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タグ:走水神社

2017年03月18日、前日で台湾の知人が台北の日本式おでん居酒屋の写真を掲載していたのを見て六角橋商店街のオデン屋“かずさや”さんを思い出し無性に食べたくなり、六角橋に行く用事を作り、横浜市南部鎌倉近くの自宅から神奈川区六角橋界隈散策に行って来た。
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この店で久しぶりの屋台風のオデンはとても美味しかった。
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オデン種5つとドリンクで650円と格安!
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久しぶりに来たので、玉子とハンペンを追加注文した。美味い!
神奈川大学が近在する事も有り、学生の町で夜には女子大生も地元の爺婆(ジジババァ)(笑)も集う愛すべき店なのだが・・・
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実は小生の昔の彼女が神大の生徒で六角橋の白楽駅近くに住んでいた事も有り、この店を知り別れてからも一人たまに食べに来ていた(笑)。
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 ・・・最近は女の子向けの雑誌にも載ったとかで、小生が店に入った時も若い女性客が友達同士二人仲良くオデンを食べに来ていた。
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六角橋商店街裏通りの仲見世は、この通り昭和情緒に溢れる。
丁度、京都の錦市場と同じ程の道幅、同じ様な造り。昔の脇道と言うのは概(おおむ)ね、この様な道幅だった。
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学生の街だけあって、色んな店が軒を連ねる。
大正~昭和風の職人さんが営む時計屋さん・・・
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そして数年前に流行した和名:焼き小籠包こと生煎包(しぇんじぇんばお)。
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三国志が好きで行った中国留学時代に好きで良く現地の店で食べていたので非常に懐かしい。
さて・・・
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・・・このオデンを食べに行くのに小生が作った用事と言うのは2年振りの"塩嘗め地蔵"様と"寳秀寺"さんの参拝と写真撮影だった。
六角橋商店街にオデンを食べに行く前に、そちららを先に訪問してきた。
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塩嘗め地蔵は昔から「イボ取り地蔵様」として地元の信仰対象として大切にされて来た。
塩を供え物にする変わった習慣が有る。
解説を読む限り、この御地蔵さんを守る人より小生の方が少々塩嘗め地蔵の歴史について詳しそうだ(笑)。
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日本武尊(やまとたけるのみこと)が信奉した須賀神社は何処も大凡(おおよそ)が素盞嗚命(すさのおのみこと)や五十猛(いそたける)を御祭神として御祀(まつ)りしている。
この父子の神々は疱瘡(ほうそう=イボ皮膚病)治癒の神として昔から崇拝されて来た。
横浜市に唯一現存する延喜式内社(延喜式神名帳に記録された古い神社)の杉山神社の御祭神も五十猛神である地縁は、塩嘗め地蔵と無関係では無いだろう。
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杉山神社の方は今では参拝客も減り、ひっそりとしているが氏子さん達によって立派に守られている。
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以前書いた杉山神社解説記事→ 
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塩嘗め地蔵前の道は戦国時代まで、その近くに存在した神大寺の参道だったそうだ。
神大寺は江戸時代の人が城址と間違える程に立派な規模を誇っていたそうだし、戦国時代に火災で焼失している事から戦火に巻き込まれているのだろう。つまり、要塞としても転用出来る程の大寺院乃至神宮寺だった筈。
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そして塩嘗め地蔵尊の前の直ぐ下の道は古代~戦国時代の八王子往還の一筋であり、八王子の地名は素盞嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)と、其(そ)の子の八人の神々を御祭神とした聖地、八王子神社に由来する。
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※写真は八王子城御主殿。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
八王子神社は戦国時代に八王子城が築城され、その八王子地域の鎮守の神としても本丸に今も鎮座し古代から崇められている。
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※写真は八王子城本丸の八王子神社。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
塩嘗め地蔵が参道入口だった神大寺の寺名から推測出来るのは、“神”“大”“寺”、つまり"神様を祀る大きな寺"だっただろうと言う事だ。恐らく牛頭天王=素盞嗚命か、素盞嗚命を信奉した日本武尊が祀られていたのかも知れない。しかし、戦国時代に火災で焼失し詳しくは江戸時代には既に解らなかった様で"間宮士信"公が編纂した新編武蔵風土記稿にも書かれてない。

塩嘗め地蔵の直ぐ近く、六角橋には"久応山寳秀寺"と言う御寺が存在する。
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この久応山の山号は神話の人物に由来する。
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その境内が嘗(かつ)て倭建(やまとたける)命が滞在した大伴久応の邸址と伝承する。滞在時に食事に使用した"箸(はし)"が六角形の物で、大伴氏に神器として伝承していたそうだ。
この故事が六角橋の地名由来に成った。
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現在は大伴久応の陵墓の土饅頭が寳秀寺山門の前に行ちょこんと現存するが「後世の供養ではあるまいか?」と推測する。しかしながら、形状は円墳で時代的血統的な事実とも整合する。
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川崎市高津区子母口の弟橘媛を御祭神とする橘樹神社の背後に現存する弟橘媛の御陵もやはり、中国三国志時代以降の朝鮮半島渡来文化の影響が見てとれる。
倭建命は走水神社の神話と、それを編集に含も古事記や日本書紀の記載で西暦100年代の倭国の大王の太子だった人物とされる。
仮に、長い歴史の誤差で100年程度のズレなら文章に残らない古墳時代の人物に成り、三国志の記載と日本神話がリンクして証明と成ったりもす。
つまりこうだ・・・
倭姫(やまとひめ)
景行天皇の妹、倭建の伯母=卑弥呼(ひみこ=日巫女?)
※丹波国元伊勢神宮の斎王か?
大足彦忍代別大王(おおたらしひこおしろわけのおおきみ/すめらみこと)
倭建の父大王。倭姫の兄弟=景行天皇。
※三国志魏書倭人の項に登場する卑弥呼の実弟、唯一面会出来る男性とは古代神社の斎王制度の文化から見て景行天皇の事を指すのだろうと推測出来る。
※この時代に天皇の二字の称号は有り得ないので大王の二字に訂正し"すめらみこと(皇命)"の読み方のみ残す。
恐らく大足彦忍代別"天皇"の名は大化の改新時点で大王の二字が天皇に差し替えられ藤原氏に改竄されている。
倭健(やまとたける)命
景行天皇の次子、成務天皇の実弟、倭姫の甥。
そして景行天皇に指名された皇位後継権保有者。
※現在の神道に伝わる「命(~のみこと)」と言うのは、古代語で現代語の「霊位」「御霊」や仏教用語の「尊」の字に当たる言葉、つまり肉体を離れ現世で亡くなった神の霊魂を指すのだろう。日本の神様は我々の祖先だから、神様同士で喧嘩したり恋愛したり戦争して殺しあったり、海で溺死したり、酒に酔ったり、スケベだったり何とも人間らしい親しみを持てる日本の発展に寄与して下さった先人達を神格化した存在の事なんだが・・・
日本武尊は以下の通り少々悲惨な生涯の終え方をしている。
※東征からの帰路に伊吹山の神に妨害され病を得るのは、倭建の皇位継承を阻止し自ら皇位継承を画策した成務天皇による暗殺未遂乃至成務天皇派の豪族の王との合戦の傷に由るものと推測する。
仮に成務天皇派との合戦が起きたとすれば伊吹山の麓、関西へ抜ける関ヶ原の関所が舞台だろう。
鈴鹿の地で没したのは、関ヶ原通過を阻止されたので南側の鈴鹿の関を突破し河内王朝(応神天皇の代まで首府は河内国きんぺん)或いは大和国か丹波国の伯母の在所へ帰還中の事だろう。
大伴久応(黒主)
[六角橋の神話]
六角橋の伝承と寳秀寺の縁起では自邸に倭建を逗留させ歓待したとされる人物。
[走水の神話]
三浦半島の横須賀市走水に現存する走水神社の伝承では大伴黒主と名を伝えられ、やはり日本武尊(倭建命)に海鮮料理を振舞い歓待した人物と伝わる。やや倭建ははまぐりはまぐり蛤(はまぐり)の膾(なます)がお気に入りだったそうだ。故に現代では料理と漁師の神として祀られる。
[日本書紀]
日本武尊の東征に吉備一族、"大伴"部一族が与力として付けられている。大伴氏は和邇(和珥)氏の一族で佐伯氏とも同族であり、古代水軍拠点を治めた氏族。
六角橋周辺には丸子、大口の名を冠した町が有る。丸子は古語で"丸子(わに/わじ)"と発音する事から和邇氏の土地であった事が解り、大口は和邇氏の祖先神の大口納(おおぐちな)命に通じる地名でもある。
和邇(わに)は和珥(わに)と同義別字だが、和邇とは中国大陸の動物の鰐(わに)を転じて様子が古代の丸木舟に似ている事から"舟"の意味を指す事が用意に解る。この
解釈を用いると"因幡の白兎"の神話の元に成った話も容易に推測できる。
とどのつまり白兎(しろうさぎ/はくつ)=はくづ=ひゃくず=百済=百済国乃至百済人が和邇氏の統括する水軍を利用し隠岐国(隠岐島)を和邇氏の援軍により征服しようとしたが、バレて和邇氏に討ち取られ隠岐島が日本に帰属したと言う国の成り立ちが変化した例えの物語りだろう。因みに当時は朝鮮半島最南端まで漢帝国に倭人の土地と認知された邪馬台国(日本)領だった。
それ故に古代の中国語で日本国の事を扶桑(ふそう)=扶桑(FuSang=フゥサン )国、台湾を蓬莱島と呼んだが、現在でも名残として扶桑(フゥサン)に通じる中国語で釜山(FuShan)の町が在ったりする。
尚、新羅国は日本人により建国されたと中国語の史書に記されているが、古代、海の神でもあった素盞嗚命(すさのおのみこと)が朝鮮半島に渡った神話とも関連が推測出来る。

さて、話を寶秀寺その物に戻そう。
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境内には徳川家の三つ葉葵紋がふんだんに使用されているが、これが徳川家康公が浄土宗に帰依していて浄土宗に下賜した家紋だからか、それとも寶秀寺に直接徳川家から与えられた物かは未だ調べていない。
しかしながら近在する港北区鳥山地区の真言宗三会寺や浄土宗泉谷寺等は、戦国時代の鎌倉玉縄城主北条家の遺領を家康公の参謀、本多正信公が得た際、本多正信公を介して家康公から寺領保証の御朱印と家紋を頂いている事から、徳川家から下賜された寺紋なのかも知れない。
まぁ、三会寺に関しては徳川家より格上の源頼朝公から頂いた笹竜胆(ささりんどう)の源氏の家紋を寺紋としている。
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なので三会寺サンに限っては徳川家の家紋を寺紋としては使っていないし、北条家の家紋も当然使っていない。まぁ、平安時代に関東の文化水準を飛躍的に向上させたのは頼朝公の功績、そして武士文化を確立させたのは蘭渓道隆和尚や道元和尚と執権北条家の功績。だから鎌倉幕府を樹立した頼朝公の方が武士としては徳川家と功績は同等でも血筋が上な分、優先される訳だ。
寶秀寺には立派なイヌツゲの植木が有り、これが横浜市指定の銘木古木に成っている。
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その隣にも松の立派な植木が有る。
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今は境内に墓地が有るが、本堂前の植木は昔は立派な庭園の一部だったのかも知れない。
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本堂に参拝し、デジタル画像を撮影していなかったので境内の写真を一頻(ひとしき)り撮影させて頂いた。
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立派な新しい扁額。
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御本尊にもちゃんと御参りして・・・
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江戸時代の歴代御住職様の御廟所にも御参り。

塩嘗め地蔵尊と寶秀寺で六角橋と神大寺地区の歴史浪漫を探訪し、その後オデンを食べに六角橋商店街に移動した。

帰りは着替えを持参していたのでジムで汗を流してから、露天風呂に入りに行った。

まぁ、美味しいオデンを食べ、神話と歴史浪漫に想いを馳せ、ジムで汗を流し、大浴場で露天風呂満喫し寛(くつろ)ぎ・・・
しみじみ良い休日と感じる1日を過ごせた。
日本武尊様、弟橘媛様媽祖様、大伴久応黒主様、ありがとうございました!

【備考】
走水神社、日本武尊、弟橘姫に関しては“タグ付け”しておくので、ブログ記事最後尾に付けられた「タグ」の中から興味の有るワードをクリックして昔の記事を御覧下さい!

皆さん、海苔に季節が有るのを御存知ですか?
空気が乾燥している今の季節が出荷初めの時期で、新海苔が美味しい季節でもあります。

実は走水海岸は海苔の名産地で、未だに正真正銘の江戸前の海苔、しかも房総半島と三浦半島の入口の比較的綺麗な水域の海苔を養殖しているので、本当に走水の新海苔は美味しいんですよ!
小生の御勧めの店は…
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ながつか水産さん。
TEL:046-842-9832
〒239-0811 神奈川県横須賀市走水1丁目2−21
走水海水浴場の駐車場の直ぐ近くに在り比較的解り易い。
他にも沢山、海苔の生産者が直売しているので、御自分で御気に入りの店を探すのも良いかと思います。
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もし、❝料理旅館やまに❞や❝かねよ食堂❞で食事する人、もしくは走水神社や観音崎方面に観光に行く人は立ち寄って見ると良いと思う。
かねよ食堂
TEL:046-841-9881
〒239-0811 神奈川県横須賀市走水1丁目1−6−4
この、ながつか水産サンが在る走水海岸一帯は、神奈川県立野庭高校(廃校)吹奏楽部の実話をモデルにした昨年のドラマ❝仰げば尊し❞のロケ地で、近隣の店舗が沢山登場して居たりする。
仰げば尊し
付近には縁結びの御利益強く若い人が良く訪れ、料理人からも崇拝されている走水神社も存在する。
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更に日本武尊と弟橘姫の夫婦が住んで居た御所ヶ崎があり・・・
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その真横の砂浜が正に、ながつか水産さんの所在する走水海水浴場だたりする。
近所には観音崎要塞史跡とカップルのデートコースに成っている観音崎灯台・・・
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観音崎灯台&観音崎要塞跡
TEL:046-841-0311
〒239-0813 神奈川県横須賀市鴨居4丁目1187
そして真っ白な砂浜の多々良浜が有り・・・
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多々良浜
〒239-0813 神奈川県横須賀市鴨居4丁目1120
カップルや家族連れで泊まりたい、昔から御金持ちの東京近郊のリゾートホテルとして有名だった観音崎京急ホテルなんかもある。
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ここはランチビュッフェも有名。
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いつも多くの観光客で賑わっている。
観音崎京急ホテル
TEL:046-841-2200
〒239-0811 神奈川県横須賀市走水2丁目2−1157−2
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ホテルの目の前は東京湾の入口の太平洋側に面した海で風景が綺麗。
ここは客層もおかしくて、駐車場にポルシェ軍団とかフェラーリ軍団とか、御金持ちの好きな車種縛りの団体が押し掛ける。小生は軽乗用車なので、たまに行くと「なんだかなぁ~」と自分で思ったりする(笑)。

まぁ、そんなこんなで、海苔の名産地なんですが、ついでも観光も楽しめるって紹介でした。

寒田神社(さむたじんじゃ)…延喜式内社
主祭神:倭建命(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)・誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩・菅原道真公=日本太政威徳天(やまとだいじょういとくてん)
御利益:海外渡航安全・勝負運・縁結び
開基:仁徳天皇(それ以前に日本武尊が当地に滞在した)
中興:源頼朝公・徳川家光公
場所:神奈川県足柄上郡松田町惣領1767
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寒田神社と言う名前の創建年代が西暦315年と伝わるとても古い神社が神奈川県足柄上郡松田町惣領に存在します。
実は日本武尊(やまとたけるのみこと)=倭建命が滞在され神事を行った聖跡(せいせき)に、古墳時代初期に造営され現在も存続している神社で、平安時代の人達から見ても古い神社だったので、西暦900年代に醍醐天皇が当時の人から見て保護するべき対象の古い神社を纏めた❝延喜式神名帳❞にも掲載された神社です。
この様な延喜式神名帳に掲載されている神社を❝延喜式内社❞と呼びますが、寒田神社は神奈川県の旧相模国域に13座しか存在しない延喜式内社の内の一つで、とても権威と御利益の有る神社さんです。
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この日本武尊の伝承は、朝廷に提出された古風土記にも記載が有るそうで、実はこの神社の宝物と言うか御神体と言うか文化財に当たるものに日本武尊が戦勝祈願に用いた❝木椀❞が現存し、保管されているそうです。
伝説によれば、日本武尊は木製の御椀に酒を汲(く)んで現在の酒匂川に酒を撒き、東征に向かったそうです。東征を終えて当地へ戻って来た際に、御椀にまだ酒の匂(にお)いが残っていた事から、目の前の川の名前が酒匂川に成ったそうです。
日本武尊の聖跡な訳で正に聖地に建つ神社なのですが、江戸時代初期まではもっと広かった境内地と神社の所有した社領は酒匂川の氾濫(はんらん)で浸食されてしまい、だいぶ縮小してしまったそうです。
川の洪水は穀倉地帯の宿命ですね。
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ですから風害記念の石碑なんて物も有って、先人が我々子孫に自然災害の起きる土地だと警告を残して下さっています。
さて、この寒田神社、鳥居をくぐり参道を進むと歴史に興味無い人達には現在の知名度は低く成ってしまっているものの立派な社殿と社務所と神楽殿が有ります。
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と、社殿を紹介する前に手前左側に在る手水舎と、延喜式内社らしい神仏習合の神様の石碑を紹介します。
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手水舎も綺麗で、屋根も立派ですね…
正直、松田町は農村の過疎地なので、この規模の神社を維持し、この様に新しい手水を設置し清潔に管理を保つ事は、相当な氏子サン達の努力と出資が窺(うかが)える訳です。
古代からの文化と歴史を保護して下さっている寒田神社の氏子サン達には敬意を感じますね。
もし神社や御寺に参拝する場合は、利己的に心願を願掛けするだけでなく守って下さっている方々への敬意も神様に伝えると良いと思います。
この手水舎の傍らに、明治に成るまで当たり前だった土地神様信仰や神仏習合の名残があります。
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堅牢地神…
神仏習合の神様。新しい神社では余り見る事が無い神様ですね。
密教由来の神様で、土地を堅固にする神様です。
洪水の被害に遭ってきた寒田神社らしい、土地の人々が治水を願った事が良く理解出来る神様でもありますね。
参道を抜けて右手に在る神楽殿は現在でこそ金属製のシャッターで覆われていますが…
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…屋根に注目すると、その作りが立派な事に気が付きます。
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境内地が縮小したとは言え、そこは平安時代の醍醐天皇が保護すべき古社を記録させた延喜式神名帳に記録が残り、鎌倉時代には源頼朝公も松田の別荘の松田亭より度々参拝に訪れた権威有る神社だけあり境内はかなりの広さで、社務所や社殿の前のスペースはちょっとした広めの公園程も有ります。昔は更に様々な建物が建っていたんでしょうね。
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この美しい社殿は覆殿(おおいでん)です。覆殿は本殿を保護する為に本殿ごと覆い囲んでしまう建物の事です。
本殿は江戸時代慶長年間の再建だそうで、つまり1600年代の初期の再建と成ります。
この覆殿の中に、400年前に作られた本殿が在るんですね。
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中を除き込んで写真を撮影する訳にも行かないので、扁額の写真を…
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社殿の横には寒田神社の歴史と神器の解説が有ります。
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納札所。
この寒田神社、本殿の裏にも摂社がいくつか在り面白い御社もあります。
先ずは御稲荷さん。
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どちらの神社にも必ずと言って良い程、多くの人々に昔は愛された神様ですね。
稲荷神社の神様は宇賀御霊神=倉稲魂神(うかのみたま)=豊かさを象徴する神様で、鎌倉時代に成ると弁天様と習合される事も有りましたが、古代の農作物が大切だった時代の神様です。
農民にとって一番大切な神様でしょうか?
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こちらは確か、祖霊社だったと思います。
それぞれの御先祖様に繋がる神社ですね。
そして、この神社オリジナルの祠と言うか供養碑と言うか…
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❝歯❞の供養らしいです。
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何だか、歯の供養って珍しいですけど、ある意味日本らしい場所ですよね。
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こちらは何の神様か説明が無く、よく解りませんでしたが、摂社としては立派なので、もしかしたら主祭神の御祭神の境内社なのかも知れませんが、不明です。

まぁ~立派は境内の広さが有るのは伝わったでしょうか?
そして、日本武尊の御幸された聖地である事からも強い御利益が期待出来る事が御理解頂けたと思います。
因みに、アメリカ最初の宇宙飛行士のジョン・グレンさんは、この寒田神社で安全祈願をして無事帰還出来た事から更に御礼参りまでされたそうです。
海外遠征の事績の有る日本武尊所縁(ゆかり)の神社らしい御利益ですね!

さて、この寒田神社の先に紹介した御祭神の日本武尊ですが…
その寒田神社の土地に御幸した日本武尊の遺物で神器の木椀の神話を元に南関東周辺の延喜式内社の伝承や御祭神、弥生時代~古墳時代の地形を前提にして日本武尊の正体を解説する事で、日本神話と考古学の整合性を解説してみる。
小生の推測では日本武尊が立ち寄られた理由は、既に当時、この地に村が存在したのだと思います。この寒田神社は、古代佐武多神社とも書いたそうです。
恐らく、武塔天神(むとうてんじん)=牛頭天皇=素戔嗚尊(すさのおのみこと)、若(も)しくは、その御神孫の関与が有ったのだと思います。
武塔(むとう)は古い発音では武塔(むた)と読んだはずだからです。
以前も何回か書いた事が有るのですが、現在の漢字の音読みも実は中国由来より朝鮮渡来人のせいで訛(なま)ってしまっている字の発音が少なくないんです。
塔は華語の発音で塔(ta)と発音します。こちらの方が古代語の漢字の発音に近いはずです。
何故、武塔天神=素戔嗚尊の御神孫の集落が、日本武尊の時代に既に有ったと考えるかと言うと、先に触れましたが関東の延喜式内社には素戔嗚尊の御神孫が関東を開拓したと伝承を伝える場所が少なくないからです。
違う神社を紹介すると…
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関東最古の大社で、日本武尊御自身が最初に造営された埼玉県久喜市の鷲宮神社は出雲神族の御神孫の部族が土地を開拓し、日本武尊がお立ち寄りに成られ社殿を造営した歴史が有ります。
恐らく、寒田神社より少し古い神社です。
そして神奈川県の前身である佐賀牟国の初代国主は出雲神族建御名方神の6代後裔と伝承して、おり更に…
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寒田神社と同じ延喜式神名帳に掲載されている大山阿夫利神社も主祭神が出雲神族の大山祇大神と、大雷神、御当地の水神様の高神(たかおかみ)様が祀(まつ)られています。
雷神は出雲神族に習合されたシヴァ神=伊舎那天(いざなてん)=第六天魔王=大黒天=大国主命と同一視されています。
更に大山阿夫利神社の麓、同じ延喜式内社の比々多神社も…
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出雲神族で素戔嗚尊の御神孫である豊国主命(とよくにぬしのみこと)=大国主命が御祭神です。
大和市の延喜式内社の深見神社は土地の水神様の闇神(くらおかみ)が主祭神です。
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名前からして、大山の高神様と同じ系統の水神様でしょう。ただ大山は高い山の中腹に湧水地があり、そこが古代聖地だった事、深見神社の場合は深水(ふかみ)=川の淵(ふち)が聖地だったので底の深いイメージから闇神の名に成ったんでしょうね。
では淵辺が聖地に成り得るのかと言うと、立派に古代人の自然信仰にとっては聖地だったんですよ。
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東京都羽村市には雨乞街道が現存していて、古代からの神事で木製の竜頭を淵に沈めて神事を行ったそうです。つまり古代人にとって水神様は龍神であり泉そのものの象徴だったようですね。大山の高神も竜神とされています。
例外的に、海老名市と相模原市の延喜式内社の有鹿神社(あるかじんじゃ)の場合は、男と女神様に成っていて…
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相模原市の奥宮は縄文時代の遺跡群の中にあり、聖地の谷間が自然湧水地に成っています。
つまり神話の時代に当たる縄文~弥生時代~古墳時代の人々にとって、如何(いかに)に御腹を壊さない清涼な飲み水の確保が大切で、その水を与えて下さる自然を神様として大切にしていたかが解る場所なのですが、ここの神様は❝有鹿姫(あるかひめ)❞と言う土地の女神様です。
飲み水を育む源泉のイメージが女性を連想させるのでしょうか?
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平安時代末期に源頼朝公の重臣だった海老名氏によって海老名郷の鎮守の神様として有鹿谷から現在の本宮に本社機能を移転させて支援したのが現在の有鹿神社で、こちらは有賀彦(あるかひこ)つまり男の土地神様が主祭神になられて鎮座されています。
さて、この様に古代から存続する神社は、明治時代に❝水戸学❞を元に成立した戦前までの約100年間続き現代に影響を与えた❝国家神道❞の❝伊勢系統❞の神様を尊いとする価値観とは大分違った事が解り、寒田神社の御祭神も天照大神ではなく日本武尊である事にも納得していただけたんじゃないでしょうか?
ついでに古代の海岸線を見てみましょう。
神奈川県内の延喜式内社・式外社と古代の海岸線 久良岐のよし
神奈川県内で白く表示されている部分は、神話の時代より更に古い縄文時代の海岸線です。
面白い事に、大半の延喜式内社と式外社は縄文時代の海岸線に存続していませす。これは日本の神社文化には縄文文化が継承されている証拠にも成ると思います。
例外的に前鳥神社と平塚八幡宮は相模川沿いの古代の縄文時代の海中に存在しますが、それは地震で地盤が隆起し干拓が進んだ弥生~古墳時代成立の神社だからです。
地盤が隆起し人が住める土地が増え、各式内社の神社の古代の宮司や領主の役割を担った豪族の間で土地争いが起き、国境の再編と国府設置が必要に成ったのでしょう。これが現代にも伝わる国府祭(こうのまち)と言う神様同士が相模国の一宮=国府の座を争った事を現在に伝える神事で古墳時代~飛鳥時代の出来事と推測出来ます。
そして県央部に人が住むように成った原因が地盤の隆起による海面の後退だと言う仮説を証明する事実として、その時代に大きな地震が神奈川県で発生していた事が考古学的に地層から判明しています。
大正時代の関東大震災でも三浦半島は西側と南側が50~80cm隆起し、東側は東京湾に向かって沈下しています。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
古墳時代以降も伊勢原市の大山の地下で海底のプレートがぶつかり合い、度々大地震が起きています。
鎌倉時代と室町時代の間の時期に横浜市金沢区を襲った❝応長の大津波❞は、対岸の千葉県側で津波が発生していない事から、この三浦半島の付け根に当たる金沢区側が沈下したから❝海没❞したのが❝津波❞と伝承しているのだと思います。
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その際に津波を防いだ伝承が有り、後の江戸時代、高潮の危険の有る埋立地の深川に分祀されたのが、横浜市金沢区の源頼朝公が最初は神戸の西宮神社から御分霊を勧進し造営した富岡八幡宮です。

つまり、武蔵・相模東部を合わせた古代の佐賀牟国、伊豆と相模西武を合わせた磯長国では古代から地震が起きていて、西暦400年代の大地震が起きた時にはとうとう古代相模湾多くの海岸線が隆起して新たな土地が造成され、豪族同士の領土と成る土地の占領合戦が勃発したと推測が成り立つ訳です。
この時期は❝武蔵国造の乱❞の推定発生時期とも合致します。武蔵国造の乱と伝わる事件は❝佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ=豪族の王)の乱❞だったと考えるのが自然です。
それを仲裁したのが大和朝廷で、佐賀牟国と磯長国を武蔵・相模・伊豆に分割し調停した。
旧街道と武蔵相模国境付近 久良岐のよし
…これ、この通り結果的に大和朝廷が、この地方の国造だった笠原家の内紛に介入し接収した記録が残る群が、久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡等で、それ等の土地を繋げると、綺麗に武蔵国・相模国の国境を分ける非武装地帯の様相を呈しているんですね。
この時代の政庁の役割を果たしていた場所は現在の神社に成っている豪族や地方の王達の宮殿でした。
ですから国土交通省関東地方整備局が作成した古代街道の簡易図を衛星写真に重ねると、古代の街道は全て延喜式内社と式外社の傍を通過します。そして郡衙も延喜式内社の傍に存在しています。
この地図上の誤差は、関東地方整備局が❝だいたい❞程度の制度でした旧街道を書いていないからで、地図上に詳細に再現すると全てが古代から存続する神社とピンポイントで重なります。
更に古代の海岸線上に延喜式内社と式外社を表示して見ましょう。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
さて、ここで皆さんに質問です。
神奈川県は何で県名が…
神(かみ)
奈(な=無い)

…なんでしょうか?
色んな説が有りますが、小生は正に、武相国境に大和朝廷が非武装地帯を設けて神(かみ)=お上(かみ)=支配者を排除した事に由来していると思っています。
丁度、この大和朝廷の直轄地として非武装地帯に成った場所が、南東~北西に延びる国境の一筋の❝川の様に❞❝神=支配者❞の❝奈=無い❞地域に成ったので、その無主の地域の海側に当たる現在の京浜急行神奈川駅辺りにも江戸時代まで地名として神奈川領と言う行政区分が地名に残り、古代の大和朝廷による相模武蔵地方の豪族の政治紛争への介入と解決の名残りが残ったのだと思っています。
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※写真は京急神奈川駅近く、青木城址の本覚寺から見た幸ヶ谷(こうがや)公園
その現在の神奈川区辺りの地域は全時代で交通の要衝だったので、そこは室町時代にも足利尊氏公が現在の幸ヶ谷公園に権現山城を築いて南朝と戦いましたし、戦国時代も北条家臣の間宮家と上田家がここに籠城し扇谷上杉連合軍を迎撃した歴史が有ります。
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そして、戦国時代の半ばにも成ると、本覚寺も取り込んだ大規模な青木城として改修され、城主には北条氏康公の名軍師として歴史好きには有名な❝多目元忠❞公が城主を務める程、重要な場所だた訳です。

そんな訳で非武装地帯が設けられ、佐賀牟国と磯長国から分割再編し新設された武蔵・相模・伊豆の3ヵ国で国府を設置する必要があり当時は地方王族や豪族の政庁の役割を果たしていた場所が神社だったので、相模国でどこが一宮(古代の国府設置以前の国府機能)に成るかで争いが起きたのが国府祭だったと解る訳です。
因(ちな)みに、小生は日本武尊は複数人いたと思っています。~建(たける)や~武尊(たける)と呼ばれる人物は、その事績から古代の大将軍に当たる官職名だったと推測出来るからです。
そして命(みこと)や尊(みこと)の字は、後に、その人物が神号を追贈され神格化されたと言う事でしょう。
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1人目は景行天皇の王子で❝倭建(やまとたける)❞の称号を初めて今の熊本当たりの部族王だった❝熊襲建(くまそたける)❞に贈号された古代大和朝廷ないし邪馬台国の王子。
その事績は走水神社に残っています。
この倭建命(やまとたけるのみこと)の御妃とされるのが弟橘姫(おとたちばなひめ)です。
その弟橘姫が東京湾に入水自殺し人柱と成った際に、海を漂って流れ着いた装飾品を埋葬して造営された古墳を古代御神体として造営されたのが、川崎市高津区の橘樹神社です。
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この橘樹神社の位置は古代の橘樹郡政庁の跡と推測されている上に、背後の宅地は実際に弟橘姫の古墳跡と伝わる大円墳の跡です。現在も円墳頭頂部の一部が現存していますが、神社の社殿の真っすぐ背後が古墳の頭頂部に向いているのは、古代、この神社が御神体の古墳の遥拝所(ようはいじょ=遠くから拝む為の施設)だったと考えて間違いないでしょう。
この時代の日本武尊が寒田神社の前身に成った集落で、現存する木製の神器に酒を注いで神事を行った人物でしょう。
神奈川県の延喜式内社の神話や、古事記で倭建命の妃として伝承する弟橘姫ですが、何故(なぜ)か渡来の百済人と思しき藤原氏が中心に成って編纂した日本書紀では❝景行天皇の妃❞に❝弟媛皇女❞として名を連ねてしまっています。
…この倭建命の子孫が藤原氏にとって非常に都合が悪い存在だったか、彼らが書かせ改竄させた日本神話に整合性を持たせる為に必要な事だったのでしょうか?
この時代は神話では西暦、考古学的には古墳時代に突入する時期の少し前ですが、歴史の誤差が数十年有ると考えると中国の三国志魏志に記された卑弥呼と卑弥呼の弟で執政官と記された人物も景行天皇と考えれば日本神話と整合性が出て来ます。
つまり日本武尊を助けた伊勢神宮の斎王で叔母だった倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼、卑弥呼を助けた実質的な執政者が景行天皇と成る訳です。景行天皇の時代に部族の叛乱が頻発したのも、三国志魏志の記録と整合性が有ります。
つまり、九州に追い詰められた卑弥呼達、倭姫命達の世代に伊勢まで征服乃至(ないし)奪還出来ていたと想像がつきます。そして、卑弥呼に盾突いた勢力の王が、出雲系の神で伊勢都彦の別名で呼ばれていた建御名方神(たけみなかたのかみ=諏訪大神)なのでしょう。そう考えれば、東海地方を支配した叛乱勢力の建御名方神の撤退した先が信濃国=長野県だった事も無理が無い訳です。
そして卑弥呼と景行天皇と日本武尊の代で一時収束した叛乱も、日本武尊を差し置いて大王(おおきみ=天皇)に就任した成務天皇の代で再び反乱が勃発し、日本武尊系の仲哀天皇と結婚した女王、神功皇后の代に成る訳ですが、これも「卑弥呼の後に男王が立王されたが混乱が収まらず、又、女王(臺与=とよ=いよ)が就任したら漸(ようや)く鎮静化した」と言う主旨の記載とも整合性が有る訳ですね。
この時代、邪馬台国の朝貢対象の目上の同盟国であった❝魏❞に対して遼東半島で❝公孫度❞や❝公孫恭❞と言った豪族が反旗を翻し朝鮮半島の鮮卑(せんぴ)と結びついて後漢から皇位を継承した魏皇帝の曹叡の領土である朝鮮半島の帯方郡のや楽浪郡の太守を殺害し魏皇帝曹叡(そうえい)に敵対していました。
当時の曹叡の軍師だった司馬懿仲達に公孫一族や、朝鮮半島の鎮圧を命じるのですが、司馬懿が朝鮮半島に出向く事は無く、司馬懿は軍を率いて公孫一族を討取るに留まりました。
では何故、魏は朝鮮半島に攻め込む必要が無かったのでしょうか?
実は、この事を日本神話が説明してくれます。
神功皇后が魏の盟友だった臺与だとすると、実は神功皇后は朝鮮半島に攻め込み新羅を討伐し、朝鮮半島の南部から魏の司馬懿仲達を助ける動きをした事が解る訳です。
この時代の倭国は魏の前身王朝の漢帝国から朝鮮南部の支配権を認められていた様で、それ故(ゆえ)、現在の朝鮮の釜山(プサン)辺りも倭人の国と認識されていた事が三国志魏志に書かれています。
ついで言うと中国では古代の日本を倭(わ=小さい)国と呼んでいましたが、それ以前は❝扶桑(FuSang=ふさん)国❞と呼ばれていた事が記録に残っています。つまり現代日本に残る扶桑の地名は古代の❝日本❞と言う意味なんですね。
この❝扶桑(ふさん)❞と❝釜山(プサン)❞発音が似ている上に、古代の邪馬台国の支配地域とも整合性がありますね…
つまり、そう言う事なんですよ、古代は朝鮮半島南部は古代中国皇帝に公認された日本の一部だった訳です。
これも素戔嗚尊(すわのおのみこと)が一時、朝鮮半島に行っていたと言う神話とも整合性が有りますね。
そんな訳で、寒田神社の所在地を訪れて神事を行った武将の日本武尊は、この時代の倭建命だと何となく解る訳です。
そして、日本武尊の大和帰還を伊吹山の神(豪族)に命じて関ケ原辺りで阻止させたであろう人物も、成務天皇と推測出来て、成務天皇の正体も大碓命(おおうすのみこと)と推測出来て、稚足彦(わかたらしひこ)命と推測出来る訳です。恐らく❝大碓命❞の❝碓❞は誤字か藤原氏による故意の改竄で、本来は❝大稚命(おおわかのみこと)❞と呼んだのではないだろうか?そうすると、大稚(おおわか)=❝大若❞となり、若(わか)=王子と成るので大
稚(おおわか)=長男と解釈出来るので、実弟に日本武尊がいて、長子の自分を差し置いて東征の功績で立太子された実弟の倭建命を尾張国で伊吹山の神(豪族)に命じて暗殺乃至帰国を阻止して成務天皇=大碓命=大稚命=稚足彦命が天皇=大王(おおきみ)を僭称(せんしょう=勝手に名乗る)したのでは無いかと推測出来る。
この成務天皇の政変が、三国志の魏志に書かれた❝男王が就任したが国が再び乱れた❞と言う部分なのだろう。
歴史と神話は御互いに補完しあう…

2人目の日本武尊は、先に説明した❝武蔵国造の乱❞を鎮圧したであろう。
しかしながら、この日本武尊=大将軍の称号を与えられた人物は、余程、藤原氏に邪魔な人物だったと見えて完全に功績が消されている。そして、日本武尊が他にも歴代いただろうが、それも消されている。
では、この武蔵国造の乱を鎮圧した人物は誰かと言うと、大地震による相模湾の隆起や武蔵国造の乱の発生時期の大王であった❝雄略天皇❞その人だろう。
何故なら、武蔵国造で雄略天皇の調停を受けて武蔵国造に就任したであろう人物の勢力地だった埼玉県行田市の稲荷山古墳から❝獲加多支鹵(わかたける)大王❞の金象嵌文字が彫られた鉄剣が出土しているからだ。
歴史では、この獲加多支鹵が雄略天皇とされている訳だが、獲加多支鹵(わかたける)の当字を先例に基づいて変換すると稚(わか)武尊(たける)大王と成る訳だ。若くて武勇に長けた大王と言う事、つまり王族であり大将軍=日本武尊と成る。
あくまで想像だが、調停を受けた地方の王=笠原(からはらの)使主(おみ=臣)が雄略天皇から、まだ当時は青銅器善政で珍しかった鉄剣を下賜され、記念に金象嵌を施した後、死後副葬品として一緒に埋葬されたのではなかろうか?
この天皇の歴史的文化的な事績は史実だけ見れば偉大なのに対して、何故か藤原氏が編纂させた日本書紀でだけ❝大悪人❞扱いをされてしまっている。
それ故に、思う。
恐らく、この雄略天皇の女系子孫、或いは素戔嗚尊の御神孫に実は蘇我氏がいるんじゃないかと。蘇我氏は藤原氏と対立して滅ぼされた家だ。まして、藤原鎌足の時代の少し前の天皇の継体天皇は、一度断絶した直系天皇家とは別系統から天皇家を相続した天皇だ。仮に小生の推測通り蘇我氏が素戔嗚尊の御神孫な上に雄略天皇の女系子孫にも当たると成れば、継体天皇系の中大兄皇子=天智天皇にとっても都合が悪く、中大兄皇子の家臣に当たる藤原氏にとっても出世の目を摘まれ非常に不味い訳だ。
素戔嗚尊と所縁の深い出雲大社の本殿の裏にある別の社には素我(そが)社が在る。蘇我氏が日本書紀の記載とは異なり本来は出雲族なのだろうと言う証明に成であろう御社だ。
ついでに言えば現在、日本書紀のせいで素戔嗚尊(すさのおのもこと)と読まされている字自体も本来は❝素我王命(そがのおうのみこと)❞だったんじゃないだろうかとすら思っている。
漢委奴国王の金印が出土した志賀島に在る志賀海神社も、昔の御祭神は五十猛(いそたける)=素戔嗚尊の御子息の神様だった。
そんな訳で、この時代の雄略天皇は藤原氏にとって非常に都合の悪い天皇だった訳だが、恐らく日本武尊の官職名を与えられたであろう日本の大王に成った大将軍王子だったはずですが、この人物は寒田神社の土地に滞在した日本武尊とは別人でしょう。寒田神社の木椀は弥生時代の物であるのだから、寒田神社に関与したのは弥生時代の倭姫命(卑弥呼)の甥っ子の日本武尊でしょう。
古墳時代も終りの頃の神様に成った人物では無いはずです。
そして古墳時代に東征を行って相模武蔵の国境確定を実施したのは雄略天皇で久良岐郡、橘樹郡、多摩郡を無主の非武装地帯にした人物だったかも知れんせんね。
この雄略天皇との縁起が多く残るのが西湘地域の延喜式内社と式外社です。この事は、縄文時代にはまだ県央地域が海だった事実、そして古墳時代には陸地に成っていて人が住みだした考古学的な歴史事実とも整合します。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
ですから、雄略天皇との関係が最初の神社の縁起に成っている神社と中原街道は、古墳時代頃に人が住みだした県央沿岸地域を通過します。
そして、縄文~弥生時代からの遺跡を抱える 神社の傍には大山街道(矢倉沢往還)が通っており、その先は平安時代までの東海道だった足柄道へと繋がっています。足柄道は平安時代の富士山の火山活動によって一時期、御殿場を通る足柄峠が通行不能に成った事で廃れた道です。つまり、古い時代の主要街道だった訳です。

この様に、考古学や地理を先に見てから神社の伝承で関わったとされる人物の生きた時代、遺物と出土品の年代を見ると意外に神話と歴史事実は密接に関係が有る事が解ります。
その代表例の一つが寒田神社や比々多神社や有鹿神社や橘樹神社や走水神社な訳です。

きっと、皆さんの家の御近所の小さな神社仏閣、普通にお墓参りに行っている御寺サン、御守りを買っている神社さんも、寒田神社の様に意外な歴史偉人との関りが有る場所が絶対に有るはずです。
…皆さん、たまには神社仏閣や歴史遺跡を御散歩して、郷土の歴史博物館も見に行ってみると面白いですよ!
では、又!次の解説記事で! 

前回07月09日の休日雑記の続き。

3連休をとり、初日09日は横須賀市汐入に宿泊して横須賀の軍港の風景とドブ板通りの異国情緒とネイビーバーガーを満喫。
翌朝は早くから宿泊地周辺の町を散歩、ヴェルニー公園、ドブ板通りの人気の少ない風景を満喫した。
余り知られていないのだが、実は横須賀鎮守府(現:アメリカ第七艦隊基地)やドブ板通りには明治天皇が行幸した歴史が有る。
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だから、宿泊した地域には飲み屋街だけでなく、そこかしこに明治天皇の聖跡(せいせき=天皇や神格化された人物の史跡)が残っている。
例えば宿泊したハーバー横須賀は汐入駅の近くに在るのだが、この1本裏手の汐入駅前の通りは明治時代の横須賀街道の明治の新道なので、まだ当時横須賀港が埋め立てられ拡張される前に新道に掛かっていた橋が形式的に保存され、明治以前、平安京に住んだ歴代天皇には余り考えられなかった明治天皇の御幸(みゆき=行幸=天皇が出掛ける事)の古址である事を示す石碑も残されている。
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橋の名前もそのまま御幸橋。
日本全国に在る❝御幸通り❞や❝御幸通り商店街❞と言う名の場所は、日本国民の近代化を鼓舞し幕末の旧幕臣の子孫を慰問したりする為に明治天皇が日本全国旅した時に通りがかった名残を道路名に冠している場所が少なくないはずだ。
さて・・・
この橋(跡=暗渠)を過ぎ、汐入駅前も通り過ぎてドブ板通りに入ると、ドブ板通りの少し外れにも明治天皇の史跡が在る。
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明治天皇が宿泊した行在所(あんざいしょ)の跡地だ。
この石碑はSURF TAKOと言うネイビーバーガーの名店の直ぐ近くに存在するのだが、写真で、この道と十字路に成って左右を貫いているのがドブ板通り。
この石碑を真っすぐ上がって行くと階段の上に❝御幸学園幼稚園❞と❝諏訪公園❞がある。この同じ壇の削平地一帯が、明治天皇が横須賀鎮守府に御来訪された際の御宿泊所=行在所だった訳だ。
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諏訪公園周辺は宅地化されたり学校建設で削平地の空地も縮小しているが、明治天皇の行在所だった事を後世に伝える石碑はちゃんと建っている。
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残念ながら、小生の横須賀在住の知人達は、この聖跡の存在を知らなかった。
ハマっ子の小生に教えられて驚いていた。

一しきり朝の散歩を終えて、ホテルに戻って入浴し、この日の行動計画をGoogle MapをPCで開いた。
昼前にランチに行って見たかったホテルランチバイキングの食事に観音崎に向かい、その後、三浦半島で日本武尊神話の残る東海岸の風景と無人島を楽しむ行動計画を時間軸で再計算し、無理が無い事を再確認…
11時に宿泊していたハーバー横須賀をチェックアウトして、この日の予定を楽しむ為に車に乗って出発した。

左手に宮崎県の日南に来たんじゃないかと錯覚する様な馬堀海岸の美しい遊歩道ごしの海の風景を楽しみながら車を走らせる事20分くらいだったろうか?
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最初の目的地は観音崎京急ホテル。
明治~昭和の観光地として有名だった観音崎の美しい景勝地に建つ、料理が美味しい事で有名なホテル。
実は小生の実弟は、ここで結婚式をあげている。
ランチに来た事が無かったので、絶対に来たかった場所の一つだった。
この付近には走水海岸の❝かねよ食堂❞や❝縁結びの走水神社❞、明治の観音崎要塞の史跡群や❝観音崎灯台❞と❝多々良浜❞等があり、正に昭和のリゾート地だった事を納得させる店や場所が多い。
今挙げた観光地は全て❝カテゴリー「旅行(風景/お祭り/食事/買物)」の中の「景勝地・公園・映画ドラマのロケ地」❞か❝カテゴリー「Restaurant/Jazz-Bar/Bar/Hotel 」❞の中に過去に書いた紹介記事が有るので、御興味有る方は其方(そちら)を御覧頂きたい。
さて…
この観音崎京急ホテルは観光ホテルなのでロビーに入ると三浦半島の物産がいきなり並んでいる。
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だから、御土産にも事欠かない。便利。
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現在はアニメか何かとコラボもしている様だ。どこも観光客誘致に熱心だ。横浜の大仏次郎記念館も似たような文豪なんちゃなかんちゃらってアニメとコラボイベントを行っていたな、確か。
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ランチバイキングは浜木綿(はまゆう)と言う、三浦半島を代表する植物の名を冠したレストランで食べる事が出来る。
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ホテルのレストランだけあって、落ち着いた内装で綺麗なのだが…
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この日は、どう言う訳か年配の御姉様方が大挙押しかけてらっしゃって、少々混雑して落ち着いた雰囲気ではなかった(苦笑)。
しかし、このレストランの眺望は素晴らしく…DSC_3207
眼前には東京湾の略(ほぼ)出口に位置する観音崎の綺麗な海が見える。
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何か知らないけれど、この日はパスタやパンを食べずにサラダと肉料理を沢山食べた。
無論、美味しかった。
この付近の走水が嘗(かつ)て、倭建命(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の夫婦神が房総半島目指して渡航する際に立ち寄った聖跡だったりする。
そんな訳で、この日のメインの訪問地は無人島猿島だったのだが、乗船する桟橋に移動する前に走水神社に用事も有ったので立ち寄った。
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用事は二つ有り、一つは海外から失恋💔して帰国した女性後輩が良縁に恵まれる様に、ソイツの縁結びを代理で行う事。
もう一つは、もう何回も来ているのに未(ま)だ御朱印を頂いた事が無かったので、御朱印帳に走水神社の御名前を加えさせて頂く為だった。
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御朱印に関しては既に色紙に書いて頂いた物を、倭建命と弟橘姫様の御分霊を頂いた心算(つもり)で大切にしているが、最近、延喜式内社と延喜式外社を再訪し御朱印を頂いて回っているので、自分の用事では無いが良い機会だった。
この走水神社も以前記事に書いているので、❝カテゴリー「寺社/仏閣/城址/有形文化財/伝承と伝統文化」の中の「神社(延喜式式内社と歴史千年以上の古社)」❞から探して貰えば縁結びの御所ヶ崎の砂の事を含めて書いて有るので興味が有る方は、そちらも見てくれば詳しい事が書いて有る。
さて…
猿島に渡るには、先ず、以前も紹介したが対馬海戦で東郷平八郎元帥が乗船し旗艦として活躍、現在は世界三大名鑑に選ばれて保存されている❝三笠公園❞に行く必要が有る。
三笠公園も以前の❝カテゴリー「戦艦」❞で記事に書いた。
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しかし、この日は観音崎京急ホテル同様に何故か、いつもは空いてる三笠公園駐車場が満車で、付近を車でグルグル廻り空き駐車場を探す羽目に成った…
SAIKAYAパーキングと言う場所に行き着いた。
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何か良く解らんが、アニメオタが好きそうな女の子をイメージキャラクターにしているらしく困惑したが、猿島フェリーに乗船すると駐車料金割引に成るらしく、非常に助かる。
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でも何か入り難い駐車場だ(笑)。しかしながら良い目標物には成りそうだな。
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乗船する桟橋は、戦艦三笠の真横、発券所もその近くにある。
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駐車場が満車なだけあって、フェリーも乗船客でごったがえしていた。
フェリーに乗るのは仕事で香港⇔深圳を行ったり来たりしていた頃以来、少し楽しみだった。
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出向すると海風が実に心地よい。
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乗船10分足らずだったろうか、あっと言う間に猿島に到着した。
凝灰岩の島。落石も多いが、要塞を作るには適している。
現在では緑豊かな島、そして法華宗とにとっては法華の大家の1人である日蓮宗祖師、日蓮上人所縁の霊場でもある。
しかしながら夏の猿島は…
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BBQを楽しむ若者達で賑やかです。
う~ん、猿島なんて絶海の孤島で鎌倉時代に修行の必要を感じた日蓮上人や、日本の守る為、首都東京を守る為に要塞としての猿島に赴任していた明治時代の軍人さん達は、今の風景を見ても怒りはしないだろう…
寧ろ、日本の国力が充実し自衛隊の防衛力が高まり、嘗て戦場で干戈(かんか)を交えた日米が連携して外敵が領海に入らない様に防衛している事で、横須賀近隣の市民や外国籍の観光客が幸せそうに一緒に余暇を過ごし、カップルは手を繋ぎデートしているのを見れば、走水の倭建命や弟橘姫様と一緒に喜んで彼等を見守って下さるんじゃないかと思う。

さて、この猿島、真偽の程は不明だがジブリアニメの❝天空の城ラピュタ❞でロケハンされた場所だとされている。
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豊かな自然と、コケ生(む)した煉瓦の要塞が何とも不思議な感じがする。
空気はすこぶる清々しく、鳥達の囀(さえず)りも癒される。
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とは言っても要塞なのだから当時の施設は軍事に関する物で、史跡として保護されている事も有り一部展示用に其(そ)の儘(まま)残っている。
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弾薬庫。
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このトンネル群は立坑もあり、上部の砲台に繋がっている。DSC_3287
円形の場所が砲台の跡。
現在では砲塔は撤去されているが、当時を偲(しの)ぶ有る工夫がされていて…
現地に看板をちゃんと読んで学習しながら散策しているとある事に気が付ける。
実はスマホアプリのQRコードが掲載されている説明書きが有って、そのQRコードからとあるアプリをダウンロードすると…
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スマホに映る風景に、当時の観音崎砲台の大砲や、ここ猿島砲台の大砲を画面上に再現出来る。
これを知っている観光客は少ない。
…と、言うか小生も知らないで来て説明板全て読んでいたら、その一つに仕掛けが有るのに気が付いた訳だ。
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自然を感じながら要塞を見学出来て良かった。
ただ、観音崎要塞の方が規模は大きいようだ。
観音崎要塞は以前、❝カテゴリー「近代西洋建築と文化/鉄道/艦船/史跡 」の中の「近代要塞/港/空港」❞で紹介して風景写真も掲載してある。観音崎には灯台もあり風景もより綺麗だが猿島はBBQやキャンプが出来る分、レジャー観光地としての楽しみが有って若者向けかも知れない。
海を楽しみたいのなら、猿島の方が良いだろう。
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釣りも禁止ではないようだ。
島の磯側には日蓮洞があって鎌倉時代の日蓮上人が修行をした史跡でもある。DSC_3299
日蓮宗の人にとっては訪れる価値が有る場所なんじゃないだろうか。
もっとも、落石が有るので進入禁止。
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他にも船着き場近くの休憩所には、猿島史跡に関する解説の常設展示が有って歴史好きには、こちらも楽しめる。
ふむ…
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有意義な時間を過ごせた。
猿島を離れ、あの怪しいSAIKAYA駐車場に移動する時、三笠公園から米軍横須賀ベース方向に繋がる歩道の噴水と池があるのだが…
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花が綺麗だった。
こんな↓碑文も在ったりする。
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童謡❝めだかの学校❞を作曲した茶木滋サンは、この横須賀市汐入の御出身だそうだ。
ここは何回も通っているのに、まじまじ読んだ事が無かったので良い発見に成った。
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SAIKAYAパーキングの近所が横須賀米軍基地で、信号待ちしてるとSEE YOU AGAINの看板が見送ってくれる。
アニオタSAIKAYAパーキングから車を脱出させ、この日の宿泊地である三崎漁港に向かって出発…
三浦縦貫道路と言う有料道路を使うと近いのだが、小生が好きで以前は毎週の様に散歩に来ていた三浦海岸駅から近い琴音浜を訪れた。
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ふむ、ここは変わらない。落ち着いた優しい海だ。
少し潮風に当たってから出発…
江奈漁港を経由して三崎漁港に行く事にした。
江奈漁港は江奈湾と言う荒々しい磯の海岸で、昭和中期くらいまでは富裕層が散歩に来たりする海岸沿いに遊歩道が有った。現在は自然の景観を壊す事から撤去されているが、小生は現在の江奈しか知らないので寧(むし)ろ自然の豊かな今の景観が好きだ。
…心が疲れていた時に頻繁に磯遊びに来ていた江奈漁港。
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この海と、当時の彼女にだいぶ救われた。
海に感謝をして、直ぐに三崎に出発。
途中、剣崎灯台の辺りには風力発電の風車が在ったりする。
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この付近からは、天気が良くて海上の水蒸気が少ないと富士山が綺麗に見える。
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たまたま雨天の翌日の快晴で、雲のかかり具合も水墨画の様に綺麗な夕時の富士山が見える事が出来た。
手前の延々と続く農地の風景も癒される…
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三崎漁港に着くと、既に宵の時間に成ろうかと言う頃だった。寄り道し過ぎたか?
宿泊するホテルは三崎漁港の市場の目の前。
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宿はサンポート三崎と言う、船員会館の様な船乗りの保険組合の保養所なので、1泊2食付7500円と格安だった。
ここは外観よりも内装が綺麗。
❝じゃらん❞で予約したのだが、
御酒を楽しみたい人やマグロの珍しい料理を食べたい人は、朝食付きだけのプランで宿泊して、三崎や城ケ島の商店街の寿司屋やマグロ料理専門店に行くのも良いと思う。
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小生は連休最大の目的が、翌日7月11日が油壷にあった新井城落城日から500年に当たるので、尊敬する武将の1人である三浦義意公の御廟所に献花する為に三浦に来た。
三浦に行くなら普段横浜から近く見落としがちな場所も宿泊して探訪してみようと思い立ち、横須賀や三崎に宿泊を決めた訳だ。
このサンポート三崎は家族連れや外国人の宿泊も想定しているのか、色んな柄の浴衣を自由に選べるシステムだった。
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これは女性が喜びそうだ。
部屋も綺麗だった。
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1人でツインに泊まっても仕方ないんだけどね…
ここしか空いて無かった。でも部屋の清潔感はそこそこの値段のホテルと同等くらい。
しいて言えば、コンビニが徒歩5~6分と微妙に離れているのと、料理屋の多い三崎銀座商店街も徒歩10分位離れているのが弱点だが、車で来ているので寧ろ、油壷~三崎町~城ケ島と廻る拠点には打ってつけの立地だった。
日曜日の朝にはホテルの目の前で朝市も開かれる。
食事前に、好きな三崎の商店街をフラついてみた。
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平日月曜日なので客はまばら…
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この❝黒羽亭❞はTVに良く出るマグロ料理の専門店で、目玉とか変わった部位も食べれる。
寿司が食べたい人に一押しの店が、黒羽亭の左隣の❝紀の代❞
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ここもマグロ水揚げ漁港ならではの変わった部位、マグロの皮や白子なんかも食べれるし、御店主は寿司職人としての技術も確かで人気店でもある。
小生は寿司を食べたくなると良くここに来る。
この2店は以前❝カテゴリー「和食全般/居酒屋/懐石料理/旅館」❞で紹介している。
腹時計が夕食を欲っする時間に成ったのでホテルに戻り、食堂で夕食を頂いた。
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この日の夕食の献立は、備長マグロの鍋やマグロの御造り、魚料理が数品と、写真とは別に汁物と御飯がついている。
一人旅には十分贅沢だ。これで7,500円は素晴らしいと思う。
三崎の商店街を散歩中に提灯が飾ってあったのが目に留まったので、ホテルで質問した所、2016年は7月16日が三崎町の鎮守、海南神社の例大祭だそうだ。
これを聞いて翌週の再訪を決めた。

翌日11日の休日雑記へと続く…











平安時代の人からも古くて由緒有る神社と思われていたのが延喜式内社と呼ばれる普通の神社とは比べ物に成らない❝別格❞の神社です。
醍醐天皇が編纂させた延喜式と言う律令制度の改正法に定められた保護すべき対象の神社一覧が延喜式神名張に載る延喜式内社です。
又、延喜式成立以前から存在するが、当時は修行場や祈祷所と機能していたので祖先や神を奉る神社とは意味が若干異なっていていたり藤原家に不都合な歴史が有り掲載できなかった神社を延喜式内社に対して式外社と言います。
その神様の御神威と歴史が別格の意味に社殿の大小や現代の参拝客の多さは関係有りません。
多くの延喜式内社には縄文~弥生文化の遺跡が近在し、又、神社の宝物に日本神話の時代に当たる弥生時代に作られた祭器が有る所も少なくなく更には考古学的にも、その祭器が弥生時代や古墳時代初期の物だったり境内の遺跡が縄文文化の史跡と確認されている場所が多く有ります。

そんな延喜式内社が神奈川県には旧相模国内に13座、旧武蔵国(横浜市)に1座、式外社で古事記に登場する様な霊験あらたかな場所や歴代天皇の勅願所も数ヵ所有ります。
その中の一つで、現在も比較的大きな規模を誇るのが大和市の深見神社(ふかみじんじゃ)です。
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ここ深見神社は雄略天皇の時代(西暦500年前後)に闇神(くらおかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を御祭神として創建された事が関係文献から解っている様です。
神は水神=雨乞いの神様として信仰されたそうですが、似た名前の神様に高神(たかおかみ)と言う神様が雨乞いの聖地だった大山阿夫利神社の御祭神として祀られています。
この二神は名前も似ていますが同じ様な御神威を御持ちの様です。
今年2016年の夏は水不足なので神奈川県知事や自治体の首長には御参りして欲しい所ですね。
さて…少し脱線します。
延喜式内社も凄いのでですが、式外社にも凄い場所が有ります。

特に凄い場所は以前も紹介した…
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日本武尊の仮御所近くに、日本武尊の冠を御神体として地下に埋蔵して創建された横須賀市の走水神社。
ここは最近の社殿建て替えの際に本当に地下に石室が有る事が確認されています。
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日本武尊の御妃様の弟橘姫の古墳が神社社殿の背後に控える川崎市の橘樹神社。
神奈川県教育委員会の怠慢と不見識で、大古墳は一部を除いて宅地化されてしまいましたが、古墳頭頂部の一部がかろうじて現存しています。
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そして歴代天皇が勅願所道場として信奉した師岡熊野神社です。
歴代の天皇家と源氏や小田原北条家、徳川家から信奉され、特に光孝天皇から「関東随一大霊験所熊野宮」の異名を与えられ、その勅額を頂いた周辺に聖なる池を多数抱える神社でもあります。
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今回紹介する深見神社は、この師岡熊野神社と同じ雨乞いの神様として古代人からも信奉された古社な訳ですが…
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伝承や郷土史研究者の意見では、この辺りも古代に海が入り込んだ入江だったので❝深い海❞が地名の深見に転化したと考えられていますが、小生の意見は少々異なります。
何故かと言うと古代の海岸線と深見神社の位置は離れているからです。
神奈川県名の延喜式内社と古代の海岸線 久良岐のよし
そこで小生が推測するのは、深見(ふかみ)の地名由来は❝深水(ふかみ)に嵌(は)まる❞の方の深水だと思うんです。
実は、この深見神社は重要な場所に在(あ)りまして、すぐ近くを❝境川❞が流れています。
延喜式内社と河川の位置 久良岐のよし
※拡大して見ると、河川と延喜式内社の位置が解ります。
古代は橋を架橋する技術が無かったので、大河川を渡河するには舟での移動しか有りませんでした。
若しくは…徒歩で渡れる浅瀬を探すかですね。
残念ながら神奈川県には相模川や鶴見川の様な巨大河川が幾筋も有り古代人にとっては交通の便の良い土地では有りませんでした。
それ故、この道を❝東海道=東の海の道❞と古代人が名付けた訳です。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
古代の東海道は何筋もの大河川を船で渡り、最後は走水から海を越えて房総半島に渡っています。
さて、そんな訳で深見神社の眼前には今も昔も境川が流れているのですが、これが上流部分が旧相模国と旧武蔵国の国境と定められた川だから❝(国)境(の)川❞と成った訳です。
この境川も相当な下流域は海でしたが、実際の所は深見神社の氏子サンや郷土史家の推測は海岸線の歴史事実と異なり、深見神社の眼前に入江が広がっていた歴史は存在しえません。
そこで小生の説は「❝川の深水❞が有ったから深見神社と名付けられた」と成る訳ですが…
「え?深水なんて別にありがたくも何も無いじゃん?」
…と思ったら、貴方は神道と日本の祭祀の歴史を全く解ってない。
古代人にとって川の❝淵❞や❝深水❞と呼ばれる地勢は聖地として信仰対象に成っていたんですよ!
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上の写真は江戸市民の水の供給源だった東京都羽村市の多摩川上流にある根搦前水田を横断している雨乞い街道です。旱(ひでり)の日は、聖地とされた深い淵で雨乞い儀式を行う習慣が有りました。
そして深見神社の御祭神の名前の❝闇神(くらおかみ)❞です。
神(暗い場所の水神様)と解釈出来る御名前から、鬱蒼とした樹木の下に流れる境川の水深の深い水辺を連想させますよね。
似た名前で同じ雨乞いの神様の高神は大山阿夫利神社の神様ですが、実は大山は標高1000mを超す場所に沢山の自然湧水や滝が有るんです。❝高❞い場所に水を湧かせる❝神(おかみ=龍神)❞様だから高神なんでしょうね。
恐らく、ミシェランガイドで三星の観光地認定された東京都日野市の高尾山の❝高尾❞は、大山阿夫利神社の❝高龗❞神と同じ神様を奉っていた歴史が古代に有ったんじゃないかと思います。多分高尾山は山岳信仰と雨乞いの対象だったんでしょう。大山と同じ様に天狗(てんぐ)信仰も盛んですからね。

話を深見神社その物に戻します。
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深見神社は北西から入ってくる変則的な表参道の横に石碑が有ります。
これは、この深見の江戸時代の領主が、この神社と周辺を大好き過ぎてアレやコレや寄進しまくった時に建てたそうです(笑)。
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その近くに立派な狛犬さんも鎮座していて参拝客を御出迎えしてくれます。
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凛々しい狛犬様。
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めっちゃ筋骨隆々だね。
参道から、社殿正面へ続く駐車場の傍(かたわ)らには大和市の保護指定を受けている大樹があります。
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すんごい立派ですね。
駐車場に車を止めると富沢稲荷と言う小さい摂社が有ります。何故か境内には遷座されていない。
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こちらは参拝客もまばらそうですが、小生は御城や神社や御寺を御参りする度に御稲荷様が鎮座していて、参拝客や地域の方々を守って下さっているのでちゃんと御挨拶をして御参りして来ます。
勿論、この時も御挨拶しました。
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現在では一見すると普通の少し広めの神社程度の境内ですが、参道の向きや周辺の森と道路の敷設されたルートを見ると、明らかに昔は周辺の住宅街全部が深見神社だった事が見てとれます。
深見神社推定旧境内 久良岐のよし
こんな感じかな?
ちゃんと現在の社殿前の鳥居の反対側にも、昔の参道が有り、先にも廃道が有る。
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現在は私有地に成ってしまっているので通れない。
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こう言うのは明治政府のせいなんだよ。
明治政府が神社の土地を接収しちゃって、更にその後で太平洋戦争で負けた時にも米軍に神社の土地は大きく接収されてしまったので、こんな風に古い参道が使えなく成って家が建っちゃった場所は少なくないんだな。

さて深見神社の社殿はとても立派です。
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造りからすると多分新しい。ごく最近の再建。
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この時は春に差し掛かった頃に訪れたので、桜の花が咲いていてとても綺麗でした。
深見神社は江戸時代に周辺領主だった坂本家が武神の武御雷神を鹿島神宮から勧進した歴史も有るので一時、鹿島社の別名で呼ばれていた事も有ります。
そっちの神様はハッキリ言って深見神社や深見の土地と関係が無い。
寧(むし)ろ、相模国の延喜式内社と関係が有る戦神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と五十猛(いそたける)神日本武尊と弟橘姫だからね。平安時代にも関東では武御雷神じゃなくて、八坂神社や浅間神社で素戔嗚尊が崇拝されたし、西暦700年頃からは弁才天様も崇拝されだした。
後から深見神社に引っ越して来たのが武御雷神。
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そこ等辺の事は説明の看板にも書いて有るけれど、元に成った記事を読みたい人は横浜の殿様間宮家の子孫の間宮士信が編纂した新編武蔵風土記稿を読むと、周辺の歴史も解って楽しいですよ♪
深見神社は手水舎にはちゃんと水道から新鮮な水が流れていて身を清めれます…
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…多くの延喜式内社が伊勢と関係ない神様で宮司様不在で寂れて水道も流れてないからね。
ここは他にも施設が沢山有ります。
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靖国社。靖国神社の末社かな?と思ったら全く違いました。
元々、この大和市や厚木市は大日本帝国海軍時代の厚木飛行場が有ったので、そこに空の神様として神社が建てられた航空神社を、戦後厚木基地が米軍に接収される際に引き取って当地に遷座したそうです。
それと、さっきの富沢稲荷様とは又違う境内社の稲荷大明神。DSC_0552
御倉大明神と言って、一時期、闇神がこちらに移されて、本殿には明治時代の国家神道と関係が深い武御雷神が本殿に祀られて優先順位と歴史的にアベコベにされていた様です。
現在は闇神様は本殿に無事帰還されています。

それと御神木…
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出ました!神奈川県の銘木100選。
小生の行く先々でちょくちょく登場する銘木100選、その一つが深見神社の現在の御神木の春楡(はるにれ)の大樹。
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春楡(はるにれ)が❝春を❞❝諭す=楡❞、つまり春の訪れを知らせる様に花が咲くからだそうです。
深見神社では種類が解らず「なんじゃもんじゃの木」と渾名されていたようです(笑)。

ここには、古代の文化を伝える神様がいらっしゃいます。
そして江戸時代に武士に崇拝された戦神様も後に同居されました。
古代から近代まで、色んな時代の人の記憶がつまった大切な場所、そして古代人の聖地だったはずの境川の淵の横に建てられた神社だったんだろうなと思います。

きっと皆さんの御近所にも、あんまり大きくなくても凄い歴史偉人との繋がりや、古代からの文化や遺跡を継承しているとんでもない神社や御寺が在ったり、近くの公園や山に行くとソコが平安時代~江戸時代に日本の文化を発展させた武士達の御城の古址だったりするかも知れません。
…御近所の神社仏閣や城址を散歩して、昔の人事を少し思い出してあげませんか?そして文化を大切にしてみませんか?
御参りして先人に「日本の発展に寄与して下さりありがとう」と御礼を伝えれるだけでも、偉人達や神様や仏様は喜んで下さるかも知れませんよ。

では、今日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう♪

先週末
土曜日は某博物館の図書館へ絶版の資料文書を漁りに…

翌日午前中
小机城址祭りを例年通り見物。
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港北区長サンの演じる北条家五色備えの白備え隊の大将:笠原信為公は今年も武将然として男前だった。
この区長さんは渋いイケメンだな。
笠原信為公は詩歌に造詣が深く文化人であったと同時に、大曾根城主・小机城と白備え隊の代官だった方で合戦の実績も豊富。そして鶴岡八幡宮再建の大事業等でも総奉行を務めたズバ抜けた実務能力の持ち主だった。
今の港北区長さんは外見も笠原信為公に相応しい。

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今年は雨が降らずに良かったですね、武者行列の参加者御一同…
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う~ん、女武者も凛々しいぞ!
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そして今年の個人的MVP…
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今年の御姫様役の地元の先生、めっちゃ可愛い(笑)!
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侍女さんかな?この方もおしとやかな雰囲気で和装が良く似合う。
今年は天候にも恵まれて、申し分の無い御祭りが開催出来たようだ。

苦言を一つ。
防子委員長、今年も城址祭りのアナウンスで、石垣城では無い小机城を石垣城と勘違いしたまま解説文章読み上げるのは「横浜市の恥」なので、早く改善して下さい。


京都から歴史好きな人物が京都から神奈川に出張してきてたので、横須賀を案内した。...
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大津町の信楽寺・・・
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坂本龍馬さんの奥さん御龍サンの菩提所。

走水神社・・・
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日本武尊と弟橘媛様神話の神社。
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一応、歴史の概略を伝え奥社まで案内した。
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奥社から走水湾の風景と走水海岸も案内した。
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本当に漁村。

かねよ食堂・・・
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走水海岸のお洒落なレストラン
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鮪のカルパッチョ
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鮪のフライ
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と、海鮮丼みたいな?三浦の鮪とシラスと芽若芽の丼。
相変わらず美味しい店だった。

その後、友人を駅まで送り届けてから、自分の仕事で移動…
京都から友人が来たので、自分の仕事有るのに案内したのは大変だったが、喜んでくれたのでまぁ、よし。

皆さんは延喜式神名張と言う言葉を聞いた事が有りますか?

延喜式神名張と言うのは、醍醐天皇が編纂させた文書の題目です。
内容は平安時代、西暦900年代初頭の当時から見ても古い歴史を有する神社を列挙した物で、醍醐天皇が後世に古社を存続させる為に記録させたんですね。
延喜式と言うのは、元号の延喜年間つまり西暦901年~923年に当たる期間に、古来の律令制度では対応できなく成った法制度を改めて補足する為に作らせた制度や管理体制です。
その一環として作られたのが延喜式神名張です。
そして横浜市内にも、数少ない延喜式内社が一社現存しています。
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それが、横浜市緑区西八朔(にしはっさく)に鎮座する杉山神社です。
この神社の存在する住所その物が、この神社の由緒を表しています。
実は西八朔の八朔と言う地名は平安時代には❝都筑郡針斫(はりしゃく)❞と登場しているのです。
現在では神主不在ですが、境内はなかなか広く、管理は氏子様達の努力によって何とか行き届いています。
この神社の歴史は凄いんですよ。
語るについては、少々、神奈川県と東京埼玉の古代郷土史を解説する必要が有ります。

現在確認出来る文書でも杉山神社は西暦800年代には名前が登場します。
武蔵国(埼玉・東京全域と横浜市東部)の総社六之宮とされる神社なので、佐賀牟(さがむ)国が相模(さがみ)国と武蔵(むさし)国に分裂した際には六之宮に定められた歴史を持つ神社と言う事に成ります。
古代の武蔵国内で六番目の有力な郷(さと)だったと言う事にも成ります。DSC_0029
武蔵国の六之宮と言う事は…
佐賀牟国の相模と武蔵の分裂時期は西暦500年代の❝武蔵国造の乱❞のはずなので、武蔵国建国時に武蔵国六之宮に定められた杉山神社の歴史は以前と成ります。
つまり武蔵国成立時に六之宮とされているので、古墳時代~飛鳥時代まで神社の始まりを遡(さかのぼ)れると言う事が解ります。
他にも杉山神社と同じく古い歴史を有する神奈川県の古社は殆どの御祭神が出雲系の神様や日本武尊や伊邪那岐伊弉冉命です。
つまり、日本武尊を除いては、杉山神社を初めとして、古い神社程、出雲系の神様が多いんですね。
ですから、国家神道が160年前に成立し伊勢系の神様が尊いとされた為に、嘗(かつ)て醍醐天皇を初めとして歴代天皇が我々後裔に保存を託した延喜式内社の古社でさへ神主不在と成り荒廃してしまっている場所が少なくありません。
残念ですね。
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この手水、センス良いですよね!
自然石をくり抜いて、自然信仰と偉人崇拝を元に始まった日本古来の宗教観を代弁する様な存在。
最近作られた手水ですね。
幸い、杉山神社は、この様に氏子サン達によってちゃんと守られています。
杉山神社の在る旧都筑郡に当たる緑区や青葉区は隣の港北区と同じく住民の皆さんの郷土愛と文化度の高い地域でしたので、神主不在と成った現在でも、荒れ果てる事無く整備されています。
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…横浜市は移住者ばかりで住宅街の里山の中の神社が、そんな凄い歴史が有ると知る人も少なく、現在では活気は全く有りませんが。
さて、実は杉山神社、日本中で旧都筑郡にしか存在しませんが、その論社(ろんじゃ=記録から推定される場所)は他に数カ所有ります。
しかし記録上の地名から、小生も本社はこの緑区西八朔の杉山神社だと思います。
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神社の前には古道と思しき道も有りましたしね。
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昔の街道だった名残りをプンプン匂わせる石仏も残っています。
庚申塔が有るので間違いなく、ここは旧街道です。
平安時代には街道が通っていた地域だとすれば、それより前の古墳時代から人が住んでいた地域だったのかも知れませんねぇ~。
この杉山神社は歴史が有る神社に相応しい立派な社殿です。
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神主不在でも立派ですね。
この社殿を維持させんとする周辺地域の人々の歴史を愛する心と文化を残そうとする信仰心や気概が伝わってきます。
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この境内は、恐らく昔は神楽殿も有った広さが有ります。
社務所を立てて、宮司様が常駐したら良いのにな?
…と思いました。
神奈川県神社庁は延喜式内社をプッシュし、県民の信仰心と神話を伝承させる様な働きかけをしてくれたら、もっと日本人が本来の文化を大切にするきっかけに成るんじゃないかな~?
神主さんが普段から住んでいて、子供が遊びに来て、小さい時から神様の近くにいる、そんな環境が戻って来れば寂れた神社が復興して、一度は廃れた神社も夏祭りが行われたり活気が出て日本人にとっても精神的に昔の様に大切な存在に成り、祖先とのつながりを感じたり出来る様な気がします。
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摂社の前には梅も綺麗に咲いていて、背後の竹林と相まって美しく、里山の古社の雰囲気を醸し出していました。
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今ではひっそりとした神社ですが、ここがかつての天皇家や朝廷にも認知された古社だと考えると、この静けさも凛とした空気として身に沁みます。


では!又、次の解説記事で!



埼玉県には鷲宮(わしみや)と言う土地が有ります。
この地名の由来は古代、日本史で言う所の土師(はじ)氏と言う部族が開拓したと伝わっている土地で、この“土師(はじ)”が悠久の年月を経て訛(なま)り“はじ”→“わし”と転化した事に由来すると言われています。
この伝承と符号する神話を持つ神社が、この鷲宮にはあり、その名も“鷲宮神社”と呼ばれている関東で最古の大社(たいしゃ)格の権威を持つ神社です。
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立派な鳥居ですね。形状は山王鳥居。
余談ですが鳥居には色々種類が有るの御存じでしたか?
大別すると、この鳥居の様に複雑な形をした物を明神鳥居と言います。
対して丸太を組み合わせただけの様なシンプルな鳥居を神明鳥居と言います。
明神鳥居に更に屋根が付いた形式を“山王鳥居”と呼びます。
どうも色んな神社を参拝した経験的に、出雲系の神様の鳥居には明神鳥居が多い様です。
さて、そこで、この鷲宮神社の神話と鳥居が結びつきます。
土師氏と歴史で位置づけられる、この土地を開拓した一族は、鷲宮神社の神話によれば出雲国出身の一族で27人の部族集団から始まったそうです。
この土地からは古代の遺跡が多く出土しており、この神話を証明するに十分な状況はそろっています。
つまり、この地は出雲族、素戔嗚尊の御神孫27人の部族が移住し開拓した“聖地”な訳です。
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27人と言うのは、国を開拓する規模で考えると人数と言うより27集団と考えた方が自然かと思いますが、縄文時代や弥生時代の集落と言うのは多くて100人超える規模、少なくて数世帯で数人なので考古学的にも、この鷲宮神社の伝承は信憑性の有る開拓者の人数だと思います。
最初は27人からスタートして、鷲宮に村が出来て、交易に来る人が定着し、大きな集落に発展して下総国周辺を開拓されて行かれたんですね。そして平成の世では、この出雲族の開拓地が聖地と呼ばれる程、神話上も考古学上も重要な場所に成った訳です。
だからか解りませんが…
この地域の特産品が“聖地酒”と言う日本酒のようです。
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昔の門前町に当たる商店街は何だか良くわからない女の子のキャラクターが、聖地酒と言う御酒のアイコンに成っているようで、商店街中至る所でプッシュしてました。
…年上好き非ロリコン、3次元の生身の触れるリア女性が好み(笑)の小生としては非常に、店に入り難(にく)く成ってしまう購買意欲を削がれる看板でした(笑)。
でも、商店街の人が頑張ってる感じは伝わって来たので、素晴らしい取り組みだと思います。
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看板はアレですけれど、小生的には好きな店構え。
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商店街は残念ながら過疎ってますが、この道幅の道路の両脇に古めかしい建物が在ったので、つまり江戸時代も当時もこのままの道幅だったと言う事ですね。
…と、言う事は、この道幅は昔からするとかなりの大通りに成るので、この鷲宮神社の門前町だった江戸時代は相当参拝客で栄えていた事が推測できます。
鳥居をくぐると、境内は趣の有る参道が参拝客を出迎えてくれます。
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良いでしょ?
左手の掲示板の様な物は所有する重要文化財の説明等が書かれています。
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まぁ、防犯上の都合も有り、通常宝物は市の博物館やなんかに保管委託して有ったりする物なんで、鷲宮神社も所有していても、まさか神社の境内に在る訳じゃないと思いますが。
神社の由来の説明も有ります。
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武蔵国造(むさしのくにつくりのみやつこ)と書いて有りますね。
これは間違いです。
武蔵国が成立した頃は既に国司(こくし)と言う名の知事職が存在していましたし、武蔵国の成立自体が西暦400年~500年頃の話しですので、この説明に書くべきは“佐賀牟(さがむ)の国造(くにつくりのみやつこ)”とです。
実際に初代佐賀牟国造は諏訪の建御名方神(たけみなかたのかみ)の御神孫5代目と伝承しています。
佐賀牟国が相模国と武蔵国に分裂した経緯(いきさつ)が伝承しているのが、恐らく神奈川県大磯町の神揃山で古来行われていた国府祭(こうのまち)と呼ばれる神様同士の喧嘩と仲裁の御話しです。
この鷲宮神社は関東総鎮守(かんとうそうちんじゅ)と異名の有る大社なのですが、神奈川県にも同じく縄文時代からの祭祀史跡を御神体の大山に抱える大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)と言う“関東総鎮護(かんとうそうちんご)”の異名で呼ばれる神社が在り、そちらの神話でも同様の伝承が有ります。
更に、縄文時代の祭祀場や古墳時代の古墳群を旧社地に抱える神奈川県の比々多神社も御祭神を豊国主(とよくにぬし)=大国主命としています。そして、恐らく佐賀国分裂のきっかけを伝承している神事の国府祭に登場する神様の一人が比々多神社の神様です。因みに、比々多神社一帯は有る時期、国府が置かれていただろうと推定されており三宮と言う地名にその名残も留めています。
つまり、関東の神話を証明する通り、鷲宮神社を含めた関東の古社では素戔嗚尊の御神孫達が関東を開拓した事に成っている訳です。
説明看板の通り、その由緒正しさを証明する様に関わられた偉人も日本武尊に始まり、源八幡太郎義家公、源頼朝公、北条時頼公等々…凄まじい歴史偉人達ばかりです。
因みに、日本武尊がこの地で社殿を造営した神話を補強する神社と御寺が神奈川県に3ヵ所有ります。
一つが…
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走水神社…神奈川県横須賀市走水、三浦半島の先端。
この場所から東の房総半島へ渡航を目指した日本武尊と御妃(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)様は一度、東京湾の激しい潮流に北に流され渡航失敗しました。
この時、日本武尊は素戔嗚尊を信奉していたそうで、現在も走水神社の奥宮には素戔嗚尊と此花咲耶姫命の御夫婦が建国された須賀国の名を頂く須賀神社と諏訪神社、神明神社の三社が明治時代に付近の元境内から明治政府の破壊から免れ遷座保護されています。
ちなみに破壊の原因は思想的な物では無く、防衛上の砲台の建設の為の用地接収でした。
遷座を実現し保護されたのが東郷平八郎元帥や明治の元勲達でした。

日本武尊が房総へ渡航を目指した時、漂流して又走水に戻る際に通ったと思われる伝承が有るのが、横浜市磯子区杉田の妙法寺です。
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ここは戦国武将間宮家の分家杉田間宮家の菩提寺であり、北条家の重要な港湾拠点の一つだった地域でもあります。因(ちな)みに、鷲宮神社の古代から江戸時代までの宮司家は大内家で、その大内家に江戸時代初期に間宮本家の笹下間宮家から御姫様が嫁がれており、神話でも戦国武将の血縁でも不思議な御縁で結ばれていたりします。
この付近を日本武尊一行が通った伝承の有り、その伝承に基づいて弘法大師空海和尚が現在の妙法寺の境内に前身となる牛頭天王の御社(おやしろ)を勧進されたそうです。
牛頭天王は仏教名ですが、日本神話の素戔嗚尊を同一視した神仏習合の御名前です。
つまり、空海和尚は日本武尊の牛頭(素戔嗚尊)信仰を御存知(ごぞんじ)だった様ですね。
妙法寺は牛頭天社を本格的な寺に発展させ開基した荒井家が日蓮宗徒だったので鎌倉時代に日蓮宗の御寺として始まり、現在に至ります。つまり真言宗と日蓮宗両方の歴史を有しています。
さて、では何でここを日本武尊が通りがかったですが、実は走水神社の前の海を古代人の習慣に従って冬~早春の早朝に出港すると、神話通り激しい北向きの潮流に流されてしまうんです。
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その流される先が、正に、横浜市南部沿岸部、この杉田周辺に成るんですね。
そして、この付近は久良岐の丘と呼ばれる断崖絶壁の海岸に囲まれた丘陵地で、数少ない寄港可能な場所が、この六浦、金沢、杉田、屏風ヶ浦、蒔田と呼ばれる辺りだけに成る訳です。
つまり、流された日本武尊はこの付近から上陸し走水に陸路帰ったはずで、空海和尚の事績と整合性も有る訳ですね。
そして、そんな科学的な事を分析する術の無かった神話の頃の古代人は、海や川や火山の噴火を鎮める為に人柱(ひとばしら)=生贄(いけにえ)を差し出し自然の協力を得る訳です。
神話の時代の日本武尊一行も、セオリー通り人柱を海に捧げました…
と、言うより、奥さんの弟橘姫様が自ら海に飛び込まれて犠牲に成られ海を鎮められました。
そして、日本武尊一行は弟橘姫様の犠牲の上で房総半島への渡航に成功します。
では、何故(なぜ)、弟橘姫様が海に飛び込んだら日本武尊一行は渡航に成功したかですが、それも潮流と古代人の活動時間で説明が付きます。
古代人は電気が無いし、夜間行動は狼(おおかみ)や野犬等の猛獣に暗闇の中で襲われる危険が有るので、当然、朝早くから行動し、夕方日没には安全な拠点にて休息する訳です。
弟橘姫様の人柱の神事を早朝、冬なので夜明けの6時過ぎ~7時位から始めたとして、例えば儀式が一しきり終わるまで数時間かかって昼前か正午位に成るとします。
すると…
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冬の正午頃の東京湾の潮流は落ち着き、走水~日本武尊が上陸したとされる富津(ふっつ)半島の最短ルートは正に時計と反対回りの潮流で“水が走る”様に潮流が船団を自然に辿(たど)りつけるんですね。
ちなみに富津(ふっつ)は古来“布津”とかいて“布津(ふっつ)”と呼ばれていましたが、いつの時代からか字を変えられてしまいました。
その地名の由来は、入水した弟橘姫の衣(ころも=服)=布が流れ着いたのを発見された場所だから、布津と成ったとされています。
この布津と、神剣“布津の御霊”も何か関係が有りそうですね。
ついでに…
富津の北の❝君津❞は日本武尊が人柱に成った弟橘姫を思い悲しみ「君はもう帰らないんだね」と嘆いた場所。
更に北の❝袖ケ浦❞は❝弟橘姫の着用していた小袖(こそで=和服の原型)=下着が流れ着いた場所❞なので、その地名が袖ケ浦に成ったそうです。
この伝承も、潮流と整合性が有ります。布類では無い木製の櫛だけが布製品と違う潮流に乗って対岸の橘樹神社の辺りの古代の港に漂着したのでしょうか?
さて、これ等の根拠と走水神社の神話と妙法寺の空海和尚の事績伝承を更に補強する凄まじい神社が神奈川県川崎市高津区に在ります。
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その名も橘樹(たちばな)神社です。
名前の通り、弟橘姫を御祀(まつ)りする神社ですが、この地は古代の橘樹郡の政庁の跡と推測されている上に、神社の本殿の真っすぐ真裏の今は住宅街の山は巨大な円墳の跡なんですね。
その円墳が本来の御神体であり本宮の様な存在で、御神体の正体はなんと、弟橘姫の櫛(くし)だとされています。
入水した弟橘姫の櫛が流れ着いたのが、この高津区の橘樹神社の土地だとされています。
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円墳の頂上部分は現在も保護されています。
古墳時代は西暦100年代後半が現在の考古学で確認できる一番古い時期ですが、その時期の始まりは考古学の発掘が進むにつれて段々はやまっています。
日本武尊は西暦100年頃を生きていたと人物だと神話では動向を確認できます。
神話ですので誤差前後100年は有るかも知れませんが、古墳時代の始まりとほぼ整合性も有ります。
仮に神話が若干誤差が有るとして、近い時代の人物に卑弥呼がいます。卑弥呼には弟がいて政治や軍事を代行していた記録が、中国の史書三国志の魏志倭人伝に残っています。
もしかして日本武尊は、この卑弥呼の弟か弟の子だったりして…
もしそうなら…
倭媛命(やまとひめのみこと)=卑弥呼、景行天皇=卑弥呼の弟じゃないのか?
そう言えば景行天皇の皇后には弟姫皇女(おとひめのひめみこ)って人物がいるけれど、これって…
弟姫皇女(おとひめのひめみこ)=弟橘姫(おとたちばなひめ)なんじゃないの~?
そう言えば魏志倭人伝には、卑弥呼の後で男王が即位したが国が纏(まと)まらなかったと記録が有るけれど、景行天皇の代にも九州で再び反乱が起きたのを皇子の日本武尊が討伐してるよな~?
じゃあ!日本武尊は卑弥呼の甥っ子って事?
そうなると、魏志倭人伝による所では男王では混乱は収束せず再び女王が立王されて国が統一されたと有るから、景行天皇と日本武尊の兄弟の成務天皇の代では収束せず、神功皇后の代(仲哀天皇)の代で混乱が収束したと考えると、卑弥呼の跡を継いだ女王は臺予(よと/いよ)だから、神功皇后は臺予なのかな?
な~んて可能性も考えると浪漫(ロマン)が有りますね~。

話を橘樹神社に戻します。
古代、この高津区は海でした。
高津区の区名、高津は分解すると“高(たか)い場所”にある“津=港”と言う意味に成ります。
つまり、高津の地名を付けた人の時代より古代、この“高い丘は昔は港だった”と言う地理が良く解ります。
では、現在はこんなに内陸の川崎市高津区は本当に海だったのでしょうか?
昔の海岸線
はい!御覧の通り正に橘樹神社の所在地の川崎市高津区は半島でした。
そして、当時の千葉県の袖ケ浦は名前の通り“浦=湾”でした。
現在、この橘樹神社の在る川崎市の手前は横浜市鶴見区です。
鶴見の地名の由来は鶴見川と言う市境の川の名前に由来します。この川は別に昔、鶴が見れたから鶴見な訳ではありません。鶴見(つるみ)と言うのは、古代語に翻訳しますと❝ツル=渦を巻くほど速い❞+❝み=うみ=海❞と成り、流れの早い海と言う意味に成ります。
この鶴見川河口は古代は潮流が速い川の流れとぶつかり渦を巻くような交通の難所だった事が地名から推測出来ます。更にその奥には多摩川が有り、陸路で鷲宮神社の所在地である下総国鷲宮=埼玉県鷲宮へ渡るには大きく北上して鶴見川や多摩川の上流辺りのとか可能な場所まで遠回りする必要が有り、稲作が普及していなかった当時、携行できる食料に米は無く食糧事情で陸路東を目指すのは困難だったので、走水から1日で目的地の房総へ渡る事の出来る海路をとった訳ですね。
つまり、纏めるとこうなります。
日本武尊神話
1鷲宮方面を目指し走水で最初午前中に出港した日本武尊一行は
2一度渡航に失敗し東京湾を左回りで北に流され漂流し上陸し杉田の妙法寺辺り通って走水に戻り
3走水で弟橘姫が東京湾に入水し人柱の儀式を済ませた昼に日本武尊の軍勢は再度出港
4富津(布津)で上陸した後、君津~袖ケ浦と東京湾沿いに北上し、上陸後、今度は利根川と霞ケ浦に行く手を阻まれ、利根川の渡河地点を探しながら川沿いに鷲宮に辿りついた…
…と、推測が出来ます。鷲宮に出雲の御神孫の一族の集落が在ったので、その地に滞在し社殿=宮殿=仮御所を造営したのが鷲宮神社の始まりだとすれば、こららの事が全て鷲宮神社の神話の証明にも成るかも知れませんね。

では鷲宮神社の歴史から、話題を鷲宮神社の施設其の物に移しましょう。
由緒ある神社なので明治天皇も行幸されているようです。
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歴史家で政治家の徳富蘇峰が揮毫した石碑に明治天皇の行幸を賜った事が記されていました。
偶然ですが、小生の祖先と徳富蘇峰は同郷です。
そして鷲宮神社の江戸時代までの宮司家の大内家と同じく小生の一族も国造の官職を務めた一族の子孫です。御縁ですね。
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参道を進むと立派な狛犬が出迎えてくれました。
因みに左手は駐車場で、その間には催事の掲示板もあります。
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マラソンとか興味無いし。
問題はその近くには…
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デデン!…と、登場するこの石碑が、鷲宮神社が聖地である証拠の御題目ですね。
その名も鷲宮遺跡。
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この池が古代からの祭祀遺跡なのでしょうか?
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池の名前は❝光天之池❞と呼ぶ様です。
名前からは何の神事が行われていたかは想像がつきませんが…
例えば池で行われる神事と言うと、京都の下賀茂神社の御手洗池は古代、参拝前に禊(みそぎ)を行う場所でした。
横浜の師岡熊野神社の❝い池❞は雨乞い神事が行われる池でした。
…この光天之池はと言うと?
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名前は最近名付けられた様です。
しかし、この看板を見る限り龍神信仰と関係が有るので間違いなく池の神様は水神様、つまり雨乞いや治水等の目的の神事が行われていた可能性が有りますね。
これは大山阿夫利神社の御祭神、高Okami 10.5pt.png(たかお)神と言う古事記に登場しない神様と同じ龍神で水神信仰の対象だったと思われます。鷲宮神社も大山阿夫利神社も出雲系の一族が開拓した土地の神社ですからね。
この高Okami 10.5pt.png(たかお)神は、恐らく東京都多摩地区の観光名所の高尾山の地名の由来でもあるはずです。
高尾山は天狗神話の有る聖地ですが、大山阿夫利神社にも天狗の伝承が有るので類似点が多いので、間違いないと思います。
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池の直ぐ裏には摂社には、さいたま市岩槻区、旧岩槻市の総鎮守であった久伊豆(ひさいず)神社が鎮座しています。
久伊豆神社の御祭神も又、農耕の神様で出雲の神様の大国主命です。つまり、さいたま市一帯を開拓したのも出雲族と言う事が推測出来ます。
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絵馬奉納する処の後ろで立派な樹が参拝客を見守ってくれています。
境内の本殿の手前には八坂神社が在りました。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊です。もう、出雲代表みたいな神様ですね。
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こちらは確か八坂神社の御神輿が保管されている御社だったかな?
しかし、この鷲宮神社自体の御神輿は更に立派で、保管庫の御社も立派でした。
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小さい一軒家くらい。
ガラス張りなので、保管されている御神輿も展示物の様に見る事が出来ます。
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立派ですね~♪
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御神輿の謂(いわ)れ。
社務所横には立派な神楽殿が在りました。
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その神楽殿の隣には、江戸時代に農民や力士が力比べした❝力石❞が保存されていました。
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いや~これ、かなりデカイんですよ。
この様な力石は、古い神社には良く有るんですが、現代一般人ではかなり力持ちに入る小生でも持てません。
昔の人はスンゴイ足腰丈夫で筋肉質だったんですよね~。
実際、江戸時代の飛脚の写真とか見ると、プロレスラーみたいな体系の人ばっかりなんですよね。
武士なんか江戸時代には軟弱な官僚化しちゃってて腕っぷしの強い江戸の町人や農民には絶対に喧嘩売れなかったって有名な話しです。
その力石の横には姫宮神社と言う摂社が在りました。
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名前からして姫神様を御祀りしてそうなので、この鷲宮が出雲系の神様の御神孫の土地と言う事を考えると、この姫宮神社の御祭神は素戔嗚尊の子の3柱の姫神様である宗像(むなかた)三女神様でしょうか?
もしそうなら、海上交通の神様で水神様ですね。
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御本殿はなかなかの規模です。
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中が拝める。
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正月の中頃に訪れたので、まだ初詣の名残が有りました。
この鷲宮神社は、明治政府樹立時や太平洋戦争終結時に社領を大分接収されてしまっていますが、今でも広大な敷地を誇り、その境内の鎮守の森の中には沢山の摂社が御祀りされていました。
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色んな神様が、なんだか昔話に出て来そうな雰囲気で参拝客を迎えて下さいます。
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こちらは神明鳥居。
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うん!神明鳥居だけあって、やはり神明神社と鹿島神社がある。
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森の中の摂社だけれど、綺麗な造りですね。
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こちらはひっそりと…
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この森の中の参道もなかなか雰囲気が有りました。
ちなみに、江戸時代には1000石の社領を誇ったそうで、旗本ならば大身旗本の規模の経済力を誇っていました。
恐らく戦国時代の北条家の庇護下や鎌倉時代の源頼朝公の庇護下に在っては、更に広大な社領を誇っていたのでしょう。
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この粟島(あわしま)神社と言うのは、淡路島を本宮とした神様なのですが、明治時代に成立した国家神道は伊勢神道をベースにして更に神仏習合の千数百年来の日本人の宗教観を否定しているので、国家神道の神話の世界観と、この粟島神社の存在がマッチングしないので明治時代には全国の粟島神社では似た御神威の少彦名(すくなひこな=一寸法師のモデル)を御祭りする事で存続を図りました。
本来の神様は淡島神(あわしまのかみ)なので、恐らくは淡路島を神格化した神様だったと思います。
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他にも沢山の摂社が鎮座しています。
どうですか?
由緒正しくて立派な神社でしょう?
もし、久喜市や古河や栗橋方面に出掛ける機会が有ったら、是非!御参りされて見ては如何でしょうか?

では!又、次の記事で御会いしましょう!








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三浦半島、横須賀市、その先端の観音崎には東京湾と太平洋の入口を見渡す絶景の灯台が在ります。
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この灯台は一般公開されていて、誰でも中に入って風景を見る事が出来ます。
開館時間は…
05月~9月:9:00~16:30
10月~4月:9:00~16:00
ただし、開館時間が短い上に天候にも左右されますので事前に横須賀市観光協会とかに問い合わせてみると良いと思います。
又は、以下のリンクの横須賀市観光案内のホームページ
を御参考にされると良いかと思います。
周辺の駐車場も掲載されて有りますしね!
ヨコスカ観光
横須賀市観光情報のページ「ここはヨコスカ 」←クリックするとリンクします!
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この展望台自体は、幕末にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの要望を踏まえて国際条約に建設が盛り込まれ、江戸幕府解体後の明治新政府によって建設されました。
…国際条約ってね、国内法より優先するんですよ!知ってましたか?大人は当然知ってて当たり前ですよね?
日本の御隣の国が良く、日本との締結済みの二国間協定をしょっちゅう破りますけれど、あれって国際条約違反でして日本は賠償金請求したり交戦状態に陥っても変じゃない事をされているんですよ~。
まぁ、今回は綺麗な風景と近代要塞史跡と自然の紹介なので、その話は置いておきましょう♪

少し前に、この記事の「前編」で周辺の綺麗な海岸や神社とレストランを紹介したので、その記事も読んで貰うと観音崎の魅力がより伝わると思います。
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※リゾート地としての観音崎を紹介した記事はココ」←クリック!

さて、この観音崎の展望台に行くには、電車&バス か 車の二種類な訳ですが、もし車が有るなら駐車場は5ヵ所有りますので、交通手段と駐車場の場所をまず紹介します。
※駐車場は添付する画像を参考にして下さい!
観音崎周辺交通情報
【電車&バス】
●京浜急行線 浦賀行き  
 浦賀駅  下車→京急バス(浦  3観音崎行)乗車→観音崎バス停 下車→徒歩9分
●JR横須賀線横須賀行き
 横須賀駅下車→京急バス(須24観音崎行)乗車→観音崎バス停 下車→徒歩9分
※多々良浜に行く場合は腰越バス停を利用すると便利!
上記のような感じで交通の便は余り良い場所ではありませんが、その変わり真っ白な砂浜と緑豊かな森の展望台が有り、リゾート地として一昔前まで栄えた美しい場所です。
京急観音崎ホテルも有るので結婚式を挙げるカップルも多いです。
小生は多々良浜の真っ白い砂浜が好きなので、そちら側から灯台まで登る道を紹介して行きたいと思います。
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多々良浜の海岸の前にも県営の駐車場が在るので、車の方はそちらに停めると真っ白な多々良浜で遊んでから灯台に登ったり出来ます。また、観音崎自然博物館やレストラン"マテリア"もそちらが便利です。
反対側の観音崎駐車場側も、近くに観音崎京急ホテルがあり、そちらのレストランも有名です。
前回の記事でも紹介しましたが、小生は観音崎の隣の走水の「かねよ食堂」に好んで行ったりするので、観音崎で食事をした事はありませんが今度、機会を作って食べに行ってみたいと思います。
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この多々良浜の正面には多々良浜緑地公園があり、そこには古墳群も在るのですが現在は古墳は非公開に成っています。
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こちら側から遊歩道を散策すると、花咲く花壇の傍らに地名の由来に成った郷土史の解説がいくつかされた看板が点在しています。
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三浦一族が住み、かつ、地名と多々良氏の苗字の由来に成っている事からも恐らくは平安時代に、この一帯は漁村だけでなく蹈鞴(たたら)製鉄の場として機能していた刀剣や武具の生産拠点だったのかも知れませんね。
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この看板に書かれた領主:多々良義春と言う武将は、鎌倉幕府初代侍所別当を務めた和田義盛公の叔父に当たる方で、苗字は多々良ですが本名は三浦義春です。
昔の武士は、自分が直接支配する為に赴任した土地の名を自らの苗字にしました。
和田義盛公の場合、御父君は杉本義宗と言う武将です。祖父は三浦義明と言う源頼朝公に仕えた名将です。
なぜ孫が「和田」で子が「杉本」で三浦家の一族かと言うのは、正に彼らが治めた場所の城の所在地の地名を名乗ったからですね。
和田義盛公は今の三浦市初声町和田に最初の居館を構えていたから苗字を和田と名乗っています。
杉本義宗公は今の鎌倉市の浄明寺地区、杉本寺の在る山に築かれていた「杉本城」を根拠地にしていたから苗字を杉本にしました。
多々良義春公も、この多々良浜周辺を治めていたので多々良を名乗ったのでしょう。
御三方の族長である三浦義明公の一族は、この三浦半島、旧三浦郡を治めていた「平(たいら)」氏の武将なので三浦を苗字にしました。
三浦義明公のフルネームを書くと、現代人の感覚ではかなり長く感じます…
平(たいらの)朝臣(あそん)三浦大介(みうらのおおすけ=官職名=三浦郡知事)義明…となります。
つまり、現代人の感覚ではありえない事ですが支配する土地の、土地を治める為の官職名が苗字で、氏姓はどの家系の出身かを表すものなんですね。
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さて、公園に話を戻します。
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この金網の奥が古墳なんですが、イタズラするクズがいる為か封鎖されています。
この近くに、展望台に登る階段が在りますが可也(かなり)急です。
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階段を登ると三浦家の本拠地衣笠城と同じく尾根の両端を人工的に削り歩ける範囲を狭隘にした箇所が有ったりして、多々良家の詰めの城だったのかな?と推測させる地形だったりします。
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この道の両脇は人工的に鋭角にされた崖でした。
こんな道ばかりではないのですが、多々良浜側から登るとここを通ります。
しばらく行くと明治時代から作られた要塞の跡らしい地形が見え始めてきます。
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切通しですね。
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海抜の説明が有りますが、背後の切通しの断面は、三浦半島が地震で隆起している事が良く解る地層が露出しています。
関東大震災の時は三浦半島は50cm隆起したそうです。
その名残が解る元々の海底が露出した地形は、三浦半島西側の城ケ島で見る事が出来ます。
※城ケ島の風景の記事は「ココ」←クリック!
この切通しを抜けて暫く行くと、戦時中の輸送船に乗船していて米軍海軍の通商破壊で戦死した方々の慰霊碑の有る見晴らしの良い展望台に出ます。
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今上天皇陛下御夫妻が昨年、こちらを御参りに成られて深い感情があり声を震わせながら鎮魂の慰霊で御来訪された事はTVでも報道されていました。
IMG_1545 ここからは東京湾が遠くまで見渡せます。 

IMG_1543 そして天皇皇后両陛下の御詠みに成られた鎮魂の和歌の石碑があります。
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両陛下は先の戦争で武装もしていない罪無き民草が犠牲に成った事を、深く痛んでらっしゃいました。
IMG_1549 漁村が近いので、そんな事を知らない猫ちゃん達が沢山集まっている癒しの場でもあります(笑)。
IMG_1552 でも、この子達は触らせてくれなかった(泣)!
さてさて、ここからが史跡としての紹介です。
灯台の北側には幾つもの砲台の跡や地下壕に繋がる秘密のトンネルの入り口があります。
(もちろん、トンネルの入口は通用トンネル以外は塞がれて入れませんが。)
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典型的な近代のトンネルの造り。
IMG_1554 ここはまだ照明が生きてますけれど、照明の無いトンネルも有ってクソ怖いですよ~♪
で、第三砲台と言う場所の紹介です。

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明治時代に28cm榴弾砲と言う野砲が設置されていた場所ですが、説明書きには「28サンチ」って書いて有るのは誤記ですかね?ミリオタじゃないので、あんまり詳しくなく突っ込めません。
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砲台は塀に囲まれていた構造物でした。
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今では入れませんが、恐らく弾薬庫だった横穴の跡。
IMG_1561 今は梯子(はしご)はかかっていませんが、外の様子を見る為の階段なんかが現存していました。
…ここにいた猫ちゃんは、展望台の猫とちがって人懐っこくモフり放題♡でした。
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「眠いけど、せっかくだから相手してやるニャ~」
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…みたいな?
皆、丸々と太っていて近くの防衛大学の自衛隊の人達が面倒見てるんですかね?
さて、先程は明るいトンネルでしたが…
多々良浜側から行くと絶対に通らないといけない真っ暗なトンネルも有ります。
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…ここね、出口見えてるけれど真ん中くらいまで行くと足元真っ暗で平衡感覚無くなって色々と怖いんですよ。
しかも…
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なんか、鉄格子の秘密の扉とか途中に有るし!
急に扉に「ガシャンがシャン!」ってシガミ付くゾンビとか出てきそうですよね(笑)。
こんな場所の他にも、砲台によっては一部、トンネルが入れる場所も有ります。
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…入る気しなかったけれどね。幽霊とかどうでもいいけれど、それでも入る気しないのさ。
仮に幽霊がいても、明治の軍人さんだから日本を守ってくれた偉人なんで色々取材したいけれど、実際に見たら小便チビルだろうな(笑)。
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そのトンネルの先には、こんな切通しが在り、その更に先に観音崎灯台が在ります。
真っ暗なトンネル通りたく無い人達は、観音崎バス停側から登って来た方が良いと思いますよ~。
砲台は現地の案内地図上に表記されていない物もいくつか有ったので4か所ぐらいだったと思います。
猿島にまで行きたくない人は、ここに来れば明治時代の要塞の構造が解ると思います。
カップルには、観音崎灯台直通の道を御勧めします(笑)。
観音崎灯台直通の道
観音崎駐車場や多々良浜駐車場、どちらから歩いても徒歩8分位かな?

でも、観音崎海水浴場からも、多々良浜海水浴場からも少し離れた場所なんで、二人で手を繋ぎながらトンネル含めて豊かな自然を観察しながらお散歩するのも楽しいかと思いますよ!
様々な植物を見る事が出来る自然公園でもあるので、所々に説明書きも有りました。
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解りやすいですね。
こういうの、ちゃんと読みながら散歩すると本当に面白いですね。 

観音崎、今回の記事は自然公園と合わせて要塞としての側面を紹介しましたが、前回の記事と合わせて周辺が素敵な海岸の、森も豊かなピクニックに最適な場所って少しは伝わったでしょうか? 

近くの走水神社は「日本最強(旦那様が軍神だからね)の縁結びの夫婦の神様」が神話上住んでいた場所のすぐ近くだったりします。
そして、神社自体も社殿の地下には神話の石室が本当に存在していたり、背後の鎮守の山に在る奥宮には古代から日本武尊が信奉した更に古い時代の神様達、天照大神の神明神社や素戔嗚尊や此花咲耶姫命の須賀神社、建御名方神を御祀りする諏訪神社も在ります。
そこは走水神社の元に成った古代の稲荷社の在った聖域だそうで、本殿で日本武尊と弟橘姫様御夫婦神に参拝した後で奥宮を御参りすれば、御利益も深まりそうですね! 


観音崎と合わせて走水神社も観光コースに入れると更に充実した時間が過ごせるかも知れません。
※走水神社の記事は「ココ」←クリック!

では、又、次の記事で御会いしましょう!






 

ブログネタ
旅に出よう! に参加中!
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三浦半島の東京湾側の先端には観音崎と言う観光地が有ります。
そこには江戸時代幕末に諸外国の要求で灯台の建設を求められて以来、東京湾の入口を照らす灯台が明かりを灯(とも)しています。
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…あまり良い写真じゃないですが実際は凄く綺麗です(笑)。
この灯台の在る場所からの眺望はとても綺麗で、昔はこの海岸一帯がリゾート地でした。
海外旅行が一般市民にも珍しくなくなると少々、観光地としてはマイナーに成りましたが、その美しい風景は今も変わりません。
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近くには走水神社と言う日本武尊と弟橘姫の神話の舞台に成った神社が在り、縁結びの神様、そして料理の神様として若い人からも愛されています。
かねよ食堂と言う最高のロケーションのレストランも在ります。
因(ちな)みに川崎市高津区には弟橘姫様の古墳(宅地化されてしまってる)の正面に在る橘樹神社も在り縁結びの神社として江戸時代には有名でした。
※走水神社の記事は「ココ」←クリック!
※橘樹神社の記事は「
ココ」←クリック!
※かねよ食堂の記事は「
ココ」←クリック!
観音崎周辺
GoogleEarthnの衛星写真で観音崎を見ましょう。
灯台や走水神社が、そう遠くはないのが解るかと思います。もちろん、バス移動に成る距離ですが。
周辺には2~3館の美術館や海に面したレストラン、京急観音崎ホテル等もあり神奈川県民と東京都民のマイナー(失礼)なリゾート地として有名です。
確か、京急観音崎ホテルのレストランは地魚を使っていて美味しい事で有名です。
小生の弟夫妻はこの風光明媚な京急観音崎ホテルさんで結婚式を挙げさせて頂きました。
京急観音埼ホテルの公式サイト ←クリックでリンクします!

美術館やレストランの他に多数の釣り船屋さんと、海水浴場もいくつか在ります。
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走水海岸の海水浴場とか…
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…灯台周辺の海水浴場とか。
まぁ、本格的な海の家が出るのは走水海岸ですね。

観音崎の太平洋側の浜辺は東京湾でも貝殻が打ち寄せる地形の為か、海外の様に白い砂浜が広がっています。
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綺麗ですよね?もし散歩に行ったら絶対にゴミは捨てないで下さいね!
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貝殻の量から人工では無いと思います。
因みに、大アサリ(ホンビノス貝)の貝殻が多い様でした。
ホンビノス貝は元来、南米に生息する外来種ですが、南米から来る貨物船がバラスト水と一緒に運んで来てしまった物を、排水した際に一緒に放出され東京湾で繁殖したと考えられています。
ホンビノス貝の貝殻は大きいのですが脆(もろ)い為に、すぐ砕けるので観音崎に白い砂浜が出来る原因に成っているのかも知れませんね…
ところでコイツ、凄く美味しくて、築地や横浜の市場ではハマグリの代替品として親しまれ流通に乗っています。
珍しく生態系を壊す前に日本人に捕食され役に立っている外来生物ですね(笑)。
しかも、こんな綺麗な砂浜を作り出して。

良い処でしょう?
海外なんか行かなくても、横浜や東京や鎌倉からすぐ近くには、この三浦半島と言う素敵なリゾート地があり、若い恋人も、子育て中の若夫婦も、長年連れ添った夫婦も、何気な~く電車やバス、ドライブでも来れて散歩して食事して…
ゆ~っくり!とした優しい時間を過ごせるんですよ~。
博物館や美術館も在りますしね~。文化的な時間も過ごせると思います。

三浦半島は東京湾側だけじゃなく、相模湾側の城ケ島や秋谷海岸も素敵なんですよ~!
以前、記事にしたので、是非そちらの風景写真も見てみて下さいな♪
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※秋谷海岸の記事は「ココ」←クリック
※秋谷海岸に在る素敵な地魚料理イタリアンの店‟DON"の記事は「ココ」←クリック!

小生は城ケ島も好きでたまに散歩に行きます。
近所の鮪水揚げ基地の三崎漁港で、鮪料理も食べられますしね!
城ケ島は東と西で全く風景が異なり海水が沖縄の様に綺麗なんです…

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東側は貝殻と海底から隆起した奇岩の海岸で…
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西側は太平洋に突き出した日本とは思えない雄大な岸壁の景色です。
そして隣の三崎漁港の三崎銀座商店街には…
御寿司の名店「紀の代」さんとか鮪料理居酒屋の有名な「黒羽亭」さんが在ります。
※城ケ島の風景と「紀の代」の記事は「ココ」←クリック!
※黒羽亭の記事は「ココ」←クリック!

付け根の鎌倉も素敵な風景を持つ御寺が沢山有って綺麗ですよね!由比ガ浜海水浴場や逗子海水浴場も有りますし。

三浦半島は11月位は果樹園で「ミカン狩り」が出来ますし、年が明けて1月位からは「イチゴ狩り」も出来ます。
天然温泉のホテルも有るので、是非!神奈川県内で時間をユックリ過ごして見て下さい♪
箱根温泉と伊勢原市大山温泉も宜(よろ)しくね~!

【観音崎周辺の浜辺と灯台と要塞】の後編明治時代の要塞観音崎の砲台群の記事は「ココ」←クリック!

では、又、次の記事で御会いしましょう!

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