歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:釈迦堂切通し

鎌倉市浄明寺地区の紅葉②
報国寺~華頂宮邸~釈迦堂切通

功臣山報国寺
足利家時公、宅間上杉家、鎌倉公方の菩提寺
 ※ミシェランガイド☆☆☆の竹林の寺
旧皇族 華頂宮邸
【景観】
 報国寺   ★★
 ミシェランに掲載されてる竹林寺。
 華頂宮邸  ★★
 
紅葉少も立派な洋館と英国式庭園。
 釈迦堂切通し
 紅葉無いが壮大な史跡。
【電車】

 浄妙寺・報国寺・華頂宮邸★★
 鎌倉駅~徒歩27分
 鎌倉駅~バス乗車8分~浄明寺降車
 ~徒歩2分       ・・・所要時間10分
 金沢八景駅~バス乗車22分~
 ~浄明寺降車~徒歩2分
               ・・・所要時間24分
 浄妙寺⇔報国寺         ・・・徒歩05分
 報国寺⇔華頂宮邸  ・・・徒歩03分
 華頂宮邸⇔釈迦堂切通・・・徒歩35分
 釈迦堂切通し      
 ※2020年現在の釈迦堂切通し
 釈迦堂切通の北側落石で歩行不能。
 南側は近くに行ける。
【  車  】
 報国寺   ★★
 駐車場10台以下で秋は駐車困難。
 直ぐ近所に浄妙寺駐車場有り。
 徒歩10分圏内に有料駐車場複数。
 華頂宮邸  
 無し。
 釈迦堂切通し
 無し。
【休憩】
 報国寺   ★★★
 竹林庭園の茶庵で抹茶飲める。
 周辺に喫茶店数軒有り。
 華頂宮邸  
 公衆トイレ無し
 釈迦堂切通し

 公衆トイレ無し
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 報国寺
 ミシェランガイド★★★認定だよ◎
 竹林が素晴らしいく抹茶も飲める◎
 足利尊氏公の御爺ちゃん足利家時公
 が開いた由緒正しい御寺だよ~◎
 早朝座禅会やってるよ~◎
 華頂宮邸
 旧皇族が住んでた洋館と御庭◎
 モンテクリスト伯華麗な復讐ロケ地
 釈迦堂切通し
 もの凄い迫力の鎌倉時代の史跡◎
―――――――――――――――――
 上記3ヵ所の近所に浄妙寺が有る。

 浄妙寺と合わせて一緒に全部廻るの
 オススメ♪
注意するpoint(•ω•)       
 秋は報国寺竹林茶庵での喫茶は、
 待ち時間が長いが待つ価値有り。

 報国寺は食品持ち込み禁止。
 報国寺駐車場は秋は駐車混むので
 近所の浄妙寺駐車場が御勧め。

――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
——報国寺の紅葉と竹林——
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——華頂宮邸の紅葉と英国式庭園——
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——釈迦堂切通し——
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【見所】
報国寺
報国寺はミシェランガイドで最高の★★★を獲得している。竹林の庭園はいつの季節も美しく、抹茶と落雁を食べながらユックリと秋の竹林の凛とした空気と緑の素敵な空間を楽しめる。竹林の奥の庭園も可愛らしい石仏と苔や、池と鎌倉時代~室町時代の矢倉の史跡を見る事が出来る。
御寺の山門~御本堂正面の参道の紅葉と庭の景色も美しい。
紅葉の名所としての評価は
★★★だが寺院の景観を総合評価するなら★★★★

華頂宮邸
旧皇族華頂宮(かちょうのみや)邸は戦前まで華頂宮家が住んでいた近代西洋建築の御屋敷で最近では❝モンテクリスト伯 華麗なる復讐❞で主人公の居館としてロケハンされていたりする。正門から入ると左手に立派な紅葉の樹が有り、その奥のイングリッシュガーデンでは庭のベンチに座って食事する事が許されているので、マナーを守れる人なら手作り御弁当持参してデートに来たらユックリ時間を過ごせる。

釈迦堂切通し
凄まじく壮大な鎌倉文化を代表する隧道型の切通しで、切通しの上には貴重な日月矢倉や北条時政邸跡に通じる衣張山(きぬはりやま)ハイキングコースが有る。多くの映画のロケ地に成っていて、二宮和也と松浦亜弥が主演した❝青の炎❞等も同地がロケハンされている。
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸は交通の便が良く合わせて見学するのがオススメ。
電車で来ている場合は帰路、鶴岡八幡宮までユックリ歩いても20分位なので良い散歩に成る。
ガッツが有るなら明王院口~天園ハイキングコースを登り~天園休憩所~建長寺半蔵坊~北鎌倉駅まで2時間位歩いても山の中を気持ち良い散策が出来る。
【交通】
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸
上記の三ヵ所はいずれも近在する。浄明寺バス停から全て近い。
鎌倉駅からバスで行っても良いし、鎌倉の街並みを散歩しながらユックリ歩いて来てもとても良いレクリエーションに成る距離感。
車なら浄妙寺の駐車場が駐車可能台数も多く通りに面していて便利。

釈迦堂切通
鎌倉市が落石や倒木の処理を怠り2012年くらいには名目上は通行止めのまま住民の生活道路なので地元民は自転車や原付で普通に往来していた。市役所担当部署が「整備がなかなか出来ない」と言い訳し続けて年月が経ってしまい、2019年の台風で更に浄明寺地区側の北側散策路が崩落して状況が悪化。
地元の方や見学したいハイカーは衣張山ハイキングコースから迂回したり大町地区に回り自己責任で南側フェンスの横から見物しに行くしかない。
釈迦堂切通しを見る経路(2020年時点) 久良岐のよし
華頂宮邸側から行く場合の順路⤴
 
華頂宮邸~真っ直ぐ南に歩いて巡礼古道を経由して釈迦堂切通南側に行く途中、天気が良ければ❝関東の富士見百景❞の良い景色を見る事も出来るし、そこから公園の階段を下り大町地区の住宅街を通り黄金矢倉を通過し釈迦堂切通の南側のフェンスの前に出るのが2020年時点での近づけるルート。
衣張山ハイキングコースからの眺望も鎌倉市街と相模湾を見渡せて気持ちが良い。
 
衣張山から獣道を通って降りる裏道も有るが、山一帯が北条時政によって城郭化されたり、後世の石切で崖地に成っており獣道を見失うと滑落して大怪我の元なので非推奨。
釈迦堂切通しの散策路の再整備要望される方は鎌倉市役所迄陳情をお願いします。
【偉人】
報国寺
足利家時公(足利尊氏公祖父)、歴代室町幕府鎌倉公方、宅間上杉重兼公(足利尊氏公母方叔母の夫)、宅間上杉家歴代当主、犬懸上杉禅秀公。
華頂宮邸
旧皇族華頂宮家、伏見宮博恭王
釈迦堂切通し
鎌倉幕府三代将軍源実朝公、北条時政、北条義時公、名越北条朝時公
【歴史】
報国寺や華頂宮邸の有る谷は宅間谷(たくまがやつ)と呼ばれた場所で、室町時代の足利家重臣、宅間上杉家の居館跡だった。その居館の敷地に開かれたのが報国寺で、足利尊氏公の祖父である足方家時公と叔母の夫の宅間上杉重兼公によって開かれた由緒正しい寺院。
宅間谷背後の山は衣張山と呼ばれ、釈迦堂切通しを抜けると北条時政邸だった名越邸や北条義時公が父の北条時政の菩提寺として開いた釈迦堂跡の遺跡群が群在する。名越邸のある衣張山は山裾が切り落された裾切りされ全山が城郭化されているが、明確に後世に石切場と判断できる場所も多く鎌倉石の石切場の史跡としての価値も有る。
華頂宮家から分家した伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王は対馬海戦時に戦艦三笠に乗って活躍した海軍将校としても有名だったりする。
【名物】
報国寺の日曜坐禅会(食事は御粥と沢庵2枚で完全な修行体験)。
報国寺の除夜の鐘。
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——紅葉名所一覧へ⤵——
 


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先月の話・・・
関西の親友で妹の次に小生の性格の理解者だろう人間のデザイナーITが展示会の東京出張で来訪。
来訪の1ヵ月以上前から「宿泊地決めないと予約難しいぞ~」と散々せっついたのに直前の1週間前までノンビリ屋で決めてなかったIT・・・
その結果、廃墟マニアと変わった趣味で今回は鎌倉の❝廃墟?❞的な場所を観光地として希望してた割には出張先の渋谷区からも、小生の地元横浜で一番の蛍の大生息地である円海山の在る栄区界隈からも、横浜の中心街で一番便利な横浜駅や関内界隈からも❝中途半端❞な鶴見区と言う謎の立地のホテルを予約しやがった。鎌倉行くのに迎えに行くのが少々面倒(笑)。
・・・まぁ、鶴見なら今のNHK大河でタイムリーな薩摩藩関連の史跡や、鎌倉向かう途中で横浜中華街の朝食も食べれるので「楽しみを詰め込めば良いか!」と前向きな発想が直ぐ湧く。
待ち合わせはAM:08:00、ホテル前。
この日も小生は当日の夜中03時に仕事から帰宅し風呂入ったり何かしてたら既に朝の5時、もう目が冴えたまま寝るのも諦めて「ホテルの前に車停めて仮眠しよう」と6時に移動。7時には到着した。
しかし車中でも眠れず、諦めてITにLINEする・・・
「もう着いたけど寝てるから準備できたら適当に出て来てユックリしてて良い」
・・・とは送りながらスマホ弄(いじ)くり当日の不安定な天候も有り到達地点別の天候に訪問地分岐案の再確認をGoogle mapでしておいた。こう言った❝遊び❞は「手伝うよ~」と適当な事して邪魔する同僚の介入も無いので❝好きに完璧に予定を組める❞から好き(笑)。
ホテル前でITをピックアップ、御土産に太らない京都の宇治の御茶とかくれた。
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生麦事件発生地
・・・と言う訳で、最初にITをピックアップして連れて来た❝観光地❞がこの住宅街(笑)。
ITには来る途中で交差点の看板とか電信柱の看板とかを故意(わざと)音読させてヒントを出したのだが現地に着(つ)いても解らない(笑)。まぁ~そりゃそうだ。今じゃ只の住宅街の道だから。
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・・・実はここ、薩摩藩が参勤交代中に乗馬した白人至上主義の白人連中に隊列に侵入されテロ排除の為に数度のジェスチャーと日本語による警告の上でも騎乗した白人は止まらず薩摩藩の隊列に突入、島津久光公の籠に迫ったので止む無く惨殺したと言うのが真相の❝生麦事件❞の発生現場なのだ。
ITは別に歴史好きと言う訳では無いが廃墟好きなので小生の話題にも少し付いて来られる、まぁ京都育ちだし神社仏閣歴史史跡に囲まれて育った❝文化的歴史的素養❞と言うのは移住者だらけの普通のハマっ子よりは並の京都人の方が遥かに高い。
歴史に特別関心が無くても義務教育で習う生麦事件程度は当然知っている訳だ。だからもう直ぐNHKの❝西郷どん❞で登場するであろう、この事件現場を見て「ほ~」と言う感じの反応をしていた。
まぁ、鶴見から中華街に向かう通り道を少し裏の旧道に入っただけ、途中に立ち寄った場所なので凄い場所と言う訳ではない。
しかしこの後、小生がやらかす。
散々地図を見て予備学習して置いたのにGoogleMapのカーナビではなくてポンコツの純正カーナビに任せて音声に合わせて道を走ったら関係の無い側道に入らされたり住宅街をグルグル・・・
朝食を買う予定の中華街まで大分と遠回りになってしまった。
ナビを放棄し自分の目視と記憶で大黒ふ頭に経由地を変えて海沿いの道を選択、多分横浜市民以外は知る人の少ない大黒ふ頭を経由して横浜ベイブリッジの一般道~新山下へ抜けて早朝の中華街に到着した。
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道を迷ったせいで鶴見駅近くを8時に出発したのに到着したのはAM:09:00位に成ってしまった。
しかし普通の中華街の店は10時~11時開店なので人気は極端に少ない。
中華街の加賀町警察の前には小生が立ち食い点心を購入する際に行きつけにしている店の内の一軒が有る。そこの大根餅や肉と高菜の細切り炒めが入った揚げ饅頭が美味いんだな。
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金福粥記
ITは服飾関係のデザイナーと言う仕事の都合上中国にもよく出張するのだが、中国では現地企業に接待される側に成るので中々こう言った普通の中国の朝食を食べたり好きな火鍋とか庶民的な料理を食べる機会が無いとの事。慌ただしい鎌倉へ向かう車中での朝食と成ったが「美味しい!」と喜んでいたので何より。
中華街近くの石川町入口から横浜横須賀道路に入り高速で横浜市金沢区の朝比奈峠へ抜け鎌倉に侵入、鎌倉市街の手前の報国寺近くの駐車場に車を停めた。ここの辺りは実は凄く安いタイムズ駐車場とか浄妙寺の駐車場も有り、朝比奈~十二所~浄妙寺地区~名越地区の観光の基点とするのに適している。
2008-12-12-15-13-37
最初、報国寺を訪問し御本尊の御釈迦様に御参りしたが竹林は後回しにした。
この日の目的地はあくまで❝廃墟散策❞が主旨なので、報国寺の散策は後、でも御本尊を拝まずに素通りすると、この後❝少し危ない山の中❞を散策するので❝旅の安全祈願❞も含めて先にちゃんと御挨拶する事にした次第だ。
この日の主要目的地の廃墟と史跡を目指すのには新幹線で関西から来たITをわざわざ山登りさせる必要が有る、観光じゃないんだな最早(笑)。
最初に目指したのは、その廃墟と史跡の入口と成る木々の枯れる❝冬季ならば❞鎌倉市で一番眺望の良いであろう衣張山の山頂だ。
その道は巡礼古道と呼ばれ、報国寺の所在する宅間谷(たくまがやつ)から鎌倉武士達が三浦半島の逗子方面に抜けたり、名越邸こと鎌倉幕府執権の北条時政館の史跡に行く間道として利用された古道を通る。
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目標的には報国寺~かまくら幼稚園を目指すと緑地帯から自然に衣張山入口の公園に出る事が出来る。
この日に備えてITには❝運動靴❞❝Gパン等の歩きやすい服装❞をちゃんと指定しておいた。
まぁ~この辺は廃墟観光に成れたITだから言わないでも大丈夫なのだろうが、山歩きの度合いを軽視されて準備不足に成ると本人が楽しめなく成るので敢(あ)えて念を押した訳だ。
衣張山は城郭オタクが登れば一目で判るが、山道が裾切りされて人工的に鋭角な崖地化された登山道が多く足を滑らせると死ぬ構造に成っている(笑)。
平安以来の鎌倉武士、三浦家の居城だった衣笠城と同じ構造だな。
衣笠城址に関しては以前書いた記事が有るので御興味有る方は御覧頂くと平安~鎌倉時代の武士の城の構造が良く解ると思う。
これ以前の記事⤵
三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
かまくら幼稚園側から20分も登ると衣笠山山頂に着いた。
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衣張山山頂
材木座~由比ヶ浜~名越~雪ノ下~扇谷地区が一望できる絶景だが、この辺りは❝神奈川県の富士山100景❞にも選ばれた景勝なのだ。本来、天気が良ければもっと遠く伊豆半島なんかも綺麗に見える。
生憎(あいにく)と当日の天気予報は降雨、幸い登山中は天候が持ってくれたが曇天で遠くは見渡せなかったが、それでも綺麗だった。この辺りから獣道を通って行くと現在は鎌倉市によって通行者の安全確保が十分でないとの判断から仮設封鎖柵が設置されている❝釈迦堂切通し❞や❝釈迦堂遺跡❞へも通じる抜け道が有る。
その抜け道へ行く為にわざわざ衣張山へ上った訳だな。
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色んな場所に鎌倉時代~室町時代の矢倉(やぐら)と言う名の武士の御廟所である横穴式墳墓が在る。
これも有る意味❝廃墟❞だが、先人を尊敬する小生は一々、ここに埋葬されていたであろう名を知らない御霊にお祈りすると京都育ちのITも心得ていてちゃんと手を合わせていた。
因みに、一々拝みながら「通行者を御守り下さい」「鎌倉の住民を御守護下さい」「御霊が大切にされますよう、安らかに過せます様に」とお祈りした。
鎌倉幕府を運営し、朝鮮人と中国人とモンゴル人による日本侵略戦争の元寇を撃退する基盤と成ってくれた人達だから感謝と尊敬の念を御伝えするのは当然の事だと小生は思う。
程なくして落ちたら死ぬ犬懸谷(いぬかけがやつ)の奥の山から釈迦堂口に出て、釈迦堂切通しに到着した。
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釈迦堂切通し
ここは先述の通り先年の落石発生以来鎌倉市が封鎖しているのだが、周辺住民の生活道路なので金網の無い場所を通行する人は今でも多い。まぁ、山越えて抜け道を通ればそんな事する必要も無いが労力が大変な訳だ。
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「お~凄いな」
・・・と男前な感想のIT、こう言った史跡も有る意味廃墟、ここは恐らくは鎌倉市街地~名越北条家の居宅と成った北条時政邸と詰城(つめじろ)だった衣張山登城口への関門だったので名ばかりは❝切通し❞だが隧道(すいどう=トンネル)形状にした上で入口に梁(はり)を渡して櫓門(やぐらもん)が築かれていたのだろうと城好きの小生は予想している。恐らく多くの城郭ファンも同じ推測をするだろう。
だから上部左右には梁を通した様な材木を打ち込んでいたであろう穴跡も見て取れる。
ここから又、獣道に戻ると今度は別の名越側から封鎖された❝幻の釈迦堂跡❞の釈迦堂遺跡へ行くことが出来るが、私有地側から入る人がいると困るので詳細は掲載しない。
山頂からの行き方をネットでも生き方を書いている人もいるので探して見ると良いと思うけど、途中には崩落した橋の欄干を渡らなければいけないデンジャラスゾーンが有ったりするので、やはり小生は道順はボヤ化して置こうと思う。
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釈迦堂口遺跡
釈迦堂遺跡は山の中に削平地が広がる。
名越邸跡と伝わり鎌倉幕府二代執権と成った北条義時公が、そこに北条時政公の没後に供養の為に釈迦如来を安置した御堂を建てたのが始まりとか何とか伝わるのだが、大半が私有地と言う事も有り現在の鎌倉市教育委員会や神奈川県教育委員会はその場所をちゃんと公開していない。しかしながら昔の鎌倉市教育委員会は無文化な部類の一部土建屋による鎌倉市の森林と史跡破壊を糾弾し新聞社と一緒に吊るし上げたり、この私有地を保有する国際自動車タクシー会社さんも一般に公開したりしていた。
前代の鎌倉市長主導で封鎖された次第だが、何と言うか民間会社の方が文化史跡保護と公益に資する公開の意識が高いと言う・・・皮肉な話だ。
釈迦堂遺跡の奥に山道から降りて来る昔の登山道である❝抜け道❞が有る。まぁたまに見学会も開かれるので鎌倉市のホームページをチェックしてると良い。団体で見学希望申請何かすると、鎌倉市教育委員会もガイドしてくれる可能性も有るかも知れない。
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登山道には昔の看板も残っているのだが鎌倉市の前の市長が封鎖してしまって通行量が減っているので❝廃道❞寸前の状態。貴重な遺跡が保護管理されず放置される悲惨な状況に成っている・・・
「訪問したい人は安全管理は自己責任でどうぞ」
・・・と言っておこう。
まぁ❝廃道寸前の道❞含めてITの趣味に合わせたチョイスなのでそうなるな。
こちら側から登って行くと唐糸矢倉と言う、源頼朝公と源義仲公の間の悲しい同族同士の争いの終結の場所となった史跡が在る。
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説明の看板の通り、源義仲公の家臣の娘の唐糸サンが源頼朝公の様子を探る為に侍女と成り、源頼朝公が源義仲公討伐の相談をしていたのを聞いてしまい頼朝公暗殺を企て幽閉された場所だそうだ。
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どうも看板の矢倉よりも直ぐ右隣の矢倉の方が土牢としては適した構造だと小生は思う。
そして看板の伝承は少し違うと思う、状況的には源義仲公の御子息で源頼朝公に人質として預けられていた源義高公が頼朝公によって処刑されそうに成ったので、義高公に仕えていた唐糸サンが頼朝公の暗殺を企てたと考えた方が状況的には自然だろう。当時の伝承も後世に伝える伝言ゲームで行き違いが有ったのかも知れないし、小生の予測が外れているかも知れないが郷土の伝承レベルの事なので事実は今では確認しようも無いが小生の予測通りならば源義仲公と源頼朝公の因縁の終わりの場所と成るだろう。
事実、三浦半島の初瀬和田の和田城には元は源義仲公の側室だった巴御前が和田義盛公に惚れられて側室として同居したと伝わり、源義仲公の乳兄弟(乳母の子)で重臣の今井四郎兼平公は横浜市保土ヶ谷区の今井城址に居住したと伝承するので、実際は平家物語では書かれていない木曾(源)義仲公の家臣団は頼朝公に降伏し鎌倉幕府の幕臣と成っていたのだろう。
・・・源義高公の命と引き換えに信濃の武士団は命を助けられ、源義高公に仕えていた唐糸サンは納得が行かず組織としての正義よりも忠義としての正義を優先したんだろうね。
この唐糸矢倉を過ぎると人工的な切通し状の堀切(ほりきり=尾根道を断ち切り敵の侵入を防ぐ構造)が在る。
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そこに橋が架かるが、最大の見どころ。廃道化の原因の床の抜けた通行不可能な橋。
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でも欄干と橋梁は鉄筋コンクリートなので❝自己責任❞で渡りたい人はどうぞ。
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ここさへ渡れば釈迦堂遺跡も釈迦堂切通しも衣張山から来られるからね~。・・・落ちたら運が良くて骨折かな?
ここに来たい人は、ちゃんと安全確保のワイヤーとか準備してね。
でも一番、城郭としての構造が解り易い。
ここを通らないと詰城の山頂側に行く事は出来ない。そして平時は引橋(ひきはし=戦時に引いて撤去出来る橋)が架けられていて戦闘時には堅固な防御構造と成った事だろう。
唐糸矢倉に降りて来る分岐点の前に衣張山登山道の休憩所跡が有る。
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途中には廃墟化した東屋。これも有る意味廃墟かな。
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さて、東屋の下の分岐点から唐糸矢倉方面と反対に行くと釈迦堂切通しの真上に出る事が出来る。
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落ちたら死ぬから気を付けてね、あくまで自己責任でどうぞ(笑)。
本当に気を付けて。
そして釈迦堂切通しの上を通り抜けると、重要文化財にするべき❝日月矢倉❞に抜けれる。
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恐らく名の有る武士の御廟なのだろう。
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壁に穿った穴の形状に矢倉の名前が由来する。
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日輪と月を模した意匠が施されているので、そう名付けられたようだ。
恐らくこの月の意匠からして、千葉家所縁の武将の矢倉かも知れない。千葉家一族と家臣団には月の家紋と九楊紋を家紋にする武将が多い。ここは大町に抜ける場所でもあるし、大町には戦国時代に成っても千葉一族臼居家の菩提寺であり平安時代の武将の千葉常胤公と千葉家所縁の寺院でも有った蓮乗院が存在する。
蓮乗院は元は弘法大師空海和尚所縁の真言宗の寺院だったが、直ぐ隣に浄土宗の大本山の天照山光明寺が開かれると浄土宗に改宗し、その光明寺の重要な塔頭寺院と成った。
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因みに今回紹介している衣張山も山頂の風景が綺麗だが・・・
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光明寺の天照山から見た風景は❝神奈川の景勝50選❞にも選ばれ、最近では映画シン・ゴジラでゴジラの上陸地点としてロケハンされたりしている。非常に風景が美しい。
そこ等辺りは以前に記事に書いているので興味の有る人は読んで頂くと解ると思う。
以前の記事⤵
休日雑記 2017年01月25日の訪問先・・・【鎌倉市】住吉城址前の材木座海岸と和賀江嶋と江ノ島と富士山と夕陽の見える場所。
●臼井城主の子孫の店❝Cafeこやぎ❞は旧鎌倉郡域にある緑に囲まれたカフェ。美味しい葛餅と焙茶(ほうじちゃ)が頂ける店。ランチも人気。…横浜市。
・・・さて、日月矢倉に話を戻す。
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風雨に晒された矢倉は風化が激しい。
ここ数年、鎌倉市は釈迦堂切通し仮封鎖後に訪れる人が少なくなったせいで樹木の浸食が早く少しでも早く釈迦堂切通しと釈迦堂遺跡側の遊歩道の再整備を急ぐべき理由の一つでも有る場所なのだ。
ここを見学した後で、元来た道を抜けるのが面倒臭くて鎌倉市の設置したフェンス側の❝抜け道(笑)❞を通って大町に出て、谷底側の住宅街から又かまくら保育園の方に戻り報国寺に戻って抹茶を頂く事にした。
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途中、せせらぎに綺麗な花が咲いていた。
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その川沿いに黄金矢倉の跡が有る。
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黄金やぐら
昔は光苔(ひかりこけ)で綺麗に輝いていたらしいが、今では御覧の通りシダ類に浸食されてしまって光苔は死滅したようだ。
そこから宅間谷に戻る長い階段の遊歩道に復帰した。
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かまくら幼稚園近くに戻ると可愛い御地蔵様が出迎えてくれるのが、巡礼古道に復帰した目印。
そこから報国寺に戻る時に最近ドラマ❝モンテクリスト伯ー華麗なる復讐ー❞でもロケ地に成っている旧皇族華頂宮邸が在る。
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旧華頂宮邸
この時既に11時半位だったろうか?
予定通り(笑)丁度公開されている時間、廃墟では無く綺麗な文化財の洋館だがITを案内。
薔薇の見頃の季節だったので御庭が綺麗だった。
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今年は横浜イングリッシュガーデンに薔薇を見に行かなかったので、ここで見られて良かった。
本当は、この後で天候が雨が降らず持てばITを鎌倉市の薔薇の名所として有名な❝鎌倉文学館❞に連れて行く計画だったのだが、後で大雨に成ってしまったのでここで薔薇を見て置いて良かったと思う。
報国寺に戻ると抹茶付の拝観券を購入し報国寺の竹林を散策・・・
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功臣山 報国寺
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以前と違って経路が定められており、小生が通い出した10年前の様な自由度は昨年末のリニューアルから無くなったが、それでもここは良い。
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抹茶を一服頂きながら景色に心を落ち着かせ和んだ。ここを開いた足利尊氏公の御祖父さんの足利家時公と宅間上杉重兼公に感謝!
いい加減に昼食の時間と成ったのでITに「地魚海鮮の和食と、地魚地野菜のイタリアンとどっちが良い?」と選択肢を質問、イタリアと言ったので車で少し葉山方面に移動し秋谷海岸の行きつけのイタリアンの店❝DON❞に到着。
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DON秋谷店
残念ながら当日、予約がいっぱいで1時間半待ちとの事でウェイターの青年がとても丁寧に申し訳なさそうに状況を説明してくれた。
「まぁ、和食も美味しいし!」
・・・と言う事で小生と同じく美味しい物が大好きで男前(笑)なITは、せっかくの観光を楽しむベクトルで納得してくれて、DONから車で5分と直ぐ近くの佐島マリーナの❝海辺❞と言う、これまた小生行きつけの海鮮和食屋サンに移動する事に成った。
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海辺ここは本当に海の目の前のレストラン。
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デッキ席からは海が一望出来る。天神島が見え、ともて清々しいのだが・・・
この写真は生憎当日の物では無い。IT連れてった時は既に雨がポツリ来た後で店内で食事と成った。
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それでも特別セット(刺身盛り合わせ+ブリ角煮+アラ汁+金目鯛煮付け+米お代わり可能)が来ると「美味しい!」と満足してくれた様で何よりだ。
京都育ちで舌が肥えているITが納得してると自分も嬉しいもんだな。
他の親友も何人か連れて来た事が有るが、やはり皆美味しいと喜んでくれる、そして自分が美味しいと思う物を一緒に美味しいと親友達が感じてくれると皆の喜ぶ様子を見て自分も嬉しく成る。
そう言う意味において小生と親友の共通点は皆、食べる事が好きだと思う。
だから小生デブったりジムでダイエットしてシボんだり繰り返すんだな(笑)。
この後、鎌倉市街に戻り扇谷(おおぎがやつ)地区と小町通と若宮大路と鶴岡八幡宮を散策する予定だった。
しかし雨が・・・
扇谷地区から正宗工芸を見学したり若宮大路に抜け鳩サブレ―の豊島屋サンや鎌倉彫りの店を見物してから鶴岡八幡宮に着き御参りを済ませると、もう雨がドシャ降りに成り散歩どころではなくなってしまった。雨傘さしているのに二人共靴下までビッチョビチョ、止むを得ず車に戻った。夕飯は小町通のマザーズオブ鎌倉で葉山牛の鉄板焼きを食べる予定だったが、それまで時間を潰すのは無理。
小生も徹夜で一睡もしていない事をITが配慮してくれて「神奈川東京名物の黒湯炭酸泉のスーパー銭湯に行こう」と予定していたコースの前倒しを提案してくれた。
・・・仕方が無いし夕方にも成っていたし、帰りも渋滞するだろうしスーパー銭湯での時間も含めて夕飯時に成る事を想定して夕食は横浜駅で中国の火鍋の名店❝小肥羊❞で食べる予定に切り替えた。
前もって色々と候補地を準備して置いてITに通知していたのと、ITが小生の体力も考慮してくれた事と辛い物好きのITの全ての折衷案でそうなった訳だ。
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極楽湯 横浜芹が谷店
※写真撮影し忘れたので冬の写真。
港南区の極楽湯へ移動。鎌倉街道から少し環状二号線を入った場所に在るので横浜横須賀道路で横浜駅に戻るには別所インターへのアクセスも都合が良い立地だし、この先は南区の弘明寺の三浦湯か、川崎まで行かないと無いし三浦湯よりは広いのでコチラにした。
風呂上がりは1時間後の待ち合わせ。
しかし、この日は男子風呂は子供だらけ、しかも親のマナーが悪く子供が露天風呂で行儀悪く風呂にバシャ―ン!バシャ―ン!と飛び込み台の様にしており親の集団は注意せず放置。
仕方なく小生が「お風呂では飛び込んじゃダメだよ~♪」と言うと固まる子供・・・
そこへ別の年配の男性客が「オイ、ガキ!あぶねーぞ!怪我すんぞ!」と凄みながら注意した。
・・・するとマナーの悪い子供は、これ又、行儀悪く風呂場を走って室内浴場へ❝逃げた❞のだが、一体全体、あの子供の親はどんな家庭環境で育ったんだろうな?と思った。
騒がしくユックリする気分でも無いし凄まじく眠かったのでITの配慮を無駄にしない様に10分で風呂を上がると、待ち合わせ場所のマッサージチェアにしこたま100玉を投入し40分位マッサージされたまま寝た。
人間40分も仮眠すると結構頭がスッキリするもんで、目も覚めてスマホ弄くりながら小肥羊の場所を確認しているとITが風呂から上がって来たのでソフトクリームを食べながら関内店が良いか横浜駅東口店が良いか相談し、横浜駅へ移動。
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地下駐車場に愛車を停めるとモアーズ側の出口から小肥羊に移動。
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中国火鍋専門店 小肥羊 横浜店火鍋と言う料理を御存知無い方もいるかも知れないが、これは中国でポピュラーな料理で薬膳スープと辛みスープの二種類に羊肉や牛肉や野菜を浸して加熱して食べる中国東北地方の料理で、言わば中国版のシャブシャブと言った感じの料理だ。
小生は辛い物は嫌いでは無いが得意でも無いので、辛いスープはもっぱらITの担当に成った。
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4000円弱のコースを頼んで二人で「肉少なくね?」と思って追加注文したらトンデモない!コースはやはりちゃんと考えられていて、二人共追加分は腹一般で可也(かなり)無理しないと胃袋に入らない量に成ってしまった。
しかし、とても美味しく、又何回でも食べたいと思う中国に良く出張していた小生にも懐かしく、中国にしょっちゅう出張しているのに接待漬けのせいで食べる機会が少ないITにとっても神奈川旅行を喜んで貰える一助に成った様でとても良かった。
二人とも満腹で満足すると、翌朝早くには表参道に出張出勤せねばならないITを眠気もすっかり覚めたので安全に鶴見のビジネスホテルまで送り届けると小生は下道で帰宅した。
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帰宅してITに貰った御土産を開くと冒頭で紹介した宇治茶と山椒昆布だった。
「ありがとう」と感謝の念を持ちながら有難く頂き、御蔭で体型も理想体型に成る事が出来た。
毎回、東京出張の旅に訪ねてくれる親友で理解者の存在は、人としてとても有難い。
ありがとう。

ITや千葉に引っ越してしまった後でなかなか会えなくなっていた親友O型君等の様に、常日頃から馬鹿みたいにつるまなくても、大切な人間と言うのは信頼出来るしバカ騒ぎしなくても楽しめるもんなんだよな~。

親友だけでなく、普段、御世話に成っている師匠の様な宮司様達や和尚様達や、尊敬する歴史偉人や神話の残る神達様や武将達が拝んだ仏様達、御先祖様や小さい時に可愛がってくれた義祖母はじめとした恩人の皆さん、学生時代からの恩師達に感謝をも再確認する一日と成りました。
ITありがとな~!

さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホ市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にあり(現在の東漸寺運営)ー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










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2017年07月15日、この週の火曜日07月11日が新井城落城した日で尊敬する武将の一人である三浦義意公と御父君の三浦道寸公の供養の為に菩提寺である網代山海蔵寺に参拝し、御住職様から海蔵寺専用の納経用の奉書を頂いていたので三崎漁港の海南神社の例大祭に合わせ、土曜日に写経した妙法蓮華経観世音菩薩普門品世尊偈を携えて海蔵寺に納経に再訪した。

海蔵寺さん参拝の後、最初に訪れたのは天然記念物諸磯隆起海岸だった。
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…と、その前に少し小生の神社と御寺に対する思い入れの根源の話し。

小生の祖先は某延喜式内社の宮司家なので御寺や仏教と言うと子供の頃は除夜の鐘程度の認識しかなく、なんと言うか御祭りの様な楽しい場所と言う感じだった。
大人に成って仕事でリーマン破綻直後に3ヶ月間、毎日睡眠が3時間以下と言う労働が続いて過労に成って頭ハゲそうなハチャメチャな状況に成って心身共に参っていた。
同僚が中国語話せないのに突然中国へ転勤に成ったり、小生は中国語話せるのに国内に残りソイツの分も含め複数人から仕事を引き継いだり、ハッキリ言ってキャパを超えていた。
朝の定時出勤時間前から出勤して客先の就業開始直後に御用聞きで訪問できる様に直行。
夕方の18時に帰社、そこから自分のオフィスワークと2人から引き継いだ分のオフィスワークを始める。当然朝までかかる。だから休日も潰れる。20時以降はタイムカードを切らされてサービス残業を強要され、当然休日出勤は申請不可。そんな会社だが実は中堅企業の中の大手の部類の企業だった。
アジア圏や国内遠方に出張する際は、上司に指名されたいい加減な同僚に仕事を任せるのが嫌で嫌で仕方なかったが、馬鹿でも出来る様に完璧にスケジューリングして協力会社にも念入りに事前に打ち合わせで部材の製作をお願いして置き、資料も準備して小生の仕事を代理で行う人間はスケジュールの時間通りに指定の場所を訪問して人に会い物を受け取り、物と資料を渡すだけで何にも考えず何にも余計な事を話さず済む様にしてあった。
だけどね、世の中、いい加減だけど何だか知れないけど上司に信頼される奸臣と言うのが居て、その上司に仕事を御願いする様に指定された同僚は「案の定ちゃんと俺のスケジュールを踏んで行動しない」で当日に訪問しなかったり、結果的に納期に遅れたりやらかしてくれた。
だけど狡猾な奴で上司には小生のミスの様に粉飾し、小生が出張から帰って来ると何だか知れないけど叱られたり。それを残業時間に成って同僚を呼び止め問い詰めると開き直りクソ同僚はこんな捨て台詞を言った…
「そんなに完璧にやれんて!」
…おい、俺は馬鹿でも出来る様に御膳立てしてやった上に協力会社の皆さんも文字通り万全の協力をして下さっていたんだがな?
まぁ、そんな事が何回か有ったりハードな仕事が三ヶ月休み無しで続いて自分で洗濯物洗う暇すら無くてクリーニングにシャツやスーツを丸投げしても、今度はクリーニング屋に服を引き取りに行く暇も無く、前日着たシャツにファブリーズだけして又着て仕事したりしていた。
小生がそんな事に成っていた時期に社員の1人が交通事故を起こして人を轢き殺した。
更に社員が1人自殺、でも家庭の問題とされていた…本当かよ?
子会社でも1人が過労要因と思われる交通事故死。
自分も高速道路で運転中に意識が飛んだり2回経験した。赤信号も認識できずに信号無視をしたり、自分で「やばいのかな~?」と思い、そのクソ会社を辞めた。
因(ちな)みに、その会社は今でも存続していて何だか知らないけど某大手企業のベストパートナーにも選ばれたりしている。御客さんは、そんな状況知らないだろう。まぁ、知ってる会社も有ったけど。
これ、当時、退社後に労働基準監督署にも職安にも相談していたけれど、「管轄外」と言われたり「ウチでは出来る事に限りが有って対処できない」と言う主旨の事ばかり言われたんだな。
まぁ、泣き寝入りするしかなかった。
アレから数年が経ったが、日本の労働基準法って今でも守られてないよね。実際。
有休消化なんて超大手企業しか出来ないでしょう?
週休二日制も守られてない会社多いでしょう?
サービス残業の会社多いよね?
安倍さんが賃金上げろと急(せ)かしても無視するクソ企業多いよね。
その癖に横浜市長みたいに日本を敵視する北朝鮮の学校に補助金出したり意味わからない政治家もいるよね。
新しい制度考える前に、既に施行した法制度を順守させる方が大切だと思うんだよな。
まぁ、そんな事が有ってリアルに昔は無責任不倫上司のせいで死ぬ寸前に追い込まれた。
だから、昔の善政を行ったり農民や商人に好かれた殿様達に余計に尊敬の念を抱くんだろうな。

そのクソ会社にいた頃に不思議な夢を見て…
横浜の歴史偉人とその上司の玉縄北条家や源頼朝公とその与力衆の鎌倉武士団の偉人達に"命を救われて"以来、歴史の資料を趣味で読み漁り墓所や御関わりに成られた神社仏閣と史跡を訪問し、殿様達に感謝して回るのが休日の趣味に成った。
…もっと言うと三浦の海に命と精神を救われた感が有るんだな、小生の人生は。
当時はボロボロで、ハチャメチャな仕事を命を繋ぐ為に辞めた。
不思議と普通なら「自殺したい」とか思う状態に成るであろう状況に、小生は「海見たいな~」としか思わなかった。死にたいとは思わなかった。
でも仕事の通勤帰りに電車に乗ってる時は危なかったね。夜の町の中を走る車窓から外を見てると引き込まれるんだよ。
あれ、一種の催眠状態なんだろうね、気持ちが暗い時や挫折を感じてるとハマりやすいのかも。
そんで、休みに良く観光客の余り行かない三浦半島の南端の江奈湾に行って磯で少し泳いだり、散歩したりして過ごした。
・・・そうこうしてる内に気力も回復して来た。
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この江奈湾の磯が大好きで良く散歩しにドライブしに行ってた。
台風の翌日、ここの岩場が高波にバッシャ~ン!バッシャ~ン!と洗われている時にアホな小生はクロックス履いて出掛けてて岩場の海苔で足を滑らせ仰向けに素っ転んで強く背中を打って息も出来ず、何回も打ち寄せる波にさらわれそうに成った。
その時に強く思った「こんな恥ずかしい死に方出来ね~し!」と(笑)。
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江奈湾の近くの松輪からは富士山も綺麗に見えたりする。
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富士山、此花咲耶姫命様も小生の命を繋いで下さった神様なんだな。
家の近所の円海山に登っては、そこから見える赤富士を見て円海山の自然にも癒された。
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神社や御寺と自然と彼女の存在ってのはね~、どんな向精神薬や安定剤や睡眠薬よりも効果が有るんですよ~。家族は当てに成りませんがね~。
大切なのは自分で選んだ家族に成って欲しい人なんだと思う。つまり血縁よりも理解者だね~。
それと脳味噌を休ませてくれる環境。
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御蔭で小生は薬漬けに成らずに働けた。
あと、当時はまだミシェランガイドに紹介されておらず観光客も少なかった鎌倉の報国寺の竹林に行って座禅を組む様に何も考えずに時間を過ごしたり。
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そこの草庵で少し休んで、抹茶を飲む事で大分気力が回復したと思う。
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今では観光客が多くなり、余り気の休まる静けさは無い。でも癒されるのは変わらない。
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今では現:鎌倉アホ市長によって通行止めにされた釈迦堂の切通しの辺り衣笠山~今泉台~報国寺の宅間谷(たくまがやつ)をグルっと一周散歩して回ったり、殿様達の残して下さった鎌倉の文化と景勝地と三浦の海は医者の処方する薬より疲労が蓄積して赤信号も無意識に無視した脳味噌を少しづつ回復してくれた。
後で知ったのだけれど、この報国寺を開いたのも横浜市の殿様の宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の御爺ちゃんの足利家時公だったんだな。
そして、更に後に知るのだが横浜市港南区の永谷天満宮も宅間上杉家の殿様が開いた神社だった。
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それ以来、紫陽花の季節には永谷天満宮に絶対に行く様に成った。
この少し前位、小生を身近に支えてくれた当時の彼女さんもいた。
この彼女とは結婚して幸せにしてあげたかったのだけれど、残念ながら小生がボロボロだったので縁が無くなったが、御蔭で小生はクソ会社退職後暫くして又、働ける様に成った。
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その頃に七里ヶ浜も行くように成った。
この変な棒は流木を砂浜に突き立てた写真。こんな風景七里ヶ浜に有りません(笑)。
その時に傍で支えてくれた昔の彼女さんを幸せにして恩返し出来なかった事を悔やんでいたりする。
丁度その頃だ。
ボロボロだった状態で夢の中に「龍寶寺」と書かれた石柱が出て来て起きてから「何だろうな?」と思って調べて見たら、戦国時代関東最強の武将だった北条綱成公の菩提寺の名前のだった。
場所も大船駅の近くで近かった。
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学生の頃に友達と遊んだ信長の野望シリーズに登場する名将の御寺だった。
2014-09-15-06-09-37上杉謙信と武田信玄に称賛された名将。
三つ鱗紋学生当時、北条家は少し地味で友人達には人気が無かった(笑)。
まぁ、どちらかと言えば三国志の方が学生時代は好きだったし。
夢の事でビックリして直ぐに参詣して、当時は今と違って旧境内地近くの山の上に存在していた御廟所に御線香を上げに行った。今では綱成公の御廟所は境内本堂横に移設された。
そうこう調べていると何と北条綱成の家老が横浜市の殿様の間宮家だった。しかも更に詳しく調べて見ると子供の時に同じサッカークラブに通っていた幼馴染の近所の子等の家の周りが綱成公の家老の間宮家の居城の笹下城址だった。
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何と小学校の頃、サッカークラブの幼馴染やその近所の子と遊んだ山が笹下城の本丸だった。
元々中学生の頃から家から鎌倉が近くて自転車で由比ヶ浜に行ったり、源頼朝公の御墓参りをしたり、江の島に行ったり、金沢区の野島公園に行ったりして遊んでいたので、歴史は好きだった。
子供の頃は大好きとまでは行かなかったが、大人に成り事情を知り直ぐに北条綱成公や間宮家の殿様達に尊敬だけで無く親しみも深く感じる様に成った。そして歴史が本格的に好きに成った。
最初は何となく資料を読んで、殿様達の開いた神社仏閣を訪問していた。そこから暫くして御朱印も貰う様に成り、更に地域の人にも偉人の存在を伝えたいと思う様に成ったのが3年ちょっと前。
もう一度、北条家の事を調べると足利家の鎌倉公方家の殿様と忠臣だった宅間上杉家や扇谷上杉家の事も知り、足利家に滅ぼされた鎌倉幕府の執権北条家の殿様達が元寇から日本を守って下さった事を再学習し北条泰時公と北条時宗公を尊敬する様に成り、更に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公とその与力武将達を物凄く尊敬する様に成り、三浦家や千葉家や佐々木家の殿様の事も鎌倉だけでなく横浜市と関係が有った事も知った。
その平安末期の武将中でも特に尊敬するのは、やはり平良文公、源義家公、源頼朝公、鎌倉景正公、三浦義明公、和田義盛公、三浦義澄公、佐原義連公、多田行綱公、渋谷重国公、佐々木高綱公だった。
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その人々の足跡を辿って油壷に行き、戦国時代に扇谷上杉家から三浦家を継いだ三浦義意公の民話を聞いて回る内に深く尊敬する様に成った。

まぁ、小生の命は自分で勝手に生きて来れた訳じゃなくて…
殿様達の御蔭、神奈川の自然の御蔭、そして当時の彼女さんの御蔭の3つで繋がったんだな。
…だから社会の役に立つ事をして生きた証を残して皆さんに恩返しせんといかんのよ。

そして2017年07月15日の休日雑記の三浦海蔵寺への三浦義意公と道寸公の供養の納経へと繋がっていく…
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ブログネタ
日々の生活 に参加中!
日々の生活の疲れを忘れさせてくれる場所があります…

鎌倉市街地の少し外れ…
浄妙寺地区に在(あ)る報国寺と言う名古刹(こさつ=歴史の古い御寺)です。
こちらは室町幕府 初代征夷大将軍 足利尊氏 公の御爺様の足利家時 公と…
関東管領上杉家筆頭四家の一つ宅間上杉家の創始者の宅間上杉重兼 公
…その御二人が開基された御寺です。
宅間上杉家は以前紹介した永谷天満宮を開基し、榎下城を築城した足利家と親密な家柄でした。

秋は特に綺麗な御寺です。


つい5〜6年程前まで小生達歴史好きだけが行くような落ち着いた安らぎの場所でした。
歩いて直ぐの近所に旧皇族:華頂宮家の邸宅も保護・無料公開されています。

報国寺は近年、迷惑なミシェランガイドで三ツ星認定されて以来、文化に関心の無い客が増えて大声で話したり、反日某国人観光客が庭園植物にハングルで落書きしたり迷惑千万な状況に陥ってしまいました。

が!

風景は変わらず綺麗です。
この御寺は先述の通り開基された方々からして由緒ある御寺でして…
室町幕府設立後は、室町幕府鎌倉将軍府の鎌倉公方足利家と関東管領上杉家の菩提寺として栄えました。
鎌倉将軍府や関東管領とは何ぞ?
…と言う方の為(ため)に文末に関係記事リンクを貼ります。
もぐりの寄せ集めWikipedia(笑)なぞより詳しく写真付き説明のブログ記事があるので御覧下さい。
他にも報国寺周辺の文化財や風景の記事を書きためて有るので御興味有れば是非、御覧下さい。

コンナ場所とか。

さて…

報国寺は竹林の中でゆっくり抹茶とお茶菓子を頂ける安らぎの場所です。
関東特有の谷戸の切岸に囲まれた地形の放つヒンヤリとした(以前は人も少なく)落ち着いた雰囲気と、竹林の放つマイナスイオンを肌で感じられる場所です。
この奥に東屋(あずまや=休憩小屋)が在(あ)り、そちらで抹茶を頂きながら椅子に座りボぉ〜っと時間を過ごせます。

歴史の深い寺院なので、当然、歴代の武将の矢倉(やぐら=墓:関東では武士の壁面に高い位置に掘れた横穴式墳墓、戦時には本当に砦の矢倉として使用する)もありますが…
偉人の皆様、死して尚(なお)風流と言いますか、安寧の地は真に美しい日本庭園の体を成しておられます。

本当にこの御寺は美しい…
可愛い金魚さん達もお出迎えしてくれますよ(笑)!

皆さん、どうか、この子達のいる報国寺に訪れる機会がありましたら…
素晴らしい文化財、歴史遺産を私達に遺(のこ)して下さった歴代足利家の御当主様達と関東管領上杉家4家の皆様に…
一言、御堂でお参りする際に感謝を伝えて手を合わせてみませんか?

きっと鎌倉公方様も関東管領の皆さんも、喜んで下さると思いますよ♪

あ!
約束したリンク貼ります!

以下が鎌倉公方と関東管領上杉家、報国寺関連の過去ブログ記事のリンクです。

●関東管領上杉家筆頭4家の説明と菅原道真公の五男淳茂公と三男景行公の永谷天満宮の記事「ココ」←クリック!

●関東管領宅間上杉家と榎下城址の記事は「ココ」←クリック!

●関東管領上杉謙信と実家の長尾家長尾城の記事「ココ」←クリック!

●釈迦堂の切通しの記事は「ココ」←クリック!

他にも関係記事多数有るので御興味有りましたら以下のカテゴリーリンクから御覧下さい!

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