神奈川県の伊勢原市には神話の時代、弥生時代以前から聖地として存続する神社が数ヵ所在(あ)ります。
それ等の神社の旧社域からは縄文時代の祭祀遺跡~古墳時代の墳墓等が沢山出土していて、伊勢原市の大山の山頂~麓(ふもと)まで日本の神話を証明する様に❝地下を掘れば遺跡❞と言っても大げさでは無い神社が沢山有ります。
その一つが高部屋神社と言う神社です。
延喜式に登場する神社で、式内社の中でもかなり古い歴史を持つ神社です。
高部屋神社
この現在の高部屋神社は平安時代に現在の場所に社殿を移されたのですが、それでも尚、神話の時代の神秘や「浦島太郎伝説」の結びつきを彷彿とさせる建造物や意図的に古代の儀式を惹起(じゃっき)させる配置で植えられた古代は霊的な意味を持った植物等、多くのミステリーを持ち、尚且つ明治時代に成るまで江戸から御参りに来る観光客で賑わった程の有名な神社でした。
なんせ、この神社の目の前の道、現在は普通の住宅街の中の道ですが、この道は昔の実は大山街道なんです。
江戸時代、江戸の市民には富士山登山と伊勢原市の大山登山はセットで憧れの観光プログラムでした。
これは平安時代末期にも、鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公も行ったレクリエーションを兼ねた山岳信仰でした。
現代では余り❝権化❞や❝権現❞と言う言葉を口にする日本人もいなく成りましたが、昔の人は自然と神様や仏様の存在を結び付けて同一視する事で自然信仰と神仏崇拝を同時に行っていました。
伊勢原市に在る❝大山は大山祇大神の権化❞として…
富士吉田から登山する❝富士山は大山祇大神の娘神様の此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の権化❞として…
それごれ信仰対象と成っており、江戸市民はその山を登る事で幸せに成る御利益を授かろうとしたり、ごく自然に風景の美しさに感動したりしていました。
先ずは、伊勢原市周辺の神社や城跡の位置関係を御覧下さい。
※画像クリックして拡大して見て下さい!
画像の中心に赤いマークで高部屋神社の元宮、画像の右下に高部屋神社が有ります。
実は、この高部屋神社も元は渋田山と言う場所に在り、山岳信仰の対象でした。
渋田川の水源地で弥生時代から農耕を始めた日本人にとって灌漑用水に利用したり、湧水地は飲用水の聖地として大切にされたんですね。
しかも!
古代はこの渋田山は❝奥津城(おくつき)❞と呼ばれていた事が知られています。
奥津城とは現代の神道では一人一人の御墓の事を指す言葉に成ってしまいましたが、元々は神社の御祭神として祀られた聖地、つまり御祭神として神格化された古代の豪族の“古墳”や信仰対象になる聖地その物を指す代名詞だった様です。
そして、この一帯は現代では山深い温泉地としての印象しか無い人もいると思いますが、実は古代には津久井方面に抜ける街道や山梨に抜ける街道、古代の東海道だった矢倉沢往還が伊勢原市や厚木を通過する重要な土地でもありました。
実際、高部屋神社の奥津城である渋田山は実は飛鳥時代や奈良時代にも重要な聖地で、神道とも仏教とも結び付きの強い修験者の人々に大切にされていました。なので奈良東大寺の大仏を作った行基大僧正が日向薬師の別名で有名な宝寺坊(ほうじょうぼう)を開く等、高部屋神社元宮と三之宮比々多神社を中心として周辺一帯は縄文~奈良時代くらいまでの古代人と何か関係の有る山城か山岳集落の有った事を匂わせる聖地でもあります。
実際に遺跡だらけなんですよ、伊勢原市と厚木市。
そして奥津城の❝城❞と言う字は、本来の漢字の意味では現代日本語の❝町❞を指します。
更に漢字の❝町❞の本来の意味は、田圃(たんぼ)の区画を数える単位で市街地を指す意味は有りません。
中国の❝都市❞は、近代まで城壁に覆われた城塞都市でしたからね、唐の時代に西安に留学した大和朝廷の国費留学生達は、城の意味と城壁の意味を誤認して帰って来たのかも知れませんね。
現代日本語の❝町❞を指す言葉は、都市としての町は❝城❞と書き、城の中の所謂(いわゆる)❝町❞の意味の漢字は❝街❞と書きます。
現代の華語でも日本語で言う処の町の事を❝城市❞と言います。
高部屋神社の祭祀には現代の神道で紙に置き換えられた物や、漢字の意味が転化する前の原型が残っているのかも知れません。
西暦900年代に醍醐天皇が政令で保護する神社をリストアップした一覧に掲載される一覧の神社の中でも古墳時代以後成立の歴史が1500年程度しかない比較的新しい場所を除いては、式内社は全て考古学で縄文海進と呼ばれる古代の海岸線よりも更に内側に存在します。
ちょっと地形の比較図と周辺の重要な神社と武士の城館の位置関係を見てみましょう。
※クリックして拡大して見て下さい。
上から順に・・・
【迅速測図】
農研機構様が提供しているアプリでWeb版とGoogleEarthと同期させたアプリ版が有り、明治時代に帝国陸軍が測量した地図で江戸時代が終わったばかりの時代の地形が残っています。
つまり鎌倉時代~室町時代~戦国時代とそう地形の変わらない時代の地形が記された地図です。
【GoogleEarth】
言わずと知れたGoogle社が日本のZENRIN社やアメリカ海軍の地図と衛星情報を共有し提供しているアプリで衛星写真と地形を一般人でも閲覧出来ます。
【縄文海進想定図】
小生がGoogleEarthに重要な拠点を登録し、
湧水地や清涼な水の水源は古代には集落を形成する場所に成っていたんですね。考古学的に判明している海岸線が最大限内陸に入っていた時代の地形図を貼り付け同時に表示した物です。
これを見れば昔の地形との比較が出来ますよね?
現在の高部屋神社は平安時代~鎌倉時代の糟屋城と呼ばれ現在は丸山城址と呼ばれる丘陵に存在します。
その糟屋城の少し南に岡崎城と言う伊勢原市~平塚市に跨る大城郭群だった丘陵地帯が有ります。
この一帯が重要だったのは地図の比較でも解る通り岡崎城や高部屋神社の東側は古代には海だった影響で戦国時代には水捌けの悪い土地だったので水も腐葉土と混ざった沼が広がる土地でしたから、当時の人は“土”が“腐る”と書いて”土腐(ドブ)”と呼んでいました。
こんな湿地に囲まれた場所なので古代の人が行き交う道は低湿地を避けて山の尾根や中腹に葉っぱの葉脈の様に広がっていて明治~昭和初期の考古学者がステレオタイプに“未開の時代”と決めつけるのが一発で“間違い”と解る程に活発に文化交流も軍事行動も行われていた様です。
昭和初期の学者は街道が近現代の基準で現代の道路の様な幅を想像していた様ですが、実際は戦国時代の上杉謙信公や武田信玄が造成街道も、北条氏康公が築城した城を貫く街道も、道幅は現在の登山道程、1m強、広くて3m前後と言うのが基本でした。
こんな感じにね。だから現代人の感覚の“鎌倉街道”みたいに江戸時代の幹線道路として拡張された道は明治初期にも極々僅かで、実際は細い道がアチラコチラに広がっていたのであってドーンと太っい街道が有ると言うのは誤解な訳です。
もう一つ別の位置関係の画像を御覧下さい。
※画像をクリックして拡大して見て下さい。
画面中央の赤の印で高部屋神社元宮がありますね?モロに渋田山の中央部に位置する事が解るかと思います。この渋田山が渋田川の水源地であり、大山の山裾の綺麗な形の別峯だった事から信仰対象に成った様です。
渋田山の北側の山には大山と山裾の峰伝いの尾根道で繋がる日向薬師こと宝城坊が有りますよね?その日向薬師の山の裾野が戦国時代に重要場所だったので七沢城が築かれました。
それ等の神社の旧社域からは縄文時代の祭祀遺跡~古墳時代の墳墓等が沢山出土していて、伊勢原市の大山の山頂~麓(ふもと)まで日本の神話を証明する様に❝地下を掘れば遺跡❞と言っても大げさでは無い神社が沢山有ります。
その一つが高部屋神社と言う神社です。
延喜式に登場する神社で、式内社の中でもかなり古い歴史を持つ神社です。
高部屋神社
この現在の高部屋神社は平安時代に現在の場所に社殿を移されたのですが、それでも尚、神話の時代の神秘や「浦島太郎伝説」の結びつきを彷彿とさせる建造物や意図的に古代の儀式を惹起(じゃっき)させる配置で植えられた古代は霊的な意味を持った植物等、多くのミステリーを持ち、尚且つ明治時代に成るまで江戸から御参りに来る観光客で賑わった程の有名な神社でした。
なんせ、この神社の目の前の道、現在は普通の住宅街の中の道ですが、この道は昔の実は大山街道なんです。
江戸時代、江戸の市民には富士山登山と伊勢原市の大山登山はセットで憧れの観光プログラムでした。
これは平安時代末期にも、鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公も行ったレクリエーションを兼ねた山岳信仰でした。
現代では余り❝権化❞や❝権現❞と言う言葉を口にする日本人もいなく成りましたが、昔の人は自然と神様や仏様の存在を結び付けて同一視する事で自然信仰と神仏崇拝を同時に行っていました。
伊勢原市に在る❝大山は大山祇大神の権化❞として…
富士吉田から登山する❝富士山は大山祇大神の娘神様の此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の権化❞として…
それごれ信仰対象と成っており、江戸市民はその山を登る事で幸せに成る御利益を授かろうとしたり、ごく自然に風景の美しさに感動したりしていました。
先ずは、伊勢原市周辺の神社や城跡の位置関係を御覧下さい。
※画像クリックして拡大して見て下さい!
画像の中心に赤いマークで高部屋神社の元宮、画像の右下に高部屋神社が有ります。
実は、この高部屋神社も元は渋田山と言う場所に在り、山岳信仰の対象でした。
渋田川の水源地で弥生時代から農耕を始めた日本人にとって灌漑用水に利用したり、湧水地は飲用水の聖地として大切にされたんですね。
しかも!
古代はこの渋田山は❝奥津城(おくつき)❞と呼ばれていた事が知られています。
奥津城とは現代の神道では一人一人の御墓の事を指す言葉に成ってしまいましたが、元々は神社の御祭神として祀られた聖地、つまり御祭神として神格化された古代の豪族の“古墳”や信仰対象になる聖地その物を指す代名詞だった様です。
そして、この一帯は現代では山深い温泉地としての印象しか無い人もいると思いますが、実は古代には津久井方面に抜ける街道や山梨に抜ける街道、古代の東海道だった矢倉沢往還が伊勢原市や厚木を通過する重要な土地でもありました。
実際、高部屋神社の奥津城である渋田山は実は飛鳥時代や奈良時代にも重要な聖地で、神道とも仏教とも結び付きの強い修験者の人々に大切にされていました。なので奈良東大寺の大仏を作った行基大僧正が日向薬師の別名で有名な宝寺坊(ほうじょうぼう)を開く等、高部屋神社元宮と三之宮比々多神社を中心として周辺一帯は縄文~奈良時代くらいまでの古代人と何か関係の有る山城か山岳集落の有った事を匂わせる聖地でもあります。
実際に遺跡だらけなんですよ、伊勢原市と厚木市。
そして奥津城の❝城❞と言う字は、本来の漢字の意味では現代日本語の❝町❞を指します。
更に漢字の❝町❞の本来の意味は、田圃(たんぼ)の区画を数える単位で市街地を指す意味は有りません。
中国の❝都市❞は、近代まで城壁に覆われた城塞都市でしたからね、唐の時代に西安に留学した大和朝廷の国費留学生達は、城の意味と城壁の意味を誤認して帰って来たのかも知れませんね。
現代日本語の❝町❞を指す言葉は、都市としての町は❝城❞と書き、城の中の所謂(いわゆる)❝町❞の意味の漢字は❝街❞と書きます。
現代の華語でも日本語で言う処の町の事を❝城市❞と言います。
高部屋神社の祭祀には現代の神道で紙に置き換えられた物や、漢字の意味が転化する前の原型が残っているのかも知れません。
西暦900年代に醍醐天皇が政令で保護する神社をリストアップした一覧に掲載される一覧の神社の中でも古墳時代以後成立の歴史が1500年程度しかない比較的新しい場所を除いては、式内社は全て考古学で縄文海進と呼ばれる古代の海岸線よりも更に内側に存在します。
ちょっと地形の比較図と周辺の重要な神社と武士の城館の位置関係を見てみましょう。
※クリックして拡大して見て下さい。
上から順に・・・
【迅速測図】
農研機構様が提供しているアプリでWeb版とGoogleEarthと同期させたアプリ版が有り、明治時代に帝国陸軍が測量した地図で江戸時代が終わったばかりの時代の地形が残っています。
つまり鎌倉時代~室町時代~戦国時代とそう地形の変わらない時代の地形が記された地図です。
【GoogleEarth】
言わずと知れたGoogle社が日本のZENRIN社やアメリカ海軍の地図と衛星情報を共有し提供しているアプリで衛星写真と地形を一般人でも閲覧出来ます。
【縄文海進想定図】
小生がGoogleEarthに重要な拠点を登録し、
湧水地や清涼な水の水源は古代には集落を形成する場所に成っていたんですね。考古学的に判明している海岸線が最大限内陸に入っていた時代の地形図を貼り付け同時に表示した物です。
これを見れば昔の地形との比較が出来ますよね?
現在の高部屋神社は平安時代~鎌倉時代の糟屋城と呼ばれ現在は丸山城址と呼ばれる丘陵に存在します。
その糟屋城の少し南に岡崎城と言う伊勢原市~平塚市に跨る大城郭群だった丘陵地帯が有ります。
この一帯が重要だったのは地図の比較でも解る通り岡崎城や高部屋神社の東側は古代には海だった影響で戦国時代には水捌けの悪い土地だったので水も腐葉土と混ざった沼が広がる土地でしたから、当時の人は“土”が“腐る”と書いて”土腐(ドブ)”と呼んでいました。
こんな湿地に囲まれた場所なので古代の人が行き交う道は低湿地を避けて山の尾根や中腹に葉っぱの葉脈の様に広がっていて明治~昭和初期の考古学者がステレオタイプに“未開の時代”と決めつけるのが一発で“間違い”と解る程に活発に文化交流も軍事行動も行われていた様です。
昭和初期の学者は街道が近現代の基準で現代の道路の様な幅を想像していた様ですが、実際は戦国時代の上杉謙信公や武田信玄が造成街道も、北条氏康公が築城した城を貫く街道も、道幅は現在の登山道程、1m強、広くて3m前後と言うのが基本でした。
こんな感じにね。だから現代人の感覚の“鎌倉街道”みたいに江戸時代の幹線道路として拡張された道は明治初期にも極々僅かで、実際は細い道がアチラコチラに広がっていたのであってドーンと太っい街道が有ると言うのは誤解な訳です。
もう一つ別の位置関係の画像を御覧下さい。
※画像をクリックして拡大して見て下さい。
画面中央の赤の印で高部屋神社元宮がありますね?モロに渋田山の中央部に位置する事が解るかと思います。この渋田山が渋田川の水源地であり、大山の山裾の綺麗な形の別峯だった事から信仰対象に成った様です。
渋田山の北側の山には大山と山裾の峰伝いの尾根道で繋がる日向薬師こと宝城坊が有りますよね?その日向薬師の山の裾野が戦国時代に重要場所だったので七沢城が築かれました。
扇谷(おおぎがやつ)上杉家の重要な拠点として対立する山内(やまのうち)上杉家や、後に敵と成る北条家との間で激戦が繰り広げられた御城でしたが、その理由は愛川町の中津川沿いや津久井方面に抜けて甲斐国に至る街道を抑える場所だったからに他なりません。
更に大山は山頂の聖地から縄文時代の祭祀遺跡も出土する大山阿夫利神社と、その阿夫利神社を管理していた元別当時の大山寺があり、やはりコチラも修験道の聖地でした。
弥生時代~行基大僧正の奈良時代は平野部は元海の湿地だらけだったので街道は“尾根道”や中腹に巡らされた山道が主流でした。
これらの聖地化した山の麓(ふもと)には大規模な遺跡が発掘されていて、高部屋神社元宮南側の山には高部屋神社と同じ延喜式内社の相模国三之宮比々多神社元宮が有ります。
高部屋神社元宮の東側にも延喜式内社の小野神社があり、この一帯は倭建と敵対した小野の地名が残り知々夫氏や小野氏の祖先の天下春命を祀る勢力下として早くから栄えました。
平安時代には“小野小町”の出生地にも成っています。
小野神社は、平安時代末期~鎌倉時代に活躍した愛甲季隆(あいこうすえたか)公や鎌倉幕府の重鎮として活躍した元貴族で学者の大江広元が信仰した神社でもありました。
高部屋神社元宮と高部屋神社の東側に宝積寺と言う御寺が有ります。その宝積寺の近くに有る神明社の一帯が愛甲季隆公館跡と伝わっています。
愛甲季隆公は鎌倉幕府で那須与一宗高公と1、2を争う弓の名手だった武将でした。武勇に長けた畠山重忠公を二俣川の合戦で射殺した日本一のスナイパーでもありました。
高部屋神社元宮や高部屋神社のある伊勢原市や厚木市には現代も地名に多くの名称の足跡が残っています。
毛利台と言う地区も厚木市には有りますが、鎌倉時代には鎌倉時代の重鎮として活躍した大江広元公の御子息の大江季光公が所領を与えられて苗字として毛利を使用し毛利季光を名乗った事が広島県や山口県を代表する戦国大名、毛利氏の始まりでもありました。
つまり毛利元就公は大江広元公の御子孫で、毛利氏は厚木市の出身な訳です。
この様に、旧大住郡と言われるこの一帯と愛甲郡は古墳時代に成ると平塚市にも仁徳天皇の弟王の莵道稚郎子(うじのわきのいらつこ)が東征して来て拠点を置いたり渡来文化が早くから導入された事も有り、軍事的にも農業的にも開けて平安時代にも非常に活躍した武士団の拠点に成っていました。
現在の高部屋神社の社殿の在る場所は、旧糟屋の荘園だったので現在も上粕屋~下糟屋の地名が残りますが、現在の高部屋神社の有る丘陵は平安時代に源頼朝公の配下の武将の糟屋有季(かすやありすえ)と言う御殿様が築いた糟屋城で現代では丸山城や千鳥ヶ城と呼ばれる御城の一部でした。
糟屋有季公が御自分の領地の鎮守の神様として、高部屋神社を渋田山から現在地に遷宮されたんですね。
しかし元の社殿の所在地だった渋田山には現在も奥院として祠(ほこら)が建っていると、氏子サンから教えて頂きました。それが高部屋神社元宮です。
この奥院の在る渋田山が古代❝奥津城❞と呼ばれた理由であろう要素は、歴史好きには容易に想像が出来ます・・・
先に述べた通り、奥津❝城❞と言う位なので恐らく元々の高部屋神社の社殿の在った奥院の周辺には古代人の山間の集落が存在したはずです。
そして奥津城の❝津❞の字は現代語で言う処の❝港❞と言う意味の言葉です。
❝津波❞と言うのは❝港に襲来する大波❞と言う意味に成りますね。
つまり、この奥津城=高部屋神社奥院は、古代は海が眼前に広がっていたと言う事に成ります。
・・・でも上の衛星画像で見た通り、現在は大分内陸ですよね?
しかし近隣のやはり縄文時代から存続する比々多神社と、この高部屋神社には現在も海に関する神事が存続しています。
下の写真は高部屋神社拝殿に吊(つ)るされた❝ホンダワラ❞と言う海藻です。
高部屋神社では、昔から神社にこの海藻のホンダワラを社殿に供える風習が残っています。
ホンダワラは古代名は❝莫告喪(なのりそ)❞と呼ばれ、和歌では動詞の❝名告(なの)る❞の枕詞(まくらことば)として用いられた風流な海藻なのですが…
小生は個人的に軍神であり水神様の八幡大菩薩=応神天皇の本来の御名前の❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)❞の発音「ホンダワケ」と「ホンダワラ」が似ていると感じるので、なにがしか古代に於(お)いては、この海藻のホンダワラは応神天皇と結び付けられて考えられた植物だったんじゃないかと感じました。
紙垂(しで)の由来はこれなんじゃないかな?とその形状を見ていると思います。
大和朝廷の都が内陸に変遷して行ったり海岸線の後退に従って莫告喪を神職が自ら採取に行くのが困難に成り、奈良や京都が首都に遷都された頃には日本の中心では逆に高級品の神で代用する様に成って価値が逆転して廃れてしまったのかも知れませんね。
…実際、この高部屋神社は江戸時代までは高部屋八幡宮や糟屋八幡宮の別名で日本全国で有名だった神社であり、御祭神も息気長足姫(おきながのたらしひめ)=神宮皇后と応神天皇です。
近くの前鳥神社は莵道稚郎子が滞在した場所であり、平塚八幡宮は仁徳天皇の政令によって開かれています。
古い八幡宮は、だいたいが海や湖や大河川の傍に建てらた治水と雨乞いの神様です。
恐らく高部屋神社は江戸時代に高部屋八幡宮とは言われたものの、御祭神を見ても地理的にも平塚八幡宮より古く神宮皇后を慕って大磯に移住して来た高麗の人々とも関係が有りそうです。
古墳時代に成ると現在の平塚八幡宮の辺りまで陸地に成っていた様で、高部屋神社も内陸に成ってしまった事から海から離れてしまった様(よう)です。
この高部屋神社には明治まで続いた❝汐汲み神事❞が存在しました。
この神事では歴代の宮司は海まで必ず徒歩で歩いて行き、海水を汲んで来たそうです。
拝殿の屋根の破風(はふ=一部分構造の名前)の部分には、浦島太郎の物語の彫刻まで有り、この高部屋神社の由緒が海と密接な関係が有る事を窺わせています。
もう一度、高部屋神社周辺の位置関係を見て下さい。
高部屋神社の社殿が元々在った場所❝奥院❞の所在地の古代名は奥津城ですが…
津は先程申し上げたとおり、❝港❞と言う意味です。
では何故、こんな山の中に奥❝津❞城の津の地名が存在し、海に関する神事が存続するかと言うと…
それは、古代、この場所が海だったからです。
この伊勢原の周辺の神社の元に成った古代人の祭祀史跡の出土する場所は伊勢原皇大神宮を除いて高部屋神社を含めだいたいが神話の以前の縄文時代から存続しています。
高部屋神社の前には渋田川と呼ばれる川が流れており、その上流までさかのぼると奥院のある渋田山=奥津城まで辿(たど)りつけます。
ここからは推測ですが、恐らく昔は渋田川にそって奥津城まで細長い入り江が続いていたのかも知れません。
❝渋田山=奥津城❞には古代~古墳時代くらいまで入り江に漁村があり渋田山にも山麓の集落があり❝城❞=町=村を形成していたのかも知れません。
では、上の海岸線を元に衛星写真上に高部屋神社や比々多神社の位置と、縄文時代の海岸線の位置を再現してみましょう。
ね?
見事に高部屋神社の近くまで、海が入り込んできていたのが解るでしょう?
つまり、この奥津城は古墳時代位の古代の漢字の本来の意味での城が在ったのかも知れません。
実際、この高部屋神社周辺の比々多神社や大山阿夫利神社一帯では縄文時代~奈良時代までの墳墓や祭祀上跡や住居跡が大量に発掘されていますしね。
しかし、まだ汐汲み神事が行われていた幕末には既に海岸線は現在の位置まで後退してしまっていたので、宮司様は古代の風習を守り伝える為に既に海岸線から10km以上内陸に取り残された高部屋神社から必ず徒歩で海まで海水を汲みに行ったそうです。
昔の宮司様は、こうやって日本の伝統文化を神事として守って下さったのですが、明治時代に成り神社や神話が国により統制される❝国家神道❞が成立すると、高部屋神社は400年強の歴史しか無い伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成り、この神代より続いていたであろう汐汲み神事も消滅してしまいました。
伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成ったのは、恐らく伊勢原大神宮の神様が伊勢系の神様で天皇家の祖先に当たる天照大神だからでしょう。
神奈川の発展に寄与して下さった歴史人物に関係の有る神社を色々回って来ましたが、どうも関東では明治政府によって出雲系の神様の神社や伊邪那美神系の神社は合祀の名の下に弾圧を受け多く消滅しています。
しかし!
平成の末期に高部屋神社を兼務する伊勢原大神宮の宮司様や高部屋神社氏子サン達が、この神事を約160年ぶりに復活させて下さいました。
まぁ、復活版では車を使うらしいですが、馬と違いバケツで海水運んでも溢れる程入れなければ溢(こぼ)さないし今はポリタンク有りますしね(笑)。
更に大山は山頂の聖地から縄文時代の祭祀遺跡も出土する大山阿夫利神社と、その阿夫利神社を管理していた元別当時の大山寺があり、やはりコチラも修験道の聖地でした。
弥生時代~行基大僧正の奈良時代は平野部は元海の湿地だらけだったので街道は“尾根道”や中腹に巡らされた山道が主流でした。
これらの聖地化した山の麓(ふもと)には大規模な遺跡が発掘されていて、高部屋神社元宮南側の山には高部屋神社と同じ延喜式内社の相模国三之宮比々多神社元宮が有ります。
高部屋神社元宮の東側にも延喜式内社の小野神社があり、この一帯は倭建と敵対した小野の地名が残り知々夫氏や小野氏の祖先の天下春命を祀る勢力下として早くから栄えました。
平安時代には“小野小町”の出生地にも成っています。
小野神社は、平安時代末期~鎌倉時代に活躍した愛甲季隆(あいこうすえたか)公や鎌倉幕府の重鎮として活躍した元貴族で学者の大江広元が信仰した神社でもありました。
高部屋神社元宮と高部屋神社の東側に宝積寺と言う御寺が有ります。その宝積寺の近くに有る神明社の一帯が愛甲季隆公館跡と伝わっています。
愛甲季隆公は鎌倉幕府で那須与一宗高公と1、2を争う弓の名手だった武将でした。武勇に長けた畠山重忠公を二俣川の合戦で射殺した日本一のスナイパーでもありました。
高部屋神社元宮や高部屋神社のある伊勢原市や厚木市には現代も地名に多くの名称の足跡が残っています。
毛利台と言う地区も厚木市には有りますが、鎌倉時代には鎌倉時代の重鎮として活躍した大江広元公の御子息の大江季光公が所領を与えられて苗字として毛利を使用し毛利季光を名乗った事が広島県や山口県を代表する戦国大名、毛利氏の始まりでもありました。
つまり毛利元就公は大江広元公の御子孫で、毛利氏は厚木市の出身な訳です。
この様に、旧大住郡と言われるこの一帯と愛甲郡は古墳時代に成ると平塚市にも仁徳天皇の弟王の莵道稚郎子(うじのわきのいらつこ)が東征して来て拠点を置いたり渡来文化が早くから導入された事も有り、軍事的にも農業的にも開けて平安時代にも非常に活躍した武士団の拠点に成っていました。
現在の高部屋神社の社殿の在る場所は、旧糟屋の荘園だったので現在も上粕屋~下糟屋の地名が残りますが、現在の高部屋神社の有る丘陵は平安時代に源頼朝公の配下の武将の糟屋有季(かすやありすえ)と言う御殿様が築いた糟屋城で現代では丸山城や千鳥ヶ城と呼ばれる御城の一部でした。
糟屋有季公が御自分の領地の鎮守の神様として、高部屋神社を渋田山から現在地に遷宮されたんですね。
しかし元の社殿の所在地だった渋田山には現在も奥院として祠(ほこら)が建っていると、氏子サンから教えて頂きました。それが高部屋神社元宮です。
この奥院の在る渋田山が古代❝奥津城❞と呼ばれた理由であろう要素は、歴史好きには容易に想像が出来ます・・・
先に述べた通り、奥津❝城❞と言う位なので恐らく元々の高部屋神社の社殿の在った奥院の周辺には古代人の山間の集落が存在したはずです。
そして奥津城の❝津❞の字は現代語で言う処の❝港❞と言う意味の言葉です。
❝津波❞と言うのは❝港に襲来する大波❞と言う意味に成りますね。
つまり、この奥津城=高部屋神社奥院は、古代は海が眼前に広がっていたと言う事に成ります。
・・・でも上の衛星画像で見た通り、現在は大分内陸ですよね?
しかし近隣のやはり縄文時代から存続する比々多神社と、この高部屋神社には現在も海に関する神事が存続しています。
下の写真は高部屋神社拝殿に吊(つ)るされた❝ホンダワラ❞と言う海藻です。
高部屋神社では、昔から神社にこの海藻のホンダワラを社殿に供える風習が残っています。
ホンダワラは古代名は❝莫告喪(なのりそ)❞と呼ばれ、和歌では動詞の❝名告(なの)る❞の枕詞(まくらことば)として用いられた風流な海藻なのですが…
小生は個人的に軍神であり水神様の八幡大菩薩=応神天皇の本来の御名前の❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)❞の発音「ホンダワケ」と「ホンダワラ」が似ていると感じるので、なにがしか古代に於(お)いては、この海藻のホンダワラは応神天皇と結び付けられて考えられた植物だったんじゃないかと感じました。
紙垂(しで)の由来はこれなんじゃないかな?とその形状を見ていると思います。
大和朝廷の都が内陸に変遷して行ったり海岸線の後退に従って莫告喪を神職が自ら採取に行くのが困難に成り、奈良や京都が首都に遷都された頃には日本の中心では逆に高級品の神で代用する様に成って価値が逆転して廃れてしまったのかも知れませんね。
…実際、この高部屋神社は江戸時代までは高部屋八幡宮や糟屋八幡宮の別名で日本全国で有名だった神社であり、御祭神も息気長足姫(おきながのたらしひめ)=神宮皇后と応神天皇です。
近くの前鳥神社は莵道稚郎子が滞在した場所であり、平塚八幡宮は仁徳天皇の政令によって開かれています。
古い八幡宮は、だいたいが海や湖や大河川の傍に建てらた治水と雨乞いの神様です。
恐らく高部屋神社は江戸時代に高部屋八幡宮とは言われたものの、御祭神を見ても地理的にも平塚八幡宮より古く神宮皇后を慕って大磯に移住して来た高麗の人々とも関係が有りそうです。
古墳時代に成ると現在の平塚八幡宮の辺りまで陸地に成っていた様で、高部屋神社も内陸に成ってしまった事から海から離れてしまった様(よう)です。
この高部屋神社には明治まで続いた❝汐汲み神事❞が存在しました。
この神事では歴代の宮司は海まで必ず徒歩で歩いて行き、海水を汲んで来たそうです。
拝殿の屋根の破風(はふ=一部分構造の名前)の部分には、浦島太郎の物語の彫刻まで有り、この高部屋神社の由緒が海と密接な関係が有る事を窺わせています。
もう一度、高部屋神社周辺の位置関係を見て下さい。
高部屋神社の社殿が元々在った場所❝奥院❞の所在地の古代名は奥津城ですが…
津は先程申し上げたとおり、❝港❞と言う意味です。
では何故、こんな山の中に奥❝津❞城の津の地名が存在し、海に関する神事が存続するかと言うと…
それは、古代、この場所が海だったからです。
この伊勢原の周辺の神社の元に成った古代人の祭祀史跡の出土する場所は伊勢原皇大神宮を除いて高部屋神社を含めだいたいが神話の以前の縄文時代から存続しています。
高部屋神社の前には渋田川と呼ばれる川が流れており、その上流までさかのぼると奥院のある渋田山=奥津城まで辿(たど)りつけます。
ここからは推測ですが、恐らく昔は渋田川にそって奥津城まで細長い入り江が続いていたのかも知れません。
❝渋田山=奥津城❞には古代~古墳時代くらいまで入り江に漁村があり渋田山にも山麓の集落があり❝城❞=町=村を形成していたのかも知れません。
では、上の海岸線を元に衛星写真上に高部屋神社や比々多神社の位置と、縄文時代の海岸線の位置を再現してみましょう。
ね?
見事に高部屋神社の近くまで、海が入り込んできていたのが解るでしょう?
つまり、この奥津城は古墳時代位の古代の漢字の本来の意味での城が在ったのかも知れません。
実際、この高部屋神社周辺の比々多神社や大山阿夫利神社一帯では縄文時代~奈良時代までの墳墓や祭祀上跡や住居跡が大量に発掘されていますしね。
しかし、まだ汐汲み神事が行われていた幕末には既に海岸線は現在の位置まで後退してしまっていたので、宮司様は古代の風習を守り伝える為に既に海岸線から10km以上内陸に取り残された高部屋神社から必ず徒歩で海まで海水を汲みに行ったそうです。
昔の宮司様は、こうやって日本の伝統文化を神事として守って下さったのですが、明治時代に成り神社や神話が国により統制される❝国家神道❞が成立すると、高部屋神社は400年強の歴史しか無い伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成り、この神代より続いていたであろう汐汲み神事も消滅してしまいました。
伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成ったのは、恐らく伊勢原大神宮の神様が伊勢系の神様で天皇家の祖先に当たる天照大神だからでしょう。
神奈川の発展に寄与して下さった歴史人物に関係の有る神社を色々回って来ましたが、どうも関東では明治政府によって出雲系の神様の神社や伊邪那美神系の神社は合祀の名の下に弾圧を受け多く消滅しています。
しかし!
平成の末期に高部屋神社を兼務する伊勢原大神宮の宮司様や高部屋神社氏子サン達が、この神事を約160年ぶりに復活させて下さいました。
まぁ、復活版では車を使うらしいですが、馬と違いバケツで海水運んでも溢れる程入れなければ溢(こぼ)さないし今はポリタンク有りますしね(笑)。
この神社には海との繋がりだけでなく、今も日本古来の神道思想を窺わせる神秘的な物も残っています。
と、その前に、高部屋神社の色んな施設を紹介しておきたいと思います。
看板にもある通り、この高部屋神社は延喜式内社です。関東では余り多くは無い凄く重要な神社。
そして古代から存続する為(ため)か、御祭神の御名前もあくまで古代からの御名を継承しています。
天皇の尊称は中国の影響を受けたもので、1400年位しか歴史の無い呼び方ですからね。
日本の皇家の歴史は少なくとも2600年以上有るとされる訳ですから、神格化されている❝おおきみ❞様に関しては天皇の尊称以前の御名前を呼ぶべきだと小生も思います。
高部屋神社の拝殿の前には大きな石造りの鳥居が有りますが少し視線を左にやると、又、別の石段が有りまして・・・
こちらの石段の年季の入り様は、恐らく江戸時代くらいからある階段である事を証明してくれています。
この石段の横には昔、御神木であったであろう木の切り株が有ります。
この短い石段を登ると、高部屋神社の社殿とは別の八坂神社の御社が在ります。
八坂神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)です。
この神様も古代の軍神であると同時に海の神様です。
・・・と言うか日本神話上、海を治めることを命じられた神様ですので日本最初の海上交通や治水の神様と言って良いと思います。
平安時代には治水の神様と言えば八幡大菩薩=応神天皇か宗像三女神でしたが、それより以前の日本の古代の海の神様と言えば軍神の素戔嗚尊か、その御子息の安積磯良(あづみのいそら)/磯良(いそたける)神でした。
走水神社の奥社にも日本武尊が信奉したと伝わる須賀神社があり、この❝須賀❞神社の❝須賀❞と言うのは素戔嗚尊と御妃(おきさき=奥さん)奇稲田姫(くしなだひめ)が御一緒に開拓し建国された国の須賀国の名前に由来した神社です。
すなわち日本武尊は御自分以前の軍神で水神の素戔嗚尊と奇稲田姫命を御祀(まつ)りしていた事が解ります。
海の神社の高部屋神社らしい神様ですね。
高部屋神社は江戸時代までは八幡宮だったので、八幡宮の御祭神の八幡大菩薩とは敢えて別棟に御祀りされたのかも知れませんね。
さて、ここは延喜式内の神社でありながら、後に御祭神の関係で八幡宮として江戸時代に呼ばれていただけあり御祭神の八幡大菩薩=応神天皇が神仏習合の象徴的な存在だっただけあり、境内には鐘楼も有ります。
…逆光で申し訳ない。
でも、この鐘楼は重要文化財に指定されています。
そして、その隣りにはも御社が在りまして…
こちらも又々、水神様の金毘羅(こんぴら)様が御祀りされています。
金毘羅様も八幡大菩薩と同じく神仏習合の神様で、インド出身の神様です。
金毘羅(こんぴら)と言うのは元々、古代インドのサンスクリット語で❝クンピーラ❞と言う名前で呼ばれていたインドのガンジス川の神様です。後に仏教に取り込まれ、インドから中国に伝来した後に、中国に仏教留学した日本人僧侶達によって日本に広められました。
日本に伝来すると、神格の似ている大物主と言う神様と習合され水神様として主に日本神話を特に大切にした真言宗の僧侶達に大切にされ、海で働く漁師や廻船商人達からも崇拝されました。
やはり、海にまつわる高部屋神社らしい神様ですね。
最初は中国で、サンスクリット語の発音に宮比羅(ゴンビィルォ)とか金毘羅の漢字が当字されていましたが、日本に伝来した漢字の❝宮❞の発音は訛りが有り❝宮比羅❞では❝コンピラ❞とは日本人が読めないので❝金毘羅❞と真言宗の僧侶達により統一された様です。
明治時代に成ると、仏教迫害の神仏分離令の被害を受けてクンピーラとしての神格は薄れてしまい(仏様じゃなくてインドの神様なんですけどね)、大物主様とだけ形式上祀られる事で、金毘羅宮は破壊を免れる事が出来ました。
ぶっちゃけて言うと、金毘羅様は動物のワニを神格化した神様で、言ってみれば朱雀や白虎や麒麟みたいな動物の神様的な感じでしょうか?
仏教に取り込まれると金毘羅大将とも呼ばれ擬人化した仏像で表現されますが仏教の守護❝神❞の一人として扱われる様に成りました。
まぁ、本来の神格は日本と同じ自然崇拝の習慣を持つインドの方らしく❝水神様のワニ❞です。
小生、香川県の金刀毘羅宮にも御参りしましたが、確か同じ様な解説も書いてあったと思います。
いずれにせよ、高部屋神社の氏子様達が祖先から受け継いだ御社とコンピラ様を大物主様の御宮として守って下さった事で、水神信仰の名残を垣間見える事が出来ます。感謝。
高部屋神社は八幡宮としての神格から、この様な神仏習合の神様も沢山いらっしゃいますが古代から存続する神社なので、今の一般的な神社では廃(すた)れてしまった古来の風習と思しき習慣も残っています。
その一つが先に紹介したホンダワラを飾る習慣と・・・
この枝ぶり、どこかで見た事が有りません~?
・・・実は皆さん、絶対に毎日生活の中で見てるはずなんですよ。
この木は招霊樹(おがたま)と言う名前の木です。
生活のどこで見ているかと言うと、皆さんは普段1円玉として良く見ています。
よく神事で用いる榊(さかき)って植物を御供えしますよね?
この招霊樹と御榊(おさかき)は同じ使われ方をします。
実は招霊樹、榊より以前から神事に用いられていた節が有り、招霊樹が植生しない地域では榊を主に使う様に成った様です。
この木は黄心樹とも書きますが、正しくは招霊樹と書きます。
和歌で字の発音で❝黄心樹❞と当字されてしまって以来、その字も使われる様に成ってしまいましたが、元々は招霊樹と書きました。
古代中国では❝含笑花❞とも書かれました。
お金にデザインされたり含笑花とか書くので何か縁起の良い植物そうな事は解りますが、日本語の招霊樹では何か神霊的な意味を持っている事も解りますよね。
榊で説明すると神棚に供えますが、あれは招霊樹と外見が似ている事から使われる様に成り、榊(さかき)と呼ばれる様に成ったのは発音から境木(さかいき)として用いられ神様の御住みになられる場所を守る結界(けっかい=バリア)を張る役割を担う植物に成ったからですね。
つまり、先に榊の役割で説明してしまいましたが、神様の住む社殿を守る心霊的な結界として古来の神社には植えられていた植物なんですね。ですから現代でも神棚に榊を供える風習が残っている訳です。
写真は拝殿裏の本殿ですが、やはり本殿も招霊樹の木に守られています。
この様な古代の民俗風習を守る神社は今では少なく成っていますね。
さて、高部屋神社には古代の風習が氏子サン達によって今でも守られている事がなんとなく御理解頂けたでしょうか?
では、社殿を見てみましょう。
この日は1月2日の御正月だったのですが、幸運な事に氏子の偉い方に拝殿の中に入って見学させて頂けました。
よく古い神社で見かける、上の垂れ幕みたいなもの、これにデザインされている模様が小生にはホンダワラを意匠化した物の様に感じられます。
昨年末、関東最古の大社格の神社の埼玉県の鷲宮神社に横浜の殿様の間宮家の顕彰活動の一環で御参りした際に、同じ物を見て不思議に感じたのですが…
実は鷲宮神社の江戸時代までの宮司家は大内家でした。このホンダワラを意匠化した様な模様、戦国時代オタクはすぐに判(わか)るんですが大内家の家紋にソックリ!なんですよね。
鷲宮神社の伝承では関東を開いた神様は出雲系の神様です。大内家の出自も出雲大社の在る中国地方です。
中国地方の大名だった大内家は渡来系とされ百済王の子孫を自称しましたがそれは藤原氏に気を使って血筋を貶(おとし)めただけで、実際は渡来系でもより古い中国大陸から南方経由で回って来た氏族だと思います。
でなければ歴史事実と神話の両方と整合性が無くなりますからね。そう言う意味では関東地方の神話と鷲宮神社の旧社家の大内家の伝承と整合性が高く成ります。
そうなると大内家は出自は出雲系の御神孫支族だったんじゃないかと言うのが推測出来ますが、実は鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司家も戦国時代は大伴家で、やはり古代からの豪族でした。
高部屋神社の直ぐ御近所で、同じく延喜式式内社の比々多神社も神社としての最初の宮司様は紀氏でした。
関東を早くから開き神事に従事した一族は、藤原氏台頭以前の古豪達が多かった様です。
そう言う意味で個人的な感想ですが、やはりこの意匠は何だか海の大名の大内家やホンダワラと関係が有りそうな気がします。
天皇家の御先祖様自体も海幸彦山幸彦の神話で海と関係が有り、先に紹介した高部屋神社拝殿の屋根の唐破風には浦島太郎の彫像が…
浦島太郎↑と↓乙姫様と竜宮城
もうこれ、絶対に出雲系の神様や海藻ホンダワラと関係の有る神紋なんじゃないかなと思うんですよね。
ところで神話から話が逸れますが…
屋根の構造を内側から見ると、古い建築で釘を使わない日本本来の技術で骨格が組まれている事が見てとれました。
さて、招霊樹の説明で先に少し写真を載せました本殿はこの後ろに在ります。
本殿には招霊樹の木と、神様を守る専任の狛犬様が結界を守ってらっしゃいました。
この中に神様がいらっしゃるんですね~。
本殿はかなり高い位置に鎮座しておられます。
なんだか出雲大社の古の社殿の在り様を、古い神社ほど意識している様に感じます。
それとも高い場所に本殿を祀るのは山岳信仰の日本古来の価値観で山を御神体としたからでしょうかねぇ~?
はたまた、神様が住んでいた高天原(たかまがはら)を意識して、昔の神社は神殿を高い位置に築いたんでしょうか?
こんな風に、高部屋神社は古代のミステリーを今に伝える神社なんです。
是非!伊勢原市方面、大山の桜や紅葉のライトアップや温泉を楽しみにに行かれる機会があれば、近くに在る、この高部屋神社も御参りして日本神話や古代人の風習に触れてみては如何でしょうか?
冒頭で申し上げましたが、この場所は平安時代末期~戦国時代まで千鳥ヶ城や糟屋城の名で呼ばれた城址だったので、現在は道路で分断されていますが…
道の向こう側は城址公園として土塁や空堀の遺構も保存されて説明の看板も有ります。
丸山城址公園は、次回、この記事の後編として書きます。
追伸・・・
小生がブログを書き始めたのは2014年の09月です。
この記事を書いたのは2016年1月の事でした。
最初の記事を書いた時には熱心な氏子サン、そして兼務されている伊勢原皇大神宮の宮司様に直接御話を聞いたり電話で質問したり、氏子サンに写真を見せて貰いながら解説したり、取材させて頂きました。
この年、記事を書いた翌月の2016年の2月に本殿と拝殿が国の有形文化財に指定された事を翌年の2017年の正月に又、御参りした際に氏子サンに教えて貰いました。
今回は2021年03月20日の日曜日に京都の友達と神奈川県中央部の神社仏閣と城跡と景色の綺麗な場所を1日で23箇所廻る無茶なスケジュール(笑)を実行した際に再訪して記事の事を思い出し、以前に書いた内容に小生も5年前より書き足したい事が増えていましたので、小生の世代に伊勢原市や厚木市の歴史を伝えて下さった諸先輩への感謝も込めて、ちょっと追記してみました。
では、皆さん、又、次の記事で御会いしましょう!
後半の記事に続く↴
※後半は追記してないYo~♪
と、その前に、高部屋神社の色んな施設を紹介しておきたいと思います。
看板にもある通り、この高部屋神社は延喜式内社です。関東では余り多くは無い凄く重要な神社。
そして古代から存続する為(ため)か、御祭神の御名前もあくまで古代からの御名を継承しています。
天皇の尊称は中国の影響を受けたもので、1400年位しか歴史の無い呼び方ですからね。
日本の皇家の歴史は少なくとも2600年以上有るとされる訳ですから、神格化されている❝おおきみ❞様に関しては天皇の尊称以前の御名前を呼ぶべきだと小生も思います。
高部屋神社の拝殿の前には大きな石造りの鳥居が有りますが少し視線を左にやると、又、別の石段が有りまして・・・
こちらの石段の年季の入り様は、恐らく江戸時代くらいからある階段である事を証明してくれています。
この石段の横には昔、御神木であったであろう木の切り株が有ります。
この短い石段を登ると、高部屋神社の社殿とは別の八坂神社の御社が在ります。
八坂神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)です。
この神様も古代の軍神であると同時に海の神様です。
・・・と言うか日本神話上、海を治めることを命じられた神様ですので日本最初の海上交通や治水の神様と言って良いと思います。
平安時代には治水の神様と言えば八幡大菩薩=応神天皇か宗像三女神でしたが、それより以前の日本の古代の海の神様と言えば軍神の素戔嗚尊か、その御子息の安積磯良(あづみのいそら)/磯良(いそたける)神でした。
走水神社の奥社にも日本武尊が信奉したと伝わる須賀神社があり、この❝須賀❞神社の❝須賀❞と言うのは素戔嗚尊と御妃(おきさき=奥さん)奇稲田姫(くしなだひめ)が御一緒に開拓し建国された国の須賀国の名前に由来した神社です。
すなわち日本武尊は御自分以前の軍神で水神の素戔嗚尊と奇稲田姫命を御祀(まつ)りしていた事が解ります。
海の神社の高部屋神社らしい神様ですね。
高部屋神社は江戸時代までは八幡宮だったので、八幡宮の御祭神の八幡大菩薩とは敢えて別棟に御祀りされたのかも知れませんね。
さて、ここは延喜式内の神社でありながら、後に御祭神の関係で八幡宮として江戸時代に呼ばれていただけあり御祭神の八幡大菩薩=応神天皇が神仏習合の象徴的な存在だっただけあり、境内には鐘楼も有ります。
…逆光で申し訳ない。
でも、この鐘楼は重要文化財に指定されています。
そして、その隣りにはも御社が在りまして…
こちらも又々、水神様の金毘羅(こんぴら)様が御祀りされています。
金毘羅様も八幡大菩薩と同じく神仏習合の神様で、インド出身の神様です。
金毘羅(こんぴら)と言うのは元々、古代インドのサンスクリット語で❝クンピーラ❞と言う名前で呼ばれていたインドのガンジス川の神様です。後に仏教に取り込まれ、インドから中国に伝来した後に、中国に仏教留学した日本人僧侶達によって日本に広められました。
日本に伝来すると、神格の似ている大物主と言う神様と習合され水神様として主に日本神話を特に大切にした真言宗の僧侶達に大切にされ、海で働く漁師や廻船商人達からも崇拝されました。
やはり、海にまつわる高部屋神社らしい神様ですね。
最初は中国で、サンスクリット語の発音に宮比羅(ゴンビィルォ)とか金毘羅の漢字が当字されていましたが、日本に伝来した漢字の❝宮❞の発音は訛りが有り❝宮比羅❞では❝コンピラ❞とは日本人が読めないので❝金毘羅❞と真言宗の僧侶達により統一された様です。
明治時代に成ると、仏教迫害の神仏分離令の被害を受けてクンピーラとしての神格は薄れてしまい(仏様じゃなくてインドの神様なんですけどね)、大物主様とだけ形式上祀られる事で、金毘羅宮は破壊を免れる事が出来ました。
ぶっちゃけて言うと、金毘羅様は動物のワニを神格化した神様で、言ってみれば朱雀や白虎や麒麟みたいな動物の神様的な感じでしょうか?
仏教に取り込まれると金毘羅大将とも呼ばれ擬人化した仏像で表現されますが仏教の守護❝神❞の一人として扱われる様に成りました。
まぁ、本来の神格は日本と同じ自然崇拝の習慣を持つインドの方らしく❝水神様のワニ❞です。
小生、香川県の金刀毘羅宮にも御参りしましたが、確か同じ様な解説も書いてあったと思います。
いずれにせよ、高部屋神社の氏子様達が祖先から受け継いだ御社とコンピラ様を大物主様の御宮として守って下さった事で、水神信仰の名残を垣間見える事が出来ます。感謝。
高部屋神社は八幡宮としての神格から、この様な神仏習合の神様も沢山いらっしゃいますが古代から存続する神社なので、今の一般的な神社では廃(すた)れてしまった古来の風習と思しき習慣も残っています。
その一つが先に紹介したホンダワラを飾る習慣と・・・
この枝ぶり、どこかで見た事が有りません~?
・・・実は皆さん、絶対に毎日生活の中で見てるはずなんですよ。
この木は招霊樹(おがたま)と言う名前の木です。
生活のどこで見ているかと言うと、皆さんは普段1円玉として良く見ています。
よく神事で用いる榊(さかき)って植物を御供えしますよね?
この招霊樹と御榊(おさかき)は同じ使われ方をします。
実は招霊樹、榊より以前から神事に用いられていた節が有り、招霊樹が植生しない地域では榊を主に使う様に成った様です。
この木は黄心樹とも書きますが、正しくは招霊樹と書きます。
和歌で字の発音で❝黄心樹❞と当字されてしまって以来、その字も使われる様に成ってしまいましたが、元々は招霊樹と書きました。
古代中国では❝含笑花❞とも書かれました。
お金にデザインされたり含笑花とか書くので何か縁起の良い植物そうな事は解りますが、日本語の招霊樹では何か神霊的な意味を持っている事も解りますよね。
榊で説明すると神棚に供えますが、あれは招霊樹と外見が似ている事から使われる様に成り、榊(さかき)と呼ばれる様に成ったのは発音から境木(さかいき)として用いられ神様の御住みになられる場所を守る結界(けっかい=バリア)を張る役割を担う植物に成ったからですね。
つまり、先に榊の役割で説明してしまいましたが、神様の住む社殿を守る心霊的な結界として古来の神社には植えられていた植物なんですね。ですから現代でも神棚に榊を供える風習が残っている訳です。
写真は拝殿裏の本殿ですが、やはり本殿も招霊樹の木に守られています。
この様な古代の民俗風習を守る神社は今では少なく成っていますね。
さて、高部屋神社には古代の風習が氏子サン達によって今でも守られている事がなんとなく御理解頂けたでしょうか?
では、社殿を見てみましょう。
この日は1月2日の御正月だったのですが、幸運な事に氏子の偉い方に拝殿の中に入って見学させて頂けました。
よく古い神社で見かける、上の垂れ幕みたいなもの、これにデザインされている模様が小生にはホンダワラを意匠化した物の様に感じられます。
昨年末、関東最古の大社格の神社の埼玉県の鷲宮神社に横浜の殿様の間宮家の顕彰活動の一環で御参りした際に、同じ物を見て不思議に感じたのですが…
実は鷲宮神社の江戸時代までの宮司家は大内家でした。このホンダワラを意匠化した様な模様、戦国時代オタクはすぐに判(わか)るんですが大内家の家紋にソックリ!なんですよね。
鷲宮神社の伝承では関東を開いた神様は出雲系の神様です。大内家の出自も出雲大社の在る中国地方です。
中国地方の大名だった大内家は渡来系とされ百済王の子孫を自称しましたがそれは藤原氏に気を使って血筋を貶(おとし)めただけで、実際は渡来系でもより古い中国大陸から南方経由で回って来た氏族だと思います。
でなければ歴史事実と神話の両方と整合性が無くなりますからね。そう言う意味では関東地方の神話と鷲宮神社の旧社家の大内家の伝承と整合性が高く成ります。
そうなると大内家は出自は出雲系の御神孫支族だったんじゃないかと言うのが推測出来ますが、実は鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司家も戦国時代は大伴家で、やはり古代からの豪族でした。
高部屋神社の直ぐ御近所で、同じく延喜式式内社の比々多神社も神社としての最初の宮司様は紀氏でした。
関東を早くから開き神事に従事した一族は、藤原氏台頭以前の古豪達が多かった様です。
そう言う意味で個人的な感想ですが、やはりこの意匠は何だか海の大名の大内家やホンダワラと関係が有りそうな気がします。
天皇家の御先祖様自体も海幸彦山幸彦の神話で海と関係が有り、先に紹介した高部屋神社拝殿の屋根の唐破風には浦島太郎の彫像が…
浦島太郎↑と↓乙姫様と竜宮城
もうこれ、絶対に出雲系の神様や海藻ホンダワラと関係の有る神紋なんじゃないかなと思うんですよね。
ところで神話から話が逸れますが…
屋根の構造を内側から見ると、古い建築で釘を使わない日本本来の技術で骨格が組まれている事が見てとれました。
さて、招霊樹の説明で先に少し写真を載せました本殿はこの後ろに在ります。
本殿には招霊樹の木と、神様を守る専任の狛犬様が結界を守ってらっしゃいました。
この中に神様がいらっしゃるんですね~。
本殿はかなり高い位置に鎮座しておられます。
なんだか出雲大社の古の社殿の在り様を、古い神社ほど意識している様に感じます。
それとも高い場所に本殿を祀るのは山岳信仰の日本古来の価値観で山を御神体としたからでしょうかねぇ~?
はたまた、神様が住んでいた高天原(たかまがはら)を意識して、昔の神社は神殿を高い位置に築いたんでしょうか?
こんな風に、高部屋神社は古代のミステリーを今に伝える神社なんです。
是非!伊勢原市方面、大山の桜や紅葉のライトアップや温泉を楽しみにに行かれる機会があれば、近くに在る、この高部屋神社も御参りして日本神話や古代人の風習に触れてみては如何でしょうか?
冒頭で申し上げましたが、この場所は平安時代末期~戦国時代まで千鳥ヶ城や糟屋城の名で呼ばれた城址だったので、現在は道路で分断されていますが…
道の向こう側は城址公園として土塁や空堀の遺構も保存されて説明の看板も有ります。
丸山城址公園は、次回、この記事の後編として書きます。
追伸・・・
小生がブログを書き始めたのは2014年の09月です。
この記事を書いたのは2016年1月の事でした。
最初の記事を書いた時には熱心な氏子サン、そして兼務されている伊勢原皇大神宮の宮司様に直接御話を聞いたり電話で質問したり、氏子サンに写真を見せて貰いながら解説したり、取材させて頂きました。
この年、記事を書いた翌月の2016年の2月に本殿と拝殿が国の有形文化財に指定された事を翌年の2017年の正月に又、御参りした際に氏子サンに教えて貰いました。
今回は2021年03月20日の日曜日に京都の友達と神奈川県中央部の神社仏閣と城跡と景色の綺麗な場所を1日で23箇所廻る無茶なスケジュール(笑)を実行した際に再訪して記事の事を思い出し、以前に書いた内容に小生も5年前より書き足したい事が増えていましたので、小生の世代に伊勢原市や厚木市の歴史を伝えて下さった諸先輩への感謝も込めて、ちょっと追記してみました。
では、皆さん、又、次の記事で御会いしましょう!
後半の記事に続く↴
※後半は追記してないYo~♪