JR小机駅近くに雲松院と言う御寺と、小机城と言う御城の跡が在(あ)ります。
雲松院は戦国時代の笠原信為(のぶため)公と言う武将の開基(かいき=建設)した笠原家の菩提寺(ぼだいじ)です。
この笠原信為公、実は北条家の重臣で雲松院と小机駅を挟んで反対側に在る小机城の城代を務めた人物です。御本人の居城は大曾根城と言う城が近くの大曾根~太尾地区に別に在りました。
しかも、信為公は戦国大名北条家で軍隊で言う所の軍団長に当たる白備(しろぞなえ)隊の大将代行の役割を担っていた重臣でした。
ですから笠原家の菩提寺である雲松院は現在でも広大な敷地を持ち、さながら小大名の武家屋敷の様(よう)な門構えです。
昔は漆喰塀だったんでしょうね。
雲松院は、そもそも神奈川区の神大寺地区に戦国時代に存在した❝神大寺❞と言う大寺院の塔頭か別院の様な扱いで、笠原信為公が御父君の笠原信種公の菩提寺として造営したと伝わっています。
その後、神大寺が戦国時代には既に焼失してしまったので、江戸時代にも成ると笠原家の菩提寺としての機能自体も雲松院に移転して来た様です。

笠原信為公は白備えの副将格(実質上の大将)です。
戦国大名の北条家には、五色に分けて編成した有事に即応する為の軍団が有りました。
その軍団は青・白・黒・黄・赤に軍装を色分けされていました。
各部隊の大将の名前と居城を北条家最強の時代を参考にあげますと…

●青備(ぞな)え 冨永直勝 公  
  葛西城主(東京都葛飾区)
  主に房総半島の里見家に備えた部隊。
※現在の葛飾区は昔は下総国葛西郡の一部。今の感覚で言うと葛飾区は千葉県の一部だった。

●赤備え…北条綱高 公
  江戸城主(現在の皇居)
  主に静岡県方面の攻防を担当した軍団。
  武蔵国多摩地方攻略にも活躍した軍団。
※北条綱高公は実家は九州の名族高橋家で、北条家2代目当主の北条氏綱公に気に入らて養子に成った人物。

白備え…笠原信為 公  
  小机城代 大曽根城主(横浜市港北区)
  主に、武蔵国の防衛を担った部隊。
※小机城はJR小机駅近く、大曽根城は大倉山記念館の丘一帯。
※小机城主は北条幻庵(げんあん)公。幻庵公は笠原家の上司で普段は小田原在住。又、箱根権現(今の箱根神社)の宮司を務め風魔忍者の管理者でもあった。
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●黒備え…多目(ため)元忠  公
  青木城主(横浜市西区と神奈川区の間)
  主に北条家の本隊として活動した部隊。
  吉良家の護衛も担った。
※青木城は今の京急神奈川駅一帯、本覚寺〜権現山にかけての半島上に築かれた城だった。江戸時代には東海道神奈川宿が置かれた。
※多目元忠公は北条氏康公の軍師で河越合戦などで活躍した。
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●黄色え…北条綱成 公
                 副将…間宮康俊 公
  玉縄城主(鎌倉市北部〜藤沢市市境一帯)
  対外遠征と前線の援軍を担当した軍団。
※玉縄城の範囲は広大で今の藤沢市渡内〜鎌倉市玉縄〜植木〜横浜市栄区長尾台にかけて築かれた城郭で、武田信玄と上杉謙信も撃退した堅城。
※実質的に北条家最強の軍団で肝心な合戦には必ず黄備え隊が参戦した。
※北条綱成公は綱高公同様に、2代当主北条氏綱公に気に入られ婿養子に成った人物。
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さて、五色備えは何となく御理解頂けたと思いますが、実はこの軍団編成は織田信長公に先駆ける事、数十年も早く作られた画期的なシステムだったんです。
現在の軍隊と同じシステムだったんですね。
そんな北条家白備えの大将だった笠原家の菩提寺だから、当然に雲松院の境内も立派な訳です。
この写真では分かりにくいですが、本堂の上の金色の家紋装飾は笠原家の「丸に三つ柏紋」と徳川家から許された「葵の紋」が入っています。
家格の高さが窺(うかが)い知れますね。
京都の相国寺や天龍寺くらいの敷地が有るでしょうか?
周囲の山林も含めて雲松院です。

鐘楼も立派ですよね。
この雲松院は明治時代の廃仏棄釈まで、付近の白山神社の別当(べっとう管理職)も
兼務していました。
つまり、笠原家は神道では白山神社を信奉していたと言う事ですね。

白山神社は北信越地方の神様です。
そして、曹洞宗の大本山が今の横浜市鶴見区総持寺に移る前の能登国永平寺だった頃から曹洞宗の守護神として崇めらてきました。
実は雲松院は曹洞宗の御寺です。
小田原北条家には曹洞宗を信仰する武将が比較的多い様です。
しかし、笠原家が白山神社を信仰したのは、北条家家臣だったから以外にも理由が有ると思われます…

笠原家ですが…
古代神話の時代には相模国と武蔵国を合わせた広大な範囲の佐賀牟国造(さがむのくにのみやつこ)を務めた人物の子孫だとも伝承しています。
そうであるなら、長野県の諏訪大社の神様、建御名方神(たけみなかたのかみ)の御神孫と言う事にもなりますね。
まだ、神奈川県や東京や埼玉が、相模国とも武蔵国とも呼ばれる更に前の「佐賀牟(さがむ)国と呼ばれた時代、古代の国主は「国造(くにつくりのみやつこ)」と呼ばれました。
その時代、初代の佐賀牟国造に任命されたのが、建御名方神から数えて6代後の子孫だそうです。
信州出身の家系だから、古代から北信越で自然信仰で崇拝されていた白山神社を神孫の笠原家も信仰する事は当然と言えば当然だと言えますよね。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)を信奉していましたしね。

その後、佐賀牟国造の乱で笠原氏は内紛を起こし分裂してしまい、更に大和朝廷の仲裁を受け弱体化と古代大和朝廷の大王(おおきみ=天皇)に臣下化し埋没していきました。
※写真は雲松院の文化財一覧

しかし小机城代の笠原家は古代〜室町時代まで、ずっと神奈川県に定住していた訳では無く北条家が、まだ伊勢を苗字にし岡山県にいた頃からの家臣でした。
おそらく、古代の国造の子孫は時代を経て鎌倉幕府の御家人と成り、岡山県に移住したのかも知れないですね。
室町時代に領地を拡大し支配するには大義名分が必要だったので、家臣の家系の祖先が治めた土地に、その家臣を領主にする事で支配権を公言するのは上等手段でしたから、北条家は笠原家に小机城を拠点に武蔵国橘郡と都筑郡の経営を任せたのかも知れません。
北条家の歴代殿様は古典歴史にも精通していましたから、笠原家のルーツもご存知だったはずです。
武田信玄の場合は、家臣に縁も所縁(ゆかり)も無い地域の滅んだ武士の苗字を自称させて強引に支配権を主張したりしました。

岡山県の笠原家ですが…
他の武家にも岡山県に移住した具体例が有ります。
鎌倉時代初期の当時、源頼朝公より岡山県に恩賞の領地を与えられ赴任した武士には、他に梶原家や長井家がいます。
梶原家は旧鎌倉郡梶原の地名を苗字にした坂東平氏梶原景時公の子孫です。
長井家は大江家の分家で、大江広元公の子孫です。
いずれも源頼朝公の重臣です。

笠原家は他に古代から信濃国より出なかった一族もおり、武田信玄に敵対しています。
そちらは佐賀牟国造の伝承を証明する様(よう)に「諏訪神氏系図」で神孫と記され長野県佐久郡志賀に定住していた事や、鎌倉時代に源頼朝公に臣従していた事が記録に残っています。
つまり、鎌倉時代に御家人として幕府に出仕した笠原家が、元:伊勢平家(平清盛の一族)の領地だった荘園を恩賞として源頼朝公より与えられ備前国に移住したか、北条家が本姓伊勢家だった頃に室町幕府の命令で伊勢家同様に移住したんでしょうね。

この様に古代からの由緒ある家系の笠原家ですが、笠原信為公は内政でも活躍し歴史に名を刻んでいます。
1526年、房総半島の里見家に鎌倉市街地に攻め込まれ、鶴岡八幡宮が略奪・放火され焼失する事件が起きました。
その後、鶴岡八幡宮を再建するに当たり、北条氏綱公は鶴岡八幡宮再建の総奉行に笠原信為公を任命しました。
この役割りは非常に重く、「統率力」「経済力」「高貴な血筋」「文化的歴史的知識の深さ」の全てが無いと担えない役割りでした。
結果、信為公は鶴岡八幡宮再建に成功します。
因(ちな)みに、この再建事業には黄備えの副将間宮康俊公も与力(よりき=部下)の奉行として参加しています。
間宮家も宇多天皇の子孫に当たり、室町幕府鎌倉府の武士の家系でしたので有職故実(ゆうそくこじつ=古いしきたり)に精通していたはずなので、抜擢は理解出来ます。
信為公ですが、他にも減税による民衆からの支持を得たり内政面での活躍が現代にも伝わっています。
更に文化人としても和歌や漢詩に長けていた事も伝わっています。

合戦指揮だけで無く、事務処理能力にも長けて文化人としても高名とは…
現代の会社にはなかなか、こんな素養の高い高級管理職いないですよね。
仕事が出来ても人間腐ってたり、金稼げても文化的素養が欠落した無文化成金だったり、仕事出来ない癖にふんぞり返って実力無かったり…
信為公の様な上司って少ししかいませんよね。

そんな信為公の笠原家御一門は、今でも小机の雲松院から横浜市民を見守って下さっています…
これ↓歴代殿様の御廟所から見た風景
新横浜が一望出来ます。

そして、御廟所の写真を撮影するのは不敬なので、今回も写しませんでしたが、御廟の石塔の配列説明を代わりに撮影してきました。


皆さん、もし、小机城を見学する機会が有れば、雲松院を御参りし笠原家の殿様達に神奈川県北東部の発展に寄与して下さった事に、一言お礼を伝えてみませんか?

本日はここまで。
では、又、次回の記事で!