愛知静岡旅3日目・・・

朝は犬山温泉の旅館、臨江館から始まった。
朝食を頂いて、朝風呂に入り、身支度をして犬山城に向けて出発。
従業員は女将さんはじめ、皆さんとても親切で良い思い出に成った。

犬山城は臨江館から徒歩でも10分程度と近い。
小生は車での移動なので、犬山城までは5分もかからずに着いた。
CIMG0503
犬山城の入口には針綱神社と言う延喜式内社が在り、それが城址入口の目印でもある。
CIMG0502
犬山城の鎮護だが、築城後に同地に移転させられたのではなく、寧ろ築城以前からこのこの地に鎮座していた神社さんらしい。
神奈川県と東京都と埼玉県の延喜式内社は少し知っているけれど、愛知県の延喜式内社の事は今回少し調べた程度だったので、訪問に際して予備知識が無かったで意外な場所で古社に御参りが出来て嬉しかった。
CIMG0504
その横には三光稲荷神社も有る。愛知県は寺の軒数が日本一なのだが、神社も可成り多い。
この神社も御城の登城口。
CIMG0506
神社の前には切通し状の道路が通っているが、これが犬山城の主要部分と外を隔(へだ)てる堀切の堀底道だったりする。
まぁ、証拠は後程掲載する縄張り復元模型の写真で確認して欲しい。
犬山城の詳しい解説は又にするとして、何より見所は国宝の天守閣、確か小生の子供の頃は1560年位の建築とされていた様に思う。現代では諸説有るらしいが遅くても江戸時代初期から存続する事は間違いない。
CIMG0524
天主閣=御城と思い込んでる歴史音痴も多いが、これは戦時の指揮所で平時の倉庫、あくまで居住空間では無い。後にも先にも天主閣に居住したのは織田信長公だけと言うのが一般的な説らしい。
ま、絶対に他にも天主閣や櫓で寝起きした殿様もいたと思うけどね。
それはさておき…
CIMG0531
戦時の指揮所だけあって当然居住性は悪く、階段も敵兵が登り難(にく)い様に急な訳だ。CIMG0533
現代人男性の平均身長170cm前後でも登り難い、当時の日本人男性の平均身長は150cm前後なので、この階段は当時の人にとっては最早、梯子(はしご)の様な物だっただろう。
現代の犬山城天主閣は博物館の様な機能も備えていて、甲冑や縄張り図も展示されていた。
CIMG0542
まぁ、指揮所兼展望台みたいな場所なので、天守閣の事はもう眺望を見て貰った方が早い。
CIMG0549
すんごい!高いの!
CIMG0550
欄干が腰より下なの!
小生は高所恐怖症なの!
もう絶対に登りたくない!
けどスンゴイ風景綺麗でしょ~‼皆、犬山温泉に泊まって、犬山城見たり旧尾張地方の観光は推薦出来るよ~!
…と絶叫したくなる場所でした。
犬山城址公園から降りて来て、最初にしたのが尾張名物の田楽を食べる事。
城の前には御土産物屋さんや飲食店が数件立ち並んでいて…
CIMG0553
目の前に在るこの店で田楽を食べた。
CIMG0554
美味しかったですよ。ついでに近所の御土産物屋さんで同僚への御土産も購入。
そして、この田楽屋さんから徒歩で1分の❝城とまちミュージアム❞ へ移動。
CIMG0556
歩く道は旧武家屋敷街だったメインストリート。
城と町ミュージアムは犬山城に関する様々な時代の縄張り図や城址と城下全体の復元模型が有り、犬山城を見るなら絶対に見て置きたい場所。小生は城に行ってから此方(こちら)に来たが、先に此方に来てから城を訪れた方が良いと思う。
CIMG0557
本当に見事な復元模型。川越市立歴史博物館の河越城と城下の復元模型が今まで最高傑作だと思っていたが、これは其れを遥かに上回る出来だ。
CIMG0558
本当に良く城下の様子や縄張りが解る。恐らく戦国時代の犬山城は本当に山の部分だけだっただろう。
CIMG0563
これだけ大規模な総構えに成るのは、城主成瀬氏が徳川家の一将として小田原城攻めに参加し近世城郭の基礎を学んで来たからだろう。
ともあれ、これだけの大城郭が他の地域でも多く建設されたのは徳川家康公が天下の騒乱を治めて平安を世にもたらしたから。重税の豊臣政権じゃ、いずれにせよ天下は治まらなかっただろう。
家康公が関東入部の際、前領主の北条家が税率40%と現代に比較しても善政と呼べる政治を行っていたせいで税率を変更できず北条家の官僚統治を模倣しなければならず苦労したのは有名な話で、徳川の治世が上手く行ったのは北条早雲公・氏綱公・氏康公の御蔭とも言える。
しかし、この博物館も犬山城天守閣も素晴らしい。運営されている職員の方々に感謝。
ここを10年ぶりに見終わって、また一つ10年ぶりの小牧山城址公園に移動…
CIMG0567
昔来た時は、小牧山城の上に存在しなかった歴史事実では存在しない筈の鉄筋コンクリートの天守閣が有って非常に憤慨した思い出と、当時は雑木林化しながらも荒らされていない空堀を散歩した思い出が有る。
約10振りの訪問だが、この時間を経て小牧市も反省したらしく城址公園としての整備を本格的に❝やっと❞始めたらしい。
CIMG0565
今回の見せ方考える整備は素晴らしいと思う。これも恐らく現在の小牧市教育委員会の委員長と市長が素晴らしい人物なんだろう。公園に変な展示館みたいな箱物を作る位なら、ちゃんと発掘してこっやって芝生で覆った方が昔の様子が解るし子供も段ボールで滑って遊んだり出来るだろう。
神奈川県綾瀬市の早川城址公園みたいに曲輪や堀底に植物園や遊具を設置しても良いだろうし、何にせよ、今の小牧市の取り組みは素晴らしい見せ方だ。
昔は嫌いだった天守閣にも一応登って来た。
CIMG0573
この建物は歴史音痴でド阿呆な成金が、城址に寄付の名目で全く関係ない鉄筋コンクリートの建物を建ててしまい史跡を破壊した負の遺産なのだが、今回訪問したら、負の遺産を何とか良い遺産にしようと今の小牧市の市長さんや教育委員会の方が努力されて中は立派な展示館に成っていた。
CIMG0579
本丸の模型とか…
CIMG0580
小牧山城の縄張り模型とかも展示されている。
今回、ここに登った一番の目的は、ここから生駒家の居城、江南市の小折城址に在る久昌寺が見えるか確かめる事だった。
小牧山城からの展望
一応、事前のシミュレーションでは方角は解っていたのだけど…

CIMG0584
やはり、大きい工場が乱立し、綺麗には見えなかったけど、戦国時代の当時は本丸から小折城が良く見えたと思う。
何でこんな事を確かめに来たかと言うと、武功夜話と言う古文書に現代語にするとこんな内容の記載が有る…
信長公の実質本妻で体裁上の側室だった生駒類(おるい/別名:吉乃)様と言う方がいて、信長公との間に年子で2人の男子(信忠公・信雄公)と姫(五徳姫)を産んだせいで体力を落とし、亡くなってしまった。お類様が亡くなる直前、信長公はこの小牧山城の本丸に御台所(みだいどころ=奥方の館)をわざわざ築いて、お類様を生駒家の小折城から引き取り、信長公は暇さえ有れば自ら看護したそうだ。
そして、看護の介無く塁様は亡くなってしまい、小折城の類様の館、つまり信長公が若かりし頃に二人で過ごした場所の西側で亡骸が荼毘(だび)に臥された。つまり火葬された。現在の田代墓地と言う場所だ。
この田代も本来は田城と書いて生駒家の小折城所縁(ゆかり)の地名だろう。
信長公はそれ以降、いつもお塁様が荼毘に臥された方を見ては泣いていたそうで、これは信長公の性格の実像を記録した貴重な証言な訳だ。これを書いたのは前野長安の子孫の吉田さん家の御先祖で、前野長安は蜂須賀小六正勝公の義兄弟、つまり信長公とも生駒家とも秀吉とも親しい人物だった訳だ。
同様の話は生駒家にも伝わっているそうだ。
とりあえず当時は見えたであろう小折城の方面が見渡せるのは確認出来て満足し、大急ぎで走って山を下りて車に乗り、布袋駅に向かった。
大急ぎの理由は布袋駅で一宮市在住の歴史仲間と12時30分に待ち合わせ、更に13時に江南市の久昌寺で信長公の母方の親類の御子孫の土田(どた)さんと待ち合わせをしていたから。
何とか時間の少し前に久昌寺に到着した。
CIMG0587
ここは生駒氏累代の殿様と於類様の菩提寺。だから織田信長公・信雄公・お類様と歴代殿様の御位牌が祀られている。
CIMG0588
本堂の様子は江戸時代のまま。
10年前に御会いした土田さんとは違う、今の檀家総代の土田さんに面会し衝撃の事実を聞かされた。
久昌寺は生駒さんと檀家さん僅か18家の努力で戦国時代から存続させて来たが、明治政府と戦後の宗教改革で土地を接収され、今年2016年になりいよいよ維持が困難と成り廃寺が検討されているそうだ。
この記事を見た人は、出来れば江南市長や江南市教育委員会、大村愛知県知事や愛知県振興部観光局や愛知県教育委員会に❝御寺全体の史跡認定による保護と観光地としての活用❞を陳情して欲しい。
●大村愛知県知事の陳情先…事務所リンク
●沢田江南市長の陳情先…ホームページリンク
もし、この久昌寺が廃寺に成り更地に成ってしまうなら織田信長公のファンのみならず愛知県にとって取り返しのつかない大損失に成るだろう。土田さんの話では相当に切羽詰まっていて今年か来年かと言う話らしい。
もう2つ・・・
●江南市観光協会の陳情先…ホームページリンク
●織田木瓜紋会(織田家子孫の作る織田家所縁の史跡保護の活動会)…ホームページリンク

CIMG0589
今回、土田さんの許しを得て御位牌を撮影させて頂いたので掲載しますが、小生のブログの閲覧者には御位牌を拝んで、この御寺の存在をちゃんと考えて欲しい…
本当は写真に写したくない。10年前に先代の檀家総代土田さんと御縁が出来て御位牌を拝ませて頂いて以来だが、御位牌と言うのは神道で言えば御神体の様な物だし、仏教的には仏舎利に等しい存在だから。
信長公・お類様、御許し下さい、御二人を皆に見て貰い、色々考えて貰います…
CIMG0595
CIMG0596
久庵桂昌大禅定尼 織田信長公之室・・・お類様。
CIMG0597
総見寺殿相国一品泰巌大居士・・・織田信長公が没後に朝廷から追贈された官位と中国式の官職。
相国とは日本の太政大臣や右大臣に征夷大将軍を合わせた様な称号。今風で言うと大統領とか総理大臣。
皆、こんな大切な御寺無く成っちゃって良いの?
小生は一先ず、御寺への寄付を集める手段を考えながら、県知事や市町への陳情文書を作成します。
直接関係ないけど名古屋の観光復興に熱心な河村名古屋市長にも、織田家所縁の津島神社のある津島市や織田家初期の居城の稲沢市と愛西市の市長にも連携できないか手段を探してみます。
捲き込めれば愛知県の大企業も大旦那(スポンサー)に巻き込みたい。信長公と吉乃様の歴史が残る場所を残せるならボランティアでなんでもやろう。
CIMG0606
本堂の裏には御廟所が有ります。
先に御位牌を見て頂いたので吉乃様の墓の位置は解るはず。
四代生駒家長公は於類様の御実兄で、信長公の経済を支えた人物だ。萱津の戦いで敵軍に馬の群れを突撃して混乱させたり奇策に富んだ軍師でもあった訳だ
織田家が没落すると、尾張徳川家の家老として活躍した。3000石の大身だったそうだ。織田の天下が定まっていたらいずれ大名になられた人物。
まぁ、歴史にifは無いが、この久昌寺が日本規模で大切な御寺なのは御理解頂けたと思う。
残念ながら交通手段が今の所不便で観光素材に活用されておらず、愛知県は文字通り日本の宝を持ち腐れさせて廃寺の危機に追いやっているのだ。しかし、大村知事や河村市長の知る所と成れば、事態は必ず好転するだろうと思う。

久昌寺の近所には龍神社が在る。
ここは生駒家の御子孫や土田さん達の伝承で、お塁様の邸址に当たる地域とされている場所だ。
CIMG0617
神社には八大龍王が祀られていたが、神仏分離令で龍神社と名を改めた。
その前にも史跡が在る。
CIMG0612
元々は龍神社ともども久昌寺の境内地。
ここは雨乞いの場所だったらしい。
CIMG0620
お類様と信長公の事を考えると、縁結びの御利益も有りそうだ。
もっと参拝客がいて然るべき神社だと思う。
そこから名鉄の線路を挟んで向こう側、田代墓地に移動した。
CIMG0622
関係者じゃないけど、御線香上げに来たから車を停車させて頂いた。
ここは、お類様が荼毘に臥された場所。
CIMG0623
10年位前に来た時には無かった看板が有る。江南市も観光資源として生駒家を重視するなら、やはり久昌寺の窮地は境内全体の史跡化を図り税金投入して救うべきだと思う。そして周辺自治体と連携して観光地のアピールをするべきだとも思う。単独では無理が有る。
CIMG0624
お類様が火葬された場所には桜が植えられている。通称:吉乃桜。
以前来た時には、通称の吉乃で役を演じた高木美保さんがここを御参りされた時の写真が有った。でも朽ちて処分された様だ。高木美保さん、久昌寺の復興に力を貸してくれないかな…。
拝み終わったら、元々訪問予定だった江南市歴史民俗資料館に小折城址の縄張り図を見せて頂きに上がる事にした…
が!途中寄り道。
堀尾跡公園。 秀吉配下堀尾氏の邸址だ。
CIMG0627
この立派な門の先が公園で、元々、名古屋市熱田神宮の前に在った裁断橋が移築されている。
裁断橋の歴史は戦国時代初期には熱田に存在したそうだが、現在の橋は堀尾一族の堀尾金助が小田原攻囲中に陣没し、その供養の為に母によって架けられたそうだ。悲しい歴史が有るね。
CIMG0632
でも、堀尾一族は堀尾吉晴公が松江城主と成り大出世した。きっと金助も無駄では無かったんだと思いたい。
こんな悲しい話も歴史が好きだとしばしば直面する。だから、戦争に成らない防衛力の大切さと、戦争は最終手段であり、外交力と情報収集力が如何に大切かも解ったりするんだな。
治には桜が綺麗な場所。以前来た時は五条川沿いに桜が咲いて、とても良かった。
CIMG0638
橋の先には館跡に立派な八剣神社が建っている。堀尾家の名と共に末代まで周辺の人に大切にして欲しい。
この写真撮影の間、友人は近所で来た事が有るのにずっと待っていてくれた。感謝。
やっと江南歴史民俗資料館に移動。
CIMG0641
職員の方が居たので、とりあえず久昌寺の状況が廃寺検討段階に有る事を伝えたが、新しい館長さんは史跡としての反応より建物の物質的な話とかに成ってしまって少し問題から話題が逸れてしまった。
でも、この方も親切な方で、貴重な生駒家の資料のコピーをたまたま見せて頂けた。
CIMG0646
小さくはない、中くらいでもない小の大くらいの広さの博物館だが、こんな古文書や絵図の複製の展示も有って江南市の事と生駒家と蜂須賀家と前野家の基本的な情報は学習できる場所。
昔来た時に、色々親切に対応して頂いて教えて頂けた事を思い出しながら見学した。
こう言った素晴らしい場所を設けて下さっている江南市役所の皆様、市長様、ありがとうぞざいます。
出来れば久昌寺の重要性も再度検証して史跡認定して頂ければ全国の信長公や歴史のファンは安心すると思います。
ここから、宮後八幡宮に移動。
江南市の宮後地区は蜂須賀のあま市とは別のもう一つの拠点だった場所。
そして、蜂須賀家の城塞の近所に蜂須賀家政功によって造営された宮後八幡社が現存する。
CIMG0651
 小さい神社だが周囲の石組はどうも江戸時代のままだそうだ。
CIMG0653
確かに、木曽川から持ってきた石らしき物を野面積みにしてある。
現代の石組じゃないよね。
CIMG0654
拝殿も社殿も小さいけれど…
CIMG0655
CIMG0656
地元の人の誇り。
CIMG0658
そして、あま市と江南市と徳島県を殿様の御縁で繋ぐタイムマシーン。
CIMG0660
小さい御社だけど、蜂須賀家正公奉納の檜皮葺の格式高い屋根。
さすが!津島大社の近くの蜂須賀城主の御子孫、境内地が小さいなりに、古来の御社を建造される辺り故実への御理解が深くてらっしゃる。
多分、現代では氏子サン少ないんだと思う。
もっとここは大切にされ信仰されるべき場所、なんてたって水運と経済と実務で日本屈指の実績を残された蜂須賀家の御利益に肖(あやか)れる出世神社であらせられる訳で。
もし、神社仏閣史跡の保護活動が形に成れば、覆殿を作れたら良いな~と思う。
氏子サン達も増えて、町の人によって大切にされ、観光客も増えて宮司様常駐できる程参拝客で溢れる日が来ないかな…。小生に何が出来るだろう?
ここから北西に徒歩2分の距離に宮後城址、蜂須賀家の要塞跡が在る。
CIMG0662
在ると言っても、周辺の道路が当時の水掘りの形状を残すのみ。
まぁ、城と言うよりは要塞化した居館兼、水運拠点と言う場所だろう。
CIMG0664
イタズラして捲(めく)れた場所をはがすクズがいるようだ。イタズラした奴が反省する神仏の軽い罰が落ちます様に。この前通った時に転んで膝少し擦り傷剥けるくらい。
ここから最終目的地だった縄文文化の男根崇拝が残る延喜式内社田県神社に向けて出発した。
途中で前野天満宮と言う神社を見かけ、友人と…
「そう言えば、この辺りに前野さんの御屋敷有るよね?」
…と言う話題に成り、運転しながら立派な漆喰の御宅を発見!
CIMG0666
コンビニに車を停めて歩いて戻ると、友人の感の通り前野家の御子孫の吉田さん家の御屋敷だった。
前野家ってのは、蜂須賀小六正勝公の義兄弟の前野長安公ね。
一時は大名にも成ったけど、上官の豊臣秀次公が耄碌(もうろく)した秀吉に有らぬ謀反の疑いをかけられて切腹させられた際に一緒に責任とらされて切腹、御一族は吉田と名を改めて、元々の出発点の江南市に帰農して残った。

その吉田さん家の前で、美人な奥さんと少年が門前の花壇をお手入れされていたので御声がけしたら吉田さんの奥さんだった(笑)。
本当に凄い美人!そして坊やはとっても礼儀正しい!久しぶりに愛知に来て気が付いたのだが、江南市辺りは子供の礼儀がシッカリしている。この吉田さん家の坊やに限らず多くの少年少女が観光客に挨拶をしてくれるのだ。親達がちゃんと歴史を伝えて強い責任感と道徳心が受け継がれているんだと思う。
多分、これは防犯にも役立つ良い習慣だ。不審者はビクっとするんじゃなかろうか?
ん?小生見た目が不審者なのだろうか?
いやいやデジカメを首から下げてるからだと思いたい(笑)。
CIMG0669
門前にはモニュメントと説明文。
CIMG0673
本当に立派な御屋敷。これを維持されている吉田家の皆さんに頭が下がる。
ちゃんと奥さんの許可貰って撮ってるよ!
CIMG0672
奥さん見切れとる(笑)。
あ~アンナ奥さん小生も欲しい~子供も欲しい~…
でもその前に、寂れ荒れ廃寺廃社の危機に在る神社仏閣と史跡を復興させる活動を創生し成功させ未来に文化伝承歴史を残したい。
和尚さんや宮司さんや殿様の御子孫に、強い援護射撃を撃てる様に成りたい。
…とか吉田さん母子が草むしり頑張ってるの見ながら思った。
美人の奥さんと少年の草むしりを見て色々考えながら“男根崇拝の神社”田県神社へ移動(笑)。
田県神社は小牧市に所在するが、江南市と市境が複雑に入り組んでるから余り、市をまたいだ実感は無い。
CIMG0674
田県神社は古代の文化を受け継いでるだけ有り延喜式内社だ。
境内も敷地が広い方。
CIMG0678
社殿も立派だ。社務所には巫女さんがいっぱい…
う~ん、何か複雑な気分に成るのは小生が馬鹿で煩悩の塊だからだろう。
皆さん古来の文化を守って下さってる事に先ず感謝するべきだな。
CIMG0681
奥院。
の参道に…
CIMG0684
なんかいる。
CIMG0686
なんかいる。
でもこれ、現代の奉納だそうだ。
本殿に行くと、御神体が祀られていた…
CIMG0689
「(;´・ω・)おおっぅふ」
・・・と、変な声をあげてしまいそうな御神体そのモノ。でも、縄文時代とか稲作が浸透する以前の弥生時代は日本人の平均寿命が30歳位と推定されているから、子孫を残す事はとても大切で、神様にお願いしたく成る位切実だったんだろうね。だから男根や女陰に似た奇岩が信仰対象に成っていたんだと思う。
横浜市の遺跡からも環状列石や石柱が出土してるしね。
多くの延喜式内社は縄文時代の遺跡が近くに在って、神代に当たる縄文後期の文化と思しき伝統が残っていたりする。
神奈川の寒田神社なんか弥生時代の木製御椀が残っているけど、日本武尊が用いたと言う伝承と時代が整合性が合ったり、高部屋神社なんかは古代からの名残で注連縄に吊るす莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)を明治まで宮司が10km歩いて海まで採集に行っていたが、これは弥生時代まで高部屋神社周辺が海だった地学とも整合性が有る伝統だ。
だから、この田県神社も古代人が男根崇拝に子孫繁栄と存続を願った場所がスタートだったんだろう。
そうやって我々の前には縄文文化以来数え切れない祖先達が命を繋いでくれて、現代の社会と文化が有る訳だ。
御先祖様、申し訳ない。
田県神社で社務所が閉まる直前に御朱印を頂き、この時点で17時位。
車に乗ると江南市へ逆戻りした。
CIMG0692
目的は撮影し忘れた小折城址の石碑を撮影する為。
本当、歴史仲間を引き回して申し訳ない。
生駒氏の邸址と石碑が布袋東保育園の横に在る。
CIMG0695
ここは親切に略歴と、小折城縄張り図、そして現在の地図に照らし合わせた城域推定範囲が書き込まれている。
これを紹介して置けば、現地を歩きたい人はココに来れば小折城の事を下調べしないでも良く解ると思う。
そう思って写真撮影に来た。
撮影中、地元の方が観光客が来ている事を珍しがって、小生らと御話しして下さった。
ここが大切な城址で有る事や、久昌寺や龍神社が信長公と類様夫妻がラブラブに過ごした場所だと言う事を御存知無かった様で説明したらビックリしていた。
そして、久昌寺を生駒さん達が廃寺にしようか悩む段階にある事を伝えると「町でなんとかできないのか!」と本気で怒って下さった。
少し嬉しかった。地元の人が大切さを認識して、危機意識を持って支援の手を差し伸べ始める事が一番力強い支えに成るから。
市民が動けば市長や観光協会の方々も予算を付けて堂々と保護に廻れる様に成るだろう。
これだけ友人に付き合ってもらい、本当に申し訳無かったので夕御飯を御馳走する事にした。
image
ひつまぶし備長本店 丹羽郡大口町
実は最初からここに来る予定だった。
先日、東京スカイツリー店で食べて美味しかったので、この本店に大分前から来たいと思っていたのだ。
そして、ここで食べて正解だった。
image
スカイツリーより安い、そして気持ち更に美味しいと思った。
友人も一宮市民なのにここを知らず、食べて「美味しい!」と喜んでくれた。
良かった良かった。
食事が終り、友人を一宮市の自宅へ送って別れた。
次は何ヵ月後?何年後に会うのだろう?とても大切な友人だ。御互いに織田信長公を崇拝し、そしてあらゆる宗教を差別せず、ちゃんと礼をもって拝む。自分の信仰は信仰。そして皆に大切な場所は自分にも大切な場所。
それが解る友人。

自分は翌日に真清田神社に御参りしてから静岡に移動する予定だったので、駅前のアパホテルに宿泊した。
ここでも犬山市や江南市や小牧市同様、どこに行っても名古屋と違って親切だった。
そして、10年前に比べて凄く都会に成っていてビックリした。
友人に感謝、愛知県の人々に感謝の3日間だった。

次は愛知静岡旅行4日目、静岡の旅の休日雑記を書きます。