歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:蛍

横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ近隣の庄戸地区に移転してしまったんです。
昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 
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日本の政治 に参加中!
円海山を御存知ですか?
今、その円海山と言う山の「瀬上沢」と言う沢で蛍を見る事が出来ます。
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画面ぶれててすいませんね、街灯の無い真っ暗な農道での撮影…携帯ではこれが限界でした。

6月7日、横浜市港南区磯子区栄区にまたがり鎌倉まで繋がる横浜最後の大森林、そして平安時代からの武士達の駆けた鎌倉早駆けの道の史跡が林道として残る円海山に蛍を観察に行ってきました。

蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。
瀬上池の位置
この栄高校の有る場所一帯は奈良時代からのタタラ製鉄遺跡が出土した史跡だった場所であり、その瀬上沢も奈良時代から今に灌漑水稲耕作を今に伝える文化醸成地であります。
大げさでは無く、この一帯の田畑は農業の史跡であり、古代からの灌漑施設の史跡とも言えます。

今日、蛍は5~6匹出てきて可愛いオシリの優しい光をホワ~と照らしてくれました…
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携帯だから良く写せないけれど、それでも優しい光がわかりますよね~♪

小生が子供の頃は、良く瀬上池にザリガニを獲りに自転車で行って、みんなで瀬上沢で水遊びしたり瀬上池で釣りをしたり、林道を駆けずり回って遊んでいました。
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昔はもっともっと沢山の可愛い蛍が見れたんです。
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左上の2匹の蛍君達…オシリが光ってるの判りますか?
昔わね~瀬上沢には天然のフナもいたんですよ~!
今でも瀬上池にはいますけれど、もう、瀬上沢にはフナはいません…


この瀬上沢周辺、局地的に見るとぱっと見は有り余る自然に囲まれているようですが…
瀬上沢

少し離れて見てみると…
瀬上池の位置
…丘の上を宅地開発されてしまい自然環境が劣化したせいで蛍も激減し、フナも消えました。
沢蟹も減り、トンボの幼虫のヤゴのエサになるカワニナも減り…
この瀬上沢も自然環境が崩壊寸前、歴代市長の御蔭で首の皮一枚、繋がっている状況でした…

が!

近年、歴代市長や市民の意志を踏みにじり、ふとどきにも!この沢の自然環境にトドメをさして宅地開発しようとする業者とそれを止めない市長が出てきてしまいました。
東急グループと、その労組と、林市長です。

蛍を消し去る意志が無かろうが、宅地化した瞬間に間違いなく蛍は消えます。
結果的に消えてしまえば、自然環境を破壊したのは開発した業者」と、その業者の労働者の代表の「労組」と、歴代市長の「里山思想に基づく円海山の保護」と乖離した「開発容認する市長」です。
つまり、この瀬上沢においては「林文子市長」と「東急グループの労働者」と「東急グループの経営者」と言う事に成ります。

皆さん、横浜市にこんな素晴らしい自然環境が首の皮一枚つながった程度の危うい状況で残っているのを知っていましたか?
円海山は横浜市で一番高い山なので風景も綺麗です…
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この通り、まだ神社や御寺が生活に密着していた昔の古代~戦前、多くの関東地方の先人が「此花昨夜姫(このはなさくやひめ)」の化身として仰ぎ見た富士山も綺麗に見えます。
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先に述べましたが、円海山の林道は鎌倉武士達が利用した古道の史跡で、今でも円海山~鎌倉の古代の出入口だった十二所の大平山の古道や鎌倉時代の出入口だった朝比奈峠の朝比奈切通しへ通じています。
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皆さん、蛍を見に行って古代人から受け継いだ自然を鑑賞してみませんか?
可愛い蛍君達に、弱ってしまった自然の中、ギリギリ残った儚(はかな)い可愛さを見せてもらい、瀬上沢の自然の大切さを感じて見ませんか?

円海山に富士山を見に行って、先人達が女神さまとして拝んだその美しい姿を心で感じてみませんか…?

この円海山は文化醸成地だったので、以前のブログ記事で紹介した竹林の風景が美しく古典落語「峰の灸」の舞台に成った「円海山護念寺」と言う御寺や…
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元々は護念寺の本院だった安養山 峰の阿弥陀寺も在ります。
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この阿弥陀寺は浄土宗総本山である京都の知恩院の第四十六世、了鑑大僧正を排出した由緒の有る御寺でも有ります…
その阿弥陀寺の前にある峯白山神社は阿弥陀寺の昔の和尚様によって当時の阿弥陀寺境内だった現代の境内地に白山権現様を勧進して開かれた神社です。
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瀬上池と瀬上沢の近く、阿弥陀寺とは円海山の反対側八軒谷戸には白山神社古址と旧参道に架かけられた横浜最古の石橋で神奈川の橋100選の一つにも選ばれている昇竜橋と、庄戸地区に移転した白山神社も有ります。
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この神社の白山権現の神様は天皇家の御先祖様に当たる女神様です。
そんな神様が鎮座し、大僧正を排出し、古典落語の舞台にも成った円海山ですが…
可愛い蛍も「瀬上沢」で待ってくれていますよ~!

皆さん、鎌倉文化や古代人の歴史を刻んだ円海山、是非、この機に散歩しみて下さい。

注意!
蛍を鑑賞する際は以下の事を順守して下さい!

蛍を見に行く時は大人数で行かない!…大人数の集団だと虫さんがビックリして逃げてしまします!
暑くても長袖長ズボンに虫よけちゃんと塗って行くのをお勧めします。…自然の中、夏、当然、蚊がいます。
タバコを吸わないで!…火事の元な上に、匂いで虫が逃げます。そもそも条例で禁止されています。
火気厳禁!…当たり前。見かけたら通報します。
ゴミは持ち帰れバカ野郎!…そもそも自然公園でゴミを出すな。
夜中に騒ぐなバカ野郎!…風流の欠片も無い事をするなら来るな!騒ぐなら昼間の川遊びにしろ!てか祭りに行って騒げ!てか寧ろ日本人辞めてどうぞ!
以上、宜しく。



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節分は豆まき派? 恵方巻き派? に参加中!
関東では節分に豆撒きをし、関西圏で恵方巻きを食べる様に、地域住民に根ざした文化は、それぞれ由来に成った文化醸成地が有ります。

横浜市港南区栄区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園が有るのを皆さん御存知(ごぞんじ)ですか?
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域でもあります。
この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。

実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。

更に‼︎

蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の金沢区の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山大谷戸広場側です。
昔ながらの貴重な里山保存区域です。
綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?
本当、貴重な自然と里山なんです。

今は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。

以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。
今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!
この瀬上池は釣りが自由に出来て、フナや鯉なんかが小生子供の頃は釣れました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。
この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。
別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!

円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所は、下の写真の場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。

以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
マジなんだかな〜?
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する暴挙だろ、これ。

彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りませんね。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか我々で語り継いで行きたいと思います…
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…
…くれるかな〜?
皆んなで淡々と事実拡散するだけですね。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の杜でもありますから。
過去帳にも歴史として残るし…。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

あ、そうだ!
前回の記事投稿から10日も間を空けて済みませんでした!

では皆様、又、次のブログ記事でお会いしましょう!
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