歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:豊臣秀吉

名刀「正宗」をご存知ですか?
鎌倉時代から日本中に知れ渡った名刀で、安土桃山時代には豊臣秀吉が天下一の名刀と認定したことから全国の大名がこぞって入手した日本刀です。
正宗工芸美術製作所
今でも鎌倉駅のすぐ近くに工房があり、初代様から代々製法を受け継ぎ御子孫のダンディな刀匠が正宗を製作されています。
写真がそのお店です。
正宗工芸
今では規模は小さくなってしまいましたが、工房併設の店舗で日本刀も販売しています。
ここ、映画もののけ姫で刀の鍛造の参考にロケハンに協力した工房でもあります。
現在は日本刀以外にも普段使いの包丁も製作されており、購入すれば日常生活に日本文化を取り込め有る意味財産で作る料理を食べれますね(笑)。
価格も1万数千円〜有り、少し良いお値段だけど手の出る値段です。しかも刀工の御店なので、ちゃんとメンテナンスもしてくださいます。
研(と)いで下さったり、研ぎ減り包丁の刀身が小さく成ったら「小刀」や「ペーパーナイフ」に改造して下さったりもします。
だから刀剣女子には持って来い(笑)!
小生は趣味で歴史散歩やグルメ以外にもシルバーアクセサリーを作るのですが、銀粘土を加工するのに正宗のペーパーナイフを使っています。
皆さん、鎌倉に訪れる際は是非立ち寄って見てください。
正宗工芸美術製作所がある事は神奈川県にとっては誇らしい文化的歴史的な遺産でもありますね。
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因みに、正宗工芸から歩いて15分位の鎌倉歴史文化交流館では正宗が展示してあります。
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そして平安末期~鎌倉時代の名将、畠山重忠公着用の鎧が武蔵御嶽神社に奉納されているのですが、甲冑制作師が制作した完レプリカの赤糸縅(あかいとおどし)大鎧も展示されています。
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この鎌倉歴史文化交流館の素晴らしい所は展示物が全て写真撮影可能な所です。
是非、鎌倉歴史文化交流館と正宗工芸、鎌倉観光の際にセットで訪れて見ては如何でしょうか?
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鎌倉歴史文化交流館
何でここを紹介するかと言うと、実はここは元は無量寿寺と言う大寺院の跡で、御寺が廃れた後は鎌倉時代~江戸時代迄正宗工芸の親方(社長)の御先祖様が住んでいて、ここで名刀正宗が生み出されていたんです!
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鎌倉歴史文化交流館の広い御庭の谷の奥、そこに刀の工房が在りました。
今は小町通の近くに在りますけどね~。
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無量寿寺跡の谷の台地の上には、名刀正宗の工房の守り神だった御稲荷様の台座だけが現存しています。神様はここが公共の施設に成る際に法律の問題で葛原岡神社に遷宮されました。
さて、実はこの正宗や平安時代の鎌倉で武士が佩刀した刀の鉄の産地も鎌倉郡に在りました。
上郷深田遺跡
上郷深田遺跡
飛鳥時代から平安時代の製鉄遺跡が発掘されており、後に武士達から軍神と呼ばれた源❝八幡太郎❞義家公達、古代の豪族や坂東武者達の武具の玉鋼の根源地だった場所があります。
ここは神奈川県現存唯一、関東最大の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡である事が判明しています。更に30年前の調査発掘で最大規模だったのが更に追加調査で範囲も広がっています。また、山裾伝いに更に後の時代の蹈鞴遺跡も近在する可能性があり、その山の向こうには鍛冶ヶ谷地区が存在しています。
東急建設破壊範囲瀬上沢ホタルと上郷深田遺跡
2019年05月現在、上郷深田遺跡も東急建設の開発計画で消滅の危機にされされています。
出来れば坂東武者達が身に付けた刀剣武具の産地であり、現在は横浜市に入っている栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市にまたがるこの緑地、刀剣の文化と共に永久に存続する様に文化財指定して保護するべきだと思います。
ホタル10
ホタルが飛ぶ姿も見られるしね。
これから6月初旬、第二週の週末位になると蛍の飛び交う姿が最盛期を迎え、下旬に入り7月には蛍達は次第に命を終え数を減らします。
そんな蛍も生きる川を破壊されてしまえば、翌年から見る事も出来なくなります。
さて、正宗工芸!
小町通からも直ぐ近く!
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是非是非、鎌倉観光の際には訪れて、もし刀剣女子が彼女さんの男性や奥様が刀剣乱舞ファンの旦那様はプレゼントに❝正宗❞の包丁なんて如何でしょうか~!







2016年07月の最初の土曜日早朝…
休日恒例の徹夜で静岡県三島市へ向けて車で出発。
三島市周辺
大きく分けて目的は4つ…
1つ目の用事
横浜の戦国時代の名将、間宮康俊公の最期の勇戦の地、山中城の写真撮影。
…これは間宮家の顕彰文に使う写真を改めて準備する為。約10年位前の最初の訪問時はガラケーの写真しかなかったから。小生にとっては山中城でやらなければ行けない事も有った。康俊公の御廟所への御参りだ。

2つ目の用事
武家文化を昇華させて、蒙古の襲来を撃退する程の軍事組織の基礎を構築して日本を守って下さった源頼朝公、そして戦国時代の北条の善政の礎を築いて下さった北条早雲公が鶴岡八幡宮と同等に崇敬した三嶋大社を小生も大切にしたかったから。
加えて毎日、大山阿夫利神社を遥拝して大山祇神様にいつも御守護を祈願しているので、三嶋大社の御祭神でもある大山祇神様に御礼参りをしたかったから。ついでに御朱印も貰いたかったから。

3つ目の用事
三島市の山中城研究家の方に、色々と最新の調査結果踏まえて間宮家が如何に活動をしたか、豊臣勢が如何にして攻城したかを、文献だけでは解らない部分を御教授して頂く為の訪問をする為。

まぁ~、そんな訳で、昨日は仕事が払暁も迫る頃に終わり帰宅すると直ぐに入浴し、夏の山登りで汗もかくだろうから着替えやら❝山中城縄張り図❞やら❝関東八州古戦録❞の抜粋コピー、それと筆記用具と御朱印帳をリュックに詰め込んで車に乗り込みAM:06:00に横浜を出発!
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山中城周辺は何も御店が無いので西湘バイパスの西湘PAで朝食をとる事にした。
注文したのは湘南らしいと言うかベタと言うか、御気に入りの❝ネギトロ&シラス丼❞。
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朝から重い?と思われるかも知れないが、魚肉は全く胃にもたれない小生の体質。
海の魚を食べないと寧(むし)ろ体調が悪く成る。
ただ、この西湘PAで一抹の不安を感じる事が有った…
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霧が出ていて眺望が悪い。西側を見ても伊豆半島が見えない程だった。
…標高の低い場所でこの状態だと箱根の天候は濃霧が予想出来る。沢・滝・湖が多く湿度に満ちて更に標高高く曇天だと雲の中を走る事に成る。
食事を終えて出発し、小田原市街で降りずに西湘バイパスから箱根湯本を経由した。
小田原市の風祭辺り~かつて総堀の更に外の守りの役割りを果たしていた早川に差し掛かると、既に濃霧だった。
更に走り大平台温泉郷辺りに差し掛かると、もう、50m先も見えない状態。ハマっ子の小生は、このシチュエーションに不慣れ。
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赤信号で止まると、交差点の反対側、交差する左右の信号と車すら見えなかった。
危険なのでヘッドランプを点灯し気を付けて運転し山中城を目指した。
箱根に入ってしまうと、山中城までは30分程度でついた。
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ここは日本100名城に選定されて、最近は❝トイレ❞が増設されて山城散策の強敵の❝生理現象❞に皆が打ち勝てる様に成った。実に素晴らしい!
山中城の見学は車で来る以外に手段が無い。少々不便。しかしながら遺構の保存度と発掘後の修復度は極めて良好で現存範囲も可成り広い。
南関東の戦国時代の城好きの入門者は、この山中城か、東京都八王子市の滝山城か、横浜市港北区の小机城か、千葉県の佐倉城辺りの見学から入ると、実地で防御施設の勉強が出来る。
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ここは古道の史跡でもあり、城内を貫く江戸時代の東海道が補修保存されている。
…この道を辿って歩いて行けば江戸の日本橋~京都の三条大橋に着く事が出来る。
さて、この江戸時代の東海道の左右、南東側に岱崎出丸、北西側に三之丸と仮名された防御施設がある。
通説では小生の尊敬する間宮康俊公は岱崎出丸で奮戦し討死、或(ある)いは自決した事に成っているが来年、この多くの学者・小説家・城郭研究科が妄信して来た解釈は使えなく成り誤りと成る。
まだ詳しい事は話せないので、ここまでにして置くが…
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岱崎出丸は建造途中で敵の攻撃を受けた。しかしながら、現在人が北条流の築城術を学ぶ素材としては非常に優れた施設で、どの様に関東ローム層を活用した築城を北条氏が行っていたか、建設途中の状態で保存されているからこを良く解る。
無論、嘗(かつ)て二ノ丸と江戸時代の軍学者に仮名を付けられていた北条丸/北条曲輪、西ノ丸や本丸の傾斜にすら意味がある事が、近畿流の築城術との違いを物語っている。
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ここの畝掘りは凄まじい。
往時は畝の先端の幅は狭く、深さが2m以上有った上に関東ローム層の堅くて成型し易い地盤は、一度水に濡れると表面は忽(たちま)ち泥に成る築城には都合の良い特性がフル活かされている❝人間蟻地獄❞だった。
守備側は畝掘りや障子掘りに落ちた敵を淡々と弓矢や銃で射殺して行く訳だ。
さて、今回は改めて沢山の写真を撮影できたので、いずれ又、別個に山中城の解説を記事にする予定。
今回、先に出丸を見学した後で、城址本体の前に間宮康俊公等勇戦武将達の菩提寺として康俊公の姫君で徳川家康公の側室に成られた間宮於久(おひさ)様が開基(かいき=御寺を造営する事)された宗閑寺にて、殿様に8年ぶりくらいの御参りをした。
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御寺の本堂は大きくは無いが、今も山中新田地区の住民皆様達が御守り下さっている。
御廟所の写真は撮らない主義なので今回も載せない。
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於久様が家康公の側室に成られているので、現在は住職不在の御寺でも格は高く寺紋に三つ葉葵の御紋の使用が許されており、今も屋根の上に燦然と徳川家の家紋が輝いている。
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ここは鎌倉時代以来の武士の文化を良く表した場所でもある。
敵味方の怨讐を超えて、間宮康俊公の手勢に打ち取られた豊臣秀吉旗下の大名一柳直末公や旧織田家臣の長谷川家や徳川家の武将多米家の武将等、皆が寄り添って廟所を共有している。
江戸時代、それぞれの御子孫は御互いに敬意を払って追善供養をしたようだ。
於久様が最初に御自分の御父君である康俊公と敵味方の区別なく一柳家も供養する為に御寺を建てて、後に一柳家の御子孫も山門代わりの石柱を奉納し、そこに双方の武勇を顕彰した銘文を石工に彫り込ませた。
なんとも武士らしい潔く清々しい、死力を尽くして戦った後も双方に敬意を持つ文化が、この場所には残っている。
山中城にはAM:08時頃~12時過ぎまで居たので、関東八州古戦録と言う本を読みながら豊臣軍の侵攻路や渡辺了の侵入経路を真似して辿(たど)って信憑性を検証しながら、各施設全て撮影して回ったので4時間も滞在してしまった様だ。
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写真では解り難いかも知れないが、畝掘りの上に結構大きな蛇がいた。
動かないので死体かと思って遠くから石を投げてみたら首を持ち上げコチラを向いた。
古来、富の神様の宇賀大神=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)=辨財天と日本では富の神様として蛇の胴体に人の頭を持つ神様として信仰された縁起の良い神の使いな訳だ。
エジプトや中国では医療の神の象徴だった。
石を投げたのは、この蛇サンに失礼だったが神様の使いの側面も有している歴史が有るので、城址の守り神様に見学者の安全を宜しく御願いしたりしてみた。

山中城址の見学を終えて、駐車場に戻り売店の御婦人御二人に幾つか質問をして、ついでに三島の名物は何かを訪ねた所、鰻料理だと言う事なので昼食は鰻と定めて次の目的地の三嶋大社に向かった。
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三嶋大社には山中城から30分位で到着したと思う。
距離的には近いのに思いの外時間がかかった。途中、伊豆フルーツパーク等、家族連れには楽しそうな道の駅らしき施設が在ったが時間が足りないので今回はスルー。直接三嶋大社に来た。
到着して正面の大鳥居の写真撮影に表参道へ来たら…
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目の前に昼食にと決めていた❝三島市名物のうなぎ❞を提供する店が有った。
価格は愛知県の❝ひつまぶし❞の名店として有名な❝備長❞の観光地、東京スカイツリー支店と同じ位の高価格だったが、鰻丼は1600円位とランチとしては妥当な価格だったので、鰻丼+エビフライの1800円前後の定食を頂いた。
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鰻食べれて満足。
直ぐに三嶋大社を参拝した。
参道入口には、さっそく頼朝公と参謀の安達盛長公の関係を示す伝承が残っていたり、宝物殿もあり歴史が好きな人間は色々と観察する場所が有った。
三島大社は、どうやら古代においては前面の池が旱魃でも枯れないので、雨乞いの聖地としてスタートした様だ。
三島大社の説明では、天皇が誰かあやふやだったが年代が書いて有ったので淳和天皇の時にも雨乞いが行われ、神事と自然信仰に熱心だった頼朝公は、この故事を御存知だった事から後に、この池で放生会を行い三島大社に土地を寄進したそうだ。
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訪問した時は丁度、結婚式の新郎新婦の撮影を参列者と共に多くの参拝客が行っていた。
小生も幸せの御裾分けを頂いた。
お幸せに!鯉がぴょんぴょん飛び跳ねていたから何だか縁起が良さそうだ。
三嶋大社もいずれカテゴリー延喜式内社の記事として別個に記事を書き加える心算なので、今回は多くの解説はしないが…
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御本殿の唐破風の欄間には、天照大神の天岩戸から外界に出てくる物語等が彫刻で表現されていた。DSC_2915
他の彫刻にも意味が有り、宝物館の学芸員様に御教授頂いた。
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その国宝館、入館料を支払う必要が有るが鎌倉時代の三嶋大社の様子が解る絵図や復元模型、社家の方々の屋敷地等が掛かれた絵図等の展示もあり興味深かった。
三嶋大社の社紋は伊予の大名河野家と同じ家紋なのだが、その河野家が伊予で崇拝対象としたのが大三島の大山祇神で、ここ三嶋大社と同じ御祭神なのだ。
そして、社家の屋敷地の絵図に河野家や九州の水軍大名大村家の名も有った。
実は東京の世田谷城主蒔田吉良家の家臣団にも河野家がいて、やはり水運に関わる一族で伊予河野家の分家だったりする。
なので三嶋大社の絵図に乗っていた河野家も、周辺の大庭川や黄瀬川で水運を担って三嶋大社の財源を確保した一族なのではないかと思った。
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展示品には甲冑や、多くの武将達が奉納した日本刀等も有った。
三嶋大社を出発し、次の目的地である❝楽寿園❞に行った。
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ここは明治維新に貢献された小松宮家の旧邸宅で、児童向け有料公園化されてしまっているものの、庭園の名残はそこかしこに見られた。
しかしながら訪問の目的は庭園見物では無くて、園内に在る三島市郷土資料館を見学し三島市の歴史をサラっと学ぶ事、それと、この郷土資料館の学芸員様に先に御相談していた❝山中城の城郭と合戦の専門家❞を御紹介頂く事だった。
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ちなみに、郷土資料館には古墳時代の出土物の宝剣等が展示されていて、三島市の古代から江戸時代まで前時代を網羅していた。小規模なので展示件数自体は多い訳では無いが、三島市郷土史の予備知識を付けるには良い場所だった。
職員の皆様の御好意により、直ぐに件(くだん)の専門家へはアポを獲って頂けたので、その方に面会に市役所近く、生涯学習センターへ向かった。
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待ち合わせをした❝とある方❞からは色々と山中城の江戸時代~今年までの通説が誤りであった事が証明された研究報告を教えて頂けた。
山中城を見学した部分で少し触れたが、来年から学者や小説家や雑誌記者は山中城の合戦を記事にする際、今までの内容を使うと、新たな要因で根拠を示せなくなる訳だ。
山中城のとある部分が今までの認識以上に複雑な構造だった事が判明しており、それに伴い関東八州古戦録等に掲載された渡辺了(さとる)の進入路も、新発見に基づくとより整合性が高く成る。
まだ民間人では小生しか知らないそうだ。
間宮家の顕彰活動で冊子作製を行うに辺り、大切な情報を御教授頂け、とても有意義な時間を過ごせた。
この方と三島市に、何か観光客誘致で将来的に御協力して恩返しをしたいと思った。

これにて漸く、一日の予定をこなし終えて時間も17時位、帰宅するには丁度良い時間に成っていた。
帰りも東名高速は使わず、箱根峠を超えて西湘バイパスで帰る道を選んだ。
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夕食を朝に続き、西湘バイパスの食堂で食べた…
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帰りは小田原名物の鯵のフライ。定食。これは美味しい鯵フライだった。
ふむ…

多分、それなりに充実した休日に成ったと思う。








先日、山手に在る素敵なプロテスタント系の教会、横浜山手聖公会の教会を紹介した。
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ここは週末、運が良ければ一般公開していて無料で入館出来る。
山手の教会の内装展示資料 久良岐のよし
この教会は、幕末、横浜の山手地区や関内に駐留する英国軍人や英国人のモラルを保つ為、精神衛生の安定の為に建てられた教会だそうだ。
当時の欧米人は、まだまだ信仰心が強かったので、こういった施設は治安維持にも一役買った訳だ。
そして、日本の近代化に寄与して下さった異人サン達の心の拠り所にも成ったはずだ。
横浜は素戔嗚尊の御神孫や日本武尊とも御縁深い土地だが、こう言ったキリスト教の文化も横浜らしい近代文化の一部だと言える。

実は、現在のキリスト教が確立される以前の原始キリスト教は日本にも早くから伝わっていた事が多くの歴史学者の指摘する処である。
もっとも小生はキリスト教の元に成ったゾロアスター教の事だと推測しているが。
小生の尊敬する小説家、司馬遼太郎先生も小生と同様の認識だったので、❝街道を行く❞シリーズの京都か奈良の回で太秦氏の事を紹介している。
この太秦氏と言うのは読んで字の如(ごと)く、今の中国の基礎を築いた秦の始皇帝の統治した根拠地の中国の西方に居た部族で、この部族「太秦」は中国の歴史書にも記載が有る。
中国 秦
秦と言うと、この統一された地方を思い出す人が多いと思うが、元々は中国の西北の一部の国だった。
中国戦国時代 ネット拝借
現在で言うと陜西省や甘粛省辺りを治めた騎馬民族の地方部族。
秦 領土
自分達より歴史の古い貴種や都合の悪い事を認めたく無い藤原氏が、他の氏族の出自を改竄しまくった形跡だらけの日本書紀では秦氏は百済人扱いされているがとんでもない。
朝鮮半島なんかより遥かに歴史の有る氏族で中国の歴史書にも登場するのだから。
しかし、同じ渡来系でも朝鮮系統より古いなんて歴史は認めたくない連中が、太秦氏を百済人とか中国の記録を見れば簡単にバレる改竄をしてしまったのだろう。
残念、世界の距離が近く考古学の発達した現代、そんなメンツに拘った嘘は通じない。

この中国の戦国時代、秦が精強に成り得たのは西方の優れた文化を交易で導入出来たからだ。だから、この地方に小麦の麺文化も逸早く根付いた。
実は中国人は麺文化は中国文化と勘違いしているがとんでもない話で、元々は騎馬民族の文化だ。
だから拉麺の本場は今でも蘭州だったりする。
同じ様に羊肉の料理で羊肉串と言うのも有るが、これも中国人は中華料理と言い張るが新疆ウィグル族の料理だ。
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スパイシーで美味しい。
※羊肉串を紹介した記事は「ココ」←クリック!
因(ちな)みに中国大陸で拉麺と言うのは本当に拉(ひっぱった)麺(めん)の事で、刃物で切ったり機械で裁断した面は拉麺とは呼ばない。最近では日本の拉麺が逆輸入され、日本の様に機械での押し出し麺や裁断麺も拉麺と言う❝逆輸入ジャンル❞として確立されたが。
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※横浜家系拉麺の名店、環2家の以前の拉麺。現在はオーナーが家系創始者吉村社長では無い。
日本の様な❝汁ソバ❞は本来の中国語では湯麺と言う。湯(スープ)麺(めん)だな。
日本で湯麺(たんめん)と誤解された料理は、❝スープに入った麺❞と言う訳だ。
本来は❝拉麺❞と言う字は麺の種類を指した意味しか無い。これは日本人の漢字の意味の理解不足が原因だ。
この麺文化や騎馬文化や刀剣の製造技術と同じ様に、古代の交易で宗教も伝わった。
つまり、古代のユダヤ人のゾロアスター教か原始キリスト教が太秦氏に伝わったのは、この騎馬民族の交易によって伝播した訳だ。
この交易路が後にシルクロードの基礎に成った。
日本の牛頭天皇もヒンドゥー教のシヴァ神が原型だが、このルートを通って中国から直接入って来て、似たような神話の有る日本の素戔嗚尊と習合され等しく信仰された。
武塔(むとう)神とも同一視されるが、この武塔神と関わりの有る土地が牟田(むた)や宇田(うた)を地名に含む場所だと思う。
たまたまだが、九州の大牟田市には八剣神社があり、水神様だった素戔嗚尊の八岐大蛇退治の神事が今も行われる。
武塔(むとう)は日本で朝鮮訛りに毒された発音だが、本来の華語の発音では武塔(WuTa)と読む。
もうそのまんまムタかウタに成る訳だ。そして武塔神も素戔嗚尊もシヴァ神も水神の性格を持つ。
シヴァ神の下の神様がナーガ神を含めた(ガンジス河の神様)なので、そうされている。
牛頭天皇の子、八王子も素戔嗚の神話では無くて習合されたシヴァ神のこの神話が元に成っている。
つまり八王子と言うのは仏教で言う所の八大龍王だ。
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…そして西暦600年頃に応神天皇を習合した八幡大菩薩もこの八大竜王の事を指すはずだが、天皇家の祖先神を習合した事で、出雲系の神様の素戔嗚尊より下に置かれては困るので❝八幡大菩薩と八幡宮の神様が自称した❞のだろう。現在の八幡宮では八幡大神とされているが、奈良時代~鎌倉時代の人達の認識では神様の神託による自称を元に「八幡大菩薩」と呼ばれていた。八幡大神で統一されたのは明治時代に成ってから、160年しか歴史が無い。
素戔嗚尊も、八幡大菩薩も日本神話でもインド神話でも似たような水神様だから、水に関する神社では一緒に祀られている事も多々ある。それに弁財天様が加わるケースも多い。
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※写真は源頼朝公が軍神として信奉した江ノ島弁財天こと江島神社。
❝弁天様❞は今日では❝弁財天❞と書くが、昔は❝弁才天❞と書いた。
それには以下の理由が有る。
実は、素戔嗚尊に習合された牛頭天皇=シヴァ神は奥さんがパールヴァティーと言う女神様だ。
このパールヴァティー神は軍神や学問と美の女神で水にも関係が有る、似たような美と水の女神の女神サラスヴァティー、美と農業の女神ラクシュミーと言う神様と一緒に三人の女神として崇拝され後に習合されて、デヴィ神と呼ばれる様に成る。
このデヴィ神のイメージが日本における弁財天の本来のイメージなんだな。
軍神の要素が有るからこそ、源頼朝公や坂東武者達は江ノ島の弁天様を信奉した訳だ。
若いデヴィ夫人
…余談だが、タレントのデヴィ夫人もスカルノ大統領から今の名前を貰った意味はデヴィ神=弁天様みたいに美人だったからだろうか?
今ではクソBB…今でも御綺麗ですが。若い時の写真は本当に弁天様と呼んでも弁才天様が認めちゃいそうな美人。
すっごい美人‼
そんな訳で、日本には古くからインドや中東からの文化がシルクロード経由~中国経由~日本へ直接流入していた。

日本の聖徳太子のイメージは古代京都の豪族太秦氏が中国経由でもたらしたユダヤ人の聖典を翻訳した福書を参考にして、誰か別に実在した偉人の功績を無かった事にして象徴的に粉飾した聖徳太子と言う人物とさも別に記載したと言う説が最近の学説だったりする。
京都太秦周辺
そんな感じで日本にはかなり早く初期キリスト教、若(も)しくはキリスト教の元に成っているゾロアスター教的なものの考え方も太秦氏経由で入って来ていた歴史が有るんだな。つまり、秦帝国の滅亡が西暦紀元前200年頃だから、その頃に日本に渡って来て、稲作や織物の作り方や金属器の製造なんかを少しずつ日本に広めた一族と成る訳だ。
そして古代は神様の集まる場所、一時期日本の中心だった出雲の神様を彼等太秦氏が開いた土地の人々が多く信仰するのは当然な事だ。
日本人は無意識にアジア人や西洋人やアラブ人と違う名前の同じ太陽を神様として拝んでいる。だから文化的に似てはいなくても日本人は、アジア人とも西洋人ともイスラム教のアラブ人とも仲良く出来るんだろう。
出雲で神様達は太秦氏を受け入れ、京都辺りを任せたんだろう。
東映の太秦撮影所の一帯が太秦氏の居住域だった場所。これも有名な話し
話は逸れるが京都北部は映画撮影所の関連で、俳優の芸名の由来に成った土地が多い。北大路とかね。
画像真ん中下の梅宮大社なんかは梅宮辰夫サンの芸名由来地だけれど、実は神社でも神奈川県とも所縁(ゆかり)が有り、梅宮大社も関東総鎮護の延喜式内社と鎌倉武士に崇敬された大山阿夫利神社も共に主祭神大山祇神様を御祀りしている。
渡来人の太秦氏が出雲神族を崇拝するのは紀元前から出雲神族の眷属たる一族に技術開発等で協力していた証拠。太秦氏は受け入れられ亡命し帰化し日本人に成ったからこそ、出雲神族を崇拝したんじゃないだろうか。
太秦辺りは出雲の神様を祀る神社が少なくない。
素戔嗚尊の御神孫は、神話と考古学の符号を考えて古代邪馬台国の発展に寄与した伊都王の一族と関連が有ると思っている。以前も書いたが志賀島出土金印と蘇我氏もそこに関係が有りそうだ。
出雲大社の本殿の裏には素我(そが)社が有る。
奇しくも神奈川県や東京埼玉千葉は、出雲系の神様の一族が開拓した事が古い神社を回ると御祭神や伝承から察する事が出来る。

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※上は東京国立博物館の聖徳太子木像。髪の毛を両脇で結ぶ本来の日本人スタイル。
※下は中国唐帝国の文化を受けた聖徳太子画像。
聖徳太子
※日本神話に熱心だった仏教の真言宗宗祖、弘法大師空海和尚が開いた神奈川に有る太子堂の聖徳太子像は上の日本人スタイル。
ところでキリスト教徒が「アーメン」て祈るが…
そのアーメンが神様の名前なんだよね、イエスやマリア様は救い主と聖母様。
キリスト教の「アーメン」て言葉こそ神様の名前なんだな。ゾロアスター教の拝火(太陽神)信仰の影響でペルシャ南部やエジプトで崇拝された太陽神アメン神が崇拝対象に成っていた。キリスト教の布教の過程で太陽神の名前が使われた訳だ。
もっと言えば古代エジプト神話の神様のアメンラーとして太陽神ラーと融合したアメン神の事なんだな。キリスト教と別派同根のイスラム教では神の名前は「アラーフ」とされるが語源は良く解らないそうだ。
もっともイスラム教とキリスト教では神の名前だけでなく天使の地位が異なるらしい。
・・・でも天使の名前は同じミカエルやイスラフェルがいる。
西洋でキリスト教で主神=ゼウスとされるのは、古代ローマ神信仰者を改宗させる為に、イスラエルから時代を経てローマに辿り着いた宣教師達が、ローマ人の信仰する全能神ゼウスをアメン神と習合して布教した結果なんだな。
つまり「アーメン」てのは神様の名前、英語で「イエス」て返事するのも「救い主=Jesus Christ=宗祖」の名前なんだな。Jesusをラテン語で発音するとイエズスに成り英語では省略して発音表記でYESに成る。
これはラテン語勉強しない英語圏キリスト教信者が認めたがらないらしい。そして英語圏の信者はかつてキリスト教がローマ神話のゼウスを習合した歴史も知らない人間が多いし、アメンの意味も解ってないで言ってる不勉強な奴も多い。
ザビエル
イエズスとカタカナで書くと歴史好きは思い出す人もいるだろうけれど、ザビエル神父の所属したイエズス会の名前は「救い主(メシア)」キリストの名前を冠した宗教会派て事だね。
このゼウスとアメン神を習合するのと似たような布教を日本でもキリスト教宣教師達は行っていて…
日本に浸透していた神道や仏教で天照大神の別の姿とされた大日如来にアメン神を習合させようとして、切支丹(キリシタン)達に「アメン=大日如来=神=大日」として「大日」と言わせ布教した歴史が残っている。
インカ帝国時代のペルーにキリスト教布教させた時も、現地の神様を習合したしね。
…彼等の問題は自分達の宗教観しか認めず、多くの神社仏閣を破壊させ先人と偉人達の文化を破壊しようとした事。奴隷を当たり前に持っていた事。
そして織田信長公は宣教師の神社仏閣破壊の様な要求を飲まなかったし、譲り受けた奴隷を解放し白人と黒人を平等に扱った。
そして神道の価値観を守る為に、己を御神体とした奇岩=御嶽(おんたけ=みたけ=うたき)を安土城内に築いた。
信長公本人を神としてしまえば、信長公の保護下で布教を許されている宣教師達も日本古来の神道文化や信長公の信奉する法華の教え=仏教にイチャモンつけれない訳だ。
だからキリスト教の宣教師から悪魔扱いされた。

イスラム教はキリスト教とは源流は同じだけれど教義と人種問題で数千年間も対立してきた。
しかしゾロアスター教とも融和した名残りがうかがえる日本人は、その両方とも上手くやれている。

まぁ、日本人の思想は多神教の寛容さや仏教的な自省と武士文化的な礼儀が根幹に強く有るのは間違いない。
だから日本人が神道や仏教の信者でも素直に教会の建築の美しさやキリスト教の友愛の善の面、イスラム教の互助思想を肯定的に受け入れられるのは日本人の本来の神道的な多神教の文化と日本の神様の寛容さなんだろう。
この日本の神様の寛容さが、日本人の精神的な文化の根幹に有るんだろう。
モスクの写真を見ても素直に綺麗だと思うしね。
日本文化大切にする日本人とも西洋人ともアラブ人とも仲が悪いのは、無宗教の唯物主義の共産主義者と親族の利益だけを追求する儒教主義者だけ(笑)。
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日本の法律と日本の文化と秩序を守り、先人の残してくれた偉人や自然を神として奉る神社や祖先を大切にし自省を根幹にした仏様の価値観を肯定してくれれば、別に異人サンが幕末みたいに日本に住んで日本で働いても問題ないんだよ。
牛頭天皇=素戔嗚尊と草薙剣=熱田大神と法華宗(主に浄土宗と日蓮宗)を信奉した織田信長公も、山科羅久呂佐勝成(ラクローサ )てイタリア人武将や、弥助(ヤスフェ)って言う元奴隷のアフリカのモザンビーク人武将を召し抱えていたからね。
織田信長公を無宗教者扱いするバカ小説家やアホな漫画家は、実際に文献も読まなければ現地も歩かないクズばかり。
実際の織田信長公は多くの神社仏閣を復興し朝廷の宮殿を再建したりしていらっしゃった。朝廷の伝統儀式を神道に則り復古されたのも信長公だ。
浄土真宗東本願寺派(高田派は親幕府親信長派、後に本願寺光佐顕如も武装解除し豊臣政権と友和)の石山本願寺や天台宗の比叡山延暦寺が攻められてのは、当時は彼らの一部が軍事力を持った現在のISみたいな武装テロリスト集団に堕落していたからなんだな。
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だからこそ、法華衆徒を堕落させるが真剣に修行に励む物は救う「第六天魔王=伊舎那天・伊舎那后=シヴァ神」の代理人と名乗り、天台座主と自称する武田信玄と宗論で喧嘩した歴史も残っているんだな。

どこの宗教も過激派が問題なんだけ。
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その過激派から国を守る為に、豊臣秀吉がスペインとポルトガル人宣教師を追放した。
理由は宣教師が勝手に日本に教会の領地を持ったり日本人を奴隷として連れ出した犯罪者だったから。
これは日本人として正しい対応。白人が同じ事されたら怒り狂って戦争をけしかけるだろう。
同じ様にイギリスのプロテスタントを徳川家康公が日本入国禁止にしてキリスト教禁止たのは彼等がやはり日本人を奴隷として強制連行したから。
外国ではオランダと清が江戸時代に日本と交易を許されていたのは、オランダは日本人を奴隷にしたり日本に植民地を持つ領土的な野心が無く純粋に交易が目的だったから。
キリスト教国も時間が経って日本に遅れる事、千数百年、漸(ようや)く奴隷禁止に成ったけれどね。

そんな訳で、横浜には幕末~大正時代に花開いた西洋渡来の洋館や西洋料理の文化が今も根付いているけれど、元々、日本の宗教の中にも色んな国の神様が平等に祀られていたんですよ~!とか、色んな外国人も日本に帰化して頑張ったり発展に寄与して下さったんですよ~って話と…
信長公・秀吉・家康公然(しか)り、犯罪犯したら罰しろ、犯罪を起こしそうな奴は入れるな、日本が大好きで日本の価値観を尊重してくれて日本の為に成る人物なら外国生まれでも身内として受け入れてやれ!
…って話でした。

今日は水曜日
休みは微塵も無駄にしたくない。
4万本の梅林を見に小田原市曽我梅林と、夜間ライトUPする湯河原梅林幕山公園に観梅に行く途中…
天然理心流土曜日に引き続き又々、海老名SAに立ち寄り朝食と昼食まとめて摂る。
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テーブル席から関東の聖地大山が綺麗に見える。
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この三角形が古代の男根崇拝や山岳信仰の象徴であったと同時に、相模湾を航行したり漁をする人々から古来、海上から位置を確認するランドマークとしても重要な山だった。
大山山頂からは縄文時代以来の祭祀場の遺跡が出土している。
平安時代末期には源頼朝公が❝関東総守護❞の異名で呼び、坂東武者達の心の拠り所に成った阿夫利神社と大山寺の在る山自体が御神体の聖地。
今日は海老名SA名物の"海老々々焼き"牛串"牛舌串"…
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なんだかんだ1750円かかった。
普通にそこそこのランチ食べれたな。まぁ…屋台なりに美味しいけど。

曽我梅林に到着。
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昨年初めての来場の際、この規模と富士山を背にした絶景に感動し毎年来るぞと決めた場所。
来る途中まで降ってた俄雨(にわかあめ)も止み、富士山が美人な雪化粧の御姿を現してくださった…
綺麗だなぁ~。手間の可愛らしい梅も、去年と同じ場所で出迎えてくれた。
40,000本の梅は、横浜の殿様の間宮家の分家杉田間宮家の間宮信繁公が横浜市磯子区杉田に植林した今は亡き杉田梅林から曽我に移植され、増やされた。そして、品種改良を経て曽我十郎梅が出来た。
間宮信繁公、北条家の殿様方、皆様の残された文化を感じ生きらて幸せです。
ありがとうございます。

北条家最後の対戦相手の羽柴秀吉が築いた石垣山一夜城に写真撮影の為に移動。
通り道、小田原城下町の蒲鉾(かまぼこ)の名店の山一で❝焼き蒲鉾❞を買った。
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隣には❝ういろう❞の本家本元、その名も室町時代以来、外郎(ういろう)家の血脈を受け継ぐ❝本家本元の御菓子のういろう❞の御店が在る。名古屋のは新幹線開業時に流行った偽物。
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外郎は天皇家や足利義満公、小田原北条家との関わりあいから明治政府に最初の商標登録されている上に、江戸時代にも既に歌舞伎の演目にされている。
もっとも…
京都からも江戸からも遠い朝廷儀礼や武家文化ともかけ離れた現代の某地方の人間には、この外郎家の建物の意味も理解出来ないだろう。だから彼等は平気で嘘を真しやかに流布する。
石垣山一夜城に行く途中に此処に寄ったのは小田原城の総構え外堀の役目を果たしていた、ある川で❝黒曜石❞を採集出来るのを知っていて前々から気に成っていたから、拾えないだろうか?と思いソコに行く為に下道で移動したからだった。
その川とは早川の事。
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川岸には結局降りなかったが、小田原城下へ続く❝日本で最初の用水❞を引いた北条家の内政力が他の大名を圧倒していた事を証明する文化財❝小田原用水❞の遺構を見られた。
左が早川、右の水路が小田原用水遺構。
早川の水を小田原用水に引き込み、小田原城下まで繋ぎ飲み水用の❝上水道❞として利用された。
この用水を模倣して作られたのが江戸城下の玉川上水道だった。
徳川幕府が北条家の統治機構を模倣したのは有名な話しだが、小田原と同じく海に近く飲み水用の井戸の確保に困る江戸で、小田原城下の都市計画も模倣した訳だ。
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早川越しに、秀吉が一夜城を築いた石垣山が見える。

実は石垣山一夜城址、有名パティシエの鎧塚シェフの居城に成っている…
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5年位前に来た時は、まだ無かった。
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ここには綺麗な河津桜が咲いていた。
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その林越しに相模湾を望む。
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鎧塚シェフ、良い場所に御店作られましたね!…奥さんと此処を終の棲家にする御心算だったのかな?
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石垣山一夜城は、実は5つの大陸プレートがぶつかる頂点の真上に在る。つまり箱根山脈の入り口。
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この地域は古来の地名を❝風祭❞と言う。
風祭出身の有名な一族がいる…苗字を❝風魔❞と呼ばれた一族だ。
つまり、この地域が風魔忍者の故地であり、ここが箱根山系と伊豆へ抜ける重要な街道群の起点だった事から風磨忍者の出発点は山間に関所を築いて通行料を取る山間の豪族だった事も容易に想像がつく。
感覚的には海を支配し通行税を採取した瀬戸内海の村上水軍みたいな物だろうか?
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石垣山一夜城は、江戸時代の富士山噴火の際の大震災や大正時代の関東大震災で石垣の大半が崩落したが、それでもまだ主要部分の曲輪(くるわ)群の形状は状態良く保存されている。
特に❝栄螺(さざえ)井戸❞の名で呼ばれた飲み水確保の為の井戸曲輪。
飲み水の不足した旧織田政権の秀吉連合軍は小田原城の北条家に対して、自軍の水不足を悟らせない様に米を水の様に馬にかけて馬体を洗う素振(そぶ)りをして水が大量に有る虚偽のアピールをした何てエピソードも有る。
遠くにいる人間から見ると、水を流す様に桶(おけ)からブチマケルと遠目に水と錯覚してしまうそうだ。
このアピールは戦国時代に籠城側が良く攻囲側に行ったと話に聞くが、攻囲側が行った話は少ない。
北条家も結束してあと数ヵ月持ちこたえれば、秀吉連合軍は糧秣不足に成り勝てた見込みが有ったとか無かったとか…❝IF❞は考えても仕方がない。
石垣山一夜城は又、いずれ別記事で紹介する心算(つもり)。

まぁまぁ、有意義な1日だった。

第4話の再放送には間に合わなかった第4話解説…
まぁ、明日の第5話には間に合うから良いか(笑)。

真田丸の第4回放送では、又々、ちゃんと作りこむべき合戦シーンが端折られてしまいましたね…
端折られたのは明智光秀が謀反を起こした「本能寺の変」です。
そして、何だか話の進み方が歴史的な経緯と比較すると尋常じゃない展開で進んでいる様な…

不満はさて置き、この第4回では真田家がいよいよ独立大名として歩みだす事を説明する物語と成っていました。
さて、その前に第3回~第4回の真田家の状況を理解する為に、まずは主要な城を各大名家の家紋で支配者を区別出来る当時の勢力図を見てみましょう…
真田丸勢力図 織田家全盛期2 久良岐のよし制作
※クリックして拡大して見て下さい。
※織田家と徳川家はこの時点で協力関係にあるので家紋を同一色で表示しています。
※羽柴秀吉の顔は、以前の大河ドラマ❝秀吉❞で秀吉の役をした時の竹中直人サンの画像です。
※重要な城だけ載せています。

この勢力図を見ると判(わか)る通り、織田家は❝真言宗の聖地の奈良県南部山間部や高野山❞と❝雑賀衆❞と呼ばれる鉄砲武装した豪族達が支配する和歌山県を除いて近畿地方もほぼ手中に収めています。
織田信長 織田木瓜
この時点での織田家の総石高は約700万石、展開可能な総兵力は21万以上有していたそうです。
滝川一益
既に、その支配地域は東は現在の群馬県に当たる上野国に及び北条家を従属させる事を成功させ、関東管領(かんとうかんれい=関東知事)として滝川一益公が厩橋城(現在の前橋市市役所の所在地)に配置しています。
前回も解説しましたが、滝川一益公は織田信長公が名古屋周辺の家臣達から酷い裏切りを何回もされていた時期からずっと信長公を支え続け、得意な鉄砲戦術と知略で勝利に貢献した名将でした。
真田丸第4話では、織田家の関東方面司令官として上野国に入り、真田家を傘下に置き岩櫃城や沼田城を接収していました。
羽柴秀吉
西は山陰山陽方面軍の司令官として羽柴秀吉を姫路城に配置し岡山城の宇喜多家を傘下に入れて、岡山城の目と鼻の先の備中国高松城を巡(めぐ)って山陰山陽地方の覇者の毛利家と対峙していました。
この時期の❝羽柴秀吉は、既に信長公の御子息を養子にしており織田家の親族として軍団長を務めていた❞のですが、余りその事実は語られません。
縁故主義より実力で出世した事にした方がロマンが有るんでしょうかね~?実際は彼の功績では無くて、織田家親族としての羽柴軍団を支えた竹中半兵衛や蜂須賀小六といった優秀な与力武将達の功績による所が織田家としては正常な評価なのですが…
柴田勝家
北は今の福井市の基礎設計をして市街地を整備した内政力も非常に高い柴田勝家公を配置し、現在の福井城に当たる北ノ庄城を拠点に北陸地方を支配させ、信越方面の制圧に取り掛かっていました。
しかし柴田勝家公は並みの武将より統率力や合戦の采配に優れていたものの、羽柴軍団の様な多彩な戦術や思い切った作戦を用いて合戦を出来る司令官ではありませんでした。
その采配で上杉家の前線の魚津城を攻略するものの、本能寺の変が起きても冬の北陸から近畿方面へ侵攻する手段を見出さず羽柴軍団の織田家乗っ取りの後手を踏み、勢力を拡大出来ずに終わる事に成ります。
明智光秀
そして明智光秀は、羽柴軍団と同じく❝信長公の親族❞として最も信頼される軍団長だったので近畿方面軍の司令官として、近江坂本城(現在の滋賀県大津市坂本町)を拠点に近畿地方の織田軍団を統括していました。
秀吉と同じく実力で出世したと見る方が多い武将ですが、❝明智光秀の出世は信長公正妻の帰蝶(きちょう)の従兄(いとこ)だった為に織田家の親族として外交面で重用された❞事実が一番大きいと思います。
名門美濃源氏土岐家の分家明智家として朝廷や足利家と将軍家との交渉役を担える武将だった訳ですが、血筋がサラブレッドと言える家臣の少ない織田家において織田家親族として外交を代表出来る人物は彼をおいて他に存在しませんでしたからね。
合戦も秀吉や柴田勝家程の実績は有りませんが、一般的な真面目で守旧派的な彼のイメージと事実は異なります。
当初は比叡山の権威を信長公に語りながら実は後に比叡山焼き討ちと皆殺しを積極的に進言したり、残虐な作戦も冷徹に行い時として敵に自分の母親を人質として渡す等、自己中心的な性格を垣間見える事実が多く残る武将でも有ります。

さて、第4話は、真田家が織田家に従属する所に多くの時間を費やしながら、恐ろしい速さで物語は展開し主人公真田信繁公の夢の中で急転直下、❝本能寺の変❞が起きて織田家が滅亡する所で終了しました。
…そのちょっと前に、諏訪の織田本陣に赴(おもむ)いた真田家の一行が、なんだかオカマっぽい明智光秀が織田信長公の折檻を受けて喜んでいる(?)ドMな場面に遭遇するシーンが有りましたが、あれは実際に起きた事件です。
実は織田家による武田家攻めは、その勝利はほぼ確定したものであり、織田家の御曹司(おんぞうし)である織田信忠公を2代目社長としての実績を積ませ箔付けするデモンストレーションでも有りました。
織田信忠
信忠公は優秀な2代目でしたが、傑出した将才が有ったかは現代でも疑問視され、御父上の信長公と比較されると微妙な立場でもあったので、❝強大な武田家を倒した功績を信忠公に積ませる❞事は織田家として内外に次代も盤石である事を示す目的が有りました。
ところが、明智光秀は自己中心的でKYな面が多々有ったのでやらかしてしまいます…
明智光秀←元祖KY
コイツ、信忠公の2代目襲名式みたいな甲州攻めの打ち上げの席で、あの❝折檻事件の原因に成った大失言をしている❞んですね…
コノKY野郎は、織田家に服属する武将や外様大名の使者達が参列する宴席でこんな事を言ってしまいました。
「いや~わざわざ私らが骨をおった甲斐が有りました~(笑)」
…もう、この一言で織田信忠公の事実上の2代目襲名披露儀式としての甲州征伐はオジャンですよね?
だって、「いや~わざわざ私らが骨をおった甲斐が有りました~(笑)」ってのは現在の会社の中のやりとりとして通訳しても…
「2代目だけじゃ力不足だから私らが頑張らなきゃいけなかった」
織田信忠←失言の被害者

…って事を言って、織田家に挨拶に来ている真田家の様な他家の大名の使者や部下達の前で信忠公を馬鹿にしているのと同じ事に成るんですよね。
コレは…調子に乗った光秀はバカ過ぎるし、すべてを台無しにする一言でした。
それで、あのシーンに繋がる訳です。
織田信長←怒っちゃった
せっかくの2代目の晴れ舞台の事業を台無しにする明智光秀の「俺らの御蔭じゃね?」的な発言にブチ切れた結果の一言が、あの明智光秀の頭を掴んで廊下の欄干(らんかん=手すり)に頭ゴチゴチ叩きつけた折檻(せっかん)に繋がる訳です。
光秀シバキながら言ってましたよね…
「お前が何をしたぁ~(怒)!」
「申してみよぉ~(怒)!」
…って。
信長公は、情が深く身分の上下を気にせず庶民ともフレンドリーに接して下さったり法治主義を徹底して下さる代わりに、かなり感情的にキレ易い面も有りましたからね~。
原因の一つとして言われている事に、❝高血圧だったんじゃないか❞と推測されています。
実は信長公の好物は塩辛くて味の濃ゆぅ~い赤味噌を焼いた❝焼き味噌❞でした。
この焼き味噌、お茶漬けの具にしたりすると非常に美味しいのですが、高血圧の原因では?と言われています。
因みに、信長公は戦国時代なのに牛乳を飲んだ事でも有名ですね。
余談ですが、信長公は明智光秀がハゲ頭だったので「金柑頭(きんかんあたま)」と馬鹿にして折檻したそうです。
自己中でプライド高い明智光秀には耐えられない事だったでしょうね。
本能寺の変は、明智家の家老斉藤家と縁戚関係に有った長曾我部(ちょうそかべ)家や足利将軍家と貴族の山科言継(やましなときつぐ)の陰謀、泉州日蓮宗として安土宗論の仕置きに恨みを持っていた堺商人と日蓮宗の僧侶達やキリスト教宣教師の陰謀など複数の説も有りますが、小生は全ての説が関与して起きたのが本能寺の変だと考えています。
さて、本能寺の変に話が繋がった所で、第4話の直後の勢力図を見てみましょう。
※クリックして拡大して見て下さい。
真田丸勢力図 本能寺直前 久良岐のよし制作
上は❝本能寺の変❞を明智光秀が起こした直後の勢力図です。
北陸では柴田勝家公は上杉家の魚津城を奪取した直後で、反逆される恐れが有り近畿方面へ反転する事が出来ませんでした(羽柴軍団の様な外交が出来る武将が柴田軍団にはいなかった)。
しかも、第3話の解説でも説明した無能で残虐なだけの森長可が、信長公の死亡を聞くや己の行った悪事で信州の豪族達から復讐(ふくしゅう)される事を恐れて自己中心的に職務放棄し信州から撤退し、更に又々鬼畜ブリを晒(さら)して信州の豪族の妻や子を人質にとって美濃国まで逃げてしまいました。
鬼畜な森が職務放棄して逃げてしまったせいで、滝川一益公は前線の群馬県の厩橋城に取り残されてしまいました。
滝川一益公には、この時の誠実な御人柄を表す逸話が現在も伝承しています。
滝川一益 丸に竪木瓜

前線に取残され、退路の無くなった滝川一益公は、本能寺の変の直前まで部下だったり織田家に従属していた関東と信州の豪族や大名を集めてこう言う主旨の発言をされました…
「私は明智光秀を討伐し、信長公の遺子を守らなければいけません(しかし帰る道は閉ざされている)。」
「皆さんが私に協力して頂けるか離れて敵対するかは御任せするより無いので、敵対するなら私の首をとって手柄とするつもりで合戦をされても恨まない」
既に森長可が職務放棄してしまい織田本領と甲信越方面の兵站(へいたん=補給線)が寸断されてしまったせいで甲州では甲府を治める河尻秀隆が現地豪族の蜂起によって殺害されてしまっていました。
…森の愚行のせいで、一益公も河尻秀隆と同じ運命は避けられないと思っての御発言かもしれませんね。
出浦昌相
…しかし、この一益公の御発言に感動した後の真田家の家老と成る出浦対馬守は、滝川一益公が無事に信州から美濃国に辿りつける様に自軍を率いて護衛し見送られたそうです。
これに対して、徳川家康公や北条氏政公は森が職務放棄して空白地に成った織田家の甲信地方の遺領に侵攻し、支配地域の奪い合いを始めます。
徳川家康 北条氏政
二人とも不誠実の代表みたいな人ですね。
新府城址に行くと、この二人は今の山梨県北杜市に在った若神子城と韮崎市の焼け落ちた新府城跡に陣取って対立し、織田家遺領を巡って合戦を行った事が説明した看板が有ったりします。
真田家勢力図 本能寺直後関東 久良岐のよし制作
※拡大して見て下され。
森が逃亡したせいで甲斐国と信濃国には本能寺の変直後に徳川勢と北条勢が乱入している事や、滝川一益公が敵の真っただ中に取り残され、真田家より不利な状況に成っている事が解ると思います。
これが次回、第5回放送での真田家を取り巻く状況です。

本能寺の変はドラマでは端折られ合戦シーンは有りませんでしたので、せめて真田家も関わりの有る滝川一益公の神流川(かんながわ)の合戦くらいは、ちゃんと合戦をドラマで再現して欲しいなと個人的には思っています。
神流川の合戦 場所 久良岐のよし作成
この神流川の合戦は、関東で今の埼玉県川越市で起こった河越夜戦や、今の横浜市神奈川区神奈川駅一帯の本覚寺~幸ヶ谷公園周辺で起こった権現山合戦と並んで大規模な合戦でした。先述の2例が籠城戦なのに対して、この神流川の合戦は野戦としては特に大規模な例として有名です。
合戦は滝川家とそれに加勢する関東豪族勢vs北条家とそれに加勢する関東豪族勢によるものでした。
滝川一益 丸に竪木瓜
滝川勢…18,000前後
●滝川家…滝川一益公・滝川益重公・前田(慶二郎)利益(史実での在陣有無は不明)
●上野衆…真田昌幸公・北条高広公・小幡信貞公・倉賀野(くらがの)秀景公・安中久繁公・佐野宗綱公 等々。
北条氏政 三つ鱗紋
北条勢…50,000前後
●北条家…北条氏政公・北条氏直公・北条氏邦公・北条氏規(うじのり)公
●家臣団…石巻康保(やすもり)公・成田氏長公・大道寺政繁・松田憲秀 等々。

双方の兵士数だけ見ても凄まじい会戦だったのが理解出来ると思います。
そして、この合戦は真田昌幸公が人生で2番目に体験した大合戦であり敗戦でした。
もし!NHKと三谷幸喜サンが真田昌幸公が参戦した大戦(おおいくさ)の神流川合戦をドラマ真田丸の中で端折ったら、もう、ハッキリ言って大河ドラマとしてヤル気無いでしょうね。
この中で、前田慶次(利益)は作家隆慶一郎の小説❝一夢庵風流記❞の主人公であり、漫画化された事で歴史に興味が無い人にも有名な人物です。
真田丸で後に登場する直江兼続…
直江兼次
…彼とも親友だった武将なので、もしかしたら、その内登場するかも知れませんね。
あともう一人。
石巻康保(やすもり)公は、小生の住む横浜市と所縁の深い殿様で、北条家本家の重臣であり、横浜市港南区野庭に在った野庭関城の城代を務めた方でした。
もし、ドラマに登場したら個人的には嬉しいのですが、可能性は無いでしょうね。
この神流川の合戦や、若神子城や新府城での織田家遺領を巡る各大名の領地争いの事を❝天正壬午の乱❞と現代では呼んでいます。
おエライ学者様達は何でも名前付けたがりますね…
別に小生、一、歴史好事家としては、どっからどこまでとか線引きする必要なんか無いと思うんですがね。
もし天正壬午の乱で最大の合戦である神流川の合戦をNHKが真田丸で再現しなかったら…
マジくそ!
…以後、見なくて良いレベルですね。

さて、では、この本能寺の変と森の鬼畜バカのせいで発生した天正壬午の乱ですが、この乱後、織田家の遺領を巡った戦いから織田信長公の掌握していた権力を巡る織田家の内戦が勃発し、織田家臣団は分離独立して行く事に成ります。
その中で最大級の派閥が柴田勢と羽柴勢でした。
柴田勝家 二つ雁金
妻が信長公の妹の市姫。
織田家の生来の武士出身の派閥で最大の棟梁。
羽柴秀吉 太閤桐
尾張国愛知郡中村の村長の子で商人を経て、後に信長公の実質的な本妻の生駒お類(るい=別名:吉乃)様の実家に出入りする様になり、生駒家の鉄砲頭から織田家に仕官した。縁故主義だが稀代の出世頭。
太閤桐
この家紋↑太閤桐と呼ばれ、豊臣家の家紋です。
この時点では瓢箪(ひょうたん)や織田家から下賜された家紋を使っていましたが、真田丸では豊臣家は後に主人公真田信繁公の主家に成るので、この家紋に統一します。
勢力図を見てみましょう。
真田丸勢力図 織田家分裂後 久良岐のよし制作
上の勢力図で、東海地方の中で長島城だけが柴田勝家公の勢力下に置かれていますが、実は、関東から帰還した滝川一益公の本貫地(ほんがんち=所領)です。
柴田勝家公は織田信長公の側室の子供の❝織田信孝❞公を滝川一益公と共に支持し、織田家を乗っ取らんとする羽柴秀吉と対立します。
つまり、滝川一益公は亡き信長公への忠誠心から、関東退去時と同じく又も誠実な生き方を選んで織田家を乗っ取る羽柴秀吉と対立する道を選んだんですね。

この柴田vs羽柴の争いは、謀略と外交に巧みな羽柴勢に軍配が上がり、柴田勝家公は北ノ庄城で自害し、市姫様と娘達は小谷城での浅井家滅亡以来2度目の落城を経験しました…

さて、第4回の解説と、関連事項を紹介しましたが如何(いかが)でしたでしょうか?
NHKさんと三谷幸喜さんが真面目に合戦の壮大さと残酷さと、先人の悲しみと少しの幸せの上に現在の生活が成り立ってる事を演出して下さるのを、ただ願うばかりです。

もし神流川の合戦を端折ったら、真田丸はマジ糞ですね。

では…また次の解説で!

唐突ですが…
歴史と言うのは学者は既存の文献を読むだけでは解らない事の方が多いと思っています。
良し悪しに関わらず筆者の「意図」が介在していて、本当は起きていた事実も演出の為に書かれていなかったり歪曲されたり、理由が有って紹介されない話も有りますからね。

ところが小説家のみならず歴史学者サンの中には現地を訪れた事も無ければ、関係者の子孫の伝承も拾い集めない「ド阿呆」も多くいるし、逆に司馬遼太郎さんや黒田基樹さんみたいに実際に現地に行き検証活動をしたり関係者本人や御子孫から事情を聞いて回る人もいる訳です。

小生、少し不思議な御縁が有りまして、よく神社サンで境内の一般非公開の領域に入らせて頂けたり、御寺サンで非公開の仏様を拝ませて頂けたり、直接、歴史人物の御子孫と御話する機会を得たり、偉い宮司様や和尚様に相手して頂ける事が一般人なのに良くあります。
これは、リスペクトする歴史偉人の皆さんの御霊の御導きだと思っています。
…オカルト的な意味じゃなくてね、本当に尊敬しているから御褒美として呼んで貰えるんだと思います。

愛知県の小牧市に昔、小牧山城と言う山城が在ったのを皆さんは御存知でしょうか?
小牧山城址
上はGoogle earthの衛星写真に、その小牧城の縄張り図を重ねた画像です。
戦国時代が好きな人なら誰でも知っている御城ですが、歴史に興味が無い人は知らないマイナーでは無いけれど超メジャーでも無い御城です。
信長公の尾張時代の最終的な居城だったのが、この小牧山城でした。
そして、この小牧城の周辺地域には信長公の青春時代の足跡が沢山散らばって伝承していたりもするんですが、今も、この地域には信長公や秀吉の関係者の御子孫が住んでいたり、主従関係に成る前の各自館跡が沢山有ったりします。

そんな関係で、小生は不思議な御縁も有り、小牧城から程近い江南市の小折町で、信長公の母上の「土田(どた)御前」の御実家の御子孫、また事実上の正妻の生駒家の吉乃様の菩提寺の檀家様達と面会の機会を得て御話しを聞かせて頂いたり、信長公の御位牌を直接拝ませて頂いた経験が有ります。
その際に、信長公が青春時代を過ごした地域を自分の足で歩いて回った結果ですが、ドラマや小説で描写されている信長公の性格や、それに影響されて有名文献しか読まない学者の解説が如何にイイ加減な思い込みかと言うのを痛感する機会が有りました。
それから、以前よりも現地にいって散策検証したり、色んな人から話を自分で見聞きして回る事を大切にする様に成りました。
無論、郷土資料館等の学芸員さん達から調査結果の資料のコピーを頂いたりもしています。
来年は信長公の菩提寺で追善供養にも参加させて頂く事に成っていたりもします。
そんなこんなで、愛知県での信長公親族の御子孫の証言や、京都の阿弥陀寺の話しなど地元の方々の信長公像の伝承を元に信長公がとても暖かい人物だった説明をしたいと思います。
※土田御前の苗字の「土田」の"土"には右側に「、」が付くのですがPCにも携帯にも、その字が無いので以下「土田」と表記します。
タイピングされた文章しか読まず、現地を訪問し「直接関係者から取材しない部類の人」「関係する古文書読まない人」は、そんな事すら知らないんですがね。

今回は小牧城自体を詳しく説明しませんが、信長公の性格の実像を伝える話が小牧城の周辺地域には沢山残っています。
また、どんな人物だったは地図を見る事でも読み解けます…
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信長公がとても人情深く明るく優しく、公平で仕事に対して真剣過ぎる位に真剣だったのを皆さんは御存知でしょうか?
…先ずは、良く知られている実話から。

1,仕事に対する真面目さが尋常じゃない
足利将軍家・武田・朝倉・浅井・本願寺によって俗(ぞく)に言う「信長包囲網」と言う、反信長政権連合が結ばれ信長公が窮地に陥っていた時期は多忙を極めていました。当時処理すべき軍務・政務に関わる書類、重要な裁判に関する書類の決済が大量で、数日間も寝ずに処理しなければいけない事もしばしばあったそうです。
…逆に言うと、リーダーにも関わらず何日間も徹夜で仕事をする事が有った反面、部下達にそれを強いる話は残っていません。
築城等の突貫工事も十分に人を雇い準備して事業を実現している訳です。
現代のバブル世代管理職の様に無責任にヤレヤレ押し付け丸投げでは無く、織田家の政はピリピリしたムードで議論が尽くされていたのが宣教師の証言でも伝わっています。
信長公は部下達にプレゼンをさせて、御互いの意見の合理性を比較させ、その中から実現可能そうな物を採用するスタイルだったそうです。
無論、桶狭間での今川軍強襲や北近江での朝倉勢追撃戦や、石山本願寺包囲後の木津川渡河の時の様に、迅速な行動を要する場合は率先して御自分から危険な任務も行う事が多かった様です。

2,部下のヤル気と才能を引き出す管理能力が尋常じゃない。
秀吉達の清州城城壁修復や墨俣一夜城の逸話は、自己推薦で立候補した部下に仕事を一任し責任を持たせて全権委任していましたから、「現代の無能管理職の無茶振り」とはだいぶ違いますね。部下がプレゼンした事を判断してやらせる方だったそうで、評定(ひょうじょう=会議)の席は部下同士にプレゼンさせて、その中から良い案を提言した人間に全権を与えて仕事をさせるスタイルだった様です。
そして結果を出した部下は生まれの貴賤(きせん=血筋の良し悪し)を問わず、出世させました。
この代表例が清洲城代家老の榛原常安(植安とも)や、初期の木下秀吉な訳です。
小生に言わせりゃ、年功序列の腐れ昭和スタイルより、よっぽど健全で部下も仕事に励みたく成る環境ですね。
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「禿(はげ)ネズミ」↑と信長公にあだ名されていた秀吉。生存中は猿じゃなくて鼠と呼ばれていました。
「猿」と後に呼ばれているのは、信長公の猿真似をして天下人の素振りをしたからでしょう。
しかし戦乱を収束させた功績は偉大です・・・
まぁ、この人がやらなくても信長公が生きていれば実現したでしょう。
ただし、秀吉に関しては、軍団長クラスに出世する頃には「信長公の御実子を養子をとり」既に「織田家の親族」だったので、晩年の出世は信長公の信頼する人達で構成された部隊を信長公の代わりに「親族」として率いていた感が否めないので、本能寺前後の出世は個人の実力より血縁による縁故と優秀な与力武将達の活躍による所が大きいです。これは信長公の親族だった明智光秀と同じ状況ですね。
信長公は親族に冷たい様な「捏造」された人物像がちゃんと検証しない小説家の思い込みで流布されていますが全く違います。
信長公御自身は親族をもっとも信頼し重要な御城や自分の本拠地周辺に配置していました。
つまり縁故や義理も大切にしたのが信長公ですが、バランスよく実力主義の人材登用も積極的にされた理想的な組織運営をされた訳です。
言うなれば…
伝統や倫理を守る「貴族院」と実益を生み出す「衆議院」の二院制みたいな政権運営をされた上で、物事の決着をつける裁量は御自分で責任を持たれた訳です。

仕事面での良く知られている逸話はここ等辺りしして、マイナーで小牧辺りを実際に回らないと解らない話を下に。

3,自分と恋愛結婚で結ばれた事実上の本妻を愛し、奥さんが体調崩すと自ら介護した「深い愛情の持ち主」だった。
信長公は、恋愛で結ばれた事実上の本妻「お類」と言う女性を深く愛されていました。
愛称の生駒吉乃の方が有名に成っちゃってる女性です。
小説では「吉乃」の名で知られる実質本妻のこの女性、本名は「お類」の名で現地の小折町でも生駒家の御子孫の間でも伝わっています。
生駒家は馬借商家で、今で言えば運送業を営む商家であり、武装した土豪でもありました。
要するにお金持ち。
それすら知らない学者や小説家が「吉乃」とあだ名を実名と思い込んでいたり、ただの商人の娘扱いしているのですが。
生駒家は大和国(奈良県)の御出身の一族なので、あるいは信長公が雅な雰囲気の奥方を、実家の故地大和国に因(ちな)んで「吉乃」とあだ名で読んだのかも知れませんが、この吉乃と言うあだ名の由来は定かではありません。
※本記事では以下呼称を「お類様」で統一します。
NHKの少し(だいぶ…)昔のドラマでは女優の高木美保サンが役を演じられたりしているのですが、現代の小説家が江戸時代の作り話の影響を受け過ぎていて(笑)、形式的な正妻の帰蝶(濃姫)さんしか登場しないドラマが多く、お類様の役柄を演じる女優さんは少ないんですよ。
少し昔(笑)↓の高木美保さん。御綺麗ですね。
高木美保
生駒お類様と信長公、その出会いは信長公が家臣団に「ダメ御曹司」扱いされて、実弟の信勝(信行)公を担ぐ家臣達に家中でイジメられて不穏な空気に包まれていた頃にまで遡(さかのぼ)ります。
信長公は初期の居城は那古屋(現在の名古屋)城でしたが、心が休まる場所は吉乃様のいる生駒家の小折城だった様で、頻繁に小折城の在った今の愛知県江南市~小牧市辺りに遊びに来ていた様です。
…名古屋や清州から馬でも3時間位かかるんでしょうかね?
実は、吉乃様は信長公との間に重要な子を3人も年子で生んでいます。
●織田信忠公…織田家の跡継ぎとして御活躍されましたが、本能寺の変の際に二条御所で討死されました。
●織田五徳姫…徳川家康公の嫡男、徳川信康公に嫁ぎましたが義母との確執から夫婦義絶し離婚。
●織田信雄公…信長公に余り能力的に期待されていなかった様ですが、お類様との子なので厚遇されました。
お類様は、この年子での御3方の出産が生命力的にも大変だった様で、信雄公を出産後に体力が回復しないまま36歳の若さで亡くなってしまいました。
この、お類様の晩年、当時の常識では普通は有り得ない事なのですが、信長公は居城の小牧城に病床に在るお類様の為の居室を築いて、そこに迎え、自ら介護をされたと言う伝承が残っています。
…それだけ深くお類様を愛してらっしゃったんですね。
お類様は亡くなると、生駒家居城の小折城の当時の西の端、今の田代墓地の在る場所で荼毘に伏されました。
荼毘に伏すと言うのは火葬する事ですが…
信長公は、お類様の死後、暫くの間は毎日、居城の小牧城から見える小折城のお類様が荼毘に伏された方を見ては泣きじゃくっていたそうです。
だからね、信長公は凄く人間臭い人物で優しい方だったんです。
位置関係は下の衛星写真をクリックし拡大画面で確認してみて下さい。
田代墓地位置
因みに、現在の久昌寺が昔の小折城の中心、龍神社が在る辺りが小折城の中で信長公とお類様の部屋と言うか離れと言うか居住する建築物が在った地域だそうです。
田代墓地周辺には現在も「西ノ丸」の地名が残り、小折城の西側が田代地区まで及んでいた事が解ります。
又、田代墓地は、お類様が荼毘に伏された土地で更に、その中の「吉乃桜」と言う桜の古木の立つ場所が正に、お類様が火葬された場所だそうです。
小折城については、蜂須賀家や信長公や秀吉の部下に成った方々の屋敷跡地との位置関係と合わせて再度別記事で説明します。

4,優しいのは庶民に対しても同じ。
信長公は奥さんのお類様を大事にされましたが、同じ様に庶民にも凄く御優しい方だったようです。
例えば、信長公が京都方面まで制圧した際に、とある村に昔、不義を働いた家系の者が代々被差別を強いられている事に気が付きました。信長公は「この人間本人が犯罪者でもないのに、先祖の罪で今も差別されるのはオカシイだろ(怒)」と憤慨され、その者を差別から解放し、いくらかの生活資金を与えて再起させてあげたそうです。
これは現代人の法治主義や自由平等の思想にも通じる信長公の個人的な思考を垣間見れるエピソードですね。
政治家としての信長公も、庶民に対して御優しい政策を行っています。
楽市楽座じゃないですよ!あれは自由経済圏構想であって感情とは無関係でしょうから。
信長公、実は京都の統治に着手した時期に街道の整備をされています。その街道を往来する旅行者達が熱射病に成らない様に道沿いに日陰を作る為、街路樹を街道沿いに植えたんですね。
こんな事をする大名は当時いなく、正に、出身の貴賤に拘らず奥さんを商家の生駒家から貰い(通い婚だけど)庶民の文化を愛して青春時代遊びまわっていた信長公らしい逸話です。
現代人の政治家みたいに踏ん反り返って偉そうな人間からは想像も付かないほど、お若い頃の信長公と庶民の距離は近かったのですが、実は織田家は本姓が古代豪族の忌部(いみべ/いんべ)氏で、祖先は福井県の劔(つるぎ)神社の宮司家でした。劔神社の御祭神は牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおうのみこと)なのですが、信長公の支配した尾張国には津島大社と言う立派な神社が在り、そちらも御祭神が牛頭天王です。
その津島大社の例大祭で庶民が楽しんでいる所に加わり、信長公は家老の平手政秀公や家来と一緒に踊り子の格好をして笛を吹かせ自らも参加し、身分の区別なく一緒に楽しんだエピソードも現代に伝わっています。
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織田家と劔神社にかんしては、以前「明治時代の戦艦三笠」の記事でも書いたので、そちらも御覧下さい。
※三笠の記事は「ココクリック!
…こんな感じで、信長公が他の大名と圧倒的に異なる点は、庶民との距離が近い点でした。
この事は、豊臣秀吉・徳川家康公の若い頃とも共通し、庶民の事を良く理解している武将だけが続けて天下を獲れたと言う面白い結果でもある訳ですが、もう一つ、信長公・秀吉・家康公に共通するのは「東海地方の武士達から若い頃イジメられたり嫌われていた」と言う皮肉な事実も有ります。

では、何故、この小牧城周辺の地域に織田信長公の実像を伝える青春時代の多くの伝承が有るかに話を進めてみましょう…
歴史好きの皆さんも興味の無い人も御存知の方が多い歴史事実ですが、先程述べたように「信長公は尾張の武士に嫌われていた」んですね。
家臣にも何回も裏切られ合戦をけし掛けられ圧倒的な不利な状況においこまれ殺されそうに成っています。
その信長公を嫌っていた面々が又、信長公の最初の本拠地名古屋近郊出身者ばかりなのですが具体的には…
織田広信(後に信友と名乗る)
織田信友
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田信長公の元の上司。権力闘争は得意だったが取り立てて内政力が有る訳でも軍事的な才覚が有る訳でも無く何の実績も残していない。
織田家の主君だった斯波(しば)家の殿様を暗殺し主殺しをやった人物。
無能な癖に権力の駆け引きだけは上手く、実績も実力も無いが家柄の優位性を利用し斯波家の家政を実質乗っ取っていた。しかし本人の領地の軍事と政治は家臣に任せっきりで実力は皆無だったようだ。
昭和~平成の政治家にも多いタイプ。
実際に斯波家の勢力を復興したのは部下である織田信秀公(信長公の御父君)なのにも関わらず、その手柄を妬み足を引っ張る事ばかりして合戦までけし掛けた挙句に敗北し和睦。
信長公と主君斯波義統(よしむね)公の直接的な結びつきが深くなると、嫉妬の挙句に血迷って主君の斯波義統公を暗殺して家政を乗っ取った。しかし信長公の策略で信長公の叔父の織田信光公が偽降(ぎこう=偽りの従属をして裏切るチャンスを待つ事)してくると、その計略にひっかかり誅殺された。
無能な癖に常識人面して職位を守る為に部下の足を引っ張る典型的ダメ役員タイプ。
織田信安(のぶやす)公
織田信安
※KOEI信長の野望の画像拝借
岩倉城主で、信長公より格上の岩倉織田家の当主だった。当初は信長公と一緒に遊びまわった仲で信長公の最大の協力者だった。自分が信長公に協力した結果、不幸にも信長公が政権を盤石にし尾張を統一する頃に成ると家臣団が直接信長公に従う様に成り、危機感を抱いて信長公と対立してしまう。
情に熱い御人良しでは有るが、信長公が天下の覇者に成るのを見抜ける人物眼は持ち合わせてはいなかった事が彼の不幸だった。仮に、岩倉織田家の家臣団を信長公に差し出して奉行職に徹したとしても、信長公が覇者に成る頃まで仕えていれば信頼出来る親類として羽柴秀吉や明智光秀の様に大大名に取り立てられた可能性は高い。
深い情を持ちながら、将来を見通す判断力が無かった小者だった事で没落した責任は自業自得と言えるが、有る意味で被害者的な立場でもある。
林秀貞
林通勝(秀貞)
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田家初期からの家老で、本人は常識人の心算(つもり)だったのか信長公が武士階級に拘らず庶民と強い結びつきが有る事などが非常識に見えたのか、品行方正な信長公の実弟信勝公を主君にしようと何度も反逆した。
大身(たいしん=大領主)だったので織田家中での地位が高かったが、信長公が尾張統一後は多くの兵を率いながら何の活躍も出来なかった。只(ただ)性格が四角四面な常識派面(ツラ)した大凡人で信義は皆無。
その実は不正義で利己的な悪事しか残せなかった。典型的な身の丈に合わない地位にいた人物。
後に信長公の支配体制が強固に成ると、尾張時代の反逆前科から追放された。
全く良い所の無い典型的な多数派主義。
柴田勝家
柴田勝家
織田家の初期からの重臣で、当初は林秀貞と同じく信長公の才知を見抜けず、信長公実弟の信勝公を担ぎ出し謀反した。しかし圧倒的な多数である自陣が幾度も少数の信長公の直属部隊に敗られた事から、信長公に服従した。その後、信勝公が再度謀反を企てると信長公に内部告発し信勝公誅殺事件の発端を起こす。
信勝公が粛清されて以降は信長公の支配体制が確立された功績により処罰されなかった。
信長公からは、その後も暫く信頼されておらず「桶狭間決戦」や「美濃攻略戦線」には裏切りの懸念からか活躍の場を与えられなかった。
信長公が尾張美濃から反乱分子を駆逐して柴田勝家から反乱要素が無くなった後に大将格として起用された。
戦術は堅実で機略には富まないが、指揮官としては一流の実績を残している。又、今日の福井市の基盤を築き上げた人物で内政力が高かった。
精神的には常識人で真面目だったのかも知れない。内面は凡人のそれかも知れないが、実績的には名将の部類。でも天下の奇才では無い。織田家を主導しよう等と身の丈に合わない権力闘争をした事が彼の不幸。
信長公に使われて何ぼの名将。

織田家の元来の家臣団は根拠地が今の名古屋周辺の愛知郡や、津島市や弥冨市辺りの海部郡でした。
しかし、その地は今挙げた様な信頼出来ない家臣団の領地だったのですが…
まぁ、今の名古屋人がどうかは知りませんが当時の名古屋人は多数派=常識と言う意識が有ったり、忠誠心と言う概念が皆無で利己的な人間が多かったり、信長公や秀吉の出身地なのに革新的な意見には否定的な思想が定着していた様です。
要するに、名古屋周辺の織田家重臣はこんな連中ばっかりだったので、初期~尾張統一直後の織田信長公は、まだまだ、その愛知郡や海部郡の旧来の部下達を信頼して運用出来る状況では無かった訳です。

その状況を打開する為には、敵対者から領地を奪い直接、御自身の信頼できる仲間に領地を与えて御自分の親衛隊を組織する必要が有った訳ですね。
では、小牧城周辺にはどんな地名が有るか衛星写真で見てみましょう…
※写真をクリックして画面を拡大して見て下さい!地名と史跡名が記載して有ります。
信長公家臣団配置図
…木下藤吉郎秀吉が任せられた実質本体だった部隊に当てがわれた土地が、今の愛知県小牧市~江南市~一宮市だった事が丸っと解りますね。
地図上に表示した地名と施設名を説明しましょう。
●右側 織田家:小牧城
…信長公の本拠地で、周りに旧来の重臣は配置されていません。
●中心 生駒家:小折城
…信長公の事実上の本妻の生駒吉乃様の実家、生駒家の居城です。
生駒家は後に豊臣秀吉の家老としても活躍しますが、そもそも豊臣秀吉は名前が木下秀吉だった時代に小折城で生駒家に仕えて鉄砲頭を務めていました。秀吉と信長公の関係は生駒吉乃様を通じて結ばれた主従関係だった訳です。
●小折城西側 祖父江家:津島神社
…ここ一帯は織田家が崇拝した津島大社宮司家の祖父江(そふえ)家の一族の子孫が多く現在も住んでいます。当時の神社は武装した軍事集団でもありました。吉乃様の火葬された場所である田代墓地には祖父江家子孫の墓地も在ります。この地域に隣接した岩倉城主の岩倉織田家の旧臣だった山内一豊(やまのうちかずとよ)の家老を務めた祖父江 勘左衛門は、地域的にこの一帯の出身だった事が推測できます。
祖父江勘左衛門の主君の山内一豊は後に木下秀吉が出世すると大名に取り立てられています。
●左下側 千秋家:千秋(せんじゅう)町
…千秋と言うのは織田信長公を支援した熱田神宮の宮司家である千秋家の苗字です。
千秋家の中でも千秋季忠(すえただ)公は桶狭間合戦で信長公に味方し、揺動部隊として囮に成り今川軍を引き付け討死にされました。その活躍で信長公本体が今川義元公本体への直接強襲に成功し織田家が勝利しました。
左端 浅野家:浅野城
…後にこの一帯の国人衆の統率を任された木下秀吉の嫁である浅野寧々(ねね)様の義父である浅野長政公の元々の居城です。この浅野城は織田家小牧城、生駒家小折城を除いた信長親衛隊軍団の城館では最大規模でした。つまり秀吉は、嫁の義父の軍事力を背景に周辺の信長公親派の国人衆の統率を委(ゆだ)ねられていた事が解ります。
小折城北東 堀尾家:堀尾屋敷
…後に木下秀吉の重臣となり大名に取り立てられる堀尾吉晴の邸宅跡です。現在もバス停に「堀尾前」と残っていて、邸宅跡には堀尾神社が在り、彼の出身地で有る事が伝えられています。堀尾吉晴は元々は山内一豊と共に岩倉織田家の重臣だった。木下秀吉旗下では貴重な生粋の武士。
上側 前野家:前野長安屋敷
…館主の前野長安公は、木下秀吉の初期の実務官僚で数少なかった生粋の武士、軍事指揮官。
彼も又、山内一豊や堀尾吉晴と共に岩倉織田家の重臣だった。数々の作戦を成功に導いた名将で秀吉の名将の一人だったが、豊臣秀頼が生まれた際に、秀吉の甥っ子豊臣秀次の家老を務めていたので秀次の存在が邪魔になった秀吉によって切腹させられてしまった。
最上部 蜂須賀家:宮後城(蜂須賀館)
 …木下秀吉の初期の参謀で実務官僚の蜂須賀小六正勝公の最初の居城。蜂須賀小六は数々の実現困難な軍事作戦や土木工事を成功させた名官僚で指揮官としても一級の名将だった。秀吉の功績の大半は彼の能力による。清州城城壁の修復事業、墨俣一夜城(砦)の建設事業の手配と指揮、鳥取城の兵糧攻めでの鳥取城下の米の買占めや経済封鎖などなど…
彼が存在していなければ、秀吉は出世出来なかった。

もうここまで見て貰えば解ると思いますが…
つまり、小牧城を築城し居城としたのは裏切る可能性の有る家臣団優位の政治体制から、御自身の親派を居城中心に配置出来る政治体制に移行する目的が有ったと思われます。
…この事は今も、その地域の地名が物語っているのですが、文献しか読まない行動力の無いタイプの学者様にゃ幾ら文章ばっか追いかけても永久に気が付けない事なんです。
勘の良い歴史好きな人は、これだけ読めば織田信長公が何故、当初は協力者だった岩倉織田家当主織田信安と対立する事に成ったかも解ると思います。
織田信長公の親友達が岩倉織田家家臣だったので、信長公が政治基盤を強固にし始め尾張を統一する頃から岩倉織田家の家臣団は直接信長公に従う様に成ってしまい、事実上岩倉織田家が解体されるていく状況から危機感を抱いた織田信安が反旗を翻してしまったのは有る意味不幸ですね。

これらの事実から、信長公は身分や元の敵かどうかに関わらず、信頼出来る人間を見抜き登用した公平な方だったのが見てとれるのではないでしょうか?

この後、民族資料館の学芸員サンから貰いうけたレポートのコピーで生駒家の居城、小折城を解説しようと思ったのですが…
小折城縄張り図
これね。
でも、これ見て、GoogleEartnの衛星写真で検証してもスッパリ!照合出来ないんですよ!
なぜかと言うと、この地域は明治時代以降に稲作の生産量を向上する為に土地改良をしてしまっているので、本来なら堀の名残りを辿(たど)れる用水路や農道や幹線道路が全く当時と違う配置に成ってしまってるんですよね…
一応、国土地理院の昭和40年代後半~昭和50年代の航空写真も閲覧したのですが全く解らない!
小折城縄張り
これ現在↑の城址のはずの一帯。
地名に田代(たしろ=田城)と在るのは、池沼や河川に囲まれた縄張りの平城だった小折城は恐らく江戸時代には曲輪の多くが水田化されていたからでしょうね。
一応、少しでも昔の地形を辿ってみようとした努力の跡を見て、許してください(泣)。
丸1日あ~でもない、こ~でもないってやってましたが無理でした!
これ↓昭和後期の周辺航空写真
小折町上
小折町下
小折町西
もう、明瞭な航空写真が有る時代には、この付近、完全に農地改良の完了後だったみたいで、これ、全く縄張り図が有っても手がかりが掴めないんです。

10年前位に、数日間この江南市を歩き回った当時に写真撮影したのはガラケーだからもう写真引っぱり出せないし…
ですから又、御類様のお墓参りも兼ねて来年訪れてみます。
現代の航空写真と比較して小折城の縄張りが解る資料が無いか、ちょっと郷土資料館の学芸員さんにも問い合わせてみます。

今回はここまでで許してください(泣)。
資料いろいろ引っ張ってきて見たんですがね、レポートの縄張り図では現在の地名も載ってないので航空写真と整合出来ませんでした。

生駒家の居城の解説は現段階では詳しく出来ませんでしたが、とりあえず、信長公が奥さんをとても愛していた事や、とても家族を大切にした事、でも親族だけでなく血縁や出身にとらわれず信頼出来る友人達を自分の懐刀として居城周辺に配置していた事実は伝わったでしょうか?
信長公は実際は法治主義者、経営者としては厳しい方でしたが、為政者としては稀有な情に厚く庶民との距離が近く個人的に愛情にも溢れた方だった訳です。

この続きは、現地で写真バシャバシャ撮影したら、信長公没後の生駒家の歩みとかを解説しながら写真載せて報告します!

この記事はここまでで…

次回は神奈川に話しを戻して記事を書きます!

信長公の自害の直後、御遺骸の一部が埋葬された寺院が実在する事を皆さんは御存知でしょうか?
その御寺の名前は蓮臺山(れんたいさん)阿弥陀寺(あみだじ)と言う、京都市上京区(左京区との境界近く)に現在も実在する御寺です。
実は信長公は本能寺で間違いなく自害しています。
死後、数日と経たずに信長公の御遺体の一部が葬られた阿弥陀寺
の住職に当時の朝廷の勅使が来て「信長公本廟」として認定を受けているんですね。朝廷公認なので疑う方がオカシイ訳です。
先ずは御寺その物の説明からしたいと思います。

阿弥陀寺は度重なる火災で、信長公の遺品も焼失し、御寺の御堂も安土桃山時代の建物ではありません。
しかし、明治時代にも調査が行われ改めて信長公御本廟として認定を受けているんですね~。
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上の写真が現在の阿弥陀寺の山門です。
この日は台湾人の友人夫妻と訪れました。

間違いなく信長公の御本廟で朝廷公認なのですが…
現在の規模はそんなに大きくありません。
元は今の京都市北区の蓮台野と地名が残る地区に在る大規模な寺院でした。
阿弥陀寺と相国寺比較
現在では、豊臣秀吉の嫌がらせで元の場所から強制移転させられた挙句(あげく)、規模まで縮小されてしまった為です。
何故、秀吉に嫌がらせをされたかと言うと、この御寺の当時の住職だった玉誉清玉和尚が信長公の遺骸を秀吉に渡さなかったからなんですね。
2011-03-16-12-42-16
実は、信長公は切腹された後、家臣達に自分の身体を火葬する様に指示していました。
首は…
首は首で、静岡県の西山本門寺に、信長の囲碁仲間の本因坊算砂によって葬られたと伝わっています。
小生、個人的に、この本因坊一門も信長公暗殺に一役買っていたんじゃないかと思ってしまう事が有るんです。
本因坊算砂の弟子の本因坊算悦の更に弟子の「本因坊道策」が毛利家に召し抱えられていた事実が有るんですね。
毛利家は信長公を勝手に逆恨みして暴走した室町幕府最後の将軍「足利義昭」が頼った先でもありますし、信長公の没後、あれ程、信長公には抵抗したのに、秀吉とはアッサリと不可解に深い協力関係に成っていますからね。
本因坊道策の時代は1600年代中期~。つまり、徳川家の天下が定まって織田家が台頭する心配が完全に無くなった時期、しかもまだ3世代目で前時代の影響が色濃く残る面も有る時代に堂々と毛利家から給料を貰っているんですよね。
…まぁ、本当に囲碁の腕を見込まれたのかも知れませんが。
それはさて置き、信長公の御本廟阿弥陀寺の玉誉清玉和尚は、明智光秀の謀反、本能寺急襲の際に信長公の身を案じて一番最初に駆け付けた人物でした。
当時の僧侶と言うのはとても特別な権威を武士達からも認知されていて、合戦の最中でも攻守勢力に関係無く双方を説得する為に往来する事が認められていたのですが、玉誉清玉和尚は明智光秀の軍勢の包囲の手薄な門の兵士を説得し本能寺の中に進入します。すると、燃え盛る本堂とは別の当時広大な境内を誇った本能寺の奥の竹林で焚火をしている織田方の武士を見つけ、何をしているか問い詰めると「信長公の名で御遺骸を荼毘にふして誰か解らない様にする様に命を受けた」と言うので、その武士に「遺骸は引き取るから家臣として存分に最後の戦いをして来なさい」と言う主旨の事を言うと、信長公の家来達は和尚に感謝して敵勢のいる場所に向かったそうです。
その後、玉誉清玉和尚は信長公の遺骸の一部を隠し持ったまま同じ様に二条城にも侵入し、織田信忠公等の遺骸の一部を持ち帰り供養したそうです。
そして、これが当時の朝廷公認の事実であり、明治政府に再公認された事実でもあります。
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※上の写真は阿弥陀寺の山門前にある、当時のあらましを説明した看板。
何故、秀吉が信長公の遺骸を引き取らせてくれなかった阿弥陀寺を移転縮小したのかですが…
それは秀吉自身が織田家を乗っ取る心算(つもり)だったので、後継者として権力を掌握するには織田信長公の葬儀の喪主を務める必要が有り、当然、信長公の御遺体が必要だった訳です。
別に忠義で信長公の供養をしたかった訳じゃありません。
しかし、信長公に忠義を尽くす玉誉清玉和尚は秀吉にとうとう信長公の遺骸を渡さなかったんですね
秀吉が織田家を乗っ取ろうとしているのが見え見えだったんじゃないでしょうか?
結果的に強引な性格の秀吉は信長公の遺体の代わりに香木で信長公の彫像を作り仮火葬しました。
…そうまでして喪主を務めたかったんですね。
本来なら信長公の御嫡孫「三法師」君が喪主、三法師君の叔父である織田信雄公が代理を務めるのが筋です。
秀吉は意地でも織田家を乗っ取りたかった訳です。 

もう、コイツは反逆者明智光秀と同罪でしょうね。

そんなこんなで、玉誉清玉和尚に仕返しをしたかったであろう秀吉ですが、朝廷公認の信長公御本廟なので取り潰す事も出来ず、阿弥陀寺の強制移転規模縮小と言う形で玉誉清玉和尚に仕返しをした訳なんですね。

玉誉清玉和尚が織田家に忠義を尽くした理由ですが…
和尚の母上が和尚を妊娠中に生き倒れに成っていた所を、信長公の異母兄の織田信広公により助けられたので、和尚は此の世に産まれたんです。
和尚の母上は和尚を出産後間も無く亡くなってしまいましたが、和尚は更に織田家の支援で御寺で出家し和尚様に成るまで育てられたそうです。
だから、織田家と信長公に大恩を感じて忠義を尽くされた訳です。
実に庶民と距離の近かった織田家と信長公らしいエピソードです。

ところで、現在の規模がどんな感じか、御近所の大規模寺院の相国寺さんと比べてみましょう。
阿弥陀寺と相国寺比較
…右上に阿弥陀寺、左半分が相国寺。本来の阿弥陀寺なら相国寺と同規模とまではいかなくても、もっと巨大な境内を持っていたはずです。
ところで、阿弥陀寺の在る、斜め「\」左に傾いている道筋を「寺町通り」と言います。
秀吉が京都を再整備した際に、秀吉が「謎」基準で多くの御寺や神社を、その通りに並べて移転させたんですね。
阿弥陀寺付近は秀吉にとって「タブー」の隠したいものが沢山あります。
例えば…
秀吉が見殺しにした名将「山中鹿之助(しかのすけ)幸盛(ゆきもり)」の廟所のある「広布山本満寺」。

当時、世間の風俗を乱すと考えられていた「ややこ踊り」=歌舞伎の原型の色っぽい踊りの創始者である「出雲の阿国(おくに)」が幼少期に巫女さん見習いとして働いていた、当時の「出雲路(いずもじ)=出雲に通じる街道」に在った「出雲路幸神社」。
出雲阿国が通説では出雲大社出身とされていますが、ここにくれば、実際は「"出雲"路幸神社の出身の"阿国"さん」だと言う事が良く解ります。
…歴史はね、特に郷土史レベルでは実際に歩いて回らないと解んない事が多いんですよ(笑)。
で、歩いて見ると秀吉の「ドロドロと澱(よど)んだ薄暗ぁ~い性格」が一目瞭然、解ったりする訳です。
勿論!秀吉も偉大な人物である事には間違いないですが、小生は秀吉を好きな反面「大っ嫌い」だったりします(笑)。

まぁ~小生の秀吉に対する主観は置いといても、秀吉と信長公のイメージは、実際は真逆に入れ替えた方がより実像に近いんですよ。
と、言うか、家康公の「忍耐強いイメージ」と、秀吉の「明るい性格と強引なイメージ」を足したのが実際の信長公に近いと思います。
家康公の実際の性格は「人を見ぬく力が強く、冷血で執念深くて、反面宗教に熱心」と言う所でしょうか。
実際の秀吉は一般的に認識されている「明智光秀の印象に近い」と思いますよ。
これ↓も秀吉の肖像画。
秀吉はね…
「若い頃は友達の縁故で出世」
「中盤は信長公の親戚として出世」
「晩年は金で役職買って出世」
「自分より与力武将達が優秀」
「計算高い」
「カリスマ性は無い」
「上役にイエスマン、部下に丸投げ」
「無茶振り営業担当者」
…と言う所でしょうか。 
秀吉の実力じゃなくて、生駒家の財力、蜂須賀小六政勝の采配、前野長安の人脈、竹中半兵衛重治の智謀、養子で信長公の御実子於継丸様の存在…
それを信長公の事実上の正妻生駒吉乃様から仲介されて得たからの出世でしょう。
まぁ、「油売りの商才=営業力と金勘定」と「ブ男なのに女を口説く力」は、ずば抜けていたんだと思います。
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上の写真は阿弥陀寺の本堂です。
本来、信長公の御本廟でしたら巨大でも可笑しくないのですが、先述の通り何回も火災に遭った上に、根本的に秀吉に境内を縮小された為に現在の規模に成っています。
…関東なら十分立派な規模に数えられる御寺の建築物群を有しているのですがね。
ところで織田信長公の遺骸が埋葬された事実がある事を、多くの小説家は「信長ミステリー」を作り出す為に語りたがりません。
自分の小説が面白ければ良いと思う
外道作家が世に蔓延(はびこ)っているせいで世間に誤解を与えてしまっている訳です。 織田信長公は多くの小説家が自分の小説を面白くする為に、よく調べもせず適当に書くので冷淡な人物に描かれたり又は短気で変な人物にされている事が多いですね。
ちゃんと自分の足で歩いて現場を検証したり、地元の人に地元にしか残らない伝承を取材しているのは司馬遼太郎先生と黒田基樹先生くらいかも知れません。
作家兼学者さんの方が、大学のへっぽこ歴史教授よりよっぽど研究も現地検証も郷土伝承研究もされてます。

…あと、御二人の1000分の1以下くらい小生も歩き回ってる郷土史好事家だと思います(笑)。
小生は歴史学者ではありません。あくまで郷土史と郷土料理食べ歩き専門オタクです。

学者の中には文字ばっかり追いかけて、その実、現地を一度も訪れた事が無い!な~んて脳の腐った歴史学者も大勢います。
信長実像は「短気でも無ければ冷淡でも無い」と言う、小説やTVドラマしか見ない人には意外な姿が見えて来ます。
それは次回の小牧城周辺の説明をする記事で地元の伝承等を交えながら詳しく話そうと思います。

さて、阿弥陀寺は蓮台野に在ったので山号が「蓮臺山」です。
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本堂の扁額に書いて有るでしょう?
境内には立派な植木も有りますが、小生、余り植物に対する知識が無いので何の樹なのか解りません(笑)。
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阿弥陀寺は現在、本堂こそ普通の大きさですが、庫裡(こり)は立派な規模を維持していました。
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庫裡と言う漢字の意味は「倉庫の中」と言う意味ですが、プライベートスペース=一般立ち入り禁止の場所ってな意味からか、日本では御寺の事務所や和尚様家族の居住スペースを指す言葉に転化されました。
御朱印を頂きに上がり庫裡に伺い、更に織田信長公と関わりの有った横浜の殿様「間宮家」の顕彰文を御寺に奉納させて頂きました。
小生は実は、この付近に若い頃御縁が有って住んでいたので、織田信長公の崇拝者としても何回か御参りさせて頂いており、阿弥陀寺は小生にとって大切な場所でもあります。
※信長公と関係の有った横浜の殿様の間宮家の事績を紹介した記事は「ココ」←クリック!
来年の信長公の追善供養に参加するように御寺で言われたので、是非及ばず、当然参列させて頂きます。
…仕事休んでも行く!

織田信長公や御曹司(おんぞうし=跡継ぎ)の織田信忠公の御廟所は下の写真、本堂と庫裡を結ぶ渡り廊下の奥にあり、庫裡で御寺の方に一言、信長公の御廟所を御参りしたいと伝えれば誰でも拝ませて頂けます。
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どうですか?
歴史って、三文小説なんか読んでも筆者が面白く脚色してるから真実とかけ離れている事や、古文書ばかり読んでいても自分の知りたい情報ばかり無意識に選んでしまうから、実際にその場所に赴き、周囲の一見無関係そうな歴史史跡も回って観察するのがどれだけ大切か伝わりましたでしょうか?

逆に言えば…
何気な~く普段散歩して、道すがら在る今は小さな皆さんの御近所の神社仏閣も、実はとんでもなく大物の歴史偉人と所縁(ゆかり)が有ったりするものなんですよ~♪
だから、皆さん、地元に愛着を感じたら、是非!御近所の神社仏閣や城跡の山を散歩してみて下さいな!
そして、立っている説明看板を読んでみると、すごい発見が有ったりするかも知れませんよ~?

歴史や文化は学者が守って来たのではなく、神社の宮司様や氏子さん達、御寺の和尚様や檀家さん達がずっと守って下さってるんですよ、だから御寺や神社を散歩すると、その裏山の自然や庭園や彫刻の美しさに心が癒されるだけでなく少しだけ昔の人と時空を超えて繋がる事が出来る場所でもあるんですよ~♪

では!又、次回の記事で御会い書ましょう!
次回は信長公の本当の性格を、信長公とその奥さん吉乃(きつの)様の実家の周辺に伝わる御二人に関する歴史事実と逸話で解説したいと思います。






ブログネタ
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中国株の暴落がいよいよ始まりました。
上海株大暴落中ですね〜。
TBSとTV朝日は相変わらず不都合な報道なのでニュースにしませんね~(笑)。

小生、この数年、この中国と日本の経済が良い人間関係の「リトマス紙」に成りました。

実は中国経済が好調に成れば成る程、中国人の実業家の友人達は小生と疎遠に成りました。
推測ですが、彼等にとって日本人の小生の利用価値が下がり日本国も追い越すとか、そんな視点でしか此方を見ていなかったのでしょう。
昔は頻繁にかけて来たのですが、ここ数年は此方からかけないと連絡来ない奴が何人かいました。
ソイツ等は皆んな情報過疎の中国江蘇省の地方都市の実業家連中(成功者?)です。
日本に遊びに来ても連絡して来ない始末…

それとは反対に富裕層ではない「普通の会社員の友人」は変わらず友好的に手紙をくれたり、電話をくれたり、中国に遊びに行っても皆変わらず親切に接してくれました。

連絡して来なくなったり疎遠に成ったカッペ実業家の「元」友人達、アベノミクスでこのまま日本経済が再び剛健に成れば彼等は連絡をとってくるでしょうね?

…でも、もし連中が電話して着たら電話出て「バイバイ」て言ってガチャ切りしてやります(笑)。

当方、久良岐郡育ちの武蔵国人なので仁義を通さない輩は友人にするには信頼に足らずと断じます。
つまり奴等は既に信頼足らずな存在な訳です。

逆に今も変わらず連絡してくれる友人は、国籍関係無くこれからも友達でいれるでしょう。
いや、寧ろ小生にとってかけがえの無い親友ですね。
だって日本人の「お金」じゃなくて、小生との「友情」を大切にしてくれている訳ですから。


実は昔、前田利家も同じ思いをして小生と全く同じ知人分類の分析をしてますね。
桶狭間の合戦より昔の話です…
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これ↑前田利家さん。

前田利家は有る時、織田信長公の茶坊主に笄(こうがい=頭を掻いたり髷を結う道具)を盗まれてしまいます。
盗人の茶坊主は織田信長公の御気に入り(ウホっ♂♡?)だったので、信長公の権威を利用してやりたい放題だったんですね。
怒った利家は、その茶坊主を武士の権利で無礼打(ぶれいうち=誅殺)しました。
信長公は御気に入り(ウホっ♂♡?)の茶坊主を斬り殺されて、怒った勢いで前田利家を出仕停止にしてしまいます。
前田利家、それまでは信長公の御気に入り(ウホっ♂♡)だったので色んな意味で可愛がられていたそうで、小姓(こしょう=秘書)として出世街道爆進中だったのですが、一気に出世街道から外れ落ち目に成ってしまいました
すると…

それまで交友していた知人は以下の3タイプに別れたそうです。
出世コースから外れた利家に利用価値が無くなり関わりを持たなくなる薄情で利己的な連中
出世コースから外れた利家を興味本位で様子見に来る無礼な連中
出世コースから外れた利家と以前と変わらずに接して、しょっちゅう気晴らしに遊びに来てくれる親友
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実は③が上の↑木下秀吉のちの豊臣秀吉だったそうです
そして、この信頼関係が秀吉が柴田勝家との天下取りをかけた決戦、賤ヶ岳の戦いでの前田軍の柴田軍団からの離脱行為からの羽柴秀吉への帰順に繋がっていく訳です。

仕事でもプライベートでも、信頼関係や約束を大切にしない人間はダメですね。

小生も当時の前田利家同様に色んな意味でここ数年日本経済同様にドン底でした。
そんな状況でも変わらず接してくれた友人は、小生にとっては前田利家における木下秀吉みたいに信頼の置ける仲間…いや、義兄妹弟ですね。
実際、彼等は日本人も中国人も台湾人も小生を「兄さん」と呼んでくれ昔と同じ様に接してくれます。
これは精神的に非常に有り難い。小生は彼等を稀有な存在だと思っています。

そうそう…
オリンピック終了で中国バブル崩壊すると言われていましたが、当時の政策でバブル崩壊をこれだけ先延ばしに出来た胡錦濤前主席と温家宝前首相は有能でしたね。

対して2007年頃から尖閣に反日漁民を送り込み、日本の政治家や財界とパイプの強い胡錦濤主席=温家宝首相の政治基盤転覆を狙い政権奪還した今の習近平サンは、内政で綱紀粛正には有能な様ですが経済には無能でバブル崩壊をソフトランディングさせれなかったようですね〜(笑)。
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実は、2007年前後、日本ではそれ程、対中国感情は悪くなく尖閣諸島に関する報道も無かったのですが、中国国内のニュースでは「頻繁」に「不自然」に「尖閣諸島の問題を取り扱った番組が多く報道されていた」のを、この時期に中国を行ったり来たりしていた小生は日本側報道、中国側報道双方をニュートラルな視点で同時に見る事が出来ていました。
ですから断言できます、尖閣問題は「中国側の政権奪取を試みる政治家が日本と友好的な胡錦濤政権との楔(クサビ)を打ち込む目的で仕掛けた事件」に「日本側の経済政策には有能でも外交音痴な超保守(石原氏)とバカな極左の政治家(菅・仙谷両氏)が踊らされて過剰反応」した結果の現状だと思っています。

周恩来元主席や鄧小平元首席に請われて中国の改革開放に寄与した松下幸之助さんの松下電器産業株式会社(現:Panasonic)sや東芝が中国に進出し、中国の現代化を助けました。
小生が日本神話にも関わりの有る呉太伯の故地蘇州に留学していた十数年前、当時の上海市の財政の内、実に40%が日本企業からの税収だと、聞いた事が有ります。
しかし!
2007年頃から中国側は反日漁民を煽動し尖閣諸島に漁船で侵入を何回もさせようとします…
その挑発に当時アフォの民主党政権の首相だった菅直人(本業:弁理士)がアフォの官房長官仙谷由人(本業:弁護士)等ダメダメコンビが乗ってしまい(中国側は自民党政権時代の通例通り国外退去にすると思い込んでいた予想外の展開)、尖閣に侵入した漁民を逮捕して国際問題にしてしまいました(笑)。
…この流れで超保守の石原新太郎都知事(当時)により都有化論や国有化(そもそも明治時代の世界認識や中華民国の認識で日本領土)が提起されるや、無能民主党政権は慌てふためき尖閣を国有化していまいました。
まんまと中国(当時非主流派の習近平)による胡錦濤=温家宝政権転覆を狙う反日感情を煽る政策に加担する事をしてしまった訳です。

その後どうなったでしょうか?

反日煽動により煽られたアフォな中国無学歴層が、三国時代の「黄巾賊」や「太平天国」や「義和団」の様に愛国心を口にしただけの略奪集団に成ってしまい、「周恩来」サンや「鄧小平」サンが日本の経済界や自民党と築いた絆と工場と店舗を破壊してしまった事により…

結果、中国からの日本企業の大量撤退を招いてしまいましたね。
でも、まぁ~結果的に日本企業の中国依存が解消され、石原サンの御蔭(皮肉+けがの功名的な?)で日本企業の中国離れが成功し、安倍政権のアベノミクスにより少なくとも株価だけは民主党統治時代が嘘の様に改善しました。
あとは日本企業が雇用する従業員を奴隷にするか、松下幸之助さんの様に家族にするかを決めるだけですね~。

小生思います。
そもそも唐の時代から中国と日本は軍事的な利益と商業的な利益がカブってしまっているので、政治的商業的に上手く行く訳が無いんです。
だから、今の「本当の友達同士だけが交流する程度の関係」が一番リアルに平和で良いと思います。

中国とまた商業的に関係が良くなっても、日本国内の経済は衰退してしまいますからね。
本当、信頼関係って大事ですよね?
そして今の政権がやっている政策は世界基準で見て「至極マトモ」だと思いますよ、本当に。
「落ちている物は俺の物」って国の常識相手に、こっちの「落としても誰か善意で届けてくれるって常識」は通用しませんよ?実体験としてね。

そして国としてはやはり、台湾と日本の方が関係は上手く行きます。
国の枠を取り払えば、中国の歴代家系的に高い文化階層の家系や努力して知識階層に成り海外留学を果たしたり積極的に外国人と交流する人物とは、日本人は上手くやっていけると思います。
つまり、中国人でも一部の人とは仲良くなれるって意味ですね。
それに日本人も小生の様に中国文化と歴史が好きな人間は多いですから。

問題は日中の間に利権目的で割って入ってくる中国の政治家とリベラルの振りをしている日本の政商と商奴、それと某朝鮮半島南部の国の煽動なんだと思いますよ、本当。

苦しい時にも変わらず接してくれる友達は大切ですよね…
東日本大震災の時、その国の経済力比率的に日本人に多大な支援と「心」を送って下さった「臺灣」や「モンゴル」や「ブータン」や「トルコ」の様な国は、日本国にも大切ですし、小生がドン底の時に支えてくれた人や変わらず接してくれた友達は前田利家の木下秀吉の様に本当に大切だと思います。

…って、最近の中国経済と小生の実体験と前田利家の逸話がリンクしたので今回の記事にしてしまいましたって御話しです!

今年も残り半年と成りましたが…
残り半年の抱負は、郷土の歴史偉人顕彰活動に御協力下さる皆様に恥をかかせないですむ「外見」にダイエットして戻る事、そして今の活動が将来、地域の役に立つ次の顕彰活動段階の更に大きく広い活動に繋がり、そしてゆくゆくは関係して下さった宮司様や和尚様と氏子様と檀家様に恩返し出来る経済的な収入を共有成し得る仕組みを作り上げて行く礎(いしずえ)を固める事ですね。



では又、次の記事で!

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秋を感じる一言…
風流かな?
文化芸術の秋だし。
風流さの追求が流行った安土桃山時代の建物が現代にも伝わっています。

聚楽第(じゅらくだい)
…と呼ばれた御城が京都市内に有った事は義務教育で習いますから皆さん御存知ですよね。

この御城の中で中心を為(な)した本丸御殿(ほんまるごてん)の建物が、実は反豊臣の江戸時代を乗り越え現代にも存在しています。

※200万画素の携帯で撮影した写真なので画質は勘弁して下さい!
 
飛雲閣と呼ばれた建物です。
現在では西本願寺に移築され大切に保存されています。

西本願寺と言えば、豊臣秀吉と友好関係に有った一向宗の本拠地ですね。
そして、昔の一向宗は顕如(けんにょ=本願寺光佐)様と言う方が率いていました。
彼を中心に戦国時代に、神道の神様の"建織田神(たけしおりたのかみ)"と10年間に及ぶ戦争をした軍閥化した仏教宗派でした。

建織田神て誰?
…と思いますよね?

建織田神…

絶対に皆さんも知ってますよ!


この方↓です(笑)!
 
明治天皇が、織田信長公が戦乱を収束(しゅうそく)させた功績と朝廷儀式復興させた事への功績を認め、京都市の鬼門の北の鎮護(ちんご=守り神)として建勲神社(たけいさおじんじゃ)の神様に任命したんですね。

因(ちな)みに建勲神社のある船岡山は、京都市が平安京と呼ばれた"其(そ)の時代から京の都(みやこ)の鬼門の鎮護の位置に在りました"。
何故(なぜ)そんな言い方をするかと言うと、今の京都は元の平安京と大分(だいぶん)と形や位置がズレているんです。
豊臣秀吉の仕業(しわざ)なんですがね。

"豊臣秀吉が"京の町を再編成した際に、メインストリートを平安京の中心の"千本通りから今の京都御所のある堀川沿いに移した"んですね。

そんな信長公と対立した一向宗ですが、多くの仏教寺院と同じ様に日本の文化財保護の役割を果たしていた訳です。
飛雲閣以外の建物の多くは、其の後、伏見城や別の御城に移築されました。
しかし、聚楽第の大体の位置は現在でも伝わっています。

ネットでの拾い物ですが…
聚楽第の縄張り図と現在の京都市の地図を重ねた物がコレ↓です。

その聚楽第ですが…
日本人に対するヘイトスピーチ大好きな某国寄りの学者様達は、何故かしきりに存在した事自体を否定したがります。
愚の骨頂です。

聚楽第の事は当時の天皇が行幸(みゆき=天皇が外出する事)された事が各大名や貴族の日記に記録がシッカリあり、飛雲閣等の文化財も現存しているので…
存在を疑う余地がない! 
…と言うか頭大丈夫ですか?
…と言うレベルの話しです。
もし、信長公が生きていたら聚楽第の存在を否定する学者を…
「戯(たわ)けが!」
「うつけ者め! 
…と、罵(ののし)り張り倒していた事でしょう。 
…神様に成ってるから祟(たた)りがあるのかな(笑)?
あ、でも秀吉は織田家を裏切った逆臣だから信長公は怒らないかな(笑)?

しかし…
 
飛雲閣、風流だな〜。
あ、飛雲閣は一般非公開です。
この写真は8年位前の特別公開の時に見学し撮影しました。

横浜三渓園に移築された紀州徳川家の紀ノ川沿いに有った別宅にも少し似ています。
それだけ秀吉の広めた茶の湯文化と茶室建築は後世に影響を与えたんですね。
「禿(は)げネズミ!」
…と信長公に呼ばれていた秀吉ですが、この功績は…
「でかした天晴れ!」
…と、あの世で褒めて貰えたかも知れませんね(笑)。

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