしたが、時既に遅かった。
  ↓
道灌公は死亡の間際、残り少ない命と気力を振り絞り僧侶達に「当方滅亡…」と言葉を残して亡くなった。
  ↓
●道灌公の亡骸は追っ手により首を取られ定正に差し出されてしまった。
道灌公の胴体は直ちに蟠龍山洞昌院公所寺の僧等によって、現在の洞昌院北西にある御廟所で先ず荼毘に伏され(火葬)され葬られた。
※蟠龍山洞昌院公所寺の現住職様によると、同寺は元は臨済宗の宗門だった。後に曹洞宗に改宗している。
道灌公の首級は後に、現在の伊勢原市の下糟屋の糟屋城址や高部屋神社近く、法雨山大慈寺に葬られた。
※道灌公は幼少時、鎌倉に在る臨済宗の本山である建長寺で修行をしたが、法雨山大慈寺は現在も臨済宗。
  ↓
●道灌公の元盟友で後のライバルだった北条早雲公は、現在の伊勢原市一帯を支配下に治めると、道灌公の没後に荒廃し廃寺同然だった蟠龍山洞昌院公所寺の道灌公が荼毘に伏された場所に正式な御廟所を築き、洞昌院を支援し復興させ道灌公の菩提を弔わせた。近くの御霊神社に太田道灌公を御祭神として祀った。
※北条早雲公とその一族の小田原北条家、及び、その配下武将達は必ず曹洞宗の寺院を開基したり再興して支援し、北条家の方針として曹洞宗の禅で修行する家風が有った。
※公所寺の曹洞宗改宗時期は北条早雲公による支援を受けた頃と考えると極て自然。
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ちなみに↑北条早雲公。
関東で優れた善政を布いて庶民からの支持を集め瞬く間に領土を拡大した名君。
早雲公は今川家臣に伊豆の大名時代に道灌公と親交が有り、その後、扇谷上杉家と対立した事から敵対する立場に成りましたが、伊勢原を統治してから洞昌院を復興し道灌公の供養をしたり神社で御祭神として祀っている事から、ライバルであり親友だった事が垣間見えます。

どうでしょうか?
両方の伝承を現地の地図と伝承する古い地名を見ながら解釈すると、合点がいくでしょう?
こうやって、実際に地元に行くと自分が選んで読む本以外にも色んな補足情報を地元の人や関係者の子孫、歴代の住職や宮司様が伝える歴史を知る事が出来るってのが、小生の持論な訳です。

もっとも…
冷やかしで行くクズ、偉人を呼び捨てにする尊敬の念も無い無礼な奴、史跡を破壊する政商や商奴政治家の御用学者は関係者と縁を結べないどころか祟りに遭うでしょうね、神仏の神通力が本当に有るならば。
…まぁ、そんな学者が訪問すれば、宮司様や和尚様や御子孫は直ぐに見破るでしょうし、御縁は結べないどころか叱られて、ソイツの大学は出入禁止に成るでしょうね。

だからね!
歴史好きなら実際に現地を散歩しましょう!
そして自分の地元の神社サンや御寺サンや城址の里山をリフレッシュがてら歩いて説明看板を読んでは如何でしょうか?
意外な発見が有り楽しいかも知れませんよ!

では、次は信長公とお類様の恋愛を書いた記事の続きでお会いしましょう!

昨日、伊勢原市に住む義叔父夫妻に年末の挨拶に行き、帰りに伊勢原市上粕屋町に在る洞昌院公所寺(ぐぞじ)に御参りして来た。
この洞昌院様の愛称で地域の方から呼ばれる御寺は、戦国時代の関東を代表する名軍師:太田道灌公の菩提寺です。
この参道にある石柱は山門(さんもん=御寺の正門)代わりですが、本来の山門はこの石柱の手前50mの所に在ったそうです。
山門は大正時代の関東大震災で倒壊して以来、再建されていませんが、道灌公にまつわる話が寺伝として残っています。
洞昌院は道灌公の暗殺事件発生以来、山門を閉じてはいけない。と言う決まりが有るそうです。
ですから仮の門も造られていないんですね。
…太田道灌公を御存知無い方も多いと思いますので少し説明します。
太田道灌公は、現在の東京の基盤に成った江戸城、埼玉県川越市の基に成った川越城、横浜市新横浜辺りに佐江戸城を築城し、それらの地域の発展の基礎を創られた偉大な人物です。
下は旧江戸城の皇居内の衛星写真です。

今でも皇居の御堀には「道灌掘り」の地名も残っているので有名な人物でもあります。
御自身は大大名程の勢力を持ちながら、主家の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の為に執事(しつじ=社長代理みたいな感じ)として主君の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)定正(さだまさ)を良く補佐しました。
合戦でも無敗を誇った名将でしたが、野心が無かった為に独立勢力化せず、結果的に道灌公の人望と勢力に嫉妬した暗愚な主君の扇谷上杉定正に暗殺されてしまった人物です。
関東人にとっては関東の発展に寄与して下さった偉大な人物の一人が、太田道灌公な訳です。

これは次回の記事で説明する伝承の複線ですので覚えて置いて下さい。
同寺は、最初、鎌倉時代の征夷大将軍を務めた源家の与力で忠臣である粕屋有季(かすやありすえ)公の一族が大檀那として支援した御寺でした。
ですから昔は塔頭や御社を沢山構える大寺院でした。
その名残で境内には今も神様が沢山祀られています。
しかし、粕屋有季公が北条時政による主家源家への謀反や姦計に憤慨し、源頼家公の乳母の比企家と共に義挙しますが逆に敗北し自害されてしまいました。
その際に同寺は荒廃しますが、室町時代に成ると扇谷上杉家の拠点の粕屋館(粕屋城)の一部、城域鎮護の寺院として太田道灌公により再興されました。
それ以降、道灌公の主家:扇谷上杉家の祈願所に定められ高い格式を持ちました。
その御縁で洞昌院公所寺の寺紋は太田家の太田桔梗紋の使用を許されています。
太田道灌公は戦国時代の関東を代表する名軍師にして無敗の名将です。
この洞昌院は太田道灌公の再興ですが同時に菩提寺であり、道灌公の主家の扇谷上杉家の拠点:粕屋館(大規模な平山城)の遺構の一部であり、狭量な主君扇谷上杉定正による道灌公暗殺の舞台でもあります。
ですから道灌公に纏わる御堂や…

…道灌公の血筋である源氏の武将や、鎌倉幕府以来の坂東武者が信仰した弁財天様の御社も在ります。
昔は本当に大きな寺院だったんでしょうね。
道灌公は品川湊(しながわみなと)を重視し江戸城を築城し今日の江戸=東京の発展の基礎を築いた偉人とも言える方です。
下は道灌公の御廟所の入口
横には、附近の史跡の案内板も有ります。  
この御廟所は道灌公とライバルで協力者でもあり交流の有った北条早雲公が道灌公の御霊を弔う為に造られたそうです。
今回の訪問で和尚様より、文献には載らない寺伝承の暗殺の一部始終を御教授頂き、更に道灌公の御位牌も拝ませて頂きました。…光栄だ。
学者が良く読む文献には簡略化された事件の概要しか無いのですが、御寺や神社には当事者が支援者として関わっているので詳細に歴史事実が和尚様や宮司様により伝承されているんですね。
ですから、小生は文献も読み更に直接、宮司様や和尚様に教えを請いに飛び回ります。
現地には、求める情報以外の発見も有りますからね。
今回、道灌公の墓前にお参りした事や御位牌を拝ませて頂いた事は、以前、直筆の古文書を直に拝見して以来再びの道灌公と小生の御縁です。
来年また年か明けたら御参りにきます。
戦国時代、関東の文化保護や発展、安定に貢献された名将:北条早雲公と並んで尊敬する偉人なので感動の極みだ。
…この気持ちは大切にしよう。
道灌公の御位牌、愛知でも信長公と実質正妻のお類様の御位牌を拝ませて頂いた事は、今後一生の思い出だな。

洞昌院に現存する太田道灌公の御廟所を整備し、付近に太田道灌公を御祭神として御霊神社に合祀されたのは道灌公の暗殺事件後に、この地を扇谷上杉家から奪取し治めた名君として名高い北条早雲公です。
道灌公の元盟友で後のライバルだった2015-03-24-06-00-23
北条早雲公は、現在の伊勢原市一帯を支配下に治めると、道灌公の没後に荒廃し廃寺同然だった蟠龍山洞昌院公所寺の道灌公が荼毘に伏された場所に正式な御廟所を築き、洞昌院を支援し復興させ道灌公の菩提を弔う菩提寺に定めたんですね。
※北条早雲公とその一族の小田原北条家、及び、その配下武将達は必ず曹洞宗の寺院を開基したり再興して支援し、北条家の方針として曹洞宗の宗論を学ぶ家風が有った。
※公所寺の曹洞宗改宗時期は北条早雲公による支援を受けた頃と考えると極て自然。

こちらは↓今回の主役の太田道灌公。
太田道灌公
道灌公が戦に強く築城の名手だった以外に、人格的にはどんな人物だったのか解る文献や伊勢原市や横浜市や東京都の伝承があります。
横浜市の金沢文庫博物館には太田道灌公が関東管領の執事(しつじ=社長代理)として、神社仏閣を保護した際に発給した多くの文章が残っています。
当時は政治問題の処理と神社仏閣の保護管理は鎌倉公方や室町幕府将軍が担っており、鎌倉公方の政権代行者の関東管領の職務の更に代行者の道灌公は、多くの政治文書や神社仏閣関連文書の処理をされていたようです…
戦をしながら城も築城して、更に現地を視察しながら多くの政治と宗教の実務を処理するとか経営者として有能過ぎるくらい有能だった事が解ります。
因みに、戦国時代当時の鎌倉市や関東の格式の高い御寺に関する古文書には人気の高い剣豪将軍足利義輝公が発給した文章も多く現存しています。逆に言うと太田道灌公の職責がとんでも無く重要な位置に在った事が解りますね。

小生の地元横浜の蒔田吉良家の殿様とも交流が有ったので横浜の蒔田の殿様の間宮家や蒔田吉良家の吉良成高(きらしげたか)公の顕彰活動をしていると、道灌公が大変な文化人だった事が解ります。
その成高公の居城今の横浜市の南区蒔田の蒔田城址(蒔田御所)近く、南太田と言う場所は、現在、太田小学校の所在地が道灌公の城館だった事に由来します。
※蒔田城や南太田の地名に関連する記事は「ココクリック!

「万里集九」と言う戦国時代初期の歌人が書いた関東地方の旅行記「梅花無尽蔵と言う本の中に吉良成高公と太田道灌公の信頼関係が解る一文が有るのですが、この本の著者の万里集九は道灌公に江戸城に招待されており、道灌公が江戸城で歌会(和歌を楽しむ集まり)を開いていた事が解ります。
道灌公は武将としても優れていましたが
、実は京都の朝廷でも歌人として有名だった文化人だったんですね。
ですので、道灌公の御廟所には下の顕彰文が有ります。
2015-11-25-15-31-36
伊勢原市や神奈川県育ちの歴史好きには有名な逸話です。
この物語はこんな感じです…
道灌公はある日、大山に狩りに出かけました。その日は生憎(あいにく)の雨天となり…
大山は雨乞いの神様の山なので良く雨が降るので、大山阿夫利(あふり)神社=雨降り山とも呼ばれるのですが、そこで道灌公は道すがら茅葺(かやぶき)屋根の建築の農家に立ち寄り、蓑(みの=雨合羽(あまがっぱ))を借りようとしたそうです。
すると、応対したその家の若い女性は蓑ではなく、道灌公に「山吹の花」を差し上げたそうです。
道灌公は山吹の花の意味が解らず不快に思い怒った所、同行の部下から女性が山吹の花を差出したのは、彼女に教養が有って昔の詩集に載っている唄を引用し「蓑も無い程貧乏で申し訳ない」と、雅に謝罪をしたのだと聞かされ己が風雅の道に疎(うと)い事を恥じて、以降、歌道を深く学ぶ様に成り結果的に詩歌の大家と呼ばれるまでに風流を極めたそうです。
因みに、その若い女性が山吹に思いを込めた歌は下の通りです…
「七重八重 花は咲けども 山吹の"実の"一つだに なきぞ悲しき」
…「実の」と「蓑」をかけたんですね。この女性、こんなに高い教養を持っているとは何者なんでしょうね~?
小生はそこまでは知りませんが、この女性、実は余り貧乏な訳では無かったと思います。
何故なら、この女性、「藁葺(わらぶき)屋根」ではなくて「茅葺屋根」の家の住人ですよね?
茅葺屋根ってのは、普通の母屋(おもや=住居スペース)の屋根を吹き替えるだけでも今の価値で5000万円位するそうです。
ですからね、貧乏農民では無くて土地の庄屋さんや小領主位の家柄の経済力を持つ家の若い娘さんだったから戦乱の当時でも高いレベルの教育を受けれる家庭環境に在った事が想像できますね。
…茅葺屋根の古民家の話しは以前、記事に書いた事が有るので御興味が有れば読んで見て下さい。
※茅葺屋根の古民家の記事は「ココクリック!
※東京や埼玉の人は大山と扇谷上杉家と太田道灌公の深い関係を知らないので、それぞれ、この逸話は東京や埼玉だと思い込んでいるそうです。まぁ、東京や埼玉から見たら神奈川県が思い込んでると思うのかな(笑)?

しかし…
天下の名将、名軍師の太田道灌公に風流を極めさせる切っ掛けに成ったのが若い乙女ってのは…
女性は男性を成長させる存在なんですね~。

こうやって御寺や神社、歴史史跡を御散歩したり、当事者の御子孫と御話をさせて頂くと、昔の偉い人の凄く人間らしい一面を知れたり、ホッコリするエピソードに出会う事も有るんですよ~。
面白いでしょう?
だから文字だけ読んでいても歴史はつまらないので、関係者と知り合いに成るのが一番面白いんですよ!
ただし…
好奇心で行くのではなく、心からリスペクトして行く人にしか御縁は結ばれないと思いますが。

では、次は信長公とお類様の恋愛を書いた記事の続きでお会いしましょう!

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