歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:足利持氏

前回の記事⤵

コレ⤴の続き・・・

前回の瀬戸神社の歴史解説と、前々回の瀬戸神社の御分祀された手子神社と小泉弁才天の歴史解説の記事で瀬戸神社や金沢の地が、源頼朝公と北条政子御夫妻はじめ鎌倉幕府執権北条家、鎌倉幕府を打倒して樹立された室町幕府の鎌倉公方足利持氏公、戦国時代の太田道灌公や北条早雲公や北条氏綱公、安土桃山時代から江戸時代の転換期に徳川家康公が関わり各時代の歴史偉人達から大切にされて来た事は御理解頂けたかと思います・・・
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・・・今回は歴史解説は少なめにして、いよいよ横浜市による金沢六浦の海の埋立や鎮守の杜の山の掘削された景観破壊後の現代の瀬戸神社と琵琶島弁才天の風景を御紹介したいと思います。
さて、現代では周囲の海が埋め立てられてしまった瀬戸神社の周りはとても美しい2つの湾の入口に在る半島と半島を橋で結んだランドマークであり歴史偉人も遊覧した観光地でした。
昔の海を再現した模型と地図でしか現代人の我々は当時の様子を知る事が出来ませんが・・・
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
金沢地形図 久良岐のよし
・・・実は、この島と半島が入り組み東京湾~六浦湾~瀬戸の3つの湾の金沢の海の大半が埋め立てられたのは極々最近の話しで、他都市からの移住者が役人として就職していて横浜=赤レンガと中華街程度の認識しかない無文化で日本の歴史文化に興味が無い横浜市役所役人達によって開発許可が出され昭和期に消し去られてしまいました。
正直、現代では過疎化の進む横浜市栄区や緑区等で貴重な自然とは無縁の真っ平らな開発し易い田園地域を宅地開発させれば良かったのに、現代でも横浜市は栄区の中でも横浜市最大最後の蛍の生息地の瀬上沢でさえ林文子市長が東急不ループの自然破壊宅地化容認の発言が飛び出していたりします。
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以前、瀬上沢を紹介した記事リンク⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
だから景観破壊される前に日本屈指の観光地だった金沢の八景が瀬戸神社の周辺一帯だったので、近代にも千代本楼や金沢園と言う料亭が直ぐ御近所に存在し、現在も名前を変えたり規模を縮小しながらも存続し昔の景勝地だった頃の名残を残しています。
下の写真が琵琶島弁才天から見た料亭、千代本楼。江戸時代の観光案内図にも載っている老舗。
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千代本楼
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カフェ金澤園この金沢園については一度閉店後にリニューアルして喜多屋と言う名前でオープンした際に取材をさせて頂きました。

コロナで喜多屋閉店後に金沢園として再復活していますが、日本建築の館内の紹介に成るかと思います。
金沢園の名に戻りカフェとして営業してるので料亭時代よりリーズナブルで御茶しに行きやすくなりましたし、海の公園や八景島界隈は埋立地で大人が落ち着ける店が余り有りませんが金沢園に来れば良い時間を過ごせるかと思います。
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さて、元は湾の入口の半島の山に囲まれた瀬戸神社は眼前の弁才天様を祀る琵琶島まで境内地にしていたのですが、日本古来の神社文化や自然信仰を軽視する役人によって瀬戸神社本殿参道と真直ぐ繋がっていた琵琶島弁才天の間には国道16号線開通の為に境内が接収され分断されてしまいました。
・・・本当に罰当たりですね。
昔の地形と現代の国道16号を見比べると良く解りますが・・・
瀬戸神社周辺の元の地形 久良岐のよし
瀬戸神社周辺の現代の地形 久良岐のよし
瀬戸神社の鎮守の山と洲崎の半島の近接する景勝地、その山を掘削しなくても国道16号線は別名❝横須賀街道❞ですので、どうせ横須賀方面に抜ける道ならば平潟~乙舳(おっとも)方面を経由させ室ノ木へ抜ける道を国道16号線を引けば良かったのは一目瞭然です。
もしかすると神仏習合の弁天様を日本の神様である大山祇大神(おおやまづみおおかみ)=三島大明神を祀る瀬戸神社と分断する意図が最初から有ったのかも知れないと、近代の宗教改革の歴史を考慮すると勘繰ってしまいますね。
そんな訳で、国道16号の開通も横浜市の海の埋め立てと同じ程に日本の宗教文化を愚弄し自然景観を破壊する失政だった訳です。もし国道16号が小生の案と同じ様に引かれていたら、瀬戸神社は源頼朝公北条政子様御夫妻や江戸時代までの日本の神社界の最高指導者だった卜部朝臣(うらべのあそん)吉田家の吉田兼敬公が愛した当時のままの美しい風景を平成に成っても見られた筈なんですね。

では、先ずは分断されてしまった琵琶島神社こと琵琶島弁才天の方から風景を見て見ましょう。
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琵琶島弁才天様の参道は現代では埋め立てられていますが、昔、ここが二つの島で荒尾城主の荒井家によって二重橋が掛けられていた歴史は前回の記事で解説しました。
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説明の看板にも当時の様子を知る事が出来る絵図が有りますが、図の真ん中左端に瀬戸神社と琵琶島弁才天が描かれていますね。江戸時代の絵図では既に二重橋では無くて一つの太鼓橋に参道を改造した様です。
良く見ると千代本楼も描かれていますね。
琵琶島弁才天様の入口手前、右側には福石が存在します。
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本来はこの福石は❝服石❞と書きました。
源頼朝公が弁天様に御参りする際に、福石に❝服を脱いでひっかけ❞当時は海だった福石の右側で禊(みそぎ=身体を洗い清める事)をしてから参詣した事に由来しています。
そして、この服石と元は書いた❝金沢十石❞の一つにも数えられた頼朝公由来の奇岩の傍で拾い物をすると必ず幸福な事が起こった御利益から❝服石→福石❞と書き方が変化したそうです。
そんな頼朝公が服を掛けた福石の右に存在した海は御覧の写真の通りに歴史も神道文化も軽視した役人によって埋立許可が出されてしまい無残に禊を行う聖なる海が消え去りビルに成ってしまいました。
弁天様の居らっしゃる琵琶島に向かい参道へ歩みを進めてみましょう・・・
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・・・松の木のみが景勝地だったらしい名残を感じさせます。
もう少し先に簡素化されてしまった橋が在ります。
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少しだけ昔の雰囲気を感じられるかな~?
先に在る弁天様この橋に対してソッポを向いた様に社殿が設置されていますよね?歴史や観光や御朱印集めが好きで神社仏閣を多く参拝する人は予備知識が無くても誰でも何となく知っているん事ですが、神社の御社や御寺の仏閣は大体が南向きか東向きの御日様の方向を向いて建てられているもんなんです。
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だから京都の有名な八坂神社=祇園社も祇園四条通りから延びる参道の先、西楼門=随神門(ずいしんもん)は西を向いて建てられていますが境内に入ると本殿は南を向いて建っているので、この琵琶島弁才天と同じく参道に対してソッポ向いた配置に成っています。
八坂神社周辺 久良岐のよし
ね?衛星写真を見ると解り易い。ちなみに明治の神仏分離令で素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社に名前を改めされましたが、元は素戔嗚尊と同一視されたヒンドゥー教由来の牛頭天王を祀る神仏混交の仏教施設だったので江戸時代の終わりの昔迄は祇園社と呼ばれていました。
そんな訳で琵琶島弁才天を御参りすると日本の宗教施設が南や東を向いている事にも気が付ける訳です。
・・・あれ?結局歴史解説結構やってしまってる(笑)。
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社殿はとても小規模ですが、まぁ、頼朝公の時代もそんなに大きな社殿では無かったと思います。
頼朝公が復興した鎌倉の立身出世の御利益で有名な佐助稲荷神社や・・・
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佐助稲荷神社
現在の横浜市役所新庁舎にも頼朝公が建てた弁天様が有りましたが、やはり水神社同様に接収され現在は横浜市中区関内の羽衣町厳島神社と元町厳島神社に分祀され消滅しました。

神社の宮司様達の中には余り文化歴史に造詣が深く無い人もいて自分の神社が昔っから立派な社殿が在ったと誤認している人もいますが、そもそも日本古来の宗教は自然信仰で、そこに中国文化の影響を受けて御神像や御神鏡を祀る偶像崇拝が合わさり石祠(いしほこら)や社殿も建てられる様に成った訳ですから、金澤(かねさわ)の琵琶島弁才天様や横浜の元町厳島神社や羽衣町厳島神社の様に滋賀県琵琶湖の竹生島弁才天様の御分霊を頼朝公の時代に勧進した場所は概(おおむ)ね小規模な場所だったでしょうね。
昔の人は社殿の立派さよりも、自然信仰時代の影響も色濃く残し、特に修験道を大切にして神道仏教にアプローチした源頼朝公は神社の建物よりも神様その物を大切にされた訳です。
小生のブログを読んで下さってる方は記事で話題にしているので既知だとは思いますが、頼朝公は自然信仰で神仏共に大切にした希有な修験者でもあったので伊勢原市の大山阿夫利神社石山権現(大山山頂の神の依り代たる奇岩)を参拝に登山したり、富士山すらろくな登山装備の無い当時に踏破し富士山火口を一周回る荒行を成功させたアルピニストだったりするんですね。
瀬戸神社の神様は三島大社の大山祇大神です。
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三島大社
大山祇大神は神奈川県の延喜式内社で関東総鎮護とされた伊勢原市大山の神様でもあり、海を守る神様としても有名なので築地市場関係者も団体で昔から参拝に来る事で知られています。自然信仰で海の神様である大山祇大神と弁才天様、修験道にも仏教にも神事にも造詣が深く自然信仰を大切にされた源頼朝公。
・・・そんな頼朝公だったから海難事故防止や海の神様として有名な大山祇大神=三島大明神と竹生島の弁天様を六浦湾と金沢湾の2つの入江の接続点に勧進され、漁師や海運を生業とする人達の生活を守護して頂こうと考えた事が良く解りますね。
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今では狭くなり釜利谷側の泥亀新田や昭和の六浦埋め立てで大部分が消滅した金沢湾ですが、琵琶島弁才天に御参りすれば頼朝公と政子様が愛した湾の景色の一部が眼前に残っているので少しだけ往時に思いを馳せる事が出来ます。
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さて、琵琶島弁才天様から国道16号で分断された反対側の瀬戸神社に移動しましょう。
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社殿は遠目にも綺麗ですね!まぁ、裏山の鎮守の杜も一部だけ残っているので昔の風景を想像する事も出来ます。
鳥居の両脇にはとても立派な石灯籠が存在します。CIMG5077
大きいだけじゃなくて彫刻も良く出来ています。
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そこを通り過ぎると正面に社殿。右側に手水社(ちょうずしゃ)が在ります。
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更にその右側には市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在ります。
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立派ですね~。他にも沢山、立派な大樹が有りました。
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犬槇(イヌマキ)と言う木だそうです。これも立派。
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社殿の拝殿へは入る事は出来ません。普通に社殿の前までは参拝出来ます。
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現在では瀬戸神社と書かれた扁額が掲(かか)げられています。揮毫(きごう=代筆)したのは内閣総理大臣在職中の小泉純一郎元総理ですね。小泉家の発祥は正に金沢で後に横須賀に移る訳ですが、小泉純一郎元総理は祖父の小泉又次郎氏が六浦大道の出身でした。そして小泉元首相のお母さんが祖父又次郎さんの娘で、そこに父親の純也氏が婿養子入りしたんですね。その頃には横須賀市に既に移住していました。
・・・多分、現在の瀬戸神社の扁額を揮毫したのは小泉家と金沢家にそんな地縁が有ったからかも知れません。まぁ、書くなら古来の風習に則(のっと)って❝三島大明神❞と書いて欲しかったなぁ~。
本殿の裏には沢山の社殿が在ります。
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これは祖霊社、氏子サン達の御先祖様を神様として祀っています。
そして背後の山を御覧頂けると解るのですが・・・
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・・・山の斜面を人工的に❝法切(のりき)り❞された垂直の❝切岸(きりぎし)❞に成っているのが判るでしょうか?
この様に山を削った直角な谷間に鎌倉文化では神社仏閣を建設します。これを❝谷戸構(やとがま)え❞と呼び、城壁の様に垂直に加工した山で施設を取り巻く事で防犯と火災類焼防止の効果が発揮される訳ですね。
そしてもう一つの鎌倉文化に良く見られる特徴が瀬戸神社にも有ります。
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矢倉(やぐら=人工横穴)です。
元は横穴式石室に仏教文化がが合わさった鎌倉武士独特の墓所でしたが、仏様を埋葬するのと同じく矢倉に神様の祠を治めて崇拝する習慣が鎌倉文化には有ったりします。
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ここは御狐様がいらっしゃるので御稲荷様ですね。御稲荷様は良く全国各地の城址にも祀られ、歴史好きを見守ってくれる神様だったりもします。
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これは瀬戸神社の主祭神の大山祇大神の御息女=姫神様の石長姫(いわながひめ)様と此花咲耶姫(このはなさくやひめ)様の姉妹神様を祀る御社(おやしろ)でした。
石長姫は不老長寿、ある意味美の女神なのにブスな可哀相な役割の女神様。きっとクソ美人以外の普通に可愛い位の女性には美容と長寿の女神として御利益の御加護を下さるかも知れませんね。
妹の此花咲耶姫命様は天皇家の御先祖様の邇邇芸命(ニニギノミコト)の奥さんに成って天皇家を発展させた祖先神ですので縁結びと家内安全の御利益を与えて下さるかも知れません。
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更に塞がれた矢倉も有りました。きっと何か神様が祀られていたのに戦後の法律で封鎖させられたんでしょう。こんな物防空壕では無いと否定して撤去してしまえば良い。
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服装の様子からして菅原道真公=天満大自在天神=天神様かな?
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あと小さな祠が3ヶ所並んでいました。
その背後・・・
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どうも此処(ここ)は背後の鎮守の山への登り口だったみたいですが、山を国道建設で掘削されてからは登る人もいなくなってしまった様で草ぼうぼうでした。
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階段地形が今も残っています。もしかしたら征夷大将軍源頼朝公や室町幕府鎌倉公方足利持氏公はここを登って金沢八景の景勝を遊覧したかも知れませんね。

さて、これで金澤瀬戸の三嶌大明神=瀬戸神社と琵琶島弁才天=琵琶島神社の施設の解説の記事は尾張です。
皆さん、如何でしたか?実はつい最近まで鎌倉時代のままの風景が残っていた事、今もその足跡が辿れて歴史偉人の歩いた場所を皆さんも歩ける事が伝わったでしょうか?
瀬戸神社は金沢八景駅の目の前に在ります。野島公園の伊藤博文公金沢別邸に抹茶を飲みに行ったり、神奈川県立金沢文庫(博物館)に見学に行ったり八景島シーパラダイスに遊びに行くのと合わせて参拝に行かれて見ては如何(いかが)でしょうか?
江戸時代までの日本の神道のボスや、各時代の将軍様達と同じ空間で御参りすれば、昔の人達が大切にした意味を身体で感じられるかも知れません、瀬戸神社がタイムマシーンの様な役割に成って。

きっと皆さんの御近所の城址の山や神社仏閣も、凄い歴史偉人と関係が有る場所が今もあるはずです。
・・・家を飛び出して少し気分転換に御散歩してみませんか?

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪・・・次は何を書こうかな~?
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2週間ブログ更新してないんだけど・・・
今回は近況報告です。
別の記事で鎌倉殿の13人の番組終りのNHKアナウンサーの解説で触れられていた源義朝公の屋敷の事で文献しか読まない人が大間違いしてるのでソレを解説する内容をUPしたいと思ってます。

なんせ4月の更新ペースも遅かったのですが、何も歴史関連の事してなかった訳じゃなくて色々と❝文献に記載の無い事❞の調査に行ったり、富士山の写真撮影するのに苦戦してムキぃ~!って成りながら尊敬する人の敵討ちで人を殺しまくってました、意味不明かなwww?。
富士山の撮影は4月は逗子市の披露山に通ってました。
過去撮影した物より、より良い富士山の写真を撮影したくて何度もチャレンジしてるんですが桜の季節に入ると関東人にとっては嬉しくない現象が起きるんですよね・・・
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富士山が見え難(にく)い春霞(はるがすみ)の季節に突入するんですね。
納得行く写真が全然取れないんですよ。
富士山のシルエットしか見えない上に、それすら見えない日が増えて来ます。更に静岡県と山梨県側の天候で神奈川が晴れていても向うが曇ってると根本的に富士山は隠れて見えないんですよねぇ~。
小生のインスタのフォロワーさん達は写真家の人達ばっかりで皆さん超絶写真が凄くて、ソレと比較すると自分の写真が惨めに見えるくらい下手なんですよね。
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ダイヤモンド富士を撮影に行っても全然っ富士山見えねぇ~よ(怒~悲)!
夕陽でコレですからね、もうガックシです。
前日が荒天で海が撹拌されて相模湾の水蒸気が少ない日、早朝4時半頃から家を出て5時前後の日ノ出に合わせて朝のマジックアワーのピンク富士を桜と一緒に撮影したくて4月初頭は早起きして何回も撮影しました。
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もう、1日で日照の有る時間で1番気温低く空気が澄んでるAM:05:00~05:15の時間帯でこの見え方の不鮮明さよ・・・
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上の写真は披露山公園から葉山マリーナを見ている写真です。

——話しを近況報告に戻します——

最近やっていた事は披露山での富士山写真撮影だけでなく、所謂(いわゆる)文献には乗らない明治以降の鎌倉市のとある2つの神社と御神体の移転の話を現地散策しながら昔から住んでそうな知らない人の家のインターホン「ピンポーン♪」したりして(笑)突然、隣の晩御飯みたいに歴史の取材をしたり・・・
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文献には「城」としては出てこない文献コピペ学者が吾妻鏡盲信でミスってる源義朝公の館に付属する詰城の名残の削平地や尾根道を藪漕(やぶこ)ぎして探したり、館の場所の正確な場所を地域の旧家の方を探し出して又「ピンポーン」して情報集めて散策したり。
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古墳時代の武具の展示を見に行ったり。
コレね⤵
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一番左の鏃(やじり)、古墳時代に既に雁股の鏃を使ってるとか凄くないですか?
これ完全に対人兵器で、深く刺さるだけの通常の鏃と違って例えば敵の首とか腕とか足の筋肉を切断して傷口塞がっても永久に障害が残る様にする日本独自の弓矢の発展形式なんですよ。
これから鎌倉殿の13人で登場する機会は既に無くなりましたが弓の名手として有名な那須与一宗高公は、この相手を殺す事よりも如何に後遺症を残し再起不能にするかを考えて凶悪な雁股の矢を愛用していた事が知られています。
スポーツマン的な描写で描かれる武将ですが全然っ!爽やかじゃないですねwww。
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あと尊敬する戦国時代の武将の北条綱成(つなしげ)公の部下だった朝倉政景公の御妻女の御墓参り行って来たりしてました。

ところで冒頭に「敵討ちで殺しまくった」話をしましたがゲームの話です(笑)。
信長の野望覇王伝ですwww。
実はこのゲームを学生時代以来ぶりプレイステーションをひっぱり出して来て最近やってました。

小生は徳川家康公や織田信長公等有名な歴史偉人と同様に歴史に興味が無い人は余り聞いた事がないであろう足利持氏と言う鎌倉市~横浜市域の神社仏閣を大切にした殿様を尊敬しています。
以前、横浜市金沢区の小泉元総理の家の菩提寺の宝樹院と源頼朝公の開いた瀬戸神社の記事でも少し解説した事が有るかと思います。


この方は源頼朝公が開いた神社仏閣を多く保護して参拝したりしていた方でした。
なので横浜市民が現代に例えば源頼朝公と北条政子様御夫妻の開いた瀬戸神社等に御参りできるのも足利持氏公の御蔭だったりする訳です。
関東の将軍である鎌倉公方足利持氏公は籤(くじ)引き将軍で有名な足利義教に因縁つけられて鎌倉の武士団に対する挑発にムキに成ってしまい幕府軍によって攻め殺されてしまいます。
これを永享の乱と現代人は勝手に名付けています。
この足利義教は元は天台座主つまり比叡山延暦寺のTOPだったのですが、足利家の後継者問題で跡継ぎが決まらないまま将軍が死んでしまったので、京都の足利家臣団が籤引きして将軍に選ばれ天台座主の座を捨てて還俗して征夷大将軍に就任した人物でした。
この足利義教は家臣や親族を暗殺しまくった凶人としても有名です。
しかし籤引き将軍に殺害された足利持氏公の御子息の足利成氏公は成人すると親の仇の上杉憲忠を殺害して親の仇を討って、更に幕府軍とも戦い今の江ノ島を扇谷上杉家と山内上杉家の大軍に攻められた際も撃退した当時の関東では最強の戦強さの武将でした。
この足利成氏公も横浜市域の神社仏閣を保護したり新たに寺院を開いた人物で、以前ブログでも紹介した事が有ります。

で、覇王伝引っ張り出して来て持氏公と成氏公の敵討ちをする遊びを最近していましたwww。
足利持氏公の来孫(孫の孫の子)の足利晴氏でプレイして、足利持氏公を殺害した逆徒の上杉家の子孫と京都の将軍足利義輝をブッ殺して征夷大将軍に就任するのが目標(笑)なのですが、そもそも信長の野望覇王伝で足利晴氏公は在野武将として登場して大名ですらないんですね。
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しかも戦闘33とかクッソ弱いwww。
なので足利持氏公の永享の乱の敵討ちを託すべく先ずは古河公方足利晴氏公の大名化を目指すところからゲームスタートしました。

足利家の家紋の「二引両紋(ふたつびきりょうもん)」と同じ家紋の里見家で開始。

二つ両引き


このゲームは昔のゲームなのでシステム上の弱点が有って、最初は兵100で毎月隣国に侵攻しゲーム特性活かした兵糧攻めをします。こちらが兵力100でもコンピュータはAIがガバガバなので最大兵力で出陣して来るので、ゲーム開始直後は相手の兵糧が尽きるまで只管(ひたすら)逃げ回り戦争を終える事を何回か繰り返すと勝手に相手が兵糧切れで負けてくれて領地と家来を奪い取る事が出来るんですね。
まぁ、笑えない話でプレイヤーとして選択した大名家の里見家は実は東京や神奈川に史実でもしょっちゅう海賊化して略奪放火に来ていた連中(笑)なので、ゲームのなかでも実際の里見家の歴史と同じ事をしている訳ですが・・・

以前ブログで紹介した横浜市磯子区杉田に在る熊野神社は明治時代以前は泉蔵院と言う源頼朝公が開いた熊野社を管理する修験道の大寺院でしたが、この杉田地域は戦国時代に里見家に略奪されて大変な目に遭(あ)っていたんですね。
・・・まぁ、史実通り海賊野党軍団と化す里見軍団(笑)プレイして足利晴氏公が在野武将として関東のどっかで登場するのをひたすら待ちました。

最初の標的は北条領、手始めに江戸城から始め~河越城~滝山城と恨みの全く無い(笑)北条氏康公に兵100攻め繰り返し兵糧攻めで開始07ヶ月でブチ殺すwww。
でも、これゲームだから簡単に言ってるんですが当時は江戸城を占領下に置く事すら房総半島から侵略するには大変だったんです。
南関東
上側が房総半島、真ん中が東京湾、下側が三浦半島です。
この地図は明治時代の迅速測図と言う海が埋め立てられる前の地図をGoogleEarthに表示させて更に訪問した事の有る城を表示しているのですが、画面上の真ん中の久留里城が小生がプレイヤーとして選択した里見家(後で足利晴氏に継がせる)の本拠地です。
江戸城は画面やや左下に在るのが解るでしょうか?東京湾の最深部に攻め込む際には周囲の城から当然ながら援軍が来る訳です。
史実では房総半島の里見家が鎌倉の鶴岡八幡宮を焼き払って玉縄城に攻め込んだ際は画面真ん中の笹下城の辺りから上陸して瞬く間に鎌倉まで攻め込んでいます。この事件が有ってから北条家臣間宮家によって笹下城が築城されて、以来、横浜市域~横須賀市域へ里見家の海賊が来る事は安土桃山時代の北条家滅亡直前まで無く成っていました。
実際には日本に存在した城の数は大小合わせて3万に迫る数だったと言われるので、里見家が房総半島を統一する事も出来なかったし、北条家初代の北条早雲公~五代氏直公の約100年でも関東を完全に領国にする事は出来なかった訳です。
源頼朝公
織田信長
源頼朝公や織田信長公が如何に凄かったか城を表示した地図を見ると良く解りますね~。

取り敢えずゲームなのでサクっと北条家を滅ぼして(笑)、結城→武田を滅亡させ人材を奪い取ってイク♂訳ですが・・・

ここで激弱武将の古河公方の足利晴氏公登場!
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でも、この能力評価はシリーズを通して高い方なんですよwww。
この人は史実では8万の軍勢を率いて北条氏康公の支配する河越城を攻めて、当時河越城を兵3000で守備した北条綱成公を半年間も包囲しながら破る事が出来ず、挙句の果てに小田原城から河越城の援軍に来た北条氏康公の8000の軍勢に夜襲を仕掛けられて自分の軍団壊滅させられてんですヨwww。

なので信長の野望覇王伝では足利晴氏公の能力ちょっと過剰評価なんですね。
因みに河越城に援軍で入り指揮を執った北条綱成公については居城の鎌倉市の玉縄城を以前紹介しているので御興味の有る人はリンクをクリックして下さい。

玉縄城散策の栞(しおり)代わりに成るかと思います。
小生が足利晴氏公を査定したらこんな成績だと思います。
信長の野望覇王伝での評価
足利晴氏
覇王伝⇒小生査定
政治62→80  
戦闘33→10
采配58→40
智謀54→10
野望70→99
義理08→01
比較対象として北条氏康公の評価も載せておきます。
北条氏康
政治96→96
戦闘80→80
采配97→92
智謀82→87
野望75→90
義理10→60
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足利晴氏公8万の兵力を掻(か)き集める派閥形成的な政治力は素晴らしいとして・・・
半年間河越城を落とせないとか無能すぎるでしょう。
戦闘では陣地で酒宴開いて統制を乱すとか邪魔(史実)。
采配は指揮官として軍勢をまとめ上げれていなかったから現場に出て来ないで欲しい。
智謀も頭悪いから油断して攻めるべき時に攻めずに敵援軍が来るまで半年間もダラダラして負ける。
野望は自身が古河公方就任の道筋を作ってくれた支援者で恩人の北条氏康公をアッサリ裏切った挙句、実力は無いのに独立心だけ強くて何を勘違いしてるのか自分の権威に皆従うと思ってる社長。
・・・あのねぇ~、こう言う人は現代の政治家にも企業にもいますよね~、誰とは言いませんが与党にも野党にも威張り腐ってるだけで派閥形成の陰謀は得意だけどトラブル発生したらどう対処して良いか解らなくてアワアワして「頑張ってるんです!」って逆ギレする人ね。
つまりヤル気に満ちた馬鹿。
軍隊の人材評価基準で鉄則が有るんですが・・・

①ヤル気の無い馬鹿
前線に送り込め、頭数には成るから死んでも良いし。

②ヤル気の無い頭良い奴
企画担当や作戦参謀にしなさい労力や損害を最小限に抑えて相手に勝つ手段を考えるのが得意だから。

③ヤル気の有る頭良い奴
将軍に任命しなさい、作戦実行するために頭を使うから。

④ヤル気の有る馬鹿
努力とかヤル気とか非合理的かつ精神主義で味方に敗因作り損害与えるから早く殺せ。
現代の会社で言うと部下に対してブラック残業強いて部下を過労死させたるタイプ。又はヤル気を買って仕事を与えると会社に大損害与えるミスする奴ですねwww。
旧軍で言うと陸軍だと牟田口廉也と海軍だと黒島亀人が正にこの④の典型例。

これ前回の鎌倉殿の13人の解説でも冒頭O塚家具の話でヒロユキさんも解説してた動画を紹介しましたよね。
まぁ~、そんな足利晴氏公は史実では北条家に捕虜にされて小田原城に抑留されて、仇敵であるはずの北条氏康公の姫と仲良く♂♀シテ跡継ぎの足利義氏公が誕生している謎の思考回路の持ち主でもありました・・・
人に乗せられやすいスケベで見境ないあの人みたいな感じなのかも知れません。

・・・誰とは言いませんが(笑)、酒池肉林で懐柔されるバカ殿でもあった訳ですね?

とりあえず今回の小生の目的は里見の姫を晴氏公に嫁がせ里見義尭に隠居させ大名足利晴氏爆誕💥
憎き足利義教の来孫の征夷大将軍足利義輝が三好長慶と抗争してる間に幕府の承認得ずに古河公坊家勝手に復興(本当は鎌倉/古河公坊就任には幕府の叙任が必要)♪

本来、鎌倉公方に就任するには先ず鎌倉中心街に入る前日、巨福呂坂切通しの外にある北鎌倉の浄智寺に滞在するのが室町幕府統制下での鎌倉府の伝統でした。

その事は以前、浄智寺の紹介で少し触れているので興味の有る人は読んで見て下さい。
現在は北鎌倉は綺麗な観光地ですが、当時は臨済宗の宗門でも特別な寺院が建長寺、円覚寺、浄智寺、東慶寺と集中して4ヵ寺も集まる特別な場所でした。

鎌倉の防衛上も最終防衛ラインの巨福呂坂(こぶくろざか)切通しが存在した事で特別な地域だった訳ですね。
下の写真は本来の鎌倉時代の巨福呂坂切通しです。
CIMG5621
この道は一度山の上に登り、そこから下る切通しが山腹に穿ってあり円応寺の山門の前を通過して建長寺の総門の前に出る構造でしたが、神奈川県道の開削の際に近代に国の史跡扱いだったにも関わらず鎌倉市教育委員会が保護を怠り切通を分断して国に国史跡範囲申請して円応寺側が私有地化されてしまった為に個人宅の駐車場開削で路盤が削り取られ消滅し通り抜ける事が出来なく成ってしまいました。
CIMG5649
挙句の果てに市街地側からの巨福坂切通古道も市道として登録されて保護されているにも関わらず地元住民によって現状国指定史跡が荷物置き場にされてしまっています。
この荷物置き場から急に左上に上がるの旧道でした。
まぁ、浄智寺に滞在してから鎌倉府の役所に入るのが鎌倉公方就任の慣例だったので、現代では国指定史跡なのに資材を投棄されているこの道を足利持氏公も足利成氏公も通り鶴岡八幡宮を参拝し役所に入り鎌倉公方に就任した訳ですね、こんな事を放置してるからユネスコに世界遺産登録落選させられるんですよ鎌倉市は。
このゴミだらけの国指定史跡、鎌倉市役所に指導して欲しいですね私道じゃなくて市道なだけにwwww。
KIMG1972
で、ゲームに話しを戻すと取り敢えず玉縄城(鎌倉市)には最初拠点置いたけど、幕府はやっぱ江戸ッしょ!ってノリで鎌倉はアッサリ他の武将を配置して委任。
歴史を変える為にも晴氏公には足利家の江戸幕府を開いて頂く事にした。
つまり江戸公方爆誕●~*www!
実際に鎌倉ってクッソ狭くて、あんな場所に安土桃山時代の人口増加で耐えられる訳がない。
鎌倉時代の日本の総人口は800万人で鎌倉市街地の人口は3万人。
安土桃山時代の総人口は1200万人に膨れ上がっていました。
鎌倉城防衛網
つまり普通に鎌倉のコンナ⤴切通しの内側の狭い範囲に3万人×1.25倍=4万人近くも住人が住み更に戦国時代なので兵士も数千単位で駐留させるスペースなんか有る訳無いんですね。
なので足利“Evolution”晴氏公(笑)の判断としては将来は天皇陛下を御迎えして御所を造営し遷都して頂き首都にするには鎌倉何てクッソ狭い場所は論外じゃんね?と南関東弁できっと言ったはず。
そもそも裏切り者の上杉の連中の苗字の山内(やまのうち)とか扇谷(おおぎがやつ)とか犬懸(いぬかけ)とか地名が有る様な場所には御住まいに成りたくない筈。
ここは首都にするなら京都に入府するか海運と河川運搬の便利な品川を持ってる江戸1択っしょ!と言う判断で江戸城を本拠地にしてみる。
そしてココから敵討ちでブッ殺すマン発動。

室町幕府の手先で高祖父チャンの足利持氏公の仇敵の関東管領山内上杉憲実の曾孫の上杉憲政をブチ殺すべく兵を上野国に送り込む。

山内上杉家👎ブっ殺す軍
総大将 北条綱成公
覇王伝では顔グラ一般武将だよ北条綱成公。里見の残りの姫嫁がせ♀️て義弟に成ってた。
戦争始まったばっかなのに「勝ったぞ~!」と言って敵軍に攻撃を仕掛けて相手混乱させる詐欺師。
でもクッソ強くて敵の武田信玄から褒められたり、北条綱成公に苦戦させられた上杉謙信公が綱成公が武田信玄に城を取られて(北条氏政の本隊の到着が遅れたせいで)負けた際に「あいつが負けたの(俺苦戦したのに)?」と悔しがられたエピソードが有る人。

副将  里見義堯公
史実で東京湾沿岸で寺社や農村に略奪放火しまくり恩人親戚殺し捲りヒトデナシで4歳年下義父の里見義尭公。史実で関東管領(関東の官房長官)って自称してた痛い人。
でも地元では善政、国力弱いプーチンみたいな人。
ん?プーチンはコロナワクチン接種率すら皆無に等しい不満噴出で戦争して批判反らしの内政ヘッタ糞だな。

軍師  太田資正公
亡命先の恩人騙して城奪い取る名人、恩知らず究極最悪な間男の鬼畜太田資正公。
人の城盗む切っ掛けは長男に自分の城を盗まれたからwww。
でも自分は長男に城を追い出されても、人の城は何個も奪い取る戦略の頭の良さは流石太田道灌公の御子孫だね。
家族の信頼関係に難が有るのは、この人は実家じゃなくて自分の奥さんに成る人の家で育てられたから歪(いびつ)な家族関係しか構築できなかったのかもね。

このロクデナシ(綱成公を除く)軍団で見事に上杉憲政自害させ曾祖父足利成氏公の山内上杉潰し悲願と高祖父の敵討ち達成ぃ~🙏
↓ 
上杉家配下武将を2人リクルート。
群馬が生んだ知勇兼備の名将長野業正公と剣聖上泉信綱公。
2人を配下にして隣の信州侵略を目指す。
信州北部には足利尊氏公の時代に幕府に楯突いていた南朝の村上源氏の子孫の村上義清公がいる。
コレをブっ殺す事を画策。
リクルートした2人の名将を信濃国善光寺平~佐久平を潰しに攻め込ませる。

南朝潰す軍
大将 長野業正公
在原業平の子孫。在原業平って歌人としても有名な武将で関東だとスカイツリーの下の業平橋の地名由来の人だね。
武田信玄の上野国侵攻を何回も阻止した知勇兼備の名将として有名。
突っ込み所無し。
しいて言えばバカ殿上杉憲政と頭スッカラカン色ボケ公坊足利晴氏と言う無能上司をサポート出来なかった点で良い家臣ではない。

副将 上泉信綱公
長野配下で剣聖と名高い柳生新陰流の柳生宗厳さんの師匠で新陰流の開祖。
主家の長野家が滅亡した後は武将辞めちゃって剣術化に専念して京都に行って将軍に剣術教えたりしてた偏屈な剣士。
今回は京都の将軍の所に行かせず関東の鎌倉もとい江戸公坊の為に頑張ってもらう事に成りましたwww。

この二人に合計4万の大軍持たせて村上義清公を討伐。
討伐された義清公は小生の歴史仲間の御先祖様の同族で小生の祖先の同僚の子孫にも当たるwww。
この合戦で事も有ろうか、曾祖父の足利成氏公に謀反した山内上杉憲実の家来で足利成氏公を江ノ島で攻め殺そうとした逆徒の長尾氏の一族の癖に軍神とか言われて邪魔な上杉謙信公が援軍送って来たが壊滅させ撃退。
下の絵は上杉謙信公の肖像画と信長の野望の新しいシリーズの上杉謙信公のアイコン。
上杉謙信
上杉謙信KOEI
肖像画にゲームの絵少し似せて書いてるんですね。
小生と小生の親友の祖先関連の武将の村上義清公誅殺(ちゅうさつ)し尊氏公の宿敵の南朝潰しに見事成功♪
この合戦で援軍に来た上杉謙信公の春日山城の兵士を全滅させる事にも成功。

援軍が全滅し兵力0の越後国春日山城にそのまま攻め込み越後国奪取🙌
晴氏公の御先祖の足利成氏公に楯突いた越後上杉家の家来だった旧名長尾景虎こと上杉謙信公をも殺害wwww。
越後も併合~♪

そしてついに、足利持氏公が死ぬ直接的な原因を作った今川範忠公の子孫の今川義元公も滅ぼして徳川家臣団も配下に入れた。

今ここ!
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必ずややり遂げる高祖父を殺した足利義教の子孫の足利義輝公排除。
打倒室町幕府👎の敵討ちで足利晴氏公の御先祖の敵の子孫殺しまくりwwwに邁進中~♪
これで冒頭の話回収ですね(笑)。

目指せ足利江戸幕府開府www!

さて、今回フザケたブログ書きましたが、次回は源頼朝公の源義朝公の館跡について鎌倉殿の13人のドラマ後の登場人物所縁(ゆかり)の場所解説みたいなNHKアナウンサーのナレーションで「それちょっと違うな~」と言う部分が有ったので、逗子市の観光地紹介がてら源義朝公の沼濱亭と吾妻鏡の問題点を解説してみたいと思います。

では次の記事で御会いしましょう~♪
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東慶寺と浄智寺の梅花
東国花の寺百ヶ寺の内の二ヶ所。
松岡山 東慶総持禅寺(松ヶ岡御所)
金峰山 浄智寺
【景色】
 東慶寺✿✿
 100本余りの梅の並木の参道
 浄智寺
✿✿✿
 梅は少ないが豊かな自然の景色
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前回の記事⤵

これの続き。

前回は寶樹院高照寺が元は侍従側沿い、昔の海辺に向かう谷の三艘谷戸に存在した事と、高照寺が隣の谷戸に有った廃寺常福寺の歴史と歴代住職の菩提を引き継いでおり、常福寺は元は室町時代の足利幕府鎌倉公方足利持氏公の祈願所で金沢文庫の由来に成った稱名寺の末寺だった事や今の大道一帯を寺領として所有しており関所を設けて関税を徴収して反映していた歴史を紹介しました。

今回はその寶樹院の現代の施設の様子を紹介したいと思います。
現在の寶樹院は高台の上に在ります。
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境内から見た景色はこんな感じで、昔はこの御寺の下の近くまで海が入り込んで来てたんですね~。
ここなら関東大震災が起きて昔の海の部分に津波が遡上して来ても安心ですね。

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高榮山 寶樹院 高照寺実は古代の‟延喜式内社”と呼ばれる西暦900年代の醍醐天皇が政令で‟朝廷で保護しなさい”と定めた神社や弘法大師様が開いた御寺は古代の海から湿地帯に成った場所を避けた丘の上の郡衙(ぐんが:郡庁舎)跡地や縄文弥生古墳時代の集落の跡地から聖地化された場所や、昔は山の尾根道が主要街道だったので山道の入口の飲用水補給基地に成る湧水の沢や滝や池が聖地化されて寺院が建てられる事が多いんです。
寶樹院の近くで弘法大師様が関与した場所だと、南区の弘明寺、鎌倉市の覚園寺、今は浄土宗で元は真言宗だった鎌倉今泉の称名寺なんかが正にそういった背景が有る場所ですね。
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でも高照寺の移転時期は江戸時代なので、もしかしたら三艘谷戸の旧境内が火災で焼失して移転して来たのは、地形的に最初から津波対策を期待されての事だったかも知れませんね。
実際、衛星画像に古代の海岸線の画像を張り付けると寶樹院の手前まで海だった事が解ります。
六浦周辺の古代海岸線 久良岐のよし
青い色の地域が昔の海なので、高照寺は安全圏ですね~。
大道の皆さんは大地震が起きたら高照寺に逃げ込んだら良いと思う。
さてさて、そんな訳で高台に移転している高照寺ですが、地形上参道の階段もちょっと長くしたからでは御堂が見えません。
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この下の階段を上って真っ直ぐな階段の下に行くと、小泉さん家の菩提寺なのが判ります。
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この階段の手すりの前の石柱に注目して見ましょう。
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もろに‟小泉家”って書いて有りますね(笑)。
実は小泉元首相の御爺さんの又次郎サンの代まで大道に住んでいた御縁で今でも菩提寺なんです。
昭和28年09月と彫って有るので、又二郎さんが亡くなって2年後に寄進されている様です。
つまり小泉孝太郎君の御爺ちゃんで又次郎サンの婿養子の小泉純也サンが寄進している事が解ります。
階段を上ると御本堂が有ります。
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寶樹院高照寺としての御本尊は大日如来様です。
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常福寺の歴史を受け継いでいるので、足利家に使用を許された足利家の家紋の‟二つ引き両紋”の寺紋に成っています。
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彫刻はシッカリした物ですが木材を見ると御堂が最近再建されている事が解ります。
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扁額は新しい様ですね。
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この家紋の由来も来たけれどちょっと忘れちゃいました(笑)。
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屋根の家紋も独鈷と余り見た事の無い寺紋が使われています。
昔御寺に関わった武家の家紋でしょうか?
御寺の奥さんに聞いたけど、こちらは良く解らなかったと思います。
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そして御寺には真言宗らしく御地蔵様も祀られています。
御本堂の前には小泉さん家との繋がりが良く解る物が有ります。
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小泉元首相が植樹した樹。
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立派な枝ぶりですね~。
元々どっかの造園屋サンが持ってた高価な庭木を買って来たんでしょうか?
御本堂の左手には阿弥陀堂が有ります。
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こちらが常福寺の歴史を引き継いでいる建物です。
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御堂の前には御由緒書きが有ります。
常福寺が鎌倉幕府設立前から有る由緒正しい御寺だった事が解りますね。
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阿弥陀堂と書いて有ります。
この中を覗かせて頂くと・・・
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鎌倉幕府や室町幕府鎌倉将軍府を守護して来た常福寺の偉い歴代住職の菩提が今も寶樹院高照寺の御住職によって祀られています。
ところで、この高照寺の裏手駐車場側に気に成る地形を見つけました。
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鉄塔の手前に削りの押された岩盤、明らかに元々はあの高さに矢倉(横穴式墳墓)が有った様なので、下の常福寺跡~この江戸時代に移転して来た高照寺の境内は一体に成っていたんでしょう、尚且つ、この高台には人の往来が有る道が有った様です。
つまり未開の山を開削して開いた寺院ではなく、もともと常福寺に纏わる御堂か有った削平地も有ったのかも知れません。
それと常福寺跡の奥の歴代住職の御廟所ですが・・・
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この場所の地形が明らかに要塞化されたいた様な形跡が有り、尚且つこの今は人の往来の無い場所は古道で朝比奈峠に繋がっていた間道だった様です。
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直角に切り抜かれた平場と裾切された地形が今も残っています。
なので高照寺の墓地の地形・・・
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こちら側の今は高い所に残された矢倉跡の位置を通る山道も昔は比較的人の往来が有り、もしかしたら足利持氏公か足利成氏公の時代に京都の幕府勢力に付いた上杉家との戦闘を想定して要害化されていた時代も有ったのかも知れませんね。
上行寺の伝承を見るに、状況証拠的に昔の海を挟んで対岸の御伊勢山と権現山は荒尾城として要害化されていた様ですから、こちら側にも防御構造は多少は作られていなければ可笑しいですから。

いずれにせよ、昔の平安時代には常福寺が存在していたので平安時代の道は尾根道ですから、普通にこちらの山も鎌倉に抜ける道だったんでしょう。
そして、その歴史を持つ地形から大地震の時の津波から逃げるのに適した場所でもある訳です。

昔は鎌倉将軍に大切にされ、最近では内閣総理大臣を輩出した御寺、強い御利益も有りそうですね。
今では住宅街の裏山の普通の規模の御寺ですが、スゴイ歴史が有るのが前回の記事と合わせて御理解頂けたでしょうか?

きっと皆さんの御近所にもスゴイ歴史偉人との関わりの伝承を持つ神社仏閣が有るはずです。
ちょっと街の中を御散歩して、城址の公園や御寺や神社を散歩してみませんか?
そこで説明の看板を読んでみて、凄い人との繋がりを知ると自分の地元をに誇りと愛着を更に感じれるかも知れませんよ?

・・・では今日はここまで。又次のブログ記事でお会いしましょう~♪

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今回は鎌倉公方足利持氏公が信奉した常福寺と寶樹院言う2つの御寺を2回の記事に分けて書きたいと思います。
今回は歴史解説、次回は寶樹院の様子を写真解説したいと思います。

横浜市金沢区には沢山の歴史が有る御寺が有る事を皆さん御存知でしょうか?
街の中の小さな神社や御寺や良く解らない御墓も実は凄い歴史偉人の関わった場所だったりしますが、そんな史跡の中でも鎌倉時代~室町時代の名将達が特に関わった場所が多いのが横浜市金沢区です。
そんな場所の一つが、金沢区六浦に在る高照寺と言う御寺です。
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高榮山 寶樹院 高照寺この御寺の高榮山 寶樹院 高照寺は現代の漢字にすると高栄山宝樹院高照寺と書きます。
宗派は古義真言宗です。
一般的には寶樹院の院号で呼ばれますが、小生は高照寺の寺号で呼ばせて頂きたいと思います。
高照寺の開基(かいき:御寺や神社を開業く事や開業した人)は恐らく宗派と周辺の状況から平安時代末期~鎌倉時代に遡れるはずです。
金沢区観光協会の方では慶安三年(1650)年と掲載していますが、この慶安三年開基は開基では無く再興された年を示しているので本来は‟再興開基”と書くべきなんですね~。
金沢区観光協会の解説は事実誤認生んでしまい良くない書き方です。教えた教育委員会が良くない。

では御寺の地形や施設より先に、歴史を解説したいと思います。
先ずは横浜市役所に‟再興開基と書くべき”とツッコミを入れたので御寺の旧境内地を見てみましょう~♪
高照寺の旧境内地は三艘(さんそう)と書いて三艘谷戸(さんぞうやと)と呼ばれている場所でした。
寶樹院旧境内地 久良岐のよし
今では住所として三艘の地名は消えてしまいましたが、現地の人は今でも旧字(あざ)の小名(こな)を伝えていて三艘町内会館が京浜急行六浦駅東側の線路沿いに残っています。
三艘谷戸(さんぞうやと)と言う地名から御寺を囲う様(よう)に山に囲まれた谷間に存在していた事が解ります。
正に画像で三艘町内会館の左奥(南西)が谷戸地形に成っていますねぇ~。
前を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)ですが、この付近の川は現代に成って埋め立てられた海の名残りです。
昔、鎌倉時代~室町時代に御寺がここに有った時代は海に面した風景の綺麗な御寺だったようです。
ところで・・・
谷戸(やと)と言うのは馬蹄型のU字谷の谷底に寺院や城館を築いて谷の入口に門と塀を築いて塞ぎ、山を城壁代わりに使っていた事を示す地名です。
三艘谷戸 上 久良岐のよし
三艘谷戸は典型的なU字谷ですねぇ~。
横浜市や鎌倉市の鎌倉文化の影響を受けた地域の平安末期~室町時代に成立した寺院は凡(おおよ)そ、この地形に有ります。
現代人は勘違いしていますが、谷を谷戸と呼ぶわけでは有りません。山に囲まれたU字型の谷間を利用して御屋敷や神社仏閣や尾根に繋がる道を築く時に、U字谷の開口部を封鎖し門を築いていた場所を谷戸と呼びました。今では建物や古道が無く成り谷戸(やと)の地名だけ残った場所を現代人が谷=谷戸と勘違いしているんですねぇ~。
谷だけを示す場合は、例えば鎌倉だと・・・
CIMG5827
写真は犬懸谷(いぬかけがやつ)⤴の入口。
そして宅間谷(たくまがやつ)⤵
2008-12-12-15-08-33
旧相模国では‟谷”と書いて現代の書き方で~ヶ谷(がやつ)と読みます。
これは相模国の方言です。
谷の読み方は寶樹院の在る旧久良岐郡域に入ると方言で又変化します。
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写真は京急神奈川駅を青木城址の本覚寺から見下ろした写真です。青木城は戦国時代の北条氏康公の軍師だった多米元忠公が城主を務めた御城でした。
この写真の神奈川駅の裏に在る山が‟幸ヶ谷(こうがや)公園”です。
旧久良岐郡に入り武蔵国域南部に成ると方言で‟谷(~がや)”と呼び方が又変わるんですね。

青木城に興味が有る人はコレ⤴過去に書いた記事です。
ところで幸ヶ谷公園は青木城の前身と成った権現堂(権現山)城の跡です。
IMG_1480
今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に勝海舟サン達が神奈川台場を建設する際に権現堂城跡の権現山を削ってしまったので今では上の写真の様にちょっと段差が有る位になってしまってます。
この高さだと、丁度小生が夏に三浦半島で落ちて骨折した崖の高さ位(笑)。昔はもっと高い山と深い谷でした。
まぁ、幸ヶ谷の地形の話は置いておいて、そんな訳でU字谷と谷戸とは同じ地形でも別物です。
DSC_0384
上の写真は藤沢市の宗賢院です。曹洞宗でそれ以前の事は何にも古文書が残っていませんが、遺物の状況的には平安時代末期には前身寺院が存在し鎌倉武士の大庭家に保護されていた御寺の様です。
この写真の様にU字谷に御寺を築いて谷の開口部を土塀と門等で塞いだ場所を谷戸と言ったんですね。
U字谷でも只の谷は~谷(がやつ/がや)です。

さて、高照寺の旧境内地の場所と地形が解った所で移転先の現代の境内地の地形を見てみましょう。
寶樹院の地形 久良岐のよし
現在は山の上に御寺が有りますね~。冒頭で書いた通り慶安三年(1650)年に三艘谷戸から現在地に移転してきました。移転の理由は火災による旧境内の堂宇の消失です。
寶樹院の隣に何やら御寺が有ってもおかしくない怪しいU字谷が有るでしょう?
実はそのU字谷は谷戸の跡なんです。つまり御寺の跡です。
「え?こんな御寺の隣に御寺作るの?」
・・・と思いませんか?それには理由が有るんです。
実は今では何も無い住宅街のU字谷の真ん中に参道の様に真っ直ぐ道路が有るでしょう?
これが常福寺と言うとっても格式が高い御寺の跡です。
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写真の道が旧常福寺参道で、少し段差に成っている場所から旧境内。
この道を真っ直ぐ進むと、何やら雰囲気が変わってきます。
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遊歩道みたいに成ってますよね。この奥に常福寺の名残が今も有ります。
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歴代御住職や、恐らくここを支援した武将の御墓が今も残っていて高照寺の御住職によって守られています。
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字が磨滅してしまって読めない物ばかりですが、石塔の形状を見ると戦国時代~江戸時代にはちゃんと檀家さんがいた様です。
この場所が地図に登録されていなかったので小生が登録して置きました。
これ⤵

足利家と小泉家の勝利の源泉はもしかしたら、この鎌倉公方祈願所だった常福寺の御利益かも知れませんね。
先程「常福寺歴代住職の菩提を寶樹院の御住職が守っている」と説明しましたよね?これが移転の理由でしょう。この理由の説明をするには常福寺の歴史を知る必要が有ります。
常福寺は江戸時代までは真言律宗で金沢文庫稱名寺の末寺でした。
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稱名寺は桜の名所として地元の人に親しまれている御寺で、真言律宗の別格本山です。
この称名寺の末寺だった事から、鎌倉時代の常福寺の支援者は六浦の支配者であり鎌倉幕府の重鎮であり稱名寺の大檀那(オーナー)だった金澤北条家だったはずです。それを示すのが江戸時代に編纂された‟新編武蔵風土記稿”の常福寺の項目に登場する室町時代の支援者の家格です。
実は常福寺は鎌倉幕府滅亡後、室町幕府足利家によって支援されていました。
記録に名前が残るのは関東を治めた鎌倉公方の足利持氏公です。
常福寺の項目にはこう書かれています。
境内年貢地、同所に在(あり)、眞言律宗金澤稱名寺末、大道山と號(ごう)す。
足利持氏の祈願所にて古(いにしえ)は寺分の地一圓(いちえん)に当寺領なりしと云(言う)。
金澤稱名寺に藏する應永廿九年の文書に、六浦庄の内常福寺云々とあれば古刹なる事は論なし。
又【北条役帳(小田原北条所領役帳)】に六浦大道分とあるは則(すなわち)當(当)寺の領せし所を云(言う)なるべし。後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~
~以下省略~
これを読むと解りますが、関東を統率する足利持氏公が祈願所に定める程の寺格を持っていた寺院だった事が解りますね。つまり足利家に匹敵する家格の武士が支援した事に結び付くので、鎌倉時代の金沢領主で常福寺の本寺だった稱名寺のオーナーの金澤北条家が支援していたと考えるのが極々自然な訳です。
更に何で現在は寶樹院高照寺が旧常福寺の境内を管理しているかも解る事が書いて有ります。
元々は今の住所で金沢区大道と呼ばれる地域は全部、常福寺の土地でした。
金沢区大道 久良岐のよし
赤い範囲が大道と呼ばれる地域。
地域名の大道の由来に成っている朝比奈峠~鎌倉に抜ける六浦道(むつらみち)をスッポリ持っていたので、道に関所を築いて通行税を徴収して栄えたりしていた様です。しかし‟後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~”と書いて有る通り何時の時代にか常福寺が所有していた大道の土地は全て失ってしまい、少なくとも戦国時代の小田原北条家が関東を統治した頃には別の御寺に土地を取られてしまった様です。
北条所領役帳の寺領の項目に大道分が一行だけ登場するので見てみましょう。
一 卅三貫文 六浦大道分 龍源軒
これしか大道分の地名は出てきません。歴史学者サンはこの‟龍源軒”を鎌倉の建長寺の塔頭、龍源軒だろうと推測しています。
小生は学者さんと違い、町屋の龍華寺の事じゃないかな?と思っています。
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六浦には源頼朝公と真言宗の文覚上人が開いた浄願寺と言う御寺が有りました。実はこの御寺を北条家が金沢一帯を支配する少し前に太田道灌公が龍源寺として同じ金沢区の町屋に復興しているんです。
恐らく龍源軒と言うのは江戸時代には名前が龍華寺に変わってしまっていた龍源寺を辿る事が出来なかったんじゃないでしょうか?
・・・とは言え臨済宗の建長寺にしろ、町屋の龍華寺にしろ、恐らく常福寺の土地を取り上げて勝手に他の御寺にあげてしまったのは関東管領上杉家や太田道灌公達でしょう。
太田道灌公
実は太田道灌公とその父上の太田道真公の家系は足利持氏公やその子の足利成氏公と対立した家柄でした。その対立が大規模合戦に発展したのが‟享徳の乱”と呼ばれる太田家&長尾家が仕えた上杉家連合軍vs鎌倉公方足利成氏公の軍勢の全面戦争でした。
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この抗争の結末は‟江ノ島合戦”で鎌倉公方の足利成氏公が関東東部の諸将に支持され勝利する等、最初は上杉家臣の太田家長尾家は敗北します。しかし上杉家の後援者が室町幕府征夷大将軍足利家本家だったので結局は政治的に足利成氏公は劣勢に成り、今の茨城県の古河市に在った古河城に移住する事に成ってしまいました・・・
すると当然ながら鎌倉公方家に支援されて戦勝祈願を行っていた常福寺は京都の将軍家や、その手先の関東管領上杉家や部下の相模守護代の太田家から目の敵(カタキ)にされる訳です。
・・・そして、そのタイミングで太田道灌公が当時六浦の廃寺になっていた龍源寺を町屋に復興したと成ると、眞言律宗の常福寺から取り上げた土地を真言宗御室派の龍源寺=龍華寺に寄進したと考えれば自然な事でしょう。
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でも学者サンの推測する建長寺塔頭龍源軒説も有りえる話です。なんせ太田道灌公は幼少期から思春期まで建長寺で修行して兵法や学問を身に付けた人物ですからね。
まぁ、正直な所は大道分の土地の持ち主が龍華寺の龍源寺の事か、建長寺の龍源軒の事かは今では解りません。
でも太田道灌公や上杉家によって懲罰的に常福寺の土地が取り上げられ、その数十年後に北条氏綱公がこの一帯を支配した頃には既に常福寺はヤバい状況だったのでしょう。
ちなみに龍華寺サンも北条氏綱公の頃に怒りを買って土地を取り上げられているようです。
この伝心寺⤴の記事で少しソレに触れています。
江戸時代の常福寺は横浜市域で唯一の大名だった六浦藩主米倉家(柳沢吉保の子孫)から支援されて細々と存続する位に衰退していた事も新編武蔵風土記稿の記録から解ります。
更に龍華寺も戦国時代末期には北条家の怒りを買ったらしく、土地を没収されていますので大道分は安土桃山時代位に北条家かその家臣団によって寶樹院高照寺に寄進されたのだろう事が江戸時代1650年には常福寺の真横に三艘谷戸の高照寺が火事で焼けて移転してきている‟土地の所有者”に成っている事から解る訳です。
寶樹院旧境内と現在地位置関係 久良岐のよし
実際、近いですしね。大道分の侍従川を挟んだ片側が高照寺の寺領に成ったみたいですね。
だから移転出来た。
そして幕末~明治時代に廃藩置県が行われ常福寺を支えていた米倉家が大名じゃなくなり常福寺の収入減が無く成り、更に明治政府の廃仏毀釈で維持困難に成り、その際に隣接する寶樹院高照寺サンに全てを託して廃寺手続きを行ったんでしょうね。
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でも今でもちゃんと、ここで寶樹院高照寺の御住職によって歴代住職の墓所が守られている訳です。
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ちゃんと高照寺の御堂の中には常福寺の歴代住職の御位牌が祀られていました。

今では地形と歴代住職の御廟しか常福寺の境内は残りませんが、ちゃんと高照寺の歴代御住職によって常福寺と足利持氏公の歴史は守られています。

その②に続く⤵

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前回の歴史解説記事⤵
瀬戸神社と手子神社・・・①金沢区の手子神社は瀬戸神社分社で東京の浅草寺の僧正が開いた神社。
コレ⤴の続き・・・

横浜市は実は鎌倉幕府の将軍や執権、室町幕府の将軍や鎌倉公方や関東管領上杉家、江戸幕府の徳川家康公を始め歴代将軍達が愛した景勝地や神社仏閣や関わった城址が沢山❝在(あ)った❞のですが、残念ながら2018年現在の横浜市長もそうである様に他所からの移民が政治家や市役所役人として就職する事が多く、その中の横浜への郷土愛も日本史や日本文化や文化財への理解も無い人によって大切な神社も境内地を大きく削られ歴史偉人の愛した景観が損なわれた場所も少なく有りません・・・
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実は金沢八景駅の直ぐ目の前に、そんな横浜市による文化軽視の悪い例でもあり、鎌倉幕府征夷大将軍の源頼朝公や執権の北条貞時公、室町幕府鎌倉公方の足利持氏公、徳川幕府初代征夷大将軍の徳川家康公が風景を愛し保護した神社の❝瀬戸神社❞が存在します。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
地図上の白い場所が金沢八景の地名由来に成った当時の日本に名を轟(とどろ)かせた景勝地時代に海だった範囲です。
瀬戸神社の山は元は半島の突端で金沢八景の海の入江と入江を繋ぐ半島と半島が近接し、そこに橋を架けられた❝ランドマーク❞と成る場所だったんですね。
今では面影も無く他都市からの移住者役人だらけの横浜市により瀬戸神社旧境内地の山は切り取られ見るも無残に僅かに社殿裏側の一部を残すだけに成ってしまいました。昔は金沢八景駅周辺までずっと続いていたんです。
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瀬戸神社(各時代の幕府の歴代将軍が大切にした神社)
さて、この神社は目の前の海に突き出した琵琶島弁才天と一体型の神社で、既にその事から昔は周辺をとりまく海の安全を守り且(か)つ周辺の海も山も含めて神社だった事が解かります。言葉を変えると自然信仰である神道の概念を無視し横浜市教育委員会が景観保護を怠り❝神社の一部を破壊した❞とも言えますね。
この瀬戸神社、最初は源頼朝公が伊豆の三島大社から大山祇大神(おおやまづみおおかみ/おおやまつみのかみ)の御神霊を分祀して頂き開いた神社です。
つまり・・・
源頼朝公が相武地方に三島大社から御分霊を勧進した10ヶ所の神社の一つである事が解かります。
足柄上郡開成町古田島の吉田神社や・・・
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吉田神社
三浦半島葉山マリーナ近く森戸海岸の森戸神社・・・
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森戸大明神(森戸神社)
・・・これらの源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進して開いた神社と同時に源頼朝公によって開かれた事が由緒から解りますが、特に鎌倉市街の外港玄関としての機能が在った金沢の瀬戸神社三島大明神と琵琶島弁才天は別格に将軍家から大切にされた様ですね。
今でこそ❝瀬戸神社❞と呼ばれていますが、三島大社の御分霊なので江戸時代までは❝三島大明神❞とも呼ばれ、当時の扁額(へんがく)にも三島大明神の名前が彫られ文化財に成っています。
三島大社や瀬戸神社の主祭神である大山祇大神は、神奈川県最古級の神社である延喜式内社としても有名な大山阿夫利神社と大山山体の神様でもあり、相模湾と相模平野のランドマークとして❝関東総鎮守❞の異名を持つ❝海の守り神❞でもあります。
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そして眼前の琵琶島弁才天も源頼朝公と北条政子御夫妻が今の滋賀県、近江国の琵琶湖に浮かぶ竹生島弁才天様から御分霊を頂き開いた、水神様で軍神で音楽神で美の女神でもあります。
そんなとんでもない由緒が有る凄い神社が瀬戸神社と琵琶島弁才天なんですが・・・
そんな事を知らない役人が横浜市には多い様です。
そんな凄い神社だけに残る文化財の数も現代の境内の規模から想像もつかない程沢山残っています。
数えればキリが無い位なので、もし興味が有る人は❝神奈川県立金沢文庫博物館❞で2013年に行われた特別展❝瀬戸神社~海の守護神~❞の時の図録が金沢文庫博物館の図書室で閲覧出来るはずなので探して見ると良いと思います。
一応、神社の説明の看板に幾つか文化財の説明が有りますので写真を添付します。
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この神社の凄い所は、江戸時代迄日本の神道の親玉で今の京都市左京区の吉田山~京都大学一帯が全て境内地だった吉田神社との関係が深く、明治時代に成ると国家神道から目の敵にされ弾圧された吉田神道と言われる神仏習合の神道の長であり、明治まで歴代天皇と将軍家から神祇官を束ねる役割を仰せつけられていた吉田(卜部)家からも大切にされていた事が古文書から解っています。
実際に享保三年(1718年)に神祇管領長上だった卜部兼敬(うらべかねたか)公は❝三嶌(みしま)大明神❞の揮毫(きごう=記念に書く事)をし扁額の字を書いています。そして彼はわざわざ京都から瀬戸神社に参詣に来て初穂料(はつほりょう=御賽銭)に白銀1枚、当時の宮司家の千葉胤治(ちばたねはる)公に金と藤原定家や寂連法師や西行法師(和歌三夕と呼ばれた和歌の名人達)の和歌が書かれた色紙を与えています。
今の横浜市は瀬戸神社の文化歴史を理解できておらず景観も破壊しますが、昔は神社世界のトップが直々に来る程に大切な場所だった訳です。
そして横浜市や房総半島や日蓮宗の歴史に詳しい人は「ん?」と思ったかも知れませんが、大名としての地位は戦国時代に終了した平安時代以来の武家の名門の千葉家は、実は金沢区六浦や瀬戸神社ととても関係が深く、日蓮宗の聖地の一つであり日蓮上人の船中問答の舞台である六浦山上行寺は千葉家臣団が房総から鎌倉に出勤する際の船着き場で、そこを管理した富木(とき)家の屋敷が前身に成っている御寺です。
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六浦山 上行寺
千葉家が没落し富木家の後に鎌倉時代上行寺を支援したのは金沢北条家臣と思われる荒井家で、後に戦国時代の北条家臣間宮家の家老の一家と成る家ですが、この荒井家も瀬戸神社に関わりが深く瀬戸神社と琵琶島の弁天様の在る島を結ぶ二重橋だった琵琶島弁才天の参道の橋を単独で寄進したのも荒井家でした。上行寺の御住職様に取材した時にこの話を伺(うかが)ってたまたま小生はこの歴史事実を知っていますが、恐らく知らない歴史学者の方が多いかも知れません。
この荒井家は横浜市磯子区杉田の牛頭山妙法寺も開いており、今も檀家として荒井家の御子孫が妙法寺には残っておりますし、江戸時代に笹下城主間宮家から分家した杉田間宮家の菩提寺として妙法寺は今も立派な間宮家御廟所が存在しています。
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牛頭山妙法寺
妙法寺はヤマトタケル神話の舞台の一つでもある元は弘法大師様が牛頭天王の御堂を立てた事に聖地としての歴史が始まる御寺ですが、こちらも以前に解説記事を書いたので御興味御有りの方は合わせて御覧下さい。
妙法寺の記事はコレ⤵
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
多分、瀬戸神社の琵琶島に架かっていた太鼓橋を荒井家が単独で架橋奉納した歴史を御存知なのは上行寺の御住職と檀家役員さん達位でしょう。それと北条家臣団と間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生なら御存知かも知れません。
鎌倉幕府将軍家や執権北条家が直接関与する程の格の「瀬戸神社」に単独で橋を寄進する事を許される家格と経済力が荒尾城主荒井家に有った事、そして千葉家が鎌倉時代~江戸時代末期までずっと金沢に宗教面で影響力を持ち続けて家も存続していた驚愕の歴史事実が、これらを繋ぎ合わせるとハッキリと解るんです。
因みに荒井家の荒尾城は幻の城ですが、小生は上行寺~横浜市大の裏山である御伊勢山~権現山一帯全てが荒尾城と推測し、実際に現地を歩いて城址としての削平地や竪堀や堀切の跡地形を見つけています。
それも以前、記事に書いて有るので興味の有る人は御覧下さい。
これ記事⤵
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。
室町時代には最後の鎌倉公方(関東を治める鎌倉将軍)と成った足利持氏公も直接参拝に来ていてこんな古文書が残っています。
塙不二丸所蔵文書
これは塙不二丸氏所蔵文書の一通として残る古文書の写しを小生がタイピングした物ですが、文中に登場する❝上様(将軍様)❞はつまり足利持氏公です。
因(ちな)みに何で小生がこの文書を知ったかと言うと、盛本先生が書いた❝瀬戸神社に来た足利持氏❞と言う文章を読んだからで、盛本先生の受け売りですね(笑)。
そしてこの文書のあて先は鹿島神宮の大禰宜(大宮司)中臣家宛てと盛本先生は推測されています。
ね?
神社仏閣好き、御朱印好きなら、もうここまでの小生の説明で瀬戸神社がとんでもなく格の高い神社だった事が御理解頂けるかと思います。
そして横浜市教育委員会が景観保護しなかったせいで土建屋が景観ぶっ壊しまくった悪事が判るでしょう?
そんな瀬戸神社と日本屈指の景勝地だった金沢の八ヵ所の景勝地、略して金沢八景を徳川家康公も遊覧に来ていて、洲崎町屋地区の龍華寺に徳川家康公が滞在し、瀬戸神社にも社領100石と破格の待遇で瀬戸神社を保護をしています。
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知足山 龍華寺
龍華寺の歴史は以前紹介記事を書いているので、御興味の有る方はソチラも合わせて御覧下さい。
龍華寺の記事はコレ⤵
龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。
瀬戸神社の社領(神社の収入)は徳川家康公から100石分与えられていますが、普通の神社や御寺の収入は歴史が有る場所も普通は5~10~15石程度が標準的なので、瀬戸神社がとんでもない大切な場所だったのがその社領の多さからも判ります。余談ですが出雲大社は2000石で最早ちょっとした勢力でした。

さて、瀬戸神社の歴史解説どうでしたか?
とぉ~っても!日本レベルで大切な神社さんなのが御解り頂けたでしょうか?
次回は三島大明神と呼ばれた瀬戸神社~琵琶島弁才天の社殿や風景を写真と共に解説します!
今日帰ってきたら書けるかな~?
もし書けなかったら又、来週末にUPしますね!

瀬戸神社と手子神社・・・③瀬戸神社、源頼朝公北条政子様御夫妻の愛した神社の現代の風景。の記事に続く・・・






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神奈川県横浜市金沢区は横浜市の中の旧久良岐郡域に属する地域ですが、鎌倉時代から金沢区六浦が鎌倉の東京湾側の港として機能していたので文化圏としてはもう完全に鎌倉文化圏に属しています。
そんな土地柄なので金沢区には平安時代末期~鎌倉時代~室町時代~戦国時代(室町後期)~安土桃山時代にも重要な歴史偉人達が関わった神社仏閣や史跡と自然が沢山現存しています。
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竹嵓山 禪林寺(ちくがんさん ぜんりんじ)最後の鎌倉公方足利持氏公開基、初代古河公方足利成氏公再興、小田原北条家臣伊丹永親公支援の寺。

そんな金沢区の中に釜利谷東と言う地域が有り、そこには竹嵓山禪林寺と言う御寺が存在します。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この禅林寺が存在する地域は歌川広重の描いた❝金沢八景❞で❝小泉夜雨❞と呼ばれた海近くの景勝地として近代まで知られていましたが、その八景や六浦の入江も大半が昭和に成り戦後に県外からの移民が教育委員会の席を占める様に成ると歌川広重の金沢八景すら知らない彼等は保護を怠り、埋め立て地利権によって海は消され宅地造成によってその景勝は失われました。
さて、そんな景勝地であり鎌倉市街へ抜ける間道が通る場所だったので、この地は文系で学生時代に真面目に勉強していた人なら誰でも知っていて当たり前の歴史偉人が御寺を開いたりもしています。
永享の乱で逆徒の山内上杉憲実によって切腹に追い込まれ最後の鎌倉公方と成った足利持氏公により開かれ、その遺児で生き残った足利成氏公の親子によって再興された御寺が釜利谷東の禅林寺です。
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山門や御堂は最近の建替えの様ですが、木造で鎌倉文化を良く再現した造りに成っておりとても落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
残虐非道で籤(くじ)引き将軍として有名な足利義教が自分の不安定な地位を確固たる物にする為に赤松家始め多くの忠臣を謀殺したり挑発して幕府軍を送り込み滅ぼし更に総仕上げとして自分の地位を一番脅かす存在だった鎌倉公方足利持氏公と対立している山内上杉憲実を後援して今川家に命じ今川範忠公引いる鎌倉公方討伐の幕府軍を上杉家の援軍として送り込みました。
足利持氏公は降伏を余儀なくされ、金沢文庫の金澤山彌勒院稱名寺で出家した後に東京都世田谷区の永安寺に移って完全に隠居したにも関わらず、上杉憲実に攻められ自害に追い込まれました。
その後、関東武士団は結束して足利持氏公の遺児を保護し有名な❝結城合戦❞を起こしますが、その時に足利持氏公の遺児達も敗戦で殺害され、最後に生き残ったのが足利成氏公でした。
この永享の乱と直前の上杉禅秀の乱が戦国時代の幕開けとされており、関東は関西よりも早くに戦乱の時代を迎える事に成りました。
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写真は鎌倉市浄明寺地区犬懸谷(いぬかけがやつ)の上杉禅秀邸址入口。
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結論から言うと正月1日は横浜市栄区と港南区近辺をウロチョロしていた。
小生が横浜で1番の知恵の神様と崇拝する永谷天満宮に参拝客の少ない早朝に参拝してから、夜明けの時間に合わせて円海山に富士山を拝みに行った。
永谷天満宮では神職の方々が早朝の5時頃なのにも関わらず詰めておられた。
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永谷天満宮
大変だな…御正月とは。
御神籤を引きに社務所に行ったら禰宜サンがもの凄く眠そうだった(笑)。
「ご苦労様です、当直ですか?」と御声掛けした所・・・
「2日間泊まり込みなんです~」との事。
・・・こうやって神社の場合は神職の方々の御苦労と氏子サン達、御寺の場合は和尚サンや檀家サン達の努力がそれぞれ有るから一般参詣者は御祭りや神事や様々な行事に参加し日本文化を感じられるし、神仏に祈願する事で何だか安心する事も出来る訳だな。
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社務所の前では焚火の火も絶やす事なく燃えていて冷えた参拝者が手を温める事が出来た。
永谷天満宮の神職氏子の皆さん年末年始御疲れ様でした。小生が横浜に置ける知恵の神として崇敬する菅原道真公と菅原景行公と菅原淳茂公の御陰様で昨年1年間過し無事に新年を迎える事が出来ました。
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社殿に移動し天神様に参拝し、1年間の御礼と自分の祈願と諸外国の親日家の人々の平安祈願をした。
因(ちな)みに・・・
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御神籤は大吉だった(笑)!素直に喜んでおこうかな♪
栄区方面に戻り円海山で初日の出を見るのと土地神様の白山神社に御参りに行く為に車に乗り移動・・・
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円海山

う~ん、今年は少しガスってたけれど綺麗に雪化粧した富士山を拝む事が出来た。
富士山は只単に美しいと言うだけでなく明治時代までは自然信仰で神道修験道仏教の全てで此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身として崇拝の対象に成っていたんだな。そしてココは奈良時代の人達も製鉄を営みながら灌漑水田を開発し、鎌倉武士が使った間道が幾本も現存し、現代では横浜市最後の蛍の大生息地体でもある、貴重な自然と文明の史跡であり自然公園なんだな。
有る意味、横浜における聖地とも言える。そして此花咲耶姫命を拝む事の出来る場所なんだな。
だから涼しく気持ちの良い晴天の御正月に御化粧した綺麗な富士山を拝めて、とても晴々した気持ちで新年を迎える事が出来た。
・・・ちなみに日の出はポジション取り間違って見えなかった。円海山から日の出を見たかったら金沢区側の展望台じゃなきゃダメだな。

日は変わって正月2日目。
この日の早朝出発~深夜帰宅する約20時間で怒涛の19箇所の神社仏閣聖地と史跡を廻って来た。
この日は地元横浜の天満大自在天神菅原道真公や・・・
金沢北条実時公、蒔田御所吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、上杉規富公、間宮康俊公、間宮於久様、間宮於継様、間宮綱信公、間宮常信公、間宮信繁公等の侍大将や姫様達。
渋沢栄一サン、原三渓サン、浅野総一郎サン等の横浜の発展と復興に力を尽くされた商人達。
・・・崇敬する横浜市に御縁深い歴史偉人のこれらのと同じく尊敬し毎日、心の中で拝んでいる神様仏様と県内他地域所縁(ゆかり)の歴史偉人に出来るだけ多く御参りしたいと思い訪拝先の予定を組んだら、当初の予定でも既に20個所ととんでも無い件数に成ってしまった(笑)。
多分、過去最多の1日での訪問件数、内容的にはコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
・・・我ながら良く廻ったもんだと思う(笑)、ちゃんと御参りして時間かけて廻ったし。
寝なければ時間は作れる(*´ω`*)!
実際には最終目的地の寒川神社までの順路は移動時間だけで4時間近く、家を出発したのは朝の3時少し過ぎた位、帰宅したのは23時位だったろうか?移動時間以外も略(ほぼ)現地を歩き回ってるので当然ながらつまり休憩した2時間を除いて18時間は運転するか、歩くか、買い食いしてるか、宮司サンか和尚サンと御話ししてた訳だな。
ジム行ってる御蔭で何とか成ったし(笑)。
経路をGoogle mapで可視化するとコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
神奈川県の中部と東部を略グルっと回ったらしい。
上の一覧表は実際に回った場所だが、予定は少し違って伊勢原市の糟屋館と上粕屋神社は廻らずに厚木市七沢の徳恩寺、拉麺の名店ZUNDO BAR、七沢城址を廻るつもりだった。
・・・これは後で書く事に成るが、神様に「そっちでは無いヨ」仏様に「こっちに来なさい」と言われる様に道を間違った(笑)ので流れと直感に任せて洞昌院優先~糟屋館周辺散策ルートに変更した訳だ。

さて、2018年01月02日03時ちょっとに自宅を出発すると、有鹿神社には4時ちょっと過ぎに着いた。
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参道が雪洞(ぼんぼり)代りの提灯に照らされてとても美しい・・・
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有鹿神社本宮
有鹿神社様への初参拝は3年前、愛川町に三増峠合戦の現場歩き取材に行った帰りに、聖地として名高い有鹿谷と勝板遺跡を訪問し奥宮を御参りし、その勢いのまま海老名の本宮を御参りに来て、御朱印頂に宮司様の別事務所を訪問したのが最初だった。
それ以来、小生は有鹿比賣(あるかひめ)様と有鹿比古(あるかひこ)様の御夫婦の神様も崇拝する様に成り、頂いた御朱印を大切にしている。
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本殿で有鹿の夫婦神様に御参りし、昨年1年間の御礼と今年の小生個人の心願と友人家族恩人恩師の平安祈願と親日諸外国民の平安祈願をした。
本殿も幻想的に提灯の明かりで浮かび上がって美しかった。
所で初めて正月に御参りに来たのだが…
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何か狛犬サンの御胸の辺りがウルトラ怪獣のゼットンみたい光ってて(笑)
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・・・コチラの禰宜さんの遊び心。
天智天皇が国家鎮護の勅願所にする前から庶民に寄り添い農耕を守護し家内安全と良縁結びの神様として存続して来た人懐っこい神様の神社らしい遊び心。
古社なのに偉ぶらず、尚且つ水引き神事の様に古代からの神事を大切にする、こんな柔軟な場所も有って良いと思う。石清水八幡宮の宮司様も神社本庁トップだけど歴代天皇の御意思を尊重され古来の神仏習合時代の文化も大切にされたり新しい催しにも協力されたり色んなアイディアを出されているので現代の柔軟な神社本庁トップの方針にも合っているんじゃないかと思う。
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有鹿神社の境内には有鹿天神社が在り、此方でも前日元旦に永谷天満宮で正月の御参りをした菅原道真公に改めて参拝し、新年の御挨拶と2日当日の旅の無事を祈願した。
車に乗り八菅山に移動。
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八菅山は明治時代に日本の宗教が森有礼(ありのり)等、キリスト教信者政府高官等によってプロテスタント国の英米の猿真似で自然崇拝の神様と平和の哲学の仏様が引き裂かれ宗教自体が作り替えられるまで日本神話の聖地で神職のみならず修験者や仏僧からも聖地として崇拝され多くの寄進が集り物質的にも興隆し、神仏ともに尊重する修験道が仕切る日本屈指の大道場だった。そして行基大僧正が来訪し天皇の勅願を祈願した神仏ともに大切にされた天皇家の勅願所としても機能した霊場でもあった。
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始まりは日本武尊の来訪に由る・・・
「山体の形状が蛇に似ている」
・・・と言う主旨の発言を日本武尊がして聖地として大切にされる様に成ったそうだ。しかし今では山での採石やゴルフ場の乱立で美しさが無いし宅地化で細かい地形は良く解らないが、確かに河岸段丘で細長い形はしている。八菅神社周辺地形 久良岐のよし
宅地化した部分も昔は山でもっと長い山体だったのかも知れない。
まぁ~小生は相模川の大きな支流が八本有って八岐大蛇(やまたのうきろち)の様に見えたんじゃないかな~とか伝承と違う山の名の由来を考えたりした。菅(すげ)は菅(すが)とも読むし菅は須賀神社の須賀に通じるからね~。
須賀神社の御祭神は素戔嗚命だし元は相模川を八岐大蛇に見立て河の氾濫を抑える祈願所で、だから日本武尊が東征の折りに立ち寄ったんじゃないの?多分、古代は渡河地点が付近に有ったんじゃなかろうか?
・・・とか考えてしまう。日本武尊は走水にも須賀社を開いて軍神海上交通の神様として素戔嗚命を祀ってるからね~。
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何にせよ修験道や神職や僧侶の聖地として栄えたので明治の破壊までは神廟や御堂合わせて50余りの大小神社仏閣が混在し大変多くの参拝者と修行者で賑わっていたそうで、この愛川町の八菅山と伊勢原市の大山、そして京都の男山に在る石清水八幡宮等と合わせて日本で5本の指に入る大聖地だったそうだ。
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そして、参道を奥に進み、そんな歴史を説明している看板の写真を撮ろうとした際に気が付いた・・・
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「夜明け前で何も見えねぇ~」
「階段超急だし!」
「クロックスで夜に来る所じゃねぇ~(笑)」
・・・う~ん、甘かった。
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本殿に着いたがハッキリ言って真っ暗で何も見えない(笑)!
でもちゃんと参拝して御賽銭を払って日本武尊と弟橘姫様と神様達に諸々の祈願をして、一度山を下りて車まで戻って1時間程待機してから日の出を待って再度、参拝して写真撮影する事にした。
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そして夜明け到来。
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八菅神社(八菅山七所権現:天皇家勅願所)
当たり前だが朝を迎えると自然豊かな参道が良く見える。
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夜は何がなんだか解らなかった鐘楼の文化財として解説も読める様に成り・・・
石段もちゃんと見える様に成った。
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本殿は木々に囲まれまだ薄暗かったが、造りが観察出来る様に成った。
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改めて社殿を見ると、どうも神社と言う感じでは無い。元々は修験道の御堂の一つだったんだろうか?
しかしながら規模は大きい方だ。
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御賽銭箱には八菅山七社権現=八菅神社の社紋・・・九曜紋だな。
これ、後日03日にPCに写真を取り込んでいて気が付いたのだが、八菅山の神様が参拝を歓迎してくれた様な写真が撮影出来ていたのと関係してる紋様なんだな。
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額の字の色は薄く成っていた。
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さて、ここは凄い人物が関わっている事が説明書きにも有る。
小生は以前、愛川町の観光課の職員さんと教育委員会の職員さんに愛川町ガイドブックを頂いたり解説をして頂いていたので少し知っている。
小生が尊敬する戦国時代の北条家とも関係が有る。
先ず、ここの凄い所は関わった人物達だ・・・
日本武尊に始まり、
行基大僧正(日本最初の大僧正)
源頼朝公(征夷大将軍)
足利尊氏公(征夷大将軍)
足利持氏公(鎌倉公方)
遠山綱景公(北条家重臣、江戸城代)
徳川家康公(征夷大将軍)
・・・等々、名だたる歴史偉人が崇敬し支援していた歴史が有るんだな。そりゃそうだ、日本有数の聖地だったのだから。
まぁ、そんな訳で八菅山の修験道と神話の聖地は明治以降、英国の猿真似をやった役人によって寂れてしまったけど神様達は今もここで愛川町の人々や参拝客を守って下さっている様だ。
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まぁ、そんな場所だが明るい朝陽に照らされている八菅山の神社の在る場所を改めて見ると、三角形をしていて丸で奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の様な佇(たたず)まいなのが理解出来た。
帰ろうとして駐車場に向かう前に鳥居の前で朝陽の方を振り返ると日の出が見えたので写真を撮影して置いた。
どうやらこれが八菅山七社権現の神様達から小生への御褒美だったんだな。
八菅神社の御神紋は九曜紋・・・
九曜紋
そして3日に成って気が付いたが、八菅神社の前で撮影した日の出の光が九曜紋に成っていた。
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神様、御褒美ありがとうございます~♪
まぁ偶然レンズに写り込んだ光だけど、御参りした八菅神社の御神紋と同じ九曜の朝陽の写真、縁起良いよね。
こんな幸運にその時は気が付かないまま駐車場に戻り車に乗ると、次の目的地の厚木市飯山温泉の華厳山金剛寺に向けて出発した。

【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)に続く。
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前回の休日雑記コレの続き。
       ↓


神崎遺跡を後にして、この日の元々の最終目標である飯田牧場のアイスクリームを食べに藤沢市の飯田牧場を目指して出発した。
今回、休日雑記は4回に分けて1日の行動をつづったが、実は目視すると余り移動距離は長くない。
04月22日の行動道程
黄色い線が最初の訪問地の有鹿神社本宮~飯田牧場の実際に走った道程(みちのり)。
赤い線が距離の定規とする5kmの長さ
御覧の通り、4月22日の訪問先で実際に走った移動距離はせいぜい15km。
余り広くい範囲を動き回っていた訳では無い。
まぁ、行き返り更に横浜までの距離も走っているのだが、それは含まない。
現地での移動は広範囲ではないが、それでも早朝の8時から夕方の4時頃まで目一杯時間を使っていた訳だ。しかし小生の1日の訪問先は分単位で事前に予定を組んで多い時で10件を超すので、この日は余り多くの場所を回ってはいない。
例えば昨年の間宮家の顕彰文の資料写真撮影と織田家の故地探訪で愛知県を旅した際の初日のスケジュールは12ヵ所+ホテル+夕食の居酒屋を回っている。
コレね。
 ↓

只、時間を無駄にしたくないので出かける前は臨機応変に組み替えれる行動予定を何パターンも時間軸で頭に組み込んで置く。
訪問先の優先順位を割り振って、全ての訪問予定先をGoogle mapに登録して置く。そして道路状況等もナビ機能に反映されるので時間との兼ね合いで訪問先で所要した時間に合わせて行き先を削って行く訳だ。すると案外と多くの場所を回れる。

今回は訪問先は比較的少ないし移動距離も短い。その替りに有鹿神社宮司様や温故館や神崎遺跡の学芸員様始め多くの方への質問に時間を使っていた訳だ。
だから、とても充実した1日と成った。
神崎遺跡から飯田牧場に到着すると何と駐車場待ちの車が住宅街の片側1車線の道に並んでいたが、運が良く比較的早く駐車場に入る事が出来た。
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ここは横浜市からも遠くは無い藤沢市。そんな場所で酪農家が乳牛を飼育して乳製品の加工食品やアイスクリームを製造販売している。
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だから当然、牛舎も隣接している訳だ。鎌倉市周辺の小さい子がいる御家庭なんかは近くを通る事が有れば立ち寄りアイスを食べれば、牛サンも見れて子供に自分達が食べる物の由来と感謝を教える良い機会にも成るかも知れない。
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アイスクリームは種類が豊富なのだが、如何(いかん)せん小規模な人気店だけに昼下がりには写真の通り、既に売り切れの商品も多い訳だ。

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芸能人にも知られている店の様で鶴見慎吾サンが趣味のサイクリングがてら立ち寄られたり…
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…何か良く解らん漫画の作家さんや多数の芸能人が訪問している様だ。その色紙の数は観光地の横浜中華街の有名中華料理店と同じ位だろうか?基準が可笑しいか(笑)。
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小生はラズベリーとホワイトラムレーズンを頼んだ。
予想を裏切りサッパリした舌触りと喉越しながらコクが有って美味い。
これを食べるとコンビニや観光地のアイスが如何に人工的な味付けや舌触りに加工されているかが解る。
後日、三浦半島の関口牧場で食べたアイスも飯田牧場に近い味と舌触りだったので自然なミルク由来のアイスは脂肪分もサッパリした物に成る様だ。

以下、飯田牧場の所在地と連絡先。
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飯田牧場の駐車場待ちで道路に車を停めている際に目の前に御寺が有るのに気が付いた。
花應院と言う御寺の様だ。綺麗な名前の御寺だ。
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❝小栗判官・照手姫縁起の寺❞と書いて有ったのだが浅学世間知らずな小生は❝照手姫❞が誰か知らなかった…
小栗判官は徳川埋蔵金で有名な徳川幕府末期の名奉行の「小栗上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ)公の御先祖様か何かかな?」と思った。横須賀製鉄所を開いて近代日本造船の基礎を築いた偉人だな。東郷平八郎元帥から後に「日本を救った人物」として感謝された偉人だ。
しかし小栗判官について何も知らない小生。

…癖で直ぐに神社や御寺が有ると門前の看板や寺紋や宗派が気に成ってしまうのだが、「これは直接、御住職様に言われを御教授頂きたい」と思い飯田牧場でアイスを平らげてから訪問して見た。
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禅寺に有るアレ。「酒の匂いさせて山門(寺)に入っちゃ行かんよ~」ってアレ。
うん、禅宗(曹洞派=現在の曹洞宗)確定!
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この時点での認識…
「う~ん。小栗判官と照手姫ってのは何かの物語らしいが良く解らん」
…程度。ウダウダ読んでも考えても知らない物は埒(らち)が開かないので知ってる人に教えて貰った方が早い。さっさと御住職を訪ねようと中に入る。
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参道は細い。しかし恐らく明治時代以前は両脇の民家に成ってしまっている場所は塔頭寺院かなんかで境内地だったんだろう。
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石仏群が保存されている。謂(いわ)れは解らなかった。
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庭に落ち葉や雑草がチラホラ有ったので何だか無人の御寺の様な雰囲気で、人がいるのかな~?と思った。
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どうみても境内地なのだが普通の民家っぽい建物、離れの庫裡かな?と思いつつ本堂へ…
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どんな御寺か良く解っていずに参拝したのだが、取り合えず曹洞宗の御寺の様なので御本尊は釈迦牟尼仏だろうと思い、今回訪問の機会を思わず頂けた御縁と参拝させて頂けた事を釈迦牟尼仏様に御礼を申し上げ横浜までの帰路無事に帰れる事、そして小生が神社仏閣の保護や支援を担い先人の偉業を現代人に伝える事業が出来る様に、文化的な事や何か社会の役に立つ事が出来る様に、地域の産業に資する事を創生出来ます様にと大願をお伝えし、その様な事を行うに相応しい人間に成れる様に御導き下さいと御参りをして来た。
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まぁ、釈迦牟尼仏様を含め、いつも日本の神様達と仏様達と偉人達と御先祖様にしている祈念と同じ。
参拝を終えて取り合えず玄関に回ってインターホンを鳴らすが誰も出て来なかった。
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御自由に御持ち下さいと書いて有り冊子と札が置いてったのだが、流石に札は勝手に拝借する気にも成らずに写真だけ撮影させて頂き、照手姫の事が何やら書かれた印刷物の方は1枚づつ頂いて玄関を出た。
すると庭先に御住職が待ち構えており「いらっしゃい」と声を掛けて頂けたのだが…
「あれ?今外出からお戻りに成られたのかな?」と思って「冊子を頂きました。」とお伝えした所「全部見てたよ」との事。
小生→「?」「何ぞ?」
…と思った。
御住職様に「まぁ、入りなよ」と気さくに声を掛けて頂き玄関へ再度入り椅子に座らせて頂いた。
内心…
「何か怒られるのかな?」
…と、思いながらドギマギしてると御住職から意外な一言。
「実は最近、賽銭泥棒が多かったので全部遠隔監視出来るシステムにしてあんだよ!」と笑いながら教えて下さった。最近は日本でも物騒なので納得。
凄いのは出張先からでも監視出来るし、どこから入っても解るそうだ。
「先進的な御寺だな」と思い、そして同時に「御住職様気さくな方だな」と思ったら実は御住職、曹洞宗の偉い方だった。名刺を頂いて分かった。
色々と曹洞宗の組織や運営の話が聞けて非常に面白かった。
そして本題の照手姫の伝説を質問すると丁寧に解説をして頂けた。
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大まかな話は以下の通り…
室町幕府の時代、鎌倉府最後の鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)公に永享の乱で小栗判官は今の茨城県に在った居城を落とされてしまう。そこで相模国の鎌倉郡俣野(今の横浜市戸塚区俣野)に落ち延びて潜伏していた。
※個人的な意見だが、鎌倉を本拠地にする鎌倉公方の足利持氏公に
常陸国(茨城県)の居城を落とされたのに鎌倉郡に逃げて来ると言うのは不可解な伝承。
そこで横山大膳と言う盗賊の元に訳(わけ)有って仕えていた照手姫と言う美女に出会った。
照手姫は本来は高貴な武士の娘だったそうだが、親を早くに亡くして横山を頼った様だ。
照手姫と小栗判官は恋に落ちて婚約した。
しかしこの横山は武士であり盗賊でもあったので、小栗判官の財産の横領を目論み照手姫の不義も許す訳もなく小栗判官を権現堂で暗殺してしまう。
→権現堂が花應院と関係あるらしい。
小栗は死ぬのだが生前の行いが良く、閻魔大王によって蘇(よみがえ)らせられる。
→だから花應院には閻魔大王が祀られている。

生き返ったものの化物の様な外見に成る病で歩く事もままならなかったのだが、藤沢の遊行寺(時宗の総本山)の大空上人の協力や照手姫の協力で和歌山県田辺市の温泉で湯治して回復すると、再び領地を与えられた。その後手勢を率いて俣野に攻め込み横山大膳を討ち取った。
→常陸国から鎌倉の他人の領地へ出兵したら室町幕府で大事に成って切腹されられるのでオカシな話し。この話の元には何か別の解釈が有るのかも知れない。
一方で照手姫は不幸が続き人身売買で売られて美濃国に流れ着いていたのだが、小栗判官に探し出されて目出度く結婚した。

…って話らしい。
昔は道徳教育の教材に成った話らしい。正直、そんな話を神奈川県民として知らなかった事が恥ずかしい。まぁ、そんなこんなで花應院の御住職に伝承やお寺について御教授頂けてとても嬉しかった。
更に本堂に通されて、目の前で閻魔様の木造を拝ませて頂く事が出来た。
この他に、御住職様が曹洞宗の偉い方と解ったので、同宗派で織田信長公所縁の御寺の江南市久昌寺が廃寺の危機に瀕している事を御伝えし、存続に向けた知恵を御教授頂く事も出来た。さっそく釈迦牟尼仏様に御参りした御利益が有った訳だ。

一頻り御住職から御知恵を御教授頂いて、車を停めたままの飯田牧場に戻った。
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牛さんズに御別れして、横浜の自宅までの帰路についた。

今回は4回に分けて22日の休日雑記を書いたが、当日は色んな偉い諸先輩方から様々な事を御教示賜り、食べ物も美味しく非常に良い休日と成った。
又、有鹿神社を参拝する際は飯田牧場も来たいし花應院の閻魔様と御釈迦様にも御参りに来よう。

これにて22日の休日雑記は御終い。

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