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タグ:蒔田吉良家

横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
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小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
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その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、続きの記事で紹介したいと思います。
次に続く⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。




本日、日本は旧暦の小正月。
いよいよ、旧暦の正月も終わり季節も本格的に花やぐ春に入ります。
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今年は猪年。
因(ちな)みに日本で猪(いのしし)の意味で使われている“猪”の漢字ですが、本来の意味は“豚”です。
“豚”の本来の漢字の意味は日本語の“瓜坊(うりぼう)=子猪”の意味です。
日本人の言う所の豚は漢字では白猪と呼ばれています。黒豚なら黒猪に成るのかな(笑)?
中国、台湾、香港、マレーシア等の中華文化圏では豚は富の象徴であり財運と結び付けられています。
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日本で言えば井伊家の殿様を出世させた事で幸運の象徴化された世田谷豪徳寺発祥の“招き猫”文化みたいなモノかな?
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まぁ、だから彦根市のゆるキャラは彦根城主の井伊家の殿様、井伊直孝公の兜(かぶと)を被(かぶ)った豪徳寺の招き猫をデザインした“ひこにゃん”なんですよ。
そこら辺は以前、豪徳寺紹介記事で解説してるので御興味有る方は読んで見て下さい。
下⤵️クリックで記事リンク

それと小正月は満月を見る古代の祭事に由来しているんですよ~♪

明晩は満月🌕ですね~♪
だから猪=豚+金色の満月=金豚=発財=財運向上の日です(笑)。
なので写真も金豚(笑)。

神話の時代は考古学の縄文~弥生~古墳時代に当たりますが、当時の人々の生活と神社に残る神事は実は密接にリンクしてるんです。

現代の太陽崇拝の影響を受けた太陽暦で活動する欧州文化圏の暦に明治時代に改められる以前は、タイや台湾等のアジアの友邦と同じく日本でも月の満ち欠けを暦の基準にした陰暦(旧暦)で世界を見ていたんです。
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この間の皆既月食の写真ですが、古代の人にとって皆既月食はさぞかし恐怖に感じたんでしょうね~。
渡来人が来て稲作が持ち込まれる以前の我々日本の本来の在来種は縄文系の海洋民族遺伝子なので、海の潮の満ち引きに深い関係の有る月が生活の基準で、太陽信仰よりも月読(つきよみ)の神様つまり月読命(つくよみのみこと)が生活基盤だった名残りが今も有るんですよ~♪
今でも神職の方々が念じる蘇民祭=半年毎の大祓神事で祝詞(のりと)の口上は、天皇家の直接の皇祖神の天照大神ではなく、日本の原形=民族集団=各氏族の祖先神(部族長)の治める村々=原初の国々を生み出した、つまり初期の統治機構や交易の流通網を作り出したであろう伊邪那美命と伊邪那岐命の女夫(めおと)神様の名前ですよね。
その女夫神様から夜の世界を任せられたのが月読命で、大祓神事で半年間の“厄除”“魔除”“悪行をチャラ(笑)に”する御利益を授けて下さる素戔嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)=武塔天神(むとうてんじん)様が治められた“海の世界”の生活にも深く関わっているんです。

あぁ~そうそう。
小生は敢えて夫婦(ふうふ)の字で夫婦(めおと)と書かずに江戸時代迄の人と同じ様に女夫(めおと)と書きます。
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“めおと”に夫婦の漢字を当て嵌めるのも近現代の漢字誤植ですから嫌いなんですよ。
同じ意味だから当て嵌めちゃったんですね。
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鎌倉観光すると昔からの鎌倉名物は女夫饅頭なので知ってる人も多いかも知れませんね。
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溝(みぞ)と書いて溝(どぶ)と読ませるのも近現代の漢字誤植です。
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田舎の人や城廓ファンは知ってますがドブは発音の通り“土腐(どぶ)”と正しくは書きます。
これは漢語ではなく、ずっと使われている日本語です。
よく城の沼堀の解説なんなかで目にします。

そして大祓は半年毎ですが、古代の人の1年は半年間でカウントしてたのだろうと言うのが最近の考古学の説だそうです。

途中から天照大神が重視されたのは、卑弥呼の頃の弥生時代の終わり~古墳時代の始まりに稲作が大々的に普及して生活基盤が農耕に移行したから、作物の実りや農耕に必要な灌漑用水の水の確保に支障が出る旱魃(かんばつ)=日照り=気温や日照時間、つまり天候と直接関係関係深い太陽信仰が重視されたからかも知れませんね。

さて!
今日、明日が発展と財運向上の金豚(笑)の日、御目出度(おめでた)い日です。
我々日本人の使う平仮名、片仮名、和体漢字のルーツ、漢字発祥地の漢人や友邦台湾の人なら日本の恭喜發財の日(笑)かな?

そして明日の満月の日~水戸市では水戸梅祭りが始まりますね~。
土曜日は皇太子殿下が天皇に即位される前の皇太子として最後のお誕生日でもあります。

皆さんにとっとも小生にとっても世界中の親日国の人にとっても向上と進歩と実りと幸の多い1年間に成ります様に~。



さて、今回はタイトルと記事こそ分けて書きますが2つの御寺と殿様の歴史を2回セットの記事にして解説したいと思います。
1つは龍珠院、横浜市磯子区の御寺です。2つ目は伝心寺、横浜市金沢区の御寺です。
今回の記事では龍珠院と玉縄北条家についての歴史を解説します。
ゆず

皆さんは❝ゆず❞の地元の横浜市磯子区岡村町に戦国時代関東最強の武将が開いた御寺が在る事を御存知でしょうか?その御寺の名前は泉谷山 龍珠院と言います。
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泉谷山 龍珠院龍珠院を開いたのは北条綱成と言う武将です。この方を果たして皆さんは御存知でしょうか?
北条綱成
※画:KOEI信長の野望創造戦国立志伝より拝借
戦国時代末期の関東最強の武将として戦国時代の歴史好きや歴史シミュレーションゲーム好きには有名ですが、教科書に載る事は無いので歴史に興味の無い人は全く知らない小田原北条家の武将です。
北条綱成公は今のJR大船駅近くに在った玉縄城主で重要な合戦には必ず参戦していました。
三つ鱗紋
北条家三鱗紋
竹に雀紋
上杉家竹に二羽飛び雀紋
関東管領上杉家連合軍と北条家の抗争では不利な河越合戦で3千の兵を指揮して上杉連合軍8万を相手に半年間も河越城(現:川越市川越城址)の防衛戦に成功します。
そして義兄弟で主君でもある北条氏康公の援軍8千と合わせ1万1千で上杉連合軍を壊滅させ関東を制覇する契機を作り出した名将です。
北条氏康
※画:KOEI信長の野望大志より拝借
ゲームだと若い頃の渡哲也さん似に描かれている強面(こわもて)イケメンの北条氏康公、実はこの絵、肖像画に似ていない事も無いんです(笑)が、今回は氏康公の回では無いので肖像画解説は無し(笑)。
その他にも玉縄城主北条綱成公は武田家と同盟後の北条家で陣代(主将代理)として武田家救援軍を指揮して信濃へ遠征したり、武田家と北条家の対立後は玉縄衆家老の間宮康俊公や其の子の間宮康信公と共に武田家が浸食した今川領駿河国北部を瞬く間に奪還した名将でした。
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隅立て四ツ目結び紋間宮(近江源氏佐々木)家:隅立て四つ目結び紋
間宮家は鎌倉時代の名将として名高い佐々木高綱公の同族の子孫で、近江源氏佐々木家の氏神である沙沙貴神社宮司家の子孫から武士化して室町時代に初代鎌倉公方の足利基氏公の配下と成って伊豆に移住した一族です。
綱成公は河越城の合戦の後に、第二次国府台合戦でも軍師間宮康俊公を始めとした黄備え隊と共に参戦し、本隊が苦戦する中、迂回奇襲を仕掛けて北条軍を勝利に導く大活躍をしています。
更には深沢城の籠城戦では深沢城代として善戦し、敵の武田信玄を相手に圧倒的不利な戦力差にも関わらず武田勢を苦戦させる事に成功し後は北条家当主の北条氏政公の本隊援軍の到着を待って挟撃する寸前に戦況を持ち堪えさせた程でした。
が!深沢城防衛は結果的に失敗で、軍才と統率力が無い新当主の北条氏政公が率いる本隊の出発も行軍も鈍重で間に合わず、その上、武田家の金山で鉱石採取をする特殊部隊の工兵による水脈断ちを受けて堀の水や井戸水が不足し戦線維持が困難に成り撤退する羽目に成りました。
しかし、この北条綱成公の歴戦の戦績と武勇を当時高く評価していたのが敵だった❝武田信玄❞と❝上杉謙信❞でした。
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※画:諏訪原寛幸先生
武田信玄は深沢城を北条綱成公から引き渡された際に、北条綱成公の玉縄北条家と家老の間宮康俊公率いる❝北条五色備え❞の部隊の内、❝黄備え隊❞の軍旗である朽葉色(くちはいろ:濃黄色)に八幡大菩薩と書かれた❝地黄八幡❞の旗印が城に残されていたのを見つけました。その旗を手に取り、武田信玄が重用していた真田一族に対して「地黄八幡の武勇に肖(あやか)り真田の家宝とせよ」と旗を信州まで持ち帰らせたほどのリスペクト振りでした。余談ですがその旗は今でも長野県松代市の真田宝物館で大切に保管されていたりします。
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※画:諏訪原寛幸先生
そして、この深沢城の落城と北条綱成公の敗戦を誰よりも悔しがったのが❝上杉謙信❞でした(笑)。
実は上杉謙信は鎌倉市の玉縄城を12万の大軍で攻めた際に玉縄城を攻めあぐねて落とせず、仕方なく撤退して小田原城を目指さざるを得ない煮え湯を飲まされた経験が有る上に、度々、玉縄衆黄備え隊に苦戦させられた武将の一人でした。よっぽど悔しかったのか玉縄城の要塞が存在する藤沢の土地を朝廷に寄進すると言って見たり実効性の無い嫌がらせもしています(笑)。
まだ北条家と武田家が同盟していた時代に上杉謙信が信濃国の上田方面を攻めた際に武田家を救援したのも正に北条綱成公と黄備え隊だったんですね。
因(ちな)みに玉縄城で上杉謙信を迎撃して撤退させた上に、上杉連合軍が占領した現在の神奈川県東部を取り返した猛将は北条綱成公では無く、その子息の北条氏繁公でした。北条氏繁公も又、名将として高い実績を誇っているのですが何故かゲームでは戦闘力70代後半と過小評価されていたりします(笑)。
上杉謙信は度々、北条家最強部隊の玉縄衆黄備え隊と北条綱成公と北条氏繁公親子に局地戦で負けた経験が有るので、深沢城で武田信玄が北条綱成公を撤退させた事が大変悔しかった様で「地黄八幡が負けた・・・」とボヤいた事が現代に伝わっていたりします(笑)。
北条氏綱公
そんな北条綱成公の才覚を見抜いて養子にとり娘の婿に迎えたのが北条家二代目の北条氏綱公でした。
北条氏綱公は余り知らない人も多いかも知れません。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
氏綱公よりも、その父の北条早雲公や息子で三代目の北条氏康公が日本屈指の内政力と善政と勝負強さで有名ですが、実は北条家の中でも岡崎城、糟屋舘、大庭城、新井城等の関東有数の規模の堅城への攻城戦で実績を残したのは時代的には北条氏綱公の代の出来事だと解っています。つまり北条家の中で善政に長けているだけなく一番❝侵略❞に長けていた武将が北条氏綱公だったのですが、その方に見込まれて婿養子に成ったのが北条綱成公だった訳です。
さて、戦国時代の歴史を好きな人には北条綱成公が関わった神社や御寺として鶴岡八幡宮や菩提寺の鎌倉市植木の❝龍寶寺❞は有名です。
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陽谷山 龍寶寺
ブログ開始初期に書いた拙い解説記事→JR大船駅の殿様!黄備隊大将の北条綱成公と玉縄城。上杉謙信や武田信玄より強い。←クリックすると読めます♪
その龍寳寺と同じく玉縄北条家の支援の下で寺院として成立したのが横浜市磯子区岡村の龍珠院です。
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龍珠院には歴史を書いた石碑が御庭の真ん中に立てられています。
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しかし、この解説は少し間違っています。では歴史事実を文献から紐解いてみましょう。
新編武蔵風土記稿によれば以下の解説が有ります・・・
~前略~
(久良岐)郡内町屋村傳心寺末、泉谷山と号す、本尊十一面観音を安(置)す、本堂七間に五間、開山を養拙宗牧と號す、
~中略~
開基は北條氏にて、大永二年(1522年)造立すと云(言う)、北条氏繁が文書に據(拠:よっ)て考ふるに、其父上総介綱成が開基せしにや、
~以下省略~
さて、この新編武蔵風土記稿を編纂したのは北条綱成公や北条氏繁公の家老だった笹下城主間宮家の子孫で江戸幕府昌平坂学問所の頭取だった間宮士信と言う人物なのですが、この間宮さんの解説だと現在の御寺の石碑で「北条氏繁公の開基」とされている一文は実際には御寺の開基年代が大永二年(1522)なので不可能に成って来ます。
北条氏繁公の生年月日は天文五年(1536年)なので、氏繁公が生まれる14年前に龍珠院を開く事は不可能です(笑)。
更に父上の北条綱成公も永正十二年(1515年)生れと判明しており7歳で寺院を支援したとは考えにくいです。実は龍珠院の開かれた大永二年(1522年)の前年、大永元年(1521年)に旧今川家臣だった北条綱成公の実父が戦死して綱成公は北条家を頼り亡命し氏綱公に気に入られ養子にとられています。
では御寺を開いた人物が誰かと考えると当然ながら、その(義理の)父上と考えれば自然でしょう、つまり北条綱成公の養父北条氏綱公です。
北条氏繁公の開基ではないと言う意見では小生と江戸時代の学者の間宮士信サンも同意見だった様で、こんな古文書を態々(わざわざ)紹介しています・・・
龍珠院氏繁公文書 久良岐のよし
この北条氏繁公が龍珠院に対して発行した文書に注目して貰うと「老父」と言う言葉がしきりに登場し、それが北条綱成公と言う事が解ります。そして北条綱成公の代に既に「老父直々御寄附」つまり御寺に対して寺領と成る土地を寄進している事が解り、つまりコレを示して東京大学の前身である江戸時代の昌平坂学問所の頭取の間宮士信サンは龍珠院=北条綱成公が最初の支援者と解説している訳で、小生の意見とも異なりますが少なくとも北条氏繁公以前の北条家の人物である事は間違いなさそうです。
そして文書の内容は・・・まぁ、何と言うか玉縄北条家の与力の武将が武士として恥ずかしい行為をしていて、氏繁公が上司として御寺にゴメンね俺がちゃんと御寺の土地守る為に怒っておくからって内容なんですね(笑)。
その悪さしたのが「行肥」と書かれている武将で、これは苗字と官途名の略称で彼の渾名(あだな)みたいなもんでしょう。北条家臣には行肥と言う苗字の武将は存在しませんが行方(なめかた)と言う武将が小田原所領役帳に登場しています。

玉縄衆
一 行方与次郎
三百六拾壱貫弐拾四文江戸六郷大師河原共ニ
此内
三百貫文      自前々致来知行役辻

 六拾壱貫弐拾四文 自昔除役間可為其分 
 但出銭着致三百六拾壱貫弐拾四文可懸之
此外
六拾貫文 葛西 寺島

北条家研究家の盛本昌広先生が六浦文化研究所時代に書かれた❝戦国時代の久良岐郡❞と言うレポートに書かれた推測でも彼の正体は「玉縄衆の行方で、行肥の肥は官途名の肥前か肥後の略称だろう」と言う主旨の事を書いてらっしゃいます。それ以外には考えられないですからね。
さて、この小田原所領役帳の成立は永禄二年(1559年)ですが、龍珠院と行肥がモメたのは天正六年二月廿六日つまり1578年の出来事です。つまり、龍珠院と玉縄北条家与力の行方と思われる人物がモメた頃には龍珠院の辺りが行方家の領地に成っていた事、そしてそれ以前には北条綱成公の領地で一部が龍珠院に寄進されていた事が解ります。
では何で、こんな場所に直接北条綱成公が関わったのかと言うと、恐らくそれは蒔田吉良家が関係しています。
岡村町の直ぐ隣の蒔田には戦国時代に蒔田城が在(あ)り、別称:蒔田御所と呼ばれていました。
そこには吉良頼康と言う殿様が住んでおり、蒔田城下には今も吉良家の菩提寺の龍祥山勝國寺と言う御寺が存在しています。
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龍祥山 勝國寺以前書いた解説記事→三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区←クリックで読めます。
この御寺の背後に蒔田城址が有ったのですが、鎌倉公方代理の殿が住んだ歴史的価値の高い蒔田城も横浜市が保護しなかったので完全消滅してしまいました。そして何故ここが蒔田❝御所❞と呼ばれていたかと言うと、実は河越合戦で北条家が上杉連合軍に大勝した際に北条家を裏切って上杉家についた古河公方足利晴氏公は小田原市に抑留され、北条家の姫との間に子(足利義氏公)を授かっていましたが鎌倉公方としての役職には復帰させて貰えず、義氏公が成人するまで代わりに足利一族で身分の高い蒔田吉良頼康公が鎌倉公方代理を蒔田城で務めていたんですね。
ですから鎌倉将軍の代理である吉良頼康公に訪問する用事が当然ながら北条綱成公には有るので、宿舎が必要なので宿泊所としての機能も有る龍珠院が支援されたのでしょう。そして本格的に寺院化したのが北条氏繁公だったので、氏繁公の生年以前に既に存在した龍珠院ですが現代に北条氏繁公開基と誤って伝わっているのでしょう。
さて、龍珠院と玉縄北条家の殿様の関係が解った所で龍珠院の施設その物を見て見ましょう。
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入口には石標が有ります。
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素通りしそうですが、出来たら拝んで見て下さい!御利益に預かれるかも知れませんね。護国般若塔と書いて有るので国を守る為に精進する必要の有る職種の方々、例えば公務員全般や最先端の学問の研究をされている研究者や警備保障会社の人なんか御利益が有るかも知れません。
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反対側は金剛般若塔
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金剛力士の代りかな?それともダイヤモンドの様に硬い意思とか強さの象徴?
良く解らないけど、強さの象徴みたいなものでしょうか?
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山門代わりの扉は普段開いているので境内に入ると真ん中にコンモリした築山が在ります。

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ここには石碑が立っています。
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これが玉縄北条家部分のの解説に関しては少し間違えているけど龍珠院の歴史が書かれている物です。
その下には江戸時代の宝永噴火の事や関東大震災の記録等も彫られています。
・・・私達後生の人間が生きる教訓に出来る様に災害の記録を先人が残して下さったんですね。
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境内の庭から山門方向を見て見える丘が平子家の磯子城址の一部ですね…
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・・・こちらも横浜市が発掘調査も保護もしていないので完全に消滅しました。磯子区腰越の公園辺りまで御城だったと推測されています。
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鎌倉~室町の文化を色濃く残す立地の谷戸構えの地形ですが、現代ではその谷戸は墓地として活用されています。
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現代の御本堂は鉄筋コンクリート造りですが、歴史の名残を伝えるのが丸に三鱗紋ですね。
玉縄北条家から下賜されたのでしょう。
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庫裡はとても綺麗で、丁度御住職様も数年前に代替わりした様で、以前訪問した際とは別の若い御住職様に変わっておられました。とても気さくに話して下さる和尚様で安心しました。
御朱印も改めて禅宗寺院用の御朱印帳に頂いて参りました。
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さて皆さん、磯子区、それも❝ゆず❞の地元に上杉謙信や武田信玄を翻弄した最強の戦国武将が関わった御寺が在るとは思わなかったんじゃないでしょうか?

きっと皆さんの御近所にも今は小さかったり現代的な建物に成っていても、又は昔のままの雰囲気の神社仏閣も、実は凄い歴史偉人と関わりが有る場所が残っているはずです・・・
近所の山や公園も御城の跡かも知れませんし、何気ない池が古代から続く元は神社の聖地の池だった場所かも知れません。
・・・少し気分転換に御寺や神社や山を散歩して見ませんか?そして説明の石碑や看板を読めば、途端にその場所が歴史偉人と皆さんを繋ぐタイムカプセルの様な場所に成るんですよ~♪

さ、又、次は伝心寺の記事で御会いしましょう♪
では~!

この記事に続く→横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?









本日2017年02月26日午前10時から、“ゆず”の地元、旧岡村天満宮境内地岡村公園の岡村梅林で観梅会が開催されます!
模擬店も出店するので、恋人同士や御子様連れの若夫婦の皆さん、写真撮影の好きな皆さん、是非、足を運んでみては如何でしょうか?
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写真は2015年撮影の物ですが、2017年現在の開花状況は5分咲き~8分咲き、十分見頃に成っています。
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あと1週間もすると満開に成り更に綺麗な梅林の様子も見られるので、岡村梅林に足を運んだ事の無い近隣の磯子区・中区・南区・港南区・金沢区の人々はこれを機に是非訪れて見てください!
屋台も有り御子さんも喜ばれるかと思います!
では、ついでに昨晩開かれた夜観梅会の様子も掲載します。
余計な解説は不要だと思うので、写真を沢山載せたいと思います。
その夜観梅の写真の後に、周辺の史跡や見所の解説もしたいとおもいます。
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さて、では周辺の見所を紹介します。
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近くには岡村天満宮と言う、源頼朝公の最初の暗殺を未遂に食い止めた名将の平子有長公が京都の北野天満宮から御分霊を頂いて造営した由緒正しい天神様も鎮座しています。
※岡村天満宮の歴史に興味の有る人は以前書いた記事を下のリンクをクリックして御覧下さい!


そして境内は“ゆず”の聖地らしいモニュメントも有ったりします。
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昔、伊勢佐木町の松坂屋に在った“ゆず”の路上ライブの様子を再現したレリーフです。
松坂屋の解体時に現在の岡村天満宮境内に移設保護されました。
流石、ゆずの地元ですね!
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岡村天満宮と岡村梅林から徒歩直ぐの場所には、“ゆずファン”が愛用する“岡中ジャージ”を購入できるオリオンスポーツや、歌に出てくるモンマルトルと言うケーキ屋さんも在ったりします。
更に歴史好きに御勧めの場所は、徒歩圏内に下の写真の龍珠院と言う御寺が在るのですが…
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ここはJR大船駅の近くに在った玉縄城で上杉謙信の攻撃を撃破した名将の北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺で、御朱印も頂く事が出来ます。
この御寺は金沢区の伝心寺と言う、玉縄北条家所縁の御寺の末寺として開かれたのですが、何故、ここにそんな名将が関与したかと言うと、直ぐ近くに蒔田御所と呼ばれた蒔田城が在り、そこの城主が戦国時代に一時期、鎌倉公方(かまくらくぼう)の代理を務めた吉良成高(きらしげたか)公や吉良頼康公の居城として機能していたからでした。
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蒔田城址の断崖絶壁は現代人でも攻略するのは難しい要害性の高い地形です。
そして、蒔田城址の大手口には勝國寺と言う御寺が在ります。
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ここは吉良家の戦国時代の菩提寺で、今も吉良政忠公以下成高公、頼康公等の菩提が弔われる御廟所が存在します。
この歴史に興味が有る人は、昔書いた以下の記事を御覧下さい。

鎌倉公方代を訪問する際に、宿舎が必要に成るので岡村梅林の近くに龍珠院が開かれたと推測出来る訳です。
戦国時代の武将は自分の土地に御寺を開いて、宿舎替わりに使う事が良く有ったんです。
その代わりに、和尚様達の生活の面倒を見たり御堂を建てたりして支援した訳ですね。
宗教的に和尚様達を尊敬している事に加えて現実的な用途も寺院には有ったんです。
この蒔田城址や勝国寺と、岡村梅林の中間位には三殿台遺跡が在ります。
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ここは縄文~弥生時代の遺跡で、当時の様子が再現された住居跡や出土品の常設展示が有ります。
興味の有る人は、これも昔書いた記事が有るので、以下のリンクをクリックして見て下さい!

さて!
今日はお出掛け日和です!
記事は岡村梅林鑑賞会当日のUPで申し訳無いのですが、梅もこれからまだまだ2週間は見頃です!
是非!岡村梅林に足を運んで、ついでに“ゆず”の聖地巡りや歴史散歩をしてみては如何でしょうか?

では!又、次のブログ記事で!



ブログネタ
花火大会情報 に参加中!
横浜市中区と磯子区の境目、滝頭と言う所が有名な昭和の歌手の美空ひばりサンの出身地なのですが…
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そこは昭和47年まで横浜市内を走っていた市電(路面電車)の車両基地が有ったのですが、その市電の車両基地跡地にそのまんま当時の市電が数車両保存展示されていて、子供が自由に市電の中に入り運転席で遊んだり出来る様に成っています。

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路面電車の行先が「八幡橋」になっていますね?
この八幡橋の由来は、この滝頭から徒歩圏内に在る神社、八幡神社の横を流れる旧八幡川にかかる中区の八幡橋に路面電車の停留所が有ったから、次駅表示のプレートに成っているんです。
当時の路面電車は今では想像もつかない細やかなルートを走行していて、非常に便利だったようです。

しかし、路面電車が自動車渋滞の原因に成り、昭和47年にトローリーバス(有線電気動力バス)とともに廃止されました。
その後、その役割を引き継いだのが伊勢佐木町~上大岡間で先ず開業された横浜市営地下鉄でした。
市営地下鉄は、その後、横浜~上永谷間に延伸され、さらに拡張され現在の横浜市営地下鉄ブルーラインとして成立しました。

少し、電車から話を脱線させ、八幡橋の地名の由来から、この磯子区と中区の古代の歴史解説をしたいと思います…
因(ちな)みに根岸の八幡橋に在る八幡神社は古代大和朝廷の時代(西暦600年以前)には既に素戔嗚尊を祀る神社として存在し、後に八幡神と三島神社から勧進した神様を習合し、現在の根岸の八幡神社として成立しました。
神話では素戔嗚尊は今の神奈川県の三浦半島走水海岸から房総半島に渡り、千葉県や茨城県に「須賀国」を開いたので、この辺りに素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神社は明治時代に成るまで沢山在ったんですよ!
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※写真は三浦半島走水海岸の御所崎(ごしょがさき)。
東征の際に、その素戔嗚尊と同じルートを通られた日本武尊(やまとたけるのみこと)も、走水神社近くの御所崎に滞在されていた時に素戔嗚尊を祀り須賀神社を奉っていたので、今も走水神社の奥宮には須賀神社の祠(ほこら)が現存しています。
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※写真は走水神社の奥宮。
明治政府の方針で神明社系(伊勢系統の神様)の神社に習合と言う名目で統廃合されて、多くの素戔嗚尊を奉(たてまつ)る神社が関東地方から姿を消しましたが、根岸の八幡神社の縁起の様に、その聖跡は伝承の中に今でも残っています。
中区の八幡橋の八幡神社は徳川家康公から御朱印を頂き保護された八幡社でもあります。

話を市電博物館に戻しますと…
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※他人様の子供なので顔の画像を差し替えました(笑)。

ここには当時の車両が運用されていた時の状態のまま多数、綺麗に展示されているので、御爺ちゃん御婆ちゃんの世代にも懐かしいし、子供は電車を自由に触れるので喜ぶ事間違いなしです。
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保存状態良好でしょう?

しかも3歳児まで入館無料、65歳以上も身分証明書を持参すれば入館無料、大人も100円くらい。
小生、子供の頃、友達とよく自転車でここに遊びに来ていました。
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綺麗な館内でしょう?
余り有名ではないので拝観客も少なく、昨日甥っ子を連れて行った時は親子連れが10組くらいだったでしょうか。

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素晴らし良い施設なんですが、こんなユックリ出来る良い鉄道博物館もなかなか無いと思います。
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※甥っ子のプライバシー保護の為に顔画像差し替え。

実際の市電の展示の他にも、多くの鉄道模型NゲージやHOゲージのジオラマで電車模型を運転出来る遊技場が備え付けられていて、100円入れると5分間くらい自由に鉄道模型を操縦出来るので、そちらも子供達には人気です。
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これはHOゲージかな?
HOゲージと言うのはプラレール位の大きさの精密な鉄道模型のサイズ規格の事です。
それより小さな物にNゲージと言う規格が有ります。
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下はNゲージのジオラマ。
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ここらで子供達が100円で自由に鉄道模型を操縦出来る訳です。
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HOゲージは車両に車載カメラが有り、実際にジオラマも見ながら運転できるし操縦桿の上にモニターが有って運転席視点の画面見ながら、こんな感じで操縦出来ます。
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で、時間定時で、HOゲージの色んな車両を動かしながら横浜市の鉄道の歴史を解説してくれるイベント展示も毎日行われています。

ここで横浜市の鉄道年表みたいのを子供にメモとらせて、それに携帯で撮影した車両と市営地下鉄の写真を別途とってメモ用紙に添付すれば、立派な子どもの夏休みの自由研究も完成しますね!

Nゲージ、小生は小学生の頃、お年玉何年間か溜めて2万円くらいだして線路と車両を買って友達と遊んでいましたが、何せ小学生時代は鉄道なのにジャンプ台作って高価な鉄道模型を自動車模型のミニ四駆みたいな感覚で遊んだりするので、直ぐにぶっ壊してしまいました。
ここなら、高価な鉄道模型を子供に買い与えなくても遊ばせてあげれますし、プラレールよりリアルな本物の車両と精度の高い鉄道模型を操縦させてあげれるので、本当に良い夏休みの思い出に成ると思います。
入場料金100円ですしね(笑)。

余談ですが、本物の新幹線を製造している横浜市金沢区の東急車両さんでは、会社単位や学校単位で予約すれば工場見学も行えます。ただし、個人グループの見学受付は現在していないそうです。
PTAや町内会や地元商店街単位で地元の小学生の為に企画して東急車両さんに工場見学予約入れれば受けて頂ける可能性は有りますね。
もしくは、だれか自営業の方が会社の研修名目で子供のいる家庭に子供の同行の形式で見学申し入れしたら受けて貰えるかもしれません。

ですので横浜市伝保存館と合わせて東急車両さんも見学出来るようにすると、子供に本当に良い思い出に成ると思います。
夏祭りの規格等のイベントを開催して、近所の子供達を面倒見てる商店街の店主の方々やPTAの皆さん、はたまた神社の氏子さんや御寺の檀家さんの皆さん、御孫サン達を連れて行ったら喜んでくれると思いますよ!


埼玉の鉄道博物館は横浜から行くにはは少し離れていますが、「美空ひばり」サンや「ゆず」の地元、上大岡や岡村町や根岸から直ぐの場所にも素晴らしい鉄道の博物館が有るんです。
この近所には、縄文時代~古墳時代の史跡博物館である三殿台考古館や、岡村天満宮と源頼朝公の忠臣の平子有長と言う殿様が開いた由緒正しい天神様の神社が有ったり、戦国武将の蒔田吉良家の殿様の居城蒔田城址の在った丘の麓に吉良政忠公の菩提寺の勝國寺も在ったりします…
鉄道博物館見学や、歴史散策を子供をして商店街で買い食いをしたりすると子供にも大人にも良い休日に成ると思いますよ~!
…と、言う、夏休みの時期に提案を含めた記事を自分が甥っ子と遊んだ写真を掲載し書いてみました!
※今挙げた神社サンと御寺サンは、記事のタグ「蒔田吉良家」「梅林」を選択するか、カテゴリーから「城址」「神社」「仏閣」から選択して頂ければ読めると思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!


世田谷区、東急世田谷線宮の坂駅から徒歩で5分位の場所に、勝光院と言う落ち着いた雰囲気の御寺が在ります…
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この勝光院、横浜市南区の蒔田城と、世田谷区豪徳寺に在った世田谷城を主要拠点にして武蔵国南部の交通の要衝を支配した「蒔田吉良家」の歴代殿様の菩提寺です。

足利一門の中でも非常に格式の高い存在だった蒔田吉良家だけあり、江戸時代に大名から旗本に規模縮小したにも関わらず、菩提寺勝光院の規模は小大名の菩提寺クラスの規模の境内を現代も維持しています。
この御寺を維持する為に、歴代の檀家さん達は非常に苦労されたと思います。

さて、この勝光院には当然、吉良家の殿様の御廟所が在る訳ですが、鎌倉の報国寺の様な「竹林寺」として昔は有名だったそうです。
ですから裏門側に行くと当時の名残で竹林が一部今も残っています。
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恐らく、太平洋戦争敗戦時にGHQにより、他の神社仏閣同様に宗教施設と言う事で建物周辺以外の所有地を没収されてしまったんでしょうね…
昔は周辺の宅地が素敵な竹林だったのかも知れませんが、生憎(あいにく)訪問時に古い檀家さんや年配の職員の方と話す機会が無かったので詳しい事は判りません。

しかし、参道からは何となく昔の雰囲気が伝わってきます。
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さて、勝光院さんは山門の手前、竹垣で囲まれたところが墓地に成っていて、そちらに歴代殿様達の御廟所が在ります。
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不敬に成るので今回も御廟所内の写真は撮りません。
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この勝光院は、今川家から蒔田御所吉良頼康公の養子に入り跡を継いだ蒔田吉良氏朝(うじとも)公が1573年に中興しました。
しかし吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家が豊臣秀吉により滅ぼされる際、氏朝公は下総国(しもうさ=今の千葉県の北部と茨城県南部)に逃げたので、世田谷における吉良家の大名としての活動は終了し、以後は徳川家の旗本として下総国で存続する事に成りました。
しかし、吉良の殿様の御子孫は、下総国転封後も世田谷の事を大切に思い、その故地に建つ勝光院に御廟所を置き、氏朝公の御孫さんの代から歴代の殿様の御廟所が置かれる事に成りました。
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由緒正しい御殿様の菩提寺だけあり、各施設謂(いわ)れがあり、説明看板がちゃんと有ります。
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御本堂も幕府の歴代重鎮達の御寺と遜色無い規模を誇っています。
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素敵な御寺でしょう?
印刷した物ですが御朱印も頂ける御寺です。

世田谷住の方、この勝光院や近所の吉良頼康公が中興した世田谷八幡宮や豪徳寺を御散歩してみませんか?
豪徳寺は招き猫の発祥の御寺ですし、世田谷八幡宮は家康公に保護され江戸時代相撲興行で有名だった八幡社ですから、いずれも立派な歴史と規模が有り御散歩すれば良い休日を過ごせると思いますよ~!

では、又、対の記事で御会いしましょう!


皆さんは、水分補給と言うか…
一息つく為に何を飲みますか?
小生は御茶を良く飲みます。
御茶と言っても煎茶では無く、鉄観音の緑茶ですが。

さて、昔の御殿様達も御茶を良く飲まれた様ですが、世田谷の大谿山豪徳寺と言うそれはそれは立派な御寺にも御茶を飲みに立ち寄られた、ある殿様の御話が残っています。
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この豪徳寺さん、幕末の大老井伊直弼さんの御先祖様、徳川幕府直参大名の彦根藩井伊家と非常に所縁の深い御寺でして、大凡(おおよそ)以下の様な内容の伝承が伝わっています。

ある日、徳川家臣の井伊家2代目、井伊直孝公が今の世田谷の辺りを通りかかった時、ある御寺の前でネコが手招きしていました(出オチだよね)。
それを見た直孝公、これも縁だなと御寺の和尚さんに「ネコに呼ばれて訪問してみたんだけれど、和尚さんの話でも聞かせてくれません?」みたいな事を言った所、あっと言う間に外の天気が大崩れ、和尚さん、殿様達にお茶を出す間に…
「御寺の外は激しい雷雨に見舞われ、御寺をスルーしていたら今頃落雷で大変な目に遭っていたかも知れない」
…と殿様も一安心、これも何かの縁と和尚さんの御話を一しきり聞いた所、その説法に非常に感銘を受け、以後、この御寺を井伊家代々の菩提寺として定め支援する事に決めました。
…この逸話のネコこそ、招き猫のモデルなんです。 2015-06-13-19-06-53
これ↑豪徳寺で販売している招き猫さんです。
本家本元、元祖の招き猫だから古典的なデザインだけれど、可愛らしいでしょ♡?

井伊家の居城、彦根城のマスコットは「ひこニャン」ですよね?
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ここまで話を聞いたら、何で彦根のキャラが「ひこニャン」かお分かりですよね?
つまり、彦根城主井伊家と東京都世田谷区の豪徳寺が招き猫の発祥の由縁であるので、ネコに初代の井伊直政公の兜を被せてキャラにしたんですよ。
…こうして話を知ってしまうと以外にヒネリが無いキャラのデザインでしょ(笑)?
でも可愛いですよね?

実はこの豪徳寺は元々、蒔田吉良家の居城「世田谷城」でした。
「世田谷城」の事は後半部分で詳しく書きますが、その城内に城主の吉良政忠公が叔母の弘徳院様の菩提を弔う為に立てた私設の仏院が北条家滅亡後、その影響下に在った蒔田吉良家が下総国(千葉県)に移転してしまい支援者を失いほそぼそと寺院として命脈を保っていたのを新たに支援したのが井伊家に当たる訳です。
先程の招きネコの発祥の逸話ですね。

江戸時代を通じて大大名の井伊家の菩提を弔い代々支援を受けた御寺だけあって鎌倉の円覚寺や建長寺や京都の大徳寺や相国寺に迫る規模を有しています。
ですので、参道もとても素敵な雰囲気です…
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緑豊かでしょう?
この参道を抜けると立派な三重塔が出迎えてくれます。
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歴史にあまり関心の無い方の為に一応ご説明差し上げますが…
この様な仏塔、よく大寺院に有りますが、実は中は登れない構造に成っており元々の役割は「仏舎利(ぶっしゃり)」と呼ばれる、仏教の開祖「ゴーダマシッダルタ=お釈迦様」の御遺骨を納め奉(たてまつ)る為の建物なんです。
勿論、現代の日本の仏塔にお釈迦様の仏舎利が有る訳ではありませんよ!
あくまで文化的宗教的な役割を担い、かつ御寺の景観を美しく演出する役割が主な所になっています。
この豪徳寺の三重塔の前には楓や紅葉の木が生えていて、ボランティアガイドの方の話ですと秋は非常に美しい風景を参拝客に見せてくれるそうです。

さて、この三重塔の右手を参道にそって真っ直ぐ行くと本堂が在るのですが、そちらを紹介する前に…
こちらから!
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三重塔の前の参道の分岐点を本堂に向かって左手に曲がるとすぐの所に上の写真の御堂があります。
この塔頭(たちゅう=御寺の支店とか別部門みたいな感じ)の門をくぐると…
こんな建物↓があります。
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これだけでも、住宅街の中の小さめの御寺の本堂位の規模があります。
この写真の左側を良く見て下さい…
何か白いの居ませんか?

実は、ここが「招き猫」の御利益に与(あずか)れる御堂なんです。
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この招き猫さん達は願いが適(かな)った参拝客が納めたネコさん達かな?
この招き猫達は寺務所で購入できますよ~!
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小生が購入したのは2cm位(左)のと、右の10cm位のです。他にも同様の物を家族と友人の御土産に購入しました。

三重塔と、招き猫達がいる御堂を過ぎて真っ直ぐ行くと、その先に井伊家との歴代の殿様と、その奥方様達の御廟所が在ります。
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この奥が御廟所なのですが…
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今回も失礼に当たるので御廟所の写真は載せません。
その代わり、幕末の彦根藩旧臣達が明治時代に奉献した、御廟所入口の石柱を載せますね。

さてさて、では三重塔から本堂に向かいましょう…
本堂に向かうと、大きな大きな線香を炊き上げる炉が有ります。
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すんごい立派でしょ!!
御寺の寺紋は井伊家の菩提寺だけあって、井伊家の橘樹紋ですね。

ここを右手に行くと庫裡(こり=寺務所)が在ります。
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招き猫のパネルが有るので直ぐに解ると思いますよ~!
こちらで招き猫や御土産を買ったり、御朱印を頂けます。
御朱印の写真を掲載したい所ですが、小生の御朱印は少々特別な物を御好意で頂いているので掲載できません。御了解の程を…

で、線香炊き上げる場所の更に奥が下の写真の…
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最初の大きな仏殿が在ります。
確か…
こちらが阿弥陀如来様が祀られている方の仏殿だったと思いますが、記憶は定かではありません。

で、寺務所を右手に見ながら、この仏殿の更に裏手に本殿が在りますが本殿を紹介する前に、こちらの仏殿の屋根を見てみましょう。
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彦根藩井伊家の、もう一つの家紋「平井筒紋」が金色にキラリと輝いていますね~。
そして御堂の大きさが伝わると思います。
見切れてる狛犬さんも凛々しいですね。
この写真は仏殿を裏側から見た写真です…

…その向かい側に本殿が在ります。
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本殿前の炉も井伊家の家紋が刻まれていますね~。
如何に、この豪徳寺さんにとって井伊家が大切な存在だったかと言うのが伝わってきますね。
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現在、こちらの本堂は鉄筋コンクリートに成っています。
こちらには確か、釈迦如来様が安置されていたと思います。
入口のガラス戸ごしに拝む事が出来ます。

この豪徳寺、冒頭で少し触れましたが元々は蒔田吉良家の居城「世田谷城」だったので、境内には城時代の土塁遺構がちょこんちょこんと残っていました。
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まぁ~城好きな人以外には「ただの土のこんもりしたの」位にしか見えないでしょうけれど…
これは御城時代の土壁の名残なんですよ。
ですからこの、土塁の延長線上には「世田谷城址公園」も在ります。
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世田谷城址公園には、豪徳寺の山門を出て左手に進むと100m位さきに在ります。
この↓道ね。
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現在、世田谷城址は大部分が宅地化されてしまい余り残っていませんが、公園内には空堀と北条流築城術特有の二重土塁が石垣で補強され保存されていました。
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世田谷城址は吉良家の館を、吉良政忠公或(ある)いは吉良成高公の代に拡張し城郭化したと言われています。
小生の個人的な予想では戦国時代に当たる吉良成高公の代には横浜の蒔田城が吉良家の本城として機能していたと推測しています。
しかし、この世田谷城が本城だと言う意見が主流の様です。
ちょっと蒔田吉良家の所領を見て見ましょう…
吉良家所領域
赤いタグと黄色のピンで表示された地名と施設名が支配域の中心部です。
世田谷一帯・多摩川と中原海道沿いの川崎市高津区と中原区一帯・海運の拠点東京の品川辺り・同じく海運と河川水運の拠点横浜市南区一帯…

多くの学者の意見では、世田谷城が本城だったが、成高公は文化人だったのでしょっちゅう風光明媚な蒔田城に行ってたんじゃないの?…と言うのが定説に成りつつある様です。
小生が蒔田城が北条家時代の本拠で、世田谷城は元の本城として重視された拠点だったと思う根拠は…
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吉良成高(しげたか)公が開基(かいき=御寺を創建する事)された勝國寺が横浜市南区蒔田城址の丘の下に在るからです。
そして、この蒔田城址の大手口に当たる場所に在る勝國寺さんには「吉良政忠公の御廟所」が有るからです。
つまり、小生の予測はこうです…
吉良成高公は扇谷上杉家の執事だった名将太田道灌公と盟友でした。しかし太田道灌公は君主としての器に乏しい主の扇谷上杉定正に今の神奈川県伊勢原市に在った別荘で入浴中に暗殺されてしまいます。
この時期の前後、吉良家は扇谷上杉家の影響下に在ったはずですが、同時期に伊豆国を制圧していた北条早雲こと伊勢盛時公も主を今川氏親(うじちか)から古河公方足利成氏(しげうじ)公に乗り換えていましたので、扇谷上杉家は古河公方家との関係上、伊勢盛時公とも関わりが有ったはずで、当然、伊勢家と蒔田吉良家も関わりが有った筈です。
では何故、伊勢盛時公が伊豆を支配下に治めれたですが、これは正に古河公方家を主家とし仰いだから敵対勢力である堀越公方足利政知の支配地域である伊豆を攻める大義名分を獲得する事が出来た訳です。
ですので、伊豆と隣接する小田原城主の大森家と伊勢(北条)家は友好関係にあった訳ですが…
この関係を揺るがす政変を古河公方家が起こしてしまう訳です。
突如、古河公方は対立する堀越公方派だった山内上杉家と和睦してしまい古河公方派の扇谷上杉家と山内上杉家の関係も改善してきましました…

つまり!
伊勢家の伊豆統治の大義名分が怪しく成って来た訳です。

…しかし、この古河公方=扇谷上杉家と山内上杉家の同盟は、元々山内上杉家と戦う事で領地を拡大していた扇谷上杉家与力の大名たちに大いに扇谷上杉家に対する不信感を与える原因に成ったようです。
しかも!
吉良成高公は太田道灌公の暗殺以来、扇谷上杉家に対して恨みの様な感情すら抱いていた事でしょう。
結果、吉良家は世田谷~中原街道を攻めのぼり太田道灌公の遺領だったと思われる横浜市南区辺り迄攻め込んで来て、同じ様な動機で直ぐ隣の鎌倉郡まで制圧していた伊勢(北条)家と友好関係を結んで、前線に当たる世田谷から蒔田城に本拠を移したのだろうと、個人的に推測しています。
因みに、何故、横浜市南区が太田道灌公の遺領と推測するかと言うと南区には京急線「南太田駅」が在るのですが、その一帯は太田と言う地名で太田小学校は太田道灌公の城跡と伝わっています。
そして!
吉良家が戦国時代に蒔田城の方を主要拠点にしていた決定的な証拠は…
勝國寺の政忠公の御廟所の周辺を取り囲む様に、「森家」「佐々木家」「並木家」の立派な御廟所が有るからです。
吉良家家臣団を知っている人は直ぐに解るのですが、森家、佐々木家、並木家は全て吉良家の主要な家臣なんですね。
つまり主要家臣が戦国時代に御廟を構える場所が当然、本拠地の可能性が高い訳です。
更に言えば、隣の港南区上大岡側と磯子区峰一帯には大地主の「北見家」と「苅部家」がいます…
この北見家も「北見」=「喜多見」であり、やはり吉良家の重臣に当たる姓です。苅部家も同様に吉良家重臣の家柄の姓です。
そして、「森」や「並木」の地名は、蒔田城と一つの丘「久良岐の丘」で繋がっている地名として残っていて磯子区「森」と金沢区「並木」が現在も地名に在ります。 吉良家所縁の地名
この吉良家、北条氏の影響下に入った後の明確な支配域を見ても中原街道沿いの川崎市中原区や東京湾岸等、穀倉地帯よりも交通の要所を抑える傾向が有りました。つまり、海運と陸運を重視した家だった訳です。
そんな関係で…
船舶関係の事業に精通した家系…喜多見家、並木家等が配下にいたのでしょうね。
実際、この輸送能力を生かして吉良家は吉良頼康公の代に鶴岡八幡宮再建で材木の大量輸送に成功しています。
これは羽柴秀吉における蜂須賀小六の比ではない実務能力と経済力の高さを史実として残しています。
そんな関係で、流通の拠点として内陸の街道が沢山通る世田谷と海川の水運に適した蒔田を重視したのは言うまでも無い訳です。

まぁ、そんな吉良家ですが、北条家滅亡時に世田谷城は落城してしまいます。
その際に、吉良の殿様は千葉県に退避していて難を逃れ、そのまま江戸時代に千葉で旗本として存続しました。
江戸時代に成ると、御子孫が前回の記事で書いた世田谷八幡宮を吉良頼康公の故事に習い再興しています。
豪徳寺は井伊家の菩提寺でもありますが、そんな吉良の殿様の室町時代の居城で蒔田吉良領の中核だった訳です。
世田谷城址の豪徳寺を継いだ井伊家は、その後、吉良家の治めた横浜村を開港しています…
これも何かの御縁なんでしょうかね~?
豪徳寺は吉良家と井伊家と言う、とても偉い殿様の関わった御寺で凄いと言うのは何となく伝わったでしょうか?

きっと皆さんの御近所の御寺や神社も、思いがけず凄い殿様や歴史偉人や古代の神様の縁起が伝承して居るかも知れません…
だから少し御寺や神社を散歩してみて、説明の看板を読んで見ませんか?
思わぬ歴史人物との関わりを発見したら、きっと自分の住む地域への愛着も深まる筈です…

では、又、次の記事で御会いしましょう!





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旅ってのは遠遊ばかりでなく、県内や地域内で散策し安らぎや日常生活の中の発見を感じる小旅行も有りますよね?
皆さんの御近所には、どんな安らぎの場が有りますか?
小生は御縁が有って、最近、世田谷にちょくちょく行きます。
その世田谷区の東急世田谷線の駅の近くには、世田谷城址公園と豪徳寺、世田谷八幡宮、勝光院と言う古跡名刹が点在しています。
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この宮の坂駅、駅に地区センターが併設された少し変わった構造なのですが、駅の名前の由来は世田谷区宮坂1丁目に在るからです。
では、その宮坂の地名の由来ですが…
実は、駅の直ぐ目の前、つまり宮坂地区に「世田谷八幡宮」と言う歴史有る八幡宮が鎮座しているからなんです。
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この世田谷八幡宮は歴史は古く、平安時代に遡(さかのぼ)ります。
鎌倉幕府の創始者源頼朝公の御先祖様で源氏最強の武将だった源"八幡太郎"義家公が創建したとの伝承が有り、その境内には厳島神社も抱えています。
更に戦国時代に成ると、この一帯の殿様だった足利家の一族の蒔田吉良家の吉良頼康公が再興された歴史も有ります。
頼康公、実は横浜市の殿様の笠原信為公と間宮康俊公と協力し、戦災で焼失した鎌倉の鶴岡八幡宮も再建しています。
吉良家は戦国時代、北条家の影響下に入ると横浜市南区の蒔田に蒔田城を築き、古河公方の代理として蒔田御所と呼ばれ非常に重要視されていました。
当時、蒔田城の近くには蒔田湾と言う入り江や笹下川が流れていて、その水運を利用し吉良頼康公が材木を調達運搬し鎌倉の材木座海岸の若江島に輸送したそうです。
この鶴岡八幡宮や鎌倉の復興事業はのべ5万人が関わった大事業で、当時の吉良家の経済力が凄まじく豊かだった事が解ります。そして、その事業を成功させた頼康公の実務能力の高さにも敬服するばかりです。


吉良家は小田原北条家に組した大名だったので、安土桃山時代に豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に、この世田谷八幡宮の近所に在った吉良家の居城の世田谷城も落城し、吉良家は徳川家の支配下で下総(しもうさ)国に転封(てんぷう=領地の引っ越し)をさせられると、その後は徳川家康公により保護されました
なので江戸時代に世田谷八幡宮は大変な権威を誇り、武家の軍事教練として重要だった「相撲」の名所となり「江戸三大相撲」の開催場所だった為、境内には今も土俵が存在しています
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昔はここの土俵に多くの江戸の町民が相撲の取り組みを観戦に来たんでしょうね~。
※吉良家の関連記事は以下をご覧ください。
●蒔田吉良家の御所、蒔田城の記事は「ココ 」←クリック!
●吉良頼康公が間宮康俊公と鶴岡八幡宮を再建された事績の記事は「ココ 」←クリック!

源義家公は河内源氏と呼ばれた氏族です。つまり源氏の中でも河内国、今の羽曳野市辺りを元々本拠地にしていた、その後の源氏の本流に成った一族の平安時代の惣領(そうりょう=親分)です。
義家公は御父君、鎮守府将軍源頼義公と共に、今の神奈川県鎌倉市に拠点を置き、鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)の中の「亀ヶ谷(かめがやつ)」と呼ばれた地域に館を築いて関東地方や東北地方で土地開発や軍事に活躍された方です。その館の跡は今、「亀谷山寿福寺」と言う御寺に成り、源頼朝公の奥さん北条政子様と御次男で鎌倉幕府三代将軍の源実朝公の菩提寺として存在しています。
※以前、寿福寺を紹介した記事は「ココ 」←クリック!

さて、源義家公は神道と仏教の両方の神仏を信奉し、山岳信仰にも熱心だったので、「八幡神」や「権現様」の御社やを各地で創建したり再興したりされています。
この信仰は源頼朝公も引き継いでおり、頼朝公に至っては此花昨夜姫の権化として信仰対象に成っている富士山を、何の登山道具も無かった鎌倉時代に登山し火口を一周されたり、此花昨夜姫の父神の大山祇大神の権化とされる神奈川県伊勢原市の大山を登山したり、その大山信仰の元に成った比々多神社も参拝しています。
※大山阿夫利神社記事は「ココ 」←クリック!
※比々多神社の記事は「ココ 」←クリック!
義家公は御寺の仏様も熱心に信心された方で、その菩提寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺に追い込まれましたが、今も羽曳野市壺井に通法寺と言う御寺の跡が在り、そこに義家公の御廟所が在ります。
そして、その通法寺の近くにもやはり、壺井八幡宮と言う八幡様が在ります。
神仏習合の神様の称号である山岳信仰の対象「権現」を信仰していた痕跡は関東各地にも在りますが、東京都八王子市にも残っていて、それも以前書いた「滝山街道」の記事に有るので御興味有れば御覧下さい。
※源義家公の山岳信仰に関する滝山街道の記事は「ココ 」←クリック!

先に少し触れましたが、この世田谷八幡宮は厳島神社も境内に有ります。
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厳島神社の神様は3柱の姫神様で壱岐嶋媛達が祀られています。
女神さまだから縁結びの御利益が有りますかね~?
古くは海上交通の神様として祀られた神様なので、水神様も信仰していた源氏の義家公や蒔田吉良家らしい神社とも言えるのでしょうか?
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厳島神社自体の御社は小さいものの良く屋根の社紋を見ると…
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蒔田吉良家と血縁が有り、蒔田吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家の家紋が使用されています。
つまり、この世田谷八幡宮内の厳島神社には小田原北条家が少なからず関わっていたと言う事が解ります。

さて、話を世田谷八幡宮そのものに戻します。
世田谷八幡宮は関わって来た歴代殿様が凄い方達ばかりなので、縮小された現在でも可也(かなり)立派な規模を誇っています。
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説明看板も二種類有ります。
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境内は冒頭で掲載した惣門に当たる大鳥居の他に、参道を進むと更にもう一つ石造りの大きな鳥居が参拝者を出迎えます…
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現在も多くの方から信仰され多くの氏子様を抱える八幡様だけあり、中の鳥居には立派な注連縄(しめなわ)が掲げられていました。
禰宜の藏重さんの御話ですと、最近は世田谷八幡宮で神前式を上げる若夫婦も多いそうです。
ウエディングドレスの披露宴も捨てがたいですが、御話を聞いて、披露宴と別に結婚式を自分の家の氏神様で挙げると言うのも古来の習慣を大切にしていて良い日本文化伝承には良い傾向だと個人的に思いました。
無論、教会でも結婚式も神秘的で素敵ですよね。
まぁ、信仰はそれぞれ、日本人はそんな寛容さを古来から持っているし、日本の神様や仏様は外来の神様にも寛容な側面が有るので…
神前式を選ぶかどうか、教会式を選ぶかは日本の場合は権力を握る御嫁さん次第ですね(笑)!

さて、注連縄の掛かった石の鳥居を過ぎ石段を登ると、いよいよ本殿と社務所と神楽殿が見えて来ます。
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素敵な八幡様でしょ~?
住宅街の中の神社なのに清浄な雰囲気が漂っています。
この手前の石段右手に先程の土俵が在ります。
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土俵の横に何か建物が在ったので、これは昔、土地の領主や名主が相撲を観戦する際に利用した建物なんだと思います…
禰宜さんに聞くの忘れたので詳細は判りません。

ここは手水舎までも雰囲気があります。
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建物の感じだと、江戸時代位から有る手水舎なんですかね~?
手水舎の向こうには神楽殿かな?社務所と別棟の建物が在りました。
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どこを見ても江戸時代の雰囲気が漂っていますね。
そうそう!
この世田谷八幡宮、徳川家康公の庇護を経て、江戸時代に下総国に移住した蒔田吉良家の殿様の御子孫が再び支援したそうなので、江戸時代の雰囲気が現在も漂っているのだと思います。
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なんか…やけに眉毛の立派な狛犬様ですね。
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でも、この↑上の狛犬サン、子狛犬(笑)を優しくなでていて、何だか江戸時代の人のユーモアと人情や愛情が現代に垣間見えてホッコリしますね。
強くて優しいって理想ですよね~。
小生、この狛犬さんや御寺の仁王門の金剛力士みたいな人格に成りたいです。
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本殿も本当に立派でしたよ~。
本殿の御神籤(おみくじ)は24時間の自販機でした。
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現代に奉納された灯篭も立派ですね、そして周囲の雰囲気を壊さない素敵なデザインです。
この灯篭を良く見ると…
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吉良頼康公の家紋「五三桐」の紋ですね。
吉良頼康公が、この世田谷八幡宮を再興した事を感謝し子子孫孫に伝える氏子さん達の気概が伝わります。
そして、吉良家の領民だった誇りが、この世田谷区に昔から住んでいる方々には有るのでしょうね。
どうです?
素敵な神社だったでしょう?
大鳥居前の大きい社務所の駐車場には綺麗な花が元気に咲いて出迎えてくれていました。
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また、何度でも御参りに来たくなる八幡様でした。

さて、この世田谷八幡宮の近所には、蒔田吉良家の初期の居城だった世田谷城址公園や…
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世田谷城の主要部分だった豪徳寺が在ります。
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彦根藩主井伊家の2代目井伊直孝公からの歴代藩主菩提寺でもあり…
実は!招き猫の発祥地でもあります。
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可愛いでしょう?

この豪徳寺や世田谷城址公園も、近いうちに御紹介したいと思います。

では!今回はここ迄!
又、次の記事で御会いしましょう!



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横浜市南区堀之内、地下鉄吉野町駅から徒歩15分くらいの所…
江戸時代には近くに蒔田湾(古大岡湾)と呼ばれた入江が眼前まで広がっていた丘、今では埋め立てられ平地に突き出した丘の裾に青龍山寳生寺と言う古義真言宗の名古刹(こさつ=古い御寺)が在(あ)るのを御存知でしょうか?

雰囲気有る石段でしょ?
今は宅地に成ってしまった旧参道から山門に続く石段の立派さが、この寺院の往時の権威を今に伝えています。
季節柄、紫陽花も綺麗ですね〜♪
1171年(承安元年)の開基ですから…
鎌倉幕府を開いた源頼朝公の御父君、左馬頭(さまのかみ)源義朝公の頃の時代の話ですね。
山門も良い感じに風情ありますよね?
鎌倉時代には執権の北条貞時公や、横浜市金沢区金沢文庫の地名の由来に成った日本初の私設図書館金沢文庫を創設し称名寺の基に成った金沢北条家の邸宅を建設した文化人で鎌倉幕府の重鎮、北条実時公からも保護されました。
※称名寺の記事は「ココ」←クリック!

近くには戦国時代の武蔵蒔田吉良家の殿様の城、蒔田城も在りました。
戦国時代には蒔田吉良家は横浜市南区や川崎市高津区中原区、東京都世田谷区一帯を支配していました。
吉良家と友好関係にあり江戸城主だった戦国時代初期の名将太田道灌公からも崇拝されていました。
※吉良家の記事は「ココ」←クリック!

余談ですが南区には京浜急行の南太田駅が在りますが、この南太田の地名の由来は戦国時代に今の南区太田に太田道灌公の御城が有った事に由来します。
吉良家の殿様は吉良頼康公の頃から小田原北条家に協力していた関係からか、この寳生寺も戦国時代の名将北条氏康公からも保護されていました。
その鎌倉幕府金沢北条家〜戦国時代の北条氏康公に保護されて来た証拠が山門の上と手水舎に刻印された寺紋です…
北条家の家紋、三鱗紋の使用を許され今も御寺の寺紋として使われています。

さて、この寳生寺、昔は沢山の大建築を擁する大寺院で本山格の権威を誇っていたのですが…
最大時には本殿と鐘楼以外に惣門、長屋門、弁天堂で七福神の弁財天様も御祀(まつ)りしており、それ以外に客殿や熊野社、経蔵が有ったそうですが、明治政府の数少ない愚政の一つ「廃仏棄釈」により衰退してしまいました。
その影響で本殿と山門と鐘楼を除いて失われてしまいました…。
残念ですね。
歴史の古い本殿は、今も健在です。
 
本殿は立派な彫刻を施されています。
あと鐘楼も有ります。
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鐘楼の向こうに本堂を見ると、背後に山林が広がっているのが見えますよね。
 
寶生寺の山林は県の市の保護林にも指定されていて貴重な場所でもあり、保護林である時点でその広大さも窺(うかが)い知れると思いますが、衛星写真で見てみると解り易いですね。
寶生寺
寶生寺を中心に取り囲む山林が寺域です。
むやみに伐採出来ないので、御寺の参道も管理が大変そうですね。
少し雑草が生い茂っていたり落ち葉が多かったので次回訪問する際に、御住職に参道の掃除をさせて下さいと申し出て見ようかなと思いました…
広い御寺を老齢になられてから維持管理するのは大変ですからね…
動ける人間が横浜市の歴史を守って来た御寺や神社に恩返し出来る事をするのは当然だと思いますので。

さて、この寶生寺、戦国時代の終焉の頃には徳川家康公により、保護する旨の朱印状を与えられています。
恐らく、その橋渡しをしたのが寶生寺に深く関わっていた横浜の殿様、「間宮直元公」だと推測出来ます。
間宮直元公は、横浜市磯子区と港南区にまたがる広大な城、笹下城の最後の城主で北条家の滅亡後は徳川家康公に仕えて、笹下城址の麓(ふもと)に笹下陣屋を築いて、そこを拠点に「本牧奉行(ほんもくぶぎょう)」と言う役職を担(にな)っていました。

※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
その本牧奉行の行政担当範囲を衛星写真でみると、大凡こんな感じです。
寶生寺周辺図
写真の中央に寶生寺の所在する横浜市南区、その上部、東京湾に突き出た半島を本牧半島と言います。
そして、本牧奉行の支配域は大凡、写真で見えている範囲で嘗(かつ)て日本神話の時代に神武天皇が城を造りたいと仰ったと伝承する「久良岐(くらき)の丘」と呼ばれる丘陵地帯です。
その丘陵地帯が正に、略(ほぼ)この写真の範囲で、この地域は神話の時代から明治時代に横浜市が成立するまで「久良岐郡」と呼ばれていました。
余談ですが久良岐郡の久良岐が小生のハンドルネームでもあります。
日本武尊と乙橘姫の二柱の神様が、旅されたのが久良岐郡と、隣の橘樹郡、三浦郡の地域で一帯には日本武尊神話がそこかしこに残り、それとリンクする様に浦島太郎伝説も残っている神話と伝承の地域でもあります。
そして平安時代~現代に至るまで坂東武者や戦国武将達の重要な水軍基地だった地域でもあり、現代の日本国の海上自衛隊と米国海軍にとって重要な基地やドッグの点在する地域でもあります。
それと同時に海外貿易を担う「国際港」横浜港の中枢でもあります。

さて、何で大大名でもない間宮直元公が直接、寶生寺と徳川家康公の橋渡しを出来る立場にいたかですが…
直元公の祖父は間宮康俊公と言い、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に箱根の山中城の出城、袋崎出丸に籠城し大活躍の後に玉砕した功績から、その子弟の多くが徳川家康公の直臣として取り立てられていました。
そして直元公からして叔母に当たる「間宮お久」さんは家康公の側室に入っており、後に「於久(おひさ)の方」と呼ばれた人物で縁故も有った訳です。
そして直元公御自身も「本牧奉行」以外にも更に重要な役職に就(つ)いていました…
その役職と言うのが江戸幕府の「但馬奉行」と「佐渡奉行」と呼ばれる役職です。
但馬奉行は但馬銀山の鉱山開発、佐渡奉行は佐渡金山の鉱山開発を担う重要な役職で、直元公の前任者は学校の日本史でも習う「大久保長安」と言う江戸幕府の超有名な内政官僚でした。
その大久保長安が政治失脚した後に、最後の笹下城主だった間宮直元公が、その役職を継いだ訳です。

間宮家は室町時代~明治維新まで、横浜の多くの神社仏閣や文化財を守る気風を受け継いだ殿様が多く、この寶生寺にも現代に重要文化財が残りました。
寶生寺の説明看板の写真を、その文化財の説明として掲載します。
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看板の他にも江戸期の石塔が保護されていました。
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さて、何で寶生寺に関わっていた間宮家の直元公が、但馬奉行や佐渡奉行を担っていたかですが、それは今も横浜市港南区笹下に住む、間宮家臣の竹内家や市村家、内田家の其々(それぞれ)の御本家と分家の御子孫の御話しや、文献から容易に推測が出来ます…
間宮家は戦国時代、小田原北条家の家臣でした。
所属した部隊は、関東地方で最強の武将だった玉縄城主北条綱成公率いる「黄備え隊」でした。
黄備え隊は、北条家の国境前線で起きる重要な合戦に常に参戦する部隊でした。
その戦闘範囲は広く…
西は間宮家は家臣古角内田家が受領した感状に記載された年号から、北条早雲公が今川家臣だった時代には遠く三河国(愛知県安城市)に今川軍として遠征し松平家と交戦しています。
北は北条綱成公率いる黄備え隊が信濃国上田城(長野県上田市)の武田軍の救援に赴いています。
東は下総国逆井城(茨城県坂東市)にて頻繁に佐竹家や小田家と交戦していました。

そして間宮家臣の御子孫の皆さんの御話しでは、間宮家は合戦だけでなく築城技術集団だったそうです。
つまり、鉱山の開発を任されたのは土木建築技術集団としての評価も高かったからでしょうか?
因みに間宮家は合戦と土木建築技術の他にも織田家や神社仏閣との外交等でも活躍していました。
その家臣筋の皆さんの証言を証明するのが、1526年に戦災で焼失した鶴岡八幡宮の再建事業に1536年から間宮家の当時の惣領だった間宮康俊公が奉行として参加している事です。
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この鶴岡八幡宮再建には寶生寺近くの蒔田城主吉良頼康公も材木の調達で寄与されています。
間宮家は祖先を有名な鎌倉御家人「佐々木高綱」公と自認していた(実際は佐々木高綱公の叔父の家系)事から、敦実親王の王孫に当たり家格も高く、その上、間宮家の系統の祖先が近江沙沙貴神社の宮司家だった為、神事にも精通し、加えて土木技術集団であったので「鶴岡八幡宮再建事業」にはうってつけの集団だった訳です。
羽柴秀吉における蜂須賀小六に有職故実の知識を足した様な人物に当たるのが、北条綱成公における間宮康俊公だと言えば解り易いでしょうか?
※北条綱成公と玉縄城の記事は「ココ 」←クリック!

この推測を更に強化するのが、徳川家康公の大坂城攻め「大坂冬の陣」の史話です。
間宮直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力武将として参戦していました。
その際、徳川家康公に直々に呼び出され密命を命じられます。その内容が…
「坑道を掘り、大坂城の櫓を崩せ」
…と言うものでした。
残念ながら、この作戦の成功を見ずに直元公は在陣中、病没してしまわれました。
しかし、この逸話からも、直元公が家康公と直接話せる立場に在ったと言う事が立証出来る訳です。
なので、寶生寺と関わりの深い間宮直元公が徳川家康公に口添えし、御朱印発給を要請した事が推測出来る訳です。

この寶生寺は間宮直元公や北条家、徳川家康公とこの様に関わりを持って来た訳ですが…
南区に御住いの皆さん、寶生寺がそんな凄い御寺だって御存知でしたか?
小生は寶生寺を訪れて、ますます先人の残して下さった文化と神社の宮司さん氏子さん、御寺の和尚さんと檀家さんが守り伝えてきた歴史を大切にしなきゃいけないなと改めて思う休日に成りました。
どうやったら郷土史の伝承に貢献できるか、寄与できる方法や規模を充実させて行きたいなと思いました。

もし、これを読んで御興味を持たれたら是非!寶生寺や御近所の吉良家の蒔田城址に在る吉良政忠公の菩提寺である龍祥山勝國寺を御散歩して郷土の歴史を感じてみませんか?

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!

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横浜市磯子区岡村町にある岡村梅林と言う梅林が、次の日曜日位まで見頃です。
※2015年3月8日現在

この梅林は元々は、岡村天満宮の社領でしたが太平洋戦争後に米軍に接収され米軍基地にされたので、一度消失しています。
それを米軍から市に返還された際に、横浜市は何故か岡村天満宮に土地を返還せず公園化してしまったので有志で梅林を一部復活させたそうです。
広さは大きめの体育館くらい。
元々岡村天満宮の社領だったので、岡村天満宮と併せて御散歩するのに丁度良いくらいの敷地面積です。
岡村天満宮も鎌倉幕府御家人の平子家の殿様が開いた800年間の歴史の有る神社です。
恐らく、岡村天満宮が開基されたのは平子家の中の平子有長(ありなが)公の代の話しでしょう。
「曽我兄弟の敵討ち」の物語で頼朝公の忠臣として登場します。
箱根や小田原や鎌倉では有名な歴史事件で、狼藉に及んだ曽我兄弟を捕縛すべく最初に太刀を合わせた勇敢な武将でした。

曽我梅林のある小田原市曽我の領主曽我家と坂東平家の子孫の平子家が「梅で繋がる不思議な縁」を現代に伝えるタイムカプセルが岡村天満宮です。
岡村天満宮は次回の記事で詳しく書こうと思います。

現在8分咲き位かな?
別嬪(べっぴん)さんな梅さんばかり!
綺麗ですよね〜!
綺麗と言うよりは可愛らしく凜としていると言う印象でしょうか?

岡村梅林、実は数本、継木(つぎき)されている幹も有りまして…
この幹は下がピンクの梅、上は白梅ですね。
職人さんが見学者を楽しませようと趣向をこらして下さったんですかね〜?
この株は下が白梅、上は紅梅ですね!

岡村梅林は子供にも親しんで貰えるように子供向けの看板も設置されています。
良い取り組みですよね?

実はこの岡村梅林や岡村天満宮のある岡村町の丘陵は、戦国武将の北条氏繁が開基した龍珠院と言う御寺もあります。
岡村梅林や岡村天満宮から歩いて行けます。
※北条氏繁公の玉縄城と黄備えに関する記事は→「ココ」←クリック!
龍珠院の寺紋は、やはり北条家の「三つ鱗紋」ですね。
敷地内に下の石碑が有りまして、その内容を読むと氏繁公が開基された事が解ります。
龍珠院は谷戸構えの様(よう)です。
下の写真を見ると解りますが、掘削して城壁の様に垂直にした崖地に守られています。
恐らく、氏繁公は別荘代わりに此方を開基されたのだと思います。

何故なら、御近所に血筋的に足利将軍家の一族で高い位の吉良家の殿様が住む蒔田城も在(あ)りますから。
※蒔田城に関しては以前別記事でも書きました。
年賀の挨拶等、蒔田城の側に宿泊所が必要ですからね。
※蒔田城の記事は「ココ」←クリック!

だからこそ、この梅林も存在するのでしょう。
岡村梅林の最高部からは吉良家の蒔田城の丘も見えます。
以前書きましたが、近隣の三殿台遺跡からは吉良家の蒔田城、平子家の磯子城、太田道灌公の太田城が見えたから三殿台と呼ばれるのだと推測しています。
太田道灌公も又、吉良家の吉良成高公を上役として蒔田城に挨拶に来る立場だったので、別荘として京急南太田駅近くに太田城を築いていたのでしょう。
無題
因みに位置関係はこんな感じ・・・
どの城も三殿台から一望出来ます。

この岡村梅林が出来た時期も氏繁公の活躍した時期であり、恐らく杉田梅林を植林した間宮信繁公が同じく氏繁公の政策でこちらにも岡村梅林を開いたと思います。
江戸時代には広大な杉田梅林として岡村梅林、笹下城址梅林、峰の梅林も江戸からの観光客が船や陸路から観光に来ていたのでしょう。
全て戦国時代には間宮家の守護した地域ですからね。
※間宮家の記事は「ココ」←クリック!

岡村梅林は同時期に出来ているらしいので地域産業としての梅の果実生産としての植林であると同時に、吉良家の殿様を招いての春の連歌会を開いたりする場所だったのかも知れませんね…

以下岡村梅林の行き方です。

岡村梅林には入口は二つ有ります。
一つは鎌倉街道側

もう一つは旧岡村天満宮敷地の横浜市立岡村公園側です。

岡村公園の運動施設には安い有料駐車場も有るので車が有るなら此方(こちら)側の入口が便利かと思います。
 
写真上、「⚫︎6丁目」と表示されている場所が「岡村梅林」です。
写真左下の「緑の屋根が岡村天満宮」の現在の場所です。
この現在の岡村天満宮〜岡村公園〜岡村梅林の全てを含めた敷地が、戦前は岡村天満宮の敷地でした。

最寄バス停は…
京急バスの「岡村梅林入口」か
神奈中バス市営バスの「横浜岡村郵便局前」です。

最寄駅は…
京急と市営地下鉄の「上大岡駅」
か「市営地下鉄の弘明寺駅」
…ですが、いずれも駅かは徒歩20分〜30分かかると思うのでバスか車を御勧めします

では、又、次の記事でお会いしましょう!
次こそ岡村天満宮を書きたいな…
でも田浦梅林も書かないと梅の季節が…

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