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タグ:藤沢市

大庭神社旧蹟=元宮熊野社(延喜式内社・古代遺跡に囲まれた丘)
&臺谷戸稲荷(古代遺跡の台地に納得する水源と豊穣の神様の稲荷様)
&臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の木(神奈川の名木100選)
舟地蔵(大庭城落城の原因の老婆の伝承の石仏様)
大庭城(扇谷上杉家初期の居城、有数の大城郭も今は半分に・・・)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公
 ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の歴史偉人の御祭神と神皇産靈神
 ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦火で仔細不明  
御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
関係者:
開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
         大庭 景親 公?
   左京大夫  山名 時氏 公(足利尊氏公の母の従兄弟)
   関東管領家 上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
   神祇伯   白川 資顕 王
   郷士    諏訪部定太郎公
   郷士    山崎 包高 公
旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
所在地:大庭神社旧蹟(熊野社)・・・藤沢市大庭1846の微高地
所在地:臺谷戸稲荷と椨の木・・・藤沢市大庭神社旧蹟徒歩1分南側
所在地:舟地蔵・・・大庭城南端直下の外堀、小糸川と引地川の合流地点
所在地:大庭城址・・・藤沢市大庭城址公園
※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
延喜式神名帳に記載が有るものの、大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が祀り始めと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
今宮である現在の大庭神社は引地川の対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。
その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
この扇谷上杉氏定公の家宰の太田家の太田道真公と太田道灌公親子が深く関与したと推測される宗賢院が近在し、この宗賢院も戦国時代以前の伝承は伝わらないが寺宝に大庭景親公の陣釜が有り、更には太田家の太田桔梗紋を寺紋としている上に同じく扇谷上杉家の後の居城だった伊勢原市の大城郭上杉糟屋館城下の政務所を兼ねた太田道灌公の詰所が❝蟠龍山❞洞昌院公所寺であり宗賢院も山号が❝蟠龍山❞である事から、宗賢院は前身寺院が大庭神社舊跡(元宮)に関与し大庭城主大庭家とも関係が有り室町時代には扇谷上杉家の政務所を兼ね、舟地蔵の地名が起こる以前は伊勢原の❝蟠龍山❞と同じく❝公所(ぐそ)❞が地名だった可能性が有る。
これらの事から宗賢院は太田家の支援を受け、大庭神社も大庭家、山名家、扇谷上杉家、太田家の関与が有った事が推測出来る。
そして大庭神社が鎮護した大庭庄で乱暴を働いた人物は悉く直後に滅亡している事から、その神威が強い事も歴史的に立証されている。
余談だが大庭城を攻めた北条家は繁栄したが、北条軍は大庭城を落城させた際は御丁寧に舟地蔵地区の堤を切り沼堀を水抜して防御を無力化した上で落城させ、更に周辺の神社仏閣を保護した事が宗賢院の曹洞宗寺院としての中興開基時期から判る。この沼掘りの弱点を漏洩してしまったのが扇谷上杉家の殿様を慕う地元の老婆で、北条家のスパイにそれとは知らずに大庭城の頑強さを自慢する内に堤防を切ってしまえば水が抜ける事を話してしまい結果的に殺害された供養の石仏が舟地蔵と伝わる。
この大庭城のエピソードや山城の大庭城山上に井戸がある事からも神話時代での創世記に相当する縄文時代の人の集落は台地上に必ず在るが、台地上で水が確保出来る泉が在った高いので可能性が熊野信仰にも結び付き、相模国造の穂積氏が弥生時代~古墳時代に周辺を開拓した事も推測出来る。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

大庭神社(延喜式内社・大庭神社の今宮)
稲荷山 成就院(足利家親族の山名時氏公が開いた大庭神社別当寺) 
日枝社(戦時中の軍飛行場建設で遷宮された神社)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公・山王権現・愛染明王
  ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の御祭神と神皇産靈神
  ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦乱で仔細不明  
  御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
  関係者:
  開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
  中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
           大庭 景親 公?
     左京大夫  山名 時氏 公
     (足利尊氏公の母の従兄弟)
    関東管領家  上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
    神祇伯    白川 資顕 王
    郷士     諏訪部定太郎公
    郷士     山崎 包高 公
  旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
【歴史概要】
大庭神社については延喜式神名帳に記載が有るものの、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
旧蹟側の熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が土地開拓し祀り始めたと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
現在の藤沢市善行側の大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、今宮である現在の大庭神社は旧蹟側と引地川を挟んで対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。その時に旧蹟の場所から現在地に社殿を移転したのだろう事も推測出来る。その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
善行側、現在の稲荷山成就院の丘上に現在は荏原冷却システム株式会社の広大な削平地が広がっているが、実はここ第二次世界大戦中の海軍飛行場だった。この飛行場の建設で当地に在った日枝神社も現在地に遷宮された。第二次世界大戦に日本が敗戦すると神社は国からの支援が無くなり何処も大規模な境内地を接収されてしまい氏子の寄付金に因る収入源だけが頼りに成るが、戦時中の空港建設で集落が移転してしまい過疎化した事で由緒ある延喜式内社の大庭神社は神主不在の惨状と成り、近年、神楽殿も解体され境内の石鳥居も崩壊したままに成っている。しかしながら、この神社の御利益は歴史が証明している。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

宇都母知神社(延喜式内社・天皇の平和と繁栄の願いを叶えた出世の神)
&1万5千㎡に及ぶ自然保全地域指定を受けた境内と御神木の大樹
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  御祭神・御本尊等:天照大神(あまてらすおおみかみ)・稚産土神(わくむすび)・若日下部命(わかくさかべのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)  
  御利益:対人関係修復・家内安全・厄除け・立身出世・学業向上・農業豊穣
  関係者:
  開基:雄略天皇
  中興:朱雀天皇
     鎌倉幕府執権 北条 貞時 公
     丹南藩大名  高木 正次 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:藤沢市、慶応大学湘南藤沢キャンパスの隣、古代の入江の最奥部だった微高地。
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
考古学的には獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)と実名が比定される雄略天皇より幣帛を賜り神事が行われた記録が有る由緒正しい古社。後に朱雀天皇によって大和国の泊瀬から若日下部命(わかくさかべのみこと)の御分霊が勧進され祀られた記録が残る。若日下部命は雄略天皇の皇后の事を指す。
日下部氏は屯田兵を率いた古代部族で軍事と開墾に従事した入植者を管轄する集団だった様だ。だとすると❝武蔵国造の乱❞を鎮定したと思われる雄略天皇によって前身の聖地が開かれていた可能性が推測され幣帛を賜わった伝承と整合性もある。又、一帯が武蔵国造の乱の頃から前線への食糧供給基地として店屋(てんや=兵站)の機能が設置され集落が出来たので宇都母知神社の前身の聖地が開かれた事も判る。つまり戦乱を治め相武国境の民に安寧を齎(もたら)した天皇の平和の願いが込められた神社であり事が解かる。
後の時代の朱雀天皇が関与した頃の歴史的な背景を見ると若日下部命と名が伝承する御祭神が実は聖地として雄略天皇によって開かれた宇都母知神社の神様が実は草壁皇子の事を指す可能性も高い。
この草壁皇子=若日下部命を御祭神として祀った朱雀天皇の時代は日本国内で立て続けに内乱が勃発し国内が疲弊し中央集権による地方統治が衰退した時期だった。関東八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)では藤原氏によって坂東平氏の内紛が誘引され平将門の乱が起き、四国や山陰地方では藤原純友の乱が起きて、戦乱状態が相次いだ。朱雀天皇がこれを憂いて民百姓と国家の安寧を由緒有る延喜式内社の一つ宇都母知神社に期待した事が解かる。
朱雀天皇が御祭神として加えた若日下部命=草壁皇子は和解の象徴の神と成り得る古代天皇家の皇子だった歴史事実が有る。
飛鳥時代、中臣の藤原氏によるクーデター誘発の煽動に乗って大臣の蘇我氏の実権を奪取した天智天皇と、その天智天皇に虐げられた弟皇子の天武天皇のニ系統の天皇家が対立し軍事衝突にまで発展した。藤原氏は朝廷権力を乗っ取り天智天皇を操ろうとしたのだが、天智天皇が崩御されるとそれまで権力争いを避け避難していた天武天皇が東日本の古代豪族の軍団の支援を受けて蜂起し藤原氏と天智天皇系統から権力を奪還した。古代天皇と言う称号はこの頃まで存在しておらず、それ以前は大王(おおきみ)=大君が天皇家に対する称号だった。歴史上最初の❝天皇❞の称号を用いたのは天智天皇だが、この最初の天皇と次代天皇の兄弟間抗争の融和の象徴が草壁皇子である。草壁皇子の母君は天智天皇の姫、父君は天武天皇と両系統の近親婚で生まれた和解の象徴たる存在だった。
その事から朱雀天皇は平和の象徴である雄略天皇や草壁皇子の御神威に授かろうと恐らく飛鳥時代に日下部氏を関係を示唆する名前の草壁皇子と、更に草壁皇子と名が同じ雄略天皇の皇后の一族の日下部氏の氏神である若日下部命の御分霊を主祭神に加えた事が推測出来る。
藤原家の専横されていた朝廷と、それに歯向かった本来は天皇家の協力者である皇族から臣籍降下した坂東平氏と関東に亡命した菅原氏の連合勢力と、対立した藤原氏政権との争乱後の和解や関東地方の平安を祈願した御心痛が垣間見える。
朱雀天皇の父上の醍醐天皇と祖父の宇多天皇は藤原氏の朝廷権力の横領に心を痛め、天皇による直接政治を目指された天皇だった。朱雀天皇は藤原氏の陰謀で国内で相次いだ天皇家の協力者潰しの兵乱を鎮めるべく宇津母知神社を重要視し、そこを根拠にする皇族から臣籍降下した坂東平氏で鎮守府将軍の平良文(たいらのよしふみ)公の協力を得ようとした事も判る。そして平安時代末期に成ると朱雀天皇の父天皇の醍醐天皇の御兄弟の子孫である宇多源氏の佐々木氏は関東の平良文公の御子孫を頼り協力する。
これが裏付けられる様に朱雀天皇の先代天皇であり父君の醍醐天皇は藤原氏の専横から政権を奪還するべく活動し協力者だったのが坂東平氏や菅原道真公だったのだが、菅原道真公の一族は藤原氏の陰謀で失脚した際に多く御子息の菅原景行公や菅原敦茂公は関東に一時亡命し平氏の庇護を受けている。三男の菅原景行公は北関東に勢力を誇った嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)公や坂東平氏の平良兼(たいらのよしかね)公の居た父上茨城県桜川市真壁町に亡命し大生郷天満宮を開いた。
神奈川県横浜市港南区(旧鎌倉郡)の永谷天満宮には五男の菅原敦茂公が一時亡命していた伝承が有り、ここは坂東平氏の平良文(たいらのよしふみ)公の庇護を受けた事が解かる。
平良文公は神田明神の御祭神に成っている平将門公に協力し、その対立者だった平良兼公と源護公と対立し戦乱に発展する。これを平将門の乱と言う。丁度朱雀天皇の生きた時代の話しだ。
藤原氏は本来藤原一族が就任する権利の無い鎮守府将軍に同族の藤原秀郷公を強硬に任命して関東征服と皇族の親類であり天皇家の協力者であり政敵菅原氏の庇護者である平氏の弱体化と遺産横領を目論んだ。この宇都母知神社に祀られた若日下部命の御利益か平将門の乱は収束し更に藤原氏の専横を抑止する事に成功する。結果的に平将門公は敗死するが遺産は朱雀天皇の上意により藤原氏に横領される事は無く、又、藤原氏に組した平良兼公にも与えられず、平将門公に協力した平良文公が相続し鎮守府将軍に任命され関東で更に元皇族の坂東平氏による開拓が進み武家文化の基礎が築かれている。
余談だが平良文公が協力した平将門公は藤原氏による「平将門は❝しんのう(新皇)❞を僭称し朝廷に叛旗を翻した」との讒言で藤原政権によって討伐されたが、これは冤罪だっただろう。そもそも平将門公は元皇族の一族で有り、平将門公が治める上総国や下総国は元は総(ふさ)国=宇佐(うさ)国と言う古代の行政区分で皇族の子孫しか治める事の許されない❝親王(しんのう)❞赴任国だった。そして平将門公は曾祖父が親王の葛城親王であり祖父が❝平高望(たいらのたかもち)王❞なので❝親王(しんのう)❞の子孫であるから藤原氏よりも自分が上総介として活動する正統性を忠義を尽くす醍醐天皇や朱雀天皇に上奏したのを❝親皇❞と僭称したと藤原氏に改竄され謂(いわ)れ無き陰謀に巻き込まれ❝親皇❞を自称する逆賊として討伐されてしまった藤原氏による親天皇勢力潰しの謀略がよく解る。
もう一つ余談だが平良文公と源護公の一族の源宛(みなもとのあつる)公は平将門の乱で敵対し合戦した後に互いに認め合い、密かに関東で源氏と平氏が協力する密約を結び、これが河内源氏に引き継がれ源頼朝公と平良文公の御子孫の三浦氏、梶原氏、土肥氏、土屋氏等による鎌倉幕府開府の礎(いしずえ)に発展した。
更に余談だが、現在は藤原氏の氏神である春日大社、鹿島神宮、香取神宮の武御雷神は元々は蘇我氏の氏神であり古代邪馬台国からの功臣の家系に蘇我氏が繋がる可能性が高い。
春日大社は本来は鹿島氏の氏神で、鹿島(かしま)=しかのしま=志賀島=蘇我嶋=蘇我嶋大臣家の馬子の遺産だった事が近年の研究で明らかに成っている。蘇我氏の名から❝嶋❞と❝大臣❞の字を消し去った藤原氏は元々は❝中臣❞であり大臣より下の血筋であり更に苗字を持たない他国の王族で有った可能性が高いが、それを証明する様に大阪府羽曳野市にある初代中臣鎌足の古墳は朝鮮由来の円墳で、蘇我氏の蘇我稲目の大古墳は日本古来の方形周溝墓が発展した方墳だったりする。つまり藤原氏の祖先が渡来系だったのを蘇我氏に押し付け財産も天智天皇政権下で横領した事が考古学的に解る。
しかし、歴代天皇の願い通り藤原氏の陰謀を打ち砕き、平氏同士の内乱を鎮め源平協力体制を確立し次代の村上天皇の代で再び天皇家による朝廷権力奪還の御親政を実現した宇都母知神社は強い家内安全や争い事回避の厄除けと和解の御利益が期待出来る神社なのが歴史事実から辿れる。
そんな御利益の強い宇都母知神社なので鎌倉幕府の執権と成った北条家や、江戸時代の領主だった高木家から支援を受ける事に成る。
鎌倉幕府の第9代執権を務めた北条貞時公に信奉され社殿が改めて造営された。貞時公の父上の北条時宗公は、朝鮮人と中国人とモンゴル人による侵略の元寇から日本を守った歴史偉人でもある。
江戸時代に成ると旗本の高木正次公に信奉され支援を受けたが、この正次公があれよあれよと立身出世し旗本からとうとう大名にまで出世した人物でもある。
境内社には菅原道真公の御分霊も祀られており、学問での御利益も期待出来るが直ぐ横には慶応大学湘南藤沢キャンパスが在ったりする。
現代、15000㎡に及ぶ比較的広い境内地は風致地区指定を受け、神奈川県下の貴重な緑地と成っており御神木のみならず、周囲の木々はどれも立派な大樹で現代では寂れてしまった社殿も実は凄まじい由緒を持つ歴史の古さと聖地である事を物語っている。
他の延喜式内社同様に神仏習合時代の文化が残り、立派な鐘楼が現存している。

江島神社=江ノ島弁才天
(式外社・日本三大弁財天・天皇勅願所の洞窟と鎌倉武士の聖地)
児玉神社
(初代台湾総督児玉大将を祀る台湾の人々が開いた神社)
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  御祭神・御本尊等:八臂弁財天(はっぴべんざいてん)・多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)・児玉源太郎大将
  御利益:戦勝・敵人懲服・立身出世・財運向上・芸能向上・縁結び 
  関係者:
  開基:欽明天皇
  中興:修験者      役 小角
     弘法大師      空海  和尚
     修験者 神融禅師   泰澄
     慈覚大師    円仁    和尚
     比叡山五代院  安然 阿闍梨
     征夷大将軍   源    頼朝 公
     征夷大将軍   源 實朝 公
     皇家護持僧  道智  大僧正
     証誠大師   一遍      上人
     立正大師     日蓮      和尚
     鎌倉府公方    足利 成氏 公
     相模守      北条 氏康 公
     北条家臣 岩本間宮 定次 公 以下江島別当岩本坊間宮家歴代(現:岩本楼)
  旧郡名:鎌倉郡(戦国時代:中郡)
  所在地:江島神社・・・藤沢市江の島全部が本来の江島神社聖域
  所在地:稚児ヵ淵・・・歌舞伎白浪五人男の弁天小僧の舞台、洞窟は天皇家の祈願所聖地
  所在地:児玉神社・・・児玉源太郎大将を慕う台湾の人々が建てた神社
  所在地:岩本楼・・・元は江の島の聖地の洞窟と江島神社を管理した真言宗修験道岩本坊が前身
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。 参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)で元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。その別当職を務めたのが 社長の家の御先祖、宇多源氏佐々木家諸流の間宮一族、岩本家だった。
頼朝公が戦勝祈願に岩屋に参篭された後に社殿と銅製鳥居が寄進され神社として整備された。江の島の岩屋で御神体とされたのは八臂弁財天で江島神社と岩本楼にそれぞれ御祀りされていた仏像が現存する。戦国時代には日本有数の大合戦で戦勝の御利益を発揮されてる。鎌倉公方足利成氏公と北関東の鎌倉公方軍が江ノ島に籠城し、反逆した関東管領山内上杉家と扇谷上杉家の連合軍の大軍勢と戦い、見事に足利成氏公に不利な戦を勝利させている。その後も❝日本三大奇襲戦❞の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万余りの上杉家連合軍の大軍相手に勝利を治めている。
江戸時代には徳川幕府から保護を受けただけでなく富士山詣で、大山詣り、杉田梅林等と並び江戸市民の人気の観光地として栄え歌舞伎の演目の白浪五人男の❝辨天娘女男白浪❞のモデルにも成った。
明治時代には、この江の島に児玉源太郎陸軍大将が逗留され軍事作戦を練られて、ロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
現在は女性の縁結びの神様としても有名で江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 他所の弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されているが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれ落城した歴史が有るから? 
弁天様について解説すれば本来、弁天様はインド神話のヒンドゥー教由来の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天/大黒天に習合された神様)の後妻であり多くの男神様から求婚されたモテモテの神様だったので女性にとっては心強い縁結びが期待出来るのは当然だろう。
明治時代には江ノ島に福沢諭吉先生、伊藤博文公、児玉源太郎大将や早川雪舟(日本人初のハリウッド俳優)も宿泊しており江ノ島の御利益を代弁する様な偉業を成し遂げている。
他にも俳画会を形成した文化人、間宮霞軒先生等を江ノ島から輩出している。
※北条氏康公と間宮家が活躍した河越夜戦解説の記事リンク
→杉田玄白と間宮林蔵の祖先、笹下城主間宮家の事績。

江の島に行ったら現代の名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?昔からの名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)と江ノ島丼も美味。 

前回の記事
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休日雑記 2017年06月24日の訪問先その②・・・江ノ島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮・龍宮)
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コレの続き。
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江島神社奥宮の辺津宮と龍(わだつみ)宮を御参りして八方睨みの亀を見学してからの続き・・・
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辺津宮は江島神社の奥宮で、源頼朝公が奉納した石鳥居等が現存している。古き良き江島神社の姿を残す場所だ。
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“神社”としては奥宮、ここ迄だが実は江ノ島はここから先が最重要な聖地なのだが知らない観光客も多く、ここで引き返すカップルも少なくないのだが、江ノ島に来て“岩屋”=洞穴に行かないと本当に御神体としての“江ノ島”に来たとは言えないのだ。
コレ→(休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼)でも少し触れたが、江ノ島は欽明天皇以来の天皇家の勅願所(ちょくがんじょ=天皇家の祈願事を代理で行う聖地)として機能しているのだが、その場所は江島神社では無く江ノ島の稚児ヵ淵(ちごがふち)に存在する数ヵ所の洞窟な訳だ。
その場所は辺津宮から、そう遠くないが少々階段の上り下りが有るので知らない人は面倒くさがり行かない事も有る。
辺津宮から稚児ヵ淵に向かう途中、周辺には猫が沢山いて民家の玄関先等でくつろいでいる姿を見せてくれたりする。
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その②で紹介した猫ちゃん、人馴れしてる子ばかりで触っても逃げない子も多い。かわえぇ~。
日本の猫の大多数は仏教の経典や仏像を鼠の害から守る為に遣隋使~遣唐使と一緒に船に乗って日本に来た子達の子孫なのだが、つまり現在の唐代の中国建築の影響を受けている神社仏閣の建築技術を伝える図面やなんかを守ってきてくれた猫チャンの子孫達であり現代では多くの人を癒してくれる"聖獣(笑)"な訳だな。
こんな猫チャン達を数匹見かけつつ階段を降りて行くと、こんな場所に行き当たる。
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松尾芭蕉や服部南郭を始め、文人達の句を紹介した石碑が沢山有る場所。
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松尾芭蕉の句は直接江ノ島と関係無いが、服部南郭は此処(ここ)で漢詩を詠んだらしい。
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明治の元勲達も皆そうだが、江戸時代~大正時代の偉人達は教養の高い人が多く、余裕で現代中国人の詠めない漢詩を創作したりする知識と風流さを兼ね備えていたんだな。
因みに偉そうに解説する小生は、華語が話せて武士の言葉も読めるので漢文の意味は解るが詠み創作する事は出来ない低文化人だ(笑)。
何故この一角に句碑が沢山有るかと言うと・・・
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もう海が見えるから、この風景に関係のある詩句が紹介されている訳だ。
この下の岩場が稚児ヵ淵と呼ばれる。
歌舞伎の演目の“白浪五人男”の弁天小僧は岩本院(現在の岩本楼)の稚児がモデルに成っていると伝わるが、不勉強な小生はコレを笹下城下に取材に行った際に偶然、岩本楼の先代の奥様の御身内から御教授頂いてから調べて知る事と成った。
江戸時代の娯楽も見ておくべきだね。
因みに弁天小僧には、こんなセリフが劇中有る・・・
「岩本院の稚児上がり、普段気馴れし振袖から、髷(まげ)も島田に由比ヶ浜!」
・・・意味わかります?
コレは江戸時代の民間人特有の洒落(しゃれ)っ気が効いたセリフに成っています。
セリフを区切って解説して見ましょう。

[岩本院の稚児上がり]
江島弁才天を管理する岩本院で幼少時代修行していた人物である事を説明している。弁天様を祀っている岩屋(洞穴)の前の稚児ヵ淵の磯の地名とも掛けてラップの様に音(いん)を踏んでいる。

[普段気馴れし振袖から]
弁天小僧達、白浪五人衆は実は盗賊なのだが善玉の義賊として描かれている。その中でも弁天小僧は女装の変装が得意な美少年だったので「普段気馴れし振袖」そのまま、女装して呉服屋に乗り込んだりする役柄。

[髷も島田に由比ヶ浜]
髷は丁髷(ちょんまげ)の事、島田は江戸時代の女性の髪型の結い方の一つ、つまり男性が女装している様子を形容している。
由比ヶ浜の部分は江ノ島は現在は藤沢市だが明治までは鎌倉郡だったので、鎌倉の有名な由比ヶ浜の地名の“由比(ゆい)”と髪を結う“結い”を掛けて洒落たラップの様にしてある。

そんな感じで江戸市民ってのは他地域と違ってユーモアを好み、かつ現代の芸人みたいに人をイジメたり笑い者に成る教養の無い嘲笑を煽る笑いの取り方では無くて、文芸や歴史知識と世相や時事ネタを入れ込んで謎かけみたいな事をするのが大好きな人達だったんですね。
まぁ、江戸を築いたのは大坂の佃村から移住して来た人々と品川と江戸城周辺の農民だったので、本来の大坂の笑いも江戸時代までは江戸の古典落語や歌舞伎や狂言の笑いみたいに教養に溢れたものだったのかも知れない。
東京にしろ大阪にしろ、落語家達には当時の笑いの流儀が受け継がれている様に素人目に感じる。
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さて、稚児ヵ淵は多くの観光客で賑わうが、鎌倉の護岸工事される以前の磯が残っている。
風景が良いだけでなく、子供には良い自然観察の場にも成る。
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だから立派な藤壺やら・・・
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・・・亀の手が沢山生息している。オッサンの小生にはどれも採取して家で湯がいて食べたい蟹の御仲間の水生生物、酒の肴にしか見えないんだが(笑)。
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三浦半島と伊豆半島も見えてとても景色の良い場所だ。
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ここを過ぎると欽明天皇が天皇家の勅願所に定めた洞穴が有って、豊かさの象徴の神様であり古代は水の神様だった宇迦之御魂神が祀られている。
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立派に観光地化されており、入口は屋根が付いているが洞窟の深部はそのままに成っている。
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入口横には古代の海洋生物の化石も沢山露出していたりする。
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入場料は大人500円と安い。だからカップルだけでなく親子連れや団体観光客でも賑わっている。数年ぶりに来たら外国人観光客も増えていた。
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中に入ると池が有る。
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実はこの水辺が聖地と成った大切な意味を成しているのだが、これは後で説明しようと思う。
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池の中の句碑は与謝野晶子さんの物で、知らなかったのだが彼女は江ノ島が大好きだったそうだ。
そう言えば先日、御子孫の与謝野馨前特命大臣が他界されたばかりだな。
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洞窟の壁には深部に行くまで色々な解説の掲示物が有るので、是非、ちゃんと読んで欲しい。これを読んで置けば、将来、自分の子供にも、又は皆さんが現在の恋人と別れて新しい彼女と(笑)再訪しても説明して上げれるだろう(;^ω^)。
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ここは昔から、途中で係員から蝋燭(ろうそく)を貰って自分で足元を照らしながら探索する、ちょっとしたイベント的な要素が有ってカップルに大人気だったりするんだな。
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途中、天井部分に透明のビニールシートが貼られている場所が多くあるのだが、これは石清水が多く湧き出していて雨の様に降ってきているから。これが古代の人々や頼朝公には神秘的に感じられた訳だ。
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そして多くの石仏や石の御神像が昔のまま並んでいる。
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場所によっては結構な暗さだったりもする。夏なので今自分は観光客が多く若干渋滞する場所も有るのだが、天井が低い部分も有るので気を付けないと頭をぶつけて文字通り頭が割れて血だらけに成る事に成る(笑)。本当に気を付けないといけない。
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どちらかの和尚様の座像・・・
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そして最深部、この場所が欽明天皇以来の勅願所の始まりと成った場所。
恐らく当時は祠(ほこら)も無かっただろう。祠の下の石の台座の上で神職者が神事を行ったり修験者や真言宗の僧侶が護摩炊きしたりして旱魃(かんばつ)の回避や降雨を祈願したり、稲の豊穣や疫病鎮定の祈願をしたんだろう。
さてそこで、先ほどの与謝野晶子さんの句碑の有った池が大切に成る。
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ここは曲がりなりにも海辺の洞穴である。
しかし洞窟内は雨が降る様に清水が天井や壁面から湧き出し、一年中、例え旱魃の年も枯れる事が無い訳だ。その洞窟の池が本当に海水では無い事の証明が下の写真だ。
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なんと淡水魚の金魚が悠然と泳いでいる訳だが、これだけ豊かな水量を誇る清水が海に突き出した江ノ島でずっと湧き出している事が既に古代人にとって奇跡な訳だ。
西暦900年代の醍醐天皇達から見ても古い神社を記録した一覧の延喜式神名帳に掲載された古社の中には神奈川県内でも有鹿神社、大山阿夫利神社、比々多神社や未掲載だが天皇家の勅願所だった仏教施設になっていた師岡熊野神社等は縄文時代からの遺跡を旧境内地に抱えている、そしてどこも水や酒に関係する神様が祀られている訳だ。これが何を意味するかと言うと、小生のブログの読者様は飽きる程繰り返し読まされているが、古代人は井戸を掘る術も無いし、川の水を直接飲むと病気に成るので湧き水が聖地であり命を繋ぐ飲料水を確保する大切な場所だった訳だ。この習慣は古墳時代や飛鳥時代に成っても続いたので、当然奈良時代にも平安時代にもその文化は形骸化しても残っていた訳だ。
そして戦国時代に江の島険阻な地形を利用して逆臣上杉家と戦った鎌倉公方の足利成氏公は、長期間江ノ島に籠城出来たのも、数千の兵士に行き渡る水源が江ノ島島内に確保出来ていたからだった訳だ。
米の補給は房総半島から船で出来たとしても、水が無ければ忽(たちま)ち兵士は活力を失い士気が下がり降伏せざるをへ無くなるから。
そして、この奇跡の土地の宇迦之御魂神様や弁天様の御利益で、源頼朝公は伊勢平氏の平清盛の軍勢を打ち破り藤原秀衡の子達を屈服させて鎌倉幕府を開き、足利成氏公は逆賊上杉家相手に奇跡の大勝利を収め、戦国時代には北条氏康公が岩本院の前身の岩本坊に宿泊しここで源頼朝公の様に戦勝祈願をして河越夜戦で奇跡の北条家兵8000人で上杉家兵80,000を破る大逆転勝利を収めた訳だ。
つまり戦勝祈願としては古今無双と言って良い御利益が有る訳だな。
そして神道成立以前の古代からの原始宗教~古代の神道の原型~仏教との融合~明治時代の神仏再分離による誤った神様の名前の誤植の歴史の変遷も知る事が出来る場所な訳だ。
現代の女性にとっては縁結びの心強い神様でもあるのが江ノ島の弁才天様なんだな。
・・・でも女性の味方の神様だから、駄目な彼氏と一緒に行ったら縁切りの御利益も有るかもね(笑)。
さて、第1洞穴を出て第2洞穴へ行く途中に下の写真の場所が有る。
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第二洞窟の入口との連絡通路から見える亀に見える石だな。
江ノ島弁才天は、鎌倉時代以前からの社紋は確か亀甲紋だったと思う。現在、表立って使われているのは鎌倉幕府の北条時頼公由来の三鱗紋と波切り紋を合わせた社紋に成っている。
古代に海を収めた息長一族(素戔嗚尊の御神孫)や出雲族達は亀甲紋を社紋にしていたのだが、江ノ島の弁天様は海の神様でもあるので何とも因縁めいた亀の形をした岩の見える風景が有る訳だな。
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その亀の石の見える海の上の岸壁に洞窟がもう一つ口を開いているが、恐らくこれは近代に成って築かれた要塞の跡だろう。形状が完全に人口の洞穴だな。
この相模湾周辺は、米軍の上陸が予想されており七里ヶ浜の稲村ヶ崎や玉縄城址出城の二伝寺に高射砲が設置されたり要塞が築かれていた。つまり昭和の戦争史跡でもある。これは戦争が他国の侵略から国民の生命と財産と自由と信仰を守る意味が有る事や、一歩間違えると侵略側に成ってしまう歴史の両面を教え伝える意味でも本来公開するべきだと個人的には思う。
まぁ、公開すれば左翼が発狂するし、右翼は自己都合の歴史観を現実逃避して主張し混乱するので事なかれ主義の現代の教育委員会は公開しないのだろう。
寧(むし)ろ、左派も右派も中道も保守も改革も、議論するのは悪い事では無いと小生は思うのだが。
左派の中にも中道左派で良い政策を提言する方もいれば、中道保守にも真面目に国防を考え経済振興政策も提言する方も少なくない。
用を成さない連中は自己肯定の為にステレオタイプに他人の主義主張をコピーしてる連中と何でもかんでも相手の批判しかしない民進党と共産党の連中だけだからな。
まぁ、そんな訳で、江ノ島には日本の各時代を網羅した遺跡が在る訳だ。
第2岩屋に入って見よう。
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コチラは要塞化されていた様で、明らかに人工的な部分も多い。
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とは言え、こちらも民話の伝承する場所でもある。
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中に進んでいくと、民話を元に設置された龍の張りぼてがある。
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解説では江ノ島生まれの民話とされるが、その説明は間違いだ。
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旧鎌倉郡全体の民話と捉えた方が良い。
現在の鎌倉市深沢辺りと江ノ島が舞台の民話で、古来より深沢の山中の池に住んでいた暴れん坊の龍が、江ノ島の弁天様がモデルの天女に惚れて、その天女にプロポーズしたところ説教されて改心し尻に敷かれて幸せに成ると言う話だ。
小生は、この民話の龍のモデルも察しがついている。
山崎地区
鎌倉市の山崎地区には鎌倉中央公園が有り、そこには大きな池が有る。
この山崎地区には源頼朝公も崇拝した山崎泉蔵院と言う修験道の大寺院が有ったが、現代の鎌倉市や神奈川県の教育委員会も場所を把握していない。泉蔵院は熊野権現と不動明王を大切にする寺院だったので、湧水地を聖地として寺院や山伏(やまぶし)の修行道場を造営する宗派なのだが、恐らく鎌倉中央公園の場所が泉蔵院の室町時代の横浜市移転前の旧所在地だろう。
そして修験道は日本古来の信仰の聖地を寺院や神社化する宗派なので、この龍の神話の池が鎌倉中央公園の池なのだろうと小生は推測している。
山崎地区の隣接平野部は寺分とされ、古代より後の時代に寺領に成り地名が変わっている事も解るし、山崎は昔は只の“山崎”と言う地形を表す言葉だけで深沢も同様だっただろう。だからこの周辺は一色単に山崎や深沢と言われていたのだと推測出来る。
例えば山崎に在った泉蔵院は水辺で神様を祀る熊野信仰と関係が深いが龍神信仰が有ったかは現代では伝わらない。しかし関東では古代から根強く雨乞いの神様として龍神様が信仰されていて、伊勢原市大山阿夫利神社の二重滝のOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)や大和市の深見神社の御祭神の闇Okami 10.5pt.png神(くらおかみ)は何れも雨乞いの神様で有り龍神様だ。そして多摩地方の雨乞いも龍神信仰だった。
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大山阿夫利神社下社、徒歩10分の場所にOkami 10.5pt.png神の権化とされる二重滝(ふたえのたき)が在る。
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大山に入山する修験者や僧侶や一般参拝者は、昔はここと下の方の良弁の滝で禊(みそぎ)=行水=沐浴(もくよく)をして身を清めてから山頂奥宮の石山権現へ参拝したそうだ。
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大和市の深見神社、闇Okami 10.5pt.png神が御祭神。こちらは神社と地域の名前から推察して境川沿いの深水が龍神信仰の聖地だったと推測出来るが、地域の伝承に古代は付近まで湾が入って来ていたも伝わるので境川沿いに細長い入江が入って来て可能性も有るが龍神信仰は八幡信仰に通じる八大竜王信仰やインドや中国の水生生物の鰐の神格化された神様の影響なので淡水に関する信仰の場合が多い。
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旧武蔵国多摩郡の東京都羽村市にも近代まで龍神信仰が残っていて、羽村市内を流れる多摩川上流の深い淵が龍神信仰の聖地だった。そして日野市の高尾山、この高尾山(たかおさん)の高尾(タカオ)は大山阿夫利神社と同じOkami 10.5pt.png神のOkami 10.5pt.png(タカオ)が転訛した当て字だろう。その証拠に大山も高尾山も天狗伝説の土地だ。天狗はウィグル族やインド系の西方の人で、龍神信仰は彼らが日本に帰化して広まったのかも知れない。飛鳥時代の大和朝廷にはウィグル人の官僚がいた事が知られている。
大山も高尾山も大和市深見の何れの龍神信仰も、八幡信仰や弁天信仰の仏教成立後の中国伝来の信仰よりも古いのは間違い無い。
つまり、この江ノ島と深沢の民話は、古来の龍神信仰していた豪族が中央大和政権の影響で弁天様へ信仰対象を宗旨替えした事の比喩だと小生は推測している。
そして、その弁天信仰の極め付けの火付け役と成ったのが鎌倉幕府を成立させた源頼朝公と北条政子様ご夫妻だった訳だ。
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上は横浜市南区の瑞応山蓮華院弘明寺が所有する北条政子様の彫像。
弘明寺は古くは善無畏三蔵法師がインドから渡来し聖地を開き、弘法大師空海様が民百姓の為に災難除けの仏事を行い、平安時代末期に源頼朝公から崇敬を集めた御寺なので厄除け大師として有名だが、源頼朝公が信仰した弁天様を祀る御寺としても有名だ。
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弘明寺には今も立派な八臂弁財天様が祀られている。
まぁ、江ノ島と鎌倉市深沢周辺の龍神と天女の伝承の様に、歴史や民話は解らない部分が有るから謎解きが面白い。
しかし職業歴史学者は小生と違って、こういう自由な推測を文字に起こすとバッシングされる可能性が有るので書けないが、小生は歴史好事家(オタク)の一個人(笑)なので昔の人の気持ちに成って書いても誰からも何も言われない(笑)。仮に親切な学者さんに間違いを指摘され正しい知識を教えて頂けるなら、それこそ学ぶ機会と小生は狂喜する訳だ。
まぁ、立身出世が目的でなく宗教的な意味も大切にするので毎回、行く先々で御会いする色んな神社の宮司様や御寺の和尚様から宗派を超えて民話伝承を御教示頂けたり非公開の文書や保有する遺物を見せて頂いたり、宗教的な側から歴史を学ぶ機会が増えて嬉しかったりする訳だな。
社会人に成ったら色んな事は自分で学ばなきゃいけない。人は教えてくれないし、教えてるフリしてる客先や上司は自己利益を追及する為にマウントポジション取る為に意見してるだけの場合が多い訳だ。
社会人に成っても文化と人々の精神的な支柱である宮司様や和尚様達に師事出来るのは本当に幸せな事だ。色々有ったが、これは本当に小生の人生が他の人と違って幸せだと言い切れる部分だ。
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岩屋を出て稚児ヵ淵を通り江ノ島から江ノ電の駅を目指す。
・・・フジツボと亀の手、気持ち悪っ(笑)!でも蟹の仲間で食べると美味しいんだよね。
戻る途中、撮影し忘れた句碑を改めて訪れた。
・・・福島漁村の句碑。
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江ノ島奥津宮と聖地の岩屋の別当の岩本院を治めたのが間宮。この福島漁村さんの兄弟子に当たる人物である間宮霞軒さんは、岩本院の間宮家出身だそうだ・・・
日本俳画会を起こした人物で更に江の島の初代郵便局長、中津宮の境内に在る句碑は昭和33年81歳の時、親交の有った文化人の飯田九一サンや有志等が建てたそうだ。
・・・そして福島漁村。昭和31年1868年~1956年を生きた人物で辺津宮の近くに有った旅館の江の島館の主、地方自治に活動した政治活動家でもあったそうだ。この福島姓は間宮家の戦国時代の上司、玉縄城主北条綱成公の生家の姓だ。
主従の義理と交友関係は近世に入り近代に至っても地縁と人の縁で繋がっているのを知る学者は少ない。何故なら悪の権化、堀内一族のせいだ。堀内一族は玉縄北条家の有力武将だった。戦国時代を通じて家老は間宮家だったのだが、堀内は近世に殿様の実弟の北条繁広公を殺害し保科家から北条家の名跡を繋げる為に殿様の養子を迎えて事実上、玉縄北条家を乗っ取った。結果的に福島家に関する古文書はありとあやゆる所から確認出来なく成った。完全に堀内一族の粉飾による歴史改竄と抹消だ。
この堀内一族は現代でもとんでもないデマを流布していて、徳川家康公の軍師に成り鉱山経営で活躍し真田丸や大坂城総掘り埋め立てを進言したのが間宮家の手柄で有る事が兵庫県や間宮関連の寺院でも有名な事実なのに堀内家の古文書は偽書が多く現在も間宮家の手柄や福島家の手柄を自分の家の手柄と喧伝している。とんでもない一族だが、実際に風土記でも関連の神社仏閣でも朝来市教育委員会でも実物の古文書や資料が編纂されていてそこに大坂城関連の事に堀内は一言も出て来ないので情報共有し易い現代では堀内のデマだと赤っ恥を晒している。
そもそも玉縄北条家を私物化して乗っ取っていたが、たかが小藩の家老の堀内家が、徳川家康公の外戚で鉱山奉行や地方代官を務めた間宮家の様に直接徳川家康公に謁見出来る訳が無い(笑)。
そんな事も辿れたりするんだな。
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残念ながら福島家が辺津宮近く、丁度小生が"その②"で紹介した海花亭の横の江ノ島大師、最福寺別院が建てられている場所に存在した福島家の江の島館は、昭和三十一年(1956年)に火災で焼失し営業終了してしまったそうだ。
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間宮一族岩本家の岩本楼の成立の例を考えると、この江の島館の福島家も中津宮や辺津宮の別当だった上ノ坊や下ノ坊の何れかの寺院が前身だったのかも知れない。江ノ島大師様にも聞いてみたのだが、やはり江ノ島館の福島家は前進が寺院だったと言う事は解っているが、現在の江ノ島大師様とは直接繋がりは無く、江ノ島館の寺院時代の事も伝わっていないそうだ。
これは風土記を読めば上ノ院に関する事は掲載されていると思うので、今後調べてみたいと思う。

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サムエルコッキング園まで戻って来て、タコ煎餅作ってる所を見学。CIMG4416
う~ん、どっかの工場にしか見えない(笑)。

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中津宮の参道を降りる時の風景が綺麗だった。
登って来る時は気が付かなかったが小動~腰越の辺りが良く見渡せて美しい。
江ノ島を後にして、江ノ電江の島駅へ向かう途中、江の島大橋でけたたましい騒音を故意に鳴らす迷惑なバイクを見かけた。
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日本の恥部。見てイラっとしたが、そう言えば行きに気に成っていた甘い物の店を思い出し直ぐに嫌な事を忘れ、その店に向かった。
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玉屋のようかん。
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ここでは江戸時代以来の名物、海苔羊羹を始め様々な伝統的な羊羹が製造販売されている。CIMG4424
店構えも立派で、もし電車で江の島に行く機会が有る人には是非御薦めしたい昔ながらの江の島土産の店だな。
小生は自分でも何故だか知らないが羊羹を買わずに、ここでキャラメルを買った(笑)。
ここから江ノ島駅は直ぐ近く・・・
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暫く待つと直ぐに電車が来た。

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今回はここまで!
続きは江ノ電観光と鎌倉市内の史跡辺となる“その③”で紹介します!
では又!続きでお会いしましょう~!

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休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼
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コレの続き。
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前回、江ノ島の鳥居をくぐった直ぐ近くに有る旅館、岩本楼が明治時代まで江ノ島神社を含めた欽明天皇以来の天皇家の聖地としての江ノ島とその洞穴の管理を任されていた別当寺の‟岩本院”と言う寺院が前進だった事、明治以降に廃仏毀釈で旅館に転業し岩本楼と言う立派なホテルに成った事、そして岩本楼様の御厚意で宿泊客ではないのに資料館を見学させて頂き、又、昔の話もいくつか伺った事を書いて記事を一区切り着けた。
・・・現実社会での仕事が忙しく、そこから記事更新に10日間近く開いてしまったが、今日はそこからの続き。
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岩本楼さんの門を出て江ノ島神社の参道に復帰する。
すると目の前の階段の先に真っ赤な江ノ島神社下社の明神鳥居と唐様式の瑞心門が見えて来る。
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ふむ、美しい。ここに来ると一層「江ノ島に来たぞ~!」と言う感じに成る。
江ノ島神社の御祭神は恐らく最初は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=宇賀神だったはずだ。
そこに源頼朝公によって、宇賀神と同一視された弁才天様が祀られ、江ノ島弁才天として有名に成った。
弁才天様は名前が御神威を中国語訳した名前で、本来は一部分が仏教の元に成った古代ヒンドゥー教の神様サラスヴァティー神だ。
大変に美人な神様で男の神様からモテモテだったので江ノ島神社は女性にとって縁結び、もとい女性的な魅力の向上の御利益が有る訳だが、それよりも本来は水神様、軍神、音楽神そして財神としての性格が強い神様だった。
・・・まぁ、こんな女性が奥さんだったら良妻賢母間違い無いだろうが釣り合いの取れる旦那様はヒンドゥー教でサラスヴァティ神の旦那様とされたシヴァ神こと大黒天様みたいに最強最高の喧嘩の強さと社会的な強さを兼ね備えた完全無欠の男性じゃないとダメなんだろう。
・・・はい、小生は弁天様みたいな女性の旦那様に成る資格落第ぃ~(笑)。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
まぁ、そんな弁天様なので水神様と同時に軍神として特に源頼朝公も信仰した訳だ。
ついでに宇迦之御魂神=宇賀神様は御稲荷様の神様として存続している。
そもそも古代人にとっての財産は飲んでも病気に成らず夏にも枯れない水源だった。だから宇賀神様が湧水地に祀られた。
弥生時代~古墳時代に成ると農耕が全国に普及し豊かさの象徴が米に変わった。だから宇迦之御魂神に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の字が当て嵌められた。
そして更に平安時代末期に成り貨幣経済が導入されて豊かさの象徴が「金銭(きんせん)=貨幣」に成ると、財神で水神としての弁天様が倉稲魂神様に習合された。この段階が源頼朝公達の頃の話し。
ところが明治時代に成ると、森有礼等のキリスト教に改宗したりイギリスやら欧米列強の影響を受けた明治の政治家達がプロテスタントを模した国造りを進める中で、日本の宗教改革もとい弾圧を始めた。
神仏分離令と廃仏毀釈だ。
宗教改革と言いながら、アジア由来の仏教を弾圧し日本古来の神様と無理矢理切り離してしまった訳だ。
そして明治に正しい神仏分離に失敗し、弁天様は壱岐嶋媛(いちきしまひめ)の女神様が水神だったので、日本の神様の名前に変える為に歴史を知らない宗教改革者によって宇賀神では無くて壱岐嶋媛命とされた。

日本が有史で仏教を導入したのは西暦600年前後、しかし実際は応神天皇こと大鞆別命(おおともわけのみこと)は神託で自らの別名を“八幡大菩薩”と名乗っており更には、その皇子の菟道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が日本で最初にアジアの学問を導入した事が知られている事から、西暦300年代には既に日本の神様の中には大陸から移住して来た人と供にインドや中国から大陸の神様も日本に移ってきて日本の神様と仲良く祀られ、そして日本の神社様式で正しく祀られていたり、奈良時代にも成ると御寺でも日本の神様も大切に祀られていた訳だ。
ところがプロテスタントは一神教であり救主キリストを生んだ女性マリア様を崇拝する宗教だ。だからか知らんが明治の浅はかな宗教改革者は本来は地位の序列等無い日本の神様、それぞれの個性を尊重し得手も不得手も有る神様達、助け合ったり喧嘩したりする日本の活きた神様を女性の太陽神である天照大神を頂点として再編成してしまった。
これは天皇家の祖先神なのでやむを得ない事なのだが、本来は大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)でも、古事記でもそうである様に国を生んだ神様は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)だった訳だ。
その宗教改革のどさくさに紛れて明治政府は神社や御寺の収入源だった田畑や町の土地を没収し、結果的に神社も御寺も荒廃してしまった所が非常に多かった。特に神社は遷座(ぜんざ=神様の引っ越し)・合祀(ごうし=他の神様の神社に同居させる)の名の元に社殿を破壊され永久にこの世から失われた場所も多かった。
もっと酷いのは宗教改革をする立場の人間が神様の習合(しゅうごう=他の神様と同一視される事)の経緯を知らず、全く見当違いな神様を仏教と神道の分離時に海外の神様を日本の神様の名前に戻すのでは無く変更してしまった訳だ。
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現在の江ノ島神社は宗像三女神が御祭神とされるが、これは日本の天皇家の歴史の2600年の日本の歴史の中で明治以降のたかだか200年足らずの明治政府が唯一失敗した宗教改革の浅い間違った歴史でしかない。
本来の弁才天様の前身の神様はインドのサラスヴァティ神だが、日本では宇迦之御魂神に習合されている。だから日本全国の洞窟の湧水地に祀られていた宇迦之御魂神の神社に、弁財天様も祀られる様に成った訳だ。だから神仏分離を行うのであれば実際は弁天様は宇賀神に名前を改めなければいけなかったのだが、そんな事すら明治に宗教改革の名の下に多くの神社仏閣の規模を縮小させ、本来は自然崇拝の聖地と一体の神社をキリスト教の教会の様に神社の建物と十字架の代わりの鏡(かがみ)を拝む宗教に改革してしまった訳だ。
そもそも御神鏡が日本に最初に来たのは卑弥呼の時代、三国時代の中国の魏帝国からの下賜品が送られて以降でしかない。まぁ、古代豪族と直結した格式高い神社に鏡が祀られているのは、その神社の有る場所に宮殿を置いていた古代豪族が邪馬台国に直結した古い場所だとの証明に成る訳だが、そこから既に海外の影響を排除しきれていないし文化から海外の影響も受けながら発展して来た日本の歴史を切り離せていない。
ハッキリ言って中途半端で詰めが甘い。だから森有礼は不敬な人間で中途半端で、日本神道を利用して別物に作り替えようとしてプロテスタントの意識が抜けきれずボロが出て、伊勢神宮の社伝に靴を履いたままで土足参詣して保守派に切り殺された訳だ。
プロテスタントも素晴らしい面が有るが、彼の場合、プロテスタントを政治利用して己の思うが儘に文化を変えたのが天罰を受けた原因だろう。
因(ちな)みに森有礼等と異なり伊藤博文公は横浜市金沢区野島の金沢別邸で大日本帝国憲法の起草をした際に、二宮町の延喜式内社の二宮川匂神社や、金沢区の寶勝寺等を参拝しており古来の日本の宗教文化を大切にされていた。

日本の神様と仏教の仏様とインドの神様が仲良くしてからの歴史は約1700年、天皇家の2600年の歴史の中でも大半を占める。これを無理に引き剥がす理由は「西欧化」を目指した事以外に無い訳だ。
実際、明治以前は日本の神道も偶像崇拝の場所も多かった。仏像の様に御神像を御神体として祀っていた場所だな。鏡ではなくて。
所が明治以降、その御神像は日本社会から一斉に消えた。偶像崇拝を禁止するプロテスタントの影響をモロに受けた森有礼等大悪人達の所業だろう。
消えた御神像はどこに行った?転売されて利権に成ったよな?
もしくは心有る宮司様は御金を払って知り合いの御寺に管理を御願いして神様と「さようなら」する羽目に遭った訳だ。
だから言う、日本の宗教は江戸時代の価値観に戻すべきだ。
但し条件付きで、「本地垂迹」等とアホらしいどっちが上位かと議論する輩は僧籍も神職も取り上げてしまえば宜(よろ)しい。どっちも裏でどっちも表。もしくは別々だけれど一緒に祀るそれで良い。
大切な事は神様は日本文化に従って日本の神社様式で祀る事、御寺では仏様と同じ様に昔の和尚様達の様に仏壇に御祭りして御経をあげて庶民と世の中の平安を祈願して頂ければ宜しい。
そう、個人的に思う。
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さて、そんな事も有ったが江ノ島神社は日本古来の伝統を守り宇賀神様と弁天様を別々にしたがちゃんと両方とも大切に残された。残した上で明治政府の宗教改革者の不見識も飲んで、ちゃんと日本の古い神様として水神様としての宗像三女神様達を御祭した訳だ。
だからね、江ノ島神社の弁天様は仏教の法具を持ってらっしゃるんです。昔のままね。
こんな江ノ島神社、歴史を知らないネトウヨと新宗教にまみれ保守派に似て非なる右翼の石原慎太郎達の所属するカルト団体は江ノ島に来たら発狂するんじゃないかと思う(笑)。
しかし、ここはそんな偽保守派を頭から叩き潰す事の出来る歴史偉人が愛した場所で、日本を守った明治の元勲達が森有礼達とは異なり古来の価値観を大切にして来た事を知る事も出来るんだな。
児玉源太郎
ここは初代台湾総督を務めた児玉源太郎先生が愛した場所で、対ロシア戦略を練った島だった。
江ノ島の文化と風景と食べ物が大変に御好きだったそうだ。
台湾の初代総督も務めた方なのだが・・・
没後も台湾の人々から尊敬され、台湾の人により児玉神社が開かれ江ノ島から日本人を見守って下さっている。
今の石原慎太郎をはじめとした一派の自称保守の偽保守はハッキリ言って浅い。
奴等は西南戦争を起こした西郷さんや京都の文化財や天皇家を守った新選組の近藤さん達、幕末英雄の面々が既に明治天皇に赦免されている事すら知らずに「現代で罪を許し靖国に祀る云々・・・」あのな、明治天皇に許されていて、日本の為に命を落とした人も、敵国人で勇敢に戦った人も、あらゆる犠牲者も靖国に平等に祀られているんだからとっくに明治天皇に功績を認め許された時点で靖国に合祀されているんだよな、近藤さんも西郷さんも。もしされていないのなら、靖国の存在意義に疑問が出る訳だ。
そもそも児玉源太郎先生は日本文化も西洋文化も優れた物は隔(へだ)て無く愛された訳だ。
さて、そんなこんなで江ノ島は児玉源太郎先生が愛した場所なのだが、現代ではシラスが江ノ島や湘南の名物として有名だが当時~昭和初期まではサザエが名物だった。
そして明治時代に登場したのが親子丼、親子丼とサザエを合わせた名物が江ノ島の名物だったのだが、これはもう少し後で実物の写真を御店したいと思う。
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江ノ島は5ヵ所の聖地霊場から構成されている。
辺津宮・・・恋人達で賑わう一番神社らしい場所、ここで御朱印も頂ける。弁天様を祀る御堂も在る。
中津宮・・・慈覚大師が造営した御堂が前身。とても彫刻の綺麗な場所。
奥津宮・・・本宮。八方睨みの亀の天井絵や、源頼朝公奉納の石鳥居が現存する。
龍宮(わたつみのみや)・・・龍神を祀るとされるが綿津見大神の事、神話では素戔嗚命(すさのおうのみこと)が海の統治を任されている事や素戔嗚命の御神孫の安曇一族の祖先神が綿津見大神とされ、その前身が五十猛(いそたける)神なので、五十猛神の別名と考えた方が自然だろう。
岩屋・・・そもそもの江ノ島神社の始まりの聖地。ここを天皇家の勅願所に欽明天皇が定めた当時は神社は存在せず、洞穴そのものが聖地だった。海辺の洞窟にも関わらず飲用に耐える清涼な清水が湧き出る聖地。
・・・史実を元に話すと、大体そんな感じだな。
瑞心門を抜け、石像の弁天様の前の階段を過ぎると辺津宮の手水社が在る。

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石灯籠がとっても立派!欽明天皇、そして源頼朝公、北条時頼公、北条時宗公、そして戦国時代の北条氏康公が参詣して不利な合戦で奇跡の大勝利をした御利益に預かる人が鎌倉時代から絶えないので経済的にも豊かな神社として存続出来た訳だな。
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今回の辺津宮訪問は初夏の6月末、既にとても多くの人で賑わっている。
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辺津宮を正面に向いて右手に社務所が有り、そこで御朱印を頂ける。
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2種類有って、聖地としての江島神社の御朱印、そして昔は岩本楼が祀っていた弁天様の御朱印。
小生は両方拝領する事にした。
江島神社の御朱印を延喜式内社・式外社専用の御朱印帳に、弁天様を御稲荷様やなんかの御朱印帳に頂いた。
待つ間参拝・・・
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流石、弁天様を本来祀る神社だけあり、欄間には素晴らしい弁天様や天女達の彫刻。
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良く見ると彩色の名残が有るので、昔は朱・青・金等に彩られた極彩色の神々しい彫刻だったんだろうか?社殿は比較的新しく見受けられる。恐らく昭和の再建か改修が入ってるだろう。
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参拝を終えると御朱印も書き終わっていたので受領し、頼朝公が岩屋に祀った八臂弁財天様を拝みに弁天堂へ移動。
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写真撮影は出来ないので外観だけ。この中には文化財の八臂弁財天様と女体の弁天様像が鎮座している。
江島神社に来てココと洞穴を御参りしないのは全く意味が無いのと同じ。
ちゃんと御参りし、弁天様と、弁天様を信仰した頼朝公にも毎日御守護頂いている御礼を告げた。
弁天堂を出て山頂を目指す道に行くと直ぐに八坂神社が有る。
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余り大きくは無いが、町の中に在ったら普通に立派な規模に入る社殿だ。
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素戔嗚命が御祭神の神社、やはり海の神様なので江ノ島の漁民から崇敬を集めたようで、廃仏毀釈の影響もなんのその、牛頭天皇としての素戔嗚命を祀る天王祭りが今でも行われているそうだ。
これは尾張の津島大社と同じだな。
織田信長公
余談だが織田信長公の祖先は福井県劔神社の宮司家で代々、牛頭天王こと素戔嗚命を御祀りしていた事は小生のブログ読者の方々は既に知っていると思う。
だから尾張の津島大社の祭礼に、若い頃の信長公は飛び入り参加して庶民と一緒に踊ったり家臣達と笛を吹いたりして農民や町人と友達の様な関係を築いていたそうだ。
何とも、庶民を愛した信長公らしい逸話だ。
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八坂神社を後にして先に進む・・・
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・・・すると今度は秋葉社と稲荷社が合祀された御社が在る。
う~ん・・・弁天様と同一視されていた御稲荷様が更に別の御社にいらっしゃって各時代の変遷関係無いけど、これはこれで個性が有って良いかな。秋葉社は秋葉権現と呼ばれた火事除けの神様だな。軍神としても信仰された神様だ。
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これは南宋の文化人が寄贈した石碑らしいのだが、数百年の経過により字が磨滅して読めなかった。
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説明は有るので参考にすると良いかと思う。
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現代の石碑。
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猿田彦大神。山の神様。
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これを石碑に揮毫した阿部石年さんは儒学者で書道の名人でもあったらしい。良く知らん。
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江島神社のザックリした道案内が弁天様の琵琶に成っていて可愛かったりする。
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参道には紫陽花が咲いていて6月24日当日は見頃だった。まぁ、本来の目的は江ノ島の岩本楼と江島神社散策の後に鎌倉の長谷寺で紫陽花見物だったので、時期的には綺麗で当然だな。
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あと小さい花壇も有った。
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そうこうしていると中津宮への階段を上がり、大きな石灯籠が見えて来て、中村座の字が掘られている。ふむ、これが中村勘九郎さんの御先祖様が奉納した物なんだな。江戸時代の立派な灯篭。
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小生は辺津宮よりも中津宮の方が落ち着いているし神社らしい神社で好きだ。
ここでは結婚式も挙げられるそうだ。江ノ島は旅館も有るし観光地として有名なので、地方から友達や親戚を招いて江島神社で結婚式やって旅館に皆で泊まったら良い思い出に成りそうだな。
きっと、そうやって幸せな夫婦に成り添い遂げた男女も多いだろう。
そんな幸せを御裾分けして頂ける場所な訳だ。
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美しい恋したい・・・目下、独身の小生を代弁する言葉だが小生は美しくないので慎ましく幸せに恋したい(笑)。
中津宮を過ぎて山を登ると山頂のサムエルコッキング園と展望台。
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恋人達の聖地だ。小生には関係ない(笑)のでスルー(笑)。
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暫く行くと下り坂に成るが、この一角には多くの民宿や旅館、食事処が有って面白い。
妹が愛媛県松山市でまだ大学生だった頃、妹が友達を連れて帰省した際に二人をここに連れて来てあげたのを思い出し、当時食事した店を探す事にした。
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階段降りて直ぐ見つかった(笑)。
海花亭さん。ここで昔からの名物の江ノ島丼や現代の名物のシラス丼、他にもお刺身や色んな和食を食べる事が出来る。
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確か旅館もやってらっしゃったと思う。最初に来た時は浴衣の宿泊客がいたから。
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ここは展望席が有り涼しい浜風に当たりながら食事が出来て気持ちが良い。
小生は当然、江ノ島丼を注文。
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まぁ、最初の方で書いたけれども、江ノ島丼と言うのはサザエの卵とじ丼の事。
江戸時代~明治時代~昭和初期、まだまだ鶏卵は庶民は普段口にする事の少ない滋養強壮の食べ物だった。それに明治生まれの親子丼と江ノ島名物のサザエをアレンジして出来たのが江ノ島丼な訳だ。
きっと味は皆さんの想像通り・・・
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・・・親子丼(笑)。でもサザエ。
因みにサザエやカタツムリなんかは滋養強壮勢力増強の効果が有るので、卵と合わせて江戸庶民や明治の人々にとっては体力の付く食べ物だったんだろう。
現代人の小生には身近な味付けの食べ物だが。
きっと児玉源太郎先生も旅順攻略の作戦を立てながら、この江ノ島丼を食べたりしたんだろう。
同じ物を食べられたかも知れないと思うと何だか嬉しい(笑)。
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展望台を見上げながら清々しく食事をさせて頂きました。海花亭の皆さん、ありがとうございました!
海花亭を出ると横に御寺が在る。
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江ノ島大師、最福寺別院、真言宗。まぁ、近年の造営なので歴史は浅い。岩本楼が修験道寺院を止めて久しいので、修験道と関係の深い真言宗の寺院が開かれたのだろう。
そこの前を通り過ぎて注意しながら道の脇を見ていると、宗教史跡が有る。
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時宗を開いた一遍上人の所縁の場所。
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この付近は頂上で海辺の岩屋の水を汲みに行くのも不便だったのだが、一遍上人が井戸の水脈の掘りあて島民の生活を助けたそうだ。
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ふみ、庶民を助ける事を実践された素晴らしい逸話だな。
今回、改めてこうやって全ての石碑等を見て回ると時間が経つのが早く、実は島を離れるまで4時間位江ノ島の中を歩き回っていた様だ。
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更に先に進むと山二つと呼ばれる景勝地に出る。
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実はこの下にも古代からの霊場が有るのだが、降りる術が見つからない(笑)。
仕方が無いので先に進む。
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江戸時代からの鎌倉名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)の店が今でも沢山有る。
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そして又、宗教的な史跡。
今度は木食上人の所縁の場所。木食上人は真言宗の僧侶で法名を行勝とおっしゃった。
台風や長雨を止める祈祷等を得意としたそうだが、要は農民の味方、精神的な支柱だった人物な訳だ。
当然、祈祷をする以上、日本の神様への知識も深かっただろうし、だからこそ水に纏わる江ノ島の霊場に修行に来ていたのだろう。
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帰りに行こうと思って行くの忘れた(笑)。
この近くに凄い種類が豊富なソフトクリームの店が在った。
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これ、カップルならシェアして食べたら良い思い出に成りそうだ。
・・・ワサビ味とかシラス味は御免こうむるが(笑)。
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そして、もう一つ文化財。
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サルが沢山彫刻された珍しい庚申塔。
普通は見ざる聞かざる言わざるの三猿と、何か仏様や神様が彫られているんだけれど、ここは猿が沢山で可愛らしかった。
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謂(いわ)れは良く解らないらしい。
奥津宮に辿り着くと紫陽花が綺麗だった。
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もしかしたら長谷寺に間に合わないかも知れないので、ここで紫陽花をジックリ見学して置いた。
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健気に咲いてカップルを楽しませていた。偉いな君達。小生は中々人の役に立つ事を出来ず自分に不甲斐無さを感じる事が多いんだよ。君達は存在するだけで偉い。
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ふむ、心を癒してくれた紫陽花君達、ありがとう。
この場所が奥津宮の参道、神社の最深部の入口となる。CIMG4351
そして、この石の鳥居が源頼朝公の建てた物だそうだ。良くも応長の大地震、明暦の富士山噴火、関東大震災を乗り越えて現存していてくれた物だ・・・。
その手前右側に石碑が有る。
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字が摩耗して読めね~。
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ので看板を見てね(笑)。
その近くに亀石と言う名石がある。これも宝物の一つだ。CIMG4356
今は木に埋もれているが、これが鎌倉十石の一つに挙げられた名石らしい。
確かに亀に見えるんだな。これが天然の造形だから価値が有る訳だ。
その左手前に力石が有る。
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古い神社には良く有るのだが、昔の力持ちがこれを持ち上げて力比べをしたんだな。
多分、現代人の中で可成り力の有る小生でも持ち上がるかどうか。
実は江戸時代の人の男性平均身長は150~160cm程度。しかし飛脚の人達や肉体労働の町人の幕末の写真を見るとビックリするのだが、誰も彼もがプロレスラーの様なガタイをしている。
有名な話だが、武士は絶対に火消しやなんかに喧嘩を売らなかったそうだ。絶対に負けるから。
江戸時代当時の武士は既に官僚化が進んでモヤシが多かったそうだ。刀を抜けば殺人未遂だし、当時は士分は庶民を守るべき立場だったので庶民を傷つける事は実は当たり前なのだが許されなかった事を知る人は少ない。切り捨て御免なんてのを信じている奴はド阿呆で、武士側に落ち度が有れば普通に犯罪が成立する訳だ。
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そして山田検校の碑。
これ、①の記事で紹介した江戸時代の針治療のお医者様だね。江戸時代の名医らしい。
そしていよいよ奥津宮。
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明治以降の説明に価値を感じない小生。その前の1000年間の江ノ島の歴史の方が大切。
とは言え、宗像三女神様達も海上交通の安全を守って下さる大切な神様なので、ちゃんと御参りして来た。
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ここは拝殿の屋根に文化財が有るので絶対に御参りして天井を見上げて欲しい。
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八方睨みの亀。
ガメラみたいだ・・・
奥津宮の少し先に龍宮が在る。
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どうやらこの祠の真下が、江ノ島の古来からの聖地の洞窟らしい。
ここ自体は新しい礼拝所で、小生は特に・・・
御参りは外から拝んで岩屋を目指して先に進む事にした。
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にゃ~ん♡
江ノ島は島民に愛される猫ちゃん達が多くて癒される場所でもあるんだにゃ。
今回も歩く先々で猫ちゃんにモフらせて頂いた♡
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人懐っこい♪
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どの子も肥えとる(笑)。
それだけ可愛がられてるんだろう。
さて!
神社としての江ノ島はここまで、ここから先は原始宗教に繋がる岩屋部分、続きの③の記事で又、紹介します~♪
→その③

今日は休暇とってるので夜はユックリ某所旅館で過ごしながらブログ書きます。





2017年4度目の鎌倉長谷寺への紫陽花(あじさい)鑑賞へチャレンジ。既に3回失敗・・・

06月10日・・・
早すぎて見頃では無いとの事前情報+虫の知らせで突然、六浦上行寺~上行寺東遺跡~野島の伊藤博文公金澤邸~野島キャンプ場に訪問地変更。

06月17日・・・
長谷寺紫陽花見物ついでに鎌倉へ久しぶりに電車で行って江ノ電の旅を楽しもうと画策、しかし江ノ電鎌倉駅入場規制40分待ち、長谷寺も1時間以上の待ち時間が予想され時間的に断念。
小町通のステーキハウスのマザーズオブ鎌倉で食事と鶴岡文庫で戦国時代の北条家関連の文書コピーさせて頂き、小町通り散歩し社頭で和紙と千代紙だけして帰宅。
意地でも江ノ電に乗る事を誓う。

06月21日・・・
台風並みの天候不良、ふて寝してからジム行って終了。

06月23日・・・
作戦を変更して江の島方面から攻略して行き、人が少なくなるであろう夕刻前に長谷寺到着予定で計画を立てる。

06月24日・・・早朝まで仕事し、そのまま寝ずに作戦決行!家を8時半過ぎ頃徒歩で出発。
・・・AM:09:00頃、大船駅に到着。

大船駅に着いて先ず、横須賀線のホームへ行き鎌倉市内の混雑を予測。
予想通りとは言え絶望する。
早朝の山手線品川駅並に鎌倉方面行の横須賀線のプラットホームは人だかり。列車が到着しても既に満員で乗れない人だらけ。
予想通りの展開だったので作戦通り江の島方面から攻略を進める作戦に移行。
実は大船駅ではコンナお手頃な乗車券を販売している事を知る人は少ない・・・
    ↓
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鎌倉・江ノ島パス
江ノ電、湘南モノレール、JR横須賀線(大船駅~鎌倉駅区間)、JR東海道線(大船駅~藤沢駅区間)
なんと!この区間が全線1日乗り放題、しかも700円ポッキリ!
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3度の2017年鎌倉の紫陽花見学の失敗(笑)を経て知ったこの無双チケットの存在、この1日凄く役に立つ事と成る。
実は江ノ電にも乗り放題のチケットは600円で有るのだが、あくまで江ノ電だけ。
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だから鎌倉観光をするならば、江ノ島に行かなくても鎌倉・江ノ島パスを購入した方がお得な訳だ。

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この時期の鎌倉は上の特別手配特急が運航し、恐ろしい程の人が集結する。だから小生は前回の失敗も踏まえて江ノ島から廻る事にした訳だ。
因みに、今、鎌倉周辺の駅では何か良く知らんスタンプラリーもやっているらしい。
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緑の窓口の前で無料配布されているビラがスタンプラリーになっていた。
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ポーチが貰えるらしい。折角(せっかく)なのでやってみた。
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横須賀駅・衣笠商店街・川崎駅・大船駅・逗子駅・磯子駅・平塚駅・国府津駅・横浜駅・・・
う~ん、どこも良く通る場所だが小生の場合は車でしか移動したくない派なので、スタンプ集まらなそうだな(笑)。
でも、この駅は通勤で使う人も国府津以外は多そうだから、通勤ついで+平塚の七夕祭り+小田原と箱根温泉旅行なんか計画したら全部集まりそうだな。横須賀や衣笠も横須賀観光や三崎観光何かで行けば子供にも良い夏休みにも成りそうだ。
・・・まぁ、そう思って観光してくれる人を増やす為のコラボ観光促進企画なんだろうな。
やってる人いなかったけど(笑)。ポーチ貰えるの強調すれば良いのに。
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緑の窓口で鎌倉・江ノ島パスを購入し湘南モノレールに移動する。
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ついでに江ノ島の弁天様の御利益も有りそうなので大船駅でロト7も買ってみた(笑)。
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湘南モノレールに乗るのは、かれこれ20年ぶり位?子供の頃、皆で海水浴に行った時以来の事だ。
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いつもは車から見上げる湘南モノレールの駅、歩いて回ると新鮮で楽しい。
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この路線は世界でも珍しい懸垂式と呼ばれる釣り下げ型の鉄道なのだ。
子供の頃の車両はもっとダサかった気がするなぁ~。大人になってから久々に乗車する湘南モノレールは少しカッコ良い車両だった。ヱヴァンゲリヲンとかに登場しそうな感じ(笑)。
まぁ、エヴァやシン・ゴジラのモノレールのロケ地は立川車両基地なので、こっちじゃないんだけどね。

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う~ん、浮いてるねぇ~。
走ってる所を写真に撮りたくて次の駅で降りて見た。
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カッコ良いねぇ~。下に車が走ってるね~。
これ、甥っ子と姪っ子にも見せてあげたいなぁ~。
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赤い車両より黒い車両の方が個人的には御気に入り。カッコ良い!
江ノ島までは直ぐに着いてしまうのだが、乗車中は楽しかった。
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横須賀線と違い比較的空いているので、他の乗客はほぼ着席出来ていたし、前方も親子連れ1組いるだけだったので反対側の車窓から走行中の風景を見る事が出来た。
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何かアレだね、スピードの遅いジェットコースターに乗ってる感じ。
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まぁ、それくらい揺れるって事だよ。鎌倉市は谷戸が入り組んでいるので陸を削って線路を引く訳にもいかなかったんだろう。平地は既に住居と神社仏閣でいっぱい、だから江ノ電みたいに住宅街の路地に線路を引かないといけないが、現代で鉄道路線新設する際はそうもいかない。
そもそも至る所に文化財が埋蔵されているから、橋脚を立てて懸垂式にした方が便利が良かったのだろうか?懸垂式に拘る理由は良く解らんが、橋脚の上に高架線にするより経費も掛からないんだろう。
何にせよ世界でも比較的珍しい路線に成っているので、外国人向けに江ノ島→鎌倉観光のコースを宣伝したら人気に成りそうな鉄道だと思う。
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暫くして江の島駅に到着。久しぶりに来てみるとモノレールの駅の周辺は少し寂しい感じだったかな?
でも江ノ電の駅の周辺商店街は賑わっていた。
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店も多いしカラフル。
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所で、江ノ電の駅で可愛い物を見つけた。
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駅前の車止めが可愛い雀(すずめ)に成っていて、誰かの手編みのブランケットを着ている(笑)。
可愛いなぁ~♡
こういう優しさとユーモアが有る人って好きだな。駅の職員さんだったら凄いな。
可愛かったのでGoogle mapに写真投稿しようとしたのだが、バグか何かで何回も口コミに写真添付したのにUPされず、挙句の果てに関係ない写真が関連付けられたので諦めた。
でも今回、この可愛い雀達をブログで紹介できたから良かった。
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江ノ電も色んな車両が有るんだね~今は。緑の車両だけじゃないのか・・・
江の島駅の目の前を通り過ぎて直ぐに、面白い店が有るのに気が付いた。
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革製品の製作販売所、レザークラフトすずき。
店の入口は判り難(にく)い。

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この“江の島がっぱ”と書かれた看板の有る建物の2Fに店が在(あ)る。
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ここではペットボトルホルダーと言うのをアルファベットの文字を刻印してその場で作ってくれる。
観光する時に手にペットボトル持って歩くのは正直邪魔臭いし写真撮影を妨げる、かと言って鞄(かばん)の中に入れても結露で折角訪問した先のパンフレットや御朱印帳が濡れるのも嫌だ。
これならジーンズのベルト通しにぶら下げて、ペットボトルを吊り下げて置ける訳だ。
だから小生は、このペットボトルホルダーを見て直ぐに「欲しい!」と思った。
階段を上がって見た。
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ふむ。地味な店構え。
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中に入ると鞄や様々な革製工芸品が飾って有った。
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御店主にペットボトルホルダーを作って欲しいと頼むと、好きに字を選べるので言って下さいとの事・・・
更に文字以外にも、色んな模様がチョイス出来る。
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最初は梟(ふくろう)は不苦労に通じるのでソレにしようか、それとも崇敬する坂東平氏の殿様達や織田信長公が愛用した蝶々の模様にもしようかと思ったが、小生の家の家紋に似ているデザインが有ったので、それをチョイスしてみた。
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これこの通り、色んな模様が有るので良い記念品にも成るはず。山登りや城巡りで実用性も高いしね。

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御店主が加工に入ってものの5分経つか経たないかで完成。
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うん、違い鷹の羽・・・少し歪んでるけど(笑)。
使い込んで行くと赤黒く変色して渋い色に光る様に成るそうだ。良い思い出の品が出来た。
きっとこれから先、御城巡りや山登り、神社仏閣散歩で活躍してくれるだろう。
とても気に入ったので❝レザークラフトすずき❞もGoogle mapで口コミを書こうとしたら、口コミ書いても表示されない。小生の口コミだけではなくて他の人のも表示されていない。
これって何かの規制が掛かってるのかな?良く解らない。CIMG4263
暫く江ノ島に向かって歩くと、何やら石碑が見えて来たので説明の看板を読んでみる事にした。
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どうやら杉山検校(けんぎょう)と言う鍼灸医師だった高名な人物が、現代の針治療の際に用いる管を使った治療法を編み出したらしい。それによって財を成したので江ノ島への参道だった当時の商店街の一角、この石碑仍170mくらい前の場所でこの石柱を寄進したらしい。
杉山検校は江の島弁財天様の熱心な信徒だった様で、ちゃんと財を成してから神様に恩返しをした訳だな。江戸時代初期の人物だそうだ。
検校と言うのは平家物語の琵琶法師でも有名だが、盲目障害者ながら一定の素晴らしい功績を挙げる人材と成った人物に対して特別に朝廷より敬意を払われて与えられた官職だった。だから杉山検校は多分、江戸時代の盲目の人ながら医療の大家として成功を収め、人の役にも立ち、財を成し、そして公益にも奉仕した人なんだろう。現代のフリーメイソンの人達やロータリークラブの人達みたいだな。
まぁ、針を刺すとか言うと昭和生まれの人にはコッチしか思い浮かばないだろう・・・
藤枝梅安 緒方拳 
緒方拳サンの藤枝梅安(笑)。
こっちは人の役には立っても人殺しちゃう方だし実在しない人物だから、同じ人を刺す仕事でも杉山検校さんの方が遥かに凄い訳だな(笑)。
石碑の先には❝旅館貸宿❞と書かれた❝石政旅館❞と言う素敵な旅館が在り玄関が開いていたので中を覗いてみた。
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どうも中古家具を販売しているのだが・・・
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どれもこれも、最近まで旅館として使っていた節のある備品ぽい物ばかり。
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実に立派な建物だ!なんで廃業してしまっているのか理解できない!
この1FだってBARに改装すれば江ノ島観光の帰りに若い客が大勢来るだろう。
それに宿泊できるのであれば、1Fで御酒を飲んで、そのまま宿泊してゆっくり数泊江ノ島観光したいサーファーやカップルの需要は絶対に有るはずだ!
勿体ない!
金沢八景の料亭金沢園も今年から喜多屋旅館としてリニューアルし復活した程、古民家や文化財建築のCafeや旅館は外国人や若者に人気が有るのに!
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夜間出入り口だったと思われる入口も風情ある。
御店主に「旅館としてはどれくらい歴史が有ったんですか?」と話を聞こうとしたら「何でそんな事聞くんだ!」と少し怒って逃げて行ってしまった。
英語や中国語一つ覚えてGoogleやYahoo!やトリップアドバイザーにホームページ作って掲載するだけでも江ノ島駅前、海岸徒歩5分の好立地、そして祖先から受け継いだ文化財に等しい建築物で異業種でも復活の機会は幾らでも有っただろうに・・・
何をやっているんだろう御店主、素人の質問から逃げている時点で祖先から引き継いだ店を守る気も気力も無いって事なのかな。勿体ない!
自分に維持する力も外国語一つ思える気力無いなら賃貸として貸し出せば良いのに!
絶対に入りたいテナントはいるはずなのに!朽ちていくのを待つとか自ら殻に引きこもって落ち込むのは違うんじゃないか?
まぁ、そうは言っても、御店主がやる気が無いなら仕方が無いんだろう。
しかし江ノ島にはまだまだパワーの有る頑張ってる老舗旅館も多数有る・・・
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もの凄い良心的な値段の紀伊国屋旅館さん。
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良い店構えだ!
小生は今年の夏は三浦半島に、秋は多分、京都か愛知県犬山温泉か奥多摩の旅館に宿泊するけれども、
冬は車で30分圏内の横浜市内と横須賀市内の老舗旅館を開拓する心算(笑)。
金沢区の喜多屋とか南区の中里旅館とか横須賀市の衣笠温泉旅館に泊まりたいからね。
夏の城ヶ島や三崎や松輪や秋谷界隈の旅館や民宿も、観音崎や走水のホテルや旅館もまだまだ数年かけて開拓していきたいし。
来年は紀伊国屋旅館さんか、江ノ島の岩本楼さんにも宿泊してみたいなと思う。
旅館以外にも頑張っている老舗が有る。
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玉屋のようかんサンだな。
この店については江ノ島からの帰路の記事で紹介したいと思う。
石政旅館、泊まってみたかったな・・・
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江ノ島の古い商店街を抜けて、地下隧道の歩道を通り抜けるとこの眺望に辿(たど)り着く。
名勝史跡江ノ島の石碑と江ノ島の風景。
これを見ると夏だ~!と思えるがまだ梅雨(笑)。
でも良い景色。小生はいつも車移動だが、電車でデートに来るカップルは、この石碑の風景を見るだけでもテンションが上がるんじゃなかろうか?
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この付近には江ノ島の裏側に渡る渡し船がいて、小生は行き帰りのどちらかで乗船する事をお勧めする。
10分程度の乗船時間。でも江ノ島を海から見るのはさぞ気持ちが良い事だろう。
小生は歩くのは嫌いじゃないので歩いた。
しかし女性連れは船を片道選択した方が無難だろう。出来れば帰りは船が良い。
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・・・と言うのも江ノ島は険しい自然地形で階段が多いので、オシャレな格好をした女性に長時間歩かせるには少々酷なのだ。この橋の手前から稚児ヶ淵の岩屋まで観光しながら歩いて行くと60分前後はかかる。だから行きか帰りどちらかをクルージングにしてあげるだけで疲れも半減するし潮風も気持ちい良い思い出作りに成ろうかと思う。
無論、歩くのが苦にならないカジュアルな格好で来てくれる女性なら、そんな心配も無く一緒に買い物も楽しむ余裕も有るだろう。
江ノ島がどれくらい険しいかと言うと、参道はちゃんと整備されているが、戦国時代、ここは最後の鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)公が反逆者の上杉家連合軍に追い詰められた際に忠義の家臣達と江ノ島に籠城して、見事に上杉軍を撃退した程に堅固な防御を構築できる地形をしている言うなれば天然の城な訳だ。
まぁ、歴史的には西暦500年代、古墳時代に欽明天皇によって江ノ島の岩屋に天皇家の勅願所が開かれたので宗教的な聖地でもある。なので宇迦之御魂(うかのみたま)の神や弁財天様が祀られ多くの修験者や仏僧が多く修行した霊場でもあった。
そんな場所も江戸時代~現代にかけては庶民に人気の宿泊場所であり観光地と成った。
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そして、このゲンナリする人混みである(笑)。
人混みは好きでは無いが、多くの人の崇敬を神社仏閣が集めて日本文化がリスペクトされている事、日本食を多くの外国人旅客が美味しそうに食べていてくれる姿を見るのは嬉しい。
だから、この日の江ノ島の賑わいも嬉しかった。
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参道に入るとさっそく登場、昔からの旧鎌倉郡名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)。
現代では夫婦(ふうふ)と言う字に夫婦(めおと)と当て字の読み方をするが、本来のメオトは女夫(めおと)と書いたのだ。
今では鎌倉市の名物は鳩サブレーや豆やの豆菓子等、新しい物が有名だが司馬遼太郎さんも紹介しているが鎌倉の名物は昔から女夫饅頭だった。もっとも司馬遼太郎さんは女夫饅頭は鎌倉市坂ノ下に在る「力持ち屋」の名物と勘違いされていたようだが。
小生のこの日の目的の一つは、この女夫饅頭の食べ比べでもあったが、事前に当たりをつけていた老舗が鎌倉市内の長谷と下馬に有るので江ノ島では食事を楽しむ事にした。
そして、この日の主目的は観光では無く、老舗ホテルの岩本楼さんへの取材だった。
岩本楼は江の島神社の参道の途中に在る。
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この立派な門柱が岩本楼。
その前には有名な江ノ島名物の❝タコ煎餅❞の店が在る。
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他地域の人はイメージが湧かないと思うが、江ノ島のタコ煎餅はタコを丸々プレス機にかけて圧し潰して煎餅にした食べ物だ。
アホ程人気の行列店で、この日も客が多数並んでいたので断念した。
なので岩本楼へ先に訪問。
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岩本楼は実は小生が顕彰する横浜の殿様の間宮家と同族で祖先を同じくする。
旅館としての歴史は明治からの老舗だが、岩本楼の前身、岩本院の歴史は凄まじい100年200年ではきかない歴史を有する。
・・・と言うのも岩本楼は元々は密教や修験者の宗派である古義真言宗の御寺で江ノ島の岩屋や弁財天様を管理する別当寺だったのだ。
だから、源頼朝公が弁財天様を岩屋に祀って以来の歴史と成る訳だ。つまり800年前後の歴史を有する。
そして戦国時代、その江ノ島神社の前身と成った江ノ島の聖地の洞窟と弁天様を管理した別当寺の岩本坊として歴史書には登場し、足利成氏公の奇跡の大逆転勝利を導いた戦勝の神様を管理した場所であり、そして北条氏康公と北条綱成公義兄弟の河越夜戦での奇跡の大逆転勝利の際にも、北条氏康公が岩本坊に滞在して弁財天様に戦勝祈願をした記録が残っている。
河越合戦布陣図
加えて、当時の神主や別当が現在の岩本楼の社長の御先祖様で間宮一族、明治以前まで旅館岩本楼の前身の岩本院が天皇の江ノ島の聖地の岩窟を管理する勅願所だった為に❝間宮の苗字(みょうじ)❞より由緒ある本姓の佐々木を名乗っていた。
明治に成り廃仏毀釈による仏教弾圧で江島神社が設立され修験道寺院としての機能有った別当時の岩本院は停止された。その際に江島神社の宮司は間宮姓のまま残り、岩本院は宿坊の機能を活用して旅館業として再出発し社長は、明治以降は岩本の姓に改めた歴史が有る。この事は藤沢文書館で文献を読む事が出来る。
小生の訪問に対して岩本楼サンは丁寧な対応をして下さった。
生憎と写真撮影は出来なかったが、普段は一般非公開の資料館がホテル内に在って、そこには旧建物の天井の一部や様々な遺物が展示されている。そしてフロアには洞窟に祀っていた八臂弁財天様も鎮座していた。
今ではオシャレなリゾートホテルと言うか旅館に転身されたが、色々と貴重な遺物を見学させて頂き、パンフレット等も頂く事が出来た。
知識的な事については、当事者とは言え現代では歴史的な事に関しては、やはり小生の方が知っている事も多く、情報を交換する形に成ったが、本当に親切で、そして生粋の相模国人気質の江戸っ子に似た気風(きっぷ)の良さと江戸弁に似た横浜弁と言うか相武の訛りの聞いた親しみやすい、映画の寅さんの様な語り口調で小生の事も「お兄ちゃん」との人称代名詞で呼んで下さり親しげに近所の若者に接する様な話し方で交流して下さったので緊張せずに済んだ。
今年か来年、旅館としての岩本楼に宿泊したら、又、詳しい紹介記事を書きたいなと思う。
そして源頼朝公、足利成氏公、北条氏康公と同じく江ノ島の弁財天様の御利益も授かりたいなとも思う・・・

次回その②へ続く。




前回の休日雑記コレの続き。
       ↓


神崎遺跡を後にして、この日の元々の最終目標である飯田牧場のアイスクリームを食べに藤沢市の飯田牧場を目指して出発した。
今回、休日雑記は4回に分けて1日の行動をつづったが、実は目視すると余り移動距離は長くない。
04月22日の行動道程
黄色い線が最初の訪問地の有鹿神社本宮~飯田牧場の実際に走った道程(みちのり)。
赤い線が距離の定規とする5kmの長さ
御覧の通り、4月22日の訪問先で実際に走った移動距離はせいぜい15km。
余り広くい範囲を動き回っていた訳では無い。
まぁ、行き返り更に横浜までの距離も走っているのだが、それは含まない。
現地での移動は広範囲ではないが、それでも早朝の8時から夕方の4時頃まで目一杯時間を使っていた訳だ。しかし小生の1日の訪問先は分単位で事前に予定を組んで多い時で10件を超すので、この日は余り多くの場所を回ってはいない。
例えば昨年の間宮家の顕彰文の資料写真撮影と織田家の故地探訪で愛知県を旅した際の初日のスケジュールは12ヵ所+ホテル+夕食の居酒屋を回っている。
コレね。
 ↓

只、時間を無駄にしたくないので出かける前は臨機応変に組み替えれる行動予定を何パターンも時間軸で頭に組み込んで置く。
訪問先の優先順位を割り振って、全ての訪問予定先をGoogle mapに登録して置く。そして道路状況等もナビ機能に反映されるので時間との兼ね合いで訪問先で所要した時間に合わせて行き先を削って行く訳だ。すると案外と多くの場所を回れる。

今回は訪問先は比較的少ないし移動距離も短い。その替りに有鹿神社宮司様や温故館や神崎遺跡の学芸員様始め多くの方への質問に時間を使っていた訳だ。
だから、とても充実した1日と成った。
神崎遺跡から飯田牧場に到着すると何と駐車場待ちの車が住宅街の片側1車線の道に並んでいたが、運が良く比較的早く駐車場に入る事が出来た。
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ここは横浜市からも遠くは無い藤沢市。そんな場所で酪農家が乳牛を飼育して乳製品の加工食品やアイスクリームを製造販売している。
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だから当然、牛舎も隣接している訳だ。鎌倉市周辺の小さい子がいる御家庭なんかは近くを通る事が有れば立ち寄りアイスを食べれば、牛サンも見れて子供に自分達が食べる物の由来と感謝を教える良い機会にも成るかも知れない。
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アイスクリームは種類が豊富なのだが、如何(いかん)せん小規模な人気店だけに昼下がりには写真の通り、既に売り切れの商品も多い訳だ。

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芸能人にも知られている店の様で鶴見慎吾サンが趣味のサイクリングがてら立ち寄られたり…
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…何か良く解らん漫画の作家さんや多数の芸能人が訪問している様だ。その色紙の数は観光地の横浜中華街の有名中華料理店と同じ位だろうか?基準が可笑しいか(笑)。
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小生はラズベリーとホワイトラムレーズンを頼んだ。
予想を裏切りサッパリした舌触りと喉越しながらコクが有って美味い。
これを食べるとコンビニや観光地のアイスが如何に人工的な味付けや舌触りに加工されているかが解る。
後日、三浦半島の関口牧場で食べたアイスも飯田牧場に近い味と舌触りだったので自然なミルク由来のアイスは脂肪分もサッパリした物に成る様だ。

以下、飯田牧場の所在地と連絡先。
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飯田牧場の駐車場待ちで道路に車を停めている際に目の前に御寺が有るのに気が付いた。
花應院と言う御寺の様だ。綺麗な名前の御寺だ。
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❝小栗判官・照手姫縁起の寺❞と書いて有ったのだが浅学世間知らずな小生は❝照手姫❞が誰か知らなかった…
小栗判官は徳川埋蔵金で有名な徳川幕府末期の名奉行の「小栗上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ)公の御先祖様か何かかな?」と思った。横須賀製鉄所を開いて近代日本造船の基礎を築いた偉人だな。東郷平八郎元帥から後に「日本を救った人物」として感謝された偉人だ。
しかし小栗判官について何も知らない小生。

…癖で直ぐに神社や御寺が有ると門前の看板や寺紋や宗派が気に成ってしまうのだが、「これは直接、御住職様に言われを御教授頂きたい」と思い飯田牧場でアイスを平らげてから訪問して見た。
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禅寺に有るアレ。「酒の匂いさせて山門(寺)に入っちゃ行かんよ~」ってアレ。
うん、禅宗(曹洞派=現在の曹洞宗)確定!
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この時点での認識…
「う~ん。小栗判官と照手姫ってのは何かの物語らしいが良く解らん」
…程度。ウダウダ読んでも考えても知らない物は埒(らち)が開かないので知ってる人に教えて貰った方が早い。さっさと御住職を訪ねようと中に入る。
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参道は細い。しかし恐らく明治時代以前は両脇の民家に成ってしまっている場所は塔頭寺院かなんかで境内地だったんだろう。
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石仏群が保存されている。謂(いわ)れは解らなかった。
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庭に落ち葉や雑草がチラホラ有ったので何だか無人の御寺の様な雰囲気で、人がいるのかな~?と思った。
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どうみても境内地なのだが普通の民家っぽい建物、離れの庫裡かな?と思いつつ本堂へ…
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どんな御寺か良く解っていずに参拝したのだが、取り合えず曹洞宗の御寺の様なので御本尊は釈迦牟尼仏だろうと思い、今回訪問の機会を思わず頂けた御縁と参拝させて頂けた事を釈迦牟尼仏様に御礼を申し上げ横浜までの帰路無事に帰れる事、そして小生が神社仏閣の保護や支援を担い先人の偉業を現代人に伝える事業が出来る様に、文化的な事や何か社会の役に立つ事が出来る様に、地域の産業に資する事を創生出来ます様にと大願をお伝えし、その様な事を行うに相応しい人間に成れる様に御導き下さいと御参りをして来た。
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まぁ、釈迦牟尼仏様を含め、いつも日本の神様達と仏様達と偉人達と御先祖様にしている祈念と同じ。
参拝を終えて取り合えず玄関に回ってインターホンを鳴らすが誰も出て来なかった。
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御自由に御持ち下さいと書いて有り冊子と札が置いてったのだが、流石に札は勝手に拝借する気にも成らずに写真だけ撮影させて頂き、照手姫の事が何やら書かれた印刷物の方は1枚づつ頂いて玄関を出た。
すると庭先に御住職が待ち構えており「いらっしゃい」と声を掛けて頂けたのだが…
「あれ?今外出からお戻りに成られたのかな?」と思って「冊子を頂きました。」とお伝えした所「全部見てたよ」との事。
小生→「?」「何ぞ?」
…と思った。
御住職様に「まぁ、入りなよ」と気さくに声を掛けて頂き玄関へ再度入り椅子に座らせて頂いた。
内心…
「何か怒られるのかな?」
…と、思いながらドギマギしてると御住職から意外な一言。
「実は最近、賽銭泥棒が多かったので全部遠隔監視出来るシステムにしてあんだよ!」と笑いながら教えて下さった。最近は日本でも物騒なので納得。
凄いのは出張先からでも監視出来るし、どこから入っても解るそうだ。
「先進的な御寺だな」と思い、そして同時に「御住職様気さくな方だな」と思ったら実は御住職、曹洞宗の偉い方だった。名刺を頂いて分かった。
色々と曹洞宗の組織や運営の話が聞けて非常に面白かった。
そして本題の照手姫の伝説を質問すると丁寧に解説をして頂けた。
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大まかな話は以下の通り…
室町幕府の時代、鎌倉府最後の鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)公に永享の乱で小栗判官は今の茨城県に在った居城を落とされてしまう。そこで相模国の鎌倉郡俣野(今の横浜市戸塚区俣野)に落ち延びて潜伏していた。
※個人的な意見だが、鎌倉を本拠地にする鎌倉公方の足利持氏公に
常陸国(茨城県)の居城を落とされたのに鎌倉郡に逃げて来ると言うのは不可解な伝承。
そこで横山大膳と言う盗賊の元に訳(わけ)有って仕えていた照手姫と言う美女に出会った。
照手姫は本来は高貴な武士の娘だったそうだが、親を早くに亡くして横山を頼った様だ。
照手姫と小栗判官は恋に落ちて婚約した。
しかしこの横山は武士であり盗賊でもあったので、小栗判官の財産の横領を目論み照手姫の不義も許す訳もなく小栗判官を権現堂で暗殺してしまう。
→権現堂が花應院と関係あるらしい。
小栗は死ぬのだが生前の行いが良く、閻魔大王によって蘇(よみがえ)らせられる。
→だから花應院には閻魔大王が祀られている。

生き返ったものの化物の様な外見に成る病で歩く事もままならなかったのだが、藤沢の遊行寺(時宗の総本山)の大空上人の協力や照手姫の協力で和歌山県田辺市の温泉で湯治して回復すると、再び領地を与えられた。その後手勢を率いて俣野に攻め込み横山大膳を討ち取った。
→常陸国から鎌倉の他人の領地へ出兵したら室町幕府で大事に成って切腹されられるのでオカシな話し。この話の元には何か別の解釈が有るのかも知れない。
一方で照手姫は不幸が続き人身売買で売られて美濃国に流れ着いていたのだが、小栗判官に探し出されて目出度く結婚した。

…って話らしい。
昔は道徳教育の教材に成った話らしい。正直、そんな話を神奈川県民として知らなかった事が恥ずかしい。まぁ、そんなこんなで花應院の御住職に伝承やお寺について御教授頂けてとても嬉しかった。
更に本堂に通されて、目の前で閻魔様の木造を拝ませて頂く事が出来た。
この他に、御住職様が曹洞宗の偉い方と解ったので、同宗派で織田信長公所縁の御寺の江南市久昌寺が廃寺の危機に瀕している事を御伝えし、存続に向けた知恵を御教授頂く事も出来た。さっそく釈迦牟尼仏様に御参りした御利益が有った訳だ。

一頻り御住職から御知恵を御教授頂いて、車を停めたままの飯田牧場に戻った。
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牛さんズに御別れして、横浜の自宅までの帰路についた。

今回は4回に分けて22日の休日雑記を書いたが、当日は色んな偉い諸先輩方から様々な事を御教示賜り、食べ物も美味しく非常に良い休日と成った。
又、有鹿神社を参拝する際は飯田牧場も来たいし花應院の閻魔様と御釈迦様にも御参りに来よう。

これにて22日の休日雑記は御終い。

【大庭城】
大庭城址周辺図 久良岐のよし
[築城年代]
平安時代末期…良文流坂東平氏鎌倉家の子孫の大庭家。
[改修年代】
不明…改修次期は二期に分かれると推測、一期は扇谷上杉家、二期は北条家による落城後の北条早雲(伊勢盛時)公、又は北条氏綱公による改修。
[現在の様子]
腰曲輪群・土塁・空堀の遺構が一部保存されている。
大半が現代の神奈川県教育委員会が保護を怠った為(ため)に破壊されるも、昭和7年頃の近代には神奈川県に保護された史跡だった為、一部残存する。現代の教育委員会の意識と知識の低さと、近代の県職員の横浜の開港や近代化と県文化財歴史史跡保護を両立させた意識の高さの差異を感じる城址の一つ。
[所在地]
藤沢市大庭5230-1
[アクセス]
藤沢駅か辻堂駅からバスで20~30分。駐車場無料。
[周辺の見所]
大庭神社(延喜式内社)。
平安時代末期の大庭城築城時、もしくは室町期の領主山名時氏によって現在の境内地へ移されたと思われる。
大庭神社旧跡(延喜式内社大庭神社の元宮と伝承)。
江戸時代には熊野社と別名で呼ばれた。延喜式内社は遊水地や半島に創建された場所が多いので、かつての湖沼地帯である船地蔵地区に近在する大庭神社旧跡が旧境内地と伝承するのは、古代の地形との整合性が高い。
稲荷山成就院宝染寺
足利尊氏公と母方の従弟に当たる山名時氏公によって開基された。江戸時代には大庭神社の別当寺だった。現在の境内地は広くは無いが歴史の有る寺院。
蟠龍山宗賢院
城の南側に位置する大寺院、寺紋が桔梗紋で山号が蟠龍山である事から小生は曹洞宗改修以前は太田道灌の太田家の関与が有った大寺院と推測。寺宝として大庭景親(平安時代末期の領主)の陣釜が伝来する事から、平安時代末期には大庭家が大旦那に成り大庭城の鎮護寺院として開基されていた可能性が高い。
尚、鎌倉時代の周辺領主は大庭景親の亡き後、大庭家の名跡を一度は譲った大庭(懐島)景義公が復帰して鶴岡八幡宮造営等に活躍されているので、大庭景義公との関わりも否定出来ないが度重なった戦火と失火により寺伝は大庭庄の北条家統治後の歴史しか伝わっていない。
※独立解説記事は未だ未記載なので、その内にでも書きます。 

※次回から↑こんなフォーマットで公園・城址・レストランの紹介は冒頭に纏めて、解説を下に書く様にしようと思います。

【以下大庭城址の風景写真と解説】
神奈川県藤沢市の市域の大半は、かつて鎌倉郡と呼ばれた場所に属していて現在の感覚で言うと鎌倉市の一部でした。
鎌倉市以外で嘗(かつ)て鎌倉郡だった場所は藤沢だけでは無く、更には横浜市戸塚区・栄区・港南区の鎌倉街道以西の地域も含まれていて、現在、その地域を鎌倉市に返還すると鎌倉市は政令指定都市に成れる位の広大な地域が昔の郡域でした。
室町時代には、この鎌倉を支配したのが鎌倉公方(くぼう=将軍)と家老の上杉家の武将達と、平安時代から関東を開拓して来た武将達でした。
特に上杉家は❝関東管領(かんとうかんれい)❞と呼ばれた役職を代々家柄で担(にな)っていた重要な家系で、現代の感覚で言えば関東自治政府の首相を務めた家でした。
その上杉家は犬懸上杉家・山内上杉家・扇谷上杉家・宅間上杉家が主要な4家で、それぞれに関東管領職を輩出した事のある家柄でした。
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その中でも扇谷上杉家の相模国支配の拠点として機能したのが、この大庭城址や伊勢原市の糟屋館や七沢城でした。
日本の戦国時代突入の発端に成ったのが、実は神奈川県の旧鎌倉郡で有る事は義務教育では教えないので余り知られていません。
鎌倉公方足利持氏(もちうじ)公と、鎌倉公方の政治を代理で行いながら京都の将軍の家来だった関東管領上杉家の対立が戦国時代突入の原因とされています。
そして、その最初の戦いが❝上杉禅秀の乱❞です。この上杉禅秀の乱勃発時、鎌倉公方の忠臣として活躍したのが扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定(うじさだ)公です。
氏定公は鎌倉公方の武将として活躍し、犬懸(いぬかけ)上杉禅秀と対峙しますが緒戦劣勢だった鎌倉公方軍に在って傷を負ってしまった上杉氏定公は足利持氏公の鎌倉撤退に同行出来ず、❝藤沢で自決❞した事が解っています。
つまり、大庭城の城の規模や、この上杉氏定公のエピソードは戦火で失われてしまった神奈川県の戦国初期の歴史を補完してくれる材料にも成る訳ですが…
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大庭城址は、扇谷上杉家の城の中でも扇谷上杉家の初期の居城だった事が神奈川県には伝承していて、昭和7年に大庭城址を城址公園として指定した当時の神奈川県によって石碑が建てられています。
上杉氏定公の自決の逸話とも整合性が有ります。
残念ながら、大庭城址は現代の❝神奈川県教育委員会の不見識と怠慢❞により、城址公園と言う名前なのに大半が破壊され、城の北半分については完全に破壊され消滅してしまいました。
昭和初期の県知事以下職員が保護対象にしていたのにね…。
その大庭城址の規模は、後(のち)の扇谷上杉家の拠点の河越城や江戸城よりも巨大で高い丘に築かれ、伊勢原市の糟屋館や厚木市の七沢城の様に沼と大河川に囲まれて守りが堅固な巨大城郭でした。
恐らく規模では伊勢原市の三浦道寸の居城岡崎城や、北条家の小田原城に匹敵する規模と堅固さだったと推測できます。
では現在、この城は何も残ってないのかと言うと、実は空堀や腰曲輪等、部分的に現存しているので、今回、公園の風景と合わせて紹介していきたいと思います。
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大庭城址公園には無料の駐車場があります。こっち側には城としての遺構は余り残っていませんが…
ここからの登城をオススメします。
何故かと言うと後(のち)に解説しますが、こちら側の地区の近所に船地蔵と言う御地蔵様があり、そこが大庭城落城の秘密と関係が有るので、それを学ぶ為には此方(こちら)側の現代の施設に立ち寄る必要が有ります。
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駐車場の階段を登ると直(す)ぐに大庭城址公園管理事務所と言う場所が在(あ)ります。
ここは管理者が一人勤務してらっしゃるだけなので、昼食や警備の時間帯は開いていない場合が有りますが時間をズラして散策後に訪問すると中に展示されている貴重な縄張り模型等を拝観出来ます。
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こんな、嘗ての縄張りを推測出来る地形の模型の他に、小名として残る城施設名の航空写真に拠(よ)る解説や嘗ての城址全景等を学ぶ事が出来ます…
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ここの展示は御金はかかってはいませんが、藤沢市が戦国時代に突入する切っ掛けに成った舞台の地で有る歴史や、全国に先駆けて戦国時代の城塞化が行われたのが大庭城址や扇谷上杉家関連の太田道灌公達が関連した城だった事が良く学べる展示に成っています。
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この立地は本当に伊勢原市の糟屋館(扇谷上杉定正の初期の居城)や、厚木市の七沢城に、扇谷上杉家出身の三浦道寸公の居城だった伊勢原市の岡崎城の良い面だけを集めたような城ですね。
又、ここの展示は城見学入門者向けの丁寧で簡略化された優良な展示資料も掲示されていますので、是非、見学して欲しいと思います。
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こんな感じで「石垣の城なんて戦国時代初期の城じゃねぇ~よw」みたいな正しい知識を学べます。
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あと、通年で見れる花とかの資料も掲示されていますよ。
自動販売機・トイレも有るので水分補給と城址見学の敵、トイレで困る事も有りません。
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公園管理事務所側から登ると上の写真みたいな感じでハッキリ言って遺構は破壊され尽くしていますが、公園の区画自体は往時の縄張りの区画を損ねずに行われている様な気がしました。
50cm有るか無いかの段差は、戦国時代初期当時の縄張りのままの区画だと思うので衛星写真と縄張り図で見比べてみましょう…
大庭城址縄張り図 大庭城址公園管理事務所様 久良岐のよし
大庭城址公園Google衛星写真 久良岐のよし
樹木の残っている場所が縄張り図上の土塁や空堀と重なるので、やはり児童公園かされた部分も僅(わず)かな段差は当時の縄張りを変えずに作られたようですね。
さて、では城址公園内の現在の様子ですが…
駐車場や管理棟は城の現存部左上、そこから入り南側に移動するにつてれ残存遺構が多く成ります。
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最初に目に付くのが、この大庭城址残存部を南北に分断し敵の侵入を拒む最終関門だったと思われる❝堀切❞の跡ですね。
現在では風化していたり西側半分は埋められていますが、当時空堀だった事を知るには十分な地形です。
そこを進むと建築物の遺構が有ります。矢倉が組まれていたか、屋敷地だったのでしょうか?
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看板には「今後の全面的な発掘調査」なんて書いて有りますが、神奈川県教育委員会は自分達で城址の大半を土建屋がブっ壊す時に調査もさせず責務を果たさなかった癖に、何の寝言をホザいているんでしょうか?
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まぁ、それでも昭和の高度経済成長期の破壊を、現在の教育委員会の中の有志が、こうやって少しでも心意気を見せてくれるのは熱い物が有りますが。
別に宅地開発をするのは悪い事では無いんですよ、ただ、糟屋館・七沢城・大庭城・岡崎城・玉縄城・衣笠城・笹下城・蒔田城・青木城・小机城の様に特に重要だった場所、壊してはいけなかった場所が有るのに、神奈川県の史跡は外郭団体に管理丸投げしてしまい、そこが天下り先に成っていて市長や県知事の票田である土建屋と直結しているので現代では保護に後ろ向きなんですね。
いくら近代の政治家や役人サンが優秀だったから史跡が保護されて現代人に引き渡されても、左翼系や無文化な首長を有権者が選んでしまうと、自然や文化が破壊される負のモデルが大庭城の北半分の消失でも有る訳です。
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さて、掘っ建て小屋の遺構の傍には、ちょっと茂った小山みたいのがあります。
これは、城好きな人は直ぐに解る、土塁と言う戦国時代の城の土の壁です。
土の城の土塁は現在はどこも風化していますが、当時はちゃんと相撲の土俵みたいに押し固められていて高さも最低2~3mくらい通常ありました。
更に、敵が侵入してくる側には土塁の下に空堀が設けられているので、通常は最低でも堀底から5m位の高さ、角度60度くらいの防御壁として機能した訳です。
大庭城址の土塁は風化した現在で3mはあるので、当時は5mくらい有ったと思います。
空堀も最低でも2m以上の深さが有ったでしょう。
上杉家でも別系統、足利尊氏公と従兄だった宅間上杉家の拠点の一つだった横浜市緑区の榎下城址(舊城寺)も、その程度の堀の規模は有りました。
⇐榎下城址の過去の記事はここクリック!
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この大庭城址も、南端の方には豊富な曲輪群、写真の様な空堀が有ります。
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北半分は破壊されていますが、まだまだ、城址入門の良い教材に成ります。
それを理解する為にも、あの最初に紹介した大庭城址公園の管理事務所の掲示物を熟読し、縄張り図を写メしてから廻ると良いと思います。
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土塁が芝生取り払われて芝生に成った部分も、これはこれで子供連れの家族が御弁当を持って散歩に来たり、ボール遊びしたり良い親子の時間を過ごせる場所だと思います。

さて…
大庭城址自体の説明はここまでにして、大庭城落城の秘密と悲話を現代に伝える城址南端、引地川と支流の合流地点近くの話に移ります。
大庭城址の南側にコンビニと公園が有ります。
その公園は船地蔵公園と言うのですが、その前に地区名の由来に成った❝船地蔵❞と言う御地蔵様がいらっしゃる場所が有ります。
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実は、この御地蔵様が難攻不落の大庭城を、いとも簡単に北条家に落とされてしまった理由に成っています。
別に神通力や仏罰で城が落ちた訳では無いんですよ。
現代では詳しい場所までは解らないのですが、大庭城址は西側の守りが弱く、そこを堅固にする為に元々湿地帯だった東側の様に西側も川を堰(せ)き止めて湖沼にしていたそうです。
その堤防の傍に住んでいた老婆は、ある日、北条家の密偵とは知らず、大庭城の事を調べに来た人間に、根掘り葉掘り沼掘りの秘密を全て話てしまったそうです。
そして口止めに殺害されたと伝承しています。
その後、北条家によって城西側の水が抜かれて干上がった時に攻め落とされたと推測できます。
水不足の季節、夏か真冬に攻略されたんでしょうかね~。
落城年代も、この地域の宗賢院や成就院と言った大寺院が度々火災に遭っていて記録が現存しない為に、今では良く解りません。

地域の伝承では北条家の密偵に殺されたと有りますが、北条家は新井城址攻防でも津久井方面の攻略でも似た様な伝承が有り、❝老人は口が滑りやすいのか老人に城の様子を偵察する習慣が有った❞ようです。
年取ると判断力無く成りますからね。
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但(ただ)し、新井城址の時もそうですが、北条家の密偵が聞いた相手を殺すとは考えにくく、寧(むし)ろ領主が秘密をばらした人間を誅殺したと考える方が自然でしょう。
だってね、集落で殺人なんか犯したら、瞬く間に騒ぎに成って敵方の追っ手に追跡されたり捕縛されてしまいますからね。
新井城址の場合は城の話を漏らした老夫婦は自害し、津久井方面の場合は現在では明治の小桜姫ブームに乗っかって話が小桜姫の伝承にすり替わってますが城主側が話を漏らした小桜姫を殺害した事に成っています。
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そんな船地蔵は、城の秘密を話してしまった御婆さんを供養する為に建てられた御地蔵様の御堂ですが、現在では水害と交通事故が発生しない様に地域と通行人を見守って下さる地域鎮守の有り難(がた)い御地蔵様として、藤沢市の市民に愛されています。きっと、御婆さんも多くの人に愛されて喜んでいるでしょう。

きっと、皆さんの御近所の御地蔵様や御寺や神社や今では公園に成っている場所も、昔は御城だったり凄い歴史人物が大切にした場所が普通に有る筈(はず)です…

余談ですが、最近流行しているポケモンGO、小生も初めてみました。
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ゲーム内では写真のようにポケストップと言う、ボーナスを貰える補給所みたいな場所が設定されているのですが、小生はこれが文化保護に役立つと思っていて非常に有用なコンテンツと評価しています。
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こんな感じで、余り知られていない重要文化財や石仏や神社、或いはキリスト教の教会等も紹介がされています。
小生、近所に昇竜橋が有る事を知りませんでした(笑)。
現代の道路の一段下の廃道にこんな場所が有ったとは…
これで、小生、❝神奈川の景勝50選❞❝神奈川の銘木100選❞に続いて❝かながわの橋100選❞も廻らないといけなくなりました(笑)・

だから皆さんもポケモンGOやりながら(笑)でもやらなくても、御近所を御散歩してみませんか?
きっと、そんな場所は古代の神様や鎌倉武士や戦国武将達と皆さんを現代に繋げてくれるタイムマシーンの役割を果たしてくれる筈です。

では、皆さん又次回の解説記事で御会いしましょう!




好きな人がいる事
好きな人がいること
フジテレビ系放送局で放送開始されました。
小生が休日によく散歩に行く風景が沢山出ます。
1人のパティシエの女の子が、レストランを経営するイケメン3兄弟と同居し、恋をしながら成長していく話です。
好きな人がいる事2
是非、見てみて下さい。

一番上のドラマタイトルをクリックすると、公式ホームぺージにリンクします。

もう一作品、神奈川県が舞台のドラマが始まります…

廃校と成った旧神奈川県立三崎高校と野庭高校の卒業生に捧げる・・・
仰げば尊し
仰げば尊し
小生が住む横浜市に10年くらい前まで実在した神奈川県立野庭(のば)高校と、全国優勝常連だった吹奏楽部の物語です。
野庭高校は劇中で、とんでもない不良高校に描かれていますが、実際横浜市内で下から1、2番目の学力の普通科高校でした。
その高校を、これまた実在した❝中澤忠雄❞先生をモデルにした、寺尾聡さん演じる樋熊迎一が吹奏楽部を率いて学校を変えていく物語です。
仰げば尊し1
その学力底辺の野庭高校は、中澤忠雄先生の率いる吹奏楽部があれよあれよと言う間に全国で連戦連勝の優勝常連校に育って行き、全国から吹奏楽を志す中学生が受験する音楽の名門高校に生まれ変わった話です。
2016年7月17日放送開始です。詳しくは画像上のドラマタイトルをクリックして公式ホームページを御覧下さい。
仰げば尊し⇐クリック!
きっと面白いので、是非、皆さんに見て欲しいと思います。

この野庭高校は劇中では❝美崎(みさき)高校❞に名前が変わっています。多分、ロケ地が神奈川県三浦市三崎町だからでしょうか?
猿島が見える海辺も出るので横須賀市の馬堀海岸もロケ地の様ですね。他にも日本武尊と弟橘媛神話の舞台の走水海岸、三崎町三崎漁港の風景も登場していました。
学校の校門前や屋上の風景は野庭関城址である野庭団地が見えるので、本当に旧野庭高校で撮影している様です。

さて…
小生のブログは腐っても歴史解説と郷土史とグルメ探訪のブログなので野庭高校に関連する歴史を…

余談ですが、このドラマの舞台となる美崎高校のモデル野庭高校の一帯は鎌倉時代に築城され安土桃山時代まで城塞として活用された❝野庭関城❞の城址なんです
旧野庭高校の西を流れる川と畑地は、鎌倉時代~戦国時代水掘りと水田、沼掘りでした。丁度ドラマの校門のシーンで見える一段下の茂み辺り一帯ですね。屋上のシーンで見える野庭団地の中心地の野庭中央公園が本丸と伝わっています。
位置関係はこんな感じ…
旧神奈川県立野庭高校と野庭関城の位置関係 久良岐のよし
残念ながらアホの神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が保護を怠った為に城址は団地建設で破壊されましたが、一時、中澤忠雄先生と吹奏楽を志す生徒達によって日本に誇る❝音楽の拠点❞として有名に成ったのはせめてもの先人への手向けに成ったでしょうか?
この城を築城したのは、義務教育で誰もが習う鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公です。
戦国時代には名奉行として有名な安藤良整公や北条氏康公の近臣だった石巻康保公等が城将を務めた城でした。
この城は、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公と御子息で二代将軍の頼家公が暗殺された(小生は頼朝公の死因は稲毛氏と北条氏によるヒ素中毒毒殺未遂後の直接暗殺と推測している)後に義挙した泉親衛(いずみちかひら)公と和田義盛公に同調した土肥実平(どいさねひら)公の一族郎党が野庭関城に籠城し、壮絶に討死にした忠義の城としての歴史も有ります。
そんな誠実な名将達の城跡の高校に赴任した中澤忠雄先生が底辺高校の生徒達の才能を引き出して全国優勝するまでに導いたのは、浪人だった源頼朝公に忠義を尽くしてとうとう鎌倉幕府を開闢せしめた和田義盛公や土肥實平公の偉業を再現したかの様な物語ですね。

和田義盛公は鎌倉市の材木座で討ち死にしてしまいました。
しかし、野庭城の周辺には3軒ほど和田姓の御子孫が昭和期まで在住されていました。
和田義盛公と配下の武士達は鎌倉市の和田塚(正式名:無常堂塚)に葬られました。
和田塚(無常堂塚)の場所 久良岐のよし
和田塚には地表に露出した当時の武士達の人骨片がムキ出しに成っています。
近隣の学校の❝校庭でキラキラ光る砂のようで砂とは違う物も、人骨が破砕されて光に反射している❞のだと、小生や鎌倉市の古老と似たような知識を司馬遼太郎先生も❝街道を行く❞シリーズの三浦編で紹介していたと思います。
因(ちな)みに鎌倉市は、何処(どこ)を掘り返しても人骨が出ます。そりゃそうですよね…
和田合戦・宝治合戦・新田義貞による鎌倉攻め・中先代の乱・足利尊氏公の鎌倉奪還戦等々、歴史の節目毎に多くの武士が戦って亡く成ってますから。
でもね、❝心霊現象がどうとか言う偽霊能者❞は根本的に解ってないんですよ。
武士は戦死する事も勝つことも「武運」と言い信念の末の戦死は名誉な事であった訳ですから、仮に彼(あ)の世が有っても人を祟ったりはしません。
寧(むし)ろ神道の考え方では荒神様は強力な守り神に成って下さる訳ですし、現在の日本の繁栄や、鎌倉で仲良くデートするカップルを見たら、和田義盛公も平和な時代の恋人を微笑ましく見守って下さる事でしょう…
それは野庭高校の生徒達に吹奏楽で天下を取らせて下さったようにね。

ささ!
歴史は現代に繋がりますが、歴史を映像化するのもドラマにしか出来ない事です。
現代の江ノ島の美しい風景や、吹奏楽で落ちこぼれ高校から日本一の高校に成った野庭高校の歴史、是非!ドラマで楽しんでみて下さいな♪

では!次は先週末の休日雑記の続きか、大庭城の紹介記事で御会いしましょう!

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