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タグ:蘭渓道隆

北鎌倉には建長寺と言う大寺院が在ります・・・
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正式名称は巨福山建長興国禪寺と言い、京都南禅寺を別格として除いた鎌倉五山、つまり関東の臨済宗寺院の内で五つの筆頭寺院の内の第一位に位置づけられた寺院です。
・・・この鎌倉五山の凄さと言うのは征夷大将軍しか歴代住職の任命権を有していなかった事からも解ると思います。
さて、この建長寺、鎌倉時代~戦国時代当時は多くの学僧や武士が修行に集まっていた大寺院でした。
ですから現代でも日本有数の規模を誇る大寺院として存在しています。
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とは言え、この北鎌倉周辺には他にも先月紹介した円覚寺と言う鎌倉五山第二位の大寺院も在ったりして、北鎌倉を散歩していると少々感覚がマヒして他の大寺院が小さく見えてしまったりします(笑)。
円覚寺の記事はココ→
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天下禪林・・・つまり天下に名の轟いた学問所寺院と言う事です。
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これでも現代は開基(かいき=神社仏閣を造営する事。日本語で使う創建は漢字の意味の誤用)当時と比べて明治政府の宗教政策や、太平洋戦争敗戦後に規模が縮小しているんです。
信じられない位、昔は広大な境内地を有しており、更に寺領と呼ばれる御寺の収入源となる寺院の領地も昔は境内地と別に存在していました。まぁ、それは明治政府の宗教政策で没収され、そのせいで多くの御寺のみならず神社も荒廃した所が多かったんですが・・・
とりあえず、今回は建長寺と建長寺に関わった歴史偉人の紹介だけして行こうと思います。
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さて、略称建長寺の山号は巨福山(こふくさん)と言いますが、これは鎌倉幕府を開いた源頼朝公が鎌倉市街地防衛の為に築いた市街をスッポリ取り囲む丘陵城塞群の中の7つしかない入口の一つ、巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの近くに在ったからです。
現在の鶴岡八幡宮の西側を通る巨福呂坂は近代に成って開削された新しい道で、トンネル入口に有る石碑は歴史に疎(うと)い現代人が設置すべき場所を間違ってしまっている訳ですが、小生の様な歴史好事家(オタク)や建長寺や鶴岡八幡宮の鶴岡文庫や鎌倉国宝館の様な文化と歴史を守ってらっしゃる組織の職員サンの多くはこの事を知っています。
巨福呂坂切通し位置 久良岐のよし
現代では住宅街に埋もれている谷間の細い道が、本来の鎌倉防衛の要だった巨福呂坂切通しの跡です。
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さてさて、そんな鎌倉防衛拠点の手前に立つ関東最大で最高格の臨済宗寺院、建長寺は昔は鎌倉武士達の学問所としても機能していた訳ですが、この御寺を最初に造営した開基様が鎌倉幕府第五代執権の北条時頼公です。
そして、モンゴルによって滅亡した南宋国から亡命してきた四川省出身の名僧で日本武士に禅の精神と故国の情報を叩き込んだ蘭渓道隆和尚が開山(かいざん=初代住職)と成りました。
つまり、当時はモンゴルやモンゴルに服属している朝鮮人によって何時、侵略戦争を仕掛けられるか解らず日本は周辺国から危険に晒されていた状況でした。
ですから、鎌倉幕府を蘭渓道隆和尚が頼ってきたのも、故国の南宋王朝が如何(いか)にして滅亡したか日本に伝え備えさせる目的が少なからず有ったと推測出来る訳です。
そして、当然、武士達も蘭渓道隆和尚を師と仰ぎ、和尚が伝えた学問を取り入れ日本人としての武士の気概と禅の平静を保つ精神と中国渡来の兵法を融合させ、モンゴルの威を借りる朝鮮人とモンゴル人征服王朝の中国元朝の侵略に対して備えた訳です。
事実、この時期には朝鮮がモンゴルの名を挙げ日本を外交的に脅迫し始めていた時期でした。
・・・まぁ、今も昔も朝鮮半島の政府は古代からずっと隙有らば日本を侵略しようと何度も攻めて来たり日本を裏切って来た歴史が有るので彼らは鎌倉時代も通常営業、今と同じですね。
まぁ、日本は蘭渓道隆和尚の教えによって戦場でも冷静に敵と対峙した鎌倉武士達の準備の甲斐有って、元寇で朝鮮軍と江南水軍を2度に渡って日本の武士団が撃退します。
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この座禅を取り入れた精神修養は後に鎌倉文化や武士文化の形成に大きな影響を与えて行く事に成ります。
鎌倉時代以来~室町時代そして江戸時代に成るまでは、禅と言うのは武士の精神修養の嗜みとして武士文化に取り込まれ現代に残りました。
当時の武士達は例え信心する宗派が臨済宗でない武士も平素、参禅して修行に励んだ様です。
そして、建長寺では蘭渓道隆和尚の影響も有り、禅の他にも中国語も教養として学び武士達に易学や兵法を学ぶ場としても機能していました。
蘭渓道隆和尚については、以前、常楽寺の記事でも紹介したので興味の有る人は読んで見て下さい→
因(ちな)みに建長寺、“けんちん汁”の発祥地だったりします。
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写真の画像は建長寺の物とは違いますが、建長寺近くに在る“鎌倉五山”と言う和食屋さんで提供しているケンチン汁です。
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建長寺では参禅すると、本家本元の“けんちん汁”を食べさせて貰う事が出来ます。
まぁ、なかなか観光でしか普通の人は鎌倉に行く用事も無いので、北鎌倉駅周辺の和食屋サンで提供している店に入るのがデートや家族連れだったら無難でしょう。
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建長寺に話を戻しますと、多くの武士から崇敬を集め、その武士達の子弟が幼い頃に入門し学問と精神修養に励む場所であり、日本中の学僧が集まる場所でもあったので現代でも国宝や重要文化財の建物が多く現存しています。
そんな建長寺なので、鎌倉武士達のみならず戦国時代にも名将を輩出しています。
その名は太田道灌(どうかん)、江戸城や河越(川越)城を築城した名築城家であり戦っては無敗を誇った名軍師で、扇谷上杉家の執権(しっけん)でした。
太田道灌公
今の政権に例えると官房長官や幹事長みたいなもんです。
当時、日本を統治していたのが君主=天皇家。
その統治を代行していたのが征夷大将軍足利家。
足利家の政治を分業実行していたのが管領と関東管領。
その関東管領を務めた家が犬懸(いぬかけ)上杉家、宅間(たくま)上杉家、扇谷(おおぎがやつ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家の上杉家の筆頭4家。
その家、室町時代中盤~戦国時代に関東管領と務めたのが扇谷上杉家と山内上杉家。
その扇谷上杉家の軍事と政治を取り仕切っていたのが、この太田道灌公でした。
この太田道灌公は幼い時から非常に頭が良かったそうで、幼少期には大人も論戦で言い負かす事が度々有ったので、道灌公の父上の道真公が「この子、将来、人を見下す子に育たない様にしないと危ない」と感じて、建長寺に入門させて幼い時は建長寺で僧侶達から人としての道や学問を教わって育ったと言われています。
残念ながら建長寺も数度の戦火や火災に遭っており、建長寺で道灌公が具体的にどんな生活をしていたかは今の職員さん達も解らなく成っています。
戦国時代末期に成ると、扇谷上杉家も滅亡寸前、関東の覇者は小田原城を本拠地にする北条(伊勢)家に変わっていました。
戦国時代に関東で随一の学者文化人としても有名だった建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)和尚は、太田道灌公とも親交が有った人物なのですが、この玉隠英璵和尚と北条家の治世化で交流の有ったのが北条家相模十四騎筆頭の間宮家でした。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
横浜市南区に今も在る真言宗の名古刹で、弘法大師空海和尚所縁の弘明寺の江戸時代までの扁額は、間宮家が寄進した物でしたが、その扁額を揮毫(きごう=字を書く)したのが玉隠英璵和尚で、90歳の時の事と絵図が文献の挿絵で残っています。
まぁ、昔の禅宗は武士の嗜みだったので、他宗派の僧侶からも歓迎されていた様です。
徳川家と間宮家に所縁深い静岡市の華陽院も浄土宗ですが、家康公の祖母の戒名も“禅尼”となっていたりしますからね。
そんな建長寺と関わった間宮家からは有名な北条綱成公の副将として稀有な活躍をした間宮康俊公や、その孫で徳川家康公に重用されて佐渡奉行、但馬奉行として金山や銀山経営で他の代官より抜きん出た実績を残し更には大坂城総掘りと真田丸埋め立ての作戦を立案した間宮直元公を輩出しています。
つまり、建長寺は名軍師を生みだして来た御寺な訳です。
これは蘭渓道隆和尚や北条時頼公が後世に残したソフト面での偉大な功績でしょう。
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さて、そんな建長寺、ソフト面だけでなくハードも立派な事は冒頭で申し上げた通り。
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凄く立派な仏様が参拝客を出迎えて下さいます。DSC_2102
仏様も立派なのですが、天井の装飾も立派ですよね?
実はこの仏殿、元は江姫の御廟所だった建物で、江戸時代の徳川将軍家の菩提寺、芝の増上寺に在ったのを御夫君で二代将軍の徳川秀忠公から建長寺の建替えに際して移譲され移築された建物なんですね。
徳川秀忠公の奥さんの江姫と言うのは別名で御江与様、つまり織田信長公の姪っ子で、浅井長政公と信長公の妹の市姫様の娘さんに当たる人物でした。
元々霊廟だったので、少し普通の仏殿と違った造りに成っているそうです。
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仏殿の横には何故(なぜ)か梟(ふくろう)の置物が・・・。
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仏殿の奥には金ピカの門が在ります。
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これも徳川秀忠公の寄進した唐門で、龍王殿の入口に成っています。立派ですね。
黒と金のデザインが、江戸時代初期、安土桃山時代の文化の雰囲気がまだ残る色使いに成っていますね。
徳川政権の前、豊臣秀吉が北野天満宮や二条城の伏見城遺構や大坂城天守を見る限り黒と金の組み合わせを好んで使っていた様です。
さて、建長寺は他にも立派な建物が現存しますが、小生は特に紹介して置きたい場所が有ります。
それは建長寺の“守護神”の半蔵坊という“神社”です。
日本の文化は本来は神仏習合と言って神様も仏様も同じ様に大切にしたり、水が湧く場所聖地や霊場として大切にされた山も崇拝対象にしていました。
ですから、明治時代の神仏分離令までは御寺にも沢山神社が在って、御寺の中で神官が神事を行ったり、逆に神様に和尚様達が御経を読んで天下万民の安寧を祈願したりしていたんですね。
明治時代の神仏分離令で多くの神社の中の仏様や、御寺の中の神社の神様は撤去されてしまいましたが、臨済宗や曹洞宗や浄土宗や真言宗と言う武家文化と密接な宗派は神様を今でも大切にしている場所が多く有ります。
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半蔵坊へは少し判り難い上の写真の参道が建長寺境内の左側に在ります。
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そこを進んで行くと、御寺なのに立派な鳥居が見えてきます。
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半蔵坊は天狗(てんぐ)様を祀る建長寺の守護神なので、鳥居をくぐり御社を目指すと沢山の天狗様が御出迎えして下さいます。
天狗信仰は関東では古い文化で、延喜式内社の大山阿夫利神社も江戸時代には大天狗と小天狗も崇拝対象に成っていました。
源義経が鞍馬山で天狗に剣術を教わったのは有名な話ですね。
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さて、この半蔵坊、現代に凄い御利益を発揮した事で有名だったりします。
実は阪神淡路大震災の時に、この建長寺を参拝して半蔵坊の災難除けの御守り札を頂いて来た人達の家は、一軒も被害に遭わなかったそうです。
まぁ良い地盤の地域に御住まいの方が多かったのかも知れませんが、普段から古い習慣を大切にして、心に一本、神様仏様への信仰を持っている様な人だからこそ地震被害の多い埋め立て地を居所にしなかったりしたのかも知れませんが、こう言うのは信じて厄除けして頂いて、自分の心を安らかにする事が既に御利益なんだと思います。
そして、神様仏様の御利益が実際に授かれれば、それに謙虚に感謝して、日々生かされていると感じれたら良いのだと思います。
小生も自分の土地神様と仏様の厄除け祈願の御守り以外に、家の玄関には半蔵坊様の御札と氏神様の御札を掲げています。
お蔭様で、何とか無事に生きています。そして遊び友達みたい浅い関係ではない、日本の親友と国境を越えた親友にも恵まれています。
そんな訳で、建長寺守護神の半蔵坊大権現は災害除けの御利益が有るので、建長寺に参拝するならば一緒に是非参拝する事をお勧めしたい場所だったりします。
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ここからの眺望や良く、写真の日は生憎(あいにく)の曇天でしたが、晴れていると相模湾も一望出来る景勝地でもあります。
ただ、ここに御参りするには建長寺オリジナルの御朱印帳が必要です。
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御朱印授与の場所で売っているので、半蔵坊の御札も頂くならば、鎌倉五山や鎌倉の臨済宗寺院巡りの為にも購入すると丁度良いかも知れませんね!
小生は建長寺と半蔵坊の御朱印を頂いてから、鎌倉五山の御寺を順位の順番に再訪しました。
残念ながら、寿福寺の現御住職は昨年くらいから御高齢で御体が不自由になられた様で、御朱印の対応が困難だと奥様から伝えられ、再度御朱印をこの朱印帳に頂くには至っておりません。
寿福寺も由緒正しく、昔は歴代御住職様は猊下(げいか)と武士や僧侶から敬称で呼ばれた御寺なので、早く御住職様の体調が良くなり復帰される事を祈るばかりです。

さて、建長寺、立派で御寺でしょう?
半蔵坊からの眺めも良いので、北鎌倉散歩の際は是非、訪れて見て下さい!
・・・まぁ、円覚寺や東慶寺や浄智寺、明月院や長寿寺って他にも御参りして置きたい御寺が沢山有るのが北鎌倉なので、鎌倉江ノ島七福神の御朱印巡りがてら、数度に分けて鎌倉訪問して建長寺も浄智寺と一緒に訪れたり、明月院の紫陽花観賞と一緒に訪れるのも良いかも知れませんね!

さて今日はここまで!
今週末は台湾の友人夫婦の来訪が有り、水曜日はその事を休日雑記に書くかも知れません。
では、又、次の解説記事か休日雑記で御逢いしましょう!

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北鎌倉駅の裏には円覚寺と言う御寺が在ります。
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と言うか、円覚寺の境内にJR横須賀線の北鎌倉駅が開業しちゃったんですね。
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ですから参道には踏切も在ります。
円覚寺は正式には瑞鹿山圓覚興聖禅寺と言う名前で、東日本の臨済宗の寺院に置いて2番目に高い格式を鎌倉時代に皇族将軍家に認知され、執権である歴代北条家からも、その後の室町幕府の京都の歴代将軍家からも支援されて来た由緒有る御寺です。
それもその筈、この御寺は鎌倉幕府第八代執権の北条時宗公が開いた御寺なんだから立派で当たり前なんです。
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時宗公は、モンゴル元朝の威を借りた朝鮮半島の朝鮮人の脅迫に屈せず、中国江南地方の水軍と朝鮮の略奪と侵略目的の軍勢を相手に交戦する事を決め、日本を守った名宰相です。
しかしながら身分的には皇族将軍の陪臣と言う立場だったので、官職は左馬権守(さまのごんのかみ)、相模守(さがみのかみ)、官位も正五位下に抑えられていました。
五位以上の官位でギリギリ内裏(天皇の御所の朝廷会議が行われる場所)に参内(さんだい=入る事)が出来る程度なので、日本への貢献度を考えると異常に低い官位でしょうね。
実際にやっている事は右大臣や太政大臣こそ相応な業績を残している訳ですから。
そんな訳で、没後に天皇家から征夷大将軍達と同じ従一位の官位を追贈されています。
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さて、そんな時宗公、何でこの御寺を建てたのかと言う理由が又、坂東武者らしい価値観に基づいており素晴らしい。
元寇の乱で亡くなった敵味方の戦士の慰霊の為でした。
本来の天皇家の血を引く「武士」と呼べる人々の考え方は神道的な考え方と仏教的な倫理観が融合していて、この北条時宗公も又、桓武天皇の御子孫に当たる人物なので、敵味方の区別なく勇敢に戦った武将や末端の兵士を分け隔てなく供養なさったのでしょう。
小生が時宗公を尊敬する所以(ゆえん=本来の中国語では「だから」の意味)でもあります。
小生は基本的に源氏の歴代殿様を暗殺して来た執権北条家は大嫌いです。
源頼朝公がいたから、今日の発展は有った訳です。しかも法治主義国家の基礎を築いたのも頼朝公ですからね。
北条時政や北条義時や北条政子と言うのは不義理で低文化な人間だと思っていますが、しかし彼らが合議制による民主主義の基本の様な価値観を武士に根付かせた事で、今日の日本人の思想は有るとも思っています。
小生は北条家の中でも、北条泰時公、北条実時公、北条時宗公は特に尊敬する人物でもあります。
ですから、小生は北条泰時公と北条実時公の名を菩提寺の御住職様に書いて頂いた色紙を大切にしています。
さて、円覚寺を開いた開基様=大旦那=オーナーが北条時宗公である事は説明しましたが、開山様=初代住職の話もしておきたいと思います。
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写真は円覚寺の山門。
この円覚寺の初代の御住職様は日本人ではありません。中国から来た無学祖元和尚が北条時宗公の要請で就任しました。
この無学祖元和尚は、モンゴル軍が日本の友邦であった南宋を攻めた際に、現在の温州にいましたが元の臣民に成るのを好(よし)とせず、日本に亡命してらっしゃいました。
これは鎌倉五山第一位、建長寺の蘭渓道隆和尚とも同じ経緯ですね。
蘭渓道隆和尚については以前、北条泰時公の菩提寺の大船に在る粟船山常楽寺の紹介を書いた時に少し紹介して有るので、興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。
←ここクリック!
さて、上の写真の通り円覚寺の山門は大変に立派な物ですが、伏見上皇の勅願(天皇の要請により祈祷や物事を成す事)で再建された建築遺産です。
実は円覚寺は大火で一度灰燼に帰す憂き目に遭っています。
それでも尚、天明年間に当時の天皇陛下から再建の要請が有ったのは、この御寺を建てた北条時宗公の日本に対する勲功の大きさと御威徳によるものでしょう。
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円覚寺は写真の様に、歴史を余り詳しくない観光客も読めば大切さが判る説明看板が親切に設置されています。
こう言うのをちゃんと読むと、新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿にも載っていない大切な伝承が書いて有ったりして歴史好きにとっても楽しかったりするんですよ~。
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この訪問時、2月8日は鎌倉の梅も陽当りの良い場所は七分咲き位に開いておりとても綺麗でした。
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山門を抜けると佛(仏)殿です。
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ここは大正十三年(1923年)の関東大震災で倒壊し、現在は内側は鉄筋コンクリートで再建されています。
外観は見事に旧状を留めた再建と成っていて、円覚寺の職員の僧侶の方々の文化意識の高さと、再建に尽力され費用を拠出された檀家衆の皆様に時代を経て神奈川県民、日本国民としての後輩として頭が下がる思いです。
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最近、浜松市の禅宗の某寺が左巻き歴史学者と一緒に、天皇家が守り神として神号を追贈した織田信長公をコケにする発言をしましたが、明治以前、本来は禅宗寺院も天皇家や神道的な価値観を非常に大切にする宗派だったので御覧の通り、円覚寺の仏殿の御本尊、寶(宝)冠釈迦如来様の前にも今上天皇聖寿万歳と書いて有ります。
左巻きバカ学者は織田家や天皇家を侮辱する事が大好きなんですね、何故なら某国にはいない民草を大切にした織田家は天皇家を復権させた立役者であり、神道的な古代の儀式を復興したり朝廷内の乱れ廃れていた文化儀礼をも復興した極めて「日本の良い所」を集めた人物だったからでしょう。
さて、再建された佛殿の天井には立派な龍の絵が描かれています。
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御参りした際は是非、天井を見上げて下さい!
仏殿を左手側から出ると選仏場と言う名の茅葺屋根の御堂が在ります。image
座禅を行う場でしたが、その後、座禅を行う場所が正続院に機能移転したので、ここは御堂としてのみ現在は機能しています。
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元々は座禅を行う場であり、経典を保管する蔵としても活用されていたそうです。
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中にはとても美しい観音様と仏様が祀られてらっしゃいます。
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ここも円覚寺で必ず立ち寄って仏様を拝んでおきたい場所でもあります。
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この訪問時、鎌倉の梅は七分咲きと言った所でしたが、どうやら傾向としてどの梅林も紅梅は先に開花する様です。円覚寺の紅梅さんも可愛らしく咲いた姿を見せてくれました。
可愛いなぁ~!
本当、花に例えるなら梅みたいな御嫁さんと一緒にいられたら幸せだろうなぁ~。
実を結ぶ、御互いに成長する人間関係、季節の変わり目を楽しめる人。そんな女性を連想するのは多分、変態の小生だけですね(笑)。
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さて、一頻り(ひとしきり=頻の本来の意味は区切りの意味。現在の中国語では頻道と書いてTVのchannelの意味で使われたりもする)平地の建物を回るといよいよ、奥院に当たる黄梅院と言う建物を目指す為に、谷戸に囲まれた登坂を登って行く事に成ります。
余談ですが、ちょくちょく小生の記事に登場しますが「坂」と言う字は古代では下り坂の意味しか有りませんでした。現在は平地の意味で使われる「ひら」と言う言葉こそが本来の登り坂と言う意味の古代語で、これは琉球語や古い縄文語に通じる言語に残っていたりします。
さて、そんな訳で谷合の平(ひら)を上がっていくと途中、左手に妙香池と言う溜池が有ります。
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現在の姿は昔の絵図から旧状を発掘復元した姿だそうです。
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綺麗な池ですよね。
放生池と言うのは、生き物の命を大切にする日本の放生祭と言う神事仏事を行う池の事で、本来、武士にとって高級な食材だった鯉等を殺さずに放流したりする池の事です。
源頼朝公も三島大社で放生祭を行っていますし、織田信長公の青春時代の御膝元で愛妻の生駒お塁さんの実家の有った愛知県江南市の久昌寺一帯で馬を放つ放生祭を行っています。江南市の放生祭神事は、明治以降の神仏分離で神社も御寺も衰退して行われなく成ってしまいました。
しかし円覚寺には妙香池が有る事で、この説明を見て疑問に感じた人がいれば調べて仏事神事に興味の無い人も歴史偉人達の教科書には載っていない性格の側面を知る事が出来たりします。
もっとも、小生の場合は直接偉人達の関係者を訪問して、昔、どんな事をやっていたか先に教えて頂くのですが。
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妙香池を過ぎると、上の写真の説明石柱が有る丁字路に出ます。
左手に進むと舎利殿が有ります。
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この奥…
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国宝指定を受けている建造物。
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ここは鎌倉幕府第三代将軍で頼朝公の御二男の源頼朝公が南宋より贈られた御釈迦様の歯を祀っている場所です。
舎利とは「捨てる」と言う意味ですが、仏舎利と言うのは御遺体の事を指します。
仏様に成ると言う事は生物的には死んでしまう訳ですね。
成仏と言う言葉の通りでしょう。
それと悟りを開くと言うのは又、別の意味の様で、だからこそ「生き仏」なんて言葉も有るのかも知れません。
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一般人は入れないのですが、とても立派な茅葺屋根の建物と御堂が見えました。
見るに正面の建物の作りは江戸時代の建築様式ですね。
破風が付いてますから。
でも上部の屋根は旧来の構造を模している様に見えます。
さて、門の前から御釈迦様と源実朝公(菩提寺は寿福寺)に御参りしたら、元の丁字路に戻り坂を上ると直ぐに下の写真の場所に辿り着きます。
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ここは佛日庵と言われる塔頭で、中に開基堂が在ります。
開基堂は、その名の通り日本を守った名宰相で円覚寺を造営した北条時宗公の御廟所です。
入口の門は現在では侵入不可ですが、脇に観光客用の通用門が設置されています。
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ここも円覚寺に来たら絶対に立ち寄りたい、小生の御勧めの場所です。
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この写真撮影日はまだまだでしたが、今頃は梅も綺麗な事でしょう。
ここでは美味しい抹茶を頂いきながら、時宗公の偉業を思ったり静かな時間を過ごす事が出来ます。
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御干菓子も付いてますよ!
カップルで参詣にも適しているデートコースだと思います。
ゆっくり休まして頂き、その後、時宗公に日本を元朝の威を借りた朝鮮の蛮兵の略奪侵略から守って下さった御礼を申し上げると、時宗公も「うむ」と思って下さるか「お前もシッカリやれよ」と見守って下さるかも知れません(笑)。
小生はどうだったんでしょう?
「日本の前に御前、もっとシッカリせ~よ」
と言われた気がします(笑)。
頑張ろう・・・先ずはダイエットしてムキムキマンに復活するの。
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中心の御堂に、時宗公達の御姿を写した彫像が祀られています。
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その左手の建物、佛日庵も入らせて頂く事が出来ます。
その手前右手にはコケの庭園が在りますが…
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これ、笑点の林家木久扇師匠の作庭です。
正直・・・幼少期にずっと美大受験生のオネイサン達に混じって絵と造形を学んでいた小生とは個人的にセンスが合いません(笑)。コンセプト不明( ´艸`)。
佛日庵を出ると、直ぐ近くに白鹿洞が在ります。
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現在は崩落して人が入れるスペースも無い様ですね。
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無学祖元和尚が説法をした際に、この白鹿洞から沢山の鹿が出て来て人々と共に説法を聞いたと伝承するそうですが、これが円覚寺の山号「瑞鹿山」の由来だそうです。
この洞穴、埋もれた場所に水流の跡が在る事、手前に埋没しているものの、水を堰き止める構造の跡が在る事から、恐らく鎌倉に良く見られる洞穴式の湧水を集める井戸と溜池の跡だと思います。この水を集めて、下の妙香池等に配水していたのだろうと、城マニアの小生は考えました。
小生の推測通りに湧水が有ったのなら、伝承の様に洞穴が崩落する前に洞穴内の池で鹿達が水を飲んでいて、説法が始まり大きな声に驚いて一斉に洞穴から出て来たとのかも知れませんね。
ここを過ぎると、いよいよ円覚寺の奥院、重要な黄梅院と言う塔頭寺院に着きます。
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ここは東慶寺の初代尼住職で北条時宗公の奥方の覚山尼様が開いた塔頭寺院です。
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それ故、円覚寺の守護神的な位置に当たる場所なのかも知れません。
建長寺の場合は半蔵坊の神社が黄梅院の役割を果たしていますね。
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当初は時宗公の菩提を弔う場所だったのですが、円覚寺第十五代の住職にして枯山水様式の日本庭園作庭の大家(たいか)として有名な夢窓疎石(むそうそせき)和尚が塔頭寺院としての機能を備える御堂を建てたそうです。
この夢窓疎石和尚は近江国の大名、六角佐々木家の御一門でした。
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室町時代に入り、第二代室町幕府征夷大将軍の足利義詮公の御分骨が埋葬され、それ以後は足利将軍家の室町時代の関東における菩提寺的な宗教的な意味を持つ場所に成ったと説明が有ります。
まぁ、足利家の鎌倉時代の鎌倉に於ける菩提寺は浄明寺、そして足利尊氏公の菩提寺は長寿寺なので、二代目以降の話だと思います。
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この日、ここでもちゃんと御参りをして、から黄梅院を立ち去りました。
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黄梅院の山門をくぐり山を下っていく途中、下りの右手には「續燈庵」と言う塔頭寺院が在ります。
燈火(ともしび)と言う字は、仏教では教えを受け継ぐ法脈を形容したりするので、ここも昔の何(いず)れかの円覚寺の御住職様と関係の深い場所だったのかも知れませんね。
残念ながら一般人は門の近くに行く事も出来ない場所なので、写真は遠くから写しました。
さて、山門の近くまで戻ってくると、自販機や売店や御朱印受付所が在り、参道入口方向に向かって右手には閻魔堂桂昌庵と言う塔頭が在ります。
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中には閻魔様が祀られているのですが・・・
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御堂に向かって左手に御住職様が開かれた弓道場が在るので、御堂の内部には弓矢がこれでもかと言う程置かれていました。奉納されたと言うよりは、閻魔様に保管して頂いているのでしょうかねぇ~?
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さて、円覚寺の説明は大凡(おおよそ)こんな所です。
実は先日の訪問で、北鎌倉駅の直ぐ裏に素敵な御茶屋さんを見つけたので前回、別個に紹介記事を書いたんですが、香下庵と言う茶房です。
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冬期~初春の間だけ、北鎌倉名物のけんちん汁が食べられますので、御勧めです。
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春からは別メニューになるそうですが、あんみつや御団子も美味しそうでした。
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梅越しに北鎌倉駅と横須賀線を見られる立地の御茶屋さん、こちらも合わせて訪問されると良いかと思います。

ではでは!又、次の解説記事で御逢いしましょう!
三月中旬は忙しくてブログ書けないかも知れません、ご容赦を!





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前回の記事で金宝山浄智寺を紹介しました。
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浄智寺と言うのは鎌倉市に今も在る臨済宗の御寺でして、鎌倉幕府~室町幕府を通じて歴代征夷大将軍しか住職を任命できない格式の高い❝鎌倉五山❞に定められた寺院の一つでした。
この浄智寺の開山(かいざん=御寺の最初の住職)が兀庵普寧(ごったんふねい)和尚と言う南宋人の高僧で、建長寺の第二代住職を務められた方でした。
※前回の浄智寺の記事は「ココ」←クリック!

そして、同じ時代、兀庵普寧和尚より少し先に元に征服された南宋から亡命していた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)和尚と言う人物もいらっしゃいました。
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写真は蘭渓道隆和尚と関係の深い鎌倉市大船の粟舟山常楽寺です。
この蘭渓道隆和尚は鎌倉幕府第3代執権で名宰相として名高い北条泰時公に大変尊敬された人物でした。
※以前書いた常楽寺の記事は「ココ」←クリック!

浄智寺の開山様と開基様の時代と近代に通じる日本と周辺の日本を敵視する国との関係について、歴史と合わせて説明しておきたいと思います。
浄智寺の開山と成った兀庵普寧和尚や建長寺の住職でもあった蘭渓道隆和尚を、鎌倉幕府執権の北条時宗公は尊敬していたのですが、その御二人から南宋を征服した元や朝鮮軍の様子を具(つぶさ)に聞き取っていたと思います。
その二人の情報から、元(朝鮮)の進駐を一度(ひとたび)許せば庶民も天皇家も武家も皆殺しにされ、美しい日本の山林は馬と羊の放牧地にする為に樹木を焼きつくされてしまうと判断して交戦準備を整えていたのかも知れません。
実際、モンゴルに日本征服を提言した朝鮮軍が日本に攻め込んで来た際に、今の対馬や壱岐の住民は元(朝鮮)軍に捕まると捕虜は全員、男は頭蓋骨を生きたまま叩き割られ、女性はアキレス腱を切断されたり逃げない様にされた上で元の皇帝(に従属する朝鮮)の軍の性奴隷にされました。
こうなる事を鎌倉幕府は御二人の和尚様から聞き取っていて、その情報から対馬・壱岐で起きた事が日本全土で起こる事を予見していたから、北条時宗公は降伏しなかったんでしょう。
朝鮮族やモンゴル族には捕虜にした女性を全員性奴隷にして従軍慰安婦にする歴史が自分達に有りました。
※当然、現在のモンゴルにそんな風習は有りません。

少し話は近代に脱線しますが、もしかしたら…
だから、太平洋戦争後に建国された大韓民国の初代大統領李承晩は、「当然、太平洋戦争中の日本もそうだろうと思い込んだのが原因で従軍慰安婦奴隷を捏造した」のかも知れませんね。
実際彼自身が済州(ちぇじゅ)島で反李承晩勢力を弾圧した際に大量虐殺を行い捕えた女性は全て強姦した上で殺害した事が済州島4・3事件として歴史記録に残っています。
ちなみに李承晩と仲間十数人は、朝鮮王室の李垠(りぎん)殿下が日本に存命中なのに英国に勝手に朝鮮王政を否定した亡命政府を樹立してしまいました。
だから根本的に李承晩は日本政府と交戦した事も無ければ、没落貴族の出身なので朝鮮総督府内部の事情を微塵も知る事が出来る訳が無いんですね。
朝鮮王室の後継者だった李垠殿下は、横浜市の野島に海水浴をしに遊びに来られたそうです。
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その時の滞在先が、伊藤博文公の金沢別邸で、現在も残っています。
伊藤博文公と朝鮮王室の関係は実際の所は極めて良好だったようです。
陸軍と朝鮮王室閔妃派の関係が悪かったので、李承晩が朝鮮王室を無視して自己の政権を樹立する際のプロパガンダとして朝鮮半島のが伊藤博文公を嫌う様に扇動した様ですね。
この時代の朝鮮王室の大院君派は日本政府と当初は関係が良好でした。
この事は当時の欧米の記者達が伊藤博文公の葬儀の際に「朝鮮人にとって最も良い友人だった」と評している事からも、事実が解ると思います。
この話を証明するのが当時の朝鮮半島の米の生産量と流通量から見てとれるのですが、幕末の朝鮮王朝の米の生産量は日本の石高換算で4500万石だった記録が有ります。
それが日本政府による農業近代化支援を受けた後は9000万石超に倍増し、その倍増分は日本や周辺国に輸出され農地を有する現地農民や領主の純粋な収入源と成り、豪農は大変豊かに成りました。
そして日本人に汚名を着せた従軍慰安婦問題ですが、従軍慰安婦ではなく日本軍の娼館についてと言った方が良いでしょう…
今の朴槿恵大統領の御父君の朴正煕大統領が発行した米軍慰安婦の公文書の存在からも、公募した売春婦だった事が歴史資料からも判明しています。
…まぁ、ちゃんと自分で古文書読んだり二次資料や三次資料でも読めば、事実はすぐに解るんですよ。
もし、この御寺を建てた北条時宗公や漢族の兀庵普寧和尚様と蘭渓道隆和尚様がいらしゃらなかったら、モンゴル族や朝鮮族に蹂躙され今の日本国は無かった訳です。

鎌倉の武士文化は、実は元に屈しなかった南宋の高僧達の影響も受けて高度な兵法と文化を導入し花開き、そして元軍と朝鮮軍を撃退する程の扶桑武士の強さに中国渡来の学問が融和し、室町文化へと繋がって行った訳ですね。
その継承者の代表格が、鎌倉五山の一つ臨済宗建長寺で軍事や文化を学んだ関東屈指の名軍師太田道灌公であり、同じく鎌倉でも活躍され臨済宗と関係深く曹洞宗の開祖とされる道元上人の残した文化を大切にされた北条早雲公で早雲公も戦国時代の関東に先進的な政治体制を導入した名将として名を残しました。
そして、この道灌公と早雲公は神奈川を舞台にライバルとして外交戦争と武力戦争でも協力したり敵対したりしながら、御互いをライバルとして認めていた様です。
道灌公が亡くなると、政治外交的な要因で対立していた北条早雲公は道灌公の菩提寺を復興し御廟所を整備し、道灌公を御祭神とした太田神社を造営されています。

歴史は必ず過去からも現在からも双方向に繋がります。
神社や御寺は、昔の人の文化を受け継いだタイムマシーンの様な場所です。
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鎌倉武士と南宋の高僧達の文化を今に伝えてくれる静かな鎌倉の神社と御寺は、実は日本を守った鎌倉武士の学問の場でもあり、武家文化の醸成地だった訳ですね。

では!又、次のブログ記事で。
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北鎌倉駅の近くには浄智寺と言う大寺院が在ります。
現在では自然に囲まれた、広大な敷地に静かに佇(たたずむ)む清々しい空気感に満ちた御寺です。
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この寺院は、鎌倉時代の名宰相北条時宗公が開基となり、当時モンゴル帝国に征服された南宗から亡命して来た兀庵普寧(ごったんふねい)和尚が開山と成られた由緒有る御寺ですね。
北条時宗公と言えば、朝鮮から日本討伐を提言された元帝国から降伏する様に脅迫の使者が送られて来た際に、モンゴル(元)に降伏せず戦う事を決定して日本を守った名宰相ですね。
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鎌倉五山のと言うのは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五座の御寺の事です。
大変格式の高い御寺でして…
鎌倉時代は幕府の執権北条家の当主、室町時代に成ってからは京都の足利家の本家征夷大将軍しか、この鎌倉五山の御寺の御住職様を任命する事が出来ませんでした。
つまり、この歴代の住職は、室町時代までは将軍様の御声掛かりの御寺だった訳です。
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現代では6月にも成れば、参道境内の所々に紫陽花の咲く静かで素敵な御寺です。
ところで…
この御寺の開基(御寺や神社の造営者)の北条時宗公は開山(最初の住職)に招いた兀庵普寧和尚や蘭渓道隆和尚と言った中国大陸の漢族の和尚様達を大変尊敬していらっしゃった様ですが、同時に、南宗からの亡命者を受け入れる事で元の征服により滅びる南宋文化を保護し、更に元(モンゴル軍と朝鮮軍)の動向を詳しく聞いていたのだと思います。
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そして、元(の威勢を利用した朝鮮)との対決を決めたのだと思います。
なんだか今の台湾と日本の繋がりみたいですね。
日本に来た孫文先生がいなければ今の臺灣は無かったし、臺灣の蒋介石先生がいなかったら現代の日本も無かった。
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浄智寺は素敵な場所なのですが、若い世代に余り知られておらず観光客が少ないので、本当にゆっくり時間を過ごせます。
この御寺は、緑と花に囲まれた広大なスペースが有りますが、その規模を史実を用いて表現するなら・・・
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昔は鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府鎌倉府の将軍)が役職を就任して、鎌倉に入る時や戦地から帰ってくると真っ先にこの御寺に逗留(とうりゅう)する仮御所に成る程、立派な建物が沢山建ち並んでいました。
時代が下り、鎌倉幕府滅亡時や室町時代の戦乱、その時々に支援者が滅亡する度に建造物が維持できなく成り、極め付けは明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で御寺の領地が接収されてしまい、多くの建物を失いました。
小生は毎回批判しますが、当時の明治政府はキリスト教国を模した国家統治を目指し国家神道と言う新しい哲学に基づいた宗教統治をしたせいで、多くの延喜式内社と呼ばれる縄文文化を受け継いだ古代から続く神社や仏教関連の文化財が荒廃或いは消滅してしましました。
明治政府の唯一無二の失政は、この古来の伊勢系以外の神社弾圧と仏教弾圧により多くの文化財を消滅させた事だけだと思っています。
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ここまで説明すると、何となく御理解頂けたと思いますが、つまり…
この御寺に自然が多いのは、古来多くの堂宇(どうう)が立ち並んでいた場所の建物を、新田義貞軍よる略奪放火や明治時代の宗教弾圧による困窮から、建物が失われた訳です。
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そして、建物の在った場所に歴代の御住職がせめて文化的な心の休まる場に成る様にと、多くの御花や樹木を植えられた訳ですね。
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関東の紫陽花の名所として有名な御寺は鎌倉の長谷寺と、浄智寺と同じ北鎌倉地区の明月院が有名です。
この浄智寺は紫陽花の株は少ないのですが、境内の各御堂の散策路は本当に素敵な雰囲気を醸し出していて、一人でゆっくりしに来ても、カップルで手を繋いで歩いても、良い時間を過ごせます。
ついでに神奈川県の紫陽花の名所も三ヵ所紹介して置きます。
●【北鎌倉駅から徒歩10分の明月院ここクリック!
●【鎌倉市江ノ電長谷駅近くの長谷寺】←ここクリック!
●【横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)の永谷天満宮】←ここクリック!
この内、明月院は浄智寺や2015年公開の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台に成った東慶寺からも徒歩圏内です。
東慶寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!
駆け込み女と駆け出し男
この浄智寺、是非、紫陽花の季節や鎌倉江の島七福神巡りで他の御寺や神社サンと一緒に散歩されてみて下さい。
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鎌倉江の島七福神は↑こんな可愛い専用の色紙を購入すれば、こちらに各寺社の御朱印を頂けます。
この七福神御朱印巡りは1日では回り切れないので鎌倉や湘南に遊びに行く良い口実にも成り、数回に分けて充実した休日を過ごせると思います。
鎌倉の各地域を散策する事が出来ますよ~。
話を浄智寺に戻します。
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本当に色んな草花樹木が植えられていて、目の保養に成ります。


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何だか鎌倉時代にタイムスリップした様な雰囲気です。
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この、植木の散策路を歩いていると、そのまま大木に囲まれた道に出ます。
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この日は御婦達のグループもいました。因みに2年前の2014年の6月。
北鎌倉は紫陽花の季節なのに、こんなにユッタリ散歩出来るんですよ。
勿論、この遊歩道も広大な浄智寺の境内の一部分で、この先には昔の武将達の矢倉(やぐら=廟所)や布袋様の祀られているエリアにもつながっています。
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この隧道(トンネル)の先が布袋様。
残念ながら、布袋様の写真は撮り忘れていました。
そして、その先が庫裏(事務所:住居スペース)に繋がる出口です。
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どうやら家康公がちょくちょく旧鎌倉郡の野庭城~玉縄城周辺に鷹狩に来られた際に、浄智寺に山門を寄進されたそうで、それ以来、葵紋の使用を許されたそうです。
徳川家康公と参謀の本多正信公は熱心に神仏を保護された殿様だったので、横浜市や鎌倉市や藤沢市には、結構、徳川家所縁の御寺が残っているんですよ~。

6月、紫陽花の季節に成ったら是非!御隣の東慶寺サンや、北鎌倉の紫陽花寺として有名な明月院と合わせて御散歩してみては如何でしょうか?

あ~!そうだ!
開山の兀庵普寧(ごったふねい/ごつあんふねい)和尚様!
実は現代の日本語のグチャ混ぜって意味で使う「ごっちゃごちゃ」とか「ごったごた」の語源に成った人物だそうです。
鎌倉時代の臨済宗は、講義を中国大陸の華語(中国語)で行っていたので、恐らく兀庵普寧和尚はまだ華語の出来ない若い僧侶の為に、華語だけでなく日本語を交えながら解り易く御講義された様です…
だから❝日本語と華語が、ごったごた混ざってた❞事から、混ざってる事が❝ごったごた/ごっちゃごちゃ❞と成った様です。
建長寺はケンチン汁の発祥地ですし、当時の鎌倉が日本文化を昇華させた強い影響力を持つ重要な場所だった事が解る話ですね♪

では、又、次のブログ記事で。
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