歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:衣笠城

4月5日、昼前に鎌倉に到着した。
最初の訪問先はミシェランガイドで三ッ星に成った報国寺。
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ここを訪問した理由は本当は「ついで」と言うか、本来の目的は浄妙寺で女性守護婦人病治癒の神様の淡島明神様に御参りして御守りを購入する事にあった・・・
しかし報国寺は浄妙寺の直ぐ近所。
・・・元々報国寺の竹林で抹茶を頂いてボぉ~っとして過ごすのが好きなのと、報国寺を開いた殿様が小生が顕彰活動を準備しており横浜の殿様でもある宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の祖父の足利家時公だから御参りしない訳にはいかないのだ。
最近はミシェランガイドのせいで国籍問わず風景目的の参拝客が増えたので昔は静寂だった竹林も「ザワザワ」と人の話し声がする事も有り、本堂の前で殿様達に御参りして帰る事も多く、余り抹茶を飲んで帰る事も少なくなっていた。
この報国寺に来ても、最近はもっぱら抹茶を頂くのは浄妙寺に成っていたから。
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しかし、この日の陽気で一気に桜の花弁も開き庭の景色が綺麗なピンクで彩られていた事と、平日で人も余り多くは無かったので半年振り位に竹林で抹茶を飲んで帰る事にした。
丁度、臨済宗寺院専用に建長寺で改めて購入した御朱印帳も持参して来ていたので、そちらに御朱印を頂く間、竹林でゆっくりと待つ事にした。
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しかし、この桜は思いがけず御褒美を頂いた気分に成れた。CIMG2929
う~ん綺麗だ。
横浜市の桜の開花状況は、この日まだ3~5分咲きと言った所、この報国寺の在る鎌倉市浄明寺地区宅間谷は名前の通り谷合で少し涼しい場所なので、まさか桜が見事に咲いているとは思いもしなかった。
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可愛い桜、見せてくれてありがとね!来年もよろしく!
さて、一頻(ひとしき)り桜を見てホッコリしてから、凛と静かな空気の漂う報国寺の竹林へ・・・
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フランス人ぽい男性と日本人女性のカップルが竹林散策を楽しんでいらっしゃった。
二人で交代で写真を撮っていたので、「写真撮りましょうかぁ~?」声をかけたら笑顔で「お願いします!」と応じて下さった。やっぱり、恋人同士は一緒のフレームに写った方が嬉しいでしょ。
二人は再び笑顔で「ありがとうございました!」と日本語で元気に御礼を言って下さったので、何だか少し嬉しい気分に成って幸せを御裾分けして頂きました。
御二人さん、ありがと♪
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さて、竹林の中の茶屋は“休耕庵”と言う。
実は昨年改修工事が入って暫く営業していなかった。小生自身も半年来ていなかったので久々の訪問。
大きくは変わっていないが、建築用材が新しく成っていた。
ここでは“抹茶”と足利家の家紋を模した“落雁(らくがん)”を頂く事が出来る。
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先述の通り最近数年間は観光客が多く成り余り以前程のんびりするのも憚(はばか)られる事も有ったのだが、この日は小生以外に喫茶に来た観光客も3~4組しかおらずゆっくりできた。
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ここから見る竹林と谷戸構えの切岸の苔むした様子、そこに響く小さな水の流れ・・・
この風景が落ち着くんだな~。
・・・ふむ、久々に来て良かった。
竹林の石畳も再整備された様で歩き易く成っていた。
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可愛い御地蔵様達、このエリア以前と雰囲気が違う気がする?
比較する写真が無いので分からない。
写真撮影しているオッサン(笑)がなかなかどいてくれないので、諦めてオッサンごと御地蔵様を写真に収めさせて頂いた。この御地蔵さん達、近くでみたら少し可愛いいんですよ、御優しい顔で。
竹林を出て御朱印を受け取り、浄妙寺へ移動する事にした。
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報国寺で御朱印を頂くのは二度目。最初は宅間上杉家の顕彰活動で。
そうそう、本堂の横には名前は知らないけども綺麗な紫色の花が咲いていました。
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なんと言う名前なんだろう?
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御存知の方いらっしゃたら教えてください。
浄妙寺へ向かう時、報国寺交差点の手前の橋の上から滑川(なめりかわ)に目をやると菜の花がとても綺麗に咲いていました。
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近くで見たくて滑川の遊歩道に降りてみた。
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遊歩道に降りる階段横にも桜が咲いていた。
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生憎、遊歩道は菜の花の近くまでは伸びていなのだが、それでも花と同じ高さの目線で見れたので満足満足♪
う~ん、黄色が明るく爽やかだ!
この滑川の菜の花から徒歩1分で浄妙寺参道に着く。
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浄妙寺の参道も桜が咲き始めていた。こちらは未だ4分咲き位か?今週末4月の第2土曜日曜辺りは見頃に成っているだろう。鎌倉市観光協会にも確認したが、鎌倉市内の桜は概ね今週末位~漸く見頃だそうだ。
今年は気温の寒暖差が激しく鎌倉に限らず、どこも開花が遅れている様だ。
その分、大きな風が吹かなければ長い間花見も出来そうだ。
浄妙寺に着くと、山門をくぐって直ぐの拝観受付の場所で販売している淡島明神様の御守りを購入した。
無論、女性の親友達の縁者の健康祈願が主たる目的なので、御本堂に御参りした。
昨年母が子宮癌に成り手術を受ける前に、小生は御参りして母に淡島明神様の御守りを購入し渡しておいた。
その後、手術は上手く行き転移も無く、無事にいるので先月、母の御礼参りに付き合って参拝しに来たばかりだった。
その後、留学仲間の大阪の女親友の姉上が卵巣癌の手術をした事を知り、卵巣癌が遺伝性の病である事も知った。加えて愛知の歴史仲間でもある女親友の友人が子宮癌に成り転移も有った事を最近聞かされたので、友人達4人分の健康祈願と御守り購入に来た次第だ。
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淡島明神様は御本尊の並びの一番右端に鎮座してらっしゃる。
御参りに行けない人は、この写真でも良いから先ず健康祈願をして改めて参詣すると良いと思う。
御守りや、信心は要は自分の精神を健康に保つ、なんと言うか心の支え的な要素が大切なのだと思うから。
要は気持ちの問題。文字通り気持ちの問題で、ウジウジ一人で不安に成るより出来る事は何でもして、不安を払拭する事その物が既に御利益なのだろう。
そして、具体的に健康に向けて努力する。奢らず健康診断をちゃんと受け、ジムに通ったり運動をして健康を保つ、そう言う事なんだろう。
日本古来の神仏習合の神様で、まぁ~名前の通り淡路島が神格化された神様のはずだが、明治維新後の神仏分離令で、どの神様と同一視して神道に組み込むか全国の淡島神社では統一された御神格は無い。
だから小生は思うに神仏分離令は無理が有るのだよ。
日本文化から見て記録で遡(さかのぼ)れる範囲でも1400年以上は神道と仏教は融合していたののだし、そもそも大鞆別命(おおともわけのみこと)こと応神天皇の化身とされる八幡宮の神様なんか御神託で御自分の事を「八幡大菩薩」と名前を言った事が日本の記録に残っているのだから。
そして応神天皇の皇子の莵道稚郎子(じのわけのうらつこ)命なんて渡来の学問を日本で最初に導入した人物で神様に神格化された歴史が明白に成っているのだし。神話通り莵道稚郎子命が漢学を治めていたのならば仏教も学んでいただろう。少なくとも中国の道教や易学も学んでいたので、西暦300年~400年頃の古墳時代には既に日本の古代神道も大陸文化の一部が導入されていたはずだ。
無理に仏様も神様も分ける必要も無い。
本地水垂迹(ほんじすいじゃく)思想みたいに、どっちが本性とか議論する必要も無い。
日本人らしく大らかに八幡台菩薩を拝んでも応神天皇を拝んでも同じ神様で別名として認識すれば良いのだと思う。実際に、歴代の天皇家もそうされて来た訳だし。
この手の価値観は仏僧と神職でモメた事も有る様なので、小生は例えば素戔嗚尊(すさのおのみこと)ならば、もう全部の異名を一緒にして毎日御参りしている「素戔嗚尊牛頭天王武塔天神」と名を御呼びして遥拝している。
こうすれば、宮司さん達にも和尚さん達にも昔の人々にも失礼に成らないで済むんじゃないかと思ってる。
まぁ、そんな訳で、淡島明神様は淡島明神様のまま明神が付いていて良いと思う。

さて、ここからが小生のレクリエーション開始。
浄妙寺を後にして車に乗り込むと、一路、横須賀市の安針塚を目指した。
安針塚を目指す途中、住宅地の桜並木もとても綺麗だった。
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う~ん。ピンク。
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とても綺麗。なんと言うか、ブリッ子だな、この娘は。
小生は花を良く人間に例えるのだが・・・
この娘も可愛いが、小生は凛とした梅、または大木に成り人々の誇りとなる染井吉野がどちらかと言うと好む所ではある。
あと山吹や蝋梅も好きだ。紫陽花も綺麗。
でも一番好きなのは、やはり梅かな~。しかし人々を笑顔にする桜の林の存在価値も素晴らしいと思う。
ところで・・・
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この風景は按針台と呼ばれる安針塚の在る塚山公園周辺の風景なのだが・・・
安針塚と言うのは江戸幕府で徳川家康公に仕えた英国人サムライの三浦按針(あんじん)公の御廟所の事で、その御廟所の名前がそのまま京浜急行の駅名や地名に成っているのだ。
三浦按針公の本名はウィリアム・アダムスとおっしゃる。
まだ徳川家康公が豊臣政権の五大老だった頃、ウィリアム・アダムス公一行の乗った船が遭難し、九州に漂着した。家康公は彼を保護すると自らの領地である関東の相模国三浦郡に領地を与え家臣に加え海外通商の窓口、つまり外交担当の参謀として抜擢した。その際に姓も領地の在った三浦郡から三浦とし、元の姓のアダムスを日本風に文字って按針とした。
余談だが、この三浦按針公と共に家康公に仕えた白人サムライがもう一人おり、名をヤン・ヨーステンと言う。
彼も又、耶楊子(やようす)と日本風に漢字で名を改めたが、彼の居所が有った場所が東京駅八重洲口辺りだった。つまり東京駅八重洲口はヤン・ヨーステン=耶楊子公に由来しているが、これを知る人は現代でも結構多い。
そんな訳で、日本でサムライに成った外国人は数人いたのだ。
他にも宣教師が連れていたアフリカ系黒人のモザンビーク人奴隷を織田信長公が奴隷身分から解放して侍として己に近習させたのだが、この人物の名前は弥助と伝わる。元の名前はモザンビークにヤスフェと言う名前が多い事を世界ふしぎ発見!が紹介していた。この放送、とても楽しかったので良く覚えている。弥助は大砲の砲撃の名手だったそうだ。
更にイタリア人白人の山科羅久呂左衛門勝成と言う武将も織田信長公の娘婿の蒲生氏郷公に仕えていた。
外国人が登用されていた事を知る人は結構少ないが、古代の日本の朝廷でも新疆ウィグル族出身の人物が登用されていたりした歴史が有る。
まぁ、そんな事を思い出しながら車を降りてから山を登って行くと塚山公園に到着した。
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塚山公園の桜はまだ5分咲きだったが、花見に来ている人がそれなりに居た。
平日だったので、やはり人はまばらだった。
実は安針塚は初訪問。もっと墓地っぽい陰鬱な場所をイメージしていたがこれは良い!
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屋台も少ないが出ていた。
焼きそばの屋台を見て、後で昼食にしようと決め、先ずは三浦按針公に御挨拶に伺う為に御廟所を探した。
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う~ん良い所だ。
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程無く看板も見つかり、安針塚その物に関しては深い予備知識無く、現地の説明看板や石碑を読むのを楽しみにして来た。
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立派な石段、塚山公園内でも一際高所に位置する丘、この上に三浦按針公が眠ってらっしゃる。
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この説明を読む限り、この安針塚一帯は昔は逸見(へみ)村の一部だったらしい。
現在は逸見は安針塚の一つ前の駅名として残り、地域も安針塚は逸見から分離し成立した様だ。
しかし、御遺言で所領の三浦半島に戻って来られたのは、この地がイングランドに似ていたのだろうか?
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この石碑や、参道を整備したのは大正時代の人々だそうだ。
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別の石柱にも大正十三年と書いて有る。
昔の人は人種分け隔てなく帰化して日本の発展に寄与して下さった人物を、こうやって御祀りして大切に郷土の誇りとして後世に伝える努力をされていたのを、歴史が好きで色んな城址や史跡や神社仏閣を訪問すると思い知らされる。右左問わず現代の政治家とは大違いだ。文化も人も風景も平等に大切にされて守って来た大正時代の人々に感謝。
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有功国家・・・日本国に功績が有る=日本に功績を遺した。
永護江都・・・江戸の都を永きに渡り守る
・・・つまり、江戸と日本の発展を守る功績を遺された偉人と言う事だ。
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報以恩遇、東面其墓。
近代の人々も、三浦按針公の功績を感謝し、そして帰国出来なかった悲哀に色々と考えさせられたんでしょうね。
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小生の主義で御廟所の写真は掲載しないので、三浦按針公と奥方様の御廟の写真は今回も載せない。
しかし、女性の権利を守る思考が強かったプロテスタントの国出身の三浦按針公らしい、日本人の奥さんと隣同士手を繋ぐ様に並んでらっしゃった。
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そして、御廟所から後ろを見て解った。
按針公は、この丘から見る金沢八景の島々と海の風景が好きだったんだ。
もしかしたら、この風景が三浦按針公の故郷の英国ケント州ジリガムに似ているのかな?と思って調べてみたら・・・
ケント州ジリガム 三浦按針公の故郷 久良岐のよし
ビンゴ!半島と入り江に面した町で、湾内には金沢八景の様に島が幾つも有る。
三浦按針公は故郷に似ている金沢八景の見える、この丘が好きだったんだな。
御廟所で三浦按針公に、小生に神社仏閣や日本文化と史跡、日本の歴史偉人と神様に成られた先人達、そしてコープランドさんや按針公の様に日本の歴史に名を残し、発展に関与して下さった外国人の皆さん、それらの顕彰を通じて世の中の人に、昔の人々への感謝と日本文化の美しさと神社や御寺や城址の果たして来た役割を再度認識させる役割を担わせて頂ける様に、お力添えをお願いして来た。
それと、もし可能ならば日本文化や日本の風景が大好きで気の合う奥さんとも将来巡り合い、按針公の様に夫婦寄り添える人生を歩める様に縁結びも御願いし、最後に世界人種問わず親日家の人々が安寧に過ごせる様に平和の願いも伝えて来た。
御参りを終えて、御廟所の在る丘の直ぐ隣もう一つの丘に登って風景を見る事にして、有る事に気が付いた。
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実は塚山公園も神奈川の景勝50選の一つだった。
過去に小生が数か所紹介しているが、昨年末だと鎌倉の浄土宗大本山天照山光明寺裏山と周辺から見る由比ヶ浜の風景。

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それと葉山の長者ヶ崎の風景。
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それと油壷湾、油壷マリンパークの一帯は鎌倉~戦国時代の新井城址で、その風景も50選に入っている。
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横須賀市の神武寺~鷹取山の石切り場の奇岩群と大石仏。DSC_3029
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まぁ、こんな感じで全部合わせて50ヵ所も有るので挙げていると切りが無い。
親切な解説ホームページを作成して下さってる方がいるので、参考にすると良いかと思います。
http://heiwa-ga-ichiban.jp/kanagawa50/index.html
これ↑ね。
さて、話を塚山公園に戻し、安針公の御廟所とは違う展望台的な方の丘からの眺望を紹介したい。
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う~ん、こちらからの風景も綺麗だ!
桜越しに三浦半島の横須賀地域が見渡せる。
反対に目をやると・・・
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田浦梅林の山が見える。
田浦梅林については御興味の有る方はコレ→ をどうぞ。
綺麗な風景を見て満足したので、先程の屋台で焼きそばを購入して昼食にした。
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サービスで超大盛りにしてくれた(笑)。
いっつも年配の人に優しくして貰えるのは小生のキャラクターなんだろうか(笑)?
味は普通に美味しい屋台の焼きそば(笑)。
オバちゃん、御馳走様!美味しかったよ!普通に美味しいとか言ってゴメン(笑)。
食べ終わり、もう少し公園内を散策して見た。
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翌々見ると軍艦が見える。米国艦船かな?
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うん、塚山公園、良い場所だ!
また桜の季節に三浦按針公と奥方に会いに来よう。
公園から離れた場所に止めた車に戻る為、又、来たマンションの通りを抜ける。
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ベビーカーを押して花見に行く途中?の若夫婦。
幸せそうだが、実はパパさん、登り坂で結構辛そうだった(笑)。
でも羨ましいぞ!お幸せに♪
車にのり20分とちょと移動。
最終目的地の平安~鎌倉時代の三浦家の居城、横須賀市大矢部の衣笠城址に到着。
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衣笠城址、以前も紹介したのだが、旧城域に大善寺と言う御寺が在る。
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行基大僧正が開いた本は真言宗系の御寺で、分家の佐原三浦家が戦国時代の三浦家宗家と成り曹洞宗に帰依していたからか、現在は曹洞宗寺院に成っている。
そもそもは、三浦家の学問所としても機能していた学問の寺院でもある。
この御寺の副住職様に御話が有り訪問したのと、衣笠城址で最期を遂げた三浦義明公に御挨拶する為に城址の御稲荷様に3年振りに参拝する為の訪問だった。
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大善寺周辺には曲輪跡と思われる地形が沢山残っている。住宅や畑も昔の曲輪群だろう。
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御寺を訪問した際に、副住職様は若様の要件で外出中だったので、奥様に要件を御伝言頂く事にした。
前回同様、とても丁寧に応対して下さり感謝。
そして本堂で尊敬する三浦義継公と三浦義明公を始め、三浦義澄公等いつも個人的に御祈りを捧げている三浦家の尊敬する方々に御挨拶をして、御本尊様にも御参りした。
用事も済んだので、大善寺さんの裏手に在る城址残存部を久々に訪問、桜が有るので楽しみだった。
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江戸時代の城しか知らない人には城に見えない場所だけど、城好きが見ると尾根の自然地形を利用して裾切り下切岸や土塁の跡の盛り上がりなんかが見て取れる。

まぁ、興味の有る人は以前の記事↑を読んで頂けると要害性の有る地形が判ると思う。
ブログ始めたばかりの初期の記事で情報量も少ないが。
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上の写真、岩が物見の岩と伝わる場所を人工的に掘り切った反対側に当たる。
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物見岩に登ると御稲荷様の祠が在り、義明公の歌った詩が有る。
物見岩付近からは合子や経文が出土している。ここが小生の尊敬する偉人の一人である三浦義明公最後の場所だと、小生は推測している。
ここは見晴らしが良いので、戦時には指揮を執る場所だったと思う。
そして、そこを今では御稲荷様が城址に来る来客を出迎える様に待っていて下さる訳だ。
御稲荷様にいつも行く先々で御会いして旅の無事を守って下さっている御礼と、前回の参拝からの事等、色々御報告差し上げた。
御稲荷様、又、桜の頃に御参りに来ます。
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衣笠城址はまだ、桜は部分的にしか見頃では無かった。
知人から衣笠山公園の桜林は見頃だよ、と言われていたので其方(そちら)にも行くつもりだったが時間的に日没近い頃に成っていたので、この日は諦める事にした。
そうすれば、又、来年以降も衣笠山公園の桜を見るついでに義明公達と御稲荷様に会いに来る理由が出来るしね♪

ふむ。
良い休日を過ごせた。
帰り、車が赤信号で停車した所、面白い植木の有る家を見つけた。
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遊び心満載だなオイ(笑)!
きっとユーモラスな御主人なのだろう。家族思いのパパさんなのかもね~。

うん、色んな人の人生を辿りながら、綺麗な風景も見れて満足満足。

横須賀市と横浜市を繋ぐ横浜横須賀道路と言う高速道路が有ります…
その高速の衣笠(きぬがさ)インターを降りると近くに衣笠城址と言う交差点が有りまして…
その地名のまんま、一帯は鎌倉幕府の重鎮である三浦氏の本拠地、衣笠城が有りました。
三浦氏は桓武天皇の系統皇族である平高望(たいらのたかもち)王の子孫の武家です。
三浦氏は鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の旗揚(はたあ)げ当初の同盟者の中で最大勢力を誇った武士団でした。
純粋な武士だけで500騎と言う兵力を誇ったそうです。
当時は騎馬武者1人に口取り(馬の引き綱持ち)と雑兵(ぞうひょう)3人位の編成なので…
騎馬武者1+雑兵3〜4=最低4人
武士500騎×4=2000人
足軽を含めた総兵力は約2000騎と推測出来ます。

当時の関東地方は富士山の火山灰が堆積(たいせき)した関東ローム層のせいで、水田の造成に適さない土地ばかりでした。
江戸時代に入っても依然、畑地ばかりでした。
言い方を変えると…
「関東では」身分の高い人間か軍人の為の
「持ち運び可能な戦時食料」だった
「米穀」を確保するだけの
「水田耕作に適さない土地」だらけで、
「大河川沿いか谷間の粘土質の地層が表層にある地形」でしか
「稲作開発をする土木技術しか無い」時代だった訳です。
しかも当時は今よりはるかに海面が高い時代でしたから、尚更耕作地は少ない訳です。
当然、衣笠城址の山も谷間を抱える様な地形に在ります。

当時の蝦夷(えぞ=北海道)国と琉球国を除いた日本国の総人口は700万人未満です。

三浦氏は、その動員可能兵力の2000人から安土桃山時代の石高に換算すると約7万石の大名に匹敵する勢力と成ります。
が、人口の少なかった平安〜鎌倉時代ではその比率は更に大きく成ります。
安土桃山時代の総人口は1200万人弱です。
つまり…
総人口1200万人の安土桃山時代と比較して…
総人口が700万人未満だった平安時代後期の人口は…
"安土桃山時代の約1.7倍相当の価値がある"ので…
平安時代末期の三浦家動員可能兵力2000人は…
2000人×1.7倍=3400人分の価値となります。
安土桃山時代の侵略戦争での動員可能兵力は「1万石=兵力300人」と言われています。
つまり、三浦家の支配地は三浦半島と横浜南部〜鎌倉附近だけだったにも関わらず"江戸幕府なら11万石相当の大勢力"だったと言えます。

その三浦氏の中でも最も有名な武将は三浦義明(みうらよしあき)公と呼ばれる武将です。
この↓人
義明公のフルネームは平朝臣(たいらのあそん)三浦大介(みうらのおおすけ)義明です。

名前の意味は…
平朝臣=朝廷の臣下の平家の人間
三浦介=相模国の三浦郡知事
義明   =個人名
…となります。

ですので余談ですが、現代人の「大介」と言う名前は…
①名付けた親が「大介」の意味を理解しておらず「何か強そう」だから訳も分からず音だけで付けたDQNネーム
②息子に県知事に成って欲しいと言う希望を持っている
③祖先から「◯◯地方の大介職」を継いでいた家系と言う事になります。

三浦義明公の場合、昔の人ですし三浦介と言う知事職を代々世襲したから大介を名乗った訳です。

さて、そんな名前の義明公ですが、歴史の大舞台で最も活躍するのは88歳の高齢で戦死した時でした。
義明公の最期(さいご)の舞台は衣笠城址の物見岩=本丸付近だと小生は推測しています。
この物見岩の近くには人工的に掘削された堀切(ほりき)り=尾根を断ち切る空堀に成っており、衣笠城址の最高部に位置します。
反対側と堀切で断ち切られていますが…
恐らく平安時代当時は、堀切を穿(うが)った岩盤の上に引橋(ひきばし=戦時には取り除ける橋)で繋いだ物見台が建っていたのだと思います。

物見岩は看板が有り義明公の詠んだ辞世の句が書かれていました…
そこには小さな稲荷神社が有りました。
物見岩の上から削平地を見ると人工的に山肌をL字状に削られた一角がハッキリ見えました。
昔は何某かの曲輪で名前が有ったのかも知れませんね。

物見岩の下からは「御経を納めた筒」や「陶器の合子(ごうす)=薬入れ」等の宝物が発掘されています。
つまり重要な建物の床下だった証拠か、自害の舞台で其(そ)れ等の宝物を最期に隠したか、義明公の外孫でもあり義明公を討ち取った畠山重忠公か、義明公の次代の三浦家当主の義澄公が供養の為に埋めたと推測する訳です。

付近には三浦一族の本丸館跡と思(おぼ)しき平場と呼ばれる場所もあります。
小生はこちらよりも、井戸の近くの大善寺横の畑地の削平地に平時住む御殿が有ったんじゃないかなと思います。

本丸より一段下ですが堅固な切岸ですし上は可なり広い真っ平ら。


物見岩付近の本丸平場付近には、土塁(どるい)=土壁跡と思しき盛り上がりの続く地形も見れました。
衣笠城は自然の山とのたまう輩もいますが…
横浜市金沢区の鎌倉時代の金沢北条氏の居城跡称名寺や、室町時代の北条氏の玉縄城と同じく…
山の尾根の左右を切り込み急な城壁状の狭隘な通路にした地形だらけでした。
幅2m有りません…
しかもメッチャ急峻に削り込まれてるよ!
スゲー怖いよ!
足滑らしたら死ぬ‼︎

こんな場所を総重量30kg以上の鎧着て駆け回った三浦氏や、攻め込んだ畠山重忠公って…
「どんだけ〜⁉︎」
…と思いました。

この衣笠城址の一部分に大善寺さんがあるのですが…
…もうね、明らかに寺の地形じゃないよ。
昔は城の曲輪(くるわ)=防御施設の一つでしたみたいな感じなんです。
この大善寺さん、当然由緒ある御寺でして…
三浦氏一門と家臣団の教育場だったそうです。
江戸時代で言えば藩校、現代なら市立大学みたいな感じかな?

さて…
義明公が何で自害をする事に成ったかを少々話します。

平安時代末期…
源頼朝公が、今の静岡県と神奈川県の県境近くに在る"石橋山"で「反"伊勢平氏"」で挙兵(きょへい)しました。
その際に、伊勢平氏と敵対した平良文(たいらのよしふみ)公の子孫である三浦一族も、先祖の代から盟友である源氏の頼朝公に呼応(こおう)し三浦半島で挙兵しました。
その後、石橋山の頼朝公を救援しようと三浦義明公の命令で義明公の長男の長男、つまり孫に当る和田義盛(わだよしもり)公に騎馬武者300=兵1200位?を付けて援軍に向かわせます。
援軍は湘南海岸沿いに西へ向かうのですが相模川の横断に手間取ります。
恐らく石橋山に行く前に西上(せいじょう=京都方面へ行く)過程で、平家側に味方した藤沢市の大庭氏の居城である大庭城が空に成っていると踏んで落城させておこうとしたのでしょう。
大庭城を落とさないと相模川を渡河中に背後から攻撃され窮地に陥りますからね。
ところが…
大庭城は、後の戦国時代にも北条早雲公が利用した程の堅城だったので攻めあぐねる訳です。
そうこうする間に、今の埼玉県東松山方面から大庭氏の援軍に畠山重忠公率いる秩父平氏軍団が来攻(らいこう)するとの報が三浦軍に入り撤退を余儀(よぎ)無くされます。

援軍に行くはずの三浦軍が逆に東西から挟み撃ちにされる形に成ってしまった訳です。
そこで義明公は一計を案じます…

自らが衣笠城で囮(おとり)に成り、畠山重忠公の大軍を引きつけ、その間に衣笠城の近くの怒田(ぬまた)城に常駐している和田水軍を使い戦力と一族郎党を房総半島に退避温存させる事にしました。
房総半島には三浦氏と同族で婚姻関係にある盟友の上総広常と彼の統括する房総平氏軍2万と合流させる事にしたのです。

結果、三浦軍の温存撤退は成功しますが三浦義明公は衣笠城で玉砕しました。
衣笠城の近くに在る満昌寺と言う立派な御寺に義明公の首塚と伝わる御霊神社が有ります。
源頼朝公が義明公の供養の為に建立した御寺です。
首塚が有ると言う事は義明公の外孫でもあり義明公を討ち取った畠山重忠公が、後に源頼朝公と三浦氏に返還したと言う事に成る訳です。
この畠山重忠公と三浦家の遺恨が頼朝公と言うバランサーを失った直後の、重忠公讒訴や二俣川での重忠公謀殺に繋がるのだと思います。

義明公御自身に話しを戻しましょう。
義明公は衣笠城で玉砕する事により、自分の命と引き換えに三浦一門と軍兵千数百人を助け、更に戦略的に水軍を温存し壇之浦合戦で頼朝公の鎌倉幕府創業を助ける事に繋がって行った事に成る訳です。
偉業を為されたと言って過言では無いと思います。
三浦大介義明公は誠実で判断力深謀遠慮に優れた坂東武者の鑑だと思います。

…と、言うお話でした。
因(ちな)みに三浦義明公の御子孫は戦国時代に全国で大名や名門の重臣に成りました。
奥州の芦名氏
上総の正木氏
相模の佐原三浦氏
駿河今川家重臣の朝比奈氏、由比氏、三浦氏
…等が御子孫に当たります。

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