歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:行基

神奈川県の伊勢原市には神話の時代、弥生時代以前から聖地として存続する神社が数ヵ所在(あ)ります。
それ等の神社の旧社域からは縄文時代の祭祀遺跡~古墳時代の墳墓等が沢山出土していて、伊勢原市の大山の山頂~麓(ふもと)まで日本の神話を証明する様に❝地下を掘れば遺跡❞と言っても大げさでは無い神社が沢山有ります。
その一つが高部屋神社と言う神社です。
延喜式に登場する神社で、式内社の中でもかなり古い歴史を持つ神社です。
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高部屋神社
この現在の高部屋神社は平安時代に現在の場所に社殿を移されたのですが、それでも尚、神話の時代の神秘や「浦島太郎伝説」の結びつきを彷彿とさせる建造物や意図的に古代の儀式を惹起(じゃっき)させる配置で植えられた古代は霊的な意味を持った植物等、多くのミステリーを持ち、尚且つ明治時代に成るまで江戸から御参りに来る観光客で賑わった程の有名な神社でした。
なんせ、この神社の目の前の道、現在は普通の住宅街の中の道ですが、この道は昔の実は大山街道なんです。
江戸時代、江戸の市民には富士山登山と伊勢原市の大山登山はセットで憧れの観光プログラムでした。
これは平安時代末期にも、鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公も行ったレクリエーションを兼ねた山岳信仰でした。
現代では余り❝権化❞や❝権現❞と言う言葉を口にする日本人もいなく成りましたが、昔の人は自然と神様や仏様の存在を結び付けて同一視する事で自然信仰と神仏崇拝を同時に行っていました。
伊勢原市に在る❝大山は大山祇大神の権化❞として…
富士吉田から登山する❝富士山は大山祇大神の娘神様の此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の権化❞として…
それごれ信仰対象と成っており、江戸市民はその山を登る事で幸せに成る御利益を授かろうとしたり、ごく自然に風景の美しさに感動したりしていました。
先ずは、伊勢原市周辺の神社や城跡の位置関係を御覧下さい。
高部屋神社周辺 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して見て下さい!
画像の中心に赤いマークで高部屋神社の元宮、画像の右下に高部屋神社が有ります。
実は、この高部屋神社も元は渋田山と言う場所に在り、山岳信仰の対象でした。
渋田川の水源地で弥生時代から農耕を始めた日本人にとって灌漑用水に利用したり、湧水地は飲用水の聖地として大切にされたんですね。
しかも!
古代はこの渋田山は❝奥津城(おくつき)❞と呼ばれていた事が知られています。
奥津城とは現代の神道では一人一人の御墓の事を指す言葉に成ってしまいましたが、元々は神社の御祭神として祀られた聖地、つまり御祭神として神格化された古代の豪族の“古墳”や信仰対象になる聖地その物を指す代名詞だった様です。
そして、この一帯は現代では山深い温泉地としての印象しか無い人もいると思いますが、実は古代には津久井方面に抜ける街道や山梨に抜ける街道、古代の東海道だった矢倉沢往還が伊勢原市や厚木を通過する重要な土地でもありました。
実際、高部屋神社の奥津城である渋田山は実は飛鳥時代や奈良時代にも重要な聖地で、神道とも仏教とも結び付きの強い修験者の人々に大切にされていました。なので奈良東大寺の大仏を作った行基大僧正が日向薬師の別名で有名な宝寺坊(ほうじょうぼう)を開く等、高部屋神社元宮と三之宮比々多神社を中心として周辺一帯は縄文~奈良時代くらいまでの古代人と何か関係の有る山城か山岳集落の有った事を匂わせる聖地でもあります。
実際に遺跡だらけなんですよ、伊勢原市と厚木市。
そして奥津城の❝城❞と言う字は、本来の漢字の意味では現代日本語の❝町❞を指します。
更に漢字の❝町❞の本来の意味は、田圃(たんぼ)の区画を数える単位で市街地を指す意味は有りません。
中国の❝都市❞は、近代まで城壁に覆われた城塞都市でしたからね、唐の時代に西安に留学した大和朝廷の国費留学生達は、城の意味と城壁の意味を誤認して帰って来たのかも知れませんね。
現代日本語の❝町❞を指す言葉は、都市としての町は❝城❞と書き、城の中の所謂(いわゆる)❝町❞の意味の漢字は❝街❞と書きます。
現代の華語でも日本語で言う処の町の事を❝城市❞と言います。
高部屋神社の祭祀には現代の神道で紙に置き換えられた物や、漢字の意味が転化する前の原型が残っているのかも知れません。
西暦900年代に醍醐天皇が政令で保護する神社をリストアップした一覧に掲載される一覧の神社の中でも古墳時代以後成立の歴史が1500年程度しかない比較的新しい場所を除いては、式内社は全て考古学で縄文海進と呼ばれる古代の海岸線よりも更に内側に存在します。
ちょっと地形の比較図と周辺の重要な神社と武士の城館の位置関係を見てみましょう。
高部屋神社周辺地図各時代比較 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
上から順に・・・
【迅速測図】
農研機構様が提供しているアプリでWeb版とGoogleEarthと同期させたアプリ版が有り、明治時代に帝国陸軍が測量した地図で江戸時代が終わったばかりの時代の地形が残っています。
つまり鎌倉時代~室町時代~戦国時代とそう地形の変わらない時代の地形が記された地図です。
【GoogleEarth】
言わずと知れたGoogle社が日本のZENRIN社やアメリカ海軍の地図と衛星情報を共有し提供しているアプリで衛星写真と地形を一般人でも閲覧出来ます。
【縄文海進想定図】
小生がGoogleEarthに重要な拠点を登録し、
湧水地や清涼な水の水源は古代には集落を形成する場所に成っていたんですね。考古学的に判明している海岸線が最大限内陸に入っていた時代の地形図を貼り付け同時に表示した物です。
これを見れば昔の地形との比較が出来ますよね?
現在の高部屋神社は平安時代~鎌倉時代の糟屋城と呼ばれ現在は丸山城址と呼ばれる丘陵に存在します。
その糟屋城の少し南に岡崎城と言う伊勢原市~平塚市に跨る大城郭群だった丘陵地帯が有ります。
この一帯が重要だったのは地図の比較でも解る通り岡崎城や高部屋神社の東側は古代には海だった影響で戦国時代には水捌けの悪い土地だったので水も腐葉土と混ざった沼が広がる土地でしたから、当時の人は“土”が“腐る”と書いて”土腐(ドブ)”と呼んでいました。
こんな湿地に囲まれた場所なので古代の人が行き交う道は低湿地を避けて山の尾根や中腹に葉っぱの葉脈の様に広がっていて明治~昭和初期の考古学者がステレオタイプに“未開の時代”と決めつけるのが一発で“間違い”と解る程に活発に文化交流も軍事行動も行われていた様です。
昭和初期の学者は街道が近現代の基準で現代の道路の様な幅を想像していた様ですが、実際は戦国時代の上杉謙信公や武田信玄が造成街道も、北条氏康公が築城した城を貫く街道も、道幅は現在の登山道程、1m強、広くて3m前後と言うのが基本でした。
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こんな感じにね。だから現代人の感覚の“鎌倉街道”みたいに江戸時代の幹線道路として拡張された道は明治初期にも極々僅かで、実際は細い道がアチラコチラに広がっていたのであってドーンと太っい街道が有ると言うのは誤解な訳です。
もう一つ別の位置関係の画像を御覧下さい。
高部屋神社周辺 久良岐のよし
※画像をクリックして拡大して見て下さい。
画面中央の赤の印で高部屋神社元宮がありますね?モロに渋田山の中央部に位置する事が解るかと思います。この渋田山が渋田川の水源地であり、大山の山裾の綺麗な形の別峯だった事から信仰対象に成った様です。
渋田山の北側の山には大山と山裾の峰伝いの尾根道で繋がる日向薬師こと宝城坊が有りますよね?その日向薬師の山の裾野が戦国時代に重要場所だったので七沢城が築かれました。
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扇谷(おおぎがやつ)上杉家の重要な拠点として対立する山内(やまのうち)上杉家や、後に敵と成る北条家との間で激戦が繰り広げられた御城でしたが、その理由は愛川町の中津川沿いや津久井方面に抜けて甲斐国に至る街道を抑える場所だったからに他なりません。
更に大山は山頂の聖地から縄文時代の祭祀遺跡も出土する大山阿夫利神社と、その阿夫利神社を管理していた元別当時の大山寺があり、やはりコチラも修験道の聖地でした。
弥生時代~行基大僧正の奈良時代は平野部は元海の湿地だらけだったので街道は“尾根道”や中腹に巡らされた山道が主流でした。
これらの聖地化した山の麓(ふもと)には大規模な遺跡が発掘されていて、高部屋神社元宮南側の山には高部屋神社と同じ延喜式内社の相模国三之宮比々多神社元宮が有ります。
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高部屋神社元宮の東側にも延喜式内社の小野神社があり、この一帯は倭建と敵対した小野の地名が残り知々夫氏や小野氏の祖先の天下春命を祀る勢力下として早くから栄えました。
平安時代には“小野小町”の出生地にも成っています。
小野神社は、平安時代末期~鎌倉時代に活躍した愛甲季隆(あいこうすえたか)公や鎌倉幕府の重鎮として活躍した元貴族で学者の大江広元が信仰した神社でもありました。
高部屋神社周辺地図 久良岐のよし
高部屋神社元宮と高部屋神社の東側に宝積寺と言う御寺が有ります。その宝積寺の近くに有る神明社の一帯が愛甲季隆公館跡と伝わっています。
愛甲季隆公は鎌倉幕府で那須与一宗高公と1、2を争う弓の名手だった武将でした。武勇に長けた畠山重忠公を二俣川の合戦で射殺した日本一のスナイパーでもありました。
高部屋神社元宮や高部屋神社のある伊勢原市や厚木市には現代も地名に多くの名称の足跡が残っています。
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毛利台と言う地区も厚木市には有りますが、鎌倉時代には鎌倉時代の重鎮として活躍した大江広元公の御子息の大江季光公が所領を与えられて苗字として毛利を使用し毛利季光を名乗った事が広島県や山口県を代表する戦国大名、毛利氏の始まりでもありました。
つまり毛利元就公は大江広元公の御子孫で、毛利氏は厚木市の出身な訳です。
この様に、旧大住郡と言われるこの一帯と愛甲郡は古墳時代に成ると平塚市にも仁徳天皇の弟王の莵道稚郎子(うじのわきのいらつこ)が東征して来て拠点を置いたり渡来文化が早くから導入された事も有り、軍事的にも農業的にも開けて平安時代にも非常に活躍した武士団の拠点に成っていました。
現在の高部屋神社の社殿の在る場所は、旧糟屋の荘園だったので現在も上粕屋~下糟屋の地名が残りますが、現在の高部屋神社の有る丘陵は平安時代に源頼朝公の配下の武将の糟屋有季(かすやありすえ)と言う御殿様が築いた糟屋城で現代では丸山城や千鳥ヶ城と呼ばれる御城の一部でした。
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糟屋有季公が御自分の領地の鎮守の神様として、高部屋神社を渋田山から現在地に遷宮されたんですね。
しかし元の社殿の所在地だった渋田山には現在も奥院として祠(ほこら)が建っていると、氏子サンから教えて頂きました。それが高部屋神社元宮です。
この奥院の在る渋田山が古代❝奥津城❞と呼ばれた理由であろう要素は、歴史好きには容易に想像が出来ます・・・
先に述べた通り、奥津❝城❞と言う位なので恐らく元々の高部屋神社の社殿の在った奥院の周辺には古代人の山間の集落が存在したはずです。
そして奥津城の❝津❞の字は現代語で言う処の❝港❞と言う意味の言葉です。
❝津波❞と言うのは❝港に襲来する大波❞と言う意味に成りますね。
つまり、この奥津城=高部屋神社奥院は、古代は海が眼前に広がっていたと言う事に成ります。
・・・でも上の衛星画像で見た通り、現在は大分内陸ですよね?
しかし近隣のやはり縄文時代から存続する比々多神社と、この高部屋神社には現在も海に関する神事が存続しています。
下の写真は高部屋神社拝殿に吊(つ)るされた❝ホンダワラ❞と言う海藻です。
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高部屋神社では、昔から神社にこの海藻のホンダワラを社殿に供える風習が残っています。
ホンダワラは古代名は❝莫告喪(なのりそ)❞と呼ばれ、和歌では動詞の❝名告(なの)る❞の枕詞(まくらことば)として用いられた風流な海藻なのですが…
小生は個人的に軍神であり水神様の八幡大菩薩=応神天皇の本来の御名前の❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)❞の発音「ホンダワケ」と「ホンダワラ」が似ていると感じるので、なにがしか古代に於(お)いては、この海藻のホンダワラは応神天皇と結び付けられて考えられた植物だったんじゃないかと感じました。
紙垂(しで)の由来はこれなんじゃないかな?とその形状を見ていると思います。
大和朝廷の都が内陸に変遷して行ったり海岸線の後退に従って莫告喪を神職が自ら採取に行くのが困難に成り、奈良や京都が首都に遷都された頃には日本の中心では逆に高級品の神で代用する様に成って価値が逆転して廃れてしまったのかも知れませんね。

…実際、この高部屋神社は江戸時代までは高部屋八幡宮や糟屋八幡宮の別名で日本全国で有名だった神社であり、御祭神も息気長足姫(おきながのたらしひめ)=神宮皇后と応神天皇です。
近くの前鳥神社は莵道稚郎子が滞在した場所であり、平塚八幡宮は仁徳天皇の政令によって開かれています。
古い八幡宮は、だいたいが海や湖や大河川の傍に建てらた治水と雨乞いの神様です。
恐らく高部屋神社は江戸時代に高部屋八幡宮とは言われたものの、御祭神を見ても地理的にも平塚八幡宮より古く神宮皇后を慕って大磯に移住して来た高麗の人々とも関係が有りそうです。
古墳時代に成ると現在の平塚八幡宮の辺りまで陸地に成っていた様で、高部屋神社も内陸に成ってしまった事から海から離れてしまった様(よう)です。
この高部屋神社には明治まで続いた❝汐汲み神事❞が存在しました。
この神事では歴代の宮司は海まで必ず徒歩で歩いて行き、海水を汲んで来たそうです。
拝殿の屋根の破風(はふ=一部分構造の名前)の部分には、浦島太郎の物語の彫刻まで有り、この高部屋神社の由緒が海と密接な関係が有る事を窺わせています。
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もう一度、高部屋神社周辺の位置関係を見て下さい。
高部屋神社位置関係
高部屋神社の社殿が元々在った場所❝奥院❞の所在地の古代名は奥津城ですが…
津は先程申し上げたとおり、❝港❞と言う意味です。
では何故、こんな山の中に奥❝津❞城の津の地名が存在し、海に関する神事が存続するかと言うと…
それは、古代、この場所が海だったからです。
昔の海岸線

この伊勢原の周辺の神社の元に成った古代人の祭祀史跡の出土する場所は伊勢原皇大神宮を除いて高部屋神社を含めだいたいが神話の以前の縄文時代から存続しています。
高部屋神社の前には渋田川と呼ばれる川が流れており、その上流までさかのぼると奥院のある渋田山=奥津城まで辿(たど)りつけます。
ここからは推測ですが、恐らく昔は渋田川にそって奥津城まで細長い入り江が続いていたのかも知れません。
❝渋田山=奥津城❞には古代~古墳時代くらいまで入り江に漁村があり渋田山にも山麓の集落があり❝城❞=町=村を形成していたのかも知れません。
では、上の海岸線を元に衛星写真上に高部屋神社や比々多神社の位置と、縄文時代の海岸線の位置を再現してみましょう。
高部屋の海岸線
ね?
見事に高部屋神社の近くまで、海が入り込んできていたのが解るでしょう?
つまり、この奥津城は古墳時代位の古代の漢字の本来の意味での城が在ったのかも知れません。
実際、この高部屋神社周辺の比々多神社や大山阿夫利神社一帯では縄文時代~奈良時代までの墳墓や祭祀上跡や住居跡が大量に発掘されていますしね。
しかし、まだ汐汲み神事が行われていた幕末には既に海岸線は現在の位置まで後退してしまっていたので、宮司様は古代の風習を守り伝える為に既に海岸線から10km以上内陸に取り残された高部屋神社から必ず徒歩で海まで海水を汲みに行ったそうです。
昔の宮司様は、こうやって日本の伝統文化を神事として守って下さったのですが、明治時代に成り神社や神話が国により統制される❝国家神道❞が成立すると、高部屋神社は400年強の歴史しか無い伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成り、この神代より続いていたであろう汐汲み神事も消滅してしまいました。
伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成ったのは、恐らく伊勢原大神宮の神様が伊勢系の神様で天皇家の祖先に当たる天照大神だからでしょう。
神奈川の発展に寄与して下さった歴史人物に関係の有る神社を色々回って来ましたが、どうも関東では明治政府によって出雲系の神様の神社や伊邪那美神系の神社は合祀の名の下に弾圧を受け多く消滅しています。
しかし!
平成の末期に高部屋神社を兼務する伊勢原大神宮の宮司様や高部屋神社氏子サン達が、この神事を約160年ぶりに復活させて下さいました。
まぁ、復活版では車を使うらしいですが、馬と違いバケツで海水運んでも溢れる程入れなければ溢(こぼ)さないし今はポリタンク有りますしね(笑)。
この神社には海との繋がりだけでなく、今も日本古来の神道思想を窺わせる神秘的な物も残っています。
と、その前に、高部屋神社の色んな施設を紹介しておきたいと思います。

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看板にもある通り、この高部屋神社は延喜式内社です。関東では余り多くは無い凄く重要な神社。
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そして古代から存続する為(ため)か、御祭神の御名前もあくまで古代からの御名を継承しています。
天皇の尊称は中国の影響を受けたもので、1400年位しか歴史の無い呼び方ですからね。
日本の皇家の歴史は少なくとも2600年以上有るとされる訳ですから、神格化されている❝おおきみ❞様に関しては天皇の尊称以前の御名前を呼ぶべきだと小生も思います。
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高部屋神社の拝殿の前には大きな石造りの鳥居が有りますが少し視線を左にやると、又、別の石段が有りまして・・・
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こちらの石段の年季の入り様は、恐らく江戸時代くらいからある階段である事を証明してくれています。
この石段の横には昔、御神木であったであろう木の切り株が有ります。
この短い石段を登ると、高部屋神社の社殿とは別の八坂神社の御社が在ります。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)です。
この神様も古代の軍神であると同時に海の神様です。
・・・と言うか日本神話上、海を治めることを命じられた神様ですので日本最初の海上交通や治水の神様と言って良いと思います。
平安時代には治水の神様と言えば八幡大菩薩=応神天皇か宗像三女神でしたが、それより以前の日本の古代の海の神様と言えば軍神の素戔嗚尊か、その御子息の安積磯良(あづみのいそら)/磯良(いそたける)神でした。
走水神社の奥社にも日本武尊が信奉したと伝わる須賀神社があり、この❝須賀❞神社の❝須賀❞と言うのは素戔嗚尊と御妃(おきさき=奥さん)奇稲田姫(くしなだひめ)が御一緒に開拓し建国された国の須賀国の名前に由来した神社です。
すなわち日本武尊は御自分以前の軍神で水神の素戔嗚尊と奇稲田姫命を御祀(まつ)りしていた事が解ります。
海の神社の高部屋神社らしい神様ですね。
高部屋神社は江戸時代までは八幡宮だったので、八幡宮の御祭神の八幡大菩薩とは敢えて別棟に御祀りされたのかも知れませんね。
さて、ここは延喜式内の神社でありながら、後に御祭神の関係で八幡宮として江戸時代に呼ばれていただけあり御祭神の八幡大菩薩=応神天皇が神仏習合の象徴的な存在だっただけあり、境内には鐘楼も有ります。
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…逆光で申し訳ない。
でも、この鐘楼は重要文化財に指定されています。
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そして、その隣りにはも御社が在りまして…
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こちらも又々、水神様の金毘羅(こんぴら)様が御祀りされています。
金毘羅様も八幡大菩薩と同じく神仏習合の神様で、インド出身の神様です。
金毘羅(こんぴら)と言うのは元々、古代インドのサンスクリット語で❝クンピーラ❞と言う名前で呼ばれていたインドのガンジス川の神様です。後に仏教に取り込まれ、インドから中国に伝来した後に、中国に仏教留学した日本人僧侶達によって日本に広められました。
日本に伝来すると、神格の似ている大物主と言う神様と習合され水神様として主に日本神話を特に大切にした真言宗の僧侶達に大切にされ、海で働く漁師や廻船商人達からも崇拝されました。
やはり、海にまつわる高部屋神社らしい神様ですね。
最初は中国で、サンスクリット語の発音に宮比羅(ゴンビィルォ)とか金毘羅の漢字が当字されていましたが、日本に伝来した漢字の❝宮❞の発音は訛りが有り❝宮比羅❞では❝コンピラ❞とは日本人が読めないので❝金毘羅❞と真言宗の僧侶達により統一された様です。
明治時代に成ると、仏教迫害の神仏分離令の被害を受けてクンピーラとしての神格は薄れてしまい(仏様じゃなくてインドの神様なんですけどね)、大物主様とだけ形式上祀られる事で、金毘羅宮は破壊を免れる事が出来ました。
ぶっちゃけて言うと、金毘羅様は動物のワニを神格化した神様で、言ってみれば朱雀や白虎や麒麟みたいな動物の神様的な感じでしょうか?
仏教に取り込まれると金毘羅大将とも呼ばれ擬人化した仏像で表現されますが仏教の守護❝神❞の一人として扱われる様に成りました。
まぁ、本来の神格は日本と同じ自然崇拝の習慣を持つインドの方らしく❝水神様のワニ❞です。
小生、香川県の金刀毘羅宮にも御参りしましたが、確か同じ様な解説も書いてあったと思います。
いずれにせよ、高部屋神社の氏子様達が祖先から受け継いだ御社とコンピラ様を大物主様の御宮として守って下さった事で、水神信仰の名残を垣間見える事が出来ます。感謝。
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高部屋神社は八幡宮としての神格から、この様な神仏習合の神様も沢山いらっしゃいますが古代から存続する神社なので、今の一般的な神社では廃(すた)れてしまった古来の風習と思しき習慣も残っています。

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その一つが先に紹介したホンダワラを飾る習慣と・・・
この枝ぶり、どこかで見た事が有りません~? 2016-01-03-13-38-41
・・・実は皆さん、絶対に毎日生活の中で見てるはずなんですよ。
この木は招霊樹(おがたま)と言う名前の木です。
生活のどこで見ているかと言うと、皆さんは普段1円玉として良く見ています。
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よく神事で用いる榊(さかき)って植物を御供えしますよね?
この招霊樹と御榊(おさかき)は同じ使われ方をします。
実は招霊樹、榊より以前から神事に用いられていた節が有り、招霊樹が植生しない地域では榊を主に使う様に成った様です。
この木は黄心樹とも書きますが、正しくは招霊樹と書きます。
和歌で字の発音で❝黄心樹❞と当字されてしまって以来、その字も使われる様に成ってしまいましたが、元々は招霊樹と書きました。
古代中国では❝含笑花❞とも書かれました。
お金にデザインされたり含笑花とか書くので何か縁起の良い植物そうな事は解りますが、日本語の招霊樹では何か神霊的な意味を持っている事も解りますよね。
榊で説明すると神棚に供えますが、あれは招霊樹と外見が似ている事から使われる様に成り、榊(さかき)と呼ばれる様に成ったのは発音から境木(さかいき)として用いられ神様の御住みになられる場所を守る結界(けっかい=バリア)を張る役割を担う植物に成ったからですね。
つまり、先に榊の役割で説明してしまいましたが、神様の住む社殿を守る心霊的な結界として古来の神社には植えられていた植物なんですね。ですから現代でも神棚に榊を供える風習が残っている訳です。
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写真は拝殿裏の本殿ですが、やはり本殿も招霊樹の木に守られています。
この様な古代の民俗風習を守る神社は今では少なく成っていますね。
さて、高部屋神社には古代の風習が氏子サン達によって今でも守られている事がなんとなく御理解頂けたでしょうか?
では、社殿を見てみましょう。
この日は1月2日の御正月だったのですが、幸運な事に氏子の偉い方に拝殿の中に入って見学させて頂けました。
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よく古い神社で見かける、上の垂れ幕みたいなもの、これにデザインされている模様が小生にはホンダワラを意匠化した物の様に感じられます。
昨年末、関東最古の大社格の神社の埼玉県の鷲宮神社に横浜の殿様の間宮家の顕彰活動の一環で御参りした際に、同じ物を見て不思議に感じたのですが…
実は鷲宮神社の江戸時代までの宮司家は大内家でした。このホンダワラを意匠化した様な模様、戦国時代オタクはすぐに判(わか)るんですが大内家の家紋にソックリ!なんですよね。
鷲宮神社の伝承では関東を開いた神様は出雲系の神様です。大内家の出自も出雲大社の在る中国地方です。
中国地方の大名だった大内家は渡来系とされ百済王の子孫を自称しましたがそれは藤原氏に気を使って血筋を貶(おとし)めただけで、実際は渡来系でもより古い中国大陸から南方経由で回って来た氏族だと思います。
でなければ歴史事実と神話の両方と整合性が無くなりますからね。そう言う意味では関東地方の神話と鷲宮神社の旧社家の大内家の伝承と整合性が高く成ります。
そうなると大内家は出自は出雲系の御神孫支族だったんじゃないかと言うのが推測出来ますが、実は鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司家も戦国時代は大伴家で、やはり古代からの豪族でした。
高部屋神社の直ぐ御近所で、同じく延喜式式内社の比々多神社も神社としての最初の宮司様は紀氏でした。
関東を早くから開き神事に従事した一族は、藤原氏台頭以前の古豪達が多かった様です。
そう言う意味で個人的な感想ですが、やはりこの意匠は何だか海の大名の大内家やホンダワラと関係が有りそうな気がします。
天皇家の御先祖様自体も海幸彦山幸彦の神話で海と関係が有り、先に紹介した高部屋神社拝殿の屋根の唐破風には浦島太郎の彫像が…
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浦島太郎↑と↓乙姫様と竜宮城
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もうこれ、絶対に出雲系の神様や海藻ホンダワラと関係の有る神紋なんじゃないかなと思うんですよね。
ところで神話から話が逸れますが…
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屋根の構造を内側から見ると、古い建築で釘を使わない日本本来の技術で骨格が組まれている事が見てとれました。
さて、招霊樹の説明で先に少し写真を載せました本殿はこの後ろに在ります。
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本殿には招霊樹の木と、神様を守る専任の狛犬様が結界を守ってらっしゃいました。
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この中に神様がいらっしゃるんですね~。
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本殿はかなり高い位置に鎮座しておられます。
なんだか出雲大社の古の社殿の在り様を、古い神社ほど意識している様に感じます。
それとも高い場所に本殿を祀るのは山岳信仰の日本古来の価値観で山を御神体としたからでしょうかねぇ~?
はたまた、神様が住んでいた高天原(たかまがはら)を意識して、昔の神社は神殿を高い位置に築いたんでしょうか?

こんな風に、高部屋神社は古代のミステリーを今に伝える神社なんです。
是非!伊勢原市方面、大山の桜や紅葉のライトアップや温泉を楽しみにに行かれる機会があれば、近くに在る、この高部屋神社も御参りして日本神話や古代人の風習に触れてみては如何でしょうか?

冒頭で申し上げましたが、この場所は平安時代末期~戦国時代まで千鳥ヶ城や糟屋城の名で呼ばれた城址だったので、現在は道路で分断されていますが…
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道の向こう側は城址公園として土塁や空堀の遺構も保存されて説明の看板も有ります。
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丸山城址公園は、次回、この記事の後編として書きます。

追伸・・・
小生がブログを書き始めたのは2014年の09月です。
この記事を書いたのは2016年1月の事でした。
最初の記事を書いた時には熱心な氏子サン、そして兼務されている伊勢原皇大神宮の宮司様に直接御話を聞いたり電話で質問したり、氏子サンに写真を見せて貰いながら解説したり、取材させて頂きました。
この年、記事を書いた翌月の2016年の2月に本殿と拝殿が国の有形文化財に指定された事を翌年の2017年の正月に又、御参りした際に氏子サンに教えて貰いました。
今回は2021年03月20日の日曜日に京都の友達と神奈川県中央部の神社仏閣と城跡と景色の綺麗な場所を1日で23箇所廻る無茶なスケジュール(笑)を実行した際に再訪して記事の事を思い出し、以前に書いた内容に小生も5年前より書き足したい事が増えていましたので、小生の世代に伊勢原市や厚木市の歴史を伝えて下さった諸先輩への感謝も込めて、ちょっと追記してみました。

では、皆さん、又、次の記事で御会いしましょう!
後半の記事に続く↴

※後半は追記してないYo~♪
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観音崎灯台、海水浴場の記事⤵
コレ⤴で少し触れましたが未だ単独の記事に書いていなかったので今回、観音崎灯台単体で解説する事にします。
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観音崎灯台
小生は最近まで知らなかったのですが、日本全国で中に入れる灯台は16ヶ所しか現存していないそうです。
その中の一つが観音崎灯台で、観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。
この観音崎灯台には多々良浜側からも観音崎海水浴場側からも行く事が出来ますが、風景が綺麗なのは観音崎海水浴場側の遊歩道でしょう。
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この海岸沿いに観音崎灯台に至る階段まで遊歩道が整備されています。
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この神奈川の景勝50選の碑文の奥に見える海岸沿いを歩けるんですよ。
少し歩き進めてみましょうか♪
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この突き出した構造物は戦時中の海堡(かいほ)と呼ばれる防衛施設の一部の跡です。
形状からすると小田原の御幸浜と同じ様な砲台の跡でしょうかね~。
もう少し海沿いを歩くと下の写真の様な場所に出ます。
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別日に撮影した写真ですが、観音崎灯台に向かう途中には砂浜だけでなくて、こんな岩礁も有ります。小さな御子さんのいる家族連れでの訪問なら網と虫かご持ってきて水辺を観察したりすれば良い思い出作りも出来るでしょう。
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夏場海水浴シーズンなら綺麗な野莞草(のかんぞう)の花を見る事も出来ます。
更に奥の方へ歩いて行くと道は石畳の遊歩道に変わります。
観音崎灯台は東京湾の入口に有るので房総半島まで直線距離で8kmしかない場所なので、倭建と弟橘姫の夫婦神が東京湾を船で横断した神話の舞台だったりします。
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観音崎灯台の有る丘の上に繋がる階段を登る前に公衆トイレと自動販売機も有るので写真の女の子達の様に東京湾を見てユックリ休憩できます。
そんな場所なので当然、房総半島も三浦半島も見渡す事が出来てとても風景の美しい場所なんですよ。
実はこの辺りには明治時代までとっても立派な神社と御寺が一体に成った神仏習合の寺院が存在しており、景勝地として大変に栄えていました。
観音寺絵図
現代では絵図にしか残りませんが、この御寺は“観音寺”と言う御寺で観音菩薩像が御本尊だったので、これが観音崎の地名由来に成りました。
この観音寺は明治時代に成ると観音崎要塞の建設で隣の亀崎に移転させられ、更に現代に至り火災で完全に消失してしまいました。
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しかし名残も有り、この海蝕洞窟の中に地元の方によって奉納された観音菩薩像と説明の看板が立てれれており昔の歴史を垣間見る事が出来ます。
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元々は奈良時代の行基大僧正が関わった場所だった様なので、倭武命が走水に来た弥生時代末期~古墳時代の聖地ですが、奈良時代の人にも大切にされた聖地であり海上交通の要所だった様です。
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この洞窟の前を通過して直ぐに公衆トイレが有り、写真のベンチがさっき、女の子達が座っていた場所ですね。その更に少し奥の右手側に灯台に上る階段が有ります。
この遊歩道を真っ直ぐ行くとトンネルが有って多々良浜側に歩いて行けるのですが、2020年8月現在は2019年の台風の土砂崩れの影響で未だに通行止めのままです。
ちなみに復興の責任者は上地横須賀市長では無く、黒岩神奈川県知事です。
鎌倉市のハイキングコース遊歩道や釈迦堂切通しも未だ復興していないので知事には頑張って頂かないと困りますね。
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この海岸の道が灯台から見下ろすとコンナ感じです。
高所恐怖症の小生には玉ヒュンの絶景です(笑)が、散歩したら気持ち良さそうな道なのは伝わるかと思います。
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その遊歩道の階段を丘の上に登ってくると灯台が有ります。
入場料金300円と安いのですが観音崎灯台の構造や歴史を開設した小さな博物館を併設しており、更に灯台の上にも登れますし灯台の下にも展示物が有る他、展望台に成っているので綺麗な景色を見渡す事も出来ます。
では、先ずは灯台の周囲を見学して見ましょう~。
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灯台下の展望台はコンナ感じで房総半島の鋸山が見えたり・・・KIMG0101
・・・フェリーが東京湾を行き交う様子が一望出来ます。
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そして昔使われていた灯台の設備の一部が常設展示されており、触れて見る最近の歴史博物館と同じコンセプトの展示がされています。
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上地市長は文化史跡の保護や再利用に熱心な方だそうで、江戸時代の浦賀奉行所も復元して子供達の教材や史跡として再整備する計画を構想してらっしゃるそうです。
早くから外国と関わっていた横須賀市の市長らしく、東京から来て横浜市長に成った人より郷土愛が有る上に子供達の教育に熱心ですね♪
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灯台の受付の有る建物には展示館も併設されているので、灯台の事を学習出来ます。
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こんな感じで昭和初期まで手動で動かしていた灯台のレンズの構造を触って理解する展示物や・・・
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昔の設備とかも展示されてます。
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この模型が初代の建物の復元模型だそうです。関東大震災で倒壊して現在の建物に建て替えられたそうです。
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映像解説等も有るので、中高大学生位が来ると近代史の学習の一助に成り理解を深める事が出来ますね。
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初代の灯台を設計したヴェルニーさん。汐入のヴェルニー公園の元に成った江戸幕府横須賀製鉄所=現在の海上自衛隊横須賀基地のドッグや城ケ島灯台なんかを設計した人物で、今の日本が存続しているのはこの方と小栗上野介サンがいたからと、対馬海戦でロシア帝国のバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎元帥が証言しています。

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ヴェルニーさん無くして近代日本ナシ!
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ネトウヨは日本人が単独で近代化した様な妄想を信じ込んでる比率が高いんですが、実際はイギリスとフランスの協力無くして近代日本は成立して無い事が、この観音崎灯台や横須賀市の歴史史跡を巡(めぐ)ると良く理解出来ます。
観音崎灯台は日本最初の近代灯台で、慶応二年(1866年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダと日本の間で締結された江戸条約に基づいて建設されました。

この記事⤴で少し触れましたが三浦海岸駅前にも三浦海防陣屋が置かれ、三浦各所に東京湾と相模湾を守る陣地が設けられた砲台が建設され、三浦海防陣屋が各所の海防陣地をコントロールしていました。
幕末当時、そこには横浜を開港した井伊直弼公や明治政府を設立する事に成る桂小五郎(木戸孝允)公や伊藤博文公も勤務したそうです。
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さて、そろそろ灯台の中を見てみましょう。
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灯台の内部は当然ですが螺旋階段に成っています。
その階段の壁にも掲示物が有り、観音崎灯台を含めた今でも内部に入る事が出来る16ヶ所の灯台の写真や各灯台の比較等の解説がされています。
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小さな子連れならパパやママが読んであげないと子供には読めない高さかな?
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これが観音崎灯台のレンズ。

・・・ZZガンダム世代には解るだろうけど、連邦軍のバイザータイプの顔に見えて仕方ないのコレ。
前に横浜シンボルタワーの記事でも書いたのだけど港の入口は船舶は右側通行に成っていて、港に向かって右手が赤い灯台、左手が白い灯台って法律で決まってるんだけど・・・
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これが小生にはシャアザクとガンダムを意識している様にしか見えない(笑)。

その時の記事はコレ⤴ね。
何で海関係ってどこもかしこもガンダム的なんだろうか(笑)。
横浜港シンボルタワーは明日08月31日で夏季営業終了で来年まで横浜港のコンテナヤードの夜景は見れなくなりますので、写真撮りたい人は明日時間注意して行ってみて下さい。
灯台の上まで登ると外に出て写真を撮影出来ます。
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御船がいっぱい♪
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この写真の右手は富津岬、左に見える島みたいのが富津岬の展望台。
そこから目線を左に移動すると・・・
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東京湾第一海堡。

海堡の奥に見える船のマストみたいのが、東京湾アクアライン海底トンネルの通気口。シン・ゴジラが最初に登場した場所。
ゴジラシリーズは何故か神奈川県三浦半島~東京の間が破壊される事が多い(笑)。
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こっちは第二海堡。要塞としては関東大震災で崩壊して放棄され現在は史跡として再整備中だけど、たまにツアー組まれて船で観光に行けるけど通常は上陸禁止地域。
海堡とは何ぞや?と余り知らない人は過去の記事を参考にしてみて下さい。

この海堡も実は観音崎灯台と同じ明治時代に作られた施設で、観音崎に点在する煉瓦の史跡も同時期に建設された観音崎砲台の跡だったりする。
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こんな場所全部が砲台の跡で貴重な近代西洋文化の遺跡なんだね。
観音崎灯台も当然ながら日本最初の近代西洋建築の灯台なので歴史史跡な訳です。
観音崎灯台から見える景色はとにかく綺麗!
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したの岬の先端に少し見えるコンクリート製の建物の名残も観音崎要塞の海堡の一部。
反対側の景色がさっき歩いて来た道。
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高所恐怖症だから本当に、この写真撮るの怖かった・・・。
観音崎灯台付近、とっても景色が綺麗でしょう?
観音崎海水浴場から走水神社まで歩く途中の走水観音崎ボードウォークも景色がとても綺麗です。
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もう海水浴シーズンは終わりに入りますが、まだまだ暑さも続きそうです。
まだ暫くの間は潮風に当たりながら散歩するのが気持ち良い季節ですね。

どうです?皆さん、観音崎良い場所でしょ?
近くには走水神社や“味美食堂”や“かねよ食堂”と言った観光名所や美味しいレストランも有ります。
是非、夏の終わりの思い出に御散歩に来て見ては如何でしょうか?

では、又、次の記事で御会いしましょう~!



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2019年8月12日、最初は富士山に行こうかと思っていたが生憎(あいにく)と天気が安定せず雨と曇りを繰り返す微妙な天気だった。
国道16号に抜けてから大黒ふ頭に向かう横浜ベイブリッジの下層一般道路で川崎方面に向けて車を走らせ、一緒に山登りしようと計画していた同行者を鶴見まで迎えに行った。
雨の中富士山に行っても楽しくなさそうなので富士山には行かず、まぁ~丁度“灯籠祭り”が大山で開催されているので、昔は‟富士講”の一環で富士山とセットで江戸市民から信仰の対象で観光地としても賑わっていた大山に行き先を切り替えた。つまり大山講に旅を切り替えた。
大山については以前も解説しているので御興味の有る方は以下の過去記事を読んで下さるとどんな場所か少し判ると思う。
これクリック⤵
大山阿夫利神社と灯籠祭りの夜景と参道温泉街
…伊勢原市。

大山は縄文時代から聖地化していて山頂からは古代の祭祀遺跡も発掘されている。今では夏の灯籠祭りの期間の夜景と秋の紅葉が、ハイキングファンと神奈川県民に知られる場所だ。
お盆休みで商務車両が少ないせいか道路はスムーズに流れ、神奈川県伊勢原市の丹沢大山国定公園まで1時間40分程度で到着した。現地に到着すると最初に昼食を食べに行った。
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東学坊
小生のブログを以前から読んで下さっている方々は存じ上げてるが、大山の参道には江戸時代以前からの“先導師(せんどうし)”つまり伊勢神宮で言う所の御師(おし)に対応する神職僧侶兼ツアーコンダクターの様な仕事をやっていた方々の宿坊(神社寺院機能の有る旅館)が昔と比べて相当数軒数は減ったものの現在も営業しており、その何(いず)れも大山の天然水を利用した名産品の“大山豆腐”の豆腐懐石や猪肉料理を提供しており食事や日帰り入浴だけの客にも対応して下さる。
小生や東学坊と元滝と言う二軒を特に好んで利用するのだが、今回は日帰り湯にも入りたかったので東学坊で昼食をとる事にした。
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宿坊だから外観内装は完全に個人経営旅館。
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玄関に入ると池の奥に神棚の備え付けられた部屋が有る。これが普通の旅館では無くて修験道の聖地だった大山の名残り。昭和初期まで大山にはケーブルカーなんて無かった。江戸時代は小田急線伊勢原駅も当然無かったので、登山客は江戸方面からずっと歩いて来るので当然ながら大山の宿坊に1泊する訳だが、神職や僧侶でもある先導師を兼ねる旅館のこの様な部屋で登山の安全祈願をして貰ってから山に入る訳だ。
昼間、この東学坊は収容客数が50人位の広間がレストランとして営業している。
ここの料理は和食でも豆腐が中心になるので、だいたいの外国からの来客でも安心して食べられる料理が多い。
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とにかく、この豆腐がそこら辺の豆腐屋の豆腐とは全く文字通り格別!本当に美味しい!
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注文したのは“香の膳”と言う3680円位のコースで、そこに入浴料金も含まれているので御得。
一人では注文できないので、単独行動大好きな小生も普段からしょっちゅう食べてる訳じゃない(笑)。
ここで提供している超絶美味い豆腐は東学坊の御向かいの豆腐屋さんの商品なので購入する事も出来る。
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これね。
食事を終えてから東学坊の旦那さんに・・・
「今日は今から山に登るので帰りに御風呂入らせて頂いて宜しいでしょうか?」
・・・と一応事前に電話でも伝えていた御願いを再確認し許可を貰い、東学坊を後にした。
そこから徒歩で参道を歩いてケーブルカー駅まで移動。
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東学坊の前の不動明王様を拝んで直ぐ上の有名な御饅頭屋さんに移動。
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大山まん志"う本舗 良辨
この店の由来の良辨(ろうべん)と言うのは大山に深い関わりの有る高僧で、やはり大山一帯のみならず関東一円に影響を与えた行基大僧正の関わり深い東大寺の前身寺院出身の人物だ。
行基大僧正は神仏両方を大切にされ街道整備や修験道の神社や寺院を全国各地に整備し、東大寺大仏の造営を成功させた人物でもある。
この大山まん志"う本舗 良辨が何故に良辨和尚の名前を頂いているかと言うと、少し歩くと解かる。
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大山の緑と沢の御陰で散歩も涼しい。
昭和初期まで徒歩で大山を登って来た大山寺と阿夫利神社に向かう参拝客は宿坊で祈祷を受けてから、先ず、この近所にある良弁の滝で行水(ぎょうずい)つまり禊(みそぎ)をして体を清めてから山に入る。
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良弁滝
まぁ~ここまで歩いて来たら汗だくだし、草鞋(わらじ)なんてビーチサンダルみたいに歩けば足も汚れるしね。
今ではここで滝に打たれる人を見る機会は無いと思うが、皆も大山に登る前にはココに立ち寄って拝むか手を洗う位して昔の人の気分を味わうと良いと思う。
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旧道~ケーブルカー駅迄(まで)を歩き進めると昔の雰囲気を残す街並み。
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途中には土産物屋や宿坊や懐石料理屋が沢山あって旅館街の雰囲気を残す。
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大山観光電鉄株式会社 大山ケーブル駅
今回、大山に予定地を変更したのは“灯籠祭り”に合わせて、この大山ケーブルがPM:20:30まで夜間営業をしているから夜景を見るのも一つの目的な訳だ。もし大山の夜景を見たい人は今年は今月15日まで、後は秋季の夜間ライトアップまで暫くチャンスはなくなるので時間と期間を上の大山ケーブルのホームぺージリンクから確認してから訪れた方が良いと思う。
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ちなみに現在のケーブルカーの車両は2016年に新しく成った物で、風景が見やすい窓が大きくとられた設計に成っている。屋根の方まで見えるので、下りの時に伊勢原~平塚~相模湾の夜景が良く見える。
確か2016年の鉄道のベストデザインかなんかも受賞している。
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大山阿夫利神社下社
先ず到着して御朱印を頂いた。まだ令和元年の大山阿夫利神社の御朱印を頂いていなかったので。
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因みに、この大山阿夫利神社下社の場所は江戸時代までは御寺で、今は山の中腹に移動した大山寺の不動堂の大きな御堂が存在した。そして阿夫利神社は山頂本社の事を指し昔は石山権現大山阿夫利神社と呼ばれていたのが本来の名前だった。大山は湧水の有名な場所なので、古来水辺に祀られた不動明王が鎮座していた訳だ。現在の大山寺は来迎院と言う支院だった。
今回は先ず、大山阿夫利神社まで行き山頂まで登山しようと思っていたのだが、日没時間18時39分に対して、この時既に16時30分、少しゆっくり街並みを見過ぎて山頂まで往復登山すると下山出来ない時間帯に成ってしまった。
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なので先ずは予定変更し見晴台まで行く事にしてハイキングは縮小。
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何故見晴台方面に行ったかと言うと、そこに行く途中に滝が有るから。
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二重滝(ふたえのたき)
この二重の滝も良弁滝と同じく、昔は阿夫利神社の参拝客が禊の滝行を行う場所だった。
二重の滝と日向薬師位置関係 久良岐のよし
衛星写真で位置関係を見ると良く解るが、大山の北東には津久井方面へ抜ける古道が通り、戦国時代には街道を押さえる扇谷上杉家の七沢城が存在した。
ここの街道周辺の山中に洪水の影響を受けない山道の中継拠点として重要な聖地を整備して廻ったのが行基大僧正だった。だから大山も良弁サンが関わってる訳だ。その古代の聖地の大山と行基大僧正が開いた日向薬師を結ぶのが見晴台の山道であり、そこを経由して大山を参詣する人が禊をする場所が二重滝だった訳だ。
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現在二重滝の横には二重社と言う御社が有るが、本来、ここには徳川家光公が建てた同規模の別の名前の神社が存在した。
下は二年前の春に登山した時の写真だが二重社の場所に在った“龍神堂”。
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現在は明治時代に成立した国家神道から自然崇拝や神仏習合の弾圧の対象にされたので破壊を避けて大山寺(来迎院)に避難移築されている。まぁ、そんな歴史も有るが現代では又、神社と御寺がどこでも仲良く江戸時代までの様に平和に共存しているので、敢えて昔の事を書いて説明しておこうかな。
二重滝と二重社から歩いて暫くすると見晴台。
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二重社~見晴台に向かう途中・・・
「パキパキッ!」
・・・と大きい音が移動しながら近づいてくるので・・・
「熊だったら不味いな。同行者いるし。」
・・・と思って目を凝らして見たら鹿軍団の行軍だった(笑)。
鹿サン達と出会ってから数分で見晴台に到着。
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丹沢山系の向こうに旧高座郡の海老名市や大和の町が見えている・・・はず。
見晴台で休憩してから今度は大山阿夫利神社下社に戻り、休憩茶屋の“さくらや”の下の女坂参道を降りて真反対の大山寺まで登山道を降りた。
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途中で大山ケーブルカーとすれ違い。
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残念ながら時間的に御堂の中には入れなかったが、2年振りに参拝出来て良かった。完全な登山も出来なかったが女坂を歩いた事で同行者も大山の雰囲気を知る事が出来たと思う。
そこから大山ケーブルカーの大山寺駅に移動し、ケーブルカーで再び大山阿夫利神社に移動。
丁度、ライトアップが始まる時間帯に合わせて。
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石段を登る。
この両脇にも明治時代に神仏習合文化が弾圧されるまで、沢山の神社や御寺と宿坊が建ち並んでいた。
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日没時間が迫り灯籠が浮かび上がり始める。
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夕方の彩雲と一緒に月と街の灯も浮かび上がり始める。
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う~ん綺麗!
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月も出て良い具合。この夜景を是非とも皆さんにも見て頂きたい。
ブログを書いている本日は2019年08月14日、まだ明日15日までケーブルカー夜間営業と灯籠祭りの開催期間なので、東学坊はじめ参道の豆腐懐石料理店と合わせて行けば、家族連れにもデートにも最適♪
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夜に成り社殿の前の笠も可愛くライトアップされていた。
山を下りて御風呂に入って帰る為にケーブルカーに戻る。
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途中も参道に地元の小学生や中学生が手作りした灯籠が並べられていて綺麗だった。
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そして新ケーブルカーが本領を発揮する。
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上部天井まで切れ込んだガラス窓から望む伊勢原市の町の灯り、そして運転席からは線路沿いもライトアップされていてとても綺麗。
更に参道も綺麗なんだな。
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灯籠祭り期間は参道の道上と各宿坊と御土産物屋サンがそれぞれ絵灯籠を並べていて凄く日本的な風景を演出して下さっている。
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ね、綺麗でしょう?
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途中、御土産に豆腐と対を成す水を利用した名産品の蒟蒻を購入した。
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で、暫くまた参道の風景を楽しむ。
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ここは灯籠祭りの灯籠の展示会をやっているのだが、少し前まで宿坊として営業していたので旅館の風情ある感じが楽しめる。無料で中に入れるので、立ち寄ると良い時間を過ごせる。
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小生達は御風呂入る時間があったので、今回は入口からだけ見学させて頂いた。
東学坊に戻る。もう宿泊客の皆さんは入浴済みの時間帯だったので貸切状態で内風呂に入る事が出来た。
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小生だけだったので写真撮影させて頂いた。
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脱衣所はこんな感じ。
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まぁ、個人経営旅館なの御風呂の規模は大きくはないが、大山の水の沸かし湯でとっても肌に良い。
連れは御湯の質にとても満足してくれた様で良かった。
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連れが出て来るまでサイダー飲みながら玄関で茣蓙(ござ)に座って待つ。
この入口の衝立(ついたて)の裏に江戸期と現代の大山の絵図が掲示して有る。
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江戸期と比較すると明治政府の宗教改革時に大分弾圧されてしまった事が解かる。
源頼朝公が参詣して以来、歴代将軍が大切にして来た場所で江戸時代も徳川家康公や徳川家光公等に大切にされて来た場所なのだけど、明治政府の唯一の失敗である宗教改革で大山は神社も御寺も激減してしまった。
でも今でも宿坊や御土産物屋サンが建ち並び、空気も綺麗で山登り、秋には紅葉狩り散策しても楽しい。また秋に来ようかと話して、車に乗って連れを横浜市の端っこまで送り届けた。
そこから小生の住む円海山への帰路、横浜ベイブリッジと首都高速湾岸線の一部区間の下層部分に一般道路が存在している事を知らない人も多いと思い、Twitterで帰路ドライブの様子を撮影して見た。
栄区・金沢区・磯子区辺りから川崎方面に下道で行く時はこの道を通った方が早い。
川崎大師もこの道で行けば高速使わず行けるので便利。

まぁ、そんな感じで大山の夏を堪能できた。
では又、次の記事で!
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結論から言うと正月1日は横浜市栄区と港南区近辺をウロチョロしていた。
小生が横浜で1番の知恵の神様と崇拝する永谷天満宮に参拝客の少ない早朝に参拝してから、夜明けの時間に合わせて円海山に富士山を拝みに行った。
永谷天満宮では神職の方々が早朝の5時頃なのにも関わらず詰めておられた。
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永谷天満宮
大変だな…御正月とは。
御神籤を引きに社務所に行ったら禰宜サンがもの凄く眠そうだった(笑)。
「ご苦労様です、当直ですか?」と御声掛けした所・・・
「2日間泊まり込みなんです~」との事。
・・・こうやって神社の場合は神職の方々の御苦労と氏子サン達、御寺の場合は和尚サンや檀家サン達の努力がそれぞれ有るから一般参詣者は御祭りや神事や様々な行事に参加し日本文化を感じられるし、神仏に祈願する事で何だか安心する事も出来る訳だな。
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社務所の前では焚火の火も絶やす事なく燃えていて冷えた参拝者が手を温める事が出来た。
永谷天満宮の神職氏子の皆さん年末年始御疲れ様でした。小生が横浜に置ける知恵の神として崇敬する菅原道真公と菅原景行公と菅原淳茂公の御陰様で昨年1年間過し無事に新年を迎える事が出来ました。
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社殿に移動し天神様に参拝し、1年間の御礼と自分の祈願と諸外国の親日家の人々の平安祈願をした。
因(ちな)みに・・・
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御神籤は大吉だった(笑)!素直に喜んでおこうかな♪
栄区方面に戻り円海山で初日の出を見るのと土地神様の白山神社に御参りに行く為に車に乗り移動・・・
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円海山

う~ん、今年は少しガスってたけれど綺麗に雪化粧した富士山を拝む事が出来た。
富士山は只単に美しいと言うだけでなく明治時代までは自然信仰で神道修験道仏教の全てで此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身として崇拝の対象に成っていたんだな。そしてココは奈良時代の人達も製鉄を営みながら灌漑水田を開発し、鎌倉武士が使った間道が幾本も現存し、現代では横浜市最後の蛍の大生息地体でもある、貴重な自然と文明の史跡であり自然公園なんだな。
有る意味、横浜における聖地とも言える。そして此花咲耶姫命を拝む事の出来る場所なんだな。
だから涼しく気持ちの良い晴天の御正月に御化粧した綺麗な富士山を拝めて、とても晴々した気持ちで新年を迎える事が出来た。
・・・ちなみに日の出はポジション取り間違って見えなかった。円海山から日の出を見たかったら金沢区側の展望台じゃなきゃダメだな。

日は変わって正月2日目。
この日の早朝出発~深夜帰宅する約20時間で怒涛の19箇所の神社仏閣聖地と史跡を廻って来た。
この日は地元横浜の天満大自在天神菅原道真公や・・・
金沢北条実時公、蒔田御所吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、上杉規富公、間宮康俊公、間宮於久様、間宮於継様、間宮綱信公、間宮常信公、間宮信繁公等の侍大将や姫様達。
渋沢栄一サン、原三渓サン、浅野総一郎サン等の横浜の発展と復興に力を尽くされた商人達。
・・・崇敬する横浜市に御縁深い歴史偉人のこれらのと同じく尊敬し毎日、心の中で拝んでいる神様仏様と県内他地域所縁(ゆかり)の歴史偉人に出来るだけ多く御参りしたいと思い訪拝先の予定を組んだら、当初の予定でも既に20個所ととんでも無い件数に成ってしまった(笑)。
多分、過去最多の1日での訪問件数、内容的にはコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
・・・我ながら良く廻ったもんだと思う(笑)、ちゃんと御参りして時間かけて廻ったし。
寝なければ時間は作れる(*´ω`*)!
実際には最終目的地の寒川神社までの順路は移動時間だけで4時間近く、家を出発したのは朝の3時少し過ぎた位、帰宅したのは23時位だったろうか?移動時間以外も略(ほぼ)現地を歩き回ってるので当然ながらつまり休憩した2時間を除いて18時間は運転するか、歩くか、買い食いしてるか、宮司サンか和尚サンと御話ししてた訳だな。
ジム行ってる御蔭で何とか成ったし(笑)。
経路をGoogle mapで可視化するとコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
神奈川県の中部と東部を略グルっと回ったらしい。
上の一覧表は実際に回った場所だが、予定は少し違って伊勢原市の糟屋館と上粕屋神社は廻らずに厚木市七沢の徳恩寺、拉麺の名店ZUNDO BAR、七沢城址を廻るつもりだった。
・・・これは後で書く事に成るが、神様に「そっちでは無いヨ」仏様に「こっちに来なさい」と言われる様に道を間違った(笑)ので流れと直感に任せて洞昌院優先~糟屋館周辺散策ルートに変更した訳だ。

さて、2018年01月02日03時ちょっとに自宅を出発すると、有鹿神社には4時ちょっと過ぎに着いた。
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参道が雪洞(ぼんぼり)代りの提灯に照らされてとても美しい・・・
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有鹿神社本宮
有鹿神社様への初参拝は3年前、愛川町に三増峠合戦の現場歩き取材に行った帰りに、聖地として名高い有鹿谷と勝板遺跡を訪問し奥宮を御参りし、その勢いのまま海老名の本宮を御参りに来て、御朱印頂に宮司様の別事務所を訪問したのが最初だった。
それ以来、小生は有鹿比賣(あるかひめ)様と有鹿比古(あるかひこ)様の御夫婦の神様も崇拝する様に成り、頂いた御朱印を大切にしている。
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本殿で有鹿の夫婦神様に御参りし、昨年1年間の御礼と今年の小生個人の心願と友人家族恩人恩師の平安祈願と親日諸外国民の平安祈願をした。
本殿も幻想的に提灯の明かりで浮かび上がって美しかった。
所で初めて正月に御参りに来たのだが…
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何か狛犬サンの御胸の辺りがウルトラ怪獣のゼットンみたい光ってて(笑)
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・・・コチラの禰宜さんの遊び心。
天智天皇が国家鎮護の勅願所にする前から庶民に寄り添い農耕を守護し家内安全と良縁結びの神様として存続して来た人懐っこい神様の神社らしい遊び心。
古社なのに偉ぶらず、尚且つ水引き神事の様に古代からの神事を大切にする、こんな柔軟な場所も有って良いと思う。石清水八幡宮の宮司様も神社本庁トップだけど歴代天皇の御意思を尊重され古来の神仏習合時代の文化も大切にされたり新しい催しにも協力されたり色んなアイディアを出されているので現代の柔軟な神社本庁トップの方針にも合っているんじゃないかと思う。
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有鹿神社の境内には有鹿天神社が在り、此方でも前日元旦に永谷天満宮で正月の御参りをした菅原道真公に改めて参拝し、新年の御挨拶と2日当日の旅の無事を祈願した。
車に乗り八菅山に移動。
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八菅山は明治時代に日本の宗教が森有礼(ありのり)等、キリスト教信者政府高官等によってプロテスタント国の英米の猿真似で自然崇拝の神様と平和の哲学の仏様が引き裂かれ宗教自体が作り替えられるまで日本神話の聖地で神職のみならず修験者や仏僧からも聖地として崇拝され多くの寄進が集り物質的にも興隆し、神仏ともに尊重する修験道が仕切る日本屈指の大道場だった。そして行基大僧正が来訪し天皇の勅願を祈願した神仏ともに大切にされた天皇家の勅願所としても機能した霊場でもあった。
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始まりは日本武尊の来訪に由る・・・
「山体の形状が蛇に似ている」
・・・と言う主旨の発言を日本武尊がして聖地として大切にされる様に成ったそうだ。しかし今では山での採石やゴルフ場の乱立で美しさが無いし宅地化で細かい地形は良く解らないが、確かに河岸段丘で細長い形はしている。八菅神社周辺地形 久良岐のよし
宅地化した部分も昔は山でもっと長い山体だったのかも知れない。
まぁ~小生は相模川の大きな支流が八本有って八岐大蛇(やまたのうきろち)の様に見えたんじゃないかな~とか伝承と違う山の名の由来を考えたりした。菅(すげ)は菅(すが)とも読むし菅は須賀神社の須賀に通じるからね~。
須賀神社の御祭神は素戔嗚命だし元は相模川を八岐大蛇に見立て河の氾濫を抑える祈願所で、だから日本武尊が東征の折りに立ち寄ったんじゃないの?多分、古代は渡河地点が付近に有ったんじゃなかろうか?
・・・とか考えてしまう。日本武尊は走水にも須賀社を開いて軍神海上交通の神様として素戔嗚命を祀ってるからね~。
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何にせよ修験道や神職や僧侶の聖地として栄えたので明治の破壊までは神廟や御堂合わせて50余りの大小神社仏閣が混在し大変多くの参拝者と修行者で賑わっていたそうで、この愛川町の八菅山と伊勢原市の大山、そして京都の男山に在る石清水八幡宮等と合わせて日本で5本の指に入る大聖地だったそうだ。
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そして、参道を奥に進み、そんな歴史を説明している看板の写真を撮ろうとした際に気が付いた・・・
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「夜明け前で何も見えねぇ~」
「階段超急だし!」
「クロックスで夜に来る所じゃねぇ~(笑)」
・・・う~ん、甘かった。
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本殿に着いたがハッキリ言って真っ暗で何も見えない(笑)!
でもちゃんと参拝して御賽銭を払って日本武尊と弟橘姫様と神様達に諸々の祈願をして、一度山を下りて車まで戻って1時間程待機してから日の出を待って再度、参拝して写真撮影する事にした。
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そして夜明け到来。
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八菅神社(八菅山七所権現:天皇家勅願所)
当たり前だが朝を迎えると自然豊かな参道が良く見える。
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夜は何がなんだか解らなかった鐘楼の文化財として解説も読める様に成り・・・
石段もちゃんと見える様に成った。
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本殿は木々に囲まれまだ薄暗かったが、造りが観察出来る様に成った。
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改めて社殿を見ると、どうも神社と言う感じでは無い。元々は修験道の御堂の一つだったんだろうか?
しかしながら規模は大きい方だ。
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御賽銭箱には八菅山七社権現=八菅神社の社紋・・・九曜紋だな。
これ、後日03日にPCに写真を取り込んでいて気が付いたのだが、八菅山の神様が参拝を歓迎してくれた様な写真が撮影出来ていたのと関係してる紋様なんだな。
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額の字の色は薄く成っていた。
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さて、ここは凄い人物が関わっている事が説明書きにも有る。
小生は以前、愛川町の観光課の職員さんと教育委員会の職員さんに愛川町ガイドブックを頂いたり解説をして頂いていたので少し知っている。
小生が尊敬する戦国時代の北条家とも関係が有る。
先ず、ここの凄い所は関わった人物達だ・・・
日本武尊に始まり、
行基大僧正(日本最初の大僧正)
源頼朝公(征夷大将軍)
足利尊氏公(征夷大将軍)
足利持氏公(鎌倉公方)
遠山綱景公(北条家重臣、江戸城代)
徳川家康公(征夷大将軍)
・・・等々、名だたる歴史偉人が崇敬し支援していた歴史が有るんだな。そりゃそうだ、日本有数の聖地だったのだから。
まぁ、そんな訳で八菅山の修験道と神話の聖地は明治以降、英国の猿真似をやった役人によって寂れてしまったけど神様達は今もここで愛川町の人々や参拝客を守って下さっている様だ。
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まぁ、そんな場所だが明るい朝陽に照らされている八菅山の神社の在る場所を改めて見ると、三角形をしていて丸で奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の様な佇(たたず)まいなのが理解出来た。
帰ろうとして駐車場に向かう前に鳥居の前で朝陽の方を振り返ると日の出が見えたので写真を撮影して置いた。
どうやらこれが八菅山七社権現の神様達から小生への御褒美だったんだな。
八菅神社の御神紋は九曜紋・・・
九曜紋
そして3日に成って気が付いたが、八菅神社の前で撮影した日の出の光が九曜紋に成っていた。
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神様、御褒美ありがとうございます~♪
まぁ偶然レンズに写り込んだ光だけど、御参りした八菅神社の御神紋と同じ九曜の朝陽の写真、縁起良いよね。
こんな幸運にその時は気が付かないまま駐車場に戻り車に乗ると、次の目的地の厚木市飯山温泉の華厳山金剛寺に向けて出発した。

【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)に続く。
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