歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:蒔田吉良家

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旅ってのは遠遊ばかりでなく、県内や地域内で散策し安らぎや日常生活の中の発見を感じる小旅行も有りますよね?
皆さんの御近所には、どんな安らぎの場が有りますか?
小生は御縁が有って、最近、世田谷にちょくちょく行きます。
その世田谷区の東急世田谷線の駅の近くには、世田谷城址公園と豪徳寺、世田谷八幡宮、勝光院と言う古跡名刹が点在しています。
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この宮の坂駅、駅に地区センターが併設された少し変わった構造なのですが、駅の名前の由来は世田谷区宮坂1丁目に在るからです。
では、その宮坂の地名の由来ですが…
実は、駅の直ぐ目の前、つまり宮坂地区に「世田谷八幡宮」と言う歴史有る八幡宮が鎮座しているからなんです。
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この世田谷八幡宮は歴史は古く、平安時代に遡(さかのぼ)ります。
鎌倉幕府の創始者源頼朝公の御先祖様で源氏最強の武将だった源"八幡太郎"義家公が創建したとの伝承が有り、その境内には厳島神社も抱えています。
更に戦国時代に成ると、この一帯の殿様だった足利家の一族の蒔田吉良家の吉良頼康公が再興された歴史も有ります。
頼康公、実は横浜市の殿様の笠原信為公と間宮康俊公と協力し、戦災で焼失した鎌倉の鶴岡八幡宮も再建しています。
吉良家は戦国時代、北条家の影響下に入ると横浜市南区の蒔田に蒔田城を築き、古河公方の代理として蒔田御所と呼ばれ非常に重要視されていました。
当時、蒔田城の近くには蒔田湾と言う入り江や笹下川が流れていて、その水運を利用し吉良頼康公が材木を調達運搬し鎌倉の材木座海岸の若江島に輸送したそうです。
この鶴岡八幡宮や鎌倉の復興事業はのべ5万人が関わった大事業で、当時の吉良家の経済力が凄まじく豊かだった事が解ります。そして、その事業を成功させた頼康公の実務能力の高さにも敬服するばかりです。


吉良家は小田原北条家に組した大名だったので、安土桃山時代に豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に、この世田谷八幡宮の近所に在った吉良家の居城の世田谷城も落城し、吉良家は徳川家の支配下で下総(しもうさ)国に転封(てんぷう=領地の引っ越し)をさせられると、その後は徳川家康公により保護されました
なので江戸時代に世田谷八幡宮は大変な権威を誇り、武家の軍事教練として重要だった「相撲」の名所となり「江戸三大相撲」の開催場所だった為、境内には今も土俵が存在しています
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昔はここの土俵に多くの江戸の町民が相撲の取り組みを観戦に来たんでしょうね~。
※吉良家の関連記事は以下をご覧ください。
●蒔田吉良家の御所、蒔田城の記事は「ココ 」←クリック!
●吉良頼康公が間宮康俊公と鶴岡八幡宮を再建された事績の記事は「ココ 」←クリック!

源義家公は河内源氏と呼ばれた氏族です。つまり源氏の中でも河内国、今の羽曳野市辺りを元々本拠地にしていた、その後の源氏の本流に成った一族の平安時代の惣領(そうりょう=親分)です。
義家公は御父君、鎮守府将軍源頼義公と共に、今の神奈川県鎌倉市に拠点を置き、鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)の中の「亀ヶ谷(かめがやつ)」と呼ばれた地域に館を築いて関東地方や東北地方で土地開発や軍事に活躍された方です。その館の跡は今、「亀谷山寿福寺」と言う御寺に成り、源頼朝公の奥さん北条政子様と御次男で鎌倉幕府三代将軍の源実朝公の菩提寺として存在しています。
※以前、寿福寺を紹介した記事は「ココ 」←クリック!

さて、源義家公は神道と仏教の両方の神仏を信奉し、山岳信仰にも熱心だったので、「八幡神」や「権現様」の御社やを各地で創建したり再興したりされています。
この信仰は源頼朝公も引き継いでおり、頼朝公に至っては此花昨夜姫の権化として信仰対象に成っている富士山を、何の登山道具も無かった鎌倉時代に登山し火口を一周されたり、此花昨夜姫の父神の大山祇大神の権化とされる神奈川県伊勢原市の大山を登山したり、その大山信仰の元に成った比々多神社も参拝しています。
※大山阿夫利神社記事は「ココ 」←クリック!
※比々多神社の記事は「ココ 」←クリック!
義家公は御寺の仏様も熱心に信心された方で、その菩提寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺に追い込まれましたが、今も羽曳野市壺井に通法寺と言う御寺の跡が在り、そこに義家公の御廟所が在ります。
そして、その通法寺の近くにもやはり、壺井八幡宮と言う八幡様が在ります。
神仏習合の神様の称号である山岳信仰の対象「権現」を信仰していた痕跡は関東各地にも在りますが、東京都八王子市にも残っていて、それも以前書いた「滝山街道」の記事に有るので御興味有れば御覧下さい。
※源義家公の山岳信仰に関する滝山街道の記事は「ココ 」←クリック!

先に少し触れましたが、この世田谷八幡宮は厳島神社も境内に有ります。
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厳島神社の神様は3柱の姫神様で壱岐嶋媛達が祀られています。
女神さまだから縁結びの御利益が有りますかね~?
古くは海上交通の神様として祀られた神様なので、水神様も信仰していた源氏の義家公や蒔田吉良家らしい神社とも言えるのでしょうか?
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厳島神社自体の御社は小さいものの良く屋根の社紋を見ると…
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蒔田吉良家と血縁が有り、蒔田吉良家を影響下に組み込んでいた小田原北条家の家紋が使用されています。
つまり、この世田谷八幡宮内の厳島神社には小田原北条家が少なからず関わっていたと言う事が解ります。

さて、話を世田谷八幡宮そのものに戻します。
世田谷八幡宮は関わって来た歴代殿様が凄い方達ばかりなので、縮小された現在でも可也(かなり)立派な規模を誇っています。
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説明看板も二種類有ります。
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境内は冒頭で掲載した惣門に当たる大鳥居の他に、参道を進むと更にもう一つ石造りの大きな鳥居が参拝者を出迎えます…
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現在も多くの方から信仰され多くの氏子様を抱える八幡様だけあり、中の鳥居には立派な注連縄(しめなわ)が掲げられていました。
禰宜の藏重さんの御話ですと、最近は世田谷八幡宮で神前式を上げる若夫婦も多いそうです。
ウエディングドレスの披露宴も捨てがたいですが、御話を聞いて、披露宴と別に結婚式を自分の家の氏神様で挙げると言うのも古来の習慣を大切にしていて良い日本文化伝承には良い傾向だと個人的に思いました。
無論、教会でも結婚式も神秘的で素敵ですよね。
まぁ、信仰はそれぞれ、日本人はそんな寛容さを古来から持っているし、日本の神様や仏様は外来の神様にも寛容な側面が有るので…
神前式を選ぶかどうか、教会式を選ぶかは日本の場合は権力を握る御嫁さん次第ですね(笑)!

さて、注連縄の掛かった石の鳥居を過ぎ石段を登ると、いよいよ本殿と社務所と神楽殿が見えて来ます。
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素敵な八幡様でしょ~?
住宅街の中の神社なのに清浄な雰囲気が漂っています。
この手前の石段右手に先程の土俵が在ります。
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土俵の横に何か建物が在ったので、これは昔、土地の領主や名主が相撲を観戦する際に利用した建物なんだと思います…
禰宜さんに聞くの忘れたので詳細は判りません。

ここは手水舎までも雰囲気があります。
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建物の感じだと、江戸時代位から有る手水舎なんですかね~?
手水舎の向こうには神楽殿かな?社務所と別棟の建物が在りました。
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どこを見ても江戸時代の雰囲気が漂っていますね。
そうそう!
この世田谷八幡宮、徳川家康公の庇護を経て、江戸時代に下総国に移住した蒔田吉良家の殿様の御子孫が再び支援したそうなので、江戸時代の雰囲気が現在も漂っているのだと思います。
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なんか…やけに眉毛の立派な狛犬様ですね。
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でも、この↑上の狛犬サン、子狛犬(笑)を優しくなでていて、何だか江戸時代の人のユーモアと人情や愛情が現代に垣間見えてホッコリしますね。
強くて優しいって理想ですよね~。
小生、この狛犬さんや御寺の仁王門の金剛力士みたいな人格に成りたいです。
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本殿も本当に立派でしたよ~。
本殿の御神籤(おみくじ)は24時間の自販機でした。
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現代に奉納された灯篭も立派ですね、そして周囲の雰囲気を壊さない素敵なデザインです。
この灯篭を良く見ると…
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吉良頼康公の家紋「五三桐」の紋ですね。
吉良頼康公が、この世田谷八幡宮を再興した事を感謝し子子孫孫に伝える氏子さん達の気概が伝わります。
そして、吉良家の領民だった誇りが、この世田谷区に昔から住んでいる方々には有るのでしょうね。
どうです?
素敵な神社だったでしょう?
大鳥居前の大きい社務所の駐車場には綺麗な花が元気に咲いて出迎えてくれていました。
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また、何度でも御参りに来たくなる八幡様でした。

さて、この世田谷八幡宮の近所には、蒔田吉良家の初期の居城だった世田谷城址公園や…
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世田谷城の主要部分だった豪徳寺が在ります。
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彦根藩主井伊家の2代目井伊直孝公からの歴代藩主菩提寺でもあり…
実は!招き猫の発祥地でもあります。
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可愛いでしょう?

この豪徳寺や世田谷城址公園も、近いうちに御紹介したいと思います。

では!今回はここ迄!
又、次の記事で御会いしましょう!



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横浜市南区堀之内、地下鉄吉野町駅から徒歩15分くらいの所…
江戸時代には近くに蒔田湾(古大岡湾)と呼ばれた入江が眼前まで広がっていた丘、今では埋め立てられ平地に突き出した丘の裾に青龍山寳生寺と言う古義真言宗の名古刹(こさつ=古い御寺)が在(あ)るのを御存知でしょうか?

青龍山 寳金剛院 寶生寺
鎌倉〜江戸時代の名将達が保護した古刹。
雰囲気有る石段でしょ?
今は宅地に成ってしまった旧参道から山門に続く石段の立派さが、この寺院の往時の権威を今に伝えています。
季節柄、紫陽花も綺麗ですね〜♪
1171年(承安元年)の開基ですから…
鎌倉幕府を開いた源頼朝公の御父君、左馬頭(さまのかみ)源義朝公の頃の時代の話ですね。
山門も良い感じに風情ありますよね?
鎌倉時代には執権の北条貞時公や、横浜市金沢区金沢文庫の地名の由来に成った日本初の私設図書館金沢文庫を創設し称名寺の基に成った金沢北条家の邸宅を建設した文化人で鎌倉幕府の重鎮、北条実時公からも保護されました。

※称名寺の記事はココ⤴クリック!

近くには戦国時代の武蔵蒔田吉良家の殿様の城、蒔田城も在りました。
戦国時代には蒔田吉良家は横浜市南区や川崎市高津区中原区、東京都世田谷区一帯を支配していました。
吉良家と友好関係にあり江戸城主だった戦国時代初期の名将太田道灌公からも崇拝されていました。

※吉良家の記事はココ⤴クリック!

余談ですが南区には京浜急行の南太田駅が在りますが、この南太田の地名の由来は戦国時代に今の南区太田に太田道灌公の御城が有った事に由来します。
吉良家の殿様は吉良頼康公の頃から小田原北条家に協力していた関係からか、この寳生寺も戦国時代の名将北条氏康公からも保護されていました。
その鎌倉幕府金沢北条家〜戦国時代の北条氏康公に保護されて来た証拠が山門の上と手水舎に刻印された寺紋です…
北条家の家紋、三鱗紋の使用を許され今も御寺の寺紋として使われています。

さて、この寳生寺、昔は沢山の大建築を擁する大寺院で本山格の権威を誇っていたのですが…
最大時には本殿と鐘楼以外に惣門、長屋門、弁天堂で七福神の弁財天様も御祀(まつ)りしており、それ以外に客殿や熊野社、経蔵が有ったそうですが、明治政府の数少ない愚政の一つ「廃仏棄釈」により衰退してしまいました。
その影響で本殿と山門と鐘楼を除いて失われてしまいました…。
残念ですね。
歴史の古い本殿は、今も健在です。
 
本殿は立派な彫刻を施されています。
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あと鐘楼も有ります。
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鐘楼の向こうに本堂を見ると、背後に山林が広がっているのが見えますよね。
 
寶生寺の山林は県の市の保護林にも指定されていて貴重な場所でもあり、保護林である時点でその広大さも窺(うかが)い知れると思いますが、衛星写真で見てみると解り易いですね。
寶生寺
寶生寺を中心に取り囲む山林が寺域です。
むやみに伐採出来ないので、御寺の参道も管理が大変そうですね。
少し雑草が生い茂っていたり落ち葉が多かったので次回訪問する際に、御住職に参道の掃除をさせて下さいと申し出て見ようかなと思いました…
広い御寺を老齢になられてから維持管理するのは大変ですからね…
動ける人間が横浜市の歴史を守って来た御寺や神社に恩返し出来る事をするのは当然だと思いますので。

さて、この寶生寺、戦国時代の終焉の頃には徳川家康公により、保護する旨の朱印状を与えられています。
恐らく、その橋渡しをしたのが寶生寺に深く関わっていた横浜の殿様、「間宮直元公」だと推測出来ます。
間宮直元公は、横浜市磯子区と港南区にまたがる広大な城、笹下城の最後の城主で北条家の滅亡後は徳川家康公に仕えて、笹下城址の麓(ふもと)に笹下陣屋を築いて、そこを拠点に「本牧奉行(ほんもくぶぎょう)」と言う役職を担(にな)っていました。

※間宮家の記事はココ⤴クリック!
その本牧奉行の行政担当範囲を衛星写真でみると、大凡こんな感じです。
寶生寺周辺図
写真の中央に寶生寺の所在する横浜市南区、その上部、東京湾に突き出た半島を本牧半島と言います。
そして、本牧奉行の支配域は大凡、写真で見えている範囲で嘗(かつ)て日本神話の時代に神武天皇が城を造りたいと仰ったと伝承する「久良岐(くらき)の丘」と呼ばれる丘陵地帯です。
その丘陵地帯が正に、略(ほぼ)この写真の範囲で、この地域は神話の時代から明治時代に横浜市が成立するまで「久良岐郡」と呼ばれていました。
余談ですが久良岐郡の久良岐が小生のハンドルネームでもあります。
日本武尊と乙橘姫の二柱の神様が、旅されたのが久良岐郡と、隣の橘樹郡、三浦郡の地域で一帯には日本武尊神話がそこかしこに残り、それとリンクする様に浦島太郎伝説も残っている神話と伝承の地域でもあります。
そして平安時代~現代に至るまで坂東武者や戦国武将達の重要な水軍基地だった地域でもあり、現代の日本国の海上自衛隊と米国海軍にとって重要な基地やドッグの点在する地域でもあります。
それと同時に海外貿易を担う「国際港」横浜港の中枢でもあります。

さて、何で大大名でもない間宮直元公が直接、寶生寺と徳川家康公の橋渡しを出来る立場にいたかですが…
直元公の祖父は間宮康俊公と言い、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に箱根の山中城の出城、袋崎出丸に籠城し大活躍の後に玉砕した功績から、その子弟の多くが徳川家康公の直臣として取り立てられていました。
そして直元公からして叔母に当たる「間宮お久」さんは家康公の側室に入っており、後に「於久(おひさ)の方」と呼ばれた人物で縁故も有った訳です。
そして直元公御自身も「本牧奉行」以外にも更に重要な役職に就(つ)いていました…
その役職と言うのが江戸幕府の「但馬奉行」と「佐渡奉行」と呼ばれる役職です。
但馬奉行は但馬銀山の鉱山開発、佐渡奉行は佐渡金山の鉱山開発を担う重要な役職で、直元公の前任者は学校の日本史でも習う「大久保長安」と言う江戸幕府の超有名な内政官僚でした。
その大久保長安が政治失脚した後に、最後の笹下城主だった間宮直元公が、その役職を継いだ訳です。

間宮家は室町時代~明治維新まで、横浜の多くの神社仏閣や文化財を守る気風を受け継いだ殿様が多く、この寶生寺にも現代に重要文化財が残りました。
寶生寺の説明看板の写真を、その文化財の説明として掲載します。
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看板の他にも江戸期の石塔が保護されていました。
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さて、何で寶生寺に関わっていた間宮家の直元公が、但馬奉行や佐渡奉行を担っていたかですが、それは今も横浜市港南区笹下に住む、間宮家臣の竹内家や市村家、内田家の其々(それぞれ)の御本家と分家の御子孫の御話しや、文献から容易に推測が出来ます…
間宮家は戦国時代、小田原北条家の家臣でした。
所属した部隊は、関東地方で最強の武将だった玉縄城主北条綱成公率いる「黄備え隊」でした。
黄備え隊は、北条家の国境前線で起きる重要な合戦に常に参戦する部隊でした。
その戦闘範囲は広く…
西は間宮家は家臣古角内田家が受領した感状に記載された年号から、北条早雲公が今川家臣だった時代には遠く三河国(愛知県安城市)に今川軍として遠征し松平家と交戦しています。
北は北条綱成公率いる黄備え隊が信濃国上田城(長野県上田市)の武田軍の救援に赴いています。
東は下総国逆井城(茨城県坂東市)にて頻繁に佐竹家や小田家と交戦していました。

そして間宮家臣の御子孫の皆さんの御話しでは、間宮家は合戦だけでなく築城技術集団だったそうです。
つまり、鉱山の開発を任されたのは土木建築技術集団としての評価も高かったからでしょうか?
因みに間宮家は合戦と土木建築技術の他にも織田家や神社仏閣との外交等でも活躍していました。
その家臣筋の皆さんの証言を証明するのが、1526年に戦災で焼失した鶴岡八幡宮の再建事業に1536年から間宮家の当時の惣領だった間宮康俊公が奉行として参加している事です。
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この鶴岡八幡宮再建には寶生寺近くの蒔田城主吉良頼康公も材木の調達で寄与されています。
間宮家は祖先を有名な鎌倉御家人「佐々木高綱」公と自認していた(実際は佐々木高綱公の叔父の家系)事から、敦実親王の王孫に当たり家格も高く、その上、間宮家の系統の祖先が近江沙沙貴神社の宮司家だった為、神事にも精通し、加えて土木技術集団であったので「鶴岡八幡宮再建事業」にはうってつけの集団だった訳です。
羽柴秀吉における蜂須賀小六に有職故実の知識を足した様な人物に当たるのが、北条綱成公における間宮康俊公だと言えば解り易いでしょうか?

※北条綱成公と玉縄城の記事はココ⤴クリック!

この推測を更に強化するのが、徳川家康公の大坂城攻め「大坂冬の陣」の史話です。
間宮直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力武将として参戦していました。
その際、徳川家康公に直々に呼び出され密命を命じられます。その内容が…
「坑道を掘り、大坂城の櫓を崩せ」
…と言うものでした。
残念ながら、この作戦の成功を見ずに直元公は在陣中、病没してしまわれました。
しかし、この逸話からも、直元公が家康公と直接話せる立場に在ったと言う事が立証出来る訳です。
なので、寶生寺と関わりの深い間宮直元公が徳川家康公に口添えし、御朱印発給を要請した事が推測出来る訳です。

この寶生寺は間宮直元公や北条家、徳川家康公とこの様に関わりを持って来た訳ですが…
南区に御住いの皆さん、寶生寺がそんな凄い御寺だって御存知でしたか?
小生は寶生寺を訪れて、ますます先人の残して下さった文化と神社の宮司さん氏子さん、御寺の和尚さんと檀家さんが守り伝えてきた歴史を大切にしなきゃいけないなと改めて思う休日に成りました。
どうやったら郷土史の伝承に貢献できるか、寄与できる方法や規模を充実させて行きたいなと思いました。

もし、これを読んで御興味を持たれたら是非!寶生寺や御近所の吉良家の蒔田城址に在る吉良政忠公の菩提寺である龍祥山勝國寺を御散歩して郷土の歴史を感じてみませんか?

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
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横浜市磯子区岡村町にある岡村梅林と言う梅林が、次の日曜日位まで見頃です。
※2015年3月8日現在

この梅林は元々は、岡村天満宮の社領でしたが太平洋戦争後に米軍に接収され米軍基地にされたので、一度消失しています。
それを米軍から市に返還された際に、横浜市は何故か岡村天満宮に土地を返還せず公園化してしまったので有志で梅林を一部復活させたそうです。
広さは大きめの体育館くらい。
元々岡村天満宮の社領だったので、岡村天満宮と併せて御散歩するのに丁度良いくらいの敷地面積です。
岡村天満宮も鎌倉幕府御家人の平子家の殿様が開いた800年間の歴史の有る神社です。
恐らく、岡村天満宮が開基されたのは平子家の中の平子有長(ありなが)公の代の話しでしょう。
「曽我兄弟の敵討ち」の物語で頼朝公の忠臣として登場します。
箱根や小田原や鎌倉では有名な歴史事件で、狼藉に及んだ曽我兄弟を捕縛すべく最初に太刀を合わせた勇敢な武将でした。

曽我梅林のある小田原市曽我の領主曽我家と坂東平家の子孫の平子家が「梅で繋がる不思議な縁」を現代に伝えるタイムカプセルが岡村天満宮です。
岡村天満宮は次回の記事で詳しく書こうと思います。

現在8分咲き位かな?
別嬪(べっぴん)さんな梅さんばかり!
綺麗ですよね〜!
綺麗と言うよりは可愛らしく凜としていると言う印象でしょうか?

岡村梅林、実は数本、継木(つぎき)されている幹も有りまして…
この幹は下がピンクの梅、上は白梅ですね。
職人さんが見学者を楽しませようと趣向をこらして下さったんですかね〜?
この株は下が白梅、上は紅梅ですね!

岡村梅林は子供にも親しんで貰えるように子供向けの看板も設置されています。
良い取り組みですよね?

実はこの岡村梅林や岡村天満宮のある岡村町の丘陵は、戦国武将の北条氏繁が開基した龍珠院と言う御寺もあります。
岡村梅林や岡村天満宮から歩いて行けます。
※北条氏繁公の玉縄城と黄備えに関する記事は→「ココ」←クリック!
龍珠院の寺紋は、やはり北条家の「三つ鱗紋」ですね。
敷地内に下の石碑が有りまして、その内容を読むと氏繁公が開基された事が解ります。
龍珠院は谷戸構えの様(よう)です。
下の写真を見ると解りますが、掘削して城壁の様に垂直にした崖地に守られています。
恐らく、氏繁公は別荘代わりに此方を開基されたのだと思います。

何故なら、御近所に血筋的に足利将軍家の一族で高い位の吉良家の殿様が住む蒔田城も在(あ)りますから。
※蒔田城に関しては以前別記事でも書きました。
年賀の挨拶等、蒔田城の側に宿泊所が必要ですからね。
※蒔田城の記事は「ココ」←クリック!

だからこそ、この梅林も存在するのでしょう。
岡村梅林の最高部からは吉良家の蒔田城の丘も見えます。
以前書きましたが、近隣の三殿台遺跡からは吉良家の蒔田城、平子家の磯子城、太田道灌公の太田城が見えたから三殿台と呼ばれるのだと推測しています。
太田道灌公も又、吉良家の吉良成高公を上役として蒔田城に挨拶に来る立場だったので、別荘として京急南太田駅近くに太田城を築いていたのでしょう。
無題
因みに位置関係はこんな感じ・・・
どの城も三殿台から一望出来ます。

この岡村梅林が出来た時期も氏繁公の活躍した時期であり、恐らく杉田梅林を植林した間宮信繁公が同じく氏繁公の政策でこちらにも岡村梅林を開いたと思います。
江戸時代には広大な杉田梅林として岡村梅林、笹下城址梅林、峰の梅林も江戸からの観光客が船や陸路から観光に来ていたのでしょう。
全て戦国時代には間宮家の守護した地域ですからね。
※間宮家の記事は「ココ」←クリック!

岡村梅林は同時期に出来ているらしいので地域産業としての梅の果実生産としての植林であると同時に、吉良家の殿様を招いての春の連歌会を開いたりする場所だったのかも知れませんね…

以下岡村梅林の行き方です。

岡村梅林には入口は二つ有ります。
一つは鎌倉街道側

もう一つは旧岡村天満宮敷地の横浜市立岡村公園側です。

岡村公園の運動施設には安い有料駐車場も有るので車が有るなら此方(こちら)側の入口が便利かと思います。
 
写真上、「⚫︎6丁目」と表示されている場所が「岡村梅林」です。
写真左下の「緑の屋根が岡村天満宮」の現在の場所です。
この現在の岡村天満宮〜岡村公園〜岡村梅林の全てを含めた敷地が、戦前は岡村天満宮の敷地でした。

最寄バス停は…
京急バスの「岡村梅林入口」か
神奈中バス市営バスの「横浜岡村郵便局前」です。

最寄駅は…
京急と市営地下鉄の「上大岡駅」
か「市営地下鉄の弘明寺駅」
…ですが、いずれも駅かは徒歩20分〜30分かかると思うのでバスか車を御勧めします

では、又、次の記事でお会いしましょう!
次こそ岡村天満宮を書きたいな…
でも田浦梅林も書かないと梅の季節が…
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前回のブログでは神奈川県に梅林が多い理由を解説しましたが…
※前回のブログ「ココ」←クリック!
今回は小田原市の曽我梅林をの写真を沢山載せます。

写真は先週28日に「曽我の里 別所梅祭り」の曽我梅林を見学した時に撮影したものです。
曽我梅林は戦国時代の関東の覇者、北条家のお膝元、小田原市に在(あ)ります…

小田原市の特産品が梅で、北条家の政策で梅の植林が神奈川県では盛んに行われた事は前回のブログでも触れました…
その北条家の梅が今でも小田原市の特産品でして、特に曽我の梅は「曽我十郎梅」としてブランド化に成功しています。

撮影当日は小田原城と戦国時代の小田原城残存部を見学した後に曽我梅林に着いたので少し薄暗く成ってました。
しかし、これが思いがけず幸運となり、美しい富士山と梅林のコラボした夕景を見る事が出来ました♪
曽我梅林は丁度(ちょうど)、箱根山を挟んで富士山と対面する丹沢山系南麓西端に位置します。
航空写真↓を御覧頂けば一目瞭然。
ですから、こんな風景が撮れたんですが、時間的な幸運にも恵まれました。
日没寸前の17:00位だったと思います。
曽我別所地区には何軒も大規模な梅農家さんが居て、果実としての梅の生産用梅林なんで本当に広大な範囲なんです。

梅花も数種類有り、オーソドックスな紅梅や白梅に加えて、枝垂れ梅やピンクの梅等が有ります。
本当に綺麗で、この梅林の中を散歩しても良いんですよ。
…勿論(もちろん)常識を守りながらですよ。
因(ちな)みに梅の話から脱線しますが…
勿論は「勿」+「論」で一つの単語に成っていますが元は漢文です。

「勿」は…禁止の意味です。
日本の古文では「〜するなかれ」と読みますね。
「論」は…まんま「論ず=語る」です。
つまり…
「勿論」は「語らなくて良い(ほど)」と言う意味の漢文が単語化した言葉です。

何で漢字の話しをしたかと言うと、この美しい梅は元々日本には無かった植物です。
昔、中国大陸から輸入された植物なんです。
ですから、漢学と言って昔は最先端学問だった中国の兵法や詩歌を学んだ菅原道真公は、この梅の花を漢学と同様に愛していたそうで、菅原道真と飛梅の伝承が有名です。
しかし、道真公は日本人の魂=思想価値観を根本として大切にしようと言う意味で…
「和魂漢才」=最先端学問を学びつつ日本人としての矜持(きょうじ)を大切にする
…と言う意味の言葉を残しています。

ところで…
道真公の愛した飛梅は、おそらくオーソドックスな梅でしょうかね〜?
小生は日本で品種改良された枝垂れ梅も綺麗だと思いました。

御存知の方も多いと思いますが、菅原道真公は全国で天満宮の神様に成っていますが、そんな理由で天満宮の紋は梅鉢紋に成っています。

梅が特産品の小田原市市章も梅をデザイン化したものです。
オラが町ヨコハマのコレ↓と比較すると…
小田原市はセンス良いですね♪
昔は横浜市も杉田梅が日本で有名なブランドだったんですがね〜。
片仮名のハマをデザイン化とかナンセンス過ぎ。

曽我梅林の枝垂れ梅綺麗でしょう?
富士山も綺麗…

勿論(かたるまでもなく)、菅原道真公が愛したであろう、普通の梅も綺麗ですね!

曽我梅林、良い場所でしょう?
ぜひ、訪れて見ては如何でしょうか?
箱根温泉や小田原城見学と合わせて行けば、かなり充実した観光コースに成りますよね!

残念ながら曽我別所梅祭りは今週3月4日で終了してしまいました。
もし来年行きたい方は以下のホームページリンクを参考にして下さい。
曽我の里 別所梅林」←クリック!

因みに5月3日には小田原城で北条五代祭りが開催され、武者行列等のイベントが有りますよ!

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
次回は岡村梅林と岡村天満宮と龍珠寺の記事を書こうかな…
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ブログネタ
美味しいもの に参加中!
梅干し好きですか?
小生は甘い蜂蜜漬けより、昔ながらの塩っぱくて酸っぱい本物の梅干しが好きです。
特に小田原の曽我十郎梅の梅干し。

神奈川県は梅の名産地であり、観賞できる梅林がいくつか有るのを皆様ご存知でしょうか?
現代、県内で1番有名なのは小田原市の曽我梅林です。
写真は曽我梅林。
先月28日に撮影しました。
枝垂れ梅の向こうに富士山を眺めれる素敵な場所です。

江戸時代、日本で最も有名だったのは、横浜市磯子区〜港南区の杉田梅林。
しかし…教育委員会が保護しなかった為に杉田梅林は姿を消しました。
写真は磯子区杉田の妙法寺にある杉田梅林の顕彰碑です。
江戸時代に観光地として栄えた杉田梅林を植林したのは、北条家重臣の間宮信繁公でした。
杉田梅は江戸時代に紀州南高梅より有名な梅だったんですよ!
ですから明治天皇も杉田梅林に観梅に御幸(みゆき=天皇陛下が外出なさる事)されています。
※杉田梅林関連記事は「ココ」←クリック!

現代横浜市磯子区岡村に、杉田梅林と同時期に造営された杉田梅林の飛び地、岡村梅林の一部が復興されています。
写真は岡村梅林の南側の入口です。
この岡村梅林は元々は岡村天満宮の敷地でした。
先週水曜日の時点では三分咲きでした。
今週末位からが見頃かな?
この直ぐ近所には玉縄北条氏繁公の開基(かいき=開いた)した龍珠院と言う御寺や、足利家一門(いちもん=親族)の蒔田吉良家の蒔田城も有りました。
※蒔田吉良家の記事は「ココ」←クリック!

田浦梅林は横須賀市田浦に在ります。
横浜横須賀高速道路からも見えますね。
田浦梅林は今上天皇の生誕記念に1934年に造営された、80年経った山全体が梅の木に覆われた広大な梅林です。
往時の杉田梅林を想像させる規模です。
昨年も行ったのですがデジタル写真が手元に無いので今週末撮影して来ます。

神奈川のお隣り、静岡県伊豆半島の梅林も超有名ですよね?
現代の東日本では、伊豆の方が有名かもしれません。
熱海梅園や修善寺梅林等が有ります。
熱海梅園は各種様々な梅花と河津櫻(かわづざくら)が観賞できます。
…もっとも歴史オタな小生からすれば伊豆半島は歴史的にも静岡県じゃなくて神奈川県に編入されるべき地域なんですが(笑)。

実はこれ等(ら)の梅林、なんで南関東の最南端沿岸部に集中しているかと言うと天災に関係が有ります。
そして戦国大名の北条家の政策に起因しています。

北条家の統治した南関東は水田開発に適さない土地が多く、為政者である北条家の各武将は食糧生産向上に苦慮していました。
その原因は多摩丘陵の丘だらけの地形と富士山です。
 
平安時代の富士山の噴火による火山灰堆積地層に由(よ)り、畑しか作れない地域が多いんです。
現代の降灰予想範囲を見て貰えば一目瞭然です。
降灰範囲が、正に畑文化地域なんです。
この範囲で富士山は戦国時代以前の平安時代には…
⚫︎延暦噴火800年〜802年。
⚫︎貞観噴火864年。
…以上の2回の噴火しています。
これにより生成された地層のせいの水田に不向きな土地なんですね。
余談ですが…
「かぐや姫」=「竹取物語」は成立年不明とされていますが、物語の最後に富士山名前の由来説明で火口が噴煙を上げている描写を記しているので、かぐや姫の物語は延暦〜貞観年間か、それ以後の成立と推測出来ます。

貞観噴火は貞観大地震と貞観大津波と関連が有り日本全土に重大被害をもたらした災害でした。
東日本大震災以降、地震や津波の発生メカニズムの研究対象として、地震研究者と考古学者が協力して研究している大地震です。
貞観地震と富士山貞観噴火の関係性から、東日本大震災以後、富士山噴火が警戒されている訳です。

延暦噴火では、古代、富士山北麓を抜け御殿場市を通過していた古東海道が使用不能に陥り、箱根経由の険しい現在の東海道を開拓しなければいけなくなった程の降灰がありました。

戦国時代以後も噴火しています。
江戸時代の宝永大噴火では小田原藩大久保家は藩経営不能な事態に陥り、徳川幕府が用意した代替領地に藩ごと一時期引っ越し、小田原藩約6万石は徳川幕府の元で再建されます。

今の富士山の南山麓の宝永山が宝永の大噴火当時の火口です。
まぁ、当時の江戸幕府は優秀でして…
無能な民主党が東日本大震災で始終狼狽して終わったのと異なり、江戸幕府は発災後、直ちに小田原藩領地を直轄地化し全国の大名から16万両の復興資金を集め復興政策を成功させ小田原藩に領地を返還しています。
当時の江戸市民が東京都内で体験した富士山噴火当日の様子を参考に紹介します。
この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。
…富士山が噴火すると東京都内も真っ暗に成り、大気中の火山灰同士が擦(こす)れ合い静電気で雷雲化してしまい、凄い落雷が続くみたいですね…
落雷要因の火災も頻発しそう。

さて、ここまで読んで頂くと水田耕作に関東平野南部が向いていなかった事情がなんとなく伝わったでしょうか?
そこ等辺りは、以前、平安〜鎌倉時代の武士三浦家の本拠地衣笠城の紹介記事でも書いたので御興味有れば読んで見て下さい。
衣笠城記事は「ココ」←クリック!

そこで北条家臣団による梅林の植樹が関係して来る訳です!
この殿様↑北条氏康公の時代に今の神奈川県と静岡県伊豆半島で梅林の植林が盛んに成ります。
※KOEIさんのゲーム画像だと↓コンナ感じ

関東では水稲が育てれない土地が多いので、富士山の火山灰の堆積地層の関東ローム層は古い層は赤土で酸化鉄が固まり硬く、又、新しい黒い層は畑地にしか向かない性質があります。
まぁ、長所も有り石垣を使わずとも削り込むと築城に向く地質でもある訳ですが…
そこで、北条家では梅林造営を奨励しました。
梅は関東ローム層でも植林可能です。果実が梅干しに食用加工出来るので、梅は戦時食料に成る上に、特産品として出荷も出来る訳です。

又、農業的、商業的な理由だけでの梅林造営ではなかった筈です。
北条家は元々の苗字が「伊勢」氏で、家祖の北条早雲公の家は室町幕府で申次衆(もうしつぎしゅう)と言う役職を務(つと)めたエリート官僚の家系でした。
ですから、北条家の殿様は学問を奨励した文化的素養に優れていた方ばかりで風流さも兼ね備えていた様です。
つまり現代人と同じ様に、梅林を見て観賞する意味でも植林を奨励したのだと思います。
だって綺麗だもんね?
上の写真は曽我梅林です。
北条家の家臣団は、梅林を見ながら和歌を詠(よ)んだりしたり、お酒を飲んだのかな〜?
なんか桜の花見より風流ですよね〜♪

恐らく、梅林には宗教的な意味も有ったと思います。
北条家より先に関東地方に土着し鎌倉文化の基礎を築いた平良文公の御子孫、坂東平氏の武士達は氏神様とは別に天神様=菅原道真公を崇拝していたので天神様と関係の深い梅を愛(め)でる文化が有ったのかも知れません。
※天神様と坂東平氏の関係記事は「ココ」←クリック!
鎌倉武士団は戦時食料にクエン酸と塩分を補給出来る梅干しを携行していましたし、梅林は平安時代後期の昔からいくらか有ったのかも知れませんね。

ここまで読んで頂いて、何で神奈川県や伊豆半島には広大な梅林が嘗(かつ)て沢山有り、今も曽我梅林や岡村梅林や杉田梅が残るか何となく御理解頂けましたか?

全ては北条家の大殿様と武将達の内政力を今に伝える文化遺産でもある訳です。

次回は梅花の写真を沢山載せた記事を書きますね〜!

では又、次のブログ記事でお会いしましょう♪
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今回は室町時代・・・戦国時代のお話です。

前回の記事「コレ(←クリック!) で、縄文時代~弥生時代の遺跡、三殿台遺跡を紹介した記事の冒頭で少し触れた、三人の三殿台周辺に住んで居た殿様達の事を紹介したいと思います。

一人目の殿様はマイナーで知る人ぞ知る殿様です。
●平子(ひらこ/たいらこ)氏の殿様
鎮守府将軍平良文公の御子孫で坂東平氏三浦氏の一族です。平安時代に三浦家二代当主三浦為継公の三男の久良岐(くらき)三郎公が此(こ)の地を領し、子孫が平子に改姓しました。
平子は五十子(いらこ)とも当字されますが、五十子の音読みが転化して今の「磯子(いそご)」の地名に変化したと推測出来ます。
室町時代には今の埼玉県本庄市五十子にも分家一族が住んでおり、関東管領上杉家の与力(よりき=組織での部下だが家臣ではない)として存在していました。五十子城は長尾景春の乱の際に舞台の一つに成った重要な軍事拠点でした。
磯子の平子氏本家の拠点は磯子城です。
磯子城跡は今の磯子小学校~腰越公園~"ゆず"の出身校の岡村中学校の裏の丘一帯辺りと推測されていますが、遺構は教育委員会に放置された挙句、保護はおろか調査すらされず小学校建設と宅地開発を容認され全貌不明のまま破壊されました。


二人目の殿様は結構有名な歴史好きには堪(たま)らない殿様です。
●太田道灌公
関東を代表する戦国初期の名将であり、扇谷上杉家の家宰(かさい=執事)として相模守護代を任された人物で、合戦においては不敗を誇った名軍師です。
今の皇居である江戸城や、埼玉県の河越城、岩槻城等の名城に加えて横浜市の佐江戸城等を築いた人物でした。
余りの能力の高さに主君である上杉定正が恐れと猜疑心を抱き、扇谷上杉家の本拠地であった神奈川県伊勢原市の七沢城(現在のリハビリテーション病院)の近くの糟屋館(現在の産能大学)で暗殺されてしまいました。
胴塚は高部屋の洞昌院公所寺にあります。首塚は伊勢原市に在りましたが改葬され鎌倉市扇ヵ谷地区の英勝寺裏手の鎌倉山山中に在ります。英勝寺は鎌倉での太田道灌公の本宅、伊勢原の洞昌院は塔中寺院が宿舎でした。
この道灌公の別宅が横浜市南区太田町の三春台、今の太田小学校の所在地に有りましたが、教育委員会による小学校建設時に無調査で全貌不明のまま破壊されました。

三人目の殿様は超有名な一族の殿様です。

●足利家の一門、吉良家の武蔵国吉良家の一門、蒔田吉良氏。 

忠臣蔵で悪名名高い吉良氏ですが、あのクソ性格悪い三河の吉良家とは違い、武蔵の吉良頼康公の御一門は周辺の武将から好かれていた様です。
本来室町時代に有名だった吉良氏は室町時代に足利家の支族で鎌倉府付きの重鎮として武蔵国に移住してきており、「足利家が倒れれば吉良家が立つ」と言われた程の名家でした。
関東では東京の世田谷~川崎市中部~横浜市東部が領土で、武蔵国の多摩川沿い、中原街道、鎌倉街道、武蔵国東部の沿岸部の交通の要衝を悉(ことごと)く抑えていました。
しかし扇谷上杉家と領土が入り乱れ係争地だった為か戦国時代には勢力が縮小していた様です。
戦国時代に成ると小田原北条家に従属しましたが、家臣扱いはされず特別視され「蒔田殿」と呼ばれていました。
小田原「北条氏の黒備え」の指揮官を務め神奈川区に有った青木城の城主、多目元忠公が蒔田城の保護を担当していた様です。
青木城と多目元忠公の記事は「ココ 」←クリック!
蒔田吉良家の居城、蒔田城は今の横浜市南区蒔田の横浜英和女学院小学校(旧成美学園遺跡)の所在地に有りました。

しかし、教育委員会に城址の調査がされないまま小学校建設許可容認され、破壊されました。 ですので、此方(こちら)も城址の詳細は不明です。

この三人の殿様が居た御城のちょうど真ん中に在るのが三殿台です。3つの御城が見えたから、三殿台なんでしょうね。 

だって其(そ)れ以外に「三」「殿」がからむ「台地」の要素無いですから(笑)。

さて、その中でも蒔田吉良家の殿様の蒔田城は申し上げた通り既に破壊されていますが、堅固な要害の地に在(あ)った事だけは今でも解ります・・・
写真です。
IMG_2179

・・・落ちたら死ぬよね。
実はここは成美学園遺跡と言う考古学的にも重要な遺跡だったのですが・・・
IMG_2178

城としての調査は神奈川県教育委員会が行わないまま開発容認してしまった為、どんな御城だったのか現代では不明に成ってしまいました。

ただ、周囲には帯曲輪(おびくるわ=長細い防御施設)と思(おぼ)しき地形は残っていました。
IMG_2180
本当にそうかは全く解らないし土塁も無いけれどね。
伝承では北側に曲輪が残存とされています。

IMG_2181
この地形なんかを見ると、恐らくこちら側から登城したんだろうなとか・・・
もはや、原型なんか無いので完全な想像でしか無いんですが、間違えなく堅固な地形ではあります。

実際、この蒔田城を含め、磯子城の在った岡村の丘や上大岡、中区の滝頭や根岸の丘~本牧の丘は江戸時代に掘削され分断されるまで長い一つの「久良岐の丘」でした。
その久良岐の丘は古代神武天皇が東征された際に「ここに城を造りたい」と言う主旨の事を申された程の堅固な丘陵地帯だったんです。
そして、その「久良岐の丘」が古代~昭和初期まで存続した行政区域「久良岐郡」の郡名の由来に成ったんですね。

この丘の下には、吉良家の菩提寺である「勝国寺」が現存しており、吉良家歴代の御廟所もあります。 IMG_2162
IMG_2163


立派な御堂がありまして・・・


IMG_2172

その裏手に在る墓所の中に吉良家の殿様の御廟所がありますが、いつも通り御廟所の写真は不敬なのでのせません。
IMG_2173

御寺の寺紋は桐(きり)の家紋でした。 

本山の総持寺由来で曹洞宗の寺紋は五七桐紋だそうです。
IMG_2167
勝国寺は五三桐紋…

吉良家の家紋は足利家の一族なので二引き両のはずです。
二つ両引き
東京の世田谷城主吉良家の菩提寺も世田谷の勝国寺ですが・・・
蒔田勝国寺と世田谷の勝国寺、世田谷城跡の豪徳寺でも桐紋が使用されているそうで、奥州流武蔵吉良家の殿様は併用されていたのかも知れませんね。

源氏一門である足利家分家の吉良家が何故桐紋を用いるかは謎です。源氏にとって桐紋の持ち主の藤原氏は本来平家以上に憎むべき存在であるから進んで用いるには何か理由が有るのでしょうか?

勧修寺流藤原家出身の関東管領扇谷上杉家に臣下の礼をとり桐紋の使用を許されたのかも知れないし…?

或(ある)いは室町幕府の足利尊氏公、義詮公に反逆し南朝に付いた時期に後醍醐天皇に直接下賜されたのかも知れませんし…由来は謎です。 

しかし、桐紋の由来は判らずとも、この蒔田の土地に殿様が居らっしゃった事と、その菩提寺がある事は地域の方々の誇れる歴史だと思います。
同様に周辺の平子の殿様が住んで居た磯子や、太田道灌公が別宅として住んで居た太田小学校や南太田周辺の地域の方々も、その歴史を知れば郷土に誇りを感じるんじゃないでしょうか?







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