歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:織田信長

北朝鮮問題の軍事的解決は「想像絶する悲劇」もたらす-米国防長官
image

この人の事は本当に尊敬しています。
日本の物も含めアジアの六韜三略や曹操が編集した孫子等の戦略教本、平家物語や太平記なんかの戦史も凄まじい数を所持熟読してらっしゃるとか。

更には敬虔なプロテスタントで、明治以前の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗の僧侶の様な質素で清廉な生活をされ、浄土真宗以外の昔の仏教の様に不犯を守ってらっしゃるとか。
現代アメリカ人版の上杉謙信て所でしょうか?
上杉謙信

もっとも上杉謙信の場合は統治者としての所業は悪人でしたがね・・・
上杉謙信の場合は越後で飢饉が起きる度に掠奪目的で関東に来て、村々を焼き"女子供を拐(さら)って奴隷売買の公設市場を開いて年を越す"なんてトンデモ悪人の側面が有る。
彼が"義の人"と言われる由縁は政治的に権力が弱かった"剣豪将軍"足利義輝公に古今未曾有の忠義を尽くしたからで忠"義"の義なんだな実は。
・・・彼には正義は無かった訳だ。
頼って来た者が武田に侵略された領地に、"奪い返す"大義名分で攻め込んで支配下に組み込んでも実際には保護した者へ領地を返還せずに、代官として利用しただけだし。
そこへ行くと織田信長公は素晴らしい。
織田信長公

織田家が徳川家に度々援軍を送り更に遠江国の支配権を承認し恩賞に駿河を与えた事の寛大さが窺い知れるわな。
徳川家康公

裏切らず、兄貴分の織田信長公を信じて援軍を待ち続け、時には信長公の合戦に参戦した与党として誠実を貫いた本能寺の変以前の徳川家康公こそ正に「義」の人の称号は相応しい。
そこへ行くと徳川家康公の誠実さが良く解る不誠実で利己的な人物の代表は❝お艶の方❞だろう。
遠山家へ嫁いだ織田家の艶姫は酷い。女城主お艶の方として有名な人物だな。
おつやの方

遠山家臣団は織田家との関係を深める為に、艶姫を迎えて織田家と婚姻関係に成る訳だ。
城主は子が無く病弱(親武田派に毒を盛られていた可能性有り?)だったので、織田から見捨てられない為に❝織田信長公の実子の御坊丸を遠山家の養子に迎えた❞のだが・・・
織田包囲網が形成されて武田氏が織田領に侵攻して来るや、遠山景任公は戦傷が元で死ぬ。
果たして本当に戦傷が元なのだろうか?
この時期、織田家は岩村城救援の戦略で、明智光秀公や池田恒興公が東美濃で合戦に及んでいる。
しかし遠山家は情報過疎だったか武田領の信濃国木曽地方に隣接する所領を持つ親族衆達が鼻から武田派だったのか、当主倒れて後、秋山勢に屈し❝お艶の方と敵方の秋山信友の婚姻和議❞を画策して成立させてしまう訳だ。完全に保身の風見鶏。
織田が強ければ織田に靡き、織田が不利で武田が優勢なら武田に靡く。丸で某半島の国。
・・・決定的に酷いのは、お艶と秋山の縁談が纏まった際に❝信長公の実子の御坊丸を武田家に織田の人質として提供してしまう❞極悪非道な裏切り行為に出た訳である。
これで怒りに火が付いた織田信長公は、織田包囲網を打破する過程で裏切り者達の本拠地の岩村城を標的にする訳だ。そして殲滅戦を行い、風見鶏の様に信念も誠実さも無い遠山家の親族重鎮達を全て処刑し彼等に利用された艶を磔(はりつけ)にして獄門に処して裏切りの対価を払わせた訳だ。
岩村城に援軍を直接送らずとも戦略的に東美濃を奪還しようと奮闘した信長公と織田家臣団を利己的に裏切ったんだから当たり前だな。
この岩村城における織田信長公の戦略と事例と同じ事はマティス司令官もイラクで現地の酋長達に通達している。まぁ、現代人のマティス司令官の場合は軍事法廷に裏切者を引き出して裁判で処刑にするんだが。戦争中の基本的な事だな・・・
現代の軍隊なら世界各国どこも敵前逃亡と裏切りは軍事法廷で死刑は基本だ。
・・・但し裏切らず誠実に、そして勇敢に敵から領民を守った者は徳川家康公の様に評価され恩賞も貰えて信頼される訳だ。
この作戦を日本で早くから行った事で有名なのは坂上田村麻呂公だな。
坂上田村麻呂

蝦夷(えみし=アイヌ=縄文文化を続ける日本の民族)討伐でマティス司令官や織田信長公の戦略を先に行った人物。裏切ったり歯向かう敵は殲滅し、逆に縄文文化のアイヌ族でも友好的で協力的な豪族は朝廷に迎えて優遇し統治者として登用して行った訳だ。
因みに、この坂上田村麻呂公と同族と思われる古代の名将軍が神奈川県にも所領を持ち移住していた。
坂上石楯(さかのうえのいわだて)公だ。
藤原仲麻呂の乱で活躍して今の相模原市辺りを所領として賜り移住し、延喜式内社で相模原市の名倉に所在する石楯尾神社の近くに城館を構え、石楯尾(いわだておの)神社を支援した人物だ。
CIMG1942

上の写真は石楯尾神社は、そもそも日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、自らが装備していた草薙の剣と対に成る防具の天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の印として現在の石楯尾神社の辺りに埋蔵し、それが神格化された事に信仰が始まる。その化身として烏帽子岩も信仰対象に成っていたが近代、交通網整備の際に破壊されてしまった。

まぁ、そんな訳でマティス長官は日本の名将達と類似の戦略なんぞ頭の中に常識として入っている訳で、御本人も誠実で潔癖な様、そして実際に名将としても人格者としてもイラク現地で酋長達からも民百姓からも慕われた訳だ。
マティス司令官は法治主義者であらせられるので上杉謙信と違いモラルも高い紳士で、中東でも与力のイスラム文化の酋長達からも一目置かれた訳だな。これは凄い事だ。
或いは北朝鮮の軍人すら交流すれば彼を尊敬するかも知れない。
上杉謙信を引き合いにだしたので北陸の武将に例えるなら・・・
どちらかと言えば生活態度は上杉謙信、内面は直江景続、武勇は柿崎景家公、統治実績は柴田勝家公並の善政てとこか。
・・・ただ、色欲が無いので英雄では無く名軍師の範疇に留まる様だ。
欲の有る者のみが1番上に成りたがる。
まぁ、だから生涯陪臣を貫き通した小早川隆景公や黒田孝高公や直江兼続等は妻帯しても愛妻家で側室を持たなかったんだろうな。
「吾も斯く在りたい」とは思いつつ・・・
まぁ、小生は完全に名軍師じゃなくて短慮浅学でアホな猪武者人格なんだ。
だから、せめて社会の役に立つ事を1つで良いから行って死にたい、そしてそれは「小生がやった」と世に知られる必要も無い。
結果的に知っている人だけが知っていてくれて「あ~アイツだったのか」とか「アイツらしい」と死んだ時に友人達や歴代の彼女(笑)と恩師達や関わった宮司様達や和尚様達に心の中で褒めて貰えると嬉しい。
それで十分。

マティス司令官の様に生きてみたいなぁ~。
でも食欲の権化だし自分に甘から、憧れの域を出ないな~。
だから自分なりに小さくても社会の役に立つ事をしてから死のう。

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/古文書本能寺の変、仏教界は喝采「信長は清盛の再来」/ar-AAmBsOG#page=2
image

結論から言えば、記事にある島田と言う教授と当該の寺の現住職は・・・ 
宗教的に当時の天皇家の価値観と明治天皇の判断を否定し天皇家をコケにし、神道と真言宗と法華宗に喧嘩を売りたい訳だな? 

この古文書を書いたのは相当馬鹿な住職だったんだろう。 
曹洞宗寺院なので吉良家や北条家や今川家と同じ室町幕府と縁の濃い武将が大旦那な訳で、旦那の言う事を鵜呑みにした情弱振りが垣間見える。 
書いたのが1619年・・・ 
近江国出身・・・ 
な~る!六角家\(^-^)/万歳ってな環境で幼少時代を過ごした和尚だった訳だ? 
実際の所は信長公は当時は法華宗にカテゴライズされた浄土宗と日蓮宗と神道を大切にした偉人で、朝廷内の腐れ藤原貴族がないがしろにしていた有職故実や神事を多く復興した上に、天皇をないがしろにする足利義昭に説教染みた諫言をした程の人物。 
そしてキリスト教宣教師が神社仏閣を破壊させるのを防ぐ為に、自らの権化とした石を御神体に見立てた御社を作らせ、キリスト教布教の権利付与者を御神体にする神仏信仰を敵視出来ない釘を刺した神仏習合時代の日本文化守護者でもある。 

なのに、この古文書を書いた馬鹿住職は、神社仏閣を破壊させた切支丹大名の大内義隆や大友宗麟の悪逆非道には一言の批判も無い訳だ。 
つまり、宗教的な思考から来る批判では無く、若い時の偏見か、この寺を保護し帰依していた武将が信長公の御存命中に徳川家臣でありながら織田家に面従腹背し、丁度その時期に足利義昭が一向一揆と同盟した事に由る政治思想的な文章を追憶で書いた住職の生臭具合がプンプン臭う訳だ。 

この生臭住職が此の手の批判をしたと言う事は、即ち信長公と全く同宗派で同じ神仏習合の価値観を有していた東照大権現徳川家康公をもコケにした事に成る。
では、この古文書を書いたアホ住職は果たして家康公を批判しただろうか? 
恐らくしていない。 
何故なら寺に献金や寺領をくれる権力者の意に沿う事だけを言う俗物だったろうからな。 
臨済宗や曹洞宗は足利家と北条家等の室町幕府の家来がずっと大旦那だった、鎌倉時代からずっと。 
この寺の壇越だった殿様が織田家に面従腹背しており、神道と法華宗の保護者の織田信長公を敵視し、且つ反織田勢力が不利な情況だから面白くない訳だ。 
そして禅宗の親分の南禅寺や大徳寺や相国寺なんかの最大支援者の足利家棟梁の足利義昭が、天台宗座主の名跡を手に入れた武田信玄と、武田信玄と妻同士が姉妹の一向一揆の親玉の本願寺光佐とも同盟した。 
曹洞宗の最大支援者の北条家も、この時に一向一揆と和睦し同盟している。 
つまり、文の内容そう言う事だろ。 
政治的な宗教の権力争い的な事。 
だから織田家は敵、と言うタリバン的な御都合主義で書いたんだろう。 

曹洞宗も臨済宗も素晴らしい宗派で帰依して在家出家していた武将には名将も多いし、太田道灌公や伊勢宗瑞公や太原雪斎公なんか、ずばり、その代表格だ。 
北条家の武将達の内政も素晴らしい。 
この古文書を書いた和尚が極めて政治的な意図を書いている事が問題。 
「神道と仏教と朝廷儀式を復興」し、足利家が軽んじた「天皇の権威をも復興」させた「織田家、徳川家を否定する事を書いている」訳だ。 

因みに、織田信長公は死没直後に朝廷から功績を賞され一品相国を戒名に追贈されている、つまり正一位太政大臣だ。 
明治天皇からは更に建織田神(建勲神)の神号を追贈され古代文化復興と日本に平和の礎をもたらした神として祀られている。 
日本神話を大切にする真言宗も、現代に至るまで安土城址と高野山で織田信長公の菩提を守っている。 

つまり、この古文書を書いた馬鹿僧侶は究極的には天皇批判も行い、全ての神道信者と全ての浄土宗信徒、全ての日蓮宗信徒と、全ての真言宗信徒を否定している訳だ。 
つまりは、天皇に敵対する朝敵に該当する人物であり神道と真言宗と浄土宗と日蓮宗を敵視する人物が、この古文書の製作者であり、その古文書を支持する現代人も当時の価値観に鑑みて朝敵と同じと言う事に成る訳だが・・・ 

愛知静岡旅3日目・・・

朝は犬山温泉の旅館、臨江館から始まった。
朝食を頂いて、朝風呂に入り、身支度をして犬山城に向けて出発。
従業員は女将さんはじめ、皆さんとても親切で良い思い出に成った。

犬山城は臨江館から徒歩でも10分程度と近い。
小生は車での移動なので、犬山城までは5分もかからずに着いた。
CIMG0503
犬山城の入口には針綱神社と言う延喜式内社が在り、それが城址入口の目印でもある。
CIMG0502
犬山城の鎮護だが、築城後に同地に移転させられたのではなく、寧ろ築城以前からこのこの地に鎮座していた神社さんらしい。
神奈川県と東京都と埼玉県の延喜式内社は少し知っているけれど、愛知県の延喜式内社の事は今回少し調べた程度だったので、訪問に際して予備知識が無かったで意外な場所で古社に御参りが出来て嬉しかった。
CIMG0504
その横には三光稲荷神社も有る。愛知県は寺の軒数が日本一なのだが、神社も可成り多い。
この神社も御城の登城口。
CIMG0506
神社の前には切通し状の道路が通っているが、これが犬山城の主要部分と外を隔(へだ)てる堀切の堀底道だったりする。
まぁ、証拠は後程掲載する縄張り復元模型の写真で確認して欲しい。
犬山城の詳しい解説は又にするとして、何より見所は国宝の天守閣、確か小生の子供の頃は1560年位の建築とされていた様に思う。現代では諸説有るらしいが遅くても江戸時代初期から存続する事は間違いない。
CIMG0524
天主閣=御城と思い込んでる歴史音痴も多いが、これは戦時の指揮所で平時の倉庫、あくまで居住空間では無い。後にも先にも天主閣に居住したのは織田信長公だけと言うのが一般的な説らしい。
ま、絶対に他にも天主閣や櫓で寝起きした殿様もいたと思うけどね。
それはさておき…
CIMG0531
戦時の指揮所だけあって当然居住性は悪く、階段も敵兵が登り難(にく)い様に急な訳だ。CIMG0533
現代人男性の平均身長170cm前後でも登り難い、当時の日本人男性の平均身長は150cm前後なので、この階段は当時の人にとっては最早、梯子(はしご)の様な物だっただろう。
現代の犬山城天主閣は博物館の様な機能も備えていて、甲冑や縄張り図も展示されていた。
CIMG0542
まぁ、指揮所兼展望台みたいな場所なので、天守閣の事はもう眺望を見て貰った方が早い。
CIMG0549
すんごい!高いの!
CIMG0550
欄干が腰より下なの!
小生は高所恐怖症なの!
もう絶対に登りたくない!
けどスンゴイ風景綺麗でしょ~‼皆、犬山温泉に泊まって、犬山城見たり旧尾張地方の観光は推薦出来るよ~!
…と絶叫したくなる場所でした。
犬山城址公園から降りて来て、最初にしたのが尾張名物の田楽を食べる事。
城の前には御土産物屋さんや飲食店が数件立ち並んでいて…
CIMG0553
目の前に在るこの店で田楽を食べた。
CIMG0554
美味しかったですよ。ついでに近所の御土産物屋さんで同僚への御土産も購入。
そして、この田楽屋さんから徒歩で1分の❝城とまちミュージアム❞ へ移動。
CIMG0556
歩く道は旧武家屋敷街だったメインストリート。
城と町ミュージアムは犬山城に関する様々な時代の縄張り図や城址と城下全体の復元模型が有り、犬山城を見るなら絶対に見て置きたい場所。小生は城に行ってから此方(こちら)に来たが、先に此方に来てから城を訪れた方が良いと思う。
CIMG0557
本当に見事な復元模型。川越市立歴史博物館の河越城と城下の復元模型が今まで最高傑作だと思っていたが、これは其れを遥かに上回る出来だ。
CIMG0558
本当に良く城下の様子や縄張りが解る。恐らく戦国時代の犬山城は本当に山の部分だけだっただろう。
CIMG0563
これだけ大規模な総構えに成るのは、城主成瀬氏が徳川家の一将として小田原城攻めに参加し近世城郭の基礎を学んで来たからだろう。
ともあれ、これだけの大城郭が他の地域でも多く建設されたのは徳川家康公が天下の騒乱を治めて平安を世にもたらしたから。重税の豊臣政権じゃ、いずれにせよ天下は治まらなかっただろう。
家康公が関東入部の際、前領主の北条家が税率40%と現代に比較しても善政と呼べる政治を行っていたせいで税率を変更できず北条家の官僚統治を模倣しなければならず苦労したのは有名な話で、徳川の治世が上手く行ったのは北条早雲公・氏綱公・氏康公の御蔭とも言える。
しかし、この博物館も犬山城天守閣も素晴らしい。運営されている職員の方々に感謝。
ここを10年ぶりに見終わって、また一つ10年ぶりの小牧山城址公園に移動…
CIMG0567
昔来た時は、小牧山城の上に存在しなかった歴史事実では存在しない筈の鉄筋コンクリートの天守閣が有って非常に憤慨した思い出と、当時は雑木林化しながらも荒らされていない空堀を散歩した思い出が有る。
約10振りの訪問だが、この時間を経て小牧市も反省したらしく城址公園としての整備を本格的に❝やっと❞始めたらしい。
CIMG0565
今回の見せ方考える整備は素晴らしいと思う。これも恐らく現在の小牧市教育委員会の委員長と市長が素晴らしい人物なんだろう。公園に変な展示館みたいな箱物を作る位なら、ちゃんと発掘してこっやって芝生で覆った方が昔の様子が解るし子供も段ボールで滑って遊んだり出来るだろう。
神奈川県綾瀬市の早川城址公園みたいに曲輪や堀底に植物園や遊具を設置しても良いだろうし、何にせよ、今の小牧市の取り組みは素晴らしい見せ方だ。
昔は嫌いだった天守閣にも一応登って来た。
CIMG0573
この建物は歴史音痴でド阿呆な成金が、城址に寄付の名目で全く関係ない鉄筋コンクリートの建物を建ててしまい史跡を破壊した負の遺産なのだが、今回訪問したら、負の遺産を何とか良い遺産にしようと今の小牧市の市長さんや教育委員会の方が努力されて中は立派な展示館に成っていた。
CIMG0579
本丸の模型とか…
CIMG0580
小牧山城の縄張り模型とかも展示されている。
今回、ここに登った一番の目的は、ここから生駒家の居城、江南市の小折城址に在る久昌寺が見えるか確かめる事だった。
小牧山城からの展望
一応、事前のシミュレーションでは方角は解っていたのだけど…

CIMG0584
やはり、大きい工場が乱立し、綺麗には見えなかったけど、戦国時代の当時は本丸から小折城が良く見えたと思う。
何でこんな事を確かめに来たかと言うと、武功夜話と言う古文書に現代語にするとこんな内容の記載が有る…
信長公の実質本妻で体裁上の側室だった生駒類(おるい/別名:吉乃)様と言う方がいて、信長公との間に年子で2人の男子(信忠公・信雄公)と姫(五徳姫)を産んだせいで体力を落とし、亡くなってしまった。お類様が亡くなる直前、信長公はこの小牧山城の本丸に御台所(みだいどころ=奥方の館)をわざわざ築いて、お類様を生駒家の小折城から引き取り、信長公は暇さえ有れば自ら看護したそうだ。
そして、看護の介無く塁様は亡くなってしまい、小折城の類様の館、つまり信長公が若かりし頃に二人で過ごした場所の西側で亡骸が荼毘(だび)に臥された。つまり火葬された。現在の田代墓地と言う場所だ。
この田代も本来は田城と書いて生駒家の小折城所縁(ゆかり)の地名だろう。
信長公はそれ以降、いつもお塁様が荼毘に臥された方を見ては泣いていたそうで、これは信長公の性格の実像を記録した貴重な証言な訳だ。これを書いたのは前野長安の子孫の吉田さん家の御先祖で、前野長安は蜂須賀小六正勝公の義兄弟、つまり信長公とも生駒家とも秀吉とも親しい人物だった訳だ。
同様の話は生駒家にも伝わっているそうだ。
とりあえず当時は見えたであろう小折城の方面が見渡せるのは確認出来て満足し、大急ぎで走って山を下りて車に乗り、布袋駅に向かった。
大急ぎの理由は布袋駅で一宮市在住の歴史仲間と12時30分に待ち合わせ、更に13時に江南市の久昌寺で信長公の母方の親類の御子孫の土田(どた)さんと待ち合わせをしていたから。
何とか時間の少し前に久昌寺に到着した。
CIMG0587
ここは生駒氏累代の殿様と於類様の菩提寺。だから織田信長公・信雄公・お類様と歴代殿様の御位牌が祀られている。
CIMG0588
本堂の様子は江戸時代のまま。
10年前に御会いした土田さんとは違う、今の檀家総代の土田さんに面会し衝撃の事実を聞かされた。
久昌寺は生駒さんと檀家さん僅か18家の努力で戦国時代から存続させて来たが、明治政府と戦後の宗教改革で土地を接収され、今年2016年になりいよいよ維持が困難と成り廃寺が検討されているそうだ。
この記事を見た人は、出来れば江南市長や江南市教育委員会、大村愛知県知事や愛知県振興部観光局や愛知県教育委員会に❝御寺全体の史跡認定による保護と観光地としての活用❞を陳情して欲しい。
●大村愛知県知事の陳情先…事務所リンク
●沢田江南市長の陳情先…ホームページリンク
もし、この久昌寺が廃寺に成り更地に成ってしまうなら織田信長公のファンのみならず愛知県にとって取り返しのつかない大損失に成るだろう。土田さんの話では相当に切羽詰まっていて今年か来年かと言う話らしい。
もう2つ・・・
●江南市観光協会の陳情先…ホームページリンク
●織田木瓜紋会(織田家子孫の作る織田家所縁の史跡保護の活動会)…ホームページリンク

CIMG0589
今回、土田さんの許しを得て御位牌を撮影させて頂いたので掲載しますが、小生のブログの閲覧者には御位牌を拝んで、この御寺の存在をちゃんと考えて欲しい…
本当は写真に写したくない。10年前に先代の檀家総代土田さんと御縁が出来て御位牌を拝ませて頂いて以来だが、御位牌と言うのは神道で言えば御神体の様な物だし、仏教的には仏舎利に等しい存在だから。
信長公・お類様、御許し下さい、御二人を皆に見て貰い、色々考えて貰います…
CIMG0595
CIMG0596
久庵桂昌大禅定尼 織田信長公之室・・・お類様。
CIMG0597
総見寺殿相国一品泰巌大居士・・・織田信長公が没後に朝廷から追贈された官位と中国式の官職。
相国とは日本の太政大臣や右大臣に征夷大将軍を合わせた様な称号。今風で言うと大統領とか総理大臣。
皆、こんな大切な御寺無く成っちゃって良いの?
小生は一先ず、御寺への寄付を集める手段を考えながら、県知事や市町への陳情文書を作成します。
直接関係ないけど名古屋の観光復興に熱心な河村名古屋市長にも、織田家所縁の津島神社のある津島市や織田家初期の居城の稲沢市と愛西市の市長にも連携できないか手段を探してみます。
捲き込めれば愛知県の大企業も大旦那(スポンサー)に巻き込みたい。信長公と吉乃様の歴史が残る場所を残せるならボランティアでなんでもやろう。
CIMG0606
本堂の裏には御廟所が有ります。
先に御位牌を見て頂いたので吉乃様の墓の位置は解るはず。
四代生駒家長公は於類様の御実兄で、信長公の経済を支えた人物だ。萱津の戦いで敵軍に馬の群れを突撃して混乱させたり奇策に富んだ軍師でもあった訳だ
織田家が没落すると、尾張徳川家の家老として活躍した。3000石の大身だったそうだ。織田の天下が定まっていたらいずれ大名になられた人物。
まぁ、歴史にifは無いが、この久昌寺が日本規模で大切な御寺なのは御理解頂けたと思う。
残念ながら交通手段が今の所不便で観光素材に活用されておらず、愛知県は文字通り日本の宝を持ち腐れさせて廃寺の危機に追いやっているのだ。しかし、大村知事や河村市長の知る所と成れば、事態は必ず好転するだろうと思う。

久昌寺の近所には龍神社が在る。
ここは生駒家の御子孫や土田さん達の伝承で、お塁様の邸址に当たる地域とされている場所だ。
CIMG0617
神社には八大龍王が祀られていたが、神仏分離令で龍神社と名を改めた。
その前にも史跡が在る。
CIMG0612
元々は龍神社ともども久昌寺の境内地。
ここは雨乞いの場所だったらしい。
CIMG0620
お類様と信長公の事を考えると、縁結びの御利益も有りそうだ。
もっと参拝客がいて然るべき神社だと思う。
そこから名鉄の線路を挟んで向こう側、田代墓地に移動した。
CIMG0622
関係者じゃないけど、御線香上げに来たから車を停車させて頂いた。
ここは、お類様が荼毘に臥された場所。
CIMG0623
10年位前に来た時には無かった看板が有る。江南市も観光資源として生駒家を重視するなら、やはり久昌寺の窮地は境内全体の史跡化を図り税金投入して救うべきだと思う。そして周辺自治体と連携して観光地のアピールをするべきだとも思う。単独では無理が有る。
CIMG0624
お類様が火葬された場所には桜が植えられている。通称:吉乃桜。
以前来た時には、通称の吉乃で役を演じた高木美保さんがここを御参りされた時の写真が有った。でも朽ちて処分された様だ。高木美保さん、久昌寺の復興に力を貸してくれないかな…。
拝み終わったら、元々訪問予定だった江南市歴史民俗資料館に小折城址の縄張り図を見せて頂きに上がる事にした…
が!途中寄り道。
堀尾跡公園。 秀吉配下堀尾氏の邸址だ。
CIMG0627
この立派な門の先が公園で、元々、名古屋市熱田神宮の前に在った裁断橋が移築されている。
裁断橋の歴史は戦国時代初期には熱田に存在したそうだが、現在の橋は堀尾一族の堀尾金助が小田原攻囲中に陣没し、その供養の為に母によって架けられたそうだ。悲しい歴史が有るね。
CIMG0632
でも、堀尾一族は堀尾吉晴公が松江城主と成り大出世した。きっと金助も無駄では無かったんだと思いたい。
こんな悲しい話も歴史が好きだとしばしば直面する。だから、戦争に成らない防衛力の大切さと、戦争は最終手段であり、外交力と情報収集力が如何に大切かも解ったりするんだな。
治には桜が綺麗な場所。以前来た時は五条川沿いに桜が咲いて、とても良かった。
CIMG0638
橋の先には館跡に立派な八剣神社が建っている。堀尾家の名と共に末代まで周辺の人に大切にして欲しい。
この写真撮影の間、友人は近所で来た事が有るのにずっと待っていてくれた。感謝。
やっと江南歴史民俗資料館に移動。
CIMG0641
職員の方が居たので、とりあえず久昌寺の状況が廃寺検討段階に有る事を伝えたが、新しい館長さんは史跡としての反応より建物の物質的な話とかに成ってしまって少し問題から話題が逸れてしまった。
でも、この方も親切な方で、貴重な生駒家の資料のコピーをたまたま見せて頂けた。
CIMG0646
小さくはない、中くらいでもない小の大くらいの広さの博物館だが、こんな古文書や絵図の複製の展示も有って江南市の事と生駒家と蜂須賀家と前野家の基本的な情報は学習できる場所。
昔来た時に、色々親切に対応して頂いて教えて頂けた事を思い出しながら見学した。
こう言った素晴らしい場所を設けて下さっている江南市役所の皆様、市長様、ありがとうぞざいます。
出来れば久昌寺の重要性も再度検証して史跡認定して頂ければ全国の信長公や歴史のファンは安心すると思います。
ここから、宮後八幡宮に移動。
江南市の宮後地区は蜂須賀のあま市とは別のもう一つの拠点だった場所。
そして、蜂須賀家の城塞の近所に蜂須賀家政功によって造営された宮後八幡社が現存する。
CIMG0651
 小さい神社だが周囲の石組はどうも江戸時代のままだそうだ。
CIMG0653
確かに、木曽川から持ってきた石らしき物を野面積みにしてある。
現代の石組じゃないよね。
CIMG0654
拝殿も社殿も小さいけれど…
CIMG0655
CIMG0656
地元の人の誇り。
CIMG0658
そして、あま市と江南市と徳島県を殿様の御縁で繋ぐタイムマシーン。
CIMG0660
小さい御社だけど、蜂須賀家正公奉納の檜皮葺の格式高い屋根。
さすが!津島大社の近くの蜂須賀城主の御子孫、境内地が小さいなりに、古来の御社を建造される辺り故実への御理解が深くてらっしゃる。
多分、現代では氏子サン少ないんだと思う。
もっとここは大切にされ信仰されるべき場所、なんてたって水運と経済と実務で日本屈指の実績を残された蜂須賀家の御利益に肖(あやか)れる出世神社であらせられる訳で。
もし、神社仏閣史跡の保護活動が形に成れば、覆殿を作れたら良いな~と思う。
氏子サン達も増えて、町の人によって大切にされ、観光客も増えて宮司様常駐できる程参拝客で溢れる日が来ないかな…。小生に何が出来るだろう?
ここから北西に徒歩2分の距離に宮後城址、蜂須賀家の要塞跡が在る。
CIMG0662
在ると言っても、周辺の道路が当時の水掘りの形状を残すのみ。
まぁ、城と言うよりは要塞化した居館兼、水運拠点と言う場所だろう。
CIMG0664
イタズラして捲(めく)れた場所をはがすクズがいるようだ。イタズラした奴が反省する神仏の軽い罰が落ちます様に。この前通った時に転んで膝少し擦り傷剥けるくらい。
ここから最終目的地だった縄文文化の男根崇拝が残る延喜式内社田県神社に向けて出発した。
途中で前野天満宮と言う神社を見かけ、友人と…
「そう言えば、この辺りに前野さんの御屋敷有るよね?」
…と言う話題に成り、運転しながら立派な漆喰の御宅を発見!
CIMG0666
コンビニに車を停めて歩いて戻ると、友人の感の通り前野家の御子孫の吉田さん家の御屋敷だった。
前野家ってのは、蜂須賀小六正勝公の義兄弟の前野長安公ね。
一時は大名にも成ったけど、上官の豊臣秀次公が耄碌(もうろく)した秀吉に有らぬ謀反の疑いをかけられて切腹させられた際に一緒に責任とらされて切腹、御一族は吉田と名を改めて、元々の出発点の江南市に帰農して残った。

その吉田さん家の前で、美人な奥さんと少年が門前の花壇をお手入れされていたので御声がけしたら吉田さんの奥さんだった(笑)。
本当に凄い美人!そして坊やはとっても礼儀正しい!久しぶりに愛知に来て気が付いたのだが、江南市辺りは子供の礼儀がシッカリしている。この吉田さん家の坊やに限らず多くの少年少女が観光客に挨拶をしてくれるのだ。親達がちゃんと歴史を伝えて強い責任感と道徳心が受け継がれているんだと思う。
多分、これは防犯にも役立つ良い習慣だ。不審者はビクっとするんじゃなかろうか?
ん?小生見た目が不審者なのだろうか?
いやいやデジカメを首から下げてるからだと思いたい(笑)。
CIMG0669
門前にはモニュメントと説明文。
CIMG0673
本当に立派な御屋敷。これを維持されている吉田家の皆さんに頭が下がる。
ちゃんと奥さんの許可貰って撮ってるよ!
CIMG0672
奥さん見切れとる(笑)。
あ~アンナ奥さん小生も欲しい~子供も欲しい~…
でもその前に、寂れ荒れ廃寺廃社の危機に在る神社仏閣と史跡を復興させる活動を創生し成功させ未来に文化伝承歴史を残したい。
和尚さんや宮司さんや殿様の御子孫に、強い援護射撃を撃てる様に成りたい。
…とか吉田さん母子が草むしり頑張ってるの見ながら思った。
美人の奥さんと少年の草むしりを見て色々考えながら“男根崇拝の神社”田県神社へ移動(笑)。
田県神社は小牧市に所在するが、江南市と市境が複雑に入り組んでるから余り、市をまたいだ実感は無い。
CIMG0674
田県神社は古代の文化を受け継いでるだけ有り延喜式内社だ。
境内も敷地が広い方。
CIMG0678
社殿も立派だ。社務所には巫女さんがいっぱい…
う~ん、何か複雑な気分に成るのは小生が馬鹿で煩悩の塊だからだろう。
皆さん古来の文化を守って下さってる事に先ず感謝するべきだな。
CIMG0681
奥院。
の参道に…
CIMG0684
なんかいる。
CIMG0686
なんかいる。
でもこれ、現代の奉納だそうだ。
本殿に行くと、御神体が祀られていた…
CIMG0689
「(;´・ω・)おおっぅふ」
・・・と、変な声をあげてしまいそうな御神体そのモノ。でも、縄文時代とか稲作が浸透する以前の弥生時代は日本人の平均寿命が30歳位と推定されているから、子孫を残す事はとても大切で、神様にお願いしたく成る位切実だったんだろうね。だから男根や女陰に似た奇岩が信仰対象に成っていたんだと思う。
横浜市の遺跡からも環状列石や石柱が出土してるしね。
多くの延喜式内社は縄文時代の遺跡が近くに在って、神代に当たる縄文後期の文化と思しき伝統が残っていたりする。
神奈川の寒田神社なんか弥生時代の木製御椀が残っているけど、日本武尊が用いたと言う伝承と時代が整合性が合ったり、高部屋神社なんかは古代からの名残で注連縄に吊るす莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)を明治まで宮司が10km歩いて海まで採集に行っていたが、これは弥生時代まで高部屋神社周辺が海だった地学とも整合性が有る伝統だ。
だから、この田県神社も古代人が男根崇拝に子孫繁栄と存続を願った場所がスタートだったんだろう。
そうやって我々の前には縄文文化以来数え切れない祖先達が命を繋いでくれて、現代の社会と文化が有る訳だ。
御先祖様、申し訳ない。
田県神社で社務所が閉まる直前に御朱印を頂き、この時点で17時位。
車に乗ると江南市へ逆戻りした。
CIMG0692
目的は撮影し忘れた小折城址の石碑を撮影する為。
本当、歴史仲間を引き回して申し訳ない。
生駒氏の邸址と石碑が布袋東保育園の横に在る。
CIMG0695
ここは親切に略歴と、小折城縄張り図、そして現在の地図に照らし合わせた城域推定範囲が書き込まれている。
これを紹介して置けば、現地を歩きたい人はココに来れば小折城の事を下調べしないでも良く解ると思う。
そう思って写真撮影に来た。
撮影中、地元の方が観光客が来ている事を珍しがって、小生らと御話しして下さった。
ここが大切な城址で有る事や、久昌寺や龍神社が信長公と類様夫妻がラブラブに過ごした場所だと言う事を御存知無かった様で説明したらビックリしていた。
そして、久昌寺を生駒さん達が廃寺にしようか悩む段階にある事を伝えると「町でなんとかできないのか!」と本気で怒って下さった。
少し嬉しかった。地元の人が大切さを認識して、危機意識を持って支援の手を差し伸べ始める事が一番力強い支えに成るから。
市民が動けば市長や観光協会の方々も予算を付けて堂々と保護に廻れる様に成るだろう。
これだけ友人に付き合ってもらい、本当に申し訳無かったので夕御飯を御馳走する事にした。
image
ひつまぶし備長本店 丹羽郡大口町
実は最初からここに来る予定だった。
先日、東京スカイツリー店で食べて美味しかったので、この本店に大分前から来たいと思っていたのだ。
そして、ここで食べて正解だった。
image
スカイツリーより安い、そして気持ち更に美味しいと思った。
友人も一宮市民なのにここを知らず、食べて「美味しい!」と喜んでくれた。
良かった良かった。
食事が終り、友人を一宮市の自宅へ送って別れた。
次は何ヵ月後?何年後に会うのだろう?とても大切な友人だ。御互いに織田信長公を崇拝し、そしてあらゆる宗教を差別せず、ちゃんと礼をもって拝む。自分の信仰は信仰。そして皆に大切な場所は自分にも大切な場所。
それが解る友人。

自分は翌日に真清田神社に御参りしてから静岡に移動する予定だったので、駅前のアパホテルに宿泊した。
ここでも犬山市や江南市や小牧市同様、どこに行っても名古屋と違って親切だった。
そして、10年前に比べて凄く都会に成っていてビックリした。
友人に感謝、愛知県の人々に感謝の3日間だった。

次は愛知静岡旅行4日目、静岡の旅の休日雑記を書きます。 

間宮家の顕彰活動と信奉する信長公所縁の土地巡りへ3泊4日の旅へ行って来た。
最近、ブログを更新出来なかったのは遠征の段取りと会う人達へのアポ取りをしていたから。
今回の休日雑記は28日の訪問先。重要な報告も有るので、それも別途記事にする。

東名高速が集中工事中だからね。交通量の少ない深夜に出て朝からの予定に合わせる計画でこうなった…
28日の深夜25時半に出発、途中、浜松SAで休憩。
image
朝食に静岡オデン食べ、車にガソリンも補給。
image
まぁ、普通だった。
六時半頃に豊田に到着。少し寄る場所が有り、豊田で用事を終えてから安城市へ移動。
予定通り朝9時に目的地の安城市歴史博物館へ到着。
CIMG0138
実はこの博物館は徳川家が松平姓時代の初期の本拠地だった安祥城址だったりする。
学芸員さんに予めアポをとっていたので、可成り親切に熱心に安祥松平家の簡単な歴史を解説して頂けた。
そして城址の切岸の説明や現在は埋め戻されている水掘りの幅等も案内しながら教えて頂けた。
何故、小生がここに来たかと言うと間宮家が❝伊勢家❞の❝与力❞で今川家臣だったと思われる時代に、伊勢家=北条家が主家今川家に援軍を送り安祥城を攻めた時に間宮家も参戦していた事が推測出来る家臣に発給した感状が有る。それを間宮家顕彰文に掲載する為に城址写真撮影と調べ物に来たのだ。
CIMG0148
まぁ、間宮家の為だけでなく、そもそも三河の徳川家の偉大さも理解しているし家康公や初代東照宮大宮司様自体が間宮家と血縁を結んだ方々だが、小生は建勲神=織田信長公や東照大権現=家康公も崇拝し尊敬しているし、北条家の殿様方と並び毎朝起きたら拝んでいるので、三河尾張巡りをするのは当たり前、いつかしなければいけない事だった。
個人的に三河尾張は御縁も有り、以前も史跡巡りをした際に御縁が出来た偉人の血縁者の御子孫にも御会いしたかった。
この歴史博物館は松平家初期の本拠地なので博物館の中には家康公の祖父で松平家の勢力拡大に成功した松平清康公の銅像が有ったりする。
CIMG0180
ここ安祥城址の本丸は現在の大乗寺。
当時、周辺は深田だった。現在も水田だが、水田の周辺に干拓されていない湖沼が広がっていたのだろう。
でも正直、松平家の本拠地とは認めたくない程小さな規模。しかし立地的に関東の忍城や伊勢原市の岡崎城の様に沼城で守りも堅固だったのだろう。沼掘りの場合、攻城側が塹壕掘って城に近づく事が出来ない。
松平清康公の時代には既に岡崎城に転居したそうだ。
CIMG0177
写真は大乗寺。山門が丁度、城の櫓みたいに見えてしまう(笑)。
今回の訪問で持った感想だが、三河地方で戦国期には存在していた浄土真宗の寺院は構造がハッキリ言って城のソレだった。浄土真宗では昔、過激な軍事組織として活動していた同門の寺院の事を御坊と言って軍事拠点にしていた時代が有ったので、その名残だろう。最初から戦う為の寺だったんだろう。
学芸員さんに個人的に御勧めの安城市周辺の城を聞いた際も、「御城ではないけれど~」と渡されたのも浄土真宗の寺院の見取り図だったが、どっからどう見ても城の縄張り図だった。
安祥城の出丸の方は八幡社に成っている。
CIMG0167
これが又、相当に立派な八幡社で、東京横浜では余りこの規模の八幡社が町中に有る事は無い。
富岡八幡宮の様に相当な御由緒でも有れば別だが、三河人の信仰心と言うか伝統を大切にする心意気が強いのだろうと思う。
宗派を問わず、その信仰心の強さから、一度所属する宗派が軍閥化すると三河一向一揆の様に強烈な戦火を引き起こす集団にも成るのだろう。
三河気質は親切で柔らかいが情熱的に熱い。隣の某都市とはだいぶ異なり地域の人々の温かさから観光客も楽しめる。
宿泊するならトヨタ自動車の御蔭で外部からの客を受け入れる事に成れている三河地方、安城周辺や豊田周辺、もしくは古くからの観光地である犬山市の温泉街が親切で良い。
そんな「愛知県もあそこ除けば親切で観光資源も沢山有るのになぁ~」なんて事を感じながら次の目的地に移動。
刈屋城址に行った。
CIMG0185
現代では刈谷市は刈❝谷❞の字で表記されるが昔は刈屋だったんだな。
刈屋城の元に成った水野家の城館から、雁(かり)が飛ぶ姿が良く見られたのだろうか?
地名由来は調べていないので解らない。
刈屋城址は大半が破壊されたものの、恐らく戦国時代には存在した二ノ丸と本丸を隔てる水掘りは今も立派に原型を留めている。
CIMG0186
現代の刈谷市民の皆さんは意識が高い様で、城址を当時のまま復元できる場所だけを現代に蘇らせようとしているようだ。
CIMG0187
良い試みだと思う。
詳細の解らない部分や図面の無い部分をコンクリートで想像して固めるのは❝破壊行為❞な訳だ。
名古屋城天主や大坂城天主や小田原城天主みたいな外観だけ真似したハチャメチャな鉄筋コンクリートビルでは無く、解らない物や当時のまま同じ材料や同じ設計で復元できない場所は遺構をそのまま展示する方が史跡保護に成る。
愛知県で言えば名古屋城天守閣は汚点でしかない。もっと酷いのは全く史実と関係の無い小牧山城天守だろう。
でも刈谷市の試みや、安城市の安祥城の保護の仕方は本当に素晴らしい。擁護すると小牧市の現在の城址発掘保護の方法も素晴らしい。小牧山に邪魔なビルが建っているのは昔の無学な成金が自己満足で関係無いものを悪意無く作って破壊した結果なので、あの小牧山城天守は早く撤去して、あそこに信長公や吉乃様(仮称)が夫婦で暮らした御台所や御殿を発掘しガラス張りで浸食されないようにして公開し、麓に立派な博物館でも作った方が良いだろう。
発掘調査に基づいて公開していこうと言う小牧市の現在の取り組みや、刈谷市の計画は素晴らしい。
刈屋城址の中の❝十朋亭❞の中には、訪れて是非見て欲しい物が有る…
CIMG0195
江戸時代の刈屋城の縄張り復元模型だ。
そんなに大きい物ではないが、元々の城だった本丸周辺に、後から三河流の平地に水掘りを引き込んで細長い帯曲輪を巡らせる独特の築城術を見る事が出来る。
この構造は後の江戸期の河越城に追加された田曲輪や外曲輪等の築城術に繋がって行く。
徳川家と縁の深い水野家の城らしい構造が、この模型を見て貰えば理解出来る。
安祥城と同じく、戦国時代に突入して間もない頃の尾張三河の城は小城ばかりだったのだろう。これは大名の家臣達が自前で城を築城していた統治の問題だろう。
城を家=国単位で築城する財源捻出方法にした信長公の手腕はやはり素晴らしい。
清州城改修や小牧山城築城が出来てやっと関東の先に戦国時代に突入した大名達の築城規模に近づいている。

この日は翌日の行動地域を前提に名古屋市中区で宿泊を決めていたので、今川義元公が桶狭間合戦時に辿(たど)った進路に沿って(自分の推定)で熱田神宮を最終目標地点に名古屋へ行く事にして事前にアポどりをし準備をしてあった。
そんな訳で安城市や刈谷市を後しして義元公の足取りを辿り、ついでに信長公と家康公の関わった場所を巡って行った。
最初に来たのが沓掛城址。
CIMG0202
沓掛城址を目指すには慈光寺と言う御寺を目標にすると良い。
ここは桶狭間合戦後に沓掛城址と成った梁田政綱公の家臣が城址の一角に築いた浄土宗の寺院。
御朱印も頂ける。
CIMG0205
境内の広さは現代では町中の御寺より少し広い位。
御寺の家人もとても柔らかく三河地方の方らしく親切に御参りに来ただけなのに「城址は裏手に有りますよ~」「とか今川義元が桶狭間前日に宿泊したんですよ~」とか説明して下さった。…知ってる情報だけど親切心が嬉しい。
御寺が城域で曲輪だった事は裏手の城址公園に行くと良く解る。
CIMG0209
屈曲した人工的な空堀地形が御寺と城址公園の間に在るからね、御寺も曲輪の一部だった事が一目瞭然。
CIMG0211
簡単な説明文も有るので、訪れた際に読んで見ると歴史に興味無くてもここの意味が解る。
時代が大きく変わる切っ掛けの前日、ここに今川義元公が宿泊していたのだ。
ここに宿泊し、翌日に織田領の残る内陸の大高緑地では無く海沿いの今川領大高城を目指した結果が翌日の歴史転換地点に繋がった訳だ。
つまり、歴史が変わる契機に成った場所がここな訳だ。
CIMG0214
城址公園としては小さいが、上の写真の本丸と思しき一段高所の前にも内堀が残っていたりする。
今川義元公存命中の尾張三河の城は大半が、この規模だったんだろう。
堀の幅は広くても5m 位だろうか。堀底から土塁まで比高7m位有ったか無かったか。
まぁ、現在の城址公園を一回り広くしたくらいの範囲が当時の城域なんだと思う。
正直、同時代の関東の城に比べて工夫も少ない。
やはり築城術を飛躍的に進歩させた信長公は偉大だと思う。

今川義元公はここ、沓掛を出発し、現代では決戦地は狭間古戦場と言われる場所は幾つか有り、桶狭間病院と高徳院の辺りにて合戦が発生したとする学者もいる様だ…
もっとも小生の意見は現地を廻っているので文字しか読まないガクシャ先生とは少々異なり、更に地域の方々の伝承に近い。つまり、主戦場と呼ばれる場所は無く、移動しながら戦っていたはずだと思う。
石碑の名前は桶狭間古戦場。高徳院や桶狭間病院の目の前。
CIMG0216
伝承では今川義元は休憩中に襲われたと言う事に成っている。
その場所が高徳院だとする説を唱える学者がいるが、小生は周辺の戦場と名の付かない宗教史跡も回るタイプなので高徳院前が主戦場説は違うと言う感想を持った場所に行けた。
CIMG0217
ここ高徳院前も戦場だったと思う。
ただし戦場は戦場でも、今川義元公は別の休息地で襲撃され、更に近習が身を盾にして討ち取られつつ御本人は後退し、現在の桶狭間古戦場公園当たりで討ち取られ、今川本隊の後続は細い街道と谷間で前線に出れないまま後退し続け、この高徳院辺りまで追撃戦で追い上げられて戻って来たんじゃないかと推測している。
では今川義元公が最初に織田信長公本隊2000に強襲された場所はどこか、そして在所を捕捉されたのは何処かと言うと古戦場以外に神社も回るとヒントがまんま隠されている。
桶狭間公園と言う緑地辺りには桶狭間神明社と言う神社が在る。ここの背後の山に行くと、桶狭間合戦当時の雰囲気がどんなもんだったか良く解るのだが…
CIMG0220
当時はこの参道みたいな山林に囲まれた、敵側に行軍を捕捉され難(にく)い間道が大高緑地に沢山有ったんだろう。
そこを織田軍は進んだと思う。メジャーな街道を通ってはいないだろう。そして現在その道は廃道に成って残っていないのだろう。
CIMG0221
今川軍はこの桶狭間神明社を高徳院の次の休息地に定めていた筈(はず)だ。
沓掛城→高徳院→桶狭間神明社→大高城と入る予定だったんだろう。
その証拠がコレ…
CIMG0226
この桶狭間合戦時に、ここで武運長久を祈願した瀬名氏俊公は今川一族なのだが、この合戦当日先発隊だったのは今川義元の休息場所を設営する任務に当たっていたからだそうだ。
恐らく、この神社に来たのも、ここを義元公の小休止の場所に定め休憩の用意を整えたからだろう。
そして、自身は次の義元公休息地で当日の目標地点で有る大高城に移動したんではないだろうか。
高徳院も沓掛城から3km程の距離に在り休息地だった筈だ。昔の城はだいたい3~5km毎に1つ築かれているので、丁度高徳院の位置は沓掛城から次に立ち寄りに相応しい距離だ。
しかし、この桶狭間神明社は高徳院から1.5kmしか離れていない。しかし、ここは正に大高城に向かう途中に在る神社なので武運長久祈願を兼ねて立ち寄った可能性は有る。
丁度、義元公が立ち寄るタイミングに成る頃、織田家は千秋季忠公と佐々政次公が今川家を陽動する様に無茶な出撃をしたのも、義元公の休憩を長引かせる為だったのかも知れない。
CIMG0229
この瀬名氏俊公の行動を織田軍はずっと捕捉していたのだと思う。
そして、ここに今川家本隊の前衛や義元公がぞくぞくと先着し、義元公は神明社で祈願をはじめたか休息中に周辺住民からの進物を近習に報告されていた最中、善照寺砦から出撃した信長公が街道では無く山伝いに突如林道から襲来し、桶狭間神明社で参拝中の義元公は戦闘態勢も整えられず引くしかなかったんじゃないか…
と、個人的に推測している。
…そうすれば高徳院・桶狭間古戦場公園・桶狭間公園の三ヵ所で戦闘が起きたと伝承が残る事にも整合性が有る。
さて…
先に述べた通り義元公は大高城に入ろうとしたのだが、ここで休憩なり参拝なりして待機しなければいけない事情が有った。
善照寺に信長公が到着するのと前後して、熱田神宮大宮司で信長公に与力する千秋季忠公と佐々政次公の軍勢が大高城を攻撃したからだ。
この千秋・佐々隊の作戦を小生は❝陽動❞と❝足止め❞だったはずだ。
揺動の相手は今川軍の本隊以外の諸隊。目的は注意を引く或いは、千秋・佐々隊が大高城を攻撃する事で今川諸隊に大高城を救援させ織田信長公の本隊2,000が今川本隊を急襲する行軍が目に届かない場所に陽動する事。
かくして岡部元信の陽動に成功した筈だ。
千秋・佐々隊の陽動に引っかかった岡部は鳴海城を打って出て、大高城の救援に行く。
信長公は指揮官不在と成った鳴海城の真ん前を迅速に通過し林道を伝って桶狭間神明社を急襲したはず…。
CIMG0232
写真は丸根砦。本当に丸い尾根に築かれた小さな砦。
徳川家康公は当時、名を松平元康と名乗り今川家臣だった。この桶狭間合戦の前哨戦で松平元康公は丸根砦の前を通過し、大高城へ兵糧の搬入に成功している。その際、丸根砦に放火、囮部隊で攻めかかり、その隙に兵糧を見事運び込んだそうだ。
CIMG0233
※鷲津砦。
CIMG0236
鷲津砦は若干の堀切等も現存している。
実は、大高城に行くには今川家は織田方の丸根砦と鷲津砦の目の前、大高道を通らなければいけなかった。
今川方の大高城~織田方の鷲津砦は直線距離で600m、大高城~丸根砦も800mしか離れていない。
ここを落とさないと当然、今川義元公本隊は大高城に入れない。無視すれば背後から攻撃されるから。
そんな訳で、義元公が沓掛城に宿泊したり高徳院で休憩したのは、この2つの砦を陥落させながら安全が確保されたのを確認しながら進んだからだろう。
丸根砦は大高城を救援した松平元康公によって攻落され、鷲津砦は今川家随一の名将朝比奈泰朝公によって落城させられ、沓掛城を出立した当日の今川本隊の行軍の安全は事前に確保されていた。
桶狭間神明社が休憩場所に成っていたならば、千秋・佐々隊の陽動にかかった大高城の松平隊と鳴海城の岡部隊が千秋・佐々隊を掃討するのを待って今川家本隊は待機、戦勝祈願していたからだろう。
CIMG0241

大高城址公園
CIMG0242
土塁は撤去されていて、正直、城址公園としては物足りない。
規模も織田家の勢力拡大期の城で、正直、縄張り構造も未発達で規模もそれほど大きくは無い。沓掛城よりは大きい。
CIMG0240
曲輪跡の削平地は、そこかしこに残る。
CIMG0246
城址公園の遊歩道は、恐らく最近作られた道。
CIMG0247
凄く広い削平地が有ったので、恐らくここが本丸だろう。
CIMG0251
その奥に神社が在る。
CIMG0253
小生の郷里神奈川県の鶴岡八幡宮から勧進した御分霊を祀っているそうだ。つまり八幡社だ。
この神社の辺りには、城址らしい施設が残っていた。
CIMG0258
この細い道の左右の雑木林は空堀。つまり、この道は曲輪と曲輪を繋ぐ土橋。
秋の終わり位、雑木林が枯れた頃に来れば見応えが有りそうだ。
大高城の見学を終えて、鷲津砦の説明看板が腐食により解読不能だったので資料を貰いに名古屋市緑区役所の生涯学習課を訪れた。
CIMG0259
資料としては簡単な説明程度の物しか無かったが、緑区内の史跡観光案内のパンフレットを頂けたので収穫に成った。
ここを発つ時、既に16時に成っていた。この後、熱田神宮へ向かう予定だったので少々時間的に余裕が無く正直焦ったがナビでは30分とかからないはずだったので落ち着いて運転は出来た。
CIMG0260
熱田神宮東側大鳥居。
10年近く前にも来たのだが、その時は余り神社仏閣城址に関心は深くなく勉強もしていなかったので「大きい神社だなぁ~」程度の感想しか無かったが、今回改めて訪問して見ると第二次世界大戦での焼失後に明治神宮を意識した再建計画をしているのが良く解る。
木地のままの鳥居、広大な森林。自然崇拝を意識した境内。
しかしながら戦国時代当時の熱田神宮は、現在の様式の境内ではなく、恐らく三嶋大社や津島神社や石清水八幡宮の様に絢爛豪華な社殿が立ち並ぶ神社だった筈だ。
明らかに明治時代に成立した国家神道の影響が見える。
CIMG0262
とは言え、この境内の森林は神聖な雰囲気を醸し出し良い。だから熱田神宮と同じ造営設計の明治神宮が小生は好きなんだな。
ここに来たら皆にも是非食べて貰いたい料理が有る。
CIMG0264
熱田神宮の中には❝きし麺❞の専門店が有るのだが、1杯600円前後と安い上に名古屋駅の高い店で食べるよりよっぽど美味しい。
CIMG0265
遅い昼食に❝宮きし麺❞を注文して食べた。10年位前に来た時もこれを食べたので、今回は来る前から食べると決めていた。
先程、緑区役所で出発時に焦っていた理由は、実はこの店が16時30分閉店で間に合うか微妙だったからだ。
運よく、丁度16時29分位に店に到着し注文する事が出来た。
急いで食べて、参拝再開。
CIMG0271
参道には以前は無かった熱田神宮の各時代の説明看板が出来ていて、これが簡素ながら解り易くとても良かった。
CIMG0295
この参道を過ぎて社殿の在る領域に入る手前に上の壁が有る。
これが織田信長公が桶狭間合戦の戦勝祈願を、熱田の神に成就させて頂いた御礼に奉納した築地塀だ。
この塀が社殿の有る領域を取り囲んでいる。
信長公は神仏に対する信心がとても強かった方で、古典礼儀にも精通した人物だった事を知らない人も多い。
酷いと小説家や学者ですら信長公が信仰心が強かった事を良く知らないまま無宗教とかアホな事を言っている事が有る。バカだな。
信長公程、天皇家に対する忠義深く、天皇の住まう御所や伊勢神宮の復興に大金を投入して力を尽くしてる事は他大名に例を見ない。神社だけでなく寺院も多く再建している。
大坂の本願寺や伊勢長島願証寺や比叡山が信長公に攻落されたのは、彼等僧侶自身が武装化し町を襲ったり守護を襲うテロ組織化していたからで滅ぼされて当たり前の事をしていただけだ。その証拠に信長公以前に六角定頼公や北畠晴具公もそれぞれ武装した宗教集団を攻撃した歴史が有る。
ついでに言えば熱田神宮の大宮司千秋家も武装した武士?豪族?だったので織田家を支持して今川家と戦った訳だ。
当時の宗教観は現代とは全く違い、武士との違いは支配権を明示する大義名分が宗教集団には無かった事くらいだろうか。
CIMG0290
社殿も改めて見るとやはり、明治神宮にソックリ。色的には地味。でもこれが本来の神社。
朱塗りで派手に成るのは仏教建築の影響を受けた飛鳥時代以降の事。
更に造形が細かく色彩鮮やかに成るのは信長公が安土城を築いた頃のから。俗に言う安土桃山文化建築だな。
CIMG0294
小生は神社の社殿が有るなら赤くて綺麗な方が好き。でも境内の雰囲気は熱田さんや明治神宮の様な感じが好き。
でも社殿も何も無い縄文文化を受け継いだ有賀神社奥宮みたいな本来の自然崇拝も好き。
熱田神宮は信長公や源頼朝公と深い御縁が有るので参拝出来て良かった。
参拝を終えて名古屋城近くの錦と言う地区の有名なビジネスホテルに移動した。東〇インね。
19時頃にホテルついたら40時間位寝てなかったんで1時間くらい意識が飛んだ。
夜23時位…ホテル近くの焼鳥屋で一人夕食。
image
名古屋飯旨いわ~。

image
八丁味噌ベースの串カツ最高!
image
八丁味噌ベースの土手煮も美味かった。
image
image
焼き鳥も焼きそばも美味しかった。
翌日は友人と合流し津島大社や蟹江辺りの味醂造蔵本見学予定。


まぁ~、小生の率直な初日の感想を言えば…
「愛知県が観光したくない県ワーストワン」に選ばれてしまったのは100%新幹線の停車駅のある名古屋市街地のありとあらゆるサービス業の接客の悪さと、名古屋から周辺都市の観光地への交通の不便さのせいだ。
名古屋の中心街には熱田神宮と名古屋城位しか観光でメイン張れる物が無い。それ以外はどの大都市に行っても有るものばかり。
周辺の自治体の観光資源を殺す鉄道網の弱さ。東西を結ぶ線の欠如からくる連携の弱さと、バスの異常な少なさが問題だろう。例えば桶狭間合戦の史跡巡りを周遊するバスでもあって緑区周辺の豊明市~刈谷市なんかを一日乗り放題で順繰り観光出来たら、名古屋だけでなく豊明市側の沓掛城址や刈谷市側も廻れて協力地域で潤うだろうし観光客も増えるだろう。戦国ファンとしては名古屋市中心部よりそっちの方が楽しい。
そして車が無いと観光出来ない状態であること自体がダメ。
翌日、翌々日と回った犬山市・江南市・小牧市・蟹江町・あま市・愛西市・稲沢市・津島市・一宮市には名古屋以上に見て楽しい場所が多いし、町の人も接客する店員もどこに行っても笑顔で親切だ。
…名古屋の中心街だけはどこにいっても仏頂面のホテル店員と料理店の店員とコンビニ店員だらけ。ダメこれ。
それに反比例して翌日宿泊した木曽川沿いの旅館なんて、嘗てない程親切でビックリした。 
津島市の人も暖かかったし、とてもフレンドリーだった。

あれだな、名古屋の感じって東京都23区に住んでる江戸っ子じゃない他地域から移住して来た人達のソレに似てる気がする。名古屋で働いてる人も名古屋人じゃなくて警戒心ばっかりで生きてるんだろうか?
それと、今回名古屋に車で行って人生で初めてカーナビで「車両荒らし多発地域です」とか「盗難多発地域です」ってナビを連発された。完全に山口組のせいだろ。 
そりゃ、そんなに治安悪いなら印象も悪くなるほど警戒して生きていくしかないよね。これは名古屋のヤクザのせいだろう。名古屋市長、暫くフィリピンのドルテ大統領 に成って貰ってヤクザ組織を何とかして貰ったら良くなるんじゃないだろうか(笑)。
名古屋の中心街に行くまで凄く印象が良かった愛知旅の初日でした。

あ、名古屋市緑区の人達は親切だったよ。きっと地元で生まれ育って、豊かな自然環境で生活してるから心にも余裕が有るんだろうね。多分、本来の名古屋人てのは緑区の人達みたいので、小生が「おい」と思った接客業の連中は名古屋市街に他地域から移住して来て警戒心満載で生活して客にまで警戒心丸出しなんだろうね。凄くツンケンした感じ。

ま~、名古屋中心街の接客以外は、初日の愛知県東部旅は大変満足、旅行で行きたくない県No1どころか小生の中では愛知良い所って印象の初日でした。

先日、山手に在る素敵なプロテスタント系の教会、横浜山手聖公会の教会を紹介した。
DSC_1819
ここは週末、運が良ければ一般公開していて無料で入館出来る。
山手の教会の内装展示資料 久良岐のよし
この教会は、幕末、横浜の山手地区や関内に駐留する英国軍人や英国人のモラルを保つ為、精神衛生の安定の為に建てられた教会だそうだ。
当時の欧米人は、まだまだ信仰心が強かったので、こういった施設は治安維持にも一役買った訳だ。
そして、日本の近代化に寄与して下さった異人サン達の心の拠り所にも成ったはずだ。
横浜は素戔嗚尊の御神孫や日本武尊とも御縁深い土地だが、こう言ったキリスト教の文化も横浜らしい近代文化の一部だと言える。

実は、現在のキリスト教が確立される以前の原始キリスト教は日本にも早くから伝わっていた事が多くの歴史学者の指摘する処である。
もっとも小生はキリスト教の元に成ったゾロアスター教の事だと推測しているが。
小生の尊敬する小説家、司馬遼太郎先生も小生と同様の認識だったので、❝街道を行く❞シリーズの京都か奈良の回で太秦氏の事を紹介している。
この太秦氏と言うのは読んで字の如(ごと)く、今の中国の基礎を築いた秦の始皇帝の統治した根拠地の中国の西方に居た部族で、この部族「太秦」は中国の歴史書にも記載が有る。
中国 秦
秦と言うと、この統一された地方を思い出す人が多いと思うが、元々は中国の西北の一部の国だった。
中国戦国時代 ネット拝借
現在で言うと陜西省や甘粛省辺りを治めた騎馬民族の地方部族。
秦 領土
自分達より歴史の古い貴種や都合の悪い事を認めたく無い藤原氏が、他の氏族の出自を改竄しまくった形跡だらけの日本書紀では秦氏は百済人扱いされているがとんでもない。
朝鮮半島なんかより遥かに歴史の有る氏族で中国の歴史書にも登場するのだから。
しかし、同じ渡来系でも朝鮮系統より古いなんて歴史は認めたくない連中が、太秦氏を百済人とか中国の記録を見れば簡単にバレる改竄をしてしまったのだろう。
残念、世界の距離が近く考古学の発達した現代、そんなメンツに拘った嘘は通じない。

この中国の戦国時代、秦が精強に成り得たのは西方の優れた文化を交易で導入出来たからだ。だから、この地方に小麦の麺文化も逸早く根付いた。
実は中国人は麺文化は中国文化と勘違いしているがとんでもない話で、元々は騎馬民族の文化だ。
だから拉麺の本場は今でも蘭州だったりする。
同じ様に羊肉の料理で羊肉串と言うのも有るが、これも中国人は中華料理と言い張るが新疆ウィグル族の料理だ。
2014-12-14-01-08-31
スパイシーで美味しい。
※羊肉串を紹介した記事は「ココ」←クリック!
因(ちな)みに中国大陸で拉麺と言うのは本当に拉(ひっぱった)麺(めん)の事で、刃物で切ったり機械で裁断した面は拉麺とは呼ばない。最近では日本の拉麺が逆輸入され、日本の様に機械での押し出し麺や裁断麺も拉麺と言う❝逆輸入ジャンル❞として確立されたが。
2014-12-04-15-45-37
※横浜家系拉麺の名店、環2家の以前の拉麺。現在はオーナーが家系創始者吉村社長では無い。
日本の様な❝汁ソバ❞は本来の中国語では湯麺と言う。湯(スープ)麺(めん)だな。
日本で湯麺(たんめん)と誤解された料理は、❝スープに入った麺❞と言う訳だ。
本来は❝拉麺❞と言う字は麺の種類を指した意味しか無い。これは日本人の漢字の意味の理解不足が原因だ。
この麺文化や騎馬文化や刀剣の製造技術と同じ様に、古代の交易で宗教も伝わった。
つまり、古代のユダヤ人のゾロアスター教か原始キリスト教が太秦氏に伝わったのは、この騎馬民族の交易によって伝播した訳だ。
この交易路が後にシルクロードの基礎に成った。
日本の牛頭天皇もヒンドゥー教のシヴァ神が原型だが、このルートを通って中国から直接入って来て、似たような神話の有る日本の素戔嗚尊と習合され等しく信仰された。
武塔(むとう)神とも同一視されるが、この武塔神と関わりの有る土地が牟田(むた)や宇田(うた)を地名に含む場所だと思う。
たまたまだが、九州の大牟田市には八剣神社があり、水神様だった素戔嗚尊の八岐大蛇退治の神事が今も行われる。
武塔(むとう)は日本で朝鮮訛りに毒された発音だが、本来の華語の発音では武塔(WuTa)と読む。
もうそのまんまムタかウタに成る訳だ。そして武塔神も素戔嗚尊もシヴァ神も水神の性格を持つ。
シヴァ神の下の神様がナーガ神を含めた(ガンジス河の神様)なので、そうされている。
牛頭天皇の子、八王子も素戔嗚の神話では無くて習合されたシヴァ神のこの神話が元に成っている。
つまり八王子と言うのは仏教で言う所の八大龍王だ。
2014-08-31-12-43-08
…そして西暦600年頃に応神天皇を習合した八幡大菩薩もこの八大竜王の事を指すはずだが、天皇家の祖先神を習合した事で、出雲系の神様の素戔嗚尊より下に置かれては困るので❝八幡大菩薩と八幡宮の神様が自称した❞のだろう。現在の八幡宮では八幡大神とされているが、奈良時代~鎌倉時代の人達の認識では神様の神託による自称を元に「八幡大菩薩」と呼ばれていた。八幡大神で統一されたのは明治時代に成ってから、160年しか歴史が無い。
素戔嗚尊も、八幡大菩薩も日本神話でもインド神話でも似たような水神様だから、水に関する神社では一緒に祀られている事も多々ある。それに弁財天様が加わるケースも多い。
IMG_3526
※写真は源頼朝公が軍神として信奉した江ノ島弁財天こと江島神社。
❝弁天様❞は今日では❝弁財天❞と書くが、昔は❝弁才天❞と書いた。
それには以下の理由が有る。
実は、素戔嗚尊に習合された牛頭天皇=シヴァ神は奥さんがパールヴァティーと言う女神様だ。
このパールヴァティー神は軍神や学問と美の女神で水にも関係が有る、似たような美と水の女神の女神サラスヴァティー、美と農業の女神ラクシュミーと言う神様と一緒に三人の女神として崇拝され後に習合されて、デヴィ神と呼ばれる様に成る。
このデヴィ神のイメージが日本における弁財天の本来のイメージなんだな。
軍神の要素が有るからこそ、源頼朝公や坂東武者達は江ノ島の弁天様を信奉した訳だ。
若いデヴィ夫人
…余談だが、タレントのデヴィ夫人もスカルノ大統領から今の名前を貰った意味はデヴィ神=弁天様みたいに美人だったからだろうか?
今ではクソBB…今でも御綺麗ですが。若い時の写真は本当に弁天様と呼んでも弁才天様が認めちゃいそうな美人。
すっごい美人‼
そんな訳で、日本には古くからインドや中東からの文化がシルクロード経由~中国経由~日本へ直接流入していた。

日本の聖徳太子のイメージは古代京都の豪族太秦氏が中国経由でもたらしたユダヤ人の聖典を翻訳した福書を参考にして、誰か別に実在した偉人の功績を無かった事にして象徴的に粉飾した聖徳太子と言う人物とさも別に記載したと言う説が最近の学説だったりする。
京都太秦周辺
そんな感じで日本にはかなり早く初期キリスト教、若(も)しくはキリスト教の元に成っているゾロアスター教的なものの考え方も太秦氏経由で入って来ていた歴史が有るんだな。つまり、秦帝国の滅亡が西暦紀元前200年頃だから、その頃に日本に渡って来て、稲作や織物の作り方や金属器の製造なんかを少しずつ日本に広めた一族と成る訳だ。
そして古代は神様の集まる場所、一時期日本の中心だった出雲の神様を彼等太秦氏が開いた土地の人々が多く信仰するのは当然な事だ。
日本人は無意識にアジア人や西洋人やアラブ人と違う名前の同じ太陽を神様として拝んでいる。だから文化的に似てはいなくても日本人は、アジア人とも西洋人ともイスラム教のアラブ人とも仲良く出来るんだろう。
出雲で神様達は太秦氏を受け入れ、京都辺りを任せたんだろう。
東映の太秦撮影所の一帯が太秦氏の居住域だった場所。これも有名な話し
話は逸れるが京都北部は映画撮影所の関連で、俳優の芸名の由来に成った土地が多い。北大路とかね。
画像真ん中下の梅宮大社なんかは梅宮辰夫サンの芸名由来地だけれど、実は神社でも神奈川県とも所縁(ゆかり)が有り、梅宮大社も関東総鎮護の延喜式内社と鎌倉武士に崇敬された大山阿夫利神社も共に主祭神大山祇神様を御祀りしている。
渡来人の太秦氏が出雲神族を崇拝するのは紀元前から出雲神族の眷属たる一族に技術開発等で協力していた証拠。太秦氏は受け入れられ亡命し帰化し日本人に成ったからこそ、出雲神族を崇拝したんじゃないだろうか。
太秦辺りは出雲の神様を祀る神社が少なくない。
素戔嗚尊の御神孫は、神話と考古学の符号を考えて古代邪馬台国の発展に寄与した伊都王の一族と関連が有ると思っている。以前も書いたが志賀島出土金印と蘇我氏もそこに関係が有りそうだ。
出雲大社の本殿の裏には素我(そが)社が有る。
奇しくも神奈川県や東京埼玉千葉は、出雲系の神様の一族が開拓した事が古い神社を回ると御祭神や伝承から察する事が出来る。

DSC_1477
※上は東京国立博物館の聖徳太子木像。髪の毛を両脇で結ぶ本来の日本人スタイル。
※下は中国唐帝国の文化を受けた聖徳太子画像。
聖徳太子
※日本神話に熱心だった仏教の真言宗宗祖、弘法大師空海和尚が開いた神奈川に有る太子堂の聖徳太子像は上の日本人スタイル。
ところでキリスト教徒が「アーメン」て祈るが…
そのアーメンが神様の名前なんだよね、イエスやマリア様は救い主と聖母様。
キリスト教の「アーメン」て言葉こそ神様の名前なんだな。ゾロアスター教の拝火(太陽神)信仰の影響でペルシャ南部やエジプトで崇拝された太陽神アメン神が崇拝対象に成っていた。キリスト教の布教の過程で太陽神の名前が使われた訳だ。
もっと言えば古代エジプト神話の神様のアメンラーとして太陽神ラーと融合したアメン神の事なんだな。キリスト教と別派同根のイスラム教では神の名前は「アラーフ」とされるが語源は良く解らないそうだ。
もっともイスラム教とキリスト教では神の名前だけでなく天使の地位が異なるらしい。
・・・でも天使の名前は同じミカエルやイスラフェルがいる。
西洋でキリスト教で主神=ゼウスとされるのは、古代ローマ神信仰者を改宗させる為に、イスラエルから時代を経てローマに辿り着いた宣教師達が、ローマ人の信仰する全能神ゼウスをアメン神と習合して布教した結果なんだな。
つまり「アーメン」てのは神様の名前、英語で「イエス」て返事するのも「救い主=Jesus Christ=宗祖」の名前なんだな。Jesusをラテン語で発音するとイエズスに成り英語では省略して発音表記でYESに成る。
これはラテン語勉強しない英語圏キリスト教信者が認めたがらないらしい。そして英語圏の信者はかつてキリスト教がローマ神話のゼウスを習合した歴史も知らない人間が多いし、アメンの意味も解ってないで言ってる不勉強な奴も多い。
ザビエル
イエズスとカタカナで書くと歴史好きは思い出す人もいるだろうけれど、ザビエル神父の所属したイエズス会の名前は「救い主(メシア)」キリストの名前を冠した宗教会派て事だね。
このゼウスとアメン神を習合するのと似たような布教を日本でもキリスト教宣教師達は行っていて…
日本に浸透していた神道や仏教で天照大神の別の姿とされた大日如来にアメン神を習合させようとして、切支丹(キリシタン)達に「アメン=大日如来=神=大日」として「大日」と言わせ布教した歴史が残っている。
インカ帝国時代のペルーにキリスト教布教させた時も、現地の神様を習合したしね。
…彼等の問題は自分達の宗教観しか認めず、多くの神社仏閣を破壊させ先人と偉人達の文化を破壊しようとした事。奴隷を当たり前に持っていた事。
そして織田信長公は宣教師の神社仏閣破壊の様な要求を飲まなかったし、譲り受けた奴隷を解放し白人と黒人を平等に扱った。
そして神道の価値観を守る為に、己を御神体とした奇岩=御嶽(おんたけ=みたけ=うたき)を安土城内に築いた。
信長公本人を神としてしまえば、信長公の保護下で布教を許されている宣教師達も日本古来の神道文化や信長公の信奉する法華の教え=仏教にイチャモンつけれない訳だ。
だからキリスト教の宣教師から悪魔扱いされた。

イスラム教はキリスト教とは源流は同じだけれど教義と人種問題で数千年間も対立してきた。
しかしゾロアスター教とも融和した名残りがうかがえる日本人は、その両方とも上手くやれている。

まぁ、日本人の思想は多神教の寛容さや仏教的な自省と武士文化的な礼儀が根幹に強く有るのは間違いない。
だから日本人が神道や仏教の信者でも素直に教会の建築の美しさやキリスト教の友愛の善の面、イスラム教の互助思想を肯定的に受け入れられるのは日本人の本来の神道的な多神教の文化と日本の神様の寛容さなんだろう。
この日本の神様の寛容さが、日本人の精神的な文化の根幹に有るんだろう。
モスクの写真を見ても素直に綺麗だと思うしね。
日本文化大切にする日本人とも西洋人ともアラブ人とも仲が悪いのは、無宗教の唯物主義の共産主義者と親族の利益だけを追求する儒教主義者だけ(笑)。
2011-03-16-12-42-16
日本の法律と日本の文化と秩序を守り、先人の残してくれた偉人や自然を神として奉る神社や祖先を大切にし自省を根幹にした仏様の価値観を肯定してくれれば、別に異人サンが幕末みたいに日本に住んで日本で働いても問題ないんだよ。
牛頭天皇=素戔嗚尊と草薙剣=熱田大神と法華宗(主に浄土宗と日蓮宗)を信奉した織田信長公も、山科羅久呂佐勝成(ラクローサ )てイタリア人武将や、弥助(ヤスフェ)って言う元奴隷のアフリカのモザンビーク人武将を召し抱えていたからね。
織田信長公を無宗教者扱いするバカ小説家やアホな漫画家は、実際に文献も読まなければ現地も歩かないクズばかり。
実際の織田信長公は多くの神社仏閣を復興し朝廷の宮殿を再建したりしていらっしゃった。朝廷の伝統儀式を神道に則り復古されたのも信長公だ。
浄土真宗東本願寺派(高田派は親幕府親信長派、後に本願寺光佐顕如も武装解除し豊臣政権と友和)の石山本願寺や天台宗の比叡山延暦寺が攻められてのは、当時は彼らの一部が軍事力を持った現在のISみたいな武装テロリスト集団に堕落していたからなんだな。
image
だからこそ、法華衆徒を堕落させるが真剣に修行に励む物は救う「第六天魔王=伊舎那天・伊舎那后=シヴァ神」の代理人と名乗り、天台座主と自称する武田信玄と宗論で喧嘩した歴史も残っているんだな。

どこの宗教も過激派が問題なんだけ。
image
その過激派から国を守る為に、豊臣秀吉がスペインとポルトガル人宣教師を追放した。
理由は宣教師が勝手に日本に教会の領地を持ったり日本人を奴隷として連れ出した犯罪者だったから。
これは日本人として正しい対応。白人が同じ事されたら怒り狂って戦争をけしかけるだろう。
同じ様にイギリスのプロテスタントを徳川家康公が日本入国禁止にしてキリスト教禁止たのは彼等がやはり日本人を奴隷として強制連行したから。
外国ではオランダと清が江戸時代に日本と交易を許されていたのは、オランダは日本人を奴隷にしたり日本に植民地を持つ領土的な野心が無く純粋に交易が目的だったから。
キリスト教国も時間が経って日本に遅れる事、千数百年、漸(ようや)く奴隷禁止に成ったけれどね。

そんな訳で、横浜には幕末~大正時代に花開いた西洋渡来の洋館や西洋料理の文化が今も根付いているけれど、元々、日本の宗教の中にも色んな国の神様が平等に祀られていたんですよ~!とか、色んな外国人も日本に帰化して頑張ったり発展に寄与して下さったんですよ~って話と…
信長公・秀吉・家康公然(しか)り、犯罪犯したら罰しろ、犯罪を起こしそうな奴は入れるな、日本が大好きで日本の価値観を尊重してくれて日本の為に成る人物なら外国生まれでも身内として受け入れてやれ!
…って話でした。

遅くなりましたが真田丸第五回の解説です。
 
第五回では、当初から真田家にとってウザかった西村雅彦サン演じる室賀正武の存在が、いよいよ排除したい位に邪魔に成って来ましたね…
室賀正武コイツ
この室賀正武、実在した人物で真田家と酷く対立していた人物です。
ウザさは、その内訪れる展開への伏線でしょうかね~?
本来ならそろそろ、この室賀正武の弟も登場させないといけない頃のはずなんですが…。
今後の展開が楽しみです。 

さて、第五回の要点は3つ有りました。
要点1,信長公の死によって、その偉大な統治力が失われ再び戦乱が拡大する予感。
織田信長 織田信忠
そして、跡継ぎの信忠公まで二条城で討ち死にしてしまい、織田家そのものが存亡の危機に陥った事。
合戦シーンは簡略化されたものの、ちゃんと描かれていましたね。
あれで信忠公が亡くなった事を視聴者に印象付けると同時に、信長公の死亡はちゃんと描写されず、現代に続く本能寺の変での信長公の生死を巡るミステリーを演出していました。
又、明智光秀の起こしたこの事件によって周辺大名や信濃の国衆が相争い始める予感みたいな描写も少し描かれていたでしょうか?
真田丸勢力図 本能寺直前 久良岐のよし制作
今回、真田昌幸公は越後と北信濃に影響力を持つ上杉景勝公を頼ろうとしました。
上杉景勝
その際に、真田家は織田家を離反するので、織田家から攻撃される事を恐れて、上杉家に織田家を攻撃する様に要請して「あっさり断られ」ていました。
真田昌幸
上杉家は先代上杉謙信以来、この様に「不義理はしない」と言う家訓が有ると言う事を直江兼続が発言していました。
直江兼続
この直江兼続と言う人物は上杉家の❝家宰(かさい)❞です。
家宰と言うのは先代で長尾家出身の上杉謙信の継いだ関東管領(かんとうかんれい=関東の総理大臣)山内上杉(やまのうちうえすぎ)家の頃から代々置かれた役職で、上杉家内の政務や軍務を主君に代わって取り仕切る社長代行の様な立場でした。
それを、長尾家が上杉家を継いだので、直江家が家宰と成っていた訳ですね。
ところで、直江兼続は「不義理はしない」と言う主旨の事を言っていましたが、実際の上杉家は関東に略奪に毎年の様に攻め込んできては、若い女性を連れ去り奴隷として売買する等、だいぶん鬼畜な家柄でした。
ちなみに上杉家のライバルの北条家では一切その様な事は有りませんでした。
彼の言う処の「不義理の❝義理❞」と言うのは別に❝正義❞では無く、❝礼儀❞と将軍に対する❝忠義❞をさしています。
しかし、この上杉家は頼って来た没落大名家は必ず助ける言う❝義侠心❞は有りました。
…解りやすく表現すればヤクザぽい家柄なのかな?
因(ちな) みに、上杉景勝公の生家の長尾家は、横浜市栄区出身の平安以来の坂東武者の家系で、その居城は栄区の長尾城でした。
ハマっ子と上杉家は、横浜繋がりの御縁が有ったりします。
※上杉謙信のルーツ横浜の長尾城の記事は「ココ」←クリック!

要点2,明智光秀の謀反により堺の町を見学中の徳川家康公が明智家勢力下に取り残され窮地に陥った末に❝伊賀越え❞をした事。又、その際に忍者色の強い演出をされている真田家臣団のライバルに成りそうな服部半蔵を登場させた事。
徳川家康
もう一度、本能寺の変直後の関西の状況を見てみましょう。

この伊賀越えで糞裏切り野郎の穴山梅雪がもれなく自業自得の死亡しました。
穴山梅雪
コイツは史実でも、徳川家康公と違うルートを一人で進み、落ち武者狩りに討ち取られた事に❝されて❞います。
小生は、実際の所は穴山信君が明智家に内通し、徳川家康公と家臣団の在所を知らせる懸念が有ったので徳川家臣団によって先手を打って殺害されたのが真相じゃないだろうか?と思っています。
無論、個人的な意見ですが、三谷幸喜さんも穴山梅雪がそのような事を考えていたかも知れない可能性を彼のセリフとして「明智に付くか」と言う主旨のセリフで演出していたと感じました。
家康公一行が出発時点で滞在していたのは現在の大阪府堺市です。
その時の同行した重臣の名前をてみましょう…
【徳川四天王】
酒井忠次・本多忠勝・井伊直政・榊原康政
【家老クラス】
石川数正・大久保忠佐・大久保忠隣・渡辺守綱・阿部正勝・牧野康成
それと…服部(半蔵)正成

…いずれも徳川家の重臣達ばかりです。
もし、落ち武者狩りに打ち取られたり明智軍に捕縛されてしまえば、確実に徳川家は壊滅していました。

では次に、この帰還が、どれだけ困難なルートだったかを見てみましょう…
本来は主要街道は全て京都を起点にしています。
明智光秀 桔梗
しかし明智光秀と、その部下によって京都付近は既に制圧されていて京都市街地を抜ける事は出来ず、またピンポイントで明智光秀の部下の城の間を避けて通らねば成らず、更には伊賀国は反織田派の在地豪族(忍者)だらけなので、親織田政権の徳川家一行が伊賀を通過するのは極めて困難でした。
伊賀越えルート2 久良岐のよし
※拡大して見て下さい。
赤い線が家康一行が通った山越えのルートです。
最初の段階で既に危機状態に在るのが解ると思います。
そして極め付けが反織田の伊賀国人衆です。
この家康公の伊賀越えで、最大の功労者はこのルートの通過を可能にした人物でした。
服部半蔵
それが伊賀国の豪族(忍者)衆を懐柔(かいじゅう=味方にする)する事に成功した服部半蔵です。
第三回の解説❞でも書きましたが、忍者と言うのは所謂(いわゆる)映画の様な忍者は存在しません。
ゲリラ戦術や情報収集に長けた在地豪族や傭兵、商人のスパイの事を指します。
服部半蔵も父の代から2代仕える伊賀出身の武士です。
つまり、彼は自分の父祖の代からの縁故を頼り、伊賀の豪族を説得して回った情報収集と説得工作に長けた人物だと言うのが実像の様です。
戦国時代は、彼の様に直接的に合戦で活躍しなくても情報収集が高く評価される時代でした。例えば織田家が今川家に大逆転勝利を収めてた桶狭間(おけはざま)合戦でも、功績の第一等は今川家の動向を探ったとされる梁田政綱と言う人物だったとされています。
この様に情報収集をする人物の評価を査定するのは、現在の企業の人材評価には欠損してしまった部分ですね。
この伊賀越えを徳川家が成功させた事で、現代の我々の生活は有る訳です。
我々も服部正成公感謝しないといけませんね。

では次の要点に移りましょう。

要点3,好人物の滝川一益公が織田家の政治観を語り、今後の真田家の同行を演出。
滝川一益
ドラマの中で一益公は信長公の死を知らず、真田昌幸公に織田信長公が戦を無くす為に日本史上初めて完全な日本統一を行おうとしている事、戦を無くす事が滝川一益公の夢でも有る事をセリフの中で演出していました。
この回は滝川一益公の性格の良さを演出し、昌幸公が嫡男のセリフで「織田家臣」と強調されていた事も伏線として演出し、この放送回以後の歴史上の事実で滝川一益公が東海地方に撤退するまで真田家は一益公に与力した事実に繋げようとしたのだと思います。
ですから、もしNHKと三谷幸喜さんにヤル気が有れば、前回の第4回の解説でも説明した滝川一益公と真田昌幸公が劣勢の中、北条家の大軍と戦った❝神流川の合戦❞を真面目に再現すると思います。
もし、今後の放送で神流川の合戦をちゃんと再現し合戦として演出しなければ、もはや大河ドラマ❝真田丸❞は最終回も期待できず見る価値の無い物と判断材料にして良いでしょう。
神流川の合戦は関東最大の野戦ですからね。
※神流川の合戦の解説をした第四回解説記事は「ココ」←クリック!

では、また、第6回放送の解説で御会いしましょう!

あ!
普通の御城めぐりや神社仏閣巡り、ローカルの美味しいレストランの記事もよろしく!
PCは右上のカテゴリから選んで頂ければ、見たいジャンルの記事を読めます!

皆さん、真田丸第2話を御覧に成って「物足りないなぁ~」とか思われたでしょうか?
あんまり歴史人物に御興味(ごきょうみ)が無い人は「合戦のハデなシーンを見たい!」とか思われて、多少つまらない回だったと思われたかも知れませんね…
が、しかし!
実は第2回目の放送は凄く大切な要素がドラマ中に再現されていたんですよ!

まぁ…
そんな要素有ったっけ?
…って思われる方もいらっしゃると思うので、2つの要点を下に書いてみます。

要点1つ目
●武田家滅亡直前、武田勝頼公は「鎧兜」に手を合せて拝んでいた。
武田勝頼
実はこの行為は武田家の文化を忠実に再現している三谷幸喜さんの演出で、極めて歴史考証を重視されている証拠でもあります。

要点2つ目
●小山田信茂だけが処刑された。
小山田信茂
実は、この2つは大きな意味が有りました。
「小山田が処刑されたのだからそりゃ、物語として重要だろう?」と思った方はズレています。
重要なのは、織田家重臣で出世頭の「滝川一益」公が発言した内容です。
「お前は自分から主人を売った裏切者で、織田家と徳川家から内応の調略(ちょうりゃく=勧誘)を受けた穴山や木曽とは違う」と、言う主旨の事を言われて処刑されていました。

今回はこの2つの要点の解説と歴史事実との整合性の検証、最後に鎌倉~横浜に関係した登場人物と俳優さんを紹介しようと思います。

この第2話では大半を武田家滅亡までの武田勝頼公御自身の武田家の文化や価値観を表した行動描写に費やし、残りを小山田信茂の処刑までの行動の演出に費やしていました。

先ずは要点1つ目、勝頼公の行動について解説します。
武田勝頼
皆さんは、武田勝頼公が御屋敷の中で鎧に手を合せて拝んでいたシーンを覚えてらっしゃいますでしょうか?
歴史に興味が無いと意味が解らないシーンだったので一応、御説明差し上げますと、武田家には伝来の家法が有りまして、それが「盾無(たてなし)」と言われる鎧です。
武田勝頼公が拝んでいたのが、その家宝の「盾無」です。
実は現在でも現存していて、盾無は別名「小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)」と呼ばれています。
これは山梨県甲州市の菅田神社にて現在も保管されています。
※山梨県神社庁のホームページ「菅田神社」ここクリック!

菅田神社の在(あ)る場所は現在の住所で甲州市塩山上於曽と言う地名なのですが、この上於曽の「於曽(おそ)」と言うのが地名であり、かつ武田家分家の於曽氏の苗字でもあるんですね。
そして、於曽家は武田信玄よりずっと前の歴代武田家当主から代々、この「盾無」の管理を任されていた一族でした。
江戸時代には盗難に遭って破損した事も有るそうですが、小生はレプリカしか見た事がありません。
では、五月人形作家の鈴甲子(すずきね)雄山と言う方の作られた端午の節句用のレプリカの画像を拝借して盾無とはどんなものか見て見ましょう。
※鈴甲子雄山氏の工房ホームページは「ココ」←クリック!
武田家家法「盾無」レプリカ
緑色ですね。
但(ただ)し実物は「鳩尾板(きゅうびのいた)」と「栴檀板(せんだんのいた)」と言うパーツが欠損しています。
この欠損した二つのパーツは肩紐(かたひも)と胴体を結ぶ部分に有る鎖骨を守る盾状の板の事です。
当然、実物の盾無鎧は国宝です。
武田家歴代当主が大切に守って来た鎧なのですが、実はこの菅田神社の盾無鎧、武田家の家祖で平安時代の名武将として名高い「新羅三郎」こと「源義光(みなもとのよしみつ)」公が着用していた実物だと伝わっています。
そして、この盾無鎧は武田家中では源義光公の化身の様に「御神体」として奉られていたんですね!
もう、ここまで説明すれば歴史に興味の無かった人でも解(わか)ると思いますが、ドラマ中に演出で武田勝頼公が盾無鎧に向かって手を合せ拝んでいたのは、御先祖様に対して御参りしたり誓いを建てているのと同じ正に神社で神様に参拝するのと同じ行為をしていた訳です。
これは武田家代々の伝統で、武田軍団は当主自らの出陣の前に必ず源義光公の遺品である❝盾無の鎧❞と❝日章旗の御旗❞の前で集合し、以下の言葉を述べる習慣がが有りました。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
つまり、❝御旗❞と❝盾無❞を完全に擬人化して神様として敬(うやま)っている事が良く解る逸話です。
これは角川書店が約30年位前に映像化した「天と地と」と言う川中島合戦の映画でも演出に登場します。
興味が有る人は、「天と地と」をレンタルして見て見て下さい。合戦シーンの迫力はたまらない映画です。

さて、この盾無を拝む文化が武田家に有ったから、真田丸での第2話の演出が有ったのは伝わったと思います。
ついでに兜と武田信玄の話しもします。
第2話では頻繁(ひんぱん)に❝虫の知らせ❞的な描写で武田信玄の霊が登場しました。
武田信玄
でも、この武田信玄像は現在では江戸時代に誤って伝えられたものだと判明しています。
先に「盾無の鎧」を説明したので、この武田信玄の容姿の誤解の元に成った「兜」の説明もしたいと思います。
現在、多くの人がイメージするこの一般的な武田信玄。
※武将画で有名な諏訪原寛幸さんの絵を拝借。
武田信玄(諏訪原寛幸氏画)
※諏訪原寛幸さんのホームページは「ココ」←クリック!
この赤赤しい(笑)武田信玄のイメージは誤りだった事が判明しています
「じゃあ、この赤い人は誰なんだよ(笑)?」
…って、成りますよね?実は、この兜は実在します。
「兜が実在するなら、この赤い人が武田信玄だろ!」
…って思うかも知れませんが、それでも違うんですね。
この武田信玄の真っ赤なイメージの元に成っている絵が現存します。
参考書籍が手元に無いのと絵が検索しても出て来ないので御見せ出来ませんが、ほぼ、上の諏訪原サンの書いた一般的な武田信玄のイメージと同じ色、同じ格好です。でも、鎧兜の家紋が武田菱じゃないんですね。
それは実際は能登国の畠山義続(はたけやまよしつぐ)の絵が誤って伝わったと判明しています。
それを、江戸時代に美術マニアの松平定信が❝武田と言えば赤備え部隊じゃね?❞と思ったかは知りませんが、武田信玄像として誤って紹介してしまったんですね。
この松平定信が誤認した事を証拠でもあり、事実誤認を助長した事実の証拠でもある物が有ります…
それが「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」と言う実在する重要文化財です。
武田信玄
武田信玄が被ってる兜、これが諏訪法性兜です。
諏訪法性兜は長野県の下諏訪町立諏訪湖博物館に所蔵
されていて、常設展示では完全なレプリカが置かれているので、どんな物か見学する事が出来ます。
※下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の公式ホームページは「ココ」クリック!
この諏訪法性兜、既に科学的見地からも製作年代は西暦1500年代と特定されており、武田信玄や武田勝頼公の時代と符合します。
つまり、武田信玄か❝武田勝頼公所用の可能性は無きにしも有らず❞な訳ですが…
しかし問題が有ります。
兜の飾りは江戸時代の物と、本体とは別個の鑑定結果が出ているんです。
つまり、江戸時代に成って追加された飾りである可能性が高いそうです。
この諏訪法性兜は、先代の諏訪大社宮司だった守矢サンの家系が代々保管していたのを、修繕や保護の観点から諏訪町で買取り現在に至ります。
更には、一般的に歴史好きの間では❝武田信玄着用では無く、武田勝頼公が着用されていた❞との意見も有りますが、それも事実上なんの伝承も無ければ証明する証拠も無いそうです。これは諏訪湖博物館の学芸員さんにも確認した事実です。
そして、もう一つの事実。
諏訪湖博物館所蔵の諏訪法性兜は、この武田信玄のイメージの元に成っている兜と❝うり二つ❞だそうです!
小生、諏訪にも御縁が有って若い頃に御世話に成っていたので諏訪大社も何回か御参りしてましたが守矢宮司に御会いする機会は有りませんでした…

実は小生、諏訪法性兜が武田家と無関係では無いとすると同時に、武田信玄の実像が「赤(笑)」では無いと言う歴史事実を同時に証明する証拠が有る事も偶然知っていました。
以前、横浜の殿様達が鎌倉の鶴岡八幡宮の再建をした事を間宮家の事績顕彰の中で紹介しましたが、その中に登場する横浜市南区と東京世田谷の殿様❝吉良頼康(きらよりやす)公❞が諏訪法性兜の問題と、武田信玄の実像を結びつける事実と深く関係しているので紹介したいと思います。
※間宮家顕彰記事は「ココ」 クリック!
下は吉良頼康公と伝わる人物画です。
武田信玄(誤伝:吉良頼康)
※ネットの借り物画像です。
しかし、この伝承は高野山の御寺が犯した誤りによって人物を取り違えられて伝えられた事が現代では判明しています
東京都世田谷区は小田原北条家の統治下の関東で、鎌倉公方の代行者も務めた吉良頼康公の所領だったのですが、その頼康公の家臣の大平家の奥沢城の城址に建てられた九品山浄真寺と言う御寺に、返還された可能性が有るそうです。
実はこの絵、現物は武田信廉(のぶかど)が描いた武田信玄の肖像画の写しなんですね!
武田信廉とは武田信玄の実弟です。
あれ?
なんか残念?
頭ハゲ上がってるし(笑)?威厳が感じられない?
しょうがないじゃん!これが武田信玄の実像なんだから!
この絵、武田信廉が描いた実物を近くで見ると、武具のありとあらゆる場所に「武田菱」の家紋が描かれているそうです。
でも、この兜の絵を良く見て下さい…
諏訪法性兜比較
比較してみると良く解りますが、江戸時代に追加されたと言う「前立て(兜の前飾り」や「ヤクの毛」を取っ払って兜本体だけを武田信廉の絵と比較すると全く同じでしょう?
つまり兜を比較すると、伝吉良頼康像の兜が諏訪法性兜であり、武田信玄の実弟が信玄を描いた肖像画だと言う証明な訳です。
武田信玄は赤い人じゃないんです(笑)!
では何で、現在の諏訪法性兜が「ヤクの毛」や「前立て」が追加されたかと言う疑問が残ります。
それは多分、こう言う事だと小生は個人の意見として纏めます。
①諏訪法性兜は毛が無いオーソドックスな姿の兜だった。
  ↓
②江戸時代に小瀬甫庵と言う適当な歴史小説を書く作家の小説が流行して武田信玄と言えば「赤備え」と「騎馬隊」と言うイメージが定着した。別に赤備えったって鎧兜全部真っ赤にする訳じゃないからな(笑)。
  ↓
③肖像画を保管していた寺が「②のイメージで適当に武田信玄だろ?」と畠山義続の絵を武田信玄と誤って比定してしまった。
  ↓
④江戸時代末期に諏訪法性兜を補修する際に、②と③の要因のせいで保有者が「修理」する心算で前立てとヤクの毛を追加してしまった。
  ↓
⑤江戸時代後期に松平定信が美術品の記録を編纂した際に、それまでの②③の誤りに加えて④の補修が入った姿の諏訪法性兜の模写した絵を見て、そういうものだのだろうと疑わずに、そのままの姿で諏訪法性兜の姿として確定をしてしまい、以後誤認された追加装飾品付きのままの姿で現在に伝わる。
しかし、本体は戦国時代から武田家当主所用の兜だった可能性は、吉良頼康と誤認されていた武田信玄像の兜との相似から高いと思われる。
以上で、武田信玄のイメージが誤りで、本来は髷(まげ)を頭に結った一見すると人の良さそうな外見だったと解ると思います。
実際は関東や信州で女子供を捕まえては奴隷として販売したクズですがね。
織田信長公は武田勝頼公の滅亡時にこう言う主旨の発言をしています「親(武田信玄)が悪逆非道な事をしたから子が滅んだ」と。
それは次の要点2に繋がる訳ですが…

では…
要点2つ目の解説に移ります。
小山田信茂
こいつ↑は処刑されたのに…
…コイツ等↓は処刑されずに誉められた理不尽。
穴山梅雪 木曽義昌
別にこれ、理不尽じゃないんですよ。
特に、ドラマ中で処刑を命じていた織田信忠公と、その御父君の織田信長公にとってはね。
織田信長 織田信忠
織田信長公は、若い頃に那古野(なごや)城主でした。
那古野城ってのは今の名古屋城の場所に在った、昔の城名です。
信長公が若い頃に一番苦労したのは、家臣の裏切りだった訳です。
自分の家老として父親から補佐役に付けられていた林秀貞(はやしひでさだ=通称:通勝)に裏切られ、弟と織田家の遺産を巡って殺し合いをする羽目に遭ったり。
信頼していた伯父さんに裏切られたり。
助けてあげたバカ将軍に裏切られたり。
正に、裏切られる人生を送った人物な訳です。
そんな人生を送った信長公ですから、小山田信茂の様に主君を差し出して来る様なクソ家臣は許せない存在だった訳です。
そして、横浜の殿様の間宮家と笠原家とも関係の深い名将:滝川一益公が織田信忠公と一緒に、小山田に処刑を宣告していましたが、滝川一益公が出世出来たのも実力も有るし織田信長公の家臣の裏切りが酷かった時期に、ずっと信長公を支え続けたからなんですね。
滝川一益
そりゃ、織田信忠公や滝川一益からすれば、小山田信茂は許せないでしょうね。
※この信長公の実像や価値観は以前記事にしたので「ココ」←クリックして見て下さい!
穴山と木曽は、織田家から内応しろと条件出されてちゃんと個人的に交渉した結果の織田家への鞍替えで、別に武田勝頼公を売った訳じゃないですからね。
…もっとも、小山田信茂は武田家臣じゃなくて武田家の盟友だったんですけれどね。織田家にとっての徳川家みたいな存在が武田家と小山田家の関係みないな感じだった訳です。
しかも!
小山田信茂は祖母が武田家から来た人物ですが、実は母親は記録上は不詳で伝承上では「笠原清繁(きよしげ)公の元妻」とも言われています。
要点1の〆で信長公の発言「親(武田信玄)の悪行のせいで子(武田勝頼公)が滅ぶ」と言うのは、実は小山田家の事を指しています。
この小山田信茂の生母と伝わる笠原清繁公の元妻ですが…
実は、武田信玄が佐久地方の笠原家を滅ぼした際に、その笠原家の領民や家臣の婦女子を奴隷として販売をしているんですね。信玄マジ鬼畜。
その時に奴隷として販売された笠原清繁公の妻は、小山田信茂の実父の小山田信有が奴隷の叩き売りで落札して買取り自分の側室にされたそうです。
仮に、小山田信茂の生母が笠原清繁公の元妻と言う伝承が実話なら、この信長公の発言は全てを表していると思います。
武田信玄が奴隷売買なんぞしていなければ、小山田信茂は生まれていなかった訳ですからね。
しかし
実際、この武田家滅亡の直接の原因に成った小山田裏切り事件、どんな処理がされたかと言うと織田家では小山田信茂の裏切りは卑劣として死刑を宣告しながらも、武勇名高い武将として小山田信茂を評価していた為か切腹させています。
つまり、武士としてメンツを保った処刑をさせた上に、岩殿城と小山田家領民へは乱暴狼藉していません。
だから、第三話に繋がると思いますが、小山田茂誠公が生き残り…ゲフンゲフン!
ネタばれに成りそうだから、歴史知らない人の為に書かないで置きます。

さて、こんな感じで要点の解説はご理解頂けたでしょうか?

今回は小生、横浜市民として第2回放送の登場人物が横浜に関係が有ったので紹介しておきたいと思います。
第2回では、徳川家康公の愛人の「阿茶局(あちゃのつぼね)」さんが出てきましたね。
阿茶局
この人は本来武田家滅亡の前後に徳川家康公の奥さんに成っているので、あのタイミングで家康公の傍にいたかは小生解りかねます。
しかし、阿茶局なんかどうでも良い(暴言)!演じた斉藤由貴さんは神奈川県立清水ヶ丘高校の出身なんです!
清水ヶ丘高校は現在では統廃合で「神奈川県立横浜清陵総合高校」に名称変更されていますね。
え?
だからどうしたって?ハマっ子の俺からしたら重要なんだよ!…俺とか言ってしましましたが、小生は「おぉっ!」と思ったんです、いろんな意味で。
だってね、斉藤由貴さんは49歳なんです。でも阿茶局はこの時点で27歳なんですよ。
齋藤由貴さんが27歳て(笑)。…お綺麗ですね。

で、もう一人、先に少し話しましたが、今回登場した滝川一益公。
滝川一益
実は我々横浜市民としては横浜の殿様と関係が深かった方で、格上の織田家にも関わらず横浜の殿様を御親切に上方で接待して案内して下さった恩人に当たる人物なんです。
その時に関わったのが横浜南部沿岸部の殿様で笹下城主間宮康俊公の実弟、滝山城主北条氏照公の付家老だった間宮綱信公。それと横浜市北部の殿様で小机城代で大曾根城主の笠原家の殿様です。
この間宮家と笠原家は主家北条家の出来事の節目節目で外交や宗教儀式で総奉行と奉行をペアで務めた、北条家重鎮の家系でした。
もっとも、間宮家に関しては北条家の親族の各武将に腹心として分散して赴任させらていましたので、間宮家が独自に軍事行動をする事はありませんでした。
●間宮康俊公→北条家最強の北条綱成公の付家老。→伊豆山中城で討死に。子孫は徳川家康公に仕える。
●間宮綱信公→北条氏照公の付家老。→徳川家康公の旗本に成る。
●間宮信繁公→北条氏康公・氏政公の直属。→徳川家康公の鷹匠頭に抜擢され関ケ原で諜報活動でも活躍。
●間宮信高公→間宮康俊公の子と伝承。北条家から武田家の水軍大将に転仕。→武田家滅亡後は徳川家で船大将を務める。
※不幸な話で間宮信高公は小牧長久手の合戦時に、徳川家水軍大将として滝川一益公の蟹江城を攻めて討死にしました。協力関係に有れば、きっと素晴らしい連携が出来たかも知れませんね。
そんな訳で、横浜の殿様に良くして下さった恩人が滝川一益公な訳です。
因みにこの間宮家の子孫には他に、風土起稿を編纂した学者の間宮士信、間宮海峡を発見した間宮林蔵がいて、一族の子孫には杉田玄白もいます。
そこら辺りの話は、きっと「真田丸」最終回辺りで徳川家康公が行う大坂城攻めの作戦に関わるので以前書いた記事を参考までに読んで見て下さい。
※間宮家と笠原家の事績は「ココ 」←クリック!

以上、「真田丸」第2回放送の解説と余談でした。



唐突ですが…
歴史と言うのは学者は既存の文献を読むだけでは解らない事の方が多いと思っています。
良し悪しに関わらず筆者の「意図」が介在していて、本当は起きていた事実も演出の為に書かれていなかったり歪曲されたり、理由が有って紹介されない話も有りますからね。

ところが小説家のみならず歴史学者サンの中には現地を訪れた事も無ければ、関係者の子孫の伝承も拾い集めない「ド阿呆」も多くいるし、逆に司馬遼太郎さんや黒田基樹さんみたいに実際に現地に行き検証活動をしたり関係者本人や御子孫から事情を聞いて回る人もいる訳です。

小生、少し不思議な御縁が有りまして、よく神社サンで境内の一般非公開の領域に入らせて頂けたり、御寺サンで非公開の仏様を拝ませて頂けたり、直接、歴史人物の御子孫と御話する機会を得たり、偉い宮司様や和尚様に相手して頂ける事が一般人なのに良くあります。
これは、リスペクトする歴史偉人の皆さんの御霊の御導きだと思っています。
…オカルト的な意味じゃなくてね、本当に尊敬しているから御褒美として呼んで貰えるんだと思います。

愛知県の小牧市に昔、小牧山城と言う山城が在ったのを皆さんは御存知でしょうか?
小牧山城址
上はGoogle earthの衛星写真に、その小牧城の縄張り図を重ねた画像です。
戦国時代が好きな人なら誰でも知っている御城ですが、歴史に興味が無い人は知らないマイナーでは無いけれど超メジャーでも無い御城です。
信長公の尾張時代の最終的な居城だったのが、この小牧山城でした。
そして、この小牧城の周辺地域には信長公の青春時代の足跡が沢山散らばって伝承していたりもするんですが、今も、この地域には信長公や秀吉の関係者の御子孫が住んでいたり、主従関係に成る前の各自館跡が沢山有ったりします。

そんな関係で、小生は不思議な御縁も有り、小牧城から程近い江南市の小折町で、信長公の母上の「土田(どた)御前」の御実家の御子孫、また事実上の正妻の生駒家の吉乃様の菩提寺の檀家様達と面会の機会を得て御話しを聞かせて頂いたり、信長公の御位牌を直接拝ませて頂いた経験が有ります。
その際に、信長公が青春時代を過ごした地域を自分の足で歩いて回った結果ですが、ドラマや小説で描写されている信長公の性格や、それに影響されて有名文献しか読まない学者の解説が如何にイイ加減な思い込みかと言うのを痛感する機会が有りました。
それから、以前よりも現地にいって散策検証したり、色んな人から話を自分で見聞きして回る事を大切にする様に成りました。
無論、郷土資料館等の学芸員さん達から調査結果の資料のコピーを頂いたりもしています。
来年は信長公の菩提寺で追善供養にも参加させて頂く事に成っていたりもします。
そんなこんなで、愛知県での信長公親族の御子孫の証言や、京都の阿弥陀寺の話しなど地元の方々の信長公像の伝承を元に信長公がとても暖かい人物だった説明をしたいと思います。
※土田御前の苗字の「土田」の"土"には右側に「、」が付くのですがPCにも携帯にも、その字が無いので以下「土田」と表記します。
タイピングされた文章しか読まず、現地を訪問し「直接関係者から取材しない部類の人」「関係する古文書読まない人」は、そんな事すら知らないんですがね。

今回は小牧城自体を詳しく説明しませんが、信長公の性格の実像を伝える話が小牧城の周辺地域には沢山残っています。
また、どんな人物だったは地図を見る事でも読み解けます…
2011-03-16-12-42-16

信長公がとても人情深く明るく優しく、公平で仕事に対して真剣過ぎる位に真剣だったのを皆さんは御存知でしょうか?
…先ずは、良く知られている実話から。

1,仕事に対する真面目さが尋常じゃない
足利将軍家・武田・朝倉・浅井・本願寺によって俗(ぞく)に言う「信長包囲網」と言う、反信長政権連合が結ばれ信長公が窮地に陥っていた時期は多忙を極めていました。当時処理すべき軍務・政務に関わる書類、重要な裁判に関する書類の決済が大量で、数日間も寝ずに処理しなければいけない事もしばしばあったそうです。
…逆に言うと、リーダーにも関わらず何日間も徹夜で仕事をする事が有った反面、部下達にそれを強いる話は残っていません。
築城等の突貫工事も十分に人を雇い準備して事業を実現している訳です。
現代のバブル世代管理職の様に無責任にヤレヤレ押し付け丸投げでは無く、織田家の政はピリピリしたムードで議論が尽くされていたのが宣教師の証言でも伝わっています。
信長公は部下達にプレゼンをさせて、御互いの意見の合理性を比較させ、その中から実現可能そうな物を採用するスタイルだったそうです。
無論、桶狭間での今川軍強襲や北近江での朝倉勢追撃戦や、石山本願寺包囲後の木津川渡河の時の様に、迅速な行動を要する場合は率先して御自分から危険な任務も行う事が多かった様です。

2,部下のヤル気と才能を引き出す管理能力が尋常じゃない。
秀吉達の清州城城壁修復や墨俣一夜城の逸話は、自己推薦で立候補した部下に仕事を一任し責任を持たせて全権委任していましたから、「現代の無能管理職の無茶振り」とはだいぶ違いますね。部下がプレゼンした事を判断してやらせる方だったそうで、評定(ひょうじょう=会議)の席は部下同士にプレゼンさせて、その中から良い案を提言した人間に全権を与えて仕事をさせるスタイルだった様です。
そして結果を出した部下は生まれの貴賤(きせん=血筋の良し悪し)を問わず、出世させました。
この代表例が清洲城代家老の榛原常安(植安とも)や、初期の木下秀吉な訳です。
小生に言わせりゃ、年功序列の腐れ昭和スタイルより、よっぽど健全で部下も仕事に励みたく成る環境ですね。
bd222ce8
「禿(はげ)ネズミ」↑と信長公にあだ名されていた秀吉。生存中は猿じゃなくて鼠と呼ばれていました。
「猿」と後に呼ばれているのは、信長公の猿真似をして天下人の素振りをしたからでしょう。
しかし戦乱を収束させた功績は偉大です・・・
まぁ、この人がやらなくても信長公が生きていれば実現したでしょう。
ただし、秀吉に関しては、軍団長クラスに出世する頃には「信長公の御実子を養子をとり」既に「織田家の親族」だったので、晩年の出世は信長公の信頼する人達で構成された部隊を信長公の代わりに「親族」として率いていた感が否めないので、本能寺前後の出世は個人の実力より血縁による縁故と優秀な与力武将達の活躍による所が大きいです。これは信長公の親族だった明智光秀と同じ状況ですね。
信長公は親族に冷たい様な「捏造」された人物像がちゃんと検証しない小説家の思い込みで流布されていますが全く違います。
信長公御自身は親族をもっとも信頼し重要な御城や自分の本拠地周辺に配置していました。
つまり縁故や義理も大切にしたのが信長公ですが、バランスよく実力主義の人材登用も積極的にされた理想的な組織運営をされた訳です。
言うなれば…
伝統や倫理を守る「貴族院」と実益を生み出す「衆議院」の二院制みたいな政権運営をされた上で、物事の決着をつける裁量は御自分で責任を持たれた訳です。

仕事面での良く知られている逸話はここ等辺りしして、マイナーで小牧辺りを実際に回らないと解らない話を下に。

3,自分と恋愛結婚で結ばれた事実上の本妻を愛し、奥さんが体調崩すと自ら介護した「深い愛情の持ち主」だった。
信長公は、恋愛で結ばれた事実上の本妻「お類」と言う女性を深く愛されていました。
愛称の生駒吉乃の方が有名に成っちゃってる女性です。
小説では「吉乃」の名で知られる実質本妻のこの女性、本名は「お類」の名で現地の小折町でも生駒家の御子孫の間でも伝わっています。
生駒家は馬借商家で、今で言えば運送業を営む商家であり、武装した土豪でもありました。
要するにお金持ち。
それすら知らない学者や小説家が「吉乃」とあだ名を実名と思い込んでいたり、ただの商人の娘扱いしているのですが。
生駒家は大和国(奈良県)の御出身の一族なので、あるいは信長公が雅な雰囲気の奥方を、実家の故地大和国に因(ちな)んで「吉乃」とあだ名で読んだのかも知れませんが、この吉乃と言うあだ名の由来は定かではありません。
※本記事では以下呼称を「お類様」で統一します。
NHKの少し(だいぶ…)昔のドラマでは女優の高木美保サンが役を演じられたりしているのですが、現代の小説家が江戸時代の作り話の影響を受け過ぎていて(笑)、形式的な正妻の帰蝶(濃姫)さんしか登場しないドラマが多く、お類様の役柄を演じる女優さんは少ないんですよ。
少し昔(笑)↓の高木美保さん。御綺麗ですね。
高木美保
生駒お類様と信長公、その出会いは信長公が家臣団に「ダメ御曹司」扱いされて、実弟の信勝(信行)公を担ぐ家臣達に家中でイジメられて不穏な空気に包まれていた頃にまで遡(さかのぼ)ります。
信長公は初期の居城は那古屋(現在の名古屋)城でしたが、心が休まる場所は吉乃様のいる生駒家の小折城だった様で、頻繁に小折城の在った今の愛知県江南市~小牧市辺りに遊びに来ていた様です。
…名古屋や清州から馬でも3時間位かかるんでしょうかね?
実は、吉乃様は信長公との間に重要な子を3人も年子で生んでいます。
●織田信忠公…織田家の跡継ぎとして御活躍されましたが、本能寺の変の際に二条御所で討死されました。
●織田五徳姫…徳川家康公の嫡男、徳川信康公に嫁ぎましたが義母との確執から夫婦義絶し離婚。
●織田信雄公…信長公に余り能力的に期待されていなかった様ですが、お類様との子なので厚遇されました。
お類様は、この年子での御3方の出産が生命力的にも大変だった様で、信雄公を出産後に体力が回復しないまま36歳の若さで亡くなってしまいました。
この、お類様の晩年、当時の常識では普通は有り得ない事なのですが、信長公は居城の小牧城に病床に在るお類様の為の居室を築いて、そこに迎え、自ら介護をされたと言う伝承が残っています。
…それだけ深くお類様を愛してらっしゃったんですね。
お類様は亡くなると、生駒家居城の小折城の当時の西の端、今の田代墓地の在る場所で荼毘に伏されました。
荼毘に伏すと言うのは火葬する事ですが…
信長公は、お類様の死後、暫くの間は毎日、居城の小牧城から見える小折城のお類様が荼毘に伏された方を見ては泣きじゃくっていたそうです。
だからね、信長公は凄く人間臭い人物で優しい方だったんです。
位置関係は下の衛星写真をクリックし拡大画面で確認してみて下さい。
田代墓地位置
因みに、現在の久昌寺が昔の小折城の中心、龍神社が在る辺りが小折城の中で信長公とお類様の部屋と言うか離れと言うか居住する建築物が在った地域だそうです。
田代墓地周辺には現在も「西ノ丸」の地名が残り、小折城の西側が田代地区まで及んでいた事が解ります。
又、田代墓地は、お類様が荼毘に伏された土地で更に、その中の「吉乃桜」と言う桜の古木の立つ場所が正に、お類様が火葬された場所だそうです。
小折城については、蜂須賀家や信長公や秀吉の部下に成った方々の屋敷跡地との位置関係と合わせて再度別記事で説明します。

4,優しいのは庶民に対しても同じ。
信長公は奥さんのお類様を大事にされましたが、同じ様に庶民にも凄く御優しい方だったようです。
例えば、信長公が京都方面まで制圧した際に、とある村に昔、不義を働いた家系の者が代々被差別を強いられている事に気が付きました。信長公は「この人間本人が犯罪者でもないのに、先祖の罪で今も差別されるのはオカシイだろ(怒)」と憤慨され、その者を差別から解放し、いくらかの生活資金を与えて再起させてあげたそうです。
これは現代人の法治主義や自由平等の思想にも通じる信長公の個人的な思考を垣間見れるエピソードですね。
政治家としての信長公も、庶民に対して御優しい政策を行っています。
楽市楽座じゃないですよ!あれは自由経済圏構想であって感情とは無関係でしょうから。
信長公、実は京都の統治に着手した時期に街道の整備をされています。その街道を往来する旅行者達が熱射病に成らない様に道沿いに日陰を作る為、街路樹を街道沿いに植えたんですね。
こんな事をする大名は当時いなく、正に、出身の貴賤に拘らず奥さんを商家の生駒家から貰い(通い婚だけど)庶民の文化を愛して青春時代遊びまわっていた信長公らしい逸話です。
現代人の政治家みたいに踏ん反り返って偉そうな人間からは想像も付かないほど、お若い頃の信長公と庶民の距離は近かったのですが、実は織田家は本姓が古代豪族の忌部(いみべ/いんべ)氏で、祖先は福井県の劔(つるぎ)神社の宮司家でした。劔神社の御祭神は牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおうのみこと)なのですが、信長公の支配した尾張国には津島大社と言う立派な神社が在り、そちらも御祭神が牛頭天王です。
その津島大社の例大祭で庶民が楽しんでいる所に加わり、信長公は家老の平手政秀公や家来と一緒に踊り子の格好をして笛を吹かせ自らも参加し、身分の区別なく一緒に楽しんだエピソードも現代に伝わっています。
2015-10-28-13-53-12
織田家と劔神社にかんしては、以前「明治時代の戦艦三笠」の記事でも書いたので、そちらも御覧下さい。
※三笠の記事は「ココクリック!
…こんな感じで、信長公が他の大名と圧倒的に異なる点は、庶民との距離が近い点でした。
この事は、豊臣秀吉・徳川家康公の若い頃とも共通し、庶民の事を良く理解している武将だけが続けて天下を獲れたと言う面白い結果でもある訳ですが、もう一つ、信長公・秀吉・家康公に共通するのは「東海地方の武士達から若い頃イジメられたり嫌われていた」と言う皮肉な事実も有ります。

では、何故、この小牧城周辺の地域に織田信長公の実像を伝える青春時代の多くの伝承が有るかに話を進めてみましょう…
歴史好きの皆さんも興味の無い人も御存知の方が多い歴史事実ですが、先程述べたように「信長公は尾張の武士に嫌われていた」んですね。
家臣にも何回も裏切られ合戦をけし掛けられ圧倒的な不利な状況においこまれ殺されそうに成っています。
その信長公を嫌っていた面々が又、信長公の最初の本拠地名古屋近郊出身者ばかりなのですが具体的には…
織田広信(後に信友と名乗る)
織田信友
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田信長公の元の上司。権力闘争は得意だったが取り立てて内政力が有る訳でも軍事的な才覚が有る訳でも無く何の実績も残していない。
織田家の主君だった斯波(しば)家の殿様を暗殺し主殺しをやった人物。
無能な癖に権力の駆け引きだけは上手く、実績も実力も無いが家柄の優位性を利用し斯波家の家政を実質乗っ取っていた。しかし本人の領地の軍事と政治は家臣に任せっきりで実力は皆無だったようだ。
昭和~平成の政治家にも多いタイプ。
実際に斯波家の勢力を復興したのは部下である織田信秀公(信長公の御父君)なのにも関わらず、その手柄を妬み足を引っ張る事ばかりして合戦までけし掛けた挙句に敗北し和睦。
信長公と主君斯波義統(よしむね)公の直接的な結びつきが深くなると、嫉妬の挙句に血迷って主君の斯波義統公を暗殺して家政を乗っ取った。しかし信長公の策略で信長公の叔父の織田信光公が偽降(ぎこう=偽りの従属をして裏切るチャンスを待つ事)してくると、その計略にひっかかり誅殺された。
無能な癖に常識人面して職位を守る為に部下の足を引っ張る典型的ダメ役員タイプ。
織田信安(のぶやす)公
織田信安
※KOEI信長の野望の画像拝借
岩倉城主で、信長公より格上の岩倉織田家の当主だった。当初は信長公と一緒に遊びまわった仲で信長公の最大の協力者だった。自分が信長公に協力した結果、不幸にも信長公が政権を盤石にし尾張を統一する頃に成ると家臣団が直接信長公に従う様に成り、危機感を抱いて信長公と対立してしまう。
情に熱い御人良しでは有るが、信長公が天下の覇者に成るのを見抜ける人物眼は持ち合わせてはいなかった事が彼の不幸だった。仮に、岩倉織田家の家臣団を信長公に差し出して奉行職に徹したとしても、信長公が覇者に成る頃まで仕えていれば信頼出来る親類として羽柴秀吉や明智光秀の様に大大名に取り立てられた可能性は高い。
深い情を持ちながら、将来を見通す判断力が無かった小者だった事で没落した責任は自業自得と言えるが、有る意味で被害者的な立場でもある。
林秀貞
林通勝(秀貞)
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田家初期からの家老で、本人は常識人の心算(つもり)だったのか信長公が武士階級に拘らず庶民と強い結びつきが有る事などが非常識に見えたのか、品行方正な信長公の実弟信勝公を主君にしようと何度も反逆した。
大身(たいしん=大領主)だったので織田家中での地位が高かったが、信長公が尾張統一後は多くの兵を率いながら何の活躍も出来なかった。只(ただ)性格が四角四面な常識派面(ツラ)した大凡人で信義は皆無。
その実は不正義で利己的な悪事しか残せなかった。典型的な身の丈に合わない地位にいた人物。
後に信長公の支配体制が強固に成ると、尾張時代の反逆前科から追放された。
全く良い所の無い典型的な多数派主義。
柴田勝家
柴田勝家
織田家の初期からの重臣で、当初は林秀貞と同じく信長公の才知を見抜けず、信長公実弟の信勝公を担ぎ出し謀反した。しかし圧倒的な多数である自陣が幾度も少数の信長公の直属部隊に敗られた事から、信長公に服従した。その後、信勝公が再度謀反を企てると信長公に内部告発し信勝公誅殺事件の発端を起こす。
信勝公が粛清されて以降は信長公の支配体制が確立された功績により処罰されなかった。
信長公からは、その後も暫く信頼されておらず「桶狭間決戦」や「美濃攻略戦線」には裏切りの懸念からか活躍の場を与えられなかった。
信長公が尾張美濃から反乱分子を駆逐して柴田勝家から反乱要素が無くなった後に大将格として起用された。
戦術は堅実で機略には富まないが、指揮官としては一流の実績を残している。又、今日の福井市の基盤を築き上げた人物で内政力が高かった。
精神的には常識人で真面目だったのかも知れない。内面は凡人のそれかも知れないが、実績的には名将の部類。でも天下の奇才では無い。織田家を主導しよう等と身の丈に合わない権力闘争をした事が彼の不幸。
信長公に使われて何ぼの名将。

織田家の元来の家臣団は根拠地が今の名古屋周辺の愛知郡や、津島市や弥冨市辺りの海部郡でした。
しかし、その地は今挙げた様な信頼出来ない家臣団の領地だったのですが…
まぁ、今の名古屋人がどうかは知りませんが当時の名古屋人は多数派=常識と言う意識が有ったり、忠誠心と言う概念が皆無で利己的な人間が多かったり、信長公や秀吉の出身地なのに革新的な意見には否定的な思想が定着していた様です。
要するに、名古屋周辺の織田家重臣はこんな連中ばっかりだったので、初期~尾張統一直後の織田信長公は、まだまだ、その愛知郡や海部郡の旧来の部下達を信頼して運用出来る状況では無かった訳です。

その状況を打開する為には、敵対者から領地を奪い直接、御自身の信頼できる仲間に領地を与えて御自分の親衛隊を組織する必要が有った訳ですね。
では、小牧城周辺にはどんな地名が有るか衛星写真で見てみましょう…
※写真をクリックして画面を拡大して見て下さい!地名と史跡名が記載して有ります。
信長公家臣団配置図
…木下藤吉郎秀吉が任せられた実質本体だった部隊に当てがわれた土地が、今の愛知県小牧市~江南市~一宮市だった事が丸っと解りますね。
地図上に表示した地名と施設名を説明しましょう。
●右側 織田家:小牧城
…信長公の本拠地で、周りに旧来の重臣は配置されていません。
●中心 生駒家:小折城
…信長公の事実上の本妻の生駒吉乃様の実家、生駒家の居城です。
生駒家は後に豊臣秀吉の家老としても活躍しますが、そもそも豊臣秀吉は名前が木下秀吉だった時代に小折城で生駒家に仕えて鉄砲頭を務めていました。秀吉と信長公の関係は生駒吉乃様を通じて結ばれた主従関係だった訳です。
●小折城西側 祖父江家:津島神社
…ここ一帯は織田家が崇拝した津島大社宮司家の祖父江(そふえ)家の一族の子孫が多く現在も住んでいます。当時の神社は武装した軍事集団でもありました。吉乃様の火葬された場所である田代墓地には祖父江家子孫の墓地も在ります。この地域に隣接した岩倉城主の岩倉織田家の旧臣だった山内一豊(やまのうちかずとよ)の家老を務めた祖父江 勘左衛門は、地域的にこの一帯の出身だった事が推測できます。
祖父江勘左衛門の主君の山内一豊は後に木下秀吉が出世すると大名に取り立てられています。
●左下側 千秋家:千秋(せんじゅう)町
…千秋と言うのは織田信長公を支援した熱田神宮の宮司家である千秋家の苗字です。
千秋家の中でも千秋季忠(すえただ)公は桶狭間合戦で信長公に味方し、揺動部隊として囮に成り今川軍を引き付け討死にされました。その活躍で信長公本体が今川義元公本体への直接強襲に成功し織田家が勝利しました。
左端 浅野家:浅野城
…後にこの一帯の国人衆の統率を任された木下秀吉の嫁である浅野寧々(ねね)様の義父である浅野長政公の元々の居城です。この浅野城は織田家小牧城、生駒家小折城を除いた信長親衛隊軍団の城館では最大規模でした。つまり秀吉は、嫁の義父の軍事力を背景に周辺の信長公親派の国人衆の統率を委(ゆだ)ねられていた事が解ります。
小折城北東 堀尾家:堀尾屋敷
…後に木下秀吉の重臣となり大名に取り立てられる堀尾吉晴の邸宅跡です。現在もバス停に「堀尾前」と残っていて、邸宅跡には堀尾神社が在り、彼の出身地で有る事が伝えられています。堀尾吉晴は元々は山内一豊と共に岩倉織田家の重臣だった。木下秀吉旗下では貴重な生粋の武士。
上側 前野家:前野長安屋敷
…館主の前野長安公は、木下秀吉の初期の実務官僚で数少なかった生粋の武士、軍事指揮官。
彼も又、山内一豊や堀尾吉晴と共に岩倉織田家の重臣だった。数々の作戦を成功に導いた名将で秀吉の名将の一人だったが、豊臣秀頼が生まれた際に、秀吉の甥っ子豊臣秀次の家老を務めていたので秀次の存在が邪魔になった秀吉によって切腹させられてしまった。
最上部 蜂須賀家:宮後城(蜂須賀館)
 …木下秀吉の初期の参謀で実務官僚の蜂須賀小六正勝公の最初の居城。蜂須賀小六は数々の実現困難な軍事作戦や土木工事を成功させた名官僚で指揮官としても一級の名将だった。秀吉の功績の大半は彼の能力による。清州城城壁の修復事業、墨俣一夜城(砦)の建設事業の手配と指揮、鳥取城の兵糧攻めでの鳥取城下の米の買占めや経済封鎖などなど…
彼が存在していなければ、秀吉は出世出来なかった。

もうここまで見て貰えば解ると思いますが…
つまり、小牧城を築城し居城としたのは裏切る可能性の有る家臣団優位の政治体制から、御自身の親派を居城中心に配置出来る政治体制に移行する目的が有ったと思われます。
…この事は今も、その地域の地名が物語っているのですが、文献しか読まない行動力の無いタイプの学者様にゃ幾ら文章ばっか追いかけても永久に気が付けない事なんです。
勘の良い歴史好きな人は、これだけ読めば織田信長公が何故、当初は協力者だった岩倉織田家当主織田信安と対立する事に成ったかも解ると思います。
織田信長公の親友達が岩倉織田家家臣だったので、信長公が政治基盤を強固にし始め尾張を統一する頃から岩倉織田家の家臣団は直接信長公に従う様に成ってしまい、事実上岩倉織田家が解体されるていく状況から危機感を抱いた織田信安が反旗を翻してしまったのは有る意味不幸ですね。

これらの事実から、信長公は身分や元の敵かどうかに関わらず、信頼出来る人間を見抜き登用した公平な方だったのが見てとれるのではないでしょうか?

この後、民族資料館の学芸員サンから貰いうけたレポートのコピーで生駒家の居城、小折城を解説しようと思ったのですが…
小折城縄張り図
これね。
でも、これ見て、GoogleEartnの衛星写真で検証してもスッパリ!照合出来ないんですよ!
なぜかと言うと、この地域は明治時代以降に稲作の生産量を向上する為に土地改良をしてしまっているので、本来なら堀の名残りを辿(たど)れる用水路や農道や幹線道路が全く当時と違う配置に成ってしまってるんですよね…
一応、国土地理院の昭和40年代後半~昭和50年代の航空写真も閲覧したのですが全く解らない!
小折城縄張り
これ現在↑の城址のはずの一帯。
地名に田代(たしろ=田城)と在るのは、池沼や河川に囲まれた縄張りの平城だった小折城は恐らく江戸時代には曲輪の多くが水田化されていたからでしょうね。
一応、少しでも昔の地形を辿ってみようとした努力の跡を見て、許してください(泣)。
丸1日あ~でもない、こ~でもないってやってましたが無理でした!
これ↓昭和後期の周辺航空写真
小折町上
小折町下
小折町西
もう、明瞭な航空写真が有る時代には、この付近、完全に農地改良の完了後だったみたいで、これ、全く縄張り図が有っても手がかりが掴めないんです。

10年前位に、数日間この江南市を歩き回った当時に写真撮影したのはガラケーだからもう写真引っぱり出せないし…
ですから又、御類様のお墓参りも兼ねて来年訪れてみます。
現代の航空写真と比較して小折城の縄張りが解る資料が無いか、ちょっと郷土資料館の学芸員さんにも問い合わせてみます。

今回はここまでで許してください(泣)。
資料いろいろ引っ張ってきて見たんですがね、レポートの縄張り図では現在の地名も載ってないので航空写真と整合出来ませんでした。

生駒家の居城の解説は現段階では詳しく出来ませんでしたが、とりあえず、信長公が奥さんをとても愛していた事や、とても家族を大切にした事、でも親族だけでなく血縁や出身にとらわれず信頼出来る友人達を自分の懐刀として居城周辺に配置していた事実は伝わったでしょうか?
信長公は実際は法治主義者、経営者としては厳しい方でしたが、為政者としては稀有な情に厚く庶民との距離が近く個人的に愛情にも溢れた方だった訳です。

この続きは、現地で写真バシャバシャ撮影したら、信長公没後の生駒家の歩みとかを解説しながら写真載せて報告します!

この記事はここまでで…

次回は神奈川に話しを戻して記事を書きます!

信長公の自害の直後、御遺骸の一部が埋葬された寺院が実在する事を皆さんは御存知でしょうか?
その御寺の名前は蓮臺山(れんたいさん)阿弥陀寺(あみだじ)と言う、京都市上京区(左京区との境界近く)に現在も実在する御寺です。
実は信長公は本能寺で間違いなく自害しています。
死後、数日と経たずに信長公の御遺体の一部が葬られた阿弥陀寺
の住職に当時の朝廷の勅使が来て「信長公本廟」として認定を受けているんですね。朝廷公認なので疑う方がオカシイ訳です。
先ずは御寺その物の説明からしたいと思います。

阿弥陀寺は度重なる火災で、信長公の遺品も焼失し、御寺の御堂も安土桃山時代の建物ではありません。
しかし、明治時代にも調査が行われ改めて信長公御本廟として認定を受けているんですね~。
image
上の写真が現在の阿弥陀寺の山門です。
この日は台湾人の友人夫妻と訪れました。

間違いなく信長公の御本廟で朝廷公認なのですが…
現在の規模はそんなに大きくありません。
元は今の京都市北区の蓮台野と地名が残る地区に在る大規模な寺院でした。
阿弥陀寺と相国寺比較
現在では、豊臣秀吉の嫌がらせで元の場所から強制移転させられた挙句(あげく)、規模まで縮小されてしまった為です。
何故、秀吉に嫌がらせをされたかと言うと、この御寺の当時の住職だった玉誉清玉和尚が信長公の遺骸を秀吉に渡さなかったからなんですね。
2011-03-16-12-42-16
実は、信長公は切腹された後、家臣達に自分の身体を火葬する様に指示していました。
首は…
首は首で、静岡県の西山本門寺に、信長の囲碁仲間の本因坊算砂によって葬られたと伝わっています。
小生、個人的に、この本因坊一門も信長公暗殺に一役買っていたんじゃないかと思ってしまう事が有るんです。
本因坊算砂の弟子の本因坊算悦の更に弟子の「本因坊道策」が毛利家に召し抱えられていた事実が有るんですね。
毛利家は信長公を勝手に逆恨みして暴走した室町幕府最後の将軍「足利義昭」が頼った先でもありますし、信長公の没後、あれ程、信長公には抵抗したのに、秀吉とはアッサリと不可解に深い協力関係に成っていますからね。
本因坊道策の時代は1600年代中期~。つまり、徳川家の天下が定まって織田家が台頭する心配が完全に無くなった時期、しかもまだ3世代目で前時代の影響が色濃く残る面も有る時代に堂々と毛利家から給料を貰っているんですよね。
…まぁ、本当に囲碁の腕を見込まれたのかも知れませんが。
それはさて置き、信長公の御本廟阿弥陀寺の玉誉清玉和尚は、明智光秀の謀反、本能寺急襲の際に信長公の身を案じて一番最初に駆け付けた人物でした。
当時の僧侶と言うのはとても特別な権威を武士達からも認知されていて、合戦の最中でも攻守勢力に関係無く双方を説得する為に往来する事が認められていたのですが、玉誉清玉和尚は明智光秀の軍勢の包囲の手薄な門の兵士を説得し本能寺の中に進入します。すると、燃え盛る本堂とは別の当時広大な境内を誇った本能寺の奥の竹林で焚火をしている織田方の武士を見つけ、何をしているか問い詰めると「信長公の名で御遺骸を荼毘にふして誰か解らない様にする様に命を受けた」と言うので、その武士に「遺骸は引き取るから家臣として存分に最後の戦いをして来なさい」と言う主旨の事を言うと、信長公の家来達は和尚に感謝して敵勢のいる場所に向かったそうです。
その後、玉誉清玉和尚は信長公の遺骸の一部を隠し持ったまま同じ様に二条城にも侵入し、織田信忠公等の遺骸の一部を持ち帰り供養したそうです。
そして、これが当時の朝廷公認の事実であり、明治政府に再公認された事実でもあります。
2015-10-04-15-52-31
※上の写真は阿弥陀寺の山門前にある、当時のあらましを説明した看板。
何故、秀吉が信長公の遺骸を引き取らせてくれなかった阿弥陀寺を移転縮小したのかですが…
それは秀吉自身が織田家を乗っ取る心算(つもり)だったので、後継者として権力を掌握するには織田信長公の葬儀の喪主を務める必要が有り、当然、信長公の御遺体が必要だった訳です。
別に忠義で信長公の供養をしたかった訳じゃありません。
しかし、信長公に忠義を尽くす玉誉清玉和尚は秀吉にとうとう信長公の遺骸を渡さなかったんですね
秀吉が織田家を乗っ取ろうとしているのが見え見えだったんじゃないでしょうか?
結果的に強引な性格の秀吉は信長公の遺体の代わりに香木で信長公の彫像を作り仮火葬しました。
…そうまでして喪主を務めたかったんですね。
本来なら信長公の御嫡孫「三法師」君が喪主、三法師君の叔父である織田信雄公が代理を務めるのが筋です。
秀吉は意地でも織田家を乗っ取りたかった訳です。 

もう、コイツは反逆者明智光秀と同罪でしょうね。

そんなこんなで、玉誉清玉和尚に仕返しをしたかったであろう秀吉ですが、朝廷公認の信長公御本廟なので取り潰す事も出来ず、阿弥陀寺の強制移転規模縮小と言う形で玉誉清玉和尚に仕返しをした訳なんですね。

玉誉清玉和尚が織田家に忠義を尽くした理由ですが…
和尚の母上が和尚を妊娠中に生き倒れに成っていた所を、信長公の異母兄の織田信広公により助けられたので、和尚は此の世に産まれたんです。
和尚の母上は和尚を出産後間も無く亡くなってしまいましたが、和尚は更に織田家の支援で御寺で出家し和尚様に成るまで育てられたそうです。
だから、織田家と信長公に大恩を感じて忠義を尽くされた訳です。
実に庶民と距離の近かった織田家と信長公らしいエピソードです。

ところで、現在の規模がどんな感じか、御近所の大規模寺院の相国寺さんと比べてみましょう。
阿弥陀寺と相国寺比較
…右上に阿弥陀寺、左半分が相国寺。本来の阿弥陀寺なら相国寺と同規模とまではいかなくても、もっと巨大な境内を持っていたはずです。
ところで、阿弥陀寺の在る、斜め「\」左に傾いている道筋を「寺町通り」と言います。
秀吉が京都を再整備した際に、秀吉が「謎」基準で多くの御寺や神社を、その通りに並べて移転させたんですね。
阿弥陀寺付近は秀吉にとって「タブー」の隠したいものが沢山あります。
例えば…
秀吉が見殺しにした名将「山中鹿之助(しかのすけ)幸盛(ゆきもり)」の廟所のある「広布山本満寺」。

当時、世間の風俗を乱すと考えられていた「ややこ踊り」=歌舞伎の原型の色っぽい踊りの創始者である「出雲の阿国(おくに)」が幼少期に巫女さん見習いとして働いていた、当時の「出雲路(いずもじ)=出雲に通じる街道」に在った「出雲路幸神社」。
出雲阿国が通説では出雲大社出身とされていますが、ここにくれば、実際は「"出雲"路幸神社の出身の"阿国"さん」だと言う事が良く解ります。
…歴史はね、特に郷土史レベルでは実際に歩いて回らないと解んない事が多いんですよ(笑)。
で、歩いて見ると秀吉の「ドロドロと澱(よど)んだ薄暗ぁ~い性格」が一目瞭然、解ったりする訳です。
勿論!秀吉も偉大な人物である事には間違いないですが、小生は秀吉を好きな反面「大っ嫌い」だったりします(笑)。

まぁ~小生の秀吉に対する主観は置いといても、秀吉と信長公のイメージは、実際は真逆に入れ替えた方がより実像に近いんですよ。
と、言うか、家康公の「忍耐強いイメージ」と、秀吉の「明るい性格と強引なイメージ」を足したのが実際の信長公に近いと思います。
家康公の実際の性格は「人を見ぬく力が強く、冷血で執念深くて、反面宗教に熱心」と言う所でしょうか。
実際の秀吉は一般的に認識されている「明智光秀の印象に近い」と思いますよ。
これ↓も秀吉の肖像画。
秀吉はね…
「若い頃は友達の縁故で出世」
「中盤は信長公の親戚として出世」
「晩年は金で役職買って出世」
「自分より与力武将達が優秀」
「計算高い」
「カリスマ性は無い」
「上役にイエスマン、部下に丸投げ」
「無茶振り営業担当者」
…と言う所でしょうか。 
秀吉の実力じゃなくて、生駒家の財力、蜂須賀小六政勝の采配、前野長安の人脈、竹中半兵衛重治の智謀、養子で信長公の御実子於継丸様の存在…
それを信長公の事実上の正妻生駒吉乃様から仲介されて得たからの出世でしょう。
まぁ、「油売りの商才=営業力と金勘定」と「ブ男なのに女を口説く力」は、ずば抜けていたんだと思います。
2015-10-04-15-53-29
上の写真は阿弥陀寺の本堂です。
本来、信長公の御本廟でしたら巨大でも可笑しくないのですが、先述の通り何回も火災に遭った上に、根本的に秀吉に境内を縮小された為に現在の規模に成っています。
…関東なら十分立派な規模に数えられる御寺の建築物群を有しているのですがね。
ところで織田信長公の遺骸が埋葬された事実がある事を、多くの小説家は「信長ミステリー」を作り出す為に語りたがりません。
自分の小説が面白ければ良いと思う
外道作家が世に蔓延(はびこ)っているせいで世間に誤解を与えてしまっている訳です。 織田信長公は多くの小説家が自分の小説を面白くする為に、よく調べもせず適当に書くので冷淡な人物に描かれたり又は短気で変な人物にされている事が多いですね。
ちゃんと自分の足で歩いて現場を検証したり、地元の人に地元にしか残らない伝承を取材しているのは司馬遼太郎先生と黒田基樹先生くらいかも知れません。
作家兼学者さんの方が、大学のへっぽこ歴史教授よりよっぽど研究も現地検証も郷土伝承研究もされてます。

…あと、御二人の1000分の1以下くらい小生も歩き回ってる郷土史好事家だと思います(笑)。
小生は歴史学者ではありません。あくまで郷土史と郷土料理食べ歩き専門オタクです。

学者の中には文字ばっかり追いかけて、その実、現地を一度も訪れた事が無い!な~んて脳の腐った歴史学者も大勢います。
信長実像は「短気でも無ければ冷淡でも無い」と言う、小説やTVドラマしか見ない人には意外な姿が見えて来ます。
それは次回の小牧城周辺の説明をする記事で地元の伝承等を交えながら詳しく話そうと思います。

さて、阿弥陀寺は蓮台野に在ったので山号が「蓮臺山」です。
2015-10-04-15-54-01
本堂の扁額に書いて有るでしょう?
境内には立派な植木も有りますが、小生、余り植物に対する知識が無いので何の樹なのか解りません(笑)。
2015-10-04-15-53-16
阿弥陀寺は現在、本堂こそ普通の大きさですが、庫裡(こり)は立派な規模を維持していました。
2015-10-04-15-53-11
庫裡と言う漢字の意味は「倉庫の中」と言う意味ですが、プライベートスペース=一般立ち入り禁止の場所ってな意味からか、日本では御寺の事務所や和尚様家族の居住スペースを指す言葉に転化されました。
御朱印を頂きに上がり庫裡に伺い、更に織田信長公と関わりの有った横浜の殿様「間宮家」の顕彰文を御寺に奉納させて頂きました。
小生は実は、この付近に若い頃御縁が有って住んでいたので、織田信長公の崇拝者としても何回か御参りさせて頂いており、阿弥陀寺は小生にとって大切な場所でもあります。
※信長公と関係の有った横浜の殿様の間宮家の事績を紹介した記事は「ココ」←クリック!
来年の信長公の追善供養に参加するように御寺で言われたので、是非及ばず、当然参列させて頂きます。
…仕事休んでも行く!

織田信長公や御曹司(おんぞうし=跡継ぎ)の織田信忠公の御廟所は下の写真、本堂と庫裡を結ぶ渡り廊下の奥にあり、庫裡で御寺の方に一言、信長公の御廟所を御参りしたいと伝えれば誰でも拝ませて頂けます。
2015-10-04-15-54-44
どうですか?
歴史って、三文小説なんか読んでも筆者が面白く脚色してるから真実とかけ離れている事や、古文書ばかり読んでいても自分の知りたい情報ばかり無意識に選んでしまうから、実際にその場所に赴き、周囲の一見無関係そうな歴史史跡も回って観察するのがどれだけ大切か伝わりましたでしょうか?

逆に言えば…
何気な~く普段散歩して、道すがら在る今は小さな皆さんの御近所の神社仏閣も、実はとんでもなく大物の歴史偉人と所縁(ゆかり)が有ったりするものなんですよ~♪
だから、皆さん、地元に愛着を感じたら、是非!御近所の神社仏閣や城跡の山を散歩してみて下さいな!
そして、立っている説明看板を読んでみると、すごい発見が有ったりするかも知れませんよ~?

歴史や文化は学者が守って来たのではなく、神社の宮司様や氏子さん達、御寺の和尚様や檀家さん達がずっと守って下さってるんですよ、だから御寺や神社を散歩すると、その裏山の自然や庭園や彫刻の美しさに心が癒されるだけでなく少しだけ昔の人と時空を超えて繋がる事が出来る場所でもあるんですよ~♪

では!又、次回の記事で御会い書ましょう!
次回は信長公の本当の性格を、信長公とその奥さん吉乃(きつの)様の実家の周辺に伝わる御二人に関する歴史事実と逸話で解説したいと思います。






神奈川県横須賀市に、欧米諸国と南米諸国、アラブ中東諸国、アジア諸国から、ロシア帝国主義を打破した象徴として称賛された第一次世界大戦時の日本の海軍、連合艦隊の旗艦「三笠」を皆さんは御存知でしょうか?
実はその三笠、前々回の記事でも触れましたが「世界三大記念艦」として数えられているのですが…
image
実は横須賀市の「三笠公園」に今も「世界各国からの後押しが有り」保存、展示公開されています。
因みに世界三大記念艦とは…
●大英帝国海軍…ヴィクトリー号
●アメリカ合衆国海軍…コンスティチューション号
●日本の明治政府時代の連合艦隊旗艦…三笠
…以上の三隻です。政治的に帝国主義打破、軍事的に稀有な戦果を挙げた名戦艦で、現在も記念艦として保存されているものを指します。
※そこら辺りの内容は前々回の記事リンク「ココクリックして御覧下さい。
(前々回の記事は左翼と右翼が両方発狂する内容ですので閲覧注意!)
※以下イギリス国名を「英国」と呼称します。
2015-10-28-14-01-15
今回は、その戦艦三笠の構造や性能、外観そのものを御紹介差し上げたいと思います。
まず三笠の正面から見た様子です。
image
全幅23.2m 喫水8.3m
現代の艦船と比べると、余り大きさは有りませんね。
しかし、ペリー提督がアメリカから乗船して来た時代は木造蒸気船の戦艦だったので、英国の産業革命の偉大さが良く解ります。
因みにこの「三笠は完全な英国製」です。英国は明治政府の近代化を支援して下さっており、英国から軍艦の購入のみならず、太平洋戦争でも活躍した「金剛」の購入時等には建造技術も日本に教授して下さいました。
その後、不幸にも日本は陸軍の暴走により外務省の努力空しく英国との同盟が破たんしてしまい、敵味方に別れてしまいました。

後部はこんな感じ…
2015-10-28-13-49-29
全長131.7m
思ったより船体は背が低く見えますね。
戦艦なのですが、当時の戦艦は全長も現在のイージス艦より小さかったんですね。

現代艦と比較するのはオカシイ話ですが、明治時代の名戦艦と現代の名艦船で色々比べて見ましょう。
日本帝国海軍 戦艦 三笠
全長131.7m
海上自衛隊 護衛艦 こんごう
全長161.0m 
この時代の動力では、この大きさを動かすのが限界だったのでしょうか?
では、エンジンの性能差は? 
三笠
出力: 15,000馬力 
最高時速:33km
航続距離:12,964km(時速18km) 
乗組員:860名
こんごう
出力100,000馬力 
最高時速:55km~ 
航続距離:11,112km(時速36km) 
乗組員:300名
…明治時代の戦艦なので、やはり現代艦とは技術の差を感じますね。

しかし、現代艦が当時の戦艦に劣っている部分も有ります。
それは装甲の厚さです。現代の艦船は当時の戦艦の砲撃の直撃を受けたら大穴空いて沈没します。
これは海戦が直接砲撃合戦から、装甲など意味を成さないミサイル爆撃に戦術が変化した為に現代艦は頑丈な装甲を必要としなくなった訳です。
2015-10-28-14-37-04
これは前部指令室塔を守る装甲ですが、33cmの厚みが有ります。
もし、ミサイル無しで明治の戦艦と平成の護衛艦が主砲だけで打ち合いしたら、護衛艦が瞬殺されるでしょう。 
ただしミサイル撃ち込まれたら三笠も1発で沈みますが…。

砲撃戦闘をする時代の戦艦なので、側面はハリネズミの様に大砲だらけです。
2015-10-28-14-06-30
主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
凄いでしょ?
しかも、この大砲、コンピュータの無かった時代なので当然手動です。
では、この副砲の射撃はどの様に行われていたかを覗いてみましょう…
2015-10-28-14-23-04
1人が照準を合わせ、更に大砲を腰と両手を使って動かします。
1人は弾薬の装填と砲撃。
1人は弾薬の準備でしょうかね?
…超肉体労働かつ数学のクイズを永遠とやる状態。絶対にやりたくない。てか、そんな体力も根性も無い。
しかし当時の人は、体と頭と精神をフル稼働して日本人を守って下さった訳です。
因(ちな)みに、ロシアやソ連と交戦して負けた場合どんな事に成るかは「尼港事件」と言うのを調べれば解り易いかと思います。先人がロシアの植民地化に抵抗し日本海海戦で勝って下さったので現代人はコンビニで御菓子買ってTV見ながらのほほんと生活出来たり、日本や海外の伝統文化を楽しめる訳です。
もしロシアの植民地に成って、その後ソ連にでも成ってたら共産主義独裁政治で民主主義選挙政治は無くなり、伝統文化弾圧や報道規制が行われ、計画経済で商売も自由に出来なくなり、オシャレも楽しめない無文化時代に成っていた事でしょう。

少し脱線しましたが、この副砲のパーツ毎の写真も載せます。
2015-10-28-14-21-19
この手前の輪っかみたいのに腰を入れて左右に動かします。
左上の立て板は、肩を入れて動かす為の物だそうです。
2015-10-28-14-20-18
砲身の後ろには弾を込める蓋と、操縦の為のグリップが有ります。
2015-10-28-14-20-11
このハンドルを回すと、砲身が上下に動きます。
そのすぐ上にアナログの照準と言うか…
2015-10-28-14-20-03
敵艦の距離を計算し、砲弾の射出角なんかを自分で計算する為の機材が有ります…
多分、昔の人の方がPC任せの現代人より、よっぽど頭良かったんだと思います。
…本当に凄い。

この口径15.2cm副砲が14門有り、下層階には更に20門の対水雷艇砲が有る訳です。

因みに手前の側面赤い階段が記念艦三笠への出入口です。
拝観チケットは、三笠公園入ってすぐの売店の自販機で販売しています。
入口階段の傍には、当時の色んな戦艦の砲弾が展示されています。
2015-10-28-14-06-11
世界最大の戦艦、大和の砲弾。
2015-10-28-14-08-32
明治政府時代の海軍と交戦した、満州族政府の中国清朝の戦艦鎮遠等の砲弾。
入口を上がると、後部主砲が出迎えてくれます。
2015-10-28-14-11-29
ベンチが有りますね。
主砲には三笠が参戦した海戦の戦歴が銘板に刻まれています。
2015-10-28-14-11-59
その下には、三笠の砲弾が展示されていて、実際に大きさを間近で体感できる様に成っています。
2015-10-28-14-11-49
でも、これだと良くわかんないでしょう?大きさ。
だから…
2015-10-28-14-12-11
…小生の靴を置いて比較してみました(笑)。
小生は足のサイズ28cmです。
だいたい砲弾は全長90cm位ですかね~?
2015-10-28-14-12-47
この砲弾に使われている下瀬火薬と言うのは、後の「焼夷弾」の様な性能を併せ持った艦船を「焼き尽くす」画期的で凄まじい兵器だったそうです。
もし、この主砲を現在ぶっ放した場合…
2015-10-28-14-13-32
射程距離は現在でも、とんでも無い範囲ですね。
10kmも先の標的を狙い撃ちに出来るようです。
関西で例えるならば…
京都駅から宇治や大山崎辺りまでバンバカ狙い撃ちにされる様な感じですかね。

大阪駅とか梅田駅からだと…
住吉大社や尼崎辺りまで正確に狙い撃ちされる感じですね。
…現代人の感覚でも凄まじい。しかもアナログ計算。明治の人間の脳内コンピュータ恐るべし。

所で、この後部主砲は皇族の伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王が指揮官として黄海海戦時に任務に当たった場所です。その際に伏見宮閣下(当時は軍人だったのでこの尊称を用います)は負傷しました。
また、次の記事で書こうと思いますが、戦艦三笠でも沢山の将兵が戦死しています。
2015-10-28-14-28-15
戦争と言うのは日清・日露戦争の様に必要な防衛の為の戦争も有りますが、三笠は日中戦争や太平洋戦争の様に回避する努力を優先するべき戦争が有る事も考えさせられる場所です。
戦死した方々を含めた先人の御蔭で、日露戦争では日本はロシアの植民地に成らずに済みました。
しかし軍隊が、侵略側に回るか国民を守る側に回るかは政治家次第なので、しっかり国民が中道保守派の政治家を選ばないといけない事も解る場所が、この記念艦三笠なんだと思います。

因(ちな)みに、この後部主砲で活躍された伏見宮閣下の「皇族伏見宮家」ですが、幕末に勅願所(ちょくがんじょ=祈願成就のお願いをする神社仏閣)を福井県の「剣神社」と定めていました。
実は、福井の剣神社の宮司家の御子孫が織田信長公で、剣神社の最初の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)=牛頭天王でした。
2011-03-16-12-42-16
ですので織田家は、愛知に移住後も牛頭天王を祀る津島大社を大切に保護されていました。
なぜ、伏見宮家と織田家の話を出したかと言うと、実は織田信長公は御自身を「第六天魔王=第六天神」と武田信玄との文通の喧嘩の中で自称した事が有るのですが、この三笠公園からそう遠くない隣町の横須賀市田浦町には今上天皇(現在の天皇)陛下の御誕生を祝して造営された梅花の名所「田浦梅林」が在ります。
2015-03-07-15-41-32
その田浦梅林の発祥地は第六天神社の小さな御社(おやしろ)の在る場所です。
そこから第六天神は横須賀の港と市民を見守って下さっているんです。
つまり…伏見宮家⇔織田家⇔第六天神は横須賀と三笠でも御縁が有る訳です。
※以前書いた田浦梅林の風景紹介記事リンクは「ココクリック!

さて、話を三笠の構造と装備に戻します。
主砲がどんな大きさなのか、見て貰いましょう。
下は前部主砲の写真です。
2015-10-28-14-31-33
解り難いでしょうか?
真上から見るとこんな感じ…
2015-10-28-14-32-47
まだ解り難いですかね~?
2015-10-28-14-55-40
艦橋(かんきょう)と言う場所から見た前部主砲。
では正面から…
2015-10-28-15-01-28
横に居る人と比べると、主砲の砲台がメチャクチャ大きい事が御理解頂けるかと思います。
今、艦橋と言う施設に触れましたので、その構造物の説明をしますと…
三笠の前後の主砲付近には「艦橋」と呼ばれる構造物が有ります。
下は多分、後部艦橋の写真です。
2015-10-28-14-07-26
艦橋の下の大砲は主砲じゃなくて副砲です。
後部主砲はテントの屋根の下の先に有ります。
この環境と言う場所が、交戦状態の時に司令官や参謀達が居る場所です。
ここから双眼鏡を使って状況を観察しながら作戦を調整して、伝令用の配管から乗組員達に命令を伝達する訳です。
つまり指揮を執る場所です。
現代の自衛隊の艦船や太平洋戦争中の艦船の「艦橋」も高所に設置されていますが、現在ではちゃんとした指令室に成っており屋根の有る部屋の構造物に成っています。
明治時代当時の艦橋は、この様に文字通り艦「橋」つまり、艦船に設けられた橋の様な構造物で、雨ざらしだった訳です。
当時の将校は風雨に晒され、敵の砲弾が海水に着弾する轟音と自分の乗艦の射撃音の中で良くも冷静に指揮を出来たものだと、頭と精神面の弱い小生は感服するばかりです。

下は前部艦橋です。
2015-10-28-14-30-53
ここが、日露戦争の時に東郷元帥が指揮を執った場所です。
艦橋下部の円筒形の部分が「装甲の厚さの説明」で先に紹介した司令塔です。
司令塔とは書いて有りますが、中は船の舵を執る操舵室(そうだしつ)に成っています。
2015-10-28-14-32-04
後部司令塔は艦橋が敵砲撃で危険な際の指令室の役割を果たす場所なのだと思います。
舵を切る操舵(そうだ=ハンドル)の前に有る真鍮製の円筒形の物は方位磁石です。
方向定めるのに必要ですからね。
この方位磁石は操舵室の他に、司令官が指揮を執る前後艦橋にも有ります。
2015-10-28-14-26-25
上は後部艦橋の方位磁石。本来、正面から見れるのですが、何故か板で蓋をされていました。
下は前部艦橋の方位磁石。正面から見れる様に成っています。
2015-10-28-14-55-24
ついでい艦橋の設備を説明します。
2015-10-28-14-52-01
写真に撮り忘れて面目ないのですが、艦橋の方位磁石と反対のマスト寄りの方には敵艦との距離を計測する機材が備え付けられています。
2015-10-28-15-00-57
艦橋の下、箱状の部屋に成っている場所は正規の操舵室と、後方が海図室です。
つまり航海士がそこに詰めて、現代ならGoogle Earthや人工衛星の様なコンピュータソフトを用いる様な事を人力で地図を見ながら計算し「脳内作業で海上ナビを行っていた」訳です…
凄いですよね、本当に、昔の人達の頭の回転。
海図室はこんな感じです…
2015-10-28-14-52-28
完全に事務室。
操舵室はこんな感じ。
2015-10-28-14-53-13
先程、司令塔にも同じ操舵設備が有りましたよね…
多分、どちらかが敵の砲撃で損傷したり人員が被弾戦死しても、機能維持出来る様に予備施設として二つ準備されていたんだと思います。PCで言う所のバックアップですかね。
それにしても、当時の機材はどれも工芸品の様にきれいですね~。
流石、英国製!
…でも、この艦橋、戦後にアメリカやイギリスや台湾の後押しで復元再建した場所だから現代日本の物かな(笑)?そこら辺はよく解りません。もしかしたら、敗戦後の甲板上部構造物撤去時に米軍か海上自衛隊で保管していたのかも知れませんしね。

この艦橋からは明治時代に作られた要塞で、現在は東京湾の有名な無人島でキャンプ等レジャー施設として利用されている「猿島」が綺麗に見えます。
2015-10-28-14-35-14
つまり、この眺望が無いと戦況は確認出来ないので、艦橋=指令所だった訳です。

さてさて、司令塔周りは何となく御理解頂けたでしょうか?
では、甲板の構造物に話を移します。
三笠は入口から入って来た辺りに通信室が有ります。
艦の真ん中より少し後ろ位でしょうか?
2015-10-28-14-14-48
この写真じゃ良くわかんね~な…
じゃあ、↓こっちで。
2015-10-28-14-15-26
ここでモールス信号使って、世界中の中継地を使いながら日本本土の参謀本部や仲間の艦隊とやりとりしてたんですね~。
2015-10-28-14-15-16
…実は戦国時代の横浜市南東部の殿様、間宮家の顕彰活動で情報を提供して頂いた家臣の御子孫が太平洋戦争中に学徒動員で輸送艦の乗組員に成ったそうなんですが、その方はモールス信号の試験に合格した御蔭で通信兵として輸送船で、この役割を担ったそうです。
御話では、確か1週間位の学習期間で1発合格しないといけないそうです。
難関ですよね。
もし、試験に不合格だったら前線の水兵に成って戦死されていたかも知れませんね…
人間の運命なんて、本当にそう言った僅かな差や出来事で大きく左右される理不尽で無情な物なんですよね。
逆に僅かの差で大きな幸せを掴んだ人もいる訳です。
小生はこの通信室を見て、そんな事を思いました。

船の通信と言えば、艦隊編成で航行中に仲間の船と連絡を取り合う手段があと2つ有りますよね!
一つは手旗信号…
小生詳しくないですし、資料写真も無いので手旗信号はスルーします(笑)。
もう一つが「照明」によるモールス信号ですね。
その照明設備が下の写真です。
2015-10-28-14-25-16
電波通信が妨害されたり不具合生じた時に仲間と目視で連絡を取り合う手段です。
艦橋と確か甲板にも有ったような樹がします。
2015-10-28-14-25-32
又、艦橋の写真ですが、この通信も風雨に晒された中で行う作業なのでさぞかし大変だったと思います。
戦艦三笠は「尼港事件」の時に極寒のシベリア方面にも「邦人とアメリカ人・ロシア系一般市民の救出」に向かった事が有るのですが…
その際、流氷に阻まれて氷原の中で立ち往生した事が有るそうです。
当時、甲板で勤務された将兵は、さぞ辛かったろうと思いますが、小生と違って誰も弱音なんか吐かなかったんでしょうね…。
小生はつくづく現代でしか生きれない弱い魂の持ち主だと思うばかりです。しかも、こんな平和な時代でも生き辛いと感じてしまいます(笑)。海外で感情表に出して言いたい事言って良い環境で生活してる方が楽だったな~とか留学中の事も少し思い出してしましました。
2015-10-28-14-59-09
甲板を写真左側前部主砲の方から船尾の方までパノラマ撮影するとこんな感じに見えます。
多分、主砲を撃つ時に砲身の直ぐ近くにいると衝撃波で目玉が飛び出たり鼓膜が確実に破けると思います。
第2次世界大戦時の世界最大の戦艦大和は、主砲の砲撃時に主砲の傍にいると衝撃波で人が死ぬ程だったそうです。

では、攻防を巡る戦艦三笠としての説明はここまでにして、以下は戦艦三笠で任務に就いていた「水兵・将校・司令官達の居住環境」と「三笠にまつわる神様」の説明をしたいと思います。

まぁ~、軍隊と言うのは政治家の馬鹿さ加減や賢明さや、根本とする哲学で中共やソ連の様な社会主義覇権軍事国家として暴走したり、東条政権での陸軍暴走からの外交失政の様に統制を執れなく成ったり…
逆に!
明治天皇御存命中の東郷元帥の様に日本国民を外国の植民地支配から守ったり、柴五郎大将の様に宗教国籍問わず一般市民をテロリストや宗教差別から守る為に活躍されたり臺灣司令官として現地人からも尊敬されたり、正反対の評価を受ける将校がいる訳です。
2015-10-28-15-03-16
上は関内入口近くに在る「Z旗」の説明看板の写真ですね。
東郷元帥の冷静沈着で国際法も熟知した英明さの結果、日本と旗艦三笠が率いた連合艦隊の日本海海戦での勝利が有った訳ですが、Z旗は現在では「大成功を期する印」としての意味も持つ様に成りました。

軍隊は政治家次第で悪にも善にも成る訳です。
又、勝か負けるかでも将校の評価も変わって行く訳です。もっとも実力主義でなければいけない世界です。
現在の年功序列の公務員制度は自衛隊には相応しくないのも、東郷元帥の抜擢が証明に成っています。
さて…
そんな軍隊は軍隊内の秩序と業務グループ毎の効率を管理する為に厳しい「階級」を基準に組織が編成される訳です。
当然組織は階級によって給与や福利厚生待遇も変わります。これは当時の軍隊も現在の民間企業も同じです。
では、先ずは末端の水兵達の居住空間を覗(のぞ)いて見ましょう… 2015-10-28-14-41-54
下級兵士の寝る場所は、こんなハンモックでした…落ちるだろ(笑)。
こんな布団で寝ながら国をロシアの植民地化から守って下さった当時の水兵さん達に頭が下がります。
最初の方で現在の「護衛艦こんごう」と「戦艦三笠」の乗組員数は比較しましたが、当時の戦艦はアナログ機材とエンジンで動いていたので乗組員も多く、就寝場所の確保すら難しかったのが良く解りますよね。
2015-10-28-14-41-32
860名の乗組員中、830名がこの状況で睡眠をとっていたそうです。
中尉って決して低い身分では無いんですが…
仕事中に満足に休憩する暇が無いとイラツク根性無し小生には、軍隊生活は耐えれないと思います。
しかも!

……
………驚愕の事実が………
2015-10-28-14-40-48
先に大砲の構造の紹介で見て貰いましたが副砲の直ぐ横に吊るされているんですよ!
しかも10名分。
ここで寝るとか…
「絶対に無ぅ~理ぃ~(泣)!」
…と思うのは小生だけですか?
横で同僚がバンバン大砲ぶっ放してる最中でも交代で睡眠とってたんでしょうかね~。
因みに、現代艦こんごうは三笠より全長が30m長く乗員も300名なので、こんなに狭い居住空間と言う事は無いでしょうね。
二段ベット位は有るんじゃないかな?

では、上級将校の職務室と個人部屋を見て見ましょう。
下は幕僚事務室。
2015-10-28-15-58-28
なんか撮影下手ですみません。
でも立派な家具が有るの見えますよね?
2015-10-28-16-03-24
会議を行う机とテーブルはちゃんとした物だし、周辺のソファーは革張りの立派な物ですね。
2015-10-28-16-03-31
まぁ~、これでもかなり狭いんでしょう。
下が参謀長公室です。
恐らく、兼用私室でもあった筈です。
2015-10-28-16-06-17
参謀長一人の部屋で、幕僚事務室と同程度の家具装飾品が備わっています。
2015-10-28-16-06-40
下の写真は箪笥(たんす=クローゼット)ですが…
2015-10-28-16-06-58
箪笥の上が立て板で囲われていますよね。推測ですが、恐らく当時は布団が敷かれていてベッドとしても機能していたんじゃないでしょうかね~?
部屋は5~6畳位、決して広くは有りません。
しかし!
長官=司令官にも成ると待遇がグッと変わり、ちょっと良いビジネスホテル並みに成ります!
2015-10-28-16-09-00
ちゃんと、ユニットバスが長官1人の為に用意されています。
2015-10-28-16-09-05
そりゃそうですよね~。
「偉いから」とか下らない理由じゃなくて、全ての判断に責任を持つ長官は常に心身とも清潔な状態でいてくれないとストレスで判断ミスをする事は許されませんから。この程度の最低限の準備は、従う下級士官達は自分達の生命の行く末を握っている長官の心身の健康の為に納得でしたでしょうね。
まぁ~、逆に悪い例が待遇が良すぎて「大和ホテル」と揶揄された太平洋戦争末期の世界最大の戦艦大和ですが、大和の通常献立も小生は見た事が有るのですが…
贅沢過ぎなんですよ、明治時代の軍人さんに比べて昭和の戦犯軍人達の待遇は。
戦艦大和の献立なんか、フレンチ料理3皿が常時出るんですよ?なんなんですかね?
結果、大和は自分達の役割を全うせず司令官の判断ミスにより、敵のいる陣地への艦砲射撃と敵殲滅をせず敵と交戦前に何故か反転撤退…
この自己防衛的な判断ミスで太平洋戦争の戦況悪化に拍車がかかって行く訳です。
上級公務員の待遇を良くし過ぎるのは既得権益や自己の保身に走らせる厭戦気分を起こす恐れが有る訳ですね。
続いて長官の公室を見て見ましょう。
2015-10-28-16-09-27
三笠に限らず、日本の戦艦には神社と言うか、神棚が据え付けられています。
三笠の鎮守の神様は海上航行の神で有り武神でもある「八幡大菩薩」ですね。
2015-10-28-16-09-36
三笠の起請文(きしょうもん=神様に願い事と、それを実現する為の誓いを立てる約束を記した文章)は八幡大菩薩に対して請願を立てています。
よく「天地神明に誓って!」と言うフレーズは、この起請文を立てるのと同じ意味が有り、嘘偽りが有れば己の氏神や誓いを立てた神仏から神罰仏罰を受けますと言う意味ですね。

国家神道が成立し(日本の古代神が政治上管理され)それが浸透した昭和には全国の八幡宮では「八幡神」と名前を改名してしましましたが、日本の歴史上は八幡宮の神様である応神天皇は「八幡大菩薩」と呼ばれて来ました。
つまり、東郷元帥達も平安貴族、平安武士や鎌倉武士、戦国武将や江戸時代の侍と同じ神仏習合の価値観を大切にされていた事の証明でもあります。
因みに、八幡大菩薩は最初、大分県の宇佐八幡宮に祀られた後で、御神霊が京都の石清水八幡宮に遷座され、現在は京都から日本の安全を見守って下さっています。
下は鎌倉武士団の子孫達や東日本の日本国民、横須賀ベースの米軍海兵から崇拝と人気を集める鶴岡八幡宮です。
2014-08-31-12-43-08
横須賀の三笠公園からほど近い鎌倉にも、現在は日本三大八幡宮と呼ばれる「鶴岡八幡宮」が在りますが、この鶴岡八幡宮を開いたのが京都石清水八幡宮で今で言う成人式を行った鎌倉武士団の始祖である源八幡太郎義家公とその御父君の源頼義公でした。 2015-01-07-17-47-47
写真は夜の鶴岡八幡宮
昔は福岡県の筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)が宇佐八幡宮、石清水八幡宮と合わせて日本三大八幡宮と呼ばれたのですが、それに鶴岡八幡宮を合わせて現代では四大八幡宮の体を成して日本の武家の子孫達から崇拝を受けています。
八幡大菩薩は伝承では自ら名を「八幡大菩薩」と名乗ったと一番古い記録に登場するそうなので、古代からの価値観を踏まえても神仏融合の神様で有り、現代の国家神道を第一とする人の価値観で言う所の「八幡神」では無い事が三笠に来ると良く解ります。
…東郷元帥の御先祖様は、昔は鎌倉郡の一部だった現在の藤沢市に在った村岡城を本拠地にした平安時代の名将、鎮守府将軍平良文(たいらのよしふみ)公です。 2014-09-04-13-09-01
上の写真は平良文公の御廟所の有る藤沢市の二傳寺。
※二傳寺と平良文公の記事は「ココ 」←クリック!
平良文公は鎌倉武士団の元に成った坂東平氏系大名の祖先にも当たる方なので、鎌倉の鶴岡八幡宮とは創建に関わった人々と非常に地縁と血縁も深い殿様でもあるので、武士的な神仏の価値観に基づいて言えば「神仏の中でも軍神格の八幡大菩薩の御霊を備えた三笠に乗船して活躍するのは運命」だったのかも知れません。
下は第11代艦長久保少将の遺品の屏風だそうです。
2015-10-28-16-10-48
2015-10-28-16-10-55
日本海戦時の三笠で活躍された当時の秋山真之先任参謀の元同僚だったそうです。
艦長クラスで漸(ようや)く軍務と関係の無い私物を持ち込めたんですね…
下は長官公室ですが、この部屋で漸く少しだけ贅沢な造りに成ります。
2015-10-28-16-11-17
2015-10-28-16-11-25
…と言っても、ここも職務室を兼ねているので、完全に私室では無い訳です。
この部屋の下の写真の鏡台に小さい厨子(ずし=神像や仏像をしまう箱)が見えますよね?
2015-10-28-16-11-35
実は、その中には東郷元帥の御遺髪が納められていて御神体として保存されています。
…神仏に抵抗なく、良く歴史偉人の御墓参りに行く小生でも、御遺髪と言うのは少し「ギョっ」としました。
2015-10-28-16-14-07
皇族の御写真も展示されています。
この部屋から、長官専用の外部デッキに出る事が出来ます。
2015-10-28-13-49-29
それがここです。
外に出て気分転換が出来る様に成っていたんですね。
先にも述べましたが、リーダーは常に心身共に清潔で無くては行けない訳です。
ちゃんと寝ない睡眠時間の短い経営者とか、その自分の勝手を従業員にも押し付けたりする事件よく有りますよね?
あんなんじゃ軍隊で人心は付いて来ない訳ですよ。戦闘開始して命を預ける気にも成らない訳です。
心の腐ったリーダーだと「ワ○ミ」のオーナーとか、「たか○ゆり」みたいに従業員に対しブラックな業務を押し付けて従業員に訴えられる様な事を平気でしてしまう訳です。
…東郷元帥や明治時代のリーダーが現代の政商やブラック経営者と全く違う道徳心を持てたのは、ちゃんと心身ともに清潔だったからでしょうね。

この様に、軍隊としての三笠の生活は階級によって福利厚生に差が有りました。
しかし、長官の居住空間でさえ、凄く贅沢な物ではありませんでした。
そう考えると、国家公務員や議員の宿舎も、三笠の長官室程度の設備で十分なんじゃないかと思います。
ユニットバス+寝室+リビング+キッチン…程度?
家族出来たら自分で民間人みたいに勝手に外に家買って住めってんだよ。
…みたいな?明治の東郷元帥の待遇と、昭和の日本人から見た敗戦の責任の有る戦犯将校や現代の腐れ高級官僚と政治家の比較も、歴史の現場を実際に観察すると感じれたりする訳です。
現代社会の「悪」や「誤り」を過去に実例を元に比較判断出来る訳です。
だから、歴史事件の発生現場に行ったり、史跡や城跡や神社仏閣を保護したりちゃんと調査する事が大切な訳ですね。

さて…
小生の歴史観では「歴史は辛い部分もちゃんと見たり、名前を忘れず亡くなった方に対する敬意を大切にしたり、日本に災難や不利益を齎(もたら)した戦犯も名前を晒し続けたりしないといけない」と思っていますので。
ですから、日本海海戦の旗艦三笠ですら戦死者が当然いた事実も、ここに記しておきたいと思います。
2015-10-28-14-14-08
先ずは、戦艦三笠の戦歴の銘板写真です。
拡大しても見れる画素数ですので、じっくり見て頂ければ幸いです。
2015-10-28-14-28-15
2015-10-28-14-28-25
【氏名】
 品川一郎 中将 戦死 ※他負傷者1名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 記録するのを忘れました。再訪問の際に再確認し、加筆します。

2015-10-28-14-52-50
【氏名】
 殖田謙吉      少佐
 藤瀬慎二郎 中尉
 深田太郎      上等信号兵曹
 山本佐太 郎 上等信号兵曹
 山口朝蔵   一等軍楽手
 渡辺領吉   一等兵曹
 深沢半次   二等信号兵
 山本寅一   一等軍楽手
 以上戦死。
 ※他負傷者17名、艦長伊地知大佐を含む。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 前部艦橋周辺。

2015-10-28-15-04-20
【氏名】
 水野榮次郎 二等機関兵
 安藤榮太郎 三等機関兵
 以上戦死。
 ※他負傷者09名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 左舷前部の兵員病室(現:講堂付近)。

この他にも多くの方が戦死されていたと思いますが、戦死者銘板を撮影し忘れた場所も有るので、再訪問の際には撮影し、改めて加筆します。

さて…
三笠でも多くの方が亡くなっている事は御理解頂けましたか?
この方々が奮闘して下さった御蔭で現在の日本は在ります。
…それは戦争賛美ではありません。ただ淡々と歴史事実としての無名戦士の記録を我々が忘れない為に記録されているんです。
ロシア帝国主義による日本植民地化を防いで下さったのは「東郷元帥や秋山参謀だけではない」と言う無名兵士達への敬意でもあります。
又、戦争をすれば必ず人は死ぬ、しかし防衛戦争をしなければ人は大量に殺される、大義無き侵略戦争をしても敵味方兵士も戦死するし敵国市民も戦災に遭うと言う、戦争観を示す意味にも成ると思っています。
小生のこの価値観と、この戦艦三笠を記念艦として残す事に御尽力された米国のニミッツ元帥をはじめ、日本人と世界各国の皆さんの思いも、この小生の歴史観と同じだったのだと思います。
それは左右両極端な異常な思考を持つ者への楔(くさび)にも成ると思っています。


では!次回、この記事の続きの更新で又お会いしましょう!


次回は京都の御寺や安土城等を紹介し、12月には初詣向けに神奈川の凄い神社仏閣記事を更新したいと思います!
…気まぐれで最近訪問した御寺や神社やレストランの記事に成るかも知れませんが(笑)! 




↑このページのトップヘ