ブログネタ
春の花、どの花のどんな姿が好き? に参加中!
横浜市に「茅ヶ崎城址公園」と言う、奇跡的な保存状態を維持したまま公園化された御城の跡が在(あ)るのを御存知でしょうか?
史跡の保護と言うのは、その時の市長の文化度の高低によって左右されます。
例えば以前の市長さん達が文化や歴史に対する意識が高くても、一度(ひとたび)アフォで無文化な市長を選んでしまうと、それまで保存状態良く保たれていた史跡も無文化市長の政策で跡形も無く破壊されてしまいます。

特に横浜市は様々なタイプの市長が目まぐるしく変わりましたが、この茅ケ崎城址公園は地元民有志により奇跡的な保存状態が保たれた後、幸運にも高秀市長や中田市長の政策で公園化され、現在に至(いた)ります。

どの位に「奇跡的」な保存状態かと言うと、もう一枚、航空写真を見て貰うと良く解ります。
横浜市営地下鉄、センター南駅前の歓楽街が目と鼻の先に在るんですよ!
つまり、地域住民が土建屋の乱開発に抵抗し城址を守り抜き…
その後、再開発計画に参与した高秀市長や中田市長がたまたま郷土愛と文化度の高い市長さんだった奇跡の結果に成立した城址公園なんです!

徒歩で直ぐの距離には、義務教育の歴史で習う全国屈指の規模を誇る弥生〜縄文時代の遺跡「大塚遺跡」も在ります。
※写真は横浜市歴史博物館の展示物

で、更に同地域には徒歩圏内に横浜市歴史博物館があり、茅ヶ崎城址公園や大塚遺跡の出土品も展示されています。
横浜市歴史博物館については、いずれ改めて記事を書きたいと思います。

茅ヶ崎城址公園、小生は今回の訪問で2回目です。
今回は城址公園の写真撮影と、横浜市歴史博物館の企画展示を見学する為に再度の訪問となりました。

さて、上の写真の通り、茅ヶ崎城址公園はセンター南駅を東側に進むと目の前直ぐの「こんもりとした森」の様に見えているので誰でも辿(たど)り着(つ)けます。

今回、小生は歴史博物館に車を停めて、そこから川沿いに徒歩で訪問しました。
途中、河原には可愛らしい「菜の花」が群生し開花しており、天気は生憎の曇天でしたが心をパッと明るくしてくれました。
この川、「早渕川(はやぶちがわ)」と言う川で今でこそ河川改修工事され穏やかな流れですが、名前からしても…
早…流れが早く
渕…水深の深い渕(ふち)のある
…だった事が容易に想像出来ますよね。
この川が茅ヶ崎城の外堀の役割りを担っていた訳です。
川沿いには菜の花の他に、地元の方々から大切に守られ日々拝まれて来た「堰の元地蔵尊」と言うお地蔵様が鎮座してらっしゃいました。
別名「子育て地蔵」との愛称で呼ばれ、昔は七五三の御参りに来る親子連れが沢山いたそうです。
今でも河原を散歩する親子連れや塾通いの子供を見守って下さっていますね♪

さてさて、この川沿いの道を途中で南側の丘に向かうと、其処(そこ)に茅ヶ崎城址公園が在ります。

センター南駅側から来るなら、おそらく昔は城の一部だった円通閣と言う御寺さん側から入って来る事になります。

だいたい、この様な旧城域内の端には御寺が在り、昔は出城や殿様の屋敷が在った場所だったりするんですが…
伝承無く、更に無住職に成ってしまっている様なので詳しい話を教えを請うべき方が居らず、今では良く判りません…。

さて、城域の話題に触れたので、茅ヶ崎城の小生の想像する範囲を航空写真に赤線フチどりして見ました。
恐らく、この赤線が外堀と外郭だった範囲だと思います。

想定の参考にしたのは、事前に横浜市歴史博物館で見学した再開発直前の航空写真と↓コレね。

あと、城址公園にある茅ヶ崎城残存部の縄張り図にある等高線から重機ではない人の手による土木作業で削り出したと思われる地形と、その延長線上の予測から範囲内を想定しました。


ちなみに城址公園のある台地は城址らしく断崖絶壁に成っています。

下は消失してしまった郭(くるわ)と城址残存部の郭をつないでいた↓土橋の断面。
現在の城址公園は外郭(がいかく)部分が宅地化により消失してしまいましたが、それでも内郭に当たる主要部分の曲輪/郭(くるわ)群が状態良く保護されています。

城址に入ると、先ず北郭(きたくるわ)の平場が在ります。
此方(こちら)には公衆便所(笑)も有り、城址訪問の悩みの種のトイレに困る事も無く見学が出来ますよ〜♪。
小生、最初に来た時にこのトイレに助けられました…。
下は一応、説明文の写真。



北郭を抜けると正面に「中郭」にぶつかります。
今でも郭の高さ5mは有りますが、風化する以前の戦国時代は郭の上の土塁は今より1mは高く、更に今は遊歩道に成っている空堀は1〜2mは不可かったはずなので…
当時の高さは堀底〜土塁まで比高8m近く有ったはずです。

中郭を目の前に堀底道はT字路に成り左右(東西)に分かれますが、左の東郭側は本丸に当たり当時は直接登れないフェイクの道でした。

ですので正しい順路は右回り西郭側です。この↓道ね。

さて、城の本来の縄張り上の侵入経路を辿(たど)ると、その先に、此れ等の内郭群の防御拠点の虎(小)口と言う施設に行き当たります。
説明図の様に先に進む敵を左右の中郭と西郭から挟撃(きょうげき=はさみうち)にし、郭の上から防御側は弓矢鉄砲を雨あられと敵に打掛け殺害する訳です。

この虎口の道は先述の通り空堀の底です。
下の写真が虎口で、右手が西郭、左手が中郭です。
昔は中郭に侵入するには、防衛側に狙撃されながら道を進み遠回りするか…
この東西の郭に掛かっていた「引き橋」を渡るしかありませんでした。
しかし引き橋は戦時に収納してしまい、攻撃者の侵入を遮断してしまえます。
ですから、西郭の守りが危うくなると守備兵を中郭に撤退させ橋を引っ込めてしまう訳です。

下は西郭の入口です。
西郭に入ると下の写真の様に更に一段高い土塁が有り、中郭と同じ高さに至る構造に成っています。
今は薮化が激しく藪こぎしないといけないんですが…
 
…イテっ!と思ったら、写真の野バラがGパン越しに足に刺さってました。
皆さん、これから夏に近づきます、野バラだけでなく藪こぎする際はスズメバチにも気をつけましょう。

痛い植物も有れば、可愛らしい植物達も沢山さいています。

綺麗ですよね~♪


虎口を抜けると、いよいよ本丸の東郭へ続く中郭への進入口ですが…
 
恐らく、この道は公園化の整備を行った際に後から設けられた道だと思います。
根拠は土塁が無理やり切り取られている事と、こんな攻め込み易(やす)い構造にする訳が無いからです。
少なくとも、写真右手の遊歩道は無く急斜面と帯郭に成っていたはずと個人的に想像しています。
 
中郭南側には北条流の築城術特有の「二重土塁(にじゅうどるい)」と呼ばれる構造があります。
二重土塁とは土塁の内側に守備兵の待機スペースを更に一段設けた構造の土塁の事で、これにより守備側はしっかりした足場や弾薬補給役の兵士を配置できるので、鉄砲や弓矢で狙撃しやすくなる訳です。

東西北は一般的な土塁が設けられています。
戦時には、この土塁の上に柵列(さくれつ)を設け、更に其処に木盾や竹束を置き、攻城側の攻撃から身を守る事が出来る訳です。

上の写真は土塁の二重構造が解り易いですね。

 
この中郭は最大の面積がある郭で、此処では弾薬や兵糧を保管したと思われる倉庫の礎石や、食器の破片が発見されています。
下は説明看板。

これ等の出土品は横浜市歴史博物館で保管展示されています。

この他に、当時の生活で燃料にしていた炭の話の解説看板も有ります。
2015-04-11-17-10-47
2015-04-11-17-10-57
2015-04-11-17-11-01
2015-04-11-17-11-07

で、中郭、実は本丸ではなく、更に奥に指揮所だったと思われる東郭があり、そこに繋がる土橋が現在も残っています。
中郭から東郭を見ると、東郭の方が更に高いのが解りますね。
2015-04-11-17-07-47
此処から周辺を見渡し、戦争指揮を執る事が想定されていたんでしょうね。

東郭から中郭を見ると、まだ桜が綺麗に咲いていました。
2015-04-11-17-10-02

丁度、東郭の斜面がムキ出しに成っていたのですが、これは良い関東流の築城術を説明する材料に成ります。
2015-04-11-17-09-08
今でこそ、どの城址も鬱蒼(うっそう)とした植物の林に覆(おお)われていますが、戦国時代当時は、このムキ出しの切岸(きりぎし=人工的に削った斜面)のように、植物は伐採され土が地表に出ていました。
こうする事で、敵は登れなくなる上に更に水をブチ撒けドロドロにして置くわけです。
そしてそして!
その敵が滑って落ちる切岸や空堀の底には「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする為のトラップが設置されていたんですね…。
足滑って滑落したら即!死亡あるいは重症確定!…みたいな、石垣の城よりエグイ、30代以上には通用する言うなれば「リアル風雲たけし城」だった訳です。

今では、茅ケ崎城址の様に保存状態の良い城跡は、横浜市内では小机城位になってしまいました。
小机城は港北区、茅ケ崎城は都筑区ですが、両区共に以前は「都筑郡」と「橘郡」と呼ばれた地域から分離した同じ文化背景を持つ地域です。
この2城が状態良く保存されたのは、地域住民の保護活動の結果です。
本当、旧都筑郡と旧橘郡の地元住民の皆さんは郷土愛が強いんですね。
頭が下がります。
2015-04-11-17-07-57

この城の中郭と東郭からは都筑区の町が見渡せます。
この城の殿様が、今の風景を見たら、こんなに変貌したのに城址を守って下さった都筑区民にきっと御褒めの言葉を下さるんじゃないかと思います。

では、皆さん又、次の記事で!