歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:織田信長

神奈川県横須賀市に、欧米諸国と南米諸国、アラブ中東諸国、アジア諸国から、ロシア帝国主義を打破した象徴として称賛された第一次世界大戦時の日本の海軍、連合艦隊の旗艦「三笠」を皆さんは御存知でしょうか?
実はその三笠、前々回の記事でも触れましたが「世界三大記念艦」として数えられているのですが…
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実は横須賀市の「三笠公園」に今も「世界各国からの後押しが有り」保存、展示公開されています。
因みに世界三大記念艦とは…
●大英帝国海軍…ヴィクトリー号
●アメリカ合衆国海軍…コンスティチューション号
●日本の明治政府時代の連合艦隊旗艦…三笠
…以上の三隻です。政治的に帝国主義打破、軍事的に稀有な戦果を挙げた名戦艦で、現在も記念艦として保存されているものを指します。
※そこら辺りの内容は前々回の記事リンク「ココクリックして御覧下さい。
(前々回の記事は左翼と右翼が両方発狂する内容ですので閲覧注意!)
※以下イギリス国名を「英国」と呼称します。
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今回は、その戦艦三笠の構造や性能、外観そのものを御紹介差し上げたいと思います。
まず三笠の正面から見た様子です。
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全幅23.2m 喫水8.3m
現代の艦船と比べると、余り大きさは有りませんね。
しかし、ペリー提督がアメリカから乗船して来た時代は木造蒸気船の戦艦だったので、英国の産業革命の偉大さが良く解ります。
因みにこの「三笠は完全な英国製」です。英国は明治政府の近代化を支援して下さっており、英国から軍艦の購入のみならず、太平洋戦争でも活躍した「金剛」の購入時等には建造技術も日本に教授して下さいました。
その後、不幸にも日本は陸軍の暴走により外務省の努力空しく英国との同盟が破たんしてしまい、敵味方に別れてしまいました。

後部はこんな感じ…
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全長131.7m
思ったより船体は背が低く見えますね。
戦艦なのですが、当時の戦艦は全長も現在のイージス艦より小さかったんですね。

現代艦と比較するのはオカシイ話ですが、明治時代の名戦艦と現代の名艦船で色々比べて見ましょう。
日本帝国海軍 戦艦 三笠
全長131.7m
海上自衛隊 護衛艦 こんごう
全長161.0m 
この時代の動力では、この大きさを動かすのが限界だったのでしょうか?
では、エンジンの性能差は? 
三笠
出力: 15,000馬力 
最高時速:33km
航続距離:12,964km(時速18km) 
乗組員:860名
こんごう
出力100,000馬力 
最高時速:55km~ 
航続距離:11,112km(時速36km) 
乗組員:300名
…明治時代の戦艦なので、やはり現代艦とは技術の差を感じますね。

しかし、現代艦が当時の戦艦に劣っている部分も有ります。
それは装甲の厚さです。現代の艦船は当時の戦艦の砲撃の直撃を受けたら大穴空いて沈没します。
これは海戦が直接砲撃合戦から、装甲など意味を成さないミサイル爆撃に戦術が変化した為に現代艦は頑丈な装甲を必要としなくなった訳です。
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これは前部指令室塔を守る装甲ですが、33cmの厚みが有ります。
もし、ミサイル無しで明治の戦艦と平成の護衛艦が主砲だけで打ち合いしたら、護衛艦が瞬殺されるでしょう。 
ただしミサイル撃ち込まれたら三笠も1発で沈みますが…。

砲撃戦闘をする時代の戦艦なので、側面はハリネズミの様に大砲だらけです。
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主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
凄いでしょ?
しかも、この大砲、コンピュータの無かった時代なので当然手動です。
では、この副砲の射撃はどの様に行われていたかを覗いてみましょう…
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1人が照準を合わせ、更に大砲を腰と両手を使って動かします。
1人は弾薬の装填と砲撃。
1人は弾薬の準備でしょうかね?
…超肉体労働かつ数学のクイズを永遠とやる状態。絶対にやりたくない。てか、そんな体力も根性も無い。
しかし当時の人は、体と頭と精神をフル稼働して日本人を守って下さった訳です。
因(ちな)みに、ロシアやソ連と交戦して負けた場合どんな事に成るかは「尼港事件」と言うのを調べれば解り易いかと思います。先人がロシアの植民地化に抵抗し日本海海戦で勝って下さったので現代人はコンビニで御菓子買ってTV見ながらのほほんと生活出来たり、日本や海外の伝統文化を楽しめる訳です。
もしロシアの植民地に成って、その後ソ連にでも成ってたら共産主義独裁政治で民主主義選挙政治は無くなり、伝統文化弾圧や報道規制が行われ、計画経済で商売も自由に出来なくなり、オシャレも楽しめない無文化時代に成っていた事でしょう。

少し脱線しましたが、この副砲のパーツ毎の写真も載せます。
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この手前の輪っかみたいのに腰を入れて左右に動かします。
左上の立て板は、肩を入れて動かす為の物だそうです。
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砲身の後ろには弾を込める蓋と、操縦の為のグリップが有ります。
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このハンドルを回すと、砲身が上下に動きます。
そのすぐ上にアナログの照準と言うか…
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敵艦の距離を計算し、砲弾の射出角なんかを自分で計算する為の機材が有ります…
多分、昔の人の方がPC任せの現代人より、よっぽど頭良かったんだと思います。
…本当に凄い。

この口径15.2cm副砲が14門有り、下層階には更に20門の対水雷艇砲が有る訳です。

因みに手前の側面赤い階段が記念艦三笠への出入口です。
拝観チケットは、三笠公園入ってすぐの売店の自販機で販売しています。
入口階段の傍には、当時の色んな戦艦の砲弾が展示されています。
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世界最大の戦艦、大和の砲弾。
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明治政府時代の海軍と交戦した、満州族政府の中国清朝の戦艦鎮遠等の砲弾。
入口を上がると、後部主砲が出迎えてくれます。
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ベンチが有りますね。
主砲には三笠が参戦した海戦の戦歴が銘板に刻まれています。
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その下には、三笠の砲弾が展示されていて、実際に大きさを間近で体感できる様に成っています。
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でも、これだと良くわかんないでしょう?大きさ。
だから…
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…小生の靴を置いて比較してみました(笑)。
小生は足のサイズ28cmです。
だいたい砲弾は全長90cm位ですかね~?
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この砲弾に使われている下瀬火薬と言うのは、後の「焼夷弾」の様な性能を併せ持った艦船を「焼き尽くす」画期的で凄まじい兵器だったそうです。
もし、この主砲を現在ぶっ放した場合…
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射程距離は現在でも、とんでも無い範囲ですね。
10kmも先の標的を狙い撃ちに出来るようです。
関西で例えるならば…
京都駅から宇治や大山崎辺りまでバンバカ狙い撃ちにされる様な感じですかね。

大阪駅とか梅田駅からだと…
住吉大社や尼崎辺りまで正確に狙い撃ちされる感じですね。
…現代人の感覚でも凄まじい。しかもアナログ計算。明治の人間の脳内コンピュータ恐るべし。

所で、この後部主砲は皇族の伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王が指揮官として黄海海戦時に任務に当たった場所です。その際に伏見宮閣下(当時は軍人だったのでこの尊称を用います)は負傷しました。
また、次の記事で書こうと思いますが、戦艦三笠でも沢山の将兵が戦死しています。
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戦争と言うのは日清・日露戦争の様に必要な防衛の為の戦争も有りますが、三笠は日中戦争や太平洋戦争の様に回避する努力を優先するべき戦争が有る事も考えさせられる場所です。
戦死した方々を含めた先人の御蔭で、日露戦争では日本はロシアの植民地に成らずに済みました。
しかし軍隊が、侵略側に回るか国民を守る側に回るかは政治家次第なので、しっかり国民が中道保守派の政治家を選ばないといけない事も解る場所が、この記念艦三笠なんだと思います。

因(ちな)みに、この後部主砲で活躍された伏見宮閣下の「皇族伏見宮家」ですが、幕末に勅願所(ちょくがんじょ=祈願成就のお願いをする神社仏閣)を福井県の「剣神社」と定めていました。
実は、福井の剣神社の宮司家の御子孫が織田信長公で、剣神社の最初の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)=牛頭天王でした。
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ですので織田家は、愛知に移住後も牛頭天王を祀る津島大社を大切に保護されていました。
なぜ、伏見宮家と織田家の話を出したかと言うと、実は織田信長公は御自身を「第六天魔王=第六天神」と武田信玄との文通の喧嘩の中で自称した事が有るのですが、この三笠公園からそう遠くない隣町の横須賀市田浦町には今上天皇(現在の天皇)陛下の御誕生を祝して造営された梅花の名所「田浦梅林」が在ります。
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その田浦梅林の発祥地は第六天神社の小さな御社(おやしろ)の在る場所です。
そこから第六天神は横須賀の港と市民を見守って下さっているんです。
つまり…伏見宮家⇔織田家⇔第六天神は横須賀と三笠でも御縁が有る訳です。
※以前書いた田浦梅林の風景紹介記事リンクは「ココクリック!

さて、話を三笠の構造と装備に戻します。
主砲がどんな大きさなのか、見て貰いましょう。
下は前部主砲の写真です。
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解り難いでしょうか?
真上から見るとこんな感じ…
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まだ解り難いですかね~?
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艦橋(かんきょう)と言う場所から見た前部主砲。
では正面から…
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横に居る人と比べると、主砲の砲台がメチャクチャ大きい事が御理解頂けるかと思います。
今、艦橋と言う施設に触れましたので、その構造物の説明をしますと…
三笠の前後の主砲付近には「艦橋」と呼ばれる構造物が有ります。
下は多分、後部艦橋の写真です。
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艦橋の下の大砲は主砲じゃなくて副砲です。
後部主砲はテントの屋根の下の先に有ります。
この環境と言う場所が、交戦状態の時に司令官や参謀達が居る場所です。
ここから双眼鏡を使って状況を観察しながら作戦を調整して、伝令用の配管から乗組員達に命令を伝達する訳です。
つまり指揮を執る場所です。
現代の自衛隊の艦船や太平洋戦争中の艦船の「艦橋」も高所に設置されていますが、現在ではちゃんとした指令室に成っており屋根の有る部屋の構造物に成っています。
明治時代当時の艦橋は、この様に文字通り艦「橋」つまり、艦船に設けられた橋の様な構造物で、雨ざらしだった訳です。
当時の将校は風雨に晒され、敵の砲弾が海水に着弾する轟音と自分の乗艦の射撃音の中で良くも冷静に指揮を出来たものだと、頭と精神面の弱い小生は感服するばかりです。

下は前部艦橋です。
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ここが、日露戦争の時に東郷元帥が指揮を執った場所です。
艦橋下部の円筒形の部分が「装甲の厚さの説明」で先に紹介した司令塔です。
司令塔とは書いて有りますが、中は船の舵を執る操舵室(そうだしつ)に成っています。
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後部司令塔は艦橋が敵砲撃で危険な際の指令室の役割を果たす場所なのだと思います。
舵を切る操舵(そうだ=ハンドル)の前に有る真鍮製の円筒形の物は方位磁石です。
方向定めるのに必要ですからね。
この方位磁石は操舵室の他に、司令官が指揮を執る前後艦橋にも有ります。
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上は後部艦橋の方位磁石。本来、正面から見れるのですが、何故か板で蓋をされていました。
下は前部艦橋の方位磁石。正面から見れる様に成っています。
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ついでい艦橋の設備を説明します。
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写真に撮り忘れて面目ないのですが、艦橋の方位磁石と反対のマスト寄りの方には敵艦との距離を計測する機材が備え付けられています。
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艦橋の下、箱状の部屋に成っている場所は正規の操舵室と、後方が海図室です。
つまり航海士がそこに詰めて、現代ならGoogle Earthや人工衛星の様なコンピュータソフトを用いる様な事を人力で地図を見ながら計算し「脳内作業で海上ナビを行っていた」訳です…
凄いですよね、本当に、昔の人達の頭の回転。
海図室はこんな感じです…
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完全に事務室。
操舵室はこんな感じ。
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先程、司令塔にも同じ操舵設備が有りましたよね…
多分、どちらかが敵の砲撃で損傷したり人員が被弾戦死しても、機能維持出来る様に予備施設として二つ準備されていたんだと思います。PCで言う所のバックアップですかね。
それにしても、当時の機材はどれも工芸品の様にきれいですね~。
流石、英国製!
…でも、この艦橋、戦後にアメリカやイギリスや台湾の後押しで復元再建した場所だから現代日本の物かな(笑)?そこら辺はよく解りません。もしかしたら、敗戦後の甲板上部構造物撤去時に米軍か海上自衛隊で保管していたのかも知れませんしね。

この艦橋からは明治時代に作られた要塞で、現在は東京湾の有名な無人島でキャンプ等レジャー施設として利用されている「猿島」が綺麗に見えます。
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つまり、この眺望が無いと戦況は確認出来ないので、艦橋=指令所だった訳です。

さてさて、司令塔周りは何となく御理解頂けたでしょうか?
では、甲板の構造物に話を移します。
三笠は入口から入って来た辺りに通信室が有ります。
艦の真ん中より少し後ろ位でしょうか?
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この写真じゃ良くわかんね~な…
じゃあ、↓こっちで。
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ここでモールス信号使って、世界中の中継地を使いながら日本本土の参謀本部や仲間の艦隊とやりとりしてたんですね~。
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…実は戦国時代の横浜市南東部の殿様、間宮家の顕彰活動で情報を提供して頂いた家臣の御子孫が太平洋戦争中に学徒動員で輸送艦の乗組員に成ったそうなんですが、その方はモールス信号の試験に合格した御蔭で通信兵として輸送船で、この役割を担ったそうです。
御話では、確か1週間位の学習期間で1発合格しないといけないそうです。
難関ですよね。
もし、試験に不合格だったら前線の水兵に成って戦死されていたかも知れませんね…
人間の運命なんて、本当にそう言った僅かな差や出来事で大きく左右される理不尽で無情な物なんですよね。
逆に僅かの差で大きな幸せを掴んだ人もいる訳です。
小生はこの通信室を見て、そんな事を思いました。

船の通信と言えば、艦隊編成で航行中に仲間の船と連絡を取り合う手段があと2つ有りますよね!
一つは手旗信号…
小生詳しくないですし、資料写真も無いので手旗信号はスルーします(笑)。
もう一つが「照明」によるモールス信号ですね。
その照明設備が下の写真です。
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電波通信が妨害されたり不具合生じた時に仲間と目視で連絡を取り合う手段です。
艦橋と確か甲板にも有ったような樹がします。
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又、艦橋の写真ですが、この通信も風雨に晒された中で行う作業なのでさぞかし大変だったと思います。
戦艦三笠は「尼港事件」の時に極寒のシベリア方面にも「邦人とアメリカ人・ロシア系一般市民の救出」に向かった事が有るのですが…
その際、流氷に阻まれて氷原の中で立ち往生した事が有るそうです。
当時、甲板で勤務された将兵は、さぞ辛かったろうと思いますが、小生と違って誰も弱音なんか吐かなかったんでしょうね…。
小生はつくづく現代でしか生きれない弱い魂の持ち主だと思うばかりです。しかも、こんな平和な時代でも生き辛いと感じてしまいます(笑)。海外で感情表に出して言いたい事言って良い環境で生活してる方が楽だったな~とか留学中の事も少し思い出してしましました。
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甲板を写真左側前部主砲の方から船尾の方までパノラマ撮影するとこんな感じに見えます。
多分、主砲を撃つ時に砲身の直ぐ近くにいると衝撃波で目玉が飛び出たり鼓膜が確実に破けると思います。
第2次世界大戦時の世界最大の戦艦大和は、主砲の砲撃時に主砲の傍にいると衝撃波で人が死ぬ程だったそうです。

では、攻防を巡る戦艦三笠としての説明はここまでにして、以下は戦艦三笠で任務に就いていた「水兵・将校・司令官達の居住環境」と「三笠にまつわる神様」の説明をしたいと思います。

まぁ~、軍隊と言うのは政治家の馬鹿さ加減や賢明さや、根本とする哲学で中共やソ連の様な社会主義覇権軍事国家として暴走したり、東条政権での陸軍暴走からの外交失政の様に統制を執れなく成ったり…
逆に!
明治天皇御存命中の東郷元帥の様に日本国民を外国の植民地支配から守ったり、柴五郎大将の様に宗教国籍問わず一般市民をテロリストや宗教差別から守る為に活躍されたり臺灣司令官として現地人からも尊敬されたり、正反対の評価を受ける将校がいる訳です。
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上は関内入口近くに在る「Z旗」の説明看板の写真ですね。
東郷元帥の冷静沈着で国際法も熟知した英明さの結果、日本と旗艦三笠が率いた連合艦隊の日本海海戦での勝利が有った訳ですが、Z旗は現在では「大成功を期する印」としての意味も持つ様に成りました。

軍隊は政治家次第で悪にも善にも成る訳です。
又、勝か負けるかでも将校の評価も変わって行く訳です。もっとも実力主義でなければいけない世界です。
現在の年功序列の公務員制度は自衛隊には相応しくないのも、東郷元帥の抜擢が証明に成っています。
さて…
そんな軍隊は軍隊内の秩序と業務グループ毎の効率を管理する為に厳しい「階級」を基準に組織が編成される訳です。
当然組織は階級によって給与や福利厚生待遇も変わります。これは当時の軍隊も現在の民間企業も同じです。
では、先ずは末端の水兵達の居住空間を覗(のぞ)いて見ましょう… 2015-10-28-14-41-54
下級兵士の寝る場所は、こんなハンモックでした…落ちるだろ(笑)。
こんな布団で寝ながら国をロシアの植民地化から守って下さった当時の水兵さん達に頭が下がります。
最初の方で現在の「護衛艦こんごう」と「戦艦三笠」の乗組員数は比較しましたが、当時の戦艦はアナログ機材とエンジンで動いていたので乗組員も多く、就寝場所の確保すら難しかったのが良く解りますよね。
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860名の乗組員中、830名がこの状況で睡眠をとっていたそうです。
中尉って決して低い身分では無いんですが…
仕事中に満足に休憩する暇が無いとイラツク根性無し小生には、軍隊生活は耐えれないと思います。
しかも!

……
………驚愕の事実が………
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先に大砲の構造の紹介で見て貰いましたが副砲の直ぐ横に吊るされているんですよ!
しかも10名分。
ここで寝るとか…
「絶対に無ぅ~理ぃ~(泣)!」
…と思うのは小生だけですか?
横で同僚がバンバン大砲ぶっ放してる最中でも交代で睡眠とってたんでしょうかね~。
因みに、現代艦こんごうは三笠より全長が30m長く乗員も300名なので、こんなに狭い居住空間と言う事は無いでしょうね。
二段ベット位は有るんじゃないかな?

では、上級将校の職務室と個人部屋を見て見ましょう。
下は幕僚事務室。
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なんか撮影下手ですみません。
でも立派な家具が有るの見えますよね?
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会議を行う机とテーブルはちゃんとした物だし、周辺のソファーは革張りの立派な物ですね。
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まぁ~、これでもかなり狭いんでしょう。
下が参謀長公室です。
恐らく、兼用私室でもあった筈です。
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参謀長一人の部屋で、幕僚事務室と同程度の家具装飾品が備わっています。
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下の写真は箪笥(たんす=クローゼット)ですが…
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箪笥の上が立て板で囲われていますよね。推測ですが、恐らく当時は布団が敷かれていてベッドとしても機能していたんじゃないでしょうかね~?
部屋は5~6畳位、決して広くは有りません。
しかし!
長官=司令官にも成ると待遇がグッと変わり、ちょっと良いビジネスホテル並みに成ります!
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ちゃんと、ユニットバスが長官1人の為に用意されています。
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そりゃそうですよね~。
「偉いから」とか下らない理由じゃなくて、全ての判断に責任を持つ長官は常に心身とも清潔な状態でいてくれないとストレスで判断ミスをする事は許されませんから。この程度の最低限の準備は、従う下級士官達は自分達の生命の行く末を握っている長官の心身の健康の為に納得でしたでしょうね。
まぁ~、逆に悪い例が待遇が良すぎて「大和ホテル」と揶揄された太平洋戦争末期の世界最大の戦艦大和ですが、大和の通常献立も小生は見た事が有るのですが…
贅沢過ぎなんですよ、明治時代の軍人さんに比べて昭和の戦犯軍人達の待遇は。
戦艦大和の献立なんか、フレンチ料理3皿が常時出るんですよ?なんなんですかね?
結果、大和は自分達の役割を全うせず司令官の判断ミスにより、敵のいる陣地への艦砲射撃と敵殲滅をせず敵と交戦前に何故か反転撤退…
この自己防衛的な判断ミスで太平洋戦争の戦況悪化に拍車がかかって行く訳です。
上級公務員の待遇を良くし過ぎるのは既得権益や自己の保身に走らせる厭戦気分を起こす恐れが有る訳ですね。
続いて長官の公室を見て見ましょう。
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三笠に限らず、日本の戦艦には神社と言うか、神棚が据え付けられています。
三笠の鎮守の神様は海上航行の神で有り武神でもある「八幡大菩薩」ですね。
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三笠の起請文(きしょうもん=神様に願い事と、それを実現する為の誓いを立てる約束を記した文章)は八幡大菩薩に対して請願を立てています。
よく「天地神明に誓って!」と言うフレーズは、この起請文を立てるのと同じ意味が有り、嘘偽りが有れば己の氏神や誓いを立てた神仏から神罰仏罰を受けますと言う意味ですね。

国家神道が成立し(日本の古代神が政治上管理され)それが浸透した昭和には全国の八幡宮では「八幡神」と名前を改名してしましましたが、日本の歴史上は八幡宮の神様である応神天皇は「八幡大菩薩」と呼ばれて来ました。
つまり、東郷元帥達も平安貴族、平安武士や鎌倉武士、戦国武将や江戸時代の侍と同じ神仏習合の価値観を大切にされていた事の証明でもあります。
因みに、八幡大菩薩は最初、大分県の宇佐八幡宮に祀られた後で、御神霊が京都の石清水八幡宮に遷座され、現在は京都から日本の安全を見守って下さっています。
下は鎌倉武士団の子孫達や東日本の日本国民、横須賀ベースの米軍海兵から崇拝と人気を集める鶴岡八幡宮です。
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横須賀の三笠公園からほど近い鎌倉にも、現在は日本三大八幡宮と呼ばれる「鶴岡八幡宮」が在りますが、この鶴岡八幡宮を開いたのが京都石清水八幡宮で今で言う成人式を行った鎌倉武士団の始祖である源八幡太郎義家公とその御父君の源頼義公でした。 2015-01-07-17-47-47
写真は夜の鶴岡八幡宮
昔は福岡県の筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)が宇佐八幡宮、石清水八幡宮と合わせて日本三大八幡宮と呼ばれたのですが、それに鶴岡八幡宮を合わせて現代では四大八幡宮の体を成して日本の武家の子孫達から崇拝を受けています。
八幡大菩薩は伝承では自ら名を「八幡大菩薩」と名乗ったと一番古い記録に登場するそうなので、古代からの価値観を踏まえても神仏融合の神様で有り、現代の国家神道を第一とする人の価値観で言う所の「八幡神」では無い事が三笠に来ると良く解ります。
…東郷元帥の御先祖様は、昔は鎌倉郡の一部だった現在の藤沢市に在った村岡城を本拠地にした平安時代の名将、鎮守府将軍平良文(たいらのよしふみ)公です。 2014-09-04-13-09-01
上の写真は平良文公の御廟所の有る藤沢市の二傳寺。
※二傳寺と平良文公の記事は「ココ 」←クリック!
平良文公は鎌倉武士団の元に成った坂東平氏系大名の祖先にも当たる方なので、鎌倉の鶴岡八幡宮とは創建に関わった人々と非常に地縁と血縁も深い殿様でもあるので、武士的な神仏の価値観に基づいて言えば「神仏の中でも軍神格の八幡大菩薩の御霊を備えた三笠に乗船して活躍するのは運命」だったのかも知れません。
下は第11代艦長久保少将の遺品の屏風だそうです。
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日本海戦時の三笠で活躍された当時の秋山真之先任参謀の元同僚だったそうです。
艦長クラスで漸(ようや)く軍務と関係の無い私物を持ち込めたんですね…
下は長官公室ですが、この部屋で漸く少しだけ贅沢な造りに成ります。
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…と言っても、ここも職務室を兼ねているので、完全に私室では無い訳です。
この部屋の下の写真の鏡台に小さい厨子(ずし=神像や仏像をしまう箱)が見えますよね?
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実は、その中には東郷元帥の御遺髪が納められていて御神体として保存されています。
…神仏に抵抗なく、良く歴史偉人の御墓参りに行く小生でも、御遺髪と言うのは少し「ギョっ」としました。
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皇族の御写真も展示されています。
この部屋から、長官専用の外部デッキに出る事が出来ます。
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それがここです。
外に出て気分転換が出来る様に成っていたんですね。
先にも述べましたが、リーダーは常に心身共に清潔で無くては行けない訳です。
ちゃんと寝ない睡眠時間の短い経営者とか、その自分の勝手を従業員にも押し付けたりする事件よく有りますよね?
あんなんじゃ軍隊で人心は付いて来ない訳ですよ。戦闘開始して命を預ける気にも成らない訳です。
心の腐ったリーダーだと「ワ○ミ」のオーナーとか、「たか○ゆり」みたいに従業員に対しブラックな業務を押し付けて従業員に訴えられる様な事を平気でしてしまう訳です。
…東郷元帥や明治時代のリーダーが現代の政商やブラック経営者と全く違う道徳心を持てたのは、ちゃんと心身ともに清潔だったからでしょうね。

この様に、軍隊としての三笠の生活は階級によって福利厚生に差が有りました。
しかし、長官の居住空間でさえ、凄く贅沢な物ではありませんでした。
そう考えると、国家公務員や議員の宿舎も、三笠の長官室程度の設備で十分なんじゃないかと思います。
ユニットバス+寝室+リビング+キッチン…程度?
家族出来たら自分で民間人みたいに勝手に外に家買って住めってんだよ。
…みたいな?明治の東郷元帥の待遇と、昭和の日本人から見た敗戦の責任の有る戦犯将校や現代の腐れ高級官僚と政治家の比較も、歴史の現場を実際に観察すると感じれたりする訳です。
現代社会の「悪」や「誤り」を過去に実例を元に比較判断出来る訳です。
だから、歴史事件の発生現場に行ったり、史跡や城跡や神社仏閣を保護したりちゃんと調査する事が大切な訳ですね。

さて…
小生の歴史観では「歴史は辛い部分もちゃんと見たり、名前を忘れず亡くなった方に対する敬意を大切にしたり、日本に災難や不利益を齎(もたら)した戦犯も名前を晒し続けたりしないといけない」と思っていますので。
ですから、日本海海戦の旗艦三笠ですら戦死者が当然いた事実も、ここに記しておきたいと思います。
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先ずは、戦艦三笠の戦歴の銘板写真です。
拡大しても見れる画素数ですので、じっくり見て頂ければ幸いです。
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【氏名】
 品川一郎 中将 戦死 ※他負傷者1名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 記録するのを忘れました。再訪問の際に再確認し、加筆します。

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【氏名】
 殖田謙吉      少佐
 藤瀬慎二郎 中尉
 深田太郎      上等信号兵曹
 山本佐太 郎 上等信号兵曹
 山口朝蔵   一等軍楽手
 渡辺領吉   一等兵曹
 深沢半次   二等信号兵
 山本寅一   一等軍楽手
 以上戦死。
 ※他負傷者17名、艦長伊地知大佐を含む。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 前部艦橋周辺。

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【氏名】
 水野榮次郎 二等機関兵
 安藤榮太郎 三等機関兵
 以上戦死。
 ※他負傷者09名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 左舷前部の兵員病室(現:講堂付近)。

この他にも多くの方が戦死されていたと思いますが、戦死者銘板を撮影し忘れた場所も有るので、再訪問の際には撮影し、改めて加筆します。

さて…
三笠でも多くの方が亡くなっている事は御理解頂けましたか?
この方々が奮闘して下さった御蔭で現在の日本は在ります。
…それは戦争賛美ではありません。ただ淡々と歴史事実としての無名戦士の記録を我々が忘れない為に記録されているんです。
ロシア帝国主義による日本植民地化を防いで下さったのは「東郷元帥や秋山参謀だけではない」と言う無名兵士達への敬意でもあります。
又、戦争をすれば必ず人は死ぬ、しかし防衛戦争をしなければ人は大量に殺される、大義無き侵略戦争をしても敵味方兵士も戦死するし敵国市民も戦災に遭うと言う、戦争観を示す意味にも成ると思っています。
小生のこの価値観と、この戦艦三笠を記念艦として残す事に御尽力された米国のニミッツ元帥をはじめ、日本人と世界各国の皆さんの思いも、この小生の歴史観と同じだったのだと思います。
それは左右両極端な異常な思考を持つ者への楔(くさび)にも成ると思っています。


では!次回、この記事の続きの更新で又お会いしましょう!


次回は京都の御寺や安土城等を紹介し、12月には初詣向けに神奈川の凄い神社仏閣記事を更新したいと思います!
…気まぐれで最近訪問した御寺や神社やレストランの記事に成るかも知れませんが(笑)! 




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上京・安土訪問で成果の有った事。

1.沙沙貴神社
滋賀県蒲生郡安土町に所在。
一寸法師のモデルの少彦名神と仁徳天皇の神話の残る古えの神社であり、全ての近江源氏武士の祖先に当たる淳実親王を祀る神社でもある。
規模も大きく、建築物自体も社格を表す歴史と外観を有する。
沙沙貴神社の宮司に直接の御面会の機会を得た上、北条家臣近江源氏支族間宮家顕彰の御支持と、沙沙貴神社の写真使用の許可を得て、更に沙沙貴神社関連の様々な書籍を宮司様より御厚意で無償提供して頂いた。
偶然にも沙沙貴神社宮司様は昔、最終日に訪れた石清水八幡宮で全国八幡宮から研修に来る神主の指導者を務めた方だったらしい。後に石清水八幡宮で逆に、この事実を知った。
併せて安土城址と博物館数軒も見学出来た。

2.建勲神社
明治天皇の命で信長公を祀る。
間宮綱信公が謁見した織田信長公が明治天皇より古式復古の功績や戦乱を収束させる礎を築いた功績により「建織田神」の神号を追贈され京都北面鬼門鎮護の神として祀られているのが、京都市北区の建勲神社。
こちらで宮司様より間宮家と信長公との事績顕彰への御了解を得た。

3.蓮臺山阿弥陀寺 
京都市左京区蓮臺山阿弥陀寺
この阿弥陀寺は豊臣秀吉の嫌がらせで規模縮小移転させられた寺院だが、信長公討死に直後に皇室から信長公本廟の称号を賜り、信長公を供養するべく信長公に中国風の官位「大相国」の役職と「一品」を追贈する事が伝えられた寺院。
「大相国」は日本の「関白」に、「一品」は「正一位」にそれぞれ当たる。
開山の玉誉清玉和尚様が信長公諸兄の織田信広公に大恩有り、更に信長公が朝倉家金ヶ崎城攻めの際に浅井長政の裏切りで京都へ命からがら退却して来た際に関係が深まった御縁で、「本能寺の変」の勃発時、玉誉清玉和尚様が命の危険も顧みず戦火の中の本能寺に入り信長公家臣から火葬中の信長公の御遺骸の一部を持ち帰り供養した事が有名。
その後、奸臣羽柴秀吉が織田家乗っ取り正当化の為の信長公法要開催の喪主を勤める口実に玉誉清玉和尚様へ信長公御遺骸の提出を求められたが、和尚様は頑として断り信長公への恩義に報いた為、秀吉の嫌がらせで現在地へ阿弥陀寺は移転させられた。
結果的に秀吉は信長公後継者の大義は得られず、信長公木造を香木で作り、それを火葬して無理矢理追善供養を行なった。
間宮綱信公が謁見した織田信長公の本廟阿弥陀寺にて、間宮家顕彰文を奉納し信長公との事績顕彰への御了解を得た上、6/2の信長公法要への参加を御勧め頂いた。
信長公を信奉する身として断われる訳が無い。非常に光栄だ。

4.百万遍知恩寺
左京区百万遍地名の由来の大寺院。
後醍醐天皇の勅願所で、当時、伝染病が流行し社会情勢が不安定だったのを鎮める為に後醍醐天皇は諸神社仏閣に祈祷祓い念仏をさせたが効果無く、最後に知恩寺の住職に依頼した所、効果を得た。
その際に後醍醐天皇が住職に「何をしたら効果を得たか?」と言う主旨の質問をされ、住職は「百万回くらい念仏を唱えた」と言う主旨の回答をしたのが同寺院の異名と周辺地名の「百万遍」の由来に成った。応仁の乱で戦火に巻き込まれ規模が縮小したものの、知恩寺の周りは今も無数の塔頭寺院に囲まれ、大本山としての風格を有する。
しかし和尚様達は皆さんフレンドリーで、自由に本堂に上がらせて下さり、庶民が直接御参りする機会を広く設けてらっしゃる。
知恩寺は嘗て明治時代までは寺社格が神宮寺だった場所なので、境内にはいくつかの神社もあるが、明治政府の神仏分離令で無理矢理管轄から外された。
毎月15日にはフリマも開かれる。
昔、個人的に小生が精神的苦難に遭った時に、こちらの和尚様に…
「キリスト教も仏教も神様も関係なしに、何か辛い時も何にも無い時も、誰でも落ち着きたい時はここに来てゆっくりして行ったら良いんやで」
…と言って頂いた事で心を救って頂いた、当時の御礼の御参りに行った。
お陰様で生きられてますと報告し、間宮家顕彰活動とは無関係だが個人的に御朱印も頂いてきた。

5.石清水八幡宮
宇佐八幡宮より八幡大菩薩の御神霊が平安時代に遷座された大社格の神社で、神仏習合時代、大伽藍を擁し石清水八幡宮の鎮座する男山全山には四十八ヶ所の宿坊を有した。
現在もその規模はとてつもなく大きい。
また、明治以前の歴代天皇家の神仏習合の文化を大切に保護する文化研究も行う最早学問所的な機能も持つ。
考古学や文化的にも学識高い職員の方が多く在職されている。
こちらで禰宜職に在る神官様や石清水八幡宮在職研究者の神官様に御面会の名誉を賜り、八幡大菩薩を信仰した地黄八幡北条綱成公と間宮家顕彰文を提出した。
野村不動産、三井不動産、竹中建設による城址宅地開発で消え逝く笹下城が横浜市港南区笹下に存在した事を石清水八幡宮に残して頂いた。
八幡大菩薩を信仰した間宮家と上官の地黄八幡北条綱成公と間宮家居城笹下城の事績を石清水八幡宮御祭神へ言上して頂いた。
その際、御供物として献上した菓子と間宮家顕彰文が御神前に供えられ、間宮家と笹下城の事績が物理的にも御神前に届けられた。
更に、御厚意により自身も御祓いをして頂いた上に、光栄にも石清水八幡宮の一般人の入らない場所を案内して頂き、石清水八幡宮の建築様式や宝剣の謎や八幡信仰と神仏習合に関する御講義を拝聴出来た。
人生で最も豊かな1日と成った。

この他にも、いくつかの神社仏閣を廻り、関わった歴史偉人の伝記に触れ有意義な時間を過ごせた。
特に新京極商店街の和泉式部の誠心院で御朱印を頂いた事は嬉しかった。
この誠心院は日本全国の尼寺の先駆けで、和泉式部が今の兵庫県姫路市に在る書写山圓教寺に籠った後に開いた寺院で、境内には和泉式部御本人の御廟所も現存する。
因みに今回の京都訪問とは関係無いが書写山圓教寺は映画「ラストサムライ」や「駆け込み女と駆け出し男」のロケ地に成った大建築物群が残り、かつては源義経の郎党武蔵坊弁慶が修行した大寺院でもある。又、豊臣秀吉の弟の羽柴秀長の軍勢が無体を働いた落書きなんかも残る。

以上、今回の京都と安土で、横浜鎌倉の殿様北条綱成公と間宮家、笹下城の顕彰活動で得た成果でした。
全ての御縁、全ての方の御厚意に感謝します。

次回は話を横浜に戻し、又、近代西洋建築か、そろそろ国歌「君が代」と「吹奏楽」発祥の御寺の本牧山妙香寺の話をしようと思います。
無論、今回の京都安土で回った神社仏閣や坂本龍馬公や新撰組関連史跡、美味しい和食レストランも合わせ20ヶ所以上なので、いずれ記事にしますよ〜♪

では、又、次の記事で!

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横浜市港南区磯子区に有った笹下城

間宮林蔵と杉田玄白の先祖の城


笹下城と言う御城が横浜市港南区と磯子区に在(あ)ったのを御存知でしょうか?小田原北条家の家臣で相模十四騎の筆頭とされた間宮氏の居城でした。
間宮家は近江源氏佐々木氏の出身で、伊豆の間宮に移住した一族が地名を姓にし、北条早雲公が伊豆の大名に成ると早くから配下として活躍し戦国時代の頃には小田原北条家の中で相模十四騎筆頭と言う旗本中で深く信頼を得る立場となりました。

写真は笹下城本丸部分です。

港南区笹下4丁目の旧I H I団地のあった場所の裏山、梅花山成就院と言う御寺と地続きの丘が本丸の跡です。その名残で、この付近には「御下公園」と言う地名が残ります。

近々この本丸の風景も野村不動産の宅地開発と介護施設建設で今の様には見る事が出来なくなります。

この笹下城、北条家の本拠地の小田原城、重要拠点の大船駅近くの玉縄城や八王子市の滝山城に近い規模を誇っていましたが、高度経済成長期の乱開発で史跡としての調査はされませんでした。
平成二十四年迄、成就院横に有った明確な遺構の大空堀も宅地化され消滅してしまいました。

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笹下城城域は、上の写真の現在の笹下中央公園に在った出城の北見掃部(かもん)屋敷跡の大切岸(きりぎし)と…

…下の写真の天照大神宮一帯に在った松本城の二つの砦を取り込む構えでした。  
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その規模は南北に1.5km前後、東西に1km程の範囲に笹下城要塞群が有りました。

笹下城の南端の正門は笹下川に架かる下の写真、現在の「元笹下橋」付近だと伝承しています。

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下の写真は元笹下橋から見た外堀の役割を果たしていた笹下川です。

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昔から横浜に住む人は笹下川と何百年も川の名前を伝えて来ましたが、近年、神奈川県が大岡川の本流と言う理由で大岡川にいつの間にか名称を改称してしまいました。


この笹下城は2つの仮想敵を想定して築城されました。
1つ目は扇谷(おうぎがやつ)上杉家、江戸方面から陸路で鎌倉街道を攻め上って来る敵勢力です。

2つ目は里見家と正木家、房総半島から水軍で来襲し、鎌倉の外港の六浦港(横浜市金沢区六浦に在った港)や三浦半島の走水海岸付近への上陸を狙う敵勢力です。
その2勢力を抑え今の横浜市域と鎌倉市域を東京湾側で防衛する目的で築かれたのが笹下城でした。

下の 写真は杉田側から侵入して来た敵を迎撃する関門だった若宮郭(わかみやくるわ)の跡にある若宮御霊神社です。
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元々間宮家の殿様が鶴岡八幡宮の若宮八幡宮と御霊神社をそれぞれ別に勧進し祀っていましたが、近代に合祀されて若宮御霊神社になりました。 

戦国時代に間宮家が仕えた北条家は、小田原城を本拠地に関東地方の大半を治めていました。その親族で関東地方最強の武将だった玉縄城主の北条綱成(つなしげ)公や、2代目の北条氏繁公の付家老を務めたのが間宮家でした。
北条綱成公は上杉謙信や武田信玄の大軍相手に度々勝利を収めた武将で、敵方からも「地黄八幡」の異名で畏敬の念を持って呼ばれる名将でした。

北条家には軍旗を青・赤・黄・黒・白の5色に色分けされた5つの主力部隊が有りました。

その内、黄備え隊の大将が玉縄城主北条綱成公と御子孫の玉縄北条家歴代当主だったので、付家老の間宮家も黄備え隊の与力として活躍しました。

鎌倉市大船一帯に在った玉縄城と、鎌倉を東西で対を成し鎌倉や横浜への陸海路の侵入口を防衛する重要な土地の久良岐郡笹下郷や杉田郷一帯の拠点として築かれた笹下城ですが、間宮信元公の代に築城されると、房総半島からの里見水軍・正木水軍の乱入による略奪は無くなりました。

今の横浜市や鎌倉市に当たる昔の久良岐郡や鎌倉郡の領民にとっては間宮家と笹下城は心強い存在でした。

そんな笹下城を拠点に活躍した間宮家には戦国時代に特に素晴らしい功績を残した武将が5人います。


1人目は今の京急神奈川駅の付近一帯に有った権現山城で勃発(ぼっぱつ)した北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦で活躍した川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。
下の写真が、昔、海に突き出た半島だった権現山城址の青木山本覚寺側~幸ヶ谷公園の風景です。

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上の絵は権現山合戦で活躍する間宮信冬公の絵です。北条家が敗戦したものの、信冬公は敵陣への単騎突撃で名声を獲得しました。
この権現山城は古くは足利尊氏公が合戦の際に籠城したのが城塞としての始まりで、付近には江戸時代に東海道として整備された古東海道が通っていた為、戦略上の要所でした。
江戸時代には東海道五十三の宿場町の一つ神奈川宿が置かれ、幕末には勝海舟の設計で海上要塞の神奈川台場が建設された場所の直ぐ近くでもあります。
この権現山城は間宮家と所縁の有る土地でした。
古来、この一帯は県名の由来に成った神奈川と呼ばれた土地で、そこに間宮一族の間宮宗甫と言う武将が領地を有していた為、北条家家臣の間宮家の武将が参戦するのは当然でした。
系図上で信冬公の後継者として確認出来る人物が間宮信盛公です。
この合戦の後、先述の通り間宮家は間宮信盛公と、その次代を担った間宮信元公が川崎から陸路の要の横浜市港南区笹下や海運の要の磯子区杉田港に拠点を移し、間宮信元公により笹下城が築城されました。
下の絵図は権現山合戦の様子です。

権現山合戦

現在では権現山城址は往時の原型は無く、大半は幕末の神奈川台場建設の海埋め立ての為に城山を削られ、防御施設の遺構は消失しました。

更に国道と鉄道の建設で上の写真の本覚寺一帯~幸ヶ谷公園に続く半島は大きく掘り切られて分断されてしまい、周囲が宅地化され地形も当時の城域が解らなくなる程に破壊しつくされてしまいました。

周囲には幕末の横浜開港時、フランス公使館として利用された真色山甚行寺もあります。
権現山城を拡張した青木城主要部分と伝わる場所に建つ青木山本覚寺は、幕末にはアメリカ領事館として利用されました。
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権現山城の在った、この地域は昔の武士にとって重要な場所だった上に近代横浜開港の重要な舞台の一つであり、現代の横浜市民にとっても大切な歴史を伝える場所です。

間宮家で功績を残された2人目の殿様は
豊臣秀吉の小田原攻めの際に伊豆山中城の合戦で活躍した間宮康俊公です。

間宮康俊公が付家老を務めた北条綱成公の「黄備え隊」は何回も神がかり的な戦功を立て全国に勇名を轟かせました。

中でも有名なのが日本三大奇襲戦の一つに数えられている河越夜戦とも河越合戦とも呼ばれる決戦での活躍です。戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の御主君の北条氏康公は優れた民政により、民百姓の支持を得て関東で勢力を拡大しました。
その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市)で激突します…
河越合戦布陣図

戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の主君北条氏康(うじやす)公は優れた民政により民百姓の支持を得て、関東で勢力を拡大します。その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った城)で激突します。 

1545 年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
三つ鱗紋  

・北条家兵力  3,000 (河越城籠城部隊) 

 籠城部隊…白備隊大将:北条幻庵公 黄備隊大将:北条綱成公     

・本隊総兵力  8,000(4月17日小田原出陣、19日川越着陣、20日参戦)
 総大将…北条家当主 北条氏康

 援軍武将…黒備隊大将:多目元忠公 等 

竹に雀紋 

・上杉家兵力 80,000
 総大将:古河公方足利晴氏・
・参戦大名:山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・小田政治等
 与力武将:梁田晴助・長野業正・倉賀野行定・太田資正・難波田憲重・菅谷貞次等


北条方の河越城守将は小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。

北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。

河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
…対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。
この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
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出陣当日、氏康公は現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊で戦勝祈願をしています。

実はこの岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。岩本坊は現代、上の写真の鳥居のすぐ傍、江の島神社の参道に岩本楼と言う旅館として存続しています。

氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけました…
同時に河越城から綱成公と副将の間宮家の黄備え隊が出撃し、氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。

この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公でした。

敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、北条氏康公・綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅しました。

この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で…

・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。

・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。

…いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 


このように間宮家の主君:北条氏康公と北条綱成公の御二方は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていました。
そして綱成公の与力だった間宮康俊公も武勇で稀有な功績を残された方でした。

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上の写真は港北区のJR小机駅や小机城の近くの鳥山地区に在る端雲山三会寺(さんねじ)です。

開基したのは平安時代~鎌倉時代の鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝公に御家人として与力した佐々木高綱公です。
間宮家は高綱公の家系である近江源氏佐々木家の分家に当たり、祖先は宇多天皇、家祖は敦実(あつざね)親王、その敦実親王を御祭神として祀る滋賀県安土町沙沙貴(ささき)神社の宮司を務めた家系の子孫です。祖先の中には鎮守府将軍を務めた源扶義(すけのり)公もいます。佐々木高綱公の祖父に当たる嫡流の佐々木秀定公と、間宮家の祖先に当たる佐々木行定公が御兄弟でした。
高綱公は宇治川合戦等の活躍で有名な武勇に優れた名将で、頼朝公より深い信頼を得ていました。
その経緯で鎌倉の東北の鬼門に当たる交通の要所だった鳥山に鎌倉鎮護の寺院を築く事を命じられ三会寺を開基しました。
頼朝公と高綱公との御縁で三会寺の寺紋は、源家の家紋である笹竜胆紋の使用を許されています。
笹竜胆
河内源氏の家紋:笹竜胆紋
隅立四つ目結び
佐々木家/間宮家家紋:隅立四つ目結紋
この三会寺の近くには高綱公
の居館址に建てられた鳥山八幡宮や、高綱公が頼朝公より拝領した名馬の生唼(いけづき)を祀る馬頭観音堂も在ります。 高綱公と所縁の深い鳥山地区の近くには、戦国時代末期まで北条家の小机衆の軍事拠点として機能した小机城址も在り、古来この地域の交通網が軍事上とても重要だった事が解ります。
間宮家の祖先には真野姓を名乗った時代があり、その真野家時代に分かれた別流の子孫に江戸時代の解体新書の翻訳で有名な医学者、杉田玄白がいます。
杉田と名乗っている事から、戦国時代には間宮家一門衆として杉田郷に住していた事が推測出来ます。

佐々木家一族である間宮家の戦国時代の武将、間宮康俊公は武勇に秀でただけでなく内政手腕にも長けました。

鶴岡八幡宮合戦で焼失した鶴岡八幡宮の社殿再建にも参加し、現代人にとっても偉大な文化遺産と伝統を守る事績を残しました。
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上の写真は若宮大路から見た鶴岡八幡宮です。

再建事業では間宮康俊公を含めた横浜市では3人の殿様が活躍しました。

1人が笹下城主の間宮康俊公
間宮家は近江源氏佐々木家の分家に当たり家系が宇多天皇、更に敦実(あつざね)親王を祀る沙沙貴神社(ささきじんじゃ)の宮司を務めた家系でしたので、鶴岡八幡宮再建の任を務めるに相応しい血脈でした。
八幡宮再建奉行職は建築工事を行う上で宗教儀式的な知識も理解している必要が有り、間宮家一族が適任だった事が推測出来ます。
寄親の北条綱成公が材木奉行に任命されている事も有り、職務を代行し、材木の杉田港への集積管理で活躍した事績が伝承しています。
又、旧笹下城域に現在も存続する間宮家臣御子孫の御話しによると間宮家は築城技術集団でもあったそうで、鶴岡八幡宮再建の任務に当たっては土木技術面でも、北条幻庵公や北条為昌公、北条綱成公と並び、その名を連ねています。

2人目は総奉行を務めた笠原信為公

今の横浜市港北区の三会寺やJR横浜線小机駅のすぐ近くの御城、小机城の城代で大曾根城主と白備え隊の副将も務めた方で、和歌にも精通した文化人であり江戸城攻略に参加した名将でした。

当時の白備え大将、小机城主は北条早雲公の3男で北条家の長老だった北条幻庵(げんあん)公で、晩年幻庵公が老齢に成ると笠原信為公が政務と軍務を代行していました。
笠原家は小田原北条家に最も早くから仕えた家系で、北条氏康公が御当主(とうしゅ=君主)だった時代には外交面等でも筆頭を務めた家老の家柄でした。

下の写真は笠原信為公が城代を務めた横浜市港北区JR小机駅近くの小机城の縄張り図です。

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上写真が現在の小机城址公園です。
この小机城址は横浜市内最良の保存状態を誇り、市民が自由に散策出来る遊歩道が整備されています。
この白備え隊の笠原信為公が城代を務めた小机城と、黒備え隊の多目元忠公が城主を務めた青木城の中間地点に当たる神奈川区神大寺(かんだいじ)地区には笠原信為公の菩提寺だった神大寺と言う御寺が在りました。城址として昔の人にも誤認される程の規模を誇った大寺院だった様ですが、残念ながら戦国時代に既に焼失してしまい、更に現在では畑地の開墾と宅地化で跡形も無くなってしまいましたが、その地名に信為公の菩提寺が在った歴史を留めています。
神大寺の表参道だったと伝わるのが、下の写真の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)一帯です。この直ぐ傍が神大寺の山門だったと伝承が残っています。
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この塩嘗地蔵の在所一帯は旧街道沿いでもあります。
現在も塩嘗地蔵は「イボ取り地蔵」として近隣住民に親しみをもって信仰されていますが、御塩を御供(そな)えする変わった習慣の有る御地蔵様でもあります。
この一帯は北条家の統治以前は、今の東京都練馬区や北区、豊島区等を治めた大名豊島家の影響下にありました。豊島家の居城は今の練馬区石神井公園に在った石神井城や練馬区の遊園地としまえん所在地に在った練馬城でした。
豊島家と、当時の江戸城主で関東屈指の名軍師だった太田道灌公が交戦状態に陥ると、豊島家は敗走して小机城まで落ち延びて来て、最終的に小机城も道灌公により落とされて滅亡しました。
太田道灌公が小机城へ攻め上る際に陣地を構築し休息をとったと言われる場所が、塩嘗地蔵の御近所に在る「道灌森」と言う場所でした。
この地域を通る旧街道は八王子街道や中原海道に連結しています。
その街道の先には間宮家や笠原家の御仕えした小田原北条家の宿敵である、太田道灌公の主君の扇谷上杉家の重臣達の居城である深大寺城や松山城、鉢形等が在った事からも、笠原信為公が主家北条家の勢力拡大の初期段階で既に深く信頼され、とても重要な土地を抑える役割を任されていた事が窺(うかが)い知れます。


3人目の殿様は吉良頼康公です。

室町幕府将軍の親族の吉良家の殿様で、北条家では「蒔田御所」と呼ばれ関東の将軍である鎌倉公方と同等の立場として重視された方でした。頼康公は水運商業の拠点として今の横浜市南区蒔田の旧成美学園の英和女学院と龍祥山勝國寺と言う御寺の丘一帯に在った蒔田城を拠点に東京湾北部沿岸部の要所を支配していました。
下の写真は横浜市南区蒔田に在る吉良家の祖先吉良政忠公菩提寺の龍祥山勝國寺と…

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…上の写真が蒔田城址に在る英和女学院裏の断崖です。

勝國寺を開基したのは吉良頼康公の御父君である吉良成高公でした。
太田道灌公の盟友で、江戸城を巡る攻防戦では道灌公の援軍として江戸城に入り留守の道灌公に代わりに指揮を執り、敵勢を撃退した記録も残る名将でした。
一方、吉良頼康公は全く合戦をしないで経済を重視した大名でした。
蒔田城崖下は、江戸時代には今の吉野町辺りまで海でした。江戸時代に埋めたれられ吉田新田が作られた事で海ではなくなりましたが、昔は考古学的には大岡湾、戦国時代の歴史では蒔田湾と呼ばれた入江が広がっていました。

鶴岡八幡宮再建時は水運に長けた喜多見家をはじめ森家、佐々木家、並木家等の家臣団を統率した吉良頼康公が、この蒔田城址の眼下に広がっていた蒔田湾から海運での材木輸送を取り仕切りました。
頼康公は鶴岡八幡宮だけでなく東京の世田谷八幡宮も中興されました。吉良家の殿様は内陸の中世の中原街道沿いを押える要衝を領地にしており、東京都世田谷区一帯、川崎市高津区や中原区周辺も治めていたので、世田谷城も吉良家の内陸部の重要拠点でした。
世田谷八幡宮は吉良家の下総移転後、徳川家康公の庇護を受けました。

下の写真が頼康公が中興された世田谷八幡宮と、吉良家世田谷城址でもある大谿山(だいけいざん)豪徳寺です。
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この豪徳寺は江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺に成り、招き猫の発祥地でもあります。
幕末の江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)公は横浜を開港した方ですので、井伊家も又、横浜市に関係の有る殿様であると同時に間宮家の祖先の治めた滋賀県安土町一帯を江戸時代に治めた大名家でもあり、間宮家と地縁で結ばれた御殿様と言えます。

他に大道寺家も鎌倉で総奉行に名を連ねていますが、北条家を滅亡させた裏切者を輩出した家なので顕彰しません。

間宮康俊公は、その最期にも更に武名を全国に轟かせました。
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上の画像は静岡県三島市にある山中城址公園です。 

豊臣秀吉の小田原攻めの際に豊臣秀吉・秀次の率いる本隊8万を、黄備え隊玉縄北条家三代当主氏勝公と間宮隊は小田原城の手前の箱根の山中城に3千で籠城迎撃します。
しかし歴戦の間宮康俊公は圧倒的不利かつ救援の無い状況から敗戦を悟り大将の北条氏勝公を撤退させた後、事前に築城していた山中城出城の袋崎出丸に笹下間宮家手勢200人弱で籠城し敵勢を迎撃しました。この状況の中で有名な中村一氏隊・山内一豊隊・堀尾吉晴隊・一柳直末隊など、秀吉直属の小大名格の部将達を大苦戦させ、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取り玉砕する大功を立てました。
結果この出来事が評価され、間宮家は徳川家康公の旗本として、康俊公の姫は家康公の側室として登用されました。

江戸時代の樺太、択捉を探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵は、この間宮家の子孫です。

間宮家と直接の関係は有りませんが、太平洋戦争中に活躍した給糧艦の「間宮」は、この間宮家由来の間宮海峡の名を頂いた艦船でした。平和的な運用をされた補給艦なのに歴史に名を残す名艦船に成ったのも、何か間宮家との因縁を感じますね。

話を戦国時代に戻しますが、間宮家が付家老として御仕えした北条綱成公の開いた玉縄北条家菩提寺が下写真のJR大船駅近く鎌倉市植木に所在する龍寶寺です。

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境内には綱成公、氏繁公の御廟所と玉縄民俗資料館が在り、玉縄城の遺物や城縄張りの復元模型等が展示されています。江戸時代の学者新井白石とも縁の深い御寺でもあります。
玉縄城は間宮家が与力した黄備え隊大将:玉縄北条家歴代当主の居城でした。その為、北条綱成公の御廟所も龍寶寺内に在り、以前の山上から移設された新しい廟所には昔の石塔も安置されています。
この近くの鎌倉市玉縄地区の清泉女学院が玉縄城の本丸古址です。
龍宝寺の在る植木地区や玉縄地区一帯には蹴鞠場、諏訪壇、御花畠等の遺構が部分的に現存しています。

この玉縄城、範囲も広く西の端は二傳寺、東の端は長尾城と広大な範囲の丘陵と谷戸に切岸や空堀や曲輪群を配置した堅固な典型的な北条流築城術で築かれた城で、先述の通り上杉謙信軍11万、武田信玄軍2万に攻められても落城しなかった名城でした。
 この玉縄城の城主に与力した間宮家の笹下城も同様の築城術で築かれた城塞群でした。

…玉縄城の西の端は、下の写真の戒宝山宝国院二傳寺(にでんじ)の丘一帯を城塞化していた二傳寺砦でした。

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この二傳寺には関東の平氏系大名の祖先、平良文(よしふみ)公の御廟所があります。 

そして、その子孫には間宮家の信仰した御霊神社の祭神鎌倉景正(かげまさ)公がいます。

戦国時代の三浦・豊島・長尾・千葉・葛西・相馬・芦名などの関東東北の大名も平良文公の御子孫です。 上杉謙信も長尾家の出身で、この良文公の子孫に当たります。

二傳寺砦の城址は太平洋戦争中に陸軍の砲兵部隊が展開していた場所で、近代戦争でも重視される戦略上の要所でした。
近所は平良文公の居城跡の村岡城址公園も在ります。
残念ながら城址としての旧状は地形的に崖に面している以外ほとんど残っていません。

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実は明治時代の対馬海戦で当時の先任参謀だった秋山真之中佐の丁字型戦法を採用しロシア帝国バルチック艦隊を迎撃し完勝した東郷平八郎元帥も平良文公の御子孫だった御縁で、この村岡城址公園には東郷元帥の甥である東郷吉太郎少将が揮毫した顕彰石碑も有ります。
この玉縄城や二傳寺一帯が戦国時代のみならず、平安時代~近代にかけて戦略上の要所だった事が良く解る場所でもあります。

…玉縄城の東の端は、下の写真の長尾臺御霊神社(ながおだいごりょうじんじゃ)一帯に在った出城の長尾城でした。

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関東では一般的に御霊神社の御祭神は元は平良文公を含めた良文流坂東平氏の祖先を広く崇拝する神社でしたが、平良文公の御子孫の鎌倉景正公が前九年後三年の役で活躍し有名になると、後に景正公が坂東武者の鑑として武士達の崇拝対象と成り御祭神として信仰される様に成りました。
景正公を祀る御霊神社の本宮は現在も鎌倉市坂ノ下町に現存しており、鎌倉江の島七福神巡りの一所として現代では眼病治癒や恋愛成就の神様として一般庶民の信仰も集めています。
ちなみに長尾城を築いたのは、上杉謙信の祖先の長尾家で、長尾家も鎌倉景正公の子孫です。
言い換えれば上杉謙信が玉縄城を攻めたのは、祖先の御霊に弓引くような行為そのものだった訳です。
この長尾臺御霊神社の在る長尾城を支配した北条家も、実は鎌倉景正公の祖先の平良文公と同族の子孫です。
小田原北条家の祖先は元の姓は伊勢と言い、伊勢平氏で、良文公とは同族です。更に小田原北条家の家祖である北条早雲公が婿養子として継いだ伊豆の北条家の祖先は元皇族の平高望(たかもち)王です。高望王の子孫には平良文公がおり上杉謙信とは遠縁であり、祖先の代から因縁も有りました。

3人目の間宮家の有名な殿様は、杉田間宮家の間宮信繁公です。
下の写真は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
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杉田間宮家歴代殿様の御廟所が有る間宮家の菩提寺で、日本武尊の伝承と空海和尚が牛頭天王社を建てた由緒の有る御寺です。

戦国時代、間宮家は北条家の武蔵国と伊豆国の水軍を率いる立場にあり、その間宮家の海の拠点が杉田湊(みなと)でした。
杉田間宮家の初代に当たる間宮信次公は笹下城を築城した間宮信元公の実弟で、水軍の将として活躍し三浦の走水海岸で玉砕しながらも里見家の海賊を撃退し敵軍船を多数鹵獲(ろかく)した記録が残っています。
信次公の孫に当たる間宮信繁公は杉田を中心に北条家の奨励した梅の植林と内政に力を発揮された武将でした。

信繁公により造営された梅林は江戸時代になると「杉田梅林」として有名になり、風光明媚な屏風ヶ浦の沿岸を海路、船でクルージングを楽しみ、杉田聖天川にあった桟橋で上陸し梅林を見学に来る江戸からの観光客で大変賑わったそうです。 そして杉田梅の実も、最高級のブランド梅として江戸時代 昭和初期にもてはやされたそうです。
明治時代になると、明治天皇をはじめ皇族の方々も杉田梅林を見学に行幸されました。その当時は国道16号線は開通していなかったので、六浦道(笹下釜利谷道路)を下って来られ、まだ横浜市が成立する以前の当時の久良岐郡の中心だった今の港南区笹下の関に有った「石川亭」と言う料亭に宿泊され、そこから杉田梅林を見学に出向かれたそうです。しかし昭和になると杉田梅林は保護されず宅地開発され、消滅してしまいました。
杉田梅林は消えましたが昭和初期まで続く文化醸成地を築かれた信繁公の功績は非常に大きいですね。


下の写真は小田原北条家の梅林文化を今に伝える、横浜市磯子区の岡村天満宮の一部だった岡村梅林と小田原市の曽我梅林です…
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写真の岡村梅林を旧社地として抱えていた岡村天満宮ですが、その梅林の植林時期は杉田梅林と同時期と伝えられています。

しかし現在の岡村梅林は戦国時代末期や江戸時代初期から存続した物ではありません。

元々岡村梅林は広大な敷地を持っていた岡村天満宮の鎮守の森として、間宮家が江戸時代初期この一帯の奉行を務めた時期から存在していましたが…

太平洋戦争の敗戦後にアメリカ合衆国に接収され、米軍基地造営の際に破壊されました。

その後、岡村天満宮の社地は岡村天満宮に返還される事なく、米軍から横浜市に返還されてしまいました。

…その土地の一部を買い戻したのが岡村天満宮の氏子さん達です。土地を買戻し岡村天満宮に寄贈し更に市の公園部分にも梅を植林し北条家の梅林文化を再度復興し、小田原北条家~徳川家統治下の往時、間宮家がその発展に寄与した神奈川と伊豆の梅林文化を現在に残して下さいました。
下の写真が曽我梅林。
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小田原曽我梅林の梅花越しには坂東の民百姓から木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)の権化として信仰された富士山が見えます。

綺麗ですよね。

岡村天満宮は源頼朝公の忠臣で、曽我兄弟による頼朝公の暗殺を阻止した武将で、三浦家の一族の平子有長公の開いた天満宮です。

戦国時代に平子家は北条家により磯子一帯の支配権を奪取され越後に移住した様です。

岡村梅林の近くには泉谷山龍球院と言う御寺が在ります。
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御寺の寺紋が北条家の三鱗紋に丸で囲いを付けた物です。実は龍珠院は間宮家の寄親で玉縄城主の北条綱成公が小規模な御堂だった龍珠院の支援を始め、次代の北条氏繁公が本格的に開基した由緒を持つ御寺です。

何故、ここに玉縄北条家の御寺が在るかと言うと、このすぐ近くには間宮家と共に鶴岡八幡宮を再建した蒔田吉良家の殿様の居城蒔田城が在るのですが…
吉良頼康公は一時期、小田原北条家では古河公方の代行者を務めていた時期が有ります。
…その頼康公の蒔田城に訪問が必要だった北条氏繁公と、蒔田城近くの同地に御縁が有るのは歴史の必然でもあります。戦国時代、御寺は有力武将の寝所としても機能する場でした。


間宮信繁公の御話に戻ります…
北条家の滅亡後、間宮家としての康俊公の山中城での活躍や、間宮家が特に鷹狩りと鷹の飼育、鷹の献上の有職故実に精通していた事から、信繁公は徳川家康公に鷹匠の頭として家康公の直臣に取り立てられました。

この時代、鷹匠は庶民ではなく武士が担っており、山野を駆け巡る機動力に優れる上に殿様の鷹狩りに際し事前に地域住民に担当割り当てを交渉する等の実務に精通した集団でした。

信繁公は内政だけでなく、武将としても稀有な功績を残されています。
その鷹匠集団の特殊能力を活用し、信繁公は有名な「関ヶ原の決戦」で大功を立てました。
下の図は関ヶ原合戦時の東西両軍の布陣図です。
関ヶ原合戦図

家康公の率いる東軍は開戦当初、背後に陣取る敵の毛利家の大軍がいる事で釘付けにされ味方の細川、黒田勢が石田三成本隊からの大砲の砲撃に苦戦しているにも関わらず、 徳川本隊が前線の援護に参加できませんでした…

…この状況を打開する切っ掛けを作ったのが間宮信繁公です。

毛利家の陣地南宮山から狼煙(のろし)が上がるのを見ると、信繁公は鷹匠部隊の特殊能力を活用し敵陣をつぶさに偵察し、その陣容と状況を家康公に報告しました。
この事で事前に徳川家に内通していた吉川広家が毛利家の前進を約束通り阻んでいる事や長宗我部勢等も動きが無い事を把握し、徳川本隊の前進から松尾山の小早川勢1万 5 千の大軍への寝返り工作が成功し、関ヶ原決戦での徳川勢の大勝利に繋がっていきました。
事実、この後、徳川家康公は鷹狩りを行う度に随行する間宮信繁公の関ヶ原での戦功を称賛し、その度に信繁公と与力の鷹匠衆の領地を加増して下さった事が記録に残っています。
 
4人目の功績を残された間宮家の殿様は滝山城主の北条氏照(うじてる)公の付家老として活躍された方で、名前を間宮綱信(つなのぶ)公とおっしゃいます。
綱信公が与力として仕えた北条氏照公は北条家第4代当主氏政(うじまさ)公の実弟で、滝山城に兵3000で籠城し、武田信玄2万の大軍から八王子を守り抜いた実績の有る勇将で内政にも優れた手腕を発揮されました。
八王子市丹木町に現存する滝山城址は日本有数の規模と保存状態を誇っています。

下の写真は滝山城址の小宮曲輪の切岸と空堀と土塁です。

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上の図面は滝山城の縄張り図です。
滝山城址は現在、城址の至る所に当時の防御設備の説明看板が設置され無料で散策出来る東京都立滝山公園として整備されています。

綱信公は滝山城主北条氏照公の付家老として政務を担いながら北条家の外交官としても活躍しました。

下の写真は磯子区氷取沢の飯盛山宝勝寺です。
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宝勝寺は間宮綱信公が中興した御寺で綱信公の菩提寺です。
織田信長公に謁見する等、「内政」と「外交」で功績を残されました。信長公との面会に及び北条家からの献上品を差し上げた際に、信長公から北条家への返礼として大判金貨100枚や虎の皮等を拝領した記録が残っています。

更に信長公は名将滝川一益公に対し、綱信公一行への接待を御命じになり、綱信公一行は一益公の案内で安土の城下町を案内されたそうです。

実はこの際、北条家側から信長公への献上品に鷹が含まれており、間宮家が外交の際の献上用に飼育していた鷹だった可能性が有ります。

元は間宮家の旧主に当たる古河公方足利成氏公の子息が開基した由緒のある御寺です。

宝勝寺の近くには綱信公が徳川家康公に仕えるように成った際に隠居地として与えられた氷取沢陣屋が在りました。

この寶勝寺の西側、現在、団地が在る辺りが氷取沢間宮家の陣屋跡と伝わりますが、既にマンション開発によって陣屋跡は発掘調査されないまま消滅してしまいました。

寶勝寺は明治時代にも偉人の信仰を受けた寺でした。

実は近隣の金沢区金沢文庫一帯は、古来より景勝地として知られたのですが、その景勝地が8ヵ所在った事から、同地は金沢八景と呼ばれる様に成ったのですが、明治の元勲、伊藤博文公がその金沢八景の一つ野島に別宅を構え、そちらで日本帝国憲法の草案を纏め上げたそうです。博文公は、よく、この寶勝寺を訪れたそうで、博文公の武士時代の遺物が寄贈され現在も寺宝に成っています。
新編武蔵風土記稿や古今感状集を著書にもつ江戸時代の学者、間宮士信(ことのぶ)公は間宮綱信公の御子孫に当たります。


間宮家の5番目に功績を残された殿様は北条家が滅亡し、安土桃山時代も終焉を迎える頃の殿様です。
最後の笹下城主、間宮直元(なおもと)公と言う殿様です。間宮直元公は、北条家滅亡後、祖父間宮康俊公の跡を継ぎ徳川家康公に御仕えし、本牧奉行に任命されました。その頃、徳川家の支配下で既に関東地方での戦闘も無くなり、城としての役割を終えた笹下城の麓に拠点を移し笹下陣屋を設けました。
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上の衛星写真の範囲が大凡( おおよそ)間宮直元公が統治した本牧奉行の管轄地域です。
この本牧奉行の役職の由来は、写真左上の本牧半島の地名に由来しますが、その支配地域は略( ほぼ)、旧久良岐郡の大半を占めていました。
現在の金沢区方面は金沢奉行と言う役職が置かれ、長谷川家が統治を任されていました。

本牧奉行を務めた直元公も、他の間宮家の殿様の例に漏れず神社仏閣の保護に力を入れていました。
その直元公の事績を今に伝える古文書に登場する御寺が下の写真の横浜市南区堀之内に鎮座する青龍山寶生寺です。

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寶生寺は平安時代末期、源頼朝公の御父君の源義朝公の時代に開基された御寺で、戦国時代初期の名軍師太田道灌公を初め、戦国時代は北条氏康公、江戸時代は徳川家康公の庇護を受けました。

ですから、御寺の寺紋も北条家の三つ鱗紋の使用を北条家より許され今も山門の上部には北条家の家紋と同じ寺紋が使用されています。
この寶生寺を間宮直元公が支援していた事や、直元公の叔母に当たる於久(おひさ)の方が徳川家康公の側室に成っていた事、加えて直元公御自身が本牧奉行以外に更に徳川幕府内の重要な役職である但馬奉行・佐渡奉行に就いており金山銀山の開発を担っており、その役職上、家康公と直接お話を出来る立場に在ったので、寶生寺が家康公より朱印状を賜り寺領を庇護された事に、少なからず本牧奉行としての間宮直元公との関わりが役に立ったのは間違い有りません。
武将としての事績としては、直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力として参戦しました。その際、徳川家康公より直々に呼び出され「坑道を掘り大坂城の櫓を崩せ」との命令を受けています。残念ながら、この作戦の成功を見る前に直元公は陣中で病没されました。もし、成功していたら間宮家の活躍により、旧主北条家の大大名復帰なんて事も有ったのかも知れませんね。作戦自体は成功を見る事は有りませんでしたが、この史話は家康公の直元公への信頼と関係性を示す逸話でもあります。


もし、機会があれば間宮家との所縁のある下の写真の港南区笹下の梅花山成就院一帯も散歩されてみては如何でしょうか?

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この成就院の山門は江戸時代の間宮家が本牧奉行を務めていた時代の笹下陣屋から移築された物を使える部材を生かし修繕を繰り返し昔の形を保っています。 近所には冒頭で紹介した旧IHI団地跡地に在る笹下城本丸跡が在り宅地化されてしまう前に見る事が出来ます。

成就院は幕末の笹下間宮家と所縁の深い御寺でもあり、昭和のIHI団地開発で破壊されるまで間宮家が植林を奨励した梅林に囲まれていました。

その梅林を江戸時代初期に京都から見学に来た西本願寺十三世良如上人と九条関白様が滞在された際に、北条家の梅林文化を伝える笹下城跡の梅林の美しさを絶賛した事から、山号を梅花山に改めた歴史が有ります。

間宮家の居城笹下城の本丸跡に、すぐ隣接する御寺で、間宮家とは地縁も深い御寺でもあります。


下の写真は港南区下永谷に在る永谷天満宮と、その横に在る別当時として永谷地区の歴史を守って来た天神山貞昌院です。
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関東管領も務めた宅間上杉家の殿様が創建した天満宮で、太宰府天満宮、道明寺天満宮と日本三躰(にほんさんたい)として数えられる天満宮です。
永谷天満宮を開基した宅間上杉家の殿様の居城は今の港南区永野小学校の一帯に在った永野城でした。

宅間上杉家の初代当主重兼公は足利尊氏公の従弟に当たる武将で、元は勧修寺家出身の家系に連なる殿様で、後に母方の実家の上杉家に養子に入られました。
宅間上杉重兼公は足利尊氏公の祖父の家時公とも関係が深い方でした。

重兼公の母君と足利尊氏公の母君が御姉妹で、上杉頼重公の御息女でした。

宅間上杉家は宅間富朝(とみとも)公の代に、先述の磯子区の宝勝寺を中興した間宮綱信公に御姫様が御嫁入りして、間宮家とも縁戚の関係になり更に軍事面でも間宮家と共に鎌倉を守る位置にありました。
この永谷天満宮の所在地に平安時代、元々居住していたのが天満宮の御祭神である菅原道真公の五男の菅原敦茂(あつしげ)公との伝承が有ります。
その菅原敦茂公の御主君が醍醐天皇でした。
醍醐天皇は貴族から権力を奪還し御親政(しんせい=天皇による政治執行)を行おうとした方で、その醍醐天皇の御実弟が間宮家の祖先の敦実親王でした。
ですから菅原敦茂公の居所一帯に建つ永谷天満宮は間宮家との御縁が深く、その敦茂公の古址に永谷天満宮を創建した宅間上杉家と間宮家が婚姻関係で結ばれ協力関係だったのは、醍醐天皇と間宮家の祖先の敦実親王御兄弟に結びつく数奇で宿命的な御縁なのかも知れません。

永谷天満宮と貞昌院の在る永谷地区から徒歩15分程度の近くの野庭地区には鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が築城した野庭(のば)関城も在りました。

下の写真は野庭( のば)団地の遠景です。

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この野庭関城は、鎌倉幕府の軍事教練所でもあり、鎌倉時代~戦国時代の貴重な史跡でしたが
昭和期に教育委員会が調査も保護もしないまま野庭城は宅地開発され消滅してしまいました。
その場所は市営野庭団地一帯、本丸は野庭中央公園付近だったと伝承しています。

数十年前まで城の土塁も現存したそうですが現在は破壊され存在しません。

戦国時代この野庭城は北条家の名官僚の安藤良整(りょうせい)公が城代を務めていました。

良整公は北条家領内の百姓の為に公平な徴税を行える安藤枡を考案された民政家で、村同士の水利権争いを裁いた名奉行として、その内政面での功績が有名な方です。

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上の写真は野庭地区から程近い、港南台の円海山の瀬上池です。

瀬上池の周辺は横浜市内で数少ない蛍を鑑賞できる沢のある自然公園であると同時に、その林道は平安 鎌倉 室町時代の武士が利用した史跡の道でもあります。
蛍は6月中旬から見られます。

この円海山は、鎌倉御家人達が利用した古道より更に古い史跡が出土しています。

瀬上池近くから古代の蹈鞴(たたら)製鉄の遺跡が出土しており、古くからこの地域が軍事拠点として重要な場所だった歴史を伝える史跡群を抱える場所でもあります。
港南区と磯子区と言う工業地商業地として発展していながら、その豊かな自然を誇りながら関東の鎌倉節文化の草創期からの歴史を伝える貴重な場所でもあります。

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この円海山の山頂からは北条家の梅林文化を守る小田原曽我梅林と同じ様に、関東の武士団が拝み見ていた富士山が綺麗に見えます。空気の澄んだ冬から暖かい春への変り目に当たる春分の頃には相模湾の遠望越しに、夕日が富士山山頂に沈むダイヤモンド富士を見る事が出来ます。

下の写真は磯子区円海山の峰地区側に在る、安養山峰の阿弥陀寺です。
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  この円海山の古刹、阿弥陀寺からは浄土宗総本山の知恩院第四十六世住職了鑑大僧正を排出しています。

そして円海山の名前の由来に成った下の写真、素敵な竹林と森林の参道を持つ円海山護念寺です。
元々この阿弥陀寺の奥院だった御寺で、古典落語「峰の灸」の舞台でもあります。
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この護念寺の道は鎌倉武士の古道で少し昔まで、その道を抜けると間宮家の氷取沢陣屋へと通じていました。

しかし現在、この林道は護念寺の私道に成ってしまった事と、その道の先の氷取沢側が宅地開発されてしまった事もあり車の抜道として利用出来ない様に封鎖されてしまい、現在は通り抜ける事は出来ません。

円海山の他の林道も部分的に倒木や路盤の劣化により封鎖されており、横浜市による再整備を要する状態にありますが、自然の中で散歩を楽しみ新鮮な空気に触れる事は出来ます。

この護念寺の道や円海山の尾根道を抜けると、下の写真の大谷戸広場に出ます。

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この氷取沢の大谷戸広場一帯は農地が広がり、付近には護岸工事されていない自然なままの渓流も残っていて鎌倉郡・久良岐郡の原風景を今に見る事が出来ます。
学校では郷土史を教えて貰える機会は有りませんが…

この様に横浜市には歴史史跡が沢山あります。
皆さんが普段何気なく生活されている、この横浜市には交通の要所だった事から由緒有る御城がいくつか在りました。その御城が現在無くなっても殿様達が保護してきた神社や御寺が今も残っています。
戦国時代~江戸時代の人が現代に伝えて下さった古代からの文化や歴史も神社や御寺の宮司様や和尚様が伝承として守って下さっています。
…もし横浜に愛着を感じたら、ちょこっと近所の御寺や神社、御城の跡を御散歩して、横浜市や鎌倉市の基礎を築いて下さった歴史偉人達に思いを馳せてみるのも風流かも知れませんよ。

                  

       筆失礼 久良岐のよし


 

































































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横須賀市田浦にある田浦梅林が見頃で田浦梅林祭りが開催されています。


前回記事で少し触れましたが、田浦梅林は今の天皇陛下の生誕記念に植林された広大な梅林です。
昔は山の名前を按針峰(あんじんみね)とか何とか呼んだらしいです。
隣接する町に安針塚と言うのが有るからでしょうか?
安針塚の安針とは、ウィリアム・アダムスと言う人物のアダムスを和名風にした名前で、彼は江戸時代に徳川家康に仕えたイギリス人外交顧問でした。
因(ちな)みに東京駅八重洲(やえす)口も、ヤン・ヨーステンと言う同じく徳川家康に仕えた彼の同僚の名前を和名にしたものと伝わっています。

下の航空写真真ん中辺りの山が全部田浦梅林です。
京浜急行電鉄 田浦駅から徒歩15分くらい。
行く途中には前回紹介した「梅どら」と言う梅を使った美味しいどら焼きを販売している「ふじみや」さんが有るので、田浦梅林見学のピクニックの御供(おとも)に丁度良いですよ♪


田浦梅林は住宅街を抜けないとたどり着けず、少々入り組んだ場所に入口が在りますが、案内看板代わりの旗を目印に辿(たど)って行けばつきます。

上の写真の山裾が見えれば、もうすぐ!
ここの路地が入口です。
ここを入るとニ叉路に道が分かれますが、小生のお勧めは左回りの第六天神社経由登山です。

少し登ると鳥居が有ります。
此方(こちら)側から登山すると途中、梅の林越しに横須賀市田浦の昔ながらの里山の風景を楽しめます。
更に田浦梅林の発祥地である第六天神社の前では…
撮り鉄の人なら歓喜するであろう、梅林と京浜急行電鉄のコラボした風景が見られるんです。

以下、田浦梅林から京浜急行のトンネル出口を見た風景の連続写真です。

写真みたらフォルダ内ぐちゃぐちゃで進行方向分からなくて、逆再生かも…

逆再生かも知れませんが、珍しい綺麗な風景である事は伝わりますよね?

この風景の見れる神社の第六天神は、織田信長公が武田信玄との文通の口喧嘩の中で、武田信玄が自分を「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)」と書いたのに対して、信長公がトンチを効かせて自称したのが第六天神社の祭神、第六天魔王です。

農民の信仰を集めた神様で、第六天魔王は仏教とヒンドゥー教の神様です。
天台宗等、法華経を重んじる仏教宗派では魔王であり、且つ、真面目に仏教の思想を守る人間には保護者になると解釈されているそうです。
だから信長公は武田信玄が天台座主と称した際に、法華経信者を裁く立場の第六天魔王を持ち出し上から目線で信玄が吹っかけた口喧嘩を買った訳です。
武田信玄は天台座主を名乗る事で、自軍の織田領への侵攻に大義名分を付加しようとした訳です。
ところで、神道では第六天魔王に高御産巣日神(たかむすびのかみ)や天狗を当てはめる事で神主様や氏子さん達が、明治政府の廃仏毀釈政策に由る外来の神様排斥から第六天神社の御社を守り、多くの社殿を破壊の危機から守ってきた様です。
実は…
関西には第六天神社が余り無いのですが一説には豊臣秀吉が織田家を乗っ取った際に、織田信長公の天罰を恐れた秀吉により関西の第六天神社は破壊し尽くされたそうです。
第六天神社を過ぎると、梅林の遊歩道沿いに水仙が植えられたエリアに入ります。
先週の写真ですが、少しだけ水仙も梅も時期が早かった様でした。
が、それでも綺麗な花が見られましたよ。

良い眺望(ちょうぼう=ながめ)です。
この先に広場や子供用アスレチックが有ります。

途中、鶯(うぐいす)の群れに出くわしました。
可愛かったですよ〜♪

で、頂上付近に来ると、梅林越しに横須賀市の海と、更にその向こうに横浜市金沢八景の八景島の絶景が見渡せます。
昔は海も埋め立てられておらず、更に綺麗な風景だったんでしょうねぇ…。
手前が夏島かな?
写真中央が野島…
二つの島は伊藤博文公の別宅があり、大日本帝国憲法の草案が纏められた、日本法治主義の基盤が作られた場所でもあります。

展望台もあり、そこからも東京湾を眺めるれます。

この田浦梅林、元は個人の所有地でしたが、今上天皇陛下生誕記念に横須賀市に寄贈され梅が植林されたので、その寄贈者の方の記念碑もあります。
良い所でしょ?

お弁当持って御花見散歩に行くには良い場所です。
家族連れや恋人同士には尚、良いレクリエーションとなる事必定!

今週末位までが見頃です。
是非、訪れて見てくださいね〜♪

では、又、次の記事で!
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秋を感じる一言…
風流かな?
文化芸術の秋だし。
風流さの追求が流行った安土桃山時代の建物が現代にも伝わっています。

聚楽第(じゅらくだい)
…と呼ばれた御城が京都市内に有った事は義務教育で習いますから皆さん御存知ですよね。

この御城の中で中心を為(な)した本丸御殿(ほんまるごてん)の建物が、実は反豊臣の江戸時代を乗り越え現代にも存在しています。

※200万画素の携帯で撮影した写真なので画質は勘弁して下さい!
 
飛雲閣と呼ばれた建物です。
現在では西本願寺に移築され大切に保存されています。

西本願寺と言えば、豊臣秀吉と友好関係に有った一向宗の本拠地ですね。
そして、昔の一向宗は顕如(けんにょ=本願寺光佐)様と言う方が率いていました。
彼を中心に戦国時代に、神道の神様の"建織田神(たけしおりたのかみ)"と10年間に及ぶ戦争をした軍閥化した仏教宗派でした。

建織田神て誰?
…と思いますよね?

建織田神…

絶対に皆さんも知ってますよ!


この方↓です(笑)!
 
明治天皇が、織田信長公が戦乱を収束(しゅうそく)させた功績と朝廷儀式復興させた事への功績を認め、京都市の鬼門の北の鎮護(ちんご=守り神)として建勲神社(たけいさおじんじゃ)の神様に任命したんですね。

因(ちな)みに建勲神社のある船岡山は、京都市が平安京と呼ばれた"其(そ)の時代から京の都(みやこ)の鬼門の鎮護の位置に在りました"。
何故(なぜ)そんな言い方をするかと言うと、今の京都は元の平安京と大分(だいぶん)と形や位置がズレているんです。
豊臣秀吉の仕業(しわざ)なんですがね。

"豊臣秀吉が"京の町を再編成した際に、メインストリートを平安京の中心の"千本通りから今の京都御所のある堀川沿いに移した"んですね。

そんな信長公と対立した一向宗ですが、多くの仏教寺院と同じ様に日本の文化財保護の役割を果たしていた訳です。
飛雲閣以外の建物の多くは、其の後、伏見城や別の御城に移築されました。
しかし、聚楽第の大体の位置は現在でも伝わっています。

ネットでの拾い物ですが…
聚楽第の縄張り図と現在の京都市の地図を重ねた物がコレ↓です。

その聚楽第ですが…
日本人に対するヘイトスピーチ大好きな某国寄りの学者様達は、何故かしきりに存在した事自体を否定したがります。
愚の骨頂です。

聚楽第の事は当時の天皇が行幸(みゆき=天皇が外出する事)された事が各大名や貴族の日記に記録がシッカリあり、飛雲閣等の文化財も現存しているので…
存在を疑う余地がない! 
…と言うか頭大丈夫ですか?
…と言うレベルの話しです。
もし、信長公が生きていたら聚楽第の存在を否定する学者を…
「戯(たわ)けが!」
「うつけ者め! 
…と、罵(ののし)り張り倒していた事でしょう。 
…神様に成ってるから祟(たた)りがあるのかな(笑)?
あ、でも秀吉は織田家を裏切った逆臣だから信長公は怒らないかな(笑)?

しかし…
 
飛雲閣、風流だな〜。
あ、飛雲閣は一般非公開です。
この写真は8年位前の特別公開の時に見学し撮影しました。

横浜三渓園に移築された紀州徳川家の紀ノ川沿いに有った別宅にも少し似ています。
それだけ秀吉の広めた茶の湯文化と茶室建築は後世に影響を与えたんですね。
「禿(は)げネズミ!」
…と信長公に呼ばれていた秀吉ですが、この功績は…
「でかした天晴れ!」
…と、あの世で褒めて貰えたかも知れませんね(笑)。

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