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タグ:藤沢市

前回の記事では大庭神社の論社(推定地)の一つで伝承上の元宮(もとみや=元々の所在地)だと伝承する❝大庭神社舊跡❞と近くの❝神奈川の銘木100選の一つ臺谷戸稲荷の椨の樹❞の風景を紹介しました。
※前回の記事は「ココ」←クリック!
さて…
今回はいよいよ、現在にも江戸時代の建築遺構が多く残る現在の大庭神社と周辺の風景を写真と解説で紹介したいと思います。
現在の大庭神社は、人口の少なく成った大庭の引地川沿いにヒッソリと佇んでいでいます。
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一見すると余り目立たない普通の神社に見えてしまいますが、ここは前回、前々回の記事でも解説した通り、平安時代の醍醐天皇達から見ても古い歴史を持ち保護すべき神社として延喜式神名張に記載された神社の現在の所在地で、凄まじい由緒と権威の有る神社です。
この神社の現在の所在地は、嘗ては目の前に海の入江が広がっていました。
大庭神社周辺
※拡大して見て下さいね。
画面左に大庭神社の所在地がマークされています。
白い部分が古代の海です。
元宮の大庭神社舊跡とは、湾を挟んで反対側に在ります。現在の大庭神社の在る丘は、平安時代末期に成って鎌倉景正(かまくらかげまさ)公によって開拓された地域です。古代の史跡は全て古代の湾の左岸、つまり大庭神社の舊跡側から出土しています。
さて、何故、現在地に大庭神社が移ったかは【前編】で解説した通りです。
※【前編】解説記事は「ココ」←クリック!
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鎌倉時代末期~室町時代初期の武将で、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の母方の従弟だった山名時氏公が1352年頃に恐らく元は大庭地区に所在した成就院と言う御寺を現在の稲荷地区に移転させ再興開基した際に、同寺が別当寺として管理を任せていた大庭神社も一緒に舊跡=元宮から現在地に移転させたと考えられるからです。
余談ですが、山名時氏公は横浜市港南区上永谷の永谷城主宅間上杉家の御先祖の宅間上杉重兼公の従兄でもあります。つまり、足利家・山名家・宅間上杉家は親戚なんですね。
稲荷の成就院と大庭神社の歴史を裏付ける様に、成就院の元の寺名は院号では無くて❝宝染寺❞であった事が伝わっていますが現在はその寺名が使われていません。つまり前身寺院が移転して来て名を変えた可能性が成り立つ訳です。
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この様な例は他にも良く有る事で、例えば戦国時代の北条家の重臣の笠原信為公の造営した雲松院と言う御寺が横浜市港北区に在りますが、元々は神奈川区の神大寺の別院的な御寺だったのが神大寺が後に焼失したので神大寺の機能ごと雲松院に移転した歴史が有ったりします。
※笠原家菩提寺の雲松院の記事は「ココ」←クリック!
他にも大庭神社と同じ延喜式内社の比々多神社や高部屋神社等も古代の位置から遷座している歴史が有ります。
その辺にも御興味が有る方は【カテゴリー:延喜式内社と歴史千年以上の古社】←このの中から記事を探して見てみて下さい。
さて、藤沢市稲荷の成就院解説は又、別記事にするとしましす。
と山名時氏公の解説も後回しにして、先に大庭神社の風景と施設を紹介します。
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大庭神社の石の大鳥居の前には、自然公園が広がっています。
引地川親水公園周辺 久良岐のよし
引地川親水公園と言う、引地川の湿地を利用した広大な自然公園で、稲荷の大庭神社の前には湿生園もあり子供達に湿地帯の植物を観察せるのに適した場所であり、都会の藤沢市街地の直ぐ近所で子供が自然に触れられるとても大切で貴重な場所でもあります。
…藤沢市土木事務所、公園課の方々Good Job!
さて、その引地川親水公園の前の鳥居をくぐり、階段を登ると…DSC_0346
写真撮影に行った時は3月下旬で、綺麗な木蓮(もくれん)の花が咲いていました。
参道は鳥居の在る階段を上ると左に折れて社殿へ続きます。
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参道の入口には、格式の高さを感じさせる立派な灯篭が在りました。
氏子サン達、頑張って醍醐天皇の御意思を継いで大庭神社を守って下さっています。
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推測するに、延喜式内社の格式と、足利家の縁戚で室町幕府重鎮と成った山名家の関与が有った神社なので、この周辺、神社境内と平行する削平地と裏の傾斜地は往時は全て大庭神社の境内地だったのだと思います。
丘の上は現在は大企業の工場に成っていますが、この神社の境内と平行した削平地と傾斜地だけは緑が保存されています。
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さて、延喜式内社の解説で良く話すのですが、明治時代に明治政府によって神仏分離令・一村一社令・神仏分離令と言う愚かな政策と、伊勢系統の神様を優遇する政策が行われたせいで歴史の古い多くの延喜式内社を含めた神社と御寺が破壊されたり、❝合祀(ごうし=別の神社に神様を移す)❞と言う名目で聖地を御神体とした神社が消滅させられました。
明治政府には森有礼等の日本文化の破壊を目論んだ勢力が多く入り込んでいて、天皇系統の祖先神を優遇するとの宗教改革の名目で多くの神社仏閣が破壊され聖地霊場も埋め立てられたり掘削されて姿を消してしまいました。
何とか古(いにしえの)社(やしろ)に伝わる文化を保護しようとした方々がいらっしゃって、それが平氏や源氏の武家の御子孫であられた東郷元帥や乃木大将達でした。
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三浦半島の横須賀市走水に在る日本武尊と弟橘姫の神話の舞台の走水神社と言う神社には、現在もその歴史と明治の元勲達の逸話が残っています。
因みに首相も務めた伊藤博文公も横浜市金沢区の野島の別宅から、隣接する横浜市磯子区氷取沢の寶勝寺と言う名の御寺に良く通われていた歴史と遺物が残っていて、どうやら❝明治の元勲達と違う勢力❞が暗躍して、国家神道と言う新しい宗教観が神道に導入され、仏教徒の分離も為(な)されたたようです。
そして多くの延喜式内社は縄文文化を受け継いだ神様が多く、伊勢系統の神様を御祭神としていない場所が多かったので、歴史の浅い伊勢神道系の神社の管理下に置かれ衰退してしまった訳です。

しかし、古代からの神事を守りながらも実は多くの延喜式内社には奈良時代~明治時代に成るまでの日本の千数百年来の伝統が守られている場所が多く有ります。
仏教の文化も異文化でも良い物として、日本の神様達の神社の中に受け入れて融合した神仏習合の日本文化です。
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だから、この大庭神社には成就院が別当寺の役割を解任された現在も、鐘楼が保護されています。
つまり延喜式神名張を編纂させた醍醐天皇達天皇家の方々本来の寛容性の高い価値観を守る神社が、偶然にも宮司様不在に成っている大庭神社や他の延喜式内社には多く残っている訳です。現代の比較的新しい神社では縄文~弥生~古墳時代からの聖地も神事も無い上に、神仏混交時代の遺物や行事も残らない場所が多く古代から大庭神社をはじめとした延喜式内社とは大分、様子が異なります。
さてこの鐘楼の前を通り過ぎると、いよいよ社殿です。
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神社なのに瓦葺(かわらぶき)なので、建物は江戸時代中期以降か最近の建て替えが有った様ですね。
歴史があり格式の高い古社は、金銭的に余裕が有る歴史偉人との関わりから板葺(いたぶき)、それも檜皮葺(ひわだぶき)か、茅葺(かやぶき)の屋根が奉納されています。
ここ大庭一帯は、神奈川県下でも過疎に成りかけていた場所なので、寧(むし)ろ瓦葺でも新しい立派な屋根を奉納で来た氏子サン達は本当に身を削って神話時代(縄文末期)からの神社文化に残った伝統を守ってらっしゃると思います。敬服するばかり。
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拝殿の注連縄(しめなわ)も立派です。本当に氏子サン達の努力の賜物。
神様も喜んで下さるでしょうね。
縄文文化の伝統が現存する神社では、この注連縄に莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)と呼ばれる海藻が更に装飾されます。
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この海藻が後に海の遠い大和国に朝廷が転居した頃に、代用品として紙垂(しで)が作られる様に成った事は想像に容易(たやす)い事ですね。
でも、そんな古代の歴史を一度断ち切ってしまった神道では、この伝統が伝わっていない場所が大多数で、代用品の紙垂が「稲妻に似てるから邪気払いとか稲光の梅雨の季節の豊穣祈願」とかバラバラな説明がされているようです。
古代の大王(おおきみ)/大君、その先人達の古墳が海に近い九州や河内や摂津の各地に在る歴史事実を考えれば、莫告藻が紙垂に変化したのは直ぐに理解出来る話です。
聖地霊場や神様に成られた先人の古墳の大切さよりも、神社の建物を作る事と神器の鏡を奉るを重視した明治の国家神道だけ学んでも解らない事です。
考古学や地理、神話の神様の御陵の現在地と古代の海岸線を知らないと繋がら無いですからね。
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順番があべこべには成りますが、大庭神社の御祭神は…
●神皇産靈(かみむすび)の神
女神様で、出雲大社の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=素戔嗚尊の子孫を助けた神様です。つまり、長寿や治病に御利益が有りそうな神様ですね。

●熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)…元宮の主祭神

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成る。遅くとも飛鳥時代より前の造営。

●大庭三郎景親(おおばさぶろうかげちか)公
元宮や稲荷地区の大庭神社一帯を平安時代末期に治めた在地領主の大庭景親公が御当地の人々によって死後、御祭神として祀られたと考えられる。
大庭氏から領土の守護神として崇拝されたのだろう。それ故に元宮は大庭城の近くに在る。

●菅原道眞(すがわらみちざね)公
江戸時代の天明3年(1783年)秋に地頭(じとう=土地の所有者)の諏訪部定太郎と、名主(なぬし=町長)の山崎六郎兵衛(ろくろうひょうえ/ろくろべえ)包高(かねたか)によって、勧請された。
実は、この西暦1783年は旧暦7月8日(太陽暦の6月くらい?)に浅間山が大噴火している。大噴火の際は雷雲が火口に発生するので、平安時代に雷神として神格化れた菅原道真公を奉(たてまつ)る事で天災から逃れたかった当時の江戸時代の人々の思いが伝わる御祭神だと推測出来る。
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一見して、宮司様も御不在、しかも少し寂しい所にある神社ですが凄い歴史が有るでしょう?
きっとね、皆さんの御近所にも、同じ様に神社や御寺の大きさに関わらず凄い歴史が有って思いもよらない神様のモデルの偉人や武将達との所縁(ゆかり)のある神社や仏閣が有ると思いますよ~。
そして、近所の公園や山は、実は武士達が命を懸けて領民と農地を守る拠点だった旧街道沿いの古城の城址かも知れませんよ?
だからね、少し、御近所の神社や御寺や山を散歩して見ませんか~?
きっと、小さな御社や御地蔵様も、神様や先人と皆さんを結び付けるタイムカプセルに成ってくれるかも知れまんよ~♪

では、又、次の記事で御会いしましょう!
次は大庭城か、藤沢市稲荷地区の成就院と山王社かな?

藤沢市大庭地区が、古代から戦国時代の初期まで神奈川県内でとても大切な場所だった事を知る人は、現代では多くは有りません…
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その大切さがどれほどの物かと言うと、大庭には縄文時代の遺跡が大量に出土しているだけでなく平安時代の醍醐天皇の時代、延喜年間の日本人から見ても「古い」「聖地」として認識され後世の人間に「保護しなさい」と言う意味で❝延喜式神名張❞に記載され我々に託された神社の一つ❝大庭神社❞が有るんですね。
上の写真が大庭神社です。
実は大庭神社は藤沢市内に2箇所あり、江戸時代に横浜の殿様間宮家の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌を編纂した間宮士信(まみやことのぶ)達の新編相模風土記公でも、この件を取り上げています。

その2箇所の場所は…
藤沢市大庭…
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大庭神社舊蹟(きゅうせき=旧蹟)、つまり元々大庭神社が有ったとされ、後に熊野社と呼ばれた神社。
そして藤沢市大庭の大庭神社。
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新編相模風土記稿で、ここを取材した記者は、まだまだ考古学の❝こ❞の字も学問としての考古学が発展していなかった時代の人間なので、古代の大庭の様子も解らなかった結果、「舊蹟は元宮とは疑わしい」と言う事を言ってしまっています。
でも小生、この江戸時代の学者を論破できます「解ってねぇ~なオマエ(笑)」とね。
小生は断言します。
古代関東開拓の歴史と、旧跡が熊野社と呼ばれた事を証拠に大庭神社舊蹟こそ本来の大庭神社の元宮だと。
先ずはコレ↓を見て下さい。
大庭神社周辺
大庭神社と大庭神社舊蹟の位置を、古代の海岸線に重ねた地図です。
白い部分が神話の時代に海だった所」です。
解り易いように現代の鉄道も表示します。
これを見ると解ると思いますが、現代の藤沢市の中心を為(な)す平地は古代の海底です。
この藤沢本町一帯の地域が開拓されるのは大分遅く平安時代末期、鎌倉時代の少し前の話です。
もっと具体的に言うと、藤沢本町を開拓したのは平安時代の名将、鎌倉景正公です。
鎌倉景正公については以前に御霊神社の解説で紹介したので興味の有る人は当該記事を御覧下さい。
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※鎌倉景正公の記事は「ココ」←クリック!
さて、大庭神社に話を戻します。
大庭神社周辺
古代、日本人が住めた地域は現代人から見て丘や山の上の地域だけです。
だから縄文時代~弥生時代~古墳時代の遺跡は、山や丘の上から出てくるんですね。
そこで大庭神社の位置を見ると、やはり古代の海岸線にあります。
左上の同じ延喜式内社である宇津母知神社も、やはり古代の入江の付け根に所在しているのが解ると思います。
この海岸線は縄文時代の海岸線です。つまり古い神社と言うのは日本人本来の縄文文化を継承している場所でもある事が解るかと思います。だから日本人は沖縄やアイヌの人と古代は同族だったんですよ。

さて、では何で小生が大庭神社舊蹟を元宮だと思うか、状況証拠を箇条書きにしてみます…
1,縄文時代の遺跡は新旧大庭神社の在る入江の左岸から多く出ている。
  西岸に在る平安末期~戦国時代の大庭城の丘も縄文時代の遺跡が出土している。
2,東岸が開拓されるのは平安時代以降。
坂東平氏の祖である平良文(たいらのよしふみ)公が村岡城址を拠点に開拓を始めた。その後、東西北に子孫が拡散して行き関東全域に開拓地を広げていき武士文化の基礎を坂東平氏が築いた。
3,大庭神社舊蹟が❝熊野社❞と呼ばれたから。
熊野社とは新鮮で清潔な水の湧く場所や滝を聖地として開かれる神社。現代人も誤解しがちだが古代人は川の水をガブガブ飲んでた訳じゃなくて、自然湧水の有る地域にいついています。そりゃそうです、古代は抗生薬なんて無いですから腹壊す(=感染症や寄生虫)事は死に直結するんですよ、川の水なんかそのまま飲んだら。
だからこそ、井戸の掘削技術を手に入れた平安時代に至っても古代の聖地である自然湧水の有る神社を霊場として崇敬していた事実が有る。
つまり、大庭神社舊蹟が熊野社と呼ばれた以上、付近に古代は遊水地が有ったはず。遊水地が有れば古代人が住み着いた訳で、事実縄文時代の遺跡が周辺に在る。
…まぁ、挙げればキリが無い。

では、何で現在の大庭神社が新宮だと推測するかと言うと、理由は上記の2が絡んできます。そして大庭神社の別当寺だった稲荷山成就院宝染寺が原因だと思います。
成就院は、室町時代初期に山名氏公が造営した真言宗の御寺です。真言宗の開祖弘法大師空海和尚は日本神話や神様も大切にされた人物だったので、明治時代以前まで真言宗自体が神仏習合の要素の強い宗派でした。
よく有る事なのですが、武士が自分の領地の中心に守護神として近所の御利益の有る神社を移転させる事が良く有りました。室町時代にも成ると本来の自然信仰から御神体や偶像崇拝へと日本の宗教観も変化していたので、当時の人は罪悪感も無く聖地と神社を切り離してしまう事が有りました。
同じ延喜式内社の高部屋神社もその典型ですね。
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※高部屋神社の記事は「ココ」←クリック!
平安末期、源頼朝公の随兵も務めた糟屋有季(かすやありすえ)公は、本来、大山山系の渋田山に所在した高部屋神社が御自分が支配した糟屋郷の鎮守に相応しいとの独自判断から自分の居城だった千鳥ヶ城(糟屋城)の丘陵を通る大山街道前に遷座した歴史が有ります。
平安時代にも成ると、御神体が聖地で有る事を認識できなく成っていた人々も多かったと言う事でしょうね。
だからこそ、醍醐天皇が延喜式神名張を編纂させて保護すべき神社を指示したんですがね~。
源頼朝公も醍醐天皇と同じく自然信仰や古代の宗教観を引き継いでらっしゃったので、大山や富士山を登山し頂上で礼拝しています。

又々、解説が大庭からずれていたので話を大庭に戻します。
戦国時代初期まで鎌倉が東日本の首都だとすれば大庭は南関東の首府だった時代が有るんですね。
鎌倉公方足利家に忠誠を誓っていたのは、戦国時代の関東管領山内上杉家ではなくて、鎌倉公方配下の扇谷上杉家と宅間上杉家でした。
その内、宅間上杉家は足利尊氏公と母方従兄弟の血縁関係であり、扇谷上杉家は鎌倉公方の本拠地である相模国を拠点にしていました。
その初期の居城が藤沢市の大庭城と伊勢原市糟屋(上杉)館だったんですね。
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写真は大庭城址に昭和9年、当時の神奈川県知事や職員や教育者が、この城址の重要性を後世に伝える為に建てた石碑です。
残念ながら現代の教育委員会は無知無文化な上に土木事務所は❝土建会社に不利に成る事を妨げない様にする反日本文化的❞な連中なので、大庭城址も北半分が宅地開発され消失してしまいました。
大庭城址の南西は船地蔵地区と呼ばれ、大庭城落城の時の詳細な状況が伝承している船地蔵が地名の由来です。
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東の引地川は名前からして水掘りに水を引き込める程の河川の水量があったようです。
こちら側、船地蔵地区は古代から自然湧水の沢があり、そこを堰き止めて大庭城西側を湿地にしていた事が伝承から解ります。
つまり、寄生虫の危険の有る川の水では無く、古代人が飲料水に用いる湧水池が在った可能性が高い地域なんですね。
だからこそ縄文遺跡も、こちら船地蔵地区側や大庭城址から出土する。
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上の写真は扇谷上杉家の重要拠点だった糟屋館(上杉家の大城郭)の跡地の台地ですが現在の神奈川県の黒岩知事は、この糟屋館の丘を破壊して県道を通そうとしています。
そして、教育委員会は地元住民が伝える城址の地名を無視して、既に開発された産能大学の敷地だけが城址だと日本城郭体系や郷土史と異なる戯言を並べて黒岩知事の破壊行為支援をしているようです。
さて、こんな訳で県央の伊勢原市~大庭は古代から中世、関東で重要な場所だった事は御理解頂けたと思いますが…

糟屋館には大手を守る寺院、蟠龍山洞昌院公所寺が有ります。
実は、大庭神社舊蹟の在る船地蔵側には大庭城の鎮護だったと思われる寺院が有ります…
しかも山号が伊勢原市糟屋の寺院と同じなんです。
その名も❝蟠龍山❞宗賢院。
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この二つの御寺には更に凄い共通点が有ります。
…両方とも御寺の寺紋(じもん=御寺の家紋)が太田桔梗なんですね。
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上は藤沢市大庭の宗賢院。拡大して見ると太田桔梗紋が屋根の上に見える。
下は伊勢原市上粕屋の洞昌院、太田道灌公の菩提寺。同じく拡大して見ると、そこかしこに太田桔梗があしらわれている。
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この2つの御寺は、大庭城、糟屋館の鎮護の役割をしていたと推測できます。
扇谷上杉家は禅宗の臨済宗の信徒だった。同じく太田道灌公も鎌倉の建長寺で修業した臨済宗の信徒だった。しかし、この2つの御寺は北条家の時代に曹洞宗として中興している。
宗賢院に関しては、曹洞宗以前の記録が残っていないので開基を1505年としている。しかしながら、平安時代末期の当地大庭の領主大庭景親公の遺物が寺宝として伝わっており、更に太田道灌公ゆかりの桔梗紋が寺紋である事から、現在では名の伝わらない太田道灌公が支援したであろう前身寺院が間違えなく平安時代末期には存在した事が確実なんだな。
では何故現在、宗賢院も洞昌院も同じ禅宗でも曹洞宗かと言うと、太田道灌公亡き後に、道灌公をリスペクトしていた北条早雲公が曹洞宗の信徒で、北条早雲公が後に関与した寺院の殆どが北条家の庇護下に入る際に曹洞宗に改宗している。だから大庭城や糟屋館の落城後に御寺を復興したのは北条早雲公や北条氏綱公達だったからこそ現在は曹洞宗なんだな。

何でこの宗賢院と洞昌院の歴史に話を掘り下げたかと言うと…
これで、大庭地区の昔は海の入江だった東西どちら側が先に発展して来たか、関与した偉人達の足跡を辿(たど)る事で推測する事が出来るでしょう?完全に西側から発展してますね。
いよいよ本題です。
大庭神社の舊蹟が元宮だとするのは、ここまで話した通り県央から徐々に文化は東に伝播して行ったからです。
舊蹟と現大庭神社の間には湾があり、大庭城址や船地蔵地区の古代の湾の西側から人が住み始めたのは出土した史跡から明白である以上、考古学的にも大庭神社舊蹟=元宮=本来の大庭神社が有った場所=現在の大庭神社は後の支配者によって遷座された…
と周辺状況をまとめると容易に推測出来る訳です。

完全に西側から発展してるんですよ、縄文時代の古代だけでなく中世もね。
東側が開拓されるのは、坂東武者の鑑や軍神として鎌倉武士達に崇拝された鎌倉景正公が本藤沢を開拓して以降の話し。
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※写真は鎌倉市の御霊神社。本藤沢を開拓した鎌倉景正公を御祭神として祀る神社。
そして恐らく、大庭神社が現在の地に移されたのは、明治時代まで別当寺であった成就院との関係によると推測出来るんですね~。
下の写真が大庭の成就院。
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この成就院、足利尊氏公と母方の従兄だった山名時氏公が開基したと伝わっています。正確には山名伊豆守。
開基(かいき=寺社を造営する事)は1352年頃とされています。
…つまりね、平安時代の人から見ても古いと思われていた古代から存続する大庭神社の別当寺の割には歴史が凄く浅いんですよ、この成就院は。
でも、足利尊氏公や山内上杉重房公や宅間上杉重兼公と縁戚の山名時氏公の開基だから、否応無しに格式が高く成る訳です。そうなってくると当然、付近の神社の別当寺に成って管理業務を担う様に成った訳ですよ。
でも、御寺の傍に管理する神社が無いと不便でしょう?そこで二つの仮説が立つ訳です。
1、御寺の傍に大庭神社を移しちゃった。
2、本藤沢側の台地が後に発達したから、元々船地蔵地区に在った御寺が本藤沢側に移転して、その際に一緒に神社が移転されられた。
小生、この仮説を立てた時に気が付いたのですが、藤沢の成就院は御寺の山号が稲荷山です…
しかし御寺の有る地区は地名こそ❝稲荷❞ですが、この地区に稲荷社が在った歴史は無い!
ところがところがぁ~♪
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船地蔵地区の大庭神社舊蹟の直ぐ近くには❝臺谷戸稲荷❞が鎮座しています。
しかも、こちら側の大庭神社舊蹟の大庭神社(熊野社)も別当寺は成就院でした。
…もう、これで状況証拠は集まったでしょう。
恐らく、この地区に成就院の前身だった宝染寺が在った。そして当然、大庭神社舊蹟が元宮であり、古代から船地蔵地区に存在したので、宝染寺が別当寺に成った。
その後、1352年頃に鎌倉に近い現在の稲荷地区に山名時氏公が何らかの関わりが有って、宝染寺と大庭神社を東側の丘の麓に遷座し、宝染寺も成就院と院号に寺名を改める事に成ったが山号は船地蔵地区に在った時のまま稲荷山を引き継いだ。
結果的に成就院が移転して来た丘陵地帯の地名が御寺の山号をとって❝稲荷❞と呼ばれる地区に成った。
だから、現在の大庭神社は若宮で、地元の伝承の通り江戸時代に熊野社と一時期呼ばれた大庭神社舊蹟こそ元宮そのものだと推測が成り立つ。
そして、この大庭神社舊蹟や臺谷戸稲荷や大庭城の在る、古代の湾の西側の陸地からは縄文時代~弥生時代の史跡が出土している…
ダメ押しすると、大庭神社舊蹟の住所は藤沢市❝大庭❞。
つまり、伊勢神宮直轄地だった大庭御厨(おおばのみくりや)は大庭神社舊蹟の側一帯の丘を指す訳ですよ。
どうでしょう?
…以上が周辺の歴史ですが、もう元宮は大庭神社舊蹟で決定ですよね?
江戸時代の間宮士信先生の弟子の三文学者が、江戸時代に東海道が通っていた本藤沢側が栄えていたからって勝手に地元の伝承を否定したのは、現代の発展した考古学と古代からの地勢を見れば誤りだったのが良く解る訳ですね~。

次は大庭神社元宮と近所の稲荷社を写真で紹介します。
では次回の記事で御会いしましょう~♪

藤沢市打戻地区に宇津母知(うつもち)神社と言う、とても古い神社が在ります。
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それはそれはとても古い神社で、古文書に記録では既に西暦500年より前、雄略天皇の時代、つまり古墳時代には既に存在した事が確認出来ている神社です。
この宇津母知神社の在る現在の藤沢市打戻及び神奈川県中央部周辺は、古墳時代当時大きな入江が可成り内陸まで入り込んでいました。
古代の海岸線と延喜式内社 久良岐のよし
御覧の通り、日本神話より遥かに昔の縄文時代6000年前の海岸線に、延喜式内社と式外社は存在しています。
ただ1社、前鳥神社だけを除いて。
実は前鳥神社が他の延喜式内社と違って縄文時代の海の真ん中に在りますが、これは既に考古学的、地形、文献の3つから説明が付きます。
まず、現代伝わっている「前鳥神社」の名前が誤りです。平安時代の誤記が元で現在の名前の字が変わってしまっています。正しくは「前❝島❞神社」だった様です。
…つまり、昔の字の意味からすると佐賀牟国の❝海の前に浮かぶ島❞で島自体が御神体だった神社と解釈出来ます。では、本当に島だったのでしょうか?
前鳥神社の地形 久良岐のよし
はい、前鳥神社は本来の前島神社の名の通り、相模川の浸食を受けない自然堤防の上に立つ神社でした。
つまり、海に浮かぶ島だった地形上に在る訳です。
そんな訳で、延喜式内社を回ると、悠久の縄文からの文化を受け継いで弥生時代に何某かの偉人達の事績が神話に成って日本文化として僅(わず)かでも現在に伝わっている事が容易に想像出来ますね。
さて、延喜式内社が古い神社と言うのは解ったと思います。
そもそも延喜式と言うのは平安時代の醍醐天皇が纏めた政令で、その内の延喜式神名張と言う文書に当時の人から見ても古いと思っていた神社を保護の為に列挙したのが延喜式内社と言う訳です。

そこまで話した所で、話を宇津母知神社に戻します。DSC_0422
この神社は交通に若干不便な農村に在るので車で行くか本数少ないバスで行ってから徒歩に成りますが、駐車場側から行くと入口近くには立派な御神木が出迎えてくれます。
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そこを通り過ぎると、表参道に回れます。
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この宇津母知神社の境内は、延喜式内社だけあり可成りの広さが有ります。
ですから、参道も歩くと普通の神社より長く感じます。
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現在は鎌倉に近く小田原に向かう途上に在る事もあり、武士達の度重なる戦火に巻き込まれたせいか敷地だけ立派で古来の建物は現在では残ってはおらず、氏子サン達の努力で再建された御社と社務所が鎮座しています。
しかしながら、明治政府による神仏分離令や国家神道による統制以前の建築遺産が表参道とは異なる西側に残っています。
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鐘楼ですね。
明治政府によって伊勢神道を基本にした国家神道で神仏習合の歴代天皇家が守って来た価値観は破壊されましたが、奈良時代~江戸時代の終わりまで日本人は天皇家と共に、弁財天様などインド神話由来の神様や仏教文化もひっくるめて日本の神様として受け入れて大切になさっていたんですね。
現在の表参道が南側に在るのは、日本神道のセオリーで社殿は南側を向かせているので、その社殿に合わせて参道を付け替えた為でしょうか?
本来の街道は西側に在るので、この鐘楼の在る昔の表参道も西側に面しています。
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鐘楼の近くには、昭和の土地改良の石碑がありました。
この昭和の土地改良は、それまで水稲耕作に向かなかった全国の土地を稲作に出来る水田に生まれ変わらせましたが、同時に小生達歴史オタクから見ると弊害もありまして本来の古道や城址の痕跡が完全に破壊された場所も少なくなかったんですね。
とは言っても、国民が飢えなく成る事が一番大切なので、これはこれで偉大な事業だと思います。
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その土地を耕しながら、この土地の人々が社殿が老朽化する度に再建し、古代からの伝統と神話に成っている先人の事を伝えて下さったんですね~。
本殿は現在はトタン屋根です。
多分、昔は茅葺か檜皮葺だったんだと思いますが、信仰心の薄くなった現代人の更に過疎に成った現在の藤沢の農村では、大変高価な茅葺や檜皮葺を維持するのは困難だったんでしょうね。
でも、こうして社殿を守って下さっている事が大切なんですね。
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因みに、この規模の屋根を茅葺で吹き替えると4000万円超かかるそうです。これは以前、横浜市栄区の古民家、旧小岩井家住宅の職員さんに教えて頂きました。
※小岩井家住宅の記事は「ココ」←クリック!
さて、本殿の左隣には神輿か山鉾(だし)をしまってある建物でしょう。
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右側には神楽殿。
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この規模の神社に宮司様が常駐していないのが真に残念。
しかし、神奈川県は何故か醍醐天皇以来歴代天皇や統治者が御守りに成られた延喜式内社を伊勢系の神社より荒廃してしまったり宮司様がいらっしゃらない場所が多い様です。
ですから宮司様では無く氏子様達が良く守ってらっしゃっておられる神社が少なくありません。
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この狛犬様達は、造りからして江戸時代~明治時代初期の彫刻でしょうか?
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下の基礎部分に何某かの刻銘が有るのですが、石が剥落して読めない字も多いですね…
「宮〇家」は❝宮丞家❞か❝宮司家❞と書いて有るのかな?
その下は二世彦次郎と書いて有りますね~。
姓の刻銘が無いので戦国時代は武士だった家系の江戸時代の地元の豪農の氏子サンとかかな?
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社務所は立派なのですが、電話してもやはり宮司様御不在で御朱印は頂けませんでした。
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残念、再訪する前にアポとれたら良いなぁ~。
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う~ん、この御祭りに合わせて行くしか無いのかな?
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宇津母知神社の御祭神は稚産霊神か、若日下部命、天照大神。摂社の菅原道真公と御稲荷様。
んな訳で、菅原神社。
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実は関東には菅原道真公の御子息が御二人移住して来た伝承の有る神社があり、それが横浜市港南区の永谷天満宮と茨城県坂東市の大生郷天満宮です。
大生郷天満宮は菅原道真公の御三男の菅原景行公、永谷天満宮には五男菅原敦茂公が移住して来られた伝承が有ります。
小生は、周囲の武士団の子孫の名前から関東に来たのは菅原景行公の説が特に有力だと思っています。
関東の平良文系の坂東平氏の武士団が盛んに天神様=菅原道真公を信奉していた節が有ります。
どこの城の址の近くにも、古い城程、御稲荷様と天神社が有りますからね。
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そして稲作と所縁深い御稲荷様。
これも平氏系の武士団が大切にした神様。関東は平安時代に鎮守府将軍平良文公の御子孫が水田を開いた土地が多いですからね~。
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この藤沢市しかり。
藤沢を開いたのは、平良文公の御子孫で、名将の鎌倉景正公です。
鎌倉景正公も又、鎌倉市の権五郎御霊神社で軍神・縁結び・眼病治癒の神様として祀られています。
※御霊神社の記事は「ココ」←クリック!
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意外なところに古代に続く凄まじい歴史を持つ神社が有るでしょう?

どうですか?
皆さん、県内の延喜式内社御参りしてみたくなりませんか?
延喜式内社以外にも、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史を持つ神社や御寺が在って、とんでもない歴史偉人との繋がりが有ったりするかも知れませんよ~?
だから、神社や御寺や城址や歴史史跡や古民家や里山とちょこっと散歩してみませんか?

では、また、次の記事で!










1,藤沢市大庭 かつての大庭御厨の大寺院、宗賢院。
先週御寺の御家人から御好意で御寺の史書を返却期限2年先でも良いからと言われて拝借させて頂いた。
国造系豪族の子孫としての筋目を通す為にもちゃんと御礼をしようと思い"借用書"と"菓子折り"を持って再訪。御家人に御住職への挨拶の御礼の言葉の伝言と合わせて其れを託して来た。

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2,同、大庭 延喜式内社 大庭神社の旧跡。つまり元宮に当たる大庭神社旧跡。 ...
ここは旧跡と呼ばれ江戸時代の身辺相模風土紀稿でも以前の事は良く解らないとされる史跡。
しかしながら伊勢原市高部屋神社や、鎌倉市鶴岡八幡宮の例を挙げば解る様に、平安末期~鎌倉時代の坂東武者が居城する城址の傍に在る古社は、当時の武将の意向で城の守りの薄い地域や中心に遷座させられる事は珍しくない。
よって、この大庭船地蔵地区に伝わる大庭神社の旧跡(元宮)と言う伝承は正しいだろう。
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3,大庭神社旧跡の近くの台谷戸稲荷の森…この付近からは縄文時代の遺跡も出ている。
全国的に稲荷社の拡散時期は2波有った。
第1波は古代農耕が始まった時期。日本武尊の滞在した走水御所ヶ崎、その日本武尊の遺品を祀る石室を社殿の下に埋蔵した走水神社の前身が稲荷社であった事でも解る。
三浦半島の内陸部を水田として開拓した
第2波は江戸時代、伏見稲荷の御分霊を勧進する"講"が盛況で、関東一円の農村の豊穣を願う庶民により伏見稲荷の御分霊が多く勧進された。

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4,藤沢市打戻 延喜式内社 宇都母知(うつもち)神社。
延喜式内社なのに神奈川県は宮司様がいない場所が多い。
…ここも、残念、宮司様無住。しかし、境内は氏子さん達の御蔭で綺麗に保全されていた。
古代からの歴史有る神社を守る氏子さん達の努力に頭が下がる。
関係ないけれど参拝中、鐘楼の傍の木の根っこにハチの巣が有り、何かブンブン音がするなと思ったら、大量に巣穴から蜂が湧き出てきている最中で危なかった。鉢が来る前に走って逃れて助かった。
近くの慶応大学藤沢キャンパスと連携した文化事業を発足出来るかが、この重要な史跡でもある宇津母知神社の再興隆の鍵だろう。

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5,神崎遺跡公園  
藤沢市打戻~綾瀬市早川城山への移動中に偶然通りがかって御縁で存在を知った。
まだ開園していなかったが、平成元年と最近の発掘、小規模ながら国指定史跡とさしめた綾瀬市長と綾瀬市教育委員会の文化度と意識の高さと努力に敬服を感じた。
綾瀬市は素晴らしい。
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6,綾瀬市早川城山 早川城址 城山公園に移動。
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ずっと行きたかったけれど近くを通る事が無かった。今回のメインは実はここだった。
土塁は大部分破壊され、城址の大半は宅地化されているものの綾瀬市と綾瀬市教育委員会の取り組みは横浜市と比べて非常に意識が高い事を、ここでまざまざと見せつけられた。
城址としての規模は大きい訳でも小さい訳でもない。
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本丸と思しき広場の端にある物見やぐら跡の土台には、昭和7年"東郷会"の建立による薩摩国東郷氏発祥地の石碑が現存する。
そう、ここは藤沢市村岡城を本拠にした東郷平八郎元帥の祖先、平良文(よしふみ)公の子孫である渋谷氏が本拠とした城址なのだ。
そして、渋谷氏の中でこの早川城を本拠にした早川氏一族が源頼朝公に恩賞として与えられた薩摩国の領地に移住して東郷を名乗った。
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この綾瀬の早川城址は、薩摩島津家重臣の東郷氏・入来院氏・祁答院氏の源流と成った土地なのだ。
大空堀(沼掘り)残存部分は素晴らしい保存状態で整備され、本丸に当たると思われる広場の入り口は堀切と土橋、土塁が来園者を出迎えてくれる。そして城址を植物園化し沼堀を利用した湿生園、空堀部分にはバラ園、腰曲輪は遊歩道。別の大空堀は傾斜を利用し児童用の巨大スベリ台が設置されていて子供も幼い内から文化と歴史に無意識に触れる事が出来る…
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正に!城址を公園として整備し自然と歴史と住宅地の共存を成功させた稀有な城址公園だと思う。
綾瀬市の教育委員会と、現市長は本当に文化度と意識が高い。前の数百年、これから後の数百年を見据えた都市計画をしている。


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食事
綾瀬市早川城山地区に在った高座と言う豚カツ屋さん。
ボリュームは足りなかった。でも味は美味しかった。DSC_0523
オバちゃん一人で御店をやってるようなので、又綾瀬方面に来る時は、ここで食事してあげたい。個人経営の御店には出来るだけ多く町に残って欲しい。

7,大和市深見 延喜式内社 深見神社
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御祭神は闇龗神(くらおかみ)と建御名方神と江戸時代に勧進された武御雷神。
日本書紀には登場しない、関東の古社ならでは、しかも関東の延喜式内社共通の出雲系の神様建御名方神も鎮座。御祭神の闇龗神は大山阿夫利神社の御祭神の高龗神と名前からして関連が有りそうだ。いずれにせよ、藤原氏に名前を消された出雲系の神様だろう。
住宅街の中に在りながら、須賀(すが)清(すが)しい空気感がも今漂う。



感想
史跡の記録写真を撮る為に1日で訪問出来た件数としては上場の成果だったと思う。
関東では少ない延喜式内社、とりあえず今年中に北条家の歴史顕彰の城址と寺院の訪問神社の参拝に出来るだけ絡めて回りたい。

水曜日は昼から藤沢市の大庭城址公園に行って来た。
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戦前のカタカナ送り仮名は若い人には読み難いので石碑の碑文を平仮名に書き下すと…

この地は大庭景親(おおばかげちか=平安末期の武将)の居城と云(い)う、
後、(扇谷)上杉定正が修(おさ)めて居城せしが、永正9年、子の(扇谷上杉)朝長(ともなが)の時、北条早雲に攻め落とされ是(これ)より北条氏の持ち城と成った。
廃城の年代は未詳(みしょう=くわしく判らない)、空塹(からぼり)の蹟(あと)等(など)當代(とうだい=その時代)の城郭(じょうかく=御城)の制(おさえ=構え=構造)を見るに足(た)るが有る。

はしょって現代語にすると…
ここは大庭景親って武将の御城の跡なんだけれど~、後に上杉さんの御城に成って更に北条さんの御城に成ったんだけれど~空堀とか良く残ってて戦国時代の御城の良い教材だよ~
…ってせっかく昭和初期の神奈川県知事以下職員や教育者が石碑を建てたのに、現在では城址は半分ぶっ壊されて宅地にされちゃったんだよね。
石碑は昭和9年、今の建設業界と密着した腐れ教育委員会や利権政治家と違って当時の文化度の高かった県の行政によって保護されていた大庭城址に建てられた石碑。
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※空堀と土塁↑歴史興味ない人には只の雑木林にしか見えないだろな。
水曜日の訪問で大庭城址公園は3度目の訪問に成る。
前の携帯(ガラケー)の写真をバックアップしてなかったので、同城址の写真を再度撮影に来た次第だ。

ここは、寂(さび)れた管理事務所に実は戦国時代の城入門者には打ってつけの常設展示資料が有るんだな。
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小生も、御城に本格的に興味を持ちだした8年前位に来たのが最初で、良い勉強に成った。
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桜も綺麗な城址なので、是非近隣の人には先人の記憶を辿(たど)る散歩がてら、花見に来て欲しいなぁ~。

実は、この日のドライブの目的地は、この大庭城址を当初は含めて3カ所だった。
もう一つは地図を見ていて城址の近くに❝宗賢院❞と言う御寺を見つけたので、そこに行くのは既に決めていた。
実は❝宗❞の字が使われる御寺は、概(おおむ)ね曹洞宗の御寺で、戦国大名の北条家は曹洞宗の禅の修行を配下武将達に取り入れさせる目的で多くの曹洞宗の御寺を保護した歴史が有ったので、大庭城址の南側大手に当たる位置の宗賢院サンも北条家と必ず関係が有るだろうと推測しての訪問予定だった。
それともう一つは…
綾瀬市の早川城址公園に散歩に行って写真を撮ってくる予定だった。
でも、大庭城址に行く途中、車の中で…
「ん?そう言えば大庭城址公園の近所には延喜式内社の大庭神社が有ったな…そっちを優先するか!」
…と気が変わり、結局、当日回ったコースはこう成った。
●大庭城址公園
再訪問して管理事務所で大庭城落城のきっかけの船地蔵の伝承を知った。
 ↓
●船地蔵の近くのコンビニに移動、車止めて船地蔵を御参り。DSC_0324
船地蔵由来の御婆さんに、安らかに眠って下さいね、これからも地元の人と大庭城を見に来る人を見守って下さいねと御願いして来た。
 ↓
●大庭神社に移動する心算(つもり)が、セルフカーナビ(自分の記憶)ではなくて車の❝くそカーナビ❞に任せたらスゲぇ~遠回りされて、思いがけず別の神社経由で遠回りされた。
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実は、この思いがけない山王社参拝で、氏子サンが石碑に残して下さっていた、この神社の歴史を読んでいて藤沢のこの大庭の地に戦時中は海軍飛行場が在った事を知った。
貴重な訪問と成った。サンキューくそカーナビ(笑)。
 ↓
●山王社の坂を降りて大庭神社に行く途中で成就院と言う真言宗の御寺を見かけた。大庭神社との位置関係上、江戸時代までは大庭神社の別当時だった可能性が有ると推測出来たので、帰りに寄る事にした。
そして大庭神社へ…
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神社は今も立派な境内を抱えているのだけれど、残念ながら宮司様不在の荒廃ぶり。
ここは由緒正しい延喜式内社なのに、こんな有様なのは悲しすぎる。
本来は神奈川県神社庁が資金を投入しても神主様を常駐させ、もっと参拝客を増やす努力をしないといけない場所なんだと思うけれどなぁ~。
でも逆に明治の廃仏毀釈の影響を受けず境内には貴重な梵鐘も有った。DSC_0340
奈良時代~江戸時代が終わるまで、歴代天皇が大切にされた文化が、この式内社には残っていた。
きっと、この大庭の御厨(みくりや)を開拓された鎌倉の権五郎御霊神社の御祭神である鎌倉景正公や御子孫の大庭景義公、後にこの地を治めた扇谷上杉定正や太田道灌公、北条早雲公や北条氏綱公も、この鐘の音を聞いた事だろう。
そして、古来の日本の宗教としての大庭神社も参詣し、この土地を開発した平安時代の鎌倉景正公や古代~奈良時代の先人に感謝の念を抱いたのかも知れない。
 ↓
●大庭神社を御参りし終わって、近所の成就院に移動…
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門前の看板を読むと予想通り、明治時代の廃仏毀釈神仏分離令で仏教弾圧されるまでは、大庭神社を守っていた別当寺だった。
大庭神社は、この成就院さんと切り離されてしまったから荒廃したんだな。
だいたい、鵠沼とか3kmも離れた神社の宮司様に管理させる自体ナンセンスな気がする。
住民と顔つき合わせて普段から話すチャンスなんか無いだろう。そりゃ、地域住民も宮司様への親しみも感じる以前の問題に成るから、当然、宮司様との距離が地域住民との距離に成って行くだろうな。
もし、更に地元の人との郷土文化を保存する気概が有り効率的に古社に対する信仰心を維持する気概が神奈川県神社庁に有るならば、この管理体制は改革させるべきだと民間人としては思う。
どこの業界でもエリアマネージャーや支店長管轄区ってのは地域で担当区分するのが常識的かつ効率的な管理手段なのだから。
別に昔の様に御寺サンに御任せする代わりに、御住職に神事も勉強して貰えば良いのだし、逆に明治以降のまま神仏分離で棲み分けが共存に繋がると意固地に思うのであれば、神社の管理は明治時代の宗教観を忠実に復古して、郷社や村社の制度を再導入させるべきだろう。
地域ごとにそれこそ昔の様に郷社や村社といった神社の管理区分を明確にしたら管轄が地区ごとに集約出来るし神職者への資金分配や管理が行い易くて良いだろう。
そして、管理事務所兼戸建て宿舎を建設し、所管の神社の禰宜さんを支店長みたいに住ませ所得の低い内の家賃手当代わりに神社の保全に務めて貰った効果的なんじゃないのかな?
これから益々外国人が増えるんだから、本来の神仏習合のAll Japan体制で移民による文化破壊を食い止めないと、宮司不在の神社なんか無文化政治家の土建屋マッチポンプで瞬く間に強制移転や破壊対象にされてしまうぞ。
…なぁ~んて考えさせられる良い機会にも成った。
 ↓
●当初からの訪問目的である、宗賢寺さんに移動。
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結構な規模だった。
意外な発見も有った。
開基は1505年と伝わるが、平安末期の大庭城主大庭景親公所有の陣釜が有るなど、平安末期には前身の大寺院として同地に存在した匂いがプンプンしたが、やあはり戦国時代に移行する前の室町時代の大庭城所縁の上杉家と家宰太田道灌公の足跡が沢山御寺には残っていた。
自分の推測を御寺の家人に提起した所、目を白黒されて聞かれていたが、色々と御納得頂けた様で、檀家信徒以外読む機会の無い、戦国時代以降の寺史を纏(まと)めた書籍を貸与して頂けた。
最初、是非、これを御貸ししたいと本を手渡された時は「次、いつ参拝出来るかも解らないので無責任に拝借出来ません、購入させて頂きます」と固辞したのだが…
小生の人格を初対面で信頼して頂けた様で、「1年先でも2年先でも返却は良い」と、御好意の御言葉を頂けたので、恐縮しながら宗賢院様の歴史の本を拝借して帰路についた。
 ↓
●何か真っすぐ帰るのがシャクだったんで、大庭城と同じくガラケーでしか写真撮影していなかった藤沢市の村岡城址公園に帰り立ち寄って、改めてバシャバシャ写真とってきた。
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やっと満足して帰ろうと思ったら…
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●先週買ったジーンズの裾上げ頼んだまま引き取って無かったので、帰りに取って帰って来た。
又、徹夜だったので、帰宅し記事更新しようとしたら直ぐに寝落ちしてしまった。

今回の活動の主な範囲…
大庭城周辺
こんな感じ。横浜からは20km位離れてるけれど、藤沢市内では極めて狭い大庭地区周辺だけ。
あとは鎌倉との市境の村岡城址。因みに、藤沢市は昔は旧鎌倉郡で鎌倉の一部だったんだな。
今回参拝した山王社で、大庭に戦時中は海軍飛行場が在ったと知ったので、終戦直後の米軍が空撮した写真を見たら本当に荏原製作所の所在地が空港だった…
大庭城周辺(昔)
Google Earthに当時の写真を重ねるとこんな感じ。
右側の白い線が滑走路だね。
この広大な平地に昔は山王社が在って、大庭神社と並んで村民の崇敬を集めて、昔は村の御祭りなんかで賑わっていたんだろうなぁ~。

そう言えば…
大庭神社を含めて神奈川県神社庁は早急に復興するべき神社がいくつか有ると思う。
それは…
●大庭神社 藤沢市稲荷 合わせて古代の旧社地である大庭の現熊野社。
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
鵠沼の皇大神宮の管理。
●高部屋神社 伊勢原市下粕谷 
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
伊勢原大神宮の管理。
●杉山神社 横浜市緑区西八朔
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
川崎市麻生区の琴平神社の管理。
●烏山八幡宮 横浜市港北区鳥山
平安時代~鎌倉時代の名将で醍醐天皇の御実弟で沙沙貴神社の御祭神である敦実親王の御神孫に当たる佐々木高綱公の居館跡に開かれた立派で由緒有る八幡社なのに神主不在。
横浜市東神奈川の熊野神社の管理。
●森浅間神社 横浜市磯子区森
源頼朝公が海岸の断崖にコンコンと湧き出る滝の在る同所に神仏混合崇拝の修験道の山伏の修行場を兼ねて鎌倉幕府の陣所と合わせて開いた由緒ある神社な上に、鎌倉幕府最後の将軍を匿った場所だが、過去の横浜市による社地接収と団地と宅地造成により、周辺から存在を認知され難い不利な立地にされてしまっている。
関東武士団の鎌倉文化の醸成地の一つで有るだけに、もっと資金を投入し支援するべきだと個人的に感想を持つ。

由緒ある延喜式内社や凄まじい歴史偉人の関与と、古代からの遺跡や自然湧水等のパワースポットが境内や近所で確認出来るの神社を神主非常駐にせず、せめて管理神社の禰宜サンを常駐させるべきだと思う。
宿舎も兼ねた管理棟を県の文化財管理棟として建てて、禰宜さんの宿舎兼支店営業所的な運営させるべきだと思う。
そうする事で若い世代の神職サンの生活も安定させられる上に、神職者と住民の距離も近くなり親近感も湧き往時の信仰心と日本の文化を復古に役立つ事も出来るのでないだろうか?
なぁ~んて考えさせられた、今週の水曜日でした。
しょせんは歴史好事家(オタク)の世迷言。

今回、写真撮って来た城址や神社仏閣は、いずれ解説記事にちゃんと書きますよ~♪
さぁ~て、今日こそは綾瀬市の早川城の写真をとらないと…
来週再来週には桜が咲き始めてしまうので、今度は桜の名所巡りしないといけないからね。
そろそろ藪蚊と虻が増えてくるし、今年の古城廻りシーズンは終了かな?


神奈川県
他府県も素晴らしいですが、皆さんの地元と比肩するくらい良いですよ〜♪
東京羽田空港まで電車で30分ちょいだから遊びにおいで〜。
新幹線の駅も新横浜駅が有ります。
新幹線の東京品川からも電車で35分♪。
風景も綺麗だし生粋の日本武家文化の発祥地ですよ〜。
春、梅雨、夏、秋は特に綺麗ですよ〜

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東京に泊まるより神奈川県の各市町村の方が情緒有りますよ〜(笑)♪

平良文(たいらのよしふみ)公と言う平安時代の皇族臣籍降下武将をご存知でしょうか?
今の藤沢市村岡を本拠地にされ、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)や陸奥守(むつのかみ)を歴任された名将です。
今現在、御廟所は藤沢市の二傳寺(にでんじ)に在(あ)ります。
この↓御寺
良文公の御子孫は日本全国で有力大名や各大名の重臣に成りました。
その一部有名な方を数名あげてみましょう。
※良文公については別に「永谷天満宮(←クリック)」に関するスレでも紹介しています。
●鎌倉景政公
…関東では鎌倉市坂の下の御霊神社の御祭神として祀(まつ)られ関東全域の御霊神社で崇めらている。源義家公の与力の名将。
鎌倉御霊神社(←クリック)は別スレで紹介しています。
●上杉謙信
…元の名前が長尾景虎で鎌倉氏の分家の長尾氏の生まれ。長尾氏のルーツは横浜市栄区長尾台にあった長尾城址で、長尾城址は戦国時代に玉縄城の一部だった。
上杉謙信は言わずと知れた野戦で最強だった名武将。
長尾城址(←クリック)は別スレで紹介しています。
●大庭景義公
…源頼朝公の父君源義朝公の与力として活躍した武将で、藤沢市大庭城を本拠地にしていた。保元の乱で膝を負傷し弟の大庭景親に党首の座を委譲し茅ヶ崎市に居館を構えた。
●梶原景時
…源頼朝公に一番忠誠心が高く陰謀に長けた武将で敵勢力の有力武将や頼朝公に忠誠心の薄い武将の暗殺を実行した。源義経との仲が悪く讒訴した事でスッカリ悪人評価が定着。鎌倉幕府内でも嫌われ者に成ってしまった。徳川幕府における本多正信的な存在。昼ドラでヒロイン虐めるライバルみたいな扱いをされているが子孫に名将も多く、子の梶原景季や小田原北条家の水軍大将梶原景宗などがいる。
●三浦義明公
…言わずと知れた源頼朝公の一の与力。頼朝公の石橋山合戦に参加すべく三浦半島の横須賀市衣笠城で呼応し挙兵。援軍に行くも間に合わず、一族を頼朝公に合流させるべく房総半島に逃がし一族で一人だけ衣笠城に籠城し平氏軍を釘付けにし玉砕した。
衣笠城址の近所には源頼朝公が三浦義明公の菩提を弔う為に開いた満昌寺が在る。
衣笠城址は別スレで紹介しています。
満昌寺は別スレで紹介しています。
●千葉常胤公
…千葉県の県名の由来に成っている源頼朝公の与力で房総半島を束ねた名将。
●畠山重忠公
…良文公の子孫の秩父平氏の更に子孫で、源頼朝公に最も信頼され坂東一兵(つわもの)と言われた。北条義時の謀略により二俣川で討ち死にする。
子孫は関東管領上杉家の重臣豊島氏がいる。豊島氏は戦国時代初期の大名で領地は東京都豊島区北区を本拠地にし、横浜市北部まで及び、拠点は現代の石神井公園にあった石神井城だったが、扇谷上杉家の執事で名将の太田道灌公と対立し最後は横浜市港北区の小机城址で滅亡した。
小机城(←クリック)は別スレで紹介しています。
●佐原義連(さはらよしつら)公
…三浦氏の分家の佐原氏の人物で、今の横須賀市佐原城址を本拠地にした武将。源義経の活躍した神戸市福原攻めで勝因と成った「鵯越の逆落とし」奇襲を立案した名軍師。分析力に優れ、一族の和田義盛公や本家の三浦義村が北条義時の陰謀に次々と滅ぼされる中、北条義時と上手く距離を測り鎌倉幕府内で生き残った。彼のお陰で佐原氏が存続し三浦家の血筋が絶えずに済んだ。佐原氏の開基した清雲寺は三浦一門の菩提寺として現在も存続している。
清雲寺(←クリック)は別スレで紹介しています。
●正木時茂公
三浦氏の分家佐原義連公の更に子孫の相模の戦国大名三浦時高の孫。戦国時代房総半島の名将で里見八犬伝で有名な大名の里見氏の盟友。
水軍を率いて父祖の故地である三浦半島の城ヶ島に上陸すると短期間で三崎城〜鎌倉市街までを制圧した軍才に秀でた武将。戦死した国府台合戦でも小田原北条家を散々に痛撃した。玉縄城主北条綱成公の迂回奇襲に敗死するも朝倉宗滴から織田信長公等名将と並び称せらた名将。
●和田義盛公
…三浦氏の分家で、鎌倉幕府初代侍所所司。彼の築いた怒田城の縄張りや野庭城の立地を見ると、鎌倉時代に既に戦国時代の様な山城を築城し尚且つ主要街道や港湾の入口を見事に抑えており軍政家としての手腕が高かった事が垣間見える。
また彼は平安時代の武士の中でいち早く街道に関所を設け通行税を徴収するなど
、経済政策能力にも長けていた。
●葛西高清
…平良文公の子孫の秩父平氏の子孫、その中で今の葛西臨海公園辺りを治めたのが葛西氏。その後、室町時代には宮城県北部〜岩手県南部を治める30万石相当の大大名に成っていたが、葛西氏は伊達政宗の軍門に下り没落した。
●朝比奈泰朝公
…和田義盛公の子、朝比奈義秀公の子孫。今川義元家臣。朝比奈義秀は和田義盛公と元:源(木曽)義仲の奥さん巴御前との間に生まれた猛将で和田合戦で散々に北条家の武将を追い詰めたが敗戦、逃亡した。子孫の朝比奈泰朝公も祖先よろしく名将で、没落した今川家を最後まで支え掛川城に籠城し、実に5ヶ月間も徳川家康の猛攻を耐え抜き和議を引き出し暗愚な主君今川氏真の命を守り切った。
●芦名盛氏
…和田義盛公の子孫で祖先は三浦半島佐島マリーナ近くの芦名城址を居城にしていた。芦名盛氏は今の会津若松城を本拠地にしていた大大名で伊達政宗のライバルだった。他国と外交で伊達政宗を孤立させ窮地に追い込んだ名将。

歴史の教科書に載る超有名人物とゲームに登場するようなメジャー武将だらけですね。
源家が鎌倉幕府を開き日本全国を統治出来たのも、その与力武士団として平良文公の御子孫が加わり戦で活躍されたからなんですね。

さて、平良文公の御廟所ですが、冒頭で紹介した通り二傳寺の中にあるのです。

この石碑の裏山に御廟所があります。
お姿を拝みたい方はどうぞ御自分でお参りしてみて下さい。

実はこの御廟所、二傳寺のご住職のお話によると標高が藤沢市内最高地点で相模湾防衛に適した場所だそうで第二次世界大戦のおりにも米軍の首都上陸は相模湾から行われる事が想定され陸軍が二傳寺の廟所に砲兵を配置していたそうです。
そして実は戦国時代も武田信玄や上杉謙信を撃退した玉縄城の一部の二傳寺砦として機能していました。
玉縄城(←クリック)については別スレで紹介しています。
流石、醍醐天皇の信任厚く鎮守府将軍や陸奥守を歴任された名将…
はるか昔の平安時代に戦国時代ばかりか近代戦争にも通用する防衛拠点になり得る村岡郷を本拠地されるとは…。

みなさん、平良文公がいらっしゃったお陰で鎌倉幕府が成立し、生粋の日本独自の武士文化が発展したんですが…
神奈川県や東京都、千葉県の今日の発展の基礎を作って下さった平良文公の事と御廟所のある二傳寺と居城の村岡城址を頭の片隅に留め、近くに立ち寄った際は是非!御墓参りし感謝を心の中で良文公にお伝えしてみませんか?

因みにご住職は御多忙な方ですが、明るく優しい気さくな方で、村岡の地勢を詳しく説明して下さいました。
御近所には玉縄城主北条綱成公が開基された龍宝寺と、徳川家康が鷹狩の拠点に利用した長尾家の菩提寺久成寺もあります。玉縄城址探訪として3つの名寺を合わせてお散歩訪問されても有意義かなと思います。
御近所には大船フラワーセンターもありますよ〜!

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