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タグ:蒔田吉良家

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前回のブログでは神奈川県に梅林が多い理由を解説しましたが…
※前回のブログ「ココ」←クリック!
今回は小田原市の曽我梅林をの写真を沢山載せます。

写真は先週28日に「曽我の里 別所梅祭り」の曽我梅林を見学した時に撮影したものです。
曽我梅林は戦国時代の関東の覇者、北条家のお膝元、小田原市に在(あ)ります…

小田原市の特産品が梅で、北条家の政策で梅の植林が神奈川県では盛んに行われた事は前回のブログでも触れました…
その北条家の梅が今でも小田原市の特産品でして、特に曽我の梅は「曽我十郎梅」としてブランド化に成功しています。

撮影当日は小田原城と戦国時代の小田原城残存部を見学した後に曽我梅林に着いたので少し薄暗く成ってました。
しかし、これが思いがけず幸運となり、美しい富士山と梅林のコラボした夕景を見る事が出来ました♪
曽我梅林は丁度(ちょうど)、箱根山を挟んで富士山と対面する丹沢山系南麓西端に位置します。
航空写真↓を御覧頂けば一目瞭然。
ですから、こんな風景が撮れたんですが、時間的な幸運にも恵まれました。
日没寸前の17:00位だったと思います。
曽我別所地区には何軒も大規模な梅農家さんが居て、果実としての梅の生産用梅林なんで本当に広大な範囲なんです。

梅花も数種類有り、オーソドックスな紅梅や白梅に加えて、枝垂れ梅やピンクの梅等が有ります。
本当に綺麗で、この梅林の中を散歩しても良いんですよ。
…勿論(もちろん)常識を守りながらですよ。
因(ちな)みに梅の話から脱線しますが…
勿論は「勿」+「論」で一つの単語に成っていますが元は漢文です。

「勿」は…禁止の意味です。
日本の古文では「〜するなかれ」と読みますね。
「論」は…まんま「論ず=語る」です。
つまり…
「勿論」は「語らなくて良い(ほど)」と言う意味の漢文が単語化した言葉です。

何で漢字の話しをしたかと言うと、この美しい梅は元々日本には無かった植物です。
昔、中国大陸から輸入された植物なんです。
ですから、漢学と言って昔は最先端学問だった中国の兵法や詩歌を学んだ菅原道真公は、この梅の花を漢学と同様に愛していたそうで、菅原道真と飛梅の伝承が有名です。
しかし、道真公は日本人の魂=思想価値観を根本として大切にしようと言う意味で…
「和魂漢才」=最先端学問を学びつつ日本人としての矜持(きょうじ)を大切にする
…と言う意味の言葉を残しています。

ところで…
道真公の愛した飛梅は、おそらくオーソドックスな梅でしょうかね〜?
小生は日本で品種改良された枝垂れ梅も綺麗だと思いました。

御存知の方も多いと思いますが、菅原道真公は全国で天満宮の神様に成っていますが、そんな理由で天満宮の紋は梅鉢紋に成っています。

梅が特産品の小田原市市章も梅をデザイン化したものです。
オラが町ヨコハマのコレ↓と比較すると…
小田原市はセンス良いですね♪
昔は横浜市も杉田梅が日本で有名なブランドだったんですがね〜。
片仮名のハマをデザイン化とかナンセンス過ぎ。

曽我梅林の枝垂れ梅綺麗でしょう?
富士山も綺麗…

勿論(かたるまでもなく)、菅原道真公が愛したであろう、普通の梅も綺麗ですね!

曽我梅林、良い場所でしょう?
ぜひ、訪れて見ては如何でしょうか?
箱根温泉や小田原城見学と合わせて行けば、かなり充実した観光コースに成りますよね!

残念ながら曽我別所梅祭りは今週3月4日で終了してしまいました。
もし来年行きたい方は以下のホームページリンクを参考にして下さい。
曽我の里 別所梅林」←クリック!

因みに5月3日には小田原城で北条五代祭りが開催され、武者行列等のイベントが有りますよ!

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
次回は岡村梅林と岡村天満宮と龍珠寺の記事を書こうかな…

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梅干し好きですか?
小生は甘い蜂蜜漬けより、昔ながらの塩っぱくて酸っぱい本物の梅干しが好きです。
特に小田原の曽我十郎梅の梅干し。

神奈川県は梅の名産地であり、観賞できる梅林がいくつか有るのを皆様ご存知でしょうか?
現代、県内で1番有名なのは小田原市の曽我梅林です。
写真は曽我梅林。
先月28日に撮影しました。
枝垂れ梅の向こうに富士山を眺めれる素敵な場所です。

江戸時代、日本で最も有名だったのは、横浜市磯子区〜港南区の杉田梅林。
しかし…教育委員会が保護しなかった為に杉田梅林は姿を消しました。
写真は磯子区杉田の妙法寺にある杉田梅林の顕彰碑です。
江戸時代に観光地として栄えた杉田梅林を植林したのは、北条家重臣の間宮信繁公でした。
杉田梅は江戸時代に紀州南高梅より有名な梅だったんですよ!
ですから明治天皇も杉田梅林に観梅に御幸(みゆき=天皇陛下が外出なさる事)されています。
※杉田梅林関連記事は「ココ」←クリック!

現代横浜市磯子区岡村に、杉田梅林と同時期に造営された杉田梅林の飛び地、岡村梅林の一部が復興されています。
写真は岡村梅林の南側の入口です。
この岡村梅林は元々は岡村天満宮の敷地でした。
先週水曜日の時点では三分咲きでした。
今週末位からが見頃かな?
この直ぐ近所には玉縄北条氏繁公の開基(かいき=開いた)した龍珠院と言う御寺や、足利家一門(いちもん=親族)の蒔田吉良家の蒔田城も有りました。
※蒔田吉良家の記事は「ココ」←クリック!

田浦梅林は横須賀市田浦に在ります。
横浜横須賀高速道路からも見えますね。
田浦梅林は今上天皇の生誕記念に1934年に造営された、80年経った山全体が梅の木に覆われた広大な梅林です。
往時の杉田梅林を想像させる規模です。
昨年も行ったのですがデジタル写真が手元に無いので今週末撮影して来ます。

神奈川のお隣り、静岡県伊豆半島の梅林も超有名ですよね?
現代の東日本では、伊豆の方が有名かもしれません。
熱海梅園や修善寺梅林等が有ります。
熱海梅園は各種様々な梅花と河津櫻(かわづざくら)が観賞できます。
…もっとも歴史オタな小生からすれば伊豆半島は歴史的にも静岡県じゃなくて神奈川県に編入されるべき地域なんですが(笑)。

実はこれ等(ら)の梅林、なんで南関東の最南端沿岸部に集中しているかと言うと天災に関係が有ります。
そして戦国大名の北条家の政策に起因しています。

北条家の統治した南関東は水田開発に適さない土地が多く、為政者である北条家の各武将は食糧生産向上に苦慮していました。
その原因は多摩丘陵の丘だらけの地形と富士山です。
 
平安時代の富士山の噴火による火山灰堆積地層に由(よ)り、畑しか作れない地域が多いんです。
現代の降灰予想範囲を見て貰えば一目瞭然です。
降灰範囲が、正に畑文化地域なんです。
この範囲で富士山は戦国時代以前の平安時代には…
⚫︎延暦噴火800年〜802年。
⚫︎貞観噴火864年。
…以上の2回の噴火しています。
これにより生成された地層のせいの水田に不向きな土地なんですね。
余談ですが…
「かぐや姫」=「竹取物語」は成立年不明とされていますが、物語の最後に富士山名前の由来説明で火口が噴煙を上げている描写を記しているので、かぐや姫の物語は延暦〜貞観年間か、それ以後の成立と推測出来ます。

貞観噴火は貞観大地震と貞観大津波と関連が有り日本全土に重大被害をもたらした災害でした。
東日本大震災以降、地震や津波の発生メカニズムの研究対象として、地震研究者と考古学者が協力して研究している大地震です。
貞観地震と富士山貞観噴火の関係性から、東日本大震災以後、富士山噴火が警戒されている訳です。

延暦噴火では、古代、富士山北麓を抜け御殿場市を通過していた古東海道が使用不能に陥り、箱根経由の険しい現在の東海道を開拓しなければいけなくなった程の降灰がありました。

戦国時代以後も噴火しています。
江戸時代の宝永大噴火では小田原藩大久保家は藩経営不能な事態に陥り、徳川幕府が用意した代替領地に藩ごと一時期引っ越し、小田原藩約6万石は徳川幕府の元で再建されます。

今の富士山の南山麓の宝永山が宝永の大噴火当時の火口です。
まぁ、当時の江戸幕府は優秀でして…
無能な民主党が東日本大震災で始終狼狽して終わったのと異なり、江戸幕府は発災後、直ちに小田原藩領地を直轄地化し全国の大名から16万両の復興資金を集め復興政策を成功させ小田原藩に領地を返還しています。
当時の江戸市民が東京都内で体験した富士山噴火当日の様子を参考に紹介します。
この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。
…富士山が噴火すると東京都内も真っ暗に成り、大気中の火山灰同士が擦(こす)れ合い静電気で雷雲化してしまい、凄い落雷が続くみたいですね…
落雷要因の火災も頻発しそう。

さて、ここまで読んで頂くと水田耕作に関東平野南部が向いていなかった事情がなんとなく伝わったでしょうか?
そこ等辺りは、以前、平安〜鎌倉時代の武士三浦家の本拠地衣笠城の紹介記事でも書いたので御興味有れば読んで見て下さい。
衣笠城記事は「ココ」←クリック!

そこで北条家臣団による梅林の植樹が関係して来る訳です!
この殿様↑北条氏康公の時代に今の神奈川県と静岡県伊豆半島で梅林の植林が盛んに成ります。
※KOEIさんのゲーム画像だと↓コンナ感じ

関東では水稲が育てれない土地が多いので、富士山の火山灰の堆積地層の関東ローム層は古い層は赤土で酸化鉄が固まり硬く、又、新しい黒い層は畑地にしか向かない性質があります。
まぁ、長所も有り石垣を使わずとも削り込むと築城に向く地質でもある訳ですが…
そこで、北条家では梅林造営を奨励しました。
梅は関東ローム層でも植林可能です。果実が梅干しに食用加工出来るので、梅は戦時食料に成る上に、特産品として出荷も出来る訳です。

又、農業的、商業的な理由だけでの梅林造営ではなかった筈です。
北条家は元々の苗字が「伊勢」氏で、家祖の北条早雲公の家は室町幕府で申次衆(もうしつぎしゅう)と言う役職を務(つと)めたエリート官僚の家系でした。
ですから、北条家の殿様は学問を奨励した文化的素養に優れていた方ばかりで風流さも兼ね備えていた様です。
つまり現代人と同じ様に、梅林を見て観賞する意味でも植林を奨励したのだと思います。
だって綺麗だもんね?
上の写真は曽我梅林です。
北条家の家臣団は、梅林を見ながら和歌を詠(よ)んだりしたり、お酒を飲んだのかな〜?
なんか桜の花見より風流ですよね〜♪

恐らく、梅林には宗教的な意味も有ったと思います。
北条家より先に関東地方に土着し鎌倉文化の基礎を築いた平良文公の御子孫、坂東平氏の武士達は氏神様とは別に天神様=菅原道真公を崇拝していたので天神様と関係の深い梅を愛(め)でる文化が有ったのかも知れません。
※天神様と坂東平氏の関係記事は「ココ」←クリック!
鎌倉武士団は戦時食料にクエン酸と塩分を補給出来る梅干しを携行していましたし、梅林は平安時代後期の昔からいくらか有ったのかも知れませんね。

ここまで読んで頂いて、何で神奈川県や伊豆半島には広大な梅林が嘗(かつ)て沢山有り、今も曽我梅林や岡村梅林や杉田梅が残るか何となく御理解頂けましたか?

全ては北条家の大殿様と武将達の内政力を今に伝える文化遺産でもある訳です。

次回は梅花の写真を沢山載せた記事を書きますね〜!

では又、次のブログ記事でお会いしましょう♪

今回は室町時代・・・戦国時代のお話です。

前回の記事「コレ(←クリック!) で、縄文時代~弥生時代の遺跡、三殿台遺跡を紹介した記事の冒頭で少し触れた、三人の三殿台周辺に住んで居た殿様達の事を紹介したいと思います。

一人目の殿様はマイナーで知る人ぞ知る殿様です。
●平子(ひらこ/たいらこ)氏の殿様
鎮守府将軍平良文公の御子孫で坂東平氏三浦氏の一族です。平安時代に三浦家二代当主三浦為継公の三男の久良岐(くらき)三郎公が此(こ)の地を領し、子孫が平子に改姓しました。
平子は五十子(いらこ)とも当字されますが、五十子の音読みが転化して今の「磯子(いそご)」の地名に変化したと推測出来ます。
室町時代には今の埼玉県本庄市五十子にも分家一族が住んでおり、関東管領上杉家の与力(よりき=組織での部下だが家臣ではない)として存在していました。五十子城は長尾景春の乱の際に舞台の一つに成った重要な軍事拠点でした。
磯子の平子氏本家の拠点は磯子城です。
磯子城跡は今の磯子小学校~腰越公園~"ゆず"の出身校の岡村中学校の裏の丘一帯辺りと推測されていますが、遺構は教育委員会に放置された挙句、保護はおろか調査すらされず小学校建設と宅地開発を容認され全貌不明のまま破壊されました。


二人目の殿様は結構有名な歴史好きには堪(たま)らない殿様です。
●太田道灌公
関東を代表する戦国初期の名将であり、扇谷上杉家の家宰(かさい=執事)として相模守護代を任された人物で、合戦においては不敗を誇った名軍師です。
今の皇居である江戸城や、埼玉県の河越城、岩槻城等の名城に加えて横浜市の佐江戸城等を築いた人物でした。
余りの能力の高さに主君である上杉定正が恐れと猜疑心を抱き、扇谷上杉家の本拠地であった神奈川県伊勢原市の七沢城(現在のリハビリテーション病院)の近くの糟屋館(現在の産能大学)で暗殺されてしまいました。
胴塚は高部屋の洞昌院公所寺にあります。首塚は伊勢原市に在りましたが改葬され鎌倉市扇ヵ谷地区の英勝寺裏手の鎌倉山山中に在ります。英勝寺は鎌倉での太田道灌公の本宅、伊勢原の洞昌院は塔中寺院が宿舎でした。
この道灌公の別宅が横浜市南区太田町の三春台、今の太田小学校の所在地に有りましたが、教育委員会による小学校建設時に無調査で全貌不明のまま破壊されました。

三人目の殿様は超有名な一族の殿様です。

●足利家の一門、吉良家の武蔵国吉良家の一門、蒔田吉良氏。 

忠臣蔵で悪名名高い吉良氏ですが、あのクソ性格悪い三河の吉良家とは違い、武蔵の吉良頼康公の御一門は周辺の武将から好かれていた様です。
本来室町時代に有名だった吉良氏は室町時代に足利家の支族で鎌倉府付きの重鎮として武蔵国に移住してきており、「足利家が倒れれば吉良家が立つ」と言われた程の名家でした。
関東では東京の世田谷~川崎市中部~横浜市東部が領土で、武蔵国の多摩川沿い、中原街道、鎌倉街道、武蔵国東部の沿岸部の交通の要衝を悉(ことごと)く抑えていました。
しかし扇谷上杉家と領土が入り乱れ係争地だった為か戦国時代には勢力が縮小していた様です。
戦国時代に成ると小田原北条家に従属しましたが、家臣扱いはされず特別視され「蒔田殿」と呼ばれていました。
小田原「北条氏の黒備え」の指揮官を務め神奈川区に有った青木城の城主、多目元忠公が蒔田城の保護を担当していた様です。
青木城と多目元忠公の記事は「ココ 」←クリック!
蒔田吉良家の居城、蒔田城は今の横浜市南区蒔田の横浜英和女学院小学校(旧成美学園遺跡)の所在地に有りました。

しかし、教育委員会に城址の調査がされないまま小学校建設許可容認され、破壊されました。 ですので、此方(こちら)も城址の詳細は不明です。

この三人の殿様が居た御城のちょうど真ん中に在るのが三殿台です。3つの御城が見えたから、三殿台なんでしょうね。 

だって其(そ)れ以外に「三」「殿」がからむ「台地」の要素無いですから(笑)。

さて、その中でも蒔田吉良家の殿様の蒔田城は申し上げた通り既に破壊されていますが、堅固な要害の地に在(あ)った事だけは今でも解ります・・・
写真です。
IMG_2179

・・・落ちたら死ぬよね。
実はここは成美学園遺跡と言う考古学的にも重要な遺跡だったのですが・・・
IMG_2178

城としての調査は神奈川県教育委員会が行わないまま開発容認してしまった為、どんな御城だったのか現代では不明に成ってしまいました。

ただ、周囲には帯曲輪(おびくるわ=長細い防御施設)と思(おぼ)しき地形は残っていました。
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本当にそうかは全く解らないし土塁も無いけれどね。
伝承では北側に曲輪が残存とされています。

IMG_2181
この地形なんかを見ると、恐らくこちら側から登城したんだろうなとか・・・
もはや、原型なんか無いので完全な想像でしか無いんですが、間違えなく堅固な地形ではあります。

実際、この蒔田城を含め、磯子城の在った岡村の丘や上大岡、中区の滝頭や根岸の丘~本牧の丘は江戸時代に掘削され分断されるまで長い一つの「久良岐の丘」でした。
その久良岐の丘は古代神武天皇が東征された際に「ここに城を造りたい」と言う主旨の事を申された程の堅固な丘陵地帯だったんです。
そして、その「久良岐の丘」が古代~昭和初期まで存続した行政区域「久良岐郡」の郡名の由来に成ったんですね。

この丘の下には、吉良家の菩提寺である「勝国寺」が現存しており、吉良家歴代の御廟所もあります。 IMG_2162
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立派な御堂がありまして・・・


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その裏手に在る墓所の中に吉良家の殿様の御廟所がありますが、いつも通り御廟所の写真は不敬なのでのせません。
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御寺の寺紋は桐(きり)の家紋でした。 

本山の総持寺由来で曹洞宗の寺紋は五七桐紋だそうです。
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勝国寺は五三桐紋…

吉良家の家紋は足利家の一族なので二引き両のはずです。
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東京の世田谷城主吉良家の菩提寺も世田谷の勝国寺ですが・・・

蒔田勝国寺と世田谷の勝国寺、世田谷城跡の豪徳寺でも桐紋が使用されているそうで、奥州流武蔵吉良家の殿様は併用されていたのかも知れませんね。

源氏一門である足利家分家の吉良家が何故桐紋を用いるかは謎です。源氏にとって桐紋の持ち主の藤原氏は本来平家以上に憎むべき存在であるから進んで用いるには何か理由が有るのでしょうか?

勧修寺流藤原家出身の関東管領扇谷上杉家に臣下の礼をとり桐紋の使用を許されたのかも知れないし…?

或(ある)いは室町幕府の足利尊氏公、義詮公に反逆し南朝に付いた時期に後醍醐天皇に直接下賜されたのかも知れませんし…由来は謎です。 

しかし、桐紋の由来は判らずとも、この蒔田の土地に殿様が居らっしゃった事と、その菩提寺がある事は地域の方々の誇れる歴史だと思います。
同様に周辺の平子の殿様が住んで居た磯子や、太田道灌公が別宅として住んで居た太田小学校や南太田周辺の地域の方々も、その歴史を知れば郷土に誇りを感じるんじゃないでしょうか?







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