記事に写真追加してリニューアルしました。
記事冒頭に政治の話題が有るので苦手な人は下の写真が、出る所までスクロールしてスッ飛ばして下さい。
コノ写真⤵
コレ⤴が再登場する場所までスクロールしてスッ飛ばして漢字の意味に対応した写真の部分だけ読んで下さいね!
――さて――
皆さんはマジックアワーは御存知でしょうか?私は最近インスタを多用する様に成って最近教えて貰った言葉です。
マジックアワーと言うのは日が沈んでから太陽光が雲と空だけを照らす完全に夜になる直前の時間帯を指す日本人の造語の様です。
その時間帯が薄明・曙・暘・黄昏・宵。
下の写真の様な色合い、日没後の時間帯を指します。
マジックアワー⤵
マジックアワーの後半“ブルーアワー”⤵
夕陽も綺麗ですが日没後15分後~30分後の方が富士山や夜景の撮影が綺麗だそうで、その時間帯を表現した言葉だそうです。
それを過ぎると凄く短いブルーアワーに変り更に時間が経って夜が来ます。
このマジックアワーに対応する漢字が実は日本では平安時代に貴族や鎌倉武士が教養として学んだ漢詩にその漢字が既に登場します。
薄明、曙、暘、黄昏、宵と言う時間帯による空の明るさを表現した感じが有るんです。
字が既に風流ですよね~。
その解説は後にしますが・・・
これらの漢字の表現や文化を取り入れ、日本の文化と精神と融合させ生まれた文化が平安文化です。
この平安文化の根幹が菅原道真公曰く“和魂漢才”で表される日本に合わせてチューニングして文化と学問を使い発展させてきました。
そこから武家政権が誕生すると関東に残る自然崇拝の日本の習俗に都の平安文化を合わせ、更に南宋の仏教文化を馴染ませ発展させたのが鎌倉文化。
・・・と独特の日本文化が生まれました。
平安~鎌倉を生きた人々は時間を表す言葉に対応する薄明、宵、暘等の漢字を導入し漢詩を読み和歌を詠み季節を感じて風流な文化を作って下さいました。
武士の時代が終焉を迎え明治時代が到来すると急速な西欧化が進みますが、大正時代に入ると少し急激な西欧化に元来の日本文化を見直し活用し双方の良い所をに取り入れた大正時代の華やかで壮麗な西洋建築の町並みに、広大な敷地に移築保護される社寺建築と武家建築の日本庭園が増えます。現代の無文化成金と違って当時の財閥の総帥達は日本文化と芸術の保護を進め、その流れは昭和最初期まで続きました。
平安~鎌倉の人も明治~大正の人も海外文化と技術知識を取り入れ日本に合わせて活用し文化と国と庶民の生活基盤を再構築した訳ですね。
正に菅原道真公の“和魂漢才”を更にアレンジした“和魂洋才”と言う四字熟語を実践し内外の文化や技術を発展させたのが幕末や明治に生まれて明治~大正時代~昭和最初期の時代を生き活躍した人々だった訳です。
最近、鬼滅の刃の時代考証したら改めて大正時代って素敵だなと思ったんですよね。
横浜開港記念会館 国指定重要文化財
下の写真は初秋に三浦半島の長浜(なはま)から撮影した和田義盛公居城の和田城の丘に昇る月です。
ブルーアワー、宵の頃ですね。
特に文化財の有効活用と保護を行っていない町が横浜に縁深い“あぶない刑事”で主演し、歴史大河でも織田信長公の役も演じた事の有る舘ひろしサンの出身地の愛知県江南市役所。
舘さんの演じた信長公の愛妻、吉乃様の菩提寺をガンとして寺院部分を史跡指定せず廃寺に追い込もうとしています。
絶対に他都府県の自治体の史跡保護の仕方と相対評価してないし下らないローカル前例主義。
詳しくは⤴コレを読んで見て下さい。
まぁ、こんな風に令和の現代人は文化軽視で風流さのかけらも無い街づくり?破壊?をする訳ですが、横浜市役所にチクリ・・・
今の何の季節感も仕掛けも無ぇ東京に大量に有る様な新市庁舎とか新山下の閑散としてるガンダムばっか作ってる横浜市役所の人、本当ちょっと昔の人見習って、やるなら風流な事やって。
カジノ林文子から山中市長に代替わりしたんだし文化と史跡保護とその活用をちゃんとやって欲しい。
この最近20年間~令和2年までと違って以前の再開発で都市設計されたミナト未来21地区の景観、ドッグヤードガーデンとか赤煉瓦倉庫とか汽車道の活用とか、大黒海釣り公園とか、ベイサイドマリーナとか埋立地の施設にも史跡文化財を活用した所や季節感を出して人が集うように計算されて作られた仕掛けが沢山有るんだわ。
薄明(はくめい)は漢文から輸入された朝方のマジックアワーの時間帯の表現ですね。
薄暗さの中に明るさが差し込み始め、空は宇宙の藍色が残り水平線にオレンジ色の線が浮かび上がる時間帯が“薄明”。夜だと“宵”と表現され、和製外来語だとブルーアワーですね。
——曙(あけぼの)の頃——
薄明(朝のブルーアワー)から太陽が水平線に近づくにつれて藍色と橙色が交わり空が白色に変りやがて水平線にピンク色が広がり見る見る空のオレンジ色が濃く成って行きます。
日は出ていなくても、この時間帯も綺麗です。
高秀市長の頃に第三セクターのベイサイドマリーナ建設担当の方が我々に残して下さったマリーナの個性を活かした秋分の日に暘(よう)の頃を楽しむ素敵な仕掛けが見られます。
——暘(よう)の頃——
太陽が姿を表す様が暘(よう)です。
描写としては時間帯も曙(あけぼの)に含まれる様です。
秋分の暘にベイサイドマリーナ社屋に朝陽が真っ直ぐに登って来るのですが、これエジプトのピラミッドとか神殿群と同次元の事をやっているんですよね。
当時の市長だった高秀市長がいかに文化度が高い都市計画を志していたか解る現象であり、それを理解して具体的に形に出来るブレーンが当時の市役所にはいたって事が判るんですよね。
暘(よう)は日本国の比喩としても中国では使われていたしそうです。
古代の中国では暘に谷の字を加え暘谷(ようこく)にすると日が昇る国である扶桑(FuSan:ふそう)を指し、暘“谷”=扶桑国=倭=邪馬台国=大和=日本の比喩の意味で漢詩に使われた単語でした。
12月冬の暘~曙にベイサイドマリーナの親水公園ではヨットの間から朝陽が昇る景色を見る事が出来ます。
どうでしょうか?
ベイサイドマリーナの“薄明”も捨てがたいけど“暘”も美しいでしょう~♪でもベイサイドマリーナは西側が陸で夕陽が海に沈まないので、三浦半島の付根、鎌倉市と逗子市の境目のリビエラ逗子マリーナ周辺で“黄昏”と“宵”の景色を見て見ましょう~♪
——黄昏の頃——
小坪飯島公園~逗子マリーナ
黄昏は日が落ちて黄昏の終りに差し掛かると空がオレンジより宇宙の藍色に少しづつ近づいて行きます。
この時間帯、皆さんが宵の頃とか良く使う日本人は酒飲みには多いかと思います、退社時間から暫くしてオッチャン達が居酒屋に行く時間ですね(笑)。
この時間帯、海岸で夕陽を見ていて日没後は帰路についてしまうでしょう?でももう少しいると神奈川県の三浦半島西岸~相模湾と伊豆半島西岸では富士山のシルエットが綺麗に浮かび上がって、空の青に黒のコントラストが綺麗な景色に成ります。
朝は朝で神奈川~静岡~山梨には早くから海や山頂に散歩に行くと富士山が朝のマジックアワーで綺麗に見える場所が沢山ありますよ♪
さて・・・
偉そうに解説した小生、実は今年までマジックアワーと言う単語を知りませんでしたwww。
・・・最初に教えてくれたのは横須賀市の塚山公園に英国空母クィーンエリザベスを見に行った時に、艦船写真撮影が趣味の初対面の名前も知らない先輩でした。
そこで、漢文の文化が日本人の文化に今も残っている事を少し紹介したいと思います・・・
——暦上の日本と中国の共通文化——
先程、時間帯を表す表現で宵(よい)の頃を紹介しました。
実は“宵”に関しては特に日本古来の特別な風習の1日にも関係が有ります。
中国では今も元宵節と言う冬の節分の習慣が残っています。
日本人の言う所の旧正月の第十五夜に行う御祭りで、つまりコレが日本の小正月の由来なんですね。
現在では何故か三賀日で終わってしまう風潮ですが、本来なら15日までが正月の祝日で元宵節=小正月が〆日なんですね。
本来は薄暗く成り始めたら町を提灯(ちょうちん)や行燈(あんどん)で飾り照らす御祭りでした。
私が中国に留学していた頃には爆竹をアホみたいに町中の皆で鳴らしまくって日が落ちてから夜中まで成りっぱなしで火薬の煙の臭いに燻された思い出が懐かしいです。
これが日本の小正月の由来な訳ですが・・・
つまり以前の記事でも紹介したのですが仁徳天皇と莵道稚郎子の御兄弟が漢皇室後裔の阿智使主(あちのおみ)に暦や政治制度を含む漢学を学んだ初代のなので、次代の履中天皇から日本の暦が古代の半年=1年から陰暦の12ヶ月=1年の計算方法に変っている事が歴代天皇の崩御の年齢から一目瞭然で解ります。
※縄文・弥生時代の平均寿命30歳
伝承年齢 → 1年=6ヶ月で再計算
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇 84歳 → 42.0歳
安寧天皇 67歳 → 33.5歳
懿徳天皇 77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳
成務天皇 107歳 → 53.5歳
仲哀天皇 53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇 70歳 → 35.0歳👈注目!
反正天皇 75歳 → 37.5歳
允恭天皇 78歳 → 37.5歳
安康天皇 56歳 → 28.0歳
雄略天皇 62歳 → 31.0歳
これを見ると仁徳天皇の次代、履中天皇から明らかに1年=12ヶ月に暦が変わっている事が判ります。
なので、どんと焼=小正月=元宵節も、その時に導入されている可能性が有る事が判ります。
逆に言うと古墳時代以来遅くとも1500年前から脈々と日本人は少し御祭りの形を和風に変えて、この古代の習慣を受け継いできている事が判りますね。
この行事が終了すると本格的に春の到来に成る訳ですが、中国で旧正月=春節と言うのは正に“春の節目”であり、他にも端午節、七夕節、中秋節と日本に輸入されている陰暦の季節の行事が漢字もそのまま暦として導入されている事も解る訳すが、当然ながら内容は変化が有りますよね。
例えば・・・
中秋の名月では食べる物が日本と中国で違っていますが、出来る限り近い事をしようとして文化に残っている事も解ります。
日本では中秋の名月に団子を御供えしますよね。
まぁ団子なので“餅”な訳です。
中国の文化でも“餅”を食べます月餅ですね。
ただ漢字の意味が今の日本と違って穀類由来のコネて作った物に餅と言う字を当てるので小麦粉由来の物にも“餅”の字を使います。
餅干と書くとビスケットに成っちゃったりしますしウィグル族のパンにも“餅”の字を当て嵌めます。
この様に古墳時代から日本では中国の暦や仏教文化の影響を飛鳥時代には形を変えて日本文化に融合し馴染み、村の鎮守の神社の氏子が集まり旧暦(陰暦)の暦が農業の共同作業にも役に立っていたり昔は村々の農家や町なら町人が、“どんと焼”で正月飾りを焼いた訳です。
今でも郊外の神社では“文化として保存する為に”わざわざ小学生を近隣の学校から招待して“どんと焼”を行ったり、氏子サンがシッカリしている場所は古代古墳時代の履中天皇が暦を改める以前の日本が1年=6ヶ月だった時代の風習の名残りが夏越大祓と冬越大祓として神事に有るんですね。
茅の輪くぐりを行う神事ですね。
そんな訳で日本の神社には中国から渡来した小正月の“どんと焼”や“七夕祭り”の風習も残るし、日本の伝統的な追儺祭の神事の風習に中国伝来の仏教の不殺生の哲学を実践する放生会が平安時代には融合されて池に生き物を放す習慣が出来たりしています。
今でも上賀茂神社と神奈川県相模国一之宮寒川神社では仏教の影響を受けていない古来の追儺祭の神事が行われています。
そんな訳で今でも神社や御寺では毎年1月15日前後にで正月飾りや去年(きょねん=中国語)の神棚の御札を“どんと焼”で処分して貰いますよね。
でもね、その“どんと焼”を新暦=西暦=太陽暦でやっては本来の農業と結びついた季節感の陰暦と旧暦の呼称と整合性が無くなってしまうんです。
例えば旧暦の正月で1年を始めなけれ睦月や水無月等の季語と季節感もズレてしまうんですね。
今の年賀状で昔のまま“迎春”とか書いてもアホらしいくらいに真冬でクッソ寒いでしょ(笑)?
今の季節感で水無月と言うと6月で梅雨じゃん!と成りますが、実際は月齢の陰暦だと梅雨明けの時期にちゃんとかかって当て嵌まるんですね。
更に旧暦は閏7月=閏文月も有ったり全く違うので、この混乱は旧暦の月名を無理矢理に明治政府の西暦導入時に当て嵌めてしまったから混乱を生んだんですね。
西暦(太陽暦)の運用と、神事は旧暦と分けて行えば良かったんですがね~。
今この記事を書いているのは西暦の2021年12月22日です。もういくつ寝ると御正月です。
・・・でも西暦での正月は未だ陰暦(月齢計算)では真冬の師走の最中なんですよ。
そもそも古代と師走の漢字も変わっていると思いますよ、完全に。
元々は師走(しわす)では意味不明な漢字に成ってしまいますが、これは100%当字でしょう。和尚さんが忙しく成るからなんてのは後付けでしかない。
本来は臘数(しわす)の漢字だったと考えられます。
この臘数=歳末と言う意味で仏教用語として現在の日本でも残っていますし中国由来ですから、もうそのままですね。
仏教の僧侶が出家してから男性なら比丘(びく)や女性なら比丘尼(びくに)と言う位階を得てからの年数を数える単位に用いられるそうです。
これについては“字通”と言う書籍に記載が有ります。
小生はこの説を支持します。旧暦に当て嵌めれば季節感も意味も暦の漢字とピッタリに成りますしね。
でもこの臘(しわ)の字をいつの時代にか音読みしか残らなくなり臘(ろう)とだけしか漢字の文化として発音が伝わらなくなったのは難読漢字で浸透せず師走(しはする→しわす)と言われる様に成ったと推測出来ます(当字の由来は推測www)。
どうでしょうかマジックアワーの写真撮影が得意なカメラマンの皆さん。
マジックアワーやブルーアワーやトワイライトの表現も何だか可愛らしいですよね。
漢文に使われた時間帯の表現、和文の季節感の暦も両方とも風流で“エモイ”でしょwww?
最後にもう一度、各時間帯の漢文の単語と情景を見比べて今回のブログ記事を終わりにしましょう。
——薄明(はくめい)――
朝のブルーアワー、日の出前の薄暗く明るく成り始める頃。
——暘(よう)――
朝陽が昇る様。
——曙(あけぼの)の頃——
太陽の昇る方向と反対の空を低い位置から陽光が照らすとピンク色の帯を作る。
太陽の昇る方角の空は少しづつオレンジ色に染まって行く。
二つの色の空を楽しめる時間帯。
——黄昏(たそがれ)の頃――
日没~黄昏時の夕焼けと青空、午後のマジックアワー。
——宵(よい)の頃――
午後のブルーアワー、陽の光がほぼ水平線を照らすだけになり宇宙の藍色と陰影の世界。
・・・漢詩に使われた時間帯の空のピンクとブルーとオレンジのコントラスト綺麗でしょ?
これを知ってから、薄明、曙、暘、黄昏、宵と漢字を見ると表現も風流で綺麗な情景が目に浮かびませんか?
朝焼けや夕焼けの写真が好きな人、機会が有ったら漢詩の表現を写真のタイトルに使ってみて下さいね~♪
また瑞穂埠頭の記事書かなかった(笑)。絶対に明日の夜書く!・・・と、思う。
記事を書く材料が揃ったので、ちょっと待ってて下さいね!
さて・・・
では次回❝こそ(笑)❞は、この記事⤴の続きの記事で御会いしましょう~♪
風引かないでね~!
記事冒頭に政治の話題が有るので苦手な人は下の写真が、出る所までスクロールしてスッ飛ばして下さい。
コノ写真⤵
コレ⤴が再登場する場所までスクロールしてスッ飛ばして漢字の意味に対応した写真の部分だけ読んで下さいね!
――さて――
皆さんはマジックアワーは御存知でしょうか?私は最近インスタを多用する様に成って最近教えて貰った言葉です。
マジックアワーと言うのは日が沈んでから太陽光が雲と空だけを照らす完全に夜になる直前の時間帯を指す日本人の造語の様です。
その時間帯が薄明・曙・暘・黄昏・宵。
下の写真の様な色合い、日没後の時間帯を指します。
マジックアワー⤵
マジックアワーの後半“ブルーアワー”⤵
夕陽も綺麗ですが日没後15分後~30分後の方が富士山や夜景の撮影が綺麗だそうで、その時間帯を表現した言葉だそうです。
それを過ぎると凄く短いブルーアワーに変り更に時間が経って夜が来ます。
このマジックアワーに対応する漢字が実は日本では平安時代に貴族や鎌倉武士が教養として学んだ漢詩にその漢字が既に登場します。
薄明、曙、暘、黄昏、宵と言う時間帯による空の明るさを表現した感じが有るんです。
字が既に風流ですよね~。
その解説は後にしますが・・・
これらの漢字の表現や文化を取り入れ、日本の文化と精神と融合させ生まれた文化が平安文化です。
この平安文化の根幹が菅原道真公曰く“和魂漢才”で表される日本に合わせてチューニングして文化と学問を使い発展させてきました。
そこから武家政権が誕生すると関東に残る自然崇拝の日本の習俗に都の平安文化を合わせ、更に南宋の仏教文化を馴染ませ発展させたのが鎌倉文化。
・・・と独特の日本文化が生まれました。
平安~鎌倉を生きた人々は時間を表す言葉に対応する薄明、宵、暘等の漢字を導入し漢詩を読み和歌を詠み季節を感じて風流な文化を作って下さいました。
武士の時代が終焉を迎え明治時代が到来すると急速な西欧化が進みますが、大正時代に入ると少し急激な西欧化に元来の日本文化を見直し活用し双方の良い所をに取り入れた大正時代の華やかで壮麗な西洋建築の町並みに、広大な敷地に移築保護される社寺建築と武家建築の日本庭園が増えます。現代の無文化成金と違って当時の財閥の総帥達は日本文化と芸術の保護を進め、その流れは昭和最初期まで続きました。
平安~鎌倉の人も明治~大正の人も海外文化と技術知識を取り入れ日本に合わせて活用し文化と国と庶民の生活基盤を再構築した訳ですね。
正に菅原道真公の“和魂漢才”を更にアレンジした“和魂洋才”と言う四字熟語を実践し内外の文化や技術を発展させたのが幕末や明治に生まれて明治~大正時代~昭和最初期の時代を生き活躍した人々だった訳です。
最近、鬼滅の刃の時代考証したら改めて大正時代って素敵だなと思ったんですよね。
横浜開港記念会館 国指定重要文化財
大正六年(1917)年完成の開港記念会館とか正に鬼滅の刃の炭治郎達が活躍した時代に作られていた建物な訳です。
当時の建物は本当に素敵なんですよ~。
大正時代は武士が受け継いだ鎌倉と京都の風流な漢字をアレンジした日本文化が現代より不断(ふんだん)に残り、多くの文豪が活躍し、更に明治に伝わった西洋文化と合わさった華やかな時代だったんだな~と解説を書いて思ったんです。
アノ時代、未だ日本人は漢字を風流に使いこなせていたんですよね~。
当時の建物は本当に素敵なんですよ~。
大正時代は武士が受け継いだ鎌倉と京都の風流な漢字をアレンジした日本文化が現代より不断(ふんだん)に残り、多くの文豪が活躍し、更に明治に伝わった西洋文化と合わさった華やかな時代だったんだな~と解説を書いて思ったんです。
アノ時代、未だ日本人は漢字を風流に使いこなせていたんですよね~。
昔ね武士達も貴族達も元は平安時代の貴族や皇族の末裔で教養として漢詩を“読み”、漢字を変化させた平仮名を使いこなして和歌も“詠み”、漢学を学習しながら独自の文化を発展させ平安文化から更に武家文化が生まれ鎌倉文化が生まれても源実朝公や金沢北条家等に貴族教養が受け継がれて行く事に成る訳です。
ブルーアワー、宵の頃ですね。
逢坂の関の清水にかげ見えて今やひくらん望月の駒 紀貫之
この和歌は八月十五夜(中秋の名月)に詠んだ物だそうです。
新秋夕 白居易
西風飄一葉
前庭颯已涼
前庭颯已涼
秋池明月水
衰蓮白露房
衰蓮白露房
其奈江南夜
綿綿自此長
綿綿自此長
この詩を詠んだ白居易が紫式部の御気に入りの詩人だった様で、著書の源氏物語では主人公の光源氏が白氏文集を所有している設定が有ります。
この歌を白居易が詠んだ江南地方(安徽省、江蘇省、上海、浙江省)の貴族や金持ちの屋敷は建物が庭園を囲むように組み込んだ“園林”と呼ばれる建築様式で、日本人がイメージする池その物や平等院の様な浄土形式庭園とも違います。
園林建築はこんな⤵感じ。
園林建築はこんな⤵感じ。
西風飄一葉
西風が吹いて葉が1枚舞ってるよ
前庭颯已涼
なんかもう屋敷内の前庭が涼やかな季節に成ったなぁ~
秋池明月水
秋らしく庭の池に明るい月が水に写ってるなぁ~
衰蓮白露房
時期が過ぎくたびれた蓮の茎に白露(しらつゆ)がしたたってるよ
其奈江南夜
どうしよっかなぁ~江南の秋の夜って(田舎だから)
※当時の都会は北の洛陽と長安で江南地方は自然が綺麗だけど都会じゃない。
※当時の都会は北の洛陽と長安で江南地方は自然が綺麗だけど都会じゃない。
綿綿自此長
これからずっと夜が長くなるなぁ~。
・・・まぁ、こんな感じ何かダルそうな感情を読んでる白楽天の漢詩とか古代の中国の文化を取り入れて“日の出”と“日の入り”や“月”の和歌や漢詩も昔の教養人は沢山の句に詠んで残しています。
この白居易と楊貴妃、染谷将太さん演じる空海和尚、阿部寛さんが演じる阿倍仲麻呂の4名を主人公にした映画が2018年公開された「空海」でした。
つまり日本の神話の舞台を積極的に保護した空海和尚の生きた唐の時代の風流な長安や洛陽の情景は、平安時代の人達の憧れだった事も解ったりする訳ですね~。
この様に昔の日本人は私達に時間や季節感や自国の文化も渡来文化も風流な物を本当に大切にし、私達にも情景の楽しみ方を伝えてくれています。
この様に昔の日本人は私達に時間や季節感や自国の文化も渡来文化も風流な物を本当に大切にし、私達にも情景の楽しみ方を伝えてくれています。
・・・で思ったんですよね~。
「アレ?」
「そう言えば昔の漢字の時間帯表現の方が現代の和製英語より素敵だな」
「アレ?」
「そう言えば昔の漢字の時間帯表現の方が現代の和製英語より素敵だな」
・・・って。
日本では時間帯や空の様子を細かく表す漢字の情景を詩で詠む事も出来るし写真を今でも撮影できます、物理的な意味でね。
日本では時間帯や空の様子を細かく表す漢字の情景を詩で詠む事も出来るし写真を今でも撮影できます、物理的な意味でね。
その古代に漢字を使い漢詩を詠んでいた中国では多分もう排気ガスで空がガスって大都会では綺麗な空の写真は撮影出来ず、日本と違い唐から受け継いだ文化も生活に中に垣間見える機会も有りません。
風流もへったくれも無い。
我々日本人は公害も1990年代終盤から改善させて、関東各地からは秋~冬~春にかけて海の水蒸気が少なくなると空気も綺麗に澄む日が増えて富士山が綺麗に見えると感動し生活の中でも記念行事や季節折々に和服を着て漢詩や和歌を詠み特別な御重を食べ神社や御寺で祭祀を執り行い唐に憧れ独自の平安文化や鎌倉文化を築いた貴族や武士の人々と今でも価値観を共有しています。これは海外と比較し素晴らしい文化だと思う。
現代日本では平安時代や大正時代と全く建物の外観的なセンスが違いますが都市計画と言う意味では神戸や横浜や横須賀市、東京の立川市辺りは景観を考えてるのが良い所ですね。
現代日本では平安時代や大正時代と全く建物の外観的なセンスが違いますが都市計画と言う意味では神戸や横浜や横須賀市、東京の立川市辺りは景観を考えてるのが良い所ですね。
横浜港は入航する船や以前は歩けたスカイウォークから富士山が見える様に成っているんですね。
最近は横須賀市は色々な近代要塞と神話の舞台を観光資源の公園化して再整備したり、小田原市も小田原城の復元に力を入れた御蔭でコロナ前は外国人の観光客が増えていました。
平成初期まで公害の酷かった川崎市もまぁ色々と中道保守から見て問題は有りますが都市計画では不毛な埋立地に川崎マリエンを展望台として観光客に解放し京浜工業地帯の夜景を売りにしたり、橘樹郡衙を発掘整備して国指定史跡に登録されたりと各都市の個性を活かそうと意識が高まっているようです。
自民党の“文化財危機宣言”も有って皆さんの住む県にも同じ様に史跡を観光資源利用したり都市景観の個性として活用したり上手く都市計画と町の個性と史跡や文化の保護の両立している場所は多く有ると思います。
もっとも横浜市は最近20年間全く個性を殺した都市計画しか行っておらず論外でしたが。
最近は横須賀市は色々な近代要塞と神話の舞台を観光資源の公園化して再整備したり、小田原市も小田原城の復元に力を入れた御蔭でコロナ前は外国人の観光客が増えていました。
平成初期まで公害の酷かった川崎市もまぁ色々と中道保守から見て問題は有りますが都市計画では不毛な埋立地に川崎マリエンを展望台として観光客に解放し京浜工業地帯の夜景を売りにしたり、橘樹郡衙を発掘整備して国指定史跡に登録されたりと各都市の個性を活かそうと意識が高まっているようです。
自民党の“文化財危機宣言”も有って皆さんの住む県にも同じ様に史跡を観光資源利用したり都市景観の個性として活用したり上手く都市計画と町の個性と史跡や文化の保護の両立している場所は多く有ると思います。
もっとも横浜市は最近20年間全く個性を殺した都市計画しか行っておらず論外でしたが。
特に文化財の有効活用と保護を行っていない町が横浜に縁深い“あぶない刑事”で主演し、歴史大河でも織田信長公の役も演じた事の有る舘ひろしサンの出身地の愛知県江南市役所。
舘さんの演じた信長公の愛妻、吉乃様の菩提寺をガンとして寺院部分を史跡指定せず廃寺に追い込もうとしています。
絶対に他都府県の自治体の史跡保護の仕方と相対評価してないし下らないローカル前例主義。
詳しくは⤴コレを読んで見て下さい。
まぁ、こんな風に令和の現代人は文化軽視で風流さのかけらも無い街づくり?破壊?をする訳ですが、横浜市役所にチクリ・・・
今の何の季節感も仕掛けも無ぇ東京に大量に有る様な新市庁舎とか新山下の閑散としてるガンダムばっか作ってる横浜市役所の人、本当ちょっと昔の人見習って、やるなら風流な事やって。
カジノ林文子から山中市長に代替わりしたんだし文化と史跡保護とその活用をちゃんとやって欲しい。
この最近20年間~令和2年までと違って以前の再開発で都市設計されたミナト未来21地区の景観、ドッグヤードガーデンとか赤煉瓦倉庫とか汽車道の活用とか、大黒海釣り公園とか、ベイサイドマリーナとか埋立地の施設にも史跡文化財を活用した所や季節感を出して人が集うように計算されて作られた仕掛けが沢山有るんだわ。
こう言う仕掛けが有るのは高秀市長や当時の市役所職員の文化的素養が高かったから。
横浜市役所が林文子時代にやった事、全部クソつまらんし自然破壊、景観破壊、史跡破壊ばっか!
センター南の史跡保護を見習って飛鳥時代~平安時代の可動期間を誇り且つ規模が日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡の国指定史跡化と横浜市南部最大の蛍生息地の瀬上沢の完全保護と自然公園指定、そして戦国時代の北条家の重要拠点で❝続日本の100名城❞の1つ小机城址と、神奈川区の旧高島線引込線に有る❝日本最古の溶接建造の鉄橋である高島線瑞穂鉄橋❞と線路の国指定史跡化はどっからどう見ても必須。
瑞穂鉄橋と高島線の線路を赤煉瓦倉庫みたいに活用した瑞穂埠頭再開発を成功させて、今の横浜の観光資源や美しい都市計画が成功して人口増加しているセンター南や、今の赤煉瓦倉庫周辺の高秀市長の様に史跡保護と自然環境の魅力を完全に残し横浜の歴史文化の個性を活用した素敵な都市開発参考にして“レガシィ”にして下さいね。
東京のコピーとか本当、2番煎じだらけにしたらコピペされる東京にも失礼だし無個性だから。
――ここから時間の漢字の話――
浅草の昔の写真とか見ても大正時代の人の町作りって素敵ですよね~!
これ⤴以前にも紹介したのですが原三溪サンの原財閥が創設した旧第二銀行=横浜銀行が明治~大正~昭和の昔の風景と現在の風景を比較する面白いコンテンツを作ってくれているので、是非皆さん見て見て下さいね♪
さて、そんな訳で大正時代の人は古代中国で生まれた薄明、曙、暘、黄昏、宵の各時間帯の美しさを表す漢字で漢詩や和歌を風流に詠み、和服と洋服を着こなして西洋建築と日本庭園を大切にし、文学でも街並みでも和洋折衷、オシャレを地で実践し西洋式の綺麗な町と自然と神社仏閣のを沢山私達に残してくれた訳ですが・・・
・・・これ⤴曙と言われる時間帯です。
漢字が時間帯を表すって言われても情景がピンと来なくても写真で見ると解り易(やす)いですよね?
そこで小生の写真で時間帯の空の様子を見て頂いてから、この時間の感覚と日本文化の繋がりも書いて見たいと思います。
では薄明、曙、暘、黄昏、宵の時間帯を横浜ベイサイドマリーナと逗子マリーナの写真で解説します。
スタート!⤵
——薄明(はくめい)の頃——横浜市役所が林文子時代にやった事、全部クソつまらんし自然破壊、景観破壊、史跡破壊ばっか!
センター南の史跡保護を見習って飛鳥時代~平安時代の可動期間を誇り且つ規模が日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡の国指定史跡化と横浜市南部最大の蛍生息地の瀬上沢の完全保護と自然公園指定、そして戦国時代の北条家の重要拠点で❝続日本の100名城❞の1つ小机城址と、神奈川区の旧高島線引込線に有る❝日本最古の溶接建造の鉄橋である高島線瑞穂鉄橋❞と線路の国指定史跡化はどっからどう見ても必須。
瑞穂鉄橋と高島線の線路を赤煉瓦倉庫みたいに活用した瑞穂埠頭再開発を成功させて、今の横浜の観光資源や美しい都市計画が成功して人口増加しているセンター南や、今の赤煉瓦倉庫周辺の高秀市長の様に史跡保護と自然環境の魅力を完全に残し横浜の歴史文化の個性を活用した素敵な都市開発参考にして“レガシィ”にして下さいね。
東京のコピーとか本当、2番煎じだらけにしたらコピペされる東京にも失礼だし無個性だから。
――ここから時間の漢字の話――
浅草の昔の写真とか見ても大正時代の人の町作りって素敵ですよね~!
これ⤴以前にも紹介したのですが原三溪サンの原財閥が創設した旧第二銀行=横浜銀行が明治~大正~昭和の昔の風景と現在の風景を比較する面白いコンテンツを作ってくれているので、是非皆さん見て見て下さいね♪
さて、そんな訳で大正時代の人は古代中国で生まれた薄明、曙、暘、黄昏、宵の各時間帯の美しさを表す漢字で漢詩や和歌を風流に詠み、和服と洋服を着こなして西洋建築と日本庭園を大切にし、文学でも街並みでも和洋折衷、オシャレを地で実践し西洋式の綺麗な町と自然と神社仏閣のを沢山私達に残してくれた訳ですが・・・
・・・これ⤴曙と言われる時間帯です。
漢字が時間帯を表すって言われても情景がピンと来なくても写真で見ると解り易(やす)いですよね?
そこで小生の写真で時間帯の空の様子を見て頂いてから、この時間の感覚と日本文化の繋がりも書いて見たいと思います。
では薄明、曙、暘、黄昏、宵の時間帯を横浜ベイサイドマリーナと逗子マリーナの写真で解説します。
スタート!⤵
横浜ベイサイドマリーナ(YBM)親水公園
空が未だ宇宙の藍色で漸(ようや)く空が薄ら明るく成って来て、これから陽光が差し始める写真が丁度、薄明の時間帯です。薄明(はくめい)は漢文から輸入された朝方のマジックアワーの時間帯の表現ですね。
薄暗さの中に明るさが差し込み始め、空は宇宙の藍色が残り水平線にオレンジ色の線が浮かび上がる時間帯が“薄明”。夜だと“宵”と表現され、和製外来語だとブルーアワーですね。
——曙(あけぼの)の頃——
薄明(朝のブルーアワー)から太陽が水平線に近づくにつれて藍色と橙色が交わり空が白色に変りやがて水平線にピンク色が広がり見る見る空のオレンジ色が濃く成って行きます。
日は出ていなくても、この時間帯も綺麗です。
高秀市長の頃に第三セクターのベイサイドマリーナ建設担当の方が我々に残して下さったマリーナの個性を活かした秋分の日に暘(よう)の頃を楽しむ素敵な仕掛けが見られます。
——暘(よう)の頃——
太陽が姿を表す様が暘(よう)です。
描写としては時間帯も曙(あけぼの)に含まれる様です。
秋分の暘にベイサイドマリーナ社屋に朝陽が真っ直ぐに登って来るのですが、これエジプトのピラミッドとか神殿群と同次元の事をやっているんですよね。
当時の市長だった高秀市長がいかに文化度が高い都市計画を志していたか解る現象であり、それを理解して具体的に形に出来るブレーンが当時の市役所にはいたって事が判るんですよね。
暘(よう)は日本国の比喩としても中国では使われていたしそうです。
古代の中国では暘に谷の字を加え暘谷(ようこく)にすると日が昇る国である扶桑(FuSan:ふそう)を指し、暘“谷”=扶桑国=倭=邪馬台国=大和=日本の比喩の意味で漢詩に使われた単語でした。
12月冬の暘~曙にベイサイドマリーナの親水公園ではヨットの間から朝陽が昇る景色を見る事が出来ます。
どうでしょうか?
ベイサイドマリーナの“薄明”も捨てがたいけど“暘”も美しいでしょう~♪でもベイサイドマリーナは西側が陸で夕陽が海に沈まないので、三浦半島の付根、鎌倉市と逗子市の境目のリビエラ逗子マリーナ周辺で“黄昏”と“宵”の景色を見て見ましょう~♪
——黄昏の頃——
小坪飯島公園~逗子マリーナ
日没直前~黄昏(たそがれ)の頃が午後のマジックアワーですね。
黄色や赤に海が夕陽を反射する時間が過ぎて太陽が完全に沈んで暫くすると水平線の向こうから夕陽が雲だけを照らし空が日没直前より空だけを明るくピンクや赤に照らします。
黄色や赤に海が夕陽を反射する時間が過ぎて太陽が完全に沈んで暫くすると水平線の向こうから夕陽が雲だけを照らし空が日没直前より空だけを明るくピンクや赤に照らします。
黄昏は日が落ちて黄昏の終りに差し掛かると空がオレンジより宇宙の藍色に少しづつ近づいて行きます。
この時間帯、皆さんが宵の頃とか良く使う日本人は酒飲みには多いかと思います、退社時間から暫くしてオッチャン達が居酒屋に行く時間ですね(笑)。
この時間帯、海岸で夕陽を見ていて日没後は帰路についてしまうでしょう?でももう少しいると神奈川県の三浦半島西岸~相模湾と伊豆半島西岸では富士山のシルエットが綺麗に浮かび上がって、空の青に黒のコントラストが綺麗な景色に成ります。
朝は朝で神奈川~静岡~山梨には早くから海や山頂に散歩に行くと富士山が朝のマジックアワーで綺麗に見える場所が沢山ありますよ♪
さて・・・
偉そうに解説した小生、実は今年までマジックアワーと言う単語を知りませんでしたwww。
・・・最初に教えてくれたのは横須賀市の塚山公園に英国空母クィーンエリザベスを見に行った時に、艦船写真撮影が趣味の初対面の名前も知らない先輩でした。
この記事⤵を書いていた時期ですね。
この記事⤴で米国海軍の空母カールビンソンを撮影した時間帯は“不本意ながら”黄昏刻を通り越し宵の頃の時間帯でしたwww。
小生はカメラ専門の風景写真オタクが趣味の中心ではなくて歴史オタクの副産物として写真を撮ってたら親切な見ず知らずのカメラ好きな先輩方に色々と教えて貰ったクチの人間なので、マジックアワーと言うワードより先に中国語の漢文の単語の方が馴染みが有ったんです。最近インスタを多用する様に成って皆さんのマジックアワーと言う所の表現が漸く脳内で曙、宵等の言葉と結びつきました。
で、漢文に興味の無い皆さんにも先程写真を見て頂いたので黄昏や宵と言う夜に入った時間帯の情景が何となく伝わったと思います。この記事⤴で米国海軍の空母カールビンソンを撮影した時間帯は“不本意ながら”黄昏刻を通り越し宵の頃の時間帯でしたwww。
小生はカメラ専門の風景写真オタクが趣味の中心ではなくて歴史オタクの副産物として写真を撮ってたら親切な見ず知らずのカメラ好きな先輩方に色々と教えて貰ったクチの人間なので、マジックアワーと言うワードより先に中国語の漢文の単語の方が馴染みが有ったんです。最近インスタを多用する様に成って皆さんのマジックアワーと言う所の表現が漸く脳内で曙、宵等の言葉と結びつきました。
そこで、漢文の文化が日本人の文化に今も残っている事を少し紹介したいと思います・・・
——暦上の日本と中国の共通文化——
先程、時間帯を表す表現で宵(よい)の頃を紹介しました。
実は“宵”に関しては特に日本古来の特別な風習の1日にも関係が有ります。
中国では今も元宵節と言う冬の節分の習慣が残っています。
日本人の言う所の旧正月の第十五夜に行う御祭りで、つまりコレが日本の小正月の由来なんですね。
現在では何故か三賀日で終わってしまう風潮ですが、本来なら15日までが正月の祝日で元宵節=小正月が〆日なんですね。
本来は薄暗く成り始めたら町を提灯(ちょうちん)や行燈(あんどん)で飾り照らす御祭りでした。
私が中国に留学していた頃には爆竹をアホみたいに町中の皆で鳴らしまくって日が落ちてから夜中まで成りっぱなしで火薬の煙の臭いに燻された思い出が懐かしいです。
これが日本の小正月の由来な訳ですが・・・
つまり以前の記事でも紹介したのですが仁徳天皇と莵道稚郎子の御兄弟が漢皇室後裔の阿智使主(あちのおみ)に暦や政治制度を含む漢学を学んだ初代のなので、次代の履中天皇から日本の暦が古代の半年=1年から陰暦の12ヶ月=1年の計算方法に変っている事が歴代天皇の崩御の年齢から一目瞭然で解ります。
※縄文・弥生時代の平均寿命30歳
伝承年齢 → 1年=6ヶ月で再計算
神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇 84歳 → 42.0歳
安寧天皇 67歳 → 33.5歳
懿徳天皇 77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳
成務天皇 107歳 → 53.5歳
仲哀天皇 53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇 70歳 → 35.0歳👈注目!
反正天皇 75歳 → 37.5歳
允恭天皇 78歳 → 37.5歳
安康天皇 56歳 → 28.0歳
雄略天皇 62歳 → 31.0歳
これを見ると仁徳天皇の次代、履中天皇から明らかに1年=12ヶ月に暦が変わっている事が判ります。
なので、どんと焼=小正月=元宵節も、その時に導入されている可能性が有る事が判ります。
逆に言うと古墳時代以来遅くとも1500年前から脈々と日本人は少し御祭りの形を和風に変えて、この古代の習慣を受け継いできている事が判りますね。
この行事が終了すると本格的に春の到来に成る訳ですが、中国で旧正月=春節と言うのは正に“春の節目”であり、他にも端午節、七夕節、中秋節と日本に輸入されている陰暦の季節の行事が漢字もそのまま暦として導入されている事も解る訳すが、当然ながら内容は変化が有りますよね。
例えば・・・
中秋の名月では食べる物が日本と中国で違っていますが、出来る限り近い事をしようとして文化に残っている事も解ります。
日本では中秋の名月に団子を御供えしますよね。
まぁ団子なので“餅”な訳です。
中国の文化でも“餅”を食べます月餅ですね。
ただ漢字の意味が今の日本と違って穀類由来のコネて作った物に餅と言う字を当てるので小麦粉由来の物にも“餅”の字を使います。
餅干と書くとビスケットに成っちゃったりしますしウィグル族のパンにも“餅”の字を当て嵌めます。
この様に古墳時代から日本では中国の暦や仏教文化の影響を飛鳥時代には形を変えて日本文化に融合し馴染み、村の鎮守の神社の氏子が集まり旧暦(陰暦)の暦が農業の共同作業にも役に立っていたり昔は村々の農家や町なら町人が、“どんと焼”で正月飾りを焼いた訳です。
今でも郊外の神社では“文化として保存する為に”わざわざ小学生を近隣の学校から招待して“どんと焼”を行ったり、氏子サンがシッカリしている場所は古代古墳時代の履中天皇が暦を改める以前の日本が1年=6ヶ月だった時代の風習の名残りが夏越大祓と冬越大祓として神事に有るんですね。
茅の輪くぐりを行う神事ですね。
そんな訳で日本の神社には中国から渡来した小正月の“どんと焼”や“七夕祭り”の風習も残るし、日本の伝統的な追儺祭の神事の風習に中国伝来の仏教の不殺生の哲学を実践する放生会が平安時代には融合されて池に生き物を放す習慣が出来たりしています。
今でも上賀茂神社と神奈川県相模国一之宮寒川神社では仏教の影響を受けていない古来の追儺祭の神事が行われています。
そんな訳で今でも神社や御寺では毎年1月15日前後にで正月飾りや去年(きょねん=中国語)の神棚の御札を“どんと焼”で処分して貰いますよね。
でもね、その“どんと焼”を新暦=西暦=太陽暦でやっては本来の農業と結びついた季節感の陰暦と旧暦の呼称と整合性が無くなってしまうんです。
例えば旧暦の正月で1年を始めなけれ睦月や水無月等の季語と季節感もズレてしまうんですね。
今の年賀状で昔のまま“迎春”とか書いてもアホらしいくらいに真冬でクッソ寒いでしょ(笑)?
今の季節感で水無月と言うと6月で梅雨じゃん!と成りますが、実際は月齢の陰暦だと梅雨明けの時期にちゃんとかかって当て嵌まるんですね。
更に旧暦は閏7月=閏文月も有ったり全く違うので、この混乱は旧暦の月名を無理矢理に明治政府の西暦導入時に当て嵌めてしまったから混乱を生んだんですね。
西暦(太陽暦)の運用と、神事は旧暦と分けて行えば良かったんですがね~。
今この記事を書いているのは西暦の2021年12月22日です。もういくつ寝ると御正月です。
・・・でも西暦での正月は未だ陰暦(月齢計算)では真冬の師走の最中なんですよ。
そもそも古代と師走の漢字も変わっていると思いますよ、完全に。
元々は師走(しわす)では意味不明な漢字に成ってしまいますが、これは100%当字でしょう。和尚さんが忙しく成るからなんてのは後付けでしかない。
本来は臘数(しわす)の漢字だったと考えられます。
この臘数=歳末と言う意味で仏教用語として現在の日本でも残っていますし中国由来ですから、もうそのままですね。
仏教の僧侶が出家してから男性なら比丘(びく)や女性なら比丘尼(びくに)と言う位階を得てからの年数を数える単位に用いられるそうです。
これについては“字通”と言う書籍に記載が有ります。
小生はこの説を支持します。旧暦に当て嵌めれば季節感も意味も暦の漢字とピッタリに成りますしね。
でもこの臘(しわ)の字をいつの時代にか音読みしか残らなくなり臘(ろう)とだけしか漢字の文化として発音が伝わらなくなったのは難読漢字で浸透せず師走(しはする→しわす)と言われる様に成ったと推測出来ます(当字の由来は推測www)。
どうでしょうかマジックアワーの写真撮影が得意なカメラマンの皆さん。
マジックアワーやブルーアワーやトワイライトの表現も何だか可愛らしいですよね。
漢文に使われた時間帯の表現、和文の季節感の暦も両方とも風流で“エモイ”でしょwww?
最後にもう一度、各時間帯の漢文の単語と情景を見比べて今回のブログ記事を終わりにしましょう。
——薄明(はくめい)――
朝のブルーアワー、日の出前の薄暗く明るく成り始める頃。
——暘(よう)――
朝陽が昇る様。
——曙(あけぼの)の頃——
太陽の昇る方向と反対の空を低い位置から陽光が照らすとピンク色の帯を作る。
太陽の昇る方角の空は少しづつオレンジ色に染まって行く。
二つの色の空を楽しめる時間帯。
——黄昏(たそがれ)の頃――
日没~黄昏時の夕焼けと青空、午後のマジックアワー。
——宵(よい)の頃――
午後のブルーアワー、陽の光がほぼ水平線を照らすだけになり宇宙の藍色と陰影の世界。
・・・漢詩に使われた時間帯の空のピンクとブルーとオレンジのコントラスト綺麗でしょ?
これを知ってから、薄明、曙、暘、黄昏、宵と漢字を見ると表現も風流で綺麗な情景が目に浮かびませんか?
朝焼けや夕焼けの写真が好きな人、機会が有ったら漢詩の表現を写真のタイトルに使ってみて下さいね~♪
また瑞穂埠頭の記事書かなかった(笑)。絶対に明日の夜書く!・・・と、思う。
記事を書く材料が揃ったので、ちょっと待ってて下さいね!
さて・・・
では次回❝こそ(笑)❞は、この記事⤴の続きの記事で御会いしましょう~♪
風引かないでね~!