歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:菅原道真

記事に写真追加してリニューアルしました。

記事冒頭に政治の話題が有るので苦手な人は下の写真が、出る所までスクロールしてスッ飛ばして下さい。
コノ写真⤵
CIMG6684
コレ⤴が再登場する場所までスクロールしてスッ飛ばして漢字の意味に対応した写真の部分だけ読んで下さいね!

――さて――
皆さんはマジックアワーは御存知でしょうか?私は最近インスタを多用する様に成って最近教えて貰った言葉です。
マジックアワーと言うのは日が沈んでから太陽光が雲と空だけを照らす完全に夜になる直前の時間帯を指す日本人の造語の様です。

その時間帯が薄明・曙・暘・黄昏・宵。

下の写真の様な色合い、日没後の時間帯を指します。
マジックアワー⤵
CIMG6450
マジックアワーの後半“ブルーアワー”⤵
CIMG6459
夕陽も綺麗ですが日没後15分後~30分後の方が富士山や夜景の撮影が綺麗だそうで、その時間帯を表現した言葉だそうです。
それを過ぎると凄く短いブルーアワーに変り更に時間が経って夜が来ます。
このマジックアワーに対応する漢字が実は日本では平安時代に貴族や鎌倉武士が教養として学んだ漢詩にその漢字が既に登場します。

薄明、曙、暘、黄昏、宵と言う時間帯による空の明るさを表現した感じが有るんです。
字が既に風流ですよね~。

その解説は後にしますが・・・
これらの漢字の表現や文化を取り入れ、日本の文化と精神と融合させ生まれた文化が平安文化です。
この平安文化の根幹が菅原道真公曰く“和魂漢才”で表される日本に合わせてチューニングして文化と学問を使い発展させてきました。
そこから武家政権が誕生すると関東に残る自然崇拝の日本の習俗に都の平安文化を合わせ、更に南宋の仏教文化を馴染ませ発展させたのが鎌倉文化。
・・・と独特の日本文化が生まれました。
平安~鎌倉を生きた人々は時間を表す言葉に対応する薄明、宵、暘等の漢字を導入し漢詩を読み和歌を詠み季節を感じて風流な文化を作って下さいました。
KIMG1450
武士の時代が終焉を迎え明治時代が到来すると急速な西欧化が進みますが、大正時代に入ると少し急激な西欧化に元来の日本文化を見直し活用し双方の良い所をに取り入れた大正時代の華やかで壮麗な西洋建築の町並みに、広大な敷地に移築保護される社寺建築と武家建築の日本庭園が増えます。現代の無文化成金と違って当時の財閥の総帥達は日本文化と芸術の保護を進め、その流れは昭和最初期まで続きました。
平安~鎌倉の人も明治~大正の人も海外文化と技術知識を取り入れ日本に合わせて活用し文化と国と庶民の生活基盤を再構築した訳ですね。
CIMG1596
正に菅原道真公の“和魂漢才”を更にアレンジした“和魂洋才”と言う四字熟語を実践し内外の文化や技術を発展させたのが幕末や明治に生まれて明治~大正時代~昭和最初期の時代を生き活躍した人々だった訳です。
最近、鬼滅の刃の時代考証したら改めて大正時代って素敵だなと思ったんですよね。
2015-08-05-14-54-15
横浜開港記念会館 国指定重要文化財
下の写真は初秋に三浦半島の長浜(なはま)から撮影した和田義盛公居城の和田城の丘に昇る月です。
ブルーアワー、宵の頃ですね。
我々日本人は公害も1990年代終盤から改善させて、関東各地からは秋~冬~春にかけて海の水蒸気が少なくなると空気も綺麗に澄む日が増えて富士山が綺麗に見えると感動し生活の中でも記念行事や季節折々に和服を着て漢詩や和歌を詠み特別な御重を食べ神社や御寺で祭祀を執り行い唐に憧れ独自の平安文化や鎌倉文化を築いた貴族や武士の人々と今でも価値観を共有しています。

特に文化財の有効活用と保護を行っていない町が横浜に縁深い“あぶない刑事”で主演し、歴史大河でも織田信長公の役も演じた事の有る舘ひろしサンの出身地の愛知県江南市役所。
舘さんの演じた信長公の愛妻、吉乃様の菩提寺をガンとして寺院部分を史跡指定せず廃寺に追い込もうとしています。
絶対に他都府県の自治体の史跡保護の仕方と相対評価してないし下らないローカル前例主義。

詳しくは⤴コレを読んで見て下さい。
まぁ、こんな風に令和の現代人は文化軽視で風流さのかけらも無い街づくり?破壊?をする訳ですが、横浜市役所にチクリ・・・

今の何の季節感も仕掛けも無ぇ東京に大量に有る様な新市庁舎とか新山下の閑散としてるガンダムばっか作ってる横浜市役所の人、本当ちょっと昔の人見習って、やるなら風流な事やって。
カジノ林文子から山中市長に代替わりしたんだし文化と史跡保護とその活用をちゃんとやって欲しい。
この最近20年間~令和2年までと違って以前の再開発で都市設計されたミナト未来21地区の景観、ドッグヤードガーデンとか赤煉瓦倉庫とか汽車道の活用とか、大黒海釣り公園とか、ベイサイドマリーナとか埋立地の施設にも史跡文化財を活用した所や季節感を出して人が集うように計算されて作られた仕掛けが沢山有るんだわ。
こう言う仕掛けが有るのは高秀市長や当時の市役所職員の文化的素養が高かったから。

横浜市役所が林文子時代にやった事、全部クソつまらんし自然破壊、景観破壊、史跡破壊ばっか!
センター南の史跡保護を見習って飛鳥時代~平安時代の可動期間を誇り且つ規模が日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡の国指定史跡化と横浜市南部最大の蛍生息地の瀬上沢の完全保護と自然公園指定、そして戦国時代の北条家の重要拠点で❝続日本の100名城❞の1つ小机城址と、神奈川区の旧高島線引込線に有る❝日本最古の溶接建造の鉄橋である高島線瑞穂鉄橋❞と線路の国指定史跡化はどっからどう見ても必須。
瑞穂鉄橋と高島線の線路を赤煉瓦倉庫みたいに活用した瑞穂埠頭再開発を成功させて、今の横浜の観光資源や美しい都市計画が成功して人口増加しているセンター南や、今の赤煉瓦倉庫周辺の高秀市長の様に史跡保護と自然環境の魅力を完全に残し横浜の歴史文化の個性を活用した素敵な都市開発参考にして“レガシィ”にして下さいね。
東京のコピーとか本当、2番煎じだらけにしたらコピペされる東京にも失礼だし無個性だから。

――ここから時間の漢字の話――
浅草の昔の写真とか見ても大正時代の人の町作りって素敵ですよね~!

これ⤴以前にも紹介したのですが原三溪サンの原財閥が創設した旧第二銀行=横浜銀行が明治~大正~昭和の昔の風景と現在の風景を比較する面白いコンテンツを作ってくれているので、是非皆さん見て見て下さいね♪
さて、そんな訳で大正時代の人は古代中国で生まれた薄明、曙、暘、黄昏、宵の各時間帯の美しさを表す漢字で漢詩や和歌を風流に詠み、和服と洋服を着こなして西洋建築と日本庭園を大切にし、文学でも街並みでも和洋折衷、オシャレを地で実践し西洋式の綺麗な町と自然と神社仏閣のを沢山私達に残してくれた訳ですが・・・
CIMG6684
・・・これ⤴曙と言われる時間帯です。
漢字が時間帯を表すって言われても情景がピンと来なくても写真で見ると解り易(やす)いですよね?
そこで小生の写真で時間帯の空の様子を見て頂いてから、この時間の感覚と日本文化の繋がりも書いて見たいと思います。
では薄明、曙、暘、黄昏、宵の時間帯を横浜ベイサイドマリーナと逗子マリーナの写真で解説します。
スタート!⤵
——薄明(はくめい)の頃——
DSC_0191
空が未だ宇宙の藍色で漸(ようや)く空が薄ら明るく成って来て、これから陽光が差し始める写真が丁度、薄明の時間帯です。
薄明(はくめい)は漢文から輸入された朝方のマジックアワーの時間帯の表現ですね。
CIMG6686
薄暗さの中に明るさが差し込み始め、空は宇宙の藍色が残り水平線にオレンジ色の線が浮かび上がる時間帯が“薄明”。夜だと“宵”と表現され、和製外来語だとブルーアワーですね。
——曙(あけぼの)の頃——
CIMG6689
薄明(朝のブルーアワー)から太陽が水平線に近づくにつれて藍色と橙色が交わり空が白色に変りやがて水平線にピンク色が広がり見る見る空のオレンジ色が濃く成って行きます。
日は出ていなくても、この時間帯も綺麗です。
CIMG6692
CIMG6693
高秀市長の頃に第三セクターのベイサイドマリーナ建設担当の方が我々に残して下さったマリーナの個性を活かした秋分の日に暘(よう)の頃を楽しむ素敵な仕掛けが見られます。
——暘(よう)の頃——
KIMG7648
KIMG7644
CIMG4578
太陽が姿を表す様が暘(よう)です。
描写としては時間帯も曙(あけぼの)に含まれる様です。
秋分の暘にベイサイドマリーナ社屋に朝陽が真っ直ぐに登って来るのですが、これエジプトのピラミッドとか神殿群と同次元の事をやっているんですよね。
当時の市長だった高秀市長がいかに文化度が高い都市計画を志していたか解る現象であり、それを理解して具体的に形に出来るブレーンが当時の市役所にはいたって事が判るんですよね。
CIMG4585
暘(よう)は日本国の比喩としても中国では使われていたしそうです。
古代の中国では暘に谷の字を加え暘谷(ようこく)にすると日が昇る国である扶桑(FuSan:ふそう)を指し、暘“谷”=扶桑国=倭=邪馬台国=大和=日本の比喩の意味で漢詩に使われた単語でした。
12月冬の暘~曙にベイサイドマリーナの親水公園ではヨットの間から朝陽が昇る景色を見る事が出来ます。
CIMG6697
CIMG6699
CIMG6704
CIMG6708
CIMG6719
どうでしょうか?
ベイサイドマリーナの“薄明”も捨てがたいけど“暘”も美しいでしょう~♪でもベイサイドマリーナは西側が陸で夕陽が海に沈まないので、三浦半島の付根、鎌倉市と逗子市の境目のリビエラ逗子マリーナ周辺で“黄昏”と“宵”の景色を見て見ましょう~♪
——黄昏の頃——
CIMG2397
image
CIMG7901
小坪飯島公園~逗子マリーナ
で、漢文に興味の無い皆さんにも先程写真を見て頂いたので黄昏や宵と言う夜に入った時間帯の情景が何となく伝わったと思います。
そこで、漢文の文化が日本人の文化に今も残っている事を少し紹介したいと思います・・・
——暦上の日本と中国の共通文化——
先程、時間帯を表す表現で宵(よい)の頃を紹介しました。
実は“宵”に関しては特に日本古来の特別な風習の1日にも関係が有ります。
中国では今も元宵節と言う冬の節分の習慣が残っています。


日本人の言う所の旧正月の第十五夜に行う御祭りで、つまりコレが日本の小正月の由来なんですね。
現在では何故か三賀日で終わってしまう風潮ですが、本来なら15日までが正月の祝日で元宵節=小正月が〆日なんですね。
本来は薄暗く成り始めたら町を提灯(ちょうちん)や行燈(あんどん)で飾り照らす御祭りでした。
私が中国に留学していた頃には爆竹をアホみたいに町中の皆で鳴らしまくって日が落ちてから夜中まで成りっぱなしで火薬の煙の臭いに燻された思い出が懐かしいです。
これが日本の小正月の由来な訳ですが・・・
つまり以前の記事でも紹介したのですが仁徳天皇と莵道稚郎子の御兄弟が漢皇室後裔の阿智使主(あちのおみ)に暦や政治制度を含む漢学を学んだ初代のなので、次代の履中天皇から日本の暦が古代の半年=1年から陰暦の12ヶ月=1年の計算方法に変っている事が歴代天皇の崩御の年齢から一目瞭然で解ります。

※縄文・弥生時代の平均寿命30歳
伝承年齢 → 1年=6ヶ月で再計算

神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳
これを見ると仁徳天皇の次代、履中天皇から明らかに1年=12ヶ月に暦が変わっている事が判ります。
なので、どんと焼=小正月=元宵節も、その時に導入されている可能性が有る事が判ります。
逆に言うと古墳時代以来遅くとも1500年前から脈々と日本人は少し御祭りの形を和風に変えて、この古代の習慣を受け継いできている事が判りますね。
この行事が終了すると本格的に春の到来に成る訳ですが、中国で旧正月=春節と言うのは正に“春の節目”であり、他にも端午節、七夕節、中秋節と日本に輸入されている陰暦の季節の行事が漢字もそのまま暦として導入されている事も解る訳すが、当然ながら内容は変化が有りますよね。
例えば・・・
CIMG9819
中秋の名月では食べる物が日本と中国で違っていますが、出来る限り近い事をしようとして文化に残っている事も解ります。
日本では中秋の名月に団子を御供えしますよね。

まぁ団子なので“餅”な訳です。
中国の文化でも“餅”を食べます月餅ですね。

ただ漢字の意味が今の日本と違って穀類由来のコネて作った物に餅と言う字を当てるので小麦粉由来の物にも“餅”の字を使います。
餅干と書くとビスケットに成っちゃったりしますしウィグル族のパンにも“餅”の字を当て嵌めます。
この様に古墳時代から日本では中国の暦や仏教文化の影響を飛鳥時代には形を変えて日本文化に融合し馴染み、村の鎮守の神社の氏子が集まり旧暦(陰暦)の暦が農業の共同作業にも役に立っていたり昔は村々の農家や町なら町人が、“どんと焼”で正月飾りを焼いた訳です。
CIMG1540
今でも郊外の神社では“文化として保存する為に”わざわざ小学生を近隣の学校から招待して“どんと焼”を行ったり、氏子サンがシッカリしている場所は古代古墳時代の履中天皇が暦を改める以前の日本が1年=6ヶ月だった時代の風習の名残りが夏越大祓と冬越大祓として神事に有るんですね。
KIMG9615

茅の輪くぐりを行う神事ですね。
そんな訳で日本の神社には中国から渡来した小正月の“どんと焼”や“七夕祭り”の風習も残るし、日本の伝統的な追儺祭の神事の風習に中国伝来の仏教の不殺生の哲学を実践する放生会が平安時代には融合されて池に生き物を放す習慣が出来たりしています。
今でも上賀茂神社と神奈川県相模国一之宮寒川神社では仏教の影響を受けていない古来の追儺祭の神事が行われています。

そんな訳で今でも神社や御寺では毎年1月15日前後にで正月飾りや去年(きょねん=中国語)の神棚の御札を“どんと焼”で処分して貰いますよね。
でもね、その“どんと焼”を新暦=西暦=太陽暦でやっては本来の農業と結びついた季節感の陰暦と旧暦の呼称と整合性が無くなってしまうんです。

例えば旧暦の正月で1年を始めなけれ睦月や水無月等の季語と季節感もズレてしまうんですね。
今の年賀状で昔のまま“迎春”とか書いてもアホらしいくらいに真冬でクッソ寒いでしょ(笑)?
今の季節感で水無月と言うと6月で梅雨じゃん!と成りますが、実際は月齢の陰暦だと梅雨明けの時期にちゃんとかかって当て嵌まるんですね。
更に旧暦は閏7月=閏文月も有ったり全く違うので、この混乱は旧暦の月名を無理矢理に明治政府の西暦導入時に当て嵌めてしまったから混乱を生んだんですね。
西暦(太陽暦)の運用と、神事は旧暦と分けて行えば良かったんですがね~。
今この記事を書いているのは西暦の2021年12月22日です。もういくつ寝ると御正月です。
imageDSC_0092
・・・でも西暦での正月は未だ陰暦(月齢計算)では真冬の師走の最中なんですよ。
そもそも古代と師走の漢字も変わっていると思いますよ、完全に。
元々は師走(しわす)では意味不明な漢字に成ってしまいますが、これは100%当字でしょう。和尚さんが忙しく成るからなんてのは後付けでしかない。
本来は臘数(しわす)の漢字だったと考えられます。
この臘数=歳末と言う意味で仏教用語として現在の日本でも残っていますし中国由来ですから、もうそのままですね。
仏教の僧侶が出家してから男性なら比丘(びく)や女性なら比丘尼(びくに)と言う位階を得てからの年数を数える単位に用いられるそうです。

これについては“字通”と言う書籍に記載が有ります。
小生はこの説を支持します。旧暦に当て嵌めれば季節感も意味も暦の漢字とピッタリに成りますしね。
でもこの臘(しわ)の字をいつの時代にか音読みしか残らなくなり臘(ろう)とだけしか漢字の文化として発音が伝わらなくなったのは難読漢字で浸透せず師走(しはする→しわす)と言われる様に成ったと推測出来ます(当字の由来は推測www)。

どうでしょうかマジックアワーの写真撮影が得意なカメラマンの皆さん。
マジックアワーやブルーアワーやトワイライトの表現も何だか可愛らしいですよね。
漢文に使われた時間帯の表現、和文の季節感の暦も両方とも風流で“エモイ”でしょwww?
最後にもう一度、各時間帯の漢文の単語と情景を見比べて今回のブログ記事を終わりにしましょう。

——薄明(はくめい)――
朝のブルーアワー、日の出前の薄暗く明るく成り始める頃。 
CIMG5384
CIMG5398
CIMG4793

——暘(よう)――
朝陽が昇る様。
CIMG0570
KIMG5755CIMG6654
CIMG2942
CIMG4816

——曙(あけぼの)の頃——
太陽の昇る方向と反対の空を低い位置から陽光が照らすとピンク色の帯を作る。
太陽の昇る方角の空は少しづつオレンジ色に染まって行く。
二つの色の空を楽しめる時間帯。
CIMG5126
CIMG4821
CIMG5402
CIMG0559
CIMG4877CIMG2948
CIMG0300
CIMG0293

——黄昏(たそがれ)の頃――
日没~黄昏時の夕焼けと青空、午後のマジックアワー。
CIMG0291
CIMG3514
CIMG3515CIMG5897
CIMG5902
CIMG5944
CIMG5954
CIMG4404
CIMG4439CIMG4473
CIMG4540CIMG1619
CIMG1628KIMG7169
CIMG0167
CIMG5052
CIMG5049
CIMG2397KIMG3331
KIMG3334
CIMG0895
CIMG0904

——宵(よい)の頃――
午後のブルーアワー、陽の光がほぼ水平線を照らすだけになり宇宙の藍色と陰影の世界。
KIMG5896CIMG4565
KIMG3576CIMG5103
CIMG6459
CIMG0719CIMG0729IMG_6184
CIMG0910
・・・漢詩に使われた時間帯の空のピンクとブルーとオレンジのコントラスト綺麗でしょ?
これを知ってから、薄明、曙、暘、黄昏、宵と漢字を見ると表現も風流で綺麗な情景が目に浮かびませんか?

朝焼けや夕焼けの写真が好きな人、機会が有ったら漢詩の表現を写真のタイトルに使ってみて下さいね~♪

また瑞穂埠頭の記事書かなかった(笑)。絶対に明日の夜書く!・・・と、思う。
CIMG6679
記事を書く材料が揃ったので、ちょっと待ってて下さいね!
さて・・・

では次回❝こそ(笑)❞は、この記事⤴の続きの記事で御会いしましょう~♪
風引かないでね~!

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

まず永谷天満宮と言う横浜市港南区にある神社をご存知でしょうか? 

天神様と言えば大宰府に左遷された菅原道真公を神様として祀(まつ)っている神社です。
ここ↓ね。

実はこの永谷天満宮は日本三躰(にほんさんたい)の一つと呼ばれますが、その由来は…
福岡の太宰府天満宮と大阪の道明寺天満宮、それとこちらの永谷天満宮が実はある事で他の天満宮と異なり特別な天神様なんです。 

他地域の方からすると…
「は?神奈川の天神様が凄いわけあらしまへん!」
とか
「天神様は太宰府天満宮だけが本物たい!」
とか
「何で歴史無いヨコハマのが特別なんだよ!」
…とか思うでしょうね。
特に歴史に興味が無い人なら尚更。
ヨコハマって実は…
旧相模国の「鎌倉郡の一部」
旧武蔵国「久良岐(くらき:倉巣)郡」
「都築(つづき)郡」「橘(たちばな)郡」
…から構成されていて、日本書紀にも頻繁に出てくる土地なんです。
日本武尊と弟橘媛の神話や浦島太郎の物語も舞台は神奈川県川崎市と横浜市と横須賀市なんですよ。 
2015-04-01-10-39-49
永谷天満宮の参道は春には桜に彩られます。
さて
歴史に興味が無かった人の為(ため)に菅原道真公の事を少しだけ説明しますね。
菅原道真公は右大臣(うだいじん:今で言ったら総理大臣みたいな役職)を務めた程の優秀な政治家・学者・歌人でした。
この↓人物画が道真公
ダンディーで優しそうに描かれてますね…
実際は、ふくよかな方だったみたいです。

平安時代当時、藤原家は天皇家に藤原一族の娘を代々嫁がせて天皇の外戚として朝廷(ちょうてい:政府)政治を乗っ取ろうとしていました。
当時の宇多(うだ)天皇も藤原氏を抑え込むべく、対藤原家の切り札として菅原道真公を重用(ちょうよう:信頼され重要な役職に就かされる事)し藤原一族から政治権力を取り戻させようとしました。
しかし道真公は藤原一族にハメられて、大宰府に左遷られてしまいました。
左遷されて今の福岡県で亡くなりましたが、死んだ後に雷神様に生まれ変わり悪行を働いた藤原一族に雷を落とし感電死させたり怪我人出したり天罰を与えました。
それにより菅原道真公の霊に祟(たた)りで呪われる事を恐れた藤原氏から霊を鎮(しず)める為に神様として崇拝される事になりました。
だからコンナ↑絵も残ってます。
優しい人ほどキレると手が付けられない…

じゃあ、何で関西や九州を舞台にして活躍した菅原道真公と関係無さそうなヨコハマの永谷天満宮が凄いのか?

それはですね…
実は菅原道真公の遺産と関係があります。
遺産と言うのは御神体が道真公がご自分で銅鏡を見ながら彫刻した自像の木製彫像の事なんです。
それが日本には3体だけあり、その収蔵され祀られている場所が…
太宰府天満宮…福岡県
道明寺天満宮…大阪府
永谷天満宮……神奈川県横浜市港南区
…なんです。 

しかも永谷天満宮は道真公の5男で菅秀才と呼ばれた菅原淳茂公が直接住んでいた場所と伝承してるんです。 
で、永谷天満宮では道真公の彫像を御神体として御祀りしてらっしゃいます。

なんで「そんな凄い」のが歴史無いヨコハマに有るんだよ!
…と、思う歴史を知らない人も多いと思います。
この謎は藤原氏の専横と、太平記と地理をちょっと知っていれば直ぐに謎解きが出来るんです。

それを以下に説明してみます。
長いですよ!
でも、見る価値ありますよ!
横浜市民や神奈川県内の人は必見だと思います。

--------------------

永谷天満宮と坂東八平氏、及び菅原景行公と菅原敦茂公の関連

[永谷天満宮の祖、菅原敦茂公とは?]  

菅原敦茂公は菅原道真公の5男で、醍醐天皇に仕えた方でした。 
菅秀才と言われ優秀な方だったそうですが、御父君の菅原道真公の左遷後に醍醐天皇に登用され、右少弁を務めました。
近畿では播磨国に左遷された後に京に戻ったとされていますが、永谷天満宮には同所は敦茂公晩年の居館跡との縁起が伝承しています。

 [敦茂公の官位「判官(じょう=丞)」とは?]  

左右大弁・左右中弁・左右少弁の官職は判官と別称され太政官の組織で、官位は少納言の上位。判官職の直属上司は太政大臣等最高位の者でした。 
左大弁・右大弁の官職に就く者は将来的に三位以上の官位を獲る可能性の有る部署であり、出世の王道で大弁職と参議や蔵人頭を兼任する者もおり頭弁とも呼ばれました。しかし、中弁職以下には参議に昇進する資格は有りませんでした。 

敦茂公は菅秀才と呼ばれた優秀な人物でありながら、その官職を右少弁に留められていた事から推察出来る事は、御父君道真公が左遷された影響か官職独占を狙う藤原氏の妨害が有ったと考えるのが自然です。 
藤原氏から迫害を免れ藤原家とは別の元皇族の臣籍降下貴族であり関東に一大勢力を築き始めていた平家と連携する為、菅原氏は多く関東に移住したようです。

特に永谷天満宮の近所には「釜利谷」・「鍛冶ヶ谷」・「日野(火野)」等(など)の製鉄や武具製造に関する地域がありました。
そのような関東の軍備増強拠点を抑えつつ、皇族出身貴族の平家と連携し醍醐天皇の密命を受けて反藤原勢力の組織を目指したのかも知れません、勿論、反藤原勢力結集はただの推測です。
菅原道真公の身内で関東に移住した人物の内、特に有名なのは道真公三男景行公です。
彼は最初に常陸国へ移住しました。
景行公と同様に、伝承通り敦茂公が晩年、永谷郷に移住してこられた可能性は有り得ると思われます。
しかしながら、日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在するならば、敦茂公が永谷天満宮に住んでいた可能性より、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その事は後で説明します。

さて、先ずは永谷天満宮そのものについて説明をします。
永谷天満宮を開基(社殿建造する事)したのは関東管領上杉家の養子に入った一族の人物で、祖先の元の名字は勧修寺(かんしゅうじ)姓でした。

[藤原北家勧修寺流とは?]  
勧修寺家は京都の公家で、藤原家主流の家系でした。藤原家の主流は藤原北家と呼ばれ、その分家が勧修寺家でした。
勧修寺氏の姓名の由来である勧修寺は京都市山科区に現在もある寺院の事で、醍醐天皇の勅願所でした。
この時点で、菅原家と宅間上杉家の祖先の接点が醍醐天皇だった事が解ります。
天皇中心の政権運営を目指した醍醐天皇が信頼した臣下が菅原敦茂であり、醍醐天皇の開基した勅願所の勧修寺が宅間上杉家の家祖の苗字の由来に成っているので既に、この時代に両者に交流が有った可能性が有ります。 
藤原北家の勧修寺流の藤原顕憲公と盛憲公親子は摂関家藤原頼長に仕えていたので保元の乱において崇徳上皇陣営に従い、乱の勝利者側の後白河天皇と敵対した為に、戦後に佐渡国へ流刑にされ凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)しました。
しかし盛憲の子藤原清房の系統が後鳥羽上皇に仕え家名は存続しました。彼も又もや承久の乱に巻き込まれ、紆余曲折あったものの命脈を保ちました。
その後、子孫は現在の京都府綾部市上杉町周辺を本拠地にしました。
その為、重房の代に至り上杉家を名乗るように成りました。
後の室町幕府初代征夷大将軍である足利尊氏はその地で生まれたと伝わっています。 
重房の子が上杉頼重で、頼重の姉妹がそれぞれ山名政氏と足利頼氏に嫁いでいて、上杉頼重の「頼」は足利頼氏から一字偏諱を受けたとされています。 
上杉頼重の子が即ち足利尊氏の叔父である上杉憲房です。

ちなみに上杉家と言うのは代々関東管領(かんとうかんれい)と言う役職を世襲した家系で、のちに上杉謙信が養子に入り継いだ家ですね。

 [関東管領上杉家とは?]  

今の関東地域に伊豆・新潟県・東北を加えた地域を支配するのが鎌倉公方で、その鎌倉公方の職務を実際に代行するのが関東管領職でした。
関東管領上杉家とは、即ち鎌倉将軍府の関東管領職に就任できる資格を有する上杉一門の内の筆頭格の4家の事で、犬懸(いぬかけ)上杉家・宅間(たくま)上杉家・扇谷(おうぎがやつ)上杉家・山内(やまのうち)上杉家の4家を指し、当初はその4家で交代で関東管領職を務めました。 

それぞれの家名は鎌倉近辺での居館の所在地名に由来し、扇谷(おおぎがやつ)や山内(やまのうち)は今でも鎌倉市内に地名が残っています。

[犬懸上杉]  
今の鎌倉市浄明寺と言う地区の犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ)と言う所に邸宅があったので犬懸上杉と呼ばれています。
房総半島(下総国・上総国・安房国)一帯が根拠地でした。 
室町幕府初期には上杉家で一番勢力を誇りましたが、子孫の上杉禅宗が起こした「上杉禅宗の乱」で滅亡しました。

[宅間上杉]  
鎌倉市・横浜市・川崎市武蔵国西部一帯が支配域で横浜市港南区永谷が本拠地でした。 
上永谷にある永野小学校を含む丘陵一帯が本拠地の永野城址です。 
永享の乱の際、宅間上杉憲直が横浜市緑区にある旧城寺にあった榎下城址に籠城し、室町幕府と対立した鎌倉公方足利持氏を支援した事に因(よ)り、敗戦側に成ってしまいした。
後に降伏するが許されず、横浜市金沢区金沢文庫の称名寺で切腹し宅間上杉家は没落しました。 
しかし子孫は鎌倉府に継続し仕え、戦国時代には小田原北条氏に臣従しながら「宅間殿」と特別待遇で扱われていました。
安土桃山時代を経て徳川家旗本として存続しました。 
永谷天満宮を開基した人物が宅間上杉乗(憲)国です。

[扇谷上杉]  
現在の伊勢原市や湘南地域が元々の根拠地で伊勢原市の粕谷館で家臣太田道灌を暗殺した扇谷定正の話は有名です。 
伊勢原市の産能大学一帯に存在した大城郭糟屋館や藤沢の大庭城が各時代の旧本拠地で、後に小田原北条氏の圧迫により相模国から支配力を駆逐され、北に逃げる度(たび)に家臣太田道灌が築いた江戸城、更に河越城(埼玉県川越市)へと本拠を移し武蔵国南部を根拠地にしていました。
戦国時代の三大奇襲戦と呼ばれる「河越合戦」の時、小田原北条家の殿様北条氏康公とその家臣で義兄弟の鎌倉玉縄城主の北条綱成公に大敗北し、扇谷家の殿様は敗死し扇谷上杉家は滅亡しました。

[山内上杉]  
現在の埼玉県一帯~東京都北西部一帯が根拠地で本拠地は松山城址(埼玉県東松山市)でした。 
最終的に養子に入り、この家を継いだのが上杉謙信(長尾景虎)でした。 
戦国時代に成っても上杉家筆頭4家で勢力を保ったのは、この山内上杉家だけでした。
しかし家臣長尾景春の反乱が発生したり、小田原北条家に河越合戦で大敗した事で凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)し当主の憲政が上野国に逃げ出した挙句(あげく)、更に越後の長尾景虎(ながおかげとら:後の上杉謙信)を頼り、最終的に養子にした上杉謙信に関東管領職を禅譲し本流の上杉家は滅亡しました。

 
[宅間上杉家の家系]

上杉重能(初代:勧修寺家出身)
※養子は無嗣断絶。
上杉重兼(二代:勧修寺家出身で重能実弟)
※重兼を初代とする説もある。
上杉能俊
上杉憲重
上杉憲俊
上杉憲能
上杉憲清
上杉憲直
上杉定重
上杉定朝
上杉顕重
上杉乗(憲)国→永谷天満宮を開基
上杉乗方
上杉房成
上杉富朝 →北条氏照付家老間宮綱信に姫嫁ぐ
上杉規(憲)富
※小田原北条氏家臣化→徳川家康に服属し旗本として存続

初代宅間上杉家当主の重能と二代当主の重兼は勧修寺別当職を務めた勧修寺道宏の実子で母は上杉頼重娘の加賀局だったので、同じく頼重娘の清子を母に持つ足利尊氏・直義兄弟とは血縁の従妹同士で一門衆待遇でした。 
後に母の兄弟である上杉憲房公の養子となります。
その後、永享の乱が起きます。
鎌倉公方足利持氏と山内上杉憲実が対立した際に、宅間上杉家は鎌倉公方に忠義を尽くしました。
その為に、鎌倉公方の力を削ぐ目的で、山内上杉憲実を支援する征夷大将軍足利義持(4代将軍で足利義満の子)の命を受けた今川範政率いる室町幕府と鎌倉府の連合軍に駿河より攻め入られ、宅間上杉家の当主上杉憲直は鎮圧され敗北し、横浜市金沢区の称名寺で切腹を命じられ勢力を失ってしまいました。 
しかし、その後も子孫は鎌倉府に仕え、戦国時代には小田原北条家に従い、後に徳川幕府の旗本として存続しました。

[宅間上杉初代:重能ってどんな人?]
勧修寺家に生まれ、後に母の兄弟である上杉重顕・憲房の養子となりました。
建武政権下では関東廂番六番の一員として鎌倉に下向。『太平記』には竹の下合戦において、偽の綸旨(りんじ:命令書)を作り足利尊氏を出陣させたとあります。
その後、足利直義の執事(しつじ:代理)として活躍するも、足利尊氏・高師直公が直義と対立すると高師直に捉えられ越前に配流殺害されてしまいました。
宅間上杉家の跡目は、山内上杉憲方の子で重能の甥に当たる山内上杉憲孝が継ぎ存続しました。
更に上杉憲孝も無嗣断絶してしまった為に、宅間上杉家は初代当主重能の実弟であった重兼の子孫が相続しました。
この為、重兼を宅間上杉家初代とする場合もあります。

さて、永谷天満宮を開基した上杉家の話はここまでにして、御祭神(ごさいしん)の菅原道真公の子孫が何故(なぜ)に横浜市や関東地方に移住して来られたかに話を戻しましょう。
その一例として、道真公の3男の菅原景行(かげゆき)公の例を挙げたいと思います。

[菅原景行公とは?]
菅原道真公の三男。 
駿河国に左遷された後、関東に下向し平将門公の御父君:良将公の根拠地であった下総国豊田郡に程近い常陸国真壁郡に移住しました。 
延長4年(926年)景行公は将門の叔父・良兼公らと真壁郡羽鳥(現:真壁町)に菅原天満宮(現在は茨城県水海道市大生郷に移転)を開きました。
この時代から坂東平氏と菅原家の深い繋がりが開始されたと推測できます。 
更にこの菅原氏と平氏の結びつきは当時の醍醐天皇の指令によるものだった節があります。
菅原氏の多くは藤原氏の専横により官位こそ抑えられていましたが、醍醐天皇に登用にされ有名な五男淳茂公をはじめ多くは朝廷にも残りました。
そして後の坂東八平氏の祖で平将門公の叔父良文公も醍醐天皇に重用され、関東の賊を討てと綸旨を頂き鎮守府将軍として東日本に下向し、旧鎌倉郡村岡郷、今の藤沢市村岡を本拠地にし関東に武士文化の基礎を築かれました。
この綸旨の「賊」とは「平将門公」ではなく、親王赴任国である上総国や下総国の荘園を支配する藤原氏の事だと思われ、つまり上総国下総国の支配権を取り返し藤原氏の軍事的勢力を削ぐ意図があったのだと思われます。
因みに上総、下総は音が皇室と密接な「宇佐八幡宮」の宇佐に通じますし、古語読みをすると「かみすさ」「しもすさ」と成るので素戔嗚尊とも所縁が有りそうです。
菅原家の主君の醍醐天皇とその御先代宇多天皇は藤原氏の専横に苦慮し御親政を取り戻すべく菅原道真公を重用しましたが、藤原氏の策謀により道真公はハメられ目論見が頓挫した経緯がありました。
それにより醍醐天皇と菅原氏が頼ろうとしたのが臣籍降下した元皇族の平氏だったのでしょう。
醍醐天皇と菅原氏と平氏の連携を示すのが正に、菅原景行公と平良兼公の逸話です。
当時まだ亡くなれて間も無い道真公を祀る天神様をいち早く常陸国に建立した事に両者の結びつきの真意が現れているのでしょう。
平将門の乱は、菅原道真公の左遷と同じく藤原氏の陰謀によるものだったと思われます。
藤原氏の挑発に乗ってしまい挙兵してでも反藤原連合を貫く将門公と、あったかも知れない醍醐天皇の関東制圧の密勅を実質的に維持する為に体面上、藤原氏=朝廷に従属するかの政策的な対立を生み出す藤原氏の陰謀だったと考えるのが自然です。
結果、醍醐天皇の策謀と藤原氏の陰謀は痛み分けで、藤原氏は関東の支配権を失い醍醐天皇も平将門公を失いました。
しかし平良文公を鎮守府将軍に任命していた事により関東の臣籍降下貴族支配には成功した訳です。
この流れを証明するように平将門公は当初朝廷公認で活動していましたし、将門公に同調していたはずの良文公は後に将門公の支配域の多くの支配権を与えられ、後々の坂東八平氏発展と鎌倉幕府御家人の基礎を築かれました。
平良文公が旧鎌倉の藤沢を本拠地にしていた事と、菅原景行公と坂東平氏の関係が深かった事から、永谷に移住した菅原道真公の御子息の正体は、三男の菅原景行公だった可能性は高いと思われます。
そう考えると、先程想定した日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在する理由、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その後、関東に下向した宅間上杉家が、関東に定着していた菅原氏より、醍醐天皇との御縁で菅原道真公の像を譲り受けた可能性が有るかも知れません。


景行公以降も菅原氏の武将が東日本で活躍した記録が見えます。
その人物は鎌倉幕府初代征夷大将軍「源頼朝の"ひいひいおじいちゃん"」に当たる軍神:源義家(みなもとのよしいえ)公が活躍された前九年・後三年の役に参戦した武将として登場します。
彼は源義家公が率(ひき)いた「五陣の軍士」と言う源家直属部隊の武将として登場します。

[五陣の軍士の中の菅原氏の武将]  
軍神:源義家公の父君の源頼義公の与力衆と直属の軍勢で5備えに編成されていた部隊の総称で、旗下に以下の武将の名前が見えます。

平  眞平
菅原行基 
源  眞清
刑部千富
大原信助
清原貞廉
藤原兼成
橘  孝忠
源  親季
藤原朝臣時経
丸子宿禰弘政
藤原光貞
佐伯元方
平  経貞
紀  季武
安部師方 

この内、菅原行基公は御名前から推測して菅原景行公の御子孫に当たるのではないかと推定できます。 
関東において坂東八平氏の祖で相模国の開拓領主だった鎌倉郡村岡城(現藤沢市村岡)を本拠にした平良文公の御子孫は菅原家と平家の深い関係を裏付ける様に、関東の御霊神社の御祭神として広く信仰されている軍神:鎌倉景政公を筆頭に「景」の字を継承している武将が多数見られます。 
具体的には…

・鎌倉景政公 
 (村岡城:藤沢市村岡を含む横浜市旧鎌倉郡部と鎌倉市及び藤沢市の旧鎌倉郡部)

・大庭景義公
 (大庭城:藤沢市大庭~茅ヶ崎市一帯)

・梶原景時公 
 (村岡城:藤沢市村岡~鎌倉市梶原一帯)

・長江義景公 
 (横浜市栄区長江)

・長尾景弘
 (長尾城:横浜市栄区長尾台一帯~現JR大船駅周辺及び鎌倉郡玉縄地区一帯)

 ※長尾家の有名な子孫
・長尾景春
 太田道灌のライバル。長尾景春の乱を引き起し関東全土を席巻した張本人。
・長尾景虎(上杉謙信) 
 山内上杉家を継いで後に関東管領上杉謙信を名乗った。

以上の鎌倉氏子孫の名に見える事実から推察すると…

つまり、相模国に移住してきた平氏が、永谷や関東各所の菅原家との関係の中で氏子として天神様を崇拝していたのではないか、その経緯で菅原家より「景」の字を一字拝領したのが平良文公の系統の坂東八平氏だったのではないかと推測出来ると思います。
又、菅原景行公と平将門公の叔父上との逸話や、源頼義の奥州征伐の際の五陣の軍士に菅原氏と平氏の武将が名を共に連ねている事から、何らかの関係が有った可能性は高いと思います。
そして平家や源家が盟主として菅原姓や橘姓紀姓等の古代有力貴族の子孫の支持を得て彼等を与力と出来たのは、彼等の対藤原独裁連合的な共同出世目的の意味合いが有ったのではと推察しています。

――永谷天満宮の歴史全体像考察――  
以上の事を根拠に、永谷天満宮と敦茂公の伝承は、宅間上杉家の祖先勧修寺家が菅原家と同じく宇多天皇と醍醐天皇に共に御仕えした家系だった事に由来するのではないかと思います。
つまり永谷天満宮の御神体である菅原道真公が自らの姿をを彫られた木製彫像は宅間上杉家(勧修寺家)が在京中の南北時代、北野天満宮に有った物を動乱から保護する目的で勧修寺家が保有する事に成ったか、関東に定着した菅原家子孫から足利家と親密だった宅間上杉家に譲渡された可能性が有ると思います。
 
余談ですが北野天満宮は位置的に曾(かつ)て京のメインストリートだった千本通りに近く、少し北には平安京造営当初の御所が有った舟形山の南の地域へ通勤も便利な位置にあります。
そう考えると敦茂公の京都時代から、山科の勧修寺付近や朝廷の中で宅間上杉家の祖先である藤原北家勧修寺流上杉氏と菅原家の交流が有った可能性も有り、やはり、敦茂公そのものと宅間上杉家の祖先そのものの関係も有った可能性も有ると考えるのが自然だと思います。
保元の乱で出世コースを外れてしまった一族ですからね。
藤原本流に政争でハメられた家同士が仲良くしても全く不思議ではありません。
永谷天満宮の敷地に道真公の御子息のどなたかが住んで居た訳ですが、永谷天満宮の伝承では「菅秀才こと5男の菅原敦茂公」が住んでいた事になっています。
淳茂公の兄で三男の景行公のお住まいだった可能性から御二人の話が混同された可能性は高いと思います。
しかしながら、宅間上杉家の祖先が、ここまで説明した通り、菅原景行公と菅原敦茂公の両方と御縁が有った可能性は高いと思います。 
先にも具体例を挙げましたが、永谷郷と隣接する旧鎌倉郡一帯の開拓領主鎌倉景政公の一族とその祖先平氏と景行公の関わりと氏名に含まれる「景」の一字です。
一字拝領は古来の文化でもあります。 
景行公が中央では余り有名では無かった事や、宅間上杉家の祖先と菅原秀才敦茂公が醍醐天皇の繋がりで御縁が有る事、活躍した舞台が主に播磨国や京と言った関西地方だった事から後に関東に下向してきた京都の勧修寺家出身の宅間上杉家による永谷天満宮の造営時に旧領主菅原氏の顕彰が行われ、その際、菅原景行公と菅原敦茂公の逸話が糾合された可能性が有るのではないかと推測しました。 

又、日本参躰天満宮と言われる所以(ゆえん)である「道真公銅鏡写し自作の木製彫像」が何故永谷天満宮に存在するかも、先述のとおり…
①北野天満宮から→勧修寺家へ →上杉家から→宅間上杉家へ
②関東の菅原家から→宅間上杉家へ
①か②の推測が出来るのではないでしょうか。 
仮に景行公が永谷天満宮に居住していた説を支持するならば、永谷天満宮の縁起とは異なり些か不敬に当たるのかもしれませんが景行公の実績の再発掘と言う意味では無駄には成らないかと思っています。
そして3男景行公も5男敦茂公も、御両人(ごりょうにん)とも道真公にとっては御子息(ごしそく)に当たる訳で、天神様の名を傷つける事は無いかと思います。
敦茂公だったにせよ景行公だったにせよ、私達神奈川県民や関東人にとって坂東八平氏の祖である平良文公と共に神奈川県と関東地方の発展の基礎を築いて下さった大恩人である事は変わりません。
菅原道真公と御子息と平良文公に対し、永谷天満宮の存在がある事で感謝出来る事が大切なんだと思います。

和魂漢才
坂東武者の気概を大切に。
地元の文化と歴史を大切に。
あ!
この永谷天満宮は鎌倉の明月院や長谷寺程の大規模ではないものの、紫陽花の名所でもあります。
image
永谷天満宮の紫陽花を紹介した記事は「ココ」←クリック!
ちなみに永谷天満宮では今でも日本古来のお祭りを守っています。
これ「夏越(なごし)の大祓(おおはら)え」と呼ばれる祭りです。
茅で編んだ輪っかをくぐり抜け、半年間の厄落としをする古来から伝わるお祭りです。
ドンチャン騒ぎではなくて、昔からの儀式ですね。
でも蘇民祭と呼びフンドシ1枚で所謂(いわゆる)祭り的な催しをする地域もありますね。
皆さんの地元の神社も神主さんと氏子が守ってる神社は今でも茅の輪くぐる儀式をやってると思いますよ〜。

やってない神社は地域が移住者しかいなくて日本文化が廃れちゃったんですね。
皆さん、地元の偉人と歴史と文化を大切にしましょう。

永谷天満宮ホームページ
ココ」←クリック!
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ