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タグ:都筑区

皆さんは都筑区の区名が旧都築郡に由来している事を御存知でしょうか?
地方出身の横浜市民は明治以前の❝ヨコハマ❞が、そのまま村民100人位の横浜村だったと間違った歴史認識を教えられている人もいるかも知れませんが、その横浜村と言うのは今でいう関内辺りに在った半島上の村だけを指す範囲で現在の横浜市全域を指す訳ではありません。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
横浜市の中でも都筑区は山坂が多く現代には開発が遅れた地域だった上に、古代から橘樹郡の郡衙だった橘樹神社と都築郡の郡衙だった西八朔の杉山神社や茅ヶ崎一帯を結ぶ矢倉沢往還や中原街道等の旧街道が通り特に多くの遺跡が残っている事から古代において重要な地域だった事が考古学的に解っています。
そんな早くから開けて主要街道が通る都築郡だったので、平安時代にも重要視されていた様(よう)でして東京の神田明神では商売の神様として有名で、多摩地方や神奈川県域では善政を行った名将として江戸時代に成っても庶民から親しみを込めて尊敬されていた平将門公もやはり都築郡に来た歴史が伝わっています。

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その場所が都筑区仲町台の長福寺が江戸時代迄別当寺として管理した熊野社です。
平将門公が熊野社に籠もり祈願した話しが新編武蔵風土記稿にも紹介されているのですが、小生は風土記を読むより先に長福寺を初参詣した際、御住職様に直接その伝承を教えて頂き後に風土記を読んで見ました。伝承では平将門公が寝ている時に霊夢を見て、ここに在った熊野社の社殿に7日間も参篭(さんろう=建物に泊まって御参りする事)したと紹介されています。
最初に長福寺を参詣したのは偶然で、当日は茅ヶ崎城址公園の写真再撮影に行こうとして車を走らせていた際に停止した信号の交差点の名前が❝長福寺南側❞だったのですが・・・
「何か気に成るな~」
・・・と思い立ち寄ったのが最初でした。

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久松山 長福寺&平将門公所縁(ゆかり)の熊野社
さて、長福寺さんは元々は熊野社を守る為に存在した御寺なのですが、実は小生が顕彰活動を行っている横浜の殿様の間宮康俊公の間宮家や、その上官の北条綱成公の実家福島家とも少し因縁が有りそうな歴史が有るんです。ですが先ずは御寺の紹介を先にしましょう♪
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御本堂は木造と鉄筋コンクリートを合わせた構造に成っていました。
新編武蔵風土記稿 巻之八十四 都筑郡之四の大熊村の項に江戸時代の頃の様子が❝熊野社❞と❝別當寺長福寺❞として紹介されています。
最初に熊野社の説明が登場するので一応、現代では長福寺境内にこじんまりと存在する熊野社も先に写真で様子を紹介します。
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幅は1mちょいって所で現代の熊野社は凄く小さな物に成っています。これでは平将門公が霊夢を得ても❝熊野社の御堂に籠もる❞事は出来そうに有りませんね。後世に熊野社を守る役割だった御寺の長福寺の方がメインに成り、熊野社は火災とか色んな変遷を経(へ)て復興する際に小規模化されたのかも知れません。
新編武蔵風土記稿を読むと江戸時代当時迄は平将門公が籠もった当時の規模が維持されていたかも知れない様子が記載され、当時の熊野社の御堂の幅は1辺が3.6m四方の御堂だと説明が有ります。そして御堂ではなくて社(やしろ)と書かれているので神社として存在していた事も判(わか)ります・・・

境内御朱印地の内、村の西にあり、社(やしろ)は二間(1間=約1.8m)四方(1辺3.6m四角の面積の広さ)東に向けり本地仏(ほんぢぶつ=神様の仏様としての姿)弥陀(阿弥陀様)木の立像長四寸許、縁記によるに當(当)社は承平年中、平将門宿願によりて、不思議の霊夢を蒙り、此の社に七日参籠せる・・・以下中略

別當寺長福寺 本社に向かいて右にあり、禪(禅)宗曹洞派、橘樹郡末吉村寶泉寺末久松山と稱(称)す本堂七間(12.7m)に五間(9m)南向きなり、本尊釈迦木の坐像長一尺二寸許、今自山應大と云(言う)僧を以(もって)開山とせり・・・以下省略

・・・江戸時代までは神仏習合の宗教観で本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想に基づいて阿弥陀如来が神社だった熊野社に御神像として祀られていた事が解かります。そして熊野神社は東に向いていると掲載が有りますので現代の配置を見て見ましょう。
長福寺本堂と現代の熊野社配置 久良岐のよし
現代に本堂として機能している建物は東向き熊野社は北向きと日本古来の神社の宗教観では有り得ない御社の向きに熊野社が配置されている事と、本堂は新編武蔵風土記稿で熊野社が向いていた筈の東向きに配置されている上にどうも元々神社の形式の建築を踏襲している様に本堂を幣殿としてその奥左手に本殿の様な構造の御堂が併設されている事が航空写真から解ります。
そして現代の庫裡(くり=寺務所や居住スペース)が新編武蔵風土記稿で熊野社右手に在ると書かれた長福寺の位置に現在在(あ)ります。
この状況から見ると、以下の変遷が推測出来ます。
●先ず本堂が幣殿でその左手奥の建物が熊野社だった。そして庫裡が長福寺だった。
 ↓
●明治時代の神仏分離令の際に神社機能を廃止して、元々から御神像が阿弥陀如来だった事から熊野社の社殿が長福寺本堂として利用された。そして熊野社北側右手の長福寺は僧侶の居住スペースとしてだけ活用される様に成った。
 ↓
●そんな経緯を知らない世代の御住職様や檀家さん達が現代になり「あれ?熊野神社無いじゃん?」と思ってわざわざ本堂に成っている熊野神社幣殿の南側に北向きで熊野社を再建してしまった。その際に記載の通りに3.6m四方の社殿である事や社殿を神道文化に準じて記載の東向きや太陽に向いた南向きにする事は特に気にしなかった。

・・・そんな感じで文献記載と航空写真を根拠に現代の熊野社の配置の経緯が推測出来ます。
さて、熊野社の向きはさて置いても現代でも平将門公がここを大切にした歴史は現在の御住職様や新編武蔵風土記稿によって語り継がれている訳ですが、江戸時代にこの御寺を中興したのは師岡(もろおか)越前守(えちぜんのかみ)と言う小田原北条家臣でした。その事も記載が有ります・・・

其後(そののち) 天文年中(1532~1555年)に至り、橘樹郡篠原村の城主師岡越前守伽藍を再興かど、戦国の折なれば次て修理を加ふる者なく、自ら破損せり

・・・つまり、この一文で熊野社は一回、戦国時代に師岡サンに立てなおされた後で支援者を失い風化して経年劣化の上で損壊し、後に再び立て直されているらしい事も判ります。そしてその師岡サンですが、新横浜駅北側に在る篠原城の城主だった師岡越前守と言う人物が1532年~1555年の間に熊野社を再建した事として記載が有りますが、その頃の篠原城主は小田原北条所領役帳(小田原北条家臣団の所得明細)の編纂された1555年迄の篠原村は金子出雲(十郎)が篠原代官として丗(三十)五貫で知行を当てがわれていたりします。金子一族は現代も港北区篠原に住んでいるので、つまり金子出雲の赴任以前の篠原城代が師岡越前守だった事が解かります。そして師岡越前守の師岡家は後に東京都青梅市の三田領を治める役割を担って転勤した一族でもあります。
戦国時代、青梅辺りは三田領と呼ばれ三田綱秀(つなひで)公と言う武将が治め青梅市勝沼城を居城にしていましたが、三田家が北条家を裏切ったので後に師岡家が赴任した事を、たまたま小生は城好きでもあるので青梅市勝沼城や間宮家関連の青梅市二俣尾の海禅寺を訪問した際に知る機会が有りました。
ちなみに金子出雲の金子一族もそもそも青梅に鎌倉時代から勢力を誇った一族で、三田家は青梅に後から室町時代に成って入って来た一族なのですが、面白い事に師岡家・金子家・三田家の全てが青梅市と深い関わりが有る上に、青梅市を含めた多摩地方では今でも平将門公が❝善政を行った❞歴史が語り伝えられており武蔵阿蘇神社も平将門公が熊本の肥後国一之宮阿蘇神社から神様を勧進し開いた神社として知られていたりします。

さて、そこで実は都筑区の長福寺さんも、どうやら青梅市としがらみが有る事が元々の御寺の本寺格だった寶泉寺の名前が新編武蔵風土記稿に書かれている事や、三田領勝沼城代と成った師岡家が関わっている事から解ります。
この長福寺さんは鶴見区下末吉の長谷山 寶泉寺の末寺でした。
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長谷山 寶泉寺この寶泉寺(ほうせんじ)は権現山城の戦いで活躍した間宮彦四郎と思われる間宮信冬公が開いた御寺で信冬公の系図上の曾孫に当たる間宮康俊公が中興しているのですが、中興開山の御住職が東京都青梅市二俣尾の海禅寺から招聘されています。そして旧二俣尾村の海禅寺は元は福禅寺と言う寺名で、戦国時代天正三年(1575年)には天皇家勅願所にも成った凄まじい由緒の有る御寺なんです。
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瑞龍山 福禅寺(現名:海禅寺)
その青梅市一帯を元々治めたのは三田氏でしたが、三田氏は三田綱秀公の代に小田原の北条家を裏切って上杉謙信に付いた為に討伐され福禅寺近くの辛垣山城に立て籠もりますが結局は降伏し、三田綱秀公は旧上司に当たる太田家の岩槻城に抑留された後に切腹する事に成りました。
更に二俣尾村の名主を江戸時代ずっと務めたのが❝福島家❞である事、小机の土地は元は北条幻庵公の所領でしたが、後に福島家から北条家の婿養子に入った北条綱成公の御子息の北条氏繁公が譲り受けている事、その北条氏繁公の祖父の代までの苗字だった福島家が海禅寺一帯の名主を江戸時代を通じて務め支配を行っていた事も風土記に記載が有ります。
福島家の辺りには澤乃井酒造さんと言う御洒落な酒蔵が有り、現代では八王子市界隈の人が奥多摩レジャーに訪れる際の観光地の一つとして有名だったりします。
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澤乃井園(澤乃井酒造)どうも記録に残らない三田綱秀公没後の青梅市界隈の三田領を分割支配した殿様の事を室町時代末期~安土桃山時代頃の様子を江戸時代の記録や現在の状況から推測すると、玉縄北条家の北条氏繁公や、その子の北条氏勝公の所領に青梅市奥部は成っていて横浜市小机辺りに青梅市辺りの武将達が逆に代官として赴任して来ていたかも知れない様子が何となぁ~く想像出来たりします。
因みに青梅市の躑躅(つつじ)の寺として有名な塩船観音さん・・・
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大悲山 観音寺
この御寺の鎌倉時代の支援者が金子家の金子十郎公でした。どうやら金子❝十郎❞は世襲された名前らしいですね。
篠原城代金子家の事は以前、解説記事に書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事リンクします⤵
篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。

さて、そんな感じで横浜市鶴見区~港北区~都筑区辺りの武将や御寺が実は東京都奥多摩地方に深く関わっていた歴史が辿れるのが長福寺サンの歴史から紐解ける訳ですが、最後に長福寺さんや青梅市の人達が敬愛する平将門公が港北区~都筑区に来た証拠が地名として現存している事も紹介して置きます。
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長福寺から茅ヶ崎城址、つまり横浜市営地下鉄センター南駅方面に車を走らせると平台と言う地名が有ります。この地名は平らな台地だったからでは無くて、平将門が来て長福寺に成った熊野社に参篭した歴史から一帯の地名に成った様です。この事を長福寺の御住職から近くに平台と言う地名も有って云々~と教えて頂きました。
長福寺と平台 久良岐のよし
現代では平台と呼ばれる地域は台地の西の端の範囲しか指しませんが、長福寺辺りが❝仲(中)町台❞と地名が有る事から、長福寺背後の丘~現代の平台辺りの広範囲が本来の平台だった事も推測出来ますね。そしてそこには中原街道が通り、その北には矢倉沢往還が走る訳です。
特に矢倉沢往還は古代東海道と分岐して続く陸路だったので、その道は平将門公が生まれる遥かに昔から使われた街道で平安時代にも重要な地域だった事が解かります。

さて…
実は長福寺さん、3年くらい前の記事で紹介する予告してスッカリ放置し忘れてました(笑)!
今回改めて3年分拾い集めたピースを繋げ長福寺さんと熊野社の歴史、平将門公の伝承から意外な東京都まで話が繋がりましたが、きっと皆さんの御近所の神社や御寺サン、御城の跡の山や公園にも意外な歴史偉人との繋がりが有る場所が必ず有ります。そして悩んだ時や気分転換をしたい時、神社や御寺に御参りしたり城跡を散歩して緑を見るだけでも心が落ち着きます。

皆さん、御近所の神社や御寺や城跡を散歩して見ませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

情報拡散が遅く成ってしまって申し訳ないのですが、今、横浜市歴史博物館で凄い企画展をやっています。
2018年01月08日までと、あと1~2日しか開催されないので緊急拡散します。
横浜市歴史博物館公式 群集する古墳 表 久良岐のよし拝借 
横浜市歴史博物館公式 群集する古墳裏 久良岐のよし拝借 
企画展:群集する古墳
学校では教えてくれませんが、神奈川県内は実は古代の佐賀牟(さがむ)国と磯長(しなが/いそなが/いそたける)国と言う二つの大きな豪族割拠時代の国の首府が有りました。それ故(ゆえ)に実は古代に邪馬台国や出雲王権や大和王権の首府だった九州北部・出雲地方・大阪・奈良・京都に次いで“重要な”古墳時代の出土品が多い地域なんですね。
今回の企画展は小生が年末に紹介した延喜式内社で古代からの聖地の比々多神社や源頼朝公が聖地として修験道の僧侶に再整備させた森浅間神社等の旧境内地古墳群からの出土した副葬品で神社の神器として大切にされている鉄剣や勾玉や甲冑が多数展示されています。
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横浜市歴史博物館※8日月曜日には学芸員サンによる企画展解説も有ります!詳しくは横浜市歴史博物館のホームページを確認するか、電話で解説の開始時間を問い合わせしてみて下さい!
今回は無料で立派な解説パンフレットも配付されています。
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今回の企画展で出土品が多く展示されているのですが昔、鎌倉に在った都筑区の名刹:西方寺を始め、“神奈川県内の凄い神社仏閣一覧”で紹介した神社の神器も沢山有りますので、興味の有る人はブログ記事も参考に御覧下さい。
コレ→
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さて、余り横浜市歴博の事を御存知無い人も多いと思いますので、この博物館の凄さを少し解説させて頂きたいと思います。
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先ず、この博物館の立地を御覧下さい。
センター南駅周辺 久良岐のよし
実は横浜市歴史博物館はセンター南とセンター北の宅地開発の際に、古代都築郡の文化に繋がる縄文~弥生~古墳時代の遺跡が多く発掘され、周辺には平安時代~戦国時代を通じて重要視された交通の要所が通る事から茅ヶ崎城や山田城、そして茅ヶ崎城を築城したとされる多田源氏源行綱公が開いた綱崎山長福寺(現:寿福寺)等が存在しています。
茅ヶ崎城の解説記事はコレ→
そして、この地域の開発当時の市長さんが建設族だけれども政治力に加えて高い文化教養と歴史知識を有していた高秀秀信横浜市長だったんですね。
この市長は凄い方で、建設利権と文化歴史保護を両立させた現代の歴史偉人なのですが(今の林文子と前の中田市長は自然と史跡の保護を怠り多くの場所の不保護→消滅を招いた)、横浜市中区の山手地区の洋館を買取り観光の目玉として保護する事に成功したり、センター南駅の目の前に緑地として茅ヶ崎城址公園を整備して保存と都市計画を両立させる事を成功させた政治家でした。
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中でも横浜市歴史博物館の設立の切っ掛けに成ったのが大塚歳勝土(おおつかさいかちど)遺跡の発見で、こちらも緑地として都市計画に組み込み、貴重な弥生時代の文化と城砦村落である環濠の様子や弥生時代の方形周溝墓と言う平たい方墳を発掘し無料で展示しており、芝生が張られ横浜市北部の市民の憩いの場にも成っています。
さて、そんな遺跡の出土物や茅ヶ崎城や横浜市内の貴重な文化財を常設展示したり、今回の企画展の様に周辺自治体の歴史ある神社仏閣や史跡の出土物を借り受けて展示したり、古代人や武士達と現代の我々を結び付けて下さるタイムカプセルとして❝移民だらけ❞で郷土愛も歴史への理解も足りない人が多い横浜市民に、実は凄い場所に住んでいる事を学習できる場所として高秀所長によって開かれたのが、この横浜市歴史博物館です。
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比較的新しい博物館なので当然、館内は綺麗です。
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この博物館の屋上には大塚歳勝土遺跡への連絡協が有ります。
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常設展の他に体験学習室が有り、古墳時代の甲冑や兜や銅鏡のレプリカも展示され、直接触らせて頂けるんですね。
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例えば普通の博物館なら、こうやって綺麗に飾られているだけですが、こちらでは触らせて頂けるので細かい観察をする事も可能に成っています…
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上から近づいて見ると頭頂部には細かい彫刻が有る事が解りますね。
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側面にも彫刻が彫られており、当時の豪(王)族や将軍が身に付けた甲冑が優美だった事を自らの目で見て学ぶ事が出来ます。
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三角縁神獣鏡のレプリカも職員さんに確認をとると触らせて貰えます。
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ちゃんと裏面が鏡に成っている事が解りますねぇ~♪
まぁ、学習室は色んな時代のモノが置いて有るので…
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観察の為に移動させて貰ったら昭和40年代の居間を再現した場所に古墳時代の兜が有る異様な風景になってしましました(笑)。
この他に、触れない常設展示の方も現物やレプリカと供に、映像資料や解説洞がのミニシアターがふんだんに用意されており、とても良い歴史入門に成る博物館です。
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昔の都筑区は緑区・青葉区・旭区の全域と、川崎市麻生区・横浜市保土ヶ谷区・港北区を合わせ都築郡と言う行政区域で、西八朔には平安時代の人がら見ても歴史が古く大切にされた延喜式内社の杉山神社が存在ています。
古代豪族の姫で日本武尊(やまとたけるのみこと)の御妃様だった弟橘姫(おとたちばなひめ)の古墳が有る橘樹神社(川崎市高津区)一帯に存在した橘樹郡衙や、久良岐郡衙が存在したと推定されている横浜市南区の弘明寺から古代の街道が経由している交通の要所だったので、非常に多くの出土物が発掘され展示されています。
色別標高図&Google map&久良岐のよし史跡位置図 センター南駅周辺
上の図は“国土地理院”の色別標高図と言う地形図をGoogle earthに重ね合わせ、小生がGoogle earth上に登録したセンター南駅周辺の史跡を表示させた位置関係図です。
これを見ると一目瞭然ですが、当然ながら都筑区を含むそんな旧都築郡は交通の要所の地域なので武士の時代にも茅ヶ崎城や山田城と言う城塞が築城されて拠点として活用されました。
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なので他にも戦国時代の横浜市の北条家臣団の解説や模型と解説パネルの展示やら・・・
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これは後北条所領役帳と言う1級資料の古文書の複写を元に地図上に北条家臣団の領地を表示した図ですね、しかしこれだと誤解するかも知れませんが、各殿様は別に在地で自分の領地にいた訳ではありません。
例えば玉縄衆や江戸衆や御馬廻り衆と言う1560年頃の後北条所領役帳を元に当時の軍団編成を色分けされてパネルに表示してありますが、その武将達は自らが所属する部隊の拠点となる城に詰めて仕事をしていました。
横浜で特に活躍したのは下記の4家です。
※家名をクリックすると関連記事にリンクします。
●蒔田吉良家
足利一族の蒔田吉良家、室町幕府鎌倉府の鎌倉公方(将軍)代理も務めた家です。高文化な一族で梅花無尽蔵と言う書物や多くの古文書に登場し奥州探題(東北地方長官)も務めた時期も有った名家でした。
里見家や正木家が横浜市沿岸部~三浦半島~鎌倉に乱入し放火略奪して廻った鶴岡八幡宮合戦で鎌倉市街地が鶴岡八幡宮諸共灰燼に帰すと、その再建に必要な材木の運搬を現在の横浜スタジアム~吉野町辺りまで海で入江だった当時の蒔田湾に南関東の材木を集積し、材木奉行北条綱成の家老間宮家の杉田港まで海運で輸送した高い経済力と海運力も有した一族。特に有名なのは奥州探題吉良定家公、戦上手で太田道灌公の親友だった吉良成高公、鶴岡八幡宮再建で活躍した吉良頼康公。
室町時代初期の本拠は東京都世田谷区世田谷城(豪徳寺)、小大名だった戦国時代初期は横浜市南区蒔田城、北条家親族と成り北条家臣化した安土桃山時代は世田谷城。
後北条所領役帳編纂時は未だ北条傘下の小大名として独立を保っていた。
●宅間上杉家
足利尊氏公の従弟(いとこ)の上杉重兼公が初代の一族で、倒幕の綸旨を足利尊氏公に伝えた武将であり鎌倉公方の代りに関東一円の執務を執(と)り仕切る“関東管領”も務めた家柄で、戦国時代突入の契機に成った上杉禅宗の乱や永享の乱では不利な状況でも主君の鎌倉公方足利持氏公に与力し忠義を尽くした名族で、北条家従属後も御家中衆として親族同様の高位の格式で別格の扱いを受けた。
室町時代初期の本拠地は鎌倉市浄明寺地区報国寺の在る宅間谷(たくまがやつ)、室町時代後半に入り横浜市緑区三保舊城寺の在る一帯の宅地全てが城址の榎下城、北条家臣化してからは港南区下永谷の永谷城(伊予殿根城砦)。
後に北条氏規公を筆頭に三崎城(三浦市三崎町)三崎衆が編成されると上杉規富公が付家老として三崎衆に属している。
●笠原家
古代武蔵国の武蔵国造(くにつくりのみやつこ)と言う大和朝廷に従属してた豪族の王の子孫の家系。
豪族笠原家の祖先は信濃国佐久郡出身で、笠原家の内紛で武蔵国造の乱が勃発すると大和朝廷の介入による仲裁後に相模国と武蔵国の国境に位置する久良岐郡・(未成立:都築郡)・橘樹郡・多摩郡・横見郡が朝廷直轄地として没収された。この後に成立する旧都築郡に現存する杉山神社は緑区西八朔(はっさく)に存在するが、古代は八朔とは書かず罰佐久(ばっさく)と書いた事が記録に残る。
笠原一族が戦国時代に北条家臣化して後に北条氏綱公が主君の時代に江戸城攻略の帰路、横浜市北部を中心とした一帯を統治する玉縄城代に任命される。鶴岡八幡宮再建の総奉行として北条家と対立する他大名からの協力も取り付けて5万人の労働者を動員した鎌倉市街と鶴岡八幡宮再建を成功させた笠原信為公や、織田家との外交使者を務めた笠原政尭公を輩出した家系。
本拠は港北区の大曾根城、小机衆拠点の小机城代。
北条幻庵公や氏尭公の付家老として小机衆白備え隊を統率し小机城で執務を執った。
●間宮家
間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一族で特殊な学者肌の技能を有する一族でした。祖先が宇多源氏の氏神である滋賀県安土町の延喜式社沙沙貴神社宮司家で、神道・修験道・真言宗との関係が特に深く臨済宗・曹洞宗の禅宗や日蓮宗や浄土真宗との関係も深く神事に精通し、土木築城技術と水軍を率いた水運、更に鷹狩に使う鷹の繁殖に秀でた武勇と建築と神事と鷹に長けた一族でした。
玉縄城主北条綱成公の与力に成り歴代玉縄城主の付家老として活躍した間宮康俊公が特に有名で、鶴岡八幡宮再建の際に北条綱成公が材木奉行に成り材木の買付けや運搬を取り仕切ると、蒔田吉良家と協力して自領の杦田(杉田)港に材木を集積し管理、鎌倉に輸送した。北条一族と重臣しか出来ない鶴岡八幡宮の築地塀の奉納で名を連ねている。鎌倉時代の名将佐々木高綱公の子孫を名乗っていたが実際は近親であり沙沙貴神社宮司家佐々木一族の末裔。天皇家勅願所の江の島の岩屋や江島神社を管理していた岩本坊別当も間宮家だった。
本拠地は初期に川崎駅前の堀之内の要塞(同地は平安時代末の佐々木邸址)、後に横浜市港南区笹下城。

さて、実は横浜市には戦国時代の上記の家以外にも活躍した殿様達がおりまして、中でも有名なのは富岡~磯子区一帯を鎌倉時代に治めた名越北条氏や、歴史上で武家中1、2に上げれる教養を誇った金沢区の殿様で六波羅探題として京都周辺の支配を任されていた北条実時公、そして三浦一族の平子家と石川家です・・・
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・・・なので久良岐郡禅馬郷(横浜市磯子区岡村~南区堀之内辺り)を所領にしていた平安時代からの武士団で三浦家分流の平子家の解説も有ったりします。
この平子家の平安末期の当主だった平子有長公は“ゆず”の地元の岡村町に岡村天満宮を開いた人物なのですが、曽我兄弟による源頼朝公暗殺を防ぎ逮捕した武勇の士として知られています。
以前、岡村天満宮を紹介する記事も書いて有るので、興味の有る人は参考にして頂ければ幸いです。
コレ→又、平子家の分家の石川家は現在の中区石川町役周辺で江戸時代も庄屋として存続していますが…
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・・・実はペリーさんの来迎時に江戸幕府の命令で接待の一切を任され日米の懸け橋として活躍されました。
まぁ、鎌倉の隣であり古代からの交通の要所だったので重要な武士団が各時代に配置されるのは必然で、当然ながら合戦も度々起きているのが現在の横浜市域です。
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ですから横浜市博物館には横浜市内で勃発した主な合戦の年代と場所の可視化したパネル等も有り、古代の文化だけでなく武士文化が好きな人も興味を惹かれる場所だと思います。

売店も有り御土産や調査報告書も売っています。
小生は2018年正月06の訪問では黒曜石の原石を購入しました。
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歴史以外の趣味で銀細工で指輪作ったり、ブレスレット作るので、黒曜石を♥️型や○型に削り出したら綺麗かなと・・・
銀の指輪とかブレスレットに興味ある人はカテゴリー[造形/工作]の記事もどうぞ。
歴史好きな人って自分で物を作るのも好きな人が多いらしく、結構、小生と趣味が合う人も多いみたいですね。きっと横浜歴博の売店に行くと、完成品の黒曜石の石鏃(せきぞく)を御土産に欲しいと思うより、小生と同じく黒曜石の原石を買って自分で加工したく成る人も多いはず(笑)。

さて、横浜歴博は冒頭で説明した通り、高秀市長が大塚歳勝土遺跡の保護と出土物展示を兼ねて作られた施設です。せっかく見学に来たら屋上から大塚歳勝土遺跡へ移動してお散歩してみましょう。
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屋上の歩道橋から直接行ける目の前の緑地が遺跡です。
大塚・歳勝土遺跡
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ここは朝鮮文化流入以前の、更に古い漢代の中国と日本の関係を示す弥生文化の方形周溝墓が多く発掘され展示してあります。無論、豊富な解説パネルも有りますが、全部が無料で見学出来ます。
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例えば弥生時代に成り“収穫した米”と言う財産が出来ると、人間はソレを守る為に堀と土塁で村を城砦化しはじめた事が解る遺構も発掘復元展示されています。
ここの面白いのは武士の時代の城砦と違って空堀や土塁の設置が反対に成っている所でしょうか?
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[弥生人の環濠要塞集落]
外側←土塁←木柵←空堀→集落
[武士の城の防御構造体]
外側←空堀/水堀←土塁/石垣←木柵/土塀→館

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※箱根山中城
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※小田原城

この様に堀の位置が違う構造に成っていて、正直弥生時代の環濠集落は城マニアでもある小生からすると・・・
「弥生時代の人、順番違くね(笑)?」
・・・と感じたりしますがね(笑)。
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竪穴住居跡も発掘した様子と、復元した住居が両方多く展示されていて自由に中に入る事も出来ます。
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古代の釘を使わない設営の仕方。実は古代から存続する神社は、この弥生時代の建物と同じ技術を伝統として受け継いで作られている場所が結構残っていたりする。
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昨年、国の有形文化財指定を受けた伊勢原市の高部屋神社の社殿とか…
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※上の写真は高部屋神社。
・・・釘が使われていないんだな。
これと同じ茅葺(かやぶ)き屋根や檜皮葺(ひわだぶ)き屋根の古式に則った社殿を持つ神社の内部は、結構こんな古来の伝統が残っていたりする。
高部屋神社の記事→
他にも米を保存する為の高床式倉庫も公園内に復元されています。DSC_0203
この構造物は外観こそ板葺きでは無く草葺きですがデザイン自体は出雲大社の伝承の社殿や伊勢神宮の各境内社社殿の外観に通じる物が有ると思います。小生良く言うのですが、この高倉が神社の社殿の原型で、豪族の王の住居用に作られた高床式建築物が後にそのまま各豪族が氏神様を祀る場所と成り、神社の様式が確立されたと個人的に考えています。
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ですから、現在の相模原市東部、海老名市、寒川町や高座渋谷等、昔は高座郡(こうざぐん)と呼ばれた行政区分の高座(こうざ)を古代は高座(たかくら)と読んだ事実が有るのだと推測しています。
現在では神社を数える単位は“社”だったり神様は“柱”を単位として数えられますが、昔は1座、2座の様に“座(ざ)”を単位として数えられていたのも、高床式の座(くら)が神社の社殿の根本に成っていたからだろうと考えれば、自然で無理が無いですからね。
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さて、大塚歳勝土遺跡の森には沢山のシイの実やドングリが落ちています。
これ、古代人には貴重な栄養と油分を持つ食料だったんですね。

こんな歴史を辿れる大塚歳勝土遺跡と横浜市歴史博物館ですが、本当に今回の企画展示は物量も豊富で見応えが有ります。本日7日と8日の残り2日間と成りましたが、見る価値は非常に有ります。
そして源頼朝公が子宝に授かった御利益の有る比々多神社の埒免古墳等から出土した豪族の王の遺産等は見学し拝めば御利益も有るかも知れませんね!

皆さん、日曜日のレクリエーションが決まっていない人や8日月曜日空いている学生さん等、是非見学されては如何でしょうか?


さて、次回は1月2日の休日雑記の続きの記事を書きます。
では、皆さん、新年皆さんにとって良い1年間に成ります様に~♪

横浜市都筑区には茅ヶ崎城と言う、市内で三本指に入る保存状態の良い城址が在ります。
茅ヶ崎城を紹介した以前の記事→

その目の前には名前を現代の漢字を用いると正覚寺と書く、とても雰囲気の良い御寺サンが在る事を横浜市民にも、この地域住人以外には余り知られていません。
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この御寺は市内では珍しい天台宗寺院で、正式な名前を長窪山 總泰院 正覺寺と言います。
新編武蔵風土記稿には、江戸時代当時の境内地の“敷地面積5万7千6百坪”と記録が有り、途轍(とてつ)も無く広大な敷地に建物が建つ寺院だった事が解ります。
茅ヶ崎城から近く、茅ヶ崎城に来る度に門構えの立派さに感心させられる御寺だったのですが、面白い事に御寺を開いた人物が「岸清左衛門さんの御先祖様と」言う事しか解っていません。
なので小生は、てっきり茅ヶ崎城址からは煤けた米等が確か出土していたので、“戦火に巻き込まれて江戸時代の中興開基以前の事は解らないのだろう”と推測していましたが、改めて新編武蔵風土記稿を読むと以下の様な記載が有りました。
正覚寺文書 秀吉禁制
これ見ると解りますが、江戸時代の学者で新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信さんの注釈で“秀吉の小田原攻めの時”に出した味方豊臣勢と敵軍の北条勢の両方に対して出した命令です。
内容は簡単にこんな感じです・・・
「小机(領)の中の茅ヶ崎の中の總泰院(正覚寺)と、その観音堂で乱暴狼藉(略奪)とか放火とか禁止するし、仮に命令違反したらソッコーぶっ殺すから」
・・・まぁ、そんな内容で秀吉が正覚寺を保護しているので、茅ヶ崎城は戦火に遭っても正覚寺は、戦国時代には燃えてなかったみたいですね。
つまり、間宮士信さんは安永6年(1777年)生まれの人なので、正覚寺は恐らく安土桃山時代~1777年の間に火災が発生して重要な文書なんかがあらかた無くなってしまったんでしょうね。
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とは言え、この御寺は素晴らしく雰囲気が良く、鎌倉の浄妙寺や報国寺、英勝寺に似た雰囲気を持っています。
と、言うのもこの御寺、山門をくぐって直ぐに竹林が参拝者を出迎えてくれるのと、鎌倉時代の寺院特有の谷戸構え(やとがまえ=山の尾根の谷間に建築物を構える)の御寺なんです。
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ですから、周りの住宅街の喧騒が響き伝わらず静寂で清々しい雰囲気がするからです。
正覚寺と茅ヶ崎城の位置関係 久良岐のよし
この様な谷戸の地形に御寺を建てるのは鎌倉時代に多く見られる特徴でもあります。
詳しい事は伝わっていないのですが、御寺の立地から推察して鎌倉時代の開基の寺院だと小生は思います。
恐らく、昔は茅ヶ崎城の武将と何か関係が有ったのでしょう。
所で、御寺を開いた岸清左衛門サンの御先祖様は座間家の可能性が間宮士信さんによって指摘されています。
座間家は今の座間市発祥の坂東武者で鎌倉武士ですが、この土地に移って来たのは戦国時代に北条家臣に成った頃か、鎌倉時代の話かは小生は把握していません。
鎌倉時代初期には直ぐ横の茅ヶ崎城は摂津源氏の惣領、多田行綱(ただゆきつな)公の居城だった事から、もしかしたら多田行綱公が正覚寺の前身寺院を開いていたのかも知れませんね。
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お寺に入ると直ぐ左右に御地蔵様と庚申塔の石仏が控えてらっしゃいます。
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御地蔵さんって、「可愛い」って言うと失礼かも知れませんが、赤い頭巾がが可愛らしいですよね~。
実は、この様に御地蔵様や多くの石仏群を参道に祀る習慣が有る宗派は天台宗や真言宗等の古仏教に多く見られる事なんです。
そして明治時代に神仏分離令が施行されても、真言宗と天台宗は歴代天皇家と関りが深かった事から歴代天皇の価値観を守る為に、神様を御寺から排除しなかった場所が多いので、やはり、この御寺も境内に神社が在ったりします。
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神社と御堂の分岐点までは雰囲気の良い石畳。
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右手に池と蓮、そして本堂と庫裡と鐘楼。
左手奥に神社が在ります。
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山王山大鷲神社(おおとりじんじゃ)。
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大鷲(おおとり)は鷲(わし)と書いて鷲(とり)と読ませます。
実は関東で最古の大社格の神社は埼玉県久喜市鷲宮の鷲宮神社(わしみやじんじゃ)でして、縄文時代~の遺跡を内包する聖地なのですが、この鷲(わし)は和邇(わじ/わに)=丸子(まるこ=わじ/わに)に繋がります。
この一族は出雲神族で、その御神孫が関東を開拓した歴史を鷲宮神社を含め関東の延喜式内社の中でも縄文時代の遺跡を抱える大山阿夫利神社や比々多神社等でも伝えています。
そして、この正覚寺の直ぐ近くには大塚歳勝土遺跡という場所が在って、そこからは多くの方形周溝墓が出土しています。
方形の古墳は朝鮮半島の影響を受ける以前、直接中国大陸の漢帝国と交易をしていた時代の文化です。
つまり藤原氏が朝廷を仕切りだす前後数百年の円墳より古い漢帝国と直接交易をしていた時代の文化が正覚寺近くに在ったのですが、この都筑区茅ヶ崎の正覚寺に大鷲神社が在るのも大塚歳勝土遺跡と無関係では無いかも知れませんね。
合祀され神社の名前に成っている山王権現は天台宗の守り神、比叡山の日枝神社の神様の山王権現こと猿田彦命ですね。
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この他にも現在は御堂こそ失われている様ですが馬頭観音様も石仏として祀られていました。
この土地を治めた鎌倉武士の騎馬供養でしょうかね~?
庶民には道中の守り神として人気の神様でした。
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この御寺は梅雨の頃には昔から紫陽花(あじさい)の御寺として地元民に親しまれて来たそうで、小生と同じく写真撮影をしていた初老の紳士がおっしゃるには「昔はもっともっと紫陽花が沢山あったんだ」そうです。
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池の前を通り本堂へ・・・
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う~ん住宅街に似つかわしくない立派な御寺なんです、本当に。
だからやっぱり戦国時代には座間家の菩提寺だったのかも知れませんね。
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扁額に揮毫したのは金子保さん、もしかしたら武蔵七党の坂東平氏の分家一族、金子家の御子孫かも知れませんね。
金子家は今の埼玉県、昔の武蔵国入間郡金子から発生した姓の武士です。
座間家と同じ程に由緒正しく、戦国時代には新編武蔵風土記稿を書いた間宮士信さんの御先祖様の間宮綱信公やその実兄の間宮康俊公等の間宮等と同様に、北条一門の方面軍を束ねる殿様の付家老として活躍した北条重臣の一族です。
戦国時代には金子家が新横浜駅直ぐ裏の篠原城の城代を務めていたりしました。
以前書いた記事→
因みに新幹線新横浜駅篠原口の名前の由来でもあったりします。
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池の前には阿弥陀堂が在りますが、近年の建築です。
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鐘楼はとても古寺の雰囲気を醸し出し、周囲を取り囲む谷戸の山林にマッチしています。

さて、今回はアジサイの写真をまだ撮影していないので掲載出来ませんが、素敵な御寺なのはなんとなく伝わったでしょうか?
皆さん、もしセンター南駅に来る機会が有ったら、駅から徒歩10分と近いので正覚寺や茅ヶ崎城址を散歩して、歴史に触れてみては如何でしょうか?
そして自分の地元の御寺サンや神社や御城の跡の山や公園を散歩してみませんか?
きっと、正覚寺に豊臣秀吉の禁制古文書が伝わっていた様に、思わぬ歴史偉人と繋がりが有ったりするかも知れませんよ?
そして、説明看板を読んで、そんな発見が有ると更に地元にも愛着が湧き、誇りも感じる様に成るかも知れません。

さて、今日の解説はここまで。
では又、次の解説記事で御会いしましょう~♪


ブログネタ
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横浜市に「茅ヶ崎城址公園」と言う、奇跡的な保存状態を維持したまま公園化された御城の跡が在(あ)るのを御存知でしょうか?
史跡の保護と言うのは、その時の市長の文化度の高低によって左右されます。
例えば以前の市長さん達が文化や歴史に対する意識が高くても、一度(ひとたび)アフォで無文化な市長を選んでしまうと、それまで保存状態良く保たれていた史跡も無文化市長の政策で跡形も無く破壊されてしまいます。

特に横浜市は様々なタイプの市長が目まぐるしく変わりましたが、この茅ケ崎城址公園は地元民有志により奇跡的な保存状態が保たれた後、幸運にも高秀市長や中田市長の政策で公園化され、現在に至(いた)ります。

どの位に「奇跡的」な保存状態かと言うと、もう一枚、航空写真を見て貰うと良く解ります。
横浜市営地下鉄、センター南駅前の歓楽街が目と鼻の先に在るんですよ!
つまり、地域住民が土建屋の乱開発に抵抗し城址を守り抜き…
その後、再開発計画に参与した高秀市長や中田市長がたまたま郷土愛と文化度の高い市長さんだった奇跡の結果に成立した城址公園なんです!

徒歩で直ぐの距離には、義務教育の歴史で習う全国屈指の規模を誇る弥生〜縄文時代の遺跡「大塚遺跡」も在ります。
※写真は横浜市歴史博物館の展示物

で、更に同地域には徒歩圏内に横浜市歴史博物館があり、茅ヶ崎城址公園や大塚遺跡の出土品も展示されています。
横浜市歴史博物館については、いずれ改めて記事を書きたいと思います。

茅ヶ崎城址公園、小生は今回の訪問で2回目です。
今回は城址公園の写真撮影と、横浜市歴史博物館の企画展示を見学する為に再度の訪問となりました。

さて、上の写真の通り、茅ヶ崎城址公園はセンター南駅を東側に進むと目の前直ぐの「こんもりとした森」の様に見えているので誰でも辿(たど)り着(つ)けます。

今回、小生は歴史博物館に車を停めて、そこから川沿いに徒歩で訪問しました。
途中、河原には可愛らしい「菜の花」が群生し開花しており、天気は生憎の曇天でしたが心をパッと明るくしてくれました。
この川、「早渕川(はやぶちがわ)」と言う川で今でこそ河川改修工事され穏やかな流れですが、名前からしても…
早…流れが早く
渕…水深の深い渕(ふち)のある
…だった事が容易に想像出来ますよね。
この川が茅ヶ崎城の外堀の役割りを担っていた訳です。
川沿いには菜の花の他に、地元の方々から大切に守られ日々拝まれて来た「堰の元地蔵尊」と言うお地蔵様が鎮座してらっしゃいました。
別名「子育て地蔵」との愛称で呼ばれ、昔は七五三の御参りに来る親子連れが沢山いたそうです。
今でも河原を散歩する親子連れや塾通いの子供を見守って下さっていますね♪

さてさて、この川沿いの道を途中で南側の丘に向かうと、其処(そこ)に茅ヶ崎城址公園が在ります。

センター南駅側から来るなら、おそらく昔は城の一部だった円通閣と言う御寺さん側から入って来る事になります。

だいたい、この様な旧城域内の端には御寺が在り、昔は出城や殿様の屋敷が在った場所だったりするんですが…
伝承無く、更に無住職に成ってしまっている様なので詳しい話を教えを請うべき方が居らず、今では良く判りません…。

さて、城域の話題に触れたので、茅ヶ崎城の小生の想像する範囲を航空写真に赤線フチどりして見ました。
恐らく、この赤線が外堀と外郭だった範囲だと思います。

想定の参考にしたのは、事前に横浜市歴史博物館で見学した再開発直前の航空写真と↓コレね。

あと、城址公園にある茅ヶ崎城残存部の縄張り図にある等高線から重機ではない人の手による土木作業で削り出したと思われる地形と、その延長線上の予測から範囲内を想定しました。


ちなみに城址公園のある台地は城址らしく断崖絶壁に成っています。

下は消失してしまった郭(くるわ)と城址残存部の郭をつないでいた↓土橋の断面。
現在の城址公園は外郭(がいかく)部分が宅地化により消失してしまいましたが、それでも内郭に当たる主要部分の曲輪/郭(くるわ)群が状態良く保護されています。

城址に入ると、先ず北郭(きたくるわ)の平場が在ります。
此方(こちら)には公衆便所(笑)も有り、城址訪問の悩みの種のトイレに困る事も無く見学が出来ますよ〜♪。
小生、最初に来た時にこのトイレに助けられました…。
下は一応、説明文の写真。



北郭を抜けると正面に「中郭」にぶつかります。
今でも郭の高さ5mは有りますが、風化する以前の戦国時代は郭の上の土塁は今より1mは高く、更に今は遊歩道に成っている空堀は1〜2mは不可かったはずなので…
当時の高さは堀底〜土塁まで比高8m近く有ったはずです。

中郭を目の前に堀底道はT字路に成り左右(東西)に分かれますが、左の東郭側は本丸に当たり当時は直接登れないフェイクの道でした。

ですので正しい順路は右回り西郭側です。この↓道ね。

さて、城の本来の縄張り上の侵入経路を辿(たど)ると、その先に、此れ等の内郭群の防御拠点の虎(小)口と言う施設に行き当たります。
説明図の様に先に進む敵を左右の中郭と西郭から挟撃(きょうげき=はさみうち)にし、郭の上から防御側は弓矢鉄砲を雨あられと敵に打掛け殺害する訳です。

この虎口の道は先述の通り空堀の底です。
下の写真が虎口で、右手が西郭、左手が中郭です。
昔は中郭に侵入するには、防衛側に狙撃されながら道を進み遠回りするか…
この東西の郭に掛かっていた「引き橋」を渡るしかありませんでした。
しかし引き橋は戦時に収納してしまい、攻撃者の侵入を遮断してしまえます。
ですから、西郭の守りが危うくなると守備兵を中郭に撤退させ橋を引っ込めてしまう訳です。

下は西郭の入口です。
西郭に入ると下の写真の様に更に一段高い土塁が有り、中郭と同じ高さに至る構造に成っています。
今は薮化が激しく藪こぎしないといけないんですが…
 
…イテっ!と思ったら、写真の野バラがGパン越しに足に刺さってました。
皆さん、これから夏に近づきます、野バラだけでなく藪こぎする際はスズメバチにも気をつけましょう。

痛い植物も有れば、可愛らしい植物達も沢山さいています。

綺麗ですよね~♪


虎口を抜けると、いよいよ本丸の東郭へ続く中郭への進入口ですが…
 
恐らく、この道は公園化の整備を行った際に後から設けられた道だと思います。
根拠は土塁が無理やり切り取られている事と、こんな攻め込み易(やす)い構造にする訳が無いからです。
少なくとも、写真右手の遊歩道は無く急斜面と帯郭に成っていたはずと個人的に想像しています。
 
中郭南側には北条流の築城術特有の「二重土塁(にじゅうどるい)」と呼ばれる構造があります。
二重土塁とは土塁の内側に守備兵の待機スペースを更に一段設けた構造の土塁の事で、これにより守備側はしっかりした足場や弾薬補給役の兵士を配置できるので、鉄砲や弓矢で狙撃しやすくなる訳です。

東西北は一般的な土塁が設けられています。
戦時には、この土塁の上に柵列(さくれつ)を設け、更に其処に木盾や竹束を置き、攻城側の攻撃から身を守る事が出来る訳です。

上の写真は土塁の二重構造が解り易いですね。

 
この中郭は最大の面積がある郭で、此処では弾薬や兵糧を保管したと思われる倉庫の礎石や、食器の破片が発見されています。
下は説明看板。

これ等の出土品は横浜市歴史博物館で保管展示されています。

この他に、当時の生活で燃料にしていた炭の話の解説看板も有ります。
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で、中郭、実は本丸ではなく、更に奥に指揮所だったと思われる東郭があり、そこに繋がる土橋が現在も残っています。
中郭から東郭を見ると、東郭の方が更に高いのが解りますね。
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此処から周辺を見渡し、戦争指揮を執る事が想定されていたんでしょうね。

東郭から中郭を見ると、まだ桜が綺麗に咲いていました。
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丁度、東郭の斜面がムキ出しに成っていたのですが、これは良い関東流の築城術を説明する材料に成ります。
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今でこそ、どの城址も鬱蒼(うっそう)とした植物の林に覆(おお)われていますが、戦国時代当時は、このムキ出しの切岸(きりぎし=人工的に削った斜面)のように、植物は伐採され土が地表に出ていました。
こうする事で、敵は登れなくなる上に更に水をブチ撒けドロドロにして置くわけです。
そしてそして!
その敵が滑って落ちる切岸や空堀の底には「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする為のトラップが設置されていたんですね…。
足滑って滑落したら即!死亡あるいは重症確定!…みたいな、石垣の城よりエグイ、30代以上には通用する言うなれば「リアル風雲たけし城」だった訳です。

今では、茅ケ崎城址の様に保存状態の良い城跡は、横浜市内では小机城位になってしまいました。
小机城は港北区、茅ケ崎城は都筑区ですが、両区共に以前は「都筑郡」と「橘郡」と呼ばれた地域から分離した同じ文化背景を持つ地域です。
この2城が状態良く保存されたのは、地域住民の保護活動の結果です。
本当、旧都筑郡と旧橘郡の地元住民の皆さんは郷土愛が強いんですね。
頭が下がります。
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この城の中郭と東郭からは都筑区の町が見渡せます。
この城の殿様が、今の風景を見たら、こんなに変貌したのに城址を守って下さった都筑区民にきっと御褒めの言葉を下さるんじゃないかと思います。

では、皆さん又、次の記事で!

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