歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:逗子市

これ⤵再生して曲聞きながら読んでくれたら嬉しいです。

百合と萱草の咲く季節
小生の個人的に好きな花。
一番好きな花が野萱草。
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痩せた海岸でも元気に咲く花。
だいたい好きに成る女の人は野萱草が似合いそうな人。
実は中華料理の食材の金針菜は萱草の蕾なのは余り知られてないですよね(笑)?
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昨日07月07日~週末は日本は新暦(太陽暦)に合わせた七夕まつり。
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平塚駅前~平塚八幡宮の商店街では日本三大七夕祭りの一つの平塚市七夕祭りが開催されているけれど、この記事を書いている時間以外は資格の勉強してるので今年は行けない。
そしてもう直ぐ11日。
1516年の7月11日は平安時代からの武家の名門の三浦家が壮絶な日本最長3年半の籠城戦を小田原北条氏相手に戦って玉砕した日。
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小生が尊敬する戦国武将の一人で三浦家最後の当主でもある三浦義意(よしおき)公が500年前、新井城と呼ばれていた油壺マリンパーク跡地の半島の要害に籠城し、1つの局地戦としては日本最長期間の戦いを展開していた。
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相手は北条早雲こと伊勢宗瑞(そうずい)公と北条家二代当主で城攻めの名手の北条氏綱公。
三浦家は先代で隠居の三浦道寸公が、最初は伊勢原市と平塚市の境界である岡崎に有った岡崎城で10年間抵抗する。
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しかし岡崎城が北条氏綱公により陥落させられると三浦道寸公は鎌倉に敗走し弟の道香公が城主を務める住吉城に籠もった。
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今の鎌倉と逗子の市境、リビエラ逗子マリーナ近くの小坪飯島公園のプールから見た背後の丘は要害化された住吉城だった。
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そこで三浦家は再起を期して戦うが再び敗走。
小坪の社寺位置関係小坪旧道廃道
この戦いでは今は廃道の古墳時代から昭和まで使われていた逗子マリーナ前の正覺寺〜海前寺を繋ぐ山腹の切通古道で激しい撤退戦が展開された。CIMG9369
この道は実は倭建命が東征の折に通った古代東海道と考えられている。
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今も海前寺の墓地には首供養の墓がヒッソリと存在する。
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ここから披露山に抜けると、披露山公園から逗子市新宿に降りる林道と浪子不動に降りる林道、それと旧名主高橋家の前を抜ける道がそれぞれ古代東海道だったと考えられている。
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披露山公園から見る富士山の景色も中々に綺麗だったりする。
古代の人々にも景勝地だったのかも知れない。
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三浦義意公道寸公の道寸と言うのは臨済宗系の法名つまり入道号で、彼の親友であり扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣として同僚でもある不敗の名軍師、太田道灌公も幼少期に北鎌倉にある室町幕府で将軍のみが住職の任命権を持つ鎌倉五山(臨済宗の東日本を統べる5つの寺院)の第一位であった建長寺で修業していたので道灌の法名を名乗っていた。
三浦道寸公の実弟で住吉城主だった道香公も実名ではなく法名が伝わっているので、どうやら仏門に入って入道号を称している訳だ。
因(ちな)みに北条家は歴代当主含め家臣団の大半の武士が初代の伊勢盛時公=北条早雲こと伊勢宗瑞公と同じく宗〇と仏教の法名を名乗っていたが、これは宗〇と言う法名が京都の臨済宗大徳寺や曹洞宗の当時の僧侶に多かったので、伊勢宗瑞公が大徳寺で修業していた事も有り家臣団は禅宗で教養を学ぶ機会が多く当時の北条家臣団が建立したり荒廃していた場所を再興した寺院も曹洞宗が多かったりする。
道香公に話を戻すと披露山に上って行く道は当時は3筋程有った様で、その内の1つが今では地域の若い人は名も忘れた秋葉神社の前の道だったりする。
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秋葉神社からの富士山と逗子マリーナの景色も又美しい。
道香公は兄と三浦家の将兵を三浦半島へ撤退させる古代の東海道での戦いの挙句、この古道のどこかで討たれたか自害した様だ。
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逗子駅近くには逗子大師こと延命寺と言う、始まりは行基サンの時代に行きつく寺院が有る。
延命寺には地元の人に慕われた三浦道香公とその家臣団の供養墓が今も守られており、御寺の檀家さんや歴史好きが現在も御参りに来る。
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この辺りは実際に古墳時代には砂州の半島か既に海の中に突き出して隆起した地形だった様で、発掘調査で古墳時代の遺物も周辺から見つかったりしている。
この奥の谷間の地域は沼間と言う地名で、平安時代末に源氏が関東における本拠地を移す以前、源頼朝公の実父の源義朝公によって今の天台宗神武寺~日蓮宗法勝寺にかけての山稜が詰め城化されていて、屋敷地は神奈川県逗子市沼間2‐23辺りに置かれていたようだ。
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逗子市の沼間は当時は沼濱と書いたのでまだ満潮に成ると海水が入る干潟がだいぶ内陸まで川沿いに広がっていたようだ。
逗子駅周辺に話を戻すと、以前も紹介した六代御前不動院は平維盛公の遺児と真言密教の高僧で源頼朝公の友人でもあった文覚上人の菩提寺でもある。
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古代東海道の逗子側の山道の入口に当たりそうなのが延命寺~六代午前不動院の辺りだろうか?と個人的には考えている。
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今は市街化して平地部分の古東海道の詳細は良くわからないけれど、六代御前の墓の横には今もハイキングコースの入口が有る。
この山稜沿いに行くと鎌倉時代の三浦家の本拠地の衣笠城へ抜ける事が出来るが、三浦道寸公は海沿いを南下して葉山町へと出たようだ。
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この立石公園も富士山の景勝地として知られており、歌川広重が江戸時代に描いている事は古参の読者の皆さんは小生のブログでも読んだ事が有ると思う。
相州三浦秋谷
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道寸公は現在は少し内陸部に移転している正行院と言う寺院の旧所在地だった今の葉山の立石公園の先の秋谷海岸のマンション辺りの岬を要害化していた様だ。
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実はこの御寺、和田義盛公と再婚した巴御前の菩提寺でもあり、和田義盛公敗死後の生死は不明なものの彼女の遺髪塚が現在も守られている。
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現在では余り手入れが行き届いておらず、地形しか塚は残ってない。
まぁ、普通に考えて正行院が巴御前の隠居寺で、居所が現在の御寺の地所だったんだろうが古文書が残らないので良く分からない。
この御寺は秋谷海岸から移転している理由が正に戦火だろうと、再興時期から思う。
和田家関連で由緒が有るのに古文書や寺宝が残らないのは、この地域が正に鎌倉時代と戦国時代に異なる2つの北条家との戦いに巻き込まれて焼かれたからだろう。
道寸公は秋谷の城で戦った事は伝わっているので、その城と言うのが海岸に突き出した岬の旧跡地時代の寺院を要害化した物だったんだろう、其処で北条家を迎え討つが再び敗走。
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最後に三浦半島南端、小網代湾と諸磯湾と油壺湾に挟まれた荒井浜の丘上、旧油壺マリンパークの半島全てを城塞化した新井城が決戦地に成った。
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実は新井城の下の海岸、荒井浜も富士山の景勝地だったりする。
この新井城を守っていたのが小生の尊敬する歴史人物の一人である三浦義意公。
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彼は房総半島の小大名で三浦氏族の正木家から海路で三浦半島へ兵糧支援を受けつつ約4年間戦い抜いた。
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その兵糧を保管したのが千駄矢倉と呼ばれた横穴式の人工洞窟だった。
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現存する弁天矢倉もその1つ。
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北条家は旧三崎高校、今の引橋のバス停近くの三浦消防署〜ベイシア辺りに陣城を築き長期戦に持ち込み少しづつ三浦氏を孤立させる。
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最後の時、三浦義意公は共に戦った領民兵士や部下を荒井浜や胴網海岸から船で房総半島や横浜方面に逃すと、自身は僅かな部下と共に海岸直上の城の武者走りと呼ばれる隘路で最後に玉砕戦を仕掛けて兵士達の逃げる時間稼ぎを行う。
生きて帰る場所の無い絶望的な決死の戦いを始める。
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三浦義意公と部下達は槍や刀ではなく金砕棒で北条兵を殴り倒し、海岸の城から油壺の湾に突き倒し或いは撲殺し或いは部下達が弓で敵を射殺し、寡兵で北条軍500人を道連れにしたと伝わる。
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史料を読む前の2017年、おおまかな話をコロナで余り営業しなくなってしまった油壺の駐車場の御土産屋の御婆さん等、地元の方達から聴いて三浦道寸公と三浦義意公の墓参りをした帰りの車中•••
三浦義意公の指揮官としての覚悟と死に様を思い、彼の気持ちを考えて咽び泣いた。
•••実は小生は留学から帰国して就職した会社がブラック企業で前任者が残業200時間超働いた挙げ句、営業中に過失運転致死を起こして小生が引継ぎ、更に中国転勤の同僚の業務も引き継がされた小生は3ヶ月休み無し毎日20時間労働を強いられて過労で鬱になり、上司はお咎め無く小生が会社から早期退職応募の紙を送りつけられて会社を辞めた。

そんな経験があり、三浦義意公の様なちゃんと責任をとる上司の話を聞き、何だか咽び泣いてしまった。
丁度、野萱草や百合の花の咲く季節の歴史と自分の思い出の話し。


今年は命日にお墓参りには行けないけれど、三浦義意公の為に近所のお寺で明日はお線香をあげたいと思う。

過去に書いた関係記事⤵

 

写真も過去写真使いまわしで余り内容濃く在りませんが、七夕の季節の思い出です。
今回の話しで紹介した三浦半島の海岸には水質がとても良く隠しビーチの様な穴場の浜辺が沢山有りますが、昭和には栄えていたのに失われた30年で多くの場所が今の学生世代には知名度が有りません。
皆さんの夏の参考にコノ記事⤵が成れば幸いです。

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朝早く行けば水蒸気多い春でも富士山見えるかなっと思って、逗子市の披露山公園に土曜の早朝、富士山と桜をみに行って蜻蛉返りで帰宅しました。
土曜の久木、ハイランドの桜並木は満開でした。
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逗子市久木の桜並木

ちゃんと撮影してないから余り良い写真ではありませんが、これは山の上から下り坂の下の方を撮影してるのですが、ここは下から撮影して上り方面のバスを撮影すると桜並木がトンネル状に成っていて絵に成る場所なんです。
だから良く、今の時期は撮影に来ている人も見かけますね。普段は普通の住宅街なのですが。
今回は早朝、まだ相模湾の海水温が上がる前に披露山公園に行けば桜と一緒に富士山が鮮明に見えるかな?と思いチャレンジしてみました。
結論から言うと、やはり春だと三浦半島側から鮮明に富士山が見えるのは夕焼の時間帯だけですね~。
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こんな感じで結果的にボヤけてしまいました。
でも桜も散り際の最後の頃に見る事が出来たので、今年は春らしい事を何もせず仕事から帰宅すると休日含めて勉強とスーパーファミコン(笑)ばっかりしてるので、少し嬉しかったです。
肝心の土曜日に見てきた桜と富士山の披露山公園の景色です。
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披露山公園展望台

やっぱり霞んで良く見えなかった(笑)。
でも快晴に富士山と桜を一望出来たのは春らしく、早朝の涼しい風も心地よかったです。
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朝早かったからおサルさんは未だ寝てましたけれど。
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公園の駐車場には浪子不動に降りる林道が有り、そこからは逗子の海が見渡せます。
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その林道とは別に、駐車場の奥に倭建神話で古代大和朝廷軍が行軍したであろう古代の東海道が林道としてヒッソリと残っています。
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今回は歩きませんでしたが、昨年、逗子の郷土史を調べて回ってた時に歩いてみました。
郷土史家の先輩方に色々と御教授頂いて、その先輩方が子供の頃はこの道沿いや下の鎮守の稲荷社の壁面には古墳時代の横穴式墳墓が沢山現存していたそうです。
逗子は早くから金属器の製造が盛んだったので、のちに源氏の大将で源頼朝公の御父上の源義朝公が沼間に本拠地を置いたりする武士文化の素地が有ったんですね。


上の記事の続きを未だ書いていないので、いずれ改めて沼間の神武寺や沼濱城と源義朝公の話と解説記事を書きたいなと思っています。
今週の土曜日は科目テストで、日曜日は両親の結婚記念日の御祝いで出掛けるので詳しい歴史解説記事を書けるか分かりませんが、読者の皆様、長い目で見て待ってやって下されや(笑)。

中途半端な休日雑記ですが、一応、春を感じられたと言う記事でした。
これから躑躅の季節ですね。
箱根の山のホテルや三浦半島横須賀市の大多和つつじヶ丘や川崎市宮前区の等覚院や青梅市の塩船観音の躑躅を楽しんで晩春を満喫して下さい。

学生の皆さん、大学生活と青春の恋愛で神奈川県の景勝地デート楽しんでね~♪
四月、気分を新たに頑張りましょう~!

では皆さん、次の記事でまたお会いしましょう~!
・・・歴史解説書きたい。


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披露山公園
神奈川の景勝50選の1つ
逗子一の富士山の景勝地とハイキングコース

―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
訪問は若干不便なものの、晴天で海上の空気が澄んでいる季節に成ると、由比ヶ浜~稲村ケ崎~江ノ島の相模湾~箱根山系~富士山を一望できる絶景や夕陽を見る事が出来る。
もしデートで彼氏彼女や夫婦で行くなら電車で訪問し徒歩で逗子駅から近くの逗子海岸を歩き小説不如帰の舞台にも成った浪子不動こと高養寺からハイキングコースを登り披露山公園の展望台まで行くと感動するでしょう。
実際に多くの若い女性同士や御夫婦のハイカーが展望台から富士山と夕陽を眺めて感嘆の声を上げる様子を目にする機会が有りますよ♪
もしトレッキングが目的なら昼過ぎ位に逗子駅を出発し逗子海岸~浪子不動遊歩道~披露山公園で休憩~更に披露山庭園住宅を抜けて~大崎公園や逗子マリーナや材木座から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いと思います。
もし歴史に興味が有るのでしたら、逗子駅から程近い六代山不動院も御参りしてから逗子海岸に出ても良いかも知れませんね。
以下が過去に紹介した六代山不動院、大崎公園、逗子マリーナ、材木座の富士山の景勝です。




下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。
【歴史】
この披露山公園は実は古墳時代に倭建(ヤマトタケル)命が通った古東海道と考えられています。
下の地図は国土交通省関東地方整備局サンが子供達の為に作っているホームページに公開されているもので略図ですが凡その経路が解り易く表示されています。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
見やすいでしょう?
下にリンクを貼って置きますね!

国土交通省の推測は実は歴史を知っている人からすれば非常に整合性が有ります。
古墳時代以前からの聖地が神社化したとされる平安時代の醍醐天皇が政令で保護対象にした神社が網羅されている延喜式神名帳に掲載されている❝式内社❞と、古代の史跡をGoogleEarth上に表示し更に国土交通省の製作した古東海道図をGoogleEarth上に重ねると見事に整合性が有ります。
昔の海岸線と古道 久良岐のよし
上の地図で住吉城と表示されているのが披露山公園の向かい側の山で、吾妻鏡に登場する畠山重忠公と和田義盛公が開戦した坂道の入口、すなわち名越の坂や古東海道の切通道を眼下に抑えた住吉城址です。この城名由来の神社が住吉神社です。
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住吉神社
住吉城址に在る鎌倉郡総鎮守と伝わる古社
正覚寺の下にある現代廃道にされた切通道が古東海道と伝わります。
ここ等辺りは以前、小坪の歴史を調べ始めた時に少し記事にしましたので御興味有る方は下の記事を御覧下さい。

ところで住吉神社は小坪の郷土史を調べると、逗子市が鎌倉時代以前に旧鎌倉郡で三浦郡では無かった事が解り、更に住吉神社が鎌倉郡の鎮守の神社と元々は社格が高かった事も解ります。
つまり本当に古東海道がここを通過していたので、社格の高い神社や重要な御寺も逗子市には沢山存在したし現存もしているのでしょうね。
正覚寺の下の鎌倉時代の和田義盛公と畠山重忠公の古戦場でもあり、戦国時代の伊勢原市と平塚市に跨る大城郭の岡崎城主で岡崎城三浦道寸公と住吉城主三浦道香公の御兄弟と北条早雲こと伊勢宗瑞公と北条氏綱公親子の名将達が住吉城攻防で三浦家の撤退戦の大激戦地となったのが、この古東海道でした。
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今では放置されて長い時間、草木が生い茂ってしまいましたが路盤は今も残っています。
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逗子マリーナから見上げて段地になってる上のフェンスの中が古東海道、神話の道で名将達の住吉城争奪戦で主戦場と成った当時は写真を撮影してる位置が海で、海の上にそそり立った崖に穿たれた蜀の桟道の様な天下の険でした。
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反対側は海前寺様に繋がっており、御寺が古道の出入口を守る形で存在している事からも正覚寺は江戸時代の記録に戦火に遭ったと記載が有るので戦国時代まで古道の入口の砦として利用されて戦火で廃寺に成り、約1世紀後に浄土宗寺院として再興されているようです。
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海前寺様の墓地にも昔の道が残されています。
この墓地には戦国時代の住吉城址の攻防の将兵を弔う首塚が余り知られていませんが存在します。
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この首塚の場所は元々は矢倉だったみたいですね。
さて、鎌倉時代にここで戦ったのは皆さんも鎌倉殿の13人で既に良く知っているかと思いますが初代鎌倉幕府別当の和田義盛公と畠山重忠公です。
鎌倉殿三浦義村小鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿和田義盛
子 ⇔ 親:三浦義明公の子:叔父 ⇔ 甥
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実は三浦義明公の孫
鎌倉殿畠山重忠
この戦いでは畠山重忠公は由比ヵ浜に陣地を置いたとされるので極楽寺坂の下の長谷観音辺りに陣地を置いていたかも知れませんね。
三浦氏は家長の三浦義明公(89歳)の守る三浦半島の中央部の三浦家本拠地衣笠城を防衛する為に畠山重忠公の由比ヶ浜の対岸の披露山公園のある古東海道を守る住吉要害に陣取った和田義盛公と現在の葉山町と逗子市境界にある鐙摺城を三浦義澄公が守りました。
当初三浦義澄公は畠山重忠公は甥っ子に当たる為に開戦する心算は無かったと伝わりますが、源義朝公への忠誠心の高い和田義盛公が畠山重忠公へ宣戦布告をして開戦しました。
但し戦ったのは源頼朝公が鎌倉幕府を開く前の話です。

ちょうど最初の頃にこのシーンが和田義盛公の勘違いで開戦したように描写されていましたね。
さて、そんな訳で披露山は凄い歴史偉人たちが通過した場所なだけでなく、源より朝公が部下達に褒美を与えた宴会を開いた場所としてもしられ、それが披露山の披露の地名の由来と伝わります。
是非、頼朝公も見た景色を皆さんも見て見ませんか?
鎌倉殿源頼朝
「風景良いから皆も遊びにおいで!」
倭建命の聖地巡礼で訪れて古道として散策しても良いかもしれませんね。
三浦半島には披露山を通過して房総半島んいと訪れる前に倭建命と弟橘姫夫妻が滞在した走水の御所ヵ崎と走水神社も有ります。


では、披露山公園の富士山の絶景や周辺に纏わる解説はここまで。
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鎌倉の13人、皆さん見てらっしゃいますか?
逗子市には鎌倉殿の13人の前半で非常に重要な登場人物の御子孫と関係の有る、昭和初期まで一大観光地で多くの地元の人からも愛された六代午前と呼ばれた人物の墳墓と、その菩提を守る御不動様の御堂が有ります。
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六代山不動院と六代御前の墓
神道や仏教の古来の価値観でよくある高貴な歴史人物や偉大な功績を残した歴史人物が祀られた場所が聖地化するパターンの場所ですね。
六代御前様は疱瘡治癒つまり天然痘や水疱瘡等の病気回復の御利益が有ると昔から信じられていたので、今世界で流行り始めている❝猿痘❞と言う疫病にかからない心掛けをすると言う意味でもお参りしておくのは良い事かも知れません。
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六代御前をの菩提を守る御不動様の御堂は正式名称を六代山不動院と呼び、神奈川県民で御朱印収集や歴史が趣味の人間なら誰でも知っている三浦半島が誇る名古刹の神武寺が現在では管理を兼務する別当寺を務めておられ、そこで祀りされている不動明王像は神武寺から寄贈された仏像だったりします。
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醫王山 来迎院 神武寺
神奈川の景勝50選の一つ
この御不動様によって菩提を守られている六代午前、鎌倉殿の13人にも登場する重要人物と非常に関係の深い人物なのですが鎌倉時代の歴史舞台の中心である神奈川県や京都府でも余り知られていません。
この神武寺は未だ小生のブログでは単独の記事で紹介した事は有りませんが源氏と非常に関係深く神秘的な御寺なので、過去の関連して紹介した場所の記事が有るので御興味有る方は下のリンクから記事を御覧下さい。
 
話を六代御前に戻すと、この六代御前と言うのは地名や施設名ではなく人物の渾名(あだな)です。
彼の本名は俗名を平高清(たいらのたかきよ)、法名を妙覚法印と呼び承安三年(1173年)〜建仁二年(1202年)を生きて29歳で人生を終えた人物です。
法印と言うのは真言宗や天台宗や修験道の密教仏教系の僧侶や山伏が与えられる法号です。
つまり御坊さんですね。
後で解説するのですが、六代御前こと妙覚法印様は源頼朝公の親友であり密教の高僧の文覚上人の直弟子でも有ったので修験系の修業をされた人物で法印を名乗ったのだと思います。
文覚上人の御弟子サンなので、以下、法印ではなく偉い人と言う意味も有る上人を用いて妙覚上人と書かせて頂きたいと思います。

先ずは六代御前がどの様な人物だったか鎌倉殿の13人の登場人物紹介とギャラリー画像を拝借して皆さんと相関関係を見てみましょう。
歴史が好きな人や鎌倉殿の13人を見ている方なら六代御前の俗名が平高清で有る事から氏姓が平と判りますよね?予備知識が無くても・・・
鎌倉殿平清盛
「あれ?平て氏姓は平清盛公の親族?」
・・・と察しが付くかと思いますが、実はその通りで六代午前は平清盛公の嫡流つまり本来ならば跡継ぎに成る資格が有った人物です。
鎌倉殿平維盛
六代御前の実父は平維盛(これもり)公です。
平維盛公は幾つかの歴史書では平家滅亡前に相模国に入り鎌倉幕府に亡命している事を匂わせる事が書かれています。
そして維盛公の子の六代御前は維盛公が亡くなると、源頼朝公の親友だった文覚上人に引き取られ僧籍に入る事で絶対に俗世に戻って兵乱を起こさないという担保の下で29歳まで僧侶として生きたそうです。
六代御前の師僧に当たる文覚上人は頼朝公の親友で元は天皇家直属の北面の武士で武家としての高い文化教養も備えていた人物で高僧に成る素養と仏教知識を備えていたにも関わらず、鎌倉殿の
13人の三谷演出では登場当初から悪意有る演出で乞食の様な風体と詐欺師の様な物言い、そればかりか親友の頼朝公に対する謀反に加担する様な事実と正反対の脚色をされています。
・・・歴史事実を伏せたまま
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文覚上人屋敷跡
これは文覚上人の属した真言宗や文覚上人の開いた神社仏閣の宮司様や御住職や檀家氏子サン達、密教系の教養を大切にする天台密教や修験道の方々から見ても明らかに宗教侮辱行為に当たり話を面白くする範疇を逸脱しています。
実際に逗子市桜山の六代御前の墓所を守り菩提を弔う六代山不動院を兼務する神武寺は天台宗の名古刹な訳ですが真言密教の高僧の文覚上人を天台宗の僧侶同様に敬意を表しており、兼務する不動院で文覚上人の菩提を丁重は六代午前様と一緒に弔われています。
小生は文覚上人に対する演出に関しては批判的に捉えています。
鎌倉殿の13人の登場人物紹介で不埒な演出画像では真言宗からも天台宗からも源頼朝公からも実際には尊敬され現在も大切にされている文覚上人に対して失敬です。
鎌倉殿文覚鎌倉殿文覚2
  Before  ⇨   After   
なので小生の解説ではNHK公式から拝借する画像をNHKサンの名を傷付けない為、少し小生の方で相応しい紹介画像に改造した上で、この後の解説に借用させて頂きたいと思います。
そもそも何で市川猿之助は髪の毛剃ってないんでしょうね?ヅラくらい被れよ。
破戒僧みたいな風体にしやがって・・・。
さて六代御前の出自と恩人の事が解った所で先ずは逗子市に有る六代御前の墓所と伝わる史跡と、その菩提を弔う六代山不動院を皆さんに紹介したいと思います。
施設の紹介が終わったら、何で六代御前のパパの維盛公が鎌倉幕府に亡命する事に成ったのかを皆さんと一緒に考えてみましょう〜♪
先ず六代御前の御墓から紹介します。
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六代御前の御墓は昔の尾根筋の古墳時代からの古街道の入口に在ります。
この六代御前の石段の上に立派な大樹が有ります。
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そこに江戸時代に建てられた供養墓を更に作り直した物が有ります。
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多くの歴史偉人の墓所を参拝して来た経験的に彼は保護を約束した源頼朝公の死亡後に殺害されているので罪人扱いで当初墓石も無く土饅頭だったと思います。
その土饅頭に植えられた樹がもしかしたら背後の優しく枝を広げた大樹かも知れません。
ここの場所から後ろを振り返ると今は建物が往時よりも高くなってしまって田越川が注ぐ逗子海岸を見渡す事は出来ませんが平地を見渡せて昔は海が見えさぞ眺望が良かったであろう事を感じる事が出来ます。
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この六代御前墓の入口の参道階段に向かって右手に神武寺様が兼務されている六代山不動院が在ります。
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独立した御堂では有りませんが、ちゃんと礼拝所として機能しています。
中には神武寺から寄贈された不動明王様が祀られ、管理人サンが常駐し御堂を守ってらっしゃいます。
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この小さな御堂にはちゃんと真言密教の高僧で修験道にも精通した文覚上人と弟子の六代御前こと妙覚上人の御堂らしく護摩壇が有り、天台宗に改宗してからも天台密教として護摩行が現代も行われていいるそうです。
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だから護摩壇の上の屋根が格子に成ってるんでしょうか?そこに関しては質問するのを忘れたので天井の構造や素材については不明です。
さて、この御堂に祀られた中心の御不動様の左右に金色の御厨子が見えますよね?
実はこの2つの御厨子に文覚上人と六代午前平高清入道妙覚上人の御位牌が収められています。
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右手、文覚上人の御位牌。
個人的に歴史偉人の御位牌を多く拝ませて頂く幸運に恵まれて来た小生の経験的な感想として、見た感じ、早ければ安土桃山時代、遅くとも江戸時代の前半か中期に作り直されたか塗りなおされている様に感じます。
左手、妙覚上人の御位牌。
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こちらが六代御前様の御位牌。
では根拠として同時代の御位牌を見てみましょう。
下は愛知県江南市が文化財指定しなかった為に廃寺に成った曹洞宗久昌寺に納められていた織田信長公と織田信雄父子の御位牌と信雄公の生母である生駒吉乃様の御家族の御位牌です。
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大きさとか黒漆のくすみ具合が大体同時代位の物に見えるでしょう?
余談ですが、久昌寺に関しては過去に紹介記事を書いているので織田信長公や吉乃様に関心が有る方は以下のリンクから過去記事を御覧下さい。

さて、六代御前の出自の解説に戻る前に少し六代山不動院に関して面白い事も有るので解説して置きたいと思います。
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この民家の様な建物は実は神武寺様の兼務する寺院でありながら、地域の神明社の氏子サン達の集まる社務所としても機能しているんですね〜♪
この事が珍しい事は、伝統的な仏教と神道の宗教関係者なら喜ばしい飛鳥時代〜江戸時代末迄の約1300年間続いた古来の祭祀の様式が残っているレアケースとして直ぐに理解出来る訳です。

明治時代、以前は法相宗、華厳宗等の古仏教のみならず真言宗、天台宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗等の現代にも残る多くの宗派の御寺の境内や背後の山には❝守護神❞の神社が祀られていました。
逆に神社にも明治政府に偶像崇拝や岩や滝を御神体とした自然崇拝し祭祀を執り行う形から社殿の中で御神鏡を拝む宗教に改革され神道が造り替えられるまで、多くの神社で歴史人物の彫像や神仏習合の神様を偶像化した仏像も御神体として祀られ守られていました。
有名な話ですが神武寺の属す天台宗の総本山の比叡山では、国家神道を利権化の手段として日枝神社の関係者が延暦寺に乱入し、比叡山全山に有った神廟に祀られる仏像を破壊したり捨ててしまった事は有名な話です。
同じ様な事は東京でも起きていて有名な深川の富岡八幡宮は元々八幡宮自体が神仏習合で仏教系施設でしたが、やはり神社かさせられて寺院機能を停止させれれています。
藤沢のこれは江ノ島でも同様の事が起きています。
しかし逗子市は有力者が集まる別荘地だった事で少し事情が違い、宗教改革で小さな神社を廃社にしたりしても手を出せず神仏習合の御寺を勝手に神社に変えて神職を公務員利権化出来なかった様です。

逗子市は徳川家や華族や財閥豪商はじめ多くの名士が別邸を構えた影響からか明治時代の廃仏毀釈神仏分離令が施行されて多くの私有地に祀られる小規模な神社や歴史有る寺院が廃絶させられる原因と成った宗教改革で神道が造り替えられて国家神道が成立しても、名士の方達から景観を破壊した事で怒りを買うのを恐れてか、行政によって小規模な神社が名目上は廃社にされて地域の比較的大きな神社に統合されても元の御社が破壊されず残っている場所が多くあります。
逗子が魅力的な理由は、別荘地でありながら古い文化と自然も共存させて大切にして来たからなのかも知れませんね!

六代御前の実父は平維盛(これもり)公な訳ですが・・・
「これ本当なのぉ〜?」
・・・と思いますよね?なので有名な歴史書だけではなくて伝承も交えて検証してみましょう。
実は維盛公は幾つかの歴史書では平家滅亡前に相模国に入り鎌倉幕府に亡命している事を匂わせる事が書かれている訳ですが、この平維盛公が本来は平清盛公の跡継ぎである父親で名将の平重盛公が早くに亡くなってしまった為に一族内でこの六代午前=平高清公=妙覚法印の実父、維盛公の父親つまり六代午前の祖父の平重盛公は実母が高階氏出身でした。
後継者争いが起きていた様で叔父の平宗盛が政権を掌握してしまいます。
鎌倉殿平宗盛
対して平宗盛は実母が重盛公と異なり清盛公の継室の平時子で、この平時子は清盛公との間に平知盛、平重衡、平徳子等を産んだ上に平時子の妹の平滋子は後白河天皇の后に成って高倉天皇を産み、更に平宗盛と同母妹で平重盛公とは異母妹に当たる平徳子が高倉天皇に嫁いで安徳天皇を産んでいた事から完全に平家内で宗盛ー時子の勢力が主導権争いで優位に立ってしまいました。
まぁ現代にも政策能力が無いけれどパフォーマンスや派閥構築の陰謀が得意な政治家っていますよね?
そして、その様なタイプは身内ですら権力争いの為なら足を引っ張る訳です。
現代の常識は当時の非常識、貴族や武士の時代は例え血縁が有っても異母兄弟は外戚が家督相続に関わるので血みどろの殺し合いが当たり前の時代です。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿安徳天皇
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平知盛
前妻の子である重盛公の家系を❝ハブる❞政治的駆け引きが行われ平家は重盛公亡き後は天皇家との繋がりから無能な平宗盛が結果的に血縁だけで跡継ぎ格に成り、後白河法皇もそれを望んでいた様です。
どうやら鎌倉殿の13人と異なり実際の平宗盛は小泉孝太郎君の様な良い人ではなく只の縁故を利用して同族をイジメ倒した悪人だった様ですね。
後白河法皇は高倉天皇に位を譲り更に高倉天皇の後継に安徳天皇が即位した事で法王となり後白河天皇から後白河法皇と呼ばれるよ様に成った人物です。
この様な政治的な駆け引きも有って重盛公の遺児である維盛公と資盛公の兄弟は苦しい立場に置かれていました。
鎌倉殿源義仲3鎌倉殿巴午前3鎌倉殿今井兼平
信濃国〜北陸で源義仲公が挙兵すると、平家は源氏軍討伐の軍勢を起こしますが本来は平重盛公の嫡子で京都にいるべき平維盛公が総大将として出陣する事になりました。
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平維盛
「行ってこいよ」⇒「は・・・叔父上は」 
「私は法皇を守る」⇒「解りました」 
六代午前様の御父上、維盛公は富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いで大敗北を喫した事で更に立場が悪くなりますが、実は困難な戦を宗盛に押し付けられていたんです。
ドラマの中では源義経の腰越状は宗盛公が書いた様な設定でしたが、後白河法皇と源頼朝公と共通の知人で交流が有る人物と言う事を考慮すると、もし代筆者が存在したのならば平維盛公だったかも知れませんね。
平重盛公の子息である平維盛公や平資盛公は平重盛公に弾圧され、尚且つ後白河法皇の平宗盛追悼令の枠の外に外れた平維盛公は平家滅亡以前の早い段階で頼朝公この人達は全員が深い関係に有った事に成る訳ですから。
六代午前の父君である維盛公が合戦を行った際、当然ながら将兵は維盛公の弱い立場を侮(あなど)る事に成るので忠誠心なんか有りませんし宗盛の配下部将が与力として参戦していても指揮命令系統も主導権争いが起こってグチャグチャに成るでしょう。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿安徳天皇
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平清宗鎌倉殿平知盛
安徳天皇の外戚集団化した宗盛一党
疎外
鎌倉殿平維盛
維盛公の同父兄弟の平資盛公、平清経公等
構図的には上の様な状態だった訳です。
これを現代の会社に例えると、主人公である平維盛公の実父の重盛公が創業者一族として大企業の社長を務めていたのが早く亡くなってしまい、祖父の平清盛公が大物政治家の親族を後妻に貰って子を作っていたのが後継者争いで政治的な争いを怒らされ、親族経営企業なのに全く各部門から協力を得られず難しい仕事を押し付けられた状態と言うのが実情かも知れません。
まぁ〜何か・・・
平成期に日本でも同じ様な話は何件か有りましたよね。
政権と企業の規模は違えど武家のTOPの平宗盛公は家具販売店のTOP大塚家具の大塚久美子サンと同じ様に未だ敵勢力が拡大中にも関わらず権力闘争を仕掛けて身内の潰し合いを経て異父兄の子を追い詰めて実力を発揮させる事が出来ないまま同じ様に家を滅ぼす事に結果的に成りました。
鎌倉殿平清盛鎌倉殿平維盛
「しっかりね」⇨「御爺様お任せあれ」
そもそも、最初は平清盛公も維盛公の父の重盛公と孫の維盛公を信頼していた訳で、まぁ〜欲深い人間がいると組織が機能不全を起こし国が腐る典型例でしょうか?
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿平宗盛
「跡継ぎたい?」⇨「はい・・・・・・」
「右大将なる?」⇨「・・・・はい!」
「重盛に並ぶね」⇨「・・・・・・・・。」
この当時、維盛公の父君の重盛公は左大将を務めているので、実は平宗盛公を右大将にする事は重盛と同格に扱い、一見すると平家にとっては右大将と左大将を独占し良い事の様に見えますが後白河法皇の長期的な視野の欠如した思い付きの策略だったと小生は個人的に推測しています。
つまり平家内で本来嫡流の重盛公を抑える事が目的でしか無かったでしょう。
この推測は後の後白河法皇の行いを見ても明白ではないでしょうか?
①平清盛追討令⇨源義仲              
鎌倉殿平清盛鎌倉殿源義仲3
②源頼朝追討令⇨藤原秀衝      
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿藤原秀衡
③源義仲追討令⇨源頼朝        
鎌倉殿源義仲2鎌倉殿源頼朝3
④源頼朝追討令⇨源義経         
鎌倉殿源頼朝2鎌倉殿源義経2
⑤源義経追討令⇨源頼朝        
鎌倉殿源義経3鎌倉殿源頼朝4
⑥源家暗殺密勅?⇨北条時政       
鎌倉殿源頼朝5鎌倉殿北条時政2
長期的視野の欠如した行き当たりばったりの勅令乱発。
これでは纏まる天下も纏まる訳が無いし、部下である貴族も武士も後白河法皇の為に働きたいとは思わないでしょう。現代の会社社長に置き換えると常に部下同士に業務妨害を行い相手の仕事の質を落としたり相手のミスを捏造する為に商品の品質検査で良品に故意に不具合品を混入させたり、誹謗中傷の流言飛語を法皇自ら流して「アイツが言ってたよ」と部下同士の憎しみを生み出すようなカオスな経営者不適格な人物だった事が良く解るのではないでしょうか?
そう言った意味では後に元寇で朝鮮軍が元軍を巻き込んで日本に対して無差別虐殺を手段とした征服戦争を仕掛けて来た際に、これを撃退する国の基礎を清和天皇の皇孫である河内源氏の源頼朝公と桓武天皇の子孫である伊勢平氏の北条義時公が作り上げて下さった事には日本人として感謝しか有りませんね。
もし後白河法皇の様な朝廷貴族中心の足の引っ張り合いを政治と勘違いしている混乱した国家運営を続けて公益を顧みず富国強兵を行わない下らない権力闘争だけの政治を元寇の起きる文永十一年(1274年)迄続けていたらと思うとゾッとします。
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿北条義時2
「おい〜北条!」⇄「将軍は飾り
源頼朝公の代に貴族政治と全く別の政権を打ち立て国を纏める下準備を終え、桓武天皇の子孫である伊勢平氏の北条義時公が更に鎌倉武士団の文化度や教養を向上させる素地と当時の世相に即した法治主義の統治機構を構築して下さった御蔭で現在の私達は文化的な生活を享受出来ている訳ですね。
この2人はもしかしたら暗殺された側と暗殺した側である可能性も有る訳ですが、実は政治思想では戦の無い世の中の実現、南宋の様に文化を成熟させる事、地方も開墾し豊かにする事など見ている方向は同じだったのかも知れませんね。
鎌倉殿平維盛
さて、そんな二人の立ち上げた鎌倉幕府に平維盛公が亡命して来たらしき事が源平盛衰記に書かれている訳ですが・・・


吾妻鏡はあくまで北条家側が記録した物なので政治家の意図が介在するか有無は置いておいても現在の政治でも官僚の方達の中には稀に不都合な情報を隠蔽したり削除する人がいるように、吾妻鏡も怪しい部分が沢山有って、偶然にしては出来過ぎた様に神奈川東京埼玉千葉の関東地方南部の夫々(それぞれ)の郷土史では各伝承が整合性が有るのに公式記録みたいな吾妻鏡だけは全く違う事を書いていたりする部分が何箇所存在しますが、それが今回の記事の六代午前の史跡と平維盛公生存説に繋がります。
吾妻鏡では旧暦の治承四年廿日己亥(西暦11月16日)〜廿一日(17日)に平維盛公が富士川の合戦で大敗しています。
鎌倉殿平維盛鎌倉殿源頼朝3
富士川の戦いで平維盛公の率いる軍勢は忠誠心も無く統制がとれずに源頼朝公率いる坂東武者連合軍に大敗を喫します。
この時に平宗盛が何をしていたかと言うと、散々平重盛公の遺児達の足を引っ張る雰囲気造りをしていた割に結果的に平維盛公が大敗すると臆病にも平清盛公に京都を放棄して逃げて福原に遷都をする様に訴えて清盛公と口論しています。
鎌倉殿平宗盛鎌倉殿平清盛
この口論の後、後白河法皇と平宗盛にとっては好都合、平清盛公にとっては不幸で不審な事件が多発します。
治承五年(1181年)正月に突如、後白河法皇の後継者の高倉天皇が崩御します。安徳天皇は幼く政治を執(と)り仕切る事は不可能なので後白河法皇の政権が復活します。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿安徳天皇
更に同月、真偽不明の高倉天皇の遺言で平宗盛が平家の後継者に成る様に勅令が有ったとされ平氏の惣領に宗盛が就任します。高倉天皇の死から5日後の事でした。2月には維盛公を出し抜いた平宗盛は兵を率いて自ら関東に頼朝公討伐に行かなければならない立場に納まったのですが行かなくて良い理由が突然出来ます。
旧暦二月四日(1181年02月22日)高倉天皇と同じ様に突然、平清盛公が病にかかりますが、これが非常にタイミングも記載の症状も不審でした。
平清盛公は死亡直前の様子を表した文章の病状を見ていると何だかカエンタケの中毒症状に酷似していると思うんですよね〜。

鎌倉殿平清盛
——清盛公死の直前の病状——
病付き給ひける日より,水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し
悶絶躃地して七日と申ししに終にあつち死にに死にけり。

——カエンタケの中毒症状——
肌に触れると接触部位の炎症を起こす
食後30分から、発熱、悪寒、嘔吐、下痢、腹痛、手足のしびれなどの症状を起こす。
2日後消化器不全、小脳萎縮による運動障害など脳神経障害により死に至る事もある。

鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿平宗盛
「アンタ等⤴やったなぁ〜!?完全に!」
・・・と思うのは小生だけでしょうか?この清盛公の発病によって前回も平維盛公に総大将の役割を押し付けた平宗盛は嫌な戦に行かずに済みました。更に後白河法皇は完全に政権を平清盛公から奪い返す事が出来た訳です。維盛公は中立な平清盛公の後ろ盾も無くなり完全に立場が無くなってしまいますが、その後に駿河国の戦いでは源氏軍に快勝しています。
鎌倉殿平維盛
 VS
鎌倉殿源行家鎌倉殿源義円
この戦いで源行家を壊走させ頼朝公の実弟の義円を討ち取って信頼を得た訳ですが、その後の北陸方面の戦いでは連戦連敗しますが、そもそも、この北陸戦線は完全に平家にとって不利な戦でした。
飢饉による兵糧つまり戦時食料である米が確保出来ないまま宗盛の命令で源氏討伐に出陣させられてしまったんですね、又もや平宗盛が自らが対象として出兵する役割から逃げてに不利な戦を維盛公に押し付けられている事が解ります。
維盛公の軍勢は仕方なく朝廷から❝食料の現地調達=徴発=強奪❞の許可を得て行軍しながら村々で農民から食料を略奪しながら戦いに向かわされたんですね。
こんな状況で士気が上がる訳がありません。どっかで聞いた様な話しだな?と思った方はロシアが対ウクライナの開戦した直後の状況を思い出して貰えれば良いかと思います。
あんな風に十分な武器と人数がいたとしても、食糧も無く兵士気が上がらず忠誠心も低い軍勢では幾ら大軍でも勝てる可能性はダダ下がりな訳ですね。
北陸戦線での倶利伽羅峠の戦いは非常に有名です。
鎌倉殿平維盛
VS
鎌倉殿源義仲3鎌倉殿巴午前3鎌倉殿今井兼平
まぁ、そんな訳で維盛公は連戦連敗して平家は都落ちする事に成ったのですが、別に後白河法皇からしたら武家は殺して交換すれば朝廷の良い歯車の保守部品程度の認識だったのでしょうか?京都から逃げもせずに源義仲公に将軍職まで授けています。
この北陸の一連の戦いで平家軍は完全に壊滅して源義仲公は都を制圧に成功すると、後白河法皇は❝朝日将軍❞の渾名(あだな)される征東大将軍称号を源義仲公に与えて平家も完全も福原京(神戸市)に天皇を伴って遷都する事と成り追いやられます。
鎌倉殿後白河法皇鎌倉殿平宗盛
この様に内情を見ると平維盛公は一連の合戦に大敗したり大勝したりしていますが、どうやら原因は維盛公御本人の資質と言うよりは平家内の跡継ぎ争いが起きていたり朝廷内の後白河法皇と平宗盛が非常事態にも関わらず下らない権力闘争にかまけてシッカリと源氏追討軍の指揮官である平維盛公をサポートしなかった事が大きな要因として有った様です。
何だか左右問わず現代の政治家みたいですね、日本は民主主義国に成っても余り平安時代から本当に国民と国益と自然文化の保護と活用の事を考える政治家はおらず余り程度が変わって無いのかも知れませんね〜。

・・・普通に会社の中だって維盛営業部長が新規契約取りに行っても、宗盛総務部長が出張費出してくれないとか維盛部長の部下達のボーナスをショッパイ額しか与えないとか出世させないとか訳の分からない事をしていたら会社が内部崩壊して行くのは当たり前の事ですよね?そして、その原因を作っていたのが後白河法皇と言うのが全体の構図から見えてきます。
こんな事が有って、平維盛公の家族は平氏が壇ノ浦で滅びる前に平家政権を離脱していた様です。
ここから六代午前の伝承に史実が繋がって行く展開に成って行きます・・・
源平盛衰記と言う当時の話しを纏めた文書に紹介されています。
 

それによれば平維盛公は源頼朝公の支配地である関東へ行く事を希望し後白河法皇に命乞いをして、源頼家公に対して後白河法皇から維盛公の相模国入りの斡旋(あっせん)が行われたようです。
真面目⤵経験不足   バカ⤵社長     
鎌倉殿平維盛鎌倉殿後白河法皇
「満足ですか?」⇨「ん何の話し?」
「消えたげます」⇨「大変だねぇ?」
「せめて・・・」   ⇨「・・・言ってみ?」
「手引は宜しく」⇨「頼朝の所行く?」
        ⇩
「 (指図して来る奴全員消えたわ♪)」
「(やっと!好き勝手出来るわ〜♪)」
どうやら後白河法皇の頭の中はこの程度の認識だった事が状況整理すると見えて来る訳です。
そして平維盛公と重盛公の御子息兄弟は福原の遷都にも後ろ向きで平宗盛に謀反を疑われていたので、平維盛公は平宗盛等と決別して後白河法皇にとっても自分がいなくなる事が都合が良いのを理解していたのか鎌倉幕府の源頼朝公の下への亡命仲介を後白河法皇に依頼した様です。
維盛公は相模国に無事に入る事が出来たそうですが、その後の話しは諸説有りぶっちゃけると良く解っていない様です。
一説には湯下宿と言う場所で病死したとありますが、鎌倉で処刑されたという話も有ったりとマチマチで、京都の人や鎌倉幕府の中の人から見ても消息不明と言うのは本当は源頼朝公が匿(かくま)っていたのを、頼朝公が亡くなったタイミングで幕府が処刑させているので北条家主導で彼等が生きた存在自体を隠蔽したのではないでしょうか?
鎌倉殿源万寿頼家
同じ様に殺した甥の源頼家公の責任かの様に死人に口無しとばかりに粉飾して。
維盛公が死亡したとされる湯下宿が今ではどこか解りませんが、地名からすると湯下と書いて湯下(ゆもと)と読むのかも知れませんね。
当時の西日本から鎌倉に向かう鎌倉往還が今の箱根湯本の湯坂峠なので、もしかしたら箱根湯本の湯坂道の下の比較的古い時代から存在する温泉街で亡くなったとされてのかな?

この道については以前、鎌倉殿の13人の最初の頃の北条宗時公の死亡した時の話を紹介した記事の中で解説しているので御興味有る方は下のリンクから御覧下さい。
さて、そんな訳で平維盛公は実は相模国に来ていて頼朝公の御存命中は庇護されていた状況に有った様でが、本当に相模国にいてもおかしくない状況証拠が有ります。
それが六代午前の存在な訳ですね。
鎌倉殿平維盛鎌倉殿源頼朝
「御頼み申す〜」 ⇨「ん〜良いよ♪」 
そして平維盛公の遺児の平高清公、文覚上人の弟子に成り入道して妙覚と名乗る六代午前に話は繋がっていきます。
関西方面に平維盛公の死亡説が複数個所有りますが、これ自体が平維盛公が平宗盛公の追っ手がかからないように欺いた偽報の計略の名残りかも知れませんし、関西地方で伝わる熊野地方は実は古くから源家との結びつきが濃い土地でした。
例えば源義経の部下の武蔵坊弁慶は熊野三山を治めた熊野別当職の熊野湛増(たんぞう)の子と伝承しており、この伝承は熊野地方だけではなく彼が幼い頃に修業したと伝わる姫路市の書写山圓教寺にも同様の伝承が伝わります。
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※ガラケー時代の写真で不鮮明ですが御容赦下さい!
書写山 圓教寺
天台宗 別格本山
実は関東人の小生ですが学生時代の昔の彼女が姫路の人だったので書写山も何回か参拝した事が有り、この話を知っていましたwww。
この書写山は天台宗の別格本山であり、尚且つ熊野別当の湛増の子である武蔵坊弁慶が幼少期に僧侶として修業に励んだ寺院と伝わっています。
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綺麗な場所で度々映画のロケ地にも成る場所でしてラストサムライでは圓教寺の食堂(じきどう)が渡辺謙サンが演じた反新政府軍の首領で明治天皇の側近だった勝元盛次の屋敷と言う設定に成っていました。


トム・クルーズさんは公開中の映画のトップガンマーヴェリックでも主役を張っていますね〜。
日本にも公開に際して又来て下さった様です。
さて、兵庫県姫路市の書写山は熊野信仰の聖地紀伊半島と何故密接な関係が有ったかと言うと聖地である熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は明治以前まで神仏習合で滝や川や山を御神体とする聖地信仰の対象でした。
明治時代に聖地信仰は弾圧されるのですが、それ以前の熊野三山は神道、真言宗系仏教と天台宗系仏教の密教の僧侶達も山を巡るや山伏の格好をして山道を歩いて巡礼して回る修験道の霊場修業場として栄えていたので、熊野三山の別当職も天台密教とも真言密教とも縁が深かった訳です。
鎌倉殿弁慶鎌倉殿源義経
そんな当時の宗教的な繋がりで弁慶サンは天台宗の別格本山で大きな勢力を誇った書写山に入山して僧侶として修業をする事に成ったのですが、後に弁慶サンは勤務地が比叡山に移った様で、この話が牛若丸(義経)と弁慶の五条大橋の伝説に繋がる訳です。
まぁ、この話は弁慶が刀を千本強奪するのを目標に武士を五条大橋で襲っていた云々有りますが、この千本は後世の人の伝聞間違いで元々は小生は千本通(旧朱雀大路)と旧五条の松原通りの十字路を流れる堀川の橋の事を指して、現代の五条大橋の話しではないんじゃないかな?と個人的に思っています。
堀川に架かる橋なら道幅も狭くて襲い易いですからね(笑)。
弁慶は天台宗の僧侶で、この天台宗は平家と非常に仲が悪かったのですが、更に源義経の奥州下向に際しては天台宗の総本山の比叡山の僧侶俊章達が源義経を奥州まで送り届けた事が伝承しています。
更に弁慶の家系その物が源家と密接な関係が有りました。
熊野別当職十八代湛快の妻は源為義(ためよし)公の姫で、熊野別当職と言うのは熊野本宮大社の運営を取り仕切っていた仏僧の最高職です。
この湛快と為義公の姫の子が弁慶の父の湛増な訳ですが、弁慶の曾祖父に当たる源為義公は、源義平公、源朝長公、源頼朝公、源範頼公、源義経、源義仲公の全員の祖父に当たる人物です。
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経2鎌倉殿源義仲3
つまり、この人達全員が弁慶とは当時の価値観でそんなに遠くない親戚関係だった上に熊野信仰と密接な関係が有った訳ですね。
範頼公に関しては以前、菩提寺の太寧寺を紹介した事が有るので御興味有る方は以下のリンクから御覧下さい。
この様な宗教的なコネクションと源氏との血縁関係を頼って平維盛公は自分を敵視する身内の宗盛公一派と袂(たもと)を分かって鎌倉に亡命する事は可也(かなり)の高確率で成功率も高く有った訳ですね。
尚且つ後白河法皇が熊野別当湛増や弁慶の兄の湛顕や文覚上人と源頼朝公の二人に繋ぎをつけていたとならば平家側から平維盛公と六代午前を庇護し平家から切り離して相模国に連れてくるなど造作も無い事でしょう。
当時の熊野三山の別当職について京都先端科学大学で吉村亨サンのゼミの教え子だった下田奈津美サンと言う2012年当時の学生サンが書いた卒論が全く熊野別当に関して知らない人にも解り易く説明してくれているので、下にリンクを貼っておきます。
ページ数も13ページ程なので小生の無駄に長いブログ記事より「ギュっ!」と読み易く纏めてくさってるので、基本的に歴史を知らない人でも読み易いかと思います。
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2012/h2012_05.pdf
この中に弁慶の父チャンの湛増サンの話しとか熊野水軍の話しとか出てきますがrichlinkが貼れないのでURLリンクを貼って置きます、そこのWEB上からこの卒論はダウンロード出来ます。
さて、熊野信仰と修験道と仏教と神道に話を戻しますと・・・
小生のブログではちょくちょく紹介するのですが源頼朝公は修験道の仏教や神道の修業を兼ねたトレッキングが趣味だった方で、まだ登山装備の無かった時代に延喜式内社大山阿夫利神社と大山寺の御神体である石山権現こと伊勢原市大山山頂に登ったり、現代でもよく滑落事故の発生する富士山山頂まで当時の装備で踏破していますが、大山阿夫利神社は当時は大山寺と言う当時の修験道の聖地の寺院が管理していましたが、この大山寺は江戸時代に成るまでは天台宗系修験道だった事も知られています。

この大山寺や大山阿夫利神社は現在こそ鄙(ひな)びた山奥の素敵な参道の温泉宿坊街が立ち並びますが、安土桃山時代に徳川家により真言宗に改宗させられるまで比叡山の様に多くの僧兵を抱えた武装集団でもあり、戦国時代の北条家臣で現在の横浜市磯子区〜港南区の大半と戸塚区小雀と海老名市内の一部と川崎市川崎区他を治めた殿様の間宮康俊公が箱根峠の入口の三島市にある山中城に城主松田康長公と籠城し豊臣秀吉軍8万を僅か手勢200余りで迎撃した際に、松田勢と合わせて籠城兵300で豊臣軍の司令官の豊臣秀次公率いる軍団を3000人も討死させているのですが、その籠城側の人数に記録されず間宮家の援軍としてだけ来た事が伝わるのが大山阿夫利神社=大山寺の僧兵達でした。
この間宮家の分家の岩本間宮家が現在の江ノ島神社を江戸時代まで管理していた岩本坊(後に岩本院に改称)の別当職だった真言宗系修験道の岩本家でした。岩本院は明治政府の仏教弾圧と神仏分離で江ノ島神社の運営権を返上しましたが宿坊機能を活用して現在は寺院から岩本楼と言うホテルとして❝業態❞は変わりましたが存続しています。

岩本楼の社長の御先祖様の遠縁の親戚に当たるのが大山寺の僧兵達と修験道繋がりで関係の深かった間宮家な訳ですが、間宮家に関して御興味有る方は上のリンクから記事を御覧下さい。
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿文覚2
さて江ノ島神社の前身となった岩本院が管理した欽明天皇が天皇家勅願所として定めた岩屋(洞窟)が今も江ノ島の稚児ヵ淵側に存在しますが、そこに源頼朝公も文覚上人と参籠し戦勝祈願をしていたのは有名な話です。
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神社の社殿も大切ですが、当時はそれよりも自然地形や湧水池が信仰対象に成ったので頼朝公が海岸なのに豊富な淡水の湧く洞窟を欽明天皇同様に崇拝し、インド神話の水神様である弁財天と水神様で農業神の宇賀神を同一視して江ノ島神社に弁天様を祀った訳ですね。
この頼朝公は弁天信仰だけではなくて熊野信仰を大切にしていたので、鎌倉市〜逗子市〜横浜市南西部に跨る旧鎌倉郡には多くの熊野神社が小規模ながら残っています。
このネットワークを維持していたのが旧鎌倉郡の扇谷(おおぎがやつ)地区の源氏の義朝公の時代の本拠地だった亀谷(かめがやつ)に室町時代まで存在した泉蔵院と言う旧修験道の大寺院の機能移転先である横浜市磯子区杉田駅近くの熊野神社と室町時代〜江戸時代の間宮家歴史を調べると理解出来ます。

この元は寺格の高い修験道寺院の泉蔵院だった杉田の熊野神社は鎌倉時代に未だ鎌倉に有った頃の泉蔵院は山崎泉蔵院と呼ばれていましたが、その聖地霊場の一つとして源頼朝公によって開かれたのが熊野神社でした。後の時代に鎌倉市街の戦火によって、修験寺院機能を現在の熊野神社に移転し、更に明治政府の弾圧で仏教寺院機能を停止させられ現在に至ります。現在の宮司様によって頼朝公と泉蔵院の関わり合いの歴史が忘れられない様に境内に泉蔵社の名前で社殿が復興されている他、昔のまま摩利支天等のインド神話の神様も撤去されず祀られています。
この杉田の泉蔵院の古文書を読んでも明治時代以降の現代宗教の世襲制と異なり昔は例えば熊野社だったら総本山の熊野大社との関係が有ったり、各寺院も末寺の上に本寺と言う支部長みたいな和尚サンが務める御寺が有り更に上に中本寺や大本山や別格本山と言う役員や本店の社長みたいな役割の組織がシッカリ平安時代のまま維持されていたんですね。
つまり、平維盛公は熊野神社の宗教ネットワークと源家と熊野三山別当湛増の血縁と後白河法皇の口利きと言う強固な3点セットの亡命ツールを使って相模国に入って来ている事が推察出来る訳です。
さて、ここ迄読んで頂ければ六代午前が平維盛公の子で、源頼朝公や文覚上人に保護される理由が有り、人間関係や宗教的な理由からも鎌倉に来れた事に納得頂けたのではないでしょうか?

後残すのは源頼朝公が平維盛公を受け入れる性格か?と言う検証が必要かと思います。
それは次回の記事で行いたいと思います・・・
鎌倉殿の13人の脚色と真反対で実は源頼朝公は情け深く多くの人を助け更に女性に誠実で、逆に主人公の北条義時公は情け容赦なく冷淡な性格で女性をとっかえひっかえする人だったと言う比較を歴史事実を用いて相対評価してみましょう〜♪

では皆さん、梅雨入りし蛍や紫陽花を鑑賞に適した素敵な季節ですが足を滑らして怪我などしないように御過ごし下されやぁ〜♪

毎年07月26日には六代山不動院で六代御前の菩提を弔う盆踊りの様な御祭りが開かれるそうです。
現代では規模が縮小して町内会の方々が出店をだしたり、町の賑わい子供が喜ぶ程度には維持されているそうです。
戦後のGHQによる宗教改革以前は昔々から毎年非常に大規模な御祭りが開かれて賑わったそうです。

逗子海岸の太陽の季節の記念碑からも距離にして650m徒歩8分と近いので、海水浴に訪れる方は夕方に六代午前の御祭りを見物に行って見ては如何でしょうか?

では又、次の記事で御会いしましょう〜!

続き⤵️
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前回この記事を書きました⤵

実はこの記事で富士山の景勝地として紹介した逗子市小坪の丘の中腹に有る小さな神社の名前が小坪の団塊世代~バブル世代の方々に話を聞いて回っても名前が解らなかったんですね。

この⤴神社です。
文献や古地図に記載が無い場合は今でも残っている伝承を自分の足と目と口と耳で拾い集めパズルのピースを完成させるしかなく、面識の無い色んな人に直に突撃取材する必要が有るんですよね。
秋葉神社と確認とるのに多くの人に協力して頂きました。
それで自分の古老や地主サンや郷土史詳しい人に力を貸して頂くのに・・・
「小坪の小さな神社について知りたいのですが」
「この地図の階段のくの字に曲がってる森に在る神社です」
「教えて下さい!」
・・・と全然知らない人の家をピンポンしたり昔から有りそうな商店とか御寺神社や方々の学芸員サンに頼んで質問する訳です。
こういう事は地元の団塊より更に御高齢の方々に聞く必要が有るのですが、小生がこのブログを書き始めて8年間で既に地元横浜の戦国時代の武将の事を聞いて回った先輩方も生きていても90歳以上で、ほぼ全員亡くなってしまいました。
当然ながら小坪漁港で超高齢者を探して聞いて回る訳にもいかず、逗子市の学芸員サンにも情報を貰ってもやはり文献に記載は無い事しか解りませんでした。
今回取り上げた小さな神社は、小生が調べ始めた当初は逗子市や地元に一番詳しい小坪漁港の職員の方にも協力して頂き調べてみましたが明確な事は解りませんでした。
小生も江戸時代の新編相模風土記稿や明治時代の地図を見る等の基本的な事は調べてみましたが現代小坪地域に残存している神社の名前以外に登場せず良く解らなかったんですね。
神奈川県神社庁にも属してない場所な上に小生が位置登録するまで名前が良く解らない神社として現代の小坪地区では無名に扱われていました。
しかし後日、相談した逗子市の学芸員サンから地元の歴史クラブが昔に発行した冊子の様な物が有る話を聞いて、どうやら新編相模風土記稿に掲載が無い❝秋葉神社❞が昔は有ったらしい話を教えて頂けました。
そして更に以前、参拝し御朱印を拝受した佛乗院の奥様に話を聞く機会が有りました。
佛乗院の檀家さん達の子供時代の話、つまり1920~40年代の話しで火伏の神様として小坪の小さな神社は信仰されていて昭和初期まで❝火の用心❞の防火巡回を子供や青年会が行う際に神社で御参りしていたと言うの聞いた事が有ると佛乗院の奥様が大正~昭和初期生まれ位の檀家サン達の思い出語りを覚えていらっしゃったんですね。
御寺の超高齢の檀家さんや亡くなった檀家さんの話と逗子市の学芸員サンが教えてくれた秋葉社名前から火伏(ひぶせ:防火)の御利益が整合性が有り全ての話に辻褄が合い総合すると、この小さな神社が秋葉神社だと解りました。


昔は小坪漁港にも子供や青年が沢山いて、この動画の様な光景が毎夜見る事が出来たんですね~!
CIMG7799
今では参拝者も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗ですので是非、目的は防火では無くなっても昔の様に多くの学生や若い世代に富士山と夕陽を見て貰って良い思い出と一緒に秋葉権現様の事も記憶に残してくれたら神様も喜ぶだろうな~と思います。

上の新編相模風土記稿の中の・・・
三浦郡巻之二 衣笠庄 小坪村 
秋葉神社の正体を調べる参考としては何の役にも立ちませんでしたが(笑)、新編相模風土記稿のこの項目には現在も小坪に残る神社が全て掲載されていました。
新編相模風土記稿三浦郡小坪村
・・・小坪村の歴史を大まかに遡(さかのぼ)る事が出来たので皆さんにも共有したいと思います。
下の記載は新編相模風土記稿に登場する小坪村の神社と管理してたと寺の話しで❝〇〇寺持ち❞と記載が有る場所は江戸時代までは神仏習合で神社で仏様を祀ったり御寺が神様を祀ったりしていたから所有者が❝〇〇持ち❞と説明で記載されていたんですね。
では先ず皆さんと一緒に風土記に登場する社寺の位置関係を見て行きましょう~!
小坪の社寺位置関係
上の画像は現在の衛星写真で見る地形と農研機構サンがGoogleEarthで提供してる明治政府の帝国陸軍が測量した明治初期の地形で迅速測図を見れるサービスを使い、登録した神社仏閣を表示して現代と明治初期を比較した物です。
埋め立てで全々地形が違うし、昔は天王濱と呼ばれた小坪海岸は岬の先端まで砂浜が広がっていた事が解りますね、現代では歩いて行けなくなった八大竜王様も昔は干潮時に歩いて御参りに行けたようです。
——各社寺の紹介と考察です——
海潮山 佛乘院 阿弥陀寺
本尊阿弥陀(如来)、諏訪社

佛乘院の御本尊は真言宗にも関わらず阿弥陀如来なのでもしかしたら記録は失せていますが地域性と信仰対象と宗派から源頼朝公か文覚上人が関与した可能性が有ると個人的に推測しています。
この阿弥陀如来像は逗子市の文化財指定を受けています。
佛乘院の諏訪社は大崎公園の手前に諏訪神社として現存していますから、どうやら大崎公園の山や披露山庭園住宅は元々は佛乘院の境内地だった様です。

神明宮

小坪村の鎮守 佛乘院持ち


西町、現在の小坪5丁目の神明宮は現在は神奈川県神社庁に属していない地域の共同管理である事が現地の方への取材で解りました。
現在、小坪地域の鎮守は天照大神社とされています。
天照大神社は今の兼務社の神職様の御話で昔から存在したとの事でした。
ただ宮司様の話を時系列無しに鵜呑みにすると、神明宮と天照大神社が2社同時に鎮守として存在した事に成ってしまい、鎮守として記載されいる天王社=須賀神社と神明宮2社が小坪村の鎮守である事と整合性が無くなるので実際の状況を時系列で問題が無いか整理したいと思います。
新編相模風土記稿三浦郡小坪村
新編相模風土記稿は天保十二年(1841年)の成立ですから、それ以前には天照大神社は存在せず幕末に御分霊が勧進されたと考えるのが自然でしょう。
天照大神社は記載が有りませんが、子ノ神社がしっかり掲載されており第六天社は記載が無い事から、第六天社と天照大神宮は幕末の動乱に伊勢神道が過熱したころか明治の初期に開かれたのではないでしょうか。
小坪5丁目(西町)の神明宮は先に存在した事が解ります。そして天王社=須賀神社も佛乘院持ちだった事が「下同じ」の記載から解ります。
取材した所、天照大神宮や神明宮ではなく子之神社の氏子さんから「元々は今は海岸沿いの子之神社は丘の上の天照大神宮と2つ並んで小さなな御宮が有った」と話を聞く事が出来ました。
つまり天保十二年(1841年)には存在しなかった天照大神宮は、その後に天照大神宮として存在したのは間違いないようです。
仮に1841年当時に既に子ノ神社の境内社として1841年には存在していたならば神社としては取り上げられない祠程度の物だったかも知れませんね。
対して現在では西町の神明宮は参詣すると明らかに鎌倉時代~室町時代の石祠や宝輪塔が無数に有り更に参道の路盤は昔の桟道状の切通し道から伸びていました。
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明らかに整備されている時代は古く当時の村の神社としては立派なものだった事が解りました。
記載の神明宮はこちらだと思います。
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明治時代に天皇家を頂点として近代化する際に英国の国家運営をもしたので神道もプロテスタントを模して国家神道が成立します。その段階で村の鎮守が神明宮から外され(神明宮は元来天照大神を祀るので鎮守の格を外すのは不適当)て天照大神宮が再整備され、天照大神宮と並んでいた子ノ神社も山を下され海岸に移動されたようです。
この段階で神明宮は西町の集落で地域の神社として小坪の住民の皆さんが自主的に運営する事に成ったので令和の現代に双方の分断が続いており双方の歴史が伝わらなく成ってしまった状況が有るのでしょう。
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西町の神明宮は明らかに鎌倉期~室町期の石祠や宝輪塔が無数にある状態からも近世位まで参拝者が多かった事が推測出来るのですが、何で西町の神明宮が昔は村の鎮守で参拝者が多かったかも現地を参拝すると直ぐ解りました。
小坪旧街道
上の画像を見ても解りますが、小坪の天王浜の埋立前の旧道は小坪村の鎌倉寄りの正覚寺前~海前寺前~神明宮参道前~小坪寺の前を経由する住吉城址の山腹に穿たれた桟道状の切通しで一段高い高潮の影響を受けない位置に存在しており、歴史的には古東海道と考えられています。
小坪旧道廃道
※クリックして拡大して見て下さい。
赤い線が現在は廃道に成っていますが昭和まで生活歩道として鎌倉に抜ける為に使われていた道で、これを見れば一目瞭然で神明宮の下を古街道が通っていた事が解りますね。
余談ですがこの桟道切通しで戦国時代に三浦家と北条家の大激戦が行われました。
住吉城の地形 久良岐のよし
ちょうど左手の豪邸の有る位置が迅速測図でも城のマークが入ってる住吉城の山です。
この城からの撤退戦が行われた事がワザワザ古文書を読まなくても新編相模風土記稿にも書かれています。
内容は原文を口語訳にするとコンナ感じ・・・
坂三
一ハ村北ニアリ名越坂或ハ名越切通ト云ウ
鎌倉郡大町村名越町ニ達ス故ニ此名ナリ登二町
一ハ廣尾坂村ノ中程ニアリ登六町
一ハ飯島ニアリ小坂ニテ切通ナリ元禄國圖ニ住吉切通ト載スル是ナリ永正九年三浦介義同北條早雲ノ爲ニ敗走シ三浦ヘ退去ノ時此切通ニテ支エ合戦セシトノ傳アリ尚下ノ城跡ノ條ニ併セ見ヘシ
此餘山間孔道四アリ是土民捷經ノ爲ニ穿ツ所ナリ高七八尺長七八間ヨリ十五間ニ至ル
土俗通矢倉ト呼フ
坂が3つあってさ
1つは小坪村の北に在(あ)る名越切通(なごえのきりとおし)って言うヤツな、鎌倉郡大町村~名越町に行けるから、この名前(名越切通)っつうのな、200m位登りだよ~。
1つは広尾坂村(披露山)の真ん中くらいにあって600m位登りだよ~。
1つは飯島にあるよ、小さな坂の切通しで元禄国図ってのには住吉切通って書かれてるのがコレな。
永正九年(1512年)三浦義同(よしあつ=三浦道寸公)が北条早雲公に負けて逃げる時にこの切通で戦って時間稼ぎしたって伝承が有るから、詳しい事は下のページの城跡ん所も一緒に見ろよな~。
この城山の間にトンネルが4つ有んだけど地元民が近道のために掘ったんだって。高さ2m~2.5mで長さは13m~14.5m~長いのは27mは有るよ。地元民は通矢倉(とおしやぐら)って呼んでる。
・・・この通り、神明宮側の参道前で十字交差してる道が海崖の側面に掘られた切通道だった事が書かれています。
では当時の切通の路盤は現在も旧道と一部は住宅道路として残っているので、明治初期に測量されてまだ幕末の地形が略残る迅速測図と比較してみましょう。
※下の衛星写真の黄線が住吉切通の路盤です。
住吉切通 久良岐のよし
道の形がそのまま残っているのが良く解りますね~。
この他にも新編相模風土記稿の小坪村のページには、この道が古東海道だった事も書かれています。

小生はこの古道の内容からも昔は栄えたのは現在の小坪の鎮守の天照大神宮ではなく神明宮の方だった事が地理からも一目瞭然だと思っています。
KIMG2182
神明宮の社殿の周囲には矢倉の痕跡が有ったので崩落が有り参道に石祠等が移動されていると思うのですが参道の石材の中の一つの宝篋印塔は鎌倉時代の武将の御墓と同時代の造りで部材が欠損している物なので、今では誰の御墓かも解らないし組み方も間違えられていますが、もしかしたら小坂光頼公の御墓が含まれているかもしれませんね。
もう一度小坪村の社寺の位置関係の地図で古道を見て見ましょう。
小坪の社寺位置関係
※クリックして拡大して下さい。
明治の道は切り通しを抜けると一之宮神社の前を通過し小坪小学校の西側から披露山住宅へ登って行き又逗子海岸の方へ道が下りて行きます。
この道ともう一筋の古道が迅速測図に黒く細い1本線で描かれており小坂天王社の前を通過~崖の山裾を経由~諏訪社へと登って行って行き披露山神社の方へ抜けて行きます。
この何れの道も現在の天照大神社の前を通過せず参道も記載されていないので鎮守ではなく子ノ神社がメインの神社だった事が地図から読めるかと思います。
子ノ神社は大黒天=出雲神と習合されたインド神話のシヴァ神なので伊勢信仰と天皇家を貴ぶ観点から境内に天照大神を祀る祠か小さな御社は有ったとしても不思議ではありませんね。
現代では神明宮は参拝者も少なく、天照大神社も崖の上で逗子マリーナに来た観光客も参拝に上がる人は少ないとは思いますが・・・
出来れば現在令和四年2,022年、未だ立派な社殿と雰囲気有る境内を維持している西町の神明宮が年末年始には昔の様に多くの参拝者で溢れる様に願います。
昔の様に小坪の由緒正しい鎮守の神社として神明宮を御祭りして大切にしないと町内の氏子サンがいくら大切にしても少子化で集落の今の世代がいなくなると小坪の歴史が途絶える事に成ると思います。
そして今の鎮守の天照大神社にも観光する皆さんが参拝に訪れる様に成れば良いなとも思います。

天王社(現:須賀神社?) 
疱瘡神社(現在所在不明:須賀神社or第六天神社?)

天王社は神明宮と同じく小坪村の鎮守と記載されています。
疱瘡神社は平維盛の子の六代御前を弔う為に旧暦六月二十六日に毎年小豆粥を炊いて御供えしたと記録が有ります。
天王社と疱瘡神社は御祭神が同じなので今の須賀神社に習合されているかも知れませんが、大六天神は神仏混交の日本独自の神様なので若(も)しかしたら、こちらが疱瘡神社かも知れません。
須賀神社の御祭神は一般的に素戔嗚(すさのおう)尊と子の五十猛(いそたける)神が御祭神ですが天王社と明治以前に言われた場所は牛頭天王が御祭神で明治以後に御祭神の名を変えられています。
よく天王町とか町に名前が残っていたり天王祭と呼ばれる多くの漁師船に大漁旗を掲げて出航したり御神輿を担いで海に入ったり、夜に船に篝火を掲げて海を照らす御祭りを行う地方が有りますが、それは明治政府の神仏習合に対する弾圧迄は牛頭天王社や祇園社や疱瘡神社と呼ばれた御社や御堂が有った場所ばかりです。
それ等の場所は明治以降は須賀神社、八坂神社、八雲神社、橘樹神社等に名を改めている場所が多く有ります。
小坪に関しては須賀神社が天王祭を引き継いでいるそうですが、疱瘡神社がここに合祀されているのかは不明です。
現代に疱瘡神社の名前が残ってない上に第六天神社も何時から存在するのか確認出来ず、第六天社=疱瘡神社の可能性も確認はできませんでした。

小坂天王社

江戸時代以前は社殿が有った。平安末~鎌倉時代には鎌倉御家人として有名な長江四朗義景公と当地の領主だった小坂太郎光頼公が崇敬した由緒正しい天王社だった事が記載されています。
長江義景公は軍神として中世の武士に崇拝された鎌倉景正公御子孫で、逗子に隣接する葉山町には邸址と矢倉(墓所)が有りました。しかし昭和の農地解放で義景大明神は廃社に追い込まれた話も別にいつか記事に書いて紹介したいと思います。

一ノ宮権現社(現:一ノ宮神社)

浅草の浅草寺から御分霊を頂いて開かれています。浅草寺は平安時代から存在するので小坪村の一之宮権現が開かれたのが何時(いつ)の時代かは解りません。

山神社(現在所在不明:披露山神社?)

披露山神社は披露山公園の入り口近くに存在しますが披露山庭園住宅建設で本来の住宅側の参道が破壊されてしまい参拝しにくい状況に成っています。
元は名主の高橋家の敷地内に初祀され稲荷神社だった云々・・・と社頭掲示に在りますが、この社頭掲示よりそれらしいものが新編相模風土記稿にシッカリ記載されてます。
稲荷社 康安ノ文書ニ小坪稲荷神田一段ト見ユ
山神社
普通に隣に併記されてるので、これが名主高橋家の敷地に在ったと社頭掲示されている物でしょう。
つまり名主高橋家の敷地に在ったのではなく、神社の在った場所に高橋家が屋敷を構えて頂けの可能性が有りますね。
実は社頭掲示では合祀されている様な説明ですが、元は地元の方が守っていたと言う稲荷社が佛乘院の飛び地にも存在しますので稲荷社の話は佛乘院に引き継がれている稲荷社だと思います。
仮に披露山神社の前身が稲荷社の宇賀神が主祭神ならば披露山稲荷となる筈です。
この稲荷社は普通に神田つまり神社用の田圃を与えられているので山の上に在る事は考えにくく、水の染み出る崖地の下か谷間や或いは井戸の有る場所の近くに神田が有った筈です。
披露山周辺
※クリックして拡大して下さい。
小坪村の中では上の現在の披露山神社の周辺には民家は明治14年時点で存在しません。
水田はやはり谷に在りますが、佛乘院の存在する西側の海岸沿いには井戸は有るものの砂地で水田は有りませんがで表示されている民家は無数に有ります。
北側の水田の辺りには集落が有ります。
高橋家は明治十四年(1881年)時点では披露山住宅の辺りに住んではいなかったようです。
翌年明治十五年(1882年)に小坪村の高橋家と久木村の松岡家の発願で21ヵ村、64人の代表出資者を募って現在の小坪(名越)トンネルが開かれていますので、小坪にこの時点でも住んでいたのは間違いない様です。
小坪隧道 名越側
横須賀方面から鎌倉市街に入るのに非常に便利の良い道は旧小坪村と旧久木村の名主の高橋家と松岡家の御蔭で開かれたんですね。
それまでは小坪村の北側内陸部の人は鎌倉の久木や大町方面に行く際はトンネルの上の名越切通しの尾根道を通って行くか遠回りの天王浜(鷺ヶ浦)側の住吉隧道の古道を通る必要が有りました。
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こんな⤴場所を鎌倉に売りに行く商材や旅の荷物持って通行するの下駄や草履の時代ですから雨の翌日とか最悪ですよね?輸送量自体が限定されて輸送コストもトンデモない事に成ります。
そりゃそうですよね、鎌倉を守る為に作られた敵の侵入を限定する為の防御施設ですから。
鎌倉城防衛網
なので当時の地形を再現するとこんな風に山の稜線に添って尾根が削平され、山腹を半トンネルにした切通しから尾根に出て又山を切通を通って下る道しか無い鎌倉時代の街道を徒歩で行くか船が主な交通手段でしたから、高橋さんも逗子と鎌倉との往来を簡単にして経済活性化を図る必要が有ったんでしょうね~。
こんなトンネルを掘れる名主ですから広大な敷地を持っているのが当然です。
敷地には山や畑も含まれたし他の分家や小作民の民家の敷地も高橋家の持物だった訳ですが地図からは披露山神社の前身の山神社と稲荷社がどこかは確認出来ません。
そこで先ずは神社がどの様に開かれるかを考える必要が有ります。
各地域に神社が祀られる理由は近代の国家神道の成立によって神社の祭祀様式が変わる以前は主に3つです。
①地形に関して災害避けや古代からの湧水地や奇岩等の聖地信仰が神社文化の成立過程で社殿が作らて、災害や地形に関する御祭神が祀られる。
[港湾と山稜]
白山権現=白山比咩神=伊弉弥神、大山祇大神=三嶋大明神=石山権現、牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、倭建と弟橘姫の夫婦神、八王子権現(牛頭天王の八人の子)=素戔嗚尊の子の五十猛(疱瘡治癒の神)、八幡大菩薩=応神天皇等、熊野権現。
[水上航行安全]
牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、八王子権現(牛頭天王の八人の子)=素戔嗚尊の子の五十猛(疱瘡治癒の神)、大山祇大神=三嶋大明神=石山権現、倭建と弟橘姫の夫婦神、住吉神=住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)、八幡大菩薩=応神天皇、金毘羅権現=ガンジス川の鰐(ワニ)=宮比羅大将=崇神天皇等。
[湧水地と治水]
牛頭天王=武塔天神=素戔嗚尊、八幡大菩薩=応神天皇/弁財天)、宇賀神=御稲荷様=弁財天=インド神話のパールバティ(シヴァ神大黒天の妻神の水神で財神で芸能と勝利の女神)=市杵嶋姫(明治以後)、八大竜王=難陀竜王=インド神話のナーガ神(龍族の王=蛇水神)、熊野権現等。
②地域を治めた古代大和朝廷時代以前からの著名な豪族王~武士の戦没地や被葬地や屋敷跡や滞在地に、それらの著名な武将が神格化されて御祭神として祀られたり聖地化する。
神奈川県域
延喜式内社寒田神社 足柄上郡松田町
倭建が滞在し酒匂川の河川名由来に成った神事を行った場所。江戸時代の富士山の宝永噴火の際の火山灰堆積により酒匂川の土石流が発生し境内地の大部分が現在の酒匂川に削り取られ河川化してしまった。
八菅神社(八菅山七所権現) 愛甲郡愛川町
倭建の伝説が残る場所で明治以前は修験道の日本有数の大根拠地だった。ここから日向薬師大山寺大山阿夫利神社を参って最後には京都の石清水八幡宮を詣でるのが関東の修験道の修行の巡礼地に成っていた。
延喜式内社石楯尾神社 相模原市緑区
倭建が滞在し草薙剣と対に成る防具の天石楯(あまのいわだて)を埋めた場所。又、古代の豪族武将の坂上石楯が居館を構え滞在したと伝承する場所。
延喜式内社前鳥神社 平塚市四之宮
相模国四之宮で倭建が滞在したと伝承する場所、後に仁徳天皇の莵道稚郎子が居館を構えた場所、近くに巨大古墳が存在し発掘調査結果王族しか持ちえない道鏡や金属製鏃等が多数出土したが近年宅地開発で古墳は消滅し古墳の主の祟りを恐れて現代人によって古墳跡地の一角に神明神社が開かれた。
五社神社 綾瀬市早川
倭建が滞在したと言われ腰掛岩が有り、尾ノ井と呼ばれる明治時代まで神事を行った水源が残っている。行軍中の給水地点と思われる場所が聖地化。平安末期には近所の早川城を拠点にした渋谷重国公が五社神社を土地神として崇敬した。伊勢平氏の平清盛に弾圧されて相模国に逃げていた鎌倉御家人佐々木氏を擁護した人物が渋谷重国公で彼の飛び地の領地が東京の渋谷だったのでアチラにも渋谷の地名が残った。
腰掛神社 茅ヶ崎市芹沢
倭建が東征の際に立ち寄り休息した場所の一つ。この神社を含む神奈川県立茅ヶ崎里山公園の柳谷一帯は富士山の景勝地で現代でも関東の富士見百景の一つに選ばれている程。古代には街道筋は低地でなく山の尾根道や山腹の道だったので綾瀬市の五社神社延喜式内社宇都母知(うつもち)神社延喜式内社大庭神社旧蹟(熊野社)~逗子市小坪の住吉神社一帯の住吉城址披露山公園の一帯の披露山庭園住宅走水神社は古代東海道(上横山遺跡矢倉沢往還~三浦半島~房総半島)の経由地と考えられる。
御霊神社 坂東平氏と宇多源氏の氏族所領各地、
神奈川県域では坂東平氏系の神社が多く平良文公/葛原親王/平高望王/鎌倉景正公等が主に御祭神として祀られる。他にも宇多源氏系の祖先の敦実親王/間宮康俊公等を祀る場所も有る。
白旗神社 鎌倉御家人の所領各地
源頼朝公を御祭神とする神社で鎌倉市西御門地区の頼朝公の墓所に当たる法華堂跡の前に存在する白旗神社等が神奈川県内各所に在る。頼朝公の御家人だった武将達が自分の本拠地に勧進し崇敬した。
白幡神社 鎌倉御家人の所領各地
源頼朝公の御家人を御祭神にする所と、頼朝公を祀る場所が有る。
三浦半島~鎌倉市域で代表的な場所としては和田義盛公の本拠地だった初声和田の白旗神社等が有る。
③江戸時代に各武家の所領や江戸での屋敷地内に、各家の御祖先が住んでいた土地で祀っていた土地神様や自家の祖先神の氏神様を引越し先の自邸内に分霊して貰い祀る。
壺井八幡宮
鶴岡八幡宮の原型。源頼朝公の御先祖の源頼義公と義家公親子が河内国の壺井に住んでいた時代に義家公が元服式を行った石清水八幡宮から御分霊を戴いて壺井八幡宮を屋敷地に祀って以来の八幡信仰が河内源氏に伝統に成りました。以後、源頼義公は与力の大庭家の所領の茅ヶ崎市懐島に石清水八幡宮から御分霊を勧進して鶴嶺八幡宮(本元宮八幡)を開き⇒更にそこから鎌倉市材木座の由比若宮(元鶴岡八幡宮)を開き⇒源頼朝公が現在地の小林郷北山に由比若宮を遷宮し寺と社殿を併設した神仏習合の神宮寺として鶴岡八幡宮寺を開き⇒明治時代の神仏分離令で神宮寺部分を破却し撤去してしまい鶴岡八幡宮に有った立派な三重塔や門は姿を消して、名も鶴岡八幡宮寺から鶴岡八幡宮に改められ神社として再スタートしました。
源氏の御家人の居所や戦国時代には北条氏綱公の鶴岡八幡宮再建に関わった武将の根拠地にも本来の意味を離れて多く分祀されました。
佐々木神社
源頼朝公の御家人の宇多源氏の本拠地の近江国佐々木(安土町)の延喜式内社沙沙貴神社の御分霊。佐々木定綱公、経高公、高綱公、盛綱公の高名な4兄弟が鎌倉幕府設立の功臣として与えられた土地に一族を入植させていく段階で沙沙貴神社の御分霊を勧進して佐佐木神社御霊社を開いた場所が多く有る。
稲毛神社
 川崎市川崎区
川崎市川崎駅一帯を平安末期~鎌倉時代に領有した佐々木高綱公が源頼朝公の命で復興した神社。
堀之内の名が残る地域で元は佐々木家の城館が存在し戦国時代にも佐々木一族の間宮家が在城した地域の土地神様として信仰されたのだが、今では武士の城館後は城では無く夜の城に変わってしまいました。稲毛神社の社名の由来は秩父平氏で多摩郡稲毛庄の領主の川崎市多摩区の枡形城主稲毛氏が開いた山王権現の神社だったのですが廃仏毀釈の修験道と仏教弾圧の際に神仏分離令に山王権現の名が宜しくないとの事で神社を開いた平姓稲毛氏の治めた稲毛庄時代の地名から稲毛神社の名に改められた。
さて①~③の事例を見て頂きましたが・・・
この様な実例を踏まえて山神社と披露山神社の前身と佛乘院の関係を考える必要が有る。
新編相模風土記稿の山神社は地域的な事と総合すると社名が山神社なので大山祇大神(大山津見神/おおやまづみのかみ)か白山権現か熊野神社の御分霊の可能性が有ります、稲荷社は考えにくい。
小坪は古くからの港湾都市であり披露山は海上交通のランドマークの地形の山なので地域性から三嶋大社や大山阿夫利神社信仰の大山祇大神=山神社でしょう。
大山祇大神ならば別表記の大山津見神からも知られる通り「津=港」の守り神で葉山の森戸神社や伊勢原市の大山阿夫利神社の石山権現や伊豆の三島大社と同じ山の神であり海上交通の神様ですね。
また、この小坪から披露山庭園住宅に上がる道は東海道の前の旧東海道の更に前の古墳時代の古東海道が通っていた事で有名なので古代の尾根道の街道の登山口や分岐点に祀られる熊野社だった可能性もあります。熊野権現は逗子市域に山ノ根の名で祀られる場所も有ります。
純粋に山の神なら白山権現もよく山神社の名で祀られています。
どうやら披露山の御稲荷様としての説明はと佛乘院に引き継がれている稲荷様の事が社頭掲示に書かれているのではないでしょうか?
高橋家は名主=庄屋なので恐らく戦国時代の北条家臣で鎌倉公方代理吉良家の付家老だった高橋家の分家かも知れません。ただし戦国時代初期には江戸時代に名主に成り得る小坪の領主は北条傘下の三浦水軍の武将の石上弥次郎と言う事が北条所領役帳から解ります。
石上弥次郎
七捨八貫六百廿六文 小坪
弐捨弐貫文 御蔵出 此内五貫文引銭
以上
この記載が記載が有りますが、北条所領役帳は1520年~1555年と1559の間の小田原北条家臣団の給与地の記載なので、戦国時代も佳境に入り安土桃山時代に突入する頃の北条家臣団の配置を知る素材には成りません。しかも北条所領役帳は原本が残らず江戸時代の写しのみで更に所領の郡名もどうやら江戸時代の追記らしく写本毎に異なり統一性が無いので原本は「小坪」だけの様なピンポイント表記しか無かっただろうと小生は推測しています。
領地替えの話に関しては例えば所領役帳の中にも例えば歌手“ゆず”の地元の横浜市磯子区岡村は「関兵部丞」と言う人物の領地でしたが「岡郷買得」と記載が有る様に武士間でも領地の売買が行われていたり実は北条家は税率40%の善政だったので破産する家も有りました。具体例では鎌倉の玉縄城主だった北条綱成公の領地の1つに横浜市中区の本牧が有ったのですが、「五捨貫文 本牧之内橋本跡」と登場します。橋本サンは武士を辞めてしまった人らしく、当時は現代よりも広い領地単位の不動産取引が頻繁に行われたり主家の北条家の命令による領地替えも行われていた訳です。
なので名主高橋家は北条家が豊臣秀吉に降伏する頃に小坪村の領主だったので江戸時代に士分を捨てて名主に成る良く有るパターンだったのだと推察出来ます。
この小坪辺りには苗字が高橋の御分家の檀家が付近の御寺にも残っています。
まぁ石上家以前の源頼朝公の御家人で小坪領主だった小坂光頼公も既に室町時代には居なかった訳ですし、領地の所有者は頻繁に変わる訳ですね。
神社の社名や御祭神の変更についても近代に良く有る事でした。
実は神社の混乱は明治~昭和に良く有った事で例えば白旗神社の御祭神を事例をあげますと、神奈川県には江戸時代の記録にシッカリ「御祭神源頼朝」と記載が有るのに、討幕以降近代の反源氏ブームで義経が主人公に成り人気が出ると幕末~昭和初期に主祭神を「源義経」に変える場所も有ったりしました。逗子の近郷の有名な神社でも神仏分離令の煽りで例えば鎌倉市の十二所神社は元々は江戸時代まで名前は熊野神社で仏教時宗の一遍上人が改修して再興した光蝕寺の境内社でした。当然ながら神仏分離の際に神社の境内登記を寺院から分離させるか移転する必要が有って現在地に移転し、名前も十二所神社に改めらえていたりします。
大江広元公の屋敷の裏山(明石橋ミニストップの裏山)にあった大江家守護の大江稲荷神社ですら、廃仏毀釈で移転(おそらく一帯が元々光蝕寺の土地だった為)に御神体の御神像が光蝕寺に移され、大江稲荷も現在の辺鄙な場所に移されています。更には御神体は光蝕寺⇒真言宗の明王院へと現代に移されて所有権も移り大江稲荷の氏子サン達は明王院に御参りすると言う極々狭い地域内での遷移の実例もあります。
整理するとこう・・・
披露山神社の社頭掲示の説明
⇒佛乘院持ち稲荷社と混同?社頭掲示の稲荷社は佛乘院の持ちの話し?
新編相模風土記稿記載山神社
⇒披露山神社?山神社の消息不明なので披露山神社が社名からも比定されるべき。
恐らく披露山神社の社頭掲示は本来は佛乘院に管理が移っている稲荷社の話で、山神社が披露山神社ではないかと思います。
全て推測の範疇を出ませんが旧名主高橋家の所有する敷地内に両方の神社を祀っていた事が社頭掲示の話に成っているので、そもそもの山神社が高橋家の敷地に存在した話と幕末に伏見稲荷を勧進して開いた稲荷社の話で混乱を生んでるのではないでしょうか?
※高橋家の場所については引き続き要調査。
今回の記事で要調査の部分は引き続き折を見て地元の方に取材して行きたいと思います。

子ノ神社(ねのじんじゃ)

今も逗子マリーナの入口に健在です。
康安年間1361~1362年には小坪❝根神社❞として神田を所有していた記録が残るので南北朝時代以前の鎌倉時代には既に存在していた可能性が有ります。
現地で氏子サンに話しを聞いたところ御祭神は神様では無く「大黒天」らしい、との事ですがハッキリしないみたいです。新編相模風土記稿にも御祭神の記載は有りませんでした。
神奈川県には子之神社が数ヶ所有りますが全て出雲神族の大国主関連です。
足柄下郡湯河原・・・大己貴神(=大国主神)、子守大神。
足柄上郡山北 ・・・大己貴神(=大国主神)
横須賀市汐入 ・・・大己貴神(=大国主神)
横浜市戸塚区 ・・・不明
横浜市南区  ・・・大国主神
横浜市青葉区 ・・・大国主神
川崎市多摩区 ・・・大国主神
明治政府によって国家神道が成立する以前、大黒天様は大国主と習合されて信仰していました。
状況的には厳島神社が元々は弁財天と呼ばれていた様に江戸時代までの御祭神は大黒天の名で呼ばれた場所の方が多かったかも知れません。
小坪は逗子海岸の近くに徳川家の別邸が出来たり著名人が住んだ事で逆に景観破壊や旧来の文化破壊がされず国家神道の弾圧の影響を受けなかったので旧来の大黒天様と御祭神が伝わっている様です。
小坪寺の御住職に伺った所、子之神社は元々は山の上の天照大神宮と2つ並んで小さな御社が有ったそうです。それが明治以後に天照大神宮と分離して子之神社だけ山の下に下ろされたそうです。
これは推測するに天皇家の祖先神として明治政府の伊勢神道の発想で天照大神宮の神社として拡張整備する際に子之神社の敷地が確保出来なかったのではないでしょうか?
先程列挙した県内各地の子之神社の立地は全て切り立った崖の上なので、本来祀られるべき地形は海岸沿いの現在地では無く元の天照大神社の場所である事が解ります。

白髭社(現:白髭神社)

白髭明神と呼ばれる猿田彦の神を祀る神社です。
今は存在すら知る人も少なく石祠だけが逗子マリーナ横の小坪飯島公園と由比ヶ浜材木座海岸の和賀江島の間に存在しています。

昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。

それについては⤴この記事の秋葉神社と大崎公園の解説の【歴史】の部分で征夷大将軍の源実朝公と小坪と逗子市の史話を紹介していますので御興味の有る方は上のリンクから記事を御覧下さい!
逗子マリーナの景色⤵の紹介も合わせてどうぞ~♪

さて、今回は綺麗な景色の紹介を書く段階でこれらの事を知る事が出来たのと、また古い文化や郷里の歴史を伝えて下さっている方と面識を持ててうれしかったです。
皆さんも、是非、綺麗なリビエラ逗子マリーナ散歩と、小坪漁港の漁村の名残の秋葉神社辺りのオシャレな日本家屋のカフェに御茶しに行って、秋葉神社から富士山と相模湾の夕焼の景色を見て見ませんか~?

そして、きっと皆さんの家の御近所にも実は凄い歴史偉人と関わりの有った神社仏閣や城址の森や山や公園が有るかも知れません、ちょっと御近所の神社や御寺を散歩して看板の説明を読んでみませんか?

では又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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大崎公園と小坪の神社からの眺望
逗子マリーナと小坪漁港越しの富士山の佳景。
【大崎公園】【秋葉神社】CIMG7811
——葉山港と鐙摺城~森戸神社の遠景——
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―以下は詳細な解説( ゚∀゚) ダョ♪⤵―
【交通】
不便なのは本当に大正~昭和の漁村の家並みが丘一帯に広がっているからで、細い細い坂道の路地が寧ろ良い味を出しています。
黄昏時~宵の頃のマジックアワーに成ると、富士山のシルエットに目の前のリビエラ逗子マリーナと小坪漁港の街灯(まちあか)りが非常に生えて美しい。
付近一帯は丘に上がればオシャレな富士山の景色を見る事が出来る日本家屋のカフェも有るし、リビエラ逗子マリーナ一帯には海鮮料理を提供する飲食店も複数有ります。

もしデートで彼氏彼女と逗子マリーナに休日の昼下がり食事に来たなら大崎公園や地図に名も乗らない郷土史の学芸員にすら名の知れなくなってしまった漁村の丘の中腹の小さな神社から富士山と夕焼けを見て帰るのも良いかも知れないですね。

以前紹介したリビエラ逗子マリーナ⤴や小坪漁港からの富士山の景色も美しいけれどバリバリの観光地で人がいなく成る事は無いので若い御二人でムフフな甘い時間を過ごすにはあんまり向かないかも知れませんが思いで作りとしては間違いないので、大崎公園から直ぐ近くですし両方合わせて訪問しても良いかもしれません。
大崎公園は披露山公園やリビエラ逗子マリーナからの景色と比べても中々だと思いますしチュー( ˘ ³˘)(´꒳` *)してても人とすれ違う確率は低く(笑)良い面も有りますが、如何(いかん)せん人が少なくどちらの雰囲気が良いかはエスコートするアナタ次第・・・だぁ~🫵(笑)!
下の地図に表示されている所では季節で水揚げが有れば御土産用のシラスを購入する事が出来ます。

【歴史】
——小さな神社について——
この神社はブログに記事を書くに際して自分でも調べてみた結果、逗子市小坪の漁協や御寺や逗子市教育委員会の助力で文献に記載の無いこの神社は❝秋葉神社❞である事が判明しました。
この解説は書くと長く成ってしまい景色や郷土の簡単な紹介の範疇を超えてしまいますので別の記事に書いて以下にリンクを貼ります。

これ⤴御興味の有る方は御覧ください。
ちょっと調べたら平安末期の名将、鎌倉景正公の御子孫で源頼朝公に仕えた長江義景公の名前や小坪の領主だった小坂光頼公の名前も登場しました。
さて、今では参拝社も見かけない秋葉神社ですが小さな御社(おやしろ)の前から見下ろす小坪漁港と富士山の景色は綺麗です。
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是非、現役学生カップルや結婚前の様に結婚してからデートする仲良し御夫婦の方にも秋葉神社から富士山と夕陽を見て貰って良い思い出の一端に秋葉権現様の記憶も残して貰えたら神様も喜んで下さると思います。
さて、今回の小坪の郷土史紹介は小坪に関わったメジャーな方々を紹介したいと思います。
今では昔からの神様を今も大切に守る漁村とリビエラ逗子マリーナのリゾート的な町と超お金持ち(笑)の住む披露山庭園住宅が丘の段差の敷居1枚隔てて存在する逗子市、実は由緒正しく源氏の殿様のお気に入りの土地でした。
実はこれから鎌倉殿の13人にも登場する事に成る鎌倉幕府第二代将軍の源頼家公や三代将軍の源実朝公は非常に武士としての素養が高く、この小坪漁港の元々砂浜だった海岸で流鏑馬大会を開いたり武門の頭領らしい事も沢山してらっしゃったんですね~。

今では鶴岡八幡宮や三浦半島油壷の荒井浜や小田原市の曽我梅林で行われる流鏑馬ですが、当時の鶴岡八幡宮は境内に回廊が巡らされていたので、やったとしても現代程の大規模な流鏑馬は出来なかったでしょう。ですから、ちょこっと鎌倉市街から離れた当時の避暑地地感覚だったかも知れない小坪海岸で流鏑馬大会を挙行されたのかも知れませんね。
源頼家公は母方の親戚の北条家を警戒していた様で祖父や叔父のたむろする鎌倉よりも、父上の頼朝公も生前に良く来ていた小坪が好きで信頼のおける仲間達と小坪領主の小坂光頼公の屋敷を訪ね、天王浜の海に遊びに来ていた様です。
一方で北条家に育てられた二男で三代将軍の実朝公は小倉百人一首や勅撰和歌集にも名を連ねる貴族的な教養も高い人物としての印象が先行してしまった様で、余り歴史に関心の無い人には何故か石川啄木の様な文弱(ぶんじゃく=ナヨナヨして男らしくない文学オタク)な印象が有るみたいです。
石川啄木⤵
石川啄木
「ちょっ!き君ぃ~、風評被害だよ!」
・・・と啄木さんが言いたい以上に実は源実朝公が風評被害と言いたかったと思います。
実は母の実家の北条家が横暴を極めた時も北条家が無実の罪で処罰しようとした渋川サンを助けたり、畠山重忠公の御子息の畠山重慶公が事実かどうかも解らない謀反の容疑がどっからか湧いてきて、有力御家人の小山朝政公の実弟の長沼宗政と言う武将によって殺害されたた事についても可也ハッキリとこんな事言ってるんですね。
「テメー等過去に無実の畠山重忠ブッ殺して冤罪生んでんじゃねーか😠🖕!」
「俺が畠山重慶は生かして裁判にかけろっつったら俺の言う事聞けっ😬👎!」
鎌倉殿畠山重忠
この人⤴実朝公の言ってる冤罪で殺されちゃった人。更に有罪か無罪かの聴取もしないで御子息の重慶公も長沼宗政に殺害されてしまった。
でも実朝公は畠山重忠公の時と同じパターンだった事から有力御家人だろうと容赦せず毅然とした態度で長沼を懲戒処分にして謹慎処分にしてるんですね。
実朝公の言う⤵過去の冤罪で畠山サンぶっ殺した共犯達。
鎌倉殿北条時政小鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条政子2鎌倉殿安達盛長鎌倉殿三浦義村小鎌倉殿和田義盛
源実朝公が激怒した、畠山重忠公の御子息の重慶公を殺害した長沼は明らかに北条家の命令で動いていて、本来は北条家の対立勢力の小山家の更に傍流(分家)でしかないのに北条側にずっと味方し続けて見返りに大変破格な厚遇を受け続けた事実が現在に伝わっています。
鎌倉殿北条時政小鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条政子2
まぁ要するに、実朝公は兄の源頼家公や父の頼朝公は母方の親類や北条親派の御家人に殺されたと思っていただろうし、それでも上手くやってたし実母や叔父や祖父に対してガンとして意見する人物だったし、高い教養と活発な行動力を兼ね備えていた様です。
もうアホな家臣達が動物園の猿山の様に成ってワチャワチャ自分の事しか考えず権力闘争してるのに愛想尽かして遠洋航海船作り始めて「権力いらねぇ~し」「俺、中国に勉強に行く」とか言い出す人でしたしね。
この実朝公、実は旧鎌倉郡の中でも特に現在の逗子市域が好きだったみたいです。
逗子市には岩殿寺と神武寺と言う2つの由緒正しい名古刹が存在するのですが、これ等の御寺は昔は山道を歩く巡礼道で繋がっており、そこを源実朝公は鎌倉から山道を歩いて御参りに来ました。
もう数年前に御参りしているのに未だブログに書いていないので、その内紹介するとして場所だけ今回は掲載して置きます。
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海雲山 護國院 岩殿寺岩殿寺は文字通り当時は山の山腹~山頂にかけて建てられた御寺で鎌倉からずっと尾根の古道伝いに歩く修験道の巡礼道でもありました。
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昔は修験者が歩いたこの道を伝って今でもハイキングする人を見かける事が出来ますが、江戸幕府による修験道の天台宗か真言宗への服属強制と明治政府の廃仏毀釈神仏分離令の2回の弾圧によって修験道が衰退したのでトレッキング中に白装束を来た山伏とすれ違う事は有りません。

以前も紹介した鷹鳥山や横須賀の田浦方面にも抜けれたし山伝いに三浦半島を縦断出来た古道が昔は繋がっていたんですね。
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当時はこんな敷石の無かった赤土と砂岩と腐葉土の山道を歩いて実朝公は鎌倉の大蔵幕府~岩殿寺~神武寺を参詣されたんですね。
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醫王山 来迎院 神武寺この神武寺の参道を南側に下りきった谷が武道谷(ぶどうがやつ)と呼ばれた場所で源義朝公の沼濱亭が有った様で、神武寺~降りて来る武道谷と反対の法勝寺を含めた山稜一帯が沼濱城と呼ばれ所々削平される等して詰城として機能していた様です。
これについたては又、別の記事で紹介しています。

源実朝公の御父上の源頼朝公は意外に山岳信仰の修験道を大切にしてアルピニストだったので、それに似て実朝公もハイキングが好きだったんですね。
鎌倉の大蔵幕府から岩殿寺と神武寺と御参りしたのは御爺ちゃんの義朝公の沼濱亭の跡地を訪ねてみたかったのかも知れませんね。
いずれにせよ結構ハイキングコースを歩いて参詣したり、元来は活発な方だった様です。
鎌倉殿源義朝
実朝公グランパ⤴の義朝公。
こっちはパパ⤵頼朝公。
源頼朝公
因(ちな)みにパパの頼朝公は凄くて当時の山岳登山装備が何にも無かった時代に神奈川県伊勢原市の大山頂上の石山権現まで登って行って御参りしたり、後の富士山信仰でも行われた富士山の頂上まで登って火口を1周する荒行も達成されていたりします。
鎌倉殿源頼朝
大泉洋⤴のせいで色ボケ軟弱なサイコ経営者的な描写に鎌倉殿の13人では成っていますが、実際は教養が有っただけじゃなく、頼朝公~実朝公親子は健康的で活発だった様ですね。
源実朝公が軟弱だったり病弱だったりするイメージを惹起(じゃっき:印象を植え付ける連想させる)事が吾妻鏡に書いてあるのは北条家の専横と政権簒奪(さんだつ:乗っ取り)を正当化する為のプロパガンダである事が、複数の郷土史で異なる伝承が伝わる事から状況証拠として解ったりする訳です。
こんな風に逗子市は源義朝公が住んでいた事も有ったり、源頼朝公が披露山で宴会を開いたり、源頼家公が大崎公園の下の小坪漁港で流鏑馬をしたりと、源実朝公が岩殿寺や神武寺をトレッキングで御参りされたりと源家の歴代棟梁はこの土地の景観を非常に愛していた様です。





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南国リゾート風の富士山の景勝地
逗子マリーナと小坪漁港の夕景
【逗子マリーナ(小坪飯島公園)】
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平安時代末期~戦国時代まで続いた相模国の小大名、三浦家の聖地と江戸時代に庶民の信仰を集めた神社仏閣や弁財天を祀る洞穴が、ねつ造された嘘の歴史を流布するカルト信仰によって乗っ取られる危機に瀕しています!

以下の事を行って、史跡乗っ取りを阻止して頂きたく、歴史好きの皆さんに拡散致します!

Google mapで以下の●の地名の場所を検索して見て下さい。
( )内が正式名称
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
以上の場所が明治時代設立のカルトを踏襲した新興カルトに乗っ取られ、Google map上で●表記の施設名称に書き換えれたり、小生や仲間達で正しい歴史を警告するとレビューから削除されます。

実は最後の三浦家の頭領の三浦義意公と房総半島の真里谷武田家出身の側室をモデルにして明治時代に書かれた架空歴史小説「桜の御所」に登場する架空ヒロイン小桜姫をカルトを用いて実在したかの様に広めカルト組織がそれぞれの史跡や別の神仏の崇拝場所を乗っ取ろうとしています。
実在せず、時代設定もハチャメチャな話をさも実話の様に信者や歴史に無知な女性に「縁結びの神」と悪質な情報で勧誘しては自分達の宗教施設の様に事実上乗っ取りにかかっています。
独身女性の結婚願望に付けこみ信者を増やそうとしている訳です。
ソイツ等は❝神奈川県神社庁や菩提寺、菩提寺宗派の曹洞宗とは全く無関係❞の新興宗教系統のカルトです。にもかからず、さも自分達の宗教施設の様に佐原三浦家関係の宗教施設へ、縁結び願望の有る女性達を連れまわしては歴史事実と異なる解説をして信じ込ませています。
このせいで、佐原三浦家最後の武将、三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の三浦氏三崎町小網代に在る海蔵寺は一般参詣不許可の対応をせざるを得ない状況に追い込まれています。

そこで以下のお願いです。
①下記3ヶ所をGoogle mapで検索して、小生達の歴史解説レビューに「」を押して頂けませんか?
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
②出来れば「情報の修正を提案」から小生が( )に示した正しい名前に戻すように名前を提案して下さい。
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
③可能ならばレビューに三浦家の歴史書に小桜姫の名前は登場しない事、三浦義意公の妻は真里谷武田家の姫である事、桜の御所の時代設定で架空人物の小桜姫の実家とされる金沢北条家は戦国時代の三浦義意公の佐原三浦家滅亡より200年も前に滅亡した事実、この三点をレビューに書いて頂ければ幸いです。

目的としては、縁結び目的の独身女性達がカルトに入信するのを防ぎ且つ正しい神社の名前と仏教施設としての名前をGoogle mapで取り戻し、史実を周知して頂いた上で女性の皆さんには縁結び祈願に安心して自分で来て頂ける様にする為の対抗策です。
ひいては三浦半島の観光が小説桜の御所の舞台として、そして源頼朝公や三浦家所縁の観光地として正しい形で活性化するのが最終的な目的でもあります。

無論、皆さんのお手を煩わせたく無いので出来る範囲の協力、又は拡散で結構です。

すみませんが、拡散協力願います。

三浦家について詳しい歴史は以下に纏め解説してあります。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/64025466.html
上記URLの解説を参考にして頂ければ幸いです。

仮にカルトを利用してでも観光振興の為にやっているのならば、カルトを巻き込むのは三浦ブランドを落とすマイナス効果しか生まず、周辺自治体にも迷惑をかける行為に成ります。
三浦半島には元々源氏と平家の三浦家所縁の豊富な史跡群に加え、近代の要塞や、アメリカ文化の観光地、そして問題の三崎周辺は風光明媚な夏の観光地や冬のミカン狩りや鮪や松輪鯖や三浦大根のブランドが元々有名な場所です。もっと真っ当な宣伝をして城ヶ島や三崎をアピールして欲しいと願うばかりです。
三浦家滅亡の新井城址は日本最長の4年間に及ぶ籠城戦が展開された名城として歴史好きには有名な場所です。カルトが小桜姫の祠と名を変えて宗教活動に利用している場所も江戸時代に遭難した漁民を助けた強い御利益の在る弁財天様として庶民から崇敬された場所です。
諸磯神明社も天照大神を祀る大切な神社ですし、三浦義意公の奥方が北条勢に捉えられたと伝承する諸磯神明社摂社の若宮社も、鶴岡八幡宮の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇=八幡大菩薩)の御分霊以外に何者でもありません。神道の信者にとってとても大切な神様達の御社です。
そこをカルトで汚さないで下さい。

三浦には沢山の景勝地と近代公園や自然公園、そして史跡とヤマトタケル神話や三浦家歴史の舞台の神社やと寺も有ります・・・
三浦海岸(海水浴場)
三浦市下浦町~三崎町周辺(西瓜と三浦大根の名産地、冬季はミカン狩り、初春は苺狩り)
江奈漁港(高級ブランド鯖の松輪鯖の漁港)
剣崎灯台周辺(神奈川の景勝50選)
盗人狩り(神奈川の景勝50選)
城ヶ島大橋と城ヶ島の景勝(神奈川の景勝50選)
城ヶ島のホテルや旅館(海に面したホテル、旅館、ペンション多数)
城ヶ島公園(景勝地、自然公園)
城ヶ島灯台(景勝地)
城ヶ島長津呂崎(景勝地)
城ヶ島北原白秋記念館(北原白秋三崎在住時代の解説展示館)
三崎漁港(鮪の水揚げ漁港、昔からの名産地)
三崎銀座商店街(鮪料理専門店が並ぶ商店街)
三浦映画社(三浦半島に映画ロケとドラマを誘致するNPO、過去ロケの作品の紹介場所)
三崎城址(北条氏規公居城)
本瑞寺(源頼朝公別荘跡、後に入舩地区に三浦義意公が開基し江戸時代に現在地に移転た寺院)
油壷湾(神奈川の景勝50選:昭和の映画スターのヨット遊び場)
油壷マリンパーク(皇太子殿下と雅子妃殿下始め皇族の方々のデート場所)
新井城址(佐原三浦家終焉の城)
荒井浜(流鏑馬神事が行われる)
海蔵寺(三浦道寸公開基の寺院、三浦道寸と三浦義意公の菩提寺)
小網代の森(原生林の遊歩道)
荒崎海岸(神奈川の景勝50選)
諸磯隆起海岸(フィリピン海プレートと太平洋プレートの衝突による隆起地形観察公園)
葉山マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、商業施設)
大楠山(神奈川の景勝50選)
森戸神社(源頼朝公勧進の三島大社御分霊)
名島(源頼朝公別荘跡の水没した島)
森戸の夕照(神奈川の景勝50選:森戸神社から名島を見た夕景)
鐙摺城址(三浦義澄公拠点)
鐙摺城址出丸旗立山(伊東祐親公御廟所)
秋谷の立石(神奈川の景勝50選)
秋谷海岸(景勝地)
長者ヶ崎(神奈川の景勝50選)
佐島マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、リゾートホテルとレストラン)
天神島臨海自然教育園(自然観察公園、佐島マリーナ横)
関口牧場(酪農家、アイスクリーム製造直売)
ソレイユの丘(BBQ等の複合レジャー施設)
披露山公園(神奈川の景勝50選)
住吉城址(平安時代末期三浦義澄公が籠城し、戦国時代に北条早雲公が籠城した城址)
逗子海岸(昔は明治の侯爵達の遊び場、昭和期は太陽族、今はチャラ男にチャラ女の聖地)
逗子マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場)
逗子市郷土資料館(徳川家別荘)
衣笠城址(平安~鎌倉時代の三浦本家の居城)
大善寺(衣笠城址に在る、鎌倉時代の三浦本家の学問所だった寺院)
満昌寺(源頼朝公が鎌倉幕府設立の立役者の三浦義明公供養に開基した寺院)
清雲寺(佐原三浦家の鎌倉時代~室町時代初期の菩提寺)
怒田城址(和田義盛公の平安時代の居城)
佐原城址(源義経の鵯越の逆落としの作戦を立案した佐原義連公の居城)
田浦梅林(今上天皇生誕記念に植林された4000本超の梅林の公園)
塚山公園(神奈川の景勝50選)
塚山公園按針塚(徳川家康公外交顧問のウィリアムスアダムス=三浦按針公と奥方御廟所)
どぶ板商店街(アメリカ第7艦隊の将兵が遊ぶアメリカ文化の商店街)
戦艦三笠(世界三大旗艦の一つ、東郷平八郎元帥の乗艦)
三笠公園(戦艦三笠が展示された公園、猿島へ渡る船の桟橋)
猿島要塞(明治時代の要塞、日蓮聖人の史跡、縄文時代の遺跡)
信楽寺(坂本龍馬室お龍さん菩提寺、土肥実平公持仏を祀る寺)
走水海岸(日本武尊と弟橘姫の神話の舞台)
走水神社(日本武尊の冠を社殿地下石室に埋蔵した神話の神社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の仮御所が在った、明治期に神社を壊し砲台設置)
観音崎(神奈川の景勝50選、昭和の映画スター達のリゾート地)
観音崎要塞(明治時代の要塞史跡)
観音崎灯台周辺(今上天皇と皇后様も訪問)
多々良浜(景勝地:貝殻で出来た真っ白な砂浜)
・・・等々、挙げればキリが無く・・・
どこも昭和のリゾート地として映画スター達に人気だった場所や現在の天皇陛下や明治の東郷元帥や三浦家と源頼朝公の大切にされた御寺や御城や別荘の跡、ばかりです。
もしも三浦市非公認のままの観光振興の心算なら、歴史歪曲は三浦ブランドを貶め神仏と歴史偉人を愚弄する行為です。
仮に嘘の歴史を教えられて小桜姫は実在しなかった小説の架空の人物である事を知らず、モデルが真里谷武田家の姫だと知らずに信仰してしまったなら、これからは真里谷武田家の姫様として、小説桜の御所のロケ地として三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫に縁結びを御願いしてみて下さい。
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三浦半島の西側は何処も絶景で…
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生憎の雨天でも、三浦半島の山々の向こうには相模湾に浮かぶ江ノ島が見える。
晴天だと江ノ島の奥に箱根山系がハッキリと見え、更にその奥に富士山が聳え、夕刻には山並みが朱に染まる。
この風景と土地の特性が逗子~葉山~油壷が明治~昭和初期に別荘地として繁栄した理由。
この眺望は勿論素晴しい。
しかし土地は水田に向かないので畑ばかり。
富士山由来の関東ローム層故(ゆえ)に水田に適さなかった土地に根差した畑文化による豊富な種類の地野菜、そして三浦半島特有の江戸湾と相模湾両方の海産物を堪能出来る保養地としての地勢的な有利に由(よ)る。
簡単に言えば…綺麗な風景と夕日を見ながら、豊富な種類の海の幸山の幸を堪能出来る訳だ。

さて…
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2016年06月05日、土曜日の朝は大正~昭和時代の雰囲気の家族経営旅館、大海荘で宿泊している部屋から始まった。
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…と言うか、いつもは飲まない御酒も飲んで休日の習性で前日徹夜していたままTBSふしぎ発見を見終わった直後に寝落ち、夜中の3時頃に起きてからずっと朝までPCで書き物してた。無論、リラックスは出来た。

朝食が朝7時~と言う事で早速食べに行った。
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久しぶりにまともな朝食を食べた。ランチや夜は美味しい物散々食べてるのにね。
焼き魚食べれて嬉しかったなぁ~。
その後、8時~朝風呂入浴出来るとの事で、表の長者ヶ崎の砂浜を散歩する事にした。
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もっと干潮だと小さい長者ヶ崎の岬の先端まで歩いていけるのだけどね~。
❝神奈川の景勝50選❞の一つだけあり、長者ヶ崎の眺望は良い。
因(ちな)みにコチラ側、落石注意立入禁止の看板が有るので、こちら側から行きたい人は先にFacebookとかTwitterに「落石事故に遭っても自己責任です」と投稿して下さい。
この先に行く事は無く宿に戻り、朝風呂の時間に成ったのでラドン温泉に朝から入浴。
良い小旅行に成りました。満足。
…大海荘の御主人と奥さん、ありがとう。
土曜日も休みにしてあったので、天気が良ければ長谷寺に紫陽花を見に行ってから、昨年の映画❝駆け込み女と駆け出し男❞で登場した佐助稲荷神社、それと義祖母が良く行っていた銭新井弁天に御参りする心算だったのだけども…雨天。
三浦方面に行き、大好きな石井農園(夏季は西瓜直売・秋季はミカン狩り)の直売所に看板娘の御婆ちゃんに会いに行き、石井農園の菖蒲園を見学しようかと思ったが、こちらも雨には合わないスケジュールなので、葉山近辺を散策する事にした。
逗子葉山訪問先
実際に廻った場所↑の地図。
●森戸神社…源頼朝公勧進の三島大社の御分霊を祀る神社と源頼朝公の別邸古址。
●鐙摺城址の一部、旗立山…葉山マリーナの前に在った源頼朝公の与力中最大勢力の三浦家の支城。
●日影茶屋…築100年以上の商家を改装したレストラン・和菓子屋・Bar
●逗子市郷土資料館…明治時代の旧徳川家別荘を転用した文豪:徳富蘆花と逗子市の考古学の博物館。
●住吉城址と正覚寺と住吉神社…戦国大名佐原三浦家の支城、城址を貫く古東海道の史跡。
●由比若宮(元鶴岡八幡宮)…鶴岡八幡宮が源頼朝公によって鶴岡に遷宮されるまで在った場所、鶴岡八幡宮の元宮。
長者ヶ崎~車を走らせて10分足らず、最初の訪問先は森戸神社。
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ここは源頼朝公が伊豆時代から信奉する三島大社の御分霊を勧進し造営した由緒ある神社で、鎌倉武士にとって重要な神社。だから流鏑馬(やぶさめ)奉納の神事も行われる。
詳しい事は何(いず)れ森戸神社の解説記事で説明する心算。
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ここは西と北が海に面していて眺望も良いのだが、背後西側の海に浮かぶ島を名島と言う。
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鳥居が立っている岩礁が名島。
今は磯だが昔は島だった。
そして名島と森戸神社の海岸の間に続く岩礁も昔は半島状の陸地で、なんと其処(そこ)には源頼朝公の別邸が在った。
頼朝公は鎌倉周辺、こと三浦半島が御好きだった様で色んな景勝地に別邸を持ってらっしゃった。
鮪で有名な三崎漁港にも春の御所を持っていた。その場所は本瑞寺や光念寺の丘。
森戸海岸の頼朝公別邸は海に沈んだ。
神職の方の解説では「海面が上がったから」との事だったが、それは歴史と整合しない。
三浦半島の地盤は関東大震災でも50cm隆起している。
つまり、この付近のプレートは盛り上がるベクトルの地盤な訳だ。
この地盤は下の方が堅い岩盤、上は海底に在った時代に砂だった鎌倉石と言う現代では採掘禁止の重要な石材に成る砂岩や、干潟の泥が固まった泥岩の地盤で出来ている。
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近くの秋谷にも❝立石と言う神奈川の景勝50選の一つ❞があるが、その秋谷には小生の推測を証明する地名も残っている。…❝大崩れ❞と言う地名だ。
表層の砂岩と泥岩の地層が波に洗われて崖の下部が浸食され、やがて上の地盤を支えられなく成り崩落する訳だ。
この付近の地層が柔らかい層と地底深くから盛り上がった堅い岩盤で構成されているから、結果的に島は波に浸食されて残るのは岩礁だけに成る訳だ。
頼朝公の別邸の在った陸地も実際は❝砂岩や泥岩の地盤だから浪に浸食されて消えた❞と言うのが正しい所だろう。
なんせ実際に三浦半島は地震の度に隆起するのだから。
何にせよ、頼朝公と三浦家の武士団所縁の神社を御参り出来て良かった。

御参りしたら「そう言えば近くに鐙摺城が在ったな」と日本城郭体系で読んだのを思い出し、まだ行った事が無かったので訪問する事に…
目標物は葉山マリーナだ。
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この港を押さえる城が、葉山マリーナ背後の鐙摺山に築かれた鐙摺城だったのだが、源頼朝公の石橋山の合戦時、ここに籠城した三浦義澄公が攻め寄せた畠山重忠公の平家軍を釘付けにして三浦家本城の衣笠城で一族が防衛体制を立て直す時間をかせいだ。
その時に源氏側の味方の志気を揚(あ)げる為に白幡を立てたと言われるのが、鐙摺城の出丸と考えられる旗立山だ。
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当時は海に突き出した断崖絶壁、味方に三浦の軍功だと知らしめる旗を立て、立て籠もるには十分な要害性が有るが規模は小さい。あくまで背後の鐙摺城の出城。
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鐙摺城の出丸の旗立山への登城は、築100年以上、歴史300年以上の和食・和菓子・BARの店の日影茶屋が目印。
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日影茶屋と道路を挟んで正面の駐車場に旗立山の入口階段が有る。
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鎌倉石の丘…雨でコケと砂岩が相まってメッチャ歩き難いし落ちたら死ぬ!
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本当に規模は小さいけれど、ここには城址として以外の史跡がある。
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伊東祐親公の供養塔だ。
伊豆の伊東を治めた伊東祐親公は源頼朝公と対立したのだが、子孫は良く頼朝公に仕えて日向国(宮崎県)の大名に成った。江戸時代にも飫肥藩の小大名として御子孫が存続した。
…実は内の母方は親類は伊東家の家老の子孫に養子を出していて、小生は疎遠だが母の世代はまだ交流が盛んな様だ。無論、今は皆して中の上下彷徨うくらいの庶民(笑)。
ここでウチの母方が御世話に成った伊東家の御先祖様に御参り出来て良かった。

しかし…
出発し結局、本能の赴くままに車を走らせたら、いつもの休みみたいに城跡・神社仏閣・古民家巡りに成っって。
…今にして思えば、これなら雨でも紫陽花庭園や菖蒲園の方が楽だろうに(笑)!

旗立山を下りて、日影茶屋の和菓子部門へ…
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倉を改装して営業している。
凄く雰囲気が良い。
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何故なら…
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この和菓子を展示しているスペース、夜に成るとカウンターに成り、BARとして営業しているから少し薄暗く大人な良い雰囲気なんだな。
ここで御土産に大福を購入した。

それから車停めた葉山マリーナ周辺を少し散歩。
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やはり昭和初期~金持ちの集まるヨットハーバーとして有名なだけあって、御洒落(おしゃれ)っぽい喫茶店やレストランが多いね…
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どこも御客さんいっぱいで繁盛していたよ。
小生の宿泊した大海荘から車で10分前後の距離だから、夕食はこちらに来てとっても良いかも知れない。
まぁ、大海荘の場合は相談するとBBQも出来るから、海らしい事は長者ヶ崎の方が出来るか。

旗立山の登り口の横には海寶寺と言う小さい御寺が在った…
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海寶寺と日影茶屋の間の道は❝切り通し❞なので、そこが古道なのだろう。ここを抜けて走水方面へ山を越えて行ったはず。
ここを打ち超えて、葉山町役場の辺りを通過して❝下山口❞の地名が残る辺りをを通過し❝上山口❞に至り、恐らくは三浦家の本拠地の衣笠城址へ辿り着いたはずだ。
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江戸時代も街道だった証拠に庚申塔が御寺の境内に移されて残っていた。
浄土真宗の御寺らしいけれど、規模に見合わない石仏群の多さから古い時代には真言宗の御寺だったんじゃないだろうか?多分、浄土真宗に成る以前にも御寺として存在したはず。
この辺は小生が古道と推測するルート沿いに御寺が多い。
そして、この道が古東海道に繋がっている。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
画像資料作るの面倒なので国土交通省関東地方整備局の画像を拝借すると一目瞭然。
昔の東海道は日本武尊と弟橘姫が仮御所を置いた走水神社の目の前~海路、房総半島の君津・袖ケ浦へ抜けて行く。
そして海寶寺の横には明治時代までは海寶寺サンが別当寺として管理されたいたと思われる須賀神社が有るが、これが正に古道の証拠。
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須賀神社の須賀と言うのは律令制度成立以前の神話の時代の地方名で、素戔嗚尊と此花咲耶姫命の御夫妻が開拓された国名で、とどのつまり素戔嗚尊様は海の神様であり、その後に走水神社の奥宮にも祀られている通り日本武尊も海神として崇拝した神様。
走水神社の奥宮には諏訪社・神明社も有る。ここら辺は以前の記事にも書いたので興味の有る人はカテゴリー「神社(延喜式式内社と歴史千年以上の古社)から「走水神社」の記事を見つけて読むと解説してある。
話を戻すと、旗立山や背後の鐙摺山の南側の平地は古代❝葉山湾❞だった。
昔の海岸線
なので、この切通しを通り抜け山沿いに下山口・上山口の地名が残る現在では名前無くなった峠道を通り抜け走水に抜けたはずだ。
この道は略(ほぼ)県道27号線なんじゃないかと小生は推測している。そして県道27号から、日本武尊が武蔵国橘樹郡~久良岐郡方面を抜けて~走水に至った道近くを辿(たど)る国道16号線に合流し、走水から房総半島に渡ったのだろう。
葉山マリーナは昭和以来の新しい観光スポットだが、実は目の前に山城跡が在ったり古道が存在したり、存外歴史が有るのを地元の人も今では知らない。
…ま、神奈川は基本移住者だらけだから。

さて、葉山を後にして、次は逗子市郷土資料館を目指した…

逗子が古代は海の底だった鎌倉市市街地よりも早く開けた土地で、逗子の山々の山頂からは巨大古墳が幾つも出土しているのだが、その相模湾側の風景は現在も美しい。
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今回の休日雑記冒頭で掲載したこの写真は逗子市からの眺望だ。
この風景と豊かな海産物農産物と浜辺が有る事から、明治時代の政治家や大富豪達がこぞって、この逗子に別荘を建てた。
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そして今回訪問した逗子市郷土資料館はなんと❝徳川家の宗家の大正~昭和時代の別荘❞だったのだ。。
逗子が葉山よりも有名な一大別荘地だった歴史を示す建物が資料館として転用されているのだ。
つまり、資料館時代が古民家で、重要文化財な訳だ。
ただし、駐車場が近くに無いので近所のレッドロブスターの有料駐車場に停めるしかない。
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う~ん、横浜市中区根岸の義祖母の家を思い出す…
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建物は素晴らしい保存状態。
ここは逗子を舞台にした不如帰(ほととぎす)を出版した文豪:徳富蘆花の関連展示物と、大正時代の徳川家に関する解説が多く興味の有る人にはたまらない場所だ。
職員さんは二人常駐していたが、とても親切に解説して下さった。
親切過ぎて約2時間、職員サンの解説を聞き込んでしまった…
気が付いたら「ヤベ!駐車場代金スゲぇ~事に成ってるんじゃね?」
…とビビッて、そこからは職員さんの苦手な時代の戦国時代に話をスリ替えて質問しまくり、上手く退散した(笑)。
しかし、ここの男性職員の方は話も御上手で近代史と地理は御詳しく、明治時代の話や太平洋戦争中の話し、徳富蘇峰と徳富蘆花兄弟の確執の話や徳川家の話を色々と解説して頂けて面白かった。
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因みに上の写真の離れが❝徳川家達(いえさと)❞青年が住んだ建物。
職員さんの解説だと話は濁しておられたが、どうも石原慎太郎氏の小説❝太陽の季節❞の映画版で石原裕次郎氏が演じた主人公の❝津川竜哉❞のモデルは、この徳川家達青年なんじゃないかと匂わせておられたが、実際に小生もそう感じた。
まぁ、逗子に住んだ石原慎太郎氏なので、地元の人物をモデルにした可能性は実際高いと思う。

この逗子市郷土資料館や徳川家と徳富蘆花の話は、又、別に独立記事として仕立てようと思う。

さて、駐車場代金がやはり高く成っていたので、昼食もまだだった事もあり、レッドロブスターで駐車料金無料にする為に遅い昼食をとる事にした…
この時点で15時前後か?
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すんごい久しぶりのレッドロブスター。
チェーン店を毛嫌いする様に成ってから10年近く来てなかった。
わざわざ逗子に来てまで食べる物か?と思ったけれど1480円のジャンバラヤのランチは普通に悪く無かった。

もう急がないと日も傾き始めるので、この日のメインディッシュだった住吉城址の丘に移動…
道に迷いながらレッドロブスターから車で30分位かかっただろうか?
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城址の一角だったのが正覚寺と海前寺だ。
ここは戦国時代の三浦家の大名三浦道寸公の武将で御実弟の三浦道香公が守将として配置されていた。
道寸公が伊勢原市の岡崎城で北条早雲公に敗れ主家扇谷上杉家の大庭城も陥落し、この住吉城へ逃れて来たがやがて、油壷マリンパークに在った新井城に撤退し日本最長の籠城期間4年を戦い抜いた後に滅亡した。
北条早雲公が攻略に10年を要した岡崎城についてはカテゴリー「城址」に解説記事を以前書いた。

実はこの正覚寺と海前寺は、古東海道の史跡と考えられていて山を貫く古道で近年まで繋がっていた。
しかも貴重な隧道(すいどう=トンネル)の古道だ。
そこには正覚寺の本堂の横から、参拝出来る住吉神社に行くと洞窟が見える。
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住吉神社も、古くから海の往来に関係の有る大伴氏や佐伯氏と言う古代の豪族が信仰した神社なので、縁起の定かでは無いこの住吉神社は古代から存続している古社だと小生は推測する。
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このトンネルは住吉神社側から入る事が出来るが…
反対側が封鎖されている。
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ここはそもそも逗子市民が通う大切な道だった!
しかも古道史跡で城址だ!
しかし名名高い❝東急グループ❞の❝東急リバブル❞が❝住吉城址と古東海道の史跡を破壊してシーサイドコート逗子望洋邸と言うマンションを建設してしまった。
現在進行形で隣の鎌倉市でも、ココより小規模な北鎌倉駅近くの古道の隧道の保護で土建屋と結託し隧道破壊を目論む市長が議会と報道からヤリ玉に挙げられ責任追及されているのにだ!
逗子市教育委員会、何やってんだ?仕事しろ!
この東急グループは横浜市でも自然公園の貴重な蛍の生息地でありながら、奈良時代からの❝蹈鞴(たたら)製鉄遺跡❞が出土し❝灌漑水田史跡❞や鎌倉武士の往来した❝鎌倉早駆けの道❞と言う歴史史跡・古道史跡・横浜最後の豊かな自然が残る円海山と瀬上池周辺を破壊し宅地化ようとしている。
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この水道は最近まで利用されていただけあり保存状態も良い。
鎌倉の釈迦堂切通しと並んで重要な史跡として認定されてもおかしくない。
…これ、石原慎太郎サンに陳情したら面白い事に成りどうだな。
生活道路の使用として裁判起こしたらシーダイドコートで分断された道、逗子市民が使用する権利認められるぞ多分。
住吉城も今後、解説記事を独立させて書いて行こうと思う。

ここの写真撮影後、本来は長谷寺で紫陽花を見る心算だったが時間も無いので鎌倉の佐助稲荷神社に参拝するつもりで車に乗り出発した。途中、ふと有る事を思い出した…
「そう言えば元鶴岡八幡宮(由比若宮)の写真、撮影した事無かったな」
…と言う事で、目的地に行く前に途中、鶴岡八幡宮の由比若宮に移動。
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鶴がヵ八幡宮は実は元々現在の場所では無く、源頼朝公の御先祖に当たる源頼義公が材木座に建てたのが始まりで、現在もその場所には由比若宮と言う形で本来の八幡様が存在している。
解説はカテゴリー「神社」の中から探してもらうと、そこに元鶴岡八幡宮に関する記事を以前書いて有る。
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ここが重要な場所なのは、境内に軍神と鎌倉武士達から崇拝された八幡太郎こと源義家公所縁(ゆかり)の物も存在する事から、歴史好きは直ぐに解ると思う。
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源義家公が源氏の白幡を立てた松。
恐らく、ここは白幡神社の総本社としても呼べるんじゃないだろうか?
源家の与力武将達は、皆それぞれの領地に八幡社を勧進しているが、その地名には白幡の名が残る場所が多い。そして、そこは大体が河川や海の港湾の近くだ。

参拝を終え、佐助稲荷神社に向かおうと亀ヶ谷方面にから佐助稲荷に抜ける鎌倉市街の御成地区に移動したが、佐助稲荷周辺の長谷地区東部が通行規制で車が入れず断念した。
大船へ抜けて横浜へ帰る途中、渋滞で停車中に面白い風景が撮れた。
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渋滞で停車中の車の上に、湘南モノレール。
世界でも珍しい釣り下げ式。
これ、大型特殊車両はこの道通れないよね。

1泊2日の鎌倉~逗子~葉山旅行、2日目は結局普通の休日の行動に成ってしまったけれど、葉山町の長者ヶ崎海岸に宿泊しユックリ出来たし、明月院の菖蒲園も綺麗だったし、元鶴岡八幡宮も御参りして写真も撮れたし良い小旅行だったと思う。

以上。

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