歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:紀の代

留学初期にほぼ毎日食事通学旅行で皆でつるんでたいたのだが、その留学仲間の一人である大阪のITが都内に出張で来てるので先週末に観光案内して来た。
出張先が渋谷の近くだそうで田園都市線でアクセス便利だし新大阪から新幹線で一本と言う事で、宿を新横浜駅近くのホテルを予約したらしい。
一ヶ月前から小生が作成中の神奈川観光の刷子原稿を送り行きたい場所はリサーチ済み。
そのITの仕事はニッチな産業のデザイナーだが廃墟マニアと言う趣向が有ると今回、訪問に当たって事前に行きたい場所の趣向を聞いた際に発覚し、とても意外だった。
かれこれ人生の半分近くの年数関わり、歴代の彼氏がどんな人物かも知っているのだが廃墟が好きなんて趣向は全く知らなかった。

そんな訳で近代の廃墟廻りを今回の観光案内の目的地にした。待ち合せもホテルに朝9時に迎えに行くと申し合わせて有り万全だった。
後は天候次第で臨機応変に訪問地を雨天仕様に組み替えるだけ。
んな訳で時系列で当日の行動を紹介するとこうなる。

04:00前後
早朝、睡眠少しで起きてしまい、小机城の紹介記事のリニューアルの為に加筆していた。

08:00
自宅を出発。新横浜駅へ向かう途中のコンビニATMで現金引き出しノンカロリーのレッドブル飲んで無理矢理に脳内シャキッとさせる。
09:00
迎えに新横浜駅前に到着。
大阪の親友ITはちゃんと寝れた様でシャキッとしてた。因みに留学で知り合った親友だが、たまたま小生とは祖先が同族。でも外見は似ても似つかない。
しかし好きな物は割りと似ていて気は合うし漫画も好き、廃墟好きと歴史好きも似ている。
奴は家具や革製品を、小生は銀の指環や組紐のブレスレットを造るのが趣味と言う工作好きなのも似てる。
関西に土着した奴の祖先は弥生系と古墳時代の渡来系との混血が進んでおり小生の如き胴長短足の縄文遺伝子は最早体形にも頭蓋骨にも名残が無い(笑)。多分、はた目に見て美人の部類だろう。
同氏族だからでも外見でもなくリスペクト出来るし信頼もしている。
まぁ、気が合う訳だ。
小生の親友は皆、そんな奴が多い。
09:45
野島に到着。
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季節柄、野島の海には昭和まで江戸前と呼ばれた東京都大田区~神奈川県川崎市~横浜市~横須賀市~三浦半島の東京湾沿岸部で盛んだった“海苔ひび”を見る事が出来た。
海苔“ひび”の“ひび”は現在では国語辞書にも元の漢字が掲載されていないが、小生は竹で海を囲った様子から轞(ひび)が語源では無いかと思う。この轞と言う漢字は三国志好きなら知っている古代中国の囚人や罪人を護送する際に用いた轞(jian=和音読み:ケン/カン)の事だと推測している。
盧植
三国志演義で後の蜀の皇帝と成る劉備と同郷であり学問の師匠に当たる“盧植(ろしょく)”先生が朝廷を私物化した奸臣の董卓の事を大将軍の何進に諫言(かんげん=上司への忠告)をした事で後に逆に逮捕されてしまったのだが、その際に乗せられていた護送車のアレが“轞(jian)”だな。
轞は文字通り、檻(おり)+車の構造物だ。
罪人を護送しながら晒し者にする為に檻(おり)の下に車輪を付けた構造、解り易く言うと馬車の幌(ほろ)が監獄(かんごく)に成った物だ。
この轞(jian)を日本語では訓読みで“轞(ひび)き”と呼んだ様(よう)だが、日本語辞書の解釈では護送車を引く音の形容詞と説明している物も有るがハッキリ言って辞書の筆者が知らないだけで轞は護送車その物の事だ・・・
まぁ轞は日本語にするなら護送車しか今が無いのだが敢えて言うなら“見せしめ晒(さら)し囚人輸送車”とでも言う物だろうか。
・・・もしかしたら轞の漢字は“車”+“監”で轞だが、現代では失われた発音として海苔が東京湾の大森海岸で開始された当時には"監(カン)”の発音の訓読み自体が"監(ひび)”だったのかも知れない。
そう言えば格子(こうし)状に割れる事を“ヒビが入る”とも言う。
そうなると現代では漢字の伝わらない"海苔ひび”の"ひび”は檻(おり)に似ている事から檻(おり)と書いて檻(ひび)と読む訓読みがもう一つ有ったのかも知れないと思う。
まぁ、檻(おり/ひび)は監獄(かんごく)を指すし、監獄(かんごく)って書いて檻(おり)を指す時点で小生の推測は100%間違い無いだろう。
恐らく海苔ひびの漢字は“海苔ひび=海苔檻”か“海苔轞”だった筈だ。
因(ちな)みに、今現在、江東区と大田区で帰属を巡ってモメている埋立地の人工島一帯が昔は大田区の海域で江戸前海苔の生産で有名だった地域だ。
歴史好事家(オタク)として個人的な意見だが、江東区はどの面下げてアソコを江東区の区域と主張するのか理解出来ない、ハッキリ言って片腹痛い(笑)。
折衷案を出した裁判官は歴史的な素養が乏し過ぎる(笑)。
あの一帯は昔から大田区だったのだから、江東区は引き下がるべきだと同じ海苔の名産地だったのに自民党に漁業権を捨てさせられた横浜市民の漁民の心痛と大田区の漁民の立場を重ねて思う所が有る。

もっとも、この風景を見て一緒に来たITはソンナ事は微塵も考えていなかったかも知れない(笑)。
まぁ、今回大阪から出張に前乗りして神奈川に遊びに来た親友は女性ながら"廃墟マニア”と変わった趣味の持ち主なので、今回は先(ま)ず野島掩体壕(旧海軍零式艦上戦闘機の格納庫)に連れて来た訳だ。
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この掩体壕=格納庫は実際には零戦の格納庫としては使用されなかった。
隣の日産自動車追浜工場とテスト用走行コースの敷地が横須賀鎮守府海軍飛行場だったので、当時は滑走路から先に在る野島に格納庫を作り米軍のB21爆撃機から戦闘機を守る計画が進行していた訳だ。
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説明の看板でも解る通り、戦時中の物資不足でコンクリート擁壁は入口と出口の先に掘削された部分だけに止まり、中心部はまだ完全な幅に広げられてもいなかった。
幸い、この基地が利用される前に戦争は終結したので戦争史跡として現存している。
明治時代の軍人と違って太平洋戦争末期当時の無責任に成っていた海軍の上級将校達は内陸の現在の慶応大学日吉キャンパスの地下に基地を掘って隠れてしまっていた。
そうこうする内に末端の将校は頑張っていたが、無駄に本土に戦火を及ばせた戦争末期には物資が不足し、この野島掩体壕ばかりか日吉の海軍参謀本部でさへ物資不足で入口のみ煉瓦とモルタル造りで奥は素掘りのままと悲惨な状況だった訳だ。
こんな状況で勝てる訳が無い。
そもそも陸軍の暴走で英国との条約を無視して万里の長城を超えて中国侵攻をしてしまったので英国による日本の満州宗主国としての地位保証も破棄される事に成ってしまった上、素人の小生すら理解している“兵站”の確保を陸軍は楽観的に無視、結果、日中戦争は完全に無益な物で更に収拾不可能に成り海軍の足を引っ張り、真珠湾攻撃にしても有利な状況で和睦を成立させて満州利権を連合国に承認させると言う目的が有ったのだが、開戦前に「3年かかったら負けますよ」と言う主旨の発言をしていた山本五十六サンも既に戦死して連合国と不利な現実を直視し和睦を提言する人もいなかった。
その間にも今日左翼を煽る様に当時は“朝日新聞が軍部と民衆を煽り捲って戦争へと向かわせた”のだが、そんな痴れ者の朝日新聞がプロパガンダで支持した当時の陸軍政府(一夕会)は当時の外務省の外交敗北と責任をすり替えようとしたが、ハッキリ言って越権行為の外交交渉を陸軍が勝手にやった挙句に条約を無視して全てを水泡に帰したのが日本斜陽の始まりだったと言う歴史も知っておかないといけないと思う。
だからと言って“鼻から日本文化破壊と日本の共産主義国化を目指して中国共産党やソビエト(ロシア)を誘引しようとする日本共産党や極左テロリストの支援を受けている政党政治家の主張はそもそも“外患を招く内憂”であり獅子身中の虫でしかない。
実はそう言った近代の歴史を知れるのが、この野島掩体壕と伊藤博文邸だったりする。
野島掩体壕から南側に回り、時計回りに反対の西側の出口に行く途中に野島稲荷神社が在る。
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ここは旧紀州徳川家金沢野島屋敷の鎮守の神社だな。親友のITは横浜市に紀州徳川家と所縁の場所が在(あ)るとは知らず意外だった様だ。
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この野島稲荷は鎌倉文化の影響を色濃く残しており、境内社は壁面に掘った横穴の中に御社が其々(ぞれぞれ)祀られている。
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この横穴は“矢倉(やぐら)”と呼び、平安時代からの関東武士団の墳墓や宗教施設に見られる様式で壁面に人工的に掘られた横穴の事を指す。
鎌倉武士には矢倉に祠(ほこら)や石仏や供養塔を祀る事が多かった。関西や中部地方からは想像がつかないかも知れないが、鎌倉武士の葬送は火葬も多く五輪の塔の真ん中に骨壺を納骨する四角いスペースが存在しており、地下に埋める形式と五輪の塔の中に収納するケースが両方存在した。
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武士の墓の構造は横須賀市衣笠に在る薬王寺廃寺の三浦義澄公の御廟の墓石を見ると解り易い。
納骨スペースが大きな四角の箱状の造りに成っている。残念ながら不届き物が骨壺を盗掘する際に箱状の構造物を破壊されているが、そのせいで納骨スペースの存在が目視で理解出来る状態に成っている。
恐らく、身分の高い武士の御廟所が一人に一つの菩提寺(ぼだいじ=供養する為の御寺)が築かれる様に成って来た鎌倉時代初期に成ると寺院に御廟所を設(もう)ける際は矢倉の掘れない地形の場合、五輪塔に納骨し其処を築地塀(つきじべい=数層に土と瓦を重ねて作る土塀)や石柱で取り囲んだのだろう。
まぁ野島稲荷神社の場合は・・・
礼拝所である神社なので矢倉には神様が祀られている訳だ。

野島稲荷神社から野島掩体壕の西側入口へ回る途中、野島掩体壕を含めた“野島砲台=野島要塞”の名残の塹壕が数ヵ所剥き出しで現存している。
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戦後に防空壕の入口はコンクリートで塞ぐ命令が施行されたので、中に入る事は現在では出来ない。
それでも戦時中に野島が要塞化されていた事を見る事が出来る訳だ。
そこから掩体壕西側の入口を見て、伊藤博文金沢別邸に移動した。
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余り日本国民のみならず、横浜市民でさえ知る人は少ないが金沢区の瀬戸神社の辺りと野島と夏島は昔は別荘地で、そこの宿を転々と変え宿泊しながら伊藤博文公等が明治憲法の草庵を起草した場所の一つが野島だったりする。
昔は金沢八景と呼ばれ源頼朝公以来、有力者と文化人に昭和初期のアホの横浜市の建設利権に因(よ)って海が埋め立てられるまで、その別荘地として景勝地としての文化は続いた。
伊藤博文公も野島の風景を紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)公と同じく愛されたので、終いにはここに金沢別邸つまり別宅を構えてしまった訳だ。
そして・・・
ここは日本と韓国が友好国で無二の友邦に成れたかも知れない韓国皇室のキーマンが愛した場所でも有ったのだが、それも知る人は少ないだろう。
・・・まぁ、“金沢八景”と“伊藤博文公金沢別邸”については以前に解説記事を書いているので御興味の有る方は以下の記事タイトルをクリックして過去記事を御覧頂くと良いと思う。





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さて、野島の伊藤博文公の別宅は実は明治天皇も利用した建築文化財であり“御所”だったと言う事実は伊藤博文金沢別邸の存在その物より更に知らない人が多い。
実は、この建物は明治天皇の旧赤坂仮御所の“御会食所”を解体移築した物である。
説明すると、明治天皇は赤坂の仮御所に御住いだったのだが、明治時代に欧米列強に倣(なら)って西洋式の御所と公館と接待所を新設するまでの御住いであり、接待所だった。
伊藤博文公御自身は神道形式の御廟所に埋葬されていらっしゃるが、実は仏教文化も大好きで金沢別邸からそう遠くない氷取沢の宝勝寺にも良く参拝してらっしゃって武士時代の遺物を奉納してらっしゃったりする。古来の神仏習合の文化が御好きだったようだ。だから明治時代の近代建築よりも和風の木造住宅が本当は好きだったみたいだ。
まぁ、こんな他府県民にとって意外な歴史が凝縮した場所が野島なのだ。
一頻り散歩して腹も減った(ITには朝食食べずに空腹にして置く様に要請してあった)ので昼食には少し早い11時少し前、ブランチに小柴の柴漁港へ移動し古来の横浜名物の穴子と地魚の天丼を食べに移動した。
11:00
鉄腕DASHで良く登場する芝漁港に到着。
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ここはTVでロケも来るが小生が好きで良く見るYouTubeのキャンプ動画投稿者“ソータロー”が漁協の許可を得た上で一般人が釣りが不可能な漁港内で夜釣りをした事でやっかみの対象と成り“密猟者”扱いされ“炎上した場所(笑)”だったりもする。

※一般釣りマニアのやっかみで炎上した動画は削除されてた(笑)。
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小柴のどんぶり屋で当日水揚げされた横浜名物の穴子を食べる事が出来る。
いつもは開店前に人が並びあっと言う間に品薄に成るのだが、ITの日頃の行いが良いのか運良く客は小生達を含めて未(ま)だ3組しか来店してなかった。
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穴子の三色天丼と地魚天丼を注文。
そして、この日はカワハギの煮付け定食が有ったので、カワハギの煮付けだけ食べたかったので米無しで注文をした。
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結果的に“かき揚げ”がもう一つ付いて来てしまい二人で朝から天麩羅三昧、胃袋もキャパオーバーに成った。腹も満たされ、次の廃墟、猿島へと向け移動。
11:20
横須賀海岸通りの駐車場に到着。
SAIKAYAパーキングと言う美少女アニメオタクが好きそうな(笑)アイコンが目印の駐車場はフェリーの乗船券が駐車料金割引券代わりに成るのを、去年の猿島散策で知っていたので今回も利用・・・
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何と300円も安く成るんだな。
・・・ITに小生の趣向と誤解されない様に(笑)ちゃんと割引券の説明した。小生はロリコンでは無いし、適齢期以上の女性にしか女性としての認識も持てない上に、どちらかと言うと同世代の女性が恋愛対象なのだが、そんな事を一々説明すると親友でもIT「何なんコイツ必死に弁解してホンマはロリコンとちゃうん⁉」と思われそうなので、2次元のSAIKAYAキャラ説明で深追いしないで置いた(笑)。
徒歩で三笠公園に移動。
ここから5分程度の距離と近く非常に便が良い。
11:30
三笠桟橋に到着。
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三笠桟橋は文字通り“世界三大記念艦の三笠”の横に有る桟橋で、桟橋の前で乗船券を購入出来る。
乗船券は純粋な船賃1200円(往復)+入島税300円と安い。
丁度タイミング良くチケット売り場に到着した頃に乗船時間と成り、ギリギリ待つ事無く猿島行きの遊覧船に乗船出来た。
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三笠桟橋~猿島は10分の航路と非常に近い。
この日は三連休最終日と言う事も有って大変な賑わいだった。
もう5分遅れたら定員オーバーで次便まで乗船出来なかっただろう。まぁ、そんな場合も想定して、その場合は三笠公園の売店で横須賀土産の物色と戦艦三笠に乗艦して時間を潰す計画だった。
バッチリ、小生の旅行は毎回ヌカリは無い(自画自賛)。
11:45
猿島桟橋に到着。
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今回初めて知ったのだが、何と猿島の休憩所兼売店の3F事務所でガイドツアー(200円)に入れる。
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小生は一度来ているし大体の解説を出来る知識を有している心算(つもり)だったので・・・
「ツアーに入る必要も無いかな。」
・・・と内心思いながら、ここはゲストであるITの意思を尊重すべきと思い確認。
小生「ツアーに入って専門的にガイド聞いて見たいか?それとも自分達で自由に回る?」
IT「ツアーに入ってみよう」
・・・このITの判断は正しかった。
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島内の明治時代の要塞跡を見学ツアーに入ると、一般では見学できない場所も入る事が出来たり小さな疑問も質問するとガイドさんが詳細な解説で回答を下さった。
例えば直接歴史とは関係無いが・・・

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・・・ツワブキの花。小生はこれが食べられる野草のツワブキと知らなかった。綺麗だなと思い写真を撮っていたら団体の先頭を歩くガイドさんが「黄色い花はツワブキです」と解説をして下さった。
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この構造物は通風孔かと思っていたら、中の穴は兵舎として利用されていたそうで明り取りの穴だったそうだ。
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この壁面の穴も質問する前に解説が有った。これは送電線を固定する金具を埋め込むモルタルのブロックが嵌(は)められて有った跡そうだ。
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この写真の様な金具が嵌っていたそうだ。
自然の砂岩の場所には煉瓦の様に直接金具を埋め込めないので方形のブロックに金具を取り付けてから砂岩に嵌め込んだ訳だ。
ここに島の浜辺近くの発電所から電気の送電線が伸びて、各砲台や兵舎へと電力が供給されていた訳だ。
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これはガイドさんがツアー客に質問する前に小生は正体を当てていた施設だ。
実はトイレの跡。
写真撮影するの忘れたが、実は下部に配水構造が有り便器が嵌っていた様な跡が有る左側のモルタルと、右側は壁状のモルタルの下が配水構造に成っていたので直ぐに解った。
三笠の小便のトイレに右側のモルタルの設計が似た構造だったのだ。
先に進むと今度はレンガの積み方に関して講義が始まった。
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この様に長辺と短辺を交互に並べ重ねて行くのを“フランス積み”と言うのだが、小生はこれを知らなかった。
これに対して横一列毎に長辺だけを並べ更に上に短辺だけを並べる積み方を“イギリス積み”と言う。
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このイギリス積みに関しては小生はたまたま本で見て知っていた。この写真の場所は変わっていてフランス積みとイギリス積みを両方一箇所で見られる日本でも珍しい近代史跡だそうだ。
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煉瓦の積み方の講義の次に、一般観光客は見学不可な弾薬庫内部の案内が始まり正直予想外の幸運。
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内部は漆喰で固められており、当時は白く綺麗な洋館の内部の様だ感じだっただろう事を推測出来る。
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天井には穴がポコポコ開いており、小生はコレをITに「空気孔かな?」と見当違いな予想を問いかけたらガイドさんによると“伝声管”の配管がココに通されていたそうだ。
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この弾薬庫は外部からは判り難いが2階建て構造に成っているらしい。
その2Fには砲台への弾薬補給の指示を出す人が居り、その伝令を配管を通じて糸電話の要領で行っていた訳だ。
だから当然ながら弾薬を2Fに送る人力のエレベーターも存在しており、今もその穴を見る事が出来る。
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こんな素晴らしい史跡なのだが、残念な馬鹿はいつの時代もいる様で、今の団塊~バブル世代が戦後に無断上陸して猿島要塞史跡に落書きをして回ったそうだ。
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おい石井智樹見てるか?
オマエのアンチモラルで低文化な落書きは、施錠の向こうで末代まで消される事無く晒し者にされ続けるぞ(笑)。反日文化テロリストと同類の己の傍若無人な振舞い、子々孫々まで恥として晒されれば良い。
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2Fと砲台の有る上部へは写真の様に階段を登って移動していたそうで、弾薬庫や兵舎の中から登れた訳では無いそうだ。
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今でも立派な煉瓦組みのトンネルも残っている。
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このトンネルの横にも多数の外へと通じる階段が設置されており、更に階段の途中にも先程の弾薬庫の様に横に伸びる穴状の構造物が有るそうだ。
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トンネルはともて趣が有り、ヨーロッパの城内を散策している様な感覚だな。
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最期に猿島の北端の砲台跡の開けた場所を抜け海辺に出て解散と成ったのだが、ここでも猿島要塞と同じ役割をした東京湾に浮かぶ明治時代の人工島要塞の東京湾第1海堡と第2海堡の解説が有った。
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実は東京湾には陸軍大将だった山縣有朋公によって建設された人工島の要塞が3つ在った。その内、第1海堡と第2海堡が現存していて第3海堡は前東京都知事の石原慎太郎に因って撤去された際にライオンズクラブによって解体され追浜の日産自動車の工場近くに移築され展示されていたりする。
そこ等辺の事も過去の記事で解説しているので、興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして解説を読んで見てくれると良いと思う。

望遠鏡やカメラのファインダー越しでないと目視し難いのだが、猿島からも第1海堡と第2海堡がガイドさんの言う通りに見る事が出来た。
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灯台が有る方が東京湾第一海堡。
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奥に見えるのが富津岬の直ぐ傍に在る第一海堡。
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繰り返しに成るが第三海堡は日産追浜工場近くの夏島地区の岸壁に移築されている。
ガイドさんの薦めもあり、島の海辺に在る通称“日蓮洞”と呼ばれる日蓮宗信者にとって聖地である縄文時代からの貝塚が発見されている洞窟も見学した。
島の北端の西側に当たる。
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この洞窟は江ノ島に繋がっていると昔から伝承しているが、ガイドさん曰(いわ)く・・・
「江ノ島の方では江ノ島の洞穴は富士山に繋がってると解説しています(笑)。」
・・・との事(笑)。江ノ島のガイドと真偽確かめ様と画策中らしい。
そこから日蓮洞と反対側の島の北東に移動。
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途中、又、要塞の中も通る。しかしココを抜けると入口に戻ってしまうのでトンネルは抜けないで山側に行った。
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・・・このショボい見張り台と言うか展望台、実は“仮面ライダーのロケ地”“ショッカーの秘密基地の入口”の設定の場所らしい(笑)。
ガイドさんによると、なのでコスプレイヤーの聖地に成っていて猿島全体含めてコスプレした女の子達が良く自分の写真集を作る際に撮影の為に来るらしい。実際、この日もコスプレした女性達が数人来ておりカメラマンが撮影していた。
まぁ、人畜無害な趣味なので、御寺や神社で撮影して場の雰囲気を乱すよりは猿島で撮影してくれた方が良いかと思う。
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こちら側から山の尾根伝いに島の桟橋方面に戻ると、砲台上部構造も見学出来る。
この穴を使い1F弾薬庫から弾薬を補給し、方形の小さい穴に弾薬を仮置きしたのだろう。
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関西には中々こう言った場所が残っていないらしく、和歌山県の方まで行かないと戦争史跡の廃墟は無いそうだ。
一頻(しき)り見学を終えて時間に合わせて桟橋に戻る。
14:45
ギリギリ乗船定員20人前位で乗船する事が出来た、ラッキー♪
14:55
三笠桟橋に到着。
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三笠公園に着いたら先ず、戦艦三笠の写真撮影タイム。そして三笠公園売店で御土産を物色。
余り興味を引く物は無かったようで、ITの要望で三笠公園前の古着屋に移動。
ここも気に入る衣服は見つからなかったそうで、駐車場に戻った。
15:30
駐車場から三浦半島三崎町へ出発。
16:10
城ヶ島第2駐車場に到着。
実は最初は城ヶ島公園の第1駐車場に行ったのだが、第1駐車場は17時で閉門施錠される為に管理人のオジちゃんのアドバイスで17時以降も出庫可能な第2駐車場に移動したと言う次第だ。
第2駐車場から城ヶ島公園はそれ程遠くない。
16:15
第2駐車場から徒歩で神奈川県立城ヶ島公園に到着。
すると綺麗な黒猫様が御出迎えして下さり、寛大な事におおいに“モフらせて”頂けた。


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凄く綺麗な毛並みと顔立ちの猫様。
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可愛かったな~。
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顔を洗っていたので「明日は雨だな」と言ったら、どうやら関東ローカルの迷信らしい。
それもとITが知らないだけなのだろうか。
取り合えず、翌日の天気は雨ではなかった(笑)。
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城ヶ島の海岸の夕景と富士山を見物予定が海がガスって秋季には珍しく富士山見えず。しかし夕陽と海と岸壁の風景は相変わらず綺麗だ。
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城ヶ島は展望台の近くに海岸に降りる階段が在る。
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そこを降りるとこんな風景が見れる。
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本当は今の季節、もっと水蒸気が少なく富士山も見えるのだが、生憎(あいにく)と低い所に雲が掛かっており富士山も今回は見られず日没も途中までしか見られなかった。
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釣り船は見えた。これはこれで風情が有る。
3月に台湾の友人夫妻を連れて来た時は雹(ヒョウ)が降った不運に比べれば綺麗な風景も見れて良かったのだろう。ITも満足してくれた様だ。
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日没後の夕闇迫る時間帯だが、小生達の他にも散策する観光客が数組居た。
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展望台に戻る階段は季節柄、薄木(ススキ)が茂って秋らしく綺麗な風景を見せてくれた。
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そして黒猫様と他の茶虎猫様達が再び見送って下さった(笑)。
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でもコイツ等、愛想悪かった(笑)。黒猫の神対応に感謝♪
写真を撮影するのを忘れたが実は城ヶ島も猿島や野島と同じく戦争史跡の廃墟が有り、明治~大正時代の砲台跡が花壇として保存されている他、岸壁には猿島要塞の弾薬庫と同じ構造物が残っているが弾薬庫の方は一般見学は不可能だ。
腹も空いたので夕食に三崎漁港に鮪を食べに移動する事にした。
17:10
駐車場に戻り城ヶ島を出発。
17:25
三崎漁港に到着。
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三崎漁港の鮪を夕食にしたのは、ITに折角なので神奈川名物を食べさせてあげたいと思い事前に・・・「葉山牛と、三崎漁港の鮪料理と、鎌倉野菜と海鮮のイタリアンとどれが良い?」
・・・とリサーチして「肉より魚、鮪食べたい」と回答が有ったからだった。
しばし三崎漁港の商店街を散策し鮪漁で栄えた頃の倉屋敷の外観を見物して廻り店の選定に入る。
17:45

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有名な鮪料理専門居酒屋の“黒羽亭”か・・・
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・・・鮪稀少部位を食べれる行き付けの寿司屋“紀の代”から好きな方をITに選ばせ“紀の代”に入店。
3月に台湾の友人もこの店に連れて来てあげたかったのだが生憎と当日は店が開いてなかった。ITはラッキーだったな。
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まぐろ寿司(インド鮪赤身漬け、中トロ、大トロ、備長鮪のトロの握り)、鮪サラダ、ワタ(鮪の胃袋湯引き)、皮ポン(鮪の皮のポン酢和え)、鮪のカマの焼き、鮪のツミレのお吸い物を食べる。
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鮪丼(大トロ、鮪ユッケ、漬け鮪、ネギトロ)、ネギトロ巻きを追加(笑)。
※因みに、この日、小生は先月ダイエット8㎏成功したのが1日で2㎏リバウンドした(笑)。
ITも美味しい美味しいと満足してくれた様で何より。
臺灣の友人が来た時も中国人の同僚が帰国する際もここに連れて来たが、一緒に来た人が自分の美味しいと思う店に連れて行って喜んでくれると嬉しいもんだな。
そして気兼ねなく安心して御腹いっぱに食べてくれる様子を見るのも嬉しい。
自分が大切に思う人達が幸せそうにしている様子を見るのは嬉しいもんだ。自分の御腹も幸せに成るしねぇ~(笑)♪
18:50
三崎町を出発。
19:20
横須賀PA(上り)に到着。
横須賀土産を物色。
海苔と葉山牛の佃煮と海苔と鎌倉の蛸の佃煮を購入し神奈川土産に渡す。
写真は撮り忘れた。
19:50
小生の地元、横浜最高峰の栄区の円海山(海抜たった300m)に到着。
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横浜の中心部の夜景を見物。去年の出張でITを案内した中華街~大桟橋界隈を指さし、みなと未来地区とベイブリッジの位置を解説。
一頻り夜景を見て新横浜のホテルへ送り届ける為に出発。
運転中に春に出張来るらしいので遊ぶ計画を相談。此方(コチラ)も間宮直元公の顕彰活動と城マニアの趣味で但馬地方に行く予定が有るので一応、ザックリと訪問予定地を伝え予定の擦り合わせを相談をしておいた。
20:20
新横浜駅近くのホテルに到着。
うむ、留学最初の半年の仲間達とは毎日皆で食事をし皆であちらこちら旅行して廻ったので、IT等初期の仲間と遊ぶと何だか留学中を思いだし面白い。
そして、未だに色んな事を相談する関係であり、ベタベタせず数ヵ月に一度のやり取りでも信頼関係が絶えない位信頼出来る奴。
それでなくても古馴染が訪ねて来てくれるのは嬉しいね。

子曰学而時習之不亦説乎
有朋自遠方来不亦楽乎
人不知而不慍不亦君子乎。

儒教は年長者の失態の責任追求を許さない組織の自浄能力を昨日不全させるばかりか実力主義も認めない年功序列の腐敗の温床で大嫌いだけど、論語のこの一文は気持ち解るかな~。
ITの御陰で有意義な時間を過ごす事が出来た1日だった。
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因みにITの土産は何故か鹿児島の醤油と煎餅だったが、この醤油がイカ刺しに付けて食べたら凄く美味かったので個人的に大瓶で取り寄せようと思う。
ありがとうIT!次は関西か又、神奈川か。又な!

これの続き。
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休日雑記2017年07月15日の【前書き】。
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さて、前回の【前書き】の冒頭で書いた通り、この日は三浦義意公と御父上の三浦道寸公と叔父上の三浦道香公と関与した歴史偉人達の供養の納経の為に海蔵寺を訪問し、その後に天然記念物の諸磯隆起海岸の地層の写真を撮影に移動した。

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何でここに来たかと言うと、歴史偉人の顕彰活動にこの8万年前には海底だった丘の説明が必要だから。ここでは詳しい事は書かないが…
まぁ、一部のステレオタイプ考古学者が後生大事にしている通説は神奈川県に関しては通用しませんよ!と言う話を書くのに隆起速度だけでなく気温変化による海岸の後退速度や河川の土砂の堆積も、御城にも関係しているし多くの延喜式内社の位置関係にも関係してますよ!
…と言う説明の資料の写真撮影の為。
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昭和初期の文部省や地方自治体ってのは本当に地域単位での文化財や史跡の保護に熱心で、多くの天然記念物や重要文化財を史跡指定して我々に残して下さったのだが、戦後の左派染みた役所の連中は無文化で歴史も知らんし先人が残して下さった神奈川県下の歴史遺跡を僅か50年足らずで破壊し尽くした。三浦の場合、ちゃんと発掘したり郷土史を大切に伝えていたりするので、こうやって昔の天然記念物指定された場所も看板が作り直されたりしている。
う~ん、横浜市の水準は三浦に比べて雲泥の差(笑)。
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この地層が露出した部分が断層であり隆起した昔の海岸でもある。三浦にはこんな地形が多く有るが、ここは特に説明の看板の通り太古の時代のマテ貝の一種が掘った巣穴が小さい岩盤の穴なんだな。
この穴の露出で、どれだけ昔の地層がどれ位の期間を経て現在の地層に成ったか判る。
地質調査総合センター様にも色々と御教示頂いたのだが、2万年前の氷河期は現代の海水面より100m程下がっていた。逆に温暖だった縄文時代は現在よりも内陸にまで海が入り込んでいた。
つまり、地球が温暖化すると海面が上がると言うのは縄文時代に近づくと言う事なんだな。
さて、海の位置は現代では縄文時代よりも大分遠い場所にまで後退している訳だが、これは気温要因だけでは無い。
実際には大河川の土砂の堆積でどんどん海は埋め立てられる。海岸の岸壁の崩落でも岩が崩れ砂に成り砂が流され砂州が出来る。例を挙げるならこれが横浜の地名の由来に成った中区日本大通りに有った砂州の半島だな。あとは現在の川崎駅周辺。
そして気温変化の水位の変化と、河川の土砂の堆積以外に、もう一つ要因が有ってそれが地盤の隆起だ。
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この諸磯隆起海岸は8万年前に海だった所が既に標高30mにまで隆起していると、地質調査総合センターの担当者様から御教授頂いた。
この1万年でも5mも隆起したそうだ。つまり縄文時代ころから比べて地盤だけでも4~5mも上がっている。これに現代に近づく程に気温の寒冷化によって海水位が下がり海岸線も後退し、更に土砂の堆積で砂州が形成され陸地と成って行った訳だ。
ちょっと昔の考古学者は地質学者と違ってステレオタイプに「河川敷の近くの平地には弥生時代も人は住んでいなかった」と持論を展開する連中が多く、河川敷近く集落が在ったとする多くの古い神社の伝承をコケにしていた。所が最近になって出るわ出るわ川の近くの平地から弥生時代の集落の遺跡。
…以前、延喜式内社や式外社の伝承をコケにした考古学者達は「最近は川の近くでも人の生活の痕跡が発掘されています」と白々しい解説をしているが「おい、どの面下げて行ってるんだオマエ」とツッコミたくなる(笑)。
まぁ、そんな事を説明する参考の写真として、この諸磯隆起海岸は大切な素材に成るんだな。
観察してから写真をとり、満足して次の目的地へ移動。
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三崎漁港。この日は海南神社の夏の例大祭。
だから普段は都心部に出て働いてる三崎の出身者も皆帰って来て大賑わい!
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御神楽を演奏するチームが町内会毎に分かれて編成され、観光客を出迎えてくれる。
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当然ながら屋台も沢山出店する。
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そして本当に沢山の神輿が町に繰り出し熱気に溢れたパフォーマンスを展開する。
横浜市では絶滅してしまった古来の相模国の習俗だな。見ていて興奮する。
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子供達は屋台の方が気に成る様だね(笑)。
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左の屋台、アナと雪の女王って…許可取ってるのかな(笑)?
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三崎の商店街は昭和がそのまま残っていて小生はとても好きだ。だからたまにドライブに来てはブラブラしたりしてる。
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丁度、お昼も過ぎて小腹が空いてきた所に珍しい屋台を見つけた。
あげもんじゃ
興味が有ったので食事前に食べて見る事にした。
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もんじゃ焼きを春巻きかなんかの皮に挟んで揚げてあるんだな。
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皮も美味しいが、とにかくアツアツで食べるのに火傷しない様、注意が必要で大変だった(笑)。
でも御薦め!
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途中、新しい店が出来ていたので気に成った。ミサキ ドーナッツと言う店。
喫茶店?名前からするとドーナツ屋さん?今回は入らなかったが次回の訪問時は入って見よう。
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海南神社に着くと、既に全ての神輿は町内に出払って巡行中。割かし静かに参拝出来た。
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参道に民家を利用した喫茶ってんがオープンしていた。最近の開店の様だな。
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ここ海南神社は明治までは筌籠弁才天と言って三浦一族の信仰を集めた弁天様の神社だった。
鎌倉幕府で初代侍所別当に成った和田義盛公が船で房総へ渡る際に遭難したのだが、それを助けた御利益が有る神社で、更に前身の御稲荷様は三浦家が源頼朝公に付いて反平氏の軍勢を決起する切っ掛けを作った神託を与えた勝負の神様としても御利益が有る。
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そこに本宮神社の藤原資盈(すけみつ)公と、その御妻女である盈渡姫様を祀った御神霊を合祀して現在の形に成った。藤原資盈公御夫妻は京都で悪どい貴族の謀略で政争に敗れ、太宰府に逃げようとしたが船が遭難して東日本に来てしまったと伝承するが、そんな訳ゃ~ない(笑)!
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絶対に狙って坂東平氏を頼って亡命して来ている筈だ。だからこそ、三崎の領主に成れた訳だ。
御二人は三浦で庶民に文化教育を施した、謂(い)わば教育者の先駆け的な人物だった。その事を今でも感謝されており三崎の人々から神様として崇拝されている訳だ。
ところで海南神社には立派な御神木が有る。
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源頼朝公御手植えの銀杏だ。
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鶴岡八幡宮の大銀杏は台風で折れてしまったがコチラは健在だ。
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銀杏はなんか得体の知れないデッカイこぶがぶら下がっている。
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神社では前時代の事は良く解らなく成っている様だが、三浦家が崇敬した稲荷社なので水辺が昔は大切にされていた痕跡が有る。
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湧水地に石碑が建っていた。
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何だか陰に隠れているが昔の人が大切にした霊場としての池。
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まぁ、海辺の漁師町の神社なんでこんな絵も飾って有る。
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神楽殿で神職さんが御着替え中だった(笑)。
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本殿はどっからどう見ても弁天社や八幡社に近い様式なんだな、朱塗りの社殿で。
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境内には他にも金毘羅様が祀られている。これも海の神様、流石漁師町。
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境内には可愛い子猫達が沢山いた。何だか癒される(笑)。
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再び町に戻る。昔ながらの写真館…映画のロケ地に成りそうな雰囲気。
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何か知らないけれど東北の宮城県から来た人達が奉納舞かなんかを披露してらっしゃった。
観光客も足を止めて見入っていた。
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本格的に遅い昼食を食べる為に行きつけの寿司屋の紀ノ代に移動する途中、又、神輿が有った。
どうやら宮城県から祭りに参加に来ているのだろうか?
まさか?
宮城と言う地区が有るのだろうか?今度聞いてみよう。
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三浦映画社の前を通る。三浦半島での映画のロケに一役買っているNPOで、以前は多くの撮影した作品の関連展示が有ったが今回行ったら大半が撤去されていた。残念。
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とにかく過疎の三崎も賑やかなんだな、この1日は。
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目的地に到着。
紀の代(きのだい)サンと隣の黒羽亭は自分一人でも今回みたいにフラフラ散歩がてら三崎に来ては食べに来るだけでなく関西なんかの遠方からの来客や海外から友達が来たり外国人の友人が帰国する時等、機会が有る毎に来ている半ば行きつけの店。
以前も紹介した記事が有るので参考にして貰うと良いかと思う。→ココをクリック!
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この日も、いつも通りに前菜代わりに絶対に頼む“皮ポン”、鮪の皮のサラダみたいな料理を注文。
これがコラーゲンの塊なのだが程よい弾力が有って美味しい!
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それに小鉢丼セット。2つ頼んで確か1000円。この日は鯵の丼と鮪丼。味噌汁はセットでついてくる。
もしデートで行く人や子連れの人は、これを注文して別に料理を頼むと色々と楽しめて御薦め。
住所と連絡先は以下の通り。

御腹も満たして満足し、店を出て12日水曜日のリベンジで美味しい西瓜を買いに西瓜の直売所のザ・作兵衛へ移動…
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国道134号線沿い引橋の交差点から三浦海岸へ向かう道沿いに在る。派手な店なので直ぐに解る。
google mapで「直売ザ・作兵衛」と検索するとナビしてくれる。車じゃないと少々不便な場所。
ここは2年前まで看板娘の御婆ちゃんが店番をしていたのだが、骨折してから今の女将さんと若女将に看板娘の役目が引き継がれた。
まぁ、御婆ちゃんも今でも家で元気にしているそうなので何より。
夏は西瓜とメロンを直売、あと夏野菜も有る。
秋季には近くの蜜柑林を運営していてミカン狩りもやっているので子連れの家族には良いレクリエーションにも成る農園なのだ。そちらは石井みかん園で検索すれば出てくるだろう。
ここの店の西瓜は絶対に!外れが無い。どれを買って良いか解らない際は「甘そうなの選んでね~」と御願いすると美人若女将が選んでくれるので誰でも安心して買える。
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この日は15日土曜日、前回の11~12日に三浦半島に宿泊した帰りに立ち寄ったが店が休みで買えず、仕方なく別の店で西瓜を買ったが甘くなかった。やっぱりザ作兵衛がイチ押しの直売所な訳だ。
それでリベンジに来た。
その時の記事
   ↓

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ザ作兵衛では西瓜とメロンを購入。あと石井みかん園の蜜柑ジュース。
家族で食べたが、やはりとても甘く良い1日の〆に成った。

ふむ…三浦市の人々が無形文化財や天然記念物、そして農業と漁業をとても大切にして下さる御蔭で良い週末を凄し癒されました。ありがとう。

この三崎漁港や油壷周辺の他にも三浦市には城ヶ島や荒崎海岸、和田長浜海水浴場、江奈湾や毘沙門堂、剣崎灯台等沢山の封子明媚な観光地が有り夏の海辺を楽しむには持って来いです。
是非!お盆休みもその後も、皆さん三浦市を訪れてみては如何(いかが)でしょうか?
タグ三浦半島の記事→http://yoshi-kanagawa.blog.jp/tag/三浦半島

この記事を午前中に少し書いていたらいてもたっても居られなくなり、夕方に和田長浜(わだなはま)海水浴場と荒崎公園を散歩しに行って来ました。
とても綺麗でしたよ!

和田長浜海水浴場
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荒崎公園(神奈川の景勝50選、荒崎海岸)
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では、又次のブログ記事で御会いしましょう!





ドラマ“いつかティファニーで朝食を”を見ながらタイピング中…
森カンナさん、綺麗だな~♡
いつかティファニーで朝食を
結婚したかった昔の彼女にソックリだ。

…それはどうでも良いけれど、今日は凄い泣けた。
今日は三浦半島の漁村、小網代(油壷)に行って泣いて来た。
そして帰りの運転中も泣いた。
泣いた理由は…

1、油壷の新井城址の写真を撮りに行ったら、地元の普通の御婆ちゃんや農家さんが、未だに戦国時代の殿様に恩義を感じて殿様の事を慕い語り継いでいたから。
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2、三浦一門が最後の合戦で大将の三浦義意公が降伏せずに自ら敵兵300人を棍棒で撲殺しないといけない様な作戦とも言えない無理な戦いを挑んだ、その理由が何でかずっと考えていた…
普通は自決するか降伏する。
これは守るものが有ったから、簡単に死ぬ訳にはいかなかったんだろうな?と思っていた。
関連文書を読んで予想していた通り、御当地新井城址の油壷地区の御婆ちゃんから説明されたのは「一族の女子供や、責任の無い身分の低い家臣を逃がす為に、自ら殿軍に成り皆が小船に乗って房総半島に逃げるまで踏ん張ったから」だった。
…すんごい泣けた。
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3、戦国時代の三浦家の殿様が逃がした家臣や一門の幼子や婦女子の御子孫が未だに恩義を感じていて、日本全国、遠くは北海道からも殿様の御墓参りに来ると、衝撃の事実を御婆ちゃんから聞かされて、又、すんごい泣けてきた。
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今まで油壷を散歩した事は無かったけれど、今日は三浦一族の大名としての終焉の地「新井城城址」と「神奈川の景勝50選油壷湾」と「小網代湾」の周辺をゆっくり散策して来た。

現地に到着して直ぐ、駐車場で小さい売店を営む御婆ちゃんから先述の予想外の歴史談話を聞かされ、自分の予想通りだった事で当時の殿様の気持ちを思うと胸が張り裂けそうに成り泣けてきた。
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昭和初期はヨットハーバー併設した観光地として金持ちに人気の有った油壷だが、今では寂れてしまった御当地の、普通の優しい御婆ちゃんらしい御婆ちゃんの口から出るわ出るわ、三浦家の神奈川の拠点の名前。
そして殿様を慕って、今でも日本中から御墓に御参りに来る家臣や一門の御子孫達がいる事を聞かされ、散策が終わり三崎漁港に移動する車中、運転しながら又、泣けて来た。
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油壷湾の地名は新井城址の激戦で、戦死した武者達の遺骸で新井城址下の湾内が血油が満ちて、さながら油壺の様な景色に成ったからだそうだ。
昔はどんな名前で呼ばれた浦だったんだろう?
昭和後期、この油壷湾は❝神奈川の景勝50選❞に選ばれた。
現在は東大地震研究所のせいで雑木林が荒れ放題、景色も伸びきった樹木で見難(にく)い遊歩道だが、それでも木立の隙間から見える油壷湾はエメラルドグリーンで綺麗だった。
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新井城址は油壷マリンパークと東京大学地震研究所に成ってしまっていて、城跡としての遺構は略、消失してしまっている。
それでも、小生、三崎漁港にマグロを食べに行ったり石井農園にミカン狩りに行く度に、当時の広大な城域に引橋と言う地名や、それと思しき自然の堀切地形と人口の堀切地形の複合地形をいくつか確認していた。
今日の散歩中も東大地震研究所の敷地にも外から空堀跡と思しき地形も見て取れた。
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風景も綺麗だったし、眺望の良い素敵なレストランも又見つける事が出来た。DSC_0224
夏に成ったら、油壷のレストランに御飯を食べに行き、三浦道寸公と三浦義意公の御墓参りに行こう!
そして、又、御婆ちゃんに約束通り会いに行こう。
その時は横浜の御土産を持って行ってあげよう。

…とりあえず、まずは夏、7月11日まで元気に生きよう。
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帰る前、三崎の行きつけの御寿司屋さん「紀の代」で、今日は1980円の本日の握りと、鮪の胃袋の湯引きを食べてきた。
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相変わらず美味しかったし、約1年間くらい御無沙汰してたのに女将さん、小生の事をちゃんと覚えててくれた。

…覚えていてくれる人がいるって嬉しいよなぁ。

小生だけは、神様として祀られている古代人や、平安~江戸時代の殿様達が神奈川や日本の為に行った偉業と殿様の名前、忘れないで置こう。死ぬ迄。
さて!
とりあえず、明日の朝は地元の殿様所縁の御寺で座禅会だ!ちゃんと武士文化の礎と成った八幡様にも御参りしてこよう。

神奈川県の三浦半島の南端に"城ヶ島"と呼ばれる地形的に色々な種類の海岸が見られる美しい場所が有ります。
…関東地方とは思えない岸壁でしょ?
かと思うと…
こんな風に変わった砂浜も有ったりして、太平洋に突き出した雄大な景色や、東京湾側の黒潮がぶつからない穏やかな風景も見られる場所です。

更に関東地方は太古の昔から大地震が多い影響で、大正時代の関東大震災で三浦半島南部は海底が50cm隆起したばかりなので城ヶ島では神秘的な風景も見られます。
変わった海岸ですよね〜?
この写真は城ヶ島東側の東京湾側に面した海岸です。

南側と西側は流れの速い太平洋の黒潮に侵食され荒々しい表情を見せます。
しかし、こちら側には海鵜(うみう)の自然繁殖地が有り、人間が近づく事の出来ない反面、野鳥の生命を育(はぐく)む場所にも成っています。
そして展望台からは天候が良ければ富士山も見えます。
生憎(あいにく)、ここから見た富士山の写真は有りません。

城ヶ島の周辺には"三崎漁港"と言う"鮪(まぐろ)の水揚げ漁港"も有ります。

そんな訳で、城ヶ島で美しい風景を満喫した後に三崎漁港周辺に沢山ある鮪料理店や寿司屋で鮪をたらふく堪能(たんのう)出来ます。
例えば…
鮪の胃袋とか。
こう言う料理は鮪水揚げ漁港ならでは…
鮪の白子の天ぷらも美味しいですよ♫

又、"三浦の名物"は「」以外に…
築地でも高値の「松輪鯖(まつわさば)」とサザエ、農作物では西瓜蜜柑三浦大根があります。
三崎漁港と城ヶ島〜三浦海岸へかけて、夏は西瓜、秋は蜜柑(みかん)、冬は三浦大根を栽培する大農園がそこ彼処(かしこ)にあり、夏には西瓜の直売所が道路沿いに立ち並びます。
今の冬前の季節はミカン狩りも楽しめます松輪鯖の季節でもあるので、是非オススメしたい観光スポットなんです。
家族でもカップルでも楽しめる観光地ですね。
チビっ子のいるお宅向けの推薦は、"油壺マリンパーク"と言う皇室御用達の水族館で、そちらではイルカショーも見れますよ!

因みに油壺マリンパークは昔、新井城と言うお城の在(あ)った場所です。
そこでは北条家vs三浦家の3年間に及ぶ篭城戦が繰り広げられた歴史のある場所でもあります。
油壺の地名の由来も…
3年間の激戦で油壺の湾に戦死した武士達の血油が溜まり浮いていたからなんですが…

おっと!
少々黒歴史に成りましたが、何にせよ戦国大名三浦家の三浦水軍の本拠地であり、勇壮な水軍武将達の開拓した歴史ある地域でもある訳です。

城ヶ島〜三崎〜三浦海岸へ連休は足を運ぶのも良いかもしれませんよ?

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