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タグ:緑区

皆さんは延喜式神名張と言う言葉を聞いた事が有りますか?

延喜式神名張と言うのは、醍醐天皇が編纂させた文書の題目です。
内容は平安時代、西暦900年代初頭の当時から見ても古い歴史を有する神社を列挙した物で、醍醐天皇が後世に古社を存続させる為に記録させたんですね。
延喜式と言うのは、元号の延喜年間つまり西暦901年~923年に当たる期間に、古来の律令制度では対応できなく成った法制度を改めて補足する為に作らせた制度や管理体制です。
その一環として作られたのが延喜式神名張です。
そして横浜市内にも、数少ない延喜式内社が一社現存しています。
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それが、横浜市緑区西八朔(にしはっさく)に鎮座する杉山神社です。
この神社の存在する住所その物が、この神社の由緒を表しています。
実は西八朔の八朔と言う地名は平安時代には❝都筑郡針斫(はりしゃく)❞と登場しているのです。
現在では神主不在ですが、境内はなかなか広く、管理は氏子様達の努力によって何とか行き届いています。
この神社の歴史は凄いんですよ。
語るについては、少々、神奈川県と東京埼玉の古代郷土史を解説する必要が有ります。

現在確認出来る文書でも杉山神社は西暦800年代には名前が登場します。
武蔵国(埼玉・東京全域と横浜市東部)の総社六之宮とされる神社なので、佐賀牟(さがむ)国が相模(さがみ)国と武蔵(むさし)国に分裂した際には六之宮に定められた歴史を持つ神社と言う事に成ります。
古代の武蔵国内で六番目の有力な郷(さと)だったと言う事にも成ります。DSC_0029
武蔵国の六之宮と言う事は…
佐賀牟国の相模と武蔵の分裂時期は西暦500年代の❝武蔵国造の乱❞のはずなので、武蔵国建国時に武蔵国六之宮に定められた杉山神社の歴史は以前と成ります。
つまり武蔵国成立時に六之宮とされているので、古墳時代~飛鳥時代まで神社の始まりを遡(さかのぼ)れると言う事が解ります。
他にも杉山神社と同じく古い歴史を有する神奈川県の古社は殆どの御祭神が出雲系の神様や日本武尊や伊邪那岐伊弉冉命です。
つまり、日本武尊を除いては、杉山神社を初めとして、古い神社程、出雲系の神様が多いんですね。
ですから、国家神道が160年前に成立し伊勢系の神様が尊いとされた為に、嘗(かつ)て醍醐天皇を初めとして歴代天皇が我々後裔に保存を託した延喜式内社の古社でさへ神主不在と成り荒廃してしまっている場所が少なくありません。
残念ですね。
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この手水、センス良いですよね!
自然石をくり抜いて、自然信仰と偉人崇拝を元に始まった日本古来の宗教観を代弁する様な存在。
最近作られた手水ですね。
幸い、杉山神社は、この様に氏子サン達によってちゃんと守られています。
杉山神社の在る旧都筑郡に当たる緑区や青葉区は隣の港北区と同じく住民の皆さんの郷土愛と文化度の高い地域でしたので、神主不在と成った現在でも、荒れ果てる事無く整備されています。
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…横浜市は移住者ばかりで住宅街の里山の中の神社が、そんな凄い歴史が有ると知る人も少なく、現在では活気は全く有りませんが。
さて、実は杉山神社、日本中で旧都筑郡にしか存在しませんが、その論社(ろんじゃ=記録から推定される場所)は他に数カ所有ります。
しかし記録上の地名から、小生も本社はこの緑区西八朔の杉山神社だと思います。
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神社の前には古道と思しき道も有りましたしね。
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昔の街道だった名残りをプンプン匂わせる石仏も残っています。
庚申塔が有るので間違いなく、ここは旧街道です。
平安時代には街道が通っていた地域だとすれば、それより前の古墳時代から人が住んでいた地域だったのかも知れませんねぇ~。
この杉山神社は歴史が有る神社に相応しい立派な社殿です。
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神主不在でも立派ですね。
この社殿を維持させんとする周辺地域の人々の歴史を愛する心と文化を残そうとする信仰心や気概が伝わってきます。
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この境内は、恐らく昔は神楽殿も有った広さが有ります。
社務所を立てて、宮司様が常駐したら良いのにな?
…と思いました。
神奈川県神社庁は延喜式内社をプッシュし、県民の信仰心と神話を伝承させる様な働きかけをしてくれたら、もっと日本人が本来の文化を大切にするきっかけに成るんじゃないかな~?
神主さんが普段から住んでいて、子供が遊びに来て、小さい時から神様の近くにいる、そんな環境が戻って来れば寂れた神社が復興して、一度は廃れた神社も夏祭りが行われたり活気が出て日本人にとっても精神的に昔の様に大切な存在に成り、祖先とのつながりを感じたり出来る様な気がします。
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摂社の前には梅も綺麗に咲いていて、背後の竹林と相まって美しく、里山の古社の雰囲気を醸し出していました。
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今ではひっそりとした神社ですが、ここがかつての天皇家や朝廷にも認知された古社だと考えると、この静けさも凛とした空気として身に沁みます。


では!又、次の解説記事で!



横浜市緑区三保と言う地域に旧城寺と言う名前の御寺が在(あ)ります…
御寺さんの名前が示す通り、実は此処(ここ)、そのまんま御城の跡なんです。

…横浜市の人もあまり知らないですけどね。
榎下城と言う御城でした。

しかも!

"かなり"重要な武士の拠点でした。
その武士とは関東管領上杉家です。
その上杉家の内の筆頭四家の一つ、宅間上杉家の御城でした。
宅間上杉家の本拠地は旧鎌倉郡永谷郷、現在の横浜市港南区下永谷の永野地区にあった永野城址ですが、歴史的に有名なのは、こちらの榎下城址なんです。
なんと!このお城は日本史でも勉強する室町時代に起きた永享の乱の舞台でもあります。

※宅間上杉家の詳細と永野城址付近の永谷天満宮に関しては「コレ」←クリック!以前書いたブログの中の説明を読むかググッて下さい。
※永享の乱に関しては「コレ」←クリック!以前書いた称名寺も宅間上杉家や鎌倉公方と関連が有りますので、御興味あればどうぞ。

因(ちな)みに室町幕府で関東の総理大臣みたいな仕事をしていたのが、関東管領と言う役職なんですね。
山門(さんもん=御寺の門※時として御寺そのものを指す)の表札には旧字体で"旧城寺"と書いてあります。

この山門は昔の城郭の内側の城域を守っていた"大空堀"の土橋(つちはし=まんま曲輪と曲輪を繋ぐ土の橋)の上に建てらています。
つまり榎下城の城門ではありません。
旧城寺山門の両脇には今でも大空堀の遺構が在ります。
これ↑山門横の空堀の一部です。
…何故か空堀に民家が建てられていますがね。
小さい堀と感じますよね?
違いますよ…
本当に大空堀だったんですよ。

この山門横の空堀を辿っていくと…
この公園にブチ当ります。
この公園は山門の空堀に繋がる谷底に在ります。
自然地形を利用しつつ切岸(人工的に山を掘削した崖の防壁)で堀状にした"空堀の底"に公園が有るんですね。
この大空堀で仕切られた内側が中国の御城で言う所の"内城"の役割を果たし、外側が外郭として機能していたんでしょう。
この空堀より外側の周辺地形を見るに、更に空堀として機能していたと思われる住宅地の道路がありますから…
つまり、その外側部分に大坂城や高槻城や小田原城の総構えに当たる兵士の駐屯区域が有ったんでしょうね。
上杉家の城は仮想敵兵士数が最低でも数千単位ですから。

さて…

山門を抜けると両脇には"こんもり"とした
小さい山が有ります。
コレ、食い違いと呼ばれる防御施設の遺構で、実は内城の城門の有ったはずの場所でもあります。
石は何か施設跡の礎石かなんかかな?
ちなみに…
食い違いと言うのは↓この部分。
文字通り食違いの城壁。
城壁をS字クランク状にする事で、城門を突破し進入して来た敵兵を正面の城壁の上から弓で射殺したり石を落として撲殺したりする防御施設です。

中には今では旧城寺の本堂が建ち、本丸跡は弓道場になり、本丸直下の空堀は墓地と成っていますが、その地形は今でも見てとれます…
この墓地↑が本丸下の空堀跡。
完全な箱堀(はこぼり=堀の底が平らで箱みたいな空堀)です。
山門前の大空堀も堀底が箱堀でした。
どうやら上杉家は箱堀が好きだったみたいですね。

…そう言えば伊勢原市の扇谷上杉家の拠点、七沢城址の伝・大空堀と言う場所も底が平らな畑地でした。
関東流の築城技術は、基本、谷戸の多い南関東独特の地形を活かす縄張りですから、自然地形の谷間の崖を切岸にするんですね。
だから、この墓地の両側もちゃんと「切岸」に成ってます。

関東平野は縄文時代には海の底だった部分と半島や島だった地形が入り乱れているんで、平野とは名ばかりで埼玉県辺りと神奈川の川崎市辺りを除いては比高10〜50mの細かい丘伏の起伏の連続なんですね。
…特に横浜市や鎌倉市はね。

さて…
以下は榎下城址の解説から話題を関東と京都の関わりの歴史に移します。

榎下城址は先述の通り宅間上杉家の持ち城で関東管領上杉家の拠点の一つでした。
戦国時代に室町幕府鎌倉府の重鎮である上杉家と関東管領職を山内上杉家から継いだ上杉謙信は元の名を長尾景虎と言い、先祖は横浜市栄区の長尾城を拠点にした長尾家で、更にその先祖は平安時代の鎌倉景政と言う名武将で景政公は関東では御霊神社の神様として祀(まつ)られています。
鎌倉家の更に祖先は神奈川県藤沢市村岡城址を本拠地にしていた平良文と言う元皇族の鎮守府将軍を務められた御偉い方でした。
以前の永谷天満宮紹介のブログで書いた事ですが…
平良文公の更に祖先が平高望 王ですが、平良文公の時代に、この上杉家の御先祖様に当たる勧修寺藤原家と関東の平家は平安時代の京都で繋がりが既に有ったんです。
更にその両家と関わりが有ったのが日本全国にある天神様(天満宮)で神様に成っている菅原道真公の三男の菅原景行公と五男の菅原淳茂公なんですが…

その平良文公・菅原景行公・菅原淳茂公・上杉家の祖先の勧修寺藤原家・神田明神の神様の平将門公主君だったのが"醍醐天皇"だったんですね。
つまり飛躍した例えをすると醍醐天皇の命令と上記の偉人達がいなければ今日の関東の文化は成立し得なかった訳です。
そんな西暦700年代〜現代の関東の発展を築いて下さった醍醐天皇と偉人達と上杉家への感謝を感じる場所…

そんな大切な場所が、この榎下城址なんです。

御近所の方、そろそろ藪蚊やスズメバチもいなくなる季節です。
旧城寺がお城と知らなかった人も、小生のブログ見ながら何となく散歩されて見ては如何(いかが)でしょうか?

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