大和市に延喜式内社の深見神社というとっても雰囲気の良い古社が有ります。
でも、ここの社頭掲示で説明に採用している説が大分問題が有ったんですね。
内容的には深見神社の社頭掲示で雄略天皇の時代に開かれた神社で古代は海だったって書いてありました。でもね、ここ海だった事実は無いのです。
何でそんな事に成っちゃうんだろうな?と思って・・・
「GoogleMapに考古学的に海じゃね~し!」
「採用してる石野って人は何書いてるの?」
・・・って内容の投稿をしたら閲覧不可にされたのです。
理由は簡単。
それを指摘されると不都合な人が皆の目に入らない様にした以外無いですからね。
小生のフォロワーサンは投稿を見たと思うのですが、そこで投稿内容を丸々転載し、教育委員会とも地形の歴史事実確認をしましたので、その一連の流れを以下に加筆し新たに画像を差し込んで解説して行きたいと思います。
では開始⤵️
でも、ここの社頭掲示で説明に採用している説が大分問題が有ったんですね。
内容的には深見神社の社頭掲示で雄略天皇の時代に開かれた神社で古代は海だったって書いてありました。でもね、ここ海だった事実は無いのです。
何でそんな事に成っちゃうんだろうな?と思って・・・
「GoogleMapに考古学的に海じゃね~し!」
「採用してる石野って人は何書いてるの?」
・・・って内容の投稿をしたら閲覧不可にされたのです。
理由は簡単。
それを指摘されると不都合な人が皆の目に入らない様にした以外無いですからね。
小生のフォロワーサンは投稿を見たと思うのですが、そこで投稿内容を丸々転載し、教育委員会とも地形の歴史事実確認をしましたので、その一連の流れを以下に加筆し新たに画像を差し込んで解説して行きたいと思います。
では開始⤵️
延喜式内社 深見神社
延喜式内社
武田と北条の合戦で特に有名なのが三増峠合戦で甲斐に逃げようとする武田軍と北条家が先回りして衝突した激戦地が愛川町でした。
大和市とは相模川を挟んで対岸の愛川町、三増峠、中峠、志田峠の隣接する3本の峠道を超えて逃げる武田軍を追撃した北条軍と万単位の軍勢が衝突し多くの死傷者を出しました。
今でも旧多摩郡や相模原の戦時中を生きた超高齢者は・・・
「山梨の奴等が歩いた後には草も生えねぇ」
・・・と昭和まで語り伝えていましたが、もう生きている人の方が少ないでしょうね。
でも江戸時代に成ると深見神社は武田信玄フリークに変わる事情が生まれます。
古墳時代当時既に相模国四之宮に仁徳天皇の弟の皇族将軍、菟道稚朗子が東征し居館を構え本営とした事も伝承するし、式外社で相模国国府祭(こうのまち)神事を行う平塚八幡宮が仁徳天皇の制令により開かれた事実が有るので、西暦400年代開創の深見神社に神代(弥生時代)の話を持ち込むのは整合性が無い話しとしか言いようが無い。
画像掲載元⤵️
埼玉県立さきたま史跡の博物館
https://www.pref.saitama.lg.jp/a0001/news/page/2017/1130-09.html
古墳時代雄略天皇の頃に一帯では武蔵国造乱が起き、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文から獲加多支鹵大王=雄略天皇とあり、時代的に深見に太守として闇龗神を配置する権限が有るならば雄略天皇もしくは配下の四道将軍以外には有り得ない。
②水戸学の影響を受けた神官で、室町時代~安土桃山時代~江戸時代に神祇管領を歴代勤めた京都吉田神社の吉田神道の神仏習合や自然信仰土地神信仰を否定したい人物の可能性。
③国家神道の過激な面を盲信し、比叡山の日枝大社で行われた聖地自然信仰や仏教や偶像崇拝に対する弾圧を取り入れた人間。
※地鶏焼いてるガス台の炎の写真(笑)
因(ちな)みに佛導寺と深見神社が燃えた明治九年(1876年)は明治政府教分省による仏教弾圧と村落の個人宅の氏神の破壊が始まった年で、多くの寺院や小さな神社が本来の氏神信仰土地神信仰と同時に日本国から失われたが・・・
個人的には諏訪神社の場所と深見神社の位置関係と火災発生原因が物凄く気に成る。
画像を拡大して貰うと河川改修工事前の境川の広い河川敷が良く解ると思う、右岸日枝神社が瀬谷本郷1丁目で微高地に成っている。日枝神社の微高地~瀬谷本郷公園辺りの工作地帯が低く対岸の深見神社の丘まの下までが旧河川敷だろう。
地形を見る事に慣れてない人には解り難(にく)いと思うので、明治時代の迅速測図とGoogleEarthの衛星写真で比較すると一目瞭然だと思う。
ずばり迅速測図で“田”と書いてある場所が河川敷でビンゴ!
そして現在よりも水量が多かった古代には・・・
諏訪神社が上流側なので高座郡深見村→鎌倉郡瀬谷本郷日枝神社に渡河する船着き場。
深見神社は下流なので鎌倉郡瀬谷本郷日枝神社→高座郡深見村に渡河する船着き場。
風土記に登場する山王社が諏訪社と現在の深見神社の間にある八坂神社だろう。
実際に恐らく同じ様に古代の相模川渡河地点の一つで、更に古代は海岸線沿いだった相模国一之宮寒川大社は一之鳥居~境内まで1.1kmの参道を誇る。
・・・仮にこの諏訪神社が深見村鎮守の諏訪神社の旧跡地だとしたら、小生が思うに1kmしか離れて無い
深見神社と3社1対で古代の境内地は繋がっていたんだろう。
有鹿神社に至っては奥宮の相模原有鹿谷~海老名本郷の有鹿神社本宮まで約6km離れており、その中間地点に旧中宮も有った。
有名な信州の諏訪大社に至っては上社本宮・下社春宮・下社秋宮が有り、日本の真言宗の開祖と成った弘法大師空海和尚が開いた上社神宮寺が別当寺としてやはり存在していた。更に摂社を含むと諏訪大社は69社も存在したそうだ。
なので思うに深見の諏訪社と深見神社は古代には上社下社として機能した時期も有ったかも知れないし、浄照院も浄土宗の前の時宗の更に前は真言宗だったと考えた方が極々自然だろうと思う。
それ故に古代は深見神社上社だったかも知れない諏訪社と深見神社下社だったかも知れない鹿島社(現深見神社)で江戸時代に成っても隔年交代で神事が執り行われ習慣だけが残っていたのかも知れない。
社頭掲示に石野って学者サン?の説を書き置くのは再度考え直した方が良いと思う。
そこ、昭和初期の石野サンの海だった仮説の様な歴史は実際に考古学的に皆無ですから。
あと諏訪神社の元宮は同じ様に大切にした方が良さそうですね。
個人的には深見は多分、境川の深水(ふかみ)=淵(ふち)が他の式内社や式外社みたいに雨乞いや農業の水源として貴重な聖地化したんだと思うけど。
そして時代的にその祭祀を行わせたのが雄略天皇かその部下で、その人物が土地神だった闇龗神の社殿を造営したか、闇龗神に通じる血脈の豪族で太守として留め置かれて氏神として闇龗神を祀ったと考えた方が極々自然でしょう?
深見の地名だけから検索すると茨城県筑西市深見と言う共通する地名が有り、旧下総国常陸国の茨城県なので当然ながら周辺には鹿島神社や香取神社が多く有りました。もしかして、歴史を調べていた時に昔の人はこの茨城県の深見に縁を求めようとしたのかも知れません。
そうすると、こちらが海だったのかも気に成るので縄文海進と照らし合わせてみましたが・・・
この画像上部の筑西市の深見も全く海には成り得ないので、やはり鹿島神社を勧進した際に鹿島神宮の神話の解説をした話がいつの間にか鹿島社に誤って適用されたではないのかな~と推測出来ます。
ちょっと脇道に逸れますが、御覧の通り東国の国が設置される以前の縄文時代の地形は利根川と印旛沼と霞ヶ浦は東京湾と繋がっていて香取海と呼ばれていました。
その古代の香取海の入口を守る半島の先端に存在するが鹿島神宮と香取神宮でした。
これは典型的な延喜式内社がランドマークとなる交通の要所から聖地信仰に発展する地形ですね。
当時は領海(湾)を守る基地の役割も全て兼ねたかも知れませんね~。
この写真は三浦半島の黒崎ですが、昔の人も今の人も岬に神秘を感じ得ずにはいられませんから自然に対する畏怖は現代人は感覚が麻痺し失ったかも知れませんが特別な地形に感動する事は同じだったかも知れません。
それと神奈川県の相模国四之宮前鳥神社は今でこそ前鳥(さきとり)と書くのですが、前島とも書いた別の漢字も有ります。香取神宮ももしかしたら香取は当字で当初は鹿島と書いたのを音読みでカトリにしたのかも知れませんね。鹿島神宮と地形的にも対の御社でしたでしょうから。
この香取神宮と鹿島神宮の主祭神は双方異なり、香取神宮は布都主命、鹿島神宮は建御雷神です。
律用制度が定まる以前はもしかしたら、異なる御祭神でも上社下社の様に対の神社は沢山有ったのかも知れません。
以前ブログに書いた玉前神社も同じですね。
そう考えると、恐らく地形由来の深見神社は目の前の境川に深水(ふかみ)が稲荷様に合祀される豊穣と水の神様の闇龗神と、有り水神信仰の対象でもあり、対岸の瀬谷本郷と川の一番くびれた渡河に適した地形で瀬谷本郷への渡しが2箇所深見側に有って諏訪神社と深見神社が昔の鹿島神宮と香取神宮の位置関係と同じ様な対の存在だったかも知れません。
明治に村の鎮守の諏訪社を名目上吸収するで隔年交代で神事を行ったのは、古代には上社下社か一対の関係性が存在したかも知れない。
もし古墳時代に建御雷神が雄略天皇の武蔵国造鎮定に与力した話が本当なら四道将軍=建御雷神となり国家神道には不都合な歴史に成る。それはそれで建御雷神が倭建命と同じ様に複数人の人物の官職を表す神号と解りより現実性が増し天皇家の偉業の一端が解り神話が歴史に代わってワクワクしますね。
目地時代以後の国家神道を是とする人には不都合化も知れませんが。
海の存在は茨城県筑西市深見にも大和市深見にも存在しなかった事も解りました。
さてさて、思考停止は良くない。
江戸時代なんて浅い歴史を大切にするより延喜式神名帳と物的証拠と地勢から状況証拠を考えず何の現代人だろう?
最後に一つ、皆さんに犯人に繋がりそうな話と小生の結論を少々・・・
雄略天皇が人間の肉体で君臨された時代、安康天皇暗殺事件が起きました。
その犯人は誰でしょう~?
雄略天皇の歴史を調べられると凄く困りそうな一族の名前が登場しますよ。
まぁ社頭掲示は海だったとか問題も有りますが、それは古文書が焼けてしまったから。
守れなかった明治時代の人達の責任。
ハッキリしてるのは深見神社は地形的にも地勢的にも店屋の近くで古代には重視された場所だったはずだし、延喜式神名帳に掲載されている凄い聖地だと言う事ですね。
そして深見村鎮守の諏訪神社も同じ様に大切な場所。
だから深見神社に祭られた建御名方神も闇龗神と同様に大切、そして鹿島神宮は関東で物凄い大切な神社なので建御雷神も凄く大事。
なら昔の人がゴチャゴチャ何かやったっぽいけど、深見神社で闇龗神、建御名方神、建御雷神を全て大切にした平成~令和の宮司様と氏子サン達は平和的で良い神様の祀り方をされたと言う事でしょうか?
奇しくも平成と令和を混ぜると“平和”ですね(笑)。
闇龗神、建御名方神、建御雷神の御利益全てに合わせて“仲直り”の御利益が新たに生まれた様です。
皆さんも深見神社の謎、御友達と議論してみて下さい☆
最後に自作の和歌を2首~♪
題 恐々謹白
古(いにしえ)の
順現業(じゅんげんごう)を
現世(うつしよ)に
明らかにして
大王(おおきみ)を拝す。
現世に大王拝し
古の順現業を明らかにせむ。
食いしん坊な歴史オタク♥久良岐のよし詠之
雄略天皇の時代に開かれているので当時武蔵国造乱を鎮定した雄略天皇が開いた状況証拠しかないのだが・・・
社頭掲示が採用している昭和初期の考古学者石野の説が全く“現代考古学の発掘成果”と整合性が無く更に歴史の古い多数の他社の伝承とも整合性が無い。
例えば深見神社が開かれた当時は境川は海だったと意味不明な深見から安易に連想した様な説を主張しているが誤り。
深見神社は地形的には海抜80mに所在するので今より海抜10m高い地点に海岸線が入り込んでいた縄文海進に照らし合わせても完全に陸地でしかない。
大和市教育委員会、神奈川県教育委員会、横浜ふるさと歴史財団にも確認しているが、考古学的にも大和市内の当時の地層に貝塚を内包する遺跡は一切無く大和市域の境川が入江だった事は完全に有り得ない。
社頭掲示が採用している昭和初期の考古学者石野の説が全く“現代考古学の発掘成果”と整合性が無く更に歴史の古い多数の他社の伝承とも整合性が無い。
例えば深見神社が開かれた当時は境川は海だったと意味不明な深見から安易に連想した様な説を主張しているが誤り。
深見神社は地形的には海抜80mに所在するので今より海抜10m高い地点に海岸線が入り込んでいた縄文海進に照らし合わせても完全に陸地でしかない。
大和市教育委員会、神奈川県教育委員会、横浜ふるさと歴史財団にも確認しているが、考古学的にも大和市内の当時の地層に貝塚を内包する遺跡は一切無く大和市域の境川が入江だった事は完全に有り得ない。
この境川水系で入江は下流藤沢市域のみ、支流の柏尾川は江ノ島~大船駅前~戸塚駅(冨塚古墳)前まで古大船湾が入り込んでいたいた事は出土物からも証明されるが古大船湾自体が現在も標高が低く、昭和の石野サンの仮説を採用した深見神社の社頭掲示は現代の発掘成果で伊弉諾(イザナギ)命、伊弉冉(イザナミ)命の夫婦神の時代に当たる縄文時代に遡っても有り得ない話だと断言出来る。
あくまでも深見の境川は当時も川。
海説を展開した学者?は100歩譲って社頭掲示の元に成った河川を利用した交通網の拠点だったと言わず、何故海を持ち出したか小生には理解出来ない。
海説を展開した学者?は100歩譲って社頭掲示の元に成った河川を利用した交通網の拠点だったと言わず、何故海を持ち出したか小生には理解出来ない。
神社の社名も色々と変遷している。
フカミノカミ(深見神社)→鹿島社→諏訪神社。
この諏訪神社は後述するのだけど江戸時代まで同じ深見村の中に末社として現存していた。
また関東の式内社の社伝では土地を開拓したり社殿を設けたのは出雲神族系国津神(豪族)だったり倭建命だが、ここは諏訪神社(建御名方神)と言ってみたり、逆に建御名方を討伐した筈の鹿島社(建御雷)を神話に据えたり、雄略天皇の古墳時代中期~末期の成立の筈の神社なのに江戸以後の社伝に全く神話と考古学的な時期の整合性が無い!
更に言うと深見神社の社頭掲示では武田信玄が崇敬したとするが、これが更におかしい。
・・・と、その前に明治時代に始まった武田信玄のイメージの間違いを正して置きます。
皆がイメージする武田信玄はコンナ人ですよね?
でもこれ大間違いです。武田信玄の着用した鎧は赤ではありませんでしたし、全然顔が違うんですよ。
実際の肖像画はコンナ感じ。
他の肖像画とも顔が似ているので、コッチの禿げ頭で無駄な贅肉の無い精悍な武将代表みたいな感じが実像です。
さて何で武田信玄が深見神社を崇敬するのがオカシイかと言う話をしましょう。
実は戦国時代の武田信玄は同盟者の北条氏康を裏切り、善政で知られていた北条家の相模国武蔵国に度々略奪放火に来ていたのは“歴史の常識”で、小田原城攻めの際にも武蔵国多摩地方や相模中央部一帯は武田家の被害に遭っているんです。
寧ろ高座郡一帯は武田信玄の略奪被害に遭った側。
フカミノカミ(深見神社)→鹿島社→諏訪神社。
この諏訪神社は後述するのだけど江戸時代まで同じ深見村の中に末社として現存していた。
また関東の式内社の社伝では土地を開拓したり社殿を設けたのは出雲神族系国津神(豪族)だったり倭建命だが、ここは諏訪神社(建御名方神)と言ってみたり、逆に建御名方を討伐した筈の鹿島社(建御雷)を神話に据えたり、雄略天皇の古墳時代中期~末期の成立の筈の神社なのに江戸以後の社伝に全く神話と考古学的な時期の整合性が無い!
更に言うと深見神社の社頭掲示では武田信玄が崇敬したとするが、これが更におかしい。
・・・と、その前に明治時代に始まった武田信玄のイメージの間違いを正して置きます。
皆がイメージする武田信玄はコンナ人ですよね?
でもこれ大間違いです。武田信玄の着用した鎧は赤ではありませんでしたし、全然顔が違うんですよ。
実際の肖像画はコンナ感じ。
他の肖像画とも顔が似ているので、コッチの禿げ頭で無駄な贅肉の無い精悍な武将代表みたいな感じが実像です。
さて何で武田信玄が深見神社を崇敬するのがオカシイかと言う話をしましょう。
実は戦国時代の武田信玄は同盟者の北条氏康を裏切り、善政で知られていた北条家の相模国武蔵国に度々略奪放火に来ていたのは“歴史の常識”で、小田原城攻めの際にも武蔵国多摩地方や相模中央部一帯は武田家の被害に遭っているんです。
寧ろ高座郡一帯は武田信玄の略奪被害に遭った側。
仮に本当に深見神社を武田信玄が崇敬したと成ると事態は深刻です・・・
当時の神社や神社を管理した別当寺は武装して兵士を抱えていましたからね。
・・・深見神社の社家か氏子衆は北条家を裏切って武田勢に付き、他の地域を荒らしまわったと言う事に成る訳です。
有り得ない。
武田と北条の合戦で特に有名なのが三増峠合戦で甲斐に逃げようとする武田軍と北条家が先回りして衝突した激戦地が愛川町でした。
大和市とは相模川を挟んで対岸の愛川町、三増峠、中峠、志田峠の隣接する3本の峠道を超えて逃げる武田軍を追撃した北条軍と万単位の軍勢が衝突し多くの死傷者を出しました。
今でも旧多摩郡や相模原の戦時中を生きた超高齢者は・・・
「山梨の奴等が歩いた後には草も生えねぇ」
・・・と昭和まで語り伝えていましたが、もう生きている人の方が少ないでしょうね。
でも江戸時代に成ると深見神社は武田信玄フリークに変わる事情が生まれます。
原因に成りそうな事が2つ有りました。
1つ目は武田信玄に崇敬されていた云々。
1つ目は武田信玄に崇敬されていた云々。
2つ目は・・・最後にヒントだけ出すので皆さん調べてみて下さい(笑)。
先ず1つ目は坂本家、実は武田家の旧臣です。戦国時代は理由が無いと他国への侵略が許されない大義名分が必要な有る程度変な話ですが“秩序の有る開戦”が必要だったんですが、それを一切守らず理由を捏造したり平気で同盟者を裏切って攻め込むのが武田信玄だったんですね。
北条氏康公は跡継ぎの北条氏政公の妻女が武田信玄の息女で、更に今川家北条家武田家で三国同盟を結んでいたにも関わらず武田信玄が今川家に攻め込んだ為に、北条家は今川家を救援し武田信玄に逆恨みされる事に成ります。
その後、北条領国の相模国・武蔵国・駿河国東部に武田信玄が繰り返し攻め込み略奪放火の悪行を繰り返しました。
まぁそんな訳で戦国時代好き神奈川県民視点では武田信玄は相模国に災禍をもたらした人物なのでの社頭掲示に書く意味が解らない訳です。
北条氏康公は跡継ぎの北条氏政公の妻女が武田信玄の息女で、更に今川家北条家武田家で三国同盟を結んでいたにも関わらず武田信玄が今川家に攻め込んだ為に、北条家は今川家を救援し武田信玄に逆恨みされる事に成ります。
その後、北条領国の相模国・武蔵国・駿河国東部に武田信玄が繰り返し攻め込み略奪放火の悪行を繰り返しました。
まぁそんな訳で戦国時代好き神奈川県民視点では武田信玄は相模国に災禍をもたらした人物なのでの社頭掲示に書く意味が解らない訳です。
江戸初期の領主で大旦那だった旧武田家臣坂本家は勝手に鹿島神宮から建御雷を勧進しました。
現在は闇龗神が主祭神ですが、江戸時代から最近まで闇龗神は本殿から追放された状態でした。
個人的にはそんな事をする意図が理解出来ないです。
近代諏訪神社の建御名方神が御祭神として祀られる訳ですが、建御雷神に攻められた神様ですからちょっと意味不明に成っちゃいます。建御名方神は諏訪大社の神様で相模国初代国司は建御名方神の五代目後の御神孫である事が他の更に歴史が古い式内社に伝わっていたりします。
まぁ、五代目と言うより氏族が5回分家した後の子孫と考えた方が自然でしょうか。
相模国初代国司の名が布施氏で有る事が三之宮比々多神社に伝わる事。
武蔵国六之宮杉山神社が御祭神が出雲神の五十猛である事。
杉山神社の所在地の西八朔の八朔旧地名漢字がある時代まで“罰佐久”であった事。
雄略天皇の生きた古墳時代に起きた武蔵国造乱で敵味方に分かれて内紛し戦乱を起こしたのが佐久地方が発祥地の氏姓の笠原使主と笠原小杵で朝廷側と群馬栃木に勢力を持つ毛野氏側に分かれて戦ったせいで朝廷の介入を受け横見~多摩~橘樹~久良岐の各郡域が天皇家の直轄地として接収された歴史が有る事。
近くに稲荷前古墳群や鐵町の地名が残り、倭建命に繋がる鎌倉彦命や富属彦命に繋がる大和王権の支配地と考えれている事。
都筑郡衙が超重要な拠点だったらしい事。
海老名の国府~都筑郡衙~橘樹郡衙の中継位置に大和市界隈が当たる事。
神奈川県北部東部一帯は古墳時代の名馬の産地だったので、佐久地方や信州と関係深い縄文系の諏訪神系豪族と騎馬生産を行う渡来系の混合勢力の入植した土地だった事は容易に推測出来る事。
但し群馬の金井東遺跡の様な渡来系騎馬文化と先住縄文文化の融和した集落が周辺にあったのかも知れないが深見周辺の遺跡発掘調査結果、人骨が出ていないので確認は不可能。
関東最古の大社である鷲宮神社でも出雲神族が開拓し倭建命が社殿造営した伝承し弥生時代の集落が境内から発掘されている事とも整合性が有る。
しかし鹿島神宮の建御雷神は寧ろ諏訪神族を滅ぼした側で西から攻め込んで来た側なので、東の鹿島神宮から西に水軍で攻めて深見の太守に闇龗神(の御神孫?)を置く等は可笑しな話しに成る。
まぁ、五代目と言うより氏族が5回分家した後の子孫と考えた方が自然でしょうか。
相模国初代国司の名が布施氏で有る事が三之宮比々多神社に伝わる事。
武蔵国六之宮杉山神社が御祭神が出雲神の五十猛である事。
杉山神社の所在地の西八朔の八朔旧地名漢字がある時代まで“罰佐久”であった事。
雄略天皇の生きた古墳時代に起きた武蔵国造乱で敵味方に分かれて内紛し戦乱を起こしたのが佐久地方が発祥地の氏姓の笠原使主と笠原小杵で朝廷側と群馬栃木に勢力を持つ毛野氏側に分かれて戦ったせいで朝廷の介入を受け横見~多摩~橘樹~久良岐の各郡域が天皇家の直轄地として接収された歴史が有る事。
近くに稲荷前古墳群や鐵町の地名が残り、倭建命に繋がる鎌倉彦命や富属彦命に繋がる大和王権の支配地と考えれている事。
都筑郡衙が超重要な拠点だったらしい事。
海老名の国府~都筑郡衙~橘樹郡衙の中継位置に大和市界隈が当たる事。
神奈川県北部東部一帯は古墳時代の名馬の産地だったので、佐久地方や信州と関係深い縄文系の諏訪神系豪族と騎馬生産を行う渡来系の混合勢力の入植した土地だった事は容易に推測出来る事。
但し群馬の金井東遺跡の様な渡来系騎馬文化と先住縄文文化の融和した集落が周辺にあったのかも知れないが深見周辺の遺跡発掘調査結果、人骨が出ていないので確認は不可能。
関東最古の大社である鷲宮神社でも出雲神族が開拓し倭建命が社殿造営した伝承し弥生時代の集落が境内から発掘されている事とも整合性が有る。
しかし鹿島神宮の建御雷神は寧ろ諏訪神族を滅ぼした側で西から攻め込んで来た側なので、東の鹿島神宮から西に水軍で攻めて深見の太守に闇龗神(の御神孫?)を置く等は可笑しな話しに成る。
倭建命ですら走水に居たのは西暦109年、履仲天皇以前の暦のズレを再計算しても西暦280年前後で古墳時代への転換期に受肉し物質界で活躍し亡くなった中国の三國志~晋の時代の日本の皇族将軍だとハッキリしてる。
時代的に西暦400年代の雄略天皇の時代の設立と書いているのに、神代の建御雷をひっぱり出す事はナンセンス。
時代的に西暦400年代の雄略天皇の時代の設立と書いているのに、神代の建御雷をひっぱり出す事はナンセンス。
古墳時代当時既に相模国四之宮に仁徳天皇の弟の皇族将軍、菟道稚朗子が東征し居館を構え本営とした事も伝承するし、式外社で相模国国府祭(こうのまち)神事を行う平塚八幡宮が仁徳天皇の制令により開かれた事実が有るので、西暦400年代開創の深見神社に神代(弥生時代)の話を持ち込むのは整合性が無い話しとしか言いようが無い。
画像掲載元⤵️
埼玉県立さきたま史跡の博物館
https://www.pref.saitama.lg.jp/a0001/news/page/2017/1130-09.html
古墳時代雄略天皇の頃に一帯では武蔵国造乱が起き、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文から獲加多支鹵大王=雄略天皇とあり、時代的に深見に太守として闇龗神を配置する権限が有るならば雄略天皇もしくは配下の四道将軍以外には有り得ない。
もし各時代の四道将軍を習合した尊称が建御雷神なら話は変わるが、そこら辺りの国家神道とは何か整合性無さそうな事情が書かれていたかも知れない古文書はもう存在しない。
深見神社は明治九年(1876年)に隣接地に存在する坂本家菩提寺だった佛導寺と同時に火災で燃え去り古文書を全て焼失させている。
後から勧進された鹿島社を主祭神にして闇龗神を格下げ出来る人物は深見神社の歴史の中で三人しかいない。
後から勧進された鹿島社を主祭神にして闇龗神を格下げ出来る人物は深見神社の歴史の中で三人しかいない。
①建御雷を中心に据え闇龗神を冷遇した人物は社家や修験の別当家と縁も所縁も無い剣術好き武士の可能性。
②水戸学の影響を受けた神官で、室町時代~安土桃山時代~江戸時代に神祇管領を歴代勤めた京都吉田神社の吉田神道の神仏習合や自然信仰土地神信仰を否定したい人物の可能性。
③国家神道の過激な面を盲信し、比叡山の日枝大社で行われた聖地自然信仰や仏教や偶像崇拝に対する弾圧を取り入れた人間。
そのどれかだろう。
深見神社の南東には浄照院と言う佛導寺の塔頭だった寺院が存在したが、恐らく浄照院は元々は深見神社の別当寺として機能いたのだろう。どこも神社の塔頭寺院は本殿に向かって南側か東側に向かって延びる参道の右手に作られる事が多い。
深見神社と共通の大壇那(スポンサー)だった坂本家との縁と深見神社との位置する立地を考えても、佛導寺が浄照院を吸収した時点で佛導寺の管理下に置かれ、深見神社の神事と縁が切れたのかも知れないが記録が少なく良く解らない。
深見神社と共通の大壇那(スポンサー)だった坂本家との縁と深見神社との位置する立地を考えても、佛導寺が浄照院を吸収した時点で佛導寺の管理下に置かれ、深見神社の神事と縁が切れたのかも知れないが記録が少なく良く解らない。
実はこの浄照院は藤沢市の時宗総本山、遊行寺こと清浄光寺(しょうじょうこうじ)の門閥寺院だった。
時宗は江戸時代までは浄土宗、日蓮宗、法華宗と一緒に“法華の衆徒”と呼ばれ宗派は“遊行派”として記載される事が多かった。
この遊行派は非常に神道も大切にする宗派で遊行寺にも徳川家康公の御先祖様の得川有親(とくがわありちか)公の守護神だった弁天様=宇賀神を祀る御社が現存していたりする。
佛導寺は天文年間(1532~1555年)に開かれているので、鎌倉時代~室町時代初期に最も栄えた遊行派の寺院が江戸時代に新しく開かれる可能性は低く、どうやら浄照院の方が佛導寺より早く深見に在ったと考えた方が自然だろう。
時宗総本山 遊行寺
正式名:藤沢山 無量光院 清浄光寺
新編相模風土記稿にも「昔ハ遊行派ノ寺ナリシト云(言う)」と記載が有る。正式名:藤沢山 無量光院 清浄光寺
時宗は江戸時代までは浄土宗、日蓮宗、法華宗と一緒に“法華の衆徒”と呼ばれ宗派は“遊行派”として記載される事が多かった。
この遊行派は非常に神道も大切にする宗派で遊行寺にも徳川家康公の御先祖様の得川有親(とくがわありちか)公の守護神だった弁天様=宇賀神を祀る御社が現存していたりする。
佛導寺は天文年間(1532~1555年)に開かれているので、鎌倉時代~室町時代初期に最も栄えた遊行派の寺院が江戸時代に新しく開かれる可能性は低く、どうやら浄照院の方が佛導寺より早く深見に在ったと考えた方が自然だろう。
まして江戸時代初期の当地の領主と成った坂本家は徳川家臣なので、安祥松平家出身の徳川家康公は主たる宗旨が浄土宗だった事から当然ながら多くの徳川家臣が関東に領地を移された際に地元の御寺を浄土宗に改宗させたり浄土宗の御寺を菩提寺に選んだりしている。
浄照院もそう言った事と同じ経緯で浄土宗に成ったのかも知れない。
新編相模風土記稿の高座郡深見村の鹿島社(深見神社)の項にこんな記載が有る・・・
この項目を読むと解る通り、末社にされていた境外社の諏訪神社と鹿島社(深見神社)は同列の扱いで現在深見神社とされる江戸時代の鹿島社と隔年つまり1年毎に交代で村の神事を執り行っていた事が書いてある。
そしてその神事は境川を挟んで対岸の寶藏寺(ほうぞうじ)の僧侶が法要を担当したと書いてある。この寶藏寺は真言宗なので密教や修験道とも密接な関わりが有る。
寶藏寺は治暦二年(1066年)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまりであり、これより後、応永三年(1396年)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたと伝聞されていると寺伝を説明しているが法印は山伏つまり修験者の事や真言宗の僧侶が用いる法号だったりする。
この真言宗の僧侶が江戸時代には恐らく修験者と同じく護摩焚きも行い祝詞(のりと)を奉げ神事も行っていたのだろう。
もしかしたら元は遊行派の浄照院は時宗に改宗する以前に寶藏寺と同じく真言宗だったのを、坂本重安によって佛導寺の塔頭に加えられたか何かで歴史が伝わらなく成ったのかも知れない。
そうだとすれば、浄照院と深見神社の位置関係、寶藏寺の僧侶が鹿島社(深見神社)と諏訪社の両方の神事を担当した事の全てに整合性が発生してくる。
浄照院もそう言った事と同じ経緯で浄土宗に成ったのかも知れない。
新編相模風土記稿の高座郡深見村の鹿島社(深見神社)の項にこんな記載が有る・・・
この項目を読むと解る通り、末社にされていた境外社の諏訪神社と鹿島社(深見神社)は同列の扱いで現在深見神社とされる江戸時代の鹿島社と隔年つまり1年毎に交代で村の神事を執り行っていた事が書いてある。
そしてその神事は境川を挟んで対岸の寶藏寺(ほうぞうじ)の僧侶が法要を担当したと書いてある。この寶藏寺は真言宗なので密教や修験道とも密接な関わりが有る。
寶藏寺は治暦二年(1066年)秀恵比丘尼が不動庵を開基されたのがはじまりであり、これより後、応永三年(1396年)空元法印により古義真言宗感応院の末寺として開山されたと伝聞されていると寺伝を説明しているが法印は山伏つまり修験者の事や真言宗の僧侶が用いる法号だったりする。
この真言宗の僧侶が江戸時代には恐らく修験者と同じく護摩焚きも行い祝詞(のりと)を奉げ神事も行っていたのだろう。
もしかしたら元は遊行派の浄照院は時宗に改宗する以前に寶藏寺と同じく真言宗だったのを、坂本重安によって佛導寺の塔頭に加えられたか何かで歴史が伝わらなく成ったのかも知れない。
そうだとすれば、浄照院と深見神社の位置関係、寶藏寺の僧侶が鹿島社(深見神社)と諏訪社の両方の神事を担当した事の全てに整合性が発生してくる。
※地鶏焼いてるガス台の炎の写真(笑)
因(ちな)みに佛導寺と深見神社が燃えた明治九年(1876年)は明治政府教分省による仏教弾圧と村落の個人宅の氏神の破壊が始まった年で、多くの寺院や小さな神社が本来の氏神信仰土地神信仰と同時に日本国から失われたが・・・
個人的には諏訪神社の場所と深見神社の位置関係と火災発生原因が物凄く気に成る。
明治時代に郷社をどちらにするか諏訪神社と主導権争いとか有ったんじゃないの?
位置関係についても恐らく古代は両方とも深見神社だったんじゃないのかなと疑問が有る。
画像上の方に所在する深見城(一ノ関城)は以前も記事を書いたが鎌倉時代の旧鎌倉道が堀底を通る天竺坂と呼ばれ存在した。
真ん中辺りに凄く真新しい諏訪神社が深見神社からピッタリ1km北に存在するが、大体ここまでの小生の解説を読んで下さった読者も同じ事を思うだろう。
聞くまでも無く推察するに、現代の深見神社の氏子サン達は元の御祭神の闇龗神を主祭神として本殿に復す信仰心と歴史を大切にされる人達なので、深見神社の現代の氏子衆が明治時代に一度は宗教改革で廃社にした隔年で神事を行っていた深見村鎮守の諏訪神社を復興したのだろう。
小生はこの深見地区⇔鎌倉郡瀬谷本郷を往来する古代の渡河地点がこの付近だったのだろうと思う。
画像上の方に所在する深見城(一ノ関城)は以前も記事を書いたが鎌倉時代の旧鎌倉道が堀底を通る天竺坂と呼ばれ存在した。
真ん中辺りに凄く真新しい諏訪神社が深見神社からピッタリ1km北に存在するが、大体ここまでの小生の解説を読んで下さった読者も同じ事を思うだろう。
聞くまでも無く推察するに、現代の深見神社の氏子サン達は元の御祭神の闇龗神を主祭神として本殿に復す信仰心と歴史を大切にされる人達なので、深見神社の現代の氏子衆が明治時代に一度は宗教改革で廃社にした隔年で神事を行っていた深見村鎮守の諏訪神社を復興したのだろう。
小生はこの深見地区⇔鎌倉郡瀬谷本郷を往来する古代の渡河地点がこの付近だったのだろうと思う。
現代人には理解出来ないでしょうけど、川の渡し場や物流拠点は江戸時代まで非常に栄えたんですよ。
関東でも寅さんで有名な柴又帝釈天も江戸川の交通拠点の“矢切の渡し”の目前だったから栄えました。
画像を拡大して貰うと河川改修工事前の境川の広い河川敷が良く解ると思う、右岸日枝神社が瀬谷本郷1丁目で微高地に成っている。日枝神社の微高地~瀬谷本郷公園辺りの工作地帯が低く対岸の深見神社の丘まの下までが旧河川敷だろう。
地形を見る事に慣れてない人には解り難(にく)いと思うので、明治時代の迅速測図とGoogleEarthの衛星写真で比較すると一目瞭然だと思う。
ずばり迅速測図で“田”と書いてある場所が河川敷でビンゴ!
そして現在よりも水量が多かった古代には・・・
諏訪神社が上流側なので高座郡深見村→鎌倉郡瀬谷本郷日枝神社に渡河する船着き場。
深見神社は下流なので鎌倉郡瀬谷本郷日枝神社→高座郡深見村に渡河する船着き場。
風土記に登場する山王社が諏訪社と現在の深見神社の間にある八坂神社だろう。
実際に恐らく同じ様に古代の相模川渡河地点の一つで、更に古代は海岸線沿いだった相模国一之宮寒川大社は一之鳥居~境内まで1.1kmの参道を誇る。
・・・仮にこの諏訪神社が深見村鎮守の諏訪神社の旧跡地だとしたら、小生が思うに1kmしか離れて無い
深見神社と3社1対で古代の境内地は繋がっていたんだろう。
有鹿神社に至っては奥宮の相模原有鹿谷~海老名本郷の有鹿神社本宮まで約6km離れており、その中間地点に旧中宮も有った。
有名な信州の諏訪大社に至っては上社本宮・下社春宮・下社秋宮が有り、日本の真言宗の開祖と成った弘法大師空海和尚が開いた上社神宮寺が別当寺としてやはり存在していた。更に摂社を含むと諏訪大社は69社も存在したそうだ。
なので思うに深見の諏訪社と深見神社は古代には上社下社として機能した時期も有ったかも知れないし、浄照院も浄土宗の前の時宗の更に前は真言宗だったと考えた方が極々自然だろうと思う。
それ故に古代は深見神社上社だったかも知れない諏訪社と深見神社下社だったかも知れない鹿島社(現深見神社)で江戸時代に成っても隔年交代で神事が執り行われ習慣だけが残っていたのかも知れない。
それと加えて御祭神についてですが闇龗神(くらおかみ)と深見神社は境川の深水(ふかみ)や湧水地の“淵”が聖地化した雨乞い農業の水神様でしょう。
でも風土記に掲載れている江戸時代の高座郡の寺社の情報が薄っいんです。
これはね~ここ等辺りが鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は進軍しながら神社仏閣で略奪放火して回ってのですが丁度侵攻ルートに重なってるから当時、一帯も相当被害に遭ってる筈なんですよね。
多摩大学の諸橋サンと言う方が書いた多摩地域の解説の挿絵↴
https://www.tama.ac.jp/←掲載元
これザックリとして多摩地域以外は詳しく書いてないですが、東の高野山と呼ばれ天皇家の勅願所だった川崎市麻生区の王禅寺ですら焼かれてしまいましたからね~。
王禅寺は現代では紅葉の綺麗な御寺であり、日本最初の甘柿の発祥地としても有名ですね。
王禅寺の方を焼いて高座郡に進軍し鎌倉郡の瀬谷に入ってるんですよ。
戦国時代に武田信玄にも略奪放火して回られてる不運が何回も重なったから江戸時代には既に解らない事だらけだったのかも知れませんね。
字の意味もね。
実は境川、深見神社と対岸の横浜市瀬谷本郷で河岸段丘の幅が狭いんですよ。
船で渡り安い上に、この様な場所は河川の流速が早く成り深水(ふかみ)が形成されますからね。
相模川上流桂川の猿橋渓谷みいにね。
その川幅が極端に狭い・・・と言っても31mも幅がある峡谷に架けられたのが日本三大奇橋の猿橋なんですが。
闇龗神は暗く太陽光が水底に届かない樹木繁る境川河岸の淵(ふち)が有り聖地化したんじゃないでしょうかね~?
丁度、境川が深見神社の目の前で河川改修後も蛇行してますよね?
つまり、そこは川に張り出した山崎地形だったと言う証明に成りますが、この地形の岸に水の流れがぶつかると、逆巻く渦みたいに成り岩盤地形手前が深く成りますね~。
県内最古級の相模原市の有鹿神社奥宮有鹿谷、県内最高峰の大山に鎮座する大山阿夫利神社の二重滝に祀られる高龗神等の湧水聖地が同じ御利益の神様ですね~。
伏見稲荷大社の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)=御稲荷様も同じ飲料水と農耕に大切な水源地の神様。
伏見稲荷大社の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)=御稲荷様も同じ飲料水と農耕に大切な水源地の神様。
小生と大和市教育委員会の方では大和市内の“地名は地形由来”ばかりと言う同一見解です。
そして海じゃない。
ここ等辺り地形由来の事情も深見神社と佛導寺が燃えず、そして浄照院と諏訪神社が廃寺や廃社に成っていなければ古文書が残っていたのかも知れない。そして海じゃない。
でも風土記に掲載れている江戸時代の高座郡の寺社の情報が薄っいんです。
これはね~ここ等辺りが鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は進軍しながら神社仏閣で略奪放火して回ってのですが丁度侵攻ルートに重なってるから当時、一帯も相当被害に遭ってる筈なんですよね。
多摩大学の諸橋サンと言う方が書いた多摩地域の解説の挿絵↴
https://www.tama.ac.jp/←掲載元
これザックリとして多摩地域以外は詳しく書いてないですが、東の高野山と呼ばれ天皇家の勅願所だった川崎市麻生区の王禅寺ですら焼かれてしまいましたからね~。
王禅寺は現代では紅葉の綺麗な御寺であり、日本最初の甘柿の発祥地としても有名ですね。
王禅寺の方を焼いて高座郡に進軍し鎌倉郡の瀬谷に入ってるんですよ。
戦国時代に武田信玄にも略奪放火して回られてる不運が何回も重なったから江戸時代には既に解らない事だらけだったのかも知れませんね。
しかし社頭掲示にも有りますが明治時代までは深見神社には古文書が有った様です。
明治時代の氏子サン達が古文書を火事で失い公称社格不詳等と口伝でも伝えれそうな情報も守れなかった以上は、式内社の認定をしている延喜式内神名帳の記載と現代の考古学の成果でupdateされて行く状況証拠を重視するべきだと思う。
明治時代の氏子サン達が古文書を火事で失い公称社格不詳等と口伝でも伝えれそうな情報も守れなかった以上は、式内社の認定をしている延喜式内神名帳の記載と現代の考古学の成果でupdateされて行く状況証拠を重視するべきだと思う。
社頭掲示に石野って学者サン?の説を書き置くのは再度考え直した方が良いと思う。
そこ、昭和初期の石野サンの海だった仮説の様な歴史は実際に考古学的に皆無ですから。
あと諏訪神社の元宮は同じ様に大切にした方が良さそうですね。
個人的には深見は多分、境川の深水(ふかみ)=淵(ふち)が他の式内社や式外社みたいに雨乞いや農業の水源として貴重な聖地化したんだと思うけど。
そして時代的にその祭祀を行わせたのが雄略天皇かその部下で、その人物が土地神だった闇龗神の社殿を造営したか、闇龗神に通じる血脈の豪族で太守として留め置かれて氏神として闇龗神を祀ったと考えた方が極々自然でしょう?
もし建御雷神が本当に来たのならば建御雷神=各時代の四道将軍が全員習合された象徴と成る。
因みに闇龗神は伊弉冉命を殺害した際に生まれた神。
伊弉冉命は出雲族の製鉄と密接な白山信仰や熊野地方の人々に信仰された神様。
なので古代大和王権の出雲族征服を象徴するのが闇龗神と建御雷神に成る。
そして雄略天皇の頃に関東で起きた戦乱が武蔵国造の乱、武蔵国造の乱は出雲神族である諏訪神族の笠原氏同士の内紛で、それを討伐したのが雄略天皇=獲加多支鹵大王なのだから、建御雷神は各時代の復数人の四道将軍が習合神格化された尊称かも知れない。
深見界隈が出雲族の内紛鎮定の戦線基地で、出雲族の内紛再発抑止力として象徴的な闇龗神の御神孫の豪族が太守に任命されたのかも知れない。
まぁでも地形由来で闇龗神、高龗神の信仰が後から日本神話に取り込まれたのかな?
それと地図を弄っていて気が付いた事が一つ。深見の地名だけから検索すると茨城県筑西市深見と言う共通する地名が有り、旧下総国常陸国の茨城県なので当然ながら周辺には鹿島神社や香取神社が多く有りました。もしかして、歴史を調べていた時に昔の人はこの茨城県の深見に縁を求めようとしたのかも知れません。
そうすると、こちらが海だったのかも気に成るので縄文海進と照らし合わせてみましたが・・・
この画像上部の筑西市の深見も全く海には成り得ないので、やはり鹿島神社を勧進した際に鹿島神宮の神話の解説をした話がいつの間にか鹿島社に誤って適用されたではないのかな~と推測出来ます。
ちょっと脇道に逸れますが、御覧の通り東国の国が設置される以前の縄文時代の地形は利根川と印旛沼と霞ヶ浦は東京湾と繋がっていて香取海と呼ばれていました。
その古代の香取海の入口を守る半島の先端に存在するが鹿島神宮と香取神宮でした。
これは典型的な延喜式内社がランドマークとなる交通の要所から聖地信仰に発展する地形ですね。
当時は領海(湾)を守る基地の役割も全て兼ねたかも知れませんね~。
この写真は三浦半島の黒崎ですが、昔の人も今の人も岬に神秘を感じ得ずにはいられませんから自然に対する畏怖は現代人は感覚が麻痺し失ったかも知れませんが特別な地形に感動する事は同じだったかも知れません。
それと神奈川県の相模国四之宮前鳥神社は今でこそ前鳥(さきとり)と書くのですが、前島とも書いた別の漢字も有ります。香取神宮ももしかしたら香取は当字で当初は鹿島と書いたのを音読みでカトリにしたのかも知れませんね。鹿島神宮と地形的にも対の御社でしたでしょうから。
この香取神宮と鹿島神宮の主祭神は双方異なり、香取神宮は布都主命、鹿島神宮は建御雷神です。
律用制度が定まる以前はもしかしたら、異なる御祭神でも上社下社の様に対の神社は沢山有ったのかも知れません。
以前ブログに書いた玉前神社も同じですね。
そう考えると、恐らく地形由来の深見神社は目の前の境川に深水(ふかみ)が稲荷様に合祀される豊穣と水の神様の闇龗神と、有り水神信仰の対象でもあり、対岸の瀬谷本郷と川の一番くびれた渡河に適した地形で瀬谷本郷への渡しが2箇所深見側に有って諏訪神社と深見神社が昔の鹿島神宮と香取神宮の位置関係と同じ様な対の存在だったかも知れません。
明治に村の鎮守の諏訪社を名目上吸収するで隔年交代で神事を行ったのは、古代には上社下社か一対の関係性が存在したかも知れない。
何にせよ雄略天皇の時代に関東平定後に新たに闇龗神を祀る豪族を大和市界隈の渡河地点深見や店屋(兵站基地)の太守に任命出来る人物は誰でしょ~か?
考える間でも無く雄略天皇こと獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)=倭王武、御本人1択でしょう。もし古墳時代に建御雷神が雄略天皇の武蔵国造鎮定に与力した話が本当なら四道将軍=建御雷神となり国家神道には不都合な歴史に成る。それはそれで建御雷神が倭建命と同じ様に複数人の人物の官職を表す神号と解りより現実性が増し天皇家の偉業の一端が解り神話が歴史に代わってワクワクしますね。
目地時代以後の国家神道を是とする人には不都合化も知れませんが。
海の存在は茨城県筑西市深見にも大和市深見にも存在しなかった事も解りました。
状況的には歴史を作る事が出来た人物も3人しかいない。
一人目は江戸時代の領主坂本重安公。
二人目は明治に“火事”で古文書を“焼いた”人物。
三人目は深見神社が社頭掲示が採用した境川は海と事実と異なる仮説を書いた石野瑛さん。
一人目は江戸時代の領主坂本重安公。
二人目は明治に“火事”で古文書を“焼いた”人物。
三人目は深見神社が社頭掲示が採用した境川は海と事実と異なる仮説を書いた石野瑛さん。
さてさて、思考停止は良くない。
江戸時代なんて浅い歴史を大切にするより延喜式神名帳と物的証拠と地勢から状況証拠を考えず何の現代人だろう?
最後に一つ、皆さんに犯人に繋がりそうな話と小生の結論を少々・・・
雄略天皇が人間の肉体で君臨された時代、安康天皇暗殺事件が起きました。
その犯人は誰でしょう~?
雄略天皇の歴史を調べられると凄く困りそうな一族の名前が登場しますよ。
まぁ社頭掲示は海だったとか問題も有りますが、それは古文書が焼けてしまったから。
守れなかった明治時代の人達の責任。
ハッキリしてるのは深見神社は地形的にも地勢的にも店屋の近くで古代には重視された場所だったはずだし、延喜式神名帳に掲載されている凄い聖地だと言う事ですね。
そして深見村鎮守の諏訪神社も同じ様に大切な場所。
だから深見神社に祭られた建御名方神も闇龗神と同様に大切、そして鹿島神宮は関東で物凄い大切な神社なので建御雷神も凄く大事。
なら昔の人がゴチャゴチャ何かやったっぽいけど、深見神社で闇龗神、建御名方神、建御雷神を全て大切にした平成~令和の宮司様と氏子サン達は平和的で良い神様の祀り方をされたと言う事でしょうか?
奇しくも平成と令和を混ぜると“平和”ですね(笑)。
闇龗神、建御名方神、建御雷神の御利益全てに合わせて“仲直り”の御利益が新たに生まれた様です。
皆さんも深見神社の謎、御友達と議論してみて下さい☆
最後に自作の和歌を2首~♪
題 恐々謹白
古(いにしえ)の
順現業(じゅんげんごう)を
現世(うつしよ)に
明らかにして
大王(おおきみ)を拝す。
現世に大王拝し
古の順現業を明らかにせむ。
食いしん坊な歴史オタク♥久良岐のよし詠之