2016年6月18日
休み恒例の仕事明け、郷土史雑誌の原稿PCで書き書き徹夜…...
恒例の寝ずに朝からお出掛け。
横浜

首都高速

江戸の下町の深川(江東区平野)に移動。
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日蓮宗の妙栄山本立院を訪問。
この御寺は日本人なら高校で勉強する江戸時代の地理学者で樺太探検で有名な「間宮林蔵」公の菩提寺。
間宮家の顕彰活動の一環で御住職様に面会。
ついでと言う訳では無くて、面会の際に御朱印も頂いた。
本立院に寺号が無いのは、この寺院はそもそも近在する大寺院の浄心寺の塔頭だったからで、寺院としては新田(称:清水)秀純公により開基された。
間宮林蔵公の御廟所は御寺から徒歩5分程離れた場所に在る。
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これは、本立院や浄心寺が本来の場所から移転して来たらだ。
元々は永代橋の傍に所在したそうだ。
浄心寺が先に幕府によって現在地に移転され、残った本立院も明治政府によって現在地に移転させられた。
寺域に広くはなかった。だから寺院その物と寺域が離れた飛び地に成っている訳だ。
しかしながら、間宮林蔵先生の御廟所は大正時代に政府によって改めて史跡認定を受けている。
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まだ東京都じゃなくて東京府だった時代だね。
和尚様はとても親切で笑顔の素敵な方でした。色々と親切に御教授下さいました。
因みに、元の寺院の在った永代橋付近の位置関係を再確認。
これを見ると、元々、この本立院の在った永代橋周辺は越中島が近いのが解る。
深川周辺
実は越中島に住んでいた榊原家の殿様は、間宮林蔵先生と遠縁の親戚に当たる。
杉田間宮家から榊原家に嫁いだ姫様の子が榊原越中守その人なのだ。
そして、この地域には間宮林蔵先生の邸宅もこの周辺に在り、林蔵公の師である伊能忠敬先生や佐久間象山先生等、幕末に活躍した人々の御屋敷がこの一帯に在った。
因みに本立院を開基した人物の新田秀純公は、徳川家が自称「新田家の子孫」だったので、徳川家に気を使って新田姓を名乗らず母方の清水姓を名乗ったそうだ…
清水と言えば小田原城を本拠にした戦国大名北条家の重臣の姓だ。
間宮家も同じく北条家臣、これは偶然の一致ではないだろう。この一帯には旧北条家臣団が多く住んでいた様だ。
伊能忠敬先生の弟子の中で際立って優秀だった人物が二人いて、一人が間宮林蔵先生、もう一人は高橋景保先生。高橋家も恐らく旧北条家重臣高橋家の子孫に当たるのだろう。
この地域は凄い…
ここに住んだ偉人は松平定信公、鶴屋南北先生、滝沢馬琴先生、市川団十郎…
幕末は伊能忠敬先生、間宮林蔵先生、佐久間象山先生、伊東甲子太郎等。
もう、江戸時代後期は深川を中心に回っていたと言っても過言じゃない。

その深川の偉人達の足跡を辿(たど)る為に深川江戸資料館に移動、見学。
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ここは下町深川の江戸文化と相撲文化を伝える場所。
何故相撲かと言うと、江戸三大相撲と呼ばれた江戸時代の大相撲の一つが深川地域の富岡八幡宮で開かれていたからだ。
ここの博物館は小規模だが素晴らしい…
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人物解説は歴史入門者にも解り易い展示の仕方。御洒落だ。
何よりも素晴らしいのは…
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施設内に江戸時代の下町深川が再現されていて…
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実際に建物に入って展示物に自由に触れて良い。
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庶民の文化が良く展示されている。
これは立ち食い蕎麦の屋台で、御蕎麦屋サンはこの担げる屋台で夜店を出した。
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庶民の家や商家にも靴を脱げば上がり込んでよい。
縁側から裏庭を見たりも出来る。
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江戸の古地図も展示してあり、解説員の方は江戸時代全般の江戸の民俗や地理、深川の歴史人物の事は結構詳しく質問しても答えて頂けた。つまりボランティア解説員の方々の知識は結構詳しいレベル。
無論、歴史については小生の方が詳しくたまに質問の回答につまってらっしゃったが、解説員の方の方が江戸の町には当然詳しく、例えば上の写真の四角で囲まれたのが吉原(遊郭)で、その四角い囲いが当時は水掘りだった事等を教えて頂けた。
小生、遊郭の場所は知っていたけれど水掘りで囲まれていたとは知らなかった。
小さい博物館だったが、とても有意義な時間を過ごせた。そして結構、拝観者が多い事も意外だった。
因みに、この日は無料の落語講演も有った。

博物館を出たら御腹が空いたので食事をする事にした。
深川と言えば❝名物は深川飯❞なので、店を探したら深川江戸資料館の周辺に3軒も深川飯専門店が有った。
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小生が選んだ店は比較的入り易そうな❝深川釜匠❞と言う店。
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深川セットと言う名前だったと思う…
名物の深川飯と深川丼の両方が出てくるセットを食べた。
アサリで炊いた深川飯とアサリ汁かけた深川飯の丼ぶり深川丼が予想を上回って美味かった!
もっと生臭い香りを想像していたがとんでもない!
香りは釜飯の香ばしさが立ち、そして旨味がスンゴイんだよ!又食べに来たいと思う一品。

歴史で学ぶ寛政の改革を行った「松平定信」公の菩提寺、霊巌寺で御廟所と御本堂を御参り。
霊巌寺は深川江戸資料館のすぐ隣り。DSC_2610
松平定信公の御廟所は中には入れないが門の外から見える様に成っていて誰でも外から御参り出来る。
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定信公に御参り出来て光栄です。
この日は間宮林蔵先生と松平定信公と言う日本の為に偉大な功績を残した御二方に御参り出来て非常に充実出来た。
御参りの後、御朱印を頂いた。ただ、御朱印は御住職のいらっしゃる日にしか頂けないらしい。
ここは他にも江戸六地蔵と言われた地蔵菩薩も有り巡礼者も多い。
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銅製で珍しい。

深川の富岡八幡宮へ移動。
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ここが江戸三大相撲の一つだった史跡は残っていない。
同じく江戸三大相撲の一つだったのだが、小生が蒔田吉良家の顕彰活動で御世話に成っている世田谷八幡宮。
世田谷八幡宮には江戸時代からの土俵が現存していて、現在も奉納相撲が行われる。
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…日本人の中では身長体格ともに大柄な小生、しかし、この横綱の方が手も遥かに大きい。
この様に、史跡としての土俵等は残っていないが、歴代横綱に関する身長やなんかの記録が石碑に刻まれている。
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深川の富岡八幡宮、前に横浜市金沢区の富岡八幡宮の解説で書いたが、元々は横浜の金沢区富岡に鎌倉時代、源頼朝公が神戸の西宮から蛭子様を勧進した神社が本社だ。
横浜の富岡八幡宮は応長の大津波が発生した際に、神社の背後の村が無事だった事から波除八幡の名で有名に成った。江戸時代の深川は高潮が大敵だったので、江戸の庶民がこの逸話から、横浜より富岡八幡宮の御分霊を頂いて深川に勧進されたのが始まりだ。
もっとも東京の人は、この立派な深川の富岡八幡宮の由来を知る人はいないだろう。
この富岡八幡宮の境内社に七渡弁財天がある。
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ここは深川富岡八幡宮より以前から既に存在した神社。
その由来は社紋を見たら容易に推測出来た。
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北条三鱗に浪切紋。
これは鎌倉の銭洗い弁財天、横浜の元町にある元町弁財天と同じ社紋だ。
この社紋を使える場所は、鎌倉幕府の北条家と直接所縁の有った場所、更に言えば源頼朝公をリスペクトしていた北条時頼公の関与した可能性が高い。
銭洗い弁財天、元町弁財天は共に源頼朝公が御社を造営した神社で、後に北条時頼公が崇敬した場所だ。
恐らく、この深川の富岡八幡宮も同様の歴史が有るか、若(も)しくは、銭洗い弁財天か元町弁財天から御分霊を勧進した神社なのだろう。
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七渡辨財天の横には稲荷大明神様…
どこに行ってもいつもいらっしゃる御稲荷様(笑)。御城に行っても絶対に御参りの機会が有る(笑)。
ちゃんと今回も御参りし御挨拶して来た。
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なんか松尾芭蕉の神社も在るらしいのだが、残念ながら場所が解らなかった。

夕方は17:30から歯医者、それに合わせて横浜に戻った。
歯医者通院の理由は10年程前、梅干しの種の中身を食べたくて殻を噛み砕いた際に自分の歯の根っこが割れてしまい、歯の根に金属入れて差し歯にしてあった。
でも結局、ヒビが細菌感染して歯根周辺の骨が溶けだしたので今日抜歯した。
その際、自分の血液から骨に成る成分を作る治療を施して貰ったが保険適応外の最新治療なので治療費6万円近く。
まぁ、将来インプラントにする為の土台の骨再建だから良いね。
抜いた歯を見たら、やっぱり根っこ全部虫歯に感染してた。
抜歯した歯も10年間延命してくれて良く頑張ってくれた、ありがとうね。

歯医者がメインイベントに成りかけた一日だけれど、帰りに行きつけの肉屋さんで焼き鳥買って来て満足、でも麻酔が効いてて直ぐに食べれなかったし、片側の歯でしか噛めなかったので食べ難かった。

これで、しばらく固形物食べれない事に気が付いた。仕方ないね。

まぁ、回った件数は少ないけれど、すごく親切な和尚さんと沢山御話出来て充実した1日でした。